舊唐書

巻190上

巻190上

舊唐書

原文舊唐書

卷一百九十上

原文卷一百九十上

列傳第一百四十上 文苑上

原文列傳第一百四十上 文苑上

臣が観るに、前代において筆を執り文を論ずる者は多い。みな『謨』『誥』を手本とし、『詩』『騒』を祖述し、遠くは毛公・鄭玄の訓論を尊び、近くは班固・揚雄の述作を卑しむ。『采采苤諲』は比興の源流において特に高く、『湛湛江楓』は詠歌の体を長く独占するという。ひそかに知らず、世代には文質があり、風俗には淳醨があり、学識には浅深があり、才性には工拙がある。昔、仲尼が三代の『易』を演じ、諸国の『詩』を刪したのは、昔の賢人に勝ろうとしたのではなく、今の代に名を取ろうとしたのである。実に淳朴の時代は質を損ない、民俗の語は経典に合わないため、文言で飾り、弦誦によって考証したのである。それによって遠くに至っても泥まず、永代の規範となり、即ち古を是とし今を非とするは、通論とは為し難いことを知る。鑑を執って形を写し、衡を持って物を品定めするには、伯楽でなければ駑馬と駿馬の状を分けられず、延陵季子でなければ『雅』と『鄭』の音を別てられない。もし空しく竽を吹く人を混同するならば、即ち『韶』を聞く嘆きとは異なる。近代においてはただ沈隠侯(沈約)が『二南』を斟酌し、三変を剖陳し、雲(揚雄)・淵(王褒)の抑鬱を攄べ、潘(岳)・陸(機)の風徽を振るい、律呂を和諧させ、宮商を輯洽せしめた。子建(曹植)が建安の覇を総べ、客児(謝霊運)が江左の雄を擅にするのみではない。爰に我が朝に及んで、賢俊が挺生し、文皇帝(太宗)は戎衣を解いて学校を開き、賁帛を飾って儒生を礼した。門には吐鳳の才を羅し、人は握蛇の価を擅にする。発言して論と為し、下筆して文を成さざるはなく、以て俗を緯め邦を経るに足り、豈にただ章を彫り句を縟にするに止まらんや。韻は金奏に諧い、詞は丹青に炳え、故に貞観の風は三代に同じし。高宗・天後は特に詳延を重んじ、天子は横汾の詩を賦し、臣下は柏梁の奏を継ぎ、巍巍として済済たり、古今に輝爍す。燕(張説)・許(蘇頲)の王言を潤色するが如き、吳(通玄)・陸(贄)の鴻業を鋪揚するが如き、元稹・劉蕡の対策、王維・杜甫の彫蟲、並びに肄業して然らしむるにあらず、自ら天機秀絶なり。隋珠の色澤の如く、淬磨を仮るなく、孔璣翠羽の如く、自ら華彩を成す。之を文苑に置けば、実に緗図を煥えしむ。其の間爵位崇高なる者は、別に之が伝を為す。今、孔紹安以下を采り、『文苑』三篇と為し、ひそかに才を懐き憔悴せる徒が、千古作者に知られんことを凱う。

原文臣觀前代秉筆論文者多矣。莫不憲章《謨》、《誥》,祖述《詩》、《騷》;遠宗毛、鄭之訓論,近鄙班、揚之述作。謂「采采苤諲」,獨高比興之源;「湛湛江楓」,長擅詠歌之體。殊不知世代有文質,風俗有淳醨;學識有淺深,才性有工拙。昔仲尼演三代之《易》,刪諸國之《詩》,非求勝於昔賢,要取名於今代。實以淳樸之時傷質,民俗之語不經,故飾以文言,考之弦誦。然後致遠不泥,永代作程,即知是古非今,未為通論。夫執鑒寫形,持衡品物,非伯樂不能分駑驥之狀,非延陵不能別《雅》、《鄭》之音。若空混吹竽之人,即異聞《韶》之嘆。近代唯沈隱俟斟酌《二南》,剖陳三變;攄雲、淵之抑郁,振潘、陸之風徽。俾律呂和諧,宮商輯洽,不獨子建總建安之霸,客兒擅江左之雄。爰及我朝,挺生賢俊,文皇帝解戎衣而開學校,飾賁帛而禮儒生;門羅吐鳳之才,人擅握蛇之價。靡不發言為論,下筆成文,足以緯俗經邦,豈止雕章縟句。韻諧金奏,詞炳丹青,故貞觀之風,同乎三代。高宗、天後,尤重詳延;天子賦橫汾之詩,臣下繼柏梁之奏;巍巍濟濟,輝爍古今。如燕、許之潤色王言,吳、陸之鋪揚鴻業,元稹、劉蕡之對策,王維、杜甫之雕蟲,並非肄業使然,自是天機秀絕。若隋珠色澤,無假淬磨,孔璣翠羽,自成華彩,置之文苑,實煥緗圖。其間爵位崇高,別為之傳。今采孔紹安已下,為《文苑》三篇,凱懷才憔悴之徒,千古見知於作者。

孔紹安

原文孔紹安

孔紹安は、越州山陰の人で、陳の吏部尚書孔奐の子である。若い時、兄の紹新と共に文詞をもって知名であった。十三歳の時、陳が滅亡して隋に入り、京兆鄠県に移り住んだ。門を閉ざして書を読み、古文集数十万言を誦し、外兄の虞世南は嘆いて異とした。紹新は嘗て世南に謂って言う、「本朝は淪陷し、分かれて湮滅に従わんとするが、ただ此の弟を見るに、窃かに家族亡びずと謂わん」。時に詞人孫万寿がおり、紹安と篤く忘年の好を結び、時人は孫・孔と称した。紹安は大業末に監察御史となった。時に高祖こうそが隋のために河東で賊を討つと、詔して紹安に高祖の軍を監せしめ、深く接遇を受けた。高祖が禅を受けると、紹安は洛陽らくようから間行して来奔した。高祖は之を見て甚だ悦び、内史舎人に拝し、宅一区・良馬二匹・銭米絹布等を賜うた。時に夏侯端も嘗て御史となり、高祖の軍を監し、紹安に先んじて朝に帰り、秘書監を授けられた。紹安は侍宴に因り、詔に応じて『石榴詩』を詠じて曰く、「只為時来晩、開花不及春」。時人は之を称した。尋いで詔して『梁史』を撰せしめられたが、未だ成らざるに卒した。文集五巻有り。

原文孔紹安,越州山陰人,陳吏部尚書奐之子。少與兄紹新,俱以文詞知名。十三,陳亡入隋,徙居京兆鄠縣。閉門讀書,誦古文集數十萬言,外兄虞世南嘆異之。紹新嘗謂世南曰:「本朝淪陷,分從湮滅,但見此弟,竊謂家族不亡矣!」時有詞人孫萬壽,與紹安篤忘年之好,時人稱為孫、孔。紹安大業末為監察御史。時高祖為隋討賊於河東,詔紹安監高祖之軍,深見接遇。及高祖受禪,紹安自洛陽間行來奔。高祖見之甚悅,拜內史舍人,賜宅一區、良馬兩匹、錢米絹布等。時夏侯端亦嘗為御史,監高祖軍,先紹安歸朝,授秘書監。紹安因侍宴,應詔詠《石榴詩》曰:「只為時來晚,開花不及春。」時人稱之。尋詔撰《梁史》,未成而卒。有文集五卷。

子 禎

原文子 禎

子の禎は、高宗の時に蘇州長史となった。曹王李明が刺史となったが、法度に循わず、禎は毎度諫めた。明は曰く、「寡人は天子の弟なり、豈に王たるを失わんや」。禎は曰く、「恩寵は恃むべからず、大王国命を奉行せずんば、恐らく今の栄位は大王の保つ所に非ず、独り淮南の事を見ざるか」。明は悦ばず。明の左右に下人の侵暴する者有り、禎は捕えて杖殺した。明は後果たして法に坐し、黔中に遷され、人に謂って曰く、「吾れ孔長史の言を用いざるを愧じ、以て此に及ぶ」。禎は累遷して絳州刺史となり、武昌県子に封ぜられた。卒し、諡して温と曰う。

原文子禎,高宗時為蘇州長史。曹王明為刺史,不循法度,禎每進諫。明曰:「寡人天子之弟,豈失於為王哉!」禎曰:「恩寵不可恃,大王不奉行國命,恐今之榮位,非大王所保,獨不見淮南之事乎?」明不悅。明左右有侵暴下人者,禎捕而杖殺之。明後果坐法,遷於黔中,謂人曰:「吾愧不用孔長史言,以及於此!」禎累遷絳州刺史,封武昌縣子。卒,謚曰溫。

子 季詡

原文子 季詡

子の季詡は、早くから知名で、官は左補闕に至った。

原文子季詡,早知名,官至左補闕。

孫 若思

原文孫 若思

紹安の孫、若思。

原文紹安孫若思。

若思は孤となり、母の褚氏が自ら教訓したので、遂に学行をもって知名となった。年少の時、ある人が褚遂良の書跡数巻を齎して若思に遺わんとしたが、ただ其の一巻を受けた。其の人は曰く、「此の書は当今重んずる所、価は黄金に比す、何ぞ総べて取らざる」。若思は曰く、「若し価金宝に比すれば、此れ多しと為す」。更に半ばを截ち去って之を還した。明経に挙げられ、累遷して庫部郎中となった。若思は常に人に謂って曰く、「仕えて郎中に至れば足る」。此に至りて一石の止水を持ち、座右に置き、以て止足の意有るを示した。尋いで給事中に遷った。

原文若思孤,母褚氏親自教訓,遂以學行知名。年少時,有人賫褚遂良書跡數卷以遺若思,唯受其一卷。其人曰:「此書當今所重,價比黃金,何不總取?」若思曰:「若價比金寶,此為多矣!」更截去半以還之。明經舉,累遷庫部郎中。若思常謂人曰:「仕至郎中足矣!」至是持一石止水,置於座右,以示有止足之意。尋遷給事中。

中宗が即位し、敬暉・桓彦範等が国政を知ると、若思が故事に多識なるを以て、所有の改革大事及び疑議は、多く若思に訪れた。再転して礼部侍郎となり、出でて衛州刺史となった。先ず是れ、諸州の別駕は皆宗室を以て之と為し、刺史に致敬せず、是れにより多く不法を行った。若思が州に至り、別駕李道欽の犯状を挙奏し、加えて鞫訊を請うた。乃ち詔して別駕に刺史に致礼せしめ、若思より始まる。俄かに清白を以て称せられ、銀青光禄大夫を加えられ、絹百匹を賜うた。汝州刺史・太子右諭徳を歴任し、梁郡公に封ぜられた。開元十七年に卒し、諡して恵と曰う。

原文中宗即位,敬暉、桓彥範等知國政,以若思多識故事,所有改革大事及疑議,多訪於若思。再轉禮部侍郎,出衛州刺史。先是,諸州別駕,皆以宗室為之,不為刺史致敬,由是多行不法。若思至州,舉奏別駕李道欽犯狀,請加鞫訊。乃詔別駕於刺史致禮,自若思始也。俄以清白稱,加銀青光祿大夫,賜絹百匹。歷汝州刺史、太子右諭德,封梁郡公。開元十七年卒,謚曰惠。

袁朗

原文袁朗

袁朗は、雍州長安ちょうあんの人で、陳の尚書左僕射袁枢の子である。其の先祖は陳郡より江左に仕え、世々冠族たり、陳滅亡後に関中に徙った。

原文袁朗,雍州長安人,陳尚書左僕射樞之子。其先自陳郡仕江左,世為冠族,陳亡徙關中。

袁朗は学問に励み、文章を綴ることを好んだ。陳に仕えては、秘書郎に初任官し、尚書令しょうしょれい江総に大いに重んじられた。かつて千字詩を作り、当時これを盛んな作品と認められた。陳の後主はこれを聞き、禁中に召し入れ、『月賦』を作らせたところ、袁朗は筆を染めてたちどころに完成させた。後主は言った。『この賦を見ると、謝希逸(謝荘)も前代において独り美を占めることはできなかったであろう。』さらに『芝草頌』『嘉蓮頌』の二つの頌を作らせ、深く優れた賞賛を受けた。太子洗馬、徳教殿学士を歴任し、秘書丞に転じた。陳が滅亡すると、隋に仕えて尚書儀曹郎となった。武徳初年、斉王文学、祠部郎中を授かり、汝南県男に封ぜられ、再び転じて給事中となった。貞観初年に在官のまま死去した。太宗は彼のために一日朝政を停止し、高士廉に言った。『袁朗は在任期間は近かったが、その性質は謹厳で篤実であり、特に人をして傷み惜しませる。』よって詔を下してその葬儀の費用を給し、併せて妻子を慰問させた。文集十四巻がある。

