舊唐書

巻186上

巻186上

舊唐書

原文舊唐書

卷一百八十六上

原文卷一百八十六上

列傳第一百三十六上 酷吏上

原文列傳第一百三十六上 酷吏上

【序】

原文【序】

古より今に至るまで天下を治むる者は、その政に四つあり。五帝は仁を尚び、文徳を体するなり。三王は義を仗り、武功を立てるなり。五覇は信を崇め、威令を取るなり。七雄は力を任じ、刑名を重んずるなり。およそ仁義既に廃れて、然る後に威刑を以てこれを斉うす。威刑既に衰えて、酷吏用いられ、ここに商鞅・李斯の譎詐設けらる。法を持ち術を任じ、君を尊び臣を卑しめ、その策を奮って宇宙を鞭撻し、危きを持ち弊を救うは、先王やむを得ずしてこれを用うるなり。天下の人これを苛法と謂う。降りて両漢に及び、その余烈を承く。ここに前に郅都・張湯の徒ありてその刻を持ち、後に董宣・陽球の属ありてその猛を肆うす。然れども代は異なれども、亦よく公方たり。天下の人これを酷吏と謂う。これまた鞅・斯の罪人なり。然れども網既に密にして奸勝えざるなり。夫子曰く「刑罰中らざれば、則ち人手足を措く所なし」と。誠なるかな、この言や。

原文古今御天下者,其政有四:五帝尚仁,體文德也;三王仗義,立武功也;五霸崇信,取威令也;七雄任力,重刑名也。蓋仁義既廢,然後齊之以威刑;威刑既衰,而酷吏為用,於是商鞅、李斯譎詐設矣。持法任術,尊君卑臣,奮其策而鞭撻宇宙,持危救弊,先王不得已而用之,天下之人謂之苛法。降及兩漢,承其餘烈。於是前有郅都、張湯之徒持其刻,後有董宣、陽球之屬肆其猛。雖然異代,亦克公方,天下之人謂之酷吏,此又鞅、斯之罪人也!然而網既密而奸不勝矣。夫子曰:「刑罰不中,則人無所措手足。」誠哉,是言也!

唐の初め、前古の弊を革め、残を勝つに務め、衣を垂れて治め、且つ七十載、而して人敢えて欺かず。これよりこれを観るに、彼に在りて此に在らず。則天に逮りて女主を以て朝に臨み、大臣未だ附かず。政を獄吏に委ね、宗枝を剪除す。ここに来俊臣・索元礼・万国俊・周興・丘神勣・侯思止・郭霸は・王弘義の属、紛紛として出づ。然る後に告密の刑を起こし、羅織の獄を制し、生人は屏息し、自ら固むる能わず。忠を懐き義に蹈むこと、頸を連ねて戮に就く者に至りては、言うに勝えず。武后これに因りて坐に唐鼎を移し、天網一たび挙げて、卒に八荒を籠す。酷の用いらるるや、斯に害するのみ。遂に酷吏の党をして、横に朝に噬ぜいわしめ、公卿の死命を制し、王者の威力を擅にせしむ。貴きはその欲に従い、毒はその心を侈り、天誅は脣吻より発し、国柄は掌握に秉る。兇慝の士、栄えてこれを慕い、身鼎鑊に赴き、死して悔いなし。かくの如き者は、何ぞや。時に要し旨を希い、利を見て義を忘るるなり。

原文唐初革前古之敝,務於勝殘,垂衣而理,且七十載,而人不敢欺。由是觀之,在彼不在此。逮則天以女主臨朝,大臣未附;委政獄吏,剪除宗枝。於是來俊臣、索元禮、萬國俊、周興、丘神勣、侯思止、郭霸、王弘義之屬,紛紛而出。然後起告密之刑,制羅織之獄,生人屏息,莫能自固。至於懷忠蹈義,連頸就戮者,不可勝言。武後因之坐移唐鼎,天網一舉,而卒籠八荒;酷之為用,斯害也已。遂使酷吏之黨,橫噬於朝,制公卿之死命,擅王者之威力。貴從其欲,毒侈其心,天誅發於脣吻,國柄秉於掌握。兇慝之士,榮而慕之,身赴鼎鑊,死而無悔。若是者,何哉?要時希旨,見利忘義也!

試みにこれを論ず。今夫れ国家斧鉞の誅を行い、狴牢の禁を設けて盗を防ぐは、固しと云うと雖も、猶お垣を逾え冢を掘り、篋を掲げ囊を探り、死者は前にあり、盗者は後にある。何ぞや。その間に欲あるを以てなり。然れども徇う所は数金の資に過ぎざるなり。彼の酷吏は時に上下し、重きを取って人主に取り、怵惕の憂い無く、坐して尊寵を致す。杖は卒伍より起こり、富は封君に擬す。豈に唯だ数金の利のみならんや。則ち官を盗む者は幸いと為すなり。故に国ある者は則ち必ず凱覦の路を窒ぎ、僥幸の門を杜わざるべからず。務めざるべけんや。況んや時に観て変を楽み、恣に陰賊を懐くは、斯また郅都・董宣の罪人なり。異なるかな、また斯に効うする者有り。中興四十載にして吉温・羅希奭の政を蠹する有り、また数載にして敬羽・毛若虚の法を危うくする有り。朝四葉を経て、獄訟再び起こり、比周の悪党、善人を剿絶す。屡々措かんとする刑を撓し、以て太和の気を傷つけ、災を幸い禍を楽み、苟くもその身を售す。これまた来・索の罪人なり。

原文嘗試而論之,今夫國家行斧鉞之誅,設狴牢之禁以防盜者,雖云固矣,而猶逾垣掘冢,揭篋探囊,死者於前,盜者於後,何者?以其間有欲也!然所徇者不過數金之資耳!彼酷吏與時上下,取重人主,無怵惕之憂,坐致尊寵;杖起卒伍,富擬封君,豈唯數金之利耶?則盜官者為幸矣!故有國者則必窒凱覦之路,杜僥幸之門,可不務乎!況乎樂觀時變,恣懷陰賊,斯又郅都、董宣之罪人也。異哉,又有效於斯者!中興四十載而有吉溫、羅希奭之蠹政,又數載而有敬羽、毛若虛之危法。朝經四葉,獄訟再起,比周惡黨,剿絕善人。屢撓將措之刑,以傷太和之氣,幸災樂禍,茍售其身,此又來、索之罪人也!

