旧唐書
巻一百八十七上 列伝第一百三十七上 忠義上
『論語』に曰く、「仁を害して生を求むること無く、身を殺して以て仁を成すこと有り」と。孟軻は曰く、「生も亦我の欲する所、義も亦我の欲する所、生を捨てて義を取る可し」と。古の徳行君子は、動くには必ず礼に由り、仁を以て之を守り、造次顛沛するも、素に愆ること無し。仲由の纓を結ぶ、鉏麑の樹に触るる、紀信の火に蹈む、豫譲の衣を斬るが若き有り、此れ所謂身を殺して仁を成し、難に臨み苟もせざる者なり。然れども刑を受くるは一代、顧みて七族を瞻る。難を犯さざる者は、終身の利有り、市道に随う者は、当世の栄を獲る。苟も気義群を抜き、貞剛俗を絶せざれば、安んぞ重き所の肢体を砕き、他人の義に徇わんや。則ち由・麑・信・譲の徒は、人君と為る者常に宜しく血祀すべし、況んや自ら其の臣有るにおいてをや。即ち安金蔵の腹を剖いて以て皇嗣を明らかにし、段秀実の笏を挺てて以て元凶を撃ち、張巡・姚摐の城を守り、杲卿・真卿の賊を罵るは、又金蔵・秀実等に愈る。各本伝に見ゆ。今夏侯端・李悽以下を采り、此の篇に附す。
夏侯端
夏侯端は、寿州寿春の人、梁の尚書左僕射夏侯詳の孫なり。隋に仕えて大理司直と為り、高祖龍潜の時、其と結交す。大業中、高祖河東に師を帥いて討捕す。乃ち端を請いて副と為す。時に煬帝江都に幸す。盗賊日滋す。端頗る玄象を知り、相人を善くし、高祖に説いて曰く、「金玉床動揺す、此れ帝座安からず。参墟歳を得、必ず真人実沈の次に起る。天下方に乱る、能く之を安んずる者は、其れ明公に在り。但し主上は曉察にして、情猜忍多く、諸李を忌み諱む、強者先ず誅せられ、全才既に死せば、明公豈に其の次に非ざらんや。若し早く計を為さば、則ち天福に応ぜん。然らざれば、則ち誅せられん」と。高祖深く其の言を然りとす。義師起るに及び、端は河東に在り、吏に捕らえられ、長安に送られ、之を囚う。高祖京城に入り、之を釈す。臥内に引入れ、語りて極めて歓び、秘書監を授く。
李密が王世充に破られ、衆を以て来降するに属し、関東の地、未だ所属する所無し。端固より往きて之を招諭せんことを請う。乃ち大将軍を加え、節を持ち河南道招慰使と為る。黎陽に至る。李勣兵を発して之を送る。澶水より河を済い、檄を郡県に伝え、東は海に至り、南は淮に至る、二十余州、並びに使を遣わして款を送る。譙州に次ぎ行くに、亳州刺史丁叔則及び汴州刺史王要漢並びに其の部を以て世充に降るに会い、路遂に隔絶す。
端は素より衆心を得、従う所二千人、糧尽くと雖も、忍びて委ね去らざりき。端は事必ず済まざるを知り、乃ち沢中に坐し、私馬を尽く殺し、以て軍士を会す。因りて歔欷して曰く、「今王師已に敗れ、諸処並びに没す。卿等の土壤、悉く皆偽に従う。特に以て共に事うるの情、未だ能く我を見委ねず。然れども我は王命を奉ず、従う可からず。卿等妻子有り、宜しく我に效う無かれ。吾が首を斬り、持ちて賊に帰れば、必ず富貴を獲ん」と。衆皆流涕す。端又曰く、「卿等殺さるるを見忍びずば、吾当に自刎せん」と。衆士之を抱持し、皆曰く、「公は唐家に於て、親属有るに非ず、但だ忠義の故を以て、死を辞せざるなり。諸人公と共に事え、艱危を経渉す、豈に公を害して富貴を取らんや」と。復た同しく進む。潜かに行くこと五日、餒えて死する者十三四。又賊に撃たれ、奔潰して相失う者大半。端は唯三十余人と東走し、生きたる瑩豆を采りて之を食う。猶節を持ちて之と俱に臥起し、衆人に謂ひて曰く、「平生死地の乃ち此の中に在るを知らず。我は国恩を受く、然る所以の者此の如し。今卿等何ぞ乃ち相伴いて死せんや。散じて賊に投ぜば、猶ほ性命を全うせん。吾当に此の一節を抱き、之と俱に殞れん」と。衆又去らず。
李公逸が唐の為に杞州を守るに属し、聞きて兵を勒し迎えて館す。時に河南の地は、皆世充に入る。唯公逸は端の義に感じ、独り堅守して下らざりき。世充使を遣わして端を召し、衣を解きて之を遺る。礼甚だ厚く、仍ち除書を送り、端を以て淮南郡公・吏部尚書と為す。端其の使者に対ひて曰く、「夏侯端は天子の大使なり、豈に王世充の官を受くべけんや。自ら我が頭を斬りて将に汝に見え往かんとするに非ざれば、何ぞ身を容れ苟くも活きて賊に屈せんや」と。遂に其の書を焚き、刀を抜きて其の遺れる衣服を斬る。因りて路を発して西帰し、節旄を解きて之を懐ひ、竿を取りて刃を加へ、間道より宜陽に至るを得たり。
初め、山中険峻にして、先ず蹊径無し。但だ榛梗を冒履し、昼夜兼行す。従う者三十二人、或いは崖に墜ち水に溺れ、猛獣に遇ひて死する者又半ばす。其の余り至る者は、皆鬢髮禿落し、形貌枯瘠す。端は駅を馳せて奉見し、但だ功無きを謝し、殊に自ら艱苦を言はず。高祖之を憫み、復た以て秘書監と為す。俄に出でて梓州刺史と為る。所得の料銭は、皆孤寡に散施す。貞観元年病卒す。
劉感
劉感は、岐州鳳泉の人、後魏の司徒高昌王劉豊生の孫なり。武徳初、驃騎将軍を以て涇州を鎮む。薛仁杲衆を率いて之を囲む。感は城に嬰りて拒守し、城中糧尽き、遂に乗する所の馬を殺して将士に分ち、感は一も啖はず、唯馬骨を煮て汁を取り、木屑を和して之を食う。城垂く陷らんとする者数たびす。長平王李叔良の援兵至り、仁杲囲みを解きて去る。感は叔良と出戦し、賊に擒えらる。仁杲復た涇州を囲み、感をして語らしめて城中に云わしむ、「援軍已に敗れ、徒らに孤城を守る、何の益かあらん。宜しく早く出で降り、以て家室を全うすべし」と。感之を許す。城下に至るに及び、大呼して曰く、「逆賊飢餓し、亡ぶは旦夕に在り。秦王数十万の衆を率い、四面俱に集まれり。城中憂うること無かれ、各宜しく自ら勉め、以て忠節を全うすべし」と。仁杲大怒し、感を城辺に執り、脚を埋めて膝に至らしめ、騎を馳せて射殺す。死に至るまで声色逾よ厲し。