原文朗勤學,好屬文。在陳,釋褐秘書郎,甚為尚書令江總所重。嘗制千字詩,當時以為盛作。陳後主聞而召入禁中,使為《月賦》,朗染翰立成。後主曰:「觀此賦,謝希逸不能獨美於前矣!」又使為《芝草》、《嘉蓮》二頌,深見優賞。歷太子洗馬、德教殿學士,遷秘書丞。陳亡,仕隋為尚書儀曹郎。武德初,授齊王文學、祠部郎中,封汝南縣男,再轉給事中。貞觀初卒官。太宗為之廢朝一日,謂高士廉曰:「袁朗在任雖近,然其性謹厚,特使人傷惜。」因敕給其喪事,並存問妻子。有文集十四卷。

父方の従弟に袁承序がいる。

原文從父弟 承序

父方の従弟の袁承序は、陳の尚書僕射袁憲の子である。武徳年間、斉王李元吉がその名を聞き、学士として召し出した。王府が廃止されると、累遷して建昌県令となった。在任中は清廉で静粛であり、士人や吏員は彼を慕った。高宗が藩王であった時、太宗は学問と品行に優れた士人をその僚属に選ぼうとし、中書侍郎岑文本に言った。『梁、陳の名臣で、誰が称えられるか。また子弟で招き寄せるに堪える者はいるか。』岑文本はこれに応じて言った。『隋の軍が陳に入った時、百官は奔走して散り散りになり、留まる者はなかったが、ただ袁憲のみがその主君の傍らにいた。王世充が隋の禅譲を受けようとした時、群臣は上表して勧進を請うたが、袁憲の子で給事中の袁承家は病気と称して、ただ一人署名しなかった。この父子は忠烈と称えられるに足る。袁承家の弟の袁承序は、清廉で貞潔な雅やかな操行を持ち、実に先人の風を継いでいる。』これにより、晋王友を守らせ召し出し、さらに侍読を命じ、弘文館学士を加授された。間もなく死去した。

原文從父弟承序,陳尚書僕射憲之子。武德中,齊王元吉聞其名,召為學士。府廢,累轉建昌令。在任清靜,士吏懷之。高宗在籓,太宗選學行之士為其僚屬,謂中書侍郎岑文本曰:「梁、陳名臣,有誰可稱?復有子弟堪招引否?」文本因言:「隋師入陳,百司奔散,莫有留者,唯袁憲獨在其主之傍。王世充將受隋禪,群僚表請勸進,憲子給事中承家托疾,獨不署名。此父子足稱忠烈。承家弟承序,清貞雅操,實繼先風。」由是召守晉王友,仍令侍讀,加授弘文館學士。未幾,卒。

祖父方の従弟に袁利貞がいる。

原文從祖弟 利貞

袁朗の祖父方の従弟の袁利貞は、陳の中書令袁敬の孫である。高宗の時に太常博士、周王侍読となった。永隆二年、周王が皇太子に立てられると、百官が礼を上奏した。高宗は百官と命婦を宣政殿に会わせ、併せて九部伎と散楽を設けようとした。袁利貞は上疏して諫めて言った。『臣は考えますに、前殿の正寝は、命婦が宴会する場所ではなく、象闕や路門は、倡優が進み出て御前に侍する所ではございません。命婦を別殿で会わせ、九部伎は東西の門から入らせ、散楽の一色は、伏して廃止されることを望みます。もし三殿の別の場所であれば、自ら恩寵を極め尽くすことができます。微臣は凡庸で見識が狭く、典則に通じておりませんが、礼司に辱くも預かり、軽率に狂った愚かな意見を陳べます。』帝はその言葉を受け入れ、直ちに麟徳殿に移すよう命じた。宴会の日、酒が酣になった時、帝は中書侍郎薛元超を使わして袁利貞に言わせた。『卿は家門が忠直を受け継ぎ、上疏して直言を抗することができた。厚く賞賜しなければ、どうして奨励できようか。』絹布百段を賜った。まもなく祠部員外郎に転じ、死去した。中宗が即位すると、侍読としての恩により、追贈して秘書少監とした。

原文朗從祖弟利貞,陳中書令敬之孫也。高宗時為太常博士、周王侍讀。永隆二年,王立為皇太子,百官上禮。高宗將會百官及命婦於宣政殿,並設九部伎及散樂。利貞上疏諫曰:「臣以前殿正寢,非命婦宴會之地;象闕路門,非倡優進禦之所。望詔命婦會於別殿,九部伎從東西門入,散樂一色,伏望停省。若於三殿別所,自可備極恩私。微臣庸蔽,不閑典則,忝預禮司,輕陳狂瞽。」帝納其言,即令移於麟德殿。至會日,酒酣,帝使中書侍郎薛元超謂利貞曰:「卿門承忠鯁,能抗疏直言,不加厚賜,何以獎勸!」賜物百段。俄遷祠部員外郎,卒。中宗即位,以侍讀恩,追贈秘書少監。

袁朗の十三代前の祖父は後漢の司徒しと袁滂であり、袁滂は魏の国郎中、御史大夫袁渙を生み、袁渙は晋の尚書袁準を生み、袁準は東晋の右将軍、豫よ章太守袁沖を生み、袁沖は司徒従事中郎袁耽を生み、袁耽は琅邪内史袁質を生み、袁質は丹陽尹、宋公長史袁豹を生み、袁豹は宋の呉郡太守袁洵を生み、累代にわたり高い名声と重い地位があり、前代の史書に伝がある。五代前の叔祖父は宋の太尉袁淑、高祖父は左僕射、雍州刺史袁顗、高祖は司空しくう袁察であり、皆国難に殉じた。曾祖父は梁の中書監ちゅうしょかん、司空、穆公袁昂であり、斉に仕えて呉興太守となり、梁の高祖が斉から禅譲を受けた時、長く朝命を辞退した。父の袁枢、叔父の袁憲は陳に仕え、皆陳の僕射となった。叔祖父の袁敬は中書令である。陳が滅亡した時、袁憲は危難を冒して後主を扶護した。袁朗は自ら、家門内外の人物が海内の冠族であると考え、たとえ琅邪王氏が代々台鼎(三公・宰相)の位を継いでも、歴朝において自らは佐命の臣(創業を助けた臣)であり、彼らを軽蔑して同列とは考えなかった。

原文朗十三代祖漢司徒滂,滂生魏國郎中、御史大夫渙,渙生晉尚書準,準生東晉右將軍、豫章太守沖,沖生司徒從事中郎耽,耽生瑯邪內史質,質生丹陽尹、宋公長史豹,豹生宋吳郡太守洵,累代有高名重位,前史有傳。五代叔祖宋太尉淑,高祖父左僕射、雍州刺史顗,高祖司空察,皆死國難。曾祖梁中書監、司空、穆公昂,仕齊為吳興太守,及梁高祖禪齊,久辭朝命。父樞,叔父憲,仕陳,皆為陳僕射。叔祖敬,中書令。及陳亡,憲冒難扶護後主。朗自以中外人物,為海內冠族,雖瑯邪王氏繼有臺鼎,而歷朝自為佐命,鄙之不以為伍。

孫に袁誼がいる。

原文孫 誼

袁朗の孫の袁誼は、また虞世南の外孫でもある。神功年間、蘇州刺史となった。かつて政務を執る際、司馬の清河張沛はいが通謁した。張沛は侍中張文瓘の子である。袁誼は彼に揖して言った。『司馬は何事か。』張沛は言った。『この州に長史を得ました。隴西の李亶でございます。天下の甲門(第一流の名門)です。』袁誼は言った。『司馬の言うことは誤りである。門戸というものは、歴代の人賢を経て、名節と風教が、衣冠(士大夫)の顧みるところとなり、初めて称え挙げることができる。老夫こそがそれである。山東の人は婚姻を重んじ、禄利を求める。時に柱石となり、危難に臨んで命を授ける者は、遠い時代から一人もいない。どうしてそれを言い、門戸とすることができようか。』張沛は慚愧を抱いて退いた。当時の人はこれを口実とした。

原文朗孫誼,又虞世南外孫。神功中,為蘇州刺史。嘗因視事,司馬、清河張沛通謁,沛即侍中文瓘之子。誼揖之曰:「司馬何事?」沛曰:「此州得一長史,是隴西李亶,天下甲門。」誼曰:「司馬何言之失!門戶須歷代人賢,名節風教,為衣冠顧矚,始可稱舉,老夫是也!夫山東人尚於婚媾,求於祿利;作時柱石,見危授命,則曠代無人。何可說之,以為門戶!」沛懷慚而退。時人以為口實。

賀徳仁

原文賀德仁

賀徳仁は、越州山陰の人である。父の賀朗は、陳の散騎常侍さんきじょうじであった。賀徳仁は若い時、従兄の賀基と共に国子祭酒周弘正に師事し、共に詞学をもって称えられた。当時の人は言った。『学行は賀徳基に師うべく、文質彬彬たるは賀徳仁。』賀徳仁兄弟は八人おり、当時の人はこれを荀氏(荀淑の八龍)に譬えた。陳の鄱陽王陳伯山が会稽太守となった時、彼らの住む甘滂里を高陽里と改めた。賀徳仁は陳に仕え、呉興王友に至った。

原文賀德仁,越州山陰人也。父朗,陳散騎常侍。德仁少與從兄基俱事國子祭酒周弘正,鹹以詞學見稱。時人語曰:「學行可師賀德基,文質彬彬賀德仁。」德仁兄弟八人,時人方之荀氏。陳鄱陽王伯山為會稽太守,改其所居甘滂裏為高陽裏。德仁事陳,至吳興王友。

隋に入ると、僕射楊素が彼を推薦し、豫章王府記室参軍を授かった。王は師資の礼をもって彼を遇し、恩遇は厚かった。煬帝が即位すると、豫章王は斉王に改封され、また斉王府属を授かった。斉王が譴責を受けると、府の僚属は皆誅殺や責罰を受けたが、ただ賀徳仁のみは忠謹により罪を免れ、出向して河東郡司法となった。かつて隠太子(李建成)と親しくしていたため、高祖が京師を平定すると、隠太子が隴西公に封ぜられ、賀徳仁を隴西公友に任用した。まもなく太子中舎人に転じ、老衰して吏事に習熟していないため、太子洗馬に転じた。当時、蕭徳言も洗馬であり、陳子良は右衛率府長史であり、皆東宮学士であった。貞観初年、賀徳仁は趙王友に転じた。間もなく死去し、七十余歳であった。文集二十巻がある。

原文入隋,僕射楊素薦之,授豫章王府記室參軍。王以師資禮之,恩遇甚厚。及煬帝即位,豫章王改封齊王,又授齊王府屬。及齊王獲譴,府僚皆被誅責,唯德仁以忠謹免罪,出補河東郡司法。素與隱太子善,及高祖平京師,隱太子封隴西公,用德仁為隴西公友。尋遷太子中舍人,以衰老不習吏事,轉太子洗馬。時蕭德言亦為洗馬,陳子良為右衛率府長史,皆為東宮學士。貞觀初,德仁轉趙王友。無幾,卒,年七十余。有文集二十卷。

賀徳仁の弟子の賀紀、賀敳も、博学をもって知名であった。高宗の時、賀紀は官が太子洗馬に至り、『五礼』を修めた。賀敳は率更令に至り、兼ねて太子侍読となった。兄弟共に崇賢館学士となり、学者はこれを栄誉とした。

