旧唐書 巻一百九十上 列伝第一百四十上 文苑上

旧唐書

巻一百九十上 列伝第一百四十上 文苑上

臣が観るに、前代において筆を執り文を論ずる者は多い。みな『謨』『誥』を手本とし、『詩』『騒』を祖述し、遠くは毛公・鄭玄の訓論を尊び、近くは班固・揚雄の述作を卑しむ。『采采苤諲』は比興の源流において特に高く、『湛湛江楓』は詠歌の体を長く独占するという。ひそかに知らず、世代には文質があり、風俗には淳醨があり、学識には浅深があり、才性には工拙がある。昔、仲尼が三代の『易』を演じ、諸国の『詩』を刪したのは、昔の賢人に勝ろうとしたのではなく、今の代に名を取ろうとしたのである。実に淳朴の時代は質を損ない、民俗の語は経典に合わないため、文言で飾り、弦誦によって考証したのである。それによって遠くに至っても泥まず、永代の規範となり、即ち古を是とし今を非とするは、通論とは為し難いことを知る。鑑を執って形を写し、衡を持って物を品定めするには、伯楽でなければ駑馬と駿馬の状を分けられず、延陵季子でなければ『雅』と『鄭』の音を別てられない。もし空しく竽を吹く人を混同するならば、即ち『韶』を聞く嘆きとは異なる。近代においてはただ沈隠侯(沈約)が『二南』を斟酌し、三変を剖陳し、雲(揚雄)・淵(王褒)の抑鬱を攄べ、潘(岳)・陸(機)の風徽を振るい、律呂を和諧させ、宮商を輯洽せしめた。子建(曹植)が建安の覇を総べ、客児(謝霊運)が江左の雄を擅にするのみではない。爰に我が朝に及んで、賢俊が挺生し、文皇帝(太宗)は戎衣を解いて学校を開き、賁帛を飾って儒生を礼した。門には吐鳳の才を羅し、人は握蛇の価を擅にする。発言して論と為し、下筆して文を成さざるはなく、以て俗を緯め邦を経るに足り、豈にただ章を彫り句を縟にするに止まらんや。韻は金奏に諧い、詞は丹青に炳え、故に貞観の風は三代に同じし。高宗・天後は特に詳延を重んじ、天子は横汾の詩を賦し、臣下は柏梁の奏を継ぎ、巍巍として済済たり、古今に輝爍す。燕(張説)・許(蘇頲)の王言を潤色するが如き、吳(通玄)・陸(贄)の鴻業を鋪揚するが如き、元稹・劉蕡の対策、王維・杜甫の彫蟲、並びに肄業して然らしむるにあらず、自ら天機秀絶なり。隋珠の色澤の如く、淬磨を仮るなく、孔璣翠羽の如く、自ら華彩を成す。之を文苑に置けば、実に緗図を煥えしむ。其の間爵位崇高なる者は、別に之が伝を為す。今、孔紹安以下を采り、『文苑』三篇と為し、ひそかに才を懐き憔悴せる徒が、千古作者に知られんことを凱う。

孔紹安

孔紹安は、越州山陰の人で、陳の吏部尚書孔奐の子である。若い時、兄の紹新と共に文詞をもって知名であった。十三歳の時、陳が滅亡して隋に入り、京兆鄠県に移り住んだ。門を閉ざして書を読み、古文集数十万言を誦し、外兄の虞世南は嘆いて異とした。紹新は嘗て世南に謂って言う、「本朝は淪陷し、分かれて湮滅に従わんとするが、ただ此の弟を見るに、窃かに家族亡びずと謂わん」。時に詞人孫万寿がおり、紹安と篤く忘年の好を結び、時人は孫・孔と称した。紹安は大業末に監察御史となった。時に高祖が隋のために河東で賊を討つと、詔して紹安に高祖の軍を監せしめ、深く接遇を受けた。高祖が禅を受けると、紹安は洛陽から間行して来奔した。高祖は之を見て甚だ悦び、内史舎人に拝し、宅一区・良馬二匹・銭米絹布等を賜うた。時に夏侯端も嘗て御史となり、高祖の軍を監し、紹安に先んじて朝に帰り、秘書監を授けられた。紹安は侍宴に因り、詔に応じて『石榴詩』を詠じて曰く、「只為時来晩、開花不及春」。時人は之を称した。尋いで詔して『梁史』を撰せしめられたが、未だ成らざるに卒した。文集五巻有り。

子 禎

子の禎は、高宗の時に蘇州長史となった。曹王李明が刺史となったが、法度に循わず、禎は毎度諫めた。明は曰く、「寡人は天子の弟なり、豈に王たるを失わんや」。禎は曰く、「恩寵は恃むべからず、大王国命を奉行せずんば、恐らく今の栄位は大王の保つ所に非ず、独り淮南の事を見ざるか」。明は悦ばず。明の左右に下人の侵暴する者有り、禎は捕えて杖殺した。明は後果たして法に坐し、黔中に遷され、人に謂って曰く、「吾れ孔長史の言を用いざるを愧じ、以て此に及ぶ」。禎は累遷して絳州刺史となり、武昌県子に封ぜられた。卒し、諡して温と曰う。

子 季詡

子の季詡は、早くから知名で、官は左補闕に至った。

孫 若思

紹安の孫、若思。

若思は孤となり、母の褚氏が自ら教訓したので、遂に学行をもって知名となった。年少の時、ある人が褚遂良の書跡数巻を齎して若思に遺わんとしたが、ただ其の一巻を受けた。其の人は曰く、「此の書は当今重んずる所、価は黄金に比す、何ぞ総べて取らざる」。若思は曰く、「若し価金宝に比すれば、此れ多しと為す」。更に半ばを截ち去って之を還した。明経に挙げられ、累遷して庫部郎中となった。若思は常に人に謂って曰く、「仕えて郎中に至れば足る」。此に至りて一石の止水を持ち、座右に置き、以て止足の意有るを示した。尋いで給事中に遷った。

中宗が即位し、敬暉・桓彦範等が国政を知ると、若思が故事に多識なるを以て、所有の改革大事及び疑議は、多く若思に訪れた。再転して礼部侍郎となり、出でて衛州刺史となった。先ず是れ、諸州の別駕は皆宗室を以て之と為し、刺史に致敬せず、是れにより多く不法を行った。若思が州に至り、別駕李道欽の犯状を挙奏し、加えて鞫訊を請うた。乃ち詔して別駕に刺史に致礼せしめ、若思より始まる。俄かに清白を以て称せられ、銀青光禄大夫を加えられ、絹百匹を賜うた。汝州刺史・太子右諭徳を歴任し、梁郡公に封ぜられた。開元十七年に卒し、諡して恵と曰う。

