旧唐書 巻一百八十九上 列伝第一百三十九上 儒學上

旧唐書

巻一百八十九上 列伝第一百三十九上 儒學上

古くに儒學家の流れと称するものは、本来司徒の官より出で、君臣を正し、貴賤を明らかにし、教化を美しくし、風俗を移すには、これに若くはない。故に前古の哲王は、皆儒術の士を用い、漢家の宰相は、一経に精通せざるはなかった。朝廷に疑事あれば、皆経を引きて決定し、ここによりて人は礼教を識り、理致は昇平に致した。近代は文を重んじて儒を軽んじ、あるいは法律を以て参じ、儒道既に喪われ、淳風大いに衰え、故に近く国を理むるもの多く前古に劣る。隋氏の道消え、海内版蕩し、彜倫篸く、戎馬郊に生じ、先代の旧章、往聖の遺訓、地を掃うて尽きたり!

高祖が太原に義を建て、初めて京邑を定むるに及び、馬上にて之を得たれども、頗る儒臣を好んだ。義寧三年五月、初めて国子学に生七十二員を置き、三品以上の子孫を取る。太学に生一百四十員を置き、五品以上の子孫を取る。四門学生一百三十員を置き、七品以上の子孫を取る。上郡の学に生六十員を置き、中郡五十員、下郡四十員。上県の学は並びに四十員、中県三十員、下県二十員。武德元年、詔して皇族の子孫及び功臣の子弟をして、秘書外省に別に小学を立てしむ。二年、詔して曰く。

盛徳は必ず祀り、義は方策に存し、達人は命世し、慶を後昆に流す。国を建て人を君とし、風を弘め教を闡き、賢を崇め善を彰すには、茲に尚ぶる莫し。八卦初めて陳べられ、九疇敘べられしより、徽章互いに垂れ、節文備わらず。爰に姬旦より始め、周邦を匡翊し、礼経を創設し、特に典憲を明らかにす。生人の耳目を啓き、法度の本源を窮め、化は《二南》より起こり、業は八百を隆くす。豊功茂徳、終古に冠たり。王道既に衰え、頌声作らず、諸侯力を争い、礼楽陵遅す。粤に宣父を若し、天資えい哲、斉・魯の内に経綸し、洙・泗の間に揖譲し、遺文を綜理し、旧制を弘宣す。四科の教、歴代に刊せず、三千の文、風流歇まず。

惟れ茲の二聖、道は群生に著わり、守祀修まらず、明褒尚闕けり。朕区宇に君臨し、化を興し儒を崇め、永く先達を言い、情は紹嗣に深し。宜しく有司をして国子学に周公・孔子の廟各一所を立て、四時に致祭せしむべし。仍く其の後を博く求め、具に名を以て聞かしめ、詳かに考うる所宜しく、当に爵土を加うべし。是に於いて学者慕向し、儒教聿興す。

三年に至り、太宗東夏を討ち平げ、海内事無く、乃ち経籍に意を鋭くし、秦府に文学館を開く。広く文学の士を引き、詔を下して府属杜如晦等十八人を学士と為し、五品の珍膳を給し、三番に分けて更直し、閣下に宿せしむ。

即位に及び、又た正殿の左に弘文学館を置き、天下の文儒の士虞世南・褚亮・姚思廉等を精選し、各本官を以て兼ねて学士を署し、日に更えて宿直せしむ。朝を聴くの暇に、内殿に引き入れ、経義を講論し、政事を商略し、或は夜分に至りて乃ち罷む。又た勲賢三品以上の子孫を召し、弘文館学士と為す。

太宗又た経籍の聖を去る久遠にして、文字多く訛謬あるを以て、前中書侍郎顔師古に詔して《五経》を考定せしめ、天下に頒ち、学者をして習わしむ。又た儒学門多く、章句繁雑なるを以て、国子祭酒孔穎達に詔して諸儒と《五経》義疏を撰定せしめ、凡そ一百七十巻、名づけて《五経正義》と曰い、天下に伝習せしむ。

十四年、詔して曰く、「梁の皇侃・褚仲都、周の熊安生・沈重、陳の沈文阿・周弘正・張譏、隋の何妥・劉炫等、並びに前代の名儒、経術紀すべし。加うるに所在の学徒、多く其の疏を行い、宜しく優異を加え、以て後生を勧むべし。其の子孫見在する者を訪れ、名を録して奏聞し、当に引擢を加うべし。」

