旧唐書
巻一百八十八 列伝第一百三十八 孝友
序
父母に善くするを孝と為し、兄弟に善くするを友と為す。夫れ父母に善くする者は、必ずや身を隠して類を錫し、仁恵は胤嗣に逮ぶべし。兄弟に善くする者は、必ずや心に因りて広く済い、徳信は宗族に被らん。これを推し言えば、以て君に移し、政有るに施し、上を承けて下に順い、終わりを令めて始めを善くし、蛮貊と雖も猶行わるべく、窘迫と雖も猶亨るべし。昔より身を立て名を揚ぐるは、孝友に偕わらずして成る者未だ有らざるなり。前代の史官、伝うる所の『孝友伝』は、多く当時の旌表の士を録し、人或いは微細にして、衆の聞く所に非ず、事は閭里に出で、又詳かに究め難し。今、衣冠の盛徳にして、衆の知る所なる者を録し、以て称首と為す。州県の薦飾する者に至りては、必ず其の殊尤を覆い、以て世を勧むべき者も、亦これを載す。
李知本
李知本は、趙州元氏の人、後魏の洛州刺史李霊の六世の孫なり。父は孝端、隋の獲嘉丞。初め、孝端は族弟の太沖と俱に世閥有り、而して太沖の官宦最も高く、孝端之に比べて劣れり。郷族之が為に語りて曰く、「太沖に兄無く、孝端に弟無し」と。知本は頗る経史に渉り、親に事えて至孝、弟の知隠と甚だ雍睦を称せらる。子孫百余口、財物僮僕、纖毫も間無し。隋末、盗賊其の閭を過ぎて入らず、因りて相譲りて曰く、「義門を犯す無かれ」と。同時に難を避くる者五百余家、皆頼りて免るることを獲たり。
知本は貞観初めに官至りて夏津令、知隠は伊闕丞に至る。知本の孫の瑱は、開元中に給事中・揚州刺史と為る。知隠の孫の顒は、文詞有り、亦た給事中・太常少卿を歴任す。従祖兄弟、凡そ給事と為る者四人。
張志寛
張志寛は、蒲州安邑の人。隋末に父に喪い、哀毀骨立し、州里に称せらる。賊帥の王君廓屡寇掠を為し、其の名を聞き、独り其の閭を犯さず、隣里之に頼りて免るる者百余家。後に里正と為り、県に詣りて母の疾を称し、急ぎ帰るを求む。県令其の状を問うに、対えて曰く、「母嘗て苦しむ所有り、志寛も亦た苦しむ所有り。向に心痛を患う、母の疾有るを知る」と。令怒りて曰く、「妖妄の辞なり」と。之を獄に繫ぐ。馳せて其の母を験するに、竟に言う如し。令之を異とし、慰諭して遣わし去らしむ。
及び母憂に丁り、土を負いて墳を成し、墓側に廬し、手ずから松柏千余株を植う。高祖之を聞き、使いを遣わして就きて弔い、員外散騎常侍を授け、物四十段を賜い、其の門閭を表す。
劉君良(附 宋興貴・張公芸)
劉君良は、瀛州饒陽の人なり。累代義居し、兄弟四従に至るも、皆気を同じくするが如く、尺布斗粟、人私する無し。大業末、天下饑饉す。君良の妻其の分析を勧む。乃ち窃かに庭樹上の鳥雛を取り、交えて諸々の巣中に置き、群鳥をして鬬競せしむ。挙家之を怪しむ。其の妻曰く、「方今天下大乱し、争鬬の秋、禽鳥尚お相容れず、況んや人に於いてをや」と。君良之に従う。分別後月余にして、方に其の計を知る。中夜、遂に妻の髪を攬りて大呼して曰く、「此れ即ち家を破る賊耳」と。諸昆弟を召し、哭きて以て之を告ぐ。是の夜其の妻を棄て、更に諸兄弟と同居処し、情契初めの如し。
盗賊起こるに属し、閭里之に依りて堡と為る者数百家、因りて名づけて義成堡と為す。武徳七年、深州別駕の楊弘業其の第に造り、六院有るを見、唯一飼、子弟数十人、皆礼節有り、咨嗟して去る。貞観六年、詔して旌表を加う。
附 宋興貴
又た宋興貴有り、雍州万年の人。累世同居し、躬耕して養いを致し、興貴に至りて已に四従なり。高祖聞きて之を嘉し、武徳二年、詔して曰く、
人は五常を稟け、仁義を以て重しと為す。士に百行有り、孝敬を以て先と為す。古より哲王、邦を経め治を致し、教を設け範を垂るるは、皆斯に尚ぶ。叔世は澆訛し、人多く偽薄にして、身を修め己を克つは、事誘勧に資る。朕恭しく霊命を膺け、四海を撫臨し、此の弊俗を湣み、方に遷導を思う。宋興貴は操を立て雍和に、志情友穆にして、同居合爨し、累代積年、本を務め農に力を崇謙履順す。名教を弘長し、風俗を敦勵す。宜しく其の門閭を表し、課役を蠲免すべし。天下に布告し、使わしめて明知せしむ。
興貴は尋いで卒す。
附 張公藝
鄆州壽張の人張公藝は、九代同居す。北齊の時、東安王高永樂、宅に詣で慰撫旌表す。隋の開皇中、大使、邵陽公梁子恭も亦た親しく慰撫し、重ねて其の門を表す。貞観中、特勅を以て吏に旌表を加えしむ。麟徳中、高宗、泰山に事有り、路鄆州を過ぎ、親しく其の宅に幸し、其の義の由を問う。其の人紙筆を請い、但だ百余の「忍」の字を書く。高宗之が為に流涕し、縑帛を以て賜う。
王君操(附 周智寿、智爽、許坦、王少玄)