袁朗

袁朗は、雍州長安の人で、陳の尚書左僕射袁枢の子である。其の先祖は陳郡より江左に仕え、世々冠族たり、陳滅亡後に関中に徙った。

袁朗は学問に励み、文章を綴ることを好んだ。陳に仕えては、秘書郎に初任官し、尚書令江総に大いに重んじられた。かつて千字詩を作り、当時これを盛んな作品と認められた。陳の後主はこれを聞き、禁中に召し入れ、『月賦』を作らせたところ、袁朗は筆を染めてたちどころに完成させた。後主は言った。『この賦を見ると、謝希逸(謝荘)も前代において独り美を占めることはできなかったであろう。』さらに『芝草頌』『嘉蓮頌』の二つの頌を作らせ、深く優れた賞賛を受けた。太子洗馬、徳教殿学士を歴任し、秘書丞に転じた。陳が滅亡すると、隋に仕えて尚書儀曹郎となった。武徳初年、斉王文学、祠部郎中を授かり、汝南県男に封ぜられ、再び転じて給事中となった。貞観初年に在官のまま死去した。太宗は彼のために一日朝政を停止し、高士廉に言った。『袁朗は在任期間は近かったが、その性質は謹厳で篤実であり、特に人をして傷み惜しませる。』よって詔を下してその葬儀の費用を給し、併せて妻子を慰問させた。文集十四巻がある。

父方の従弟に袁承序がいる。

父方の従弟の袁承序は、陳の尚書僕射袁憲の子である。武徳年間、斉王李元吉がその名を聞き、学士として召し出した。王府が廃止されると、累遷して建昌県令となった。在任中は清廉で静粛であり、士人や吏員は彼を慕った。高宗が藩王であった時、太宗は学問と品行に優れた士人をその僚属に選ぼうとし、中書侍郎岑文本に言った。『梁、陳の名臣で、誰が称えられるか。また子弟で招き寄せるに堪える者はいるか。』岑文本はこれに応じて言った。『隋の軍が陳に入った時、百官は奔走して散り散りになり、留まる者はなかったが、ただ袁憲のみがその主君の傍らにいた。王世充が隋の禅譲を受けようとした時、群臣は上表して勧進を請うたが、袁憲の子で給事中の袁承家は病気と称して、ただ一人署名しなかった。この父子は忠烈と称えられるに足る。袁承家の弟の袁承序は、清廉で貞潔な雅やかな操行を持ち、実に先人の風を継いでいる。』これにより、晋王友を守らせ召し出し、さらに侍読を命じ、弘文館学士を加授された。間もなく死去した。

祖父方の従弟に袁利貞がいる。

袁朗の祖父方の従弟の袁利貞は、陳の中書令袁敬の孫である。高宗の時に太常博士、周王侍読となった。永隆二年、周王が皇太子に立てられると、百官が礼を上奏した。高宗は百官と命婦を宣政殿に会わせ、併せて九部伎と散楽を設けようとした。袁利貞は上疏して諫めて言った。『臣は考えますに、前殿の正寝は、命婦が宴会する場所ではなく、象闕や路門は、倡優が進み出て御前に侍する所ではございません。命婦を別殿で会わせ、九部伎は東西の門から入らせ、散楽の一色は、伏して廃止されることを望みます。もし三殿の別の場所であれば、自ら恩寵を極め尽くすことができます。微臣は凡庸で見識が狭く、典則に通じておりませんが、礼司に辱くも預かり、軽率に狂った愚かな意見を陳べます。』帝はその言葉を受け入れ、直ちに麟徳殿に移すよう命じた。宴会の日、酒が酣になった時、帝は中書侍郎薛元超を使わして袁利貞に言わせた。『卿は家門が忠直を受け継ぎ、上疏して直言を抗することができた。厚く賞賜しなければ、どうして奨励できようか。』絹布百段を賜った。まもなく祠部員外郎に転じ、死去した。中宗が即位すると、侍読としての恩により、追贈して秘書少監とした。

袁朗の十三代前の祖父は後漢の司徒袁滂であり、袁滂は魏の国郎中、御史大夫袁渙を生み、袁渙は晋の尚書袁準を生み、袁準は東晋の右将軍、豫章太守袁沖を生み、袁沖は司徒従事中郎袁耽を生み、袁耽は琅邪内史袁質を生み、袁質は丹陽尹、宋公長史袁豹を生み、袁豹は宋の呉郡太守袁洵を生み、累代にわたり高い名声と重い地位があり、前代の史書に伝がある。五代前の叔祖父は宋の太尉袁淑、高祖父は左僕射、雍州刺史袁顗、高祖は司空袁察であり、皆国難に殉じた。曾祖父は梁の中書監、司空、穆公袁昂であり、斉に仕えて呉興太守となり、梁の高祖が斉から禅譲を受けた時、長く朝命を辞退した。父の袁枢、叔父の袁憲は陳に仕え、皆陳の僕射となった。叔祖父の袁敬は中書令である。陳が滅亡した時、袁憲は危難を冒して後主を扶護した。袁朗は自ら、家門内外の人物が海内の冠族であると考え、たとえ琅邪王氏が代々台鼎(三公・宰相)の位を継いでも、歴朝において自らは佐命の臣(創業を助けた臣)であり、彼らを軽蔑して同列とは考えなかった。

孫に袁誼がいる。

袁朗の孫の袁誼は、また虞世南の外孫でもある。神功年間、蘇州刺史となった。かつて政務を執る際、司馬の清河張沛が通謁した。張沛は侍中張文瓘の子である。袁誼は彼に揖して言った。『司馬は何事か。』張沛は言った。『この州に長史を得ました。隴西の李亶でございます。天下の甲門(第一流の名門)です。』袁誼は言った。『司馬の言うことは誤りである。門戸というものは、歴代の人賢を経て、名節と風教が、衣冠(士大夫)の顧みるところとなり、初めて称え挙げることができる。老夫こそがそれである。山東の人は婚姻を重んじ、禄利を求める。時に柱石となり、危難に臨んで命を授ける者は、遠い時代から一人もいない。どうしてそれを言い、門戸とすることができようか。』張沛は慚愧を抱いて退いた。当時の人はこれを口実とした。

賀徳仁

賀徳仁は、越州山陰の人である。父の賀朗は、陳の散騎常侍であった。賀徳仁は若い時、従兄の賀基と共に国子祭酒周弘正に師事し、共に詞学をもって称えられた。当時の人は言った。『学行は賀徳基に師うべく、文質彬彬たるは賀徳仁。』賀徳仁兄弟は八人おり、当時の人はこれを荀氏(荀淑の八龍)に譬えた。陳の鄱陽王陳伯山が会稽太守となった時、彼らの住む甘滂里を高陽里と改めた。賀徳仁は陳に仕え、呉興王友に至った。

隋に入ると、僕射楊素が彼を推薦し、豫章王府記室参軍を授かった。王は師資の礼をもって彼を遇し、恩遇は厚かった。よう帝が即位すると、豫章王は斉王に改封され、また斉王府属を授かった。斉王が譴責を受けると、府の僚属は皆誅殺や責罰を受けたが、ただ賀徳仁のみは忠謹により罪を免れ、出向して河東郡司法となった。かつて隠太子(李建成)と親しくしていたため、高祖が京師を平定すると、隠太子が隴西公に封ぜられ、賀徳仁を隴西公友に任用した。まもなく太子中舎人に転じ、老衰して吏事に習熟していないため、太子洗馬に転じた。当時、蕭徳言も洗馬であり、陳子良は右衛率府長史であり、皆東宮学士であった。貞観初年、賀徳仁は趙王友に転じた。間もなく死去し、七十余歳であった。文集二十巻がある。

