旧唐書
巻一百八十五下 列伝第一百三十五下 良吏下
裴懷古
裴懷古は、壽州壽春の人である。儀鳳年間、闕に詣でて上書し、下邽主簿に任ぜられた。長壽年間、累遷して監察御史となった。時に姚州・巂州の蛮酋が反叛し、詔して懷古に往きて招撫せしむ。懷古は賞罰を明らかにし、賊徒で帰附する者は日に千数を数え、遂にその魁首を俘え、その居人を処して還った。蛮夷は恩を荷い、碑を立てて徳を頌した。時に恆州鹿泉寺の僧浄滿が弟子に謀られ、密かに女人が高楼に居る図を描き、なお浄滿が弓を引いてこれを射る図を作り、経笥に蔵めた。已にして闕に詣でて僧が呪詛し、大逆不道であると上言した。則天は懷古に命じて按問し誅せしむ。懷古はその辞状を究め、浄滿を釈放して奏聞した。則天は大いに怒った。懷古は奏して曰く、「陛下の法は親疎なく、天下と画一すべきです。どうして臣に無辜の人を誅させ、聖旨を希うことができましょうか。向使浄滿に不臣の状あらば、臣また何の顔あってこれを寬ゆることができましょう。臣今平典を慎守し、たとえ死すとも恨みなし」と。則天の意は乃ち解けた。
聖歷年間、閻知微が使として突厥に往くに充てられ、懷古はその軍を監した。虜庭に至り、默啜は知微を立てて南面可汗とす。将に懷古に偽職を授けんとす。懷古は従わず、将にこれを殺さんとす。懷古は抗辞して曰く、「寧ろ忠を守りて死に就くも、節を毀りて生を求むることなし。請う、斬に就くべし、避くるところなし」と。乃ち禁錮して軍に随わしめ、因って挺身奔竄して帰り、祠部員外郎に拝された。
時に姚州・巂州の蛮酋が相率いて闕に詣で、懷古の綏撫の状を頌し、牧守としてこれを撫することを請うた。遂に姚州都督を授けられた。疾を以て行かず、転じて司封郎中となった。時に始安の賊歐陽倩が徒数万を擁し、州縣を剽陷す。懷古に桂州都督を授け、仍って招慰討撃使を充てる。嶺に及ぶや、飛書を以て招誘し、禍福を示すと、賊徒は迎えて降り、自ら陳うに吏人の侵逼を受けたるを以て、乃ち兵を挙げたるなりと。懷古はその誠懇なるを知り、乃ち軽騎を以てこれに赴かんとす。左右曰く、「夷獠は親しみ難く、未だ信ずべからず」と。懷古曰く、「吾は忠信を仗り、神明に通ずるを得べし、況んや人においてをや」と。因ってその営に造りて慰諭す。群賊喜悅し、その掠めたる財貨を帰し、公府に納む。諸洞の酋長で素より両端を持つ者、尽く来たりて款附し、嶺外悉く定まる。
復た相州刺史・并州大都督府長史を歴任し、所在にて人吏に慕われた。神龍年間、左羽林大將軍に遷る。行って未だ都に達せず、復た并州長史を授けられる。吏人は懷古の還るを聞き、老幼相携え、郊野に歓迎す。時に崔宣道が懷古に代わって并州となったが、下車して罷め、郊に出て懷古を候う。懷古は宣道の意を傷つけんことを恐れ、官吏に命じて出迎えの人を駆逐せしむるも、百姓の奔赴すること愈よ衆く、その人の思われること此の如し。俄かに幽州都督に転じ、征せられて左威衛大將軍となる。尋いで卒す。
張知謇
張知謇は、蒲州河東の人で、家を岐に徙す。少くして兄知玄・知晦、弟知泰・知默の五人と、志を勵して書を読み、皆明経にて擢第す。儀質瑰偉、眉目疏朗、玄理に曉け、清介自ら守る。故に当時の名公争い引き薦げ、畿赤を遞歴す。知謇・知泰・知默は、調露の後また臺省を歴任す。
知謇は、天授の後、房・和・舒・延・德・定・稷・晉・洺・宣・貝の十一州刺史を歴任し、涖む所に威嚴あり、人敢えて犯さず。通天年間、知泰は洛州司馬、知默は秋官郎中となる。知謇は德州より入計す。則天はその才幹を重んじ、又その状貌の人に過ぐるを目して、画工に命じてこれを写し、その本に賜う。曰く、「人に或いは才あれども、未だ必ずしも貌あるに非ず。卿が家の昆弟は、両絶と謂うべし」と。時に人これを称す。尋いで知泰を以て夏官・地官侍郎、益州長史、中臺右丞とす。
初め、知謇が房州に在った時、中宗は廬陵王として房州に安置され、制約甚だ急なり。知謇は董玄質・崔敬嗣と相次いで刺史となり、皆保護し、供擬豊贍にして、中宗はこれを徳とした。神龍元年に及び、中宗が践極するや、貝州より知謇を追って左衛將軍とし、雲麾將軍を加え、范陽郡公に封ず。知泰は兵部侍郎より右御史大夫を授かり、銀青光祿大夫を加えられ、漁陽郡公に進封される。鬚髮華皓にして、朝に同貴し、時望甚だこれを美とす。
知泰は武三思に忤い、出でて并州刺史・天平軍使となり、仍って本官を帯ぶ。尋いで又魏州刺史となる。景龍二年卒す。優詔を以て褒贈し、謚して定と曰う。時に知謇は洛州長史・東都副留守たり。又左・右羽林大將軍、同・華州刺史、大理卿を歴任し致仕す。開元年間卒す。年八十。
知謇は政に従うに敏にして、性亮直、請托求進し、才無くして位を冒する者を喜ばず。故に子姪で経義精しからざる者は、論挙を許さず。知默は嘗て来俊臣・周興等と詔獄を同掌し、酷吏に陷り、子孫禁錮せらる。知泰は、開元年間累贈して刑部尚書・特進となる。
知玄の子景升、知泰の子景佚は、開元年間皆大官に至り、門に棨戟を列ぬ。
楊元琰