王君操は、萊州即墨の人なり。其の父は隋の大業中、鄕人李君則と鬥競し、因って毆殺せらる。君操の時年六歳、其の母劉氏、県に告げて収捕せしむ。君則は家を棄て亡命し、追訪数年も獲ず。貞観初、君則自ら世代遷革を以てし、国刑を慮わず、又た君操の孤微なるを見て、其の復讐の志無きを謂い、遂に州府に詣で自首す。而して君操は密かに白刃を袖にして之を刺殺し、腹を刳りて其の心肝を取り、啖食し立尽し、刺史に詣で具に自ら陳告す。州司其の擅に殺戮するを以てし、問うて曰く、「人を殺して死に償うは、律に明文有り。何方に自ら理めて、生路を求むるか」と。対えて曰く、「亡父殺さるること、二十余載。諸の典礼に聞く、父の仇は天を同じくすべからずと。早く之を図らんことを願い、久しくして未だ遂げず、常に亡滅を懼れ、冤情を展ぶること無し。今大恥既に雪がれ、甘んじて刑憲に従う」と。州司法に拠りて死を処せんとし、其の状を列上す。太宗特詔を以て原免す。
附 周智寿、智爽
周智寿は、雍州同官の人なり。其の父は永徽初、族人安吉に害せらる。智寿及び弟智爽は乃ち安吉を途に候い、撃ちて之を殺す。兄弟相率いて県に帰罪し、争って謀首と為る。官司数年を経て決すること能わず。鄕人或いは智爽の先謀なるを証し、竟に誅に伏す。臨刑の際、神色自若として、顧みて市人に謂いて曰く、「父の仇已に報い、死すとも何をか恨みん」と。智寿は衢路に頓絶し、流血体に遍し。又た智爽の屍を収め、智爽の血を舐め取り、之を食いて皆尽くす。見る者傷まざる莫し。
附 許坦
豫州の人許坦、年十余歳、父山に入り薬を采るも、猛獣に噬わる。即ち号叫して杖を以て之を撃つ。獣遂に奔走す。父以て全きを得。太宗聞きて侍臣に謂いて曰く、「坦は幼童と雖も、遂に致命して親を救う。至孝自ら中より出で、深く嘉尚すべし」と。文林郎を授け、帛五十段を賜う。
附 王少玄
博州聊城の人王少玄は、父隋末に郡西に於いて乱兵に害せらる。少玄は遺腹に生まる。年十余歳、父の在る所を問う。其の母之に告ぐ。因りて哀泣し、便ち屍を求めて以て葬らんと欲す。時に白骨野を蔽い、由る可き無くして弁ぜず。或いは曰く、「子の血を以て父の骨に霑すれば、即ち滲入す」と。少玄乃ち其の体を刺して以て之を試む。凡そ旬日を経て、竟に父の骸を獲て以て葬る。体を尽くして病瘡し、歴年して方に愈ゆ。貞観中、本州聞きて薦め、王府参軍を拝除す。
趙弘智
趙弘智は、洛州新安の人なり。後魏の車騎大將軍肅の孫。父は玄軌、隋の陜州刺史。弘智は早く母に喪い、父に事えて孝を以て聞こゆ。学び《三禮》、《史記》、《漢書》に通ず。隋の大業中、司隷従事と為る。武徳初、大理卿郎楚之詔に応じて之を挙ぐ。詹事府主簿を授く。又た《六代史》の修撰に預かる。
初め、秘書丞令狐徳棻、齊王文学袁朗等十数人と同しく《藝文類聚》を修し、転じて太子舎人と為る。貞観中、累遷して黄門侍郎に至り、弘文館学士を兼ぬ。疾を以て出でて萊州刺史と為る。弘智は兄弘安に事うること、父に事うるに同じ。得る所の俸祿は、皆兄の処に送る。兄亡ぶるに及び、哀毀礼を過ぐ。寡嫂に事うること甚だ謹み、孤侄を撫するに慈愛を以て称せらる。稍く遷りて太子右庶子と為る。宮廃せらるるに及び、坐して除名せらる。尋いで起きて光州刺史と為る。
永徽の初め、累遷して陳王師に転じた。高宗は弘智に百福殿において『孝経』を講ぜしめ、中書門下三品及び弘文館学士、太学の儒者を召し、並びに講筵に預からしめた。弘智は微言を演暢し、五孝を備え陳べた。学士等の難問相継ぐも、弘智は響くが如く酬応した。高宗は怡然として曰く、「朕は頗る墳籍に耽るも、『孝経』に至っては、偏に習い睹る所なり。然れども孝の徳たるや、弘益実に深し、故に『徳教は百姓に加え、四海に刑す』と云う。是れ孝道の大なることを知るなり」と。顧みて弘智に謂いて曰く、「宜しく此の経の切要なる者を略陳べて、逮わざるを輔うべし」と。弘智対えて曰く、「昔、天子に諍臣七人有り、道無きも其の天下を失わず。微臣顓愚、願わくは此の言を以て奏献せん」と。帝は甚だ悦び、彩絹二百匹、名馬一匹を賜う。尋いで国子祭酒に遷り、仍って崇賢館学士と為る。四年に卒す。年八十二。謚して宣と曰う。文集二十巻有り。
陳集原
陳集原は、瀧州開陽の人なり。代々嶺表の酋長と為る。父は龍樹、欽州刺史なり。集原は幼くして孝行有り、父纔かに疾有れば、即ち終日食わず。永徽中、父に喪し、血数升を嘔き、枕服して苫廬し、悲感行路に及ぶ。資財田宅及び僮僕三十余人を、並びに兄弟に譲る。則天の時、官は左豹韜衛将軍に至る。
元讓
元讓は、雍州武功の人なり。弱冠にして明経に擢第す。母の疾を以て、遂に仕を求めず。躬親して薬膳し、承侍して養いを致し、閭里を出でざること数十余年なり。母終わるに及び、墓側に廬し、蓬髪櫛沐せず、菜食飲水のみなり。