二十一年、又た詔して曰く、「左丘明・卜子夏・公羊高・谷梁赤・伏勝・高堂生・戴聖・毛萇・孔安国・劉向・鄭衆・杜子春・馬融・盧植・鄭玄・服虔・何休・王粛・王弼・杜元凱・范寧等二十一人、並びに其の書を用い、国胄に垂る。既に其の道を行えば、理褒崇に合す。今より太学に事有らば、顔子と俱に孔子廟堂に配享すべし。」其の儒道を尊重すること此の如し。

高宗嗣位し、政教漸く衰え、儒術に薄く、特に文吏を重んず。ここにおいて醇醲日去り、畢競日彰れ、猶ほ火膏を銷すが如くして之を覚えざるなり。則天制を称するに及び、権道を以て下に臨み、官爵を吝しまず、当時に取悦す。其の国子祭酒は、多く諸王及び駙馬都尉に授け、貞観の旧事に準ず。祭酒孔穎達等の上に赴く日は、皆《五経》の題を講ず。是に至り、諸王と駙馬の上に赴くは、唯だ祥瑞按三道を判するのみ。博士・助教に至っては、唯だ学官の名有るも、多く儒雅の実に非ず。是の時復た将に親しく明堂及び南郊を祠り、又た洛を拝し、すう嶽を封ぜんとし、将に弘文国子生を取って斉郎行事に充てんとし、皆出身放選を令し、前後数うるに勝えず。ここによりて生徒復た経学を意とせず、唯だ苟く僥幸を希う。二十年の間、学校頓に隳廃せり。

玄宗東宮に在り、親しく太学に幸し、大いに講論を開き、学官生徒に各束帛を賜う。即位に及び、数え詔して州県及び百官に経通の士を薦挙せしむ。又た集賢院を置き、学者を招集して校選し、儒士及び博渉著実の流れを募る。以て《儒学篇》と為す。

徐文遠

徐文遠は、洛州偃師の人、陳の司空孝嗣の玄孫、其の先は東海より家を徙す。父徹は、梁の秘書郎、元帝の女安昌公主を尚りて文遠を生む。江陵陥つに属し、長安に虜せられ、家貧しく以て自給する無し。其の兄休は、書を鬻ぐを事とし、文遠は日に肆に於いて書を閲し、博く《五経》を覧し、特に《春秋左氏伝》に精し。時に大儒沈重太学に講ず、聴く者常に千余人。文遠就きて質問し、数日にして便ち去る。或る人問いて曰く、「何ぞ去るの速きを辞するや。」答えて曰く、「其の説く所を観るに、悉く是れ紙上の語のみ、僕は皆先ず已に之を誦得せり。奥賾の境に至りては、翻って未だ見ざるに似たり。」其の言を以て重に告くる者有り、重呼びて議論せしむるに、十余反、重甚だ之に嘆服す。

文遠は方正にして純厚、儒者の風有り。竇威、楊玄感、李密皆其の学を受く。開皇中、累遷して太学博士と為る。詔令して并州に往き、漢王諒の為に『孝経』『礼記』を講ぜしむ。諒の反するに及び、名を除かる。大業初、礼部侍郎許善心、文遠を挙げて包愷、褚徽、陸德明、魯達と学官と為し、遂に擢授して文遠を国子博士と為し、愷等並びに太学博士と為る。時に人、文遠の『左氏』、褚徽の『礼』、魯達の『詩』、陸德明の『易』を称して、皆一時の最と為す。文遠の講釈する所、多く新義を立て、先儒の異論、皆其の是非を定め、然る後に諸家を詰駁し、又己が意を出だす。博くして且つ弁あり、聴く者倦みを忘る。

後に越王侗、署して国子祭酒と為す。時に洛陽饑饉有り、文遠城を出でて樵採す。李密の軍に執はる。密、文遠をして南面に坐せしめ、弟子の礼を備へて北面して之を拝せしむ。文遠曰く、「老夫疇昔の日、幸ひに先王の道を以て、仰ぎて将軍に授く。時経興替、倏焉として久し。今将軍風雲の際に属し、義衆の帰する所と為り、権を以て万物を鎮め、威を四海に加ふ。猶ほ能く体を屈して尊師の義を弘む。此れ将軍の徳なり、老夫の幸なり。既に此の厚礼を荷ふ、安んぞ言を尽さざらんや。但だ未だ将軍の意を審らかにせざるのみ。伊尹・霍光の如く継絶扶傾せんと欲せば、遅暮と雖も、猶ほ力を尽くさんことを願ふ。若し王莽・董卓の如く危に乗じ険を迫らんとせば、則ち老夫耄たり、能ふ為す無し」と。密頓首して曰く、「昨朝命を奉じ、上公を拝するに垂れんとす。冀くは庸虚を竭くして、国難を匡奉せんとす。朝見せざる所以の者は、城内の人情を測り難きなり。且つ先づ化及を征し、冤恥を報復し、功を立てて罪を贖ひ、然る後に凱旋して、天闕に入り拝せんとす。此れ密が本意なり。惟だ先生の之を教へんことを」と。文遠曰く、「将軍は名臣の子、累ね忠節を顕はし、前に玄感に誤られて受けしより、遂に暫く家声を墜とす。行くに迷ふ未だ遠からずして、車を回し路を復す。終に忠孝に於て、家国を康ならしむ。天下の人、是れ将軍に望む所なり」と。密又頓首して曰く、「命を聞くことを敬す。請ふ周旋に奉ぜん」と。