楊元琰は、虢州閿郷の人であり、隋の礼部尚書楊希の曾孫である。生まれた時、数歳になっても言葉を発することができず、相者(人相見)が言うには、「言葉の遅い者は精神が安定しているもので、これは必ず大器となるであろう」と。成長すると、姿形が立派で、器量と見識によって称賛された。初め平棘県令となり、善政と称された。載初年中、累進して安南副都護となり、さらに蘄州・蒲州・晉州・魏州・宣州・許州の六州刺史、涼州・梁州の二都督、荊府長史を歴任した。前後九度にわたり清廉潔白で昇進し、累次にわたり璽書を賜って褒め称えられた。
長安年中、張柬之が楊元琰に代わって荊州長史となった時、楊元琰とともに長江の中流を船で渡り、則天武后の革命(易姓革命)について語り、諸武(武氏一族)が権力をほしいままにしている状況を議論したところ、楊元琰は慷慨として発言し、国を正しく復興させようとする意志を示した。張柬之が政事(宰相の職務)を執るようになると、楊元琰を右羽林将軍に推挙した。都に到着すると、張柬之は言った、「かつて長江の中で語ったことを覚えているか。今日の任命は、小さな意味ではないのだ」と。そこで楊元琰と李多祚らと結託し、計略を定めて張易之兄弟を誅殺した。事が成就すると、雲麾将軍を加えられ、弘農郡公に封ぜられ、実封五百戸を賜り、さらに鉄券を賜り、十度の死罪を許される特権を与えられた。
まもなく張柬之・敬暉らが武三思に陥れられようとすると、楊元琰は変事を察知し、上奏して髪を剃って出家することを請い、官爵と実封を辞退した。中宗は許さなかった。敬暉はこれを聞いて笑い、「以前から出家を上奏することを知っていたなら、その事を賛成し、胡人のような髭を剃り落とせば、実に妙であったろうに」と言った。楊元琰は髭が多く胡人のようであったので、敬暉はこの言葉をもってからかったのである。楊元琰は言った、「功を成し名を遂げたなら、退かなければ危うくなる。これは心からの願いであり、無意味なことではない」と。敬暉はその意を知り、驚いて不愉快に思った。
敬暉らが罪を得ると、楊元琰はついに先見の明によって全うされた。まもなく金紫光禄大夫を加えられ、衛尉卿に転じた。翌年、李多祚らが誅殺されると、楊元琰はかつて李多祚とともに功を立てたことがあったため、やはり獄に繋がれて取り調べを受けた。中書侍郎蕭至忠が保証して明らかにしたおかげで、ついに罪を免れ、さらに光禄卿に転じた。景雲年中、上疏して自身の官爵を削り、父に官を追贈することを請うた。中宗はこれを許し、その父を越州長史に追贈した。睿宗が即位すると、三度昇進して刑部尚書となり、魏国公に改封された。開元初年、太子賓客に任ぜられて致仕した。六年、家で死去した。享年七十九。
楊元琰の子、楊仲嗣。
子の楊仲嗣は密州刺史となり、楊仲昌は吏部郎中となった。
倪若水。
倪若水は、恆州稾城の人である。開元初年、累進して中書舎人・尚書右丞となり、出向して汴州刺史となった。政治は清静を尊び、人々と官吏は安んじた。また孔子廟堂と州県の学舎を増築修復し、生徒を勧励し、儒教が非常に盛んとなり、黄河・汴水の間で称え詠われることが絶えなかった。
四年、玄宗は宦官を江南に派遣して䴔䴖(おしどり)などの諸鳥を採らせたが、その道中は汴州を通った。倪若水はこれを知り、上表して諫めて言った、「今は盛夏の農繁期であり、農民たちは苦労して耕作し、田夫は耒(すき)を抱え、蚕婦は桑を持っている。この時に奇禽異鳥を採捕し、園池の遊びに供え、遠く江・嶺から都に至るまで、水上では舟船を準備し、陸上では担いで疲れ、魚肉で餌を与え、稻粱を間に挟む。道中の見る者は、陛下が人を軽んじて鳥を貴ぶと思わないでしょうか!陛下はまさに鳳凰を凡鳥とし、麒麟を凡獣とすべきであり、䴔䴖や鸂鶒など、何が貴いというのでしょうか。陛下はかつて潜龍(皇太子)として藩邸におられ、艱難辛苦を遍く経験されました。今や妖気が晴れ、九五の尊位に高くおられます。玉帛や子女は後庭に満ち、職貢の珍奇なものは内府に溢れています。これを超えて、さらに何を求められるのでしょうか。臣は国の厚恩を受け、重任を超えて居ります。草芥のような賤しい命であり、常に身を殺して忠を尽くさんと願い、葵藿のような微かな心で、常に肝を砕いて主君に報いんと願っています。宮廷を仰ぎ見て、敢えて腹心を述べ、直言して旨に逆らい、鼎鑊(煮殺しの刑)に甘んじます」と。手詔で答えて言った、「朕は先に人に少しばかりの雑鳥を取らせたが、その使者が朕の意を理解せず、鳥を採りすぎた。卿がその事を詳しく奏上し、言葉は誠実で忠実であり、深く朕の意にかなう。卿は見識が通じ才能が周く、義に方(したが)い敬い直く、故に綱轄(中央の要職)の重責を止めて、方面の権限を委ねた。果たして邪を防ぎ誠を保ち、節操を守ってますます固く、骨鯁の忠烈さをもって、事に遇って隠すところがない。忠言を思い、深く嘉し慰める。使者は朕が事を量って処罰を決し、禽鳥は全て放たせた。今、卿に物四十段を賜う。至言に答えるためである」と。
まもなく召されて戸部侍郎に任ぜられた。七年、再び尚書右丞を授けられ、死去した。
