旧唐書 邢文偉

旧唐書

邢文偉

邢文偉は滁州全椒の人である。若い頃、和州の高子貢・寿州の裴懷貴とともに博学をもって江・淮の間で名を知られた。咸亨年中、累遷して太子典膳丞となった。時に孝敬(太子弘)は東宮にあって、めったに宮臣と接見せず、文偉はすなわち膳を減らし、上書して曰く、

臣がひそかに見るに、『礼記』(戴聖の伝えるもの)に曰く、『太子は既に冠して成人し、保傅の厳しさを免れると、則ち司過の史と徹膳の宰と有り。史の義は、過を司らざるを得ず、宰の義は、膳を徹さざるを得ず、膳を徹さざれば則ち死す』と。今、皇帝は前典に則り、英俊を妙簡し、庶子以下より、諮議・舍人及び学士・侍読等に至るまで、殿下を翼佐して聖徳を成さしめんとす。近日以来、甚だ延納せず、談議も親しまず、謁見も尚稀にして、三朝の後は、ただ内人と独居す。何をもって聖智を発揮し、えい哲を文明たらしめんや。今、史は官を闕くも、宰は職を奉ずべし。忝くも所司に備わり、敢えて死を逃れず、謹んで礼経を守り、すなわち膳を減らすことを申す。

太子の答書に曰く、

顧みるに庸虚をもって、早くより墳典を尚び、毎に政術を研精し、書林に極意せんと欲す。但し往時幼年に在りて、将衛に未だ閑ならず、誠を竭くして誦に耽り、因りて即ち心を損ず。比日以来、風虚更に積もり、中より恩旨を奉じて、重労を許さず。加うるに含元に趨侍し、朝夕を温清し、親に承くるに専無きの道を以てし、礼に遵うに色養を以て先と為す。是をもって屡々坐朝を闕き、時に学緒に乖く。公潜かに勖戒を申し、聿に忠規を薦む。敬って来請を尋ぬるに、良く宿志に符す。自ら情思審諭に非ず、義均しく弼諧せば、豈に能く此の薬言を進め、簡墨に形さんや。躬を撫みて三省し、感愧兼ねて深し。

文偉は是より益々知名となる。

その後、右史に官を缺く。高宗、侍臣に謂ひて曰く、「邢文偉、我が児に事へ、能く膳を減らして切に諫む。此れ正直の人なり」と。遂に擢びて右史に拝す。則天の朝に臨み、累遷して鳳閣侍郎、弘文館学士を兼ぬ。載初元年、内史に遷る。

天授初め、内史宗秦客、奸贓を以て罪を得る。文偉、秦客に附会したるに坐し、貶授せられて珍州刺史となる。後に制使の其の州境に至る有り、文偉は己を殺さんとすと以為ひ、遽に自縊して死す。

高子貢

高子貢は、和州歴陽の人である。弱冠にして太学に遊び、遍く『六経』に渉り、特に『史記』に精しい。文偉及び亳州の朱敬則と莫逆の交わりを為す。明経に挙げられ、歴任して秘書正字・弘文館直学士となる。鬱鬱として志を得ず、官を棄てて帰る。

時に徐敬業が揚州に於いて乱を作るに属し、弟の敬猷を遣わして兵五千人を統べ、江に沿って西上し、将に和州を逼らんとす。子貢は郷曲数百人を率いて之を拒ぎ、是より賊敢えて犯さず。功を以て擢授せられて朝散大夫となり、成均助教に拝す。

虢王鳳の子、東莞公融は、曾て和州刺史たりし時、子貢に従って業を受く。情義特に深し。融が申州となるに及び、陰かに異志を懐く。黄公撰をして子貢に結交せしめ、謀主として推す。潜かに謀り密に議し、書信往復し、諸王内外相応ずること、皆其の策より出づ。尋で事発し、誅せらる。

郎餘令

郎餘令は、定州新楽の人である。祖父の楚之は、若い頃兄の蔚之とともに重名有り。隋の大業年中、蔚之は左丞となり、楚之は尚書民曹郎となる。よう帝は其の兄弟を重んじ、二郎と称す。楚之は、武徳初めに大理卿となり、太子少保李綱・侍中陳叔達と律令を撰定す。後に詔を受けて山東を招諭す。竇建徳に獲られ、兵刃を以て脅し、又厚利を以て誘うも、楚之は終に屈せず。還りて後、年老いて以て致仕す。貞観初めに卒す。時に年八十。

餘令の父は知運、貝州刺史。兄の餘慶は高宗の時に萬年令となり、統治に威名があり、京城では道に落とし物を拾わず、後に交州都督の任で没した。

餘令は若くして博学で知られ、進士に挙げられた。初め霍王元軌の府参軍に任じられ、しばしば詞賦を献上し、元軌は深く礼遇した。先に、餘令の従父知年が霍王友となり、これも推仰された。元軌は人に言うには、「郎氏の両賢は、人の望みである。相次いで府に入るとは、思いがけず小高い丘に松柏が林を成すようだ」と。幽州録事参軍に転じた。時に客僧が徒党を集めて自ら焼死しようとし、長史裴照が官属を率いて見に行こうとした。餘令は言うには、「生を好み死を憎むは、人の性である。教義に背き、人情に近からざるは、明公が重鎮を輔守するに当たり、その奸詐を察すべきであり、軽挙してこの妖妄を見るべきではない」と。照はその言に従い、僧を収めて取り調べたところ、果たして詐りの状を得た。