賀徳仁の弟子の賀紀、賀敳も、博学をもって知名であった。高宗の時、賀紀は官が太子洗馬に至り、『五礼』を修めた。賀敳は率更令に至り、兼ねて太子侍読となった。兄弟共に崇賢館学士となり、学者はこれを栄誉とした。

庾抱

庾抱は、潤州江寧の人である。その祖先は潁川から移り住んだ。祖父の庾衆は、陳の御史中丞であった。父の庾超は、南平王記室であった。庾抱は開皇年間に延州参軍事となった。後数年を経て、吏部に選ばれた。尚書牛弘は彼が学術があることを知り、筆と紙を与えて自ら序を書かせた。筆を取ればたちどころに書き上げたので、牛弘は大いにこれを奇とした。後に元徳太子学士を補し、礼遇と賜物は甚だ厚かった。皇孫が誕生した際、太子が賓客を宴する席で、庾抱は座中で『嫡皇孫頌』を献じ、深く賞賛された。後に越巂主簿となったが、病気と称して赴任しなかった。義寧年間、隠太子李弘が彼を引き立てて隴西公府記室とした。当時は軍国の事務が多く、公府の文書や檄文は皆庾抱の手によるものであった。まもなく太子舎人に転じ、間もなく死去した。文集十巻がある。

蔡允恭

蔡允恭は、荊州江陵の人である。祖父の點は、梁の尚書儀曹郎であった。父の大業は、後梁の左民尚書であった。允恭は風采があり、文章を綴ることを善くした。隋に仕えて、著作佐郎・起居舍人を歴任した。特に詩歌を吟詠することを善くした。煬帝が詞賦を作ると、多く彼に諷誦させた。かつて宮女を教えさせようとしたが、允恭はこれを深く恥じ、気疾を称して、時を定めず召しに応じなかった。煬帝はまた内史舍人を授けると約束し、さらに内に入って宮人を教えるよう命じたが、允恭は固く辞して就かず、これによって次第に疎遠にされた。江都の難に際し、允恭は宇文化及に従って西上し、竇建徳に没した。東夏が平定されると、太宗は彼を召し出して秦府参軍とし、文学館学士を兼ねさせた。貞観初年、太子洗馬に任じられた。まもなく致仕し、家で卒した。文集十巻があり、また『後梁春秋』十巻を撰した。

鄭世翼

鄭世翼は、鄭州滎陽けいようの人であり、代々著姓であった。祖父の敬徳は、周の儀同大將軍であった。父の機は、司武中士であった。世翼は弱冠にして盛名があった。武徳年間、萬年丞・揚州録事参軍を歴任した。しばしば言辞で人に逆らい、軽薄と称された。時に崔信明は自ら文章は独歩であると称し、多く人を凌駕していた。世翼が江中で彼に出会い、言った、「かつて『楓落呉江冷』と聞いたことがある」。信明は喜んで百余篇を示した。世翼はそれを見終わらないうちに言った、「見るものは聞くに及ばない」。それを江に投げ捨てた。信明は答えることができず、楫を抱いて去った。世翼は貞観年間に怨謗の罪に坐し、巂州に配流され、そこで卒した。文集は多く遺失し、撰した『交遊伝』は、当時かなり行われた。

謝偃

謝偃は、衛県の人であり、本姓は直勒氏である。祖父の孝政は、北斉の散騎常侍で、姓を謝氏に改めた。偃は隋に仕えて散従正員郎となった。貞観初年、詔に応じて対策に及第し、高陵主簿を歴任した。十一年、車駕が東都に幸した時、谷水・洛水が氾濫して洛陽宮に及んだ。詔して直諫の士を求めた。偃は封事を上奏し、得失を極言した。太宗は善しとし、弘文館直学士に引き立て、魏王府功曹に拝した。偃はかつて『塵』・『影』の二賦を作り、甚だ巧みであった。太宗はこれを聞いて詔して引見し、自ら賦の序を制し、「区宇は安んじ、功德は茂盛である」と言った。彼に賦を作らせた。偃は詔を奉じて撰成し、名づけて『述聖賦』とし、采帛数十匹を賜った。偃はまた『惟皇誡徳賦』を献じて諷諫を述べ、言うには、

臣は聞く、治まれば乱を忘れ、安んじれば危を忘れ、安逸すれば労を忘れ、得れば失を忘れる。この四者は、人君にしてこのようでない者はない。これによって夏の桀は瑤台璇室を麗しとし、鳴条・南巢の禍を悟らず、殷の辛は象箸玉杯を華美とし、牧野白旗の敗を知らなかった。故にその盛んな時には、四海を己が力と謂い、その衰えた時には、匹夫さえ制し得ない。その信じる時には、天下に危険無しと謂い、その疑う時には、顧みるもの皆仇敵となる。これによって必ずその徳があれば、誠は戎夷に結ばれ、化は荒裔に行き渡る。もしその度を失えば、変は骨肉に生じ、釁は腹心から起こることを知る。これによって人主たる者は、初めを忘れてはならない。殿堂に処すれば、前主の亡びた所以を思い、万国に朝すれば、今己の貴い所以を思い、府庫を巡れば、今己の得た所以を思い、功臣を見れば、その己がために始めたことを思い、名将を見れば、その力を用いた初めを思う。もし旧を忘れなければ、人に易心無く、天下の化さないことを何ぞ患えん。故に朝に行えば堯・舜となり、暮れに失えば桀・紂となる。豈に別人であろうか。その詞に曰く、

周代の典籍を広く観、宇宙を総べて一望す。結繩の往きて紀すこと莫く、書契崇くして知るべし。皇王の代わる代わるを惟みれば、信に歩驟の恒規、慮い失う者は常に得、安きを懐う者は必ず危し。是を以て戦戦怵怵、日一日に慎み、約を守り儉を守り、奢を去り逸を去る。外に荒禽無く、内に荒色無く、唯賢を是れ授け、唯人を斯れ恤う。則ち三皇六に足らず、五帝十に足らず。若し聖を恃み力を驕り、狠戾倔強、忠良を是れ棄て、諂佞を斯れ奨む。崇台を構えて天を造り、深池を穿ちて壤を絶つ。賦を厚くし斂を重くし、宝を積み鏹を蔵む。罪無きに刑を加え、功有るも賞せず。則ち夏桀二つとすべく、殷辛両つとし易し。危うきに在りて恃む所有り、安んずるに居りて忘るる勿れ。功臣逐う無く、故人放つ無し。故人を放つ者は亡び、功臣を逐う者は喪う。四海岌岌たり、九土漫漫たり、覆すは甚だ易く、存するは実に難し。是を以て一人悦べば、万国同じく歓び、一人所を失えば、兆庶倶に残る。喜べば隆冬も熱くすべく、怒れば盛夏も寒しと成る。一動けば八表乱れ、一言すれば天下安んず。君の過ちを挙ぐる者を忠と曰い、主の美を述ぶる者を佞と為す。苟も顔を承けて旨に順えば、必ず視りを蔽いて聖と称す。故に曲なる者をして直を乱さしめ、邪なる者をして正を疑わしむ。華服を改めて胡に就き、雅音を変えて鄭に入る。往古の軌躅と雖も、亦た当今の亀鏡たるべし。崔嵬たる龍殿、赫奕たる鳳門、四海を苞みて主と称し、天下に冠して独り尊し。既に日を兄とし月を姉とし、亦た乾を父とし坤を母とす。視れば金翠目に溢れ、聴けば絲竹耳に盈つ。信に賞罰躬に在り、実に栄辱己に由る。義皇を語れば匹し易く、堯・舜を言えば擬う可し。驕志ここより生じ、侈心茲に因りて起る。常に覆るを懼れ亡ぶるを懼れ、必ず足るを思い止むるを思う。潜龍の初めを忘るる勿れ、当に布衣の始めを懐うべし。位に在りて宝と称し、器に居りて神と曰う。鐘鼓庭に設け、玉帛階に陳ぶ。得るには必ず兆有り、失うには必ず因有り。一たび替わり一たび立ち、或いは周或いは秦。既に前代を承け、当に後人を思うべし。唯徳のみ以て久しくすべく、天道常に親しむ無し。