李浚。
李浚は、隴西の人であり、祖父は李世武である。睿宗が即位すると、銀青光禄大夫を加えられた。上(玄宗)が東宮にいた時、選ばれて太子中允となった。また出向して麟州刺史となり、政治に能吏の名声があった。開元初年、諸道に按察使を置き、盛んに能吏を選んだ時、李浚は潤州刺史・江東按察使を授けられ、累進して真源県子に封ぜられた。州人の孫処玄は学問と品行で著名であったので、李浚は特に礼を異にして遇し、累次にわたり表を奉って推薦し、さらに子の李麟に命じて彼と交際させた。孫処玄はついに病気と称して起きなかった。李浚はまもなく虢州・潞州の二州刺史に任ぜられ、さらに益州長史・剣南節度使に任ぜられ、御史大夫を摂行した。歴任した地では皆、誠信をもって人に接し、良吏と称された。去職する時には、皆遺愛を残した。八年、官で死去し、戸部尚書を追贈され、諡を成といった。子の李麟は、独自に伝がある。
陽嶠。
陽嶠は、河南洛陽の人であり、その祖先は北平から移り住んだもので、北斉の右僕射陽休之の玄孫である。儀鳳年中に八科挙に応じ、将陵尉に任ぜられ、累進して詹事司直となった。長安年中、桓彦範が左御史中丞、袁恕己が右御史中丞となり、争って陽嶠を推薦し、御史に引き入れようと請うた。内史楊再思は平素から陽嶠と親しく、陽嶠が弾劾の職務を好まないことを知り、桓彦範らに言った、「彼が本意でないと聞いているが、どうか」と。桓彦範は言った、「官のために人を選ぶのであって、どうして本意を待つことがあろうか。ただ本意でない者こそ、特に与えるべきである。それによって、進み難い風潮を長くし、躁急に求める道を抑えるのだ」と。楊再思はその言葉に同意し、右台侍御史に抜擢した。景龍末年、累転して国子司業となった。陽嶠は恭謹で好学であり、儒者の風があった。また政務に勤勉で、順序立ててよく導いた。学務の役職にあった時、当時の人は適任であると思った。先聖(孔子)の廟と講堂を修復することを奏上し、それに因んで前庭に碑を建て、儒教を尊ぶ事を記念した。
睿宗が即位すると、尚書右丞に任ぜられた。当時、都督府を分けて建てて外台を統轄しようとし、良吏を精選して、陽嶠を涇州都督府に任じようとしたが、まもなく中止となって行われなかった。また魏州刺史を歴任し、袞州都督・荊州長史を兼任し、本道按察使となり、在任地では清廉潔白で知られた。魏州の人が宮廷に赴き耳を切り落として、陽嶠が再びその郡に臨むことを請うたので、再び魏州刺史に任ぜられた。召されて国子祭酒となり、累進して北平伯に封ぜられ、尹知章・范行恭・趙玄默らを学官に推薦し、皆名儒と称された。当時、学徒は次第に弛緩していたので、陽嶠は経学の業を課して率い、少しばかり鞭や杖を用いたところ、学生はこれを怨み、かなり騒ぎ誹謗したので、ついに相率いて夜に街中で彼を殴打した。上(皇帝)はこれを聞き、関係官庁に命じて無理な者を杖殺させた。これによってようやく収まった。
宋嶠は平素より兄弟に友愛篤く、孤児となった甥を己が子の如く養育した。常に人に謂いて曰く、「我は方伯の位に登るも、心は昔の一尉たる時と異ならず」と。識者は甚だこれを称嘆した。やがて年老いて致仕し、家にて卒す。諡して敬と曰う。
宋慶禮
宋慶禮は、洺州永年の人である。明経に挙げられ、衛県尉を授かる。則天武后の時、侍御史桓彦範が詔を受けて河北にて居庸・嶽嶺・五回等の路を断塞し、突厥に備えるに当たり、特に慶礼を召してその事を謀らしむ。慶礼は雅に方略あり、彦範は甚だ礼を以てこれに接す。やがて大理評事に遷り、仍って嶺南采訪使を充てる。時に崖・振等五州の首領、互いに侵掠し、荒俗安からず。従前の使人はその炎瘴を懼れ、到る者無し。慶礼は躬からその境に至り、風俗を詢問し、禍福を示す。ここにおいて安堵し、遂に鎮兵五千人を罷む。開元中、累遷して貝州刺史となり、仍って河北支度営田使と為る。
初め、営州都督府は柳城に置かれ、奚・契丹を控帯す。則天の時、都督趙文翙の政理方に乖き、両蕃反叛し、州城を攻め陥とす。その後、幽州の東二百里の漁陽城に移して安置す。開元五年、奚・契丹各々塞に款き帰附す。玄宗、旧城に営州を復せんと欲す。侍中宋璟は固く争いて以て不可と為すも、独り慶礼は甚だその利を陳ぶ。乃ち慶礼及び太子詹事姜師度・左驍衛将軍邵宏等を詔して使を充て、更に柳城に於いて営州城を築かしむ。役を興すこと三旬にして畢る。俄かに慶礼を拝して御史中丞とし、兼ねて検校営州都督と為す。屯田八十余所を開き、幽州及び漁陽・淄青等の戸を追抜し、並びに商胡を招輯して、店舗を立てしむ。数年の間、営州の倉廩頗る実り、居人漸く殷し。
慶礼は政を為すに清厳にして、聴理に勤め、歴る所、人吏敢えて犯すこと無し。然れども功役を興すを好み、改更すること多し。嘗て辺険に於いて阱を置き槍を立て、以て賊路を邀えんとす。議者は頗るその事に切らざるを嗤う。七年に卒す。工部尚書を贈らる。太常博士張星議して曰く、「宋慶礼は大剛なれば則ち折れ、至察なれば則ち徒無し。事有りて東北に在り、亡ぶ所万計、所謂家に害有り、国に兇有り。謚法を案ずるに、巧みにして自ら是とすを『専』と曰う。請う、謚して『専』と曰わん」と。礼部員外郎張九齢駁して曰く、