化及を征して還るに及び、而して王世充已に元文都等を殺し、権兵を専制す。密又計を文遠に問ふ。答へて曰く、「王世充も亦た門人なり。頗る之を識るを得たり。是の人残忍にして、意又褊促なり。既に此の勢に乗ずれば、必ず異図有らん。将軍の前計は諧はざるなり。王世充を破らざれば、朝覲す可からず」と。密曰く、「嘗て先生を儒者と謂ひ、軍旅の事を学ばずとす。今大計を籌るに、殊に明略有り」と。

密の敗るるに及び、復た東都に入る。王世充其の廩食を給す。而して文遠敬を尽くし、之を見て先づ拝す。或る人問ひて曰く、「君の李密に踞りて見え、而して王公を敬すと聞く。何ぞや」と。答へて曰く、「李密は君子なり。能く酈生の揖を受く。王公は小人なり。故人を殺すの義有り。時に相ひて動く。豈に然らざらんや」と。後に王世充僭号し、復た以て国子博士と為す。因りて樵採に出で、羅士信に獲られ、京師に送らる。復た国子博士を授く。

陸德明

陸德明は、蘇州呉の人なり。初め周弘正に学を受く。玄理を言ふを善くす。陳の大建中、太子四方の名儒を徴し、承先殿に講ぜしむ。德明年始めて弱冠、往きて参ず。国子祭酒徐克講を開く。貴を恃みて弁を縦にす。衆敢へて当る者莫し。德明独り与に抗対し、朝を合せて賞嘆す。解褐して始興王国左常侍と為り、遷りて国子助教と為る。陳亡び、郷里に帰る。隋のよう帝位を嗣ぎ、以て秘書学士と為す。大業中、広く経明の士を召し、四方より至る者甚だ衆し。德明を遣はし魯達・孔褒と俱に門下省に会し、共に相ひ難じ、其の右に出づる者無し。国子助教を授く。王世充僭号し、其の子を封じて漢王と為し、徳明を署して師と為す。其の家に就き、将に束脩の礼を行はんとす。德明之を恥ぢ、因りて巴豆散を服し、東壁の下に臥す。王世充の子入り、床前に跪き、之に対し遺痢す。竟に語を与へず。遂に病を成臯に移し、人事を杜絶す。

王世充平らぎ、太宗徴して秦府文学館学士と為し、命じて中山王承乾をして其の業を受くに従はしむ。尋ひて太学博士を補ふ。後に高祖親臨して釈奠す。時に徐文遠『孝経』を講じ、沙門惠乗『波若経』を講じ、道士劉進喜『老子』を講ず。德明此の三人を難じ、各宗指に因り、端に随ひて義を立て、衆皆之が為に屈す。高祖之を善くし、帛五十匹を賜ふ。

貞観初、国子博士を拝し、呉県男を封ぜらる。尋ひて卒す。撰す『經典釈文』三十巻、『老子疏』十五巻、『易疏』二十巻、並びに世に行はる。太宗後に嘗て德明の『經典釈文』を閲し、甚だ之を嘉し、其の家に束帛二百段を賜ふ。

子敦信、龍朔中官至りて左侍極、東西臺三品に同ず。

曹憲

曹憲は、揚州江都の人なり。隋に仕へて秘書学士と為る。毎に徒を聚めて教授し、諸生数百人。当時の公卿已下も、亦多く之に従ひて業を受く。憲又諸家の文字の書に精しく、漢代の杜林・衛宏の後に、古文泯絶す。憲に由り、此の学復興す。