嗚呼、天道は淫に禍し、人道は殺を悪む。既に禍の始めと為り、必ず兇を以て終わる。故に鞅・斯より毛・敬に至るまで、その跡に蹈む者は、卒に誅夷を以てす。不幸に非ざるなり。

原文嗚呼!天道禍淫,人道惡殺,既為禍始,必以兇終。故自鞅、斯至於毛、敬,蹈其跡者,卒以誅夷,非不幸也。

嗚呼、愚を執り害を賈い、天下の怨を任じ、道に反し名を辱しめ、天下の悪を帰す。或いは諸を原野に肆し、人これを誅うるを得、或いはこれを魑魅に投じ、鬼これを誅うるを得。天人報応、豈に虚ならんや。千載の後をして、その名を聞く者に、曾て蛇豕の若かざらしむ。

原文嗚呼!執愚賈害,任天下之怨;反道辱名,歸天下之惡。或肆諸原野,人得而誅之;或投之魑魅,鬼得而誅之。天人報應,豈虛也哉!俾千載之後,聞其名者,曾蛇豕之不若。

悲しいかな、昔『春秋』の義は、善悪隠さず。今『酷吏伝』を為すも、亦もって懲勧を示す所以なり。語に曰く「前事忘れざれば、将来の師なり」と。意は斯に在るか。意は斯に在るか。

原文悲夫!昔《春秋》之義,善惡不隱,今為《酷吏傳》,亦所以示懲勸也。語曰:「前事不忘,將來之師。」意在斯乎!意在斯乎!

来俊臣

原文來俊臣

来俊臣は、雍州万年県の人なり。父の操は、博徒なり。郷人の蔡本と友を結び、遂にその妻を通ず。樗蒲に因りて本の銭数十万を贏ち、本酬うる所無く、操遂に本の妻を納る。操の門に入る時、先ず既に娠ありて、俊臣を生む。兇険にして生産に事えず、反覆残害、挙げて比ぶる者無し。曾て和州に於いて奸盗を犯し鞫せられ、遂に妄りに密を告ぐ。召見して奏す。刺史東平王続、これを杖つこと一百。後、続は天授中に誅せらる。俊臣復た密を告ぐ。召見せられ、奏して言う、前に告げし密は豫よ・博州の事にて、枉わって続に決杖せられ、遂に申すを得ずと。則天忠と為し、累遷して侍御史と為り、朝散大夫を加う。制獄を按ずるに、少しく意に会わざる者あれば、必ずこれを引き、前後坐して族すること千余家。

原文來俊臣,雍州萬年人也。父操,博徒。與鄉人蔡本結友,遂通其妻,因樗蒲贏本錢數十萬,本無以酬,操遂納本妻。入操門時,先已有娠,而生俊臣。兇險不事生產,反覆殘害,舉無與比。曾於和州犯奸盜被鞫,遂妄告密。召見奏,刺史東平王續杖之一百。後續天授中被誅,俊臣復告密,召見,奏言前所告密是豫、博州事,枉被續決杖,遂不得申。則天以為忠,累遷侍御史,加朝散大夫。按制獄,少不會意者,必引之,前後坐族千餘家。

二年、擢げて左台御史中丞に拝す。朝廷累息し、交言する者無く、道路目を以てす。侍御史侯思止・王弘義・郭霸・李仁敬、司刑評事康暐・衛遂忠等と、悪を同じくして相い済す。無頼数百人を招集し、その告事を令し、共に羅織を為し、千里響応す。一人を誣陷せんと欲すれば、即ち数処に別けて告げ、皆これ事状異ならず、以て上下を惑わす。仍って皆云く「来俊臣に付して推勘せしめよ、必ず実情を得ん」と。則天ここに於いて麗景門に別けて推事院を置き、俊臣推勘必ず獲たりとて、専ら俊臣等に按鞫せしむ。亦た新開門と号す。但だ新開門に入る者は、百も一を全うせず。弘義戯れて麗景門を「例竟門」と謂う。この門に入る者は、例皆竟うなりと言う。

原文二年,擢拜左臺御史中丞。朝廷累息,無交言者,道路以目。與侍御史侯思止、王弘義、郭霸、李仁敬,司刑評事康暐、衛遂忠等,同惡相濟。招集無賴數百人,令其告事,共為羅織,千里響應。欲誣陷一人,即數處別告,皆是事狀不異,以惑上下。仍皆云:「請付來俊臣推勘,必獲實情。」則天於是於麗景門別置推事院,俊臣推勘必獲,專令俊臣等按鞫,亦號為新開門。但入新開門者,百不全一。弘義戲謂麗景門為「例竟門」,言入此門者,例皆竟也。

俊臣はその党の朱南山輩と『告密羅織経』一卷を造る。皆条貫支節有り、事状の由緒を布置す。

原文俊臣與其黨硃南山輩造《告密羅織經》一卷,皆有條貫支節,布置事狀由緒。

俊臣は毎に囚を鞫するに、軽重を問わず、多く醋を以て鼻に灌ぎ、地牢の中に禁じ、或いはこれを甕の中に盛り、火を以て圜繞して炙り、並びにその糧餉を絶ち、衣絮を抽いてこれを啖わしむる者有るに至る。また糞穢に寝処せしめ、諸の苦毒を備う。自ら身死に非ざれば、終に出づることを得ず。毎に赦令有れば、俊臣必ず先ず獄卒を遣わして重囚を尽く殺し、然る後に宣示す。

原文俊臣每鞫囚,無問輕重,多以醋灌鼻,禁地牢中,或盛之甕中,以火圜繞炙之,並絕其糧餉,至有抽衣絮以啖之者。又令寢處糞穢,備諸苦毒。自非身死,終不得出。每有赦令,俊臣必先遣獄卒盡殺重囚,然後宣示。

また索元礼等と大枷を作る。凡そ十号有り。一に曰く定百脈、二に曰く喘不得、三に曰く突地吼、四に曰く著即承、五に曰く失魂膽、六に曰く実同反、七に曰く反是実、八に曰く死猪愁、九に曰く求即死、十に曰く求破家。復た鉄籠頭その枷に連なる者有り、地に輪転すれば、斯須にして悶絶す。囚人は貴賤無く、必ず先ず枷棒を地に布き、囚を召して前にして曰く「これ作具なり」と。これを見て魂膽飛越し、自ら誣らざる者無し。則天その賞を重くして以てこれに酬い、故に吏競いて酷を為すを勧む。これによりて告密の徒、紛然として道路に満つ。名流は僶俛して日を閲するのみ。朝士多くは入朝に因り、黙って掩襲せられ、以て族に至り、その家と復た音息無し。故に毎に入朝する者は、必ずその家と訣して曰く「重ねて相見えざるを知らずや」と。