賊平ぐ。高祖其の屍を得るを購い、少牢を以て祭り、瀛州刺史を贈り、平原郡公に封じ、諡して忠壮と曰う。其の子に官爵を襲わしめ、並びに田宅を賜う。
常達
常達は、陜の人なり。初め隋に仕えて鷹揚郎将と為り、数たび高祖に従ひて征伐し、甚だ親待を蒙る。義兵起るに及び、達は霍邑に在り、宋老生に従ひて来り戦を拒ぐ。老生敗れ、達懼れ、自ら匿れて出でず。高祖は達已に死せりと謂ひ、人に令して屍を閲し之を求む。達奉見するに及び、高祖大いに悦び、以て統軍と為す。武徳初、隴州刺史を拝す。時に薛挙屡之を攻むるも、能く克たず、乃ち其の将仵士政を遣わし数百人を以て偽りて達に降る。達之を測らず、厚く撫接を加ふ。士政隙に伺ひ其の徒を以て達を劫ひ、城中二千人を擁して叛き、達を牽きて挙に見えしむ。達の詞色抗厲、之が為に屈せず。挙其の妻を指して達に謂ひて曰く、「皇后を識るや否や」と。達曰く、「正に癭老嫗なり、何ぞ識るに足らんや」と。竟に之を釈す。賊帥張貴有りて達に謂ひて曰く、「汝我を識るや否や」と。答えて曰く、「汝は逃死の奴なり」と。瞋目して之を視る。貴怒り、刀を抜きて将に達を斫らんとす。人之を救ひ、免るるを得たり。
仁杲が平定された後、高祖は常達に会い、言った。「卿の忠節は、古人に求めてもよいほどである。」起居舍人の令狐徳棻に命じて言った。「劉感と常達は、必ず史策に載せるべきである。」仵士政を捕らえ、撲殺した。常達に布帛三百段を賜い、再び隴州刺史に任じ、その任で没した。
羅士信
羅士信は、斉州歴城の人である。大業年間、長白山の賊である王簿・左才相・孟讓が斉郡を寇したので、通守の張須陀が兵を率いて討伐した。士信は年齢が十四歳になったばかりで、固く自ら戦うことを請うた。須陀は言った。「お前の体つきはまだ鎧を着るに足りない、どうして陣に入ることができようか!」士信は怒り、二重に鎧を着け、左右に二つの弓袋を帯びて馬に乗った。須陀はその勇壮さに感じ入り、彼を従軍させた。賊を濰水のほとりで撃った。陣がようやく整った時、士信は賊の陣所に馳せ至り、数人を刺し倒し、一人の首を斬り、空中に投げ上げ、槍で受け止め、それを掲げて陣中を巡った。賊の兵衆は愕然とし、敢えて近づく者はなかった。須陀はこれに乗じて奮撃し、賊の兵衆は大いに潰走した。士信は敗走する敵を追撃し、一人を殺すごとに、その鼻を削ぎ取り懐に入れた。帰還すると、鼻を数えて殺した賊の数を示したのである。須陀は大いに賞賛し、自ら乗っていた馬を与え、側近に置いた。戦うたびに、須陀が先に登り、士信が副となった。煬帝は使者を遣わして慰労させ、また画工に須陀と士信の戦陣の図を描かせ、内史に上らせた。
須陀が李密に殺された後、士信は裴仁基に従って兵衆を率いて李密に帰順し、総管に任じられた。配下部隊を統率させ、李密に従って王世充を撃った。敗北し、士信は馬を躍らせて突進したが、身に数本の矢を受け、ついに世充の軍に捕らえられた。世充はその驍勇を知り、手厚く礼遇し、寝食を共にした。後に世充が李密を破り、李密の将である邴元真らを得て、皆将軍に任じたが、もはや士信を特に重用することはなかった。士信は彼らと同列にいることを恥じ、配下の千余人を率いて谷州に奔った。高祖は彼を陝州道行軍総管とし、世充を討つことを図らせた。大軍が洛陽に至ると、士信は兵を率いて世充の千金堡を包囲した。中から大声で罵る者がいたので、士信は怒り、夜に百余人を遣わし、数十人の嬰児を連れて堡の下に至らせ、「東都から羅総管のもとに来た」と偽って言わせた。そこで嬰児に泣き騒がせ、しばらくして偽って驚いて言わせた。「ここは千金堡だ、我々は間違えた!」と。突然去って行った。堡の中では、これが東都からの逃亡者だと思い、急いで兵を出して追撃した。士信は道に伏兵を置き、彼らが門を開くのを待ち、奮撃して大いにこれを破り、一人残らず殺した。世充が平定されると、絳州総管に抜擢され、剡国公に封じられた。
まもなく太宗に従って河北で劉黒闥を撃った時、洺水の人が城を挙げて降伏してきたので、士信を遣わして城に入り守らせた。賊は全軍を挙げて激しく攻撃し、雨雪に遭い、大軍は救援できず、数日を経て城は陥落し、賊に捕らえられた。黒闥はその勇猛さを聞き、生かそうと思ったが、士信の言葉と表情は屈せず、ついに殺害された。二十歳であった。太宗はこれを聞いて哀惜し、その屍を買い求め、葬り、勇と諡した。士信は初め裴仁基に礼遇され、その知己の恩に感じ入っていた。東都が平定されると、家財を投じて仁基の遺体を収め、北邙に葬った。また言った。「私が死んだら、この墓の傍らに葬ってほしい。」そして死ぬと、果たして仁基の左側に寄り添って葬られた。
呂子臧
呂子臧は、蒲州河東の人である。大業末、南陽郡丞となった。高祖が京師を平定し、馬元規を遣わして山南を慰撫させたが、子臧は堅守して降らなかった。元規は使者を遣わして諭させたが、前後数回の使者は皆子臧に殺された。煬帝が殺害されると、高祖はまたその婿の薛君倩に手詔を持たせて旨を諭させたので、子臧はようやく煬帝のために発喪の礼を行った。そして後に国に帰順し、鄧州刺史に任じられ、南陽郡公に封じられた。
