卷一百九十下
李華
安禄山が京師を陥落させると、玄宗は出幸し、李華は扈従できず、賊に陥り、偽って鳳閣舎人に任じられた。城を収めた後、三司の類例により減等され、軽い貶官に従い、ついに家に廃され、没した。李華はかつて魯山県令元徳秀の墓碑文を書き、顔真卿がこれを書き、李陽冰が篆額をしたため、後人はこれを模写し争い、「四絶碑」と号した。文集十巻があり、当時に流行した。
蕭穎士
蕭穎士は、字を茂挺といい、李華と同年に進士に登第した。開元の中頃、天下は平穏で、人物が群がり集まること市場のようであった。かつて席豫、張垍、韋述の輩はいずれも盛名があったが、蕭穎士は皆彼らと交遊した。これにより縉紳は多く彼を称賛した。李林甫はその名を聞き、抜擢して用いようと思い、召見した。当時蕭穎士は広陵に寓居し、母の喪に服していたが、すぐに縗麻を着て京師に赴き、直ちに政事省で李林甫に謁見した。李林甫はもとより彼を知らず、突然縗麻を見て大いに嫌い、すぐに斥退させた。蕭穎士は大いに憤慨し、そこで『桜桃賦』を作って李林甫を諷刺した、「無用の剿質を擢げ、本枝に蒙りて自ら庇う;群林を汨して拠るに非ず、廟庭の右地を専らにす。先寝に式薦すと雖も、豈に和羹の正味ならんや」。その狂率で不遜な様は、皆この類であり、しかし聡明で機敏なことは並ぶ者なきものであった。かつて李華、陸據と共に洛南の龍門に遊び、三人で路傍の古碑を読んだが、蕭穎士は一読して即座にこれを誦することができ、李華は二読し、陸據は三読してようやく記憶することができた。議論する者は三人の才格の高低もまたこのようであると言った。この時、外夷もまた蕭穎士の名を知り、新羅の使節が入朝し、国人が蕭夫子を師としたいと願うと言った。その名が華夷に響き渡ることはこのようであり、このようにして終には誕慢で偏狭な忿りにより困窮し、没した。
附 李翰
陸據
陸據は、周の上庸公陸騰の六代孫である。幼くして孤となり、文章は俊逸で、言論は縦横であった。三十余歳にして初めて京師に遊学し、進士に挙げられた。公卿はその文章を覧て、これを重んじ称えた。従事に辟召され、累官して司勲員外郎に至った。天宝十三載、没した。開元・天宝の間、文士として名を知られた者は、汴州の崔顥、京兆の王昌齢・高適、襄陽の孟浩然で、皆名声と地位は振るわなかったが、ただ高適のみは官途が達し、独自の伝がある。
崔顥
王昌齢
王昌齢は、進士に登第し、秘書省校書郎を補された。また博学宏詞科に登科し、再び汜水県尉に遷った。細行を慎まず、たびたび貶斥に遭い、没した。王昌齢の文章は細やかで思慮は清く、文集五巻がある。
孟浩然
孟浩然は鹿門山に隠棲し、詩をもって自ら楽しんだ。四十歳の頃に京師に遊学し、進士に応じたが及第せず、帰郷した。襄陽の張九齢が荊州を鎮守した時、従事に任命し、彼と詩を唱和したが、志を得ずに没した。
元徳秀
元徳秀は河南の人、字は紫芝。開元二十一年に進士に及第した。性質は純朴で、飾り気がなく、行動は古の道に師法した。父は延州刺史であった。
徳秀は早くに父母を失い、喪服が相次ぎ、親の存命中に娶ることができなかった。孤となった後、遂に娶らなかった。族人が後嗣が絶えることを諫めると、徳秀は言った、「我が兄に子あり、先人の祭祀を継ぐ」と。兄の子の婚娶に、家が貧しく礼をなすことができず、魯山令を求めた。先に、車から落ちて足を傷め、趨拝に耐えられず、汝郡太守は客礼をもって彼を遇した。部内の者が盗みを働き、吏がこれを捕らえ、獄に繋いだ。時に県内に猛獣が暴れ、盗人は自ら申し出て言った、「願わくは猛獣を格殺して自ら贖罪せん」と。徳秀はこれを許した。胥吏が言った、「盗人は詭計で免れようとするだけです。官の囚人を擅かに放てば、累が及ぶのでは?」徳秀は言った、「私は約を負うことを欲せず、累があれば私が坐す。必ずや諸君には及ばぬよう請う」。即ち械を破ってこれを出した。翌日、猛獣を格殺して帰った。誠信をもって人を感化する、おおむねこの類であった。
任期が満ちて、南に陸渾に遊び、佳き山水を見て、杳然として長く隠棲する志があり、山の麓に廬を結んだ。歳は凶作に属し、台所には炊くこともなかったが、琴を弾き書を読み、怡然として自得した。好事の者が酒肴を載せて訪れても、賢不肖を選ばず、これと向かい合って酌み交わし、陶陶然として身を物外に忘れた。琴と酒の余暇に、時に文詠を挟み、率情に書し、言葉に彫琢がなかった。著した『季子聴楽論』『蹇士賦』は、高人の称賛するところとなった。
王維
