旧唐書 【序】

旧唐書

【序】

古より今に至るまで天下を治むる者は、その政に四つあり。五帝は仁を尚び、文徳を体するなり。三王は義を仗り、武功を立てるなり。五覇は信を崇め、威令を取るなり。七雄は力を任じ、刑名を重んずるなり。およそ仁義既に廃れて、然る後に威刑を以てこれを斉うす。威刑既に衰えて、酷吏用いられ、ここに商鞅・李斯の譎詐設けらる。法を持ち術を任じ、君を尊び臣を卑しめ、その策を奮って宇宙を鞭撻し、危きを持ち弊を救うは、先王やむを得ずしてこれを用うるなり。天下の人これを苛法と謂う。降りて両漢に及び、その余烈を承く。ここに前に郅都・張湯の徒ありてその刻を持ち、後に董宣・陽球の属ありてその猛を肆うす。然れども代は異なれども、亦よく公方たり。天下の人これを酷吏と謂う。これまた鞅・斯の罪人なり。然れども網既に密にして奸勝えざるなり。夫子曰く「刑罰中らざれば、則ち人手足を措く所なし」と。誠なるかな、この言や。

唐の初め、前古の弊を革め、残を勝つに務め、衣を垂れて治め、且つ七十載、而して人敢えて欺かず。これよりこれを観るに、彼に在りて此に在らず。則天に逮りて女主を以て朝に臨み、大臣未だ附かず。政を獄吏に委ね、宗枝を剪除す。ここに来俊臣・索元礼・万国俊・周興・丘神勣・侯思止・郭霸・王弘義の属、紛紛として出づ。然る後に告密の刑を起こし、羅織の獄を制し、生人は屏息し、自ら固むる能わず。忠を懐き義に蹈むこと、頸を連ねて戮に就く者に至りては、言うに勝えず。武后これに因りて坐に唐鼎を移し、天網一たび挙げて、卒に八荒を籠す。酷の用いらるるや、斯に害するのみ。遂に酷吏の党をして、横に朝に噬わしめ、公卿の死命を制し、王者の威力を擅にせしむ。貴きはその欲に従い、毒はその心を侈り、天誅は脣吻より発し、国柄は掌握に秉る。兇慝の士、栄えてこれを慕い、身鼎鑊に赴き、死して悔いなし。かくの如き者は、何ぞや。時に要し旨を希い、利を見て義を忘るるなり。

試みにこれを論ず。今夫れ国家斧鉞の誅を行い、狴牢の禁を設けて盗を防ぐは、固しと云うと雖も、猶お垣を逾え冢を掘り、篋を掲げ囊を探り、死者は前にあり、盗者は後にある。何ぞや。その間に欲あるを以てなり。然れども徇う所は数金の資に過ぎざるなり。彼の酷吏は時に上下し、重きを取って人主に取り、怵惕の憂い無く、坐して尊寵を致す。杖は卒伍より起こり、富は封君に擬す。豈に唯だ数金の利のみならんや。則ち官を盗む者は幸いと為すなり。故に国ある者は則ち必ず凱覦の路を窒ぎ、僥幸の門を杜わざるべからず。務めざるべけんや。況んや時に観て変を楽み、恣に陰賊を懐くは、斯また郅都・董宣の罪人なり。異なるかな、また斯に効うする者有り。中興四十載にして吉温・羅希奭の政を蠹する有り、また数載にして敬羽・毛若虚の法を危うくする有り。朝四葉を経て、獄訟再び起こり、比周の悪党、善人を剿絶す。屡々措かんとする刑を撓し、以て太和の気を傷つけ、災を幸い禍を楽み、苟くもその身を售す。これまた来・索の罪人なり。

嗚呼、天道は淫に禍し、人道は殺を悪む。既に禍の始めと為り、必ず兇を以て終わる。故に鞅・斯より毛・敬に至るまで、その跡に蹈む者は、卒に誅夷を以てす。不幸に非ざるなり。

嗚呼、愚を執り害を賈い、天下の怨を任じ、道に反し名を辱しめ、天下の悪を帰す。或いは諸を原野に肆し、人これを誅うるを得、或いはこれを魑魅に投じ、鬼これを誅うるを得。天人報応、豈に虚ならんや。千載の後をして、その名を聞く者に、曾て蛇豕の若かざらしむ。

