舊唐書

巻190下

巻190下

舊唐書

原文舊唐書

卷一百九十下

原文卷一百九十下

列傳第一百四十下 文苑下

原文列傳第一百四十下 文苑下

李華

原文李華

李華は字を遐叔といい、趙郡の人である。開元二十三年に進士に擢第した。天宝年間、朝廷に登り監察御史となった。累転して侍御史、礼部・吏部の二員外郎となった。李華は文章をよくし、蘭陵の蕭穎士と親しく交わった。李華が進士であった時、含元殿賦を万余言で著したところ、蕭穎士はこれを見て賞賛し、「景福の上、霊光の下である」と言った。李華の文体は穏やかで麗しく、雄大傑出した気概には乏しかったが、蕭穎士の言葉は鋭く才気煥発であった。李華は自らの学業が彼を超えていると思い、その賞賛が偽りではないかと疑った。そこで祭古戦場文を作り、古物のように燻して汚し、仏書の架に置いた。李華と蕭穎士は仏書を閲覧している時にこれを見つけ、李華は彼に言った、「この文章はどうか」。蕭穎士は言った、「まあよいだろう」。李華は言った、「当代の筆を執る者で、これに及ぶ者は誰か」。蕭穎士は言った、「君が少し精思すれば、これに及ぶことができる」。李華は愕然とした。李華は論を著して亀卜は廃すべきであると言い、通人はその言葉に妥当性を認めた。

原文李華字遐叔,趙郡人。開元二十三年進士擢第。天寶中,登朝為監察御史。累轉侍御史,禮部、吏部二員外郎。華善屬文,與蘭陵蕭穎士友善。華進士時,著含元殿賦萬餘言,穎士見而賞之,曰:「景福之上,靈光之下。」華文體溫麗,少宏傑之氣,穎士詞鋒俊發,華自以所業過之,疑其誣詞。乃為祭古戰場文,熏汙之如故物,置於佛書之閣。華與穎士因閱佛書得之,華謂之曰:「此文何如?」穎士曰:「可矣。」華曰:「當代秉筆者,誰及於此?」穎士曰:「君稍精思,便可及此。」華愕然。華著論言龜卜可廢,通人當其言。

安禄山が京師を陥落させると、玄宗は出幸し、李華は扈従できず、賊に陥り、偽って鳳閣舎人に任じられた。城を収めた後、三司の類例により減等され、軽い貶官に従い、ついに家に廃され、没した。李華はかつて魯山県令元徳秀の墓碑文を書き、顔真卿がこれを書き、李陽冰が篆額をしたため、後人はこれを模写し争い、「四絶碑」と号した。文集十巻があり、当時に流行した。

原文祿山陷京師,玄宗出幸,華扈從不及,陷賊,偽署為鳳閣舍人。收城後,三司類例減等,從輕貶官,遂廢於家,卒。華嘗為魯山令元德秀墓碑,顏真卿書,李陽冰篆額,後人爭模寫之,號為「四絕碑」。有文集十卷,行於時。

蕭穎士

原文蕭穎士

蕭穎士は、字を茂挺といい、李華と同年に進士に登第した。開元の中頃、天下は平穏で、人物が群がり集まること市場のようであった。かつて席豫よ、張垍、韋述の輩はいずれも盛名があったが、蕭穎士は皆彼らと交遊した。これにより縉紳は多く彼を称賛した。李林甫はその名を聞き、抜擢して用いようと思い、召見した。当時蕭穎士は広陵に寓居し、母の喪に服していたが、すぐに縗麻を着て京師に赴き、直ちに政事省で李林甫に謁見した。李林甫はもとより彼を知らず、突然縗麻を見て大いに嫌い、すぐに斥退させた。蕭穎士は大いに憤慨し、そこで『桜桃賦』を作って李林甫を諷刺した、「無用の剿質を擢げ、本枝に蒙りて自ら庇う;群林を汨して拠るに非ず、廟庭の右地を専らにす。先寝に式薦すと雖も、豈に和羹の正味ならんや」。その狂率で不遜な様は、皆この類であり、しかし聡明で機敏なことは並ぶ者なきものであった。かつて李華、陸據と共に洛南の龍門に遊び、三人で路傍の古碑を読んだが、蕭穎士は一読して即座にこれを誦することができ、李華は二読し、陸據は三読してようやく記憶することができた。議論する者は三人の才格の高低もまたこのようであると言った。この時、外夷もまた蕭穎士の名を知り、新羅の使節が入朝し、国人が蕭夫子を師としたいと願うと言った。その名が華夷に響き渡ることはこのようであり、このようにして終には誕慢で偏狭な忿りにより困窮し、没した。

原文蕭穎士者,字茂挺,與華同年登進士第。當開元中,天下承平,人物駢集如賈。曽席豫、張垍、韋述軰皆有盛名,而穎士皆與之遊。由是縉紳多譽之。李林甫採其名,欲拔用之,乃召見。時穎士寓居廣陵,毋䘮,即縗麻而詣京師,徑謁林甫於政事省。林甫素不識,遽見縗麻大惡之,即令斥去。穎士大忿,乃為伐《櫻桃賦》以刺林甫云:「擢無用之剿質,蒙本枝而自庇;汨群林而非據,專廟庭之右地。雖先寢而式薦,豈和羹之正味?」其狂率不遜,皆此類也,然而聰警絶倫。甞與李華、陸據同遊洛南龍門,三人共讀路側古碑,穎士一閲即能誦之,華再閲,據三閲方能記之。議者以三人才格髙下亦如此。是時,外夷亦知穎士之名,新羅使入朝,言國人願得蕭夫子為師,其名動華夷,若此終以誕傲褊忿困躓而卒。

附 李翰

原文附 李翰

李華の同族の李翰もまた進士として名を知られた。天宝年間、陽翟に寓居した。文章は精密で、思索は苦渋を極めた。常に陽翟県令の皇甫曽に音楽を求め、思慮が枯渇するたびに音楽を奏で、精神が逸れば文章を著した。安禄山の乱の時、友人張巡に従って宋州に客居し、張巡は州人を率いて城を守った。賊は攻囲すること一年に及び、食糧は尽き矢は窮してようやく陥落した。当時張巡を軽んじる者は、彼が賊に降ったと言った。李翰はそこで張巡の守城の事跡を序し、張巡、姚誾等の伝二巻を撰し、これを粛宗に上った。これにより初めて張巡の忠義が明らかとなり、友人たちはこれを称えた。上元年間、衛県尉となり、朝廷に入って侍御史となった。

原文華宗人翰,亦以進士知名。天寳中,寓居陽翟。為文精密,用思苦澁。常從陽翟令皇甫曽求音樂,每思涸則奏樂,神逸則著文。禄山之亂,從友人張巡客宋州,巡率州人守城,賊攻圍經年,食盡矢窮方䧟。當時薄巡者,言其降賊,翰乃序巡守城事迹,撰張巡、姚誾等傳兩卷,上之肅宗。方明巡之忠義士,友稱之。上元中,為衛縣尉,入朝為侍御史。

陸據

原文陸據

陸據は、周の上庸公陸騰の六代孫である。幼くして孤となり、文章は俊逸で、言論は縦横であった。三十余歳にして初めて京師に遊学し、進士に挙げられた。公卿はその文章を覧て、これを重んじ称えた。従事に辟召され、累官して司勲員外郎に至った。天宝十三載、没した。開元・天宝の間、文士として名を知られた者は、汴州の崔顥、京兆の王昌齢・高適、襄陽の孟浩然で、皆名声と地位は振るわなかったが、ただ高適のみは官途が達し、独自の伝がある。

原文陸據者,周上庸公騰六代孫。少孤,文章俊逸,言論縱横。年三十餘,始遊京師,舉進士。公卿覽其文,稱重之。辟為從事,累官至司勲員外郎。天寳十三載,卒。開元、天寳間,文士知名者,汴州崔顥,京兆王昌齡、高適,㐮陽孟浩然,皆名位不振,唯高適官逹,自有傳。

崔顥

原文崔顥

崔顥は、進士に登第した。俊才はあるが士人の行いがなく、博奕と飲酒を好んだ。京師に遊学した時、妻を娶るには容貌の良い者を選び、少しでも気に入らなければすぐに離縁し、前後四度に及んだ。累官して司勲員外郎となった。天宝十三年、没した。

原文崔顥者,登進士第。有俊才無士行,好蒱博飲酒。及遊京師,娶妻擇有貎者,稍不惬意即去之,前後數四。累官司勲員外郎。天寳十三年,卒。

王昌齢

原文王昌齡

王昌齢は、進士に登第し、秘書省校書郎を補された。また博学宏詞科に登科し、再び汜水県尉に遷った。細行を慎まず、たびたび貶斥に遭い、没した。王昌齢の文章は細やかで思慮は清く、文集五巻がある。

原文王昌齡者,進士登第,補秘書省,校書郎。又以博學宏詞登科,再遷汜水縣尉,不護細行,屢見貶斥,卒。昌齡為文緒微而思清,有集五卷。

孟浩然

原文孟浩然

孟浩然は鹿門山に隠棲し、詩をもって自ら楽しんだ。四十歳の頃に京師に遊学し、進士に応じたが及第せず、帰郷した。襄陽の張九齢が荊州を鎮守した時、従事に任命し、彼と詩を唱和したが、志を得ずに没した。

原文孟浩然,隠鹿門山,以詩自適。年四十來遊京師,應進士不第,還。襄陽張九齡鎮荆州,署為從事,與之唱和,不逹而卒。

元徳秀

原文元德秀

元徳秀は河南の人、字は紫芝。開元二十一年に進士に及第した。性質は純朴で、飾り気がなく、行動は古の道に師法した。父は延州刺史であった。

原文元德秀者,河南人,字紫芝。開元二十一年登進士第。性純朴,無緣餙,動師古道。父為延州刺史。

徳秀は幼くして孤貧であり、母に仕えて孝行で知られた。開元年間、郷挙に従い、毎年京師に遊学したが、親を離れるに忍びず、毎回自ら板輿を背負い、母と共に長安ちょうあんに赴いた。及第後、母が亡くなると、墓所に廬を結び、食には塩や乳製品を用いず、敷物には茵や席を用いず、血を刺して像を描き仏経を写した。久しくして、孤児の幼さが禄仕に引かれることとなり、邢州南和尉に任じられた。補佐して治績に恵みあり、黜陟使が上聞し、召されて龍武録事参軍に補された。

原文德秀少孤貧,事母以孝聞。開元中,從鄉賦,歳遊京師,不忍離親,毎行則自負板輿,與母詣長安。登第後,母亡,廬於墓所,食無鹽酪,藉無茵席,刺血畫像寫佛經。乆之,以孤㓜牽於禄仕,調授邢州南和尉。佐治有惠政,黜陟使上聞,召補龍武録事參軍。

徳秀は早くに父母を失い、喪服が相次ぎ、親の存命中に娶ることができなかった。孤となった後、遂に娶らなかった。族人が後嗣が絶えることを諫めると、徳秀は言った、「我が兄に子あり、先人の祭祀を継ぐ」と。兄の子の婚娶に、家が貧しく礼をなすことができず、魯山令を求めた。先に、車から落ちて足を傷め、趨拝に耐えられず、汝郡太守は客礼をもって彼を遇した。部内の者が盗みを働き、吏がこれを捕らえ、獄に繋いだ。時に県内に猛獣が暴れ、盗人は自ら申し出て言った、「願わくは猛獣を格殺して自ら贖罪せん」と。徳秀はこれを許した。胥吏が言った、「盗人は詭計で免れようとするだけです。官の囚人を擅かに放てば、累が及ぶのでは?」徳秀は言った、「私は約を負うことを欲せず、累があれば私が坐す。必ずや諸君には及ばぬよう請う」。即ち械を破ってこれを出した。翌日、猛獣を格殺して帰った。誠信をもって人を感化する、おおむねこの類であった。

原文德秀早失恃怙,縗麻相繼,不及親在而娶。既孤之後,遂不娶婚。族人以絶嗣規之,德秀曰:“吾兄有子,繼先人之祀。”以兄子婚娶,家貧無以為禮,求為魯山令。先是,墮車傷足,不任趨拜,汝郡守以客禮待之。部人為盗,吏捕之,繋獄。會縣界有猛獸為暴,盗自陳曰:“願格殺猛獸以自贖。”徳秀許之。胥吏曰:“盗詭計茍免,擅放官囚,無乃累乎?”徳秀曰:“吾不欲負約,累則吾坐,必請不及諸君。”即破械出之。翌日,格猛獸而還。誠信化人,大率此類。