原文又以索元禮等作大枷,凡有十號:一曰定百脈,二曰喘不得,三曰突地吼,四曰著即承,五曰失魂膽,六曰實同反,七曰反是實,八曰死豬愁,九曰求即死,十曰求破家。復有鐵籠頭連其枷者,輪轉於地,斯須悶絕矣。囚人無貴賤,必先布枷棒於地,召囚前曰:「此是作具。」見之魂膽飛越,無不自誣矣。則天重其賞以酬之,故吏競勸為酷矣。由是告密之徒,紛然道路;名流僶俛閱日而已。朝士多因入朝,默遭掩襲,以至於族,與其家無復音息。故每入朝者,必與其家訣曰:「不知重相見不?」

狄仁傑既已承認謀反,有司但待回報行刑,不復嚴加防備。仁傑得憑守者求取筆硯,拆被頭帛書寫之,敘述冤苦,置於綿衣中,遣人謂德壽曰:「時方炎熱,請付家人去其綿。」德壽不復疑矣,家人得衣中書信,仁傑子光遠持之稱有變故,得蒙召見。則天覽之愕然,召問俊臣曰:「卿言仁傑等承反,今子弟訟冤,何故也?」俊臣曰:「此等何能自伏其罪!臣寢處甚安,亦不去其巾帶。」則天令通事舍人周綝往視之。俊臣遽令獄卒令假仁傑等巾帶,行立於西,命綝視之。綝懼俊臣,莫敢西顧,但視東唯諾而已。俊臣令綝少留,附進狀,乃令判官妄為仁傑等作謝死表,代署而進之。鳳閣侍郎樂思晦男年八九歲,其家已族滅,宜隸於司農,上變告,得召見,言「俊臣苛毒,願陛下假條反狀以付之,無大小皆如狀矣。」則天意稍解,乃召見仁傑曰:「卿承反何也?」仁傑等曰:「不承反,臣已死於枷棒矣。」則天曰:「何謂作謝死表?」仁傑曰:「無。」因以表示之,乃知其代署,遂出此六家。

原文仁傑既承反,有司但待報行刑,不復嚴備。仁傑得憑守者求筆硯,拆被頭帛書之,敘冤苦,置於綿衣,遣謂德壽曰:「時方熱,請付家人去其綿。」德壽不復疑矣,家人得衣中書,仁傑子光遠持之稱變,得召見。則天覽之愕然,召問俊臣曰:「卿言仁傑等承反,今子弟訟冤,何故也?」俊臣曰:「此等何能自伏其罪!臣寢處甚安,亦不去其巾帶。」則天令通事舍人周綝視之。俊臣遽令獄卒令假仁傑等巾帶,行立於西,命綝視之。綝懼俊臣,莫敢西顧,但視東唯諾而已。俊臣令綝少留,附進狀,乃令判官妄為仁傑等作謝死表,代署而進之。鳳閣侍郎樂思晦男年八九歲,其家已族,宜隸於司農,上變,得召見,言「俊臣苛毒,願陛下假條反狀以付之,無大小皆如狀矣。」則天意少解,乃召見仁傑曰:「卿承反何也?」仁傑等曰:「不承反,臣已死於枷棒矣。」則天曰:「何謂作謝死表?」仁傑曰:「無。」因以表示之,乃知其代署,遂出此六家。

俊臣復按問大將軍張虔勖、大將軍內侍范雲仙於洛陽らくよう牧院。虔勖等不堪其苦,自訟於徐有功,言辭頗厲。俊臣命衛士以亂刀斬殺之。雲仙亦言歷事先朝,稱所司冤苦,俊臣命截去其舌。士庶破膽,無敢言者。

原文俊臣復按大將軍張虔勖、大將軍內侍范雲仙於洛陽牧院。虔勖等不堪其苦,自訟於徐有功,言辭頗厲。俊臣命衛士以亂刀斬殺之。雲仙亦言歷事先朝,稱所司冤苦,俊臣命截去其舌。士庶破膽,無敢言者。

俊臣累坐贓罪,為衛吏紀履忠所告下獄。長壽二年,除殿中丞。又坐贓,出為同州參軍。逼奪同列參軍妻,仍辱其母。

原文俊臣累坐贓,為衛吏紀履忠所告下獄。長壽二年,除殿中丞。又坐贓,出為同州參軍。逼奪同列參軍妻,仍辱其母。

俊臣先逼娶妻太原王慶詵女。俊臣與河東衛遂忠有舊。遂忠行雖不著,然好學,有詞辯。嘗攜酒謁俊臣,俊臣方與妻族宴集,應門者紿云:「已出矣。」遂忠知妄,入其宅,慢罵毀辱之。俊臣恥其妻族,命毆擊反接,既而免之,自此構隙。

原文俊臣先逼妻太原王慶詵女。俊臣與河東衛遂忠有舊。遂忠行雖不著,然好學,有詞辯。嘗攜酒謁俊臣,俊臣方與妻族宴集,應門者紿云:「已出矣。」遂忠知妄,入其宅,慢罵毀辱之。俊臣恥其妻族,命毆擊反接,既而免之,自此構隙。

俊臣將羅織告發武氏諸王及太平公主、張易之等,遂相掎摭,則天屢保持之。而諸武及太平公主恐懼,共發其罪。乃棄市。國人無少長皆怨之,競剮其肉,斯須盡矣。

原文俊臣將羅告武氏諸王及太平公主、張易之等,遂相掎摭,則天屢保持之。而諸武及太平公主恐懼,共發其罪。乃棄市。國人無少長皆怨之,競剮其肉,斯須盡矣。

中宗神龍元年三月八日,詔曰:

原文中宗神龍元年三月八日,詔曰:

國之大綱,惟刑與政。刑之不中,其政乃虧。劉光業、王德壽、王處貞、屈貞筠、鮑思恭、劉景陽等,庸流賤職,奸吏險夫,以粗暴為能官,以兇殘為奉法。往從按察,害虐在心,倏忽加刑,呼吸就戮,曝骨流血,其數甚多,冤濫之聲,盈於海內。朕唯布新澤,恩被人祇,撫事長懷,尤深惻隱。光業等五人積惡成釁,並謝生涯,雖其人已殂,而其跡可貶,所有官爵,並宜追奪。其枉被殺人,各令州縣以禮埋葬,還其官廕。劉景陽身今見在,情不可矜,特以會恩,免其嚴罰,宜從貶降,以雪冤情,可棣州樂單縣員外尉。自今內外法官,咸宜敬慎。其文深刺骨,跡徇凝脂,高下任情,輕重隨意,如酷吏丘神勣、來子珣、萬國俊、周興、來俊臣、魚承曄、王景昭、索元禮、傅遊藝、王弘義、張知默、裴籍、焦仁亶、侯思止、郭霸、李仁敬、皇甫文備、陳嘉言等,其身已死,自垂拱已來,枉濫殺人,有官者並令削奪。唐奉一依前配流,李秦授、曹仁哲,並與嶺南惡處。

