旧唐書 巻一百八十七下 列伝第一百三十七下 忠義下

旧唐書

巻一百八十七下 列伝第一百三十七下 忠義下

李憕

李憕は、太原の文水の人である。父の希倩は、中宗の神龍初年に右台監察御史となった。

憕は早くから聡明で、明経に挙げられ、開元初年に咸陽尉となった。時に張説が紫微令・燕国公から相州刺史・河北按察使として出向し、洺州の劉行という人が人相を見るのに長けていた。説が「同僚のうち後に誰が貴達するか」と問うと、行は憕と臨河尉の鄭巖を称えた。説はそこで娘を巖に嫁がせ、妹婿の陰行真の娘を憕に嫁がせた。説が并州長史・天兵軍大使となると、憕を引き立てて常に幕下に置いた。九年、入朝して宰相となると、憕はまた長安尉となった。宇文融が御史となり、田戸を検括するに当たり、名を知られた士人である崔希逸・咸廙業・宇文順・於孺卿・李宙及び憕を判官として奏請し、監察御史を摂行させ、各路を分けて検察させ、考課によって共に監察御史に昇進させた。憕は兵部郎中・吏部郎中・給事中を歴任した。憕は吏務の才幹があり、文書処理に明るく、官職に当たる者としての称賛が大いにあった。

二十八年、河南少尹となった。時に蕭炅が尹であり、権貴に依り頼み、職務を行うのに不法なことが多かった。憕は公直をもってこれを正したので、人々は頼りとした。また道士の孫甑生が左道を用いて進出を求め、功德を修めることを託けにしてすう山に往来し、度を越えて請願したが、憕は必ずこれを挫いた。炅及び甑生はこれを患い、朝廷に讒言した。天宝初年、清河太守として出された。十一載、累転して河東太守・本道採訪使となった。行在所に謁見し、尚書右丞・京兆尹に改められた。十四載、光禄卿・東京留守に転じ、尚書省事を判じた。

その年の十一月、安禄山が范陽で反乱を起こし、人心は震え恐れた。玄宗は安西節度使の封常清を御史大夫を兼ねて将とし、東京で召募してこれを防がせた。憕は留台御史中丞の盧奕・河南尹の達奚珣と共に、将士を安撫し、城郭を修繕完備して、その侵逼を食い止めた。憕を礼部尚書に遷し、前のまま留守とした。逆賊が范陽を発してから、黄河を渡るまで、命令は厳重で、偵察の計略は絶えていた。黄河を渡り、陳留・滎陽けいようの二郡を陥落させ、張介然・崔無诐を殺害すると、数日のうちに既に都城の下に至った。禄山の統率する兵は、皆蕃漢の精兵で、訓練は久しく行われていた。常清の兵衆は、多くは市井の人々で、初め戦いを知らなかった。兵が交わった後、鉄騎に突かれ、飛ぶ矢は雨の如くで、皆魂を奪われ顔色を失い、賊を見て奔散した。憕は奕に言った、「我々は国の重い任を負い、死を避けぬと誓った。力は敵わぬとはいえ、官職を守る責務はどうするのか」。奕もまた直ちに本司を守ることを願い出た。そこで憕は留守の宅に居り、奕は独り台の中に居た。

常清が西に奔ると、禄山はその兵衆を率い、鼓を打ち鳴らし大声をあげて都城に入り、数千人を殺掠し、矢は宮闕に及んだ。その後閑廄の中に住居を構え、憕及び奕・判官の蔣清ら三人を捕らえさせ、これを害して衆に威を示した。禄山は憕・奕・清の三人の首を伝送し、河北で示衆した。二晩経ち、平原に至ると、太守の顔真卿はその使者を斬り、その首を洗い、木の函に納めて殯し、祭って埋葬し、上聞した。玄宗は憕に司徒を追贈し、なお一子に五品官を与えた。奕には武部尚書を、崔無诐には工部尚書を、各々一子に官を与えた。蔣清には文部郎中を追贈した。

憕は産業に富み、伊川の肥沃な地、水陸の上田、良く茂った竹や樹木があり、城から闕口に至るまで、別荘が相望み、吏部侍郎の李彭年と共に地癖があった。鄭巖は、天宝年間に絳郡太守に至り、入朝して少府監となったが、田産は憕に次いだ。

憕には十余人の子がいたが、二人の子は僧となり、憕と共に害に遇った。二人の子、彭と源は生き残った。

子 源

源は、時に八歳で、賊に捕らわれ、転々と流浪し、凡そ七、八年を経た。史朝義が河北に逃走した時、洛陽の旧吏で源を義とする者がおり、民家からこれを贖い出した。代宗はこれを聞き、河南府参軍を授け、司農寺主簿に転じた。父が禍難に死したため、禄仕する心がなく、妻を娶らず、酒肉を食わぬと誓った。洛陽の北の恵林寺は、憕の旧い別荘であった。源はそこで寺僧に依り、一室に寓居し、僧に従って斎戒し、人がその習いを見たことはなかった。先に地に穴を掘って墓とし、予め終の制を為し、時々その穴の中で仰臥していた。

『礼』には死綏を著し、『伝』には節を握ると称え、生を捐てて位を守ることは、人倫において重んじられる。義の為であることは甚だ明らかであるが、その風は或いは廃れる。このことを思うと、慨然として懐かしく思う。朝廷の公卿に上言する者がおり、言うには、天宝の末、盗賊が幽陵より起こり、生霊を振盪し、河洛を噬み吞んだ。司徒・忠烈公を追贈された李憕は、難に処して先頭に立ち、正色をもって屠られ、両河はその風聞を聞き、再び危うき壁を固め、殊なる節操を真っ先に立て、今に至るまで称えられている。その子の源は、曾子・閔子騫の行いがあり、神明に貫くことができる。巣父・許由の風があり、太古に希うことができる。山林にその跡を寄せ、爵禄は心に入らず、淡泊として営みがなく、五十余年に及ぶ。忠を褒めることは臣節を勧めることができ、孝を旌すことは人倫を激発することができ、義を尚ぶことは浮薄を戒めることができ、老を敬うことは風俗を厚くすることができる。この四つを挙げて、時に大いに戒めとする。そこで衡門から抜擢し、文陛の上に立ち、諫職に処して、正しい言論を聞くことを望み、なお印綬を加え、寵光を示す。左諫議大夫を守らせ、緋魚袋を賜う。なお河南尹に勅して官人を差し向け、その居所に赴き敦諭して発遣させよ。

穆宗は間もなく中使に手詔・緋袍・牙笏・絹二百匹を持たせ、洛陽の恵林寺に赴かせて宣賜させた。源は詔を受け、中使に対し病が甚だしく年も高いので趨拝できないと苦しんで陳述し、別に表を奉って恩に謝し、その官告・服色・絹は皆辞して受けなかった。遂に寺で卒した。

子 彭

彭は、一子の官により累次州県の令長を歴任した。子の宏は、仕官してますます卑位となった。三子を生む:景譲・景荘・景温、元和の後より、相次いで進士に登第した。

彭の孫 景譲

景譲は、太和中に尚書郎となり、出て商州刺史となった。開成二年、入朝して中書舎人となった。二年十月、出て華州刺史・潼関防禦・鎮国軍使となった。四年、入って礼部侍郎となった。五年、貢士李蔚を選び、後に宰相に至る;楊知退は尚書となった。大中朝、襄州刺史・山南道節度使となり、入って吏部尚書となった。十一年、御史大夫に転じた。