悲しいかな、昔『春秋』の義は、善悪隠さず。今『酷吏伝』を為すも、亦もって懲勧を示す所以なり。語に曰く「前事忘れざれば、将来の師なり」と。意は斯に在るか。意は斯に在るか。

来俊臣

来俊臣は、雍州万年県の人なり。父の操は、博徒なり。郷人の蔡本と友を結び、遂にその妻を通ず。樗蒲に因りて本の銭数十万を贏ち、本酬うる所無く、操遂に本の妻を納る。操の門に入る時、先ず既に娠ありて、俊臣を生む。兇険にして生産に事えず、反覆残害、挙げて比ぶる者無し。曾て和州に於いて奸盗を犯し鞫せられ、遂に妄りに密を告ぐ。召見して奏す。刺史東平王続、これを杖つこと一百。後、続は天授中に誅せらる。俊臣復た密を告ぐ。召見せられ、奏して言う、前に告げし密は豫・博州の事にて、枉わって続に決杖せられ、遂に申すを得ずと。則天忠と為し、累遷して侍御史と為り、朝散大夫を加う。制獄を按ずるに、少しく意に会わざる者あれば、必ずこれを引き、前後坐して族すること千余家。

二年、擢げて左台御史中丞に拝す。朝廷累息し、交言する者無く、道路目を以てす。侍御史侯思止・王弘義・郭霸・李仁敬、司刑評事康暐・衛遂忠等と、悪を同じくして相い済す。無頼数百人を招集し、その告事を令し、共に羅織を為し、千里響応す。一人を誣陷せんと欲すれば、即ち数処に別けて告げ、皆これ事状異ならず、以て上下を惑わす。仍って皆云く「来俊臣に付して推勘せしめよ、必ず実情を得ん」と。則天ここに於いて麗景門に別けて推事院を置き、俊臣推勘必ず獲たりとて、専ら俊臣等に按鞫せしむ。亦た新開門と号す。但だ新開門に入る者は、百も一を全うせず。弘義戯れて麗景門を「例竟門」と謂う。この門に入る者は、例皆竟うなりと言う。

俊臣はその党の朱南山輩と『告密羅織経』一卷を造る。皆条貫支節有り、事状の由緒を布置す。

俊臣は毎に囚を鞫するに、軽重を問わず、多く醋を以て鼻に灌ぎ、地牢の中に禁じ、或いはこれを甕の中に盛り、火を以て圜繞して炙り、並びにその糧餉を絶ち、衣絮を抽いてこれを啖わしむる者有るに至る。また糞穢に寝処せしめ、諸の苦毒を備う。自ら身死に非ざれば、終に出づることを得ず。毎に赦令有れば、俊臣必ず先ず獄卒を遣わして重囚を尽く殺し、然る後に宣示す。

また索元礼等と大枷を作る。凡そ十号有り。一に曰く定百脈、二に曰く喘不得、三に曰く突地吼、四に曰く著即承、五に曰く失魂膽、六に曰く実同反、七に曰く反是実、八に曰く死猪愁、九に曰く求即死、十に曰く求破家。復た鉄籠頭その枷に連なる者有り、地に輪転すれば、斯須にして悶絶す。囚人は貴賤無く、必ず先ず枷棒を地に布き、囚を召して前にして曰く「これ作具なり」と。これを見て魂膽飛越し、自ら誣らざる者無し。則天その賞を重くして以てこれに酬い、故に吏競いて酷を為すを勧む。これによりて告密の徒、紛然として道路に満つ。名流は僶俛して日を閲するのみ。朝士多くは入朝に因り、黙って掩襲せられ、以て族に至り、その家と復た音息無し。故に毎に入朝する者は、必ずその家と訣して曰く「重ねて相見えざるを知らずや」と。