原文德仁弟子紀、敳,亦以博學知名。高宗時,紀官至太子洗馬,修《五禮》。敳至率更令,兼太子侍讀。兄弟並為崇賢館學士,學者榮之。

庾抱

原文庾抱

庾抱は、潤州江寧の人である。その祖先は潁川から移り住んだ。祖父の庾衆は、陳の御史中丞であった。父の庾超は、南平王記室であった。庾抱は開皇年間に延州参軍事となった。後数年を経て、吏部に選ばれた。尚書牛弘は彼が学術があることを知り、筆と紙を与えて自ら序を書かせた。筆を取ればたちどころに書き上げたので、牛弘は大いにこれを奇とした。後に元徳太子学士を補し、礼遇と賜物は甚だ厚かった。皇孫が誕生した際、太子が賓客を宴する席で、庾抱は座中で『嫡皇孫頌』を献じ、深く賞賛された。後に越巂主簿となったが、病気と称して赴任しなかった。義寧年間、隠太子李弘が彼を引き立てて隴西公府記室とした。当時は軍国の事務が多く、公府の文書や檄文は皆庾抱の手によるものであった。まもなく太子舎人に転じ、間もなく死去した。文集十巻がある。

原文庾抱,潤州江寧人也,其先自潁川徙家焉。祖眾,陳御史中丞。父超,南平王記室。抱開皇中為延州參軍事。後累歲,調吏部。尚書牛弘知其有學術,給筆劄令自序。援翰便就,弘甚奇之。後補元德太子學士,禮賜甚優。會皇孫載誕,太子宴賓客,抱於坐中獻《嫡皇孫頌》,深被嗟賞。後為越巂主簿,稱病不行。義寧中,隱太子弘引為隴西公府記室。時軍國多務,公府文檄皆出於抱。尋轉太子舍人,未幾,卒。有集十卷。

蔡允恭

原文蔡允恭

蔡允恭は、荊州江陵の人である。祖父の點は、梁の尚書儀曹郎であった。父の大業は、後梁の左民尚書であった。允恭は風采があり、文章を綴ることを善くした。隋に仕えて、著作佐郎・起居舍人を歴任した。特に詩歌を吟詠することを善くした。煬帝が詞賦を作ると、多く彼に諷誦させた。かつて宮女を教えさせようとしたが、允恭はこれを深く恥じ、気疾を称して、時を定めず召しに応じなかった。煬帝はまた内史舍人を授けると約束し、さらに内に入って宮人を教えるよう命じたが、允恭は固く辞して就かず、これによって次第に疎遠にされた。江都の難に際し、允恭は宇文化及に従って西上し、竇建徳に没した。東夏が平定されると、太宗は彼を召し出して秦府参軍とし、文学館学士を兼ねさせた。貞観初年、太子洗馬に任じられた。まもなく致仕し、家で卒した。文集十巻があり、また『後梁春秋』十巻を撰した。

原文蔡允恭,荊州江陵人也。祖點,梁尚書儀曹郎。父大業,後梁左民尚書。允恭有風彩,善綴文。仕隋歷著作佐郎、起居舍人。雅善吟詠。煬帝屬詞賦,多令諷誦之。嘗遣教宮女,允恭深以為恥,因稱氣疾,不時應召。煬帝又許授以內史舍人,更令入內教宮人,允恭固辭不就,以是稍被疏絕。江都之難,允恭從宇文化及西上,沒於竇建德。及平東夏,太宗引為秦府參軍,兼文學館學士。貞觀初,除太子洗馬。尋致仕,卒於家。有集十卷,又撰《後梁春秋》十卷。

鄭世翼

原文鄭世翼

鄭世翼は、鄭州滎陽けいようの人であり、代々著姓であった。祖父の敬徳は、周の儀同大將軍であった。父の機は、司武中士であった。世翼は弱冠にして盛名があった。武徳年間、萬年丞・揚州録事参軍を歴任した。しばしば言辞で人に逆らい、軽薄と称された。時に崔信明は自ら文章は独歩であると称し、多く人を凌駕していた。世翼が江中で彼に出会い、言った、「かつて『楓落呉江冷』と聞いたことがある」。信明は喜んで百余篇を示した。世翼はそれを見終わらないうちに言った、「見るものは聞くに及ばない」。それを江に投げ捨てた。信明は答えることができず、楫を抱いて去った。世翼は貞観年間に怨謗の罪に坐し、巂州に配流され、そこで卒した。文集は多く遺失し、撰した『交遊伝』は、当時かなり行われた。

原文鄭世翼,鄭州滎陽人也,世為著姓。祖敬德,周儀同大將軍。父機,司武中士。世翼弱冠有盛名。武德中,歷萬年丞、揚州錄事參軍。數以言辭忤物,稱為輕薄。時崔信明自謂文章獨步,多所淩轢;世翼遇諸江中,謂之曰:「嘗聞『楓落吳江冷。』」信明欣然示百余篇。世翼覽之未終,曰:「所見不如所聞。」投之於江,信明不能對,擁楫而去。世翼貞觀中坐怨謗,配流巂州,卒。文集多遺失,撰《交遊傳》,頗行於時。

謝偃

原文謝偃

謝偃は、衛県の人であり、本姓は直勒氏である。祖父の孝政は、北斉の散騎常侍で、姓を謝氏に改めた。偃は隋に仕えて散従正員郎となった。貞観初年、詔に応じて対策に及第し、高陵主簿を歴任した。十一年、車駕が東都に幸した時、谷水・洛水が氾濫して洛陽宮に及んだ。詔して直諫の士を求めた。偃は封事を上奏し、得失を極言した。太宗は善しとし、弘文館直学士に引き立て、魏王府功曹に拝した。偃はかつて『塵』・『影』の二賦を作り、甚だ巧みであった。太宗はこれを聞いて詔して引見し、自ら賦の序を制し、「区宇は安んじ、功德は茂盛である」と言った。彼に賦を作らせた。偃は詔を奉じて撰成し、名づけて『述聖賦』とし、采帛数十匹を賜った。偃はまた『惟皇誡徳賦』を献じて諷諫を述べ、言うには、

原文謝偃,衛縣人也,本姓直勒氏。祖孝政,北齊散騎常侍,改姓謝氏。偃仕隋為散從正員郎。貞觀初,應詔對策及第,歷高陵主簿。十一年,駕幸東都,谷、洛泛溢洛陽宮,詔求直諫之士。偃上封事,極言得失。太宗稱善,引為弘文館直學士,拜魏王府功曹。偃嘗為《塵》、《影》二賦,甚工。太宗聞而詔見,自制賦序,言「區宇乂安,功德茂盛」。令其為賦,偃奉詔撰成,名曰《述聖賦》,賜采數十匹。偃又獻《惟皇誡德賦》以申諷,曰:

臣は聞く、治まれば乱を忘れ、安んじれば危を忘れ、安逸すれば労を忘れ、得れば失を忘れる。この四者は、人君にしてこのようでない者はない。これによって夏の桀は瑤台璇室を麗しとし、鳴条・南巢の禍を悟らず、殷の辛は象箸玉杯を華美とし、牧野白旗の敗を知らなかった。故にその盛んな時には、四海を己が力と謂い、その衰えた時には、匹夫さえ制し得ない。その信じる時には、天下に危険無しと謂い、その疑う時には、顧みるもの皆仇敵となる。これによって必ずその徳があれば、誠は戎夷に結ばれ、化は荒裔に行き渡る。もしその度を失えば、変は骨肉に生じ、釁は腹心から起こることを知る。これによって人主たる者は、初めを忘れてはならない。殿堂に処すれば、前主の亡びた所以を思い、万国に朝すれば、今己の貴い所以を思い、府庫を巡れば、今己の得た所以を思い、功臣を見れば、その己がために始めたことを思い、名将を見れば、その力を用いた初めを思う。もし旧を忘れなければ、人に易心無く、天下の化さないことを何ぞ患えん。故に朝に行えば堯・舜となり、暮れに失えば桀・紂となる。豈に別人であろうか。その詞に曰く、

原文臣聞理忘亂,安忘危,逸忘勞,得忘失。此四者,人君莫不皆然。是以夏桀以瑤臺璇室為麗,而不悟鳴條南巢之禍;殷辛以象箸玉杯為華,而不知牧野白旗之敗。故當其盛也,謂四海為己力;及其衰焉,乃匹夫之不制。當其信也,謂天下為無危;及其疑也,則顧盼皆仇敵。是知必有其德,則誠結戎夷,化行荒裔。茍失其度,則變生骨肉,釁起腹心矣!是以為人主者,不可忘初。處殿堂,則思前主之所以亡;朝萬國,則思今己之所以貴;巡府庫,則思今己之所以得;視功臣,則思其為己之始;見名將,則思其用力之初。茍弗忘舊,則人無易心,何患乎天下之不化!故旦行之則為堯、舜,暮失之則為桀、紂,豈異人哉!其詞曰:

周代の典籍を広く観、宇宙を総べて一望す。結繩の往きて紀すこと莫く、書契崇くして知るべし。皇王の代わる代わるを惟みれば、信に歩驟の恒規、慮い失う者は常に得、安きを懐う者は必ず危し。是を以て戦戦怵怵、日一日に慎み、約を守り儉を守り、奢を去り逸を去る。外に荒禽無く、内に荒色無く、唯賢を是れ授け、唯人を斯れ恤う。則ち三皇六に足らず、五帝十に足らず。若し聖を恃み力を驕り、狠戾倔強、忠良を是れ棄て、諂佞を斯れ奨む。崇台を構えて天を造り、深池を穿ちて壤を絶つ。賦を厚くし斂を重くし、宝を積み鏹を蔵む。罪無きに刑を加え、功有るも賞せず。則ち夏桀二つとすべく、殷辛両つとし易し。危うきに在りて恃む所有り、安んずるに居りて忘るる勿れ。功臣逐う無く、故人放つ無し。故人を放つ者は亡び、功臣を逐う者は喪う。四海岌岌たり、九土漫漫たり、覆すは甚だ易く、存するは実に難し。是を以て一人悦べば、万国同じく歓び、一人所を失えば、兆庶倶に残る。喜べば隆冬も熱くすべく、怒れば盛夏も寒しと成る。一動けば八表乱れ、一言すれば天下安んず。君の過ちを挙ぐる者を忠と曰い、主の美を述ぶる者を佞と為す。苟も顔を承けて旨に順えば、必ず視りを蔽いて聖と称す。故に曲なる者をして直を乱さしめ、邪なる者をして正を疑わしむ。華服を改めて胡に就き、雅音を変えて鄭に入る。往古の軌躅と雖も、亦た当今の亀鏡たるべし。崔嵬たる龍殿、赫奕たる鳳門、四海を苞みて主と称し、天下に冠して独り尊し。既に日を兄とし月を姉とし、亦た乾を父とし坤を母とす。視れば金翠目に溢れ、聴けば絲竹耳に盈つ。信に賞罰躬に在り、実に栄辱己に由る。義皇を語れば匹し易く、堯・舜を言えば擬う可し。驕志ここより生じ、侈心茲に因りて起る。常に覆るを懼れ亡ぶるを懼れ、必ず足るを思い止むるを思う。潜龍の初めを忘るる勿れ、当に布衣の始めを懐うべし。位に在りて宝と称し、器に居りて神と曰う。鐘鼓庭に設け、玉帛階に陳ぶ。得るには必ず兆有り、失うには必ず因有り。一たび替わり一たび立ち、或いは周或いは秦。既に前代を承け、当に後人を思うべし。唯徳のみ以て久しくすべく、天道常に親しむ無し。

原文周墳籍以遷觀,總宇宙而一窺;結繩往而莫紀,書契崇而可知。惟皇王之叠代,信步驟之恆規,莫不慮失者常得,懷安者必危。是以戰戰怵怵,日慎一日,守約守儉,去奢去逸。外無荒禽,內無荒色,唯賢是授,唯人斯恤。則三皇不足六,五帝不足十。若夫恃聖驕力,狠戾倔強,忠良是棄,諂佞斯獎。構崇臺以造天,穿深池以絕壤。厚賦重斂,積寶藏鏹;無罪加刑,有功不賞。則夏桀可二,殷辛易兩。在危所恃,居安勿忘。功臣無逐,故人無放。放故者亡,逐功者喪。四海岌岌,九土漫漫,覆之甚易,存之實難。是以一人有悅,萬國同歡;一人失所,兆庶俱殘。喜則隆冬可熱,怒則盛夏成寒;一動而八表亂,一言而天下安。舉君過者曰忠,述主美者為佞,茍承顏以順旨,必蔽視而稱聖。故使曲者亂直,邪者疑正;改華服以就胡,變雅音而入鄭;雖往古之軌躅,亦當今之龜鏡。崔嵬龍殿,赫奕鳳門,苞四海以稱主,冠天下而獨尊。既兄日而姊月,亦父乾而母坤。視則金翠溢目,聽則絲竹盈耳。信賞罰之在躬,實榮辱之由己;語義皇而易匹,言堯、舜之可擬。驕誌自此而生,侈心因茲而起。常懼覆而懼亡,必思足而思止;勿忘潛龍之初,當懷布衣之始。在位稱寶,居器曰神,鐘鼓庭設,玉帛階陳。得必有兆,失必有因;一替一立,或周或秦。既承前代,當思後人。唯德可以久,天道無常親。

