卷一百九十一
術数占相の法は、陰陽家の流れより出づ。劉向が『洪範』の言を演じ、京房が焦贛の法を伝えてより、気を望み祲を視て災異の来るを懸かに知り、策を運び蓍を揲て吉凶の会を預め定むる者、莫からず。固より已に魯史に詳かにし、彼の『周官』に載す。其の弊れる者は業を肄むる精ならず、非に順ひ偽を行ひ、而して庸人は徳義を修めず、妄りに遭逢を冀ふ。魏豹の薄姫を納るるが如く、孫皓の青蓋を邀ふるが如く、王莽は式に随ひて坐を移し、劉歆は讖を聞きて名を改む。近くは綦連耀の異端を構へ、蘇玄明の宮禁を犯すは、皆占候に因りて、此の奸凶を輔く。聖王星緯の書を禁ずるは、良に以て有り。国史に袁天綱の武后を前に知るを載すは、恐らくは格言に匪ず、而して李淳風方伎の書を刪し、備はりて其の要を言ふ。旧本は崔善為以下を録す、此れ其の術に深き者なり、兼ねて桑門道士方伎等を、並びに此の篇に附す。
崔善為
崔善為は、貝州武城の人なり。祖は顒、後魏の員外散騎侍郎。父は権会、斉の丞相府参軍事。善為は学を好み、兼ねて天文算暦に善くし、時務に明達せり。弱冠にして州に挙げられ、文林郎を授かる。隋の文帝仁寿宮を営むに属し、善為は丁匠五百人を領す。右僕射楊素は総監たり、巡りて善為の所に至り、簿を索めて人を点ずるに、善為は手に簿を持ちて暗に之を唱ふ、五百人一も差失無し、素大いに驚く。此れより四方の疑獄有れば、多く善為をして推按せしむ、理を尽くして妙ならざる無し。
仁寿中、稍く楼煩郡司戸書佐に遷る。高祖其の時太守たり、甚だ礼遇す。善為は隋の政傾頹するを以て、乃ち密かに進むを勧め、高祖深く之を納る。義旗建つや、引きて大將軍府司戸参軍と為し、清河県公に封ぜらる。武德中、内史舎人・尚書左丞を歴たり、甚だ誉れを得たり。諸曹の令史其の聡察を悪み、其の身短くして傴るるに因り、之を嘲りて曰く「崔子曲くして鉤を知り、例に随ひて封侯を得たり。髆の上全く項無く、胸前別に頭有り」と。高祖之を聞き、労めて勉めて曰く「澆薄の人は、正を醜しめ直を悪む。昔斉の末奸吏斛律明月を歌ひ、而して高緯愚暗にして、遂に其の家を滅ぼせり。朕徳無きと雖も、幸ひに斯の事を免れむ」と。因りて流言する者を購ひ、使はして其の罪を加へしむ。時に傅仁均の撰する所の『戊寅元暦』、議する者紛然たり、多く同異有り、李淳風又其の短を駁すこと十有八条。高祖善為に令し二家の得失を考校せしむ、多く駁正有り。
貞観初、陝州刺史を拝す。時に朝廷議を立て、戸殷なる処は、寛郷に徙るを得とす。善為表を上りて称して「畿内の地は、是れ戸殷と謂ふ、丁壮の人は、悉く軍府に入る。若し移転を聴かば、便ち関外に出づ。此れは近きを虚しくし遠きを実くす、経通の議に非ず」と。其の事乃ち止む。後に大理・司農二卿を歴たり、名は職に称すと為す。少卿と協はざるに坐し、出でて秦州刺史と為り、卒す。刑部尚書を贈らる。
薛頤
薛頤は、滑州の人なり。大業中、道士と為る。天文律暦を解し、尤も雑占に暁る。煬帝内道場に引入れ、亟に章醮を令す。武德初、追ひて秦府に直す。頤嘗て密かに秦王に謂ひて曰く「徳星秦分を守る、王まさに天下有るべし、願はくは王自ら愛せよ」と。秦王乃ち奏して太史丞を授け、累ねて太史令に遷る。貞観中、太宗将に泰山に封禅せんとす、彗星見ゆ。頤因りて言ふ「諸の玄象を考ふるに、恐らくは未だ東封すべからず」と。会に褚遂良も亦其の事を言ふ、是に於いて乃ち止む。
頤後に表を上りて道士と為らんことを請ふ、太宗為に紫府観を九秬山に置き、頤に中大夫を拝し、紫府観主事を行はしむ。又勅して観中に一の清台を建て、玄象を候ひ、災祥薄蝕謫見等の事有れば、状に随ひて聞奏せしむ。前後に奏する所、京台の李淳風と多く相符契す。後数歳にして卒す。
甄権
甄権は、許州扶溝の人なり。嘗て母の病を以て、弟立言と専ら医方を為し、其の旨趣を得たり。隋の開皇初、秘書省正字と為り、後疾と称して免ぜらる。隋の魯州刺史庫狄鏚風患に苦しみ、手弓を引くを得ず、諸医療する能はざるも、権謂ひて曰く「但だ弓箭を将て垛に向はば、一針にて射ることを得べし」と。其の肩隅一穴を針す、時に応じて即ち射る。権の疾を療するや、多く此の類なり。
貞観十七年、権年一百三歳、太宗其の家に幸し、其の飲食を視、薬性を以て訪ひ、因りて朝散大夫を授け、几杖衣服を賜ふ。其の年卒す。『脈経』・『針方』・『明堂人形図』各一卷を撰す。
弟 立言
宋俠
宋俠は、洺州清漳の人であり、北斉の東平王文学宋孝正の子である。また医術をもって著名であった。官は朝散大夫・薬蔵監に至る。『経心録』十巻を撰し、世に行われる。
