舊唐書

巻191

巻191

舊唐書

原文舊唐書

卷一百九十一

原文卷一百九十一

卷一百九十一 列傳第一百四十一 方伎

原文卷一百九十一 列傳第一百四十一 方伎

巻一百九十一 列傳第一百四十一 方伎

原文卷一百九十一 列傳第一百四十一 方伎

術数占相の法は、陰陽家の流れより出づ。劉向が『洪範』の言を演じ、京房が焦贛の法を伝えてより、気を望み祲を視て災異の来るを懸かに知り、策を運び蓍を揲て吉凶の会を預め定むる者、莫からず。固より已に魯史に詳かにし、彼の『周官』に載す。其の弊れる者は業を肄むる精ならず、非に順ひ偽を行ひ、而して庸人は徳義を修めず、妄りに遭逢を冀ふ。魏豹の薄姫を納るるが如く、孫皓の青蓋を邀ふるが如く、王莽は式に随ひて坐を移し、劉歆は讖を聞きて名を改む。近くは綦連耀の異端を構へ、蘇玄明の宮禁を犯すは、皆占候に因りて、此の奸凶を輔く。聖王星緯の書を禁ずるは、良に以て有り。国史に袁天綱の武后を前に知るを載すは、恐らくは格言に匪ず、而して李淳風方伎の書を刪し、備はりて其の要を言ふ。旧本は崔善為以下を録す、此れ其の術に深き者なり、兼ねて桑門道士方伎等を、並びに此の篇に附す。

原文夫術數占相之法,出於陰陽家流。自劉向演《洪範》之言,京房傳焦贛之法,莫不望氣視祲,懸知災異之來;運策揲蓍,預定吉凶之會。固已詳于魯史,載彼《周官》。其弊者肄業非精,順非行偽,而庸人不修德義,妄冀遭逢。如魏豹之納薄姬,孫皓之邀青蓋,王莽隨式而移坐,劉歆聞讖而改名。近者綦連耀之構異端,蘇玄明之犯宮禁,皆因占候,輔此奸凶。聖王禁星緯之書,良有以也。國史載袁天綱前知武后,恐匪格言,而李淳風刪方伎書,備言其要。舊本錄崔善為已下,此深於其術者,兼桑門道士方伎等,並附此篇。

崔善為

原文崔善為

崔善為は、貝州武城の人なり。祖は顒、後魏の員外散騎侍郎。父は権会、斉の丞相府参軍事。善為は学を好み、兼ねて天文算暦に善くし、時務に明達せり。弱冠にして州に挙げられ、文林郎を授かる。隋の文帝仁寿宮を営むに属し、善為は丁匠五百人を領す。右僕射楊素は総監たり、巡りて善為の所に至り、簿を索めて人を点ずるに、善為は手に簿を持ちて暗に之を唱ふ、五百人一も差失無し、素大いに驚く。此れより四方の疑獄有れば、多く善為をして推按せしむ、理を尽くして妙ならざる無し。

原文崔善為,貝州武城人也。祖顒,後魏員外散騎侍郎。父權會,齊丞相府參軍事。善為好學,兼善天文算曆,明達時務。弱冠州舉,授文林郎。屬隋文帝營仁壽宮,善為領丁匠五百人。右僕射楊素為總監,巡至善為之所,索簿點人,善為手持簿暗唱之,五百人一無差失,素大驚。自是有四方疑獄,多使善為推按,無不妙盡其理。

仁寿中、稍く楼煩郡司戸書佐に遷る。高祖こうそ其の時太守たり、甚だ礼遇す。善為は隋の政傾頹するを以て、乃ち密かに進むを勧め、高祖深く之を納る。義旗建つや、引きて大將軍府司戸参軍と為し、清河県公に封ぜらる。武德中、内史舎人・尚書左丞を歴たり、甚だ誉れを得たり。諸曹の令史其の聡察を悪み、其の身短くして傴るるに因り、之を嘲りて曰く「崔子曲くして鉤を知り、例に随ひて封侯を得たり。髆の上全く項無く、胸前別に頭有り」と。高祖之を聞き、労めて勉めて曰く「澆薄の人は、正を醜しめ直を悪む。昔斉の末奸吏斛律明月を歌ひ、而して高緯愚暗にして、遂に其の家を滅ぼせり。朕徳無きと雖も、幸ひに斯の事を免れむ」と。因りて流言する者を購ひ、使はして其の罪を加へしむ。時に傅仁均の撰する所の『戊寅元暦』、議する者紛然たり、多く同異有り、李淳風又其の短を駁すこと十有八条。高祖善為に令し二家の得失を考校せしむ、多く駁正有り。

原文仁壽中,稍遷樓煩郡司戶書佐。高祖時為太守,甚禮遇之。善為以隋政傾頹,乃密勸進,高祖深納之。義旗建,引為大將軍府司戶參軍,封清河縣公。武德中,曆內史舍人、尚書左丞,甚得譽。諸曹令史惡其聰察,因其身短而傴,嘲之曰:「崔子曲知鉤,隨例得封侯。髆上全無項,胸前別有頭。」高祖聞之,勞勉之曰:「澆薄之人,醜正惡直。昔齊末奸吏歌斛律明月,而高緯愚暗,遂滅其家。朕雖不德,倖免斯事。」因購流言者,使加其罪。時傅仁均所撰《戊寅元曆》,議者紛然,多有同異,李淳風又駁其短十有八條。高祖令善為考校二家得失,多有駁正。

貞観初、陝州刺史を拝す。時に朝廷議を立て、戸殷なる処は、寛郷に徙るを得とす。善為表を上りて称して「畿内の地は、是れ戸殷と謂ふ、丁壮の人は、悉く軍府に入る。若し移転を聴かば、便ち関外に出づ。此れは近きを虚しくし遠きを実くす、経通の議に非ず」と。其の事乃ち止む。後に大理・司農二卿を歴たり、名は職に称すと為す。少卿と協はざるに坐し、出でて秦州刺史と為り、卒す。刑部尚書を贈らる。

原文貞觀初,拜陝州刺史。時朝廷立議,戶殷之處,得徙寬鄉。善為上表稱:「畿內之地,是謂戶殷,丁壯之人,悉入軍府。若聽移轉,便出關外。此則虛近實遠,非經通之議。」其事乃止。後曆大理、司農二卿,名為稱職。坐與少卿不協,出為秦州刺史,卒,贈刑部尚書。

薛頤

原文薛頤

薛頤は、滑州の人なり。大業中、道士と為る。天文律暦を解し、尤も雑占に暁る。煬帝内道場に引入れ、亟に章醮を令す。武德初、追ひて秦府に直す。頤嘗て密かに秦王に謂ひて曰く「徳星秦分を守る、王まさに天下有るべし、願はくは王自ら愛せよ」と。秦王乃ち奏して太史丞を授け、累ねて太史令に遷る。貞観中、太宗将に泰山に封禅せんとす、彗星見ゆ。頤因りて言ふ「諸の玄象を考ふるに、恐らくは未だ東封すべからず」と。会に褚遂良も亦其の事を言ふ、是に於いて乃ち止む。

原文薛頤,滑州人也。大業中,為道士。解天文律曆,尤曉雜占。煬帝引入內道場,亟令章醮。武德初,追直秦府。頤嘗密謂秦王曰:「德星守秦分,王當有天下,願王自愛。」秦王乃奏授太史丞,累遷太史令。貞觀中,太宗將封禪泰山,有彗星見,頤因言「考諸玄象,恐未可東封」。會褚遂良亦言其事,於是乃止。

頤後に表を上りて道士と為らんことを請ふ、太宗為に紫府観を九秬山に置き、頤に中大夫を拝し、紫府観主事を行はしむ。又勅して観中に一の清台を建て、玄象を候ひ、災祥薄蝕謫見等の事有れば、状に随ひて聞奏せしむ。前後に奏する所、京台の李淳風と多く相符契す。後数歳にして卒す。

原文頤後上表請為道士,太宗為置紫府觀於九秬山,拜頤中大夫,行紫府觀主事。又敕於觀中建一清台,候玄象,有災祥薄蝕謫見等事,隨狀聞奏。前後所奏,與京台李淳風多相符契。後數歲卒。

甄権

原文甄權

甄権は、許州扶溝の人なり。嘗て母の病を以て、弟立言と専ら医方を為し、其の旨趣を得たり。隋の開皇初、秘書省正字と為り、後疾と称して免ぜらる。隋の魯州刺史庫狄鏚風患に苦しみ、手弓を引くを得ず、諸医療する能はざるも、権謂ひて曰く「但だ弓箭を将て垛に向はば、一針にて射ることを得べし」と。其の肩隅一穴を針す、時に応じて即ち射る。権の疾を療するや、多く此の類なり。

原文甄權,許州扶溝人也。嘗以母病,與弟立言專醫方,得其旨趣。隋開皇初,為秘書省正字,後稱疾免。隋魯州刺史庫狄鏚苦風患,手不得引弓,諸醫莫能療。權謂曰:「但將弓箭向垛,一針可以射矣。」針其肩隅一穴,應時即射。權之療疾,多此類也。

貞観十七年、権年一百三歳、太宗其の家に幸し、其の飲食を視、薬性を以て訪ひ、因りて朝散大夫を授け、几杖衣服を賜ふ。其の年卒す。『脈経』・『針方』・『明堂人形図』各一卷を撰す。

原文貞觀十七年,權年一百三歲,太宗幸其家,視其飲食,訪以藥性,因授朝散大夫,賜几杖衣服。其年卒。撰《脈經》、《針方》、《明堂人形圖》各一卷。

弟 立言

原文弟 立言

弟立言、武德中累ねて太常丞に遷る。御史大夫杜淹風毒を患ひ腫を発す、太宗立言に令し之を視しむ。既にして奏して曰く「今より更に十一日午時にして必ず死す」と。果たして其の言の如し。時に尼明律有り、年六十余、心腹鼓脹を患ひ、身体嬴痩す、已に二年を経たり。立言脈を診して曰く「其の腹内に虫有り、当に誤りて発を食ひて之を為す耳」と。因りて雄黄を服せしむ、須臾にして一の蛇を吐く、人手の小指の如く、唯眼無し、之を焼くに、猶発の気有り、其の疾乃ち愈ゆ。立言尋で卒す。『本草音義』七巻、『古今録験方』五十巻を撰す。

原文弟立言,武德中累遷太常丞。御史大夫杜淹患風毒發腫,太宗令立言視之。既而奏曰:「從今更十一日午時必死。」果如其言。時有尼明律,年六十余,患心腹鼓脹,身體嬴瘦,已經二年。立言診脈曰:「其腹內有蟲,當是誤食發為之耳。」因令服雄黃,須臾吐一蛇,如人手小指,唯無眼,燒之,猶有發氣,其疾乃愈。立言尋卒。撰《本草音義》七卷,《古今錄驗方》五十卷。

宋俠

原文宋俠

宋俠は、洺州清漳の人であり、北斉の東平王文学宋孝正の子である。また医術をもって著名であった。官は朝散大夫・薬蔵監に至る。『経心録』十巻を撰し、世に行われる。

原文宋俠者,洺州清漳人,北齊東平王文學孝正之子也。亦以醫術著名。官至朝散大夫、藥藏監。撰《經心錄》十卷,行於代。

許胤宗

原文許胤宗

許胤宗は、常州義興の人である。初め陳に仕え、新蔡王外兵参軍となった。時に柳太后が中風を病み言葉を発せず、名医が治療しても皆癒えず、脈はますます沈んで口を閉ざした。胤宗は言う、「口からは薬を下せない。湯気で蒸すのがよい。薬を腠理に入れさせ、全身に行き渡れば即ち癒えるであろう」と。そこで黄蓍防風湯を数十斛造り、床下に置くと、気は煙霧の如く立ち、その夜に言葉を発することができた。これにより越階して義興太守に任ぜられた。陳が滅びて隋に入り、尚薬奉御を歴任した。武徳初年、累ねて散騎侍郎を授けられた。

原文許胤宗,常州義興人也。初事陳,為新蔡王外兵參軍。時柳太后病風不言,名醫治皆不愈,脈益沉而噤。胤宗曰:「口不可下藥,宜以湯氣薰之。令藥入腠理,周理即差。」乃造黃蓍防風湯數十斛,置於床下,氣如煙霧,其夜便得語。由是超拜義興太守。陳亡入隋,曆尚藥奉禦。武德初,累授散騎侍郎。

