旧唐書 序

旧唐書

前代は丘園を賁り、隠逸を招き、以て貞退の節を重んじ、貪競の風を息ましむ。故に蒙叟は『譲王』の篇を矯め、玄晏は高人の伝を立て、箕・潁の跡は、粲然として観るべし。而して漢の二龔の流は、乃ち心王室に在り、莽朝に事へず、盗泉に渇を忍び、本より絶俗に非ず、甚だ嘉むべし。皇甫謐・陶淵明は世に慢り名を逃れ、情を放ち志を肆にし、泉石に逍遙し、出処の間に意無く、又其の善きなり。即ち身は江湖の上に在りて、心は魏闕の下に遊び、薛蘿に托して利を射、巌壑を仮りて名を釣り、退くに肥遁の貞無く、進むに時を済うの具乏しき者あり、『山移』に見誚せられ、海鳥に譏を興さる、多とするに足らず。阮嗣宗は世に傲り佯狂し、王無功は酒を嗜み放蕩す、才足らずして智余り有り、其の時を傷み其の用を晦ます、深識の士なり。高宗天後は、山林に道を訪い、巌穴に書を飛ばし、屡幽人の宅を造り、堅く隠士の車を回らす。而して遊巌・徳義の徒は、高むる所は独行なり。盧鴻一・承禎の比は、重んずる所は逃名なり。出処語黙の大方に至りては、未だ与に議るに足らず。今其の旧説を存し、以て雑篇に備ふ。

王績

王績、字は無功、絳州龍門の人。少くして李播・呂才と莫逆の交りを為す。隋の大業中、孝悌廉潔挙に応じ、揚州六合県丞を授かる。其の好む所に非ず、官を棄て郷里に還る。績は河渚の中に先づ田数頃有り、隣渚に隠士仲長子先有り、服食して性を養ひ、績其の真素を重んじ、与に相近からんことを願ひ、乃ち河渚に廬を結び、琴酒を以て自ら楽しむ。嘗て北山に遊び、因りて『北山賦』を為して以て志を見す、詞多く載せず。

績は嘗て東臯に躬耕す、故に時人東臯子と号す。或は酒肆に過ぎ、動もすれば数日を経、往々壁に題して詩を作り、多く好事者の諷詠する所と為る。貞観十八年卒す。臨終自ら死日を克ち、遺命薄葬し、兼ねて予め自ら墓誌を為す。文集五巻有り。又『隋書』を撰す、未だ就かずして卒す。

兄通、字は仲淹、隋の大業中の名儒、文中子と号す、自ら伝有り。

田遊巌

田遊巌、京兆三原の人なり。初め、太学生に補せられ、後罷めて帰り、太白山に遊ぶ。林泉に会意する毎に、輒ち留連して去る能はず。其の母及び妻子並びに方外の志有り、遊巌と同く山水に遊ぶこと二十余年。後箕山に入り、許由廟の東に就き室を築きて居り、自ら「許由東隣」と称す。調露中、高宗すう山に幸し、中書侍郎薛元超を遣わし就き其の母を問わしむ。遊巌山衣田冠を着して出でて拝す、帝左右に令し扶けて止めしむ。謂ひて曰く「先生山中に道を養ふ、比来佳きか」と。遊巌曰く「臣泉石膏肓、煙霞痼疾、既に聖代に逢ひ、幸ひに逍遙を得たり」と。帝曰く「朕今卿を得る、何ぞ漢の四皓を獲るに異ならんや」と。薛元超曰く「漢高祖嫡を廃し庶を立たんと欲し、黄・綺方に来る、豈に陛下の隠淪を崇重し、親しく巌穴を問はるるに如かんや」と。帝甚だ歓び、因りて遊巌を行宮に将いて就かしめ、並びに家口に伝乗を給して都に赴かしめ、崇文館学士を授け、太子少傅劉仁軌と談論せしむ。帝後将に嵩山に奉天宮を営らんとす、遊巌の旧宅、先づ宮の側に居る。特令して毀たず、仍り親しく額を書し題して其の門に懸け、曰く「隠士田遊巌宅」と。文明中、進めて朝散大夫を授け、太子洗馬を拝す。垂拱初、裴炎と交結するに坐し、特に放ちて山に還らしむ。

史徳義

史徳義、蘇州昆山の人なり。咸亨初、武丘山に隠居し、琴書を以て自ら適す。或は牛に騎り瓢を帯び、郊郭廛市に出入りし、逸人と号せらる。高宗其の名を聞き、征して洛陽に赴かしむ。尋ね疾と称して東に帰る。公卿以下、皆詩を賦して餞別し、徳義も亦詩を以て留贈す、其の文甚だ美なり。天授初、江南道宣労使・文昌左丞周興表して之を薦む、則天征して都に赴かしめ、詔して曰く「蘇州隠士史徳義、志尚虚玄、業履貞確、謙沖裏騕に彰れ、孝友閨庭に表る。固より征辟を辞し、長く厳陵の瀬に往き、多く簪裾を謝し、高く愚公の谷に蹈む。博聞強識、『礼』を説き『詩』を敦くし、性を丘園に繕ひ、心を畎畝に甘んず。朕天を承け革命し、極を建て階を開き、星雲に寤寐し、林壑を物色す。禎期に順ひて薛帯を捐て、休運に応じて荷裳を解く。粤に海隅より自り、来りて魏闕に遊び、行蔵の理斯に得、去就の節違ふこと無し。風操嘉むべく、啓沃佇つ所、特宜しく優奨し、諫曹に委ぬべし。朝散大夫と可す」と。後周興誅せらる、徳義坐して薦めらるる所と為り官を免ぜらる。朝散大夫を以て丘壑に放ち帰らしめ、此より声譽隠居の前に比べ稍く減ず。