王維、字は摩詰、太原祁の人。父の処廉は、汾州司馬で終わり、家を蒲に移し、遂に河東の人となった。維は開元九年に進士に及第した。母の崔氏に仕えて孝行で知られた。弟の縉と共に俊才あり、博学で多芸もまた名を並べ、家門では兄弟仲睦まじく、多くの士人に推された。右拾遺・監察御史・左補闕・庫部郎中を歴任した。母の喪に服し、憔悴して骨と皮ばかりとなり、ほとんど喪に耐えられなかった。喪が明けて、吏部郎中に拝された。天宝末、給事中となった。
代宗の時、縉が宰相となった。代宗は文を好み、常に縉に言った、「卿の伯氏(兄)は、天宝中に詩名が一代を冠し、朕は嘗て諸王の座でその楽章を聞いた。今どれほどの文集があるか、卿は進上せよ」。縉は言った、「臣の兄は開元中の詩百余千篇ありましたが、天宝の事変後、十に一も残っておりません。中外の親戚故旧の間で相共に編綴し、都で四百余篇を得ました」。翌日これを上ると、帝は優詔を下して褒賞した。縉には独自の伝がある。
李白
李白、字は太白、山東の人である。幼少より逸才あり、志気宏放にして、飄然として超世の心あり、父は任城尉となり、因って家を焉に置く。少時に魯中の諸生孔巢父・韓沔・裴政・張叔明・陶沔等と徂徠山に隠れ、酣歌縦酒し、時に「竹溪六逸」と号す。天宝初め、会稽に客遊し、道士呉筠と剡中に隠る。既にして玄宗、呉筠を詔して京師に赴かしむ、筠、之を朝に薦め、使いを遣わして之を召し、筠と俱に翰林に待詔す。白既に酒を嗜み、日に飲徒と酒肆に酔う。玄宗、曲を度し、楽府新詞を造らんと欲し、亟に白を召す、白既に酒肆に臥す。召し入れて、水を以て面に灑ぎ、即ち筆を秉るを令す、頃くの間に十余章成る、帝頗る之を嘉す。嘗て殿上に沉醉し、足を引いて高力士に靴を脱がしむ、是より斥去さる。乃ち江湖に浪跡し、終日沈飲す。時に侍御史崔宗之、金陵に謫官し、白と詩酒唱和す。嘗て月夜舟に乗じ、自ら采石より金陵に達し、白衣に宮錦袍を着け、舟中に於いて顧瞻笑傲し、傍らに人無きが若し。
初め賀知章、白を見て、之を賞めて曰く「此れ天上の謫仙人也」と。禄山の乱、玄宗蜀に幸す、途上に於いて永王璘を以て江淮兵馬都督・揚州節度大使と為す。白、宣州に於いて謁見し、遂に辟かれて従事と為る。永王乱を謀り、兵敗れ、白坐して長流夜郎す。後に赦に遇いて還るを得、竟に飲酒過度を以て、宣城に於いて酔死す。文集二十巻有り、時に行わる。
杜甫
杜甫、字は子美、本は襄陽の人、後に河南鞏県に徙る。曽祖父依芸、位は終に鞏令。祖父審言、位は終に膳部員外郎、自ら伝有り。父閑、終に奉天令。
甫、天宝初め進士に応じて第せず。天宝末、『三大礼賦』を献じ、玄宗之を奇とし、文章を召し試み、京兆府兵曹参軍を授く。十五載、禄山京師を陥し、粛宗霊武に兵を徴す、甫、京師より宵遁して河西に赴き粛宗に謁し、彭原郡に於いて右拾遺を拝す。房琯、布衣の時甫と善し、時に琯宰相と為り、自ら師を帥いて賊を討たんことを請う、帝之を許す。其の年十月、琯の兵陳濤斜に敗る。明年春、琯相を罷む、甫上疏して琯に才有り、罷免すべからざるを言う。粛宗怒り、琯を貶して刺史と為し、甫を出して華州司功参軍と為す。時に関畿乱離し、穀食踊貴し、甫、成州同谷県に寓居し、自ら薪を負い稆を採り、児女餓殍する者数人。久しくして、召し補われて京兆府功曹と為る。
子宗武、湖・湘に流落して卒す。元和年中、宗武の子嗣業、耒陽より甫の柩を遷し、偃師県西北首陽山の前に帰葬す。
天宝末の詩人、甫は李白と斉名す、而して白は自ら文格放達を負い、甫の齷齪を譏り、飯顆山の嘲誚有り。元和年中、詞人元稹、李・杜の優劣を論じて曰く、
予、詩を読んで杜子美に至りて、小大の総萃する所有るを知る。始め堯・舜の時、君臣賡歌を以て相和す。是の後詩人継いて作し、夏・殷・周千余年を歴る、仲尼緝拾選揀し、其の教化に干預する尤なる者三百を取り、余は聞く所無し。騒人作して怨憤の態繁く、然れども猶風・雅に去ること日近く、尚お比擬す。秦・漢已還、詩を採るの官既に廃れ、天下の妖謠民謳・歌頌諷賦・曲度嬉戯の辞も、亦時に随いて作る。漢武柏梁に賦して七言の体具わるに至る。蘇子卿・李少卿の徒、尤五言を工と為す。句読文律各異なりと雖も、雅鄭の音亦雑るも、而して辞意簡遠、事を指し情を言い、自ら為す有りて為すに非ざれば、則ち文妄りに作さず。建安の後、天下の士兵戦に遭罹し、曹氏父子鞍馬の間文を為し、往々横槊賦詩す、故に其の遒壮抑揚・冤哀悲離の作、尤古に極まる。晋世風概稍く存す。宋・齊の間、教根本を失い、士は簡慢翕習舒徐を以て相尚い、文章は風容色澤・放曠精清を以て高しと為し、蓋し性霊を吟写し光景に留連するの文なり、意義格力取る所無し。陵遅して梁・陳に至り、淫艶刻飾・佻巧小碎の詞劇しく、又宋・齊の取らざる所なり。