咸亨中、孝敬監国し、令を下して其の門閭を表す。永淳元年、巡察使奏して、讓の孝悌殊に異なるを以て、擢びて太子右内率府長史に拝す。後に歳満ちて郷里に還る。郷人の争訟有る者は、州県に詣らず、皆な就きて讓に決せしむ。聖暦中、中宗春宮に居す。召して太子司議郎に拝す。謁見に及ぶと、則天謂いて曰く、「卿既に家に能く孝なれば、必ず国に能く忠ならん。今此の職を授く、須らく朕が意を知るべし。宜しく孝道を以て我が児を輔弼すべし」と。尋いで卒す。
裴敬彜
裴敬彜は、絳州聞喜の人なり。曾祖は子通、隋の開皇中太中大夫なり。母終わり、墓側に廬し、哭泣節無く、目遂に喪明す。俄に白鳥有りて墳樹に巣くう。子通兄弟八人、復た友悌を以て著名なり。詔して其の門を旌表す。郷人は今に至るまで「義門裴氏」と称す。
敬彜は少くして聡敏、七歳にして属文することを解す。性又端謹、宗族咸く之を重んじ、「甘露頂」と号す。年十四、侍御史唐臨、河北巡察使と為る。敬彜の父智周、時に内黄令と為り、部人の訟うる所と為る。敬彜、臨に詣りて其の冤を論ず。臨大いに之を奇とし、因りて詞賦を作らしむ。智周の事釈かるを得、特ちに表して敬彜を薦め、陳王府典簽を補す。智周官に在りて暴卒す。敬彜時に長安に在り、忽ち泣涕して食わず、親しむ所の者に謂いて曰く、「大人毎に痛む処有れば、吾即ち輒ち然として安からず。今日心痛み、手足皆な廃す。事不測に在り、戚しむこと無からんや」と。遂に急ぎて還ることを請い、倍道して言わずして帰る。果たして父の喪を聞く。羸毀礼を踰ゆ。母に事うるも復た孝を以て聞こゆ。
乾封の初め、累転して監察御史と為る。時に母病み、医人許仁則有り、足疾みて馬に乗ること能わず。敬彜毎に肩輿を以て之を候いて母にせしむ。母卒するに及び、特詔して縑帛を以て贈り、仍って官に霊輿を造らしむ。服闋し、著作郎に拝し、国史を修むるを兼ぬ。儀鳳中、中書舍人より歴りて吏部侍郎、左庶子と為る。則天朝に臨み、酷吏の陥れる所と為り、配流して嶺南に至り、尋いで卒す。
裴守真
裴守真は、絳州稷山の人なり。後魏の冀州刺史叔業の六世の孫なり。父は慎、大業中淮南郡司戸と為る。郡人楊琳・田瓚の郡に拠りて乱を作すに属し、尽く官吏を殺す。慎素より仁政有るを以て、相誡して驚害するを許さず、仍って人をして慎及び妻子を護送して郷に還らしむ。貞観中、官は酂令に至る。
守真は早く孤と為り、母に事えて至孝なり。母終わるに及び、哀毀骨立ち、殆ど喪に勝えず。復た寡姊及び兄に事えて甚だ謹み、閨門の礼則、士友の推す所なり。初め進士に挙げられ、八科挙に応ずるに及び、累転して乾封尉と為る。永淳の初め関中大饑するに属し、守真は禄俸を尽くして以て姊及び諸甥に供し、身及び妻子は粗糲充たず、初め倦色無し。尋いで太常博士を授かる。
守真は尤も礼儀の学を善くし、当時に以て称職と為す。高宗の時嵩山を封ずるに、詔して礼官に射牲の事を議せしむ。守真奏して曰く、
『周礼』及び『国語』に拠れば、郊祀天地するに、天子自ら其の牲を射る。漢武は唯だ太山を封ずるに、侍中の儒者に命じて射牲して行事せしむ。余祀に至っては、亦た射牲の文無し。但だ親しく舂き射牲するは、古礼なりと雖も、久しく廃省に従う。封禅の祀礼に拠れば曰く、未明十五刻、宰人鸞刀を以て牲を割き、質明にして行事す。鸞駕の至る時に比すれば、宰牲総べて畢わり、天皇は唯だ玉を奠め酌献するのみなり。今祀の前一日に牲を射れば、事即ち早きを傷つけ、祀の日方に始めて牲を射れば、事又た晩きを傷つく。若し漢武の故事に依らば、即ち親射の儀に非ず。事行うべからず。
また『神功破陣楽』『功成慶善楽』の二舞は、演奏されるたびに、天皇はみな立って対した。守真はまた議して言うには、
ひそかに考えるに、二舞が創始され、歌謡がこれに属するのは、九功の盛んな功業を賛え、万国の歓心に叶うためである。その意義は『韶』『夏』に等しく、用いられるところは賓客の礼と祭祀を兼ね、いずれも祖宗の盛徳であり、子孫がこれを享受するのである。伝記を詳しく見るに、皇王が立って観る礼はない。ましてや升中の大事においては、華夷がことごとく集まり、九服は垂拱の安らぎを仰ぎ、百蛮は率舞の慶びを懐く。造化を陶冶し育むのは、神功によらぬものはなく、どうして楽舞においてのみ、別に厳粛な敬意を表すことがあろうか。臣らが詳しく議するに、二舞を奏する時、天皇は起立すべきではない。
当時、みな守真の議に従った。ちょうど高宗が病気であったため、事はついに行われなかった。高宗が崩御した時、大行の凶儀がなく、守真は同時の博士韋叔夏・輔抱素らと旧事を討論してこれを創始し、当時、礼の中を得ていると称された。