時に李百薬は五言詩を作ることを善くし、偃は賦を作ることを善くした。当時の人は李詩謝賦と称した。十七年、王府が廃されると、出て湘潭令となり、卒した。文集十巻。

原文時李百藥工為五言詩,而偃善作賦,時人稱為李詩謝賦焉。十七年,府廢,出為湘潭令,卒。文集十卷。

崔信明

原文崔信明

崔信明は、青州益都の人であり、後魏の七兵尚書光伯の曾孫である。祖父の縚は、北海郡守であった。信明は五月五日、日の正中の時に生まれた。数頭の異雀があり、身形は甚だ小さく、五色ことごとく備わり、庭の樹に集まった。翼を鼓いて斉しく鳴き、声は清らかで宛らかに亮かった。隋の太史令史良が青州に使いして、これに遇い占って言った、「五月は火であり、火は『離』卦、『離』は文彩である。日正中は、文の盛んなる時である。また雀五色あり、翼を奮って鳴く。この児は必ず文藻煥爛、声名天下に播く。雀の形既に小さいから、禄位は殆ど高からん」。成長すると、博聞強記、筆を下せば章を成した。郷人の高孝基は人を見る鑑識があり、常に人に謂って言った、「崔信明は才学富贍、名は一時を冠するも、但だその位の達せざるを恨む」。

原文崔信明,青州益都人也,後魏七兵尚書光伯曾孫也。祖縚,北海郡守。信明以五月五日日正中時生,有異雀數頭,身形甚小,五色畢備,集於庭樹;鼓翼齊鳴,聲清宛亮。隋太史令史良使至青州,遇而占之曰:「五月為火,火為《離》,《離》為文彩。日正中,文之盛也。又有雀五色,奮翼而鳴。此兒必文藻煥爛,聲名播於天下。雀形既小,祿位殆不高。」及長,博聞強記,下筆成章。鄉人高孝基有知人之鑒,每謂人曰:「崔信明才學富贍,雖名冠一時,但恨其位不達耳!」

大業年間、堯城令となった。竇建徳が僭号し、彼を引用しようとした。信明の族弟の敬素が建徳の鴻臚卿であり、信明に説いて言った、「隋主は道無く、天下鼎沸し、衣冠礼楽、地を掃うて余り無し。兄は下僚に遁跡し、収用されず、豫讓が范中行に報いざる所以は、只だ衆人として我を遇うによる。夏王は英武、天下を併吞するの心有り、士女繈負して至る者、称数す可からず。この時に功を立て事を立たずんば、豈に幾を見て作す者たるべけんや」。信明は言った、「昔、申胥は海畔の漁者なりしも、尚おその節を固くす。吾は終に身を屈して偽主に仕え、斗筲の職を求むる能わず」。遂に城を逾えて遁れ、太行山に隠れた。貞観六年、詔挙に応じ、興世丞に授けられた。秦川令に遷り、卒した。

原文大業中,為堯城令。竇建德僭號,欲引用之。信明族弟敬素為建德鴻臚卿,說信明曰:「隋主無道,天下鼎沸,衣冠禮樂,掃地無余。兄遁跡下僚,不被收用,豫讓所以不報範中行,只以眾人遇我者也。夏王英武,有並吞天下之心,士女繈負而至者,不可稱數。此時不立功立事,豈是見幾而作者乎?」信明曰:「昔申胥海畔漁者,尚能固其節;吾終不能屈身偽主,求斗筲之職。」遂逾城而遁,隱於太行山。貞觀六年,應詔舉,授興世丞。遷秦川令,卒。

信明は頗る蹇傲にして自伐し、常に詩を賦し吟嘯して、自ら李百薬に過ぐると謂ひ、時に人多く之を許さず。又其の門族を矜り、四海の士望を軽侮す、是に由りて世に譏られし。

原文信明頗蹇傲自伐,常賦詩吟嘯,自謂過於李百藥,時人多不許之。又矜其門族,輕侮四海士望,由是為世所譏。

子 冬日

原文子 冬日

子冬日は、則天の時に黄門侍郎となり、酷吏に殺さる。

原文子冬日,則天時為黃門侍郎,被酷吏所殺。

張蘊古

原文張蘊古

張蘊古は、相州洹水の人なり。性聰敏にして、博く書傳に渉り、善く文を綴り、能く碑を背し局を覆す。尤も時務に曉り、州閭に称せらる。幽州総管府記室より直に中書省に至る。太宗初めて即位し、『大寶箴』を上りて以て諷す、其の詞に曰く、

原文張蘊古,相州洹水人也。性聰敏,博涉書傳,善綴文,能背碑覆局。尤曉時務,為州閭所稱。自幽州總管府記室直中書省。太宗初即位,上《大寶箴》以諷,其詞曰:

今来古往、俯察仰観、惟だ辟は福を作す、君と為るは実に難し。主は普天の下に在り、王公の上に処る。任土は其の求むる所を貢ぎ、具僚は其の唱ふる所に和す。是の故に競懼の心日弛み、邪僻の情転放つ、豈に事は忽に起こり、禍は無妄に生ずるを知らんや。固より聖人命を受けて、溺を拯ひ屯を亨し、過を己に帰し、恩を民に推す。大明は偏照無く、至公は私親無し。故に一人を以て天下を治め、天下を以て一人に奉ぜず。礼を以て其の奢を禁じ、楽を以て其の佚を防ぐ。左に言ひ右に事し、出づれば警し入れば蹕す。四時は其の惨舒を同じくし、三光は其の得失を同じくす。故に身を之が度と為し、声を之が律と為す。無知と謂ふ勿れ、高きに居りて卑きを聴く。何の害か有らんと謂ふ勿れ、小を積みて大と成る。楽は極む可からず、極楽は哀を生ず。欲は縦す可からず、縦欲は災を成す。九重を内に壮にすと雖も、居る所は容膝を過ぎず。彼の昏きは知らず、其の臺を瑤にし其の室を瓊にす。八品を前に羅すと雖も、食ふ所は適口を過ぎず。唯だ狂ひて罔念すれば、其の糟を丘にし其の酒を池にす。内に色に荒るる勿れ、外に禽に荒るる勿れ、難得の貨を貴ぶ勿れ、亡国の音を聴く勿れ。内荒は人の性を伐ち、外荒は人の心を蕩し、難得の貨は侈、亡国の声は淫。我尊しと謂ひて賢を傲り士を侮る勿れ、我智しと謂ひて諫を拒み己を矜る勿れ。之を夏王に聞く、饋に拠りて頻りに起つ。亦た魏帝有り、裾を牽きて止まず。彼の反側を安んずるは、春陽秋露の如く、巍巍蕩蕩、漢高の大度を恢す。茲の庶事を撫するは、薄きを履み深きに臨むが如く、戦戦慄慄、周文の小心を用ふ。

原文今來古往,俯察仰觀,惟辟作福,為君實難。主普天之下,處王公之上;任土貢其所求,具僚和其所唱。是故競懼之心日弛,邪僻之情轉放,豈知事起乎所忽,禍生乎無妄。固以聖人受命,拯溺亨屯,歸過於己,推恩於民。大明無偏照,至公無私親。故以一人治天下,不以天下奉一人。禮以禁其奢,樂以防其佚。左言而右事,出警而入蹕。四時同其慘舒,三光同其得失。故身為之度,而聲為之律。勿謂無知,居高聽卑;勿謂何害,積小成大。樂不可極,極樂生哀;欲不可縱,縱欲成災。壯九重於內,所居不過容膝;彼昏不知,瑤其臺而瓊其室。羅八品於前,所食不過適口;唯狂罔念,丘其糟而池其酒。勿內荒於色,勿外荒於禽,勿貴難得之貨,勿聽亡國之音。內荒伐人性,外荒蕩人心,難得之貨侈,亡國之聲淫。勿謂我尊而傲賢侮士,勿謂我智而拒諫矜己。聞之夏王,據饋頻起;亦有魏帝,牽裾不止。安彼反側,如春陽秋露,巍巍蕩蕩,恢漢高大度;撫茲庶事,如履薄臨深,戰戰栗栗,用周文小心。

『詩』に云ふ「不識不知」、『書』に曰く「偏無く党無し」。一に彼此を胸臆にし、好悪を心想に捐つ。衆棄して後に刑を加へ、衆悦して後に賞を命ず。其の強きを弱くし其の乱を治め、其の屈を申し其の枉を直くす。故に曰く「衡の如く石の如く、物を数に定めず、物の懸かる者は、軽重自ら具はる。水の如く鏡の如く、物を情に示さず、物の鑒る者は、妍媸自ら生ず」と。渾渾として濁る勿れ、皎皎として清しとす勿れ、没没として暗しとす勿れ、察察として明らかなる勿れ。冕旒目を蔽ふと雖も未形に視、黈纊耳を塞ぐと雖も無声に聴く。心を湛然の域に縦し、神を至道の精に遊ばしむ。之を扣く者は洪纖に応じて響を效し、之を酌む者は深淺に随ひて皆盈つ。故に曰く、天の清、地の寧、王の貞。四時は言はずして代序し、万物は為さずして成を受く。豈に帝其の力有るを知らんや、而して天下和平す。

原文《詩》云:「不識不知」,《書》曰:「無偏無黨」。一彼此於胸臆,捐好惡於心想。眾棄而後加刑,眾悅而後命賞。弱其強而治其亂,申其屈而直其枉。故曰:「如衡如石,不定物以數,物之懸者,輕重自具;如水如鏡,不示物以情,物之鑒者,妍媸自生。」勿渾渾而濁,勿皎皎而清,勿沒沒而暗,勿察察而明。雖冕旒蔽目而視於未形,雖黈纊塞耳而聽於無聲。縱心乎湛然之域,遊神於至道之精。扣之者應洪纖而效響,酌之者隨深淺而皆盈。故曰:天之清,地之寧,王之貞。四時不言而代序,萬物無為而受成。豈知帝有其力,而天下和平。

吾が王は乱を撥ひ、智力を以て戡く。民其の威を懼れ、未だ其の徳を懐かず。我が皇は運を撫し、淳風を以て扇ぐ。民其の始を懐き、未だ其の終を保たず。爰に金鏡を述べ、神を窮め聖を尽くす。人を心を以て使ひ、言に応じて行ふ。治体を包括し、詞令を抑揚す。天下公を為し、一人慶有り。羅を開きて祝を起し、琴を援きて詩を命ず。一日二日、茲を念ひ茲に在り。唯だ人の召す所、天より之を祐す。争臣は直を司り、敢へて前疑に告ぐ。

原文吾王撥亂,戡以智力,民懼其威,未懷其德。我皇撫運,扇以淳風,民懷其始,未保其終。爰述金鏡,窮神盡聖;使人以心,應言以行。包括治體,抑揚詞令,天下為公,一人有慶。開羅起祝,援琴命詩,一日二日,念茲在茲。唯人所召,自天祐之。爭臣司直,敢告前疑!