許胤宗
許胤宗は、常州義興の人である。初め陳に仕え、新蔡王外兵参軍となった。時に柳太后が中風を病み言葉を発せず、名医が治療しても皆癒えず、脈はますます沈んで口を閉ざした。胤宗は言う、「口からは薬を下せない。湯気で蒸すのがよい。薬を腠理に入れさせ、全身に行き渡れば即ち癒えるであろう」と。そこで黄蓍防風湯を数十斛造り、床下に置くと、気は煙霧の如く立ち、その夜に言葉を発することができた。これにより越階して義興太守に任ぜられた。陳が滅びて隋に入り、尚薬奉御を歴任した。武徳初年、累ねて散騎侍郎を授けられた。
時に関中には骨蒸病が多く、罹れば必ず死に、次々と伝染し、諸医は治療する能がなかった。胤宗が治療するごとに、癒えざるはなかった。ある人が言う、「公の医術は神の如し、何ぞ書を著して将来に伝えないのか」と。胤宗は言う、「医は意なり、人の思慮に在り。また脈候は幽微にして、その区別の難きを苦しむ。意に解するところは、口に宣べる能わず。かつ古の名手は、ただ脈を別つに在り。脈を精しく別てたる後、病を識る。病と薬との関係には、正しく相当するものがあり、ただ単に一味を用いて、直ちにその病を攻むるを須い、薬力純なれば、病は即ち立ちどころに癒ゆ。今の人は脈を別つ能わず、病源を識らず、情をもって臆測し、多く薬味を安んずる。狩猟に譬えれば、兔の在り処を知らず、多く人馬を発し、空き地を遮り囲み、あるいは一人の偶然の遭遇を冀うが如し。かくの如く疾を療するは、また疎ならずや。仮令一薬偶然に病に当たるとも、また他の味と相和し、君臣相制して、気勢行わず、癒え難き所以は、誠にこれに由る。脈の深趣は、既に言うべからず、虚しく経方を設けても、旧に加えることあらんや。吾はこれを久しく思う、故に著述する能わざるのみ」と。九十余歳で卒した。
乙弗弘禮
乙弗弘禮は、貝州高唐の人である。隋の煬帝が藩王たる時、召して己を相せしめた。弘禮は跪いて賀し言う、「大王の骨法は尋常ならず、必ず万乗の主とならん。誠に願わくは得ることにおいて戒められよ」と。煬帝即位後、天下の道術人を召し、坊を置いて居住させ、仍って弘礼に統摂せしめた。帝は海内漸く乱れ、玄象錯謬するを見て、内に憂恐を懐き、嘗て弘礼に謂いて言う、「卿昔朕を相し、その言既に験あり。且つ占相道術については、朕頗る自ら知る。卿更に朕を相せよ、終いには如何にならん」と。弘礼は逡巡して敢えて答えず。帝は迫って言う、「卿の言は朕の術と同からず、罪死に当たるべし」と。弘礼は言う、「臣元より相書を観るに、凡人の相で、陛下に類する者は、善終を得ず。臣聞く、聖人は相せず、故に凡聖の同じからざるを知るのみ」と。これより帝は嘗て使者を遣わして監視せしめ、人と交言することを得させなかった。
初め、泗州刺史薛大鼎は隋の時に嘗て事に坐して奴に没せられた。貞観初年、数人と共に弘礼を訪ね、大鼎の番が至ると、弘礼は言う、「君は奴なり、何を相せんとするか」と。皆が言う、「何をもってこれを知るか」と。弘礼は言う、「その頭目を観るに、直ちに賤人なり。但だ余りの処が如何なるかを知らぬのみ」と。大鼎は慚色あり、乃ち衣を解いて視せると、弘礼は言う、「君の面を見るに、前言と異ならず。君の腰より以下を占うに、方岳の任に当たるべし」と。その占相は皆この類いであった。貞観末年に卒した。
袁天綱
大業末年、竇軌が徳陽に客遊し、嘗て天綱に問うた。天綱は謂いて言う、「君の額上の伏犀玉枕に貫き、輔角また成る。必ず梁・益州において大いに功業を樹てん」と。武徳初年、竇軌は益州行台僕射となり、天綱を引きいれ、深く礼した。天綱はまた竇軌に謂いて言う、「骨法成就し、往時の言に異ならず。然れども目の気に赤脈瞳子を貫き、語れば則ち赤気面に浮ぶ。将軍となるも、多く人を殺すを恐る。深く自ら誡慎せんことを願う」と。武徳九年、竇軌は事に坐して征され、将に京に赴かんとして、天綱に謂いて言う、「更に何の官を得ん」と。曰く、「面上の家人坐未だ動きを見ず。輔角右畔光沢あり、更に喜色有り。京に至れば必ず恩を受け、還り来てこの任に就かん」と。その年果たして重ねて益州都督を授けられた。