狄仁傑既已承認謀反,有司但待回報行刑,不復嚴加防備。仁傑得憑守者求取筆硯,拆被頭帛書寫之,敘述冤苦,置於綿衣中,遣人謂德壽曰:「時方炎熱,請付家人去其綿。」德壽不復疑矣,家人得衣中書信,仁傑子光遠持之稱有變故,得蒙召見。則天覽之愕然,召問俊臣曰:「卿言仁傑等承反,今子弟訟冤,何故也?」俊臣曰:「此等何能自伏其罪!臣寢處甚安,亦不去其巾帶。」則天令通事舍人周綝往視之。俊臣遽令獄卒令假仁傑等巾帶,行立於西,命綝視之。綝懼俊臣,莫敢西顧,但視東唯諾而已。俊臣令綝少留,附進狀,乃令判官妄為仁傑等作謝死表,代署而進之。鳳閣侍郎樂思晦男年八九歲,其家已族滅,宜隸於司農,上變告,得召見,言「俊臣苛毒,願陛下假條反狀以付之,無大小皆如狀矣。」則天意稍解,乃召見仁傑曰:「卿承反何也?」仁傑等曰:「不承反,臣已死於枷棒矣。」則天曰:「何謂作謝死表?」仁傑曰:「無。」因以表示之,乃知其代署,遂出此六家。

俊臣復按問大將軍張虔勖、大將軍內侍范雲仙於洛陽牧院。虔勖等不堪其苦,自訟於徐有功,言辭頗厲。俊臣命衛士以亂刀斬殺之。雲仙亦言歷事先朝,稱所司冤苦,俊臣命截去其舌。士庶破膽,無敢言者。

俊臣累坐贓罪,為衛吏紀履忠所告下獄。長壽二年,除殿中丞。又坐贓,出為同州參軍。逼奪同列參軍妻,仍辱其母。

俊臣先逼娶妻太原王慶詵女。俊臣與河東衛遂忠有舊。遂忠行雖不著,然好學,有詞辯。嘗攜酒謁俊臣,俊臣方與妻族宴集,應門者紿云:「已出矣。」遂忠知妄,入其宅,慢罵毀辱之。俊臣恥其妻族,命毆擊反接,既而免之,自此構隙。

俊臣將羅織告發武氏諸王及太平公主、張易之等,遂相掎摭,則天屢保持之。而諸武及太平公主恐懼,共發其罪。乃棄市。國人無少長皆怨之,競剮其肉,斯須盡矣。

中宗神龍元年三月八日,詔曰:

國之大綱,惟刑與政。刑之不中,其政乃虧。劉光業、王德壽、王處貞、屈貞筠、鮑思恭、劉景陽等,庸流賤職,奸吏險夫,以粗暴為能官,以兇殘為奉法。往從按察,害虐在心,倏忽加刑,呼吸就戮,曝骨流血,其數甚多,冤濫之聲,盈於海內。朕唯布新澤,恩被人祇,撫事長懷,尤深惻隱。光業等五人積惡成釁,並謝生涯,雖其人已殂,而其跡可貶,所有官爵,並宜追奪。其枉被殺人,各令州縣以禮埋葬,還其官廕。劉景陽身今見在,情不可矜,特以會恩,免其嚴罰,宜從貶降,以雪冤情,可棣州樂單縣員外尉。自今內外法官,咸宜敬慎。其文深刺骨,跡徇凝脂,高下任情,輕重隨意,如酷吏丘神勣、來子珣、萬國俊、周興、來俊臣、魚承曄、王景昭、索元禮、傅遊藝、王弘義、張知默、裴籍、焦仁亶、侯思止、郭霸、李仁敬、皇甫文備、陳嘉言等,其身已死,自垂拱已來,枉濫殺人,有官者並令削奪。唐奉一依前配流,李秦授、曹仁哲,並與嶺南惡處。

開元十三年三月十二日,御史大夫程行諶奏:

周朝酷吏來子珣、萬國俊、王弘義、侯思止、郭霸、焦仁亶、張知默、李敬仁、唐奉一、來俊臣、周興、丘神勣、索元禮、曹仁哲、王景昭、裴籍、李秦授、劉光業、王德壽、屈貞筠、鮑思恭、劉景陽、王處貞二十三人,殘害宗枝,毒陷良善,情狀尤重,子孫不許與官。陳嘉言、魚承曄、皇甫文備、傅遊藝四人,情狀稍輕,子孫不許近任。

周興

周興者,雍州長安人也。少以明習法律,為尚書省都事。累遷司刑少卿、秋官侍郎。自垂拱已來,屢受制獄,被其陷害者數千人。天授元年九月革命,除尚書左丞,上疏除李家宗正屬籍。二年十一月,與丘神勣同下獄。當誅,則天特免之,徙於嶺表。在道為仇人所殺。