慶礼は人に在りては苦節を守り、国の為に労臣たり。一行して辺陲に在ること、三十年所。戸庭楽しむ可きに、彼独り伝遞に安んず。稼穡艱しきを為すに、又能く軍廩を実にす。労辱の事に服してその心懈らず、貞堅の規を守って自らその力を尽くす者、一つ此に在り、人の難くする所なり。況んや営州は、彼の戎夷を鎮め、喉を扼み臂を断つ。逆らえば則ちその死命を制し、順えば則ちその主人と為る。是を楽都と称し、その来り尚お久し。往くに趙翙の牧と為りしに縁り、これを馭するに才に非ざれば、自ら隳廃を経て、便ち寇孽を長ず。故に二十年の間、事有りて東鄙に在り、屍僵え骨暴き、将敗れ軍覆る、蓋し勝え紀すべからず。
大明下に臨み、聖謀独断し、祖宗の旧を恢め、大禹の跡を復す。数千の役徒を以てし、甲兵の強衛無く、期を指して遂に往き、命を稟て行う。ここにおいて畚築を量り、沴鼓を執り、親しくその役を総べ、慮る所に愆らざりき。柳城をして金湯の険たらしめ、林胡に腹心の疾を生ぜしむるは、蓋し此の為なり。尋いて海運を罷め、歳儲を収め、辺亭晏然たり、河朔擾わず。夫れ師を興すの費、転輸の労と、その優劣を較ぶるに、孰れか利害たる。而して「亡ぶ所万計」と云うは、一何ぞ謬れるかな。及び契丹背誕の日に至り、我が掎角の勢を懼れ、鼠穴自ら固くすと雖も、駒牧侵さるること無きは、蓋し張皇彼の都の頼む所の力を系ぐるなり。安んぞその跡を践みて以てその実を制し、その謚を貶して以てその虚に徇い、始めを慮るの謗声を采り、遠きを経るの権利を忘れんや。義得る所に非ざれば、孰れか其れ可なりと謂わん。請う、議する所を以て、更に太常に下し、庶幾くは素行の跡尋ぬ可く、易名の典墜つること無からんことを。
張星復た前議を執り、慶礼の兄の子辞玉又た闕に詣でて冤を称す。乃ち謚して敬と曰う。
姜師度
姜師度は、魏の人なり。明経に挙げらる。神龍初、累遷して易州刺史・兼御史中丞となり、河北道監察兼支度営田使と為る。師度は政を為すに勤め、又巧思有り、溝洫の利を頗る知る。始め薊門の北に於いて、水を漲らして溝と為し、以て奚・契丹の寇に備う。又魏武の旧渠に約し、海に傍らって漕を穿ち、号して平虜渠と曰い、以て海の艱を避く。糧運する者は今に至るまでこれに利す。尋ねて銀青光禄大夫を加えられ、累遷して大理卿となる。景雲二年、転じて司農卿と為る。
開元初、陜州刺史に遷る。州西の太原倉は両京の水陸二運を控え、常に倉より車に米を載せて河際に至り、然る後に舟に登る。師度遂に地道を鑿ち、上よりこれに注ぎ、便ち水次に至らしむ。省する所万計。六年、蒲州を以て河中府と為し、師度を拝して河中尹とし、その府寺を繕緝せしむ。
先ず是れ、安邑の塩池漸く涸る。師度卒を発して開拓し、水道を疏決し、塩屯を置く。公私大いにその利を収む。再び同州刺史に遷り、又朝邑・河西二県の界に於いて、古の通霊陂に就き、地を択び雒水を引き及び黄河を堰きてこれに灌ぎ、以て稻田を種う。凡そ二千余頃、内に屯十余所を置き、収穫万計。特く金紫光禄大夫を加えられ、尋ねて将作大匠に遷る。
明年、左拾遺劉彤上言して曰く、「請う、塩鉄の官を置き、利を収めて以て国用に供えしめ、則ち貧人に重賦するを免れ、窮困する者をして済わることを獲しめん」と。疏奏す。宰相をしてその可否を議せしむ。咸に塩鉄の利は、甚だ国用に裨すと為す。遂に師度と戸部侍郎強循をして並びに御史中丞を摂らしめ、諸道の按察使と計会せしめ、以て海内の塩鉄を収めしむ。その後頗る沮議する者多し。事竟に行われず。
師度は十一年に病卒す。年七十余。師度は溝洫を好むこと既に、所在必ず衆を発して穿鑿す。時に不利有りと雖も、而して成功亦多し。先ず是れ、太史令傅孝忠は星緯を占むるに善く、時人これが為に語りて曰く、「傅孝忠両眼天を看、姜師度一心地を穿つ」と。伝えて以て口実と為す。
強循
強循は鳳州の人である。また吏幹をもって知名となり、官は大理卿に至った。
また和逢堯という者がいた。岐州岐山の人である。性は詭譎にして、辞辯があった。睿宗の時、突厥の默啜が公主を尚(めと)ることを請うた。許された。逢堯は御史中丞として鴻臚卿を摂(か)ね、使となり命に報いることとなった。虜庭に至るや、默啜はその大臣を遣わして逢堯に謂いて曰く、「敕書には金鏤の鞍を送るとあるが、検するに乃ち銀胎に金を塗したものであり、豈に天子の意であろうか、はたまた使人が換えたのであろうか。この如く虚偽であれば、公主も必ずや実ならざるべし。信物を還し、和親の事を罷めんことを請う」と。遂に策を馬に加えて去らんとした。逢堯は大呼し、左右に命じて馬を引き戻させ、謂いて曰く、「漢の法は女婿を重んずる。今鞍を送るのは、只だ平安長久の義を取るのみ。何ぞ必ずしも金銀を以て升降と為さんや。若し然らば、乃ち是れ可汗の金を貪りて銀を軽んずるに過ぎず、豈に人を重んじ信を貴ぶと謂えようか」と。默啜これを聞きて曰く、「承前の漢使は敢えてこの如くせざりき。軽んずべからず」と。遂に宴を設け礼を備えた。逢堯はまた默啜を説き、頭を裹み紫衫を著け、南面して再拝せしめ、子をして逢堯に随い入朝せしめた。