則天武后が初めて襁褓に在る時、天綱がその邸中に来て、その母に謂いて言う、「唯夫人の骨法、必ず貴子を生む」と。乃ち諸子を召し、天綱に相せしめた。元慶・元爽を見て言う、「この二子は皆家を保つ主、官は三品に至るべし」と。韓国夫人を見て言う、「この女もまた大いに貴し。然れどもその夫に利あらず」と。乳母が時に則天を抱き、男子の服を着せていた。天綱は言う、「この郎君子は神色爽徹、容易に知り難し。試みに歩かせて見よ」と。ここに於て床前を歩ませ、仍って目を挙げさせると、天綱は大いに驚き言う、「この郎君子は龍睛鳳頸、貴人の極みなり」と。更に転側して視ると、また驚き言う、「必ずもし女ならば、実に窺測すべからず、後当に天下の主とならん」と。
貞観八年、太宗はその名を聞き、召して九成宮に至らしめた。時に中書舎人岑文本がこれを見させた。天綱曰く、「舎人は学問の素養が成り、眉が目を覆い、文才は海内に振るい、頭にはまた骨が生じているが、未だ大成せず、もし三品を得れば、恐らくは寿命を損なう徴候であろう」と。文本は官中書令に至り、まもなく卒した。その年、侍御史張行成・馬周がともに天綱に問うた。天綱曰く、「馬侍御は伏犀が脳を貫き、兼ねて玉枕を有し、また背は物を負うが如く、富貴は言うべからざるものがある。近古以来、君臣の道が合うことは、公の如きは稀である。公は面色赤く、命門の色暗く、耳後の骨起たず、耳に根なし、ただ寿命に非ざることを恐れるのみ」と。周は後に位中書令・兼吏部尚書に至り、年四十八で卒した。行成に謂いて曰く、「公は五嶽四瀆が成り、下亭豊満にして、官を得るは遅しと雖も、終に宰輔の地位に居る」と。行成は後に尚書右僕射に至った。天綱が人相を見て当たることは、皆この類いである。申国公高士廉嘗て謂いて曰く、「君は更に何の官とならんとするか」と。天綱曰く、「自ら相命を知る、今年四月に尽きん」と。果たしてこの月に至って卒した。
孫思邈
孫思邈は、京兆華原の人である。七歳で学に就き、日に千余言を誦した。弱冠にして、荘子・老子及び百家の説を談ずるに善く、兼ねて釈典を好んだ。洛州総管獨孤信これを見て歎じて曰く、「これは聖童である。ただその器の大ききを恨む、用いるに難し」と。周の宣帝の時、思邈は王室に多事あるを以て、太白山に隠居した。隋の文帝が政を輔けるに及び、征して国子博士と為さんとしたが、疾いと称して起たず。嘗て親しい者に謂いて曰く、「五十年を過ぎて、聖人の出ずる有らん、吾方に之を助けて人を済わん」と。太宗が即位するに及び、召して京師に詣らしめ、その容色の甚だ少いを嗟き、謂いて曰く、「故に有道の者は誠に尊重すべきを知る、羨門・広成、豈に虚言ならんや」と。将に爵位を授けんとしたが、固く辞して受けず。顕慶四年、高宗召見し、諫議大夫に拝せんとしたが、また固く辞して受けず。
吾れ善く天を言う者は、必ずこれを人に質し、善く人を言う者は、亦これを天に本づくを聞く。天には四時五行有り、寒暑代わり迭り、その転運するや、和して雨と為り、怒って風と為り、凝って霜雪と為り、張って虹蜺と為る、これ天地の常数なり。人には四肢五臓有り、一覚一寝、呼吸吐納、精気往来し、流れて栄衛と為り、彰れて気色と為り、発して音声と為る、これ人の常数なり。陽はその形を用い、陰はその精を用う、天人同じくする所なり。その失するに及びては、蒸すれば則ち熱を生じ、否すれば則ち寒を生じ、結して瘤贅と為り、陥って癰疽と為り、奔って喘乏と為り、竭きて焦枯と為り、診は面に発し、変動は形に顕わる。これを推して天地に及ぼすも亦の如し。故に五緯盈縮し、星辰錯行し、日月薄蝕し、孛彗飛流す、これ天地の危診なり。寒暑時ならず、これ天地の蒸否なり;石立ち土踊る、これ天地の瘤贅なり;山崩れ土陥る、これ天地の癰疽なり;奔風暴雨、これ天地の喘乏なり;川瀆竭き涸る、これ天地の焦枯なり、良医は薬石を以てこれを導き、針剤を以てこれを救い、聖人は至徳を以てこれを和し、人事を以てこれを輔く、故に形体には愈ゆべき疾有り、天地には消すべき災有り。
また曰く、
胆は大ならんことを欲し、心は小ならんことを欲し、智は円ならんことを欲し、行いは方ならんことを欲す。『詩』に曰く、「深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し」とは、小心を謂うなり;「糾糾たる武夫、公侯の干城なり」とは、大胆を謂うなり。「利の為に回らず、義の為に疚まず」とは、行いの方なるなり;「機を見て作り、終日を俟たず」とは、智の円なるなり。
思邈自ら云う、開皇辛酉の歳に生まれ、今年に至って九十三と;これを郷里に詢ねれば、皆数百歳の人と云う。周・斉の間の事を話せば、歴歴として眼前に見るが如し。これを以て参ずれば、百歳の人に啻ならず。然れども猶視聴衰えず、神采甚だ茂り、古の聡明博達不死の者と謂うべし。