傅遊藝

傅遊藝,衛州汲人也。載初元年,為合宮主簿、左肅政臺御史,除左補闕。上書稱武氏符瑞,合革姓受命。則天甚悅,擢為給事中。數月,加同鳳閣鸞臺平章事。同月,又加朝散大夫,守鸞臺侍郎,依舊同平章事。其年九月革命,改天授元年,賜姓武氏。二年五月,加銀青光祿大夫。

兄神童,為冬官尚書,兄弟並承榮寵。逾月,除司禮少卿,停知政事。夢登湛露殿,旦而陳於所親,為其所發,伏誅。時人號為四時仕宦,言一年自青而綠,及於硃紫也。希則天旨,誣族皇枝。神龍初,禁錮其子孫。

初,遊藝請則天發六道使,雖身死之後,竟從其謀,於是萬國俊輩恣斬戮矣。

丘神勣

丘神勣は、左衛大將軍丘行恭の子である。永淳元年、左金吾衛將軍となった。弘道元年、高宗が崩御すると、則天武后は彼を巴州に派遣して章懷太子を害させ、その後罪を神勣に帰して、疊州刺史に左遷した。まもなく再び召し出されて左金吾衛將軍となり、深く親任された。詔を受けて周興・来俊臣とともに詔獄を審理し、ともに酷吏と称された。垂拱四年、博州刺史・瑯邪王李沖が兵を起こすと、神勣を清平道大総管とした。まもなく李沖は百姓の孟青棒・呉希智に殺された。神勣が州に到着すると、官吏は喪服で出迎えたが、神勣は刃を振るって彼らを皆殺しにし、千余家を破壊した。これにより左金吾衛大將軍に加えられた。天授二年十月、詔獄に下されて誅殺された。

索元禮

索元禮は、胡人である。光宅初年、徐敬業が揚州で兵を起こし、匡復を名目とした。則天武后は激怒し、また人心が動揺することを恐れ、威をもって天下を制しようとした。元禮はその意を探り、密告した。召見されて遊撃將軍に抜擢され、洛州牧院において詔獄を推按することを命じられた。元禮は性残忍で、一人を推問するに当たり、広く数十百人を引き合いに出すことを命じ、士大夫は震え恐れ、狼虎よりも甚だしかった。則天武后はしばしば召見して賞賜し、その権勢を張らせ、殺戮した者は数千人に及んだ。ここにおいて周興・来俊臣の徒は、これを模倣して現れた。時に諸州の密告者は、皆官用の車馬を給され、州県が護送して宮闕の下に至らせ、賓館において食糧を給した。少しでも意にかなえば、必ず爵賞を授けて誘い、遠近に威を示した。元禮はまもなく酷毒がますます甚だしくなったため、則天武后は人心を得るために彼を誅殺した。天下の人は彼らを来・索と呼び、酷毒の極みであり、また詔獄を最初に推按した者であると言った。

近頃、小人が密告することが常習となり、内外の諸官庁は、皆苟も免れようとしている。御史台の吏を甘やかし、強暴な者に迎合するのは、故意にそうするのではなく、誣告による罪を避けようとするためである。また推劾する吏は、皆深刻であることを功とし、事実をでっち上げて能力を競い、虐げることを誇り合う。耳に泥を詰め、頭を籠で覆い、枷を研ぎ楔で締め、肋骨を折り爪に竹籤を刺し、髪を吊るし耳を燻し、隣に穢物や小便を置いて寝させ、まったく生きるに耐えず、これを「獄持」と号する。あるいは数日間食事を節制させ、連夜ゆっくりと問い、昼夜揺さぶって眠らせず、これを「宿囚」と号する。彼らは木石ではないので、目下を救うため、死を先延ばしにしようと苟も求める。臣は世間の議論をひそかに聞くが、皆天下は太平であると言い、どうして苦しんで謀反をしなければならないのかと言う。被告が皆英雄で、帝王を求めるというのだろうか。ただ苦痛に耐えられず自ら誣告に従うだけである。どうやってこれを確かめるか。陛下が告発状を取り上げてその虚実を斟酌し、推問を命じ、微かに訊問してその真情を探らせてみられよ。推問する者は必ず上下に手を回し、聖旨を希うであろう。願わくは陛下がこれを察せられんことを。今、満朝は息をひそめて不安であり、皆陛下が朝には彼らと親密にし、夕には彼らを仇敵とするので、保つことができないと思っている。追捕があると聞けば、妻子と即座に死の別れをする。故に国を治める者は仁を根本とし、刑罰を補助とする。周は仁を用いて栄え、秦は刑を用いて滅びた、これがその謂いである。願わくは陛下が刑罰を緩め仁を用いられんことを、天下幸甚である。

