旧唐書 巻一百九十中 列伝第一百四十中 文苑中

旧唐書

巻一百九十中 列伝第一百四十中 文苑中

郭正一

郭正一は、定州彭城の人である。貞観年間に進士に挙げられた。累次転任して中書舎人・弘文館学士となった。永隆二年、秘書少監に遷り、検校中書侍郎となり、魏玄同・郭待挙とともに同中書門下平章事となった。宰相が平章事を名乗るのは、正一等から始まったのである。永淳二年、正しく中書侍郎に除された。正一は中書に累年おり、旧事に明るく習熟し、また詞学を兼ね、制勅は多くその手から出たので、当時は称職と号された。則天が朝政に臨むと、国子祭酒に転じ、政事を知ることを罷めさせられた。まもなく出て晋州刺史となり、入って麟台監となり、また検校陝州刺史となった。永昌元年、酷吏に陥れられ、嶺南に流配されて死に、家口は籍没され、文集は多く遺失した。

先に、儀鳳年間、吐蕃が寇してきたとき、工部尚書劉審礼が兵十八万を率いて、蕃将倫欽陵と青海で戦い、王師は大敗し、審礼は陣中に没した。高宗は愕然とし、侍臣を召して戎を防ぐ策を問うた。正一は対えて言った、「吐蕃が障害をなすこと、年歳すでに久しく、将を命じ師を興すこと、相継いで絶えず、空しく士馬を労し、虚しく糧儲を費やし、近く討てば徒らに兵威を損ない、深く入れば未だ巣穴を窮めず。臣は望む、少しく兵募を発し、且つ辺を備え遣わし、烽候を明らかに立て、侵掠せしめざらんことを。国の用の豊かならんことを俟ち、人心の叶い同ずるにまかせ、これを数年寛かにすれば、一挙にして滅ぼすべし」と。給事中劉斉賢・皇甫文亮等もまた厳守を便とすべしと為した。正一の才略は、多くこの類であった。

元万頃

元万頃は、洛陽の人で、後魏の景穆皇帝の胤である。祖父の白澤は、武徳年間に総管となった。万頃は文を属することを善くし、起家して通事舎人に拝された。乾封年間、英国公李勣に従って高麗を征し、遼東道総管記室となった。別帥の馮本が大軍をもって裨将郭待封を援けようとしたが、船が破れて期に失した。待封は勣に書を作ろうとしたが、高麗がその救兵の至らざるを知り、危に乗じてこれを迫ることを恐れ、乃ち離合詩を作って勣に贈った。勣はその意を達せず、大いに怒って言った、「軍機切迫せるに、何ぞ詩を用いん。必ずこれを斬らん」と。万頃がこれを解釈したので、やっと止めた。

勣はかつて万頃に高麗を檄する文を作らせた。その語に高麗を譏って「鴨緑の険を守るを知らず」とあった。莫離支が報えて云う、「謹んで命を聞く」と。遂に兵を移して鴨緑を固守し、官軍は入ることができず、万頃はこれに坐して嶺外に流された。後に赦に会って還ることを得、著作郎に拝された。

時に天后は高宗に諷して広く文詞の士を召し禁中に入れて修撰せしめ、万頃は左史范履冰・苗神客、右史周思茂・胡楚賓とともに皆その選に預かり、前後『列女伝』・『臣軌』・『百僚新誡』・『楽書』等を撰して凡そ千余巻に及んだ。朝廷の疑議及び百司の表疏は、皆密かに万頃等に参決せしめ、以て宰相の権を分かたしめ、時人はこれを「北門学士」と謂った。

万頃は文を属すること敏速であったが、然し性疏曠にして、細節に拘わらず、儒者の風がなかった。則天が朝政に臨むと、鳳閣舎人に遷った。まもなく、鳳閣侍郎に擢げ拝された。

万頃は平素より徐敬業兄弟と善く友好し、永昌元年に酷吏に陥れられ、嶺南に配流されて死んだ。時に神客・楚賓はすでに卒し、履冰・思茂は相次いで酷吏に殺された。

附 范履冰

范履冰は、懐州河内の人である。周王府戸曹より召されて禁中に入り、凡そ二十余年を経た。垂拱年間、鸞台・天官の二侍郎を歴任した。まもなく春官尚書・同鳳閣鸞台平章事に遷り、国史を修するを兼ねた。載初元年、かつて逆を犯す者を挙げたことに坐して殺された。

附 苗神客

苗神客は、滄州東光の人である。官は著作郎に至った。

附 周思茂

周思茂は、貝州漳南の人である。幼い頃より弟の思鈞とともに早くから名を知られ、右史より転じて太子舍人となった。范履冰とともに禁中において最も親しく遇せられ、政事の損益に至るまで多く参預した。累遷して麟臺少監・崇文館學士となった。垂拱四年、獄に下されて死す。

附 胡楚賓

胡楚賓は、宣州秋浦の人である。文を綴るのに敏速で、毎度酒を半ば酣にした後に筆を執った。高宗は毎度文を作らせる際には必ず金銀の杯に酒を盛って飲ませ、そのまま杯を賜うた。楚賓は終日酣宴にふけり、家には蔵するものなく、費い尽くすと再び待詔に入り、賜物を得てはまた出た。しかし性質は慎み深く、禁中の事を言ったことはなく、酔った後に人から問われても、他の事で答えるのみであった。殷王文學より右史・崇賢直學士に拝されて卒す。

喬知之

喬知之は、同州馮翊の人である。父の師望は、高祖の女廬陵公主を尚し、駙馬都尉に拝され、官は同州刺史に至った。知之は弟の侃・備とともに文詞をもって知られ、知之は特に俊才と称せられ、作った篇詠は当時の人々に多く諷誦された。則天の時、累除して右補闕となり、左司郎中に遷った。知之に侍婢がおり、窈娘と称し、美麗で歌舞に長けていたが、武承嗣に奪われた。知之は怨み惜しみ、『緑珠篇』を作って情を寄せ、密かに婢に送ると、婢は感憤して自殺した。承嗣は大いに怒り、酷吏に諷して罪を羅織させてこれを誅した。

弟 侃

侃は、開元初年に兗州都督となった。

弟 備

備は、『三教珠英』の編修に預かり、長安年中に襄陽令の任上で卒した。

附 劉希夷

時にまた汝州の人劉希夷あり、従軍や閨情の詩を作ることを善くし、詞調は哀苦で、当時に重んぜられたが、志行を修めず、奸人に殺された。

劉允濟

劉允濟は、洛州鞏の人で、その先祖は沛国より移り住んだ。南齊の彭城郡丞愬の六代孫である。幼くして孤となり、母に事えて甚だ謹んだ。博学で文を綴ることを善くし、絳州の王勃と早くから名を並べ、特に相善くした。弱冠にして、本州より進士に挙げられ、累除して著作佐郎となった。允濟は嘗て魯哀公以後十二代より戦国に至る遺事を采摭し、『魯後春秋』二十巻を撰した。表を上ってこれを献じ、左史に遷り、弘文館を直すことを兼ねた。垂拱四年、明堂が初めて成ると、允濟は『明堂賦』を奏上して諷し、則天は甚だ嘉賞し、手製をもって褒め称え、著作郎に拝した。

天授年中、来俊臣に構えられ、死罪に当たるべきところ、その母が老いていることを以て、特にその余年を終えることを許し、なお獄に留め置かれた。久しくして、赦に会って免ぜられ、大庾尉に貶授された。長安年中、累遷して著作佐郎となり、国史の修撰を兼ねた。未だ幾ばくもなく、鳳閣舍人に擢拝された。中興の初め、張易之と款狎した罪により、左授されて青州長史となり、吏として清白で、河南道巡察使路敬潛に甚だ称薦された。尋いで母の憂に遭い、服闋して卒した。

富嘉謨

富嘉謨は、雍州武功の人である。進士に挙げられた。長安年間(701-704年)に、累次転任して晉陽尉となり、新安の呉少微と親しく交わり、同じ官職にあった。これ以前、文士が碑文や頌を撰するには、皆徐陵・庾信を宗としていたが、気調は次第に劣っていた。嘉謨と少微が文章を綴るには、皆経典を根本とし、当時の人々はこれを欽慕し、文体は一変して、富呉体と称された。嘉謨は『雙龍泉頌』『千蠋谷頌』を作り、少微は『崇福寺鐘銘』を撰したが、その文辞は最も高雅で、作者たちは推重した。并州長史張仁亶は彼らを殊礼をもって遇し、座れば必ず同じ榻にした。嘉謨は後に壽安尉となり、『三教珠英』の編纂に参与した。中興初年(705年)、左臺監察御史となり、卒した。文集五巻がある。

少微もまた進士に挙げられ、累次晉陽尉に至った。中興初年、吏部にて選考を受け、侍郎韋嗣立が称揚推薦し、右臺監察御史に任ぜられた。病臥していたが、嘉謨の死を聞き、泣いて詩を賦し、まもなくしてまた卒した。文集五巻がある。

嘉謨と少微が晉陽にいた時、魏郡の谷倚が太原主簿であり、皆文詞をもって著名で、当時の人々はこれを「北京三傑」と謂った。倚は後に流浪し、客死して、文章は散逸した。

少微の子の鞏は、開元年間(713-741年)に、中書舍人となった。

員半千

員半千は、本名を餘慶といい、晉州臨汾の人である。若い時、齊州の人何彥先と共に学士王義方に師事し、義方は彼らを嘉み重んじ、嘗て彼らに謂って曰く、「五百年に一人の賢者、足下がこれに当たるであろう」と。因って名を半千と改めた。義方が卒すると、半千と彥先は皆喪服を着て、喪が終わって去った。

上元初年(674年)、八科挙に応じ、武陟尉に授けられた。頻りに旱魃と飢饉が続いた年に属し、県令殷子良を勧めて倉を開き貧困飢餓者を賑済させようとしたが、子良は従わなかった。ちょうど子良が州へ赴く際、半千は便を図って倉の粟を発して飢えた人々に給した。懐州刺史郭齊宗は大いに驚き、これにより彼を糾問した。時に黄門侍郎薛元超が河北道存撫使となっており、齊宗に謂って曰く、「公は百姓を救うことができず、その恵みを一尉に帰せしめるとは、まことに愧じるべきではないか」と。直ちに釈放するよう命じた。まもなくまた嶽牧挙に応じた。