初め、魏徴等詔を受けて斉・梁・陳・周・隋の五代史を修め、遺漏有らんことを恐れ、屡々これを訪うた。思邈口を以て伝授すること、目撃するが如し有り。東台侍郎孫処約その五子侹・儆・俊・佑・佺を将いて思邈に謁せしむ。思邈曰く、「俊は先ず貴ぶべく;佑は晩に達すべく;佺は最も名重く、禍は兵を執るに在り」と。後皆その言の如し。太子詹事盧斉卿童幼の時、人倫の事を請い問う。思邈曰く、「汝後五十年位方伯に登り、吾が孫当に属吏と為るべし、自ら保つべし」と。後斉卿徐州刺史と為り、思邈の孫溥果たして徐州蕭県丞と為る。思邈初め斉卿に謂うの時、溥未だ生まれずして、而してその事を予知す。凡そ諸の異跡、多くこの類いなり。
子の行、天授中鳳閣侍郎と為る。
明崇儼
四年、盗に殺さる。時に語る所、崇儼密かに天后と厭勝の法を為し、また私に章懐太子は大位を承継するに堪えずと奏す、太子密かにこれを知り、潜かに人をしてこれを害せしむと。優制を以て侍中を贈り、諡して荘と曰い、仍ってその子の珪を秘書郎に拝す。
珪、開元中仕えて懐州刺史に至る。
張憬藏
左僕射劉仁軌が微賤の時、かつて郷人靖思賢と共にそれぞれ絹を携えて憬藏に贈り、官禄を問うた。憬藏は仁軌に言った、「貴公は五品の要官に居り、一時的に解黜されても、終に人臣の極位に至るであろう。」仁軌は後に給事中より事に坐し、白衣のまま海東に効力することを命ぜられた。固く思賢の贈りを辞して言った、「貴公は孤独のまま客死するであろう。」仁軌が僕射となった時、思賢はまだ存命で、人に言った、「張憬藏が劉僕射を相したのは、妙であった。我は今すでに三子があり、田宅も自ら如くである。どうしてその言いもまた中らぬことがあろうか。」間もなく三子が相次いで死に、田宅を全て売り払い、親しい者の園内に寄って死んだ。憬藏の相人の妙は、皆この類である。ついに仕えず、寿を全うして終わった。
李嗣真
李嗣真は滑州匡城の人である。父は彦琮、趙州長史であった。嗣真は博学で音律に通暁し、陰陽推算の術を兼ねて善くした。弱冠で明経に挙げられ、許州司功に補せられた。時に左侍極賀蘭敏之が詔を受けて東台で修撰し、嗣真を弘文館に奏してその事に参預させた。嗣真は同時の学士劉献臣・徐昭と共に少俊と称され、館中で「三少」と号された。敏之は寵を恃んで驕盈となり、嗣真はその必ず敗れるを知り、親しい者に言った、「これは身を庇う所ではない。」咸亨年間に京中大饑饉があったため、出を求めて義烏令に補せられた。間もなく敏之が敗れ、修撰官は皆連坐して流放されたが、嗣真のみは預からなかった。調露年間、始平令となり、風化大いに行なわれた。時に章懐太子が春宮に居り、嗣真はかつて太清観で楽を奏し、道士劉概・輔儼に言った、「この曲は何と哀思不和の甚だしいことか。」概・儼は言った、「これは太子の作った『宝慶楽』です。」数日を経て、太子は廃されて庶人となった。概らはその事を聞奏し、高宗は大いにこれを奇とし、征して司礼丞に拝し、なお五礼儀注を掌り、中散大夫を加えられ、常山子に封ぜられた。
永昌年間、右御史中丞に拝し、大夫の事を知った。時に酷吏来俊臣が無罪を構え陥れたため、嗣真は上書して諫めて言った、「臣は聞く、陳平が漢祖に事え、楚の君臣を謀り疏んじるに、乃ち黄金五万斤を用いて反間の術を行なった。項王は果たして臣下を疑い、陳平の反間は果たして行なわれた。今、告げ事紛紜として、虚多く実少ない。どうして必ず陳平の先に陛下の君臣を謀り疏んじ、後に国家の良善を謀り除く者が無いと知れようか。臣は社稷の禍となることを恐れる。伏して願わくは陛下、特に天慮を回らし、臣の狂瞽を察した上で、然る後に鼎鑊に退くも、実に恨む所無し。」疏を奏しても納れられず。間もなく俊臣に陥れられ、嶺南に配流された。
万歳通天年、征還され、桂陽に至り、自ら死日を筮い、予め桂陽の官属に凶器を備えるよう託した。期に依って暴卒した。則天は深く憫惜を加え、州県に勅して霊輿を郷里に送還させ、済州刺史を贈った。神龍初年、また御史大夫を贈られた。
『明堂新礼』十巻、『孝経指要』・『詩品』・『書品』・『画品』各一巻を撰した。
張文仲