時に関中には骨蒸病が多く、罹れば必ず死に、次々と伝染し、諸医は治療する能がなかった。胤宗が治療するごとに、癒えざるはなかった。ある人が言う、「公の医術は神の如し、何ぞ書を著して将来に伝えないのか」と。胤宗は言う、「医は意なり、人の思慮に在り。また脈候は幽微にして、その区別の難きを苦しむ。意に解するところは、口に宣べる能わず。かつ古の名手は、ただ脈を別つに在り。脈を精しく別てたる後、病を識る。病と薬との関係には、正しく相当するものがあり、ただ単に一味を用いて、直ちにその病を攻むるを須い、薬力純なれば、病は即ち立ちどころに癒ゆ。今の人は脈を別つ能わず、病源を識らず、情をもって臆測し、多く薬味を安んずる。狩猟に譬えれば、兔の在り処を知らず、多く人馬を発し、空き地を遮り囲み、あるいは一人の偶然の遭遇を冀うが如し。かくの如く疾を療するは、また疎ならずや。仮令一薬偶然に病に当たるとも、また他の味と相和し、君臣相制して、気勢行わず、癒え難き所以は、誠にこれに由る。脈の深趣は、既に言うべからず、虚しく経方を設けても、旧に加えることあらんや。吾はこれを久しく思う、故に著述する能わざるのみ」と。九十余歳で卒した。

原文時關中多骨蒸病,得之必死,遞相連染,諸醫無能療者。胤宗每療,無不愈。或謂曰:「公醫術若神,何不著書以貽將來?」胤宗曰:「醫者,意也,在人思慮。又脈候幽微,苦其難別,意之所解,口莫能宣。且古之名手,唯是別脈;脈既精別,然後識病。夫病之於藥,有正相當者,唯須單用一味,直攻彼病,藥力既純,病即立愈。今人不能別脈,莫識病源,以情臆度,多安藥味。譬之於獵,未知兔所,多發人馬,空地遮圍,或冀一人偶然逢也。如此療疾,不亦疏乎!假令一藥偶然當病,復共他味相和,君臣相制,氣勢不行,所以難差,諒由於此。脈之深趣,既不可言,虛設經方,豈加於舊。吾思之久矣,故不能著述耳!」年九十餘卒。

乙弗弘禮

原文乙弗弘禮

乙弗弘禮は、貝州高唐の人である。隋の煬帝が藩王たる時、召して己を相せしめた。弘禮は跪いて賀し言う、「大王の骨法は尋常ならず、必ず万乗の主とならん。誠に願わくは得ることにおいて戒められよ」と。煬帝即位後、天下の道術人を召し、坊を置いて居住させ、仍って弘礼に統摂せしめた。帝は海内漸く乱れ、玄象錯謬するを見て、内に憂恐を懐き、嘗て弘礼に謂いて言う、「卿昔朕を相し、その言既に験あり。且つ占相道術については、朕頗る自ら知る。卿更に朕を相せよ、終いには如何にならん」と。弘礼は逡巡して敢えて答えず。帝は迫って言う、「卿の言は朕の術と同からず、罪死に当たるべし」と。弘礼は言う、「臣元より相書を観るに、凡人の相で、陛下に類する者は、善終を得ず。臣聞く、聖人は相せず、故に凡聖の同じからざるを知るのみ」と。これより帝は嘗て使者を遣わして監視せしめ、人と交言することを得させなかった。

原文乙弗弘禮,貝州高唐人也。隋煬帝居籓,召令相己。弘禮跪而賀曰:「大王骨法非常,必為萬乘之主,誠願戒之在得。」煬帝即位,召天下道術人,置坊以居之,仍令弘禮統攝。帝見海內漸亂,玄象錯謬,內懷憂恐,嘗謂弘禮曰:「卿昔相朕,其言已驗。且占相道術,朕頗自知。卿更相朕,終當何如?」弘禮逡巡不敢答。帝迫曰:「卿言與朕術不同,罪當死。」弘禮曰:「臣本觀相書,凡人之相,有類于陛下者,不得善終。臣聞聖人不相,故知凡聖不同耳。」自是帝嘗遣使監之,不得與人交言。

初め、泗州刺史薛大鼎は隋の時に嘗て事に坐して奴に没せられた。貞観初年、数人と共に弘礼を訪ね、大鼎の番が至ると、弘礼は言う、「君は奴なり、何を相せんとするか」と。皆が言う、「何をもってこれを知るか」と。弘礼は言う、「その頭目を観るに、直ちに賤人なり。但だ余りの処が如何なるかを知らぬのみ」と。大鼎は慚色あり、乃ち衣を解いて視せると、弘礼は言う、「君の面を見るに、前言と異ならず。君の腰より以下を占うに、方岳の任に当たるべし」と。その占相は皆この類いであった。貞観末年に卒した。

原文初,泗州刺史薛大鼎隋時嘗坐事沒為奴,貞觀初,與數人詣之,大鼎次至,弘禮曰:「君奴也,欲何所相?」咸曰:「何以知之?」弘禮曰:「觀其頭目,直是賤人,但不知餘處何如耳?」大鼎有慚色,乃解衣視之,弘禮曰:「看君面,不異前言。占君自腰已下,當為方岳之任。」其占相皆此類也。貞觀末卒。

袁天綱

原文袁天綱

袁天綱は、益州成都の人である。特に相術に巧みであった。隋の大業年中、資官令となった。武徳初年、蜀しょく道使詹俊が赤牒をもって火井令を授けた。初め、天綱は大業元年に洛陽らくように至った。時に杜淹・王珪・韋挺が就いて相を求めた。天綱は杜淹に謂いて言う、「公は蘭台成就し、学堂寛博、必ず親しく糾察の官を得、文藻をもって知られん」と。王に謂いて言う、「公は三亭成就し、天地相臨す。今より十年以外、必ず五品の要職を得ん」と。韋に謂いて言う、「公の面は大獣の面に似て、交友極めて誠なり。必ず士友の携接を得、初め武職とならん」と。また杜淹らに謂いて「二十年以外、終いに三賢同じく責め黜せられるを恐る。暫く去りて即ち還る」と。杜淹は尋ねて侍御史に遷り、武徳年中に天策府兵曹・文学館学士となった。王珪は太子中允となった。韋挺は、隋末に隠太子と善くし、後、太子は率に引きいれた。武徳六年に至り、俱に巂州に配流された。杜淹らが益州に至り、天綱に会って言う、「袁公の洛邑の言は、則ち信ずる。未だ今日以後の如何なるかを知らず」と。天綱は言う、「公らの骨法は、往時に大いに勝り、終いに俱に栄貴を受くべし」と。九年に至り、召されて京に入り、共に天綱を訪ねた。天綱は杜公に謂いて言う、「即ち三品の要職を得べし。年寿は天綱の知るところに非ず。王・韋二公は、後に当に三品官を得べし。兼ねて年寿有り。然れども晩途皆称愜せず。韋公は特に甚だし」と。杜淹は京に至り、御史大夫・検校吏部尚書を拝した。王珪は尋ねて侍中を授かり、出て同州刺史となった。韋挺は御史大夫・太常卿を歴任し、象州刺史に貶せられた。皆天綱の言の如しであった。

原文袁天綱,益州成都人也。尤工相術。隋大業中,為資官令。武德初,蜀道使詹俊赤牒授火井令。初,天綱以大業元年至洛陽。時杜淹、王珪、韋挺就之相。天綱謂淹曰:「公蘭台成就,學堂寬博,必得親糾察之官,以文藻見知。」謂王曰:「公三亭成就,天地相臨,從今十年已外,必得五品要職。」謂韋曰:「公面似大獸之面,交友極誠,必得士友攜接,初為武職。」復謂淹等「二十年外,終恐三賢同被責黜,暫去即還。」淹尋遷侍御史,武德中為天策府兵曹、文學館學士。王珪為太子中允。韋挺,隋末與隱太子友善,後太子引以為率。至武德六年,俱配流巂州。淹等至益州,見天綱曰:「袁公洛邑之言,則信矣。未知今日之後何如?」天綱曰:「公等骨法,大勝往時,終當俱受榮貴。」至九年,被召入京,共造天綱。天綱謂杜公曰:「即當得三品要職,年壽非天綱所知。王、韋二公,在後當得三品官,兼有年壽,然晚途皆不稱愜,韋公尤甚。」淹至京,拜御史大夫、檢校吏部尚書。王珪尋授侍中,出為同州刺史。韋挺曆御史大夫、太常卿,貶象州刺史。皆如天綱之言。

大業末年、竇軌が徳陽に客遊し、嘗て天綱に問うた。天綱は謂いて言う、「君の額上の伏犀玉枕に貫き、輔角また成る。必ず梁・益州において大いに功業を樹てん」と。武徳初年、竇軌は益州行台僕射となり、天綱を引きいれ、深く礼した。天綱はまた竇軌に謂いて言う、「骨法成就し、往時の言に異ならず。然れども目の気に赤脈瞳子を貫き、語れば則ち赤気面に浮ぶ。将軍となるも、多く人を殺すを恐る。深く自ら誡慎せんことを願う」と。武徳九年、竇軌は事に坐して征され、将に京に赴かんとして、天綱に謂いて言う、「更に何の官を得ん」と。曰く、「面上の家人坐未だ動きを見ず。輔角右畔光沢あり、更に喜色有り。京に至れば必ず恩を受け、還り来てこの任に就かん」と。その年果たして重ねて益州都督ととくを授けられた。

原文大業末,竇軌客游德陽,嘗問天綱。天綱謂曰:「君額上伏犀貫玉枕,輔角又成、必于梁、益州大樹功業。」武德初,軌為益州行台僕射,引天綱,深禮之。天綱又謂軌曰:「骨法成就,不異往時之言。然目氣赤脈貫瞳子,語則赤氣浮面。如為將軍,恐多殺人。願深自誡慎。」武德九年,軌坐事被征,將赴京,謂天綱曰:「更得何官?」曰:「面上家人坐仍未見動,輔角右畔光澤,更有喜色,至京必承恩,還來此任。」其年果重授益州都督。

則天武后が初めて襁褓に在る時、天綱がその邸中に来て、その母に謂いて言う、「唯夫人の骨法、必ず貴子を生む」と。乃ち諸子を召し、天綱に相せしめた。元慶・元爽を見て言う、「この二子は皆家を保つ主、官は三品に至るべし」と。韓国夫人を見て言う、「この女もまた大いに貴し。然れどもその夫に利あらず」と。乳母が時に則天を抱き、男子の服を着せていた。天綱は言う、「この郎君子は神色爽徹、容易に知り難し。試みに歩かせて見よ」と。ここに於て床前を歩ませ、仍って目を挙げさせると、天綱は大いに驚き言う、「この郎君子は龍睛鳳頸、貴人の極みなり」と。更に転側して視ると、また驚き言う、「必ずもし女ならば、実に窺測すべからず、後当に天下の主とならん」と。

原文則天初在繈褓,天綱來至第中,謂其母曰:「唯夫人骨法,必生貴子。」乃召諸子,令天綱相之。見元慶、元爽曰:「此二子皆保家之主,官可至三品。」見韓國夫人曰:「此女亦大貴,然不利其夫。」乳母時抱則天,衣男子之服,天綱曰:「此郎君子神色爽徹,不可易知,試令行看。」於是步於床前,仍令舉目,天綱大驚曰:「此郎君子龍睛鳳頸,貴人之極也。」更轉側視之,又驚曰:「必若是女,實不可窺測,後當為天下之主矣!」

貞観八年、太宗はその名を聞き、召して九成宮に至らしめた。時に中書舎人岑文本がこれを見させた。天綱曰く、「舎人は学問の素養が成り、眉が目を覆い、文才は海内に振るい、頭にはまた骨が生じているが、未だ大成せず、もし三品を得れば、恐らくは寿命を損なう徴候であろう」と。文本は官中書令に至り、まもなく卒した。その年、侍御史張行成・馬周がともに天綱に問うた。天綱曰く、「馬侍御は伏犀が脳を貫き、兼ねて玉枕を有し、また背は物を負うが如く、富貴は言うべからざるものがある。近古以来、君臣の道が合うことは、公の如きは稀である。公は面色赤く、命門の色暗く、耳後の骨起たず、耳に根なし、ただ寿命に非ざることを恐れるのみ」と。周は後に位中書令・兼吏部尚書に至り、年四十八で卒した。行成に謂いて曰く、「公は五嶽四瀆が成り、下亭豊満にして、官を得るは遅しと雖も、終に宰輔の地位に居る」と。行成は後に尚書右僕射に至った。天綱が人相を見て当たることは、皆この類いである。申国公高士廉嘗て謂いて曰く、「君は更に何の官とならんとするか」と。天綱曰く、「自ら相命を知る、今年四月に尽きん」と。果たしてこの月に至って卒した。