王友貞

王友貞、懷州河内の人なり。父知敬、則天時の麟台少監、工書を以て名を知らる。友貞弱冠の時、母病篤く、医言ふ「唯だ人肉を啖らば乃ち差ゆ」と。友貞独り念ふ「求めて治むる無し」と、乃ち股肉を割きて以て親に飴す、母の病尋ねて差ゆ。則天之を聞き、令して其の家に就きて験問せしめ、特に旌表を加ふ。友貞素より学を好み、『九経』を読むこと皆百遍、子弟を訓誨すること、厳君の如し。口に人の過を言はず、尤く釈典を好む。⺶亶味を屏絶し、言を出すに嘗て諾に負はず、時論以て真君子と為す。

長安年、歴任して長水令と為る。後罷めて田裏に帰る。中宗春宮に在り、召して司議郎と為さんとす、就かず。神龍初、又太子中舎を拝し、仍り所司に令して礼を以て征赴せしむ。至るに及び、固より疾を以て辞す。詔して曰く、

夷斉の行を敦くし、以て貪を激すべく、顔閔の道を尚び、用て俗を勧むべし。新たに除する太子中舎人王友貞、徳義泉藪、人倫茂異、孝は親に事ふるに始まり、信は己を行ふに表る。文史に富み、財貨に廉く、久しく官政を歴り、累ねて課績を聞く。古人之風有り、君子の徳を保つ。乃ち志を塵外に抗ひ、情を物表に棲まはしめ、深く解脱の門に帰し、誓って薰修の誡を守る。頃に征命を加へ、儲闈を護らしめんとす、固より栄を辞し、累ねて情懇を陳ぶ。浄義を堅持し、車服に登らず、惟だ禅綱を悦び、味珍饌を求むること靡し。朕方に廉退を崇奨し、澆浮を懲抑す。廊廟の賢を思ふと雖も、豈に山林の願に違はんや、宜しく優秩を加へ、仍り雅懐を遂ぐべし。太子中舎人員外に置き、全禄を給して以て其の身を畢へしめ、其の家に在りて修道するに任せよ。仍り所在の州県に令して存問し、四時に禄を送り其の住所に至らしむべし。

玄宗が東宮に在った時、また上表して礼を以て彼を徴請したが、年老いていたため、遂に病を理由に辞して赴かなかった。年九十余り、開元四年に卒した。時に制を下して曰く、「貴德尊賢、終を飾り遠を念う、これ聖人の天下を治め風俗を厚くする所以なり。王友貞は元精の気を稟け、大樸に心を遊ばす。孝は惟だ匱しからず、独り神明に貫く。道は則ち名づけ難く、人代に高く謝す。言うに錫類を念い、方に俗を鎮むるを期すに、遽爾として雕殂す、深く湣悼す。生には大位無く、外臣の儀を隔つるも、歿には余栄有り、宜しく上卿の服を贈るべし。銀青光禄大夫を贈ることを可とし、仍って本県の令長に委ねて特らに吊祭を加えしむ。」

盧鴻一

盧鴻一、字は浩然、本は范陽の人、家を洛陽に徙す。少より学業有り、頗る籀篆楷隸を善くし、嵩山に隠る。開元初め、幣礼を遣わして再び徴すも至らず。五年、詔を下して曰く、

朕寡薄を以て、忝くも大位を膺く。嘗て恨む玄風久しく替わり、淳化未だ升らずと。毎に遺賢を翹想し、上皇の訓を聞かんことを冀う。卿は黄中にして理を通じ、深く鉤り微に詣り、太一の道を窮め、中庸の徳を践み、確乎として高尚、足らび古人に侔う。故に比に征書を下し、善績に佇ち諧わんとすれど、而して毎に輒ち辞を托し、拒違して至らず。朕をして虚心に引領せしむること、今に数年、素履幽人の貞を得るも、而して考父滋恭の命を失う。豈に朝廷の故と生と趣を殊にするや。将に山林に縦欲して能く反らざるか。礼に大倫有り、君臣の義、廃すべからざるなり。今城闕密邇す、難と為すに足らず。便ち敕して束帛の貺を賫し、重ねて斯の旨を宣ぶ。翻然として節を易え、朕が意に副う有らんことを想う。

鴻一征に赴く。六年、東都に至り、謁見して拝せず。宰相通事舎人を遣わして其の故を問わしむ。奏して曰く、「臣老君の言を聞く、礼は忠信の薄き所、依るに足らずと。山臣鴻一敢えて忠信を以て奉見す。」上別に召して内殿に升らしめ、之に酒食を賜う。詔して曰く、「盧鴻一応辟して至り、之に至道を訪うれば、淳風に会う有り。逸人を挙げて以て天下を勧む。特らに諫議大夫を授くるに宜し。」鴻一固く辞す。又制して曰く、