張文仲は洛州洛陽の人である。若くして郷人李虔縦・京兆の人韋慈蔵と共に医術をもって知名であった。文仲は則天の初年に侍御医となった。時に特進蘇良嗣が殿庭で拝跪するに因って卒倒した。則天は文仲・慈蔵に命じて宅に随い至り候診させた。文仲は言った、「これは憂憤邪気の激するによる。もし痛みが脇に衝けば、則ち劇しく救い難い。」朝よりこれを候った。食時に及ばず、即ち苦しんで脇に衝き絞痛した。文仲は言った、「もし心に入れば、即ち療すべからず。」俄かに心痛し、再び薬を下さず、日旰(夕方)にして卒した。文仲は特に風疾を療することを善くした。その後、則天は文仲に命じて当時の名医を集めて共に風気を療する諸方を撰ばせ、なお麟台監王方慶にその修撰を監させた。文仲は奏して言った、「風に一百二十四種あり、気に八十種あり。大抵医薬は同じくとも、人の性は各異なり、庸医は薬の性を達せずして冬夏の節を失わせ、これに因って人を殺す。ただ脚気・頭風・上気は、常に服薬を絶やさず須いる。その余は則ちその発動に随い、臨時に消息すべきである。但し風気の有る人は、春末夏初及び秋暮に、通泄を得ることを要し、即ち困劇せず。」ここに於いて四時に常服すべき及び軽重大小の諸方十八首を撰んで表上した。文仲は久視年に尚薬奉御で終わった。『随身備急方』三巻を撰し、世に行なわれた。
李虔縦 韋慈蔵 附
虔縦は官は侍御医に至った。慈蔵は景龍年間に光禄卿となった。則天・中宗以後、諸医は皆文仲等三人を首と推した。
尚献甫
裴知古 附
孟詵
孟詵は、汝州梁の人なり。進士に挙げらる。垂拱初め、累遷して鳳閣舎人となる。詵は少くより方術を好み、嘗て鳳閣侍郎劉禕之の家に於て、其の敕賜の金を見、禕之に謂ひて曰く、「此れ薬金なり。若し火を其上に焼かば、当に五色の気有るべし」と。之を試みるに果たして然り。則天聞きて悦ばず、事に因りて出でて台州司馬と為る。後に累遷して春官侍郎となる。
詵の居る官は、好んで勾剝を以て政と為し、繁くして理有り。『家』、『祭礼』各一卷、『喪服要』二卷、『補養方』、『必效方』各三卷を撰す。
厳善思
厳善思は、同州朝邑の人なり。少くより学渉を以て知名たり、特に天文暦数及び卜相の術に善し。初め消声幽藪科挙に応じて擢第す。則天の時に監察御史と為り、権右拾遺・内供奉を兼ぬ。数たび表を上して時政の得失を陳ぶ、多く納用せらる。稍く遷りて太史令となる。
神龍初め、遷りて給事中となる。則天崩じ、将に乾陵に合葬せんとす、善思奏議して曰く、
謹んで按ずるに『天元房録葬法』に云く、「尊者先に葬り、卑者は後に開き入るるに合はず」と。則天太后は、天皇大帝に卑し、今乾陵を開きて合葬せんと欲す、即ち是れ卑を以て尊を動かすなり。事既に経せず、恐らくは安穏に非ざるべし。臣又聞く、乾陵の玄闕は、其の門石を以て閉塞し、其の石の縫隙、鉄を鑄して以て其の中を固むと。今若し陵を開かば、須らく鐫鑿すべし。然れども神明の道を以てすれば、体尚ほ幽玄を尚ぶ;今乃ち衆を動かし功を加ふるは、誠に多く驚黷する所有るを恐る。又若し別に門道を開きて、以て玄宮に入らば、即ち往者葬る時、神位先づ定まれり、今改めて作すは、害を為す益々深し。又乾陵を修築しての後、国頻りに難有り、遂に則天太后権を総べて萬機を執ること二十余年、其の難始めて定まる。今乃ち更に営作を加ふるは、伏して恐らくは還って難生ずる有らん。
但だ合葬は古に非ず、礼経に著はし、情に縁りて用ふるも、依拠すべき足らず。況んや今事に安からざる有り、豈に復た斯の制を循らんや!伏して見るに漢時の諸陵は、皇后多く合葬せず;魏・晋已降、始めて合する者有り。然れども両漢積年、向ふに四百余り;魏・晋の後、祚皆長からず。命を受けて期に応ずる有りと雖も、天に因りて仮る有り、然れども機を循ひ徳を享くるも、亦天時に在り。但だ陵墓の安んずる所は、必ず勝地を資とし、後の胤嗣、霊根に托するを用ふ、或は安からざる有らば、後嗣も亦長く享け難し。伏して望む、漢朝の故事に依り、魏・晋の頽綱を改め、乾陵の傍に於て、更に吉地を択び、生墓の法を取り、別に一陵を起こし、既に従葬の儀を得、又固本の業を成さしむ。
臣伏して惟ふに、合葬するは、人の私情に縁る;合せざるは、前修の故事なり。若し神道知る有らば、幽途自ら通会を得;若し死者知る無からば、之を合するも復た何の益か有らん!然れども山川の精気、土は星象と為る、若し葬ること其の所を得ば、則ち神安んじて後昌へ;若し葬ること其の宜しきを失はば、則ち神危うして後損ふ。是を以て先哲は范を垂れ、之を葬経に具し、生人の道をして必ず安からしめ、死者の神をして必ず泰からしめんと欲す。伏して望む、少しく天眷を回らし、臣が言を俯して覧み、古昔の明規を行ひ、私情の愛欲を割き、社稷をして長く享けしめ、天下をして乂安ならしめんことを。凡そ生を懐くる者、孰か慶倖せざらんや!