原文貞觀八年,太宗聞其名,召至九成宮。時中書舍人岑文本令視之。天綱曰:「舍人學堂成就,眉覆過目,文才振於海內,頭又生骨,猶未大成,若得三品,恐是損壽之征。」文本官至中書令,尋卒。其年,侍御史張行成、馬周同問天綱,天綱曰:「馬侍御伏犀貫腦,兼有玉枕,又背如負物,當富貴不可言。近古已來,君臣道合,罕有如公者。公面色赤,命門色暗,耳後骨不起,耳無根,只恐非壽者。」周後位至中書令、兼吏部尚書,年四十八卒。謂行成曰:「公五嶽四瀆成就,下亭豐滿,得官雖晚,終居宰輔之地。」行成後至尚書右僕射。天綱相人所中,皆此類也。申國公高士廉嘗謂曰:「君更作何官?」天綱曰:「自知相命,今年四月盡矣。」果至是月而卒。

孫思邈

原文孫思邈

孫思邈は、京兆華原の人である。七歳で学に就き、日に千余言を誦した。弱冠にして、荘子・老子及び百家の説を談ずるに善く、兼ねて釈典を好んだ。洛州総管獨孤信これを見て歎じて曰く、「これは聖童である。ただその器の大ききを恨む、用いるに難し」と。周の宣帝の時、思邈は王室に多事あるを以て、太白山に隠居した。隋の文帝が政を輔けるに及び、征して国子博士と為さんとしたが、疾いと称して起たず。嘗て親しい者に謂いて曰く、「五十年を過ぎて、聖人の出ずる有らん、吾方に之を助けて人を済わん」と。太宗が即位するに及び、召して京師に詣らしめ、その容色の甚だ少いを嗟き、謂いて曰く、「故に有道の者は誠に尊重すべきを知る、羨門・広成、豈に虚言ならんや」と。将に爵位を授けんとしたが、固く辞して受けず。顕慶四年、高宗召見し、諫議大夫に拝せんとしたが、また固く辞して受けず。

原文孫思邈,京兆華原人也。七歲就學,日誦千餘言。弱冠,善談莊、老及百家之說,兼好釋典。洛州總管獨孤信見而歎曰:「此聖童也。但恨其器大,難為用也。」周宣帝時,思邈以王室多故,隱居太白山。隋文帝輔政,征為國子博士,稱疾不起。嘗謂所親曰:「過五十年,當有聖人出,吾方助之以濟人。」及太宗即位,召詣京師,嗟其容色甚少,謂曰:「故知有道者誠可尊重,羨門、廣成,豈虛言哉!」將授以爵位,固辭不受。顯慶四年,高宗召見,拜諫議大夫,又固辭不受。

上元元年、疾を辞して帰るを請い、特に良馬を賜い、及び鄱陽公主の邑司を以て居らしめた。当時知名の士宋令文・孟詵・盧照鄰等、師資の礼を執りて以てこれに事えた。思邈嘗て九成宮に従幸し、照鄰はその宅に留まった。時に庭前に病める梨樹有り、照鄰これが為に賦し、その序に曰く、「癸酉の歳、余長安ちょうあん光徳坊の官舎に臥疾す。父老云う、『これ鄱陽公主の邑司なり。昔公主嫁せずして卒せり、故にその邑廃す』と。時に孫思邈処士これに居る。邈の道は古今に合し、学は数術を殫くす。正一を高談すれば、則ち古の蒙荘子なり;不二に深入すれば、則ち今の維摩詰なり。その推歩甲乙し、乾坤を度量すれば、則ち洛下閎・安期先生の儔なり」と。照鄰は悪疾有り、医の愈やす能わざる所、乃ち思邈に問うて曰く、「名医疾を愈やす、その道如何」と。思邈曰く、

原文上元元年,辭疾請歸,特賜良馬,及鄱陽公主邑司以居焉。當時知名之士宋令文、孟詵、盧照鄰等,執師資之禮以事焉。思邈嘗從幸九成宮,照鄰留在其宅。時庭前有病梨樹,照鄰為之賦,其序曰:「癸酉之歲,余臥疾長安光德坊之官舍。父老云:'是鄱陽公主邑司。昔公主未嫁而卒,故其邑廢。'時有孫思邈處士居之。邈道合古今,學殫數術。高談正一,則古之蒙莊子;深入不二,則今之維摩詰。其推步甲乙,度量乾坤,則洛下閎、安期先生之儔也。」照鄰有惡疾,醫所不能愈,乃問思邈:「名醫愈疾,其道何如?」思邈曰:

吾れ善く天を言う者は、必ずこれを人に質し、善く人を言う者は、亦これを天に本づくを聞く。天には四時五行有り、寒暑代わり迭り、その転運するや、和して雨と為り、怒って風と為り、凝って霜雪と為り、張って虹蜺と為る、これ天地の常数なり。人には四肢五臓有り、一覚一寝、呼吸吐納、精気往来し、流れて栄衛と為り、彰れて気色と為り、発して音声と為る、これ人の常数なり。陽はその形を用い、陰はその精を用う、天人同じくする所なり。その失するに及びては、蒸すれば則ち熱を生じ、否すれば則ち寒を生じ、結して瘤贅と為り、陥って癰疽と為り、奔って喘乏と為り、竭きて焦枯と為り、診は面に発し、変動は形に顕わる。これを推して天地に及ぼすも亦の如し。故に五緯盈縮し、星辰錯行し、日月薄蝕し、孛彗飛流す、これ天地の危診なり。寒暑時ならず、これ天地の蒸否なり;石立ち土踊る、これ天地の瘤贅なり;山崩れ土陥る、これ天地の癰疽なり;奔風暴雨、これ天地の喘乏なり;川瀆竭き涸る、これ天地の焦枯なり、良医は薬石を以てこれを導き、針剤を以てこれを救い、聖人は至徳を以てこれを和し、人事を以てこれを輔く、故に形体には愈ゆべき疾有り、天地には消すべき災有り。

原文吾聞善言天者,必質之於人,善言人者,亦本之於天。天有四時五行,寒暑迭代,其轉運也,和而為雨,怒而為風,凝而為霜雪,張而為虹蜺,此天地之常數也。人有四支五藏,一覺一寢,呼吸吐納,精氣往來,流而為榮衛,彰而為氣色,發而為音聲,此人之常數也。陽用其形,陰用其精,天人之所同也。及其失也,蒸則生熱,否則生寒,結而為瘤贅,陷而為癰疽,奔而為喘乏,竭而為焦枯,診發乎面,變動乎形。推此以及天地亦如之。故五緯盈縮,星辰錯行,日月薄蝕,孛彗飛流,此天地之危診也。寒暑不時,天地之蒸否也;石立土踴,天地之瘤贅也;山崩土陷,天地之癰疽也;奔風暴雨,天地之喘乏也;川瀆竭涸,天地之焦枯也,良醫導之以藥石,救之以針劑,聖人和之以至德,輔之以人事,故形體有可愈之疾,天地有可消之災。

また曰く、

原文又曰:

胆は大ならんことを欲し、心は小ならんことを欲し、智は円ならんことを欲し、行いは方ならんことを欲す。『詩』に曰く、「深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し」とは、小心を謂うなり;「糾糾たる武夫、公侯の干城なり」とは、大胆を謂うなり。「利の為に回らず、義の為に疚まず」とは、行いの方なるなり;「機を見て作り、終日を俟たず」とは、智の円なるなり。

原文膽欲大而心欲小,智欲圓而行欲方。《詩》曰:「如臨深淵,如履薄冰」,謂小心也;「糾糾武夫,公侯干城」,謂大膽也。「不為利回,不為義疚」,行之方也;「見機而作,不俟終日」,智之圓也。

思邈自ら云う、開皇辛酉の歳に生まれ、今年に至って九十三と;これを郷里に詢ねれば、皆数百歳の人と云う。周・斉の間の事を話せば、歴歴として眼前に見るが如し。これを以て参ずれば、百歳の人に啻ならず。然れども猶視聴衰えず、神采甚だ茂り、古の聡明博達不死の者と謂うべし。

原文思邈自云開皇辛酉歲生,至今年九十三矣;詢之鄉里,咸云數百歲人。話周、齊間事,歷歷如眼見。以此參之,不啻百歲人矣。然猶視聽不衰,神采甚茂,可謂古之聰明博達不死者也。

初め、魏徴等詔を受けて斉・梁・陳・周・隋の五代史を修め、遺漏有らんことを恐れ、屡々これを訪うた。思邈口を以て伝授すること、目撃するが如し有り。東台侍郎孫処約その五子侹・儆・俊・佑・佺を将いて思邈に謁せしむ。思邈曰く、「俊は先ず貴ぶべく;佑は晩に達すべく;佺は最も名重く、禍は兵を執るに在り」と。後皆その言の如し。太子詹事盧斉卿童幼の時、人倫の事を請い問う。思邈曰く、「汝後五十年位方伯に登り、吾が孫当に属吏と為るべし、自ら保つべし」と。後斉卿徐州刺史と為り、思邈の孫溥果たして徐州蕭県丞と為る。思邈初め斉卿に謂うの時、溥未だ生まれずして、而してその事を予知す。凡そ諸の異跡、多くこの類いなり。

原文初,魏徵等受詔修齊、梁、陳、周、隋五代史,恐有遺漏,屢訪之,思邈口以傳授,有如目睹。東台侍郎孫處約將其五子侹、儆、俊、佑、佺以謁思邈,思邈曰:「俊當先貴;佑當晚達;佺最名重,禍在執兵。」後皆如其言。太子詹事盧齊卿童幼時,請問人倫之事,思邈曰:「汝後五十年位登方伯,吾孫當為屬吏,可自保也。」後齊卿為徐州刺史,思邈孫溥果為徐州蕭縣丞。思邈初謂齊卿之時,溥猶未生,而預知其事。凡諸異跡,多此類也。

永淳元年卒す。遺令して薄葬し、冥器を蔵さず、祭祀に牲牢無し。月余を経て、顔貌改まらず、屍を挙げて木に就くも、猶空衣の若く、時に人これを異とす。自ら『老子』・『荘子』を注し、『千金方』三十巻を撰し、代に行わる。また『福禄論』三巻、『摂生真録』及び『枕中素書』・『会三教論』各一巻を撰す。

原文永淳元年卒。遺令薄葬,不藏冥器,祭祀無牲牢。經月余,顏貌不改,舉屍就木,猶若空衣,時人異之。自注《老子》、《莊子》,撰《千金方》三十卷,行於代。又撰《福祿論》三卷,《攝生真錄》及《枕中素書》、《會三教論》各一卷。

子の行、天授中鳳閣侍郎と為る。

原文子行,天授中為鳳閣侍郎。

明崇儼

原文明崇儼

明崇儼は、洛州偃師の人である。その先祖は平原の士族、世々江左に仕う。父の恪、豫よ州刺史。崇儼年少の時、父に随い安喜県令の任にあり、父の小吏に鬼神を役使召喚するに善き者あり、崇儼その術を尽く伝える能し。乾封初め、封嶽の挙に応じ、黄安県丞を授かる。時に刺史に女病篤し、崇儼他方の殊物を致して以てこれを療せしむると、その疾乃ち愈ゆ。高宗その名を聞き、召して語らしむ。これを悦び、擢いて冀王府文学を授く。儀鳳二年、累遷して正諫大夫と為り、特に入閣供奉を命ず。崇儼毎に謁見に因り、輒ち神道を仮り、頗る時政の得失を陳べ、帝深く允納を加う。潤州棲霞寺は、その五代の祖梁の処士山賓の故宅なり、帝特為に碑文を制し、親しく石に書す、論者これを栄しとす。

原文明崇儼,洛州偃師人。其先平原士族,世仕江左。父恪,豫州刺史。崇儼年少時,隨父任安喜令,父之小吏有善役召鬼神者,崇儼盡能傳其術。乾封初,應封嶽舉,授黃安丞。會刺史有女病篤,崇儼致他方殊物以療之,其疾乃愈。高宗聞其名,召與語。悅之,擢授冀王府文學。儀鳳二年,累遷正諫大夫,特令入閣供奉。崇儼每因謁見,輒假以神道,頗陳時政得失,帝深加允納。潤州棲霞寺,是其五代祖梁處士山賓故宅,帝特為制碑文,親書于石,論者榮之。

四年、盗に殺さる。時に語る所、崇儼密かに天后と厭勝の法を為し、また私に章懐太子は大位を承継するに堪えずと奏す、太子密かにこれを知り、潜かに人をしてこれを害せしむと。優制を以て侍中を贈り、諡して荘と曰い、仍ってその子の珪を秘書郎に拝す。