守真は天授年間に司府丞となり、則天は特に詔獄を推究するよう命じたが、守真は公平で寛大な処置を心がけ、前後して数十家を奏上して免罪した。これによって則天の意に合わず、汴州司録として出され、累転して成州刺史となった。政治を行うにあたり威刑を務めず、人吏から非常に愛された。まもなく寧州刺史に転じたが、成州の人々で国境まで送り出した者は数千人に及んだ。長安年間に卒した。
守真の子に子餘あり。
子の子餘は、継母に仕えて孝行で知られた。明経に挙げられ、累補して鄠県尉となった。当時、同列の李朝隠・程行諶はみな文法で著名であったが、子餘はひとり詞学で知られた。
ある人が雍州長史陳崇業に、子餘と朝隠・行諶の優劣を問うたところ、崇業は言った、「春蘭と秋菊のごとく、ともに廃すべからざるものなり」と。景龍年間、左台監察御史となった。当時、涇・岐二州に隋代の蕃戸の子孫が数千家おり、司農卿趙履温が奏上して、ことごとく官戸奴婢に没収し、なお賜口に充てて、貴幸に給しようとした。子餘は、官戸が恩恵を受けて初めて蕃戸となり、しかも子孫であるから、これを抑えて賤しめることはできないと考え、その事を奏上して弾劾した。当時、履温は宗楚客らに依附しており、子餘と朝廷で曲直を対決した。子餘は言葉も顔色も屈せず、履温らは言葉に窮し、子餘の奏上に従って決定された。
開元初年、累遷して冀州刺史となった。政治は寛大で恵みを残し、人吏に称えられた。また岐王府長史となり、銀青光禄大夫を加えられた。十四年に卒し、諡して孝といった。子餘は官に在って清廉で倹約し、諸兄弟に友愛であった。
兄弟六人、みな志操と行いがあった。次弟の巨卿は衛尉卿、耀卿は別に伝がある。
李日知
李日知は、鄭州滎陽の人である。進士に挙げられた。天授年間、累遷して司刑丞となった。当時、法の運用は厳しく急であったが、日知はひとり寛大で公平で、冤罪や濫用がなかった。かつて一人の死囚を免罪しようとしたところ、少卿胡元礼が殺すよう断じようと請い、日知と往復して数度に及んだ。元礼は怒って言った、「元礼が刑曹を離れぬ限り、この囚人はついに生きる道理はない」と。答えて言った、「日知が刑曹を離れぬ限り、この囚人はついに死ぬ法はない」と。そこで両者の状を並べて上奏したところ、日知の言うところが正しかった。
神龍初年、給事中となった。日知は母に仕えること至孝であった。当時、母は老いて、かつて病気にかかり、日知は急を取って、数日間看病したために鬢の髪が白く変わった。まもなく朝散大夫を加えられた。その母は命婦の邑号を受けずに卒し、葬送のため柩を発引しようとした時、吏人が告身を持って来た。日知は路上でたちまち気絶し、久しくしてようやく蘇った。左右の者はみな哀慟し、仰ぎ見ることができなかった。巡察使・衛州司馬路敬潜がその孝悌の跡を聞こうとし、その状を求めさせたが、日知は辞譲して報告しなかった。服喪が終わると、累遷して黄門侍郎となった。
当時、安楽公主の池館が新たに完成し、中宗が親しく臨幸し、従官はみな宴に預かり詩を賦した。日知はひとり規誡の意を留め、その末章に言った、「願わくは暫く思え、居る者の安逸を、時に作者の労苦と称するなからんことを」と。論者はこれを称えた。
初め、日知はまさに陳請しようとしたが、妻と謀らず、帰宅して左右の者に装いを整えさせ、別業に出て住まおうとした。妻は驚いて言った、「家産はたびたび空しく、子弟の名声や官位もまだ定まっていないのに、どうして急に職を辞するのか」と。日知は言った、「書生がここまで至ったのは、すでに本分を過ぎている。人情に飽き足ることはなく、もしその心を恣にすれば、止むことのない日となる」と。田園に帰ってからは、産業に努めず、ただ池亭を修築し、多く後進を引き入れ、彼らと談笑し宴を催した。開元三年に卒した。
初め、日知は官が権要に在ったため、諸子弟がまだ総角の年頃であったのに、みな名族と結婚させた。当時の議論はこれを失礼の中と見なした。卒した後、末子の伊衡が妾を妻とし、田宅を費やし散らし、なお諸兄を列訟したため、家風は廃れた。
崔沔
崔沔は京兆長安の人であり、周の隴州刺史崔士約の玄孫である。博陵から関中に移り住み、代々著名な氏族となった。父の崔皚は、庫部員外郎・汝州長史を歴任した。崔沔は純朴で慎み深く、口に二言がなく、親に仕えること至孝であり、博学で文辞に優れていた。初めて制挙に応じ、対策で高い成績を得た。間もなく落第者から訴えられると、則天武后は所司に命じて再試験を行わせたが、崔沔の対策は以前よりさらに優れており、天下第一となった。これにより大いに名声を知られるようになった。再び陸渾主簿に転じた。任期が満ちて遷任する際、吏部侍郎岑羲は彼を深く賞賛し、人に言うには「これは今の郤詵である」と。特に上表して推薦し、左補闕に抜擢され、累進して祠部員外郎となった。崔沔は人となり穏やかで、慌ただしい場面では口数が少ないが、官に当たっては顔色を正し、一度も屈従しなかった。