原文國之大綱,惟刑與政。刑之不中,其政乃虧。劉光業、王德壽、王處貞、屈貞筠、鮑思恭、劉景陽等,庸流賤職,奸吏險夫,以粗暴為能官,以兇殘為奉法。往從按察,害虐在心,倏忽加刑,呼吸就戮,曝骨流血,其數甚多,冤濫之聲,盈於海內。朕唯布新澤,恩被人祇,撫事長懷,尤深惻隱。光業等五人積惡成釁,並謝生涯,雖其人已殂,而其跡可貶,所有官爵,並宜追奪。其枉被殺人,各令州縣以禮埋葬,還其官廕。劉景陽身今見在,情不可矜,特以會恩,免其嚴罰,宜從貶降,以雪冤情,可棣州樂單縣員外尉。自今內外法官,咸宜敬慎。其文深刺骨,跡徇凝脂,高下任情,輕重隨意,如酷吏丘神勣、來子珣、萬國俊、周興、來俊臣、魚承曄、王景昭、索元禮、傅遊藝、王弘義、張知默、裴籍、焦仁亶、侯思止、郭霸、李仁敬、皇甫文備、陳嘉言等,其身已死,自垂拱已來,枉濫殺人,有官者並令削奪。唐奉一依前配流,李秦授、曹仁哲,並與嶺南惡處。

開元十三年三月十二日,御史大夫程行諶奏:

原文開元十三年三月十二日,御史大夫程行諶奏:

周朝酷吏來子珣、萬國俊、王弘義、侯思止、郭霸、焦仁亶、張知默、李敬仁、唐奉一、來俊臣、周興、丘神勣、索元禮、曹仁哲、王景昭、裴籍、李秦授、劉光業、王德壽、屈貞筠、鮑思恭、劉景陽、王處貞二十三人,殘害宗枝,毒陷良善,情狀尤重,子孫不許與官。陳嘉言、魚承曄、皇甫文備、傅遊藝四人,情狀稍輕,子孫不許近任。

原文周朝酷吏來子珣、萬國俊、王弘義、侯思止、郭霸、焦仁亶、張知默、李敬仁、唐奉一、來俊臣、周興、丘神勣、索元禮、曹仁哲、王景昭、裴籍、李秦授、劉光業、王德壽、屈貞筠、鮑思恭、劉景陽、王處貞二十三人,殘害宗枝,毒陷良善,情狀尤重,子孫不許與官。陳嘉言、魚承曄、皇甫文備、傅遊藝四人,情狀稍輕,子孫不許近任。

周興

原文周興

周興者,雍州長安ちょうあん人也。少以明習法律,為尚書省都事。累遷司刑少卿、秋官侍郎。自垂拱已來,屢受制獄,被其陷害者數千人。天授元年九月革命,除尚書左丞,上疏除李家宗正屬籍。二年十一月,與丘神勣同下獄。當誅,則天特免之,徙於嶺表。在道為仇人所殺。

原文周興者,雍州長安人也。少以明習法律,為尚書省都事。累遷司刑少卿、秋官侍郎。自垂拱已來,屢受制獄,被其陷害者數千人。天授元年九月革命,除尚書左丞,上疏除李家宗正屬籍。二年十一月,與丘神勣同下獄。當誅,則天特免之,徙於嶺表。在道為仇人所殺。

傅遊藝

原文傅遊藝

傅遊藝,衛州汲人也。載初元年,為合宮主簿、左肅政臺御史,除左補闕。上書稱武氏符瑞,合革姓受命。則天甚悅,擢為給事中。數月,加同鳳閣鸞臺平章事。同月,又加朝散大夫,守鸞臺侍郎,依舊同平章事。其年九月革命,改天授元年,賜姓武氏。二年五月,加銀青光祿大夫。

原文傅遊藝,衛州汲人也。載初元年,為合宮主簿、左肅政臺御史,除左補闕。上書稱武氏符瑞,合革姓受命。則天甚悅,擢為給事中。數月,加同鳳閣鸞臺平章事。同月,又加朝散大夫,守鸞臺侍郎,依舊同平章事。其年九月革命,改天授元年,賜姓武氏。二年五月,加銀青光祿大夫。

兄神童,為冬官尚書,兄弟並承榮寵。逾月,除司禮少卿,停知政事。夢登湛露殿,旦而陳於所親,為其所發,伏誅。時人號為四時仕宦,言一年自青而綠,及於硃紫也。希則天旨,誣族皇枝。神龍初,禁錮其子孫。

原文兄神童,為冬官尚書,兄弟並承榮寵。逾月,除司禮少卿,停知政事。夢登湛露殿,旦而陳於所親,為其所發,伏誅。時人號為四時仕宦,言一年自青而綠,及於硃紫也。希則天旨,誣族皇枝。神龍初,禁錮其子孫。

初,遊藝請則天發六道使,雖身死之後,竟從其謀,於是萬國俊輩恣斬戮矣。

原文初,遊藝請則天發六道使,雖身死之後,竟從其謀,於是萬國俊輩恣斬戮矣。

丘神勣

原文丘神勣

丘神勣は、左衛大將軍丘行恭の子である。永淳元年、左金吾衛將軍となった。弘道元年、高宗が崩御すると、則天武后は彼を巴州に派遣して章懷太子を害させ、その後罪を神勣に帰して、疊州刺史に左遷した。まもなく再び召し出されて左金吾衛將軍となり、深く親任された。詔を受けて周興・来俊臣とともに詔獄を審理し、ともに酷吏と称された。垂拱四年、博州刺史・瑯邪王李沖が兵を起こすと、神勣を清平道大総管とした。まもなく李沖は百姓の孟青棒・呉希智に殺された。神勣が州に到着すると、官吏は喪服で出迎えたが、神勣は刃を振るって彼らを皆殺しにし、千余家を破壊した。これにより左金吾衛大將軍に加えられた。天授二年十月、詔獄に下されて誅殺された。

原文丘神勣,左衛大將軍行恭子也。永淳元年,為左金吾衛將軍。弘道元年,高宗崩,則天使於巴州害章懷太子,既而歸罪於神勣,左遷疊州刺史。尋復入為左金吾衛將軍,深見親委。受詔與周興、來俊臣鞫制獄,俱號為酷吏。垂拱四年,博州刺史、瑯邪王沖起兵,以神勣為清平道大總管。尋而沖為百姓孟青棒、吳希智所殺。神勣至州,官吏素服來迎,神勣揮刃盡殺之,破千餘家,因加左金吾衛大將軍。天授二年十月,下詔獄伏誅。