高宗が武成殿に臨御し、諸州の挙人を召し、親しく問うて曰く、「兵書に云う天陣・地陣・人陣とは、それぞれ何を謂うのか」と。半千が順序を越えて進み出て曰く、「臣が典籍を観ますに、この事は多くあります。或いは謂う、天陣は星宿の孤虚、地陣は山川の向背、人陣は偏伍の彌縫であると。臣の愚見を以てすれば、そうではないと謂います。そもそも師を出すに義を以てし、時に雨の如くあれば、天の時を得る、これが天陣です。兵は食に足るに在り、耕しつつ戦えば、地の利を得る、これが地陣です。兵を用いるに善き者は、三軍の士を使うに、父子兄弟の如くすれば、人の和を得る、これが人陣です。この三つが去れば、何を以て戦えましょうか」と。高宗は大いに嘆賞した。及び対策に臨み、上第に抜擢された。

垂拱年間(685-688年)に、累次補任されて左衛胄曹となり、仍って宣慰吐蕃使を充てられた。引見して辞する際、則天は曰く、「久しく卿の名を聞き、古人であると思っていたが、思いがけず朝列に在るとは。境外の小事は、卿を煩わすに足らず、宜しく留まって待制すべきである」と。即日に閣に入れて供奉させた。嗣聖元年(684年)、半千は左衛長史となり、鳳閣舍人王處知・天官侍郎石抱忠と共に弘文館直学士となり、仍って著作佐郎路敬淳と分かれて日に顯福門にて待制した。半千は因って『明堂新禮』三巻を撰し、これを上進した。則天が中嶽を封ずるに際し、半千はまた『封禪四壇碑』十二首を撰して進めると、則天は善しと称した。前後して絹千余匹を賜った。

長安年間(701-704年)に、五度遷って正諫大夫となり、右控鶴內供奉を兼ねた。半千は、控鶴の職は古来その事がなく、またこの任に授かる者は概ね軽薄であり、朝廷が徳を進める選びではないとして、上疏してこれを廃止するよう請うた。これにより旨に逆らい、水部郎中に左遷され、『三教珠英』の編纂に参与した。

中宗の時、濠州刺史となった。えい宗が即位すると、征召されて太子右諭德に拝され、崇文館学士を兼ね、銀青光祿大夫を加えられ、累次封ぜられて平原郡公となった。開元二年(714年)に卒した。文集は多く散逸した。半千と同時の学士に丘悦がいる。

附 丘悦

丘悦は、河南陸渾の人である。また学業があった。景龍年間(707-710年)に、相王府掾となり、文学韋利器・典簽裴耀卿と共に王府直学士となった。睿宗が藩王であった時、彼を甚だ重んじ、官は岐王傅に至った。開元初年(713年)に卒した。『三國典略』三十巻を撰し、当時に流行した。

劉憲

劉憲は、宋州寧陵の人である。父の思立は、高宗の時に侍御史となった。河南・河北が旱魃で凶作となった際、御史中丞崔謐らを分遣して巡撫し、救済を与えようとした。思立は上疏して諫めて言うには、「今は麦の季節がちょうど秋で、養蚕の仕事もまだ終わっておらず、三時の農務は万民の最優先事である。勅使が巡撫するとなれば、人々は皆、恐れ敬って家業を忘れ、この天恩を期待し、躍り上がって参迎しようとするので、必ずや抑止するのは難しい。群衆が集まれば、妨げと廃業も多くなる。加えて道程の往復があり、また朝夕の滞在もある。救済を与えるためとて、帳簿を作成しなければならず、元は安んじ存撫しようとしたのが、却って煩わしい騒擾となる。また駅舎のないところでは、馬の手配がやや難しい。公私の馬を選び出すには、あらかじめ召集しておかねばならない。雨後の農務は、特に常情に切実であり、暫くの間でも廃すれば、すぐに年の収穫を損なう。一頭の馬のために、数家を煩わせることとなり、これが相乗すれば、恐らくは更に甚だしくなるであろう。暫くは州県に委ねて救済させ、秋の閑暇時を待って使者を出し、褒貶なさることを望みます」と。疏が奏上されると、崔謐らは遂に行かなかった。後に考功員外郎に遷り、初めて明経科に帖試を加えること、進士科に雑文を試すことを奏請したのは、思立が始めである。間もなく官のまま卒した。

憲は弱冠にして進士に挙げられ、累次して冬官員外郎に除された。

天授年間、詔を受けて来俊臣を推問した。憲はその残酷暴虐を憎み、事に因ってこれを糾そうとしたが、反って俊臣に陥れられ、濆水令に貶された。再び司仆丞に遷った。俊臣が誅せられると、憲を抜擢して給事中とし、間もなく鳳閣舍人に転じた。

神龍初年、かつて張易之に引き立てられたことが坐して、吏部侍郎から出向して渝州刺史となった。俄かにまた召されて太仆少卿となり、国史の修撰を兼ね、修文館学士を加えられた。景雲初年、三度遷って太子詹事となった。

玄宗が東宮にあった時、経籍に留意された。憲は因って上啓して言うには、「古より今に至るまで、皆学を重んじる。盛徳を光耀し、令聞を発揚し、身心を安静にし、家国を保寧するには、これに加えるものはない。殿下は副君の位に居り、絶人の才をお持ちである。豈に章句を尋ねることを仮る必要があろうか。大略大意を知ることを資とし、用功は甚だ少なく、利は極めて多い。伏して願わくは、美志を克く成し、暇日を棄てず、上は至尊の心を慰め、下は庶僚の望に答えられますように。侍読の褚無量は、経に明らかで行い修まり、耆年の宿望である。時折召し出して問い、その言を察せられますことを、幸甚です」と。玄宗は甚だ嘉してこれを納れた。翌年、憲は卒し、兗州都督を贈られた。文集三十巻がある。

初め則天の時、吏部に命じて選人の判文を糊名して考選し、才彦を求めさせた。憲と王適・司馬锽・梁載言が相次いで判文が第二等に入った。

付 王適

王適は、幽州の人である。官は雍州司功に至った。

付 司馬皪

司馬皪は、洛州溫の人である。神龍年間、黄門侍郎の任上で卒した。

付 梁載言

梁載言は、博州聊城の人である。鳳閣舍人を歴任し、専ら制誥を知った。『具員故事』十巻、『十道志』十六巻を撰し、共に当時に伝わった。中宗の時に懷州刺史となった。

沈佺期

沈佺期は、相州內黃の人である。進士に挙げられた。長安年間、累次して通事舍人に遷り、『三教珠英』の修撰に預かった。

佺期は文を属することを善くし、特に七言の作に長け、宋之問と齊名し、当時の人は沈宋と称した。再び転じて考功員外郎となったが、贓罪に坐して嶺表に配流された。神龍年間、起居郎を授けられ、修文館直学士を加えられた。後に中書舍人・太子詹事を歴任した。開元初年に卒した。文集十巻がある。

弟の全交および子も、また文詞をもって知名なり。

陳子昂

陳子昂は、梓州射洪の人なり。家世は富豪なり。子昂は独り苦節を守りて書を読み、特に文を属することを善くす。初め『感遇詩』三十首を作る。京兆司功王適これを見て驚きて曰く、「この子必ず天下の文宗とならん」と。ここより知名となる。進士に挙げらる。時に高宗崩じ、霊駕将に長安に還らんとす。子昂闕に詣でて上書し、盛んに東都の形勝を陳べ、以て山陵を安置すべく、関中は旱魃にて凶作、霊駕西行は便ならずと曰う。