景譲は大志を抱き、親に事えて孝行をもって聞こえ、正色を以て朝に立ち、言うところに避忌がなかった。大夫の時、宣宗の舅鄭光が卒し、詔して司徒を贈り、三日間朝を罷めた。景譲曰く、「国舅は親戚なりといえども、朝典には定めあり、過度に越えることは許されぬ」と。乃ち上言して曰く、

鄭光は陛下の親舅、外族の愛、誠に聖心を痛ませ、況や皇太后哀切の時、理に加等すべく、而して之に粟帛を賜い、其の第宅を隆くし、家より国を刑するは、允に宜しきに合うと謂うべし。今輟朝の数を以て、親王公主に比すれば、則ち前例に無き所なり。仮に有りと雖も、亦た施用すべからず。何となれば、先王礼を制するは、微を防ぐ所以なり。大凡人情、外族には深く、宗属には薄し。故に先王礼を制し、愛を割き親を厚くす、士庶猶お然り、況や万乗に当たるをや。親王公主は宗属なり、舅氏は外族なり。今朝廷公卿より庶人に至るまで、『開元礼』に拠れば、外祖父母及び親舅の喪服は小功五月、若し親伯叔親兄弟は即ち斉縗周年を服す。是れ其の外を疎くして内に密にする所以なり。天下を有つ者は、尤も外戚の強盛ならしむべからず。故に西漢に呂氏の侈有り、幾くんか劉氏を滅ぼさんとし、国朝に則天の篡有り、殆ど唐命を革めんとす。皆一朝一夕に非ず、其の由来漸し。今鄭光の輟朝日数、親王公主と同じし、設い陛下速やかに詔命を改め、輟朝一日或いは両日とし、其の升降差有るを示し、恩礼僭越無からしめ、四方に陛下欽明の徳を見せしめ、青史に陛下制度の文を伝え、之を百王に垂れ、之を芳烈に播かしむ。

臣愚不肖、謬って恩私を窃にす、実に願わくは陛下を堯・舜の上に処し、羲・軒の列に置かんことを、是れ鼎鑊に甘心し、危言を伏して進む所以なり。

優詔を以て之に報い、乃ち両日を罷む。景譲復た吏部尚書となり、卒し、謚して孝と曰う。

景温は、登第後台閣を践歴す。咸通中、工部侍郎より出て華州刺史・潼関防禦・鎮国軍使となる。景荘も亦た達官に至る。

張介然

張介然は、蒲州猗氏の人なり。本名は六朗。謹慎にして籌算に善く、郡守として河・隴に在り。天宝中、王忠嗣・皇甫惟明・哥舒翰相次いで節将となり、並びに営田支度等使を委ねる。進んで衛尉卿の位に至り、仍に行軍司馬を兼ね、使は旧に如し。銀青光禄大夫を加えられ、上柱国を帯び、因って入奏して旨に称し、特段に賜賫を加えらる。介然隙に乗じて奏して曰く、「臣今三品、棨戟を列すべし。若し帝城に列すれば、郷里臣の貴きを知らず。臣は河東の人なり、請う故郷に戟を列せん」と。玄宗曰く、「与うる所は故郷に列すべく、京城には当に別に賜わん」と。介然拝謝して出で、仍って絹五百匹を賜い、閭里に宴集せしめ、以て之を寵異す。本郷に戟を列するは、介然より始まる。哥舒翰西京に在りて追薦し、少府監となす。

安禄山河洛を犯さんとし、介然を以て河南防禦使とし、陳留を守らしむ。陳留は水陸湊合する所、邑居万家、而して素より戦に習わず。介然任に至ること数日、賊已に河を渡る。兵を率いて城に登り、兼ねて要害を守るも、虜騎十万、過ぐる所殺戮し、煙塵天に亘り、数十里に瀰漫す。介然の衆、角を吹き鼓噪の声を聞き、甲を授くるを得ず、気已に奪わる。故に覆敗に至る。

初め、玄宗禄山の逆を起こすを以て、河南の要路に榜を懸げて其の首を購い、又諭して已に其の子慶宗等を殺すとす。禄山陳留北郭に入り、安慶緒榜を見て、禄山に白す。禄山輿中に於いて両手胸を撫で、数声大哭して曰く、「我に何の罪有りて、已に我が児を殺すや」と。便ち兇毒を縦つ。前に陳留兵将降する者万に近く、路に行列す。禄山其の牙将に命じて殺戮し皆尽くし、流血川の如し。乃ち介然を軍門に斬り、禄山の気乃ち稍く解く。軍を陳留郭下に頓し、其の将李庭望を以て節度として之を鎮めしむ。十五載、玄宗介然に工部尚書を贈り、一子に五品官を与う。

崔無詖

崔無詖は、京兆長安の人なり。本は博陵の旧族。父は従礼、中宗韋庶人の舅、景龍中衛尉卿。時に中書令・酂国公蕭至忠才位素より高く、甚だ恩顧を承け、詔して亡き先女を冥婚して韋庶人の亡弟に嫁がしむ。無詖は至忠の女を婚し、後は女家と為り、中宗は児家と為り、供擬甚だ厚し。時人為之に語りて曰く、「皇后嫁女、天子娶婦」と。韋庶人の敗るるに及び、至忠の女も亦た死し、無詖累に坐して久しく外に貶せらる。

開元中、益州司馬となる。会に楊国忠新都尉たり、之と歓甚だし、国忠事に因りて之を引用し、累転して陝郡太守・少府監・滎陽郡太守となる。安禄山衆を率いて南向し、無詖召募して之を拒ぐ。賊陳留郡を陥したる後、兇威転じて盛んとなり、戈矛鼓角、城邑を驚駭せしめ、両宿にして滎陽に及ぶ。城に乗じて自ら墜つること雨の如し。故に無詖及び官吏、尽く賊の虜と為る。賊其の将武令珣を以て之を鎮めしむ。

盧奕

盧奕は、黄門監盧懐慎の末子である。兄の盧奐と共に名声を並べた。腹は大きく顎は豊かで、眉目は朗らかであった。謹直で寡欲であり、車馬を好まず、己を律して自らを励ました。開元年間、京兆司録参軍に任ぜられた。天宝初め、鄠県令・兵部郎中となった。歴任した所では名声があり、いずれも盧奐の治績のようであった。天宝八載、給事中に転じた。十一載、御史中丞となった。初め盧懐慎と盧奐が共に中丞となり、父子三代相継いで、清廉な節操を変えず、当時の人々はこれを称えた。盧奕は東都の留台に在り、また東都の武部選事を分掌した。

十四載、安禄山が東都を犯すと、人吏は逃げ散った。盧奕は留台に独り留まり、賊に捕らえられ、李憕と共に害された。玄宗はこれを聞いて哀れみ、兵部尚書を追贈した。太常が諡を議し、博士の独孤及が議して曰く、

盧奕は剛毅で質朴忠実、直方にして清廉であり、吏事に精励し、居た所は記録に値する。天宝十四載、洛陽が陥落した。時に東京の人士は狼狽して鹿のように驚き、猛虎が牙を磨いてその肉を争い、官位にある者は皆、命を保ち妻子を全うしようとした。ある者は先んじて駿足を策し、争って羿の弓の射程を脱せんとし、ある者は恥じずに苟くも生き、甘んじて盗泉を飲んだ。盧奕は独り身を正し位を守り、義を以て去らず、死を以て節を全うし、辱められぬことを誓った。勢い窮まり力尽きて、朝服を着たまま捕らえられ、なお慷慨感憤し、賊の梟獣の罪を数え上げた。見る者は股を慄かせたが、盧奕はその色を変えず、北面して君に辞し、然る後に害された。古の烈士と雖も、これに比する者は少ない。