昔帝堯に在りて、許由の節を全うし、惟だ大禹、伯成の高を聴く。則ち知る、天子に臣とせざる所有り、諸侯に友とせざる所有るを。《遁》の時義大いなるかな。嵩山の隠士盧鴻一、跡を幽遠に抗し、情を篆素に凝らす。隠居して以て其の志を求め、行義して以て其の道を達す。雲に臥し林壑に、年載を多く歴る。伝に云わざるや、「逸人を挙ぐれば、天下の人其の心を帰す」と。是れ乃ち飛書巖穴、礼を備えて征聘し、方に献替に佇ち、政理を弘めんと式う。而して矯然として群せず、確乎として抜き難く、已を静めて以て其の操を鎮め、心を洗いて以て其の流を激し、固く栄寵を辞し、将に風俗を厚くせんとし、其の志を降さず、以て厥の躬を保つ。会稽の厳陵、未だ名づけて屈す可からず。太原の王霸、終に病を以て帰る。宜しく諫議大夫を以て山に放還すべし。歳に米百碩・絹五十匹を給し、其の藥物に充て、仍って府県に令して隠居の所に送らしむ。若し朝廷の得失を知らば、具に状を以て聞かしむ。

将に山に還らんとし、又隠居の服並びに其の草堂一所を賜い、恩礼甚だ厚し。

王希夷

王希夷、徐州滕県の人なり。孤貧にして道を好む。父母終わり、人の為に羊を牧し、傭を収めて以て葬に供す。葬畢り、嵩山に隠れ、道士黄頤に師事し、四十年に向かい、能く其の閉気導養の術を伝うるに尽くす。頤卒し、更に兗州徂来山中に居り、道士劉玄博と棲遁の友と為る。《易》及び《老子》を好み、嘗て松柏の葉及び雑花散を餌とす。

景龍中、年七十余り、気力益々壮んなり。刺史盧齊卿就き謁して礼を致し、因りて字人の術を訪う。希夷曰く、「孔子『己の欲せざる所、人に施す勿れ』と称す、以て終身之を行う可し。」及び玄宗東巡し、州県に敕して礼を以て徴し、駕前に召し至らしむ。年已に九十六。上中書令張説をして道義を以て訪わしむ。宦官宮中に扶け入れ、語るに甚だ悦ぶ。

開元十四年、制を下して曰く、「徐州の処士王希夷、学を絶ち智を棄て、一を抱き貞に居り、久しく囂塵に謝し、独り林壑に往く。朕巒を封じて礼を展べ、席を側てて賢を旌し、賁然として来り思う、克く嘉召に応ず。綺季の跡を紡ぐも、已に伏生の年を過ぐ。宜しく秩を命じて以て儒を尊び、高きを全うして尚歯に俾えしむ。朝散大夫、国子博士を守らしめ、致仕して山に還るを聴す。州県春秋に束帛酒肉を致し、仍って衣一副・絹一百匹を賜う。」尋いで寿終す。

則天・中宗已後、蒲州の人衛大経・邢州の人李元愷有り、皆潔き志を以て仕えず。蒲州の人王守慎・常州の人徐仁紀・潤州の人孫処玄有り、皆身を退き職を辞し、時に称せらる。

衛大経

衛大経は、篤く学び《易》を善くし、口に二言無し。則天詔を降して之を徴す。疾を辞して赴かず。魏州の人夏侯乾童と旧有り。乾童の母卒するを聞き、歩行して往きて之を弔う。郷人之を止めて曰く、「当に夏の溽暑たり、豈に歩渉千里す可けんや、書を致す可きなり。」大経曰く、「尺書は意を尽くす能わず。」遂に行く。魏州に至り、会に乾童出行す。大経門に造り席を設け、弔礼を行い、其の家人に訊ねずして還る。開元初め、畢構刺史と為り、解県令孔慎言に謂いて曰く、「衛生の徳厚し、宜しく旌異有るべし。古人幹木の閭を式う、賢を礼する故なり。」慎言門に造り就き謁す。時に大経已に年老い、疾を辞して見えず。嘗て死日を預め筮い、墓を鑿ち自ら誌文を為す。果たして筮の如くにして終わる。

李元愷

李元愷は、学問が広く天文・律暦に通じていたが、性格は恭しく慎み深く、口にして人の過ちを言ったことはなかった。同郷の宋けいは、若い時に彼に師事した。宋璟が宰相となった時、人を遣わして李元愷に束帛を贈り、推薦しようとしたが、李元愷は皆拒絶して答えなかった。景龍年間(707-710年)、元行沖が洺州刺史となった時、李元愷を州に招き、経書の義について問い、衣服を贈った。李元愷は辞して言った、「微賤な身は新しく麗しい衣服を着るにふさわしくありません。ただその美しさに耐えられず、咎を速めることを恐れるだけです」。元行沖はそこで泥で汚してから彼に与え、李元愷はやむを得ず受け取った。帰る時、自ら養った蚕の素糸五両を元行沖に返礼して言った、「道理に合わない財は受け取れません」。以前、定州の崔元鑒は『三礼』に明るく、同郷の張易之が寵愛されて権勢を振るっていた時、彼を推薦した。官途について朝散大夫に任じられ、家で致仕し、郷里で半禄を請うた。李元愷はこれを嘲って言った、「功なくして禄を受けるは災いなり」。李元愷は八十余歳で寿命を全うした。

王守慎

王守慎は、美しい名声があった。垂拱年間(685-688年)に監察御史となった。当時、罪をでっち上げる事案が起こり、王守慎の母方の叔父である秋官侍郎の張知默が詔獄を推問し、王守慎にその事を共に知るよう奏上したが、王守慎は病気を理由に辞退し、僧となることを請うた。則天武后は初め大いに怪しんだが、王守慎が心情を述べると、その言葉と道理が非常に優れていたので、則天武后は喜んで従い、法成の号を賜った。彼の識見と鑑定は高雅で、当時の賢人に重んじられた。寿命を全うして没した。