索元禮

原文索元禮

索元禮は、胡人である。光宅初年、徐敬業が揚州で兵を起こし、匡復を名目とした。則天武后は激怒し、また人心が動揺することを恐れ、威をもって天下を制しようとした。元禮はその意を探り、密告した。召見されて遊撃將軍に抜擢され、洛州牧院において詔獄を推按することを命じられた。元禮は性残忍で、一人を推問するに当たり、広く数十百人を引き合いに出すことを命じ、士大夫は震え恐れ、狼虎よりも甚だしかった。則天武后はしばしば召見して賞賜し、その権勢を張らせ、殺戮した者は数千人に及んだ。ここにおいて周興・来俊臣の徒は、これを模倣して現れた。時に諸州の密告者は、皆官用の車馬を給され、州県が護送して宮闕の下に至らせ、賓館において食糧を給した。少しでも意にかなえば、必ず爵賞を授けて誘い、遠近に威を示した。元禮はまもなく酷毒がますます甚だしくなったため、則天武后は人心を得るために彼を誅殺した。天下の人は彼らを来・索と呼び、酷毒の極みであり、また詔獄を最初に推按した者であると言った。

原文索元禮,胡人也。光宅初,徐敬業起兵揚州,以匡復為名。則天震怒,又恐人心動搖,欲以威制天下。元禮探其旨,告事。召見,擢為遊擊將軍,令於洛州牧院推案制獄。元禮性殘忍,推一人,廣令引數十百人,衣冠震懼,甚於狼虎。則天數召見賞賜,張其權勢,凡為殺戮者數千人。於是周興、來俊臣之徒,效之而起矣。時有諸州告密人,皆給公乘,州縣護送至闕下,於賓館以廩之。稍稱旨,必授以爵賞以誘之,貴以威於遠近。元禮尋以酷毒轉甚,則天收人望而殺之。天下之人謂之來、索,言酷毒之極,又首按制獄也。

近頃、小人が密告することが常習となり、内外の諸官庁は、皆苟も免れようとしている。御史台の吏を甘やかし、強暴な者に迎合するのは、故意にそうするのではなく、誣告による罪を避けようとするためである。また推劾する吏は、皆深刻であることを功とし、事実をでっち上げて能力を競い、虐げることを誇り合う。耳に泥を詰め、頭を籠で覆い、枷を研ぎ楔で締め、肋骨を折り爪に竹籤を刺し、髪を吊るし耳を燻し、隣に穢物や小便を置いて寝させ、まったく生きるに耐えず、これを「獄持」と号する。あるいは数日間食事を節制させ、連夜ゆっくりと問い、昼夜揺さぶって眠らせず、これを「宿囚」と号する。彼らは木石ではないので、目下を救うため、死を先延ばしにしようと苟も求める。臣は世間の議論をひそかに聞くが、皆天下は太平であると言い、どうして苦しんで謀反をしなければならないのかと言う。被告が皆英雄で、帝王を求めるというのだろうか。ただ苦痛に耐えられず自ら誣告に従うだけである。どうやってこれを確かめるか。陛下が告発状を取り上げてその虚実を斟酌し、推問を命じ、微かに訊問してその真情を探らせてみられよ。推問する者は必ず上下に手を回し、聖旨を希うであろう。願わくは陛下がこれを察せられんことを。今、満朝は息をひそめて不安であり、皆陛下が朝には彼らと親密にし、夕には彼らを仇敵とするので、保つことができないと思っている。追捕があると聞けば、妻子と即座に死の別れをする。故に国を治める者は仁を根本とし、刑罰を補助とする。周は仁を用いて栄え、秦は刑を用いて滅びた、これがその謂いである。願わくは陛下が刑罰を緩め仁を用いられんことを、天下幸甚である。

原文頃者小人告訐,習以為常,內外諸司,人懷茍免。姑息臺吏,承接強梁,非故欲,規避誣構耳。又推劾之吏,皆以深刻為功,鑿空爭能,相矜以虐。泥耳籠頭,枷研楔轂,折脅簽爪,懸髮薰耳,臥鄰穢溺,曾不聊生,號為「獄持」。或累日節食,連宵緩問,晝夜搖撼,使不得眠,號曰「宿囚」。此等既非木石,且救目前,茍求賒死。臣竊聽輿議,皆稱天下太平,何苦須反。豈被告者盡是英雄,以求帝王耶?只是不勝楚毒自誣耳。何以核之?陛下試取所告狀酌其虛實者,付令推,微訊動以探其情,所推者必上下其手,希聖旨也。願陛下察之。今滿朝側息不安,皆以為陛下朝與之密,夕與之仇,不可保也。聞有追攝,與妻子即為死訣。故為國者以仁為宗,以刑為助。周用仁而昌,秦用刑而亡,此之謂也。願陛下緩刑用仁,天下幸甚!

則天武后はこれに従い、これにより詔獄はやや鎮静した。

原文則天從之,由是制獄稍息。

侯思止

原文侯思止

侯思止は、雍州醴泉県の人である。貧窮して生業を営むことができず、渤海の高元禮の家に給仕して働いた。性は無頼で詭譎であった。時に恒州刺史裴貞が一判司を杖罰した。則天武后が王室に不利なことを行おうとしていたので、誣告による謀反の徒はすでに現れていた。判司が思止に教え、遊撃將軍高元禮に説かせ、そこで訴状を請うて舒王李元名および裴貞の謀反を告げさせた。周興がこれを推問し、ともに族滅した。思止を遊撃將軍に授けた。元禮は恐れてへつらい、彼を引き同座させ、侯大と呼び、「国家は順序を問わず人を用いる。もし侯大は字が読めないと言われたら、即座に『獬豸という獣も字は読めないが、邪悪な者を突くことができる』と奏上せよ」と言った。則天武后が果たしてそのように言うと、思止は獬豸でこれに答え、則天武后は大いに喜んだ。天授三年、朝散大夫・左臺侍御史に任じた。元禮がまた教えて言うには、「上は侯大に宅がないことをご存知である。もし諸役所の官宅を借りるように言われたら、辞退して受けずに謝せよ。上は必ずその理由を問うであろうから、即座に『諸々の謀反人どもの、臣はその名を憎み、その宅に座ることを願わない』と奏上せよ」。則天武后はまた大いに喜び、恩沢は非常に厚かった。