或る者は言う、「洛陽の存亡は、兵を操る者が実にその責を負うべきであり、法を執る吏の抗い得る所ではない。軍敗れて将奔る時は、去ることもできよう。身を寇仇に委ねて死するは、誰を恨むというのか」と。及はこれを然りとせず。勇者は防ぎ忠者は守り、必ず社稷をこれ衛らんとすれば、則ち死生を以てこれに従う。危うきを見て去るは、これは智による免れであり、忠に何のあろうか。昔、荀息は晋に於いて身を殺し、その言を食らわず、仲由は衛に於いて纓を結び、食むに難を避けず、玄冥はその官に勤めて水に死し、位を守って躯を忘れ、伯姫は保姆を待って火に死し、礼を先にして身を後ろにした。あの四人は、死の日、皆事に補う所なく、どうして死を愛して禍を買おうか。死は義より軽しと為し、故に義を蹈んで生を捐てたのである。古史はこれを書き、事君する者を勧めた。然らば則ち、禄山の乱は、裏克・孔悝より大きく、盧奕の廉察の任は、玄冥の官より切である。分命の繫がる所は、保姆に啻ならず、逆党の兵威は、水火より甚だしい。この時に当たり、干戈を執る者と共にその戮力を同じくし、引き来たしても来らず、推し去らんとしても去らず、どうして師は虧くべくも、免れは苟くすべからず、身は殺さるべくも、節は奪うべからずと為さざらんや。故にその特操を白刃の下に全うするは、どうして安きを懐いて偷生する者とその風を同じくせんや。

謹んで諡法を按ずるに、国を図り身を忘るるを「貞」と曰い、徳を秉り業に遵うを「烈」と曰う。盧奕は憲を執りて戎馬の間に在り、志は王室をふせ(ふせ)ぎ、国を図るというべし。国危うくして能く拯わず、而して死を以てこれを継ぐは、身を忘るるというべし。歴官一十任、言は必ず正しく、事は必ず果たし、而して清節撓まず、去る時も始めの如しは、徳を秉るというべし。先の黄門(盧懐慎)は直道を以て時に佐け、盧奕は忠純を以てこれを嗣ぐは、業に遵うというべし。請う、諡して「貞烈」と曰わん。

これに従った。

蔣清

蔣清は、故吏部侍郎蔣欽緒の子である。明経に挙げられ、太子校書郎・鞏県丞に補され、盧奕がこれを憲府に留めた。蔣清は諸兄の蔣溢・蔣演・蔣沇と共に、時に知名であった。盧奕が害された時、蔣清もまた死んだ。

顔杲卿(子泉明)

顔杲卿は、瑯邪郡臨沂県の人である。代々江左に仕えた。五代の祖の顔之推は、北斉の黄門侍郎・修文館学士であった。北斉が滅んで周に入り、初めて関内に家し、遂に長安の人となった。曾伯祖の顔師古は、貞観年間の秘書監で、独自に伝がある。曾祖の顔勤礼は、崇文館学士であった。祖の顔甫は、曹王の侍読であった。父の顔元孫は、垂拱初年に進士第に登り、考功員外郎劉奇がその詞策を掲げたところ、文は瑰麗俊抜で、多くの士人は聳えて観た。長安尉・太子舎人・亳州刺史を歴任して卒した。

顔杲卿は蔭により官を受け、性質剛直で、吏幹があった。開元年間、魏州録事参軍となり、綱目を振るい挙げ、政は第一と称された。天宝十四載、常山太守を摂した。時に安禄山は河北・河東采訪使であり、常山はその管内にあった。その年十一月、禄山は范陽の兵を挙げて闕に詣でた。十二月十二日、東都を陥とした。顔杲卿は忠誠に感じ発し、賊が遂に潼関を寇すことを懼れ、即ち宗社が危うくなることを思った。時に従弟の顔真卿は平原太守であり、初め禄山の逆謀を聞き、陰に死士を養い、豪右を招き懐けて、賊を拒ぐ計りごとを為していた。ここに至り使者を遣わして顔杲卿に告げ、相与に義兵を起こし、掎角して賊の帰路を断ち、以て西寇の勢いをゆるめんとした。顔杲卿は乃ち長史の袁履謙・前真定県令の賈深・前内丘県丞の張通幽等と謀り、土門を開いてこれに背かんとした。時に禄山は蔣欽湊・高邈に衆五千を率いさせて土門を守らせていた。顔杲卿は欽湊を誅し、土門の路を開かんとした。時に欽湊の軍は常山郡に隷し、欽湊が高邈を遣わして幽州に往かせて未だ還らざるに属し、顔杲卿は吏を遣わして欽湊を召し郡に至らせて事を計らせた。この月二十二日夜、欽湊が至り、これを伝舎に宿らせた。会飲して既に酔った時、袁履謙と参軍の馮虔・県尉の李棲黙・手力の翟万德等に命じて欽湊を殺させた。夜中、履謙は欽湊の首を以て顔杲卿に見え、相与に泣き、事の交わり済むを喜んだ。この夜、稾城県尉の崔安石が高邈が還って蒲城に至ったと報じた。即ち馮虔・翟万徳と安石をして往きてこれを図らせた。翌朝、高邈の騎従数人が稾城駅に至り、安石は皆これを殺した。間もなく邈が至り、安石はこれを欺いて曰く、「太守が酒楽を伝舎に備えている」と。邈が丁度庁下に馬を据えた時、馮虔等がこれを擒らえて縛った。この日、賊将の何千年が東都より趙郡に来た。馮虔・万徳は伏兵を醴泉駅に置き、千年が至ると、またこれを擒らえた。即日、二賊将を縛って郡に還った。顔杲卿は子の安平県尉顔泉明及び賈深・張通幽・翟万徳を遣わし、欽湊の首を函に収め、二賊を械にして、京師に送った。

太原に至ると、節度使の王承業が泉明・賈深等を留め、顔杲卿の上表を寝かせた。承業は自ら上表してこれを献じ、己の功と為した。玄宗はこれを知らず、承業を擢んで大将軍に拝し、牙官で賞を受けた者は百数に及んだ。玄宗は間もなく顔杲卿の功を知り、乃ち衛尉卿・兼御史大夫を加え、袁履謙を常山太守とし、賈深を司馬とした。

顔杲卿は既に賊将を斬り、兵を収め卒を練り、乃ち檄を以て河北の郡県に告げ、朝廷が栄王を河北兵馬大元帥とし、哥舒翰を副とし、衆三十万を統べて、即ち土門を出づと伝えた。郡県これを聞き、皆賊の守将を殺し、遠近響応し、時に十五郡は皆国家のために守られた。時に安禄山は使者を遣わして李憕・盧奕の首を伝え河北に徇らせた。平原に至ると、顔真卿は賊の使者を殺し、李憕等の首を収蔵した。清池県尉の賈載もまた偽りに署せられた景城守の劉玄道を斬り、首を平原に伝えた。饒陽郡守の盧全誠もまた郡に拠り兵を挙げ、顔真卿に会した。時に常山・平原二郡の兵威は大いに振るった。禄山は方に自ら衆を率いて西に向かい、既に陝に至ったが、河北に変有るを聞いて還り、乃ち史思明・蔡希徳に命じて衆を率いて河を渡らせた。