逢堯は奉使の功により、驟かに戸部侍郎に遷った。尋いで太平公主に附会したことを以て、左遷されて朗州司馬となった。開元中、累転して柘州刺史となり、官にて卒した。
潘好禮
潘好禮は貝州宗城の人である。少時に郷人の孟溫禮・楊茂謙と莫逆の友たり。好禮は明経に挙げられ、累授して上蔡令となり、治績に異なるものあり、擢て監察御史となった。開元三年、累転して邠王府長史となる。俄(しばら)くして邠王が滑州刺史として出ることとなり、好禮を以て邠王府司馬を兼ね、滑州の事を知らしめた。王が遊観せんと欲する度に、好禮は輒(すなわ)ち諫めて止めた。後に王が鷹犬を将(と)り家人と出猟せんとすると、好禮はこれを聞きて道を遮り還ることを請うた。王は初め従わず、好禮は遂に馬前に臥し、呼んで曰く、「今は正に農月なり。王何ぞ時に非ずして此の悪少狗馬を将(も)ちいで禾稼を践暴し、楽を縦にして人を損ぜんとするか。先ず司馬を蹋殺せしめ、然る後に王の為さんとする所を聴かん」と。王は慚懼し、これを謝して還った。
好禮は尋いで豫州刺史に遷った。政を為すに孜孜として、細事に繁(わずら)わしく、人吏はその清厳を憚りつつも、またその苛察を厭った。その子が郷に帰り明経挙に預からんことを請うと、好禮これに謂いて曰く、「国法は平たかるべし。汝若し経業未だ精しからずんば、則ち妄りに求むべからず」と。乃ち自らその子を試した。経義通ぜず、好禮は大いに怒り、州僚を集めて笞ち枷し、州門に立てて衆に徇(しめ)した。俄(しばら)くして事に坐し左遷され、溫州別駕として卒した。好禮は常に直道を以って自ら任じ、人に附せず。また未だ累階の勲を叙せず、服用は粗陋、形骸は土木の如く、議する者もまたその名を邀(もと)めるを嫌った。
楊茂謙
楊茂謙は清河の人である。竇懷貞が初め清河令となった時、甚だこれを重んじた。起家して制挙に応じ、左拾遺に拝され、出て臨洺令となった。時に洺州では茂謙と清漳令馮元淑・肥郷令韋景駿とを称し、皆政理の声有り。茂謙は清白を以て聞こえ、擢て秘書郎となった。時に竇懷貞が相たり、数えこれを称薦した。これにより歴遷して大理正・御史中丞となる。開元初、出て魏州刺史・河北道按察使となり、司馬張懷玉とは本より同郷にして、初めは善くし末に隙あり、遂に相糾訐し、坐して貶され桂州都督となった。尋いで転じて広州都督となり、疾を以て卒した。
楊諲
楊諲は華陰の人である。高祖の縉は陳の中書舎人、辞学を以て知名。陳滅びて、始めて江左より関中に徙る。祖の琮は絳州刺史。諲は初め麟遊令たり。時に御史大夫竇懷貞が金仙・玉真の二観を造ることを検校し、牒を近県に移し、百姓の隠す所の逆人の資財を征発し、以て観の用に充てんとした。諲は拒んで受けず、懷貞怒って曰く、「焉んぞ県令の卑微にして、敢えて大夫の命を拒するあらんや」と。諲曰く、「論ずる所は人の冤抑を為すにあり、位の高卑を計るを知らず」と。懷貞その対を壮とした。また中宗の時、韋庶人が表を上して二十二歳を丁限と為さんことを請う。韋氏の敗るるに及び、省司挙げて租調を征せんとす。諲執して曰く、「韋庶人臨朝当国し、制書一に非ず。或いは階を進めて卿士と為し、或いは罪人を赦宥す。何ぞ独り已に役したる中男に於いて、重ねて丁課を征するや。恐らくは人を保つの術に非ざらん」と。省司遂に軿の執る所に依り、一切これを免じた。諲はこれにより知名となり、擢拝されて殿中侍御史となった。
開元初、侍御史に遷る。時に崔日知が京兆尹たり、貪暴にして法を犯す。諲は御史大夫李傑と将(まさ)にこれを糾劾せんとす。傑は反って日知に構えられる。諲は廷に奏して曰く、「糾弾の司、若し恐脅に遭いて以て奸人の謀を成さしむるあらば、御史台固より廃すべし」と。上その言の切直なるを以て、遽(すみや)かに傑をして旧の如く視事せしめ、日知を貶して歙県丞と為す。諲は歴遷して御史中丞・戸部侍郎となる。上嘗て延英殿にて中書門下と諸司の尚書及び瑒を召し、戸口の事を議す。諲は因りて人間の損益を奏し、甚だ嗟賞せらる。時に御史中丞宇文融が戸口を括ることを奏す。議する者或いは以て便ならずと為す。敕して百僚を省中に集めて議せしむ。時に融方に権要に在り、公卿已下多く雷同して融の議に従う。諲独り尽く理を以てこれと争う。尋いで出て華州刺史となる。