原文侯思止,雍州醴泉人也。貧窮不能理生業,乃樂事渤海高元禮家。性無賴詭譎。時恆州刺史裴貞杖一判司。則天將不利王室,羅反之徒已興矣。判司教思止說遊擊將軍高元禮,因請狀乃告舒王元名及裴貞反。周興按之,並族滅。授思止遊擊將軍。元禮懼而曲媚,引與同坐,呼為侯大,曰:「國家用人以不次,若言侯大不識字,即奏云:『獬豸獸亦不識字,而能觸邪。』」則天果如其言,思止以獬豸對之,則天大悅。天授三年,乃拜朝散大夫、左臺侍御史。元禮復教曰:「在上知侯大無宅,倘以諸役官宅見借,可辭謝而不受。在上必問所由,即奏云:『諸反逆人,臣惡其名,不願坐其宅。』」則天復大悅,恩澤甚優。

思止は詔獄を推按するようになると、苛酷さが日増しに甚だしくなった。かつて中丞魏元忠を推問し、「早く白司馬と認めよ。さもなければ、孟青を食らうぞ」と言った。白司馬とは、洛陽に白司馬阪という坂がある。孟青とは、孟青棒という名の將軍で、すなわち瑯邪王李沖を殺した者である。思止は巷の卑しい奴隷であり、常にこの言葉で囚人たちを脅した。

原文思止既按制獄,苛酷日甚。嘗按中丞魏元忠,曰:「急認白司馬,不然,即吃孟青。」白司馬者,洛陽有阪號白司馬阪。孟青者,將軍姓孟名青棒,即殺瑯邪王沖者也。思止閭巷庸奴,常以此謂諸囚也。

元忠は言葉と態度で屈せず、思止は怒って元忠を逆さに引きずった。元忠はゆっくりと起き上がって言った。「私は薄命で、悪い驢馬に乗って落ち、足が鐙に引っかかって引きずられるようなものだ」。思止は大いに怒り、また彼を引きずって言った。「お前は詔使に抵抗した。奏上して斬らせよう」。元忠は言った。「侯思止よ、汝は今国家の御史である。礼儀の軽重を識るべきである。もし必ず魏元忠の首が必要なら、どうして鋸で切り取らないのか。私を抑えて謀反を認めさせることはない。どうして汝は朱紫の官服を着け、親しく天命を奉じながら、正直なことを行わず、白司馬や孟青などと言うのか。これは何たる言葉か。魏元忠でなければ、誰も抑えて教える者はいない」。思止は驚いて立ち上がり恐れ慄き、「思止は死罪です。幸いにも中丞に教えていただきました」と言った。床に上げて座らせて問うた。元忠はゆっくりと座り、泰然自若とし、思止の言葉は終始正しくなかった。時に人はこれを真似て、談笑の種とした。侍御史霍献可がこれを笑うと、思止はこれを聞き届けた。則天武后は怒り、献可に「私はすでに彼を用いている。卿はどうして笑うのか」と言った。献可は詳しくその言葉を奏上すると、則天武后も大笑いした。

原文元忠辭氣不屈,思止怒而倒曳元忠。元忠徐起曰:「我薄命,如乘惡驢墜,腳為鐙所掛,被拖曳。」思止大怒,又曳之曰:「汝拒捍制使,奏斬之。」元忠曰:「侯思止,汝今為國家御史,須識禮數輕重。如必須魏元忠頭,何不以鋸截將,無為抑我承反。奈何爾佩服硃紫,親銜天命,不行正直之事,乃言白司馬、孟青,是何言也!非魏元忠,無人抑教。」思止驚起悚怍,曰:「思止死罪,幸蒙中丞教。」引上床坐而問之。元忠徐就坐自若,思止言竟不正。時人效之,以為談謔之資。侍御史霍獻可笑之,思止以聞。則天怒,謂獻可曰:「我已用之,卿笑何也?」獻可具以其言奏,則天亦大笑。

時に来俊臣が故妻を棄て、太原の王慶詵の娘を強娶しようとした。思止もまた趙郡の李自挹の娘を娶ることを奏請した。勅により政事堂で相談した。鳳閣侍郎李昭德は手を打って諸宰相に言った。「実に笑うべきことだ」。諸宰相が理由を問うと、昭德は言った。「往年、来俊臣が賊のごとく王慶詵の娘を奪ったのは、すでに国を大いに辱めた。今日この奴がまた李自挹の娘を求め請うとは、再び国を辱めることにならないか」。ついに李昭德に杖打ちで殺された。

原文時來俊臣棄故妻,逼娶太原王慶詵女,思止亦奏請娶趙郡李自挹女,敕政事商量。鳳閣侍郎李昭德撫掌謂諸宰相曰:「大可笑。」諸宰相問故,昭德曰:「往年來俊臣賊劫王慶詵女,已大辱國。今日此奴又請索李自挹女,無乃復辱國乎!」竟為李昭德搒殺之。

萬國俊

原文萬國俊

萬國俊は、洛陽の人である。若い頃から譎詐で険悪であった。垂拱年間以後、来俊臣とともに『羅織経』を作り、宗族や朝貴を屠り覆して、威勢を振るった。司刑評事から、俊臣が同じく引き立てて判官とした。

原文萬國俊,洛陽人。少譎異險詐。垂拱後,與來俊臣同為《羅織經》,屠覆宗枝朝貴,以作威勢。自司刑評事,俊臣同引為判官。

來子珣

原文來子珣

來子珣は、雍州長安県の人である。永昌元年四月、上書して事を陳べたことにより、左臺監察御史に任じられた。時に朝士で靴を履かずに朝参する者がいた。子珣はこれを弾劾して言った。「臣は聞く、帯を束ねて朝廷に立つと」。満朝大いに笑った。則天武后は彼に詔獄の推按を委ね、多くは意を迎え、武氏の姓を賜り、字を家臣とした。天授年間、父の喪に服したが、喪中に起復して朝散大夫・侍御史となった。時に雅州刺史劉行実および弟の渠州刺史劉行瑜・尚衣奉御劉行威、並びに兄の子の鷹揚郎將劉虔通らが、子珣に誣告されて謀反を企てたとして誅殺され、また盱眙において彼らの父の左監門大將軍劉伯英の棺を毀った。まもなくまた遊撃將軍・右羽林中郎將に転じた。常に錦の半臂を着け、言笑自若としており、朝士はこれを嘲った。長寿元年、愛州に配流されてそこで死去した。