任期が満ちて、南に陸渾に遊び、佳き山水を見て、杳然として長く隠棲する志があり、山の麓に廬を結んだ。歳は凶作に属し、台所には炊くこともなかったが、琴を弾き書を読み、怡然として自得した。好事の者が酒肴を載せて訪れても、賢不肖を選ばず、これと向かい合って酌み交わし、陶陶然として身を物外に忘れた。琴と酒の余暇に、時に文詠を挟み、率情に書し、言葉に彫琢がなかった。著した『季子聴楽論』『蹇士賦』は、高人の称賛するところとなった。

原文秩滿,南遊陸渾,見佳山水,杳然有長往之志,乃結廬山阿。歳屬饑歉,庖厨不㸑,而彈琴讀書,怡然自得。好事者載酒餚過之,不擇賢不肖,與之對酌,陶陶然遺身物外。琴觴之餘,間以文詠,率情而書,語無雕刻。所著《季子聽樂論》、《蹇士賦》,為高人所稱。

天宝十三年に卒去、時に五十九歳。門人が相諡して文行先生とした。士大夫はその行いを尊び、名で呼ばず、元魯山と呼んだ。

原文天寳十三年卒,時年五十九,門人相諡為文行先生。士大夫高其行,不名,謂之元魯山。

王維

原文王維

王維、字は摩詰、太原祁の人。父の処廉は、汾州司馬で終わり、家を蒲に移し、遂に河東の人となった。維は開元九年に進士に及第した。母の崔氏に仕えて孝行で知られた。弟の縉と共に俊才あり、博学で多芸もまた名を並べ、家門では兄弟仲睦まじく、多くの士人に推された。右拾遺・監察御史・左補闕・庫部郎中を歴任した。母の喪に服し、憔悴して骨と皮ばかりとなり、ほとんど喪に耐えられなかった。喪が明けて、吏部郎中に拝された。天宝末、給事中となった。

原文王維,字摩詰,太原祁人。父處㢘,終汾州司馬,徙家于蒲,遂為河東人。維開元九年進士擢第。事母崔氏以孝聞。與弟縉俱有俊才,博學多藝亦齊名,閨門友悌,多士推之。歴右拾遺、監察御史、左補闕、庫部郎中。居母䘮,柴毁骨立,殆不勝䘮。服闋,拜吏部郎中。天寳末,為給事中。

安禄山が両都を陥落させ、玄宗が出奔した時、維は扈従できず、賊に捕らえられた。維は薬を服して下痢を装い、偽って瘖病と称した。禄山は平素より彼を憐れみ、人を遣わして洛陽らくように迎え置き、普施寺に拘束し、偽の官職に就くことを迫った。禄山がその徒党を凝碧宮で宴した時、その楽工は皆梨園の弟子や教坊の工人であった。維はこれを聞いて悲しみ、密かに詩を作って曰く、「万戸傷心 野煙を生じ、百官何日か再び天を朝せん。秋槐花落ちて空宮裏に、凝碧池頭 筦絃を奏す」と。賊が平定され、賊に陥った官は三等に分けて罪を定めた。維は凝碧の詩が行在に聞こえ、粛宗がこれを嘉し、時に縉が己の刑部侍郎の官を削って兄の罪を贖うことを請うたので、特にこれを宥し、太子中允を責授し、乾元年間、太子中庶子・中書舎人に遷り、再び給事中に拝され、尚書右丞に転じた。

原文禄山䧟兩都,玄宗出幸,維扈從不及,為賊所得。維服藥取痢,偽稱瘖病。禄山素憐之,遣人迎置洛陽,拘於普施寺,迫以偽署。禄山宴其徒於凝碧宫,其樂工皆梨園弟子、教坊工人。維聞之悲惻,潛為詩曰:「萬户傷心生野煙,百官何日再朝天?秋槐花落空宫裏,凝碧池頭奏筦絃。」賊平,陷賊官三等定罪。維以凝碧詩聞于行在,肅宗嘉之,會縉請削己刑部侍郎以贖兄罪,特宥之,責授太子中允,乾元中,遷太子中庶子、中書舍人,復拜給事中,轉尚書右丞。

維は詩名が開元・天宝の間に盛んであり、兄弟は両都で官遊し、諸王・駙馬・豪族・貴勢の門に、席を払って迎えられぬものはなく、寧王・薛王は師友の如く遇した。維は特に五言詩に長じた。書画は特にその妙を極め、筆跡と思索は造化に参じ、創意と構図は即座に欠けるところありといえども、山水の平遠、雲峰の石色は、天機に絶し、絵師の及ぶところではなかった。人が奏楽図を得て、その名を知らず、維はこれを見て言った、「霓裳第三疊の第一拍である」と。好事の者が楽工を集めてこれを按じると、少しも違わず、皆その精思に敬服した。

原文維以詩名盛於開元、天寶間,昆仲宦遊兩都,凡諸王駙馬豪右貴勢之門,無不拂席迎之,寧王、薛王待之如師友。維尤長五言詩。書畫特臻其妙,筆蹤措思,參於造化,而創意經圖,即有所缺,如山水平遠,雲峯石色,絕迹天機,非繪者之所及也。人有得奏樂圖,不知其名,維視之曰:「霓裳第三疊第一拍也。」好事者集樂工按之,一無差,咸服其精思。

維の兄弟は共に仏を奉じ、平素は蔬食し、葷血を食まず、晚年は長斎し、文彩の衣を着なかった。宋之問の藍田別荘を得て、輞口にあり、輞水が舎下を巡り、別に竹洲や花塢が漲り、道友の裴迪と舟を浮かべて往来し、琴を弾き詩を賦し、嘯詠して終日を過ごした。嘗てその田園で為した詩を集め、輞川集と号した。京師では日に十数名の名僧に飯を施し、玄談を楽しみとした。斎中には何もなく、ただ茶鐺・薬臼・経案・繩牀のみであった。退朝の後は、香を焚いて独坐し、禅誦を事とした。妻が亡くなって再び娶らず、三十年孤居一室、塵累を屏絶した。乾元二年七月に卒去。臨終の際、縉が鳳翔にいるので、忽ち筆を求めて縉に別れの書を書き、また平生の親友に数幅の別れの書をしたため、多くは朋友を敦励し仏を奉じ心を修める旨であり、筆を捨てて絶えた。

原文維弟兄俱奉佛,居常蔬食,不茹葷血,晚年長齋,不衣文綵。得宋之問藍田别墅,在輞口,輞水周於舍下,别漲竹洲花塢,與道友裴廸浮舟往來,彈琴賦詩,嘯詠終日。甞聚其田園所為詩,號輞川集。在京師日飯十數名僧,以玄談為樂。齋中無所有,唯茶鐺、藥臼、經案、繩牀而已。退朝之後,焚香獨坐,以禪誦為事。妻亡不再娶,三十年孤居一室,屏絶塵累。乾元二年七月卒。臨終之際,以縉在鳳翔,忽索筆作别縉書,又與平生親故作别書數幅,多敦厲朋友奉佛脩心之旨,捨筆而絶。

代宗の時、縉が宰相となった。代宗は文を好み、常に縉に言った、「卿の伯氏(兄)は、天宝中に詩名が一代を冠し、朕は嘗て諸王の座でその楽章を聞いた。今どれほどの文集があるか、卿は進上せよ」。縉は言った、「臣の兄は開元中の詩百余千篇ありましたが、天宝の事変後、十に一も残っておりません。中外の親戚故旧の間で相共に編綴し、都で四百余篇を得ました」。翌日これを上ると、帝は優詔を下して褒賞した。縉には独自の伝がある。

原文代宗時,縉為宰相,代宗好文,常謂縉曰:「卿之伯氏,天寳中詩名冠代,朕嘗於諸王座聞其樂章。今有多少文集,卿可進來。」縉曰:「臣兄開元中詩百千餘篇,天寳事後,十不存一。比於中外親故間相與編綴,都得四百餘篇。」翌日上之,帝優詔襃賞。縉自有傳。

李白

原文李白

李白、字は太白、山東の人である。幼少より逸才あり、志気宏放にして、飄然として超世の心あり、父は任城尉となり、因って家を焉に置く。少時に魯中の諸生孔巢父・韓沔・裴政・張叔明・陶沔等と徂徠山に隠れ、酣歌縦酒し、時に「竹溪六逸」と号す。天宝初め、会稽に客遊し、道士呉筠と剡中に隠る。既にして玄宗、呉筠を詔して京師に赴かしむ、筠、之を朝に薦め、使いを遣わして之を召し、筠と俱に翰林に待詔す。白既に酒を嗜み、日に飲徒と酒肆に酔う。玄宗、曲を度し、楽府新詞を造らんと欲し、亟に白を召す、白既に酒肆に臥す。召し入れて、水を以て面に灑ぎ、即ち筆を秉るを令す、頃くの間に十余章成る、帝頗る之を嘉す。嘗て殿上に沉醉し、足を引いて高力士に靴を脱がしむ、是より斥去さる。乃ち江湖に浪跡し、終日沈飲す。時に侍御史崔宗之、金陵に謫官し、白と詩酒唱和す。嘗て月夜舟に乗じ、自ら采石より金陵に達し、白衣に宮錦袍を着け、舟中に於いて顧瞻笑傲し、傍らに人無きが若し。

原文李白字太白,山東人。少有逸才,志氣宏放,飄然有超世之心,父爲任城尉,因家焉。少與魯中諸生孔巢父、韓沔、裴政、張叔明、陶沔等隠於徂徠山,酣歌縱酒,時號「竹溪六逸」。天寳初,客遊會稽,與道士吳筠隱於剡中。旣而玄宗詔筠赴京師,筠薦之於朝,遣使召之,與筠俱待詔翰林。白旣嗜酒,日與飲徒醉於酒肆。玄宗度曲,欲造樂府新詞,亟召白,白已臥於酒肆矣。召入,以水灑面,即令秉筆,頃之成十餘章,帝頗嘉之。嘗沉醉殿上,引足令高力士脫靴,由是斥去。乃浪迹江湖,終日沉飲。時侍御史崔宗之謫官金陵,與白詩酒唱和。嘗月夜乘舟,自采石達金陵,白衣宮錦袍,於舟中顧瞻笑傲,傍若無人。

初め賀知章、白を見て、之を賞めて曰く「此れ天上の謫仙人也」と。禄山の乱、玄宗蜀しょくに幸す、途上に於いて永王璘を以て江淮兵馬都督ととく・揚州節度大使と為す。白、宣州に於いて謁見し、遂に辟かれて従事と為る。永王乱を謀り、兵敗れ、白坐して長流夜郎す。後に赦に遇いて還るを得、竟に飲酒過度を以て、宣城に於いて酔死す。文集二十巻有り、時に行わる。

原文初賀知章見白,賞之曰:「此天上謫仙人也。」祿山之亂,玄宗幸蜀,在途以永王璘為江淮兵馬都督、揚州節度大使。白在宣州謁見,遂辟爲從事。永王謀亂,兵敗,白坐長流夜郎。後遇赦得還,竟以飲酒過度,醉死於宣城。有文集二十卷,行於時。

杜甫

原文杜甫

杜甫、字は子美、本は襄陽の人、後に河南鞏県に徙る。曽祖父依芸、位は終に鞏令。祖父審言、位は終に膳部員外郎、自ら伝有り。父閑、終に奉天令。

原文杜甫,字子美,本襄陽人,後徙河南鞏縣。曽祖依藝,位終鞏令。祖審言,位終膳部員外郎,自有〓。父閑,終奉天令。

甫、天宝初め進士に応じて第せず。天宝末、『三大礼賦』を献じ、玄宗之を奇とし、文章を召し試み、京兆府兵曹参そうしん軍を授く。十五載、禄山京師を陥し、粛宗霊武に兵を徴す、甫、京師より宵遁して河西に赴き粛宗に謁し、彭原郡に於いて右拾遺を拝す。房琯、布衣の時甫と善し、時に琯宰相と為り、自ら師を帥いて賊を討たんことを請う、帝之を許す。其の年十月、琯の兵陳濤斜に敗る。明年春、琯相を罷む、甫上疏して琯に才有り、罷免すべからざるを言う。粛宗怒り、琯を貶して刺史と為し、甫を出して華州司功参軍と為す。時に関畿乱離し、穀食踊貴し、甫、成州同谷県に寓居し、自ら薪を負い稆を採り、児女餓殍する者数人。久しくして、召し補われて京兆府功曹と為る。