徐仁紀

徐仁紀は、聖暦年間(698-700年)に召されて左拾遺に任じられた。三度上書して得失を論じたが、採用されなかった。人に言った、「三度諫めて聞き入れられなければ、去るべきである」。そこで病気と称して郷里に帰った。神龍初年(705年)、宣慰使が徐仁紀の行いが風俗を励ますに足ると推挙し、また召されて左補闕に任じられた。三度上書したが、また省みられず、そこで執政の者に赴いて出ることを請うた。まもなく霊昌県令に任じられた。妻子は任地に赴かず、官舎には衣服・履物および書簡類だけであり、他に蓄えは何もなかった。

孫処玄

孫処玄は、長安年間(701-704年)に召されて左拾遺となった。文章をよくし、天下に書がなくて新しい見聞を広められないことを常に恨んでいた。神龍初年(705年)、功臣の桓彦範らが権勢を振るうと、孫処玄は桓彦範に書を送り、時事の得失を論じたが、桓彦範は結局その言を用いなかったので、官を去って郷里に帰った。病で没した。

白履忠

白履忠は、陳留郡浚儀県の人である。広く文史に通じていた。かつて古い大梁城に隠居し、当時の人は梁丘子と号した。景雲年間(710-711年)に召されて校書郎に任じられた。まもなく官を棄てて帰った。

開元十年(722年)、刑部尚書の王誌愔が上表して白履忠を推薦し、隠居して読書し、貞節で苦節を守り、古人の風があり、褚無量・馬懷素に代わって閣に入り侍読するに堪えると述べた。十七年(729年)、国子祭酒の楊瑒がまた上表して白履忠が学官に堪えると推薦したので、召されて京師に赴かせた。到着すると、白履忠は老病を理由に辞退し、職務に堪えないと言った。詔して言った、「処士前秘書省校書郎白履忠は、学問は書物に優れ、道は丘園を飾り、深奥を探ってその微細を見、隠居してその志を達する。故に洙水・泗水の賢人のように引き立て、夷門(隠者の地)の人物を求め、質素な風は自ら高く、玄い冕(高官の冠)は貴ばない。几と杖の時は雲のように暮れ、章服と官位を加えるべきである。礼遇の命の優れたものを承けさせ、寵愛賢者の美を副わせよ。朝散大夫とせよ」。

白履忠はまもなく上表して郷里に還ることを請うた。手詔して言った、「孝悌をもって身を立て、静退をもって俗を離れ、年は耄(八十歳)を過ぎ、風塵に交わらない。盛徳を朕は聞き、通る班位(官位)をこれ賜る。ただ山藪を飾り顕彰するのみならず、実に人倫を奨励せんと欲する。しばらく上京に遊び、ゆるやかに故郷に還れ」。そこで数か月留まって帰った。白履忠の同郷人で左庶子の呉兢が白履忠に言った、「貴方は家計がしばしば空しいのに、ついに斗の米や匹の帛にも預からず、たとえ五品を得たとしても、実益に何の益があるのか」。白履忠は欣然として言った、「往年契丹が侵入した時、家々はことごとく括排門夫(徴発された夫役)に駆り出されたが、履忠はただ少し書籍を読んでいたので、県司が免じた。今なお惶恐と愧じている。今は得られないが、これは我が家の終身高臥(隠居)し、徭役を免れるものであり、どうして容易に得られようか」。まもなく寿命を全うした。『三玄精辯論』一卷を著し、『老子』及び『黄庭内景経』に注を付け、文集十卷があった。

王遠知

道士の王遠知は、琅邪の人である。祖父の景賢は、梁の江州刺史であった。父の曇選は、陳の揚州刺史であった。王遠知の母は、梁の駕部郎中丁超の娘である。かつて昼寝をしている時、霊鳳が自らの身に集まる夢を見、それによって妊娠し、また腹の中に啼き声を聞いた。沙門の宝誌が曇選に言った、「生まれる子は神仙の宗伯(長)となるであろう」。

王遠知は若い時から聡明で、広く群書を総合した。初め茅山に入り、陶弘景に師事してその道法を伝授された。後にまた宗道先生の臧兢に師事した。陳の主(皇帝)がその名を聞き、重陽殿に召し入れて講論させ、大いに賞賛された。隋のよう帝が晋王として揚州を鎮守した時、王子相・柳顧言を相次いで派遣して召した。王遠知はそこで謁見に来たが、たちまちにして鬚髪が白に変わり、晋王は恐れて彼を帰した。しばらくしてまた元に戻った。煬帝が涿郡に行幸した時、員外郎の崔鳳挙を派遣して招き寄せた。王遠知は臨朔宮で謁見し、煬帝は自ら弟子の礼を執り、都城に玉清玄壇を建てて彼を住まわせるよう勅した。揚州に行幸した時、王遠知は京国を遠く離れるのは良くないと諫めたが、煬帝は従わなかった。