疏奏して納れられず。
景龍中、遷りて礼部侍郎となり、出でて汝州刺史と為る。睿宗藩に在りし時、善思嘗て姚元之に謂ひて曰く、「相王必ず帝位に登るべし」と。践祚に及び、元之事を以て聞奏す、是に由りて召して右散騎常侍に拝す。
初めに、善思が御史であった時、中書舎人劉允済が酷吏に陥れられ、死罪に当たった。善思はその老齢を哀れみ、密かに上表して奏請し、允済はようやく誅殺を免れた。善思は後に允済に会ったが、ついに自らその事を言わなかった。韓思復が善思の罪を奏上して免じた時も、允済はかつて何ら謝意を述べることはなかった。当時の人は彼を長者と称えた。
金梁鳳
梁鳳が河隴にいた時、呂諲に言った、「判官の骨相は、宰相を得るに合う。ただし一大驚怖を得ることを須いる。即ち得るであろう。」諲は後に駅舎に至り、駅長を責め叱り、これを打った。駅吏は武人で、性質が粗暴猛々しく、弓矢を持って突入し、諲を射た。矢は二発放たれ、ほとんど諲の顔面に当たりそうになった。諲は牆を越えて免れた。これを梁鳳に報告すると、梁鳳は言った、「これは必ず宰相に入る。」一年余りして、諲は黄門侍郎より政事を知るようになった。
梁鳳が鳳翔にいた時、李揆と盧允の二人が共に彼に会い、ともに平服で、選人を自称した。梁鳳は彼らに言った、「貴公らはともに清望官に至る。どうして官無しと言えようか。」揆と允は実情を答えた。梁鳳は二人を行かせ、揆に言った、「貴公は舎人より即ち宰相に入り、一年内の事である。」允に言った、「貴公は好くして即ち吏部郎中となる。」両京を克復した後、揆は中書舎人より礼部侍郎事を知り、入朝して中書侍郎・平章事となり、ついに允を吏部郎中とした。その験は多くこの類であった。その後、佯って聾となり自ら晦ました。冕が右僕射・兼御史大夫・成都尹・剣南節度使となった時、進止があり、梁鳳を行かせるよう命じた。後に病没した。
張果
張果という者は、何処の人であるか知られていない。則天の時、中条山に隠れ、汾・晋の間を往来し、当時の人は彼に長寿の秘術があると伝え、自らは数百歳であると言った。かつて『陰符経玄解』を著し、その玄理を尽くした。則天は使者を遣わして召したが、果は死を装って赴かなかった。後に人々は再び彼を見かけ、恒州の山中を往来した。開元二十一年、恒州刺史韋済がその状況を上奏して聞かせた。玄宗は通事舎人裴晤を遣わして迎えさせた。果は使者に対し気絶して死んだようになり、久しくして漸く蘇生した。晤は逼迫することを敢えず、馳せ戻って状況を奏上した。また中書舎人徐嶠を遣わし、璽書を齎して邀迎させた。果はようやく嶠に随って東都に至り、肩輿で東宮中に入った。
玄宗が初めて即位した時、みずから治道及び神仙方薬の事を訪ね、また変化測り難いことを聞いて疑った。邢和璞という者がおり、人の推算に長けて夭寿善悪を知った。玄宗に命じられて果を推算したが、懵然としてその甲子を知ることができなかった。また師夜光という者がおり、鬼を見ることに長けていた。玄宗は果を召して彼と密座させ、夜光に見させた。夜光が進み出て言った、「果は今何処におりますか。」夜光は対面しながら終に見ることができなかった。玄宗は力士に言った、「吾は董汁を飲んで苦しまぬ者は、真の奇士であると聞く。」折しも寒さであったので、董汁を飲ませて果に与えた。果はすなわち三杯引き飲みし、酔ったように顔色をなして、顧みて言った、「佳酒ではない。」そして寝た。しばらくして、鏡を取って歯を見ると、ことごとく焦げて黒ずんでいた。左右に命じて鉄如意を取り、歯を打ち落とさせ、帯に蔵した。そして懐中から神仙薬を取り出し、微かに赤く、落ちた歯の齦に塗った。再び久しく寝ると、歯は皆生え出て、燦然として潔白であった。玄宗はようやく彼を信じた。
玄宗は神仙を好み、果に公主を尚せさせようとした。果は固よりこれを知らず、秘書少監王迥質と太常少卿蕭華に言った、「諺に『娶婦得公主』は、真に畏るべしと言う。」迥質と華は顔を見合わせ、その言葉を理解しなかった。すぐに中使が至り、宣して言った、「玉真公主は早くから道を好み、先生に降嫁したい。」果は大笑いし、ついに詔を奉じなかった。迥質らはようやく先の言葉を悟った。
後に懇ろに辞して山に帰ろうとしたので、制を下して言った、「恒州張果先生は、方外を遊ぶ者である。跡は高尚に先んじ、窈冥に深く入る。是れ光塵を渾ぜ、城闕に応召す。甲子の数を詳らかにせず、且つ羲皇上人と謂う。道樞を問うに、宗極を尽くして会す。今特に朝礼を行い、爰に寵命を畀う。銀青光禄大夫とすべく、号を通玄先生と曰う。」その年、恒山に入ることを請い、衣服及び雑綵等を賜り、便ち山に帰らせた。すなわち恒山に入り、行方が知れなくなった。玄宗はその隠棲の地に棲霞観を造り、蒲吾県にあり、後に平山県と改めた。
葉法善