孝敬(太子)が東宮にあった時、餘令は梁の元帝の『孝徳伝』を継ぎ、『孝子後伝』三十巻を撰して献上し、大いに嘆賞された。累遷して著作佐郎となった。『隋書』を撰したが未成のまま、病に罹って卒し、当時の人は甚だ痛惜した。

路敬淳

路敬淳は貝州臨清の人である。父は文逸。隋の大業の末、一家は盗賊に遭い、文逸は草沢に潜み隠れ、昼は死人の中に伏し、夜は避難して行った。自ら窮状を傷み、口を閉ざして食わなかった。同輩はその謹直を哀れみ、命を絶つべきではないと諭し、拾い集めて食べさせ、代わる代わる背負って行き、遂に難を免れた。貞観の末、官は申州司馬に至った。

敬淳は末弟の敬潜と共に早くから知名であった。敬淳は特に学問に勤勉で、門庭を窺わず、広く典籍を読み、孝友篤敬であった。喪に遭い、三年の間廬舎から出ず、喪服を除いて初めて号慟して妻に会いに行ったが、容貌は痩せ衰え、妻は彼と認識できなかった。

後に進士に挙げられた。天授年中、司礼博士・太子司議郎を歴任し、国史を修め、崇賢館学士を授けられた。しばしば詔を受けて吉凶雑儀を修緝し、則天は深く重んじた。萬歳通天二年、綦連耀と交結した罪で、獄に下されて死んだ。

敬淳は特に譜学に明るく、その根源枝派をことごとく究めることができ、近代以来、彼に及ぶ者はいなかった。『著姓略記』十巻を撰し、当時に流行した。また『衣冠本系』を撰したが、未成のまま死んだ。神龍初年、追贈して秘書少監とした。

敬潜は官は中書舎人に至った。

王元感

王元感は濮州鄄城の人である。若くして明経に挙げられ、累次補任されて博城県丞となった。兗州都督・紀王慎は深く礼遇し、その子の東平王続に命じて元感に学ばせた。天授年中、左衛率府録事に遷り、弘文館に直した。その後、則天が親しく南郊で祭祀し、明堂で饗宴し、すう嶽を封じるに当たり、元感は皆詔を受けて諸儒と共に儀注を撰定し、凡そ立てた議は、衆人咸しく推服した。四門博士に転じ、なお弘文館に直した。元感は当時年老いていたが、なおも燭の下で書を見、徹夜して眠らなかった。

学士の祝欽明・郭山惲・李憲らは皆先儒の章句を専ら守り、元感が旧義を批判することを深く譏ったが、元感は臨機応変に応答し、遂に屈服しなかった。鳳閣舎人魏知古・司封郎中徐堅・左史劉知幾・右史張思敬は、雅に異聞を好み、常に元感のためにその義を弁護し、連名で表を上って推薦した。まもなく詔が下りて言うには、「王元感は質性温敏、博聞強記、手から巻を離さず、老いてますます篤い。前達の過失を指摘し、先聖の旨を究め、これこそ儒宗と言うべきで、得難き者である。太子司議郎とし、崇賢館学士を兼ねよ」と。魏知古はかつてその撰した書を称して言うには、「まことに『五経』の指南と言うべきである」と。中宗が即位すると、春宮(太子宮)の旧僚として、朝散大夫を加えられ、崇賢館学士に拝された。まもなく卒した。

王紹宗

王紹宗は揚州江都の人で、梁の左民尚書銓の曾孫であり、その祖先は瑯邪からここに移った。紹宗は若くして学問に勤勉で、経史を広く読み、特に草隸に巧みであった。家は貧しく、常に雇われて仏経を書き写して自活し、毎月自ら支給する銭が足りれば即座に止め、たとえ高価で倍額であっても、即座に断った。寺に寓居し、清浄を以て自ら守り、ほぼ三十年に及んだ。文明年中、徐敬業が揚州で乱を起こし、その高行を聞き、使者を遣わして召し出そうとしたが、紹宗は病と称して固辞した。また唐之奇に命じてその居宅に親しく赴かせて迫ったが、遂に起たなかった。敬業は大怒し、殺そうとした。之奇は言うには、「紹宗は人望があり、殺せば士衆の心を傷つける恐れがある」と。これによって難を免れた。賊が平定されると、行軍大総管李孝逸がその状況を上奏し、則天は駅伝で召し出して東都に赴かせ、禁中に引き入れ、親しく慰撫し、太子文学に抜擢し、累遷して秘書少監となり、なお皇太子の読書に侍った。

紹宗は性淡雅で、儒素をもって称され、当時の朝廷の士は皆敬慕した。張易之兄弟も厚礼を加えた。易之が誅殺されると、紹宗は交際の罪に連座して廃され、郷里で卒した。

韋叔夏

韋叔夏は、尚書左僕射韋安石の兄である。若くして『三礼』に精通した。その叔父の太子詹事韋琨が嘗て言うには、「汝がこのようにできるなら、丞相の業を継ぐことができるであろう」と。明経に挙げられ、調露年間に累次昇進して太常博士に任じられた。後に高宗が崩御し、山陵の旧儀が多く廃れ欠けていたので、叔夏は中書舎人賈太隠・太常博士裴守貞らと共に、草創して撰定し、これにより春官員外郎を授けられた。則天武后が洛を拝し及び明堂を饗するに当たり、皆別に制を受けて、当時の大儒祝欽明・郭山惲と共に儀注を撰定した。凡そ立てた議は、衆皆これを推服した。累遷して成均司業となった。久視元年、特に制を下して曰く、「吉凶の礼儀は国家の重んずる所であるが、司礼博士は甚だ詳明ではない。成均司業韋叔夏・太子率更令祝欽明らは、広く礼経に渉り、多く該練するところがある。参掌を委ねて、典式を弘めることを冀う。今より司礼の修める儀注は、並びに叔夏らに委ねて刊定を終え、然る後に進奏せよ」と。