則天武后はこれに従い、これにより詔獄はやや鎮静した。

侯思止

侯思止は、雍州醴泉県の人である。貧窮して生業を営むことができず、渤海の高元禮の家に給仕して働いた。性は無頼で詭譎であった。時に恒州刺史裴貞が一判司を杖罰した。則天武后が王室に不利なことを行おうとしていたので、誣告による謀反の徒はすでに現れていた。判司が思止に教え、遊撃將軍高元禮に説かせ、そこで訴状を請うて舒王李元名および裴貞の謀反を告げさせた。周興がこれを推問し、ともに族滅した。思止を遊撃將軍に授けた。元禮は恐れてへつらい、彼を引き同座させ、侯大と呼び、「国家は順序を問わず人を用いる。もし侯大は字が読めないと言われたら、即座に『獬豸という獣も字は読めないが、邪悪な者を突くことができる』と奏上せよ」と言った。則天武后が果たしてそのように言うと、思止は獬豸でこれに答え、則天武后は大いに喜んだ。天授三年、朝散大夫・左臺侍御史に任じた。元禮がまた教えて言うには、「上は侯大に宅がないことをご存知である。もし諸役所の官宅を借りるように言われたら、辞退して受けずに謝せよ。上は必ずその理由を問うであろうから、即座に『諸々の謀反人どもの、臣はその名を憎み、その宅に座ることを願わない』と奏上せよ」。則天武后はまた大いに喜び、恩沢は非常に厚かった。

思止は詔獄を推按するようになると、苛酷さが日増しに甚だしくなった。かつて中丞魏元忠を推問し、「早く白司馬と認めよ。さもなければ、孟青を食らうぞ」と言った。白司馬とは、洛陽に白司馬阪という坂がある。孟青とは、孟青棒という名の將軍で、すなわち瑯邪王李沖を殺した者である。思止は巷の卑しい奴隷であり、常にこの言葉で囚人たちを脅した。

元忠は言葉と態度で屈せず、思止は怒って元忠を逆さに引きずった。元忠はゆっくりと起き上がって言った。「私は薄命で、悪い驢馬に乗って落ち、足が鐙に引っかかって引きずられるようなものだ」。思止は大いに怒り、また彼を引きずって言った。「お前は詔使に抵抗した。奏上して斬らせよう」。元忠は言った。「侯思止よ、汝は今国家の御史である。礼儀の軽重を識るべきである。もし必ず魏元忠の首が必要なら、どうして鋸で切り取らないのか。私を抑えて謀反を認めさせることはない。どうして汝は朱紫の官服を着け、親しく天命を奉じながら、正直なことを行わず、白司馬や孟青などと言うのか。これは何たる言葉か。魏元忠でなければ、誰も抑えて教える者はいない」。思止は驚いて立ち上がり恐れ慄き、「思止は死罪です。幸いにも中丞に教えていただきました」と言った。床に上げて座らせて問うた。元忠はゆっくりと座り、泰然自若とし、思止の言葉は終始正しくなかった。時に人はこれを真似て、談笑の種とした。侍御史霍献可がこれを笑うと、思止はこれを聞き届けた。則天武后は怒り、献可に「私はすでに彼を用いている。卿はどうして笑うのか」と言った。献可は詳しくその言葉を奏上すると、則天武后も大笑いした。

時に来俊臣が故妻を棄て、太原の王慶詵の娘を強娶しようとした。思止もまた趙郡の李自挹の娘を娶ることを奏請した。勅により政事堂で相談した。鳳閣侍郎李昭德は手を打って諸宰相に言った。「実に笑うべきことだ」。諸宰相が理由を問うと、昭德は言った。「往年、来俊臣が賊のごとく王慶詵の娘を奪ったのは、すでに国を大いに辱めた。今日この奴がまた李自挹の娘を求め請うとは、再び国を辱めることにならないか」。ついに李昭德に杖打ちで殺された。

萬國俊

萬國俊は、洛陽の人である。若い頃から譎詐で険悪であった。垂拱年間以後、来俊臣とともに『羅織経』を作り、宗族や朝貴を屠り覆して、威勢を振るった。司刑評事から、俊臣が同じく引き立てて判官とした。