大業中、煬帝諸学者と令し『桂苑珠叢』一百巻を撰せしむ。時に人其の該博を称す。憲又張揖の撰する所の『博雅』を訓註し、十巻に分つ。煬帝令して秘閣に蔵めしむ。

貞観中、揚州長史李襲誉表を上げて之を薦む。太宗徴して弘文館学士と為さんとす。年老いて仕へざるを以て、乃ち使を遣はして就き家に朝散大夫を拝せしむ。学者之を栄とす。

太宗又嘗て書を読むに難字有り。字書の闕く所を、録して憲に問ふ。憲皆之が為に音訓及び引證明白に為す。太宗甚だ之を奇とす。年一百五歳にして卒す。撰する所の『文選音義』、甚だ当時に重んぜらる。初め、江・淮の間に『文選』の学を為す者は、本づくこと憲に之り、又許淹・李善・公孫羅復相継ぎて『文選』を以て教授す。是に由りて其の学大いに代に興る。

附 許淹

許淹は潤州句容の人である。少くして出家して僧となり、後にまた還俗した。博物洽聞にして、特に詁訓に精しかった。『文選音』十巻を撰した。

附 李善

李善は揚州江都の人である。方雅清勁にして、士君子の風有り。明慶年中、累ねて太子内率府録事参軍・崇賢館直学士に補せられ、兼ねて沛王侍読を為す。嘗て『文選』に註解を加え、六十巻に分ち、表して之を上る。絹一百二十匹を賜ひ、詔して秘閣に蔵せしむ。潞王府記室参軍を除き、秘書郎に転ず。乾封年中、出でて経城令と為る。賀蘭敏之と周密なるに坐し、姚州に配流せらる。後に赦に遇ひて還るを得、教授を以て業と為し、諸生多く自ら遠方より至る。又『漢書弁惑』三十巻を撰す。載初元年卒す。子の邕も亦知名なり。

附 公孫羅

公孫羅は江都の人なり。沛王府参軍・無錫県丞を歴任す。『文選音義』十巻を撰し、代に行はる。

歐陽詢

歐陽詢は潭州臨湘の人、陳の大司空の孫なり。父の紇は陳の広州刺史、謀反を以て誅せらる。詢坐に従ふべき所、僅にして免るることを獲たり。陳の尚書令江総は紇と旧有り、之を収養し、書計を以て教ふ。貌甚だ寢陋と雖も、聰悟絶倫にして、書を読めば即ち数行倶に下り、経史を博覧し、特に『三史』に精し。隋に仕へて太常博士と為る。高祖微時に、賓客として引かる。即位に及び、累遷して給事中と為る。

詢初め王羲之の書を学び、後更に漸く其の体を変じ、筆力険勁にして、一時の絶と為る。人其の尺牘文字を得れば、咸く以て楷範と為す。高麗甚だ其の書を重んじ、嘗て使を遣はして之を求む。高祖嘆じて曰く、「詢の書名の遠く夷狄に播くるを意ひざるなり、彼其の跡を観れば、固より其の形魁梧なるを謂ふか」と。

貞観初、官太子率更令・弘文館学士に至り、渤海県男に封ぜらる。年八十余にして卒す。

詢子 通

子の通、少くして孤と為り、母の徐氏其の父の書を教ふ。毎に通に銭を遺ふに、紿ひて云く、「汝が父の書跡の直を質す」と。通名を慕ふこと甚だ鋭く、昼夜精力倦むこと無く、遂に詢に亜ぐ。儀鳳年中、累遷して中書舎人と為る。母憂に丁り、喪に居ること礼に過ぐ。本官を起復し、毎に朝に入れば、必ず徒跣して皇城門外に至る。直宿省に在れば、則ち地に席し槁を藉む。公事に非ざれば言はず、亦未だ啓歯せず。家に帰れば必ず縗絖を衣て、号慟恒無し。武徳已来、起復後にして能く哀戚礼に合する者は、通に比ぶる者無し。年凶にして未だ葬らず、四年廬に居りて服を釈かず、家人冬月密かに氈絮を以て其の眠る所の席の下に置く。通覚り、大いに怒り、遽に令して之を徹せしむ。

五遷し、垂拱中殿中監に至り、渤海子の爵を賜ふ。天授元年、夏官尚書に封ぜらる。二年、司礼卿に転じ、納言事を判ず。相と為ること月余、会ふに鳳閣舎人張嘉福等武承嗣を立てて皇太子と為さんことを請ふ。通と岑長倩固く執りて以て不可と為し、遂に諸武の意に忤ひ、酷吏の陷るる所と為り、誅せらる。神龍初、官爵を追復せらる。