睿宗の時、召されて中書舍人に任じられた。当時崔沔の母は老病で東都にいたため、崔沔は母を捨てるに忍びず、固く閑職を請い、もって養老の務めを果たそうとした。これにより虞部郎中に改められた。間もなく、検校御史中丞となった。当時監察御史宋宣遠は、盧懷慎の親族であることを恃み、しばしば法を犯したので、崔沔は彼を弾劾した。また姚崇の子で光祿少卿の姚彜は、東都留司として、多くの賓客と交わり、広く賄賂を受けていたので、崔沔はまたその事実を調査しようとした。姚崇と盧懷慎は当時政事を執っており、急いで崔沔に史才があると推薦し、著作郎に転じさせたが、実はその権限を奪うためであった。
二十四年、詔を下して礼官に籩豆の数を増やすこと及び服制の規定について議させた。太常卿韋縚が上奏し、宗廟の供え物を増やすことを請い、各座ごとに籩豆をそれぞれ十二とすること。外祖父の喪服を大功九月にまで増やすこと、舅の喪服を小功五月にまで増やすこと、堂姨・堂舅・舅母の喪服を袒免にまで増やすことを請うた。時にまた百官に詳しく議して可否を論じさせた。崔沔が建議して言うには、
ひそかに聞くところでは、礼楽の情実を識る者は作り、礼楽の文飾に通じる者は述べると。述作の意義は、聖賢が重んじるところであり、礼楽の根本は、古今を通じて崇められるところである。変じてこれを通ずる、これが永続する所以である。いわゆる変とは、その文を変えることであり、いわゆる通とは、その情を通ずることである。祭祀の起こりは、太古に始まり、人が飲食するには、必ずまず厳かに献げる。火食が未だなく、毛をむしり血を飲む時代には、毛血の薦めがあり、麹糵が未だなく、窪んだ樽で手掬いで飲む時代には、玄酒の奠めがあった。後世の王に及んで、礼の器物は次第に整い、酒醴を作り、犠牲を伏せて、もって馨香を致し、もって豊潔を極めた。故に三牲八簋の盛り、五斉九献の殷さがある。しかし神の道は極めて玄妙であり、存することはできても測ることはできない。祭礼は敬を主とし、備えることはできても敢えて廃することはできない。これにより血腥や爛熟、玄樽や犠象など、明らかな薦めに登らないものはない。
しかしながら、薦めは新しきを貴び、味は軽々しきを尚ばず。たとえ器物を備えても、なお節制を存する。故に『礼記』に云う、「天の生ずる所、地の長ずる所、もし薦むべきものあれば、ことごとく在らざるはない」と。これは器物を備える情実である。「三牲の俎、八簋の実、美物備わりぬ。昆虫の異、草木の実、陰陽の物備わりぬ」と。これは節制の文飾である。鉶俎・籩豆・簠簋・樽罍の実は、皆周人の時代の饌であり、その用は宴饗賓客に通ずる。しかるに周公が礼を制定した時、皆毛血や玄酒とともに先人に薦めた。晋の中郎盧諶は、近世において礼を知り、『家祭礼』を著した者である。その薦める所を見ると、皆晋の時代の常食であり、もはや純粋に礼経の旧文を用いていない。されば当時の飲食は、祭祀に欠くべからざるものであることは明らかであり、これは礼の文を変えてその情を通じさせたのである。
我が国家は礼によって訓えを立て、時に因って規範を制し、前典に図史を考へ、周・漢の旧儀を稽えた。清廟の時享には、礼饌をことごとく陳べ、周の制度を用い、古式を存する。園寢の上食には、時膳を具に設け、漢の法に遵い、珍味を極める。職貢して祭りに来るは、遠方の物を致すためであり、新しき有れば必ず薦むるは、時令に順うためである。苑囿の内、躬で耕作して収めし物、蒐狩の時、親しく発して中てし物、鮮やかなものを割き美を択び、薦めて後に食らうに至らざるはなく、誠敬を尽くすのである。このように至っておるのに、さらに何を加えようというのか。ただ有司に申し戒め、祭るに神在すが如くし、簡略怠慢あることなく、ひたすら虔誠を増すよう勧めるべきである。進貢の珍羞や、あるいは時物の鮮美なるものは、諸々の祠典を考へて、漏れ落ちるものなく、皆その名目を詳しくし、甲令に編し、宜しきに因って薦め、類を以て相従わせるべきである。そうすれば新鮮肥濃なるものは、ことごとくここに在り、必ずしも籩豆の数を増やす必要はない。祭器については、物に随って宜しきに従う。故に太羹は古の食であり、㽅に盛る。㽅は古の器である。和羹は時の饌であり、鉶に盛る。鉶は時の器である。また古の饌でありながら時の器に盛るものもある。故に毛血は盤に盛り、玄酒は樽に盛る。時の饌を薦めながら古の器を用いることを追うものはない。古は質朴であり今は文飾であるから、事に便なのである。たとえ籩豆を十二加えても、未だ天下の美物を尽くすに足らず、しかも清廟に措けば、倍増の名があり、奢侈に近い。魯人が桓宮の楹を丹にし、またその桷を刻んだことを、『春秋』は「礼に非ず」と書く。御孫が諫めて言うには、「儉は徳の恭なるもの、侈は悪の大なるもの。先君は恭徳有りしに、君は諸悪を納る、それ不可ならんや」と。これは礼を越えて宗廟に奢侈を崇めることはできないのである。また『漢書・芸文志』によれば、「墨家の流れは清廟より出ず、ここをもって儉を貴ぶ」と。これによって観るに、清廟が奢を尚ばないのは、古くからのことである。太常の請う所は、恐らく行うべからざるものであろう。