原文四年,為盜所殺。時語以為崇儼密與天后為厭勝之法,又私奏章懷太子不堪承繼大位,太子密知之,潛使人害之。優制贈侍中,諡曰莊,仍拜其子珪為秘書郎。

珪、開元中仕えて懐州刺史に至る。

原文珪,開元中仕至懷州刺史。

張憬藏

原文張憬藏

張憬藏は許州長社の人である。若くして相術に巧みで、袁天綱と並び称された。太子詹事蔣儼が若い時、かつて憬藏に会い、禄命を問うた。憬藏は言った、「貴公は今から二年の後、東宮の兵を掌る官を得るであろうが、任期を終えずに免職となる。免職の後、厄は三尺の土の下にある。さらに六年を経て、これに拠れば死の徴に合うはずである。その後富貴を享け、名も位も共に盛んとなるが、即ちまた中に合わず、年六十一にして蒲州刺史となり、十月三十日午時に禄が絶える。」儼は後に皆その言う通りとなった。かつて高麗に使いとして奉じ、莫離支に捕らえられ地窖に囚われ、六年を経て、その後帰還した。蒲州に在った時、年六十一であった。期日に至り、人吏と妻子を召してこれに告別し、自ら死すべきと言った。間もなく勅があり、致仕を許された。

原文張憬藏,許州長社人。少工相術,與袁天綱齊名。太子詹事蔣儼年少時,嘗遇憬藏,因問祿命。憬藏曰:「公從今二年,當得東宮掌兵之官,秩未終而免職。免職之後,厄在三尺土下。又經六年,據此合是死征。然後當享富貴,名位俱盛,即又不合中,年至六十一,為蒲州刺史,十月三十日午時祿絕。」儼後皆如其言。嘗奉使高麗,被莫離支囚於地窖中,經六年,然後得歸。及在蒲州,年六十一矣,至期,召人吏妻子與之告別,自雲當死。俄而有敕,許令致仕。

左僕射劉仁軌が微賤の時、かつて郷人靖思賢と共にそれぞれ絹を携えて憬藏に贈り、官禄を問うた。憬藏は仁軌に言った、「貴公は五品の要官に居り、一時的に解黜されても、終に人臣の極位に至るであろう。」仁軌は後に給事中より事に坐し、白衣のまま海東に効力することを命ぜられた。固く思賢の贈りを辞して言った、「貴公は孤独のまま客死するであろう。」仁軌が僕射となった時、思賢はまだ存命で、人に言った、「張憬藏が劉僕射を相したのは、妙であった。我は今すでに三子があり、田宅も自ら如くである。どうしてその言いもまた中らぬことがあろうか。」間もなく三子が相次いで死に、田宅を全て売り払い、親しい者の園内に寄って死んだ。憬藏の相人の妙は、皆この類である。ついに仕えず、寿を全うして終わった。

原文左僕射劉仁軌微時,嘗與鄉人靖思賢各齎絹贈憬藏以問官祿。憬藏謂仁軌曰:「公居五品要官,雖暫解黜,終當位極人臣。」仁軌後自給事中坐事,令白衣向海東效力。固辭思賢之贈,曰:「公當孤獨客死。」及仁軌為僕射,思賢尚存,謂人曰:「張憬藏相劉僕射,則妙矣。吾今已有三子,田宅自如,豈其言亦有不中也?」俄而三子相繼而死,盡貨田宅,寄死於所親園內。憬藏相人之妙,皆此類。竟不仕,以壽終。

李嗣真

原文李嗣真

李嗣真は滑州匡城の人である。父は彦琮、趙州長史であった。嗣真は博学で音律に通暁し、陰陽推算の術を兼ねて善くした。弱冠で明経に挙げられ、許州司功に補せられた。時に左侍極賀蘭敏之が詔を受けて東台で修撰し、嗣真を弘文館に奏してその事に参預させた。嗣真は同時の学士劉献臣・徐昭と共に少俊と称され、館中で「三少」と号された。敏之は寵を恃んで驕盈となり、嗣真はその必ず敗れるを知り、親しい者に言った、「これは身を庇う所ではない。」咸亨年間に京中大饑饉があったため、出を求めて義烏令に補せられた。間もなく敏之が敗れ、修撰官は皆連坐して流放されたが、嗣真のみは預からなかった。調露年間、始平令となり、風化大いに行なわれた。時に章懐太子が春宮に居り、嗣真はかつて太清観で楽を奏し、道士劉概・輔儼に言った、「この曲は何と哀思不和の甚だしいことか。」概・儼は言った、「これは太子の作った『宝慶楽』です。」数日を経て、太子は廃されて庶人となった。概らはその事を聞奏し、高宗は大いにこれを奇とし、征して司礼丞に拝し、なお五礼儀注を掌り、中散大夫を加えられ、常山子に封ぜられた。

原文李嗣真,滑州匡城人也。父彥琮,趙州長史。嗣真博學曉音律,兼善陰陽推算之術。弱冠明經舉,補許州司功。時左侍極賀蘭敏之受詔于東台修撰,奏嗣真弘文館參預其事。嗣真與同時學士劉獻臣、徐昭俱稱少俊,館中號為「三少」。敏之既恃寵驕盈,嗣真知其必敗,謂所親曰:「此非庇身之所也。」因咸亨年京中大饑,乃求出,補義烏令。無何,敏之敗,修撰官皆連坐流放,嗣真獨不預焉。調露中,為始平令,風化大行。時章懷太子居春宮,嗣真嘗於太清觀奏樂,謂道士劉概、輔儼曰:「此曲何哀思不和之甚也?」概、儼曰:「此太子所作《寶慶樂》也。」居數日,太子廢為庶人。概等以其事聞奏,高宗大奇之,征拜司禮丞,仍掌五禮儀注,加中散大夫,封常山子。

永昌年間、右御史中丞に拝し、大夫の事を知った。時に酷吏来俊臣が無罪を構え陥れたため、嗣真は上書して諫めて言った、「臣は聞く、陳平が漢祖に事え、楚の君臣を謀り疏んじるに、乃ち黄金五万斤を用いて反間の術を行なった。項王は果たして臣下を疑い、陳平の反間は果たして行なわれた。今、告げ事紛紜として、虚多く実少ない。どうして必ず陳平の先に陛下の君臣を謀り疏んじ、後に国家の良善を謀り除く者が無いと知れようか。臣は社稷の禍となることを恐れる。伏して願わくは陛下、特に天慮を回らし、臣の狂瞽を察した上で、然る後に鼎鑊に退くも、実に恨む所無し。」疏を奏しても納れられず。間もなく俊臣に陥れられ、嶺南に配流された。

原文永昌中,拜右御史中丞,知大夫事。時酷吏來俊臣構陷無罪,嗣真上書諫曰:「臣聞陳平事漢祖,謀疏楚君臣,乃用黃金五萬斤,行反間之術。項王果疑臣下,陳平反間果行。今告事紛紜,虛多實少,焉知必無陳平先謀疏陛下君臣,後謀除國家良善,臣恐為社稷之禍!伏乞陛下特回天慮,察臣狂瞽,然後退就鼎鑊,實無所恨!」疏奏不納。尋被俊臣所陷,配流嶺南。

万歳通天年、征還され、桂陽に至り、自ら死日を筮い、予め桂陽の官属に凶器を備えるよう託した。期に依って暴卒した。則天は深く憫惜を加え、州県に勅して霊輿を郷里に送還させ、済州刺史を贈った。神龍初年、また御史大夫を贈られた。

原文萬歲通天年,征還,至桂陽,自筮死日,預讬桂陽官屬備兇器。依期暴卒。則天深加憫惜,敕州縣遞靈輿還鄉,贈濟州刺史。神龍初,又贈御史大夫。

『明堂新礼』十巻、『孝経指要』・『詩品』・『書品』・『画品』各一巻を撰した。

原文撰《明堂新禮》十卷,《孝經指要》、《詩品》、《書品》、《畫品》各一卷。

張文仲

原文張文仲

張文仲は洛州洛陽の人である。若くして郷人李虔縦・京兆の人韋慈蔵と共に医術をもって知名であった。文仲は則天の初年に侍御医となった。時に特進蘇良嗣が殿庭で拝跪するに因って卒倒した。則天は文仲・慈蔵に命じて宅に随い至り候診させた。文仲は言った、「これは憂憤邪気の激するによる。もし痛みが脇に衝けば、則ち劇しく救い難い。」朝よりこれを候った。食時に及ばず、即ち苦しんで脇に衝き絞痛した。文仲は言った、「もし心に入れば、即ち療すべからず。」俄かに心痛し、再び薬を下さず、日旰(夕方)にして卒した。文仲は特に風疾を療することを善くした。その後、則天は文仲に命じて当時の名医を集めて共に風気を療する諸方を撰ばせ、なお麟台監王方慶にその修撰を監させた。文仲は奏して言った、「風に一百二十四種あり、気に八十種あり。大抵医薬は同じくとも、人の性は各異なり、庸医は薬の性を達せずして冬夏の節を失わせ、これに因って人を殺す。ただ脚気・頭風・上気は、常に服薬を絶やさず須いる。その余は則ちその発動に随い、臨時に消息すべきである。但し風気の有る人は、春末夏初及び秋暮に、通泄を得ることを要し、即ち困劇せず。」ここに於いて四時に常服すべき及び軽重大小の諸方十八首を撰んで表上した。文仲は久視年に尚薬奉御で終わった。『随身備急方』三巻を撰し、世に行なわれた。

原文張文仲,洛州洛陽人也。少與鄉人李虔縱、京兆人韋慈藏並以醫術知名。文仲,則天初為侍御醫。時特進蘇良嗣於殿庭因拜跪便絕倒,則天令文仲、慈藏隨至宅候之。文仲曰:「此因憂憤邪氣激也。若痛沖脅,則劇難救。」自朝候之。未及食時,即苦沖脅絞痛。文仲曰:「若入心,即不可療。」俄頃心痛,不復下藥,日旰而卒。文仲尤善療風疾。其後則天令文仲集當時名醫共撰療風氣諸方,仍令麟台監王方慶監其修撰。文仲奏曰:「風有一百二十四種,氣有八十種。大抵醫藥雖同,人性各異,庸醫不達藥之性使冬夏失節,因此殺人。唯腳氣頭風上氣,常須服藥不絕。自餘則隨其發動,臨時消息之。但有風氣之人,春末夏初及秋暮,要得通泄,即不困劇。」於是撰四時常服及輕重大小諸方十八首表上之。文仲久視年終於尚藥奉禦。撰《隨身備急方》三卷,行於代。

李虔縦 韋慈蔵 附

原文李虔縱 韋慈藏 附

虔縦は官は侍御医に至った。慈蔵は景龍年間に光禄卿となった。則天・中宗以後、諸医は皆文仲等三人を首と推した。

原文虔縱,官至侍御醫。慈藏,景龍中光祿卿。自則天、中宗已後,諸醫咸推文仲等三人為首。

尚献甫

原文尚獻甫

尚献甫は衛州汲の人である。特に天文を善くした。初め、出家して道士となった。則天の時に召見され、起家して太史令に拝せられたが、固く辞して言った、「臣は久しく放誕に従い、官長に屈して事えることができません。」則天は乃ち太史局を渾儀監と改め、秘書省に隷属させず、献甫を渾儀監とした。数度災異を顧問し、事は皆符験した。また献甫に命じて上陽宮で学者を集めて『方域図』を撰ばせた。長安二年、献甫は奏して言った、「臣の本命納音は金に在り、今熒惑が五諸侯・太史の位を犯しています。熒は火であり、金を克することができ、これは臣の将に死すべき徴です。」則天は言った、「朕が卿のために禳おう。」急ぎ献甫を水衡都尉に転じ、言った、「水は金を生じ、今また太史の位を去る。卿は憂い無し。」その秋、献甫は卒し、則天は甚だ嗟異惜しんだ。再び渾儀監を太史局とし、旧に依って秘書監に隷属させた。

原文尚獻甫,衛州汲人也。尤善天文。初,出家為道士。則天時召見,起家拜太史令,固辭曰:「臣久從放誕,不能屈事官長。」則天乃改太史局為渾儀監,不隸秘書省,以獻甫為渾儀監。數顧問災異,事皆符驗。又令獻甫于上陽宮集學者撰《方域圖》。長安二年,獻甫奏曰:「臣本命納音在金,今熒惑犯五諸候、太史之位。熒,火也,能克金,是臣將死之征。」則天曰:「朕為卿禳之。」遽轉獻甫為水衡都尉,謂曰:「水能生金,今又去太史之位,卿無憂矣。」其秋,獻甫卒,則天甚嗟異惜之。復以渾儀監為太史局,依舊隸秘書監。