朱子奢

朱子奢は蘇州呉の人なり。少くして郷人顧彪に従ひ『春秋左氏伝』を習ひ、後に子史を博観し、文を属するに善し。隋の大業年中、直秘書学士と為る。天下大乱に及び、職を辞して郷里に帰り、尋ねて杜伏威に附く。武徳四年、伏威に随ひて朝に入り、国子助教を授けらる。貞観初、高麗・百濟同じく新羅を伐ち、兵を連ねて数年解けず、新羅使いを遣はして急を告ぐ。乃ち子奢に員外散騎侍郎を仮し使を充て、三国の憾を釈くべきを諭さしむ。雅に儀観有り、東夷大いに欽敬し、三国の王皆表を上りて罪を謝し、賜遣甚だ厚し。

初め、子奢の使いに出づるや、太宗之に謂ひて曰く、「海夷頗る学問を重んず、卿大国の使たり、必ず其の束脩を藉ること勿れ、之が為に講説せよ。使い還りて旨に称せば、当に中書舎人以て卿を待たん」と。子奢其の国に至り、夷虜の情を悦ばんと欲し、遂に『春秋左伝』の題を発し、又其の美女の贈を納る。使い還り、太宗其の旨に違へるを責む。猶其の才を惜しみ、深く譴せず、散官をして直に国子学せしむ。諫議大夫・弘文館学士に転じ、国子司業に遷り、仍って学士と為る。

子奢は風流にして蘊藉、頗る滑稽であり、また文義を以て之を輔けたので、是より数たび宴遇を蒙り、或いは前に於いて論難せしめられた。十五年卒す。

張士衡

張士衡は、瀛州楽寿の人である。父之慶は、斉の国子助教であった。士衡は九歳にして母を喪い、哀慕礼を過ぎた。父の友斉の博士劉軌思之を見て、毎度之が為に泣きを掩う。其の父に謂いて曰く、「昔伯饒は『張曾子』と号せしも、亦豈に遠く過ぎんや。吾聞く、君子は親しく教えず、当に之を成就すべしと。」及んで長ずるに及び、軌思は《毛詩》・《周礼》を以て授け、又熊安生及び劉焯に従い《礼記》を受け、皆大義を精究した。此の後遍く《五経》を講じ、尤も《三礼》を攻めた。隋に仕えて余杭令となり、後年老を以て郷里に帰った。

貞観中、幽州都督・燕王霊夔は玄纁束帛の礼を備え、家に就き迎え聘し、北面して之を師とした。庶人承乾東宮に在り、又旌命を加えた。及んで洛陽宮に至り謁見するに、太宗之を延いて殿に昇らしめ、食を賜い、朝散大夫・崇賢館学士に擢授した。承乾之を見て、斉氏滅亡の由緒を以て問う。対えて曰く、「斉の後主は悖虐度無く、小人に昵近す。高阿那瑰・駱提婆・韓長鸞等の如きに至っては、皆奴僕の下才、兇険無頼にして、是を信じ是を使い、以て心腹と為す。忠良を誅害し、骨肉を疏忌す。奢靡を窮極し、黎元を剝喪す。是を以て周師郊に臨むも、人用を為す莫く、以て覆滅に至るは、実に此の由なり。」承乾又問いて曰く、「布施して功德を営めば、果報有りや。」対えて曰く、「仏に事うるは清浄無欲に在り、仁恕を心と為す。其の如き貪婪厭無く、驕虐を務とすれは、復た財を傾けて仏に事うと雖も、目前の禍を救う無し。且つ善悪の報は、影の形に随うが若く、此れは儒書の言にして、豈に徒に仏経の説く所のみならんや。是れ人君父と為るは、当に須らく仁慈有るべく、人臣子と為るは、宜しく忠孝を尽くすべし。仁慈忠孝なれば、則ち福祚永く攸し、如し或いは此れに反せば、則ち殃禍斯に及ぶ。此の理昭然たり、願わくは殿下憂慮する勿れ。」及んで承乾廃黜せらるるに及び、乗伝を給するを敕し、本郷に帰らしむ。十九年卒す。

士衡は既に礼学を優と為し、当時に其の業を受け名を時に擅にしたる者は、唯賈公彦を最と為す。

賈公彦

賈公彦は、洺州永年の人である。永徽中、官は太学博士に至る。《周礼義疏》五十巻・《儀礼義疏》四十巻を撰す。

公彦の子 大隠

子大隠は、官は礼部侍郎に至る。

附 李玄植

時に趙州の李玄植有り、又《三礼》を公彦に受け、《三礼音義》を撰して代に行わる。玄植は兼ねて《春秋左氏伝》を王徳韶に習い、《毛詩》を斉威に受け、漢史及び老・荘諸子の説に博く渉る。貞観中、累遷して太子文学・弘文館直学士と為る。高宗の時、屡たび召見せらる。道士・沙門と御前に在りて経義を講説し、玄植の弁論甚だ美しく、規諷を申べ、帝深く之を礼す。後事に坐して左遷され汜水令と為り、官に卒す。