また太常の奏状によれば、「今酌献の酒爵は、制度が全く小さく、僅かに一合に満たず、執持することが甚だ難しく、古制に全く依ることはできず、なお少しばかり広大にすることを望む」と。ひそかに礼文に拠れば、小を以て貴しとするものがあり、爵を以て献ぐるは、その小を貴ぶのである。小が制に及ばないのは、敬ではあっても礼ではなく、これは有司がその伝えを失ったのである。固より失いに随って厘正すべきであり、議して後に革めるを待つ必要はない。しかし礼が敬を失うのは、奢るよりは寧ろ儉にする方が、大過ではない。今の制度が何に依拠しているかは知らない。兼ねて令式を詳しくし、文に拠って行うことを請う。
また太常の奏状「外祖父の喪服を大功九月にまで増やすことを請い、舅の喪服を小功五月にまで増やすことを請い、堂姨・堂舅・舅母の喪服を袒免にまで増やすことを請う」とある件について。ひそかに聞くところでは、大道既に隠れ、天下は家となった。聖人がこれに因り、然る後に礼を制定した。礼教の設けは、家を正すことを本とし、家道正しくして天下定まるのである。家を正す道は、二つであってはならず、総一の義は、理として本宗に帰する。それ故に父は尊崇を以てし、母は厭降を以てするのであり、愛敬が無いわけではなく、倫序を存すべきなのである。それ故に内には斉斬有り、外服は皆緦麻とし、尊名の加わる所は一等を過ぎず、これは先王の易えざる道である。前の聖人が誌し、後の賢人が伝え、その来ること久しい。昔、辛有が伊川に適った時、髪を被って野に祭る者を見て言うには、「百年を及ばず、これ戎であろうか。その礼先ず亡びた」と。かつて新礼を修めし時、旧章を改め、漸く『渭陽』の恩を広げ、洙泗の典に遵わなかった。そして弘道の後、唐元の間、国命は再び外族に移ったのである。礼の亡びる徴兆は、もしかするとここに見られるのではないか。天人の際、戒めざるべけんや。
開元の初め、補闕盧履冰がかつて喪服の軽重について状を進めて論じ、勅を下して皆に議させた。当時群議紛糾し、各々積習に安んじ、太常礼部は旧定に依ることを奏上した。陛下は稽古の明を運らし、特に別勅を降し、一に古礼に依らしめられた。事は典故に符し、人は向方を知り、宗盟を固くし、社稷の福である。さらに異議を図ることは、ひそかに未だ詳らかでない。
時に職方郎中韋述、戸部郎中楊伯成、礼部員外郎楊沖昌、監門兵曹劉秩等もまた建議して、王沔の意見と符合した。やがてまた中書門下に命じて参詳して定めさせた。ここにおいて宗廟の典は、籩豆が毎座各々六に加えられ、親姨・舅は小功とし、舅母は緦麻を加え、堂姨は袒免に至り、その他は旧定のままとした。乃ち制を下して施行した。王沔は礼経に通じていたので、朝廷に疑議がある毎に、皆その決を取った。二十七年に卒し、時に年六十七、礼部尚書を贈られた。
陸南金
陸南金は、蘇州呉郡の人である。祖父の陸士季は、同郡の顧野王に従って『左氏伝』を学び、兼ねて『史記』・『漢書』に通じた。隋末、越王楊侗の記室兼侍読となった。楊侗が称制すると、著作郎を授けられた。時に王世充が将に簒奪を行わんとし、楊侗はこれを平らげず、陸士季に謂って曰く、「隋は天下を有すること三十余載、朝廷の文武に遂に烈なる者無きか」と。陸士季対えて曰く、「危きを見て命を授くるは、臣の宿心なり。請う、其の啓事に因りて、便ち手刃を加えん」と。事頗る泄れ、遂に陸士季の侍読を停めた。
貞観初め、太学博士となり、弘文館学士を兼ね、尋いで卒した。
陸南金は初め奉礼郎となった。開元初め、太常少卿盧崇道が罪を犯し、嶺表に流され、逃れて東都に帰った。時に陸南金は母の喪に在りて家にあり、盧崇道の事急なり、仮に弔賓と称し、陸南金を訪ね、其の情を言う。陸南金は哀れんでこれを納れた。盧崇道はやがて仇人に発覚され、詔して侍御史王旭に其の事を按じさせた。遂に盧崇道を捕獲し、陸南金を連引した。王旭は遂に重法を以てこれを糾した。
南金の弟 趙璧