裴知古 附

原文裴知古 附

時にまた雍州の人裴知古あり、音律に善し。長安年中に太楽丞となる。神龍元年正月、春享を西京太廟に挙行し、知古はその事に預かる。萬年令元行沖に謂ひて曰く、「金石諧和す、当に吉慶の事有るべし、其れ唐室の子孫に在るか」と。その月、中宗即位し、復た国を改めて唐と為す。知古はまた婚夕の環佩の声を聴きて、其の夫妻の終始を知る能ふ。後に太楽令に卒す。

原文時又有雍州人裴知古,善於音律。長安中為太樂丞。神龍元年正月,春享西京太廟,知古預其事。謂萬年令元行沖曰:「金石諧和,當有吉慶之事,其在唐室子孫乎?」其月,中宗即位,復改國為唐。知古又能聽婚夕環佩之聲,知其夫妻終始。後卒于太樂令。

孟詵

原文孟詵

孟詵は、汝州梁の人なり。進士に挙げらる。垂拱初め、累遷して鳳閣舎人となる。詵は少くより方術を好み、嘗て鳳閣侍郎劉禕之の家に於て、其の敕賜の金を見、禕之に謂ひて曰く、「此れ薬金なり。若し火を其上に焼かば、当に五色の気有るべし」と。之を試みるに果たして然り。則天聞きて悦ばず、事に因りて出でて台州司馬と為る。後に累遷して春官侍郎となる。

原文孟詵,汝州梁人也。舉進士。垂拱初,累遷鳳閣舍人。詵少好方術,嘗于鳳閣侍郎劉禕之家,見其敕賜金,謂禕之曰:「此藥金也。若燒火其上,當有五色氣。」試之果然。則天聞而不悅,因事出為台州司馬。後累遷春官侍郎。

睿宗藩に在りし時、召して侍読を充てしむ。長安中、同州刺史と為り、銀青光禄大夫を加ふ。神龍初めに致仕し、伊陽の山第に帰り、薬餌を以て事と為す。詵は年晚暮と雖も、志力壮の如し、嘗て親しむ所の者に謂ひて曰く、「若し能く身を保ち性を養はんと欲せば、常に善言を口を離れざらしめ、良薬を手を離れざらしむべし」と。睿宗即位し、京師に赴くを召す、将に任用を加へんとす、固く衰老を辞す。景雲二年、優詔を以て物一百段を賜ひ、又令して毎歳春秋二時に、特た羊酒糜粥を給せしむ。開元初め、河南尹畢構、詵に古人之風有るを以て、其の居る所を改めて子平裏と為す。尋で卒す、年九十三。

原文睿宗在籓,召充侍讀。長安中,為同州刺史,加銀青光祿大夫。神龍初致仕,歸伊陽之山第,以藥餌為事。詵年雖晚暮,志力如壯,嘗謂所親曰:「若能保身養性者,常須善言莫離口,良藥莫離手。」睿宗即位,召赴京師,將加任用,固辭衰老。景雲二年,優詔賜物一百段,又令每歲春秋二時,特給羊酒糜粥。開元初,河南尹畢構以詵有古人之風,改其所居為子平裏。尋卒,年九十三。

詵の居る官は、好んで勾剝を以て政と為し、繁くして理有り。『家』、『祭礼』各一卷、『喪服要』二卷、『補養方』、『必效方』各三卷を撰す。

原文詵所居官,好勾剝為政,雖繁而理。撰《家》、《祭禮》各一卷,《喪服要》二卷,《補養方》、《必效方》各三卷。

厳善思

原文嚴善思

厳善思は、同州朝邑の人なり。少くより学渉を以て知名たり、特に天文暦数及び卜相の術に善し。初め消声幽藪科挙に応じて擢第す。則天の時に監察御史と為り、権右拾遺・内供奉を兼ぬ。数たび表を上して時政の得失を陳ぶ、多く納用せらる。稍く遷りて太史令となる。

原文嚴善思,同州朝邑人也。少以學涉知名,尤善天文歷數及卜相之術。初應消聲幽藪科舉擢第。則天時為監察御史,權右拾遺、內供奉。數上表陳時政得失,多見納用。稍遷太史令。

聖暦二年、熒惑輿鬼に入る、則天以て善思に問ふ。善思対へて曰く、「商姓の大臣当に之に当るべし」と。其の年、文昌左相王及善卒す。長安中、熒惑月に入り、鎮星天関を犯す。善思奏して曰く、「法に乱臣罪に伏し、且つ臣下上を謀るの象有り」と。歳余して、張柬之・敬暉等兵を起して張易之・昌宗を誅す。其の占験皆此の類なり。

原文聖曆二年,熒惑入輿鬼,則天以問善思。善思對曰:「商姓大臣當之。」其年,文昌左相王及善卒。長安中,熒惑入月,鎮星犯天關。善思奏曰:「法有亂臣伏罪,且有臣下謀上之象。」歲餘,張柬之、敬暉等起兵誅張易之、昌宗。其占驗皆此類也。

神龍初め、遷りて給事中となる。則天崩じ、将に乾陵に合葬せんとす、善思奏議して曰く、

原文神龍初,遷給事中。則天崩,將合葬乾陵,善思奏議曰:

謹んで按ずるに『天元房録葬法』に云く、「尊者先に葬り、卑者は後に開き入るるに合はず」と。則天太后は、天皇大帝に卑し、今乾陵を開きて合葬せんと欲す、即ち是れ卑を以て尊を動かすなり。事既に経せず、恐らくは安穏に非ざるべし。臣又聞く、乾陵の玄闕は、其の門石を以て閉塞し、其の石の縫隙、鉄を鑄して以て其の中を固むと。今若し陵を開かば、須らく鐫鑿すべし。然れども神明の道を以てすれば、体尚ほ幽玄を尚ぶ;今乃ち衆を動かし功を加ふるは、誠に多く驚黷する所有るを恐る。又若し別に門道を開きて、以て玄宮に入らば、即ち往者葬る時、神位先づ定まれり、今改めて作すは、害を為す益々深し。又乾陵を修築しての後、国頻りに難有り、遂に則天太后権を総べて萬機を執ること二十余年、其の難始めて定まる。今乃ち更に営作を加ふるは、伏して恐らくは還って難生ずる有らん。

原文謹按《天元房錄葬法》云:「尊者先葬,卑者不合於後開入。」則天太后,卑于天皇大帝,今欲開乾陵合葬,即是以卑動尊。事既不經,恐非安隱。臣又聞乾陵玄闕,其門以石閉塞,其石縫隙,鑄鐵以固其中。今若開陵,必須鐫鑿。然以神明之道,體尚幽玄;今乃動眾加功,誠恐多所驚黷。又若別開門道,以入玄宮,即往者葬時,神位先定,今更改作,為害益深。又以修築乾陵之後,國頻有難,遂至則天太后權總萬機,二十餘年,其難始定。今乃更加營作,伏恐還有難生。

但だ合葬は古に非ず、礼経に著はし、情に縁りて用ふるも、依拠すべき足らず。況んや今事に安からざる有り、豈に復た斯の制を循らんや!伏して見るに漢時の諸陵は、皇后多く合葬せず;魏・晋已降、始めて合する者有り。然れども両漢積年、向ふに四百余り;魏・晋の後、祚皆長からず。命を受けて期に応ずる有りと雖も、天に因りて仮る有り、然れども機を循ひ徳を享くるも、亦天時に在り。但だ陵墓の安んずる所は、必ず勝地を資とし、後の胤嗣、霊根に托するを用ふ、或は安からざる有らば、後嗣も亦長く享け難し。伏して望む、漢朝の故事に依り、魏・晋の頽綱を改め、乾陵の傍に於て、更に吉地を択び、生墓の法を取り、別に一陵を起こし、既に従葬の儀を得、又固本の業を成さしむ。

原文但合葬非古,著在禮經,緣情為用,無足依准。況今事有不安,豈可復循斯制!伏見漢時諸陵,皇后多不合葬;魏、晉已降,始有合者。然以兩漢積年,向餘四百;魏、晉之後,祚皆不長。雖受命應期,有因天假,然以循機享德,亦在天時。但陵墓所安,必資勝地,後之胤嗣,用托靈根,或有不安,後嗣亦難長享。伏望依漢朝之故事,改魏、晉之頹綱,於乾陵之傍,更擇吉地,取生墓之法,別起一陵,既得從葬之儀,又成固本之業。

臣伏して惟ふに、合葬するは、人の私情に縁る;合せざるは、前修の故事なり。若し神道知る有らば、幽途自ら通会を得;若し死者知る無からば、之を合するも復た何の益か有らん!然れども山川の精気、土は星象と為る、若し葬ること其の所を得ば、則ち神安んじて後昌へ;若し葬ること其の宜しきを失はば、則ち神危うして後損ふ。是を以て先哲は范を垂れ、之を葬経に具し、生人の道をして必ず安からしめ、死者の神をして必ず泰からしめんと欲す。伏して望む、少しく天眷を回らし、臣が言を俯して覧み、古昔の明規を行ひ、私情の愛欲を割き、社稷をして長く享けしめ、天下をして乂安ならしめんことを。凡そ生を懐くる者、孰か慶倖せざらんや!

原文臣伏以合葬者,人緣私情;不合者,前修故事。若以神道有知,幽途自得通會;若以死者無知,合之復有何益!然以山川精氣,土為星象,若葬得其所,則神安後昌;若葬失其宜,則神危後損。所以先哲垂范,具之葬經,欲使生人之道必安,死者之神必泰。伏望少回天眷,俯覽臣言,行古昔之明規,割私情之愛欲,使社稷長享,天下乂安。凡在懷生,孰不慶倖!

疏奏して納れられず。

原文疏奏不納。

景龍中、遷りて礼部侍郎となり、出でて汝州刺史と為る。睿宗藩に在りし時、善思嘗て姚元之に謂ひて曰く、「相王必ず帝位に登るべし」と。践祚に及び、元之事を以て聞奏す、是に由りて召して右散騎常侍さんきじょうじに拝す。

原文景龍中,遷禮部侍郎,出為汝州刺史。睿宗在籓,善思嘗謂姚元之曰:「相王必登帝位。」及踐祚,元之以事聞奏,由是召拜右散騎常侍。

唐隆元年、鄭愔謀りて譙王重福を冊して帝と為さんとし、乃ち偽制を草し、善思を除して礼部尚書と為し、吏部選事を知らしむ。譙王獄に下るに及び、景雲元年、大理寺奏す、「善思は逆人重福と通謀し、極法に従うに合ふ」と。給事中韓思復奏して曰く、「獄を議し死を緩むるは、列聖の明規;刑疑は惟れ軽きを重んずるは、国を有するの恆典。厳善思往昔先朝に在りし時、韋氏の内に擅るに属し、寵を宮掖に恃み、社稷を危うせんと謀る。善思此の時、乃ち能く先覚し、相府に詣りて、発明する所有り、進みて聖躬を論じ、必ず宸極に登るべしと。重福と交遊すと雖も、韋氏を陥れんと謀る、敕を追ひて善思を召す、書至れば便ち発す、向ひて逆節を懐かば、寧んぞ即ち奔命せんや?一面の疏綱、誠に順生に合ひ;三驅禽を取る、来りて宥有り。惟れ刑を恤ふは、理昭詳に合ふ。請ふ刑部に付して群官を集めて議定し奏裁せしめ、以て慎獄に符せん」と。時に議ふ者多く云く、「善思は原宥に従うに合ふ」と。有司仍ほ前議を執りて之を誅せんことを請ふ。思復又駁奏して懇直なり。睿宗其の奏を納れ、竟に善思の死を免れしめ、配流して静州とす。幾も無く、赦に遇ひて還る。年八十五、開元十七年卒す。

原文唐隆元年,鄭愔謀冊譙王重福為帝,乃草偽制,除善思為禮部尚書,知吏部選事。及譙王下獄,景雲元年,大理寺奏:「善思與逆人重福通謀,合從極法。」給事中韓思復奏曰:「議獄緩死,列聖明規;刑疑惟輕,有國恆典。嚴善思往在先朝,屬韋氏擅內,恃寵宮掖,謀危社稷。善思此時,乃能先覺,因詣相府,有所發明,進論聖躬,必登宸極。雖交遊重福,謀陷韋氏,敕追善思,書至便發,向懷逆節,寧即奔命?一面疏綱,誠合順生;三驅取禽,來而有宥。唯刑是恤,理合昭詳。請付刑部集群官議定奏裁,以符慎獄。」時議者多云:「善思合從原宥。」有司仍執前議請誅之。思復又駁奏懇直。睿宗納其奏,竟免善思死,配流靜州。無幾,遇赦還。年八十五,開元十七年卒。