張後胤

張後胤は、蘇州昆山の人である。父中は儒学有り、隋の漢王諒并州に出で牧するに、引いて博士と為す。後胤は父に従い并州に在り、学行を以て称せらる。時に高祖太原に鎮まり、引いて賓館に居らしむ。太宗就きて《春秋左氏伝》を受く。武徳中、累除して燕王諮議参軍と為る。

貞観中、後胤上言す、「陛下昔太原に在りし時、臣に問う、『隋氏の運終わり、何の族か当に天下を得ん。』臣奉対して、『李姓必ず得ん。公家の徳業、天下心に系り、若し此に於いて首謀し、長駆して関右を以て帝業を図らば、孰か幸頼せざらん。』此れ実に微臣の早く天命を識る所なり。」太宗曰く、「此事並びに之を記せり。」因りて詔して入り賜い宴し、平昔に言及し、従容として謂いて曰く、「今弟子何如。」後胤対えて曰く、「昔孔子徒三千を領し、達する者子男の位無し。臣一人を翼賛し、万乗の主と為し、臣の功を計るに先聖に逾えり。」太宗甚だ悦び、良馬五匹を賜い、燕王府司馬を拝す。国子祭酒に遷り、散騎常侍に転ず。

永徽初、致仕を請い、金紫光禄大夫を加えられ、給賜並びに職事に同じ。卒し、礼部侍郎を贈られ、昭陵に陪葬す。

蓋文達

蓋文達は冀州信都の人である。経書や史書に広く通じ、特に『三伝』に明るかった。性格は方正で優雅、美しい髭と容貌を持ち、士君子の風格があった。刺史の竇抗がかつて儒生を広く集め、互いに問答させたことがある。大儒の劉焯・劉軌思・孔穎達が皆座にいて、文達もこれに参加した。論難が始まると、その内容は皆、諸儒の予想を超えるものであり、抗は大いにこれを奇異とし、問うて言った、「蓋生は誰に就いて学んだのか」。劉焯が答えて言った、「この若者は幼少より聡明で、それは天性のものである。多くを有する者が寡少な者に問うというならば、焯が師の筆頭である」。抗は言った、「まさに氷は水より生じて水よりも寒し、と言えよう」。

武徳年間、累次して国子助教に任ぜられた。太宗が藩王であった時、召されて文学館直学士となった。貞観十年、諫議大夫に転じ、弘文館学士を兼ねた。十三年、国子司業に任ぜられた。まもなく蜀王師に拝され、王が罪を得たため連座して免官となった。十八年、崇賢館学士に任ぜられた。まもなく卒去した。その同族の蓋文懿もまた儒学をもって知られ、当時「二蓋」と称された。

文達の同族 文懿

文懿は貝州宋城の人である。武徳初年、国子助教を歴任した。時に高祖が別に秘書省に学を置き、王公の子を教授させたが、当時文懿を博士とした。文懿がかつて『毛詩』の講義を開き、題目を提示すると、公卿が皆集まり、互いに問答したが、文懿は風雅の精神を発揮し、詩人の趣きを大いに得た。貞観年間、国子博士の任上で卒去した。

谷那律

谷那律は魏州昌楽の人である。貞観年間、累次して国子博士に補せられた。黄門侍郎の褚遂良は彼を「九経庫」と称した。まもなく諫議大夫に転じ、弘文館学士を兼ねた。かつて太宗に従って狩猟に出た時、道中で雨に遭い、太宗が問うて言った、「油衣はどうすれば漏れないようにできるか」。那律は言った、「瓦でこれを作れば、必ず漏れません」。意は太宗に狩猟をさせまいとしたのである。太宗は喜び、帛二百段を賜った。永徽初年、任上で卒去した。

蕭徳言

蕭徳言は雍州長安の人で、斉の尚書左僕射蕭思話の玄孫である。本来は蘭陵の人であったが、陳が滅亡した後、関中に移住した。祖父の蕭介は梁の侍中・都官尚書であった。父の蕭引は陳の吏部侍郎であった。共に当時名声があった。徳言は経書や史書に広く通じ、特に『春秋左氏伝』に精通し、文章を綴ることを好んだ。貞観年間、著作郎に任ぜられ、弘文館学士を兼ねた。