梓州射洪県の草莽の愚臣子昂、謹みて頓首し死を冒して書を闕下に献ず。臣聞く、明王は切直の言を悪まずして忠を納れ、烈士は死亡の誅を憚らずして極諫すと。故に非常の策ある者は、必ず非常の時を待ち、非常の時を得る者は、必ず非常の主を待つ。然る後に危言正色し、義を抗し辞を直くし、湯鑊に赴いても回らず、誅夷に至りても悔い無し。豈に徒らに世を詭り俗を誇り、生を厭い死を楽しまんとするのみならんや。実に身を殺すの害は小さく、国を存するの利は大なりと以為うが故なり。故に計を審にし議を定めて甘心す。況んや非常の時を得、非常の主に遇い、言必ず用いられんこと獲ば、死すとも何ぞ驚かん。千載の跡、将に不朽を今日にせん。伏して惟うに、大行皇帝天下を遺し、群臣を棄てたまう。万国震驚し、百姓屠裂す。陛下徇斉の聖を以て、宗廟の重きを承け、天下の望み、喁喁たるが如し。冀わくは聖化に蒙りて余年の保たれんことを蒙らざるは莫く、太平の主、将に復た茲に在らんとす。況んや皇太后また文母の賢を以て、軒宮の耀に協い、軍国の大事、遺詔にこれを決す。唐虞の際、斯に於いて盛んなり。臣詔書を伏して見るに、梓宮将に西京に遷り、鸞輿も亦た陪幸せんと欲す。計は上策に非ず、智者図を失う。廟堂に未だ骨鯁の謨あるを聞かず、朝廷に多く順従の議あるを見る。臣窃かに惑いて以て過ちたりと為す。伏してこれを思うに、聖日に生れ、皇風に沐し、頂より踵に至るまで、亭育に非ざるは莫し。丹鳳に歴り、濯龍に抵り、北面して玉階に、東に向かって金屋を望み、音を抗して正諫せざるは、聖王の罪人なり。故に万死を顧みず、一言を献ぜんことを乞い、願わくは聴覧に蒙り、甘んじて鼎鑊に就かん。伏して惟うに陛下これを察したまわんことを。臣聞く、秦都咸陽の時、漢都長安の日、山河を以て固と為し、天下服せり。然れども猶北は胡・宛の利を取り、南は巴蜀の饒を資く。渭より河に入り、関東の粟を転じ、沙を逾え漠を絶ち、山西の儲を致す。然る後に能く天下を削平し、諸侯を弾圧し、長轡利策を以て、宇宙を横制す。今は則ち然らず。燕・代は匈奴の侵に迫られ、巴・隴は吐蕃の患に嬰る。西蜀は疲老し、千里糧を贏す。北国の丁男、十五にして塞に乗ず。歳月奔命し、その弊堪えず。秦の首尾、今は闕けり。即ち余る所の者は、独り三輔の間のみ。頃に荒饉に遭い、人饑饉に薦る。河より已西は、赤地に非ざるは莫く、隴に循いて已北は、青草に逢うこと罕なり。父兄転徙し、妻子流離し、家を委ね業を喪い、膏は原に潤いは莽にす。これ朝廷の備え知る所なり。頼むらくは宗廟の神霊、皇天禍を悔い、去歳薄稔、前秋稍く登り、羸餓の余をして、性命を保たしむ。天下幸甚、厚しと謂うべし。然れども流人は未だ返らず、田野は尚お蕪れ、白骨縦横し、阡陌主無し。蓄積に至りては、尤も哀傷すべし。陛下その難きを料らず、先意に貴び従わんとし、遂に長駆して大駕をし、節を按じて秦京に至らんと欲す。千乗万騎、何方にか取給せん。況んや山陵初めに制し、穿復未だ央かず。土木工匠は、必ず徒役を資とす。今疲弊の衆を率い、数万の軍を興し、近畿を征発し、羸老を鞭撲し、山を鑿り石を採り、これを駆りて功に就かしめんと欲す。春作時無く、秋成絶望し、雕瘵遺噍、再び艱苦に罹らん。倘し弊に堪えずんば、必ず逋逃あり。「子来」の頌、将に何を以てこれを述べん。これ亦た宗廟の大機、審に図らざるべからざるなり。況んや国に兼歳の儲無く、家に匝時の蓄鮮し。一句雨降らずとも、猶お深く憂うべく、忽ち水旱を加うれば、人何を以てか済わん。陛下始終を深く察せず、独り群議に違わんとす。臣三輔の弊、前日の如きに止まらざることを恐る。且つ天子は四海を以て家と為し、聖人は六合を包みて宇と為す。邃古を歴観し、今に至るまで、何ぞ嘗て三王を仁と為し、五帝を聖と為さざらん。周公制作し、夫子著明すと雖も、堯舜を祖述し、文武に憲章せざるは莫く、百王の鴻烈と為り、千載の雄図を作す。然れども舜は陟方に死し、蒼梧に葬られて返らず。禹は群後を会し、稽山に歿して永終す。豈に蛮夷の郷を愛し中国を鄙しむや。実に将に聖人の外無きことを示さんと欲するなり。故に能く墳籍をして美談と為さしめ、帝王をして高範と為さしむ。況んや我が巍巍たる大聖、帝を轢き皇に登り、日月の照らす所、率俾ならざるは莫し。何ぞ独り秦・豊の地、山陵を置くべく、河・洛の都、園寝に堪えざらん。陛下豈にこれを察せざらんや。愚臣窃かに陛下の為に惜しむ。且つ景山は崇麗にして、秀でて群峰に冠たり。北にすう・邙に対し、西に汝海を望み、祝融の故地に居り、太昊の遺墟に連なる。帝王の図跡、左右に縦横す。園陵の美、復た何をか加えん。陛下曾てこれを察せず、その不可と謂う。愚臣の鄙見、良く尚ぶに足る。況んや瀍・澗の中、天地交会し、北に太行の険有り、南に宛・葉の饒有り、東は江・淮を圧し、湖淮の利を食み、西は崤・澠に馳せ、関河の宝を据う。聰明の主を以て、純粋の人を養い、天下和平し、恭己して正しく南面するのみ。陛下瀍・洛の壮観を思わず、関・隴の荒蕪を欲し、乃ち太山の安きを棄て、焦原の険きを履み、神器の大宝を忘れ、曾・閔の小節に徇わんとす。愚臣暗昧、以て甚だしと為す。陛下何ぞ争臣の策を覧ずることなく、行路の謡を采ることなく、太后に諮謨し、宰輔に平章して、蒼生の望みをして安んずる所有るを知らしめざる。天下豈に幸甚ならざらんや。昔者平王都を遷し、光武洛に都す。山陵寝廟、東京に在らず。宗社墳塋、並びに西土に居る。然れども『春秋』は始王と為して美し、『漢書』は代祖と載す。豈に孝を願わざらんや。何ぞ聖賢の褒貶斯に濫る。実に時に不可有り、事に必然有るが故なり。蓋し小を遺して大を存し、禍を去りて福に帰せんと欲するは、聖人の貴ぶ所なり。夫れ小を忍ばざれば、大謀を乱る。仲尼の至誡、願わくは陛下これを察せん。若し臣の愚を用いず、朝議遂に行わるれば、臣関・隴の憂い、時を休むること無からんことを恐る。臣又聞く、太原は鉅万の倉を蓄え、洛口は天下の粟を積む。国家の資、斯れ大なり。今これを捨てて顧みず、背きて長駆せんとし、識有る者をして驚嗟せしめ、天下失望せしめん。倘し鼠窃狗盗、万一図らず、西は陜州の郊に入り、東は武牢の鎮を犯い、敖倉一抔の粟を盗まば、陛下何を以てかこれを遏がん。これ天下の至機、深く懼れざるべからざるなり。盗未だ旋踵せずと雖も、誅刑已に及び、その九族を滅し、その妻子を焚くとも、辜を泣きて恨むと雖も、将に何を以てか及ばん。故に曰く、「先ず謀りて後に事する者は逸し、先ず事して後に謀る者は失う」と。「国の利器は、以て人に示すべからず」と。斯の言豈に徒らに設くるのみならんや。固より願わくは陛下これを念わんことを。

則天武后が召見し、その応対を奇異とし、麟臺正字に任じた。則天が雅州に出兵して生羌を討伐しようとしたとき、子昂は上書して言うには、

麟臺正字の臣子昂、昧死して上言す。臣が道で聞くところによれば、国家は蜀山を開き、雅州の道から入って生羌を討伐し、それに乗じて吐蕃を襲撃しようとしているという。執事の者がその利害を審らかに図らず、梁・鳳・巴蜒の兵を発してこれに従事させた。臣愚かにも考えるに、西蜀の禍はここから結ばれるであろう。臣は聞く、乱が生ずるのは必ず怨みによるものであると。雅州の辺境の羌は、国初以来、一日も盗賊となったことがない。今、一旦罪なくして殺戮を受ければ、その怨みは必ず甚だしいであろう。怨みが甚だしく誅罰を恐れれば、必ず西山に蜂起するであろう。西山に盗賊が起これば、蜀の辺邑は兵を連ねて備え守らざるを得なくなる。兵が久しく解かれなければ、蜀の禍が構築されるであろう。昔、後漢末に西京が喪敗したのは、まさにこの諸羌によるものである。これが第一の事である。また臣は聞く、吐蕃は桀黠な虜であり、君長は互いに信頼し、多くの奸謀を持っていると。敢えて天誅に抗して以来、近く二十余年に向かい、大戦すれば大勝し、小戦すれば小勝し、一隊を敗れさせ、一夫を亡くしたことがない。国家はかつて薛仁貴・郭待封を虓武の将とし、大非の川で十一万の衆を屠り、一甲も返らなかった。また李敬玄・劉審礼を廊廟の器とし、青海の沢で十八万の衆を辱め、身は虜庭に囚われた。この時、精甲勇士は勢い雲雷の如くであったが、然るに竟に一戎を擒にし、一醜を馘ることができず、今に至って関・隴は空となった。今、李処一を将とし、憔悴の兵を駆って、吐蕃を襲撃しようとしている。臣はひそかにこれを憂い、この虜に笑われるであろうと考える。これが第二の事である。また事には利を求めて害を得るものがある。蜀は昔、中国と通じていなかったが、秦の恵王は天下に帝たろうとして諸侯を併せ、幹を兼ねずして蜀を取らなければ、勢い挙げられないと考え、張儀の計を用い、美女を飾り、金牛を譎して、間隙を利用して蜀侯を啖らせた。蜀侯は果たしてその利に貪り、五丁の力士に命じて谷を穿ち、褒斜に棧道を設け、秦への道を置いた。ここより険阻は関わらず、山谷は閉ざされず、張儀は踵を躡んで便に乗じ、兵を縦って大いにこれを破り、蜀侯は誅せられ、幹邑は滅んだ。今に至るまで蜀は中州となったが、これは利に貪って亡んだのである。これが第三の事である。また臣は聞く、吐蕃の羯虜は蜀の珍富を愛し、これを盗もうと欲し、久しく日があると。しかしその勢い挙げられないのは、ただ山川が阻絶し、障隘が通じないからであり、これが餓狼の喙を頓えて侵食できない所以である。今、国家は辺羌を撤き、隘道を開き、彼らに奔亡の種を収めさせ、向導として辺境を攻めさせようとしている。これは寇に兵を借りて賊に道を除き、全蜀を挙げてこれに遺すようなものである。これが第四の事である。臣はひそかに観るに、蜀は西南の一都会であり、国家の宝庫であり、天下の珍貨がここから聚出する。また人は富み粟は多く、江に順って下れば、中国を兼ねて済すことができる。今、執事の者は僥倖の利を図り、悉くこれを西羌に委ねて事としようとしている。地は国を富ますに足らず、ただ無辜の衆を殺して、陛下の仁を傷つけるのみである。糜費はこれに随い、聖徳に益するところがない。また況や僥倖の利は、図るべからざるものである。これが第五の事である。蜀の恃むところは、険があることである。人の安んずるところは、役がないことである。今、国家はその険を開き、その人を役す。険が開けば寇に便であり、人が役せられれば財を傷つける。臣は羌戎を見ずして、既に奸盗がその中にあることを恐れる。往年、益州長史李崇真はこの奸利を図り、檄を伝えて吐蕃が松州を寇しようとしていると称し、遂に国家に盛んな軍師をさせ、大いに転餉してこれを備えさせた。二三年を経ずして、巴蜀二十余州は騒然として大いに弊し、竟に吐蕃の面を見ず、崇真の贓銭は既に巨万を計った。蜀人は残破し、幾ばくか命に堪えざるほどであった。この近事は、なお人の口に在り、陛下の親しく知るところである。臣愚かにも考えるに、奸臣がこの利を図り、また生羌を計とする者がいないであろうか。これが第六の事である。また蜀人は尪劣で、兵戦に習わず、一虜が矛を持てば、百人も敢えて当たる者はない。また山川は阻曠で、中夏の精兵の処から遠い。今、国家がもし西羌を撃ち、吐蕃を掩えば、遂にその国を破滅し、その人を奴虜とし、その君長の首を北闕に繫ぐことができれば、計りごともまた可である。もしこのようにならなければ、臣は蜀の辺陲が守られず、羌夷に横暴されるのを見るであろう。昔、辛有が被髪で伊川を祭る者を見て、百年を出でずして、ここに戎となるとした。臣は百年に及ばずして蜀が戎となることを恐れる。これが第七の事である。また国家は近ごろ安北を廃し、単於を抜き、亀茲を棄て、疏勒を放ち、天下は翕然としてこれを盛徳と謂った。その所以は何か。蓋し陛下が務める所は仁に在り、広さに在らず。務める所は養いに在り、殺しに在らぬからである。これをもって辺鄙を息め、甲兵を休め、三皇・五帝の事を行おうとしているのである。今また貪夫の議に従い、兵戈を動かすことを謀り、無罪の戎を誅して、全蜀の患を遺そうとしている。どうして天下に令せんとするのか。これが愚臣の甚だ悟らざる所以である。況や当今、山東は饑え、関・隴は弊れ、歳を歴て枯旱し、人に流亡がある。誠に聖人が寧静し、天人を和することを思う時であり、甲兵を動かし、大役を興して、自ら乱を生ずるべからざる時である。臣はまた流聞するに、西軍は守りを失い、北軍は利あらず、辺人は忙動し、情に不安があると。今またこの兵を駆り、不測に投じようとしている。臣は聞く、古より亡国破家は、未だ嘗て黷兵によらざるはないと。今、小人が夷狄の利を議するのは、帝王の至徳ではなく、また況や中夏を弊するにおいてをやである。臣は聞く、古の天下を善く為す者は、大を計りて小を計らず、徳を務めて刑を務めず。その安を図ればその危を思い、その利を謀ればその害を慮り、然る後に能く長く福祿を享けると。伏して願わくは、陛下熟計せられんことを。