唐興り、官学大いに振い、歴世の文、能者互に出づ。而して又沈・宋の流、研練精切、声勢を穏順にし、之を律詩と謂う。是よりの後、文体の変極まれり。然れども古を好む者は近きを遺い、華を務む者は実を去り、斉・梁に効うれば則ち魏・晋に迨ばず、楽府を工とすれば則ち力五言に屈し、律切すれば則ち骨格存せず、閑暇なれば則ち繊穣備わらず。子美に至りては、蓋し所謂上は風・騒に薄く、下は沈・宋に該い、言は蘇・李を奪い、気は曹・劉を呑み、顔・謝の孤高を掩い、徐・庾の流麗を雑え、古今の体勢を尽く得て、而して人々の独り専にする所を兼ぬ。仲尼をして其の旨要を考鍛せしめば、尚お其の多きを貴ぶを知らざらんや。苟くも能く所の不能、無くして可無からざるを以て為せば、則ち詩人已来子美の如き者未だ有らず。
是の時山東の人李白も、亦文奇を以て称を取る、時人これを李・杜と謂う。予其の壮浪縦恣、拘束を擺去し、物象を模写する、及び楽府歌詩を観るに、誠に亦子美に差肩す。若し終始を鋪陳し、声韻を排比し、大なるは或いは千言、次は猶数百、詞気豪邁にして風調清深、属対律切にして凡近を脱棄するに至りては、則ち李尚お其の藩翰を歴る能わず、況んや堂奥をや。
予嘗て其の文を条析し、体を別して相附し、来者をして之が準たらしめんと欲す、特だ病懶にして未だ就かず。自ら後属文する者、稹の論を是と為す。甫に文集六十巻有り。
呉通玄
呉通玄、海州の人。父道瓘道士と為り、童孺を教誘するに善く、大暦年中、召し入れて宮に、太子諸王に経を授く。徳宗東宮に在り、道瓘に師い、而して通玄兄弟、宮掖に出入りし、恒に太子に侍して遊ぶ、故に之に遇うこと厚し。通玄は兄通微と俱に博学善く文を属し、文彩綺麗なり。通玄幼く神童挙に応じ、褐を釈けて秘書正字・左驍衛兵曹・大理評事。建中初め、賢良方正等科を策し、通玄文詞清麗に応じ、乙第に登り、同州司戸・京兆戸曹を授く。
貞元の初め、召されて翰林學士を充たす。起居舍人に遷り、知制誥を兼ね、陸贄・吉中孚・韋執誥らと共に詔勅の草案を審査した。陸贄は文藻に富み、特に徳宗の重い顧遇を受け、艱難を経歴した。通玄兄弟はまた東宮の侍従として上に仕えていたので、寵を争い、互いに嫌悪し憎んだ。陸贄の性格は偏狭でせっかちであり、しばしば上(帝)の前で通玄の短所を言い、また言うには、「太平の時には工芸書画の徒が翰林に待詔していたが、従来學士はなかった。ただ至徳以後、天子が禁中に賢學士を召集して詔書を起草させ、そのため翰林院に留まって進止を待つこととなり、それをもって名としたのである。奔走流離の時には、道中で予め官職を除改することがあり、臨時に草制させた。今や四方に事なく、百官の政務は時宜にかなっている。制書の職分は、中書舍人に帰すべきである。學士の名は、理に照らして廃止すべきである」と。陸贄は通玄が朋党を引き入れ、禁中で力を尽くして自分を排斥していると思ったので、これを廃そうとしたが、徳宗は許さなかった。時に陸贄が兵部侍郎を権知し、貢挙を掌ったので、正しくこれを拝任し、内職(翰林學士)を罷免したが、これらは皆通玄が讒言したためである。
七年、起居郎より諫議大夫・知制誥に拝された。通玄は自ら久しく序列を経て中書舍人に拝されるべきところ、かえって諫議大夫に除されたので、大いに失望した。陸贄は宰相竇參と互いに憎み合っていた。參の従子で給事中の申は、參が特に寵愛し、しばしば中書省の議事に参与したので、行く先々で人々は申を「喜鵲」と呼んだ。申は、嗣虢王則之の従父甥である。申は則之と親しく交わった。則之は金吾將軍で、学問を好み文才があり、申は則之と密かに吳通玄兄弟と結託し、參と共に陸贄を傾けようとした。則之は人に命じて謗りの文書を作らせ、陸贄が挙人の試験を公平でなく行い、賄賂を受け取っていると言った。時に通玄は宗室の女を外婦(妾)としていたが、徳宗はこれを知っていた。申・則之が陸贄を讒言していると聞くと、綱紀(御史など)がこれを伺い、果たして通玄と謀略を結託していることが分かり、帝は大いに怒り、竇參の知政事を罷め、まもなく郴州司馬に貶し、竇申を錦州司戶に、李則之を昭州司馬に、通玄を泉州司馬に貶した。帝は通玄を召し出し、自ら臨んで問い、近属(宗室)を汚辱したことを責めた。華州長城驛に至った時、賜死された。まもなく陸贄を中書侍郎・平章事とし、竇參に代えた。
兄 通微
通微は、建中四年に壽安縣令より入朝して金部員外郎となり、召されて翰林學士を充たした。まもなく職方郎中に改め、知制誥を兼ねた。弟通玄と共に禁中の官署に同職として仕え、人々はこれを栄誉とした。七年、禮部郎中に改め、まもなく中書舍人に転じた。通玄が死ぬと、喪服を着けて國門(都の門)で待罪したが、帝は特にこれを宥し、通微はついに喪服を着けることができなかった。