時に李百薬は五言詩を作ることを善くし、偃は賦を作ることを善くした。当時の人は李詩謝賦と称した。十七年、王府が廃されると、出て湘潭令となり、卒した。文集十巻。

崔信明

崔信明は、青州益都の人であり、後魏の七兵尚書光伯の曾孫である。祖父の縚は、北海郡守であった。信明は五月五日、日の正中の時に生まれた。数頭の異雀があり、身形は甚だ小さく、五色ことごとく備わり、庭の樹に集まった。翼を鼓いて斉しく鳴き、声は清らかで宛らかに亮かった。隋の太史令史良が青州に使いして、これに遇い占って言った、「五月は火であり、火は『離』卦、『離』は文彩である。日正中は、文の盛んなる時である。また雀五色あり、翼を奮って鳴く。この児は必ず文藻煥爛、声名天下に播く。雀の形既に小さいから、禄位は殆ど高からん」。成長すると、博聞強記、筆を下せば章を成した。郷人の高孝基は人を見る鑑識があり、常に人に謂って言った、「崔信明は才学富贍、名は一時を冠するも、但だその位の達せざるを恨む」。

大業年間、堯城令となった。竇建徳が僭号し、彼を引用しようとした。信明の族弟の敬素が建徳の鴻臚卿であり、信明に説いて言った、「隋主は道無く、天下鼎沸し、衣冠礼楽、地を掃うて余り無し。兄は下僚に遁跡し、収用されず、豫讓が范中行に報いざる所以は、只だ衆人として我を遇うによる。夏王は英武、天下を併吞するの心有り、士女繈負して至る者、称数す可からず。この時に功を立て事を立たずんば、豈に幾を見て作す者たるべけんや」。信明は言った、「昔、申胥は海畔の漁者なりしも、尚おその節を固くす。吾は終に身を屈して偽主に仕え、斗筲の職を求むる能わず」。遂に城を逾えて遁れ、太行山に隠れた。貞観六年、詔挙に応じ、興世丞に授けられた。秦川令に遷り、卒した。

信明は頗る蹇傲にして自伐し、常に詩を賦し吟嘯して、自ら李百薬に過ぐると謂ひ、時に人多く之を許さず。又其の門族を矜り、四海の士望を軽侮す、是に由りて世に譏られし。

子 冬日

子冬日は、則天の時に黄門侍郎となり、酷吏に殺さる。

張蘊古

張蘊古は、相州洹水の人なり。性聰敏にして、博く書傳に渉り、善く文を綴り、能く碑を背し局を覆す。尤も時務に曉り、州閭に称せらる。幽州総管府記室より直に中書省に至る。太宗初めて即位し、『大寶箴』を上りて以て諷す、其の詞に曰く、

今来古往、俯察仰観、惟だ辟は福を作す、君と為るは実に難し。主は普天の下に在り、王公の上に処る。任土は其の求むる所を貢ぎ、具僚は其の唱ふる所に和す。是の故に競懼の心日弛み、邪僻の情転放つ、豈に事は忽に起こり、禍は無妄に生ずるを知らんや。固より聖人命を受けて、溺を拯ひ屯を亨し、過を己に帰し、恩を民に推す。大明は偏照無く、至公は私親無し。故に一人を以て天下を治め、天下を以て一人に奉ぜず。礼を以て其の奢を禁じ、楽を以て其の佚を防ぐ。左に言ひ右に事し、出づれば警し入れば蹕す。四時は其の惨舒を同じくし、三光は其の得失を同じくす。故に身を之が度と為し、声を之が律と為す。無知と謂ふ勿れ、高きに居りて卑きを聴く。何の害か有らんと謂ふ勿れ、小を積みて大と成る。楽は極む可からず、極楽は哀を生ず。欲は縦す可からず、縦欲は災を成す。九重を内に壮にすと雖も、居る所は容膝を過ぎず。彼の昏きは知らず、其の臺を瑤にし其の室を瓊にす。八品を前に羅すと雖も、食ふ所は適口を過ぎず。唯だ狂ひて罔念すれば、其の糟を丘にし其の酒を池にす。内に色に荒るる勿れ、外に禽に荒るる勿れ、難得の貨を貴ぶ勿れ、亡国の音を聴く勿れ。内荒は人の性を伐ち、外荒は人の心を蕩し、難得の貨は侈、亡国の声は淫。我尊しと謂ひて賢を傲り士を侮る勿れ、我智しと謂ひて諫を拒み己を矜る勿れ。之を夏王に聞く、饋に拠りて頻りに起つ。亦た魏帝有り、裾を牽きて止まず。彼の反側を安んずるは、春陽秋露の如く、巍巍蕩蕩、漢高の大度を恢す。茲の庶事を撫するは、薄きを履み深きに臨むが如く、戦戦慄慄、周文の小心を用ふ。

『詩』に云ふ「不識不知」、『書』に曰く「偏無く党無し」。一に彼此を胸臆にし、好悪を心想に捐つ。衆棄して後に刑を加へ、衆悦して後に賞を命ず。其の強きを弱くし其の乱を治め、其の屈を申し其の枉を直くす。故に曰く「衡の如く石の如く、物を数に定めず、物の懸かる者は、軽重自ら具はる。水の如く鏡の如く、物を情に示さず、物の鑒る者は、妍媸自ら生ず」と。渾渾として濁る勿れ、皎皎として清しとす勿れ、没没として暗しとす勿れ、察察として明らかなる勿れ。冕旒目を蔽ふと雖も未形に視、黈纊耳を塞ぐと雖も無声に聴く。心を湛然の域に縦し、神を至道の精に遊ばしむ。之を扣く者は洪纖に応じて響を效し、之を酌む者は深淺に随ひて皆盈つ。故に曰く、天の清、地の寧、王の貞。四時は言はずして代序し、万物は為さずして成を受く。豈に帝其の力有るを知らんや、而して天下和平す。

吾が王は乱を撥ひ、智力を以て戡く。民其の威を懼れ、未だ其の徳を懐かず。我が皇は運を撫し、淳風を以て扇ぐ。民其の始を懐き、未だ其の終を保たず。爰に金鏡を述べ、神を窮め聖を尽くす。人を心を以て使ひ、言に応じて行ふ。治体を包括し、詞令を抑揚す。天下公を為し、一人慶有り。羅を開きて祝を起し、琴を援きて詩を命ず。一日二日、茲を念ひ茲に在り。唯だ人の召す所、天より之を祐す。争臣は直を司り、敢へて前疑に告ぐ。