子の韋縚は、太常卿となった。

祝欽明

祝欽明は、雍州始平の人である。若くして『五経』に通じ、兼ねて衆史百家の説に渉った。明経に挙げられ、長安元年に累遷して太子率更令となり、崇文館学士を兼ねた。中宗が春宮に在った時、欽明は兼ねて侍読を充てられた。

二年、太子少保に遷った。中宗が即位すると、侍読の故を以て、抜擢して国子祭酒・同中書門下三品に拝し、位を銀青光禄大夫に加え、刑部・礼部二尚書を歴任し、国史の修撰を兼ね、仍って政事を知り、累封して魯国公となり、実封三百戸を食んだ。尋ねて忌日を匿したことを、御史中丞蕭至忠に弾劾され、貶授されて申州刺史となった。久しくして、入朝して国子祭酒となった。

謹んで『周礼』を按ずるに、天神を祀と曰い、地祇を祭と曰い、宗廟を享と曰う。大宗伯の職に曰く、「大神を祀り、大祇を祭り、大鬼を享け、その大礼を理す。若し王に故有りて預からざれば、則ち位を摂す。凡そ大祭祀、王后預からざれば、則ち摂りて豆籩を薦め、徹す」と。又、追師の職に、「王后の首服を掌り、以て祭祀を待つ」と。又、内司服の職に、「王后の六服を掌る。凡そ祭祀、後の衣服を供す」と。又、九嬪の職に、「大祭祀、后が稞献すれば則ち賛し、瑶爵も亦た之の如し」と。此の諸文に拠れば、即ち皇后は皇帝を助けて天神を祀り、地祇を祭るに合うことは、明らかである。故に鄭玄が『内司服』に註して云う、「闕狄は、皇后が王を助けて群小祀を祭るの服なり」と。然らば則ち小祀に尚お王を助けて祭る、中祀・大祀は推して知るべし。闕狄の上に、猶お両服有り:第一は祎衣、第二は揺狄、第三は闕狄。此の三狄は、皆助祭の服なり。闕狄は即ち小祀を助祭することを知れば、即ち揺狄は中祀を助祭し、祎衣は大祀を助祭することを知る。鄭は一隅を挙げたる故に、委しく説かず。唯だ宗廟を祭るに、『周礼』に王に両服有り、先王には袞冕、先公には鷩冕。鄭玄は此に因りて后が宗廟を助祭するも、亦た両服に分ちて云う、「祎衣は先王を助祭し、揺狄は先公を助祭す」と。天地社稷を助祭することを言わざるは、自ら宜しく三隅にして反すべし。且つ『周礼』の正文に、「凡そ祭、王后預からず」と。既に宗廟を専ら言わざれば、即ち天地を兼ね祀ることを知り、故に「凡そ」と云うなり。又、『春秋外伝』に云う、「禘郊の事は、天子自ら其の牲を射り、王后自ら其の粢を舂く」と。故に代婦の職に但だ云う、「王后の礼事を詔す」と、宗廟を主として言わざるなり。若し専ら宗廟を主とするならば、則ち内宗・外宗の職は皆「宗廟の祭祀を掌る」と言う。此れ皆礼文分明にして、疑惑に合わざるなり。旧説に、天子は天を父とし、地を母とし、日を兄とし、月を姉とするを以て、天を南郊に祀り、地を北郊に祭り、日を東門の外に朝するは、以て神に事えることを昭かにし、人事を訓え、君必ず躬親して之を礼し、故有りて然る後に使いて摂らしむ、是れ其の義なり。『礼記・祭統』に曰く、「夫れ祭とは、必ず夫婦親しく之を行う、以て内外の官を備うる所以なり。官備われば則ち具備わる」と。又、「哀公、孔子に問うて曰く、『冕して親迎するは、已に重からずや』と。孔子愀然として色を作し対えて曰く、『二姓の好を合わし、以て先聖の後を継ぎ、以て天地宗廟社稷の主と為さんとするなり、君何を以て已に重しと謂うや』と」。又、『漢書・郊祀志』に云う、「天地合祭し、先祖を以て天に配し、先妣を以て地に配す。天地は合精し、夫婦は判合す。天を南郊に祭るには、則ち地を以て配す、一体の義なり」と。此の諸文に拠れば、即ち皇后が助祭に合うことを知り、望むらくは別に助祭の儀注を修め、同じく進むことを請う。

帝は頗る疑いと為し、礼官を召して親しく之を問うた。太常博士唐紹・蔣欽緒対えて曰く、「皇后が南郊に助祭するは、礼に合わず。但だ欽明の執る所は、宗廟を祭る礼にして、天地を祭る礼に非ず。謹んで魏・晋・宋及び斉・梁・周・隋等の歴代史籍を按ずるに、郊天祀地に至るまで、並びに皇后の助祭する事無し」と。帝は宰相に命じて両家の状を取らせて対定せしめた。欽緒は唐紹及び太常博士彭景直と又た奏議して曰く、