太宗之を嘉し、束帛を賜ひ、大理丞を除す。

原文太宗嘉之,賜以束帛,除大理丞。

初め、河内の人李孝徳は、素より風疾有り、而して語妄妖に渉る。蘊古其の獄を究め、好徳癲病徴有りと称し、法坐に当たらずとす。治書侍御史権万紀、蘊古の家相州に住み、好徳の兄厚徳其の刺史為るを劾し、情阿縦に在り、奏事実ならずとす。太宗大いに怒り、曰く「小子乃ち敢て吾が法を乱すか」と。東市に斬らしむ。太宗尋ひて悔ひ、因りて制を発し、凡そ死を決する者は、所司に命じて五たび覆奏せしむ、蘊古より始む。

原文初,河內人李孝德,素有風疾,而語涉妄妖。蘊古究其獄,稱好德癲病有征,法不當坐。治書侍御史權萬紀劾蘊古家住相州,好德之兄厚德為其刺史,情在阿縱,奏事不實。太宗大怒,曰:「小子乃敢亂吾法耶?」令斬於東市。太宗尋悔,因發制,凡決死者,命所司五覆奏,自蘊古始也。

劉胤之

原文劉胤之

劉胤之は、徐州彭城の人なり。祖祎之は、後魏の臨淮鎮将なり。胤之は少くして学業有り、隋の信都丞孫万寿・宗正卿李百薬と忘年の友と為る。武徳中、御史大夫杜淹表して之を薦め、再び信都令に遷り、甚だ恵政を存す。永徽初、累りて著作郎・弘文館学士に転じ、国子祭酒令狐徳棻・著作郎楊仁卿等と、国史及び実録を撰成し、之を奏上し、陽城県男に封ぜらる。尋ひて老を以て、著述に堪へず、出でて楚州刺史と為り、卒す。

原文劉胤之,徐州彭城人也。祖祎之,後魏臨淮鎮將。胤之少有學業,與隋信都丞孫萬壽、宗正卿李百藥為忘年之友。武德中,御史大夫杜淹表薦之,再遷信都令,甚存惠政。永徽初,累轉著作郎、弘文館學士,與國子祭酒令狐德棻、著作郎楊仁卿等,撰成國史及實錄,奏上之,封陽城縣男。尋以老,不堪著述,出為楚州刺史,卒。

從子 延祐

原文從子 延祐

弟子延祐は、弱冠にして本州より進士に挙げられ、累りて渭南尉を補す。刀筆吏能、畿邑当時の冠たり。司空李勣嘗て謂ひて曰く「足下春秋甫爾にして、便ち大名を擅にす、宜しく稍自ら貶抑し、独り人右に出づる無きを為すべし」と。後に右司郎中を歴へ、司賓少卿を検校し、薛県男に封ぜらる。

原文弟子延祐,弱冠本州舉進士,累補渭南尉。刀筆吏能,為畿邑當時之冠。司空李勣嘗謂曰:「足下春秋甫爾,便擅大名,宜稍自貶抑,無為獨出人右也。」後歷右司郎中,檢校司賓少卿,封薛縣男。

徐敬業の乱、揚州初めて平らぎ、所有の刑名、能く決定する莫く、延祐使を奉じて軍所に至り之を決す。時に議者、賊の五品官を受くる者は斬り、六品者は流すと断ず。延祐以為く、諸の元謀に非ず、迫脅して盗に従ふ者は、則ち極刑を置くは、事枉濫に渉ると。乃ち賊の五品を受くる者は流し、六品已下は俱に除名するのみと断ず。其の全済を得る者甚だ衆し。

原文徐敬業之亂,揚州初平,所有刑名,莫能決定,延祐奉使至軍所決之。時議者斷受賊五品官者斬,六品者流。延祐以為諸非元謀,迫脅從盜,則置極刑,事涉枉濫,乃斷受賊五品者流,六品已下俱除名而已。其得全濟者甚眾。

箕州刺史として出向し、安南都護に転じた。嶺南の俚戸は、従来は半額の租税を納めていたが、延祐が到着すると、全額納入を強制した。これによりその配下は皆怨み、謀反を企てようとしたので、延祐はその首謀者李嗣仙を誅殺した。垂拱三年、嗣仙の党与である丁建・李思慎らは、ついに兵を率いて安南府を包囲した。当時、城中の精兵は数百に過ぎず、門を閉ざして堅く守り、隣境の援軍を待った。広州の大族馮子猷は災いを喜び、危難に乗じて功を立てようと企み、兵を抑えて敵を放置し、その害をますます甚だしくさせた。延祐はついに思慎に害された。その後、桂州司馬曹玄静が兵を率いて思慎らを討ち、これを捕らえた。ことごとく安南城下で斬り殺した。

原文出為箕州刺史,轉安南都護。嶺南俚戶,舊輸半課,及延祐到,遂勒全輸。由是其下皆怨,謀欲將叛,延祐乃誅其首惡李嗣仙。垂拱三年,嗣仙黨與丁建、李思慎等,遂率眾圍安南府。時城中勝兵不過數百,乃禁門堅守,以候鄰境之援。廣州大族馮子猷幸災樂禍,欲因危立功,遂按兵縱敵,使其為害滋甚。延祐遂為思慎所害。其後桂州司馬曹玄靜率兵討思慎等,擒之。盡斬於安南城下。

従父兄の子 蔵器

原文從父兄子 藏器

胤之の従父兄の子蔵器もまた文才があり、官は宋州司馬に至った。蔵器の子知柔は、開元初年に工部尚書となった。知柔の弟知幾は、玄宗の諱を避けて子玄と改めた。別に伝がある。

原文胤之從父兄子藏器,亦有詞學,官至宋州司馬。藏器子知柔,開元初,為工部尚書。知柔弟知幾,避玄宗名改子玄。自有傳。

張昌齢

原文張昌齡

張昌齢は、冀州南宮の人である。弱冠にして文詞で名を知られた。本州が秀才として推挙しようとしたが、昌齢はこの科が当時廃止されて久しいことを理由に固辞した。そこで進士の貢挙に充てられて及第した。貞観二十一年、翠微宮が完成すると、宮闕に赴いて頌を献上した。太宗は召見し、『息兵詔』の草稿を作るよう試させると、たちまちにして完成した。太宗は大いに喜び、彼に言った。「昔、禰衡・潘嶽は皆、才を恃んで物に傲り、非命に至った。汝の才は二賢に劣らない。前車の鑑とすべきである。我が採用に応えよ。」そこで通事舎人裏供奉に任じるよう命じた。まもなく昆山道行軍記室となり、盧明月を破り、亀茲を平定し、軍書や露布は皆、昌齢の文であった。再び転じて長安尉となり、出向して襄州司戸となったが、喪に服して官を去った。後に賀蘭敏之が奏上して北門修撰に引き立てたが、まもなくまた罷免された。乾封元年に卒した。文集二十巻。

原文張昌齡,冀州南宮人。弱冠以文詞知名。本州欲以秀才舉之,昌齡以時廢此科已久,固辭。乃充進士貢舉及第。貞觀二十一年,翠微宮成,詣闕獻頌。太宗召見,試作《息兵詔》草,俄頃而就。太宗甚悅,因謂之曰:「昔禰衡、潘嶽,皆恃才傲物,以至非命。汝才不減二賢,宜追鑒前軌,以副吾所取也。」乃敕於通事舍人裏供奉。尋為昆山道行軍記室,破盧明月,平龜茲,軍書露布,皆昌齡之文也。再轉長安尉,出為襄州司戶,丁憂去官。後賀蘭敏之奏引於北門修撰,尋又罷去。乾封元年卒。文集二十卷。

兄 昌宗

原文兄 昌宗

兄の昌宗もまた学業があり、官は太子舎人・修文館学士に至った。『古文紀年新伝』三十巻を撰した。

原文兄昌宗,亦有學業,官至太子舍人、修文館學士。撰《古文紀年新傳》三十卷。

崔行功

原文崔行功

崔行功は、恆州井陘の人で、北齊の鉅鹿太守伯譲の曾孫であり、博陵から移り住んだ。行功は若くして学を好み、中書侍郎唐儉はその才能を愛で、娘を妻とさせた。儉が前後して征討する際のすべての文表は、行功の文であった。高宗の時、累転して吏部郎中となった。上奏に巧みであったため、かつて通事舎人・内供奉を兼ねた。事に坐して遊安令に貶せられたが、まもなく召されて司文郎中となった。当時、朝廷の大手筆は、多くが行功及び蘭臺侍郎李懷儼の詞であった。

原文崔行功,恆州井陘人,北齊鉅鹿太守伯讓曾孫也,自博陵徙家焉。行功少好學,中書侍郎唐儉愛其才,以女妻之。儉前後征討,所有文表,皆行功之文。高宗時,累轉吏部郎中。以善敷奏,嘗兼通事舍人、內供奉。坐事貶為遊安令,尋征為司文郎中。當時朝廷大手筆,多是行功及蘭臺侍郎李懷儼之詞。

先に、太宗は秘書監魏徴に命じて四部群書を写させ、内貯庫に進めんとし、別に讐校二十人・書手百人を置いた。魏徴が職を改めた後、虞世南・顔師古らにその事業を継続させた。高宗の初年に至っても、その功は未だ完了しなかった。顕慶年中、讐校及び御書手を廃止し、書に巧みな者に繕写させ、その価を計って報酬とし、散官を選んで番に随って讐校させた。その後また詔して、東臺侍郎趙仁本・東臺舎人張文瓘及び行功・懷儼らを相次いで使として充てて検校させた。また詳正学士を置いて校理させ、行功は引き続き御集を専管した。蘭臺侍郎に遷った。

原文先是,太宗命秘書監魏征寫四部群書,將進內貯庫,別置讎校二十人、書手一百人。征改職之後,令虞世南、顏師古等續其事。至高宗初,其功未畢。顯慶中,罷讎校及御書手,令工書人繕寫,計直酬傭,擇散官隨番讎校。其後又詔東臺侍郎趙仁本、東臺舍人張文瓘及行功、懷儼等相次充使檢校。又置詳正學士以校理之,行功仍專知御集。遷蘭臺侍郎。

咸亨年中、官名が旧に復し、秘書少監に改められた。上元元年、官にて卒した。集六十巻がある。兄の子玄暐は、別に伝がある。

原文咸亨中,官名復舊,改為秘書少監。上元元年,卒官。有集六十卷。兄子玄暐,別有傳。

行功は前後して『晋書』及び『文思博要』などの撰修に参与した。同時にまた孟利貞・董思恭・元思敬らがおり、皆、文藻で名を知られた。

原文行功前後預撰《晉書》及《文思博要》等。同時又有孟利貞、董思恭、元思敬等,並以文藻知名。

附 孟利貞

原文附 孟利貞

孟利貞は、華州華陰の人である。父の神慶は、高宗の初年に沁州刺史となり、清廉で節操があることで著名であった。利貞は初め太子司議郎となり、中宗が東宮にあった時、深くこれを懼れた。詔を受けて少師許敬宗・崇賢館学士郭瑜・顧胤・董思恭らとともに『瑤山玉彩』五百巻を撰した。龍朔二年に奏上すると、高宗は善しと称し、等級を加え、物を賜うことに差等があった。利貞は累転して著作郎となり、弘文館学士を加えられた。垂拱初年に卒した。また『続文選』十三巻を撰した。

原文孟利貞者,華州華陰人也。父神慶,高宗初為沁州刺史,以清介著名。利貞初為太子司議郎,中宗在東宮,深懼之。受詔與少師許敬宗、崇賢館學士郭瑜、顧胤、董思恭等撰《瑤山玉彩》五百卷。龍朔二年奏上之,高宗稱善,加級賜物有差。利貞累轉著作郎,加弘文館學士。垂拱初卒。又撰《續文選》十三卷。

兄 允忠

原文兄 允忠

兄の允忠は、垂拱年間に天官侍郎となった。

原文兄允忠,垂拱中為天官侍郎。

(附)董思恭

原文附 董思恭

董思恭は、蘇州呉の人である。著した詩文は、当時の人々に大いに重んじられた。初め右史となり、考功挙事を管掌したが、問目を事前に漏洩した罪に坐し、嶺表に配流されて死んだ。

原文董思恭者,蘇州吳人。所著篇詠,甚為時人所重。初為右史,知考功舉事,坐預泄問目,配流嶺表而死。

(附)元思敬

原文附 元思敬

元思敬は、総章年間に協律郎となった。『芳林要覧』の編修に参与し、また『詩人秀句』二巻を撰して、世に伝わった。

原文元思敬者,總章中為協律郎。預修《芳林要覽》,又撰《詩人秀句》兩卷,傳於世。

徐齊聃

原文徐齊聃

徐齊聃は、湖州長城の人である。父の孝徳は、娘が才人となったため、果州刺史に至った。齊聃は若くして文章を作るのが巧みで、高宗の時に累進して蘭臺舎人となった。時に詔勅により突厥の酋長の子弟が東宮に仕えることとなり、齊聃は上疏して言った。