太宗之を嘉し、束帛を賜ひ、大理丞を除す。

初め、河内の人李孝徳は、素より風疾有り、而して語妄妖に渉る。蘊古其の獄を究め、好徳癲病徴有りと称し、法坐に当たらずとす。治書侍御史権万紀、蘊古の家相州に住み、好徳の兄厚徳其の刺史為るを劾し、情阿縦に在り、奏事実ならずとす。太宗大いに怒り、曰く「小子乃ち敢て吾が法を乱すか」と。東市に斬らしむ。太宗尋ひて悔ひ、因りて制を発し、凡そ死を決する者は、所司に命じて五たび覆奏せしむ、蘊古より始む。

劉胤之

劉胤之は、徐州彭城の人なり。祖祎之は、後魏の臨淮鎮将なり。胤之は少くして学業有り、隋の信都丞孫万寿・宗正卿李百薬と忘年の友と為る。武徳中、御史大夫杜淹表して之を薦め、再び信都令に遷り、甚だ恵政を存す。永徽初、累りて著作郎・弘文館学士に転じ、国子祭酒令狐徳棻・著作郎楊仁卿等と、国史及び実録を撰成し、之を奏上し、陽城県男に封ぜらる。尋ひて老を以て、著述に堪へず、出でて楚州刺史と為り、卒す。

從子 延祐

弟子延祐は、弱冠にして本州より進士に挙げられ、累りて渭南尉を補す。刀筆吏能、畿邑当時の冠たり。司空李勣嘗て謂ひて曰く「足下春秋甫爾にして、便ち大名を擅にす、宜しく稍自ら貶抑し、独り人右に出づる無きを為すべし」と。後に右司郎中を歴へ、司賓少卿を検校し、薛県男に封ぜらる。

徐敬業の乱、揚州初めて平らぎ、所有の刑名、能く決定する莫く、延祐使を奉じて軍所に至り之を決す。時に議者、賊の五品官を受くる者は斬り、六品者は流すと断ず。延祐以為く、諸の元謀に非ず、迫脅して盗に従ふ者は、則ち極刑を置くは、事枉濫に渉ると。乃ち賊の五品を受くる者は流し、六品已下は俱に除名するのみと断ず。其の全済を得る者甚だ衆し。

箕州刺史として出向し、安南都護に転じた。嶺南の俚戸は、従来は半額の租税を納めていたが、延祐が到着すると、全額納入を強制した。これによりその配下は皆怨み、謀反を企てようとしたので、延祐はその首謀者李嗣仙を誅殺した。垂拱三年、嗣仙の党与である丁建・李思慎らは、ついに兵を率いて安南府を包囲した。当時、城中の精兵は数百に過ぎず、門を閉ざして堅く守り、隣境の援軍を待った。広州の大族馮子猷は災いを喜び、危難に乗じて功を立てようと企み、兵を抑えて敵を放置し、その害をますます甚だしくさせた。延祐はついに思慎に害された。その後、桂州司馬曹玄静が兵を率いて思慎らを討ち、これを捕らえた。ことごとく安南城下で斬り殺した。

従父兄の子 蔵器

胤之の従父兄の子蔵器もまた文才があり、官は宋州司馬に至った。蔵器の子知柔は、開元初年に工部尚書となった。知柔の弟知幾は、玄宗の諱を避けて子玄と改めた。別に伝がある。

張昌齢

張昌齢は、冀州南宮の人である。弱冠にして文詞で名を知られた。本州が秀才として推挙しようとしたが、昌齢はこの科が当時廃止されて久しいことを理由に固辞した。そこで進士の貢挙に充てられて及第した。貞観二十一年、翠微宮が完成すると、宮闕に赴いて頌を献上した。太宗は召見し、『息兵詔』の草稿を作るよう試させると、たちまちにして完成した。太宗は大いに喜び、彼に言った。「昔、禰衡・潘嶽は皆、才を恃んで物に傲り、非命に至った。汝の才は二賢に劣らない。前車の鑑とすべきである。我が採用に応えよ。」そこで通事舎人裏供奉に任じるよう命じた。まもなく昆山道行軍記室となり、盧明月を破り、亀茲を平定し、軍書や露布は皆、昌齢の文であった。再び転じて長安尉となり、出向して襄州司戸となったが、喪に服して官を去った。後に賀蘭敏之が奏上して北門修撰に引き立てたが、まもなくまた罷免された。乾封元年に卒した。文集二十巻。

兄 昌宗

兄の昌宗もまた学業があり、官は太子舎人・修文館学士に至った。『古文紀年新伝』三十巻を撰した。

崔行功

崔行功は、恆州井陘の人で、北齊の鉅鹿太守伯譲の曾孫であり、博陵から移り住んだ。行功は若くして学を好み、中書侍郎唐儉はその才能を愛で、娘を妻とさせた。儉が前後して征討する際のすべての文表は、行功の文であった。高宗の時、累転して吏部郎中となった。上奏に巧みであったため、かつて通事舎人・内供奉を兼ねた。事に坐して遊安令に貶せられたが、まもなく召されて司文郎中となった。当時、朝廷の大手筆は、多くが行功及び蘭臺侍郎李懷儼の詞であった。

先に、太宗は秘書監魏徴に命じて四部群書を写させ、内貯庫に進めんとし、別に讐校二十人・書手百人を置いた。魏徴が職を改めた後、虞世南・顔師古らにその事業を継続させた。高宗の初年に至っても、その功は未だ完了しなかった。顕慶年中、讐校及び御書手を廃止し、書に巧みな者に繕写させ、その価を計って報酬とし、散官を選んで番に随って讐校させた。その後また詔して、東臺侍郎趙仁本・東臺舎人張文瓘及び行功・懷儼らを相次いで使として充てて検校させた。また詳正学士を置いて校理させ、行功は引き続き御集を専管した。蘭臺侍郎に遷った。

咸亨年中、官名が旧に復し、秘書少監に改められた。上元元年、官にて卒した。集六十巻がある。兄の子玄暐は、別に伝がある。

行功は前後して『晋書』及び『文思博要』などの撰修に参与した。同時にまた孟利貞・董思恭・元思敬らがおり、皆、文藻で名を知られた。

附 孟利貞

孟利貞は、華州華陰の人である。父の神慶は、高宗の初年に沁州刺史となり、清廉で節操があることで著名であった。利貞は初め太子司議郎となり、中宗が東宮にあった時、深くこれを懼れた。詔を受けて少師許敬宗・崇賢館学士郭瑜・顧胤・董思恭らとともに『瑤山玉彩』五百巻を撰した。龍朔二年に奏上すると、高宗は善しと称し、等級を加え、物を賜うことに差等があった。利貞は累転して著作郎となり、弘文館学士を加えられた。垂拱初年に卒した。また『続文選』十三巻を撰した。

兄 允忠

兄の允忠は、垂拱年間に天官侍郎となった。

(附)董思恭

董思恭は、蘇州呉の人である。著した詩文は、当時の人々に大いに重んじられた。初め右史となり、考功挙事を管掌したが、問目を事前に漏洩した罪に坐し、嶺表に配流されて死んだ。