『周礼』において祭・祀・享の三語を言うものは、皆祭祀の互いに通ずる名称であり、本来一定の定義はない。どうしてこれを明らかにするか。『周礼』典瑞の職を見ると、「両珪に邸あり、以て地を祀る」とある。すなわち地を祭ることも祀と称するのである。また司筵に「祀先王の胙席を設く」とある。すなわち宗廟を祭ることも祀と称するのである。また内宗の職に「宗廟の祭祀を掌る」とある。これまた天のみを祀と称し、地を祭と称するのではない。また『礼記』を見ると、「惟だ聖のみ能く帝を享く」とある。これはすなわち天帝を祀ることも享と言うのである。また『孝経』を見ると、「春秋祭祀し、時に之を思う」とある。これはすなわち宗廟も祭祀と言うのである。経典のこのような文は、数え尽くすことができない。これに拠れば、欽明の執る所の天を祀と曰い、地を祭と曰い、廟を享と曰うのは、定説と為し得ないことは、明らかである。また『周礼』において大祭祀と言うものは、天地宗廟の祭祀の総称であり、天地のみを大祭とするのではない。どうしてこれを明らかにするか。『爵人の職』を見ると、「大祭祀には、量人と挙斝の卒爵を授ける」とある。屍と斝は皆宗廟の事柄であるから、宗廟もまた大祭祀と称するのである。また欽明の状が引く九嬪の職に「大祭祀には、后が稞献すれば則ち瑤爵を賛す」とある。祭天には稞がなく、また瑤爵もないことを考えると、これは宗廟が大祭祀と称する明白な文である。欽明の執る所の大祭祀が即ち天地を祭ることであるというのは、定説と為し得ないことは、明らかである。また『周礼』大宗伯の職に「凡そ大祭祀、王后に故有りて預からざれば、則ち摂りて豆籩を薦め、徹す」とある。欽明は唯だこの文を執って、王后に天地を祭る礼有りと為す。欽緒等はこれに拠れば、これは王后が宗廟に薦める礼であって、天地を祭る事柄ではないと考える。どうしてこれを明らかにするか。この文を見ると、「凡そ大神を祀り、大祇を祭り、大鬼を享け、執事を帥いて日を卜し宿し、滌濯を視、玉鬯に蒞み、牲鑊を省み、玉齏を奉じ、大号を詔し、其の大礼を理め、王の大礼を詔相す。若し王祭祀に与からざれば、則ち位を摂る」とある。この上までの一つの「凡そ」は、直ちに王が天地宗廟の祭祀を兼ねる事柄であるから、大神・大祇・大鬼の祭を通して言うのである。以下の文に「凡そ大祭祀、王后与からざれば、則ち摂りて豆籩を薦め、徹す」とある。この一つの「凡そ」は、直ちに王后が廟を祭る事柄であるから、唯だ大祭祀と言うのである。もし王后が天地を助祭すると云うならば、重ねて「凡そ大祭祀」の文を起こすべきではない。王后に天地を祭る疑い有りを嫌って、故に後の「凡そ」を重ねて起こしてこれを別にしたのである。王后が廟を祭ることは、自ら大祭祀である。何故上の「凡そ」の王の礼を相うことを取り、下の「凡そ」の王后が宗廟を祭る文と混同するのか。これは本経の科段が明白である。また『周礼』を見ると、「外宗は宗廟の祭祀を掌り、王后の玉豆を薦めるを佐く。凡そ后の献するも、亦之の如し。王后に故有りて預からざれば、則ち宗伯摂りて豆籩を薦む」とある。外宗には天地を祭るを佐ける礼はない。但し天地は質を尚び、宗廟は文を尚ぶ。玉豆は宗廟の器であって、初めより祭天に設ける所ではない。欽明に問う、もし王后が天地を助祭するならば、『周礼』において何人をして賛佐せしめるか。もし宗伯が后に代わって豆を薦めて天を祭るならば、又何人をして賛佐に合わしめるか。併せて礼文を明らかに徴することを請う。即ち摂って薦むことが宗廟の礼であることが明らかとなる。『周礼・司服』を見ると、「王昊天上帝を祀れば、則ち大裘を服して冕す。先王を享ければ、則ち袞冕す」とある。内司服は「王后の祭服を掌る」とあるが、王后の祭天の服はない。『三礼義宗』を見ると、王后の六服を明らかにし、祎衣・揺翟・闕翟・鞠衣・展衣・褖衣を謂う。「祎衣は王に従い先王を祭れば則ち之を服し、揺翟は先公を祭り及び諸侯を饗すれば則ち之を服し、鞠衣は以て桑を采れば則ち之を服し、展衣は以て礼して王を見及び賓客を見れば則ち之を服し、褖衣は燕居に之を服す」とある。王后には天地に於いて助祭する服はなく、但だ先王以下である。また『三礼義宗』は后夫人の服を明らかにして云う、「后は天地五嶽を助祭せず、故に天地四望を助ける服無し」と。これに拠れば、王后に祭天の服無きことは、明らかである。『三礼義宗』は王后の五輅を明らかにし、重翟・厭翟・安車・翟車・輦車を謂う。「重翟は、后王に従い先王・先公を祭るに乗る所なり。厭翟は、后王に従い諸侯を饗するに乗る所なり。安車は、后宮中に朝夕王に見ゆるに乗る所なり。翟車は、后桑を求めるに乗る所なり。輦車は、後遊宴するに乗る所なり」と。これに拠れば、王后に祭天の車無きことは、明らかである。また『礼記・郊特牲・義賛』に云う、「祭天に稞無し。鄭玄の注に云く、『唯だ人道宗廟に稞有り。天地の大神は、至って尊くして稞せず』と。円丘の祭は、宗廟と相同じからず。朝践に、王は泛斉を酌みて以て献ず、是れ一献なり。后に祭天の事無し。大宗伯次いで醴斉を酌みて以て献ず、是れを二献と為す」と。これに拠れば、円丘を祭るに、大宗伯は王に次いで献ずるのであって、王后の事を摂るのではない。欽明等の執る所の王后に故有りて預からざれば、則ち宗伯摂りて豆籩を薦むというのは、更に王后の宗廟の薦を摂ることを明らかにし、天地の祀を摂るのではないことは、明らかである。