原文來子珣,雍州長安人。永昌元年四月,以上書陳事,除左臺監察御史。時朝士有不帶靴而朝者,子珣彈之曰:「臣聞束帶立於朝。」舉朝大噱。則天委之按制獄,多希旨,賜姓姓武氏,字家臣。天授中,丁父憂,起復朝散大夫、侍御史。時雅州剌史劉行實及弟渠州刺史行瑜、尚衣奉御行威並兄子鷹揚郎將軍虔通等,為子珣誣告謀反誅,又於盱眙毀其父左監門大將軍伯英棺柩。俄又轉為遊擊將軍、右羽林中郎將。常衣錦半臂,言笑自若,朝士誚之。長壽元年,配流愛州卒。

王弘義

原文王弘義

王弘義は冀州衡水の人である。変事を告発し、遊撃将軍を授けられた。天授年間、右台殿中侍御史に任ぜられる。長寿年間、左台侍御史に任ぜられ、来俊臣とともに士大夫を誣告した。延載元年、俊臣が貶謫されると、弘義も瓊州に流罪となったが、偽って勅命で召還されたと称した。時に胡元礼が侍御史として嶺南道に使いし、襄州・鄧州に滞在していたところ、遭遇してこれを取り調べた。弘義は言葉に窮し、乃ち言うには「公と気類同じくす」と。元礼曰く「足下は御史を任ぜられ、元礼は洛陽尉を任ぜられた。元礼は今御史たり、公は流囚たり、また何の気類ぞ」と。乃ち杖殺した。

原文王弘義,冀州衡水人也。告變,授遊擊將軍。天授中,拜右臺殿中侍御史。長壽中,拜左臺侍御史,與來俊臣羅告衣冠。延載元年,俊臣貶,弘義亦流放瓊州,妄稱敕追。時胡元禮為侍御史,使嶺南道,次於襄、鄧,會而按之。弘義詞窮,乃謂曰:「與公氣類。」元禮曰:「足下任御史,元禮任洛陽尉。元禮今為御史,公乃流囚,復何氣類?」乃搒殺之。

弘義は毎夏の月に囚人を拘禁するとき、必ず小房の中に蒿を積み氈褥を敷き、これに遭う者はたちまち息絶えた。もし自ら誣告に従えば、他の房に移された。俊臣と常に移牒を行い、州県は恐れ慄き、自ら誇って言うには「我が文牒は、狼毒や野葛の如し」と。弘義は常に郷里の隣家で瓜を求めたが、主人が惜しんだので、弘義は乃ち状を言上して瓜園の中に白兎がいるとし、県官が人を命じて捕逐させたところ、たちまち園の苗は尽きた。内史李昭徳曰く「昔は蒼鷹獄吏を聞き、今は白兎御史を見る」と。

原文弘義每暑月系囚,必於小房中積蒿而施氈褥,遭之者斯須氣絕矣。茍自誣引,則易於他房。與俊臣常行移牒,州縣懾懼,自矜曰:「我之文牒,有如狼毒野葛也。」弘義常於鄉里傍舍求瓜,主吝之,弘義乃狀言瓜園中有白兔,縣官命人捕逐,斯須園苗盡矣。內史李昭德曰:「昔聞蒼鷹獄吏,今見白免御史。」

郭霸

原文郭霸

郭霸は廬江の人である。天授二年、宋州寧陵丞より革命挙に応じ、左台監察御史に任ぜられる。如意元年、左台殿中侍御史に除される。長寿二年、右台侍御史となる。初めて挙げられて集められ、召し見え、則天の前で自ら忠鯁を陳べて云うには「往年徐敬業を征するに、臣はその筋を抽き、その肉を食らい、その血を飲み、その髄を絶たんことを願う」と。則天は悦び、故に任じた。時に人は「四其御史」と号した。

原文郭霸,廬江人也。天授二年,自宋州寧陵丞應革命舉,拜左臺監察御史。如意元年,除左臺殿中侍御史。長壽二年,右臺侍御史。初舉集,召見,於則天前自陳忠鯁云:「往年征徐敬業,臣願抽其筋,食其肉,飲其血,絕其髓。」則天悅,故拜焉,時人號為「四其御史」。

時に大夫魏元忠が臥疾し、諸御史は皆見舞いに行ったが、霸のみ後れを取った。元忠に会うや、憂懼し、元忠の便液を示すことを請い、以て病の軽重を験そうとした。元忠は驚悚し、霸は悦んで曰く「大夫の糞味は甘く、或いは癒えざるか。今味は苦し、即ち愈ゆべし」と。元忠は剛直で、殊にこれを憎み、その事を朝士に露わした。嘗て芳州刺史李思徴を推問し、搒捶考禁して、耐えられずに死んだ。聖暦年間、屡々思徴を見、甚だこれを憎んだ。嘗て退朝して急ぎ帰り、家人に命じて曰く「速やかに僧を請じて経を転じ斎を設けよ」と。須臾にして思徴が数十騎を従えてその庭に上るのを見、曰く「汝は枉しく我を陥れた、我今汝を取る」と。霸は周章惶怖し、刀を援って自らその腹を刳り、たちまち蛆が爛じた。この日、閭里もまた兵馬数十騎が門に駐まるのを見たが、少頃にして見えなくなった。時に洛陽橋が壊れ、行李がこれに困っていたが、この時に至って工事が完了した。則天が嘗て群臣に問うて曰く「比在外に何か好事あるか」と。舎人張元一は素より滑稽で、対えて曰く「百姓は洛橋の成るを喜び、郭霸の死を幸いす、これ即ち好事なり」と。

原文時大夫魏元忠臥疾,諸御史盡往省之,霸獨居後。比見元忠,憂懼,請示元忠便液,以驗疾之輕重。元忠驚悚,霸悅曰:「大夫糞味甘,或不瘳。今味苦,當即愈矣。」元忠剛直,殊惡之,以其事露朝士。嘗推芳州刺史李思徵,搒捶考禁,不勝而死。聖歷中,屢見思徵,甚惡之。嘗因退朝遽歸,命家人曰:「速請僧轉經設齋。」須臾見思徵從數十騎上其廷,曰:「汝枉陷我,我今取汝。」霸周章惶怖,援刀自刳其腹,斯須蛆爛矣。是日,閭里亦見兵馬數十騎駐於門,少頃不復見矣。時洛陽橋壞,行李弊之,至是功畢。則天嘗問群臣:「比在外有何好事?」舍人張元一素滑稽,對曰:「百姓喜洛橋成,幸郭霸死,此即好事。」