原文徐齊聃,湖州長城人也。父孝德,以女為才人,官至果州刺史。齊聃少善屬文,高宗時累遷蘭臺舍人。時敕令有突厥酋長子弟事東宮,齊聃上疏曰:

昔、姬誦(成王)は伯禽と共に学び、晋の太子は師曠を友とした。これは単に師資に頼るのみならず、近習を詳しく観察するためでもあった。皇太子は自ら園公・綺里季のような者を招き、応瑒・劉楨のような者を日夜思慕すべきである。階闥に仕える小臣は、必ず端士から採り、駆使する任に当たる者は、皆正人に帰すべきである。こうして善を好む風を広め、賢を崇ぶ美を永く伝えるのである。今、氈裘の子(突厥の者)に辮髪を解かせて春闈に侍らせ、冒頓の末裔に衣の襟を改めさせて望苑に陪せしめるのは、道義の点から、臣は疑わしく思う。詩に云う、「威儀を敬慎し、以て有徳に近づく」と。書に云う、「官に任ずるは惟れ賢才、左右は惟れ其人」と。これはここに殷勤たる、微を防ぐ極みである。

原文昔姬誦與伯禽同業,晉儲以師曠為友,匪唯專賴師資,固亦詳觀近習。皇太子自可招集園、綺,寤寐應、劉。階闥小臣,必采於端士;驅馳所任,並歸於正人。方流好善之風,永播崇賢之美。今乃使氈裘之子,解辮而侍春闈;冒頓之苗,削袵而陪望苑。在於道義,臣竊有疑。詩云:「敬慎威儀,以近有德。」《書》曰:「任官惟賢才,左右惟其人。」蓋殷勤於此,防微之至也。

齊聃はまたかつて上奏して言った。「斉献公は即ち陛下の外戚(母方の先祖)であられます。その子孫に罪があっても、祖にまで及ぼすべきではありません。今、周忠孝公(武士彠)の廟は大いに修造崇拝されているのに、斉献公の廟は急に毀損廃棄されています。陛下がこれをもって如何にして海内に重く示し、孝理の風を顕わそうとされるのか、審らかではありません。」帝は皆その言を容れた。

原文齊聃又嘗上奏曰:「齊獻公即陛下外氏,雖子孫有犯,不合上延於祖。今周忠孝公廟甚修崇,而齊獻公廟遽毀壞,不審陛下將何以重示海內,以彰孝理之風?」帝皆納其言。

齊聃は詔誥の文を作るのに巧みで、当時大いに称賛された。高宗はその文を愛で、周王らに文章を教えさせたが、職務が枢要で多忙なため、詔して一日おきに往来させた。機密を漏洩した罪により、左遷されて蘄州司馬となった。まもなくまた事に坐して欽州に配流された。咸亨年間に卒した。年四十余。睿宗が即位すると、旧恩を追録し、累贈して礼部尚書とした。

原文齊聃善於文誥,甚為當時所稱。高宗愛其文,令侍周王等屬文,以職在樞劇,仍敕間日來往焉。以漏泄機密,左授蘄州司馬。俄又坐事配流欽州。咸亨中卒,年四十余。睿宗即位,追錄舊恩,累贈禮部尚書。

子の堅は、別に伝がある。

原文子堅,別有傳。

杜易簡

原文杜易簡

杜易簡は、襄州襄陽の人で、周の硤州刺史叔毗の曾孫である。九歳で文章を作ることができ、成長すると、博学で高い名声があった。姨兄の中書令岑文本は大いにこれを推重した。進士に及第し、累転して殿中侍御史となった。咸亨年間に、考功員外郎となった。時に吏部侍郎裴行儉と李敬玄は互いに不和で、易簡は吏部員外郎賈言忠と共に行儉の意を迎え、封事を上って敬玄の罪状を陳べた。高宗はその朋党を憎み、易簡を左遷して開州司馬とし、まもなく卒した。

原文杜易簡,襄州襄陽人,周硤州刺史叔毗曾孫也。九歲能屬文,及長,博學有高名。姨兄中書令岑文本甚推重之。登進士第,累轉殿中侍御史。咸亨中,為考功員外郎。時吏部侍郎裴行儉、李敬玄相與不葉,易簡與吏部員外郎賈言忠希行儉之旨,上封陳敬玄罪狀。高宗惡其朋黨,左轉易簡為開州司馬,尋卒。

易簡は著述にかなり長じ、『御史臺雑註』五巻、文集二十巻を撰し、世に行われた。

原文易簡頗善著述,撰《御史臺雜註》五卷,文集二十卷,行於代。

易簡の従祖弟は審言である。

原文易簡從祖弟審言。

従祖弟いとこに審言あり。

原文從祖弟 審言

審言は進士に挙げられ、初め隰城尉となった。五言詩をよくし、書翰に巧みで、才能の名があった。しかし才能を恃んで傲慢であり、当時の人々に甚だ嫉まれた。乾封年間、蘇味道が天官侍郎となったとき、審言は選に預かった。試判が終わると、人に言うには、「蘇味道は必ず死ぬであろう。」人がその故を問うと、審言は言うには、「わが判を見れば、自ら羞じて死ぬであろう。」またかつて人に言うには、「わが文章は、屈原・宋玉に衙官(下僚)を為さしめるに合い、わが書跡は、王羲之に北面(弟子となる)させるに合う。」その驕慢なことこのようであった。

原文審言,進士舉,初為隰城尉。雅善五言詩,工書翰,有能名。然恃才謇傲,甚為時輩所嫉。乾封中,蘇味道為天官侍郎,審言預選。試判訖,謂人曰:「蘇味道必死。」人問其故,審言曰:「見吾判,即自當羞死矣!」又嘗謂人曰:「吾之文章,合得屈、宋作衙官;吾之書跡,合得王羲之北面。」其矜誕如此。

累ねて転じて洛陽丞となった。事に坐して貶され、吉州司戸参軍を授けられた。また州の僚属と和せず、司馬周季重と員外司戸郭若訥が共に審言の罪状を捏造し、獄に繋ぎ、事に因って彼を殺そうとした。やがて季重らが府中で酒宴を催していると、審言の子の並、年十三、刃を懐いてこれを撃った。季重は傷ついて死に、並もまた左右の者に殺された。季重は臨終に言うには、「私は審言に孝子がいることを知らなかった。郭若訥が私をここまで誤らせたのだ。」審言はこのため官を免ぜられ、東都に帰り、自ら文を作って並を祭った。士友は皆並の孝烈を哀しみ、蘇颋が墓誌を書き、劉允濟が祭文を作った。後に則天武后が審言を召し見て、擢用しようとした。問うて言うには、「卿は喜ぶか。」審言は舞踏して謝恩した。そこで『歓喜詩』を作らせると、甚だ嘉賞され、著作佐郎に拝された。まもなく膳部員外郎に遷った。神龍初年、張易之兄弟と交際した罪に坐し、嶺外に配流された。まもなく召されて国子監主簿を授けられ、修文館直学士を加えられた。六十余歳で卒した。文集十巻あり。

原文累轉洛陽丞。坐事貶授吉州司戶參軍。又與州僚不葉,司馬周季重與員外司戶郭若訥共構審言罪狀,繫獄,將因事殺之。既而季重等府中酣宴,審言子並年十三,懷刃以擊之。季重中傷死,而並亦為左右所殺。季重臨死曰:「吾不知審言有孝子,郭若訥誤我至此!」審言因此免官,還東都,自為文祭並。士友鹹哀並孝烈,蘇颋為墓誌,劉允濟為祭文。後則天召見審言,將加擢用。問曰:「卿歡喜否?」審言蹈舞謝恩。因令作《歡喜詩》,甚見嘉賞,拜著作佐郎。俄遷膳部員外郎。神龍初,坐與張易之兄弟交往,配流嶺外。尋召授國子監主簿,加修文館直學士。年六十余卒。有文集十卷。

次子は閑。閑の子は甫、別に伝あり。

原文次子閑。閑子甫,別有傳。

盧照鄰

原文盧照鄰

盧照鄰、字は升之、幽州范陽の人である。十余歳の時、曹憲・王義方に就いて『蒼頡篇』・『爾雅』および経史を授けられ、博学で文章をよくした。初め鄧王府の典籤に任じられ、王は甚だこれを愛重し、かつて群官に言うには、「これ即ち寡人の司馬相如である。」後に新都尉に拝された。風疾に罹ったため官を去り、太白山中に処り、服餌を事とした。後に病が転じて重くなり、陽翟の具茨山に移り住み、『釈疾文』・『五悲』などを著述した。頗る騒人(屈原)の風があり、文士に甚だ重んぜられた。

原文盧照鄰,字升之,幽州范陽人也。年十余歲,就曹憲、王義方授《蒼》、《雅》及經史,博學善屬文。初授鄧王府典簽,王甚愛重之,曾謂群官曰:「此即寡人相如也。」後拜新都尉。因染風疾去官,處太白山中,以服餌為事。後疾轉篤,徙居陽翟之具茨山,著《釋疾文》、《五悲》等誦。頗有騷人之風,甚為文士所重。

照鄰は既に重い病で手足が萎え廃れ、その苦しみに堪えず、かつて親属と別れを執り、遂に自ら潁水に投身して死んだ。時に四十歳。文集二十巻。

原文照鄰既沈痼攣廢,不堪其苦,嘗與親屬執別,遂自投潁水而死,時年四十。文集二十卷。

兄に光乘あり。

原文兄 光乘

兄の光乗もまた知名で、長寿年間に隴州刺史となった。

原文兄光乘,亦知名,長壽中為隴州刺史。

楊炯

原文楊炯

楊炯、華陰の人。伯祖の虔威は、武徳年間に官は右衛将軍に至った。炯は幼くして聡敏博学で、文章をよくした。神童に挙げられ、校書郎に拝され、崇文館学士となった。儀鳳年間、太常博士蘇知幾が上表し、公卿以下の冕服について、別に節文を立てることを請うた。勅が下って有司に詳議させると、炯が議を献じて言うには、

原文楊炯,華陰人。伯祖虔威,武德中官至右衛將軍。炯幼聰敏博學,善屬文。神童舉,拜校書郎,為崇文館學士。儀鳳中,太常博士蘇知幾上表,以公卿已下冕服,請別立節文。敕下有司詳議,炯獻議曰:

古えには太昊庖羲氏あり、仰いでは象を観、俯しては法を察し、書契を造りて文籍生ず。次に黄帝軒轅氏あり、長じて敦敏、成りて聰明、衣裳を垂れて天下理まる。その後数たび五徳遷り、君は一姓に非ず、国を体し野を経、邦を建て都を設く、文質は再びして復する所以、正朔は三たびして改まる所以なり。夫れ正朔を改むるとは、夏后氏の寅を建つるを謂い、殷人は丑を建て、周人は子を建つるなり。日に月を系ぎ、月に時を系ぎ、時に年を系ぐるに至りては、これ三王相襲うの道なり。夫れ服色を易うるとは、夏后氏は黒を尚び、殷人は白を尚び、周人は赤を尚ぶを謂う。山・龍・華蟲・宗彜・藻・火・粉米・黼・黻に至りては、これまた百代知るべきの道なり。謹んで按ずるに《虞書》に曰く、「予古人之象を観んと欲す、日・月・星辰・山・龍・華蟲会を作し、宗彜・藻・火・粉米・黼・黻・絺繡す」と。これに由りて言えば、則ちその由来する所尚しきかな。日月星辰は、明らかな光下土を照らすなり。山は、雲雨を布散し、聖王の大沢下に沾うに象るなり。龍は、変化方無く、聖王の時に応じて教えを布くに象るなり。華蟲は、雉なり、身五彩を被り、聖王の体文明を兼ぬるに象るなり。宗彜は、武蜼なり、剛猛を以て物を制し、聖王の神武乱を定むるに象るなり。藻は、水に逐いて上下し、聖王の代に随いて応ずるに象るなり。火は、陶冶烹飪し、聖王の至徳日々に新たなるに象るなり。粉米は、人これに恃りて生く、聖王の物の頼る所たるに象るなり。黼は断割能くし、聖王の事に臨みて能く決するに象るなり。黻は、両己相背き、君臣可否相済すに象るなり。周氏に至りて、乃ち日月星辰を以て旌旗の節と為し、又龍を山に登せ、火を宗彜に登せ、ここにおいて袞冕を制して以て先王を祀るなり。九章は、陽数を法とす、龍を以て首章と為す。袞は、巻なり、龍の徳神異、応変潜見し、聖王の深識遠智、神化を巻舒するを表すなり。又柷冕を制して以て先公を祭るなり。柷は、雉なり、耿介の志有り、公に賢才有りて能く耿介の節を守るを表すなり。又毳冕を制して以て四望を祭るなり。四望は、嶽瀆の神なり。武蜼は、山林に生ず、その象を明らかにすなり。絺冕を制して以て社稷を祭るなり。社稷は、土谷の神なり。粉米これに由りて成り、その功を象るなり。又玄冕を制して以て群小祀を祭るなり。百神形を異にし、遍く擬し難し、但だ黻の相背くを取り、異名を昭らかにすなり。夫れ周公の多才を以てす、故に治定まりて礼を制し、功成りて楽を作す。夫れ孔宣の将聖を以てす、故に夏の時を行い、周の冕を服す。先王の法服は、乃ちこれより自ら出ず。天下の能事は、またここにおいて畢わるなり。今知幾表状を上して大明冕十三章を制し、乗輿これを服せしむるを請う。謹んで按ずるに、日月星辰は、既に旌旗に施せり。龍武山火は、また古を逾えず。而るに雲麟鳳に四霊の名有り、玄亀に負図の応有り、雲に紀官の号有り、水に盛徳の祥有り、これ別に休徴を表す蓋し、終には比象を逾ゆること無し。然らば則ち皇王命を受くれば、天地符を興し、仰ぎ観れば則ち璧合し珠連し、俯して察すれば則ち銀黄し玉紫す。南宮の粉壁を殫くすも、その形状を写すに足らず。東観の鉛黄を罄くすも、その名実を紀すべからず。固より法服に畢く陳ぶべからず。雲は、龍の気なり。水は、藻の自ら生ずる所なり。また別に章目を為すを仮らず、これ蓋し不経の甚だしきなり。又鸞冕八章、三公これを服す。鸞は、太平の瑞なり、三公の徳に非ず。鷹鹯は、鷙鳥なり、適に祥刑の職を弁ずるに可し。熊羆は、猛獣なり、適に武臣の力を旌ぐるに可し。又藻を称して水草と為し、法象する所無しとし、張衡の賦「蒂倒茄於藻井、披紅葩之狎獵」を引き、蓮華を為さんことを請い、その文彩を取る。夫れ茄は、蓮なり。若し蓮を以て藻に代え、古を変えて今に従わば、既に草木の名を知らず、また文章の意に達せず、これまた不経の甚だしきなり。又毳冕六章、三品これを服す。これを按ずるに、これ王者四望を祀るに服するの名なり。今三品乃ち王の毳冕に同じくするを得て、三公は王の袞名に同じくするを得ず、豈に唯だ衣裳を顛倒するのみならんや、抑も亦自ら矛盾す、これまた不経の甚だしきなり。又黻冕四章、五品これを服す。これを古に考うれば則ちその名無く、今に験うれば則ち章首に非ず、これまた不経の甚だしきなり。若し夫れ礼は唯だ俗に従うのみとせば、則ち命を制と為し、令を詔と為すは、乃ち秦皇の故事、猶以て今に適すべし。若し夫れ義は時に随いて取るとせば、則ち出でては警と称し、入りては蹕と称すは、乃ち漢国の旧儀、猶以て代に行わるべし。また何ぞ周公の軌物を変え、宣尼の法度を改むるを取らんや。

原文古者太昊庖羲氏,仰以觀象,俯以察法,造書契而文籍生。次有黃帝軒轅氏,長而敦敏,成而聰明,垂衣裳而天下理。其後數遷五德,君非一姓,體國經野,建邦設都,文質所以再而復,正朔所以三而改。夫改正朔者,謂夏后氏之建寅,殷人建丑,周人建子。至於以日系月,以月系時,以時系年,此三王相襲之道也!夫易服色者,謂夏后氏尚黑,殷人尚白,周人尚赤。至於山、龍、華蟲、宗彜、藻、火、粉米、黼、黻,此又百代可知之道。謹按《虞書》曰:「予欲觀古人之象,日、月、星辰、山、龍、華蟲作會,宗彜、藻、火、粉米、黼、黻、絺繡。」由此言之,則其所從來者尚矣。日月星辰者,明光照下土也。山者,布散雲雨,象聖王大澤沾下也。龍者,變化無方,象聖王應時布教也。華蟲者,雉也,身被五彩,象聖王體兼文明也。宗彜者,武蜼也,以剛猛制物,象聖王神武定亂也。藻者,逐水上下,象聖王隨代而應也。火者,陶冶烹飪,象聖王至德日新也。粉米者,人恃以生,象聖王為物之所賴也。黼能斷割,象聖王臨事能決也。黻者,兩己相背,象君臣可否相濟也。迨有周氏,乃以日月星辰為旌旗之節,又登龍於山,登火於宗彜,於是乎制袞冕以祀先王也。九章者,法陽數也,以龍為首章。袞者,卷也,龍德神異,應變潛見,表聖王深識遠智,卷舒神化也。又制柷冕以祭先公也。柷者,雉也,有耿介之誌,表公有賢才,能守耿介之節也。又制毳冕以祭四望也。四望者,嶽瀆之神也。武蜼者,山林所生,明其象也。制絺冕以祭社稷也。社稷者,土谷之神也。粉米由之而成,象其功也。又制玄冕以祭群小祀也。百神異形,難可遍擬,但取黻之相背,昭異名也。夫以周公之多才也,故治定制禮,功成作樂。夫以孔宣之將聖也,故行夏之時,服周之冕。先王之法服,乃此之自出矣;天下之能事,又於是乎畢矣。今知幾表狀請制大明冕十三章,乘輿服之者。謹按,日月星辰者,已施於旌旗矣。龍武山火者,又不逾於古矣。而雲麟鳳有四靈之名,玄龜有負圖之應,雲有紀官之號,水有盛德之祥,此蓋別表休征,終是無逾比象。然則皇王受命,天地興符,仰觀則璧合珠連,俯察則銀黃玉紫。殫南宮之粉壁,不足寫其形狀;罄東觀之鉛黃,未可紀其名實。固不可畢陳於法服也。雲者,龍之氣也;水者,藻之自生也。又不假別為章目,此蓋不經之甚也!又鸞冕八章,三公服之者。鸞者,太平之瑞也,非三公之德也。鷹鹯者,鷙鳥也,適可以辨祥刑之職也。熊羆者,猛獸也,適可以旌武臣之力也。又稱藻為水草,無所法象,引張衡賦「蒂倒茄於藻井,披紅葩之狎獵」,請為蓮華,取其文彩者。夫茄者,蓮也。若以蓮代藻,變古從今,既不知草木之名,亦未達文章之意,此又不經之甚也!又毳冕六章,三品服之者。按此王者祀四望服之名也。今三品乃得同王之毳冕,而三公不得同王之袞名,豈唯顛倒衣裳,抑亦自相矛盾,此又不經之甚也!又黻冕四章,五品服之者。考之於古,則無其名;驗之於今,則非章首,此又不經之甚也!若夫禮唯從俗,則命為制,令為詔,乃秦皇之故事,猶可以適於今矣!若夫義取隨時,則出稱警,入稱蹕,乃漢國之舊儀,猶可以行於代矣。亦何取變周公之軌物,改宣尼之法度者哉!

ここにおいて竟に知幾の請う所を寢す。

原文由是竟寢知幾所請。

俄かに詹事司直に遷る。則天の初め、従祖弟神譲の逆を犯すに坐し、左遷されて梓州司法参軍と為る。秩満し、選授されて盈川令と為る。如意元年七月望日、宮中より盂蘭盆を出だし、分ち送りて仏寺にす、則天洛南門に禦し、百僚とこれを見る。炯《盂蘭盆賦》を献じ、詞甚だ雅麗なり。炯官に至り、政を為すに残酷、人吏動も如意ならざれば、輒ち搒殺す。又居る所の府舎、多く進士の亭臺を進め、皆榜額に書し、これが美名を為し、大いに遠近の笑う所と為る。無何官に卒す。中宗即位し、旧僚を以て追贈して著作郎と為す。文集三十巻。

原文俄遷詹事司直。則天初,坐從祖弟神讓犯逆,左轉梓州司法參軍。秩滿,選授盈川令。如意元年七月望日,宮中出盂蘭盆,分送佛寺,則天禦洛南門,與百僚觀之。炯獻《盂蘭盆賦》,詞甚雅麗。炯至官,為政殘酷,人吏動不如意,輒搒殺之。又所居府舍,多進士亭臺,皆書榜額,為之美名,大為遠近所笑。無何卒官。中宗即位,以舊僚追贈著作郎。文集三十卷。

炯は王勃・盧照鄰・駱賓王と文詞を以て斉しく名をなし、海内これを王楊盧駱と称し、亦「四傑」と号す。炯これを聞き、人に謂いて曰く、「吾れ盧の前に在るを愧じ、王の後に居るを恥ず」と。当時の議者、亦以て然りと為す。

原文炯與王勃、盧照鄰、駱賓王以文詞齊名,海內稱為王楊盧駱,亦號為「四傑」。炯聞之,謂人曰:「吾愧在盧前,恥居王後。」當時議者,亦以為然。

その後崔融・李嶠・張説倶に四傑の文を重んず。崔融曰く、「王勃の文章宏逸、絶塵の跡有り、固より常流の及ぶ所に非ず。炯と照鄰はこれに企うべし、盈川の言信なり」と。説曰く、「楊盈川の文思は懸河の水に注ぐが如く、これを酌めども竭きず、既に盧に優り、また王に減ぜず。『王の後に居るを恥ず』は、信なり。『盧の前に在るを愧ず』は、謙なり」と。

原文其後崔融、李嶠、張說俱重四傑之文。崔融曰:「王勃文章宏逸,有絕塵之跡,固非常流所及。炯與照鄰可以企之,盈川之言信矣!」說曰:「楊盈川文思如懸河註水,酌之不竭,既優於盧,亦不減王。『恥居王後』,信然;『愧在盧前』,謙也。」

開元中、説は集賢大学士と為ること十余年。常に学士徐堅と近代の文士を論じ、その雕喪を悲しむ。堅曰く、「李趙公・崔文公の筆術、一時に価を擅にす、その間孰れか優れる」と。説曰く、「李嶠・崔融・薛稷・宋之問の文は、良金美玉の如く、施すべからざる無し。富嘉謨の文は、孤峰絶岸の如く、壁立万仞、濃雲郁興し、震雷倶に発す、誠に畏るべし、若し廊廟に施せば則ち駭るべし。閻朝隠の文は、麗服靚〓荘の如く、燕歌趙舞、観者疲れを忘る、若し風・雅に類せば則ち罪人なり」と。後進の詞人の優劣を問うと、説曰く、「韓休の文は、大羹旨酒の如く、雅に典則有り、而して滋味に薄し。許景先の文は、豊肌膩理の如く、穠華可愛と雖も、而して微かに風骨少なし。張九齢の文は、軽縑素練の如く、実に時用を済し、而して微かに辺幅に窘し。王翰の文は、瓊杯玉斝の如く、爛然として珍むべしと雖も、多く玷缺有り」と。堅以て然りと為す。

原文開元中,說為集賢大學士十余年。常與學士徐堅論近代文士,悲其雕喪。堅曰:「李趙公、崔文公之筆術,擅價一時,其間孰優?」說曰:「李嶠、崔融、薛稷、宋之問之文,如良金美玉,無施不可。富嘉謨之文,如孤峰絕岸,壁立萬仞,濃雲郁興,震雷俱發,誠可畏也,若施於廊廟,則駭矣!閻朝隱之文,如麗服靚〓莊,燕歌趙舞,觀者忘疲,若類之風、雅,則罪人矣!」問後進詞人之優劣,說曰:「韓休之文,如大羹旨酒,雅有典則,而薄於滋味。許景先之文,如豐肌膩理,雖穠華可愛,而微少風骨。張九齡之文,如輕縑素練,實濟時用,而微窘邊幅。王翰之文,如瓊懷玉斝,雖爛然可珍,而多有玷缺。」堅以為然。