欽明の建議は『礼記・祭統』を引いて曰く、「夫れ祭なる者は、必ず夫婦之に親しむ」と。これに拠れば、これは王と后が宗廟を祭る礼であって、天地を祀る義に関わるものではない。漢・魏・晋・宋・後魏・齊・梁・周・陳・隋等の歴代史籍を見るに、興王令主が郊天祀地するも、代々其の礼有り、史に書を闕かず、併せて往代の皇后が助祭した事跡を見ない。また高祖神堯皇帝・太宗文武聖皇帝が南郊にて天を祀るも、皇后の助祭した処無し。高宗天皇大帝の永徽二年十一月辛酉に親しく南郊に事有り、又総章元年十二月丁卯に親しく南郊を拝するも、亦併せて皇后の助祭した処無し。また『大唐礼』を見るも、亦皇后の南郊助祭の礼無し。

欽緒等は幸いに礼官に忝くし、聖問を親しく承け、聞見を竭く尽くし、敢えて依随せず。伏して惟うに、主上は古に稽え、旧典に志して遵う。議する所の助祭は、実に明文無し。

時に尚書左僕射韋巨源は又旨に希い、欽明の議に協同す。上其の言を納れ、竟に后を以て亜献と為し、仍て大臣李嶠等の女を補い斉娘と為し、以て籩豆を執らしむ。及び礼畢りて、特詔して斉娘に夫婿有る者は、咸く改官せしむ。

景雲初め、侍御史倪若水は欽明及び郭山惲を劾奏して曰く、「欽明等は本より腐儒に自り、素より操行無く、崇班列爵するは、実に叨忝なり。而るに涓塵も効むる莫く、諂佞を能と為す。遂に曲台の礼、円丘の制、百王の故事をして、一朝に墜失せしむ。所謂る常を乱し作を改め、旨に希い君を病む、人の不才、遂に此に至る。今聖明歴を馭し、賢良用いられ、惟だ此の小人、猶お朝列に在り。臣請う、併せて黜放に従い、以て周行を粛せん」と。ここに於いて欽明を左授して饒州刺史と為す。後に入りて崇文館学士と為る。尋いで卒す。

郭山惲

郭山惲は蒲州河東の人である。若くして『三禮』に通じた。景龍年間、累進して國子司業となった。時に中宗はしばしば近臣及び修文學士を引き連れ、彼らと宴を催し、嘗て各人に技芸を披露させ、笑い楽しみとした。工部尚書張錫は『談容娘舞』を舞い、将作大匠宗晉卿は『渾脫』を舞い、左衛將軍張洽は『黄麞』を舞い、左金吾衛將軍杜元琰は『婆羅門呪』を誦し、給事中李行言は『駕車西河』を唱え、中書舎人盧藏用は道士の上章を真似た。山惲のみが奏上して言うには、「臣は解することは何もございません。古詩二篇を誦することを請います」と。帝はこれに従い、そこで『鹿鳴』、『蟋蟀』の詩を誦した。奏上が未だ終わらぬうちに、中書令李嶠はその詞に「好楽無荒」の語があることを以て、甚だ規諫に及ぶものとし、怒って旨に逆らうものと為し、急ぎこれを止めた。

翌日、帝は山惲の意を嘉し、詔して曰く、「郭山惲は経史に業優れ、古今に識を貯え、『八索』、『九丘』、由来遍く覧み、前言往行、実に該詳する所なり。昨者其の豫遊に因り、式に朝彦を宴し、既に歓洽に乗じ、咸く詠歌せしむ。遂に能く志を匡時に在らしめ、潜かに規諷を申べ、謇謇の誠弥切に、諤諤の操逾明なり。宜しく褒揚を示し、此の鯁直を美とすべし」と。時に時服一幅を賜う。尋いで祝欽明と共に皇后の郊祀を助祭する議を献上す。景雲年中、左遷されて括州長史と為る。開元初め、復た入朝して國子司業と為る。官にて卒す。

柳冲

柳冲は蒲州虞郷の人なり、隋の饒州刺史柳莊の曾孫なり。其の先は江左に仕え、代々襄陽に居す。陳滅亡後、郷里に還る。父楚賢、大業末、河北県長と為る。時に堯君素は郡城を固守し、以て義師に拒ぐ。楚賢進みて説きて曰く、「隋の将に亡ぼんとするや、天下皆知る。唐公の名は図籙に応じ、動くに信義を以てし、豪傑響応し、天の賛する所なり。君子は機を見て作し、終日を俟たず、禍を転じて福と為す、今其の時なり」と。君素従わず、楚賢潜かに行きて国に帰る。高祖甚だ悦び、侍御史に拝す。貞観年中、累転して光禄少卿と為り、突厥に使いして李思摩を存撫す。突厥馬百匹及び方物を贈るも、悉く拒みて受けず。累転して交、桂二州都督と為り、皆能名有り。杭州刺史にて卒す。

冲は博学、特に世族に明るく、名は路敬淳に次ぐ。天授初め、司府主簿と為り、詔を受けて淮南に往き安撫す。使い還り、爵を河東県男に賜う。景龍年中、累遷して左散騎常侍と為り、国史を修す。