十五年正月、思明は常山郡を攻撃した。城中の兵は少なく、衆寡敵せず、防備の資材は尽きた。その月八日、城は陥落し、杲卿・履謙は賊に捕らえられ、東都に送られた。思明は常山を陥落させると、諸郡を攻め、鄴・広平・鉅鹿・趙郡・上谷・博陵・文安・魏郡・信都は再び賊の守るところとなった。禄山は杲卿を見て、面と向かって責めて言った、「汝は先に范陽の戸曹であったが、我が奏上して判官とし、やがて光禄・太常の二丞を得させ、汝を用いて常山太守を摂行させた。何か汝に背くことがあったか、それで我に背くのか」。杲卿は目を怒らせて答えて言った、「我は代々唐の臣であり、常に忠義を守る。たとえ汝の奏任を受けたとしても、どうして汝に従って反逆などできようか。かつ汝はもともと営州の一牧羊の羯奴に過ぎず、恩寵を窃み、身をここまで致した。天子が汝に何か背いたことがあるというのか、それで汝は反逆するのか」。禄山は大いに怒り、中橋の南端、西から第二の柱に縛り付け、四肢を切り離す刑に処し、絶命するまで大罵りして止まなかった。

この日、杲卿の幼子の誕・甥の詡および袁履謙は、皆先に手足を切り落とされ、何千年の弟が傍らにいて、血を含んでその顔に噴きかけ、さらに肉を切り刻んだ。通行人がこれを見て涙を流した。その年二月、李光弼・郭子儀の軍が土門から東下し、再び常山郡を奪回した。杲卿・履謙らの妻女数百人は獄中に繋がれていたが、光弼は枷を破って彼女らを出し、喪服を着せて行わせ、手厚く物資を与えて送り出した。

薛願

薛願は、河東汾陰の人である。父は縚、礼部郎中。兄の崇一は、恵宣太子の女である宜君県主を娶った。妹は廃太子瑛の妃となった。願は宮廷の廃立に連座して官を貶された。禄山の乱の時、南陽節度使魯炅が奏上して願を潁川太守・本郡防禦使に任用した。時に賊は既に陳留・滎陽・汝南等の郡を陥落させ、南陽を包囲していた。潁川はその往来の路に当たり、願は防禦副使の龐堅と力を合わせて固守したが、城中の蓄えは平素からなく、兵卒は寡少であった。至徳元年正月から十一月まで、賊は昼夜を分かたず攻撃を止めず、城から百里の範囲で、家屋・墳墓・林樹は掘り起こされ切り倒されて殆ど尽き、外からの救援は来なかった。賊将の阿史那承慶は精鋭の兵を全て集めて攻撃し、木驢・木鵝・雲梯・衝棚を用い、四方から雲の如く合い、鼓噪は雷の如く、矢石は雨の如くで、力を尽くして十余日攻め、城中の守備は尽きた。賊は夜半に梯子に乗って侵入した。願・堅は共に捕らえられ、東都に送られ、四肢を切り離す刑に処されようとした。ある者が禄山に説いて言った、「薛願・龐堅は義士である。人は各々その主のために尽くすもので、屠るのは不祥である」。そこで洛水のほとりに繋ぎ置いたが、厳寒に属し、一晩で凍死した。

附 龐堅

堅は、武徳の功臣である玉の玄孫である。初め邠王守礼の女である建寧県主を娶った。魯炅が奏上して潁川郡長史、兼防禦副使とした。

張巡

張巡は、蒲州河東の人である。兄の曉は、開元年間に監察御史であった。兄弟ともに文才と品行で知られた。巡は聡明で才幹があり、進士に挙げられ、三度書判抜萃の試験で合格した。天宝年間、清河県令に任じられた。有能な名声があり、義を重んじ気節を尊び、人が危難窮乏を訴えれば、必ず財を傾けて救済した。

禄山の乱の時、巡は真源県令であった。譙郡太守を説き、城を修繕し、市人を募り、賊を防ぐ態勢を整えさせた。時に呉王祗が霊昌太守として、詔を奉じて河南諸郡を糾合率い、兵を練って逆党に抗し、済南太守李随がこれを補佐した。巡は単父県尉の賈賁と各々豪傑を募り、共に義挙を行った。

時に雍丘県令の令狐潮はその城を以て賊に降らんとし、民吏百余りが従わなかったので、潮は皆彼らの手を後ろに縛り、地面に倒し、斬ろうとした。ちょうど賊が城を攻めに来たので、潮は急いで出て戦い、手を縛られていた者たちは自らその縄を解き、城門を閉じて潮を拒み、賈賁を呼んだ。賁は巡と共に兵を率いて雍丘に入城し、潮の妻子を殺し、城に籠もって守備した。呉王祗が制を承けて賁を監察御史に任じた。数日後、賊が城を攻めに来て、賁は出て戦って死んだ。巡はそこで賁の兵を合わせて城を守った。令狐潮は賊将の李廷望を引き連れて数ヶ月にわたり攻囲したが、賊の損害は大半に及んだ。禄山はそこで雍丘の北に杞州を置き、城塁を築いて糧道を絶ち、これより内外は隔絶した。また数ヶ月相持するうち、賊の勢いはますます盛んになり、城中はますます困窮した。

時に許遠が睢陽を守り、城父県令の姚摐と共に睢陽城を守り、賊はこれを攻め落とせなかった。初め禄山が河洛を陥落させた時、許叔冀は霊昌を守り、薛願は潁川を守り、許遠は睢陽を守ったが、皆城は孤立して援けがなかった。願は一年守って城は陥落し、叔冀は一年で自ら脱出したが、睢陽だけが堅守した。賊将の尹子奇が一年余りにわたり攻囲した。巡は雍丘が小邑で、備蓄が不足しており、大寇が臨めば必ず守り難いと考え、兵卒を並べて陣を結び偽降した。至徳二年正月のことである。玄宗はこれを聞いて壮とし、巡を主客郎中・兼御史中丞に任じた。尹子奇の攻囲は既に久しく、城中の糧食は尽き、子を交換して食い、骨を割いて炊いた。人心は危惧し、変事が起こることを慮った。巡はそこで自分の妾を引き出し、三軍の前でこれを殺し、軍士に食べさせた。言うには、「諸公は国家のために力を尽くして城を守り、一心に二心なく、一年余り食糧が乏しい中、忠義が衰えない。巡は自らの肌膚を切り取って将士に食べさせることはできないが、どうしてこの婦人を惜しんで、危迫を坐視できようか」。将士は皆涙を流し、食べるに忍びなかったが、巡は強いて食べさせた。そこで城中の婦人をかき集め、尽きると、男・老人・子供をこれに継ぎ、食べた人口は二三万に及び、人心は終に離反しなかった。

時に賀蘭進明が重兵を以て臨淮を守っていた。巡は配下の士である南霽雲を夜間に城から縋り降ろし、進明に救援を求めた。進明は日々諸将と音楽を奏でて盛大な宴会を開き、出師の意思がなかった。霽雲は泣いて告げて言った、「本州は強寇に侵逼され、重囲半年、食は尽き兵は窮し、策の出る所がない。初め城を囲んだ日、城中には数万の人口があったが、今や婦人老幼、互いに食い合って殆ど尽き、張中丞は愛妾を殺して軍人に食べさせた。今存する数は数千に過ぎず、城中の人は分を以て賊の餌食となるべきである。しかし睢陽が一旦陥落すれば、即ち臨淮に及び、皮毛互いに依るが如く、理として援助すべきである。霽雲が賊の鋒刃を冒し、匍匐して師を乞うのは、大夫が深く危亡を念じ、言い出せば響き応ずると思ったからである。どうして安楽自ら処し、少しも救恤の心がないのか。忠臣義士の為すところ、どうしてこのようであるべきか。霽雲は既に主将の意を達することができないので、一指を嚙み切り、大夫に留め、信を示し、本州に帰って報告したい」。霽雲は臨淮から睢陽に戻り、縄で城に入った。城中の将吏は救援が来ないと知り、数日にわたり慟哭した。