その時、朱粲が新たに敗れたので、子臧は配下の数千人を率い、元規と力を合わせてこれを撃とうとした。元規に言った。「朱粲は新たに破られた後、上下共に危惧している。一戦で捕らえることができる。もしさらに遷延すれば、部衆が次第に集まり、力が強くなり食糧が尽きれば、必ず我々と死戦し、禍いは小さくない。」元規は受け入れず、子臧は自らの兵で単独で戦うことを請うたが、またも許されなかった。間もなく粲の兵衆が大挙して到来し、元規は恐れ、南陽に退いて守った。子臧は元規に言った。「意見が受け入れられなかったために、ここまで至った。老夫は今、公のために死ぬことになる。」粲は果たして兵を率いて包囲し、長雨に遭い、城壁は皆崩れた。親しい者は城が必ず陥落すると知り、固く降伏を勧めた。子臧は言った。「天子の地方長官が賊に降るなどあろうか。」そこで配下を率いて敵に赴き、戦死した。間もなく城は陥落し、元規もまた殺害された。
張道源
張道源は、并州祁の人である。十五歳の時、父が死に、喪に服して孝行で称えられ、県令の郭湛はその住む所を復礼郷至孝里と改めた。道源はかつて友人と客遊していた時、友人が病に倒れ、夜中に亡くなった。道源は主人を驚かせ騒がせるのを恐れ、遂に遺体と共に寝て、夜明けになってようやく泣き、自ら歩いて営み送り、その故郷の里まで送り届けた。高祖が義兵を挙げると、召し出して大将軍府戸曹参軍に任じた。京城が平定されると、道源を遣わして山東を慰撫させたところ、燕・趙の地は争って帰順した。高祖は詔書を下して褒め称え、累ねて范陽郡公に封じ、後に大理卿に任じた。その時、何稠と士澄が罪を得て、家族は没官され、そのまま道源に賜わった。道源は嘆いて言った。「人には順境と逆境がある、これもまた常である。どうして己の順境を理由に、人の逆境に乗じ、その子女を取って僕妾とすることができようか。仁者の心に近いと言えようか。」皆これを赦し、何一つ取らなかった。まもなく太僕卿に転じ、後に相州都督を歴任した。武徳七年、任上で没し、工部尚書を追贈され、節と諡された。道源は九卿の職を歴任したが、死んだ日には、粟が二石あるのみであった。高祖は大いにこれを異とし、その家に帛三百段を賜った。
族子 楚金
楚金は、若い時から志操と行いがあり、親に仕えて孝行で知られた。初め、兄の越石と共に郷貢進士に推挙されたが、州司は越石を退けて楚金を推薦しようとした。楚金は辞して言った。「順序から言えば越石が年長であり、才能から言えば楚金は及ばない。」固く請うて共に退いた。その時、李勣が都督であり、嘆いて言った。「貢士は本来才能と行いを求めるものだ。このように互いに譲り合うなら、二人とも推挙することに何の憚りがあろうか。」そこで共に推薦して及第させた。楚金は、高宗の時に累進して刑部侍郎となった。儀鳳年間、妖星が現れたので、楚金は上疏し、極めて得失を論じた。高宗は優しく受け入れ、帛二百段を賜った。則天が朝政を臨むと、吏部侍郎・秋官尚書の位を歴任し、南陽侯の爵を賜った。酷吏の周興に陥れられ、嶺表に配流され、ついに配所で没した。『翰苑』三十巻、『紳誡』三巻を著し、共に当時に伝わった。
李公逸
李公逸は、汴梁雍丘の人である。隋末、族弟の善行と共に義勇をもって人々に附かれた。初め王世充に帰順したが、その必ず敗れることを知り、密使を遣わして降伏を請うた。高祖はこれにより雍丘に杞州を置き、総管に任じ、陽夏郡公に封じた。また善行を杞州刺史とした。世充はその従弟の辨に兵を率いさせて攻撃させたので、公逸は使者を遣わして援軍を請うた。高祖はその地が賊の境域に懸け隔たっているため、直ちには出兵しなかった。公逸は善行を留めて守らせ、自ら朝廷に入って援軍を請い、襄城に行き着いた時、世充の伊州刺史張殷に捕らえられ、洛陽に送られた。世充は言った。「卿は鄭(王世充)を越えて唐に臣従するが、その理由はどこにあるのか。」公逸は答えて言った。「私は天下において、ただ唐があると聞いているのみである。」世充は怒り、彼を斬った。善行はついに賊に滅ぼされた。高祖はこれを聞いて悼惜し、その子を襄邑県公に封じた。
張善相
張善相は、許州襄城の人である。大業の末、里長となり、しばしば県兵を督して小盗を追い、衆に附せられ、ついに本郡を拠り、李密に帰した。密が敗れると、城をもって国に帰し、高祖は伊州総管を授けた。王世充がたびたびこれを攻めると、善相は頻りに使を遣わして救援を請うた。兵は既に赴かず、城中の糧は尽き、必ず敗れることを自ら知り、僚属に謂いて曰く、「死するときは吾が頭を斬って世充に帰せよ」と。衆は皆泣いて曰く、「寧ろ公とともに死すとも、終に独り生きんとせず」と。後に城陥ちて擒えられ、世充のもとに送られ、辞色撓まず、世充を極口に罵り、まもなく害せられた。高祖は嘆いて曰く、「吾は善相に負う、善相は吾に負わず」と。その子を封じて襄城郡公となす。
李玄通