再び右拾遺に転じた。数度上疏して事を陳べ、詞は皆典美であった。時に同州下邽の人徐元慶あり、父が県尉趙師韞に殺された。後に師韞が御史となると、元慶は姓名を変えて駅家で傭力し、師韞を待ち、手ずから刃を以てこれを殺した。議者は元慶の孝烈を以て、その罪を赦そうとした。子昂は建議して、「国法は専殺する者は死すとし、元慶は正しく国法に従うべきであり、その後その閭墓を旌して、その孝義を褒めるのが可である」とした。当時の議者は、皆子昂を是とした。俄かに麟臺正字を授けられた。武攸宜が軍を統べて北で契丹を討つとき、子昂を管記とし、軍中の文翰は皆これに委ねた。

子昂の父は郷里に在って、県令段簡に辱められた。子昂はこれを聞き、急いで郷里に還った。簡は因って事を以てこれを収めて獄中に繫ぎ、憂憤して卒した。時に年四十余であった。

子昂は褊躁で威儀がなかったが、然るに文詞は宏麗で、甚だ当時に重んぜられた。集十巻あり、友人黄門侍郎盧蔵用がこれに序を為し、代に盛行した。

子昂の卒後、益州成都の人閭丘均もまた文章を以て著称した。景龍年中、安楽公主に薦められ、起家して太常博士に拝された。而して公主が誅せられると、均は坐して貶せられ循州司倉となり、卒した。集十巻あり。

宋之問

宋之問は、虢州弘農の人である。父の令文は、勇力があり、書をよくし、文章を作るのが巧みであった。高宗の時、左驍衛郎将・東臺詳正学士となった。之問は弱冠にして名を知られ、特に五言詩に長じ、当時彼の右に出る者はなかった。初め徴令により楊炯とともに内教に分かれて直し、まもなく洛州参軍を授けられ、累進して尚方監丞・左奉宸内供奉となった。易之兄弟はその才能を殊に愛し、之問もまた傾倒して付き従った。『三教珠英』の編纂に預かり、常に扈従して遊宴に従った。則天が洛陽の龍門に行幸した時、従官に詩を作らせたところ、左史の東方虬の詩が先に出来上がったので、則天は錦の袍を賜った。之問の詩が出来上がると、則天はその言葉がさらに優れていると称し、虬から錦の袍を奪って之問に賞与した。

易之らが敗れると、左遷されて瀧州参軍となった。間もなく逃げ帰り、洛陽の人張仲之の家に匿われた。仲之は駙馬都尉の王同皎らとともに武三思を謀殺しようと企てたが、之問は兄の子に命じてその事を告発させ、自ら贖罪しようとした。同皎らが罪を得ると、之問を起用して鴻臚主簿とし、これによって深く義士たちからそしりを受けた。

景龍年中、再び転じて考功員外郎となった。当時、中宗は修文館学士を増設し、朝中の文学の士を選んだが、之問は薛稷・杜審言らとともに真っ先にその選に応じ、当時栄誉とされた。科挙を主管すると、後進を引き抜き、多く名を知られる者を出した。まもなく転じて越州長史となった。

睿宗が即位すると、之問がかつて張易之・武三思に付き従ったことを理由に、欽州に配流した。先天年中、配流先で賜死された。之問は再び流謫され、長江・五嶺の地を経て、その間に作った詩篇は、遠近に伝わった。友人の武平一がこれを編纂し、十巻にまとめて世に伝えた。

世間では之問の父を三絶とし、之問は文詞で名を知られ、弟の之悌は勇力があり、之遜は書に長じたので、論者はそれぞれ父の一絶を得たと言う。

弟 之悌

之悌は、開元年中に右羽林将軍から出て益州長史・剣南節度兼采訪使となった。まもなく太原尹に遷った。

閻朝隱

閻朝隱は、趙州欒城の人である。若い時、兄の鏡幾・弟の仙舟とともに名を知られた。朝隱の文章は『風』『雅』の体こそないが、奇を構えるのが巧みで、当時の人々に大いに賞賛された。累進して給事中となり、『三教珠英』の編纂に預かった。張易之らが作った詩篇は、多くは朝隱および宋之問が密かに代作したものである。聖暦二年、則天が病に伏せると、朝隱を少室山に遣わして祈禱させた。朝隱は巧みに媚びへつらい、自らを犠牲として、天子の苦しみに代わらんことを請うた。則天が回復に向かうと、絹彩百匹・金銀器十事を賜った。まもなく転じて麟臺少監となった。易之が誅殺されると、連座して嶺外に流された。まもなく召還された。先天年中、再び秘書少監となった。また事に坐して通州別駕に貶せられ、任地で死去した。

朝隱が『三教珠英』を編纂した時、成均祭酒の李嶠と張昌宗が修書使となり、天下の文詞の士をことごとく集めて学士とし、その列に預かった者に、王無競・李適・尹元凱がおり、ともに当時名を知られた。その他に事跡のある者は、それぞれその本伝に見える。

附 王無競

王無競は、字を仲烈という。その先祖は瑯邪の人で、官職のため東萊に移り住み、宋の太尉王弘の十一代孫である。父の侃は、棣州司馬であった。

無競は文学があり、初め下筆成章挙に応じて及第し、官途につき趙州欒城県尉を授けられ、秘書省正字を歴任し、右武衛倉曹・洛陽県尉に転じ、監察御史に遷り、殿中に転じた。旧例により、毎日殿前で交代で宿直した。正班の時、宰相の宗楚客・楊再思がしばしば班を離れて私語をしていたので、無競が進み出て言うには、「朝礼は最も敬うべきものであり、公ら大臣は、軽々しく恒例の儀礼を怠るべきではありません」と。楚客らは大いに怒り、無競を太子舎人に転じさせた。神龍初年、権勢ある者を誹謗した罪に坐し、出されて蘇州司馬となった。張易之らが敗れると、かつて交際があったことを理由に、再び嶺外に貶せられ、広州で死去した。享年五十四。

附 李適

附 尹元凱

尹元凱は、瀛州楽寿の人である。初め磁州司倉となり、事に坐して免ぜられ、乃ち山林に棲み遅れ、仕進を求めず、ほぼ三十年を経た。張説・盧蔵用と特に相善くし、征されて右補闘に拝された。并州司馬の任にて卒した。

賈曾

賈曾は、河南洛陽の人である。父の言忠は、乾封年間に侍御史となった。時に朝廷は遼東に事有り、言忠は使を奉じて軍糧を支給しに行った。帰還すると、高宗は軍事について問うた。言忠はその山川地勢を図示し、及び遼東を平定し得る状況を陳べたので、高宗は大いに悦んだ。また諸将の優劣を問うと、言忠は言った、「李勣は先朝の旧臣であり、聖鑑の悉く知る所です。龐同善は闘将ではないが、軍を厳整に保ちます。薛仁貴は勇は三軍に冠たり、名は敵を振るわしめます。高侃は倹素を以て自ら処し、忠果にして謀有り。契苾何力は沈毅にして持重、統御の才有り、然れども頗る前を忌む癖有り。諸将の夙夜小心、身を忘れて国を憂うるは、李勣に過ぐる者無し」。高宗は深く然りとした。累ねて吏部員外郎に転じた。事に坐して左遷され邵州司馬となり、卒した。