吉頊

原文吉頊

吉頊は洛州河南の人である。身長七尺、陰毒で敢えて事を言う。進士に挙げられ、累転して明堂尉となる。万歳通天二年、箕州刺史劉思礼あり、自ら張憬蔵に学び、相を善くすると云い、洛州録事参軍綦連耀が図讖に応じ、「両角騏麟児」の符命があると云った。頊がこれを告げると、則天は武懿宗に付して頊と対訊させた。懿宗と頊は思礼を誘い、広く朝士を引き合わすようにさせ、必ずその命を全うさせようとした。思礼は乃ち鳳閣侍郎李元素・夏官侍郎孫元通・天官侍郎劉奇・石抱忠・鳳閣舎人王処・来庭・主簿柳璆・給事中周潘・涇州刺史王勔・監察御史王助・司議郎路敬淳・司門員外郎劉慎之・右司員外郎宇文全志ら三十六家を引き合わし、微かに意に忤う者があれば必ずこれを構え、楚毒百端にして以てその獄を成した。皆海内の賢士名家で、天下これを冤しみ、親故連累して竄逐された者は千余人に及んだ。頊はこれにより右粛政台中丞に擢拜され、日に恩遇を見た。

原文吉頊,洛州河南人也。身長七尺,陰毒敢言事。進士舉,累轉明堂尉。萬歲通天二年,有箕州刺史劉思禮,自云學於張憬藏,善相,云洛州錄事參軍綦連耀應圖讖,有「兩角騏麟兒」之符命。頊告之,則天付武懿宗與頊對訊。懿宗與頊誘思禮,令廣引朝士,必全其命。思禮乃引鳳閣侍郎李元素、夏官侍郎孫元通、天官侍郎劉奇、石抱忠、鳳閣舍人王處、來庭、主簿柳璆、給事中周潘、涇州刺史王勔、監察御史王助、司議郎路敬淳、司門員外郎劉慎之、右司員外郎宇文全志等三十六家,微有忤意者,必構之,楚毒百端,以成其獄。皆海內賢士名家,天下冤之,親故連累竄逐者千餘人。頊由是擢拜右肅政臺中丞,日見恩遇。

明年、突厥が趙州・定州などを寇陥した。則天は頊を召して相州刺史を検校させ、以て賊の南侵の路を断たせようとした。頊は素より武を習わないことを以て辞したが、則天曰く「賊勢は将に退かんとす、卿の威名を藉りて鎮遏するのみ」と。

原文明年,突厥寇陷趙、定等州。則天召頊檢校相州刺史,以斷賊南侵之路。頊以素不習武為辭,則天曰:「賊勢將退,藉卿威名鎮遏耳。」

初め、太原に術士温彬茂あり、高宗の時に老い、臨死に一つの状を封じてその妻に謂うには「我が死後、年号が垂拱となれば、即ち闕に詣でてこれを献げよ、慎んで開くなかれ」と。垂拱初め、その妻がこれを献げた。状の中には則天の革命及び突厥が趙・定に至ることを予め陳べてあったので、則天は賊が趙州に至って退くことを知ったのである。頊は初め州に至って人を募ったが、少しも応ずる者なし。俄かに詔して皇太子を元帥とすと、応募する者は勝えず数えきれなかった。賊が退くと、頊は入朝してこれを奏し、則天は甚だ悦んだ。

原文初,太原有術士溫彬茂,高宗時老,臨死,封一狀謂其妻曰:「吾死後,年名垂拱,即詣闕獻之,慎勿開也。」垂拱初,其妻獻之。狀中預陳則天革命及突厥至趙、定之事,故則天知賊至趙州而退。頊初至州募人,略無應者。俄而詔以皇太子為元帥,應募者不可勝數。及賊退,頊入朝奏之,則天甚悅。

初め、則天は頊が幹弁で口才あり、儀質が偉く、心腹に委ねるに堪えるとし、故に擢任した。武懿宗と殿中で趙州の功を争うに及び、懿宗は短小で俯僂し、頊は声気凌厲で、下って懿宗を見、嘗て仮借しなかった。則天は以て「我が前にて我が諸武を卑しむ、これ倚るべけんや」と思った。その年十月、弟が偽官を作ったことで、琰川尉に貶され、後に安固尉に改められた。尋いで卒した。

原文初,則天以頊幹辯有口才,偉儀質,堪委以心腹,故擢任之。及與武懿宗爭趙州功於殿中,懿宗短小俯僂,頊聲氣淩厲,下視懿宗,嘗不相假。則天以為:「卑我諸武於我前,其可倚與!」其年十月,以弟作偽官,貶琰川尉,後改安固尉。尋卒。

初め、中宗が未だ皇太子に立てられざりし時、易之・昌宗が嘗て密かに頊に自安の策を問うた。頊云く「公兄弟は恩を受くること既に深し、天下に大功なければ、則ち全からず。今天下の士庶、咸に李家を思い、廬陵王は既に房州にあり、相王はまた幽閉に在り、主上は春秋既に高し、須らく付托有るべし。武氏の諸王は、殊に属意に非ず。明公若し能く従容として廬陵及び相王の建立を請うて、以て生人の望みに副わば、豈に禍を転じて福と為すのみならん、必ず長く茅土の重きを享けん」と。易之はその言を然りとし、遂に間を承けて奏請した。則天は頊が首謀であることを知り、召して問うた。頊曰く「廬陵王及び相王は、皆陛下の子、先帝は陛下に顧托せり、当に主意有るべく、唯だ陛下の裁きに在り」と。則天の意は乃ち定まった。頊が既に罪を得た時、知る者無し。睿宗が即位し、左右がその事を発明したので、乃ち制を下して曰く「故吏部侍郎・同中書門下平章事吉頊は、体識宏遠、風規久大なり。嘗て経緯の才を以て、允に匡佐の委に膺る。時に王命中否し、人謀未だ輯まず、首めて返政の議を陳べ、克く祈天の基に副う。永く遺烈を懐い、寧く厥の効を忘れんや。左御史台大夫を贈るべし」と。

原文初,中宗未立為皇太子時,易之、昌宗嘗密問頊自安之策。頊云:「公兄弟承恩既深,非有大功於天下,則不全矣。今天下士庶,咸思李家,廬陵既在房州,相王又在幽閉,主上春秋既高,須有付托。武氏諸王,殊非屬意。明公若能從容請建立廬陵及相王,以副生人之望,豈止轉禍為福,必長享茅土之重矣!」易之然其言,遂承間奏請。則天知頊首謀,召而問之。頊曰:「廬陵王及相王,皆陛下之子,先帝顧托於陛下,當有主意,唯陛下裁之。」則天意乃定。頊既得罪,時無知者。睿宗即位,左右發明其事,乃下制曰:「故吏部侍郎、同中書門下平章事吉頊,體識宏遠,風規久大。嘗以經緯之才,允膺匡佐之委。時王命中否,人謀未輯,首陳返政之議,克副祈天之基。永懷遺烈,寧忘厥效。可贈左御史臺大夫。」