南金の弟趙璧が王旭に詣で、自ら盧崇道を匿ったと述べ、兄に代わって死ぬことを請うた。陸南金は固く称して、「弟は実に自ら誣いるなり。身請うて罪に当たる」と。兄弟死を譲り合う。王旭は怪しんで其の故を問う。趙璧曰く、「兄は長嫡にして、又能く家事を幹う。亡母未だ葬らず、小妹未だ嫁がず、惟れ幼劣なるを自ら思い、生くるに益無く、身自ら死を請う」と。王旭は遂に状を列上した。上其の友義を嘉し、並びに特しくこれを宥した。陸南金はこれにより大いに知名となった。
陸南金は頗る経史に渉り、言行修謹、左丞相張説及び宗人の太子少保陸象先は、皆欽重した。累転して庫部員外郎となり、疾を以て、固く繁劇に堪えずと辞し、転じて太子洗馬となった。卒し、年五十余。
張琇(兄 張瑝)
張琇は、蒲州解県の人である。父の張審素は巂州都督となり、辺境に累年居た。やがて其の軍中の贓罪を糾す者あり、勅して監察御史楊汪に馳伝して軍に就きてこれを按じさせた。楊汪は路に在りて、張審素の党与に劫われ、楊汪に対面して告事者を殺し、楊汪を脅して張審素の罪を雪ぐよう奏上させた。やがて州人が翻って張審素の党を殺し、楊汪は始めて還るを得た。益州に至り、奏称して張審素が謀反したとし、因って深く張審素を按じ、其の罪を構成した。これを斬り、其の家を籍没した。張琇と兄の張瑝は、幼年の故を以て坐し嶺外に徙された。尋いで各々逃れて帰り、累年隠匿した。楊汪は後累転して殿中侍御史となり、名を万頃と改めた。
裴耀卿・李林甫は固く言う、「国法は復讐を縦すべからず」と。上然りと為し、因って張九齢等に謂って曰く、「復讐は礼法に許されると雖も、殺人も亦格律に具存す。孝子の情、義命を顧みず。国家法を設く、焉ぞ此れを容れんや。之を殺して復讐の志を成し、之を赦して律格の条を虧く。然れども道路誼議有り、故に告示を須う」と。乃ち勅を下して曰く、「張瑝等兄弟同殺、推問して款承す。律に正条有り、倶に各々死に至る。近く聞く、士庶頗る誼詞有り、其の父の為に復讐するを矜み、或いは本罪冤濫なりと言う。但し国家法を設く、事は経久に在り、蓋し人を済わんことを以てし、殺を止めんことを期す。各々子たるの志を申す、誰か孝に徇うの夫に非ざらん。展転相継ぎ、相殺すること何ぞ限らん。咎繇士を作り、法は必ず行わるべし。曾参人を殺すも、亦恕すべからず。刑戮を加えずんば、諸れを市朝に肆す。宜しく河南府に付して告示し決殺せしむべし」と。
張瑝・張琇既に死す、士庶皆傷み湣み、哀誄を作りて衢路に榜す。市人は銭を斂め、死所に義井を造り、並びに張瑝・張琇を北邙に葬る。又恐らくは楊万頃の家人之を発かんとし、並びに疑塚数所を作る。其の時人に傷まれること此の如し。
梁文貞(附 李処恭・張義貞・呂元簡)
梁文貞は、虢州閿郷県の人である。少くして徴役に従い、比して回るに父母皆卒せり。梁文貞は終養を獲ざるを恨み、乃ち壙を穿ちて門と為し、磴道を以て出入し、晨夕其中に灑掃す。廬を墓側に結び、未だ暫しも離れず。此れより言わず三十年、家人問う所あるも、但だ字を画いて以て対う。其の後山水驛路を沖断し、更に原上に道を開くこと、梁文貞の墓前を経る。此れにより行旅之を見る、遠近欽嘆せざる莫し。甘露有りて塋前の樹に降り、白兔馴擾す。郷人以って孝感の致す所と為す。
開元初め、県令崔季友石を刊して以て之を紀す。十四年、刺史許景先奏す、「梁文貞孝行絶倫、血を泣いて廬墓す、三十余年、請う宣付して史官にせん」と。是歳、御史大夫崔隱甫廷奏す、「恒州鹿泉県人李処恭・張義貞両家、祖父国初已来、異姓同居し、今に至るまで三代、百余年に及ぶ。又青州北海県人呂元簡、四代同居し、至る所畜の牛馬羊狗に至るまで、皆異母共乳す。請う旌表を加え、仍って史館に編入せん」と。制皆之を許す。
崔衍
崔衍は左丞崔倫の子である。継母の李氏は崔衍に慈しみを施さず。崔衍が富平尉の時、崔倫は吐蕃に使いし、久しくして帰還す。李氏は破れた衣を着て崔倫に会す。崔倫其の故を問うと、李氏は称して「崔倫が蕃中に使いしてより、崔衍が衣食を給せず」と。崔倫大いに怒り、崔衍を召して責め詰り、僕隸に命じて地に引き倒させ、其の背を袒かせ、将に鞭打たんとす。崔衍は涕泣すれども終に自ら陳べず。崔倫の弟崔殷、之を聞き馳せ往き、身を以て崔衍を蔽い、杖下るを得ず。因りて大いに言う「崔衍の毎月の俸銭は皆嫂の処に送り、崔殷の具に知る所なり、何ぞ忍びて乃ち崔衍が衣食を給せずと言うや」と。崔倫の怒り乃ち解く。是によりて崔倫遂に李氏の讒を聴かず。及び崔倫卒すや、崔衍は李氏に事えること益々謹みたり。李氏の生みし子崔郃、毎に多く子母銭を取り、其の主をして契書を以て負債を崔衍に徴せしむ。崔衍は歳に之を償う、故に崔衍の官は江州刺史に至るも、妻子の衣食に余る所無し。