高祖(李淵)がまだ潜龍(即位前)であった時、王遠知は密かに符命(天命のしるし)を伝えた。武徳年間(618-626年)、太宗が王世充を平定した時、房玄齢と共に微服で彼を訪れた。王遠知は迎えて言った、「ここに聖人がおられる。秦王ではありますまいか」。太宗はそこで実を告げた。王遠知は言った、「まさに太平の天子となられる。どうかご自愛ください」。太宗が帝位に即くと、重い位を加えようとしたが、固く山に帰ることを請うた。貞観九年(635年)に至り、潤州に勅して茅山に太受観を置き、併せて道士二十七人を度(出家させる)させた。璽書を下して言った、「先生の操行は平易簡素であり、徳業は虚静純粋で、塵雑を屏棄し、志を虚玄に棲ませ、故きを吐き新しきを納れ、芝を食し術を餌とし、三清の表において衆妙を念じ、百齢の外に華発(白髪)を返す。道は前の優れた者を超え、名声は古より高い。金壇で秘訣を得、玉笈で幽文を受けた者でなければ、誰がこれと並び得ようか。朕が昔藩王の朝廷にいた時、早くに道を問うことを得、その風範を顧みれば、覚めても寝ても忘れない。近く来奏を覧るに、旧山に帰ることを請う。既に別勅があり、高い志に背かず、併せて観を置くことを許し、以て宿願を表す。先生が早晚いつ(いつ)江外に至られたか、営んでいる棟宇はいつ完成するのか。委曲を聞くことを待ち、この引領(首を長くして待つこと)に副わせよ。近く既に太史の薛頤らを遣わして詣らせ、朕の意を宣べさせた」。

その年、遠知は弟子の潘師正に言うには、「私は仙格を見たが、私が幼い時に誤って一童子の口吻を損じたため、白日昇天することができない。少室伯に任ぜられ、まさに行こうとしている」と。翌日、沐浴し、冠衣を加え、香を焚いて寝た。卒す。年百二十六歳。調露二年、遠知に太中大夫を追贈し、諡して升真先生という。則天が朝に臨むと、金紫光禄大夫を追贈した。天授二年、諡を改めて升玄先生という。

潘師正

潘師正は、趙州贊皇の人である。幼くして母を喪い、墓の側に廬して、至孝をもって聞こえた。大業年中、道士として度され、王遠知に師事し、道門の隠訣及び符籙をことごとく授けられた。師正は清浄寡欲で、嵩山の逍遙谷に居り、二十余年を積み、ただ松の葉を服し水を飲むのみであった。高宗が東都に幸すると、召し出して語らせ、師正に問うて「山中に何か必要なものはあるか」と。師正は対えて「必要なものは松樹と清泉であり、山中には乏しくありません」と。高宗と天后は甚だ尊敬し、信宿留連して還った。まもなく所司に勅して師正の居所に崇唐観を造らせ、嶺上に別に精思観を起こしてこれに処らせた。初めて奉天宮を置くに当たり、帝は所司に命じて逍遙谷の口に特に一門を開かせ、号して仙遊門という。また苑の北面に尋真門を置き、皆師正のために名を立てたのである。時に太常が新たに造った楽曲を奏上すると、帝はまた『祈仙』『望仙』『翹仙』を名とするよう命じた。前後して贈った詩は、凡そ数十首に及んだ。

師正は永淳元年に卒し、時に九十八歳であった。高宗及び天后は追思して已まず、太中大夫を贈り、諡して体玄先生と賜うた。

劉道合

道士劉道合は、陳州宛丘の人である。初め潘師正とともに嵩山に隠れた。高宗その名を聞き、隠所に太一観を置いてこれに居らせるよう命じた。宮中に召し入れ、深く尊礼した。泰山に封禅せんとするに当たり、久雨に属したので、帝は道合に儀鸞殿で止雨の術を行わせると、俄かに晴れ上がり、帝は大いに喜んだ。また道合に馳伝して先に泰山に上らせ、福祐を祈らせた。前後して賞賜したものは、皆貧乏に施し散じ、蓄積したことはなかった。

高宗はまた道合に還丹を合わすよう命じ、丹が成るとこれを献上させた。咸亨年中、卒す。帝が奉天宮を営むに及び、道合の殯室を遷すと、弟子が棺を開いて改葬しようとしたところ、その屍はただ空皮のみで、背中が開き裂け、蝉の抜け殻のようであり、歯骨はことごとく失われていた。衆人は屍解したという。高宗これを聞き、悦ばず、「劉師は我がために丹を合わせ、自ら服して仙去した。その進めたものも、また異なることがないのだ」と言った。

司馬承禎

道士司馬承禎、字は子微。河内温の人、周の晋州刺史・琅邪公裔の玄孫である。幼くして学を好み、吏となることを軽んじ、遂に道士となった。潘師正に事え、その符籙及び辟穀・導引・服餌の術を伝えられた。師正は特にこれを賞異し、「私は陶隠居より正一の法を伝え、汝に至って四葉である」と言った。承禎はかつて名山を遍く遊歴し、乃ち天台山に止まった。則天その名を聞き、都に召し至らせ、手勅を降してこれを賛美した。還らんとするに及び、麟台監李嶠に勅して洛橋の東で餞別させた。

景雲二年、えい宗はその兄の承禕をして天台山に追い至らせ京に至らしめ、宮中に引き入れ、陰陽術数の事を問うた。承禎は対えて「道経の旨は、『道の為に日々損ず、損之又損し、以て無為に至る』とあります。且つ心目の知見する所は、これを損ずるも未だ能く已むことができないのに、豈にまた異端を攻めて、その智慮を増すことがありましょうか」と。帝曰く「身を理めるに無為ならば、則ち清高である。国を理めるに無為ならば、どうか」と。対えて「国は身の如しです。『老子』に曰く『心を淡に遊ばせ、気を漠に合わし、物の自然に順いて私無ければ、而して天下理まる』と。『易』に曰く『聖人とは、天地とその徳を合わす者なり』と。これ天は言わずして信あり、為さずして成ることを知る。無為の旨は、国を理める道です」と。睿宗は嘆息して「広成の言は、即ちこれである」と言った。承禎は固く辞して山に還ることを請い、仍って宝琴一張及び霞紋帔を賜い、これを遣わした。朝中の詞人で詩を贈った者は百余人に及んだ。