初め、貞観年中太宗学者に命じて『氏族志』百巻を撰せしめ、以て士庶を甄別す。是に至るまで百年に近く、而して諸姓至って興替有り。冲乃ち上表して氏族の改修を請う。中宗冲に命じ、左僕射魏元忠及び史官張錫、徐堅、劉憲等八人と、『氏族志』に拠り、重ねて修撰せしむ。元忠等功を施すこと未だ半ばならず、相継いで卒す。乃ち外職に遷す。先天初めに至り、冲始めて侍中魏知古、中書侍郎陸象先及び徐堅、劉子玄、吳兢等と『姓族系録』二百巻を撰成し、奏上す。

冲後、太子詹事、太子賓客、宋王傅、昭文館学士を歴任し、老疾を以て致仕す。開元二年、又勅して冲及び著作郎薛南金に『系録』を刊定せしめ、奏上し、絹百匹を賜う。五年卒す。

盧粲

盧粲は幽州范陽の人、後魏侍中盧陽烏の五代孫なり。祖父彦卿、『後魏紀』二十巻を撰し、時に行わる。官は合肥令に至る。叔父行嘉、亦学渉有り、高宗時に雍王記室と為る。粲は経史を博覧し、弱冠にして進士に挙げらる。景龍二年、累遷して給事中と為る。時に節湣太子初めて立てらる。韋庶人は己が生みしに非ざるを以て、深く忌嫉を加え、中宗を勧めて勅を下し、太子に令せしめて衛府の封物を却って取り、毎年以て服用に供えしむ。粲駁奏して曰く、「皇太子は継明の重きに処り、主鬯の尊きに当たり、歳時の服用は、自ら百司の供擬すべし。又『周官』に拠れば、諸応用の財器は、歳終れば則ち会す。唯だ王及び太子の応用物は、並びに会せず。此れ則ち儲君の費、皆王と同なり。今列国諸侯と斉衡して封に入るは、豈に所謂往昔に憲章し、将来に法を垂れる者なるや。必ずや青宮初めて啓き、服用の資する所は、自ら広く庫物を支うべく、長く藩封に存すべからず」と。詔してこれに従う。

後、安楽公主の婿武崇訓が節湣太子に殺され、特旨を以て魯王を追封し、司農少卿趙履温に葬事を監護せしむ。履温公主を諷して奏請せしめ、永泰公主の故事に依り、崇訓の為に陵を造らしむ。詔して其の請いに従う。粲駁奏して曰く、

伏して尋ぬるに、陵の称謂は、本皇王及び儲君等に属す。皇家已来、諸王及び公主の墓、陵と称する者無し。唯だ永泰公主は恩を承けて特葬せられ、事常途を越ゆ。以て名と為すに引くべからず。『春秋左氏伝』に云く、「衛の孫桓子斉と戦う。衛の新築大夫仲叔於奚孫桓子を救い、桓子免る。衛人之に邑を以て賞す。於奚辞し、曲懸、繁纓を請うて以て朝せんとす。之を許す。仲尼之を聞きて曰く、『惜しいかな、邑を多く与うるに如かず。唯だ名と器は、以て人に仮すべからず。若し以て人に仮せば、之に政を与うるなり。政亡びれば則ち国これに従う』」と。聖人は微を知り章を知る、慎まざるべからず。魯王の哀栄の典、誠に別に恩を承く。然れども国の名器、豈に妄りに仮すべけんや。又塋兆の称、永泰公主を仮りて名と為すべからず。貞観已来の諸王の旧例に比するを請う。豊厚を得るに足れり。

手勅を以て答えて曰く、「安楽公主と永泰公主は異なること無し。同穴の義、古今殊ならず。魯王は縁自ら特為に陵制す。固執煩わすなかれ」と。粲又奏して曰く、

臣聞く、陵の称謂は、尊極に施し、王公已下に属さず。且つ魯王若し親等第を論ぜんと欲せば、則ち雍王に親しまず。雍王の墓、尚ほ陵と称せず。魯王自ら公主に尚るを以て号を加うべからず。且つ君の事を挙ぐるは、則ち方冊に載し、或いは往典に稽え、或いは前朝に考う。臣歴めて貞観已来を検するに、駙馬の墓陵と称するを得る者無し。且つ君人の礼、服は傍期に絶つ。蓋し独り其の親を親しまず、独り其の子を子とせざるが為なり。陛下は膝下の恩愛を以て、其の夫に施し及び、贈賵の儀、哀栄足れり備わる。豈に上下を弁え無くし、君臣を一貫せしむべきや。又安楽公主は両儀の沢を承け、福禄の基を履み、南山を指して以て年を錫け、北辰を仰ぎて以て永く庇わらん。魯王の葬、車服章有り、加等の儀、常数の備わり有り。塋兆の称、永泰公主を仮りて名と為すべからず。所謂将来に法を垂れ、群辟に則を作す者に非ざるなり。

帝竟に粲の奏する所に依る。公主大いに怒る。粲は旨に忤うるを以て出され陳州刺史と為る。累転して秘書少監と為る。開元初め卒す。

尹知章(孫季良を附す)

尹知章は、絳州翼城の人である。幼少より学問に励み、かつて神人が大きな鑿でその心を開き、薬を納める夢を見た。それ以来日に日に明朗となり、諸経の精義をことごとく通じた。間もなく、師や友人が北面して教えを受けた。長安年間、駙馬都尉武攸暨がその経学を重んじ、その府の定王文学に任じるよう奏上した。神龍初年、太常博士に転じた。中宗が即位したばかりの時、宗廟を建立し、議する者が涼武昭王を始祖として、七代の数を備えようとした。知章は、武昭王は遠い時代の人物で、王業の基盤ではないと考え、特に奏議して不可であるとした。当時、ついに知章の議に従った。まもなく陸渾県令に任じられたが、公務上の過失により官を辞した。時に散騎常侍解琬もまた職を罷めて田園に帰り、知章と共に汝州・洛陽の間に住み、学問を修めることを務めとした。