後に蘇・虢二州刺史を歴任す。虢州は陝・華二州の間に在りて、税重く数倍す。其の青苗銭は、華・陝の郊は、畝に出ずること十有八、而るに虢の郊は、毎に十の七を徴す。崔衍乃ち其の事を上奏す。時に裴延齢度支を領し、方に聚斂に務む。乃ち崔衍を紿して以前後の刺史に言う者無しとす。崔衍又上陳して人の困窮を言い、曰く「臣の治むる所は多くは山田にして、且つ郵伝の沖要に当たり、歳登らず、頗る甚だしく流離す。旧額の賦租は、特ちに蠲減を望む。臣伏して見るに、比来諸郡の百姓間の事を論ずるは、患は長吏の因循として申請せず、実を詣らず、朝廷の矜放せざるを患えず。言わざるを以て譴責を受くる者有り、言いて罪を獲る者未だ有らず。陛下臣を抜きて大郡を牧せしめ、臣に疲民を撫するを委ぬ。臣の敢えて顧望せず、苟くも自安を求めざる所以は、敢えて狂瞽を罄き、聖覧を上干せんとす」と。帝は崔衍の詞理の切直なるを以て、乃ち特ちに度支に勅し、虢州の青苗銭を減ぜしむ。
宣歙池観察使に遷る。政務簡便にして、人頗る之を懐く。其の選ぶ所の従事は、多く名流を得たり。時に位ある者は賓僚を待つに率ね軽傲なりしも、崔衍独り礼敬を加え、幕中の士は、後多く顕達す。
貞元中、天下進奉を好み以て主恩を結び、徴求聚斂し、州郡耗竭す。韋臯・劉贊・裴肅之が首と為る。劉贊死して崔衍其の位に代わる。崔衍は雖も其の弊を驟に革むる能わざりしも、宣州に居ること十年、頗る勤倹にして、府庫盈溢す。及び穆贊崔衍に代わるや、宣州歳饑し、遂に銭四十二万貫を以て百姓の税に代え、故に宣州人は流散に至らず。貞元二十一年、詔して工部尚書を加う。
丁公著
丁公著、字は平子、蘇州呉郡の人。祖父は衷、父は緒、皆仕えず。公著生まれて三歳、親を喪う。七歳、隣の母が其の子を抱くを見て、哀感して食わず、因りて父に請い、粒を絶ち道を奉じ、其の幽賛を冀う。父憫みて之に従う。年十七、父勉めて学に就かしむ。年二十一、『五経』に及第す。明年、又『開元礼』を通じ、集賢校書郎を授かる。秩未だ終わらざるに、帰りて郷里に侍し、請辟に応ぜず。父の喪に居り、躬で土を負いて墳を成し、哀毀の容、人の之を憂うる所と為る。里閭風を聞き、皆孝悌を敦くす。観察使薛華其の行を表し、詔して粟帛を賜い、其の門閭を旌く。
淮南節度使李吉甫其の才行を慕い、薦めて太子文学を授け、兼ねて集賢殿校理とす。李吉甫淮南より入相し、廷に其の行を薦む。即日に右補闕を授く。集賢直学士に遷り、尋いで水部員外郎を授け、皇太子及び諸王侍読を充てる。『皇太子及諸王訓』十巻を著す。駕部員外に転じ、仍って旧職を兼ぬ。
穆宗即位し、未だ聴政に及ばずして、禁中に召し居らしめ、朝典を詢訪し、以て宰相に許す。公著情を陳べ、詞意極めて切なり。超えて給事中を授け、紫金魚袋を賜う。未だ幾ばくもせず、工部侍郎に遷り、仍って集賢殿学士を兼ね、青宮の旧を寵す。吏部選事を知る。公著将に大用せんと欲するを知り、疾を以て辞退し、因りて外官を求め、遂に浙江西道都団練観察使を授かる。二年、河南尹を授かる。皆清静を以て治む。尚書右丞に改め、兵部・吏部侍郎に転じ、礼部尚書・翰林侍講学士に遷る。上は浙西の災寇を以て、良帥を詢求し、命じて検校戸部尚書を以て之を領せしむ。詔して米七万碩を賜い以て賑給せしむ。浙民之に頼る。太常卿に改めて授かる。疾を以て郷里に帰らんことを請う。未だ至らざるに終わる。年六十四。右僕射を贈られ、朝を廃すること一日。『礼志』十巻を著す。
公著は清倹にして道を守り、毎に一官を得るに、未だ嘗て憂色満容せざること無し。年四十四にして室を喪い、以て終身に至るまで、妓妾声楽の好無し。凶問至るの日、中外之を痛惜す。
羅讓
羅讓、字は景宣。祖父は懐操。父は珦、官は京兆尹に至る。羅讓は少くより文学を以て知名たり。進士に挙げられ、詔に応じて対策高等、咸陽尉と為る。父の憂に服し、服除くるも、尚衣麻茹菜し、四方の辟に従わざること十余年。李献が淮南節度使と為り、其の居る所に就き、請いて従事と為す。監察御史を除き、殿中に転じ、尚書郎・給事中を歴任し、累遷して福建観察使・兼御史中丞に至り、甚だ仁恵著し。女奴を以て羅讓に遺す者有り。羅讓其の因る所を問う。曰く「本某寺の家人なり。兄姉九人、皆官に売られ、其の留まる者は唯だ老母のみ」と。羅讓惨然たり。其の券書を焚き、女奴を以て其の母に帰す。入りて散騎常侍と為る。未だ幾ばくもせず、江西都団練観察使・兼御史大夫を除く。年七十一にして卒す。礼部尚書を贈らる。
羅讓の子 劭京(羅讓の族子 劭権)
子の劭京、字は子峻、進士に擢第し、又登科す。羅讓の再従弟に詠有り。詠の子の劭権、字は昭衡、進士に擢第す。劭京・劭権は時に知名たり。並びに清貫を歴任す。
贊
賛に曰く、麒麟鳳凰は飛走の類なり。唯だ孝と悌も亦た人瑞と爲る。門を表し爵を賜ひ、乃ち類を錫ふるを勸む。彼の禽たる者梟は、仁を傷け義を害す。