曾は少にして名を知られた。景雲年間、吏部員外郎となった。玄宗が東宮に在った時、盛んに宮僚を選び、曾を太子舎人に拝した。時に太子は頻りに使を遣わして女楽を訪ね召し、宮臣に命じて率更署に就き楽を閲させ、多く女妓を奏した。曾は啓して諫めて言った、

臣は聞く、楽を作して徳を崇ぶるは、以て人神を感ぜしむと。《韶》《夏》には容有り、《咸》《英》には節有り、婦人の媟黷は、其の間に豫せず。昔、魯は孔子を用いて、幾くば霸に至らんとす、斉人は之を懼れ、女楽を以て饋る。魯君既に受けしが故に、孔子は行く所以なり。戎に由余有り、兵強く国富めり、秦人は反間を為し、之に女妓を遺す。戎王耽悦す、由余乃ち奔る。斯れ則ち大聖名賢の、之を嫉むこと久しき所以なり。良に婦人を以て楽と為すは、必ず冶容を務め、哇姣は心を動かし、蠱惑は志を喪わしむ。上行れば下效い、淫俗将に成らんとす。国を敗り人を乱るは、実に茲より起こる。

伏して惟うに、殿下は神武にして命世し、文思登庸せられ、宇内颙颙として、徳化を瞻仰す。然るに賢を渇仰するの美は、未だ民心に被らず。妓を好むの声は、或いは人聴に聞こゆ。豈に啓・誦の徽烈を追い、堯・舜の英風を襲う者ならんや。至りて監撫の余閑、宴私の多豫、後庭の妓楽は、古より或いは之れ有り。以て人を風するに非ざれば、弊と為すも猶ほ隠る。至りて所司の教習、群僚に章示するに、慢伎淫声は、実に睿化を虧く。伏して願わくは、教令を下し、徳音を発し、倡優を屏け、《雅》《頌》を敦くし、率更の女楽は並びに禁断を令し、諸使の采召は一切皆停められんことを。然らば則ち朝野内外、皆殿下の鄭を放ち佞を遠ざけ、輝光日新たなるを知り、凡そ含生に在る者、孰か欣戴せざらん。

太子は手令を以て答えて曰く、「比来公正直なるを聞くこと嘗て有り、信じ亦虚しからず。寡人は近日頗る典籍を尋ね、政化に至りては偏に心を留む。女楽の徒も亦擬て禁断せんとす。公の言う所、雅に本意に符す」。俄に特曾を中書舎人に授けんとす。曾は父の名が忠なるを以て、固く辞す。乃ち諫議大夫・知制誥に拝した。

明年、南郊に事有り、有司議を立て、唯だ昊天上帝を祭り、皇地祇の位を設けず。曾は奏議して曰く、「南郊方丘に於て、皇地祇及び従祀等の坐を設けられんことを請う。然らば則ち礼は惟だ古を稽え、義は情に縁りて得る」。睿宗は宰相及び礼官に詳議を令し、竟に曾の奏する所に依った。開元初、復た中書舎人に拝せんとす。曾又固く辞す。議者は中書は曹司の名であり、又曾の父と音同じく字別なるを以て、礼に嫌無しとし、曾乃ち職に就く。蘇晋と同く制誥を掌り、皆詞学を以て知られ、時人蘇賈と称す。曾後事に坐し、洋州刺史に貶せられた。開元六年、玄宗旧を念い、特恩を以て甄叙し、慶・鄭等州刺史を歴て、入りて光禄少卿に拝し、礼部侍郎に遷った。十五年卒す。

子 至

子の至。至は、天宝末に中書舎人となった。禄山の乱に、上皇に従い蜀に幸す。時に粛宗は霊武に即位し、上皇は至を遣わして伝位冊文を作らせた。上皇之を覧み、嘆じて曰く、「昔、先帝朕に位を遜る、冊文は則ち卿の先父の為す所なり。今朕神器大宝を以て儲君に付す、卿又当に誥を演ず。累朝の盛典、卿父子の手より出づ、謂う可し難しと」。至は御前に伏し、嗚咽感涕す。

宝慶二年、尚書左丞となった。時に礼部侍郎楊綰が上疏し、古制に依ることを請うた。県令は刺史に孝廉を挙げ、其の通ずる所の学を試し、名を省に送る。省試は毎経義を問うこと十条、対策三道、其の通ずる否やを取る。詔して左右丞・諸司侍郎・大夫・中丞・給・舍等に参議を令す。議者は多く綰と同し。至は議して曰く、

夏の政は忠を尚び、殷の政は敬を尚び、周の政は文を尚ぶ。然らば則ち文と忠・敬は、皆人の行を統ぶるなり。是の故に前代は文を以て士を取る、本は行なり。詞を以て行を観る、則ち詞に及ぶ。宣父は「顔子は怒を遷さず、過を貳せず」と称し、之を「好学」と謂う。春秋を修むるに至りては、則ち遊・夏も一辞を措く能わず、亦明らかならずや。間者、礼部人の取るに、斯の義に乖れり。学者を試むるに帖字を以て精通と為し、旨義を窮めず、豈に「怒を遷し過を貳す」の道を知らんや。文を考うるに声病を以て是非と為し、唯だ浮艶を択び、豈に風を移し俗を易え天下を化するの事を知らんや。是を以て上は其の源を失い、下は其の流を襲い、流に乗り波蕩し、止まる所を知らず、先王の道、行う能わざるなり。夫れ先王の道消ゆれば、則ち小人の道長し。小人の道長ずれば、則ち乱臣賊子是より出ず。臣其の君を弑し、子其の父を弑すは、一朝一夕の故に非ず、其の由来する所漸し。漸とは何ぞ。儒道挙げられず、士を取るの失なり。夫れ一国の事は、一人の本に系る、之を風と謂う。其の風を讃揚するは、卿大夫に系る。卿大夫何ぞ嘗て士より出でざらんや。今士を取るに、小道を以て之を試み、遠き者大なる者を以てせず、禄を幹くの徒をして末術に趨馳せしむ、是れ誘導の差なり。所以に禄山一呼すれば、四海震蕩す。思明再乱すれば、十年復たず。向使礼譲の道弘く、仁義の風著しからば、則ち忠臣孝子、比屋に封ず可く、逆節萌え得ず、人心動かし得ざるなり。

且つ夏は天下を有すること四百載、禹の道喪われて、殷始めて興る。殷は天下を有すること六百祀、湯の法棄てられて、周始めて興る。周は天下を有すること八百年、文・武の政弊れて、秦始めて並ぶ。三代の士を選び賢を任ずるを観るに、皆実行を考う、故に能く風俗淳一、運祚長遠なり。秦は儒士を坑し、二代にして亡ぶ。漢興り、雑に三代の政を用い、四科の挙を弘む、彼の四百に終わる、豈に学行道扇ぎ、化郷里に行われざらんや。魏より隋に至るまで、僅かに四百載、号を窃み位を僭し、徳義修めず、是を以て子孫速に顛し、享国皆促し。

国家は魏・晋・隋・梁の弊を革め、夏・殷・周・漢の業を承け、四隩既に宅り、九州攸に同く、覆幬生育し、徳天地に合す。安んぞ皇王の士を挙ぐるの道を捨て、乱代の人を取るの術に従わんや。此れ公卿大夫の辱なり。

今、西京には太学があり、州県には小学があるが、兵乱が一度起これば、生徒は離散し、儒臣や師氏は俸禄を得る由もなく、貢士は行実に相応せず、胄子は何をか講習せんとするや。礼部が毎年甲乙の第を擢てるのは、弘く奨励を為すと謂うが、その謬りならずや。ただ浮薄の風を長じ、僥倖の路を啓くのみである。国子博士等は、員数を加え、その禄秩を厚くし、通儒碩生をして間居してその職に就かしむることを望む。十道の大郡には、太学館を量り置き、博士をして外に出で、郡官を兼領せしめ、生徒を召し置き、故事に依らしめ、桑梓を保つ者は郷里に挙げ、流寓にある者は庠序に推せしむ。朝に行えば、夕にその利を見ん。

議者はこれを然りとす。宰臣等、挙人の旧業既に成り、速やかに改め難しと奏す。今年の挙人は、且つ旧に依らしむることを望む。賈至の議する所は、来年これを允す。

広徳二年、礼部侍郎に転ず。この年、至は時艱歳歉を以て、挙人の省に赴く者を、両都にて挙人を試すことを奏請す。至に始まる。永泰元年、集賢院待制を加う。大暦初め、兵部侍郎に改む。五年、京兆尹・兼御史大夫に転じ、卒す。

許景先

許景先は、常州義興の人、後に家を洛陽に徙す。少くして進士に挙げられ、夏陽尉を授かる。神龍初め、東都に聖善寺報慈閣を起つ。景先闕に詣でて『大像閣賦』を献じ、詞甚だ美麗なり。左拾遺に擢てて拝せらる。累遷して給事中に至る。開元初め、毎年賜射し、節級に物を賜う。年儉に属し、府庫を甚だ費やす。景先奏して曰く、