道士葉法善は、括州括蒼県の人である。曾祖より三代道士となり、皆に摂養占卜の術があった。法善は幼少より符籙を伝え、特に鬼神を厭劾することができた。顕慶年間、高宗はその名を聞き、京師に征し詣でさせ、爵位を加えようとしたが、固辞して受けなかった。道士となることを求め、よって内道場に留め、供待は甚だ厚かった。時に高宗は広く諸方の道術の士を征し、黄白を合煉させようとした。法善が上言して言った、「金丹は成就し難く、徒らに財物を費やし、政理を虧く。その真偽を核せられんことを請う。」帝はその言を然りとし、よって法善に試させた。これにより九十余人を出し、よって一切これを罷めた。法善はまたかつて東都の凌空観に壇を設けて醮祭し、城中の士女は競ってこれを見に行った。俄かに数十人が自ら火中に投じ、観る者は大いに驚き、救って免れた。法善は言った、「これらは皆魅病であり、吾が法に摂されたのである。」問うと果たしてそうであった。法善は悉く禁劾を為し、その病はようやく癒えた。
法善は高宗・則天・中宗に歴り五十年、常に名山を往来し、数えきれぬほど禁中に召し入れられ、礼を尽くして道を問われた。しかし仏法を排擠し、議する者はあるいはその向背を譏った。その術が高いため、終にこれを測る者はなかった。
法善は隋の大業の丙子年に生まれ、開元の庚子年に死す、凡そ百七歳。八年に卒す。詔して曰く、
故道士鴻臚卿・員外置・越國公葉法善は、天真にして精密、妙理玄暢、秘要を包括し、霊符を発揮す。固より以て冥黙として源を測り難く、希夷として測るに罕なり。而して情は蓬閬に棲み、跡は朝伍に混じ、黄冠を保ちて杖とせず、紫綬を加うるも栄とせず、卓爾として孤秀、冷然として独往す。勝気は俗を絶ち、貞風は塵無く、金骨は外に聳え、珠光は内に応ず。斯れ乃ち体は中仙に応じ、名は上徳に升る。朕は政を聴くの暇に当たり、屡々至道を詢う。公は理国の法を以て、数たび昌言を奏す。謀は隠諷に参じ、事は弘益を宣ぶ。徽音の未だ泯みざるを歎き、形解の俄かに留まるを悲しむ。曾て憖遺すること莫く、良を殲うして奄に及ぶ。永く平昔を惟い、懐に感愴す。宜しく礼命を申し、式として泉壌を旌くべし。越州都督を贈る可し。
僧 玄奘
僧玄奘は、姓は陳氏、洛州偃師の人なり。大業末に出家し、経論を博く渉猟す。嘗て訳する者多く訛謬有りと謂い、故に西域に就き、広く異本を求めて以て之を参験せんとす。貞観初、商人に随いて往き西域に游ぶ。玄奘は既に弁博にして群を出で、所在必ず講釈論難を為し、蕃人は遠近咸く尊び伏す。西域に在ること十七年、百余国を経て、悉く其の国の語を解し、仍て其の山川謡俗、土地の所有を采り、『西域記』十二巻を撰す。貞観十九年、帰りて京師に至る。太宗之を見て、大いに悦び、之と談論す。是に於て詔して梵本六百五十七部を将て弘福寺に於て翻訳せしめ、仍て右僕射房玄齢・太子左庶子許敬宗に勅し、広く碩学の沙門五十余人を召し、相助けて整比せしむ。
僧 神秀
僧神秀は、姓は李氏、汴州尉氏の人なり。少くして経史を遍く覧み、隋末に出家して僧と為る。後に蘄州双峰山東山寺の僧弘忍に遇い、坐禅を以て業と為すを以て、乃ち歎伏して曰く、「此れ真に吾が師なり。」と。便ち往事して弘忍に事え、専ら樵汲を以て自ら役し、以て其の道を求む。
昔、後魏の末に、僧達摩有り、本は天竺の王子、護国の為に出家し、南海に入り、禅宗の妙法を得、雲う、釈迦より相伝し、衣鉢を以て記と為し、世に相付授すと。達摩は衣鉢を齎して航海して来たり、梁に至り、武帝に詣る。帝有為の事を以て問うに、達摩説かず。乃ち魏に之き、嵩山少林寺に隠れ、毒に遇いて卒す。其の年、魏の使宋雲、葱嶺より回り、之を見る。門徒其の墓を発くれば、但だ衣履のみ有り。達摩は慧可に伝え、慧可は嘗て其の左臂を断ち、以て其の法を求め、慧可は璨に伝え、璨は道信に伝え、道信は弘忍に伝う。
弘忍は姓は周氏、黄梅の人なり。初め、弘忍は道信と並びに東山寺に住す、故に其の法を東山法門と謂う。神秀は既に師事して弘忍に事う、弘忍深く器異し之を、謂いて曰く、「吾が度する人多し、懸解円照に至りては、汝に先んずる者無し。」と。
弘忍は咸亨五年に卒す、神秀は乃ち荊州に往き、当陽山に居る。則天其の名を聞き、追いて都に赴かしめ、肩輿にて殿に上り、親しく跪礼を加え、当陽山に度門寺を置きて以て其の徳を旌くことを勅す。時に王公已下及び京都の士庶、風を聞き争いて来たり謁見し、塵を望みて拝伏し、日に以て万数を数う。中宗即位し、尤も敬異を加う。中書舎人張説嘗て道を問い、弟子の礼を執り、退きて人に謂いて曰く、「禅師身長八尺、龐眉秀耳、威徳巍巍、王覇の器なり。」と。
慧能 普寂 義福 附
初め、神秀の同学の僧慧能なる者は、新州の人なり。神秀と行業相埒し。弘忍卒したる後、慧能は韶州広果寺に住す。韶州の山中、旧く多く虎豹有りしが、一朝にして尽く去り、遠近驚歎し、咸く帰伏す。神秀嘗て則天に奏し、慧能を追いて都に赴かしめんことを請う、慧能固く辞す。神秀又た自ら書を作り重ねて之を邀う、慧能は使者に謂いて曰く、「吾が形貌短陋、北土之を見れば、恐らく吾が法を敬わざらん。又た先師吾が南中に縁有りと以う、亦た違う可からず。」と。竟に嶺を度らずして死す。天下乃ち散じて其の道を伝え、神秀を北宗と謂い、慧能を南宗と謂う。
神秀卒したる後、弟子普寂・義福、並びに時に人に重んぜらる。