十月、城は陥落した。張巡は姚誾、南霽雲、許遠と共に、皆賊に捕らえられた。張巡の神気は慷慨としており、賊と戦うたびに大声で兵士を励まし、目尻を裂き血を流し、歯は皆砕けた。城が陥落しようとする時、西の方角に向かって再拝し、言うには、「臣は智勇共に尽き、強寇を抑え止め、孤城を守り保つことができませんでした。臣は鬼となっても、誓って賊と化して祟り、明恩に報いましょう」と。城が陥落すると、尹子奇は張巡に言った、「聞くところでは、君は戦うたびに目尻を裂き、歯を噛み砕くそうだが、どうしてここまでなるのか」と。張巡は言った、「我は逆賊を飲み込もうとしたが、ただ力が及ばなかっただけだ」と。子奇は大刀で張巡の口を探り、その歯を見ると、残っているのは三本ほどに過ぎなかった。張巡は大声で罵った、「我は君父のために義に死ぬ。お前は逆賊に附き、犬や豚のようなものだ、どうして長く生きられようか」と。子奇はその言葉を義と感じ、礼遇しようとしたが、左右の者が言った、「この人は義を守る者で、必ず我々のために使われることはありません。平素から兵士の心を得ているので、長く留めておくことはできません」と。この日、姚誾、霽雲と共に害され、ただ許遠だけが捕らえられて洛陽に送られた。

附 姚誾

姚誾は、浹州平陸の人で、故宰相梁國公姚崇の甥孫である。父の姚弇は、開元の初めに歴任して処州刺史となった。誾は性質が豪放で、酒を飲み戯れることを好み、弦楽器や管楽器に長じていた。寿安尉、城父令を歴任し、張巡と平素から親しくしていた。睢陽を守った功績により、至徳二年の春、検校尚書侍郎を加えられた。

賈賁は、故閬州刺史賈璿の子である。

許遠

許遠は、杭州塩官の人である。代々江右に仕えた。曾祖父の高陽公許敬宗は、龍朔年間の宰相で、別に伝がある。遠は清廉で有能であり、初め河西に従軍し、磧西支度判官となった。章仇兼瓊が剣南を鎮守した時、また彼を辟召して従事とした。その家柄を慕い、娘を娶らせようとした。遠が辞退すると、兼瓊は怒り、他の事を積み重ねて中傷し、高要尉に貶した。後に赦令に遇い帰還することができた。

安禄山の乱の時、順序を飛び越えて将帥を抜擢し、ある者が遠が平素から軍事に練達していると推薦した。玄宗は召し出して会見し、睢陽太守に任じ、累進して侍御史、本州防禦使を加えられた。賊将尹子奇が攻め囲んだ時、遠は張巡、姚誾と共に城に拠って防ぎ守り一年を経たが、外部からの救援は至らず、兵糧共に尽きて城は陥落した。尹子奇は捕らえて洛陽に送り、哥舒翰、程千里と共に客省に囚禁した。安慶緒が敗れ、黄河を渡って北に逃走する時、厳莊に命じて皆を害させた。

初め、賀蘭進明と房琯は平素から仲が良くなかった。琯が宰相となった時、進明は当時御史大夫であった。琯は進明を用いて彭城太守、河南節度使、兼御史大夫とし、嗣虢王李巨に代わらせることを奏上した。また霊昌太守許叔冀を用いて進明の都知兵馬、兼御史大夫とし、その官を重くして進明を挫こうとした。虢王巨が交代する時、部曲を全て率いて行き、残した者は選り分けられた疲れた兵士数千人、劣った馬数百匹だけで、賊を防ぐに堪えなかった。叔冀は部下の精鋭を恃み、また名位が進明と等しかったので、互角であると自負し、進明の節制を受けなかった。故に南霽雲が援軍を乞うた時、進明は兵を分けることができず、叔冀に襲撃されることを恐れた。両者は互いに様子を窺い、危亡を座視したため、河南の郡邑が廃墟となるに至り、これは政を執る者が経制に背いたためである。

程千里

程千里は、京兆の人である。身長七尺、骨相が魁偉で、勇力があった。元は磧西の募兵であり、累次軍功により、官は安西副都護に至った。天宝十一載、御史中丞を授けられた。十二載、北庭都護を兼ね、安西北庭節度使を充任した。突厥の首領阿布思は先に衆を率いて内附し、朔方軍に隷属し、玄宗は姓名を賜って李献忠と言った。李林甫が遥かに朔方節度使を兼ね、献忠を用いて副将とした。後に詔があり、献忠の部落を幽州に移して隷属させたが、献忠は平素から禄山と不和があり、詔を奉じることを恐れ、遂に叛いて磧北に帰り、幾度も辺境の患いとなった。玄宗はこれを憤り、千里に命じて兵を率いて討伐させた。

十二載十一月、千里の兵は磧西に至り、書を以て葛禄を諭し、相応するよう命じた。献忠は勢い窮まり、葛禄部に帰った。葛禄は献忠とその妻子及び帳下の数千人を縛り、千里に送り、早馬で表を奉って勝利を献上し、天子はこれを壮とした。十三載三月、千里は勤政楼で捕虜を献上し、朱雀街で斬り、功により右金吾衛大将軍同正を授けられ、なお羽林軍を補佐するために留め置かれた。禄山の乱の時、詔により千里は河東で兵を募集し、河東節度副使、雲中太守を充任した。

十五載正月、上党郡長史、特進に遷り、御史中丞を摂行し、兵を以て上党を守った。賊が来て城を攻めたが、幾度も千里に敗れ、功により累進して開府儀同三司、礼部尚書、兼御史大夫を加えられた。

その年の十二月、上は丹鳳楼に臨んで大赦を行い、詔書の一節に言うには、「忠臣が君に仕えるには、死すとも二心なく、烈士が義に殉ずるは、死しても生きているが如し。その李憕、盧奕、袁履謙、張巡、許遠、張介然、蔣清、龐堅らは、直ちに追贈し、その子孫を訪ね、官爵を厚くし、家族は深く優しく恤れ」と。これより赦恩は、節義に該る者を漏らすことはなかったが、程千里は終に生きて賊の廷に捕らえられたため、褒賞や追贈に与ることがなかった。

袁光庭

袁光庭は、河西の戍将で、天宝の末に伊州刺史となった。禄山の乱の時、西北辺境の兵は難に赴くため入朝し、河、隴の郡邑は、皆吐蕃に奪われた。ただ光庭だけが伊州を数年守ったが、外部からの救援は至らなかった。虜はあらゆる手段で誘い説得したが、終に屈せず、部下は一つのようであった。矢石が既に尽き、糧食の備蓄も共に尽き、城が陥落しようとする時、光庭は自らその妻子を殺し、焼死した。朝廷はこれを聞き、工部尚書を追贈した。