睿宗が即位したばかりの時、中書令張説が知章に古人の風があり、雅俗を鎮めるに足ると推薦し、礼部員外郎に任じた。まもなく国子博士に転じた。後に秘書監馬懷素が奏上して知章を秘書省に招き、学者と共に経史を刊定させた。知章は吏職にありながらも、帰宅すれば講授を絶やさず、特に『易』および荘子・老子の玄言の学に明るく、遠近から教えを受けに来た。貧困な者がいれば、知章は家財を尽くして衣食を与えた。

性質は温和で厚く、喜怒を顔色に表さず、かつて家族や家産のことに言及したことがなかった。その子がかつて薪や米をまとめて買い、年間の費用に備えるよう請うたが、知章は言った、「お前の言う通りにすれば、下々の者はどうして資を取るというのか。私は幸いに禄を食んでいるのだから、その利を奪うべきではない」。ついに従わなかった。

孫季良は、河南偃師の人である。一名は翌。開元年間、左拾遺・集賢院直学士となった。『正聲詩集』三巻を撰し、世に行われた。

徐岱

徐岱は、字を処仁といい、蘇州嘉興の人である。家は代々農業を業としていた。岱は学問を好み、六経諸子をことごとく探究し、問うて通じないことがなく、難問で屈服させられることはなかった。大暦年間、転運使劉晏が上表して推薦し、校書郎に任じられた。浙西観察使李棲筠は厚く遇し、詔により以前住んでいた所を復礼郷と名付けた。まもなく朝廷に推挙され、河南府偃師県尉に改めた。建中年間、礼儀使蔣鎮が特に推薦して太常博士とし、礼儀を掌らせた。奉天・興元に従駕し、膳部員外郎兼博士に改めた。貞元初年、水部郎中に遷り、皇太子及び舒王以下の侍読を充てた。まもなく司封郎中に改め、給事中に抜擢して任じ、兼史館修撰を加え、従前通り侍読を務めた。両宮の恩顧を受け、当時比べる者もなかった。しかし謹慎が甚だしく、禁中の言葉を漏らしたこともなく、人の短所を語ることもなかった。甥や姪の孤児の婚嫁を行い、当時の人はこれを称えた。しかし吝嗇が甚だしく、倉庫の鍵はすべて自ら執り掌り、当時に譏りを受けた。卒去した。時に五十歳。皇帝は嘆き惜しみ、帛絹を贈って葬儀を助けた。皇太子もまた絹一百匹を贈り、礼部尚書を追贈した。

蘇弁(兄に袞・冕あり)

蘇弁は、字を元容といい、京兆武功の人である。曾叔祖の良嗣は、則天武后朝の宰相で、国史に伝がある。弁は若くして文学があり、進士に挙げられ、秘書省正字に任じられ、奉天主簿に転じた。

硃泚の乱の時、徳宗が慌ただしく出幸すると、県令杜正元は府に上って事を計らっていた。大駕が至ったと聞き、官吏は惶恐し、皆山谷に奔り逃げようとした。弁はこれを諭して言った、「君上が狄を避ける時、臣下は難に伏して死節すべきである。昔、粛宗が霊武に幸した時、新平・安定に至り、二太守は皆潜んで逃げたが、帝は命じて斬って衆に示した。諸君はその事を知っているか」。衆心はようやく安まった。車駕が至ると、迎え扈従し、儲備に欠けるところがなかった。徳宗はこれを嘉し、その場で試みに大理司直を加えた。賊が平定されると、監察御史に任じられ、三院を歴任し、累転して倉部郎中となった。なお度支案を判じた。

裴延齢が卒去すると、徳宗はその才能を聞き、特に延英殿を開き、面と向かって金紫を賜った。度支郎中に任じ、度支事を副知し、なお正郎の首位に立つことを命じた。副知の称号は、弁に始まる。延齢の後を承け、煩虐に代えて寛簡をもってし、人々は大いにこれを称えた。戸部侍郎に遷り、前の通り度支を判じ、太子詹事に改めた。弁が初めて朝参した時、班位の順序を誤り、殿中侍御史鄒儒立が対仗してこれを弾劾した。弁は金吾衛で数刻待罪し、特釈放された。旧制では、太子詹事の班次は太常卿・宗正卿以下であった。貞元三年、御史中丞竇参が班位を定めるにあたり、詹事を河南尹・太原尹の下に移した。弁は旧い班制を引いて立った。台官が詰問すると、なお欺いて言った、「自ら宰相に申し上げ、旧に依るよう請うた」。故に儒立に弾劾されたのである。まもなく長武城の軍糧が朽ち敗れたことを給した罪に坐し、河州司戸参軍に貶された。徳宗の時代、朝臣が譴責を受けると、再び登用されることは少なく、晩年は特に甚だしかった。ただ弁と韓臯のみが刺史として起用され、滁州刺史を授かり、杭州刺史に転じた。

弁は兄の冕・袞と共に、兄弟仲が良く儒学に通じていることで称えられた。

冕は、国朝の政事を纘述し、『会要』四十巻を撰し、当時に行われた。弁は書を集めて二万巻に至り、すべて自ら校刊した。今に至るまで蘇氏の書は、集賢院秘閣に次ぐと言われる。貞元二十一年、家で卒去した。