來子珣

來子珣は、雍州長安県の人である。永昌元年四月、上書して事を陳べたことにより、左臺監察御史に任じられた。時に朝士で靴を履かずに朝参する者がいた。子珣はこれを弾劾して言った。「臣は聞く、帯を束ねて朝廷に立つと」。満朝大いに笑った。則天武后は彼に詔獄の推按を委ね、多くは意を迎え、武氏の姓を賜り、字を家臣とした。天授年間、父の喪に服したが、喪中に起復して朝散大夫・侍御史となった。時に雅州刺史劉行実および弟の渠州刺史劉行瑜・尚衣奉御劉行威、並びに兄の子の鷹揚郎將劉虔通らが、子珣に誣告されて謀反を企てたとして誅殺され、また盱眙において彼らの父の左監門大將軍劉伯英の棺を毀った。まもなくまた遊撃將軍・右羽林中郎將に転じた。常に錦の半臂を着け、言笑自若としており、朝士はこれを嘲った。長寿元年、愛州に配流されてそこで死去した。

王弘義

王弘義は冀州衡水の人である。変事を告発し、遊撃将軍を授けられた。天授年間、右台殿中侍御史に任ぜられる。長寿年間、左台侍御史に任ぜられ、来俊臣とともに士大夫を誣告した。延載元年、俊臣が貶謫されると、弘義も瓊州に流罪となったが、偽って勅命で召還されたと称した。時に胡元礼が侍御史として嶺南道に使いし、襄州・鄧州に滞在していたところ、遭遇してこれを取り調べた。弘義は言葉に窮し、乃ち言うには「公と気類同じくす」と。元礼曰く「足下は御史を任ぜられ、元礼は洛陽尉を任ぜられた。元礼は今御史たり、公は流囚たり、また何の気類ぞ」と。乃ち杖殺した。

弘義は毎夏の月に囚人を拘禁するとき、必ず小房の中に蒿を積み氈褥を敷き、これに遭う者はたちまち息絶えた。もし自ら誣告に従えば、他の房に移された。俊臣と常に移牒を行い、州県は恐れ慄き、自ら誇って言うには「我が文牒は、狼毒や野葛の如し」と。弘義は常に郷里の隣家で瓜を求めたが、主人が惜しんだので、弘義は乃ち状を言上して瓜園の中に白兎がいるとし、県官が人を命じて捕逐させたところ、たちまち園の苗は尽きた。内史李昭徳曰く「昔は蒼鷹獄吏を聞き、今は白兎御史を見る」と。

郭霸

郭霸は廬江の人である。天授二年、宋州寧陵丞より革命挙に応じ、左台監察御史に任ぜられる。如意元年、左台殿中侍御史に除される。長寿二年、右台侍御史となる。初めて挙げられて集められ、召し見え、則天の前で自ら忠鯁を陳べて云うには「往年徐敬業を征するに、臣はその筋を抽き、その肉を食らい、その血を飲み、その髄を絶たんことを願う」と。則天は悦び、故に任じた。時に人は「四其御史」と号した。

時に大夫魏元忠が臥疾し、諸御史は皆見舞いに行ったが、霸のみ後れを取った。元忠に会うや、憂懼し、元忠の便液を示すことを請い、以て病の軽重を験そうとした。元忠は驚悚し、霸は悦んで曰く「大夫の糞味は甘く、或いは癒えざるか。今味は苦し、即ち愈ゆべし」と。元忠は剛直で、殊にこれを憎み、その事を朝士に露わした。嘗て芳州刺史李思徴を推問し、搒捶考禁して、耐えられずに死んだ。聖暦年間、屡々思徴を見、甚だこれを憎んだ。嘗て退朝して急ぎ帰り、家人に命じて曰く「速やかに僧を請じて経を転じ斎を設けよ」と。須臾にして思徴が数十騎を従えてその庭に上るのを見、曰く「汝は枉しく我を陥れた、我今汝を取る」と。霸は周章惶怖し、刀を援って自らその腹を刳り、たちまち蛆が爛じた。この日、閭里もまた兵馬数十騎が門に駐まるのを見たが、少頃にして見えなくなった。時に洛陽橋が壊れ、行李がこれに困っていたが、この時に至って工事が完了した。則天が嘗て群臣に問うて曰く「比在外に何か好事あるか」と。舎人張元一は素より滑稽で、対えて曰く「百姓は洛橋の成るを喜び、郭霸の死を幸いす、これ即ち好事なり」と。