普寂は姓は馮氏、蒲州河東の人なり。年少の時遍く高僧を尋ね、以て経律を学ぶ。時に神秀は荊州玉泉寺に在り、普寂は乃ち往きて師事し、凡そ六年、神秀之を奇とし、尽く其の道を以て之に授く。久視中、則天神秀を召して東都に至らしむ、神秀因りて普寂を薦む、乃ち度して僧と為す。神秀の卒するに及び、天下釈氏を好む者咸く之に師事す。中宗其の高年を聞き、特ちに制を下して普寂に令し神秀に代わりて其の法衆を統べしむ。
義福は姓は姜氏、潞州銅鞮の人なり。初め藍田の化感寺に止まり、方丈の室に処し、凡そ二十余年、未だ宇の外に出でず。後に京城の慈恩寺に隷す。開元十一年、駕に従いて東都に往く。蒲・虢の二州を経過するに、刺史及び官吏士女、皆幡花を齎してこれを迎え、所在の途路充塞す。二十年をもって卒す。制有りて号を「大智禅師」と賜う。伊闕の北に葬る。送葬する者数万人。中書侍郎厳挺之これがために碑文を制す。
神秀は禅門の傑なり。禅行有りと雖も、帝王のこれを重んずるを得たりと雖も、未だ徒を聚め堂を開き法を伝えず。弟子普寂に至りて、始めて都城に教を伝え、二十余年、人皆これを仰ぐ。
僧一行
僧一行、姓は張氏、先ず名は遂、魏州昌楽の人、襄州都督・郯国公公謹の孫なり。父は擅、武功の令。
一行は少にして聡敏、経史を博覧し、特に暦象・陰陽・五行の学に精し。時に道士尹崇は博学の先達、素より墳籍多し。一行崇に詣で、揚雄の『太玄経』を借り、将に帰りてこれを読まんとす。数日にして、復た崇に詣で、その書を還す。崇曰く、「この書は意指稍深し、吾これを尋ねること積年、尚お能く暁らず、吾子試みに更に研求せよ、何ぞ遽に見還すや」と。一行曰く、「その義を究めたり」と。因りて撰する所の『大衍玄図』及び『義決』一卷を出して崇に示す。崇大いに驚き、因りて一行とその奥賾を談じ、甚だ嗟伏す。人に謂いて曰く、「この後生は顔子なり」と。一行はこれによりて大いに知名となる。武三思その学行を慕い、就いて請いこれと結交せんとす。一行は逃匿してこれを避く。尋いで出家して僧と為り、嵩山に隠れ、沙門普寂に師事す。睿宗即位し、勅して東都留守韋安石に礼を以て征せしむ。一行は固く疾を以て辞し、命に応ぜず。後に歩いて荊州の当陽山に往き、沙門悟真に依りて梵律を習う。
開元五年、玄宗その族叔の礼部郎中洽に勅書を齎し荊州に就き強いてこれを起すことを命ず。一行京師に至り、光太殿に置く。数たびこれに就き、安国撫人の道を訪う。言皆切直にして、隠す所有ること無し。開元十年、永穆公主出降す。勅して有司に優厚に発遣せしめ、太平公主の故事に依らしむ。一行以為く、高宗の末年、唯だ一女有るのみ、故に特にその礼を加う。又太平は驕僭にして、竟に以て罪を得たり、例として引くべからずと。上その言を納れ、遽かに勅を追いて行わず、但だ常礼に依る。その諫諍皆この類なり。
一行は特に著述に明らかにし、『大衍論』三卷、『摂調伏蔵』十卷、『天一太一経』及び『太一局遁甲経』、『釈氏系録』各一卷を撰す。時に『麟徳歴経』は推歩漸く疎なり。勅して一行に前代諸家の暦法を考へしめ、新暦を改撰せしむ。又た率府長史梁令瓚等に命じ工人とともに黄道游儀を創造し、以て七曜の行度を考へ、互いに証明せしむ。ここにおいて一行『周易』大衍の数を推し、衍を立ててこれに応じ、『開元大衍歴経』を改撰す。十五年に至り卒す。年四十五。諡を「大慧禅師」と賜う。
初め、一行の従祖東台舎人太素、『後魏書』一百卷を撰す。その『天文志』未だ成らず。一行これを継ぎて成す。上は一行のために碑文を制し、親しく石に書し、内庫の銭五十万を出し、銅人の原に塔を起す。明年、温湯に幸し、その塔前を過ぎ、又た騎を駐めて徘徊し、品官に命じて塔に就きその出豫の意を告げしむ。更に絹五十匹を賜い、以て塔前の松柏を蒔かしむ。
初め、一行師資を求訪し、以て大衍を窮めんとし、天臺山国清寺に至る。一院を見るに、古松十数本、門に流水有り。一行門屏の間に立ち、院僧の庭に於いて算を布く声を聞く。而してその徒に謂いて曰く、「今日当に弟子有りて遠く自り来たり吾が算法を求め演ぜんとす。已に門に到るに合す。豈に人無くして導達せざらんや」と。即ち一算を除く。又た謂いて曰く、「門前の水当に却って西に流るべし。弟子亦た至らん」と。一行その言を承けて趨り入り、稽首して法を請い、尽くその術を受く。而して門前の水果たして却って西に流る。道士邢和璞嘗て尹愔に謂いて曰く、「一行は其れ聖人か。漢の洛下閎曆を造りて云う、『後八百歳当に一日を差すべし、必ず聖人有りてこれを正さん』と。今年期畢れり。而して一行『大衍』を造りてその差謬を正す。則ち洛下閎の言、信なり。聖人に非ずして何ぞや」と。
泓師 附
時に又た黄州の僧泓有り。葬法に善し。毎に山原を行視し、即ちこれがために図を為す。張説深くこれを信重す。
桑道茂
桑道茂は、大曆中京師に游び、太一遁甲五行災異の説に善く、事を言うに中らざること無し。代宗これを禁中に召し、翰林に待詔す。建中初、神策軍奉天城を修す。道茂その垣牆を高くし、大いに制度せんことを請う。徳宗これを省みず。及び朱泚の乱、帝蒼卒に出幸し、奉天に至り、方に道茂の言を思う。時に道茂は已に卒す。命じてこれを祭る。
【贊】
賛に曰く、術数の精は、事必ず前に知る。粲として垂象の如く、変を告げて疑い無し。怪誕の夫、蓍亀を誣罔す。彼の庸妄を致して、時に艱危なるを幸う。