李玄通は、雍州藍田の人である。隋に仕えて鷹揚郎将となる。義兵が関に入ると、率いる所部をもって国に帰し、累ねて定州総管を除かれる。劉黒闥が反叛し、これを攻め、城陥ちて擒えられる。黒闥はその才を重んじ、以て大将とせんと欲す。玄通は嘆息して曰く、「吾は朝恩を荷い、東夏に藩たり、孤城援無く、遂に虜庭に陥つ。臣節を守り、忠をもって国に報ずべし、豈に志を降して、輒く賊の官を受くべけんや」と。拒んで受けず。故吏に酒食を饋る者有り。玄通曰く、「諸君は吾が困辱を哀れむ、故に酒食を以て来たり相い慰む。吾は諸君の為に一酔すべし」と。遂に楽をして飲む。守者に謂いて曰く、「吾は剣を舞う能くす、吾に刀を借すべし」と。守者これを与う。曲終るに及び、太息して言う、「大丈夫国厚恩を受け、方面を鎮撫し、守る所を保全する能わず、また何の面目か以て世間に視息せんや」と。因りて腹を潰して死す。高祖聞きて之が為に流涕し、その子伏護を拝して大将とす。
敬君弘
敬君弘は、絳州太平の人、斉の右僕射顕雋の曾孫なり。武徳中、驃騎将軍となり、黔昌県侯に封ぜられ、玄武門に屯営兵を掌り、雲麾将軍を加授さる。隠太子建成の誅せらるるや、その余党馮立・謝叔方兵を率いて玄武門を犯す。君弘は挺身して出戦す。その親しむ者之を止めて曰く、「事未だ知るべからず、当に且く変を観、兵の集まるを待ち、列を成して戦うも未だ晩からず」と。君弘従わず、乃ち中郎将呂世衡とともに大呼して進み、並びに害に遇う。太宗甚だ之を嗟賞し、君弘に左屯衛大将軍を贈り、世衡に右驍衛将軍を贈る。
馮立
馮立は、同州馮翊の人なり。武芸有り、書記に略く渉り、隠太子建成これを引きて翊衛車騎将軍と為し、心膂に托す。建成誅せられ、その左右多く逃散す。立嘆いて曰く、「豈に生には其の恩を受け、死して其の難を逃るる有らんや」と。ここに於いて兵を率いて玄武門を犯し、苦戦すること久しく、屯営将軍敬君弘を殺す。その徒に謂いて曰く、「微かに以て太子に報いたり」と。遂に兵を解きて野に遁る。俄にして来たりて罪を請う。太宗之を数えて曰く、「汝東宮に在りて、潜かに間構を為し、我が骨肉を阻む、汝の罪一なり。昨日復た兵を出して来たり戦い、我が将士を殺傷す、汝の罪二なり。何を以てか死を逃れん」と。対えて曰く、「身を出して主に事え、之に期して命を効す、職に当たるの日、顧み憚る所無し」と。因りて地に伏して歔欷し、悲しみ自ら勝えず。太宗之を慰勉す。立帰り、親しむ所に謂いて曰く、「莫大の恩に逢い、幸いに済わんことを獲、終に当に死を以て奉答すべし」と。
未だ幾ばくもせず、突厥便橋に至る。立数百騎を率いて虜と咸陽に戦い、殺獲甚だ衆し。太宗聞きて嘉嘆し、広州都督に拝す。前後牧と為る者、多く黷貨を以て蛮夷の患いと為るにより、是より数え怨み叛く。立到り、産業を営まず、衣食取るに給うのみ。嘗て貪泉に至り、嘆いて曰く、「此れ呉隠之の酌む泉なり。一杯の水を飲む、何か道うるに足らんや。吾当に汲みて食と為さん、豈に一杯に止まらんや、安んぞ能く吾が性を易えんや」と。遂に畢くまで飲みて去る。職に在ること数年、甚だ恵政有り、官に卒す。
謝叔方
謝叔方は、雍州万年の人なり。初め巢剌王元吉に従いて征討し、数え戦功有り、元吉奏して屈咥直府左軍騎を授く。太宗玄武門に於いて隠太子及び元吉を誅す。叔方府兵を率いて馮立と軍を合し、北闕の下に拒戦し、敬君弘・呂世衡を殺す。太宗の兵振わず、秦府護軍尉遅敬徳元吉の首を伝えて以て之を示す。叔方馬を下り号哭して遁る。明日首を出す。太宗曰く、「義士なり」と。命じて之を釈す。歴りて西・伊二州刺史に遷り、辺鎮を綏撫すること善くし、胡戎愛して之を敬い、厳父に事うるが如し。貞観の末、累ねて銀青光禄大夫を加え、歴りて洪・広二州都督。永徽中卒す。
王義方
王義方は、泗州漣水の人なり。少くして孤貧、母に事うること甚だ謹み、博く『五経』に通じ、而して謇傲独行す。初め明経に挙げらる。因りて京師に詣る。中路に徒步者に逢う。自ら雲う、父潁上の令たり、病篤しと聞き、倍道将ち往かんとす、歩行前に進まず、計い出す所無しと。義方乗する所の馬を解きて之に与え、姓名を告げずして去る。俄に晋王府参軍を授かり、弘文館に直る。特進魏徴甚だ之を礼し、将に姪女を以て之に妻せんとす。義方竟に徴の姪女を娶り、人に告げて曰く、「昔は宰相の勢に附せず、今は知己の言を知るが故なり」と。転じて太子校書と為る。
未だ幾ばくもせず、坐して刑部尚書張亮と交通するに因り、貶せられて儋州吉安丞と為る。行きて海南に至る。舟人将に酒脯を以て致祭せんとす。義方曰く、「黍稷は馨しからず、義は明徳に在り」と。乃ち水を酌んで祭り、文を為りて曰く、「帝郷を思いて北顧し、海浦を望みて南浮す。必ずや行い己に愆り、義は前修に負う。長鯨水を撃ち、天呉舟を覆す。忠に因りて戾りを獲、孝を以て尤めらる。四維霧廓め、千里安流す。霊応響の如く、神の羞と為ること無からん」と。時に当たり盛夏、風濤蒸毒す。既にして霽れ開き、南に渡りて吉安す。蛮俗荒梗なり。義方諸首領を召し、生徒を集め、親しく経を講じ、釈奠の礼を行い、清歌籥を吹き、登降序有り。蛮酋大いに喜ぶ。
臣聞く、春鶯は献歳に鳴き、蟋蟀は始秋に吟ず。物は微にして時に応じ、人は賤にして忠を言うと。臣、去歳冬の初め、雲陽下県丞の耳。今春及び夏、陛下臣を擢きて著作佐郎と為し、文学の清選を極む。未だ幾ばくもせず、又た臣を拝して侍御史と為し、朝廷の雄職に濫る。生涯を顧み視るに、首を隕すも報いに非ず、唯ち犯して隠す無からんことを欲し、以て天聴を広めん。