近臣三九の辰、頻りに宴射を賜い、既に格令に著し、猶綸言を降す。但だ古制存せず、礼章多く闕け、官員累倍し、帑蔵未だ充たず、水旱相仍き、之に師旅を継ぐ。既に徳を観るに足らず、又辺を威するに足らず。国を耗し人を損し、且つ急ならざるを為す。夫れ古の天子は、射を以て諸侯を選び、射を以て礼楽を飾り、射を以て容志を観る。故に『騶虞』『貍首』の奏、『采蘩』『采蘋』の楽有り。天子は則ち官を備うるを以て節と為し、諸侯は則ち時に会するを以て節と為し、卿大夫は法に循うを以て節と為し、士は職を失わざるを以て節と為す。皆志を審かにし行いを固くし、徳美しく事成り、陰陽克く和し、暴乱作らず。故に諸侯貢士も、亦射宮に試す。容体に虧有れば、則ち其の地を絀す。是れ諸侯君臣皆射に志を尽くす。射の礼や大いなるかな。今則ち然らず。衆官既に多く、鳴鏑乱れ下り、苟も獲るを以て利と為し、偶に中るを以て能と為し、素より五善の容無く、頗る三侯の礼を失う。冗官厚秩、禁衛崇班、動もて累千に盈ち、其の算数無し。近く河南・河北、水澇の処多く、林胡小蕃、寇を郊壘に見え、軍書日に至り、河朔騒然たり。将を命じて兇を除くも、未だ克捷を図らず。師を興すこと十万、日に千金を費やす。去年豫・亳両州、微かに旱損に遭い、庸賦弁ぜず、以て流亡を致す。聖人憂勤し、使を降して招恤すれども、流離歳月、猶未だ能く安からず。人の困窮、以て此に至る。今一箭偶に中るは、是れ一丁の庸調なり。之を用うるに既に惻隱無く、之を獲るは固に恥慚無し。古を考へ今に循うれば、則ち未だ可ならざるなり。且つ禁衛武官は、番に随ひ射を許し、能く的に中る者有れば、必ず賞有り。此れ則ち武を訓へ戎を習ひ、時に習いて闕けず。寇寧ぎ歳稔るを待ち、旧章に率由すれば、則ち礼を愛し人を養ふ、幸甚し幸甚し。

是より乃ち賜射の礼を停む。

俄に中書舎人に転ず。開元初めより、景先は中書舎人斉浣・王丘・韓休・張九齢と制誥を掌知し、文翰を以て称せらる。中書令張説嘗て称して曰く、「許舎人の文は、峻峰激流嶄絶の勢無きと雖も、然れども詞を属するに豊美にして、中和の気を得、亦一時の秀なり」と。十年夏、伊・汝泛溢し、居人の廬舎を漂損し、溺死する者甚だ衆し。景先侍中源乾曜に言いて曰く、「災眚の降る所は、必ず修徳を資して以て之を禳ふ。『左伝』の載する所『降服出次』は、即ち其の事なり。誠に宜しく徳音を発し、大臣を遣わして存問し、人を憂ひ己を罪し、以て天譴に答ふべし。明公位は輔弼に存し、当に大體を発明し、以て明主を啓沃すべし。緘黙すべからず」と。乾曜其の言を然りとし、遽に以て聞奏し、乃ち詔を下して戸部尚書陸象先を遣わし往きて窮乏を賑給せしむ。

十三年、玄宗宰臣に令して刺史の任を択ばしむ。必ず人を得るに在り。景先首めて其の選に中り、吏部侍郎より出でて虢州刺史と為る。後岐州に転じ、入りて吏部侍郎を拝し、卒す。

賀知章

賀知章は、会稽永興の人、太子洗馬徳仁の族孫なり。少くして文詞を以て知名たり。進士に挙げらる。初め国子四門博士を授かり、又太常博士に遷る。皆陸象先が中書に在りて引薦する所なり。開元十年、兵部尚書張説麗正殿修書使と為り、知章及び秘書員外監徐堅・監察御史趙冬曦を奏請し、皆書院に入り、同しく『六典』及び『文纂』等を撰す。累年、書竟に就かず。後太常少卿に転ず。

十三年、礼部侍郎に遷り、集賢院学士を加え、又皇太子侍読を充つ。この年、玄宗東嶽に封ず。詔有りて応に行従の群臣は、並びに谷口に留まり、上独り宰臣及び外壇行事の官と嶽上の斎宮の所に登る。

初め、上霊山の清潔を以て、喧繁を欲せず。知章を召して儀註を講定せしむ。因りて奏して曰く、「昊天上帝は君位、五方諸帝は臣位なり。帝号同じきと雖も、而して君臣位を異にす。陛下山上に君位を享け、群臣山下に臣位を祀るは、誠に来葉に範を垂れ、変礼の大なる者と為すに足る。然れども礼は三献に成り、亜終は一処に合す」と。上曰く、「朕正に是の如くせんと欲す。故に卿に問ふ耳」と。是に於て勅す、「三献は山上に於て行事し、五方帝及び諸神座は下壇に於て行事せよ」と。

俄に惠文太子の薨ずるに属す。詔有りて礼部に挽郎を選ばしむ。知章取舍允ならず。門蔭の子弟喧訴して庭に盈つ。知章是に於て梯を以て墻に登り、首を出だして事を決す。時人咸く之を嗤ふ。是より工部侍郎に改授し、兼秘書監同正員と為り、旧に依りて集賢院学士を充つ。俄に太子賓客・銀青光禄大夫兼正授秘書監に遷る。

知章性放曠にして、談笑を善くす。当時の賢達皆之に傾慕す。工部尚書陸象先は、即ち知章の族姑の子なり。知章と甚だ相親善なり。象先常に人に謂ひて曰く、「賀兄言論倜儻、真に風流の士と謂ふ可し。吾子弟と離闊すれども、皆之を思はず。一日賀兄を見ざれば、則ち鄙吝生ず」と。

知章は晩年、特に放縦で、もはや規律を守らず、自ら四明狂客と号し、また「秘書外監」と称して、里巷を遊び歩いた。酔った後に詩文を作れば、たちまち巻物となり、文章は一字も加えず、いずれも見るべきものがあった。また草隸の書に優れ、好事の者が紙筆を供すれば、一枚に数十文字を書くに過ぎなかったが、人々はこれを宝として伝えた。

附 張旭

時に呉郡の張旭あり、これも知章と親しくした。旭は草書に優れ、酒を好み、酔うたびに叫び狂って走り、筆を求めて揮毫すれば、変化窮まりなく、神の助けがあるかのようであった。当時の人は張顛と号した。

天宝三載、知章は病により恍惚となり、上疏して道士となることを請い、郷里に帰ることを求め、さらに本郷の邸宅を観とすることとした。帝はこれを許し、その子で典設郎の曾を会稽郡司馬に任じ、なお侍養させた。御製の詩を贈り、皇太子以下がことごとく別れを執った。郷里に至って間もなく寿終し、八十六歳であった。

粛宗は侍読の旧縁により、乾元元年十一月に詔して曰く、「故越州千秋観道士賀知章は、器識は平穏で淡泊、襟懐は和やかで雅やか、神は清く志は逸し、学は富み才は雄であり、会稽の美箭を挺で、崑崗の良玉を蘊む。故に仙省に名を飛ばし、龍楼に侍講し、常に静黙をもって閑を養い、談諧によりて諷諫す。暮歯をもって禄を辞し、再び款誠を見せ、二老の跡を追わんことを願い、四明の客となることを遂げんとす。初志に允叶し、朝衣を脱落し、青牛に駕して還らず、白衣に狎れて長往す。丹壑は昔に非ず、人琴両亡す。旧を懐うのみ、深く追悼すべし。宜しく縟礼を加え、哀栄を展ぶべし。礼部尚書を贈るべし」。

先に、神龍年間、知章は越州の賀朝・万斉融、揚州の張若虚・邢巨、湖州の包融とともに、呉・越の士として、文詞俊秀、上京に名を揚げた。朝万は山陰尉に止まり、斉融は崑山令、若虚は兗州兵曹、巨は監察御史となった。融は張九齢に遇い、懐州司戸・集賢直学士に引き立てられた。数子の文章は世間に伝えられたが、知章のみが最も貴かった。

神龍年間、尉氏の李登之あり、五言詩に優れたが、蹉跌して遇わず、六十余歳で宋州参軍として卒した。

席豫

席豫は襄陽の人、湖州刺史固の七世の孫、家を河南に移した。豫は進士に及第した。開元年間、累官して考功員外郎となり、挙を典として士を得、時に称された。三遷して中書舎人となり、韓休・許景先・徐安貞・孫逖と相次いで制誥を掌り、皆能名があった。戸部侍郎に転じ、江南東道巡撫使を充て、鄭州刺史を兼ねた。入って吏部侍郎となり、玄宗これに謂いて曰く、「卿は以前考功たりしとき、職事を修め挙げたれば、故にこの授けあり」。豫は選を典すること六年、また令誉があった。天宝初め、尚書左丞に改めた。まもなく検校礼部尚書となり、襄陽県子に封ぜられた。玄宗が温泉宮に幸し、朝元閣に登って詩を賦し、群臣がこれに和した。帝は豫の詩を工とし、手制を下して褒めて曰く、「卿の進むる所を覧るに、実に詩人の首出、作者の冠冕なり」。

豫は弟の晋とともに、詞藻をもって称された。而して豫の性は特に謹直で、子弟への書簡や吏曹の簿領であっても、草書を用いなかった。人に謂いて曰く、「他人を敬わざるは、是れ自ら敬わざるなり」。或る人曰く、「この事は甚だ細かなり、卿何ぞ介意するや」。豫曰く、「細やかなるものすら謹まずんば、況んや巨なるものをや」。七載、位に卒し、時に六十九歳。

疾篤くして、その子に謂いて曰く、「我が亡き後三日にして殯し、殯の日すなわち葬れ、更に久しく留まることなかれ、公私の煩いを遺すな。家に余財なし、居る所を売り、聊か葬礼を備えよ」。人その達を嘉した。江陵大都督を贈り、謚して文と曰う。

附 徐安貞

徐安貞は、信安龍丘の人。特に五言詩に優れた。嘗て制挙に応じ、一歳に三たび甲科に擢でられ、人士これを称した。開元年間、中書舎人・集賢院学士となった。上は文を属し手詔を作るたびに、多く安貞に草稿を見させ、甚だ恩顧を承けた。累遷して中書侍郎となった。天宝初めに卒した。

齊浣

斉浣は、定州義豊の人。若くして詞学をもって称された。弱冠にして制科に登第し、蒲州司法参軍に釈褐した。景雲二年、中書令姚崇が用いて監察御史とした。違犯を弾劾するに、風教を先とし、当時これを称職と為した。開元年間、崇が再び用いて給事中とし、中書舎人に遷した。書詔を論駁し、王言を潤色するに、皆古義の謨誥を準的とした。侍中宋けい・中書侍郎蘇颋ともにこれを重んじた。秘書監馬懐素・右常侍元行沖が詔を受けて四庫群書を編次するに、浣を編修使に奏し、秘書少監に改めた。まもなく丁憂して免ぜられた。