袞は、賛善大夫から永州司戸参軍に貶された。詔勅に「蘇袞が貶官されたのは、本来弟に連坐した縁による。その年老いを憐れみ、疾患を加えていることを考慮し、所在の地で引き返させ、私第に帰ることを許すのが宜しい」とあった。袞は年七十に近く、両目が見えなくなってから一年以上経っていた。弁の故に、ついに官を停められなかった。貶された時、皇帝はこれを聞き哀れみ憫んだので、家に還ることを許したのである。まもなく卒去した。

初め、冕は弁に連坐して貶官されたが、ある人が冕の才学について言上したので、皇帝は早く知らなかったことを悔いた。すでに貶出した後であり、また袞を還したので、冕を再び追い戻すのは難しいとして、やめた。

陸質

陸質は吳郡の人で、本名は淳であったが、憲宗の諱を避けてこれを改めた。質は経学に通じ、特に『春秋』に深く、若くして趙匡に師事し、趙匡は啖助に師事した。啖助・趙匡はいずれも異儒であり、その学を広く伝え、これによって名を知られた。陳少遊が揚州を鎮守したとき、その才を愛で、従事として召し出した。後に朝廷に推薦され、左拾遺に任じられた。太常博士に転じ、累進して左司郎中となったが、些細なことで罪を得て、国子博士に改められ、信州・臺州の二州刺史を歴任した。順宗が即位すると、質は平素より韋執誼と親しくしていたため、これによって給事中・皇太子侍読に徴され、さらに名を質と賜って改めた。

当時、韋執誼は寵愛を受け、順帝が病に臥せると、王叔文らと共にひそかに権柄を弄んだ。上(皇太子)が春宮にあったとき、執誼は恐れ、質がすでに用いられているので、故意に質を入侍させ、ひそかに上の意向を窺い、それによって事を解こうとした。質が発言すると、上は果たして怒って言った、「陛下は先生に寡人と講義せよと命じられたのに、どうして他のことを言うのか」。質は恐れおののいて退出した。間もなく病没した。質は『集註春秋』二十巻、『類禮』二十巻、『君臣圖翼』二十五巻を著し、いずれも当世に行われた。貞元二十一年に卒した。

馮伉

馮伉は、本来魏州元城の人である。父は玠で、後に京兆に家を構えた。若くして経学に通じた。大暦初め、『五経』秀才科に及第し、秘書郎に任じられた。建中四年、また博学『三史』科に及第した。三度遷って尚書膳部員外郎となり、睦王以下の侍読を充てられた。澤潞節度使李抱真が卒すると、弔贈使となり、抱真の子が馮伉に帛数百匹を贈ったが、受け取らなかった。また特に京に送り届けたが、馮伉は表を奉って奏上し、固辞して受けなかった。ちょうど醴泉県に県令が欠員し、宰臣が人名を進めたが、帝は認めず、宰臣に言った、「先に澤潞に使いして財帛を受けなかった者は、この人には必ず清廉な政治があるだろう。これを授けることができる」。そこで醴泉県令に改めた。県中の百姓には狡猾な者が多かったので、『諭蒙』十四篇を著し、大略は忠孝仁義を指し示し、学を勧め農に務めることを説き、毎郷に一卷ずつ与えて、伝え習わせた。県に七年在任し、韋渠牟が推薦して給事中とし、皇太子及び諸王の侍読を充てた。別殿に召し出され、金紫を賜った。『三傳異同』三巻を著した。順宗が即位すると、尚書兵部侍郎に任じられた。国子祭酒に改め、同州刺史となった。入朝して左散騎常侍に任じられ、再び太学を領した。元和四年に卒し、享年六十六、礼部尚書を追贈された。

子の薬は、進士に及第し、また制科にも及第し、官は尚書郎に至った。

韋表微

韋表微は、始め進士に及第し、累ねて藩府の佐官となった。元和十五年、監察御史に任じられた。一年余りして、本官のまま翰林学士を充てられた。左補闕・庫部員外郎・知制誥に遷った。満歳して、抜擢されて中書舎人に遷った。まもなく戸部侍郎に任じられ、職はそのまま変わらなかった。当時、長慶・宝暦以来、国家は変故が相次ぎ、凡そ翰林に在る者は、遷擢の例として満歳に及ぶ者がなく、これによって表微は監察御史から、六七年の間に、官位は正貳卿に至り、命服は金紫を賜り、恩遇を受けること、一時に盛んであった。卒し、享年六十。

表微は若い時、刻苦して自立した。『九経師授譜』一卷、『春秋三伝総例』二十巻を著した。

子の蟾は、進士に及第し、咸通の末、尚書左丞となった。

許康佐

許康佐は、父は審である。康佐は進士に及第し、また宏詞科にも及第した。家が貧しく母が老いているため、知院官を求めた。ある人はこれを怪しんだが、笑って答えなかった。母が亡くなり、喪が明けると、侯府の召しに就かず、君子は初めて禄を選ばず親を養おうとした志を知り、名はますます重んじられた。侍御史に遷り、職方員外郎に転じ、累進して駕部郎中に至り、翰林侍講学士を充てられ、さらに金紫を賜った。諫議大夫・中書舎人を歴任し、いずれも内庭にあった。戸部侍郎となり、病のため職を解かれた。兵部侍郎に任じられ、礼部尚書に転じた。卒し、享年七十二、吏部尚書を追贈された。『九鼎記』四巻を撰した。

弟の堯佐・元佐、堯佐の子の道敏は、いずれも進士に及第し、官は清顕を歴任した。

賛して言う、学を積んで功を成し、談を開いて治を辨ず。儒道の玄機、聖人の雅旨。出づるには必ず戸よりし、行く跡はその軌を踏む。遠くその人あり、信史を光らす。