臣が思うに、李義府が寺丞を冤罪で殺したことについては、陛下はすでにこれを赦されたので、臣がさらに取り調べるべきではない。しかし天子が三公・九卿・二十七大夫・八十一元士を置かれたのは、本来、水火が互いに助け合い、塩と梅が互いに味を調えるようにして、その後で多くの業績がすべて盛んになり、風雨が調和して順調になることを望まれたのである。また、ただ一人で是とし、ただ一人で非とすることも、すべて聖旨によるものであってはならない。昔、唐堯は四凶において過ちを犯し、漢の高祖は陳豨において過ちを犯し、光武帝は逢萌において過ちを犯し、魏の武帝は張邈において過ちを犯した。この四人の帝王は、英傑の君主であるが、前に過ちを犯し、後にそれを得たのである。今、陛下は聖業を継ぎ、万邦を撫育され、蛮族の辺境の地であっても、なお網目を粗くすることを恐れておられる。ましてや天子の車駕の近くにおいて、奸臣がほしいままに暴虐を働くことは、忠臣を憤慨させ、義士を扼腕させるに足る。たとえ正義が自縊したとしても、なおさら容認すべきではなく、これはすなわち義府の権勢を恐れて、身を殺して口を封じたのである。これは生殺の威権が、上は王から出たものではなく、賞罰の権柄が、下に佞臣や寵臣に移ったことを示す。臣は霜を踏めば堅い氷となることを恐れる。小さなことが積もって大きくなる。どうか重ねて正義の死の原因を取り調べ、幽泉に冤気を雪ぎ、白日に奸臣を誅せられたい。
廷議において義府を弾劾し、言うには、
臣が聞くところによれば、下に付き従って上を欺くことは、聖主が誅すべきところであり、心は狠くして貌は恭しいことは、明時に必ず罰するところである。このゆえに、賊を隠して義を覆うことは、唐帝の朝に容れられず、幸いを窃み権に乗ずることは、終に漢皇の剣にかかる。中書侍郎李義府は、機会に乗じて、ついに高位に至った。忠を尽くし節を竭くして、王の美を称揚し、駑馬に鞭打って励まし、ひたすら皇眷を奉ずることができず、かえって城社に憑りつき、日月を蔽い虧き、請托を公然と行い、群小と交遊する。美しい容姿を貪り、罪ある淳于を赦し、その謀が漏れることを恐れて、無辜の正義を死なせた。たとえ山を挟み海を超える力があっても、これに比べればまだ軽く、天を回し日を転ずる威があっても、これに比べればさらに劣る。これが許されるならば、何が容れられないことがあろうか。金風が節を迎え、玉露が道を開く。霜簡は秋の法典と共に清く、忠臣は鷹や鷂と並んで撃つ。どうか君側を除き、少しでも大いなる恩に報い、玉階に首を砕き、臣の節を明らかにしたい。
高宗は、義方が大臣を毀損侮辱し、言葉が不遜であるとして、左遷して萊州司戸参軍とした。任期が満ちると、昌楽に家を構え、門徒を集めて教授した。母が亡くなると、ついに再び仕官せず。総章二年に卒去、五十五歳。『筆海』十巻、文集十巻を撰した。門人の何彦光・員半千が義方のために師の喪服を作り、三年の喪が終わって去った。
半千は、齊州全節の人である。義方に師事すること十余年、経史に広く渉猟し、河朔に名を知られた。則天の時に官は天官侍郎に至った。『三國春秋』二十巻を撰し、世に行われた。別に伝がある。
成三郎
成三郎は、幽州漁陽の人である。光宅年間、左豹韜衛長上果毅となった。李孝逸が徐敬業を討伐するとき、前鋒とし、賊と高郵で戦った。官軍が敗北し、捕らえられ、江都に送られた。賊党の唐之奇がその衆を欺いて言うには、「これは李孝逸だ!」と。斬ろうとした。三郎は大声で叫んだ。「私は果毅の成三郎である。将軍の李孝逸ではない。官軍はすでに汝らを幾重にも包囲し、汝らを破るのは旦夕のうちである。私が死ねば、妻子は栄誉を受ける。汝らが死ねば、家族は配流・没官され、ついに私には及ばない!」之奇は怒り、これを斬った。敬業が平定されると、左監門将軍を追贈され、諡を勇といった。時に曲阿県令の尹元貞も、敬業の難に死した。
尹元貞
尹元貞は、瀛州河間の人である。曲阿において、敬業が潤州を攻め落としたと聞き、兵を率いて救援に向かった。戦いに敗れ、捕らえられた。敬業は白刃を前にして脅し、自分に従うよう命じ、任用しようとした。元貞の言葉と表情は慷慨として、ついに屈せず、まもなく害された。敬業が平定されると、潤州刺史を追贈され、諡を壮といった。
高睿
高睿は、雍州萬年の人で、隋の尚書左僕射高崿の孫である。父の表仁は、谷州刺史であった。睿は若くして明経により累次任官されて桂州都督となり、まもなく銀青光禄大夫を加えられ、趙州刺史に転じ、平昌県子に封ぜられた。聖暦初年、突厥の默啜が来寇し、睿はまた城を守って固守した。長史の唐波若は城の包囲が非常に切迫しているのを見て、ひそかに賊に応じる謀を企てた。睿はこれを察知し、自殺しようとしたが、死なず、まもなく城は陥落して捕らえられ、さらに諸県でまだ降伏していない者を招諭するよう命じられた。睿はついに従わず、ついに殺された。
初め、賊が州の境に至ろうとしたとき、ある者が睿に言った。「突厥は向かうところ敵なく、百姓は胆を喪っている。明公は力で防ぐことができず、降伏するに如かず。」睿は言った。「私は天子の刺史である。戦わずして降るのは、その罪大きい。」則天はこれを聞いて深く嘆息し、冬官尚書を追贈し、諡を節といった。賊が退くと、唐波若は誅殺され、家族は籍没された。そこで制を下して言うには、「故趙州刺史高睿は、狂賊が至っても、節を守って死し降らなかった。長史唐波若は、城を固守できず、相率いて賊に帰した。高睿にはすでに褒賞を加え、波若らは身を死に家を破られた。賞罰はすでに行われたが、懲戒と勧奨を重んじるべきである。天下に頒布して示し、すべてに知らしめるべきである。」
睿の子 仲舒