吉頊

吉頊は洛州河南の人である。身長七尺、陰毒で敢えて事を言う。進士に挙げられ、累転して明堂尉となる。万歳通天二年、箕州刺史劉思礼あり、自ら張憬蔵に学び、相を善くすると云い、洛州録事参軍綦連耀が図讖に応じ、「両角騏麟児」の符命があると云った。頊がこれを告げると、則天は武懿宗に付して頊と対訊させた。懿宗と頊は思礼を誘い、広く朝士を引き合わすようにさせ、必ずその命を全うさせようとした。思礼は乃ち鳳閣侍郎李元素・夏官侍郎孫元通・天官侍郎劉奇・石抱忠・鳳閣舎人王処・来庭・主簿柳璆・給事中周潘・涇州刺史王勔・監察御史王助・司議郎路敬淳・司門員外郎劉慎之・右司員外郎宇文全志ら三十六家を引き合わし、微かに意に忤う者があれば必ずこれを構え、楚毒百端にして以てその獄を成した。皆海内の賢士名家で、天下これを冤しみ、親故連累して竄逐された者は千余人に及んだ。頊はこれにより右粛政台中丞に擢拜され、日に恩遇を見た。

明年、突厥が趙州・定州などを寇陥した。則天は頊を召して相州刺史を検校させ、以て賊の南侵の路を断たせようとした。頊は素より武を習わないことを以て辞したが、則天曰く「賊勢は将に退かんとす、卿の威名を藉りて鎮遏するのみ」と。

初め、太原に術士温彬茂あり、高宗の時に老い、臨死に一つの状を封じてその妻に謂うには「我が死後、年号が垂拱となれば、即ち闕に詣でてこれを献げよ、慎んで開くなかれ」と。垂拱初め、その妻がこれを献げた。状の中には則天の革命及び突厥が趙・定に至ることを予め陳べてあったので、則天は賊が趙州に至って退くことを知ったのである。頊は初め州に至って人を募ったが、少しも応ずる者なし。俄かに詔して皇太子を元帥とすと、応募する者は勝えず数えきれなかった。賊が退くと、頊は入朝してこれを奏し、則天は甚だ悦んだ。

初め、則天は頊が幹弁で口才あり、儀質が偉く、心腹に委ねるに堪えるとし、故に擢任した。武懿宗と殿中で趙州の功を争うに及び、懿宗は短小で俯僂し、頊は声気凌厲で、下って懿宗を見、嘗て仮借しなかった。則天は以て「我が前にて我が諸武を卑しむ、これ倚るべけんや」と思った。その年十月、弟が偽官を作ったことで、琰川尉に貶され、後に安固尉に改められた。尋いで卒した。

初め、中宗が未だ皇太子に立てられざりし時、易之・昌宗が嘗て密かに頊に自安の策を問うた。頊云く「公兄弟は恩を受くること既に深し、天下に大功なければ、則ち全からず。今天下の士庶、咸に李家を思い、廬陵王は既に房州にあり、相王はまた幽閉に在り、主上は春秋既に高し、須らく付托有るべし。武氏の諸王は、殊に属意に非ず。明公若し能く従容として廬陵及び相王の建立を請うて、以て生人の望みに副わば、豈に禍を転じて福と為すのみならん、必ず長く茅土の重きを享けん」と。易之はその言を然りとし、遂に間を承けて奏請した。則天は頊が首謀であることを知り、召して問うた。頊曰く「廬陵王及び相王は、皆陛下の子、先帝は陛下に顧托せり、当に主意有るべく、唯だ陛下の裁きに在り」と。則天の意は乃ち定まった。頊が既に罪を得た時、知る者無し。えい宗が即位し、左右がその事を発明したので、乃ち制を下して曰く「故吏部侍郎・同中書門下平章事吉頊は、体識宏遠、風規久大なり。嘗て経緯の才を以て、允に匡佐の委に膺る。時に王命中否し、人謀未だ輯まず、首めて返政の議を陳べ、克く祈天の基に副う。永く遺烈を懐い、寧く厥の効を忘れんや。左御史台大夫を贈るべし」と。