通玄の詞藻は婉麗で、帝は特にこれを愛した。貞元の初め、昭德王皇后が崩御し、詔して李紓に諡冊文を作らせ、宰相張延賞・柳渾に廟樂章を作らせた。進上されたが、いずれも帝の意にかなわず、共に通玄を召して改めて撰述させた。およそ中旨(内命)による撰述は、通玄の筆でなければ、満足することがなく、これほどまでに重んじられた。
王仲舒
王仲舒、字は弘中、太原の人。幼くして孤貧であり、母に仕えて孝行で知られた。学問を好み文を巧みにし、郷挙を受けなかった。凡そ交際を結ぶ者は、必ず名の知れた士であり、楊頊・梁肅・裴樞とは忘形の契りを結んだ。
貞元十年、賢良方正能直言極諫等科の策試があり、仲舒は乙第に登第し、抜擢されて右拾遺に拝された。裴延齡が度支を領すると、虚偽で大言し、善良な者を中傷したので、仲舒は上疏して極論した。累遷して尚書郎となった。元和五年、職方郎中より知制誥を兼ねた。仲舒の文思は温雅であり、彼の手になる制誥は、人々が皆書き写して伝えた。京兆尹楊憑が中丞李夷簡に弾劾され、臨賀尉に貶された。仲舒は楊憑と親しかったので、朝中で宣言し、夷簡が楊憑の罪をあげつらっていると言った。仲舒はこれに坐して硤州刺史に貶された。後に蘇州刺史に遷った。
崔咸
唐次
唐次は、并州晉陽の人で、国初の功臣禮部尚書唐儉の後裔である。建中の初めに進士に及第し、累次使府に招聘された。貞元の初め、侍御史を歴任し、竇參が深くこれを重んじ、禮部員外郎に転じた。八年、參が官を貶されると、次はこれに坐して出向して開州刺史となった。巴峡の間十余年、進用されることがなかった。西川節度使韋臯が表を奉って副使とするよう強く請うたが、徳宗は密かに韋臯に命じてこれを罷めさせた。次は久しく蛮荒の地に滞在し、孤心抑鬱し、怨謗が積もるにつれ、誰がこれを申し明かしてくれようか、と。そこで古来の忠臣賢士で、讒謗に遭い放逐され、遂には殺身に至りながら、君主がなお悟らなかった事例を採り、その書三篇を編み、これを辨謗略と称して上進した。徳宗はこれをご覧になり、なお怒って左右に言った、「唐次はまさに我を古の昏主になぞらえている。どうして自らこのように諭すのか!」。夔州刺史に改めた。憲宗が即位すると、李吉甫と共に峡内より召還され、次は禮部郎中を授けられた。まもなく本官のまま知制誥を兼ね、正しく中書舍人に拝され、卒した。
章武皇帝(憲宗)は明哲で悪を憎み、特に人が朋比して傾軋することを憎まれた。禁中で書物を閲覧していた時、次が上進した三篇の書を得て、ご覧になって善しとし、學士沈傳師に言った、「唐次が編集した辨謗の書は、実に君主たる者が時宜に応じて観覧すべきものである。朕は思うに、古書にはこのような事が多くあるが、次が編録したのは未だ尽くしていない。卿は家伝で史学を継いでいる。學士と共に類例を広げて増補せよ」。傳師は詔を奉じ、令狐楚・杜元穎らと分かれて功を修め続編し、広く十巻とし、元和辨謗略と号した。その序に言う。
臣は聞く、乾坤が定まりて上下分かる。四時の候を播き、万物の宜を遂ぐるに至っては、妖祥の二気を験するに在り。祥気降れば則ち豊となり茂となり、妖気降れば則ち沴となり災となる。君臣立てば卑高隔たる。神明の奥に処り、献納の辞を詢るに至っては、邪正の二説を審にするに在り。正言勝てば則ち忠となり讜となり、邪言勝てば則ち讒となり諛となる。故に詩に云う、「萋兮斐兮、是れ貝錦を成す」と。其の組織の甚だ巧みなるを刺すなり。語に曰く、「邪径良田を敗り、讒口善人を乱す」と。其の莠言の政を蠹すを悪むなり。蓋し信に似て詐り、忠に似て非なるを謂う。便便として以て心を動かし、捷捷として以て徳を乱すべし。豈に止むや鶗鳺の卉を彫し、薏苡の珠を惑わすのみならんや。況や国家を立て、中より外に徂くに、道偏れば則ち刑罰中らず、讒勝てば則ち忠孝彰れず。逖かに前聞を覧、緬かに近古を想う。賢を招き鯁を容れ、佞を遠ざけ邪を嫉む。慮るは則ち深けれども、防ぐは未だ至らず。伏して惟うに、睿聖文武皇帝陛下、衣を垂れて宇を御し、化文明に洽くす。謨猷縉紳に博く訪い、旌賁巌穴に屢臻る。尚復四目を広め、四聡を周う。制理皆未萌に在り、作範将に不朽に垂れんとす。乃ち掌文の臣令狐楚等に詔して、上は周漢より、下は隋朝に洎り、史籍の忠賢を求め、讒謗に罹れる事跡を、瑕釁の本末を叙し、謡諑の浅深を紀し、編次して指し明らかにし、勒して十巻を成さしむ。昔虞舜に堲讒の命有り、我が皇は辨謗の書を脩む。千古一心、同じく至理を垂る。将に法宮に日昃の政を退き、別殿に乙夜の観を備えんと俟つ。則ち聖慮先ず辨じ、謗何ぞ由て興らん。上天言わずして、民自ずから信ず。