子の仲舒は、経史に博通し、特に『三礼』および詁訓の書に明るかった。神龍年間、相王府文学となり、王は大いに敬重した。開元年間、累次任官されて中書舎人となり、侍中の宋璟・中書侍郎の蘇颋はしばしば故事について彼に諮問した。
附 崔琳
時にまた中書舍人崔琳あり、政理に深く達し、璟等も亦礼を以てこれに接す。嘗て人に謂ひて曰く、「古事は高仲舒に問ひ、今事は崔琳に問へば、則ちまた何の疑ふ所かあらんや」と。仲舒は累遷して太子右庶子となり卒す。
王同皎
王同皎は、相州安陽の人、陳の侍中・駙馬都尉王寬の曾孫なり。その先は瑯邪より江左に仕へ、陳滅びて、家を河北に徙す。同皎は、長安年中に皇太子の女定安郡主を尚ふ。朝散大夫を授けられ、行太子典膳郎となる。敬暉等が張易之兄弟を討たんとするに当たり、同皎を遣はして右羽林將軍李多祚と共に太子を東宮に迎へ、太子をして玄武門に至りて將士を指麾せしめんと請ふ。太子初めは拒みて許さず、同皎の諷諭切なるに至りて、太子乃ち駕に就く。功を以て右千牛將軍を授けられ、瑯邪郡公に封ぜられ、實封五百戸を賜ふ。郡主の進封して公主と為るに及び、同皎を駙馬都尉に拝す。尋で銀青光祿大夫を加へられ、光祿卿に遷る。
附 周憬
初め同皎と謀を葉ふるに、武當丞周憬なる者有り、壽州壽春の人なり。事既に泄れ、比幹廟に遁れ、自ら刎じて死す。臨終に、左右に謂ひて曰く、「比干は古の忠臣なり。儻ひ神道聰明ならば、周憬の忠にして死するを知るべし。韋后朝を亂し、邪佞を寵樹し、武三思上を幹き順を犯し、忠良を虐害す。吾其の滅亡久からざるを知る!吾が頭を國門に懸け、其の身首異門より出づるを觀よ」と。其の後皆其の言の如し。
蘇安恆
蘇安恆は、冀州武邑の人なり。博學にして、特に『周禮』及び『春秋左氏傳』に明るし。大足元年、匭に投じて疏を上りて曰く、
陛下は聖皇の顧托を欽み、嗣子の推讓を受け、天に應じ人に順ひて二十年なり。豈虞舜の裳を褰ぎ、周公の復辟するを思はざらんや、良く大禹の至聖、成王既に長ずるを以て、位を推し國を讓むるは、其の道備はるればなり!故に舜の禹に於けるは、是れ其の族親なり;旦が成王を舉ぐるは、叔父を離れず。且つ族親何ぞ子の愛に如かん?叔父何ぞ母の恩に如かん?今太子は孝敬を崇ぶ、春秋既に壯なり、若し宸極を統臨せしめば、何ぞ陛下の隧に異ならん!陛下は年德既に尊く、寶位將に倦まんとし、機務殷重にして、心神を浩蕩す、何ぞ東宮に禪位し、自ら聖體を怡しまざる!
臣聞く、昔より天下を孝理する明王は、二姓にして俱に王たるを見ずと。當今梁・定・河內・建昌諸王等は、陛下の廕覆を承け、並びに封王を得たり、臣恐らくは千秋萬歲の後、事に於いて便ならず、臣請ふらくは公侯に黜け、閑簡を以て任ぜん。
臣又聞く、陛下二十餘孫有り、今尺土の封無し、此れ長久之計に非ざるなり。臣請ふらくは四面都督府及び要衝の州郡に、土を分ちて之を王たらしめん。縱ひ今年尚ほ幼小にして、未だ人を養ふの術に嫻ねずとも、請ふらくは師傅を擇び立て、其の孝敬の道を成し、以て周室を夾輔し、皇家を籓屏せしめ、累葉をして重光せしめ、饗祀を輟めざらしむ、斯れ美なるかな、豈大ならずや!
疏奏す、則天召見し、食を賜ひ慰諭して之を遣す。長安二年、又疏を上りて曰く、
忠臣は時に順ひて寵を取らず、烈士は死を惜しまずして生を偸まず。故に君道明らかならざるは、忠臣の過ちか!臣道軌を蹈まずは、烈士の過ちか!昔者先皇晏駕し、其の顧托を留め、萬機殷廣なるを以て、陛下をして兼ねて其の事を知らしめんとす。唐堯・虞舜其の位に居るも、共工・驩兜其の間に在り、陛下の骨肉の恩阻まれ、陛下の子母の愛忘る。臣謂ふ、聖情運祚將に喪はんとするを以て、極めて此の大節を斯くす;天下は陛下李氏を微弱し、天の功を貪ると謂ふ。何ぞ年在りて耄倦むも、而して子に復して明辟せしめず、忠言をして進む莫からしめ、奸佞朋を成し、夷狄紛擾し、黎庶を屠害するや!陛下納隍の念を軫めらるるも、亦た能く此の生靈を救ふこと罔し。
臣聞く、天下は神堯・文武の天下なり。昔隋失ひて馭ふ、小人道長く、群雄鹿を駭し、四海烏を瞻る。皇唐親しく戎旃に事へ、鳳翔參野し、宇縣を削平し、龍宸極を踐む。血を歃ちて盟と為し、河を指して誓と為し、李氏に非ざれば王たらず、功臣に非ざれば封ぜず。陛下正統に居れども、實は唐氏の舊基なり。故に『詩』に曰く、「惟だ鵲に巣有り、唯だ鳩之に居る」と。此言小なれども、以て大を喻ふべし。陛下坤より德を生じ、乾に乘りて主と作る、豈上は天意に符ひ、下は人心に順はざらんや!東宮昔諒陰に在り、相王又長子に非ず、陛下宗祀中絶せんことを恐れ、以て其の謳歌に應ず。當今太子追ひ回され、年德俱に盛んなり、陛下其の寶位を貪りて母子の深恩を忘る。臣聞く、京邑翼翼たり、四方則を取る。陛下太子の元良を蔽ひ、太子の神器を枉げ、何を以て天下に母慈子孝を教へん!焉んぞ能く天下をして風俗を移易せしめんや?惟ふらくは陛下之を思ひ、將に何の聖顏を以て唐家の宗廟に見えん?將に何の誥命を以て大帝の墳陵を謁せん?陛下何の故ぞ日夜憂ひを積み、鐘鳴漏盡するを知らざるや?臣愚かに天意人事を以て、還た李家に歸す。陛下天位に安んずれども、殊不知物極まれば則ち反り、器滿てば則ち傾く。故に語に曰く、「斷つべくして斷たざれば、反つて其の亂を受く」と。此れ之を謂ふなり。陛下機務を高揖し、聖躬を自ら恬しましめ、史臣を命じて以て之を書かしめ、樂府を令して以て之を歌はしむるに如かず、斯れ亦太平の盛事なり!