原文甫天寳初應進士不第。天寳末,獻《三大禮賦》,〓宗奇之,召試文章,授京兆府兵曹叅軍。十五載,禄山䧟京師,肅宗徴兵靈武,甫自京師宵遁赴河西謁肅宗,於彭原郡拜右拾遺。房琯布衣時與甫善,時琯為宰相,請自帥師討賊,帝許之。其年十月,琯兵敗於陳濤斜。明年春,琯罷相,甫上疏言琯有才,不宜罷免。肅宗怒,貶琯為刺史,出甫為華州司功叅軍。時關畿亂離,糓食踊貴,甫寓居成州同谷縣,自負薪採稆,兒女餓殍者數人。乆之,召補京兆府功曹。

子宗武、湖・湘に流落して卒す。元和年中、宗武の子嗣業、耒陽より甫の柩を遷し、偃師県西北首陽山の前に帰葬す。

原文子宗武,流落湖、湘而卒。元和中,宗武子嗣業,自耒陽遷甫之柩,歸葬於偃師縣西北首陽山之前。

天宝末の詩人、甫は李白と斉名す、而して白は自ら文格放達を負い、甫の齷齪を譏り、飯顆山の嘲誚有り。元和年中、詞人元稹、李・杜の優劣を論じて曰く、

原文天寶末詩人,甫與李白齊名,而白自負文格放達,譏甫齷齪,而有飯顆山之嘲誚。元和中,詞人元稹論李、杜之優劣曰:

予、詩を読んで杜子美に至りて、小大の総萃する所有るを知る。始め堯・舜の時、君臣賡歌を以て相和す。是の後詩人継いて作し、夏・殷・周千余年を歴る、仲尼緝拾選揀し、其の教化に干預する尤なる者三百を取り、余は聞く所無し。騒人作して怨憤の態繁く、然れども猶風・雅に去ること日近く、尚お比擬す。秦・漢已還、詩を採るの官既に廃れ、天下の妖謠民謳・歌頌諷賦・曲度嬉戯の辞も、亦時に随いて作る。漢武柏梁に賦して七言の体具わるに至る。蘇子卿・李少卿の徒、尤五言を工と為す。句読文律各異なりと雖も、雅鄭の音亦雑るも、而して辞意簡遠、事を指し情を言い、自ら為す有りて為すに非ざれば、則ち文妄りに作さず。建安の後、天下の士兵戦に遭罹し、曹氏父子鞍馬の間文を為し、往々横槊賦詩す、故に其の遒壮抑揚・冤哀悲離の作、尤古に極まる。晋世風概稍く存す。宋・齊の間、教根本を失い、士は簡慢翕習舒徐を以て相尚い、文章は風容色澤・放曠精清を以て高しと為し、蓋し性霊を吟写し光景に留連するの文なり、意義格力取る所無し。陵遅して梁・陳に至り、淫艶刻飾・佻巧小碎の詞劇しく、又宋・齊の取らざる所なり。

原文予讀詩至杜子美而知小大之有所總萃焉。始堯、舜之時,君臣以賡歌相和。是後詩人繼作,歷夏、殷、周千餘年,仲尼緝拾選揀,取其干預教化之尤者三百,餘無所聞。騷人作而怨憤之態繁,然猶去風、雅日近,尚相比擬。秦、漢已還,採詩之官旣廢,天下妖謠民謳、歌頌諷賦、曲度嬉戲之辭,亦隨時間作。至漢武賦柏梁而七言之體具。蘇子卿、李少卿之徒,尤工為五言。雖句讀文律各異,雅鄭之音亦雜,而辭意簡遠,指事言情,自非有為而為,則文不妄作。建安之後,天下之士遭罹兵戰,曹氏父子鞍馬間為文,往往橫槊賦詩,故其遒壯抑揚、冤哀悲離之作,尤極於古。晉世風概稍存。宋、齊之間,教失根本,士以簡慢翕習舒徐相尚,文章以風容色澤、放曠精清為高,蓋吟寫性靈、留連光景之文也,意義格力無取焉。陵遲至於梁、陳,淫豔刻飾、佻巧小碎之詞劇,又宋、齊之所不取也。

唐興り、官学大いに振い、歴世の文、能者互に出づ。而して又沈・宋の流、研練精切、声勢を穏順にし、之を律詩と謂う。是よりの後、文体の変極まれり。然れども古を好む者は近きを遺い、華を務む者は実を去り、斉・梁に効うれば則ち魏・晋に迨ばず、楽府を工とすれば則ち力五言に屈し、律切すれば則ち骨格存せず、閑暇なれば則ち繊穣備わらず。子美に至りては、蓋し所謂上は風・騒に薄く、下は沈・宋に該い、言は蘇・李を奪い、気は曹・劉を呑み、顔・謝の孤高を掩い、徐・庾の流麗を雑え、古今の体勢を尽く得て、而して人々の独り専にする所を兼ぬ。仲尼をして其の旨要を考鍛せしめば、尚お其の多きを貴ぶを知らざらんや。苟くも能く所の不能、無くして可無からざるを以て為せば、則ち詩人已来子美の如き者未だ有らず。

原文唐興,官學大振,歷世之文,能者互出。而又沈、宋之流,研練精切,穩順聲勢,謂之為律詩。由是之後,文體之變極焉。然而莫不好古者遺近,務華者去實,効齊、梁則不迨於魏、晉,工樂府則力屈於五言,律切則骨格不存,閑暇則纖穠莫備。至於子美,蓋所謂上薄風、騷,下該沈、宋,言奪蘇、李,氣吞曹、劉,掩顏、謝之孤高,雜徐、庾之流麗,盡得古今之體勢,而兼人人之所獨專矣。使仲尼考鍛其旨要,尚不知貴其多乎哉!苟以為能所不能,無可無不可,則詩人已來未有如子美者。

是の時山東の人李白も、亦文奇を以て称を取る、時人これを李・杜と謂う。予其の壮浪縦恣、拘束を擺去し、物象を模写する、及び楽府歌詩を観るに、誠に亦子美に差肩す。若し終始を鋪陳し、声韻を排比し、大なるは或いは千言、次は猶数百、詞気豪邁にして風調清深、属対律切にして凡近を脱棄するに至りては、則ち李尚お其の藩翰を歴る能わず、況んや堂奥をや。

原文是時山東人李白,亦以文奇取稱,時人謂之李、杜。予觀其壯浪縱恣,擺去拘束,模寫物象,及樂府歌詩,誠亦差肩於子美俟。至若鋪陳終始,排比聲韻,大或千言,次猶數百,詞氣豪邁,而風調清深,屬對律切,而脫棄凡近,則李尚不能歷其藩翰,況堂奧乎!

予嘗て其の文を条析し、体を別して相附し、来者をして之が準たらしめんと欲す、特だ病懶にして未だ就かず。自ら後属文する者、稹の論を是と為す。甫に文集六十巻有り。

原文予嘗欲條析其文,體別相附,與來者為之準,特病懶未就爾。自後屬文者,以稹論為是。甫有文集六十卷。

呉通玄

原文吳通玄

呉通玄、海州の人。父道瓘道士と為り、童孺を教誘するに善く、大暦年中、召し入れて宮に、太子諸王に経を授く。徳宗東宮に在り、道瓘に師い、而して通玄兄弟、宮掖に出入りし、恒に太子に侍して遊ぶ、故に之に遇うこと厚し。通玄は兄通微と俱に博学善く文を属し、文彩綺麗なり。通玄幼く神童挙に応じ、褐を釈けて秘書正字・左驍ぎょう衛兵曹・大理評事。建中初め、賢良方正等科を策し、通玄文詞清麗に応じ、乙第に登り、同州司戸・京兆戸曹を授く。

原文吳通玄,海州人。父道瓘為道士,善教誘童孺,大曆中,召入宮,為太子諸王授經。德宗在東宮,師道瓘,而通玄兄弟,出入宮掖,恆侍太子遊,故遇之厚。通玄與兄通微,俱博學善屬文,文彩綺麗。通玄幼應神童舉,釋褐祕書正字、左驍衞兵曹、大理評事。建中初,策賢良方正等科,通玄應文詞清麗,登乙第,授同州司戶、京兆戶曹。

貞元の初め、召されて翰林學士を充たす。起居舍人に遷り、知制誥を兼ね、陸贄・吉中孚・韋執誥らと共に詔勅の草案を審査した。陸贄は文藻に富み、特に徳宗の重い顧遇を受け、艱難を経歴した。通玄兄弟はまた東宮の侍従として上に仕えていたので、寵を争い、互いに嫌悪し憎んだ。陸贄の性格は偏狭でせっかちであり、しばしば上(帝)の前で通玄の短所を言い、また言うには、「太平の時には工芸書画の徒が翰林に待詔していたが、従来學士はなかった。ただ至徳以後、天子が禁中に賢學士を召集して詔書を起草させ、そのため翰林院に留まって進止を待つこととなり、それをもって名としたのである。奔走流離の時には、道中で予め官職を除改することがあり、臨時に草制させた。今や四方に事なく、百官の政務は時宜にかなっている。制書の職分は、中書舍人に帰すべきである。學士の名は、理に照らして廃止すべきである」と。陸贄は通玄が朋党を引き入れ、禁中で力を尽くして自分を排斥していると思ったので、これを廃そうとしたが、徳宗は許さなかった。時に陸贄が兵部侍郎を権知し、貢挙を掌ったので、正しくこれを拝任し、内職(翰林學士)を罷免したが、これらは皆通玄が讒言したためである。

原文貞元初,召充翰林學士。遷起居舍人、知制誥,與陸贄、吉中孚、韋執誼等同視草。陸贄富詞藻,特承德宗重顧,經歷艱難,通玄弟兄又以東宮侍上,由是爭寵,頗相嫌恨。贄性褊急,屢於上前短通玄,又言:「承平時工藝書畫之徒,待詔翰林,比無學士,只自至德後,天子召集賢學士于禁中草書詔,因在翰林院待進止,遂以為名。奔播之時,道途或豫除改,權令草制。今四方無事,百揆時序,制書職分,宜歸中書舍人。學士之名,理須停寢。」贄以通玄援引朋黨,於禁中叶力排己,故欲廢之,德宗不許。會贄權知兵部侍郎,知貢舉,乃正拜之,罷內職,皆通玄譖之也。

七年、起居郎より諫議大夫・知制誥に拝された。通玄は自ら久しく序列を経て中書舍人に拝されるべきところ、かえって諫議大夫に除されたので、大いに失望した。陸贄は宰相竇參と互いに憎み合っていた。參の従子で給事中の申は、參が特に寵愛し、しばしば中書省の議事に参与したので、行く先々で人々は申を「喜鵲」と呼んだ。申は、嗣虢王則之の従父甥である。申は則之と親しく交わった。則之は金吾將軍で、学問を好み文才があり、申は則之と密かに吳通玄兄弟と結託し、參と共に陸贄を傾けようとした。則之は人に命じて謗りの文書を作らせ、陸贄が挙人の試験を公平でなく行い、賄賂を受け取っていると言った。時に通玄は宗室の女を外婦(妾)としていたが、徳宗はこれを知っていた。申・則之が陸贄を讒言していると聞くと、綱紀(御史など)がこれを伺い、果たして通玄と謀略を結託していることが分かり、帝は大いに怒り、竇參の知政事を罷め、まもなく郴州司馬に貶し、竇申を錦州司戶に、李則之を昭州司馬に、通玄を泉州司馬に貶した。帝は通玄を召し出し、自ら臨んで問い、近属(宗室)を汚辱したことを責めた。華州長城驛に至った時、賜死された。まもなく陸贄を中書侍郎・平章事とし、竇參に代えた。