十六年、国子祭酒に遷る。表を上って薦めて曰く、「滄州人王迥質・瀛州人尹子路・汴州人白履忠、皆経学優長、德行純茂、後生の師範に堪えん。請う追いて学官に授け、其の教授せしめ、以て儒学の路を奨めん」と。追いて至るに及び、迥質は起家して諫議大夫に拝され、仍(なお)皇太子侍読たり。履忠は年老を以て職事に任ぜず、朝散大夫に拝され、家に帰し放たる。子路は直ちに弘文館教授たり。諲また奏して曰く、「窃(ひそ)かに見るに今の明経を挙ぐる者は、主司其の述作の意を詳らかにせず、曲く其の文句の難きを求め、帖試に至る毎に、必ず年頭月日、孤経絶句を取る。且つ今の明経、左伝を習う者は十に二三無し。若し此の如く久しく行わば、臣左氏の学の廃るる日に無からんことを恐る。臣望むらくは請う自今已後、考試する者は尽く平文を帖し、以て大典を存せん。又儀礼及び公羊・穀梁は殆ど将に廃絶せんとす。若し甄異無からば、恐らくは後代便ち棄てん。望むらくは請う周礼・儀礼・公羊・穀梁に通ずる者も、亦量りて優奨を加えん」と。ここに於いて制を下して曰く、「明経にて左氏及び周礼等の四経に通ずる者は、出身して散官に任ずるを免ず」と。遂に式に著す。これにより生徒諲のために頌を学門の外に立つ。再び遷りて大理卿となり、老疾を以て職を辞す。二十三年、左散騎常侍に拝される。尋いで卒す。戸部尚書を贈られ、謚して貞と曰う。
瑒は常に儀礼の廃絶を嘆き、士大夫と雖も之を行う能わず。其の家の子女の婚冠及び吉凶の会ある毎に、皆旧文に按拠し、更めて儀注を為し、長幼をして遵行せしむ。
崔隱甫
崔隱甫は貝州武城の人、散騎侍郎亻鹿の曾孫なり。祖は済、太子洗馬。父は元彦、太平令。隱甫は開元初再遷して洛陽令となり、治に威名有り。九年、華州刺史より転じて太原尹となり、人吏石を刊して其の美政を頌す。十二年、入りて河南尹となる。十四年、程行諶に代わりて御史大夫となる。時に中書令張説朝に当たり用事す。隱甫は御史中丞宇文融・李林甫と其の犯状を劾す。説遂に政事を知るを罷められる。
隠甫は在職中強直で、回避することはなかった。貞観年間に李乾祐が御史大夫となって以来、別に台獄を設け、取り調べがあるとすぐに拘禁した。これにより中丞・侍御史以下がそれぞれ勝手に人を拘禁し、牢獄は常に満員であった。隠甫は故事を引き合いに出し、不便であると上奏し、ついにこれを廃止した。また、憲司の故事では、大夫以下から監察御史までが競って官政を行い、ほとんど承稟することがなかった。隠甫は一切を督責し、事の大小を問わずすべて諮決を命じた。少しでも意に逆らう者があれば、すぐにその罪を列挙して上奏し、前後に貶黜された者はほぼ半数に及び、群僚は側目した。この冬、詔勅により隠甫は外官の考課を校定した。旧例ではすべて細かく参問に委ね、春を経ても未定であった。隠甫は天下の朝集使を召集し、一時に省中に集め、一日で考課を校定して完了した。当時の人々はその敏速な決断に敬服した。帝はかつて言った、「卿が御史大夫となって以来、海内こぞって称職であると言い、朕の委任に大いに副っている」。
隠甫はすでに張説と不和であったが、やがて互いに朋党をなした。帝はこれを聞いて嫌悪し、特に免官して母に侍ることを命じた。一年余りして、再び御史大夫を授けられた。刑部尚書に遷り、母の喪で官を去った。二十一年、喪中に太原尹に起用され、なお河東采訪処置使を兼ねた。再び刑部尚書となり、河南尹を兼ねた。二十四年、車駕が京に還ると、隠甫を東都留守とし、政務は厳粛で、人吏の嘆服するところとなった。まもなく卒去した。
李尚隠
李尚隠は、その先祖は趙郡の人であったが、代々潞州の銅鞮に住み、近くまた京兆の万年に移り住んだ。弱冠で明経に累次挙げられ、下邽主簿に補せられた。当時、姚珽が同州刺史となり、大いに礼遇した。景龍年中、左台監察御史となった。当時、中書侍郎・知吏部選事の崔湜と吏部侍郎の鄭愔が同時に選挙を掌り、勢要に傾附し、三年分の官欠員を先取りして任用したため、士庶は怨嗟した。まもなく相次いで政事を知るようになると、尚隠は同列の御史李懐譲とともに殿廷でこれを弾劾し、崔湜らはついに獄に下されて推究され、ついに貶黜された。当時また睦州刺史の馮昭泰が、桐廬令の李師ら二百余家を誣奏し、妖逆であると称した。詔により御史がこれを按覆することとなったが、諸御史は昭泰の剛愎を恐れ、皆病気と称して敢えて行かなかった。尚隠は嘆いて言った、「どうして良善を枉刑に陥れながら申明しないでいられようか」。ついに順序を越えて請い行き、ついに李師らを推問して冤罪を晴らし、上奏して赦免させた。やがて崔湜・鄭愔らが再び任用されると、尚隠は殿中侍御史から伊闕令に出され、懐譲は魏県令となった。崔湜らが死ぬと、尚隠はまた定州司馬から吏部員外郎に抜擢され、懐譲は河陽令から兵部員外郎に抜擢された。尚隠は累遷して御史中丞となった。当時、御史の王旭はかなり威権を用い、士庶に患いとされていた。ちょうど仇敵に訴えられたので、尚隠がこれを按問し、容赦するところなく、その奸贓巨万を獲得し、王旭はついに罪を得た。尚隠はまもなく兵部侍郎に転じ、再遷して河南尹となった。
尚隠の性格は率直で剛直、言うところに隠すことがなく、事を処するに明断であった。その部下を統御する様は、豁如としていた。また故事に詳しく練達し、近年の制勅をすべて暗記し、所在で良吏と称された。