徳言は晩年特に学問に志を篤くし、昼から夜に至るまで、少しも休み疲れることがなかった。『五経』を開こうとする度に、必ず帯を締め手を洗い、姿勢を正してこれに向かった。妻子が隙を見て尋ねて言った、「終日このようでは、さぞかしお疲れでしょう」。徳言は言った、「先聖の言葉を敬うのに、どうしてこのようなことを厭おうか」。時に高宗が晋王であった時、詔により徳言に経書を講じ学業を授けさせた。太子の宮に昇ると、引き続き侍読を兼ねた。まもなく年老いたことを理由に致仕を請うたが、太宗は許さなかった。また彼に書を送って言った、

朕は歴代を観察し、儒林を詳しく覧るに、顔回・閔子騫の才であっても、その寿を全うせず、子遊・子夏の徳であっても、その学に及ばない。ただ卿は幼少より圭璋のように優れ、早くから美誉を顕わした。帷を下ろし戸を閉ざして『六経』を包括し、雪に映じ螢を集めて百家を牢籠した。隋末の動乱以来、学校は聞こえず、儒道は泥塗に墜ち、『詩書』は坑井に埋もれた。典籍を顧みる度に、いつも感傷に堪えない。近年以来、天下は事なく、まさに礼を建て楽を作し、武を偃げ文を修めようとしている。卿の年齢はすでに衰えているが、教えは何に頼ろうというのか。望むところは、卿の才徳がなお盛んであり、臥して高風を振るい、済南の伏生をして、再びこの日に重からしめ、関西の孔子をして、故に当今に顕わしめんことである。立派な名声と声望、なんと美しいことか。卿の疲弊と老朽を思えば、何と言うべきかも分からない。

まもなく陽県侯の爵位を賜った。十七年、秘書少監に拝された。両宮からの礼遇と賜物は甚だ厚かった。二十三年、累次上表して致仕を請い、許された。高宗が位を嗣ぐと、師傅の恩により、銀青光禄大夫を加えられた。永徽五年、自宅で卒去した。九十七歳であった。高宗は彼のために朝を停め、太常卿を追贈した。文集三十巻。

曾孫の蕭至忠は、別に伝がある。

許叔牙

許叔牙は潤州句容の人である。若い頃から『毛詩』・『礼記』に精通し、特に朗詠を善くした。貞観初年、累次して晋王文学兼侍読に任ぜられ、まもなく太常博士に転じた。太子の宮に昇ると、朝散大夫を加えられ、太子洗馬に転じ、崇賢館学士を兼ね、引き続き侍読を兼ねた。かつて『毛詩纂義』十巻を撰して皇太子に進上した。太子は帛百段を賜り、併せて写本を作って司経局に付すよう命じた。御史大夫の高智周はかつて人に言った、「凡そ『詩』を言おうとする者は、必ず先ずこの書を読まねばならない」。貞観二十三年に卒去した。子に許子儒がいる。

叔牙の子、子儒。

子儒もまた学芸をもって称された。長寿年間、官は天官侍郎・弘文館学士に至る。子儒が選部に在るとき、藻鑑を意とせず、令史の句直に委ねて腹心と為す。官を註する次第、子儒はただ高枕して臥すのみ、時に「句直平配」と云う。これにより補授は序を失い、再び綱紀無く、道路これを口実と為す。その註した『史記』は、竟に未だ成らずして終わる。

敬播。

敬播は、蒲州河東の人なり。貞観初め、進士に挙げられる。俄かに詔ありて秘書内省に詣り、顔師古・孔穎達を佐けて『隋史』を修め、尋いで太子校書を授かる。史成りて、著作郎に遷り、国史修撰を兼ねる。給事中許敬宗とともに『高祖実録』・『太宗実録』を撰し、創業より貞観十四年に至るまで、凡そ四十巻。これを奏し、物五百段を賜う。太宗の高麗を破りしとき、戦いし六山の名を駐蹕と為す。播、人に謂いて曰く、「聖人なる者は、天地と徳を合わす。山の名を駐蹕と為すは、これ鑾輿再び東せざるを以ての故ならん」と。卒にその言の如し。

時に梁国公房玄齢、深く播に良史の才有りと称し、曰く、「陳寿の流なり」と。玄齢、顔師古の註したる『漢書』は文繁くして省み難しとし、播にその機要を撮らしめ、四十巻を撰成して、代に伝わる。尋いで実録撰修の功により、太子司議郎に遷る。時に初めてこの官を置く、極めて清望なり。中書令馬周嘆じて曰く、「恨むらくは資品妄りに高くして、この職に歴居することを獲ざるなり」と。『晋書』の撰修に参じ、播と令狐徳棻・陽仁卿・李厳等の四人、その類を総ぶ。