十二年、汴州刺史として出向す。河南において汴は雄郡たり、江・淮より河・洛に至るまで、舟車輻湊し、人庶浩繁なり。前後の牧守、多く職に称せず、唯だ倪若水と浣のみ皆清厳を以て治め、民吏之を歌へり。中書令張説左右丞の才を択び、懐州刺史王丘を挙げて左丞と為し、浣を以て右丞と為す。李元纮・杜暹相と為り、開府・広平公宋璟を以て吏部尚書と為し、又戸部侍郎蘇晉と浣を用いて吏部侍郎と為す。当時以て高選と為す。

時に開府王毛仲寵幸して用事し、龍武将軍葛福順と姻戚を為す。故に北門の官毛仲の奏請を見るに、之を允さざる無く、皆毛仲の恵を受け、進退其の指使に随ふ。浣之を悪み、間を乗じて之を論じて曰く、「福順兵馬を典し、毛仲と婚姻す。小人寵極まれば則ち奸生ず。若し預め図らざれば、恐らくは後患と為らん。惟れ陛下之を思へ。況んや腹心の委は、何ぞ必ずしも毛仲ならんや。而して高力士小心謹慎、又閹官たり、便に禁中に駆使す。臣過言すと雖も、庶幾くは万一に裨益せん。臣聞く、君密ならざれば則ち臣を失ひ、臣密ならざれば則ち身を失ふと。惟れ聖慮密に之をせよ」と。玄宗其の誠を嘉し、之に諭して曰く、「卿且く出でよ。朕卿の忠義を知る。徐ろに其の宜きを俟てん」と。会ふに大理丞麻察事に坐して興州別駕として出づ。浣と察善し、城を出でて之を餞る。因りて禁中の諫語を語る。察の性譐誻たり、遽かに浣の語を以て之を奏す。玄宗怒り、中書門下に令して鞫問せしむ。又浣を内殿に召し、之に謂ひて曰く、「卿朕に向ひて『君密ならざれば則ち臣を失ひ、臣密ならざれば則ち身を失ふ』と道ひき。而るに朕の密ならざるを疑ひ、翻って麻察に告ぐ。是れ何の密ぞや。麻察軽険にして行ひ無し。常に太平の門に遊ぶ。此の日の事、卿豈知らざらんや」と。浣冠を免き頓首して謝罪す。乃ち高州良徳丞に貶す。又察を潯州皇化尉に貶す。浣数年量移して常州刺史と為る。

二十五年、潤州刺史に遷り、江南東道採訪処置使を充てる。潤州北界は呉江を隔て、瓜歩沙尾に至るまで、紆回して六十里を匯し、船瓜歩を繞れば、多く風濤の漂損する所と為る。浣乃ち其の漕路を移し、京口塘下に於て直に江を渡ること二十里、又伊婁河を開くこと二十五里、即ち揚子県に達す。此れより漂損の災を免れ、歳に脚銭数十万を減ず。又伊婁埭を立て、官其の課を収む。今に至るまで利済す。数年、復た汴州刺史と為る。淮・汴の水運路、虹県より臨淮に至る一百五十里、水流迅急なり。旧に牛を用ひ竹索を曳きて上下す。流急にして制し難し。浣乃ち奏して虹県より下に河を開くこと三十余里、清河に入り、百余里にして清水に出で、又河を開きて淮陰県北岸に至り淮に入る。淮流湍険の害を免る。久しうして新河水復た迅急に、又多く僵石有り。漕運難澀にして、行旅之に弊さる。

浣高力士の中助に因り、連ねて両道の採訪使と為る。遂に開漕の利を興し、以て中人の主意に中り、復た貨財を勾剝し、中貴に賂遺す。物議之を薄しむ。又劉戒の女を納れて妾と為し、其の正室を凌ぎ、家政を専制す。李林甫之を悪み、人を遣り其の失を掎摭せしむ。会ふに浣の判官贓を犯し、浣連坐し、遂に廃されて田裏に帰る。

天宝初、起ちて員外少詹事と為り、東都に留司す。時に絳州刺史厳挺之林甫に構へられ、員外少詹事を除かれ、東都に留司す。浣と皆朝廷の旧徳たり。既に廃されて家巷に居り、毎に園林行楽すれば、則ち杖屢相過ぎ、談宴終日す。林甫聞きて之を患ひ、其の勢を離れんと欲す。五年、浣を用ひて平陽太守と為す。郡に卒す。粛宗即位し、林甫に陥れられたる者皆雪がれ、浣褒贈を受く。

王浣

王浣、并州晋陽の人。少より豪蕩不羈たり。進士第に登り、日を以て蒱酒を事とす。并州長史張嘉貞其の才を奇とし、礼接甚だ厚し。浣之に感じ、楽詞を撰びて以て情を叙し、席上に於て自ら唱ひ自ら舞ひ、神気豪邁たり。張説并州を鎮むるや、浣を礼するに益々至れり。会ふに説復た政事を知り、浣を以て秘書正字と為し、擢びて通事舎人に拝し、駕部員外に遷る。櫪に名馬多く、家に妓楽有り。浣発言立意し、自ら王侯に比し、儕類を頤指し、人多く之を嫉む。

説既に相を罷むるや、浣を出して汝州長史と為し、仙州別駕に改む。郡に至り、日を聚めて英豪し、禽に従ひ鼓を撃ち、恣に歓賞を為す。文士祖詠・杜華常に座に在り。是に於て道州司馬に貶せられ、卒す。文集十巻有り。

李邕

李邕、広陵江都の人。父善、嘗て同郡の人曹憲に『文選』を受く。後左侍極賀蘭敏之の薦引を受け、崇賢館学士と為り、転じて蘭台郎と為る。敏之敗るるや、善坐して嶺外に配流せらる。会ふに赦に遇ひ還り、因りて汴・鄭の間に寓居し、以て『文選』を講ずるを業とす。年老いて疾に卒す。註する所の『文選』六十巻、時に大に行はる。

邕少より知名たり。長安初、内史李嶠及び監察御史張廷珪、並びに邕の詞高く行ひ直きを薦め、諫諍の官に堪ふるを以てす。是れ由りて召されて左拾遺に拝す。俄にして御史中丞宋璟侍臣張昌宗兄弟に順ならざるの言有るを奏し、法に付して推断せんことを請ふ。則天初め応ぜず。邕階下に在りて進みて曰く、「臣宋璟の言を観るに、事社稷に関はる。望むらくは陛下其の奏を可としたまへ」と。則天色稍く解け、始めて宋璟の請ふ所を允す。

既に出でて、或る人邕に謂ひて曰く、「吾子名位尚ほ卑し。若し旨に称はざれば、禍測るべからず。何為れぞ造次此の如くする」と。邕曰く、「願はず狂せざれば、其の名彰れず。若し此の如くせずんば、後代何を以てか称せん」と。

中宗即位するに及び、妖人鄭普思を以て秘書監と為す。邕上書して諫めて曰く、

蓋し人一餐の恵に感じて、七尺の身を殞す者有り。況んや臣陛下の官を為し、陛下の禄を受け、而して目に見る所有り、口之を言はざれば、是れ恩を負ふなり。陛下親政する日近く、復た九重に在るより、以て外に在る群下の窃に議するを聞かざるなり。道路籍籍として、皆云ふ、普思多く詭惑を行ひ、妄りに妖祥を説くと。惟れ陛下知らず、尚ほ見え驅使せらる。此の道若し行はば、必ず朝政を撓乱せん。臣至愚至賤、敢へて胸臆を以て天威に対揚せず。古事を請ふて明証と為さん。孔丘云く、『詩三百、一言以て之を蔽へば、曰く、思ひ邪無し』と。陛下今若し普思に奇術有りと為し、長生久視の道を致す可きと為さば、則ち爽鳩氏久しく応に之を得て、永く天下を有つべし。陛下今日得て求むるに非ず。若し普思仙方を致す可きと為さば、則ち秦皇・漢武久しく応に之を得て、永く天下を有つべし。亦た陛下今日得て求むるに非ず。若し普思佛法を致す可きと為さば、則ち漢明・梁武久しく応に之を得て、永く天下を有つべし。亦た陛下今日得て求むるに非ず。若し普思鬼道を致す可きと為さば、則ち墨翟・幹寶、各至尊に献せり。而して二主之を得て、永く天下を有つべし。亦た陛下今日得て求むるに非ず。此れ皆事虚妄に渉り、歴代効無し。臣愚、陛下の復た之を行ひて明時に於けるを願はざるなり。惟だ堯・舜の二帝、古より聖と称せらる。臣観るに得る所、故に人事に在り。九族を敦睦し、百姓を平章す。鬼神の道を以て天下を理むるを聞かず。伏して願くは陛下之を察したまへ。則ち天下幸甚なり。

上疏したが採用されず、張柬之と親しかったため、南和県令に出され、さらに富州司戸に貶された。

唐隆元年、玄宗が内難を清めた際、召されて左臺殿中侍御史に任じられ、戸部員外郎に改められ、また崖州舍城丞に貶された。開元三年、戸部郎中に抜擢された。

李邕はもとより黄門侍郎張廷珪と親しくしていた。時に姜皎が権勢を振るい、張廷珪と謀って李邕を憲官に引き入れようとした。事が漏れ、中書令姚崇は李邕の険躁さを憎み、これによってその罪をでっち上げ、括州司馬に左遷した。後に召されて陳州刺史となった。

十三年、玄宗の車駕が東封から帰還した際、李邕は汴州で謁見し、しばしば詞賦を献上して、上意に大いにかなった。これによって甚だ自らを誇示し、自ら宰相の位に就くべきと称した。張説が中書令であったが、彼をひどく憎んだ。やがて陳州での贓汚事件が発覚し、獄に下されて取り調べを受け、死罪に当たるとされた。許州の人孔璋が上書して李邕を救おうとして言うには、