邵真

邵真は、恒州節度使李宝臣の判官である。累進して検校司封郎中・兼御史中丞に加えられ、専ら文書を掌り、宝臣に深く信任された。宝臣が死ぬと、その子の惟嶽が父の軍衆をほしいまま(ほしいまま)に統領した。李正己・田悦が人を遣わして惟嶽を説き、ともに叛くことを勧めた。真は涙を流して諫めて言うには、「先公(亡父)は位は将相を兼ね、国の厚恩を受けられました。大夫(惟嶽)は縗絖(喪服)の身でありながら、急に命に背き、隣道の悪に同調し、先公の志に背くことは、必ず許されぬことです。田悦は我が方に密接していますが、絶交すれば禍が速やかに来ることを恐れます。正己はやや遠いので、絶交するのは容易です。ただ悦の使者を返して報告させ、ゆっくりと適宜を考えさせ、正己の使者を捕らえて京師に送り、それによって討伐を請うならば、朝廷は必ず大夫の忠を嘉し、旌節を得ることができるでしょう」。惟嶽はこれをよしとし、真に奏文を草させた。発送しようとしたとき、孔目吏の胡震が惟嶽に言うには、「この事は些細なことではありません。将吏と会議することを請います」。長史の畢華が言うには、「先公は二道(李正己・田悦)と親しく交好して二十余年になります。一朝にしてこれを背けば、恐らく事を生じるでしょう。今その来使を捕らえて京師に送るのは、大いに善いことです。もし朝廷に信じられず、正己の兵が強く、忽ち襲来して城を攻め、孤軍で援けなくては、どうしてこれに敵対できましょうか。旧のまま絶交せず、ゆっくりとその変を観るに如かず」。惟嶽はまたこれに従った。真はまた惟嶽に勧めて、その弟の惟簡を入朝させ、なお軍吏の薛広嗣を河東節度の馬燧の軍に遣わして保薦を求めた。田悦が束鹿に兵を屯していたが、その謀りごとを聞き、人を遣わして惟嶽に言うには、「邵真が軍政を惑わし乱している。必ず速やかにこれを殺せ。そうでなければ、我はまさにその罪を討たん」。惟嶽は恐れ、ついに真を殺した。朝廷はこれを聞いてこれを嘉し、戸部尚書を追贈した。

符璘

符璘は、田悦の将である。初め、馬燧・李抱真・李芃らが田悦を洹水で破り、燧らは進んで魏州に屯した。時に悦は李納と濮陽で会し、それによって兵を助けることを請い、納は麾下の数千人を分けてこれに従わせた。この時に至り、納は河南の諸軍に逼迫され、濮陽から奔って濮州に帰り、悦に兵を徴した。悦は璘を遣わして三百騎を率いてこれを護送させた。納の兵が帰ると、ついにその衆を悉く率いて燧に降った。璘を遷して試太子詹事・兼御史中丞とし、義陽郡王に封じ、実封一百戸とした。

璘の父の令奇は、初め悦の部将であったが、この時に至り璘が出奔したことにより、ついに三子をしてともに燧に降らせた。悦は怒り、令奇を捕らえた。令奇は大声で罵り、悦はその家を族滅した。令奇に戸部尚書を追贈した。

趙曄

趙曄は、字を雲卿といい、鄧州穣の人である。その先祖は天水から移り住んだ。貞観年中の主客員外郎の徳言の曾孫である。父は敬先、殿中侍御史であった。

曄は志を学に立て、文をよくした。開元年中、進士に挙げられ、連続して科第に擢でられ、太子正字を補し、累進して大理評事を授けられ、北陽尉に貶され、雷沢・河東の二丞に移った。河東采訪使の韋陟は、曄の履操が清直であるとして、大いに推敬し、表して賓僚とした。陟が罷免されると、陳留采訪使の郭納がまた曄を奏して支使とした。安禄山が陳留を陥落させると、それによって賊に没した。時に京兆の韋氏があり、夫は畿官に任じ、賊軍に供給しないことで遇害し、韋は逆賊に没入されて婢とされた。江西観察使の韋儇は、族兄弟である。曄はその冤抑を哀れみ、銭でこれを贖い、その妻をして別院に置かせ、衣食を厚く供給したが、曄はついにその人と面会しなかった。明年、東都を収復すると、曄は家財を資給し、その親属を訪ねて帰した。識者は皆これを重んじた。

乾元初め、三司が罪を議し、晋江尉に貶した。数年後、録事参軍に改めた。征されて左補闕に拝されたが、未だ到着しないうちに、福建観察使の李承昭が奏して判官とし、試大理司直・兼監察御史を授けた。試司議郎・兼殿中侍御史とした。入朝して膳部・比部の二員外、膳部・倉部の二郎中、秘書少監となった。

曄は性、孝悌に厚く、交友を重んじ、艱危を経ても、その操を改めなかった。少時、殷寅・顔真卿・柳芳・陸拠・蕭穎士・李華・邵軫と同志で親善した。故に天宝中の諺に「殷・顔・柳・陸・蕭・李・邵・趙」といい、その行義を重んじ、交わりを厚くするによる。しかるに曄は早く高名を擅にし、宦途五十年、累ねて貶謫を経、蹇躓ことごとく備わった。入仕三十年にして初めて省官に霑い、身は郎署に在り、子は常に徒歩であった。官は散曹であり、俸禄は単寡で、衣食充たず、以て亡歿に至った。名檢を服する者はこれがために嘆息した。建中四年冬、涇原の兵が叛き、曄は山谷に竄れた。まもなく病で終わり、華州刺史を追贈された。

子の宗儒は、別に伝がある。

石演芬

石演芬は、もと西城の胡人である。武勇を以て朔方邠寧節度兵馬使・兼御史大夫となった。李懐光に養われて子とされ、累進して右武鋒都将に至った。時に懐光の軍は三橋に屯し、まさに朱泚と通謀せんとした。演芬は門客の郜成義をして密かに疏をさせ、懐光の無状を具に言い、その総統を罷めることを請うた。成義が奉天に至ると、かえってその言葉を懐光の子の琟に告げ、琟は密かにその父に告げた。懐光はすなわち演芬を召して責めて言うには、「汝を子としたのに、どうして我が家を破らんとするのか。今死ぬことはできるか」。演芬は対えて言うには、「天子は公を腹心とされたのに、公は上に天子に背きました。どうして演芬を責められましょうか。かつ演芬は胡人であり、異心を解せず、ただ一人に事えて守り、幸いに賊と呼ばれることを免れたいだけです。死は常の分です」。懐光は左右に命じてその肉を切り食わせたが、皆言うには、「これは忠烈の士です。速やかに死なせるべきです」。すなわち刀を以てその頸を断った。徳宗はその義烈を追思し、兵部尚書を贈り、なお銭三百千を賜った。また郜成義を朔方で捕らえ得て、これを戮した。

附 張名振

先に、詔を以て懐光に鉄券を賜うた。懐光は詔を奉じて倨慢であった。左都将の張名振が軍門で大呼して言うには、「太尉は賊を見て撃たず、天使が到っても迎えず、固より反せんとするのか。かつ安史の両賊、僕固懐恩、今皆族滅した。公は何を為さんとするのか。これは忠義の士に功勲を立てさせる資とするだけだ」。懐光はこれを聞き、召して言うには、「我は反さない。賊が強盛であるため、鋭気を蓄えて時を俟つだけだ」。間もなく、懐光は軍を率いて咸陽に入った。名振は言うには、「公は反さないと言ったのに、今ここに来るのは何か。どうして急いで朱泚を攻め、京城を収復し、富貴を図らないのか」。懐光は言うには、「名振は病狂だ」。左右に命じてこれを殺させた。