従父 徳幹

原文從父 德幹

虔威の子は徳幹、高宗の末年に、澤・齊・汴・相の四州刺史を歴任し、治績に威名があり、郡人はこれについて語って言うには、「三斗の蒜を食らうとも、楊徳幹に逢わざれ」と。

原文虔威子德幹,高宗末,歷澤、齊、汴、相四州刺史,治有威名,郡人為之語曰:「寧食三斗蒜,不逢楊德幹。」

徳幹の子は神讓。

原文德幹子 神讓

子の神讓は、天授の初めに徐敬業と揚州において謀叛を企て、父子ともに誅殺された。

原文子神讓,天授初與徐敬業於揚州謀叛,父子伏誅。

王勃

原文王勃

王勃。字は子安、絳州龍門の人。祖父の通は、隋の蜀しょく郡司戸書佐であった。大業の末に、官を棄てて帰り、著書講学を業とした。『春秋』の体例に依り、獲麟以後、秦・漢より後魏に至るまで、紀年の書を著し、これを『元経』と謂う。また『孔子家語』・揚雄の『法言』の例に依り、客主の対答の説を為し、号して『中説』と曰う。いずれも儒士に称せられた。義寧元年に卒し、門人の薛收ら相い議りて謚して文中子と曰う。二子あり:福畤・福郊。

原文王勃。字子安,絳州龍門人。祖通,隋蜀郡司戶書佐。大業末,棄官歸,以著書講學為業。依《春秋》體例,自獲麟後,歷秦、漢至於後魏,著紀年之書,謂之《元經》。又依《孔子家語》、揚雄《法言》例,為客主對答之說,號曰《中說》。皆為儒士所稱。義寧元年卒,門人薛收等相與議謚曰文中子。二子:福畤、福郊。

勃は六歳にして文を綴ることを解し、構思に滞りなく、詞情英邁にして、兄の勔・勮と才藻相類であった。父の友の杜易簡は常にこれを称して言うには、「これ王氏の三珠樹なり」と。勃は年未だ冠に及ばず、幽素挙に応じて及第した。乾封の初め、闕に詣でて『宸遊東嶽頌』を上る。時に東都に乾元殿を造営し、また『乾元殿頌』を上る。沛王の賢その名を聞き、召して沛府修撰と為し、甚だこれを愛重した。諸王の闘鶏、互いに勝負あり、勃戯れて『檄英王鶏文』を為す。高宗これを見て、怒って曰く、「これに拠れば是れ交構の漸なり」と。即日勃を斥け、府に入ることを許さず。久しくして、虢州参軍を補す。

原文勃六歲解屬文,構思無滯,詞情英邁,與兄勔、勮,才藻相類。父友杜易簡常稱之曰:「此王氏三珠樹也。」勃年未及冠,應幽素舉及第。乾封初,詣闕上《宸遊東嶽頌》。時東都造乾元殿,又上《乾元殿頌》。沛王賢聞其名,召為沛府修撰,甚愛重之。諸王鬥雞,互有勝負,勃戲為《檄英王雞文》。高宗覽之,怒曰:「據此是交構之漸。」即日斥勃,不令入府。久之,補虢州參軍。

勃は才を恃みて物に傲り、同僚に嫉まれた。官奴の曹達が罪を犯し、勃これを匿い、また事の泄るるを懼れ、乃ち達を殺して口を塞ぐ。事発し、誅に当たるべく、赦に会い名を除かれた。時に勃の父福畤は雍州司戸参軍たり、勃に坐して交趾令に左遷された。上元二年、勃交趾に往きて父を省み、道江中に出で、『采蓮賦』を為して意を見す。その辞甚だ美なり。南海を渡り、水に堕ちて卒す。時に年二十八。

原文勃恃才傲物,為同僚所嫉。有官奴曹達犯罪,勃匿之,又懼事泄,乃殺達以塞口。事發,當誅,會赦除名。時勃父福畤為雍州司戶參軍,坐勃左遷交趾令。上元二年,勃往交趾省父,道出江中,為《采蓮賦》以見意,其辭甚美。渡南海,墮水而卒,時年二十八。

苾は、弱冠にして進士に登第し、累ねて太子典膳丞を除かれる。長寿年中、擢て鳳閣舎人と為る。時に寿春王成器・衡陽王成義ら五王初めて出閣し、同日に冊を授かる。有司儀註を撰すも、冊文を載するを忘る。及び百僚列に在りて、方に礼の欠くるを知り、宰相相顧みて色を失う。苾直ちに書吏五人を召し、各々筆を執らしめ、口に占めて分ち書きせしめ、一時に倶に畢る。詞理典贍にして、人皆嘆服す。尋いで弘文館学士を加え、天官侍郎を兼ね知る。苾は頗る権勢に任じ、非類と交結す。万歳通天二年、綦連耀謀逆の事泄れ、閟は耀と善しと坐し、弟の閟と並びに誅せられる。

原文苾,弱冠進士登第,累除太子典膳丞。長壽中,擢為鳳閣舍人。時壽春王成器、衡陽王成義等五王初出閣,同日授冊。有司撰儀註,忘載冊文。及百僚在列,方知闕禮,宰相相顧失色。苾立召書吏五人,各令執筆,口占分寫,一時俱畢。詞理典贍,人皆嘆服。尋加弘文館學士,兼知天官侍郎。苾頗任權勢,交結非類。萬歲通天二年,綦連耀謀逆事泄,閟坐與耀善,並弟閟並伏誅。

閟は累官して涇州刺史に至る。神龍の初め、詔有りて苾・閟の官位を追復す。

原文閟累官至涇州刺史。神龍初,有詔追復苾、閟官位。

福畤は、天後朝に子の貴に以て、累ねて転じて澤州長史となり、卒す。

原文福畤,天後朝以子貴,累轉澤州長史,卒。

初め、吏部侍郎裴行儉は選を典とし、人を知るの鑑有り、苾と蘇味道を見て、人に謂いて曰く、「二子も亦た銓衡の任を掌るべし」と。李敬玄は特に楊炯・盧照鄰・駱賓王と勃ら四人を重んじ、必ず顕貴すべしとす。行儉曰く、「士の致遠は、先ず器識にして後に文藝なり。勃らは文才有りと雖も、而して浮躁浅露、豈に爵禄の器を享くべきや。楊子は沈静にして、令長に至るべく、余は令終を得て幸いと為す」と。果たして其の言の如し。

原文初,吏部侍郎裴行儉典選,有知人之鑒,見苾與蘇味道,謂人曰:「二子亦當掌銓衡之任。」李敬玄尤重楊炯、盧照鄰、駱賓王與勃等四人,必當顯貴。行儉曰:「士之致遠,先器識而後文藝。勃等雖有文才,而浮躁淺露,豈享爵祿之器耶!楊子沈靜,應至令長,余得令終為幸。」果如其言。

勃の文章は邁捷にして、筆を下せば則ち成り、特に書を著すことを好む。『周易發揮』五巻、及び『次論』等の書数部を撰す。勃の亡き後、並びに多く遺失す。文集三十巻有り。勃は聰警衆に絶し、推歩歴算に特に精しく、嘗て『大唐千歳歴』を作り、唐徳の霊長千年なるを言い、周・隋の短祚を承くるに合わずとす。その論の大旨云く、「土を以て王たる者は、五十代にして一千年。金を以て王たる者は、四十九代にして九百年。水を以て王たる者は、二十代にして六百年。木を以て王たる者は、三十代にして八百年。火を以て王たる者は、二十代にして七百年。これ天地の常期、符歴の数なり。黄帝より漢に至るまで、並びに是れ五運の真主なり。五行已に遍くし、土運復た帰る。唐徳これを承く、宜なるかな。魏・晋より周・隋に至るまで、皆な正統に非ず、五行の沴気なり。故にこれを承くべからず」と。大率かくの如し。

原文勃文章邁捷,下筆則成,尤好著書。撰《周易發揮》五卷,及《次論》等書數部。勃亡後,並多遺失。有文集三十卷。勃聰警絕眾,於推步歷算尤精,嘗作《大唐千歲歷》,言唐德靈長千年,不合承周、隋短祚。其論大旨云:「以土王者,五十代而一千年;金王者,四十九代而九百年;水王者,二十代而六百年;木王者,三十代而八百年;火王者,二十代而七百年。此天地之常期,符歷之數也。自黃帝至漢,並是五運真主。五行已遍,土運復歸,唐德承之,宜矣!魏、晉至於周、隋,鹹非正統,五行之沴氣也,故不可承之。」大率如此。

駱賓王

原文駱賓王

駱賓王は、婺州義烏の人。少より文を綴るに善く、特に五言詩に妙なり。嘗て『帝京篇』を作り、当時絶唱と為す。然れども落魄して行い無く、博徒と遊ぶを好む。高宗の末、長安主簿と為る。贓に坐し、臨海丞に左遷され、怏怏として志を失い、官を棄てて去る。文明年中、徐敬業と揚州において乱を作す。敬業の軍中の書檄は、皆な賓王の詞なり。敬業敗れ、誅せられ、文多く散失す。則天は素より其の文を重んじ、使を遣わしてこれを求む。兗州の人郤雲卿有りて十巻に集成し、世に盛んに伝わる。

原文駱賓王,婺州義烏人。少善屬文,尤妙於五言詩,嘗作《帝京篇》,當時以為絕唱。然落魄無行,好與博徒遊。高宗末,為長安主簿。坐贓,左遷臨海丞,怏怏失誌,棄官而去。文明中,與徐敬業於揚州作亂。敬業軍中書檄,皆賓王之詞也。敬業敗,伏誅,文多散失。則天素重其文,遣使求之。有兗州人郤雲卿集成十卷,盛傳於世。

鄧玄挺

原文鄧玄挺

鄧玄挺は、雍州藍田の人である。若くして文章を作ることに長じ、累進して左史となった。上官儀と親しかったことで罪を得て、頓丘令に出された。善政があり、璽書をもって労問された。累進して中書舍人を授けられた。性質は才知に富み弁舌に優れ、機知は人に勝り、しばしば嘲笑や戯言を発し、朝廷では口実と称された。則天が朝政に臨むと、吏部侍郎に遷ったが、職務に適わず、甚だ当時の談論に軽蔑された。また消渇の病を患い、選人は彼を「鄧渴」と目し、街路に掲示した。唐が興って以来、選挙を掌る者の失態は、玄挺の如き者はなかった。このことで罪を得て澧州刺史に左遷された。州にあって再び善政で知られ、晉州刺史に遷り、召されて麟臺少監に拝され、重ねて天官侍郎となったが、その失態は前よりも甚だしかった。玄挺の娘は道王の子諲の妻であり、また蔣王の子煒とも親しかった。諲は房陵において中宗を迎えようと謀り、玄挺に問うた。煒もまたかつて玄挺に言った、「急を要する計略を為そうと思うが如何か」と。玄挺はいずれも答えなかったが、告げることもなかった。永昌元年に罪を得て、獄に下され死んだ。

原文鄧玄挺,雍州藍田人。少善屬文,累遷左史。坐與上官儀善,出為頓丘令。有善政,璽書勞問。累授中書舍人。性俊辨,機捷過人,每有嘲謔,朝廷稱為口實。則天臨朝,遷吏部侍郎,既不稱職,甚為時談所鄙。又患消渴之疾,選人目為「鄧渴」,為榜於衢路。自有唐已來,掌選之失,未有如玄挺者。坐此左遷澧州刺史。在州復以善政聞,遷晉州刺史,召拜麟臺少監,重為天官侍郎,其失又甚於前。玄挺女為道王子諲妻,又與蔣王子煒相善。諲謀迎中宗於房陵,以問玄挺。煒又嘗謂玄挺曰:「欲作急計如何?」玄挺雖皆不答,而不以告。永昌元年得罪,下獄死。