(附)元思敬

元思敬は、総章年間に協律郎となった。『芳林要覧』の編修に参与し、また『詩人秀句』二巻を撰して、世に伝わった。

徐齊聃

徐齊聃は、湖州長城の人である。父の孝徳は、娘が才人となったため、果州刺史に至った。齊聃は若くして文章を作るのが巧みで、高宗の時に累進して蘭臺舎人となった。時に詔勅により突厥の酋長の子弟が東宮に仕えることとなり、齊聃は上疏して言った。

昔、姬誦(成王)は伯禽と共に学び、晋の太子は師曠を友とした。これは単に師資に頼るのみならず、近習を詳しく観察するためでもあった。皇太子は自ら園公・綺里季のような者を招き、応瑒・劉楨のような者を日夜思慕すべきである。階闥に仕える小臣は、必ず端士から採り、駆使する任に当たる者は、皆正人に帰すべきである。こうして善を好む風を広め、賢を崇ぶ美を永く伝えるのである。今、氈裘の子(突厥の者)に辮髪を解かせて春闈に侍らせ、冒頓の末裔に衣の襟を改めさせて望苑に陪せしめるのは、道義の点から、臣は疑わしく思う。詩に云う、「威儀を敬慎し、以て有徳に近づく」と。書に云う、「官に任ずるは惟れ賢才、左右は惟れ其人」と。これはここに殷勤たる、微を防ぐ極みである。

齊聃はまたかつて上奏して言った。「斉献公は即ち陛下の外戚(母方の先祖)であられます。その子孫に罪があっても、祖にまで及ぼすべきではありません。今、周忠孝公(武士彠)の廟は大いに修造崇拝されているのに、斉献公の廟は急に毀損廃棄されています。陛下がこれをもって如何にして海内に重く示し、孝理の風を顕わそうとされるのか、審らかではありません。」帝は皆その言を容れた。

齊聃は詔誥の文を作るのに巧みで、当時大いに称賛された。高宗はその文を愛で、周王らに文章を教えさせたが、職務が枢要で多忙なため、詔して一日おきに往来させた。機密を漏洩した罪により、左遷されて蘄州司馬となった。まもなくまた事に坐して欽州に配流された。咸亨年間に卒した。年四十余。えい宗が即位すると、旧恩を追録し、累贈して礼部尚書とした。

子の堅は、別に伝がある。

杜易簡

杜易簡は、襄州襄陽の人で、周の硤州刺史叔毗の曾孫である。九歳で文章を作ることができ、成長すると、博学で高い名声があった。姨兄の中書令岑文本は大いにこれを推重した。進士に及第し、累転して殿中侍御史となった。咸亨年間に、考功員外郎となった。時に吏部侍郎裴行儉と李敬玄は互いに不和で、易簡は吏部員外郎賈言忠と共に行儉の意を迎え、封事を上って敬玄の罪状を陳べた。高宗はその朋党を憎み、易簡を左遷して開州司馬とし、まもなく卒した。

易簡は著述にかなり長じ、『御史臺雑註』五巻、文集二十巻を撰し、世に行われた。

易簡の従祖弟いとこは審言である。

従祖弟に審言あり。

審言は進士に挙げられ、初め隰城尉となった。五言詩をよくし、書翰に巧みで、才能の名があった。しかし才能を恃んで傲慢であり、当時の人々に甚だ嫉まれた。乾封年間、蘇味道が天官侍郎となったとき、審言は選に預かった。試判が終わると、人に言うには、「蘇味道は必ず死ぬであろう。」人がその故を問うと、審言は言うには、「わが判を見れば、自ら羞じて死ぬであろう。」またかつて人に言うには、「わが文章は、屈原・宋玉に衙官(下僚)を為さしめるに合い、わが書跡は、王羲之に北面(弟子となる)させるに合う。」その驕慢なことこのようであった。

累ねて転じて洛陽丞となった。事に坐して貶され、吉州司戸参軍を授けられた。また州の僚属と和せず、司馬周季重と員外司戸郭若訥が共に審言の罪状を捏造し、獄に繋ぎ、事に因って彼を殺そうとした。やがて季重らが府中で酒宴を催していると、審言の子の並、年十三、刃を懐いてこれを撃った。季重は傷ついて死に、並もまた左右の者に殺された。季重は臨終に言うには、「私は審言に孝子がいることを知らなかった。郭若訥が私をここまで誤らせたのだ。」審言はこのため官を免ぜられ、東都に帰り、自ら文を作って並を祭った。士友は皆並の孝烈を哀しみ、蘇颋が墓誌を書き、劉允濟が祭文を作った。後に則天武后が審言を召し見て、擢用しようとした。問うて言うには、「卿は喜ぶか。」審言は舞踏して謝恩した。そこで『歓喜詩』を作らせると、甚だ嘉賞され、著作佐郎に拝された。まもなく膳部員外郎に遷った。神龍初年、張易之兄弟と交際した罪に坐し、嶺外に配流された。まもなく召されて国子監主簿を授けられ、修文館直学士を加えられた。六十余歳で卒した。文集十巻あり。

次子は閑。閑の子は甫、別に伝あり。

盧照鄰

盧照鄰、字は升之、幽州范陽の人である。十余歳の時、曹憲・王義方に就いて『蒼頡篇』・『爾雅』および経史を授けられ、博学で文章をよくした。初め鄧王府の典籤に任じられ、王は甚だこれを愛重し、かつて群官に言うには、「これ即ち寡人の司馬相如である。」後に新都尉に拝された。風疾に罹ったため官を去り、太白山中に処り、服餌を事とした。後に病が転じて重くなり、陽翟の具茨山に移り住み、『釈疾文』・『五悲』などを著述した。頗る騒人(屈原)の風があり、文士に甚だ重んぜられた。

照鄰は既に重い病で手足が萎え廃れ、その苦しみに堪えず、かつて親属と別れを執り、遂に自ら潁水に投身して死んだ。時に四十歳。文集二十巻。

兄に光乘あり。

兄の光乗もまた知名で、長寿年間に隴州刺史となった。

楊炯

楊炯、華陰の人。伯祖の虔威は、武徳年間に官は右衛将軍に至った。炯は幼くして聡敏博学で、文章をよくした。神童に挙げられ、校書郎に拝され、崇文館学士となった。儀鳳年間、太常博士蘇知幾が上表し、公卿以下の冕服について、別に節文を立てることを請うた。勅が下って有司に詳議させると、炯が議を献じて言うには、