原文七年,自起居郎拜諫議大夫、知制誥。通玄自以久次當拜中書舍人,而反除諫議,殊失望。陸贄與宰相竇參相惡。參從子給事中申,參尤寵之,每預中書擬議,所至人呼申為「喜鵲」。申,嗣虢王則之從父甥也。申與則之親善。則之為金吾將軍,好學有文,申與則之潛結吳通玄兄弟,為參共傾陸贄。則之令人造謗書,言贄考試舉人不實,招納賄賂。時通玄取宗 室女為外婦,德宗知之。既聞申、則之譖陸贄,綱紀伺之,果與通玄結構其謀,帝大怒,罷竇參知政事,尋貶郴州司馬,竇申錦州司戶,李則之昭州司馬,通玄泉州司馬。帝召見之,親自臨 問,責以污辱近屬。行至華州長城驛,賜死。尋以陸贄為中書侍郎、平章事,代竇參。

兄 通微

原文兄 通微

通微は、建中四年に壽安縣令より入朝して金部員外郎となり、召されて翰林學士を充たした。まもなく職方郎中に改め、知制誥を兼ねた。弟通玄と共に禁中の官署に同職として仕え、人々はこれを栄誉とした。七年、禮部郎中に改め、まもなく中書舍人に転じた。通玄が死ぬと、喪服を着けて國門(都の門)で待罪したが、帝は特にこれを宥し、通微はついに喪服を着けることができなかった。

原文通微,建中四年自壽安縣令入為金部員外,召充翰林學士。尋改職方郎中,知制誥。與弟通玄同職禁署,人士榮之。七年,改禮部郎中,尋轉中書舍人。通玄死,素服待罪於國門,帝特宥之,通微竟不敢為喪服。

通玄の詞藻は婉麗で、帝は特にこれを愛した。貞元の初め、昭德王皇后が崩御し、詔して李紓に諡冊文を作らせ、宰相張延賞・柳渾に廟樂章を作らせた。進上されたが、いずれも帝の意にかなわず、共に通玄を召して改めて撰述させた。およそ中旨(内命)による撰述は、通玄の筆でなければ、満足することがなく、これほどまでに重んじられた。

原文通玄詞藻婉麗,帝尤憐之。貞元初,昭德王皇后崩,詔李紓為諡冊文,宰相張延賞、柳渾為廟樂章。及進,皆不稱旨,並召通玄重撰。凡中旨撰述,非通玄之筆,無不慊然,重之如此。

王仲舒

原文王仲舒

王仲舒、字は弘中、太原の人。幼くして孤貧であり、母に仕えて孝行で知られた。学問を好み文を巧みにし、郷挙を受けなかった。凡そ交際を結ぶ者は、必ず名の知れた士であり、楊頊・梁肅・裴樞とは忘形の契りを結んだ。

原文王仲舒字弘中,太原人。少孤貧,事母以孝聞。嗜學工文,不就鄉舉。凡與結交,必知名之士,與楊頊、梁肅、裴樞為忘形之契。

貞元十年、賢良方正能直言極諫等科の策試があり、仲舒は乙第に登第し、抜擢されて右拾遺に拝された。裴延齡が度支を領すると、虚偽で大言し、善良な者を中傷したので、仲舒は上疏して極論した。累遷して尚書郎となった。元和五年、職方郎中より知制誥を兼ねた。仲舒の文思は温雅であり、彼の手になる制誥は、人々が皆書き写して伝えた。京兆尹楊憑が中丞李夷簡に弾劾され、臨賀尉に貶された。仲舒は楊憑と親しかったので、朝中で宣言し、夷簡が楊憑の罪をあげつらっていると言った。仲舒はこれに坐して硤州刺史に貶された。後に蘇州刺史に遷った。

原文貞元十年,策試賢良方正能直言極諫等科,仲舒登乙第,超拜右拾遺。裴延齡領度支,矯誕大言,中傷良善,仲舒上疏極論之。累轉尚書郎。元和五年,自職方郎中知制誥。仲舒文思溫雅,制誥所出,人皆傳寫。京兆尹楊憑為中丞李夷簡所劾,貶臨賀尉。仲舒與憑善,宣言於朝,言夷簡掎摭憑罪,仲舒坐貶硤州刺史。遷蘇州。

穆宗が即位すると、再び召されて中書舍人となった。その年、出向して洪州刺史・御史中丞・江南西道觀察使となった。江西では前例により酒の専売と私醸禁止の法が厳しかったが、仲舒が鎮に至ると、奏上してこれを廃止した。また官銭二万貫を出して、貧しい戸の税を代納させた。長慶三年冬、鎮で卒した。

原文穆宗即位,復召為中書舍人。其年出為洪州刺史、御史中丞、江南西道觀察使。江西前例榷酒私釀法深,仲舒至鎮,奏罷之。又出官錢二萬貫,代貧戶輸稅。長慶三年冬,卒于鎮。

崔咸

原文崔咸

崔咸。字は重易。博陵の人。祖父は安石。父は鋭、官は給事中に終わる。咸は元和二年に進士に及第し、また博學宏詞科に登第した。鄭餘慶・李夷簡が賓佐として招聘し、師友のように遇した。朝廷に登ると、臺閣の職を歴任し、独行して正道を守り、当時の声望は重かった。敬宗が東都に行幸しようとした時、人心が不安であった。裴度が勲旧として興元より表を奉じて入朝し、既に到着した。李逢吉は裴度が再び中書省に入るのを望まず、京兆尹劉栖楚は逢吉の党であった。栖楚ら十余人が肩を並べて裴度を排斥し、朝士で態度を決めかねる者たちは日に日に裴度の門に押し寄せた。ある日、裴度が客を留めて酒宴を設けると、栖楚は偽って裴度の歓心を求め、身をかがめて裴度の耳に近づいて話した。咸はその偽りを憎み、杯を挙げて裴度に罰酒を勧めて言った、「丞相は所由の官(役人)がひそひそと耳打ちするのを許すべきではない!」。裴度は笑ってこれを飲んだ。栖楚は不安になり急いで退出した。座の客は皆、咸の振る舞いを雄壮だと思った。累遷して陜州大都督府長史・陜虢觀察等使となった。朝から夕方まで、賓僚と痛飲し、常に酔って醒めず、文書が山積みになっていたが、夜分に省みて閲覧し、裁断を下すのに、毫釐の差もなく、胥吏は神人のようだと思った。入朝して右散騎常侍さんきじょうじ・秘書監となり、太和八年十月に卒した。初め、鋭が李抱真を補佐して澤潞の従事となった時、盧老と自称する道士がおり、かつて隋朝の雲際寺の李先生に仕え、過去未来の事を予知したという。河朔では遊客を禁じていたので、鋭は彼を家に宿泊させた。ある日、辞去しようとして言うには、「我が死んだら、君の子となろう」。そこで口の下の黒子を指し、これを印としたいと言った。咸が生まれた時、果たして黒子があり、その形神は即ち盧老であった。父は即ち盧老をもって字とした。元服後、心を高尚なことに寄せ、林壑に志し、しばしば独り南山に遊び、時を経てようやく還った。特に歌詩に長け、風景晴明、花朝月夕の折には、朗吟して意に適えば、必ず悲愴として襟を濡らした。その趣旨は高く奇であり、名流は嘆賞した。文集二十巻がある。

原文崔咸。字重易。博陵人、祖安石。父鋭,位終給事中。咸元和二年進士擢第,又登博學宏詞科。鄭餘慶、李夷簡辟為賔佐,待如師友。及登朝,歴踐臺閣,獨行守正,時望甚重。敬宗欲幸東都,人心不安,裴度以勲舊自興元隨表入覲,既至,李逢吉不欲度復入中書,京兆尹劉栖楚,逢吉黨也,栖楚等十餘人駕肩排度,而朝士持兩端者日擁度門,一日,度留客命酒,栖楚矯求度之歡曲,躬附裴耳而語,咸嫉其矯,舉爵罰度曰:丞相不當許所由官呫囁耳語!度笑而飲之,栖楚不自安趨出,坐客皆壮之。累遷陜州大都督府長史,陜虢觀察等使,自旦至暮,與賔僚痛飲,恒醉不醒,簿領堆積,夜分省覽,剖判決斷,無毫釐之差,胥吏以為神人。入為右散騎常侍、秘書監,太和八年十月卒初,鋭佐李抱真為澤潞從事,有道人自稱盧老,曽事隋朝雲際寺李先生,預知過往未來之事,屬河朔禁遊客,鋭館之於家,一旦辭去且曰:我死當與君為子。因指口下黒子,願以為志。咸之生也,果有黒子,其形神即盧老也,父即以盧老字之。既冠,棲心髙尚,志於林壑,往往獨遊南山,經時方還。尤長於歌詩,或風景晴明,花朝月夕,朗吟意愜,必悽愴霑襟,㫖趣高奇,名流嗟挹,有文集二十卷。

唐次

原文唐次

唐次は、并へい州晉陽の人で、国初の功臣禮部尚書唐儉の後裔である。建中の初めに進士に及第し、累次使府に招聘された。貞元の初め、侍御史を歴任し、竇參が深くこれを重んじ、禮部員外郎に転じた。八年、參が官を貶されると、次はこれに坐して出向して開州刺史となった。巴峡の間十余年、進用されることがなかった。西川節度使韋臯が表を奉って副使とするよう強く請うたが、徳宗は密かに韋臯に命じてこれを罷めさせた。次は久しく蛮荒の地に滞在し、孤心抑鬱し、怨謗が積もるにつれ、誰がこれを申し明かしてくれようか、と。そこで古来の忠臣賢士で、讒謗に遭い放逐され、遂には殺身に至りながら、君主がなお悟らなかった事例を採り、その書三篇を編み、これを辨謗略と称して上進した。徳宗はこれをご覧になり、なお怒って左右に言った、「唐次はまさに我を古の昏主になぞらえている。どうして自らこのように諭すのか!」。夔州刺史に改めた。憲宗が即位すると、李吉甫と共に峡内より召還され、次は禮部郎中を授けられた。まもなく本官のまま知制誥を兼ね、正しく中書舍人に拝され、卒した。

原文唐次,并州晉陽人也,國初功臣禮部尚書儉之後。建中初進士擢第,累辟使府。貞元初,歷侍御史,竇參深重之,轉禮部員外郎。八年,參貶官,次坐出為開州刺史。在巴峽間十餘年,不獲進用。西川節度使韋臯抗表請為副使,德宗密諭臯令罷之。次久滯蠻荒,孤心抑鬱,怨謗所積,孰與申明,乃採自古忠臣賢士,遭罹讒謗放逐,遂至殺身,而君猶不悟,其書三篇,謂之辨謗略,上之。德宗省之,猶怒,謂左右曰:「唐次乃方吾為古之昏主,何自諭如此!」改夔州刺史。憲宗即位,與李吉甫同自峽內召還,授次禮部郎中。尋以本官知制誥,正拜中書舍人,卒。

章武皇帝(憲宗)は明哲で悪を憎み、特に人が朋比して傾軋することを憎まれた。禁中で書物を閲覧していた時、次が上進した三篇の書を得て、ご覧になって善しとし、學士沈傳師に言った、「唐次が編集した辨謗の書は、実に君主たる者が時宜に応じて観覧すべきものである。朕は思うに、古書にはこのような事が多くあるが、次が編録したのは未だ尽くしていない。卿は家伝で史学を継いでいる。學士と共に類例を広げて増補せよ」。傳師は詔を奉じ、令狐楚・杜元穎らと分かれて功を修め続編し、広く十巻とし、元和辨謗略と号した。その序に言う。

原文章武皇帝明哲嫉惡,尤惡人朋比傾陷,嘗閱書禁中,得次所上書三篇,覽而善之,謂學士沈傳師曰:「唐次所集辨謗之書,實君人者時宜觀覽。朕思古書中多有此事,次編錄未盡。卿家傳史學,可與學士類例廣之。」傳師奉詔與令狐楚、杜元穎等分功脩續,廣為十卷,號元和辨謗略,其序曰:

臣は聞く、乾坤が定まりて上下分かる。四時の候を播き、万物の宜を遂ぐるに至っては、妖祥の二気を験するに在り。祥気降れば則ち豊となり茂となり、妖気降れば則ち沴となり災となる。君臣立てば卑高隔たる。神明の奥に処り、献納の辞を詢るに至っては、邪正の二説を審にするに在り。正言勝てば則ち忠となり讜となり、邪言勝てば則ち讒となり諛となる。故に詩に云う、「萋兮斐兮、是れ貝錦を成す」と。其の組織の甚だ巧みなるを刺すなり。語に曰く、「邪径良田を敗り、讒口善人を乱す」と。其の莠言の政を蠹すを悪むなり。蓋し信に似て詐り、忠に似て非なるを謂う。便便として以て心を動かし、捷捷として以て徳を乱すべし。豈に止むや鶗鳺の卉を彫し、薏苡の珠を惑わすのみならんや。況や国家を立て、中より外に徂くに、道偏れば則ち刑罰中らず、讒勝てば則ち忠孝彰れず。逖かに前聞を覧、緬かに近古を想う。賢を招き鯁を容れ、佞を遠ざけ邪を嫉む。慮るは則ち深けれども、防ぐは未だ至らず。伏して惟うに、睿聖文武皇帝陛下、衣を垂れて宇を御し、化文明に洽くす。謨猷縉紳に博く訪い、旌賁巌穴に屢臻る。尚復四目を広め、四聡を周う。制理皆未萌に在り、作範将に不朽に垂れんとす。乃ち掌文の臣令狐楚等に詔して、上は周漢より、下は隋朝に洎り、史籍の忠賢を求め、讒謗に罹れる事跡を、瑕釁の本末を叙し、謡諑の浅深を紀し、編次して指し明らかにし、勒して十巻を成さしむ。昔虞舜に堲讒の命有り、我が皇は辨謗の書を脩む。千古一心、同じく至理を垂る。将に法宮に日昃の政を退き、別殿に乙夜の観を備えんと俟つ。則ち聖慮先ず辨じ、謗何ぞ由て興らん。上天言わずして、民自ずから信ず。

原文臣聞乾坤定而上下分矣,至於播四時之候,遂萬物之宜,在驗乎妖、祥之二氣,祥氣降則為豐為茂,妖氣降則為沴為災。君臣立而卑高隔矣,至於處神明之奧,詢獻納之辭,在審乎邪、正之二說,正言勝則為忠為讜,邪言勝則為讒為諛。故詩云:「萋兮斐兮,成是貝錦。」刺其組織之甚巧也。語曰:「邪徑敗良田,讒口亂善人。」惡其莠言之蠹政也。蓋謂似信而詐,似忠而非,便便可以動心,捷捷可以亂德,豈止鶗鳺彫卉,薏苡惑珠者哉!況立國家,自中徂外,道偏則刑罰不中,讒勝則忠孝靡彰。逖覽前聞,緬想近古,招賢容鯁,遠佞嫉邪,慮之則深,防之未至。伏惟睿聖文武皇帝陛下,垂衣御宇,化洽文明,謨猷博訪於縉紳,旌賁屢臻於巖穴。尚復廣四目,周四聦,制理皆在於未萌,作範將垂於不朽。乃詔掌文之臣令狐楚等,上自周、漢,下洎隋朝,求史籍之忠賢,罹讒謗之事跡,敘瑕釁之本末,紀謠諑之淺深,編次指明,勒成十卷。昔虞舜有堲讒之命,我皇脩辨謗之書,千古一心,同垂至理。將俟法宮退日昃之政,別殿備乙夜之觀,則聖慮先辨,謗何由興,上天不言,而民自信矣。

憲宗は優詔を以て之に答う。

原文憲宗優詔荅之。

次子は扶、持。

原文次子扶、持。

子 扶

原文子 扶

扶、字は雲翔。元和五年に進士に登第し、累ねて使府を佐く。朝に入りて監察御史となり、出でて刺史となる。大和初め、朝に入りて屯田郎中となる。五年、山南道宣撫使を充て、鄧州に至りて奏す、「内郷県行市・黄澗両場の倉督鄧琬等は、先に湖南・江西より運到の糙米を主掌し、淅川県に至りて荒野中に囤貯し、支用を除く外、六千九百四十五石、裛爛して灰塵と成る。度支牒して元掌の所由を徴す。貞元二十年より、鄧琬父子兄弟より玄孫に至るまで、相承して禁繫すること二十八年、前後禁死すること九人。今琬の孫及び玄孫枷禁に見在する者」と。勅して曰く、「聞く所に拠れば、塩鉄・度支両使、此の類極めて多し。其の鄧琬等四人、資産全く已に売納し、禁繫すること三代、獄中に瘐死す。実に和気を傷つく。鄧琬等並びに疏放せよ。天下の州府監院に此の類有らば、三年已上を禁経することを得ず。速やかに便ち疏理して以て聞かしめよ」と。物議扶に宣撫の才有るを嘉す。俄に転じて司勲郎中となる。八年、弘文館学士を充て、院事を判ず。九年、転じて職方郎中となり、権りに中書舎人の事を知る。開成初め、正しく舎人に拝し、月を踰え、福州刺史・御史中丞・福建団練観察使を授かる。四年十一月、鎮に卒す。

原文扶,字雲翔。元和五年進士登第進士登第,累佐使府。入朝為監察御史,出為刺史。大和初,入朝為屯田郎中。五年,充山南道宣撫使,至鄧州,奏:「內鄉縣行市、黃澗兩場倉督鄧琬等,先主掌湖南、江西運到糙米,至淅川縣於荒野中囤貯,除支用外,六千九百四十五石,裛爛成灰塵。度支牒徵元掌所由,自貞元二十年,鄧琬父子兄弟至玄孫,相承禁繫二十八年,前後禁死九人。今琬孫及玄孫見在枷禁者。」勑曰:「如聞鹽鐵、度支兩使,此類極多。其鄧琬等四人,資產全已賣納,禁繫三代,瘐死獄中,實傷和氣。鄧琬等並疏放。天下州府監院如有此類,不得禁經三年已上。速便疏理以聞。」物議嘉扶有宣撫之才。俄轉司勳郎中。八年,充弘文館學士,判院事。九年,轉職方郎中,權知中書舍人事。開成初,正拜舍人,踰月,授福州刺史、御史中丞、福建團練觀察使。四年十一月,卒于鎮。

扶は幕を佐けて事を立て、朝に登りて名有り。及んで甌・閩を廉問し、政事治まらず。身歿の後、僕妾財を争い、闕に詣りて論訴す。法司按劾するに、其の家財十万貫、二妾に帰す。又嘗て部人を枉殺し、其の家に訴えらる。行己前後類せず、時論之を非とす。

原文扶佐幕立事,登朝有名,及廉問甌、閩,政事不治。身歿之後,僕妾爭財,詣闕論訴,法司按劾,其家財十萬貫,歸於二妾。又嘗枉殺部人,為其家所訴。行己前後不類,時論非之。

子 持

原文子 持

持、字は徳守。元和十五年に進士第に擢でられ、累ねて諸侯府に辟さる。朝に入りて侍御史・尚書郎となる。大中末、工部郎中より出でて容州刺史・御史中丞・容管経略招討使となる。入りて給事中となる。大中末、検校左散騎常侍・霊州大都督府長史・朔方節度・霊武六城転運等使となる。進みて位し検校戸部尚書・潞州大都督府長史・昭義節度・沢潞邢洺磁観察処置等使となり、卒す。

原文持,字徳守。元和十五年擢進士第,累辟諸侯府。入朝為侍御史、尚書郎。大中末,自工部郎中出為容州刺史、御史中丞、容管經略招討使。入為給事中。大中末,檢校左散騎常侍、靈州大都督府長史、朔方節度、靈武六城轉運等使。進位檢校戶部尚書、潞州大都督府長史、昭義節度、澤潞邢洺磁觀察處置等使,卒。

持の子 彦謙

原文持子 彦謙

子彦謙、字は茂業。咸通末に応進士し、才高くして気を負い、屈降すること無く、十餘年及第せず。乾符末、河南に盗起こり、両都覆没す。其の家を以て漢南に避地す。中和中、王重栄河中に鎮す。辟して従事と為す。累奏して河中節度副使に至り、晋・絳二州刺史を歴る。彦謙博学多芸、文詞壮麗、書画音楽博飲の技に至るまで、輩流に出でざる無し。尤も能く七言詩し、少時温庭筠に師い、故に文格之に類す。

原文子彦謙,字茂業。咸通末應進士,才高負氣,無所屈降,十餘年不第。乾符末,河南盜起,兩都覆沒,以其家避地漢南。中和中,王重榮鎮河中,辟為從事。累奏至河中節度副使,歷晉、絳二州刺史。彥謙博學多藝,文詞壯麗,至於書畫音樂博飲之技,無不出於輩流。尤能七言詩,少時師溫庭筠,故文格類之。

光啓末、王重栄部下に害せらる。朝議参佐を責む。彦謙は書記李巨川と俱に漢中の掾曹に貶さる。時楊守亮興元に鎮す。素より其の名を聞く。彦謙本府を以て参承す。守亮之を見て、喜び手を握りて曰く、「尚書の名を聞くこと久し。茲に邂逅す」と。翌日、判官に署す。累官して副使に至り、閬・壁二郡刺史となる。漢中に卒す。詩数百篇有り、礼部侍郎薛廷珪之が為に序し、号して鹿門先生集と曰い、時に行わる。子渙、位亦た郡守に至る。

原文光啟末,王重榮為部下所害,朝議責參佐,彥謙與書記李巨川俱貶漢中掾曹。時楊守亮鎮興元,素聞其名,彥謙以本府參承,守亮見之,喜握手曰:「聞尚書名久矣,邂逅於茲。」翌日,署為判官。累官至副使,閬、壁二郡刺史。卒於漢中。有詩數百篇,禮部侍郎薛廷珪為之序,號鹿門先生集,行於時。子渙,位亦至郡守。

次弟は歡・款・欣。款は貞元六年に進士第に登り、累ねて使府に辟さる。朝に登りて御史となり、出でて郡守となり、卒す。子は枝。枝は字は己有、会昌末、累遷して刑部員外となり、転じて郎中となり、累ねて刺史を歴り、卒す。

原文次弟歡、款、欣。款貞元六年登進士第,累辟使府,登朝為御史,出為郡守,卒。子枝。枝字己有,會昌末,累遷刑部員外,轉郎中,累歷刺史,卒。

劉蕡

原文劉蕡

劉蕡、字は去華、昌平の人。父は勉。蕡は寳歴二年に進士に擢第す。博学にして善く文を属し、尤も左氏春秋に精し。朋友と交わるに、王覇の大畧を談ずるを好み、耿介にして悪を嫉み、世務に言及すれば、慨然として澄清の志有り。元和末より、閽寺権盛んにして、兵を宮闈に握り、横に天下を制す。天子の廃立、其の可否に由り、庶政を干撓す。当時目して南北司と為し、愛悪相攻め、水火の如し有り。蕡草沢の中に居て常に憤惋す。文宗即位し、恭儉にして理を求め、太和二年に賢良を策試して曰く、

原文劉蕡,字去華,昌平人。父勉。蕡寳歴二年進士擢第。博學善屬文,尤精左氏春秋。與朋友交,好談王霸大畧,耿介嫉惡,言及世務,慨然有澄清之志。自元和末,閽寺權盛,握兵宮闈,橫制天下,天子廢立,由其可否,干撓庶政。當時目為南北司,愛惡相攻,有同水火。蕡草澤中居常憤惋。文宗即位,恭儉求理,太和二年策試賢良曰:

朕聞く、古の先哲の王の理おさむるや、玄黙無為にして、端拱して道を思い、民心を陶やわらげて以て簡に居り、日用を凝こらして宰つかさどらず、下を厚くして以て本を立て、誠を推して以て中を建つ。是に天人通じ、陰陽和し、俗仁壽に躋のぼり、物疵癘無し。噫、盛徳の臻いたる所、夐はるかにして及ぶべからざるなり。三代の令王、質文迭たがいに䆒(きわ)むるも、百偽滋ますます熾さかんに、風流寖しだいに微かすかなり、漢より降くだりてより、定徴さだめしるし蓋けだし寡すくなし。朕惟おもうに昧道みどうを顧み、祗つつしんで丕構ひこうを荷にない、謨訓ぼくんを奉若ほうじゃくし、敢えて怠荒たいこうせず。賢を任じ惕厲てきれいし、宵衣旰食しょういかんしょくし、詎なんぞ三五の遐軌かきを追い、庻こいねて祖宗の鴻緒こうしょを紹つがん。而して心に達せざる所有り、行いに孚しんせざる所有り、中より外に及び、闕政けっせい斯ここに廣し。是を以て人化に率したがわず、気或いは堙厄いんやくし、災旱竟歳きょうさいし、播植愆時せんじす。国廩こくりん罕まれに蓄え、九年の儲ちょに乏しく、吏道多端にして、三載の績微かすかなり。京師は諸夏の本なり、将まさに以て理を観んとす、而して豪猾時に檢を踰こゆ。太學は明教の源なり、期こいねがうに風を變ぜんとす、而して生徒多く業を惰おこたる。列郡は條を頒わかつに在りて、而して干禁或いは未だ絶えず。百工は度を按ずるに在りて、而して滛巧或いは未だ衰えず。俗墮ち風靡ふうびし、積訛せきか蠧とを成す。其の官を擇び理を濟すくうや、人を聽くに言を以てすれば、則ち枝葉辨わきまえ難く、下を御するに法を以てすれば、則ち耻格形あらわれず。其の財を阜ゆたかにし號を發するや、之を生む寡なくして之を食む衆おおく、令に煩わずらわしくして理に鮮すくなし。思う所以に此の繆盭びゅうれいを䆒(きわ)め、之を治平に致さん、茲この心浩然こうぜんとして、若ごとし泉水に渉わたるが若し。故に前さきに有司に詔し、博く群彦を延ひき、宿懵しゅくもうを啓ひらかんことを佇たち、冀こいねがわくは時雍じように臻らんことを。子大夫識古今に逹し、康濟に明らかなり、廷に造いたりて問を待つ、朕が虚懷きょかいを副そう。必ずや主の闕を箴いさめ、政の疵を辨べんじ、綱條の紊みだるるに致す所以を明らかにし、富庶の急とする所を稽かんがうべし。何を施せば斯れ前弊を革あらたむるか、何の澤めぐみ斯れ下土に惠めぐまんか、何を脩おさめれば理古に近づく可きか、何の道にして和氣克よく充つるか、之を本源に推し、條對に著あらわす。夷吾輕重の權に至りては、孰いずれか理に輔たすくる、嚴尤底定の䇿に至りては、孰れか時に叶かなう、元凱の考課何をか先にす、叔子の克平何をか務つとむる。此の龜鏡を推し、中庸を擇び、期うに洽聞こうぶんに在り、朕将まさに親ら覽みんとす。

原文朕聞古先哲王之理也,玄黙無為,端拱思道,陶民心以居簡,凝日用而不宰,厚下以立本,推誠而建中。是天人通,隂陽和,俗躋仁壽,物無疵癘。噫,盛徳之所臻,夐乎莫可及也。三代令王,質文迭䆒,百偽滋熾,風流寖微,自漢而降,定徴蓋寡。朕顧惟昧道,祗荷丕構,奉若謨訓,不敢怠荒。任賢惕厲,宵衣旰食,詎追三五之遐軌,庻紹祖宗之鴻緒。而心有所未逹,行有所未孚,由中及外,闕政斯廣。是以人不率化,氣或堙厄,災旱竟歲,播植愆時。國廪罕蓄,乏九年之儲;吏道多端,微三載之績。京師,諸夏之本也,将以觀理,而豪猾時踰檢;太學,明教之源也,期於變風,而生徒多惰業。列郡在乎頒條,而干禁或未絕;百工在乎按度,而滛巧或未衰。俗墮風靡,積訛成蠧。其擇官濟理也,聽人以言,則枝葉難辨;御下以法,則耻格不形。其阜財發號也,生之寡而食之衆,煩於令而鮮於理。思所以䆒此繆盭,致之治平,兹心浩然,若渉泉水。故前詔有司,博延群彦,佇啓宿懵,冀臻時雍。子大夫識逹古今,明於康濟,造廷待問,副朕虛懷。必當箴主之闕,辨政之疵,明綱條之致紊,稽富庶之所急。何施斯革於前弊,何澤斯惠乎下土,何脩而理古可近,何道而和氣克充,推之本源,著於條對。至於夷吾輕重之權,孰輔於理;嚴尤底定之䇿,孰叶於時;元凱之考課何先;叔子之克平何務。推此龜鏡,擇乎中庸,期在洽聞,朕將親覽。

時に對策する者百餘人、對する所止とどまるに常務を循したがう、唯だ蕡ふんのみ黄門の太はなはだ横おうなるを切論し、将に宗社を危うくせんとす、對して曰く。

原文時對策者百餘人,所對止循常務,唯蕡切論黄門太横,将危宗社,對曰:

この年、左散騎常侍の馮宿、太常少卿の賈餗、庫部郎中の龎厳が考策官となり、この三人は当時の文士であったが、劉蕡の条対を見て、嘆服し嗟悒し、漢の晁錯・董仲舒をもってしてもこれを超えるものはないと思った。その言論は激切で、士林は感動した。時に登科した者は二十二人であったが、宦官が権力を握っていたため、考官は劉蕡を籍中に留めることができず、世論は喧然としてこれを不平とした。道を守る正しい人々は、その文を伝え読み、中には相対して涙を流す者さえあった。諌官や御史は、腕を扼んで憤発したが、執政の臣はこれに従ってこれを鎮め、黄門(宦官)の怨みを避けようとした。ただ登科した李邰のみが人に言うには、「劉蕡が及第せず、我々が登科するとは、実に厚顔である」と。授かった官を劉蕡に譲ることを請うたが、事は行われなかったものの、人々はこれを称えた。令狐楚が興元におり、牛僧孺が襄陽を鎮めると、劉蕡を従事として召し、師友の如く待遇した。位は使府御史に終わった。

原文是歲,左散騎常侍馮宿、太常少卿賈餗、庫部郎中龎嚴為考策官,三人者,時之文士也,覩蕡條對,歎服嗟悒,以為漢之晁、董無以過之。言論激切,士林感動。時登科者二十二人,而中官當途,考官不敢留蕡在籍中,物論喧然不平之。守道正人,傳讀其文,至有相對埀泣者。諌官御史,扼腕憤發,而執政之臣,從而弭之,以避黄門之怨。唯登科人李邰謂人曰:「劉蕡不第,我軰登科,實厚顔矣。」請以所授官讓蕡,事雖不行,人士多之。令狐楚在興元,牛僧孺鎮襄陽,辟為從事,待如師友。位終使府御史。

李商隱

原文李商隱

李商隱、字は義山、懐州河内の人である。曾祖父の叔恒は、十九歳で進士に及第し、位は安陽令に終わった。祖父の俌は、位は邢州録事参軍に終わった。父は嗣である。

原文李商隐,字义山,怀州河内人。曾祖叔恒,年十九登进士第,位终安阳令。祖俌,位终邢州录事参军。父嗣。

商隱は幼くして文を作ることができた。令狐楚が河陽を鎮めると、その業とした文を以てこれに干し、年は弱冠に及んだばかりであった。楚はその年少にして俊才であることを以て、深く礼を尽くし、諸子と交遊させた。楚が天平・汴州を鎮めると、これに従って巡官となり、毎年資装を与え、上都に計を随うことを命じた。開成二年、ようやく進士に及第し、褐を脱いで秘書省校書郎となり、弘農尉に調補された。会昌二年、また書判抜萃に及んだ。

原文商隐幼能为文。令狐楚镇河阳,以所业文干之,年才及弱冠。楚以其少俊,深礼之,令与诸子游。楚镇天平、汴州,从为巡官,岁给资装,令随计上都。开成二年,方登进士第,释褐秘书省校书郎,调补弘农尉。会昌二年,又以书判拔萃。

王茂元が河陽を鎮めると、掌書記として召し、侍御史の待遇を得た。茂元はその才を愛し、娘を妻とさせた。茂元は書を読み儒者となったが、もとは将家の子であり、李徳裕は平素よりこれを遇していた。時に徳裕が政を執り、茂元を河陽帥に用いた。徳裕は李宗閔・楊嗣復・令狐楚と大いに仇怨を成していた。商隱は既に茂元の従事となったので、宗閔の党は大いにこれを軽んじた。時に令狐楚は既に卒しており、子の綯が員外郎となり、商隱が恩に背いたことを以て、特にその行いのないことを憎んだ。やがて茂元が卒すると、京師に遊来し、長く調官されなかった。時に給事中の鄭亜が桂州を廉察することとなり、観察判官・検校水部員外郎として請うた。大中初め、白敏中が執政し、令狐綯が内署にあり、共に李徳裕を排してこれを逐った。鄭亜は徳裕の党に坐し、また循州刺史に貶せられた。商隱は鄭亜に従って嶺表に累年を過ごした。

原文王茂元镇河阳,辟为掌书记,得待御史。茂元爱其才,以子妻之。茂元虽读书为儒,然本将家子,李德裕素遇之,时德裕秉政,用为河阳帅。德裕与李宗闵、杨嗣复、令狐楚大相仇怨。商隐既为茂元从事,宗闵党大薄之。时令狐楚已卒,子绹为员外郎,以商隐背恩,尤恶其无行。俄而茂元卒,来游京师,久之不调。会给事中郑亚廉察桂州,请为观察判官、检校水部员外郎。大中初,白敏中执政,令狐绹在内署,共排李德裕逐之。亚坐德裕党,亦贬循州刺史。商隐随亚在岭表累载。

三年に入朝し、京兆尹の盧弘正が奏して掾曹に署し、箋奏を典することを命じた。明年、令狐綯が相となると、商隱はたびたび啓して陳情したが、綯はこれを省みなかった。弘正が徐州を鎮めると、またこれに従って掌書記となった。府が罷められて入朝し、また文章を以て干襜し、乃ち太学博士を補された。時に河南尹の柳仲郢が東蜀を鎮めると、節度判官・検校工部郎中として召した。大中末、仲郢が専殺に坐して左遷され、商隱は廃罷され、鄭州に還り、間もなく病卒した。

原文三年入朝,京兆尹卢弘正奏署掾曹,令典笺奏。明年,令狐绹作相,商隐屡启陈情,绹不之省。弘正镇徐州,又从为掌书记。府罢入朝,复以文章干襜,乃补太学博士。会河南尹柳仲郢镇东蜀,辟为节度判官、检校工部郎中。大中末,仲郢坐专杀左迁,商隐废罢,还郑州,未几病卒。

商隱は古文を作ることができ、偶対を好まなかった。令狐楚の幕に従事した。楚は章奏に長じていたので、遂にその道を商隱に授け、これより今体の章奏を作り始めた。博学強記で、筆を下すと自ら止めることができず、特に誄奠の辞を作ることを善くした。太原の温庭筠・南郡の段成式と斉名し、時に「三十六」と号された。文思は清麗で、庭筠はこれを超えていた。しかし共に操持がなく、才を恃んで詭激であり、当塗者に軽んじられた。名宦に進まず、坎壈として終生を過ごした。

原文商隐能为古文,不喜偶对。从事令狐楚幕。楚能章奏,遂以其道授商隐,自是始为今体章奏。博学强记,下笔不能自休,尤善为诔奠之辞。与太原温庭筠、南郡段成式齐名,时号“三十六”。文思清丽,庭筠过之。而俱无持操,恃才诡激,为当涂者所薄。名宦不进,坎壈终身。

弟 羲叟

原文弟 羲叟

弟の羲叟も、進士に擢第し、累ねて賓佐となった。商隱には表状集四十巻がある。

原文弟羲叟,亦以进士擢第,累为宾佐。商隐有表状集四十卷。

温庭筠

原文温庭筠

温庭筠は、太原の人で、本名は岐、字は飛卿である。大中初めに進士に応じ、硯席に苦心し、特に詩賦に長じていた。初めて京師に至ると、人々は翕然として推重したが、士行は塵雑で、辺幅を修めず、絃吹の音に逐って側艶の詞を作ることができた。公卿家の無頼の子弟である裴誠・令狐滈の徒と、相い蒲飲みして酣醉し終日を過ごし、これによって累年及第しなかった。徐商が襄陽を鎮めると、これに依り往き、巡官に署された。咸通中、失意して江東に帰り、路は広陵に由ったが、心に令狐綯が在位の時に成名させなかったことを怨んだ。既に至ると、新進の少年と狂遊して狭邪に遊び、久しく刺謁せず、また楊子院に乞索し、酔って夜禁を犯し、虞候に撃たれ、顔を傷つけ歯を折られてようやく還った。揚州でこれを訴えると、令狐綯は虞候を捕えてこれを治めさせたが、庭筠の狭邪における醜迹を極言したので、乃ち両者を釈放した。これより汚行が京師に聞こえた。庭筠は自ら長安に至り、公卿間に書を致して冤を雪ごうとしたが、時に徐商が政事を知り、頗るこれを言った。間もなく、徐商は罷相し、楊を出鎮したが、収はこれを怒り、方城尉に貶し、再び隋県尉に遷し、卒した。