開元九年、玄宗はまた使者を遣わして迎え入れ京に至らせ、親しく法籙を受け、前後して賞賜甚だ厚かった。十年、駕が西都に還ると、承禎はまた天台山に還ることを請い、玄宗は詩を賦してこれを遣わした。十五年、また都に召し至らせた。玄宗は承禎に王屋山で自ら形勝を選ばせ、壇室を置いてこれに居らせた。承禎は因って上言して「今五嶽の神祠は、皆山林の神であり、正真の神ではありません。五嶽には皆洞府があり、各々上清の真人が降りてその職に任じ、山川風雨、陰陽気序をこれを理めています。冠冕章服、佐従の神仙は、皆名数があります。別に斎祠の所を立てることを請います」と。玄宗はその言に従い、因って五嶽各々に真君祠一所を置くよう勅し、その形象制度は、皆承禎に命じて道経を推按し、創意をもってこれを行わせた。

承禎は頗る篆隷書に善くし、玄宗は命じて三体で『老子経』を書写させ、因って文句を刊正し、五千三百八十言を定めて真本とし、これを奏上させた。承禎の王屋の居所を陽台観とし、上自ら額を題し、使者を遣わしてこれを送った。絹三百匹を賜い、以て薬餌の用に充てさせた。俄かにまた玉真公主及び光禄卿韋縚をその居所に至らせ、金籙斎を修め、復た錫賚を加えた。

この歳、王屋山に卒す。時に八十九歳。その弟子が表して称えるには、「死の日、双鶴が壇を繞り、及び白雲が壇中より湧き出で、上は天に連なり、而して師の容色は生けるが如し」と。玄宗は深くこれを嘆じ、乃ち制を下して曰く「混成にして測るべからず、寥に入りて自ら化す。独り立ちて象有りと雖も、至極に至れば則ち冥なり。故に王屋山の道士司馬子微、心は道勝に依り、理は玄遠に会し、名山を遍く遊び、仙洞に密かに契う。その妙を存観し、逍遙得意の場にあり;その根を亡復し、宴息無何の境に息う。固より以て名は真格に登り、位は霊官に在り。林壑未だ改まらず、遐霄已に曠し;言に高烈を念えば、懐に愴有り。宜しく徽章を贈り、以て丹籙を光らすべし。銀青光禄大夫とし、号して真一先生とすべし」と。仍って親しく碑文を制した。

吳筠

吳筠は、魯中の儒士である。幼くして経に通じ、文を属するに善く、進士に挙げられたが及第しなかった。性高潔にして、流俗に耐えられなかった。乃ち嵩山に入り、潘師正に依って道士となり、正一の法を伝え、苦心鑽仰し、乃ちその術を尽く通じた。開元年中、南に遊んで金陵に至り、茅山に道を訪れた。久しくして、東に遊んで天台に至った。

呉筠は特に著述を善くし、剡において越中の文士と詩酒の会を為し、著した歌篇は、京師に伝わる。玄宗その名を聞き、使いを遣わして征す。既に至り、語るに甚だ悦び、翰林に待詔せしむ。帝道法を以て問う。対えて曰く、「道法の精は、五千言に如くは無し。その諸の枝詞蔓説は、徒らに紙札を費やすのみ」と。また神仙修煉の事を問う。対えて曰く、「これは野人の事、歳月功行を以てこれを求むべく、人主の適意とすべきに非ず」と。毎に緇黄と列坐し、朝臣啓奏するも、筠の陳ぶる所は、ただ名教世務のみ。間に諷詠を以てし、以てその誠を達す。玄宗深くこれを重んず。

天宝中、李林甫・楊国忠用事し、綱紀日ごとに紊る。筠天下将に乱れんとするを知り、堅く嵩山に還るを求む。累表して許さず、乃ち嶽観に別に道院を立てしむるを詔す。禄山将に乱れんとし、茅山に還るを求め、これを許す。既にして中原大乱し、江淮多く盗あり、乃ち東遊して会稽に至る。嘗て天臺剡中に往来し、詩人李白・孔巣父と詩篇酬和し、泉石に逍遙し、人多くこれに従う。竟に越中に終わる。文集二十巻、その『玄綱』三篇・『神仙可学論』など、達識の士に称せらる。

筠翰林に在る時、特り恩顧を承く。ここによりて群僧の嫉む所と為る。驃騎高力士素より仏を奉ず。嘗て筠を上前に短ず。筠悦ばず、乃ち山に還るを求む。故に著す文賦は、深く釈氏を詆し、また通人に譏らる。然れども詞理宏通し、文彩煥発す。毎に一篇を制すれば、人皆伝写す。李白の放蕩、杜甫の壮麗と雖も、これを兼ぬる者は、その唯だ筠か。

孔述睿

孔述睿は趙州の人なり。曾祖昌宇、膳部郎中。祖舜、監察御史。父斉参、宝鼎令。述睿少くして兄克符・弟克譲とともに、皆親に事えて孝を以て聞こゆ。既に孤となり、倶に嵩山に隠る。述睿好学して倦まず。大暦中、転運使劉晏累表して述睿に顔・閔の行、遊・夏の学あるを薦む。代宗太常寺協律郎を以てこれを征す。転じて国子博士、歴遷して尚書司勲員外郎・史館修撰。述睿毎に恩命を加うるに、暫く朝廷に至り謝恩し、旬日にして即ち疾を辞し、却って旧隠に帰る。