古えには太昊庖羲氏あり、仰いでは象を観、俯しては法を察し、書契を造りて文籍生ず。次に黄帝軒轅氏あり、長じて敦敏、成りて聰明、衣裳を垂れて天下理まる。その後数たび五徳遷り、君は一姓に非ず、国を体し野を経、邦を建て都を設く、文質は再びして復する所以、正朔は三たびして改まる所以なり。夫れ正朔を改むるとは、夏后氏の寅を建つるを謂い、殷人は丑を建て、周人は子を建つるなり。日に月を系ぎ、月に時を系ぎ、時に年を系ぐるに至りては、これ三王相襲うの道なり。夫れ服色を易うるとは、夏后氏は黒を尚び、殷人は白を尚び、周人は赤を尚ぶを謂う。山・龍・華蟲・宗彜・藻・火・粉米・黼・黻に至りては、これまた百代知るべきの道なり。謹んで按ずるに《虞書》に曰く、「予古人之象を観んと欲す、日・月・星辰・山・龍・華蟲会を作し、宗彜・藻・火・粉米・黼・黻・絺繡す」と。これに由りて言えば、則ちその由来する所尚しきかな。日月星辰は、明らかな光下土を照らすなり。山は、雲雨を布散し、聖王の大沢下に沾うに象るなり。龍は、変化方無く、聖王の時に応じて教えを布くに象るなり。華蟲は、雉なり、身五彩を被り、聖王の体文明を兼ぬるに象るなり。宗彜は、武蜼なり、剛猛を以て物を制し、聖王の神武乱を定むるに象るなり。藻は、水に逐いて上下し、聖王の代に随いて応ずるに象るなり。火は、陶冶烹飪し、聖王の至徳日々に新たなるに象るなり。粉米は、人これに恃りて生く、聖王の物の頼る所たるに象るなり。黼は断割能くし、聖王の事に臨みて能く決するに象るなり。黻は、両己相背き、君臣可否相済すに象るなり。周氏に至りて、乃ち日月星辰を以て旌旗の節と為し、又龍を山に登せ、火を宗彜に登せ、ここにおいて袞冕を制して以て先王を祀るなり。九章は、陽数を法とす、龍を以て首章と為す。袞は、巻なり、龍の徳神異、応変潜見し、聖王の深識遠智、神化を巻舒するを表すなり。又柷冕を制して以て先公を祭るなり。柷は、雉なり、耿介の志有り、公に賢才有りて能く耿介の節を守るを表すなり。又毳冕を制して以て四望を祭るなり。四望は、嶽瀆の神なり。武蜼は、山林に生ず、その象を明らかにすなり。絺冕を制して以て社稷を祭るなり。社稷は、土谷の神なり。粉米これに由りて成り、その功を象るなり。又玄冕を制して以て群小祀を祭るなり。百神形を異にし、遍く擬し難し、但だ黻の相背くを取り、異名を昭らかにすなり。夫れ周公の多才を以てす、故に治定まりて礼を制し、功成りて楽を作す。夫れ孔宣の将聖を以てす、故に夏の時を行い、周の冕を服す。先王の法服は、乃ちこれより自ら出ず。天下の能事は、またここにおいて畢わるなり。今知幾表状を上して大明冕十三章を制し、乗輿これを服せしむるを請う。謹んで按ずるに、日月星辰は、既に旌旗に施せり。龍武山火は、また古を逾えず。而るに雲麟鳳に四霊の名有り、玄亀に負図の応有り、雲に紀官の号有り、水に盛徳の祥有り、これ別に休徴を表す蓋し、終には比象を逾ゆること無し。然らば則ち皇王命を受くれば、天地符を興し、仰ぎ観れば則ち璧合し珠連し、俯して察すれば則ち銀黄し玉紫す。南宮の粉壁を殫くすも、その形状を写すに足らず。東観の鉛黄を罄くすも、その名実を紀すべからず。固より法服に畢く陳ぶべからず。雲は、龍の気なり。水は、藻の自ら生ずる所なり。また別に章目を為すを仮らず、これ蓋し不経の甚だしきなり。又鸞冕八章、三公これを服す。鸞は、太平の瑞なり、三公の徳に非ず。鷹鹯は、鷙鳥なり、適に祥刑の職を弁ずるに可し。熊羆は、猛獣なり、適に武臣の力を旌ぐるに可し。又藻を称して水草と為し、法象する所無しとし、張衡の賦「蒂倒茄於藻井、披紅葩之狎獵」を引き、蓮華を為さんことを請い、その文彩を取る。夫れ茄は、蓮なり。若し蓮を以て藻に代え、古を変えて今に従わば、既に草木の名を知らず、また文章の意に達せず、これまた不経の甚だしきなり。又毳冕六章、三品これを服す。これを按ずるに、これ王者四望を祀るに服するの名なり。今三品乃ち王の毳冕に同じくするを得て、三公は王の袞名に同じくするを得ず、豈に唯だ衣裳を顛倒するのみならんや、抑も亦自ら矛盾す、これまた不経の甚だしきなり。又黻冕四章、五品これを服す。これを古に考うれば則ちその名無く、今に験うれば則ち章首に非ず、これまた不経の甚だしきなり。若し夫れ礼は唯だ俗に従うのみとせば、則ち命を制と為し、令を詔と為すは、乃ち秦皇の故事、猶以て今に適すべし。若し夫れ義は時に随いて取るとせば、則ち出でては警と称し、入りては蹕と称すは、乃ち漢国の旧儀、猶以て代に行わるべし。また何ぞ周公の軌物を変え、宣尼の法度を改むるを取らんや。

ここにおいて竟に知幾の請う所を寢す。

俄かに詹事司直に遷る。則天の初め、従祖弟神譲の逆を犯すに坐し、左遷されて梓州司法参軍と為る。秩満し、選授されて盈川令と為る。如意元年七月望日、宮中より盂蘭盆を出だし、分ち送りて仏寺にす、則天洛南門に禦し、百僚とこれを見る。炯《盂蘭盆賦》を献じ、詞甚だ雅麗なり。炯官に至り、政を為すに残酷、人吏動も如意ならざれば、輒ち搒殺す。又居る所の府舎、多く進士の亭臺を進め、皆榜額に書し、これが美名を為し、大いに遠近の笑う所と為る。無何官に卒す。中宗即位し、旧僚を以て追贈して著作郎と為す。文集三十巻。

炯は王勃・盧照鄰・駱賓王と文詞を以て斉しく名をなし、海内これを王楊盧駱と称し、亦「四傑」と号す。炯これを聞き、人に謂いて曰く、「吾れ盧の前に在るを愧じ、王の後に居るを恥ず」と。当時の議者、亦以て然りと為す。

その後崔融・李嶠・張説倶に四傑の文を重んず。崔融曰く、「王勃の文章宏逸、絶塵の跡有り、固より常流の及ぶ所に非ず。炯と照鄰はこれに企うべし、盈川の言信なり」と。説曰く、「楊盈川の文思は懸河の水に注ぐが如く、これを酌めども竭きず、既に盧に優り、また王に減ぜず。『王の後に居るを恥ず』は、信なり。『盧の前に在るを愧ず』は、謙なり」と。

開元中、説は集賢大学士と為ること十余年。常に学士徐堅と近代の文士を論じ、その雕喪を悲しむ。堅曰く、「李趙公・崔文公の筆術、一時に価を擅にす、その間孰れか優れる」と。説曰く、「李嶠・崔融・薛稷・宋之問の文は、良金美玉の如く、施すべからざる無し。富嘉謨の文は、孤峰絶岸の如く、壁立万仞、濃雲郁興し、震雷倶に発す、誠に畏るべし、若し廊廟に施せば則ち駭るべし。閻朝隠の文は、麗服靚〓荘の如く、燕歌趙舞、観者疲れを忘る、若し風・雅に類せば則ち罪人なり」と。後進の詞人の優劣を問うと、説曰く、「韓休の文は、大羹旨酒の如く、雅に典則有り、而して滋味に薄し。許景先の文は、豊肌膩理の如く、穠華可愛と雖も、而して微かに風骨少なし。張九齢の文は、軽縑素練の如く、実に時用を済し、而して微かに辺幅に窘し。王翰の文は、瓊杯玉斝の如く、爛然として珍むべしと雖も、多く玷缺有り」と。堅以て然りと為す。