初めに、善思が御史であった時、中書舎人劉允済が酷吏に陥れられ、死罪に当たった。善思はその老齢を哀れみ、密かに上表して奏請し、允済はようやく誅殺を免れた。善思は後に允済に会ったが、ついに自らその事を言わなかった。韓思復が善思の罪を奏上して免じた時も、允済はかつて何ら謝意を述べることはなかった。当時の人は彼を長者と称えた。

原文初,善思為御史時,中書舍人劉允濟為酷吏所陷,當死。善思湣其老,密表奏請,允濟乃得免誅。善思後見允濟,竟不自言其事。韓思復奏免善思之罪,亦未曾有所言謝。時人稱其長者。

善思の子向は、乾元年間に鳳翔尹となり、宝応年間に太常員外卿を授けられた。初め善思の父徐州長史延と善思は、ともに八十五歳で卒した。広徳二年、向が卒すると、また八十五歳であった。向の兄で前趙郡司馬の宙は、向より十歳年長で、向が卒した時、宙はなお無事であった。

原文善思子向,乾元中為鳳翔尹,寶應中授太常員外卿。始善思父徐州長史延及善思,俱年八十五而卒;廣德二年,向卒,又年八十五。向兄前趙郡司馬宙,長向十歲,向卒時,宙並無恙。

金梁鳳

原文金梁鳳

金梁鳳は、何処の人であるか知られていない。天宝十三載、河西に客居した。人相を見ることに長け、また天象を言った。時に哥舒翰が節度使となり、詔によって京師に入った。裴冕は祠部郎中となり、河西留後を管掌し、武威にいた。梁鳳は冕に言った、「天象に変化あり、半年の間に兵乱が起こる。郎中はこの時に中丞を得るであろう。中丞に拝されなければ、即ち宰相を得て、天子の左右を離れず、大いに富貴となる。」冕は言った、「貴公は狂言を吐く。冕がどうしてここまで至れようか。」梁鳳は言った、「一日は東京に向かい、一日は蜀川に入り、一日は朔方に来る。この時に貴公は宰相を得る。」冕はその言葉を恐れ、深く謝絶した。その後安禄山が反乱し、南進して洛陽を犯し、偽位を僭称した。哥舒翰は東進して潼関を守り、数ヶ月を経て、冕を御史中丞に奏上し、京に追い赴かせた。冕はまた詰めて言った、「事は験を現した。」冕はまた三日の兆しを問うと、梁鳳は言った、「東京の日は即ち自ら磨滅し、蜀川の日もまた久しくは保てない。此の間の日は何故か却って分明となり、説くべからず。」冕はこれを心に留めた。やがて潼関が陥落し、玄宗は蜀に幸し、粛宗は北へ霊武に向かうと、冕はこれに会い、策立を成し遂げるよう勧め、改元して至徳元年とした。冕は果たして中書侍郎・平章事となった。冕がこれを奏上すると、粛宗は召し出して都水使者に拝した。

原文金梁鳳,不知何許人也。天寶十三載,客於河西。善相人,又言玄象。時哥舒翰為節度使,詔入京師。裴冕為祠部郎中,知河西留後,在武威。梁鳳謂冕曰:「玄象有變,半年間有兵起,郎中此時當得中丞,不拜中丞,即得宰相,不離天子左右,大富貴。」冕曰:「公乃狂言,冕何至此?」梁鳳曰:「有一日向東京,一日入蜀川,一日來向朔方,此時公得相。」冕懼其言,深謝絕之。其後安祿山反,南犯洛陽,僭稱偽位。哥舒翰東守潼關,累月,奏冕為御史中丞,追赴京。冕又詰曰:「事驗也。」冕又問三日之兆,梁鳳曰:「東京日即自磨滅,蜀川日亦不能久,此間日何轉分明,不可說。」冕志之。既潼關失守,玄宗幸蜀,肅宗北如靈武,冕會之,勸成策立,改元為至德元年。冕果為中書侍郎、平章事。冕奏之,肅宗召拜都水使者。

梁鳳が河隴にいた時、呂諲に言った、「判官の骨相は、宰相を得るに合う。ただし一大驚怖を得ることを須いる。即ち得るであろう。」諲は後に駅舎に至り、駅長を責め叱り、これを打った。駅吏は武人で、性質が粗暴猛々しく、弓矢を持って突入し、諲を射た。矢は二発放たれ、ほとんど諲の顔面に当たりそうになった。諲は牆を越えて免れた。これを梁鳳に報告すると、梁鳳は言った、「これは必ず宰相に入る。」一年余りして、諲は黄門侍郎より政事を知るようになった。

原文梁鳳在河隴,謂呂諲曰:「判官骨相,合得宰相。須得一大驚怖,即得。」諲後至驛,責讓驛長,搒之。驛吏武將,性粗猛,持弓矢突入,射諲,矢兩發,幾中諲面,諲逾牆得免。以報梁鳳,梁鳳曰:「此必入相。」逾年,諲自黃門侍郎知政事。

梁鳳が鳳翔にいた時、李揆と盧允の二人が共に彼に会い、ともに平服で、選人を自称した。梁鳳は彼らに言った、「貴公らはともに清望官に至る。どうして官無しと言えようか。」揆と允は実情を答えた。梁鳳は二人を行かせ、揆に言った、「貴公は舎人より即ち宰相に入り、一年内の事である。」允に言った、「貴公は好くして即ち吏部郎中となる。」両京を克復した後、揆は中書舎人より礼部侍郎事を知り、入朝して中書侍郎・平章事となり、ついに允を吏部郎中とした。その験は多くこの類であった。その後、佯って聾となり自ら晦ました。冕が右僕射・兼御史大夫・成都尹・剣南節度使となった時、進止があり、梁鳳を行かせるよう命じた。後に病没した。

原文梁鳳在鳳翔,李揆、盧允二人同見之,俱素服,自稱選人。梁鳳謂之曰:「公等並至清望官,那得雲無官。」揆、允以實對。梁鳳遣二人行,謂揆曰:「公從舍人即入相,一年內事。」謂允曰:「公好即是吏部郎中。」及克復兩京,揆自中書舍人知禮部侍郎事,入為中書侍郎、平章事,乃以允為吏部郎中。其驗多此類。爾後佯聾以自晦。冕為右僕射、兼御史大夫、成都尹、劍南節度使,有進止,令將梁鳳行。後乃病卒。

張果

原文張果

張果という者は、何処の人であるか知られていない。則天の時、中条山に隠れ、汾・晋の間を往来し、当時の人は彼に長寿の秘術があると伝え、自らは数百歳であると言った。かつて『陰符経玄解』を著し、その玄理を尽くした。則天は使者を遣わして召したが、果は死を装って赴かなかった。後に人々は再び彼を見かけ、恒州の山中を往来した。開元二十一年、恒州刺史韋済がその状況を上奏して聞かせた。玄宗は通事舎人裴晤を遣わして迎えさせた。果は使者に対し気絶して死んだようになり、久しくして漸く蘇生した。晤は逼迫することを敢えず、馳せ戻って状況を奏上した。また中書舎人徐嶠を遣わし、璽書を齎して邀迎させた。果はようやく嶠に随って東都に至り、肩輿で東宮中に入った。

原文張果者,不知何許人也。則天時,隱於中條山,往來汾、晉間,時人傳其有長年秘術,自雲年數百歲矣。嘗著《陰符經玄解》,盡其玄理。則天遣使召之,果佯死不赴。後人復見之,往來恆州山中。開元二十一年,恆州刺史韋濟以狀奏聞。玄宗令通事舍人裴晤往迎之。果對使絕氣如死,良久漸蘇。晤不敢逼,馳還奏狀。又遣中書舍人徐嶠齎璽書以邀迎之。果乃隨嶠至東都,肩輿入東宮中。

玄宗が初めて即位した時、みずから治道及び神仙方薬の事を訪ね、また変化測り難いことを聞いて疑った。邢和璞という者がおり、人の推算に長けて夭寿善悪を知った。玄宗に命じられて果を推算したが、懵然としてその甲子を知ることができなかった。また師夜光という者がおり、鬼を見ることに長けていた。玄宗は果を召して彼と密座させ、夜光に見させた。夜光が進み出て言った、「果は今何処におりますか。」夜光は対面しながら終に見ることができなかった。玄宗は力士に言った、「吾は董汁を飲んで苦しまぬ者は、真の奇士であると聞く。」折しも寒さであったので、董汁を飲ませて果に与えた。果はすなわち三杯引き飲みし、酔ったように顔色をなして、顧みて言った、「佳酒ではない。」そして寝た。しばらくして、鏡を取って歯を見ると、ことごとく焦げて黒ずんでいた。左右に命じて鉄如意を取り、歯を打ち落とさせ、帯に蔵した。そして懐中から神仙薬を取り出し、微かに赤く、落ちた歯の齦に塗った。再び久しく寝ると、歯は皆生え出て、燦然として潔白であった。玄宗はようやく彼を信じた。

原文玄宗初即位,親訪理道及神仙方藥之事,及聞變化不測而疑之。有邢和璞者,善算人而知夭壽善惡。玄宗令算果,則懵然莫知其甲子。又有師夜光者,善視鬼。玄宗召果與之密坐,令夜光視之。夜光進曰:「果今安在?」夜光對面終莫能見。玄宗謂力士曰:「吾聞飲堇汁無苦者,真奇士也。」會天寒,使以堇汁飲果。果乃引飲三卮,醺然如醉所作,顧曰:「非佳酒也。」乃寢。頃之,取鏡視齒,則盡燋且黧。命左右取鐵如意擊齒墜,藏於帶。乃懷中出神仙藥,微紅,傅墜齒之齗。復寐良久,齒皆出矣,粲然潔白,玄宗方信之。

玄宗は神仙を好み、果に公主を尚せさせようとした。果は固よりこれを知らず、秘書少監王迥質と太常少卿蕭華に言った、「諺に『娶婦得公主』は、真に畏るべしと言う。」迥質と華は顔を見合わせ、その言葉を理解しなかった。すぐに中使が至り、宣して言った、「玉真公主は早くから道を好み、先生に降嫁したい。」果は大笑いし、ついに詔を奉じなかった。迥質らはようやく先の言葉を悟った。

原文玄宗好神仙,而欲果尚公主。果固未知之,謂秘書少監王迥質、太常少卿蕭華曰:「諺雲娶婦得公主,真可畏也。」迥質與華相顧,未曉其言。即有中使至,宣曰:「玉真公主早歲好道,欲降先生。」果大笑,竟不奉詔。迥質等方悟向來之言。

後に懇ろに辞して山に帰ろうとしたので、制を下して言った、「恒州張果先生は、方外を遊ぶ者である。跡は高尚に先んじ、窈冥に深く入る。是れ光塵を渾ぜ、城闕に応召す。甲子の数を詳らかにせず、且つ羲皇上人と謂う。道樞を問うに、宗極を尽くして会す。今特に朝礼を行い、爰に寵命を畀う。銀青光禄大夫とすべく、号を通玄先生と曰う。」その年、恒山に入ることを請い、衣服及び雑綵等を賜り、便ち山に帰らせた。すなわち恒山に入り、行方が知れなくなった。玄宗はその隠棲の地に棲霞観を造り、蒲吾県にあり、後に平山県と改めた。

原文後懇辭歸山,因下制曰:「恆州張果先生,游方外者也。跡先高尚,深入窈冥。是渾光塵,應召城闕。莫詳甲子之數,且謂羲皇上人。問以道樞,盡會宗極。今特行朝禮,爰畀寵命。可銀青光祿大夫,號曰通玄先生。」其年請入恆山,錫以衣服及雜彩等,便放歸山。乃入恆山,不知所之。玄宗為造棲霞觀於隱所,在蒲吾縣,後改為平山縣。