徳宗践祚し、諫議大夫銀章朱綬を以て、河南尹趙恵伯に詔書・玄纁束帛を賫し、嵩山に就き礼を以て征聘せしむ。述睿既に至り、別殿に召し対し、特り第宅を賜い、廄馬を給し、兼ねて皇太子侍読と為す。旬日の後累表固く辞し、前に依り旧山に還るを乞う。詔報えて曰く、「卿は伊摯の時を匡うるの道を懐き、広成の嘉遁の風有り。素を丘園に養い、屡り命秩を辞す。朕は峒山に道を問い、渭水に師を求む。亦た何ぞ必ずしも労謙を執るを務め、固く退譲を求むるを要せん。朕の旨に違うこと無く、且つ乃ち心を啓け」と。述睿既に懇辞して獲ず、方に職に就く。久しくして秘書少監に改め、右庶子を兼ね、再び史館修撰を加う。述睿地理に精しく、館に在りて乃ち『地理志』を重修し、時に詳究と称す。

而して又性謙和退譲、物と競うこと無し。毎に親朋集会すれば、嘗て恂恂然として言う能わざるに似たり。人皆これを敬す。時に令狐峘も亦た修撰に充て、述睿と職を同じくす。多く細碎の事を以て述睿を侵す。述睿皆これを譲り、竟に争わず。時に人長者と称す。

貞元四年、詔を賫し並びに御饌・衣服数百襲を命じ、平涼盟会の処に往きて陷歿将士の骸骨を祭らしむ。述睿の性精愨なるを以ての故なり。九年、疾を以て表を上し、官を罷むるを請う。詔許さず、これに報えて曰く、「朕は卿を以て徳朝端に重く、行風俗に敦し、言わざるの教、頼む所深しとす。未だ来請に依らず、想うに宜しく悉すべし」と。

述睿再三表を上し、方に允許を獲、乃ち太子賓客を以て紫金魚袋を賜い致仕し、郷里に放還す。仍って帛五十匹、衣一襲を賜う。故事、致仕して郷里に還る者は皆公乗を給せず。徳宗儒者を優寵し、特り命じて給して遣わす。貞元十六年九月卒す。年七十一。工部尚書を贈る。子敏行。

子 敏行

敏行、字は至之。進士に挙げられ、元和五年礼部侍郎崔枢の下に第を擢てる。呂元膺嶽鄂を廉問し、賓佐に辟く。母憂に丁して罷む。後元膺東都留守と為り、鎮を河中に移す。敏行皆これに従う。十四年、入りて右拾遺と為り、左補闕に遷る。長慶中、起居郎と為り、左司員外郎に改め、司勲郎中を歴て、集賢殿学士に充て、吏部郎中に遷り、俄かに諫議大夫を拝す。上疏して興元監軍楊叔元が陰に募卒を激して乱を為し、節度使李絳を殺すを論ず。人敢えてその事を発せず。敏行表を上し極めてこれを諍う。故に叔元罪を得、時に論じて美と称す。

敏行は名臣の子、少くして修潔、人の称する所と為る。及び遊宦し、当時の豪俊と友と為る。名華は一時の冠と為ると雖も、貞規雅操は父に遠し。大和九年正月卒す。年四十九。尚書工部侍郎を贈る。

陽城

陽城、字は亢宗、北平の人なり。代々宦族と為る。家貧しくして書を得ること能わず、乃ち集賢写書吏を求めて為り、官書を窃み読み之、昼夜房を出でず。経ること六年、乃ち通ぜざる無し。既にして中条山に隠る。遠近その德行を慕い、多くこれに従いて学ぶ。閭里相訟する者、官府に詣でず、城に詣で決を請う。陝虢観察使李泌その名を聞き、親しくその里に詣でてこれを訪い、語るに甚だ悦ぶ。泌宰相と為り、著作郎に薦む。徳宗長安県尉楊寧に命じ束帛を賫し夏県の居る所に詣でてこれを召す。城乃ち褐を衣て京に赴き、上章して辞譲す。徳宗中官を遣わし章服を持してこれを衣せしめ、而して後詔し、帛五十匹を賜う。尋いで諫議大夫に遷る。

初め京に至らざる時、人皆風彩を想い望みて曰く、「陽城山人は自ら刻苦し能く、名利を楽しまず。今諫官と為る。必ず死を以て職を奉ぜん」と。人皆これを畏憚す。及び至るに、諸の諫官紛紜として事を言い、細碎として聞達せざる無し。天子益々これを厭苦す。而して城方に二弟及び客と日夜痛飲し、人その際を窺うこと能わず。皆虚名を以てこれを譏る。城の居る所に造り、将にその所以を問わんとする者有り。城風を望みてその意を知り、これを引きて与に坐せしめ、輒ち強いて酒を以てす。客辞す。城輒ち引きて自ら飲む。客已むこと能わず、乃ち城と酬酢す。客或いは時に先ず酔い、席上に臥す。城或いは時に先ず酔い、客の懐に臥し、客の語を聴くこと能わず。その二弟に約して云く、「吾が得る所の月俸、汝は吾が家に幾口有るかを度り、月に食する米当に幾何なるか、薪・菜・塩を買う凡て用うる所幾錢かを、先ずこれを具えよ。その余は悉く酒媼に送れ。留むること無かれ」と。未だ嘗て蓄積する所有らず。服用する所に切急にして闕くべからざる者と雖も、客某物佳くして愛すべしと称すれば、城輒ち喜び、挙げてこれを授く。陳某と云う者、その始めて月俸を請うを候い、常に往きてその錢帛の美を称し、月に獲ること有り。