臣は聞く、明主が宇内を治めるには、過ちを捨てて才能を挙げ、材能を取り行いを棄てる。烈士は節を抗い、勇んで死を避けず、危難を見て命を授ける。晋が林父を用いたのは、その過ちを念じたであろうか。漢が陳平を用いたのは、その行いを念じたであろうか。禽息が身を殞し、北郭が首を碎いたのは、死を惜しんだであろうか。もし向かって林父が誅せられ、陳平が死に、百里奚が用いられず、晏嬰が追放されていたならば、晋には赤狄を討つ士がなく、漢には皇極を尊ぶ威がなく、秦は西戎を併せず、斉は東海に覇を唱えなかったであろう。

臣が拝見するに、陳州刺史李邕は、学問は師範を成し、文章は経国に堪え、剛毅忠烈にして、難に苟も免れようとしない。かつて張易之が権力を用いた時、人はその口を畏れたが、李邕はその角を折った。韋氏が勢いを恃んだ時、言い出せば禍が応じたが、李邕はその鋒を挫いた。身は謫屈を受けたが、奸謀は中で損なわれた。すなわち李邕は我が邦家に対して大いなる功績があるのである。かつこの人の能くするところは、孤を拯い窮を恤み、乏しきを救い恵みを賑わし、積んではすぐに散じ、家に私的な蓄えがない。今、贓罪に坐して吏に下され、取り調べを待って報じられ、極刑に至らんとし、死は朝夕にあると聞く。

臣は聞く、生きて国に益なきは、身を殺して賢を明らかにするに若かず。臣は朽ちた賤しき庸夫、輪轅に取るべきところなく、獣のように息づき鳥のように視る、生きていても何の為か。況んや賢は国の宝、社稷の守りであり、これこそ臣の痛惜深くするところである。臣は願わくは六尺の躯、膏斧を受けることを甘んじ、李邕に代わって死なん。臣の死は、いわゆる一毛を落とすに等しい。李邕の生は、千里を照らすに足る。されど臣と李邕とは、平生より親しくなく、臣は李邕を知るも、李邕は臣を知らない。臣が李邕に及ばぬは明らかである。賢を知って挙げるは仁なり。人に代わって患いを任ずるは義なり。臣は二つの善を得て死す。しかも不朽ならば、また何を求めようか。陛下もし臣の賤しきをもって李邕を贖うに足りずとせば、雁門の縫掖に効ある者がある。伏して願わくは、陛下は李邕の生を寛大にし、臣の死を速やかにせられんことを。李邕をして徳に率い行いを改めさせ、林父の功を想わしめ、臣をして黄泉に瞑目し、北郭の跡に附かしめ給え。臣の大願これ畢わらん。陛下すなわち陽和の始め、鉞を用いるに難しければ、天命の成るを俟ち、敢えて伏剣を忘れず、何ぞ大刑を煩わして後に死に帰せんや。皇天后土、実に臣の心を照覧せよ。

昔、呉楚七国が叛いた時、周亜夫が劇孟を得たので、寇は憂うるに足らなかった。一賢の能をもって七国の衆に敵したのである。伏して願わくは、垢を含むの道を敷き、瑕を棄つるの義を存し、遠くは劇孟を思い、近くは李邕を取られんことを。豈にただ愷悌の沢を成すのみならず、実にまた天下の望みを帰せしめん。況んや大礼の後、天地は新たに、赦してまた論ずれば、人誰か罪なからん。惟れ明主これを図られよ。臣は聞く、士は知己の者のために死す。しかも臣は死者に知られず、死者に甘んずるは、豈にただ李邕の賢を惜しむのみならず、また陛下の能を矜る徳を成さんがためである。惟れ明主これを図られよ。

上疏が奏上された時、李邕はすでに減死が議せられ、欽州遵化県尉に貶され、孔璋もまた嶺南に配流されて死んだ。李邕は後に嶺南において中官楊思勖に従って賊を討ち功があり、また累次転じて括州・淄州・滑州の三州刺史となり、上計して京師に至った。

李邕はもとより美名を負い、頻りに貶斥されたが、皆、李邕が文を能くし士を養う、賈誼・信陵君の流れであり、執事者がその勝ることを忌み、外に剥落させたのである。世間ではもとより名声があり、後進は彼を知らず、京・洛の阡陌で群衆が集まって見物し、古人と思った。あるいは眉目に異なるものありとし、衣冠の士が風を望んで門巷を尋ね訪ねた。また中使が臨問し、その新文を求め、また人の陰中するところとなり、ついに進むことができなかった。

天宝初め、汲郡・北海の二太守となった。李邕の性格は豪侈で、細行に拘らず、所在で財貨を求め、馳猟して自ら恣にした。五載、奸贓事件が発覚した。またかつて左驍衛兵曹柳勣に馬一匹を与え、柳勣が獄に下された時、吉温が柳勣に命じて李邕が吉凶を議したこと及び厚く賂遺したことを引き出させ、詞状が連引し、勅して刑部員外郎祁順之・監察御史羅希奭を馳せ往きて郡において決殺させた。時に年七十余であった。

初め、李邕は早くより才名を擅にし、特に碑頌に長じていた。職を貶されて外に在っても、中朝の衣冠及び天下の寺観は多く金帛を携えて往き、その文を求めた。前後して制作したもの、凡そ数百首、饋遺を受納するもまた巨万に至った。時の議は、古より文を売って財を得る者、李邕の如きはなかったという。文集七十巻あり。その『張韓公行状』・『洪州放生池碑』・『批韋巨源謚議』は、文士に推重された。後に恩例によって、秘書監を贈られた。

孫逖

孫逖は、潞州涉県の人である。曾祖父は仲将、寿張丞。祖父は希庄、韓王府典簽。父は嘉之、天冊年間に進士に擢第し、また書判抜萃に及第し、蜀州新津主簿を授かった。曲周・襄邑の二県令を歴任し、宋州司馬をもって致仕し、卒した。年八十三。

孫逖は幼くして英俊、文思敏速であった。十五歳の時、初めて雍州長史崔日用に謁見した。崔日用は彼を軽んじ、『土火爐賦』を作らせた。孫逖は筆を握れば即成し、詞理典贍であった。崔日用はこれを見て驚き、遂に忘年の交わりとし、これによって価誉益々重くなった。開元初め、哲人奇士挙に応じ、山陰尉を授かった。秘書正字に遷った。十年、制に応じて文藻宏麗科に登第し、左拾遺を拝した。張説は特にその才を重んじ、孫逖は日々その門に遊び、左補闕に転じた。黄門侍郎李暠が太原に出鎮するに及び、従事として辟召された。

暠が鎮に在った時、蒲州刺史李尚隠と伯楽川に遊び、逖がその記を作り、文士がこれを盛んに称えた。二十一年、入朝して考功員外郎・集賢修撰となった。逖は貢士を選ぶこと二年、多く俊才を得た。初年には杜鴻漸が宰輔に至り、顔真卿が尚書となった。後年には李華・蕭穎士・趙驊を抜擢して上第に登らせ、逖は人に謂って言うには、「この三人は便ち綸誥を掌るに堪える」と。

二十四年、逖を中書舎人に拝した。逖は自ら禁闈に通籍し、その父の官は才だ邑宰に過ぎぬことを以て、乃ち上表して情を陳べて言うには、「臣の父嘉之は、暮歯に当たるも、幸いに明時に遇い、綿歴して駆馳し、才だ令長に及ぶ。臣夙に厳訓に荷い、累ねて清秩に登り、頻りに省闥を遷り、又た掖垣を拝す。地は近く班栄すれども、臣は則ち過量なり。途は遥かに日暮るるも、父は乃ち後時なり。公府に在りては偷栄の責有り、私庭に於いては報徳の効無く、反って烏鳥に慚じ、徒らに鴛鴻に廁す。伏して望むらくは、臣を一外官に降し、特ち微恩を乞い、稍々臣の父に沾わしめん」と。玄宗は優詔を以てこれを奨め、嘉之に宋州司馬を授けて致仕せしめ、尋いで卒す。

父の喪に丁り免ぜられる。二十九年、服闋し、復た中書舎人となる。その年、河東黜陟使を充つ。天宝三載、権りに刑部侍郎を判ず。五載、風病を以て散秩を求め、太子左庶子に改む。逖は誥を掌ること八年、制勅の出づる所、時流の嘆服する所となる。議者以て、開元已来、蘇頲・齊浣・蘇晉・賈曾・韓休・許景先及び逖を、王言の最と為す。逖は尤も思を善くし、文理精練、之に謙退伐らざるを加え、人多く之を称す。疾を以て沈累年、太子詹事に転ず。上元中卒す。広徳二年、詔して尚書右僕射を贈り、謚して文と曰う。集三十巻有り。

子に宿・絳・成有り。逖の弟に遹・遘・造有り。

弟 遹

遹は終に左武衛兵曹に至る。宿は河東掌記を歴任す。代宗朝に刑部郎中・中書舎人を歴任し、出でて華州刺史となり、卒す。

子 成

成は字を退思と為し、父の廕を以て累ねて雲陽・長安尉を授かり、監察御史を歴任し、殿中に転ず。隴右副元帥李抱玉に奏されて掌書記を充たし、入朝して屯田・司勛二員外郎と為る。母の喪に丁り免ぜられ、終制し、出でて洛陽令となり、長安令に転ず。時に兄の宿は華州刺史たり、火災に因り驚懼して喑病を成す。成は素より孝悌、蒼黄として急を請い、報を俟たずして華に趨る。代宗之を嘉し、嘆じて曰く、「急難の切なる、過ちを観て仁を知る」と。倉部郎中・京兆少尹を歴任す。出でて信州刺史と為り、恵政有り、郡人碑を立て徳を頌するを請い、優詔を以て褒美す。蘇州刺史に転ず。貞元四年、桂州刺史・桂管観察使に改む。五年卒す。

孫 公器

宿の子公器は、官は信州刺史・邕管経略使に至る。

公器の子 簡

公器の子に簡・範有り、並びに進士に挙げらる。会昌の後、兄弟相継いで顕秩に居り、諸道の観察使を歴任す。簡は兵部尚書。子に紓・徽有り、並びに進士第に登る。