憲宗は優詔を以て之に答う。
次子は扶、持。
子 扶
扶は幕を佐けて事を立て、朝に登りて名有り。及んで甌・閩を廉問し、政事治まらず。身歿の後、僕妾財を争い、闕に詣りて論訴す。法司按劾するに、其の家財十万貫、二妾に帰す。又嘗て部人を枉殺し、其の家に訴えらる。行己前後類せず、時論之を非とす。
子 持
持、字は徳守。元和十五年に進士第に擢でられ、累ねて諸侯府に辟さる。朝に入りて侍御史・尚書郎となる。大中末、工部郎中より出でて容州刺史・御史中丞・容管経略招討使となる。入りて給事中となる。大中末、検校左散騎常侍・霊州大都督府長史・朔方節度・霊武六城転運等使となる。進みて位し検校戸部尚書・潞州大都督府長史・昭義節度・沢潞邢洺磁観察処置等使となり、卒す。
持の子 彦謙
子彦謙、字は茂業。咸通末に応進士し、才高くして気を負い、屈降すること無く、十餘年及第せず。乾符末、河南に盗起こり、両都覆没す。其の家を以て漢南に避地す。中和中、王重栄河中に鎮す。辟して従事と為す。累奏して河中節度副使に至り、晋・絳二州刺史を歴る。彦謙博学多芸、文詞壮麗、書画音楽博飲の技に至るまで、輩流に出でざる無し。尤も能く七言詩し、少時温庭筠に師い、故に文格之に類す。
光啓末、王重栄部下に害せらる。朝議参佐を責む。彦謙は書記李巨川と俱に漢中の掾曹に貶さる。時楊守亮興元に鎮す。素より其の名を聞く。彦謙本府を以て参承す。守亮之を見て、喜び手を握りて曰く、「尚書の名を聞くこと久し。茲に邂逅す」と。翌日、判官に署す。累官して副使に至り、閬・壁二郡刺史となる。漢中に卒す。詩数百篇有り、礼部侍郎薛廷珪之が為に序し、号して鹿門先生集と曰い、時に行わる。子渙、位亦た郡守に至る。
次弟は歡・款・欣。款は貞元六年に進士第に登り、累ねて使府に辟さる。朝に登りて御史となり、出でて郡守となり、卒す。子は枝。枝は字は己有、会昌末、累遷して刑部員外となり、転じて郎中となり、累ねて刺史を歴り、卒す。
劉蕡
朕聞く、古の先哲の王の理むるや、玄黙無為にして、端拱して道を思い、民心を陶げて以て簡に居り、日用を凝らして宰らず、下を厚くして以て本を立て、誠を推して以て中を建つ。是に天人通じ、陰陽和し、俗仁壽に躋り、物疵癘無し。噫、盛徳の臻る所、夐かにして及ぶべからざるなり。三代の令王、質文迭いに䆒(きわ)むるも、百偽滋熾んに、風流寖いに微なり、漢より降りてより、定徴蓋し寡なし。朕惟うに昧道を顧み、祗んで丕構を荷い、謨訓を奉若し、敢えて怠荒せず。賢を任じ惕厲し、宵衣旰食し、詎ぞ三五の遐軌を追い、庻ねて祖宗の鴻緒を紹がん。而して心に達せざる所有り、行いに孚せざる所有り、中より外に及び、闕政斯に廣し。是を以て人化に率わず、気或いは堙厄し、災旱竟歳し、播植愆時す。国廩罕に蓄え、九年の儲に乏しく、吏道多端にして、三載の績微なり。京師は諸夏の本なり、将に以て理を観んとす、而して豪猾時に檢を踰ゆ。太學は明教の源なり、期うに風を變ぜんとす、而して生徒多く業を惰る。列郡は條を頒つに在りて、而して干禁或いは未だ絶えず。百工は度を按ずるに在りて、而して滛巧或いは未だ衰えず。俗墮ち風靡し、積訛蠧を成す。其の官を擇び理を濟うや、人を聽くに言を以てすれば、則ち枝葉辨え難く、下を御するに法を以てすれば、則ち耻格形れず。其の財を阜かにし號を發するや、之を生む寡なくして之を食む衆く、令に煩わしくして理に鮮なし。思う所以に此の繆盭を䆒(きわ)め、之を治平に致さん、茲の心浩然として、若し泉水に渉るが若し。故に前に有司に詔し、博く群彦を延き、宿懵を啓かんことを佇ち、冀わくは時雍に臻らんことを。子大夫識古今に逹し、康濟に明らかなり、廷に造りて問を待つ、朕が虚懷を副う。必ずや主の闕を箴め、政の疵を辨じ、綱條の紊るるに致す所以を明らかにし、富庶の急とする所を稽うべし。何を施せば斯れ前弊を革むるか、何の澤斯れ下土に惠まんか、何を脩めれば理古に近づく可きか、何の道にして和氣克く充つるか、之を本源に推し、條對に著わす。夷吾輕重の權に至りては、孰れか理に輔くる、嚴尤底定の䇿に至りては、孰れか時に叶う、元凱の考課何をか先にす、叔子の克平何をか務むる。此の龜鏡を推し、中庸を擇び、期うに洽聞に在り、朕将に親ら覽んとす。
時に對策する者百餘人、對する所止まるに常務を循う、唯だ蕡のみ黄門の太だ横なるを切論し、将に宗社を危うくせんとす、對して曰く。