十三年夏、妖賊の劉定高が夜に通洛門を犯すと、尚隠は管轄区域を覚知できなかった罪に坐し、桂州都督に左遷された。臨行に際し、帝は使者を遣わして言った、「卿の公忠は知っているが、国法はこうせねばならぬ」。よって雑彩百匹を賜って慰めた。まもなくまた広州都督に遷り、なお五府経略使を充てた。任を去る際、金を懐にして尚隠に贈ろうとする者があったが、尚隠は固く辞して言った、「わが性分によるもので、改め易くはない。四知を慎むためではない」。ついに受けなかった。累転して京兆尹となり、蒲・華二州刺史を歴任し、銀青光禄大夫を加えられ、爵を高邑伯に賜り、入朝して大理卿となり、王鉷に代わって御史大夫となった。
当時、司農卿の陳思問は多く小人を引きいてその属吏とし、ひそかに銭穀を盗み、累万に積もった。尚隠はまたこれを挙按し、思問はついに嶺南に流されて死んだ。尚隠は三たび憲官となり、その都度朝廷の憎む者を除いたので、当時の議論は大いにこれを称えた。二十四年、戸部尚書・東都留守に拝された。二十八年、太子賓客に転じた。まもなく卒去し、年七十五、諡して貞といった。
呂諲
呂諲は、蒲州河東の人である。志行は修整で、学業に勤しんだ。少時孤貧で、自ら振るうことができなかった。里人の程楚賓は財産に富み、諲はその娘を娶った。楚賓とその子の震はともにその才能を重んじ、厚く資給を与えたので、ついに京師に遊学した。天宝初年、進士に及第し、寧陵尉に調授された。本道の采訪使韋陟はその才能を嘉し、支使に辟した。隴右・河西節度使の哥舒翰が奏して度支判官に充て、累兼して衛佐・太子通事舎人となった。諲の性格は謹厳で、吏職に勤勉であり、同僚が追賞しても、塊然として事務を見て、案簿を離れず、哥舒翰はますます親しみ、累兼して虞部員外郎・侍御史となった。
安禄山の乱が起こり、哥舒翰が敗れると、粛宗が霊武で即位した。諲は馳せって行在に赴いた。内官の朱光輝・李遵がたびたび才能があると推薦したので、帝は深く遇し、超拜して御史中丞とし、進奏するものはすべて允従された。鳳翔に幸すると、武部侍郎に遷り、金紫の服を賜った。十月、両京を克復すると、詔により諲は三司官とともに賊に陥った官の陳希烈以下数百人の罪の軽重を詳定した。諲の用法はあまりに厳しく、君子はこれを薄しとした。
乾元二年三月、本官のまま同中書門下平章事となり、門下省事を知った。七月、母の喪に服して免官された。十月、喪中に起復して本官を授かり、度支使を兼ね充て、黄門侍郎に遷った。上元元年正月、同中書門下三品を加えられ、門戟を賜った。すでに第門に立てると、ある者が諲に言った、「吉慶の事には、凶服のままで受けるのは宜しくない」。諲はついに一時的に縗麻を解き、中庭で拝した。人々は皆その失礼を笑った。累加して銀青光禄大夫、東平男となった。
諲が宰相となると、妻の父の程楚賓を衛尉少卿に、子の震を員外郎に用いた。中官の馬上言が詔命の出納をすると、諲はこれを昵近した。馬上言に賄賂を納めて官を求める者があり、諲はこれを藍田尉に補した。五月、馬上言の事が露顕して笞死し、その肉を従官に食わせることを命じ、諲は坐して太子賓客に貶された。
七月、諲を荊州大都督府長史・兼御史大夫に授け、澧・朗・忠・硤五州節度観察処置等使を充てた。諲が治所に至ると、上言して江陵に南都を置くことを請うた。九月、勅により荊州を江陵府と改め、永平軍団練三千人を置き、呉・蜀の要衝を扼させた。また江陵を分けて長寧県を置いた。また潭・衡・連・道・邵・柳・涪などの七州を割いて江陵府に隷属させることを請うた。
先に、張惟一が荊州長史となり、すでに防禦使となり、陳希昂が司馬となっていた。希昂は衡州の酋帥で、家兵千人を部下に持ち、自ら藩衛としていた。牟遂金という者が将軍にまで仕官し、惟一の親将となり、希昂と積年の恨みがあった。兵を率いて惟一の衙に入り、遂金の首を要求した。惟一は恐れ、すぐに斬首して与えるよう命じた。これ以降、軍政は希昂に帰した。諲が到着すると、上奏して希昂を上都に追赴させ、侍御史に除し、出して常州刺史・本州防禦使とした。希昂が江陵を経由すると、諲は甲兵を伏せてこれを撃殺し、部下は皆斬り、屍を府門に積み上げた。府中は慴服し、初めてその罪を奏上した。
また妖人申奉芝は左道をもって李輔国に仕え、諫議大夫に抜擢された。輔国は道州の境界に軍を置くことを奏上し、奉芝を軍校とし、群蛮を誘引してその金帛を納めさせ、緋紫の官服を賞として与え、嚢中の勅書を用いて賜衣を示し、人々はこれに聴信した。軍人は例として朱紫の衣を着用し、溪洞を剽掠し、吏は制止できず、すでに数年を経ていた。潭州刺史龐承鼎はこれを憤り、奉芝が入奏する機会に乗じ、長沙に至ったところでこれを拘束した。贓物の首魁は巨万に及び、左道の文記も一時に捜索して獲得し、使者を遣わして奏聞した。輔国は奉芝を党とし、奉芝を召して闕下に赴かせるよう奏上した。召見を得るや、承鼎が曲げて誣告し陥れたことを詳しく述べた。詔して承鼎の誣罔の罪を鞫問させ、荊南府に按問させた。呂諲は判官・監察御史の厳郢にこれを鞫問させた。諲は上疏してこの事を論じたが、粛宗は怒り、郢を建州に流した。承鼎はついに雪冤を得、後に奉芝はついに贓罪により流罪となり死んだ。人々は諲の正を守ることを重んじ、その剛断にして屈しないことは、皆この類である。