従父 徳幹

虔威の子は徳幹、高宗の末年に、澤・齊・汴・相の四州刺史を歴任し、治績に威名があり、郡人はこれについて語って言うには、「三斗の蒜を食らうとも、楊徳幹に逢わざれ」と。

徳幹の子は神讓。

子の神讓は、天授の初めに徐敬業と揚州において謀叛を企て、父子ともに誅殺された。

王勃

王勃。字は子安、絳州龍門の人。祖父の通は、隋の蜀郡司戸書佐であった。大業の末に、官を棄てて帰り、著書講学を業とした。『春秋』の体例に依り、獲麟以後、秦・漢より後魏に至るまで、紀年の書を著し、これを『元経』と謂う。また『孔子家語』・揚雄の『法言』の例に依り、客主の対答の説を為し、号して『中説』と曰う。いずれも儒士に称せられた。義寧元年に卒し、門人の薛收ら相い議りて謚して文中子と曰う。二子あり:福畤・福郊。

勃は六歳にして文を綴ることを解し、構思に滞りなく、詞情英邁にして、兄の勔・勮と才藻相類であった。父の友の杜易簡は常にこれを称して言うには、「これ王氏の三珠樹なり」と。勃は年未だ冠に及ばず、幽素挙に応じて及第した。乾封の初め、闕に詣でて『宸遊東嶽頌』を上る。時に東都に乾元殿を造営し、また『乾元殿頌』を上る。沛王の賢その名を聞き、召して沛府修撰と為し、甚だこれを愛重した。諸王の闘鶏、互いに勝負あり、勃戯れて『檄英王鶏文』を為す。高宗これを見て、怒って曰く、「これに拠れば是れ交構の漸なり」と。即日勃を斥け、府に入ることを許さず。久しくして、虢州参軍を補す。

勃は才を恃みて物に傲り、同僚に嫉まれた。官奴の曹達が罪を犯し、勃これを匿い、また事の泄るるを懼れ、乃ち達を殺して口を塞ぐ。事発し、誅に当たるべく、赦に会い名を除かれた。時に勃の父福畤は雍州司戸参軍たり、勃に坐して交趾令に左遷された。上元二年、勃交趾に往きて父を省み、道江中に出で、『采蓮賦』を為して意を見す。その辞甚だ美なり。南海を渡り、水に堕ちて卒す。時に年二十八。

苾は、弱冠にして進士に登第し、累ねて太子典膳丞を除かれる。長寿年中、擢て鳳閣舎人と為る。時に寿春王成器・衡陽王成義ら五王初めて出閣し、同日に冊を授かる。有司儀註を撰すも、冊文を載するを忘る。及び百僚列に在りて、方に礼の欠くるを知り、宰相相顧みて色を失う。苾直ちに書吏五人を召し、各々筆を執らしめ、口に占めて分ち書きせしめ、一時に倶に畢る。詞理典贍にして、人皆嘆服す。尋いで弘文館学士を加え、天官侍郎を兼ね知る。苾は頗る権勢に任じ、非類と交結す。万歳通天二年、綦連耀謀逆の事泄れ、閟は耀と善しと坐し、弟の閟と並びに誅せられる。

閟は累官して涇州刺史に至る。神龍の初め、詔有りて苾・閟の官位を追復す。

福畤は、天後朝に子の貴に以て、累ねて転じて澤州長史となり、卒す。

初め、吏部侍郎裴行儉は選を典とし、人を知るの鑑有り、苾と蘇味道を見て、人に謂いて曰く、「二子も亦た銓衡の任を掌るべし」と。李敬玄は特に楊炯・盧照鄰・駱賓王と勃ら四人を重んじ、必ず顕貴すべしとす。行儉曰く、「士の致遠は、先ず器識にして後に文藝なり。勃らは文才有りと雖も、而して浮躁浅露、豈に爵禄の器を享くべきや。楊子は沈静にして、令長に至るべく、余は令終を得て幸いと為す」と。果たして其の言の如し。

勃の文章は邁捷にして、筆を下せば則ち成り、特に書を著すことを好む。『周易發揮』五巻、及び『次論』等の書数部を撰す。勃の亡き後、並びに多く遺失す。文集三十巻有り。勃は聰警衆に絶し、推歩歴算に特に精しく、嘗て『大唐千歳歴』を作り、唐徳の霊長千年なるを言い、周・隋の短祚を承くるに合わずとす。その論の大旨云く、「土を以て王たる者は、五十代にして一千年。金を以て王たる者は、四十九代にして九百年。水を以て王たる者は、二十代にして六百年。木を以て王たる者は、三十代にして八百年。火を以て王たる者は、二十代にして七百年。これ天地の常期、符歴の数なり。黄帝より漢に至るまで、並びに是れ五運の真主なり。五行已に遍くし、土運復た帰る。唐徳これを承く、宜なるかな。魏・晋より周・隋に至るまで、皆な正統に非ず、五行の沴気なり。故にこれを承くべからず」と。大率かくの如し。

駱賓王

駱賓王は、婺州義烏の人。少より文を綴るに善く、特に五言詩に妙なり。嘗て『帝京篇』を作り、当時絶唱と為す。然れども落魄して行い無く、博徒と遊ぶを好む。高宗の末、長安主簿と為る。贓に坐し、臨海丞に左遷され、怏怏として志を失い、官を棄てて去る。文明年中、徐敬業と揚州において乱を作す。敬業の軍中の書檄は、皆な賓王の詞なり。敬業敗れ、誅せられ、文多く散失す。則天は素より其の文を重んじ、使を遣わしてこれを求む。兗州の人郤雲卿有りて十巻に集成し、世に盛んに伝わる。

鄧玄挺

鄧玄挺は、雍州藍田の人である。若くして文章を作ることに長じ、累進して左史となった。上官儀と親しかったことで罪を得て、頓丘令に出された。善政があり、璽書をもって労問された。累進して中書舍人を授けられた。性質は才知に富み弁舌に優れ、機知は人に勝り、しばしば嘲笑や戯言を発し、朝廷では口実と称された。則天が朝政に臨むと、吏部侍郎に遷ったが、職務に適わず、甚だ当時の談論に軽蔑された。また消渇の病を患い、選人は彼を「鄧渴」と目し、街路に掲示した。唐が興って以来、選挙を掌る者の失態は、玄挺の如き者はなかった。このことで罪を得て澧州刺史に左遷された。州にあって再び善政で知られ、晉州刺史に遷り、召されて麟臺少監に拝され、重ねて天官侍郎となったが、その失態は前よりも甚だしかった。玄挺の娘は道王の子諲の妻であり、また蔣王の子煒とも親しかった。諲は房陵において中宗を迎えようと謀り、玄挺に問うた。煒もまたかつて玄挺に言った、「急を要する計略を為そうと思うが如何か」と。玄挺はいずれも答えなかったが、告げることもなかった。永昌元年に罪を得て、獄に下され死んだ。