臣聞く、過ちを見て諫めざるは、忠臣に非ず;死を畏れて言はざるは、勇士に非ず。臣何ぞ一朝の命を惜しみて、萬乘の國を安んぜざらんや!故に曰く、苟も國に利あらば、死すと雖も可なり!願くは陛下稍く萬機を輟め、臣が愚見を詳らかにせよ。陛下若し臣を忠と為さば、則ち諫に從ふこと流るるが如く、是を擇びて用ひよ;若し臣を不忠と為さば、則ち臣が頭を斬り取り、以て天下に令せよ。
疏奏すれども納れず。明年、御史大夫魏元忠、張易之兄弟の構ふる所と為り、安恆又抗疏して之を申理して曰く、
臣は聞く、明王は天下を包容する度量を持ち、天下を救済する心を持ち、天下の善を進め、天下の悪を除くものであると。もし君王たる者がこの四者を行わないならば、神は冤み鬼は怒り、陰陽は錯乱し、国家を栄え安泰にしようとしても、どうして叶うことがあろうか!陛下が革命(武周革命)を成し遂げられた当初は、諸政に勤勉で、自ら万機を総覧し、広く謀略を採り、傍らに俊才を求められたので、海内は陛下を諫言を受け入れる主君と見做したのである!近年以来、政教に怠り、讒言する邪悪な者が徒党を組み、水害・火災が相次ぎ、百姓は親しみ合わず、五品(五倫)は順ならず、故に四海の内は、陛下を佞臣を受け入れる主君と見做すに至ったのである!当今、邪と正とを弁えず、訴訟には冤罪が含まれている。これは陛下が昔は正しく今は非であるというのではなく、安泰に居て危険を忘れた過失によるのである!
臣がひそかに見るに、御史大夫・検校太子右庶子・同鳳閣鸞臺平章事魏元忠は、廉潔正直で名声があり、宰相の地位にある。忠正の道を歩む者は、元忠を手本とし、邪佞の道を歩む者は、元忠を仇敵のように憎む。麟臺監張易之兄弟は、身に徳がなく、国に功績がなく、数年を経ずして、極めて高い貴顕に至った。自らは氷を飲んで恐れを抱き、水を酌んで清きを思うべきであり、日夜兢兢として、恩寵に報いるべきである。その志が渓壑のように深く、その心が豺狼のようであるとは思わなかった。鹿を指して馬と献じようとし、まず忠臣を害して善を損なおうとする。この乱れた世の法を以て、我が明君の朝廷を汚そうとする。元忠が獄に下されて以来、臣は長安城内で、街談巷議が皆、陛下が奸悪な者を任用し、賢良を斥逐し、元忠には必ず不順な言葉はなく、易之には必ず乱を交わす意図があるとし、出会えば偶語し、人心が安らかでないのを見る。忠臣烈士がいたとしても、空しく私室で股を撫でるばかりである。そして口を閉ざして敢えて言わない者は、皆、易之らの威権を恐れ、無辜の罪で殺されることを恐れ、ただ虚しく死ぬだけなのである!
今、賊虜は強盛で、徴税・徴発は煩雑で重く、臣が言うには、万姓はその弊害に耐えられない。況や、陛下が讒慝の者を放縦にし、良善な者を禁錮し、賞罰が中正を失えば、遠近に変乱が生じることを聞く。臣は恐れる、四夷がこれに乗じて、得失を窺い、辺境の郡県の患いとならんことを。百姓がこれに乗じて、即ち義兵を結集し、君側の悪を除かんことを。また恐れる、天下を争う徒党が、関門を叩いて至らんことを。乱の階梯となる者が、中から相応じんことを。朱雀門内で鋒を争い、大明殿前で鼎を問わんことを。陛下は何を以てこれに謝し、また何方を以てこれを防禦されようか?臣が今、陛下のために計るに、百姓の心を安んずるには、雷電の威を収め、元忠の網を解き、その爵位を復し、君臣が初めの如くならしめるに如くはない。そうすれば天下は幸いである!陛下は生を好み殺を悪む。仮に佞臣の首を斬って人望を塞ぐことができなくとも、臣はその栄寵を奪い、その羽翼を切り、権柄を手にさせず、驕横を日に日に増長させないことを請う。国を専らにするは穰侯を倍し、天意を回らすは左悺を過ぎれば、社稷は危うい。惟陛下、これを図られよ!
臣は元来微賤であり、元忠・易之を知らない。どうしてこちらを親しみ、あちらを疎んずることができようか?ただ恐れるのは、讒邪が長じて忠臣が絶えることである!伏して願わくは、陛下が暫く天の鑑を垂れ、臣がこの心を察せられんことを。即ち微臣の朝の志が行われるならば、夕べに死すとも恨みなし!