原文温庭筠者,太原人,本名岐,字飛卿。大中初應進士,苦心硯席,尤長於詩賦。初至京師,人士翕然推重,然士行塵雜,不脩邉幅,能逐絃吹之音為側艶之詞。公卿家無賴子弟裴誠、令狐滈之徒,相與蒱飲酣醉終日,由是累年不第。徐商鎮襄陽,往依之,署為巡官。咸通中,失意歸江東,路由廣陵,心怨令狐綯在位時不為成名。既至,與新進少年狂遊狹邪,乆不刺謁,又乞索於楊子院,醉而犯夜,為虞候所撃,敗面折齒方還。揚州訴之,令狐綯捕虞候治之,極言庭筠狹邪醜迹,乃兩釋之。自是汙行聞于京師。庭筠自至長安,致書公卿間雪寃,屬徐商知政事,頗為言之。無何,商罷相,出鎮楊,收怒之,貶為方城尉,再遷隋縣尉,卒。

庭筠の子 憲

原文庭筠子 憲

子の憲は、進士に擢第した。

原文子憲,以進士擢第。

庭筠の弟 庭皓

原文庭筠弟 庭皓

弟の庭皓は、咸通中に徐州従事となった。節度使の崔彦魯が龎勛に殺されると、庭皓もまた害された。

原文弟庭皓,咸通中為徐州從事。節度使崔彦魯為龎勛所殺,庭皓亦被害。

庭筠の著述は頗る多く、詩賦の韻格は清らかで抜きん出ており、文士に称えられた。

原文庭筠著述頗多,而詩賦韻格清㧞,文士稱之。

薛逢

原文薛逢

薛逢、字は陶臣、河東の人である。父は倚。逢は会昌初年に進士に及第し、初めて官に就き、秘書省校書郎となった。崔鉉が宰相を罷めて河中を鎮守した時、召し出されて従事となった。鉉が再び政務を補佐すると、奏上して万年尉に任じ、弘文館に直し、累進して侍御史・尚書郎となった。逢は文詞が優れて抜きん出ており、議論は激切で、自ら経世の謀略を負い、久しく達しなかった。進士に応じた時、彭城の劉瑑と特に親しくしたが、瑑の詞芸は逢に及ばず、逢はしばしばこれを侮った。大中の末に至り、瑑は栄達し、禁中の官署を歴任すると、逢はますます意を得ず、ここに互いに怨むようになった。やがて瑑が政事を知ると、或る者が逢を知制誥に推薦したが、瑑は奏上して言った、「先朝は両省の官、給事中・中書舎人の任官には、必ず先ず州県を歴任することを定めており、逢は未だ郡を治めたことがない。宜しく先ずこれを試みるべきである。」そこで巴州刺史として出された。その後、沈詢・楊収・王鐸が学士から相次いで将相となり、皆同年の進士であったが、逢の文芸が最も優れていた。楊収が宰相となった後、逢が詩に云う、「須知金印朝天客、同是沙堤避路人。威鳳偶時皆瑞聖、潜龍無水謾通神。」収はこれを聞き、大いに恨んだ。また蓬州刺史として出された。収が宰相を罷めると、入朝して太常少卿・給事中となった。王鐸が宰相となると、逢はまた詩に云う、「昨日鴻毛万鈞重、今朝山岳一塵軽鐸。」鐸もまたこれを怨み、才を恃んで偏狭で憤り易いとして、人士はこれを軽蔑した。遷って秘書監となり、卒した。

原文薛逢,字陶臣,河東人。父倚。逢㑹昌初進士,擢第釋褐,祕書省校書郎崔〓罷相鎮河中,辟為從事。鉉復輔政,奏授萬年尉,直〓文舘,累遷侍御史尚書郎。逢文詞俊㧞,論議激切,自負經畫之畧,乆之不逹。應進士時,與彭城劉瑑尤相善,而瑑詞藝不迨逢,逢每侮之。至大中末,瑑揚,歴禁署,逢愈不得意,自是相怨。俄而瑑知政事,或薦逢知制誥,瑑奏曰:「先朝立制兩省,官給事中舍人,除拜湏先歴州縣,逢未甞治郡,宜先試之。」乃出為巴州刺史。既而沈詢、楊收、王鐸由學士相繼為将相,皆同年進士,而逢文藝最優。楊収作相,後逢有詩云:「湏知金印朝天客。同是沙隄避路人。威鳯偶時皆瑞聖,濳龍無水謾通神。」收聞,大衘之。又出為蓬州刺史。收罷相,入為太常少卿給事中。王鐸作相,逢又有詩云:「昨日鴻毛萬鈞重,今朝山嶽一塵輕鐸。」又怨之,以恃才褊忿,人士鄙之。遷祕書監,卒。

子 廷珪

原文子 廷珪

子の廷珪は、中和年間に進士に及第した。大順初年、累進して司勲員外郎となり、知制誥を正任し、中書舎人に任じられた。乾寧三年、太原に使いし、復命する時、昭宗は華州に幸し、左散騎常侍に改めた。病を理由に免官し、客として成都に遊んだ。光化年間、再び中書舎人となり、刑部侍郎・吏部侍郎を歴任し、権知礼部貢挙を兼ね、尚書左丞に任じられた。梁に入り、礼部尚書に至った。

原文子廷珪,中和中,登進士第。大順初,累遷司勲員外郎,知制誥正,拜中書舍人。乾寧三年,奉使太原,復命昭宗幸華州,改左散騎常侍。移疾,免客遊成都。光化中,復為中書舍人,遷刑部吏部二侍郎,權知禮部貢舉,拜尚書左丞。入梁,至禮部尚書。

李拯

原文李拯

李拯、字は昌時、隴西の人である。咸通十二年、進士に及第した。乾符年間、累ねて府幕の補佐をした。黄巣の乱の時、平陽に避難した。僖宗が京に還ると、召されて尚書郎に任じられ、転じて考功郎中・知制誥となった。僖宗が再び宝鶏に幸した時、拯は従駕に及ばなかった。鳳翔に在り、襄王が帝号を僭称すると、翰林学士に逼られた。拯は既に偽りの官に汚れたので、心に安からず、後、朱玫が政を執ると、百官の政務は秩序なく、典章は濁乱した。拯は嘗て朝を退き、国門に馬を駐めて南山を望み吟じて曰く、「紫宸朝罷綴鴛鸞、丹鳳楼前駐馬看。唯有終南山色在、晴明依舊満長安。」吟じ終えて涙を流した。王行瑜が朱玫を殺し、襄王が出奔すると、京城は乱れ、拯は乱兵に殺された。妻の盧氏は書を読み文を能くし、姿色があった。拯が死ぬと、その屍に伏して慟哭し、賊が逼っても、堅く哭して動かず。また兵を以て臨んでも、一臂を断たれるに至っても終に顧みず、賊に害せられ、人皆これを哀しんだ。

原文李拯,字昌時,隴西人。咸通十二年登進士第。乾符中,累佐府幕。黄巢之亂,避地平陽。僖宗還京,召拜尚書郎,轉考功郎中、知制誥。僖宗再幸寳鷄,拯扈從不及。在鳯翔,襄王僭號,逼為翰林學士,拯既汚偽署,心不自安。後朱玫秉政,百揆無叙,典章濁亂。拯甞朝退,駐馬國門,望南山而吟曰:「紫宸朝罷綴鴛鸞,丹鳯樓前駐馬看。唯有終南山色在,晴明依舊滿長安。」吟已涕下。及王行瑜殺朱玫,襄王出奔。京城亂,拯為亂兵所殺。妻盧氏知書能文有姿色,拯既死,伏其屍慟哭,賊逼之,堅哭不動。又臨之以兵,至於斷一臂,終不顧,為賊所害,人皆傷之。

李巨川

原文李巨川

李巨川、字は下已、隴右の人である。国初の十八学士の李道玄の後裔で、故に李逢吉の姪の曽孫である。父の循は、大中八年に進士に及第した。

原文李巨川,字下已,隴右人。國初十八學士道玄之後,故相逢吉之姪曽孫。父循,大中八年登進士第。

巨川は乾符年間に進士に応じたが、天下大乱に属し、流離して奔播し、禄位を切に求めたので、乃ち刀筆を以て諸侯の府に従った。王重栄が河中を鎮守した時、召し出されて掌書記となった。時に車駕は蜀に在り、賊は京師を占拠していた。重栄は諸藩を匡合し、力を合わせて賊を誅しようとし、軍書や奏請が机の上に山積した。巨川の文思は敏速で、筆が飛ぶ如く動き、藩隣に伝わって、聳動しない者はなかった。重栄の収復の功は、巨川の助力によるものであった。重栄が部下に害せられると、朝議は参佐の罪とし、漢中の掾に貶された。時に楊守亮が興元を帥とし、平素より巨川を知っており、その到来を聞いて喜び客に謂って曰く、「天が李書記を我に遺したのだ!」即ち記室を管させ、累進して幕職となった。

原文巨川乾符中應進士,屬天下大亂,流離奔播,切於禄位,乃以刀筆從諸侯府。王重榮鎮河中,辟為掌書記。時車駕在蜀,賊據京師,重榮匡合諸藩,叶力誅冦,軍書奏請,堆案盈几。巨川文思敏速,翰動如飛,傳之藩隣,無不聳動,重榮收復功,巨川之助也。及重榮為部下所害,朝議罪叅佐,貶為漢中掾。時楊守亮帥興元,素知之聞巨川至,喜謂客曰:“天以李書記遺我也!”即命管記室,累遷幕職。

景福年間、守亮が李茂貞に攻められ、城が陥落し、部下数百人を率いて太原に投じようとした。秦に入り、華州の軍に擒えられた。巨川は時に守亮に従っており、また械を着けられて繋がれた。途上、巨川は樹葉に詩を題して華帥の韓建に遺し、詞情は哀鳴し、建は欣然として縛を解いた。守亮が誅せられると、即ち掌書記に命じた。やがて李茂貞が京師を犯すと、天子は華州に駐蹕した。韓建は一州の力で、万乗を供億し、その不十分を慮り、巨川を遣わして天下に檄を伝え、転餉を助け、共に王室を匡し、京城を完葺するよう請うた。四方からの書檄や返答が輻湊したが、巨川は筆を揮って陳叙し、文理ともに適っていたので、昭宗は深くこれを重んじ、即時に巨川の名は天下に聞こえた。昭宗が京に還ると、特に諌議大夫を授け、仍って建を補佐するよう留めた。

原文景福中,守亮為李茂貞所攻,城䧟,以部下數百人欲投太原。入秦,為華軍所擒。巨川時從守亮,亦被械繫。在途,巨川題詩於樹葉以遺華帥韓建,詞情哀鳴,建欣然解縛。守亮誅,即命為掌書記。俄而李茂貞犯京師,天子駐蹕於華。韓建以一州之力,供億萬乘,慮其不濟,遣巨川傳檄天下,請助轉餉,同匡王室,完葺京城。四方書檄,酬報輻湊,巨川灑翰陳敘,文理俱愜,昭宗深重之,即時巨川之名聞于天下。昭宗還京,特授諌議大夫,仍留佐建。

光化初年、朱全忠が河中を陥し、兵を進めて潼関に入った。建は懼れ、巨川をして全忠に会わせて降伏の意を伝えさせた。河中に至り、巨川は従容として事を言った。巨川が利害を指陳すると、全忠は正に鼎を問わんと図っていたので、巨川の陳べることを聞き、心にこれを憎んだ。判官の敬翔もまた文筆を以て全忠に知られており、巨川に名価を減落されることを慮り、全忠に謂って曰く、「李諌議の文章は確かに美しいが、主人に利しない。」この日、巨川は全忠に害せられた。