張伾

張伾は、建中(780年)の初め、沢潞の将として臨洺を鎮守した。田悦がこれを攻撃したが、伾は兵力をもって出戦できないと判断し、厳重に守備を設け、城に拠って防ぎ守ったので、賊は陥落させることができなかった。数か月にわたり、攻撃はますます激しくなり、兵士は多く死傷し、食糧の備蓄は次第に乏しくなり、救援の兵はまだ到着しなかった。伾は事が成就しないことを悟り、兵士の心を奮い立たせる方法がないので、軍門に将兵をすべて召集し、その娘を出して彼らに拝謁させ、言った。「将兵の皆は辛苦して守り戦っているが、わが家には公らに与える寸尺の物もない。ただこの娘がいるのみで、幸いまだ嫁いでいない。これを売り払い、将兵の一日の費用としたい。」一同は皆大いに泣き、「誓って将軍のために死戦する。どうかご心配なきよう。」と言った。ちょうど馬燧と太原の軍が到着し、衆と合流して城下で田悦を撃ち、大いにこれを破った。伾は勢いに乗じて出戦し、士卒は一人として百人に当たらない者はなかった。包囲が解け、功により泗州刺史に遷った。州に十数年あり、右金吾衛大將軍に拝された。詔が届く前に、病没した。貞元二十一年(805年)、尚書右僕射を追贈された。

子に重政があり、軍吏は彼を郡将に立てようとしたが、重政の母徐氏が固く拒んで従わなかった。詔が下された。「前昭義軍泗州行営衙前兵馬使、大中大夫、試太子賓客、兼監察御史張重政は、門に勲功の力があり、ただ義勇を推し進めた。早くから家を治める美を聞き、常に衆を撫育する才を称えられた。近ごろその父が亡くなり、群小が扇動し、奇計をもって誘い、軍の指揮を執らせようとした。しかし重政はその母と兄と共に、号泣して固く拒み、遂に誠実な願いを全うし、元帥に駆けつけて告げ、利に回されることなく、その先人の志を成し遂げた。家にあっては孝子、国にあっては忠臣であり、軍政は安んじられ、行義は顕著である。この名節を思い、感嘆の念は誠に深い。恩栄を施し、激励を広めるべきである。礼は金革(戦争)を避けることはないが、理は権宜によるべきであり、軍の官位と御史台の職を兼ねて示す。起復して雲麾將軍、守金吾衛大將軍、員外置同正員、檢校太子詹事、兼御史中丞とし、なお淮南節度使に委ねて要職の事を任せ使わせよ。」

また詔が下された。「張重政の母高平郡夫人徐氏は、一族は姻戚の門閥で盛んであり、行いは柔和で聡明を表し、家を正す美を抱き、隣を選ぶ識見がある。先ごろ変事に当たり、一度も不正に従うことなく、その門宗を保ち、忠孝を訓育して成し遂げた。図史に記載されるものといえども、どうしてこれを加えることができようか。その立派な子を思い、すでに褒賞任用を申し述べた。特に母儀の徳を顕彰し、封国の栄を崇める。魯國太夫人に封ぜよ。」

甄濟

甄濟は、字を孟成といい、中山無極の人で、衛州に家を構えた。幼くして孤となり、天宝年間に衛州青巖山に隠居した。人々はその操行に感服し、狩猟や漁をしないことを約束した。采訪使安祿山が上表して推薦し、試大理評事を授け、范陽郡節度掌記を充任させた。

天宝の末、安祿山に異心があり、智謀をもって免れようと謀った。衛県令の齊玘は誠信があり託すことができるので、衛への使者を求めて行き、誠意をもってすべてを告げた。弟の甄憕は密かに羊の血を求めて準備し、夜になると、偽って吐血し病で支えられないふりをし、遂に担ぎ帰った。安祿山が反乱を起こすと、偽節度使の蔡希德に、行刑者である李掞ら二人を率いさせ、封じた刀を持って召しに来させた。甄濟が偽って起きないのを察知し、すぐに斬ろうとした。甄濟は左手で「行けない!」と書いた。李掞が刀を持って前に進むと、甄濟は首を伸ばして待った。蔡希德は嘆息して感心し、「李掞、退け。」と言い、実際に病気であると安祿山に報告した。後、安慶緒も人を県に遣わし、強引に担ぎ出して東都の安國觀に連れて行った。一か月余りを経て、代宗が東京を収復した。甄濟は起き上がり、軍門に赴いて謁見し、上都に送られた。粛宗は三司使の館に彼を住まわせ、偽命を受けた官人に見せしめ、その心を恥じ入らせた。秘書郎を授け、太子舎人に転じた。宝応の初め(762年)、刑部員外郎に拝された。魏少遊が奏上して著作郎、兼侍御史を授け、襄州で没した。

元和年間、襄州節度使の袁滋がその節操行いを奏上した。詔が下された。「風樹の節を符節のように守ることを、名を立てるという。没後に褒贈を加えるのは、善を誘うためである。故朝散大夫、秘書省著作郎、兼侍御史甄濟は、早くから文雅をもって、時に称えられた。かつて辟召により、また軍府を補佐した。しかも堅貞の正しい性質を保ち、危機に陥らず、逆乱の潜む兆しを見て、脅迫や汚れに従わなかった。義の名声は竹帛に伝えるべきであり、顕著な追贈はまだ墓に輝いていない。藩鎮の上奏は、まさに常典に叶い、命と官位を追加し、忠魂を褒賞する。秘書少監を追贈せよ。」

劉敦儒

劉敦儒は、開元朝の史官左散騎常侍劉子玄の孫である。敦儒の母は心の病があり、日に人を鞭打たなければ安らかでなく、子弟や僕従はその苦しみに耐えられず、皆他処に逃げ隠れたが、ただ敦儒のみが侍養をやめず、体には常に血が流れていた。母が亡くなると、喪に服して衰弱し骨と皮ばかりになり、洛中では彼を劉孝子と呼んだ。

元和年間、東都留守の權德輿がその至高の行いを詳細に奏上した。詔が下された。「孝子劉敦儒は、儒門に生まれ、この至高の性質を備えている。王祥の篤実な行いは、孝敬を起こして動かず、曾参の志を養うことは、歳月を積んで怠ることがない。もって奨励を広め、官の常務に服させ、洛陽に分かれて職務に就き、私志を遂げさせる。左龍武軍兵曹參軍、分司東都とせよ。」

高沐

高沐は、渤海の人である。父の高憑は、宣武軍に従事し、曹州の事務を知った。李霊曜が乱を起こすと、高憑は密かに使者を遣わして賊中の事情を奏上し、詔により曹州刺史に任じられた。まもなく、李正己が曹・濮を盗み取ったので、高憑は遂に賊に陥り、数年で没した。

高沐は、貞元年間に進士に及第した。家族が鄆州にいたため、李師古は彼を判官に置いた。数年を経て、李師道が擅(みだ)りに襲封すると、常に謀反を企てたので、高沐は同僚の郭昈、李公度らと必ず広く古今の成敗を引き合いに出して諭し、前後して李師道に善を勧めること凡そ千言に及んだ。その判官の李文会、孔目官の林英は、皆李師道に信用され、隙に乗じて共に李師道の前で泣きながら言った。「文会らは血の誠をもって尚書(李師道)の家事を憂えているのに、かえって高沐らに嫉まれています。尚書はどうして十二州の城を惜しまず、高沐らの百代の名を成させようとなさるのですか。」また日夜讒言で陥れ、これにより次第に疑忌されるようになり、高沐に萊州の事務を知らせた。林英は奏事のため京に至り、邸吏に迫って密かに李師道に報告させた。「高沐は密かに朝廷に誠意を通じています。」李師道は大いに怒り、李文会がこれに乗じて罪をでっち上げた。高沐は遂に任地で殺害され、郭昈を萊州に囚禁し、その血縁の者を皆遠地に移した。