上疏が奏上されると、易之らは大いに怒り、刺客を遣わして彼を殺そうとした。正諫大夫朱敬則・鳳閣舍人桓彦範・著作郎魏知古らの保護によって免れた。
安恆は、神龍初年に集藝館内教となった。節湣太子が武三思を殺害した際、ある者が安恆がその謀議に関与したと言ったので、遂に獄に下されて死んだ。睿宗が即位し、その冤罪を知り、制を下して言う、「故蘇安恆は、文学を身の基とし、鯁直を操りとし、往年に抗疏し、忠讠(忠言)嘉すべきものあり。回邪の徒が擅(ほしいまま)に構えるに属し、奄(たちま)ち非命に従う。言を興して軫悼し、用いて懐を惻(いた)む。宜しく寵章を贈り、式(もって)徽烈を旌すべし。諫議大夫を贈ることを可とす」と。時にまた俞文俊・王求礼あり、亦た直言を以て称せられた。
俞文俊
俞文俊は、荊州江陵の人である。則天武后の載初年間、新豊県で風雷により山が移動したため、県名を慶山と改め、四方がこぞって祝賀した。文俊は闕に赴き上書して言う、「臣は聞く、天気が和せざれば寒暑並び起こり、人気が和せざれば疣贅が生じ、地気が和せざれば塠阜が出ると。今、陛下は女主として陽位に処り、剛柔を反易されたので、地気が隔塞し山が災いに変わったのである。陛下はこれを慶山と謂われるが、臣は慶ではないと為す。臣愚かならんと以為うに、側身して徳を修め、以て天譴に答うべきである。然らずんば、恐らく殃禍至らん」と。則天は大いに怒り、嶺外に流した。後に六道使によって殺された。
王求礼
王求礼は、許州長社の人である。則天武后の時、左拾遺となった。時に武懿宗が兵を統率して契丹を討ったが、畏愞(おじけづき)して進もうとしなかった。賊が平定された後、懿宗は滄州・瀛州などの数百家が賊に従ったと奏上し、誅殺を請うた。求礼は朝廷でこれを折って言う、「此等は元来武備がなく、城池も完備せず、賊に遇って畏懼し、苟(かりそめ)にもこれに従って生きんことを求めたのであり、どうして元来より背叛の心があったと言えようか!懿宗は強兵数十万を擁しながら、賊を聞けば輒(すなわ)ち退き、これをして滋蔓せしめた。また罪を草沢の詿誤(あやまち)の人に移そうとするのは、臣たる者の道であろうか!臣は先ず懿宗を斬り、以て河北に謝することを請う」と。懿宗は答えることができなかった。則天は遂に脅従者の罪を寛大にした。後に都城で三月に雪が降り、鳳閣侍郎蘇味道は瑞雪と為し、群官を率いて表を奉って祝賀した。求礼は言う、「公は宰相たりながら、陰陽を燮理(調和)することができず、時に非ざる雪が降り、また災いを瑞祥と為し、視聴を誣罔く。もし三月の雪を瑞雪と為すならば、即ち臘月の雷も瑞雷と為すのか?」と。味道は従わなかった。求礼は累遷して左臺殿中侍御史となった。神龍初年、衛王掾となり、病没した。
燕欽融
燕欽融は、洛州偃師の人である。景龍末年、許州司戸参軍となった。時に韋庶人(韋后)が国政に干与し、盛んに一族の子弟を封拜した。また悖逆庶人(安楽公主か)及び駙馬都尉武延秀・中書令宗楚客らと共に宗廟社稷を危うくせんと図った。欽融は連続してその事を上奏したので、庶人は大いに怒り、中宗を勧めて欽融を朝廷に召し出して見せしめに殺させた。宗楚客はまた私に執法者に命じて刃を加えさせ、欽融はこれによって死に至った。睿宗が即位し、制を下して言う、「故許州司戸参軍燕欽融は、先に忠讜を陳べ、頗る章奏に列ねたり。その位に干(かかわ)るは非なりと雖も、進むに身を顧みず。永言(ながくいえば)奄(たちま)ち亡ぶ、誠に傷悼すべきところなり。方(まさ)に諫路を開かんとす、宜しく窀穸(墓)を慰むべし。諫議大夫を贈ることを可とし、仍(なお)礼を備えて改葬せしめ、特(こと)に一子に官を授くべし」と。
附 郎岌
これに先立ち、定州の人郎岌もまた、韋庶人及び宗楚客が逆乱を為さんとする状を備えて陳べたが、中宗は受け入れず、韋庶人は杖殺するよう勧めた。睿宗が即位し、追贈して諫議大夫とした。
安金藏
安金蔵は京兆長安の人、初め太常寺の工人となった。載初年間、則天武后が称制し、睿宗は皇嗣と号した。少府監裴匪躬・内侍范雲仙はともに私的に皇嗣に謁見した罪で腰斬された。ここにおいて公卿以下、みなこれに謁見することができず、ただ金蔵ら工人のみが左右に侍ることができた。あるとき誣告して皇嗣がひそかに異謀を有すという者があった。則天は来俊臣に命じてその情状を窮めて訊鞫させた。左右の者は楚毒に耐えかね、みな自ら誣伏しようとしたが、ただ金蔵のみは確然として辞せず、大声で俊臣に呼びかけて言うには、「公が金蔵の言を信じないならば、心臓を切り開いて皇嗣に謀反のないことを明らかにしたい」と。すなわち佩刀を引き抜いて自ら胸を切り開き、五臓がみな出で、流れる血は地を覆い、やがて気絶して倒れた。則天はこれを聞き、輿に乗せて宮中に入らせ、医者を遣わして五臓を体内に戻させ、桑白皮を糸として縫合し、薬を塗った。一晩を経て、金蔵はようやく蘇生した。則天は自ら臨んでこれを視、嘆じて言うには、「わが子は自ら明らかにすることができぬ。爾の忠に及ばない」と。すなわち俊臣に推問を停止させ、睿宗はこれによって難を免れた。
金蔵は、神龍の初めに母を喪い、仮に都の南、闕口の北に葬り、墓の側に廬して住み、自ら石墳・石塔を造り、昼夜休むことなかった。原上にはもと水がなかったが、突然湧泉が自ら湧き出た。また李樹が厳冬に盛んに花を開き、犬と鹿が互いに馴れ親しんだ。本道の使盧懷慎が上聞し、詔を下してその門を旌表した。景雲年間、累遷して右武衛中郎将となった。玄宗が即位し、金蔵の忠節を追思し、制を下して褒め称え、抜擢して右驍衛将軍に任じ、さらに史官に命じてその事跡を編纂させた。開元二十年、また特に代国公に封じ、さらに東嶽などの諸碑にその名を刻ませた。ついに寿を全うして終わり、兵部尚書を追贈された。