この年、左散騎常侍の馮宿、太常少卿の賈餗、庫部郎中の龎厳が考策官となり、この三人は当時の文士であったが、劉蕡の条対を見て、嘆服し嗟悒し、漢の晁錯・董仲舒をもってしてもこれを超えるものはないと思った。その言論は激切で、士林は感動した。時に登科した者は二十二人であったが、宦官が権力を握っていたため、考官は劉蕡を籍中に留めることができず、世論は喧然としてこれを不平とした。道を守る正しい人々は、その文を伝え読み、中には相対して涙を流す者さえあった。諌官や御史は、腕を扼んで憤発したが、執政の臣はこれに従ってこれを鎮め、黄門(宦官)の怨みを避けようとした。ただ登科した李邰のみが人に言うには、「劉蕡が及第せず、我々が登科するとは、実に厚顔である」と。授かった官を劉蕡に譲ることを請うたが、事は行われなかったものの、人々はこれを称えた。令狐楚が興元におり、牛僧孺が襄陽を鎮めると、劉蕡を従事として召し、師友の如く待遇した。位は使府御史に終わった。
李商隱
李商隱、字は義山、懐州河内の人である。曾祖父の叔恒は、十九歳で進士に及第し、位は安陽令に終わった。祖父の俌は、位は邢州録事参軍に終わった。父は嗣である。
王茂元が河陽を鎮めると、掌書記として召し、侍御史の待遇を得た。茂元はその才を愛し、娘を妻とさせた。茂元は書を読み儒者となったが、もとは将家の子であり、李徳裕は平素よりこれを遇していた。時に徳裕が政を執り、茂元を河陽帥に用いた。徳裕は李宗閔・楊嗣復・令狐楚と大いに仇怨を成していた。商隱は既に茂元の従事となったので、宗閔の党は大いにこれを軽んじた。時に令狐楚は既に卒しており、子の綯が員外郎となり、商隱が恩に背いたことを以て、特にその行いのないことを憎んだ。やがて茂元が卒すると、京師に遊来し、長く調官されなかった。時に給事中の鄭亜が桂州を廉察することとなり、観察判官・検校水部員外郎として請うた。大中初め、白敏中が執政し、令狐綯が内署にあり、共に李徳裕を排してこれを逐った。鄭亜は徳裕の党に坐し、また循州刺史に貶せられた。商隱は鄭亜に従って嶺表に累年を過ごした。
商隱は古文を作ることができ、偶対を好まなかった。令狐楚の幕に従事した。楚は章奏に長じていたので、遂にその道を商隱に授け、これより今体の章奏を作り始めた。博学強記で、筆を下すと自ら止めることができず、特に誄奠の辞を作ることを善くした。太原の温庭筠・南郡の段成式と斉名し、時に「三十六」と号された。文思は清麗で、庭筠はこれを超えていた。しかし共に操持がなく、才を恃んで詭激であり、当塗者に軽んじられた。名宦に進まず、坎壈として終生を過ごした。
弟 羲叟
弟の羲叟も、進士に擢第し、累ねて賓佐となった。商隱には表状集四十巻がある。
温庭筠
温庭筠は、太原の人で、本名は岐、字は飛卿である。大中初めに進士に応じ、硯席に苦心し、特に詩賦に長じていた。初めて京師に至ると、人々は翕然として推重したが、士行は塵雑で、辺幅を修めず、絃吹の音に逐って側艶の詞を作ることができた。公卿家の無頼の子弟である裴誠・令狐滈の徒と、相い蒲飲みして酣醉し終日を過ごし、これによって累年及第しなかった。徐商が襄陽を鎮めると、これに依り往き、巡官に署された。咸通中、失意して江東に帰り、路は広陵に由ったが、心に令狐綯が在位の時に成名させなかったことを怨んだ。既に至ると、新進の少年と狂遊して狭邪に遊び、久しく刺謁せず、また楊子院に乞索し、酔って夜禁を犯し、虞候に撃たれ、顔を傷つけ歯を折られてようやく還った。揚州でこれを訴えると、令狐綯は虞候を捕えてこれを治めさせたが、庭筠の狭邪における醜迹を極言したので、乃ち両者を釈放した。これより汚行が京師に聞こえた。庭筠は自ら長安に至り、公卿間に書を致して冤を雪ごうとしたが、時に徐商が政事を知り、頗るこれを言った。間もなく、徐商は罷相し、楊を出鎮したが、収はこれを怒り、方城尉に貶し、再び隋県尉に遷し、卒した。
庭筠の子 憲
子の憲は、進士に擢第した。
庭筠の弟 庭皓
弟の庭皓は、咸通中に徐州従事となった。節度使の崔彦魯が龎勛に殺されると、庭皓もまた害された。
庭筠の著述は頗る多く、詩賦の韻格は清らかで抜きん出ており、文士に称えられた。
薛逢