原文光化初,朱全忠䧟河中,進兵入潼關。建懼,令巨川見全忠送欵,至河中,從容言事。巨川指陳利害,全忠方圖問鼎,聞巨川所陳,心惡之。判官敬翔,亦以文筆見知於全忠,慮得巨川減落名價,謂全忠曰“李諌議文章信美,但不利主人。”是日為全忠所害。

司空しくう図

原文司空圖

司空図、字は表聖、本は臨淄の人である。曽祖父の遂は、密県令。祖父の彖は、水部郎中。父の輿は、吏術に精通した。大中初年、戸部侍郎の盧弘正が塩鉄を領し、輿を安邑両池榷塩使・検校司封郎中に奏した。先に、塩法の条令は疎闊で、吏は多く禁を犯していた。輿は乃ち特に新法十条を定めて奏上し、今に至るまで便利とされている。朝に入り司門員外郎となり、遷って戸部郎中となり、卒した。

原文司空圖,字表聖,本臨淄人。曽祖遂,密令。祖彖,水部郎中。父輿,精吏術。大中初,戸部侍郎盧弘正領鹽鐵,奏輿為安邑兩池榷鹽使、檢校司封郎中。先是,鹽法條例疎闊,吏多犯禁;輿乃特定新法十條奏之,至今以為便。入朝為司門員外郎,遷戸部郎中,卒。

図は咸通十年に進士に及第し、主司の王凝は進士の中でも特にこれを奇とした。凝が左遷されて商州刺史となると、図はこれに従うことを請い、凝はますます器重した。宣歙の廉察使となると、召し出されて上客とした。召されて殿中侍御史に任じられたが、赴闕が遅留したため、責められて光禄寺主簿に任じられ、東都に分司した。乾符六年、宰相の盧携が罷免され、賓客として分司となると、図はこれと交遊し、携はその高節を嘉して厚く礼した。嘗て図の舎を訪れ、壁に手ずから題して曰く、「姓氏司空貴、官班御史卑、老夫如且在、不用念屯奇。」明年、携が再び朝に入る時、陝虢を経由し、陝帥の盧渥に謂って曰く、「司空御史は高士である。公は厚くせよ。」渥は即日に奏して賓佐とした。その年、携が再び政事を知ると、図を召して礼部員外郎とし、緋魚袋を賜い、本司の郎中に遷した。その年冬、巣賊が京師を犯すと、天子は出幸し、図はこれに従えず、乃ち退いて河中に還った。時に故相の王徽もまた蒲に在り、図を頗る厚く遇した。数年後、徽は詔を受けて潞を鎮めることとなり、乃ち図を副使に表したが、徽は赴鎮せずに止んだ。僖宗が蜀より還り、鳳翔に次ぐと、図を召して知制誥とし、尋ねて正任して中書舎人とした。その年、僖宗が宝鶏に出幸すると、再びこれに従えず、退いて河中に還った。

原文圖咸通十年登進士第,主司王凝於進士中尤奇之。凝左授商州刺史,圖請從之,凝加器重,洎廉問宣歙,辟為上客。召拜殿中侍御史,以赴闕遲留,責授光祿寺主簿,分司東都。乾符六年,宰相盧攜罷免,以賔客分司,圖與之遊,攜嘉其高節,厚禮之。嘗過圖舍,手題于壁曰:「姓氏司空貴,官班御史卑,老夫如且在,不用念屯奇。」明年,攜復入朝,路由陝虢,謂陝帥盧渥曰:「司空御史,高士也,公其厚之。」渥即日奏為賔佐。其年,攜復知政事,召圖為禮部員外郎,賜緋魚袋,遷本司郎中。其年冬,巢賊犯京師,天子出幸,圖從之不及,乃退還河中。時故相王徽亦在蒲,待圖頗厚。數年,徽受詔鎮潞,乃表圖為副使,徽不赴鎮而止。僖宗自蜀還,次鳳翔,召圖知制誥,尋正拜中書舍人。其年僖宗出幸寶雞,復從之不及,退還河中。

龍紀の初め、また召されて舍人に任ぜられたが、ほどなくまた病を理由に辞した。河北が乱れるや、華陰に寓居した。景福年間、また諫議大夫として召された。時に朝廷は微弱で、紀綱は大いに乱れており、司空図は深く考えて、出仕するは隠居するに如かずとし、病を理由に起たなかった。乾寧年間、また戸部侍郎として召され、一度は朝廷に至って謝意を表したが、数日で山に還ることを乞い、許された。昭宗が華州におられた時、兵部侍郎として召されたが、足疾を称して趨拝に堪えず、ただ上表して謝したのみであった。昭宗が洛陽に遷ると、柳璨は賊(朱全忠)の意を迎え、旧族を陥れようとし、詔して司空図に入朝を命じた。図は誅殺されることを恐れ、病をおして洛陽に至り、謁見の日、笏を落として礼儀を失い、趣向は極めて粗野であった。璨は屈せしめ得ぬと知り、詔して曰く、「司空図は俊造として科挙に及第し、朱紫の官籍に昇ったが、既に高節を養って世に傲り、山を移して名を釣る類であり、心はただ漱流を楽しみ、仕官は禄食に専らするにあらず。夷でもなく恵でもなく、公正の朝に居るは難く、思いを巡らせ考えれば、棲衡の志に従うべきである。放って山に還すべし」と。

原文龍紀初,復召拜舍人,未幾又以疾辭。河北亂,乃寓居華陰。景福中,又以諫議大夫徵。時朝廷微弱,紀綱大壞,圖自深惟出不如處,移疾不起。乾寧中,又以戶部侍郎徵,一至闕廷致謝,數日乞還山,許之。昭宗在華,徵拜兵部侍郎,稱足疾不任趨拜,致章謝之而已。昭宗遷洛,鼎欲歸梁,柳璨希賊旨,陷害舊族,詔圖入朝。圖懼見誅,力疾至洛陽,謁見之日,墮笏失儀,旨趣極野。璨知不可屈,詔曰:「司空圖俊造登科,朱紫升籍,旣養高以傲代,類移山以釣名,心惟樂于漱流,仕非專於祿食。匪夷匪惠,難居公正之朝;載省載思,當徇棲衡之志。可放還山。」

司空図には先祖伝来の別荘が中条山の王官谷にあり、泉石林亭、幽棲の趣に頗るかなうものであった。隠遁して高く臥すことを自ら楽しみ、日ごと名僧高士と交わり、その中で遊詠した。晚年の文章は、特に放達を事とし、かつて白居易の『醉吟伝』に擬えて『休休亭記』を作り、曰く、

原文圖有先人别墅在中條山之王官谷,泉石林亭,頗稱幽棲之趣。自考槃高卧,日與名僧高士遊詠其中。晚年為文,尤事放逹,甞擬白居易醉吟傳為休休亭記曰:

司空氏の禎貽溪にある休休亭は、本名は濯纓亭といったが、陝軍に焼かれた。天復癸亥の歳、壊れた垣の中に再び修築し、乃ち更めて休休と名付けた。休とは、休むことであり、美しいことである。既に休みて具わる美が存するのである。およそその才を量って一に休むに宜しく、その分を揣って二に休むに宜しく、耄いて且つ聵(耳が聞こえぬ)こと三に休むに宜しい。また、少にして惰、長じて率(軽率)、老いて迂(迂闊)なるは、この三者は皆時に済すくうの用に非ず、また休むに宜しい。なお多難を慮りて自ら信じ得ず、既にして昼寝するに、二僧に遇い、予に謂いて曰く、「我れ嘗て汝が師たり。汝は昔、道に矯あらためんとして、鋭くして固からず、利慾の拘うるところとなったが、幸いに悟りて悔い、将に復た我に従いてこの溪に在らんとす。且つ汝は退いたといえども、また嘗て匪人(よこしまな人)の嫉むところと為った。宜しく辱しめに耐えて自ら警め、その終始を保つを庶幾こいねがうべし。靖節(陶淵明)・醉吟(白居易)とその品級を千載の下に第ついだてるに、また何を求めんや」と。ここに因って『耐辱居士歌』を作り、東北の楹に題して曰く、「咄咄、休休休、莫莫莫、伎倆は多くと雖も性霊悪し、頼むらくは是れ長く閑処に著くを教うるに長ずるにあり。休休休、莫莫莫、一局の棋、一炉の薬、天意時情は料度すべし。白日は偏に快活の人を催し、黄金は騎鶴に堪うるを買い難し。若し曰く『爾何の能くかある』と。答えて云く『辱しめに耐えよ、莫なかれ』と」。

原文司空氏禎貽溪之休休亭,本名濯纓亭,為陝軍所焚。天復癸亥歲,復葺於壞垣之中,乃更名曰休休。休,休也,美也,旣休而具美存焉。蓋量其才一宜休,揣其分二宜休,耄且聵三宜休。又少而惰,長而率,老而迂,是三者皆非濟時之用,又宜休也。尚慮多難不能自信,旣而晝寢,遇二僧謂予曰:「吾嘗為汝師。汝昔矯於道,銳而不固,為利慾之所拘,幸悟而悔,將復從我於是溪耳。且汝雖退,亦嘗為匪人之所嫉,宜耐辱自警,庶保其終始,與靖節、醉吟第其品級於千載之下,復何求哉!」因為耐辱居士歌,題於東北楹曰:「咄咄,休休休,莫莫莫,伎倆雖多性靈惡,賴是長教閑處著。休休休,莫莫莫,一局棋,一爐藥,天意時情可料度。白日偏催快活人,黃金難買堪騎鶴。若曰:『爾何能?』荅云:『耐辱莫。』」

その詭激にして嘯傲しょうごうする様、多くはこの類である。

原文其詭激嘯傲,多此類也。

司空図は柳璨の禍を脱して山に還ると、乃ち予め寿蔵(生前に作る墓)を造り終制(葬送の礼)を定めた。故人が来る者は、これを壙中に引き入れ、詩を賦し杯を酌み交わした。人が難色を示すと、図はこれを諭して曰く、「達人は大観し、幽顕は一致す。ただ暫くこの中に遊ぶのみに非ず。公何ぞ広からざるや」と。図は布衣に鳩杖きゅうじょうを持ち、出る時は女家人の鸞臺らんだいを以て自らに随わせた。歳時の村社の雩祭うさい祠禱しとうには、鼓舞会集するに、図は必ずこれに赴き、野老と同席して、曾かつて傲色無かった。王重榮父子兄弟は特にこれを重んじ、伏臘(冬夏の祭り)の饋遺きいは、途に絶えることがなかった。唐の祚(皇位)が亡びた明年、輝王(哀帝)が済陰で弑しい害されたと聞き、快からずして病み、数日で卒した。時に年七十二。文集三十巻あり。

原文圖既脱柳璨之禍還山,乃預為壽藏終制。故人來者,引之壙中,賦詩對酌,人或難色,圖規之曰:“逹人大觀,幽顯一致,非止暫遊此中。公何不廣哉!”圖布衣鳩杖,出則以女家人鸞臺自隨。歲時村社雩祭祠禱,鼓舞會集,圖必造之,與野老同席,曾無傲色。王重榮父子兄弟尤重之,伏臘饋遺,不絶於途。唐祚亡之明年,聞輝王遇弑于濟隂,不懌而疾,數日卒,時年七十二。有文集三十卷。

司空図に子が無く、その甥の荷を嗣と為した。荷は官、永州刺史に至る。甥を嗣と為したことを、嘗て御史に弾劾されたが、昭宗はこれを責めなかった。

原文圖無子,以其甥荷為嗣。荷官至永州刺史。以甥為嗣,甞為御史所彈,昭宗不之責。

贊

原文贊

贊に曰く、国の華彩、人文は化成す。間代に傑出し、藻を奮い英を摛しる。騏驥の逸歩、咸・韶の正声。燦として緗素しょうそに流れ、下りて姬・嬴きえいを視る。

原文贊曰:國之華彩,人文化成。間代傑出,奮藻摛英。騏驥逸步,咸、韶正聲。燦流緗素,下視姬、嬴。