淮西が平定されると、李師道は次第に恐れをなした。李公度とその将の李英曇はその恐れに乗じ、李師道に三州を献上し、長子を人質に入れるよう説いた。初めは大いにそうしようとしたが、途中で悔い、李公度を殺そうとした。賈直言がこれを聞き、李師道の権力を握る奴に言った。「今大禍が将に至らんとしているのは、高沐の冤罪の気のなすところではないか。また李公度を殺せば、その病を増すことになる。」そこでやめた。李英曇を萊州に追放した。到着しないうちに、縊り殺した。また崔承寵、楊偕、陳佑、崔清がおり、皆正道に従ったため賊に憎まれ、李文会は彼らを高沐の党と呼んだ。高沐が殺害されると、崔承寵らは同じく囚禁・流罪にされた。郭昈の名声は高沐に次ぎ、死ななかったが、困苦と辱めを十分に味わった。劉悟が賊を平定すると、すぐに李公度を召し、手を執って嘆息した。滑州節度使に任じられると、まず郭昈と李公度を従事として召し抱えた。

難事に臨んで死を忘るるは、臣たる者の峻厳なる節操なり。忠を顕わし善を旌ぐは、国を有つ者の美しき謀りごとである。先般、妖しき逆臣が反覆し、我が朝の典章を侮ったが、濮州刺史高沐は、凶威に劫かれておきながら、密かに忠誠を輸していた。彼の朝廷に背かざる咎を諷し、心を改めんことを冀い、その煮海の饒を数えて、利国を求めんとした。伏して奏上するには必ずその逆節を陳べ、漏らす師は常にその陰謀を破った。遂に盗憎まれて、王事に死し、歿して朽ちず、風聲凛然たり。漏泉の沢を表わし、且つ勁草の節を彰かにすべし。贈吏部尚書とすべし。仍て馬総に委せてその遺骸を訪わせ、礼を以て収葬せしめ、その家を優恤せよ。若し子孫あらば、名を具して奏聞せよ。

賈直言

賈直言という者は、父の道沖、伎術を以て罪を得、貶せられ、路において鴆を賜う。直言は偽りてその父に四方を拝せしめ、上下の神祇に辞し、使者の視る稍だ怠るを俟ちて、即ちその鴆を取って飲ませ、遂に迷仆して死す。明日、鴆は足に泄れて蘇る。代宗これを聞き、父の死を減じ、直言も亦此より病蹙す。後に李師道に従事す。師道は朝命に恭しからず、直言は刃を冒して説くこと二、櫬を輿して説くこと一。師道は終に従わず。劉悟が師道を斬り、鄭滑を節制するに及び、直言を禁錮の間に得、又その為す所を嘉し、因って幕中に置くことを奏す。後に潞に遷り、亦之と俱に行く。悟の纖微なる乖失あれば、直言は必ず理を尽くして箴規し、是を以て美譽日に朝に聞こゆ。穆宗は諫議大夫を以て之を征す。悟は章を拝して留めんことを乞い、復た検校右庶子・兼御史大夫を授け、前に依って昭義軍行軍司馬を充てしむ。悟その言を用い、終身臣節を虧かさず。後に太子賓客を歴る。太和九年三月卒す。朝を廃すること一日、贈工部尚書。

庾敬休

庾敬休、字は順之、その先は南陽新野の人。祖の光烈、仲弟の光先とともに、禄山に偽官を迫られ、皆潜かに伏して奔竄す。光烈は大理少卿となり、光先は吏部侍郎となる。父の河、賊の泚が宮闕を盗み据えるに当たり、季弟の倬と山谷に逃竄す。河は終に兵部郎中となる。

敬休は進士に挙げられ、宏詞に登科し、秘書省校書郎を授かり、宣州に従事す。旋いて渭南尉・集賢校理を授かる。右拾遺・集賢学士に遷る。右補闕を歴り、職に称し、起居舍人に転じ、俄かに礼部員外郎に遷る。入りて翰林学士となり、礼部郎中に遷り、職を罷めて官に帰る。又兵部郎中・知制誥に遷る。丁憂し、服闋して、工部侍郎に改め、権知吏部選事を以て、吏部侍郎に遷る。

上将に魯王を立てて太子と為さんとし、師傅を慎選し、工部侍郎に改め、魯王傅を兼ぬ。奏す:「剣南西川・山南西道の毎年の税茶及び除陌銭は、旧例度支巡院に委せて勾当せしめ、榷税は当司において上都に商人を召して便換す。太和元年、戸部侍郎崔元略が西川節度使と商量し、その穩便を取って、遂に茶税の事は使司自ら勾当すべく、毎年銭四万貫を出して省に送ることを奏請す。近年已来、元の奏に依らず、三道の諸色銭物は、州府逗留して、多く省に送らず。江西の例を取り、帰州に巡院一所を置き、自ら勾当して諸色銭物を収管し省に送り、逋懸有ること免れんことを冀う。巡官李濆をして専ら往きて徳裕・遵古と商量制置せしめ、続いて具して奏聞せんことを欲す。」之に従う。又奏す:「両川の米価騰踴し、百姓流亡す。両川の闕官職田禄米を糶きて、貧人を救わんことを請う。」之に従う。再び尚書左丞と為る。太和九年三月、家に卒す。

敬休は姿容温雅、襟抱夷曠、酒を飲まず葷を茹ぜず、声色に邇まず。『諭善録』七巻を著す。贈吏部尚書。

辛讜

辛讜は、故太原尹雲京の孫、寿州刺史晦の猶子なり。性慷慨、然諾を重んじ、専ら人の急を賑うことを務む。年五十、苟も進まんことを求めず、時に済い難きを匡うるの志有り。

浙西観察使杜審権は大将翟行約を遣わして軍三千を率い赴援せしめ、蓮塘驛に屯す。慆は人を遣わして之を労わんと欲す。将吏皆その行を憚る。讜曰く、「杜相公は大夫の宗盟を以て、急難相赴く。安んぞ使者をして言無くして還らしめんや」と。即ち慆の書幣を賫し、その使を犒う。淮南の大将李湘は師五千を率いて来援す。賊は詐降し、淮口に敗れ、湘と郭厚本は皆賊に執らる。是より援無し。賊は兵を併せて急攻し、鉄鎖を以て淮の流を断ち、梯沖雲の如く合い、凡そ七月を周り、昼夜息まず。城に乗ずるの士は、寢寐遑あらず、面目瘡を生じ、軍儲漸く少なく、分かちて稀粥を食す。讜の難を犯し義に仗り、淮北の諸軍に求救するに頼る。既にして馬挙が大軍を以て至り、賊は囲みを解きて去る。

讜に子無し。猶子の山僧・元老等は広陵に寄す。毎に出城するときは、則ち二の姓名を書き、慆に謂いて曰く、「之を誌せ、嗣を得るを幸とす」と。慆益々之を感ず。賊平ぎて、讜に泗州団練判官・侍御史を授く。慆は鄭滑節度に遷り、讜も亦之に従い、賓佐と為る。慆卒して、乃ち退きて江東に帰り、隠居を以て事と為す。

贊に曰く、獣は邪に触るるを解し、草は佞を指す能う。烈士は義に徇い、危きを見て命に致す。国に忠臣有れば、亡びて復た存す。何を以てか邦を喪う。奸邪恩を受く。