薛逢、字は陶臣、河東の人である。父は倚。逢は会昌初年に進士に及第し、初めて官に就き、秘書省校書郎となった。崔鉉が宰相を罷めて河中を鎮守した時、召し出されて従事となった。鉉が再び政務を補佐すると、奏上して万年尉に任じ、弘文館に直し、累進して侍御史・尚書郎となった。逢は文詞が優れて抜きん出ており、議論は激切で、自ら経世の謀略を負い、久しく達しなかった。進士に応じた時、彭城の劉瑑と特に親しくしたが、瑑の詞芸は逢に及ばず、逢はしばしばこれを侮った。大中の末に至り、瑑は栄達し、禁中の官署を歴任すると、逢はますます意を得ず、ここに互いに怨むようになった。やがて瑑が政事を知ると、或る者が逢を知制誥に推薦したが、瑑は奏上して言った、「先朝は両省の官、給事中・中書舎人の任官には、必ず先ず州県を歴任することを定めており、逢は未だ郡を治めたことがない。宜しく先ずこれを試みるべきである。」そこで巴州刺史として出された。その後、沈詢・楊収・王鐸が学士から相次いで将相となり、皆同年の進士であったが、逢の文芸が最も優れていた。楊収が宰相となった後、逢が詩に云う、「須知金印朝天客、同是沙堤避路人。威鳳偶時皆瑞聖、潜龍無水謾通神。」収はこれを聞き、大いに恨んだ。また蓬州刺史として出された。収が宰相を罷めると、入朝して太常少卿・給事中となった。王鐸が宰相となると、逢はまた詩に云う、「昨日鴻毛万鈞重、今朝山岳一塵軽鐸。」鐸もまたこれを怨み、才を恃んで偏狭で憤り易いとして、人士はこれを軽蔑した。遷って秘書監となり、卒した。
子 廷珪
李拯
李巨川
李巨川、字は下已、隴右の人である。国初の十八学士の李道玄の後裔で、故に李逢吉の姪の曽孫である。父の循は、大中八年に進士に及第した。
巨川は乾符年間に進士に応じたが、天下大乱に属し、流離して奔播し、禄位を切に求めたので、乃ち刀筆を以て諸侯の府に従った。王重栄が河中を鎮守した時、召し出されて掌書記となった。時に車駕は蜀に在り、賊は京師を占拠していた。重栄は諸藩を匡合し、力を合わせて賊を誅しようとし、軍書や奏請が机の上に山積した。巨川の文思は敏速で、筆が飛ぶ如く動き、藩隣に伝わって、聳動しない者はなかった。重栄の収復の功は、巨川の助力によるものであった。重栄が部下に害せられると、朝議は参佐の罪とし、漢中の掾に貶された。時に楊守亮が興元を帥とし、平素より巨川を知っており、その到来を聞いて喜び客に謂って曰く、「天が李書記を我に遺したのだ!」即ち記室を管させ、累進して幕職となった。
景福年間、守亮が李茂貞に攻められ、城が陥落し、部下数百人を率いて太原に投じようとした。秦に入り、華州の軍に擒えられた。巨川は時に守亮に従っており、また械を着けられて繋がれた。途上、巨川は樹葉に詩を題して華帥の韓建に遺し、詞情は哀鳴し、建は欣然として縛を解いた。守亮が誅せられると、即ち掌書記に命じた。やがて李茂貞が京師を犯すと、天子は華州に駐蹕した。韓建は一州の力で、万乗を供億し、その不十分を慮り、巨川を遣わして天下に檄を伝え、転餉を助け、共に王室を匡し、京城を完葺するよう請うた。四方からの書檄や返答が輻湊したが、巨川は筆を揮って陳叙し、文理ともに適っていたので、昭宗は深くこれを重んじ、即時に巨川の名は天下に聞こえた。昭宗が京に還ると、特に諌議大夫を授け、仍って建を補佐するよう留めた。
光化初年、朱全忠が河中を陥し、兵を進めて潼関に入った。建は懼れ、巨川をして全忠に会わせて降伏の意を伝えさせた。河中に至り、巨川は従容として事を言った。巨川が利害を指陳すると、全忠は正に鼎を問わんと図っていたので、巨川の陳べることを聞き、心にこれを憎んだ。判官の敬翔もまた文筆を以て全忠に知られており、巨川に名価を減落されることを慮り、全忠に謂って曰く、「李諌議の文章は確かに美しいが、主人に利しない。」この日、巨川は全忠に害せられた。
司空図、字は表聖、本は臨淄の人である。曽祖父の遂は、密県令。祖父の彖は、水部郎中。父の輿は、吏術に精通した。大中初年、戸部侍郎の盧弘正が塩鉄を領し、輿を安邑両池榷塩使・検校司封郎中に奏した。先に、塩法の条令は疎闊で、吏は多く禁を犯していた。輿は乃ち特に新法十条を定めて奏上し、今に至るまで便利とされている。朝に入り司門員外郎となり、遷って戸部郎中となり、卒した。
図は咸通十年に進士に及第し、主司の王凝は進士の中でも特にこれを奇とした。凝が左遷されて商州刺史となると、図はこれに従うことを請い、凝はますます器重した。宣歙の廉察使となると、召し出されて上客とした。召されて殿中侍御史に任じられたが、赴闕が遅留したため、責められて光禄寺主簿に任じられ、東都に分司した。乾符六年、宰相の盧携が罷免され、賓客として分司となると、図はこれと交遊し、携はその高節を嘉して厚く礼した。嘗て図の舎を訪れ、壁に手ずから題して曰く、「姓氏司空貴、官班御史卑、老夫如且在、不用念屯奇。」明年、携が再び朝に入る時、陝虢を経由し、陝帥の盧渥に謂って曰く、「司空御史は高士である。公は厚くせよ。」渥は即日に奏して賓佐とした。その年、携が再び政事を知ると、図を召して礼部員外郎とし、緋魚袋を賜い、本司の郎中に遷した。その年冬、巣賊が京師を犯すと、天子は出幸し、図はこれに従えず、乃ち退いて河中に還った。時に故相の王徽もまた蒲に在り、図を頗る厚く遇した。数年後、徽は詔を受けて潞を鎮めることとなり、乃ち図を副使に表したが、徽は赴鎮せずに止んだ。僖宗が蜀より還り、鳳翔に次ぐと、図を召して知制誥とし、尋ねて正任して中書舎人とした。その年、僖宗が宝鶏に出幸すると、再びこれに従えず、退いて河中に還った。