葉法善

原文葉法善

道士葉法善は、括州括蒼県の人である。曾祖より三代道士となり、皆に摂養占卜の術があった。法善は幼少より符籙を伝え、特に鬼神を厭劾することができた。顕慶年間、高宗はその名を聞き、京師に征し詣でさせ、爵位を加えようとしたが、固辞して受けなかった。道士となることを求め、よって内道場に留め、供待は甚だ厚かった。時に高宗は広く諸方の道術の士を征し、黄白を合煉させようとした。法善が上言して言った、「金丹は成就し難く、徒らに財物を費やし、政理を虧く。その真偽を核せられんことを請う。」帝はその言を然りとし、よって法善に試させた。これにより九十余人を出し、よって一切これを罷めた。法善はまたかつて東都の凌空観に壇を設けて醮祭し、城中の士女は競ってこれを見に行った。俄かに数十人が自ら火中に投じ、観る者は大いに驚き、救って免れた。法善は言った、「これらは皆魅病であり、吾が法に摂されたのである。」問うと果たしてそうであった。法善は悉く禁劾を為し、その病はようやく癒えた。

原文道士葉法善,括州括蒼縣人。自曾祖三代為道士,皆有攝養占卜之術。法善少傳符籙,尤能厭劾鬼神。顯慶中,高宗聞其名,征詣京師,將加爵位,固辭不受。求為道士,因留在內道場,供待甚厚。時高宗令廣征諸方道術之士,合煉黃白。法善上言:「金丹難就,徒費財物,有虧政理,請核其真偽。」帝然其言,因令法善試之,由是乃出九十餘人,因一切罷之。法善又嘗於東都淩空觀設壇醮祭,城中士女競往觀之。俄頃數十人自投火中,觀者大驚,救之而免。法善曰:「此皆魅病,為吾法所攝耳。」問之果然。法善悉為禁劾,其病乃愈。

法善は高宗・則天・中宗に歴り五十年、常に名山を往来し、数えきれぬほど禁中に召し入れられ、礼を尽くして道を問われた。しかし仏法を排擠し、議する者はあるいはその向背を譏った。その術が高いため、終にこれを測る者はなかった。

原文法善自高宗、則天、中宗曆五十年,常往來名山,數召入禁中,盡禮問道。然排擠佛法,議者或譏其向背。以其術高,終莫之測。

睿宗が即位し、法善に冥助の力があると称した。先天二年、鴻臚卿に拝し、越国公に封じられ、なお旧のまま道士とし、京師の景龍観に止まり、またその父を歙州刺史に贈った。当時の尊寵は、比ぶるものと為すことがなかった。

原文睿宗即位,稱法善有冥助之力。先天二年,拜鴻臚卿,封越國公,仍依舊為道士,止于京師之景龍觀,又贈其父為歙州刺史。當時尊寵,莫與為比。

法善は隋の大業の丙子年に生まれ、開元の庚子年に死す、凡そ百七歳。八年に卒す。詔して曰く、

原文法善生於隋大業之丙子,死於開元之庚子,凡一百七歲。八年卒。詔曰:

故道士鴻臚卿・員外置・越國公葉法善は、天真にして精密、妙理玄暢、秘要を包括し、霊符を発揮す。固より以て冥黙として源を測り難く、希夷として測るに罕なり。而して情は蓬閬に棲み、跡は朝伍に混じ、黄冠を保ちて杖とせず、紫綬を加うるも栄とせず、卓爾として孤秀、冷然として独往す。勝気は俗を絶ち、貞風は塵無く、金骨は外に聳え、珠光は内に応ず。斯れ乃ち体は中仙に応じ、名は上徳に升る。朕は政を聴くの暇に当たり、屡々至道を詢う。公は理国の法を以て、数たび昌言を奏す。謀は隠諷に参じ、事は弘益を宣ぶ。徽音の未だ泯みざるを歎き、形解の俄かに留まるを悲しむ。曾て憖遺すること莫く、良を殲うして奄に及ぶ。永く平昔を惟い、懐に感愴す。宜しく礼命を申し、式として泉壌を旌くべし。越州都督を贈る可し。

原文故道士鴻臚卿、員外置、越國公葉法善,天真精密,妙理玄暢,包括秘要,發揮靈符,固以冥默難源,希夷罕測。而情棲蓬閬,跡混朝伍,保黃冠而不杖,加紫綬而非榮,卓爾孤秀,冷然獨往。勝氣絕俗,貞風無塵,金骨外聳,珠光內應。斯乃體應中仙,名升上德。朕當聽政之暇,屢詢至道;公以理國之法,數奏昌言。謀參隱諷,事宣弘益。歎徽音之未泯,悲形解之俄留,曾莫憖遺,殲良奄及。永惟平昔,感愴於懷,宜申禮命,式旌泉壤。可贈越州都督。

僧 玄奘

原文僧 玄奘

僧玄奘は、姓は陳氏、洛州偃師の人なり。大業末に出家し、経論を博く渉猟す。嘗て訳する者多く訛謬有りと謂い、故に西域に就き、広く異本を求めて以て之を参験せんとす。貞観初、商人に随いて往き西域に游ぶ。玄奘は既に弁博にして群を出で、所在必ず講釈論難を為し、蕃人は遠近咸く尊び伏す。西域に在ること十七年、百余国を経て、悉く其の国の語を解し、仍て其の山川謡俗、土地の所有を采り、『西域記』十二巻を撰す。貞観十九年、帰りて京師に至る。太宗之を見て、大いに悦び、之と談論す。是に於て詔して梵本六百五十七部を将て弘福寺に於て翻訳せしめ、仍て右僕射房玄齢・太子左庶子許敬宗に勅し、広く碩学の沙門五十余人を召し、相助けて整比せしむ。

原文僧玄奘,姓陳氏,洛州偃師人。大業末出家,博涉經論。嘗謂翻譯者多有訛謬,故就西域,廣求異本以參驗之。貞觀初,隨商人往游西域。玄奘既辯博出群,所在必為講釋論難,蕃人遠近咸尊伏之。在西域十七年,經百余國,悉解其國之語,仍采其山川謠俗,土地所有,撰《西域記》十二卷。貞觀十九年,歸至京師。太宗見之,大悅,與之談論。於是詔將梵本六百五十七部於弘福寺翻譯,仍敕右僕射房玄齡、太子左庶子許敬宗,廣召碩學沙門五十餘人,相助整比。

高宗宮中に在り、文徳太后の為に福を追い、慈恩寺及び翻経院を造り、内より大幡を出だし、『九部楽』及び京城諸寺の幡蓋衆伎を勅し、玄奘及び所翻の経像・諸高僧等を送りて慈恩寺に入住せしむ。顕慶元年、高宗又た左僕射于志寧・侍中許敬宗・中書令来済・李義府・杜正倫・黄門侍郎薛元超等を令し、共に玄奘の定むる所の経を潤色せしめ、国子博士范義碩・太子洗馬郭瑜・弘文館学士高若思等をして、助けて翻訳を加えしむ。凡そ七十五部を成す。之を奏上す。後に京城の人衆競いて来たり礼謁するを以て、玄奘乃ち奏請して逐静に翻訳せんとし、勅して乃ち宜君山の故玉華宮に移す。六年に卒す、時に年五十六、白鹿原に帰葬す、士女送葬する者数万人。

原文高宗在宮,為文德太后追福,造慈恩寺及翻經院,內出大幡,敕《九部樂》及京城諸寺幡蓋眾伎,送玄奘及所翻經像、諸高僧等入住慈恩寺。顯慶元年,高宗又令左僕射于志寧、侍中許敬宗、中書令來濟、李義府、杜正倫、黃門侍郎薛元超等,共潤色玄奘所定之經,國子博士范義碩、太子洗馬郭瑜、弘文館學士高若思等,助加翻譯。凡成七十五部。奏上之。後以京城人眾競來禮謁,玄奘乃奏請逐靜翻譯,敕乃移於宜君山故玉華宮。六年卒,時年五十六,歸葬于白鹿原,士女送葬者數萬人。

僧 神秀

原文僧 神秀

僧神秀は、姓は李氏、汴州尉氏の人なり。少くして経史を遍く覧み、隋末に出家して僧と為る。後に蘄州双峰山東山寺の僧弘忍に遇い、坐禅を以て業と為すを以て、乃ち歎伏して曰く、「此れ真に吾が師なり。」と。便ち往事して弘忍に事え、専ら樵汲を以て自ら役し、以て其の道を求む。

原文僧神秀,姓李氏,汴州尉氏人。少遍覽經史,隋末出家為僧。後遇蘄州雙峰山東山寺僧弘忍,以坐禪為業,乃歎伏曰:「此真吾師也。」便往事弘忍,專以樵汲自役,以求其道。

昔、後魏の末に、僧達摩有り、本は天竺の王子、護国の為に出家し、南海に入り、禅宗の妙法を得、雲う、釈迦より相伝し、衣鉢を以て記と為し、世に相付授すと。達摩は衣鉢を齎して航海して来たり、梁に至り、武帝に詣る。帝有為の事を以て問うに、達摩説かず。乃ち魏に之き、嵩山少林寺に隠れ、毒に遇いて卒す。其の年、魏の使宋雲、葱嶺より回り、之を見る。門徒其の墓を発くれば、但だ衣履のみ有り。達摩は慧可に伝え、慧可は嘗て其の左臂を断ち、以て其の法を求め、慧可は璨に伝え、璨は道信に伝え、道信は弘忍に伝う。

原文昔後魏末,有僧達摩者,本天竺王子,以護國出家,入南海,得禪宗妙法,雲自釋迦相傳,有衣缽為記,世相付授。達摩齎衣缽航海而來,至梁,詣武帝。帝問以有為之事,達摩不說。乃之魏,隱于嵩山少林寺,遇毒而卒。其年,魏使宋雲於蔥嶺回,見之,門徒發其墓,但有衣履而已。達摩傳慧可,慧可嘗斷其左臂,以求其法,慧可傳璨,璨傳道信,道信傳弘忍。

弘忍は姓は周氏、黄梅の人なり。初め、弘忍は道信と並びに東山寺に住す、故に其の法を東山法門と謂う。神秀は既に師事して弘忍に事う、弘忍深く器異し之を、謂いて曰く、「吾が度する人多し、懸解円照に至りては、汝に先んずる者無し。」と。

原文弘忍姓周氏,黃梅人。初,弘忍與道信並住東山寺,故謂其法為東山法門。神秀既師事弘忍,弘忍深器異之,謂曰:「吾度人多矣,至於懸解圓照,無先汝者。」

弘忍は咸亨五年に卒す、神秀は乃ち荊州に往き、当陽山に居る。則天其の名を聞き、追いて都に赴かしめ、肩輿にて殿に上り、親しく跪礼を加え、当陽山に度門寺を置きて以て其の徳を旌くことを勅す。時に王公已下及び京都の士庶、風を聞き争いて来たり謁見し、塵を望みて拝伏し、日に以て万数を数う。中宗即位し、尤も敬異を加う。中書舎人張説嘗て道を問い、弟子の礼を執り、退きて人に謂いて曰く、「禅師身長八尺、龐眉秀耳、威徳巍巍、王覇の器なり。」と。

原文弘忍以咸亨五年卒,神秀乃往荊州,居於當陽山。則天聞其名,追赴都,肩輿上殿,親加跪禮,敕當陽山置度門寺以旌其德。時王公已下及京都士庶,聞風爭來謁見,望塵拜伏,日以萬數。中宗即位,尤加敬異。中書舍人張說嘗問道,執弟子之禮,退謂人曰:「禪師身長八尺,龐眉秀耳,威德巍巍,王霸之器也。」

慧能 普寂 義福 附

原文慧能 普寂 義福 附

初め、神秀の同学の僧慧能なる者は、新州の人なり。神秀と行業相埒し。弘忍卒したる後、慧能は韶州広果寺に住す。韶州の山中、旧く多く虎豹有りしが、一朝にして尽く去り、遠近驚歎し、咸く帰伏す。神秀嘗て則天に奏し、慧能を追いて都に赴かしめんことを請う、慧能固く辞す。神秀又た自ら書を作り重ねて之を邀う、慧能は使者に謂いて曰く、「吾が形貌短陋、北土之を見れば、恐らく吾が法を敬わざらん。又た先師吾が南中に縁有りと以う、亦た違う可からず。」と。竟に嶺を度らずして死す。天下乃ち散じて其の道を伝え、神秀を北宗と謂い、慧能を南宗と謂う。

原文初,神秀同學僧慧能者,新州人也。與神秀行業相埒。弘忍卒後,慧能住韶州廣果寺。韶州山中,舊多虎豹,一朝盡去,遠近驚歎,咸歸伏焉。神秀嘗奏則天,請追慧能赴都,慧能固辭。神秀又自作書重邀之,慧能謂使者曰:「吾形貌短陋,北土見之,恐不敬吾法。又先師以吾南中有緣,亦不可違也。」竟不度嶺而死。天下乃散傳其道,謂神秀為北宗,慧能為南宗。