時に德宗は在位し、多く宰相の権を仮さず、而して左右の者に縁由して事を用いることを得しむ。ここにおいて裴延齢・李齊運・韋渠牟ら尋いで奸佞を以て相次いで進用せられ、時に宰を誣譖し、大臣を毀詆し、陸贄ら皆冤みて黜せられ、敢えて救う者無し。城乃ち閣に伏して疏を上し、拾遺王仲舒と共に延齢の奸佞を論じ、贄らに罪無きことを論ず。德宗大いに怒り、宰相を召し入れて議し、将に城に罪を加えんとす。時に順宗東宮に在り、城の為に独り之を開解す。城之に頼りて免るることを獲たり。ここにおいて金吾將軍張萬福、諫官の閣に伏して諫むるを聞き、趨り往き、延英門に至り、大いに言して賀して曰く、「朝廷に直臣有らば、天下必ず太平ならん」と。乃ち城及び王仲舒等に造りて曰く、「諸諫議能く此くの如く言事せば、天下安んぞ太平ならざらんや」と。已にして連呼して「太平、太平」と。

萬福は武人、年八十余、此より名天下に重し。時に朝夕延齢を相せんと欲す。城曰く、「脱し延齢を以て相と為さば、城当に白麻を取りて之を壊さん」と。竟に延齢の事に坐して國子司業に改む。

城既に國學に至るや、乃ち諸生を召し、之に告げて曰く、「凡そ学者の学ぶ所以は、忠と孝との為なり。諸生寧ろ久しく其の親を省みざる者有らんや」と。明日、城に告げて帰養せんとする者二十余人。

薛約と云う者有り、嘗て城に学び、性狂躁、言事を以て罪を得、連州に徙り、客寄して根蒂無し。臺吏蹤跡を以て之を城の家に求めて得たり。城臺吏を門に坐せしめ、約と酒を飲みて訣別し、涕泣して之を郊外に送る。德宗之を聞き、城を以て罪人に党すとし、出して道州刺史と為す。太學生王魯卿・季償等二百七十人闕に詣りて留めんことを乞う。数日を経て、吏之を遮り止め、疏上ることを得ず。

道州に在りて、家人の法を以て吏人を待ち、罰すべき者は之を罰し、賞すべき者は之を賞し、簿書を以て意に介せず。道州の土地は民を産むに矮なる者多し。毎年常に郷戸に配し、竟に其の男を号して「矮奴」と為す。城下車し、良を以て賤と為すを禁じ、又其の編甿の歳に離異の苦しみ有るを憫み、乃ち疏を抗して論じて之を免ず。是より乃ち其の貢を停む。民皆之に頼り、泣きて荷わざる者無し。前刺史に贓罪有り。觀察使方に之を推鞫す。吏に前刺史に幸する者有り、其の不法の事を拾いて以て告げ、自ら功と為す。城立って之を杖殺す。賦税登らず。觀察使数えに誚譲を加う。州上考功第す。城自ら其の第を署して曰く、「撫字心労し、征科政拙なり。考下下」と。觀察使判官を遣わして其の賦を督む。州に至り、城の出で迎えざるを怪しみ、以て州吏に問う。吏曰く、「刺史判官の来るを聞き、以て罪有りと為し、自ら獄に囚われ、敢えて出でず」と。判官大いに驚き、馳せ入りて獄に於いて城を謁し、曰く、「使君何の罪ぞ。某命を受け来たりて安否を候うのみ」と。一二日留まりて去らず。城因りて復た館に帰らず。門外に故門扇地に横たわる有り。城昼夜其上に坐臥す。判官自ら安からず、辞して去る。其の後又た他の判官を遣わして往きて之を按ず。他の判官義として按ずるを欲せず、乃ち妻子を載せて行き、中道にして自ら逸す。

順宗即位し、詔して之を征す。而して城已に卒す。士君子之を惜しむ。是の歳四月、其の家に銭二百貫文を賜い、仍って所在の州縣に給遞せしめ、以て喪を帰葬せしむ。

崔覲

崔覲は梁州城固の人。儒と為りて仕進を楽しまず、耕稼を以て業と為す。老いて子無く、乃ち田宅家財を奴婢に分け与え、令して各生業を為さしむ。覲夫妻遂に城固南山に隠れ、家事を問わず。奴婢に約して其の舎を遞過せしめ、至れば則ち酒食を供給するのみ。夫婦林泉に対し、嘯詠を以て自ら娯しむ。山南西道節度使鄭余慶其の行を高くし、辟して節度参謀と為し、累ね邀いて方に府第に至る。吏と為りて方略無く、苦しくして人事に達せず。余慶長者を以て之を優容す。太和八年、左補闕王直方疏を上して事を論じ、召見を得、文宗便殿にて時事を以て之を訪う。直方亦た興元の人、覲と城固山を鄰と為す。是日因りて覲に高行有るを薦め、詔を以て起居郎として之を征す。覲疾を辞して起たず。山に卒す。

賛して曰く、高士は懐を忘る。隠れず顕れず。隠れに依りて名を釣る。真風漸く鮮し。廬を泉石に結び、紱を市朝に投ず。心に出処無し。是を逍遙と曰う。