龍紀の初め、また召されて舍人に任ぜられたが、ほどなくまた病を理由に辞した。河北が乱れるや、華陰に寓居した。景福年間、また諫議大夫として召された。時に朝廷は微弱で、紀綱は大いに乱れており、司空図は深く考えて、出仕するは隠居するに如かずとし、病を理由に起たなかった。乾寧年間、また戸部侍郎として召され、一度は朝廷に至って謝意を表したが、数日で山に還ることを乞い、許された。昭宗が華州におられた時、兵部侍郎として召されたが、足疾を称して趨拝に堪えず、ただ上表して謝したのみであった。昭宗が洛陽に遷ると、柳璨は賊(朱全忠)の意を迎え、旧族を陥れようとし、詔して司空図に入朝を命じた。図は誅殺されることを恐れ、病をおして洛陽に至り、謁見の日、笏を落として礼儀を失い、趣向は極めて粗野であった。璨は屈せしめ得ぬと知り、詔して曰く、「司空図は俊造として科挙に及第し、朱紫の官籍に昇ったが、既に高節を養って世に傲り、山を移して名を釣る類であり、心はただ漱流を楽しみ、仕官は禄食に専らするにあらず。夷でもなく恵でもなく、公正の朝に居るは難く、思いを巡らせ考えれば、棲衡の志に従うべきである。放って山に還すべし」と。
司空図には先祖伝来の別荘が中条山の王官谷にあり、泉石林亭、幽棲の趣に頗るかなうものであった。隠遁して高く臥すことを自ら楽しみ、日ごと名僧高士と交わり、その中で遊詠した。晚年の文章は、特に放達を事とし、かつて白居易の『醉吟伝』に擬えて『休休亭記』を作り、曰く、
司空氏の禎貽溪にある休休亭は、本名は濯纓亭といったが、陝軍に焼かれた。天復癸亥の歳、壊れた垣の中に再び修築し、乃ち更めて休休と名付けた。休とは、休むことであり、美しいことである。既に休みて具わる美が存するのである。およそその才を量って一に休むに宜しく、その分を揣って二に休むに宜しく、耄いて且つ聵(耳が聞こえぬ)こと三に休むに宜しい。また、少にして惰、長じて率(軽率)、老いて迂(迂闊)なるは、この三者は皆時に済うの用に非ず、また休むに宜しい。なお多難を慮りて自ら信じ得ず、既にして昼寝するに、二僧に遇い、予に謂いて曰く、「我れ嘗て汝が師たり。汝は昔、道に矯めんとして、鋭くして固からず、利慾の拘うるところとなったが、幸いに悟りて悔い、将に復た我に従いてこの溪に在らんとす。且つ汝は退いたといえども、また嘗て匪人(よこしまな人)の嫉むところと為った。宜しく辱しめに耐えて自ら警め、その終始を保つを庶幾うべし。靖節(陶淵明)・醉吟(白居易)とその品級を千載の下に第だてるに、また何を求めんや」と。ここに因って『耐辱居士歌』を作り、東北の楹に題して曰く、「咄咄、休休休、莫莫莫、伎倆は多くと雖も性霊悪し、頼むらくは是れ長く閑処に著くを教うるに長ずるにあり。休休休、莫莫莫、一局の棋、一炉の薬、天意時情は料度すべし。白日は偏に快活の人を催し、黄金は騎鶴に堪うるを買い難し。若し曰く『爾何の能くかある』と。答えて云く『辱しめに耐えよ、莫』と」。
その詭激にして嘯傲する様、多くはこの類である。
司空図は柳璨の禍を脱して山に還ると、乃ち予め寿蔵(生前に作る墓)を造り終制(葬送の礼)を定めた。故人が来る者は、これを壙中に引き入れ、詩を賦し杯を酌み交わした。人が難色を示すと、図はこれを諭して曰く、「達人は大観し、幽顕は一致す。ただ暫くこの中に遊ぶのみに非ず。公何ぞ広からざるや」と。図は布衣に鳩杖を持ち、出る時は女家人の鸞臺を以て自らに随わせた。歳時の村社の雩祭祠禱には、鼓舞会集するに、図は必ずこれに赴き、野老と同席して、曾て傲色無かった。王重榮父子兄弟は特にこれを重んじ、伏臘(冬夏の祭り)の饋遺は、途に絶えることがなかった。唐の祚(皇位)が亡びた明年、輝王(哀帝)が済陰で弑害されたと聞き、快からずして病み、数日で卒した。時に年七十二。文集三十巻あり。
司空図に子が無く、その甥の荷を嗣と為した。荷は官、永州刺史に至る。甥を嗣と為したことを、嘗て御史に弾劾されたが、昭宗はこれを責めなかった。
贊
贊に曰く、国の華彩、人文は化成す。間代に傑出し、藻を奮い英を摛る。騏驥の逸歩、咸・韶の正声。燦として緗素に流れ、下りて姬・嬴を視る。