時に刑部奏言す、「律に準うれば、謀反大逆は、父子皆坐して死し、兄弟は流に処す。これは軽くして懲らさず。重法に改め従わんことを請う」と。制して百僚に詳議を遣わす。播議して曰く、「昆季は孔懐、天倫重しと雖も、父子に比すれば、性理已に殊なり。生には異室の文有り、死には別宗の義有り。今、高官重爵有りて、本廕は唯だ子孫に逮ぶ。祚土錫珪して、余光は昆季に及ばず。豈にその廕に沾わざるに、輒くその辜を受け、礼に背き情に違う、殊に甚だしきか。必ずやこの春令に反し、彼の秋荼に踵き、道德の辰に次骨を創り、措刑の日に深文を建てんとす。臣以て不可と為さん」と。詔してこれに従う。

永徽初め、著作郎を拝す。許敬宗等とともに『西域図』を撰す。後に諫議大夫・給事中を歴任し、並びに旧に依り国史修撰を兼ねる。又『太宗実録』を撰し、貞観十五年より二十三年に至るまで、二十巻と為す。これを奏し、帛三百段を賜う。後に事に坐して出でて越州都督府長史と為る。龍朔三年、官に卒す。播は又『隋略』二十巻を著す。

劉伯莊。

劉伯莊は、徐州彭城の人なり。貞観年中、累次して国子助教を除かる。その舅の太学博士侯孝遵と斉しく弘文館学士と為り、当代これを栄しむ。尋いで国子博士に遷る。その後又許敬宗等とともに『文思博要』及び『文館詞林』の修撰に参ず。龍朔年中、崇賢館学士を兼ねて授かる。『史記音義』・『史記地名』・『漢書音義』各二十巻を撰し、代に行わる。

伯莊の子、之宏。

子の之宏もまた父の業を伝う。則天の時、累次して著作郎に遷り、国史修撰を兼ねる。相王府司馬に卒す。睿宗即位し、故吏を以て秘書少監を贈る。

秦景通。

秦景通は、常州晉陵の人なり。弟の暐とともに、特に『漢書』に精しく、当時『漢書』を習う者は皆これを宗師し、常に景通を大秦君と称し、暐を小秦君と称す。もしその兄弟の指授を経ざれば、則ち「師匠を経ず、采るに足らず」と謂う。景通、貞観年中累次して太子洗馬に遷り、崇賢館学士を兼ねる。『漢書』の学者として、又劉納言有り、亦た当時の宗匠と為る。

納言、乾封年中、都水監主簿を歴任し、『漢書』を以て沛王賢に授く。賢の皇太子と為るに及び、累次して太子洗馬に遷り、侍読を兼ねて充つ。常に『俳諧集』十五巻を撰し、以て太子に進む。東宮廃せらるるに及び、高宗これを見て怒る。詔して曰く、「劉納言はその余芸を収め、経史に参侍し、府より宮に入り、久しく歳月に淹り、朝に遊び夕に処するも、竟に匡賛無し。忠孝の良規を闕き、詼諧の鄙説を進め、儲宮の徳を敗るは、抑も由有らん。情は好生に在り、戮を加うるに忍びず。宜しく屏棄に従い、以て将来を励すべし。名を除くべし」と。後に又事に坐して振州に配流されて死す。

羅道琮。

羅道琮は蒲州虞郷の人である。祖父の順は武徳の初め、興州刺史となった。道琮は学業に勤しみ、慷慨として節義があった。貞観の末、上書して旨に逆らい、嶺表に配流された。時に同じく流された者が、荊・襄の間で病死し、臨終に泣いて道琮に言うには、「人生に死あり、恨むらくは骨を異なる土に委ねることなり」と。道琮は言う、「我もし生還せば、終に独り帰らず、卿をここに棄てじ」と。路の左に葬って去った。歳余りして、赦に遇って還るを得、殯の所に至ると、霖潦の瀰漫に属し、柩は再び得べからず。道琮は祭を設けて慟哭し、ともに帰らんとする意を告げ、もし霊ある者は、幸いに相警し示せと。言い終わると、路側の水中、忽然として湧き沸く。道琮また呪して云う、「もし沸く所是ならば、願わくは更に一たび沸かしめよ」と。呪い終わると、また沸く。道琮はすなわちその屍を得、銘誌に験うべく、遂にこれを負って郷に還った。当時識者は道琮の誠感の致すところと称した。道琮は尋いで明経に登第す。高宗の末、官は太学博士に至る。毎に太学助教康国安・道士李栄らと講論し、時に称せられた。尋いで卒す。