神秀は神龍二年に卒す、士庶皆来たり送葬す。詔有りて諡を賜いて「大通禅師」と曰う。又た相王の旧宅に於て報恩寺を置き、岐王范・張説及び征士盧鴻一皆其の碑文を為す。

原文神秀以神龍二年卒,士庶皆來送葬。有詔賜諡曰「大通禪師」。又于相王舊宅置報恩寺,岐王范、張說及征士盧鴻一皆為其碑文。

神秀卒したる後、弟子普寂・義福、並びに時に人に重んぜらる。

原文神秀卒後,弟子普寂、義福,並為時人所重。

普寂は姓は馮氏、蒲州河東の人なり。年少の時遍く高僧を尋ね、以て経律を学ぶ。時に神秀は荊州玉泉寺に在り、普寂は乃ち往きて師事し、凡そ六年、神秀之を奇とし、尽く其の道を以て之に授く。久視中、則天神秀を召して東都に至らしむ、神秀因りて普寂を薦む、乃ち度して僧と為す。神秀の卒するに及び、天下釈氏を好む者咸く之に師事す。中宗其の高年を聞き、特ちに制を下して普寂に令し神秀に代わりて其の法衆を統べしむ。

原文普寂姓馮氏,蒲州河東人也。年少時遍尋高僧,以學經律。時神秀在荊州玉泉寺,普寂乃往師事,凡六年,神秀奇之,盡以其道授焉。久視中,則天召神秀至東都,神秀因薦普寂,乃度為僧。及神秀卒,天下好釋氏者咸師事之。中宗聞其高年,特下制令普寂代神秀統其法眾。

開元十三年、勅して普寂を都城に居止せしむ。時に王公士庶、競いて来たりて礼謁す。普寂は厳重にして寡言、来る者その和悦の容を見ることを難くし、遠近特にこれを以て重んず。二十七年、ついに都城の興唐寺に終わり、年八十九。時に都城の士庶かつて謁したる者は、皆弟子の服を制す。制有りて号を「大照禅師」と賜う。及び葬るに、河南尹裴寛及びその妻子、並びに衰麻を着して門徒の次に列し、士庶は城を傾けて哭送し、閭里これがために空しきなり。

原文開元十三年,敕普寂于都城居止。時王公士庶,競來禮謁。普寂嚴重少言,來者難見其和悅之容,遠近尤以此重之。二十七年,終於都城興唐寺,年八十九。時都城士庶曾謁者,皆制弟子之服。有制賜號為「大照禪師」。及葬,河南尹裴寬及其妻子,並衰麻列于門徒之次,士庶傾城哭送,閭里為之空焉。

義福は姓は姜氏、潞州銅鞮の人なり。初め藍田の化感寺に止まり、方丈の室に処し、凡そ二十余年、未だ宇の外に出でず。後に京城の慈恩寺に隷す。開元十一年、駕に従いて東都に往く。蒲・虢の二州を経過するに、刺史及び官吏士女、皆幡花を齎してこれを迎え、所在の途路充塞す。二十年をもって卒す。制有りて号を「大智禅師」と賜う。伊闕の北に葬る。送葬する者数万人。中書侍郎厳挺之これがために碑文を制す。

原文義福姓薑氏,潞州銅鞮人。初止藍田化感寺,處方丈之室,凡二十餘年,未嘗出宇之外。後隸京城慈恩寺。開元十一年,從駕往東都,途經蒲、虢二州,刺史及官吏士女,皆齎幡花迎之,所在途路充塞。以二十年卒,有制賜號「大智禪師」。葬于伊闕之北,送葬者數萬人。中書侍郎嚴挺之為制碑文。

神秀は禅門の傑なり。禅行有りと雖も、帝王のこれを重んずるを得たりと雖も、未だ徒を聚め堂を開き法を伝えず。弟子普寂に至りて、始めて都城に教を伝え、二十余年、人皆これを仰ぐ。

原文神秀,禪門之傑,雖有禪行,得帝王重之,而未嘗聚徒開堂傳法。至弟子普寂,始於都城傳教,二十餘年,人皆仰之。

僧一行

原文僧一行

僧一行、姓は張氏、先ず名は遂、魏州昌楽の人、襄州都督・郯国公公謹の孫なり。父は擅、武功の令。

原文僧一行,姓張氏,先名遂,魏州昌樂人,襄州都督、郯國公公謹之孫也。父擅,武功令。

一行は少にして聡敏、経史を博覧し、特に暦象・陰陽・五行の学に精し。時に道士尹崇は博学の先達、素より墳籍多し。一行崇に詣で、揚雄の『太玄経』を借り、将に帰りてこれを読まんとす。数日にして、復た崇に詣で、その書を還す。崇曰く、「この書は意指稍深し、吾これを尋ねること積年、尚お能く暁らず、吾子試みに更に研求せよ、何ぞ遽に見還すや」と。一行曰く、「その義を究めたり」と。因りて撰する所の『大衍玄図』及び『義決』一卷を出して崇に示す。崇大いに驚き、因りて一行とその奥賾を談じ、甚だ嗟伏す。人に謂いて曰く、「この後生は顔子なり」と。一行はこれによりて大いに知名となる。武三思その学行を慕い、就いて請いこれと結交せんとす。一行は逃匿してこれを避く。尋いで出家して僧と為り、嵩山に隠れ、沙門普寂に師事す。睿宗即位し、勅して東都留守韋安石に礼を以て征せしむ。一行は固く疾を以て辞し、命に応ぜず。後に歩いて荊州の当陽山に往き、沙門悟真に依りて梵律を習う。

原文一行少聰敏,博覽經史,尤精曆象、陰陽、五行之學。時道士尹崇博學先達,素多墳籍。一行詣崇,借揚雄《太玄經》,將歸讀之。數日,復詣崇,還其書。崇曰:「此書意指稍深,吾尋之積年,尚不能曉,吾子試更研求,何遽見還也?」一行曰:「究其義矣。」因出所撰《大衍玄圖》及《義決》一卷以示崇。崇大驚,因與一行談其奧賾,甚嗟伏之。謂人曰:「此後生顏子也。」一行由是大知名。武三思慕其學行,就請與結交,一行逃匿以避之。尋出家為僧,隱於嵩山,師事沙門普寂。睿宗即位,敕東都留守韋安石以禮征。一行固辭以疾,不應命。後步往荊州當陽山,依沙門悟真以習梵律。

開元五年、玄宗その族叔の礼部郎中洽に勅書を齎し荊州に就き強いてこれを起すことを命ず。一行京師に至り、光太殿に置く。数たびこれに就き、安国撫人の道を訪う。言皆切直にして、隠す所有ること無し。開元十年、永穆公主出降す。勅して有司に優厚に発遣せしめ、太平公主の故事に依らしむ。一行以為く、高宗の末年、唯だ一女有るのみ、故に特にその礼を加う。又太平は驕僭にして、竟に以て罪を得たり、例として引くべからずと。上その言を納れ、遽かに勅を追いて行わず、但だ常礼に依る。その諫諍皆この類なり。

原文開元五年,玄宗令其族叔禮部郎中洽齎敕書就荊州強起之。一行至京,置於光太殿,數就之,訪以安國撫人之道,言皆切直,無有所隱。開元十年,永穆公主出降,敕有司優厚發遣,依太平公主故事。一行以為高宗末年,唯有一女,所以特加其禮。又太平驕僭,竟以得罪,不應引以為例。上納其言,遽追敕不行,但依常禮。其諫諍皆此類也。

一行は特に著述に明らかにし、『大衍論』三卷、『摂調伏蔵』十卷、『天一太一経』及び『太一局遁甲経』、『釈氏系録』各一卷を撰す。時に『麟徳歴経』は推歩漸く疎なり。勅して一行に前代諸家の暦法を考へしめ、新暦を改撰せしむ。又た率府長史梁令瓚等に命じ工人とともに黄道游儀を創造し、以て七曜の行度を考へ、互いに証明せしむ。ここにおいて一行『周易』大衍の数を推し、衍を立ててこれに応じ、『開元大衍歴経』を改撰す。十五年に至り卒す。年四十五。諡を「大慧禅師」と賜う。

原文一行尤明著述,撰《大衍論》三卷,《攝調伏藏》十卷,《天一太一經》及《太一局遁甲經》、《釋氏系錄》各一卷。時《麟德歷經》推步漸疏,敕一行考前代諸家曆法,改撰新曆,又令率府長史梁令瓚等與工人創造黃道游儀,以考七曜行度,互相證明。於是一行推《周易》大衍之數,立衍以應之,改撰《開元大衍歷經》。至十五年卒,年四十五,賜諡曰「大慧禪師」。

初め、一行の従祖東台舎人太素、『後魏書』一百卷を撰す。その『天文志』未だ成らず。一行これを継ぎて成す。上は一行のために碑文を制し、親しく石に書し、内庫の銭五十万を出し、銅人の原に塔を起す。明年、温湯に幸し、その塔前を過ぎ、又た騎を駐めて徘徊し、品官に命じて塔に就きその出豫の意を告げしむ。更に絹五十匹を賜い、以て塔前の松柏を蒔かしむ。

原文初,一行從祖東台舍人太素,撰《後魏書》一百卷,其《天文志》未成,一行續而成之。上為一行制碑文,親書于石,出內庫錢五十萬,為起塔於銅人之原。明年,幸溫湯,過其塔前,又駐騎徘徊,令品官就塔以告其出豫之意;更賜絹五十匹,以蒔塔前松柏焉。

初め、一行師資を求訪し、以て大衍を窮めんとし、天臺山国清寺に至る。一院を見るに、古松十数本、門に流水有り。一行門屏の間に立ち、院僧の庭に於いて算を布く声を聞く。而してその徒に謂いて曰く、「今日当に弟子有りて遠く自り来たり吾が算法を求め演ぜんとす。已に門に到るに合す。豈に人無くして導達せざらんや」と。即ち一算を除く。又た謂いて曰く、「門前の水当に却って西に流るべし。弟子亦た至らん」と。一行その言を承けて趨り入り、稽首して法を請い、尽くその術を受く。而して門前の水果たして却って西に流る。道士邢和璞嘗て尹愔に謂いて曰く、「一行は其れ聖人か。漢の洛下閎曆を造りて云う、『後八百歳当に一日を差すべし、必ず聖人有りてこれを正さん』と。今年期畢れり。而して一行『大衍』を造りてその差謬を正す。則ち洛下閎の言、信なり。聖人に非ずして何ぞや」と。

原文初,一行求訪師資,以窮大衍,至天臺山國清寺,見一院,古松十數,門有流水。一行立於門屏間,聞院僧於庭布算聲,而謂其徒曰:「今日當有弟子自遠求吾演算法,已合到門,豈無人導達也?」即除一算。又謂曰:「門前水當卻西流,弟子亦至。」一行承其言而趨入,稽首請法,盡受其術焉,而門前水果卻西流。道士邢和璞嘗謂尹愔曰:「一行其聖人乎?漢之洛下閎造曆,云:'後八百歲當差一日,必有聖人正之。'今年期畢矣,而一行造《大衍》正其差謬,則洛下閎之言,信矣!非聖人而何?

泓師 附

原文泓師 附

時に又た黄州の僧泓有り。葬法に善し。毎に山原を行視し、即ちこれがために図を為す。張説深くこれを信重す。

原文時又有黃州僧泓者,善葬法。每行視山原,即為之圖,張說深信重之。

桑道茂

原文桑道茂

桑道茂は、大曆中京師に游び、太一遁甲五行災異の説に善く、事を言うに中らざること無し。代宗これを禁中に召し、翰林に待詔す。建中初、神策軍奉天城を修す。道茂その垣牆を高くし、大いに制度せんことを請う。徳宗これを省みず。及び朱泚の乱、帝蒼卒に出幸し、奉天に至り、方に道茂の言を思う。時に道茂は已に卒す。命じてこれを祭る。

原文桑道茂者,大曆中游京師,善太一遁甲五行災異之說,言事無不中。代宗召之禁中,待詔翰林。建中初,神策軍修奉天城,道茂請高其垣牆,大為制度,德宗不之省。及硃泚之亂,帝蒼卒出幸,至奉天,方思道茂之言。時道茂已卒,命祭之。

【贊】

原文【贊】

賛に曰く、術数の精は、事必ず前に知る。粲として垂象の如く、変を告げて疑い無し。怪誕の夫、蓍亀を誣罔す。彼の庸妄を致して、時に艱危なるを幸う。

原文贊曰:術數之精,事必前知。粲如垂象,變告無疑。怪誕之夫,誣罔蓍龜。致彼庸妄,幸時艱危。