初め諲が宰相となった時、同列の李揆と協調しなかった。及び諲が排斥されて二年後、善政をもって聞こえると、揆はこれを憎み、湖南に軍を置くのは不便であると言い、また人を荊・湖に遣わし、密かに諲の過失を窺わせた。諲はこれを知り、乃ち上疏して揆を論じ、揆は坐して袁州長史に貶せられた。
諲は元来病弱であったが、元年建卯月に卒し、吏部尚書を追贈され、有司は謚して「粛」といった。故吏の度支員外郎厳郢は二字を以て「忠粛」とすべく請い、博士の獨孤及は「粛」が妥当であると堅く議し、これに従った。諲は台司に在った時は異称がなかったが、江陵を治めること三年、良守と号された。初め郡人は祠を立て、諲が没して一年余り後、江陵の将吏が銭十万を合わせ、府西の爽塏の地に大いに祠宇を立て、四時に祠り祈った。
蕭定
蕭定、字は梅臣、江南蘭陵の人、左僕射・宋国公蕭瑀の曾孫である。父の恕は虢州刺史で、定のため工部尚書を追贈された。定は蔭により陜州参軍・金城丞を授かり、吏事に清幹をもって聞こえた。給事中裴遵慶が奏して選補黜陟使判官とした。戻って萬年主簿に改め、累遷して侍御史・考功員外郎・左右司二郎中となった。元載に排擠され、出て秘書少監、兼袁州刺史となり、信・湖・宋・睦・潤の五州刺史を歴任し、所莅には政声があった。
大歷年中、有司が天下の牧守の課績を条奏したが、ただ定と常州刺史蕭復・豪州刺史張鎰が理行第一であった。その農桑を勤め、賦税を均しくし、逋亡を帰復させ、戸口を増加させたことは、定がまた首位であった。尋いで戸部侍郎・太常卿に遷った。朱泚の逆乱の時、姓名を変えて里閭の間に隠匿した。京師が平定されると、真っ先に旌擢を受け、太子少師を除かれた。興元元年に卒し、年七十七、太子太師を加贈された。
蔣沇
蔣沇は萊州膠水の人、吏部侍郎蔣欽緒の子である。性は介独で学を好み、早くから名声があった。孝廉により累次洛陽尉・監察御史を授かった。兄の演・溶、弟の清とともに、幹局の吏事に能名を擅にしたことが天寶中にあった。長史の韓朝宗・裴迥は皆推覆検勾の任をこれに委ね、処事は平允で、剖断は精当であり、動もすれば群僚の楷式となった。乾元の後、陸渾・盩厔・咸陽・高陵の四県令を授かった。軍旅の後で、瘡痍未だ平らかでない時に、沇は心を竭くして綏撫し、所至安輯した。副元帥郭子儀は毎度兵を統率してその県を通過する際、必ず軍吏に誡めて言った、「蔣沇の令は清くして厳幹であるから、供億は故に素より有るべきであり、士衆は蔬飯を見饋されれば足りる、清政を撓さぬように。」そのように名士に知られていた。
稍く遷って長安令・刑部郎中・兼侍御史となり、渭橋河運出納使を領した。時に元載が政を秉り、廉潔で道を守る者は多く職を更えず、沇はこの故に郎位に滞り、久しく官を徙さなかった。
大歷十二年、常袞が群議が沇の屈していることを称するので、擢拜して御史中丞・東都副留守とした。尋いで刑部侍郎・刪定副使に遷った。大理卿に改め、法を執って明審であり、称職と号された。
建中元年冬、鑾駕が奉天に幸すると、沇は行在に奔ったが、賊の候騎に拘執され、偽職を以て誘おうとしたので、絶食して病と称し、潜かに里閭の間に竄匿した。京師が平定されると、真っ先に旌擢を受け、右散騎常侍に拝された。尋いで疾により終わり、年七十四、工部尚書を追贈された。
薛玨
薛玨、字は溫如、河中寶鼎の人。祖父の寶胤は邠州刺史。父の纮は蒲州刺史。玨は少くして門蔭により懿德太子廟令を授かり、累次乾陵臺令を授かった。間もなく、試みの太子中允、兼渭南尉に拝され、奏課第一となった。一年を隔てて、また清名尤も異なることを以て聞こえ、昭德令に遷った。県人は碑を立てて政を紀することを請うたが、玨は固く辞して受けなかった。楚州刺史・本州営田使に遷った。
先に、州の営田は宰相が遙領して使とし、刺史は専達でき、俸銭及び他の給与は百余万、田官は数百員、奉廝役する者は三千戸、毎年優授により官となる者はまた十余人であった。玨は皆これを条去し、十のうち一二を留め、租入は贏余があった。観察使に誣奏され、左遷されて硤州刺史となり、陳州刺史に遷った。
建中初め、上は使臣を分命して官吏を黜陟させ、淮南の李承は玨の楚州における煩を去り政を簡にすることを以て、山南の趙贊は玨の硤州における廉清を以て、河南の盧翰は玨の物を粛にすることを以て、皆陟状を以て聞こえさせ、中散大夫を加え、紫を賜った。宣武軍節度使劉玄佐が署奏して兼御史大夫・汴宋都統行軍司馬とした。間もなく、李希烈が汴州より逃走し、玨を汴州刺史と除し、河南尹に遷し、入って司農卿となった。
この時、詔して天下に刺史・県令に任ずべき者を挙げさせたところ、およそ百人ほどあった。詔があり、群官とともに諮問考査し、また民間の疾苦や胥吏の得失について延いて問い、そのうち惻隠の情があり事理に通達している者を条挙させたが、十のうち一二の才しかなかった。宰相は辞策をもってこれを校定しようとした。玨は言った、「良吏を求めるのに文学を兼ねて責めることはできず、聖君の愛人の本を心とすべきである」と。執政はついに難色を示さず、皆叙進して官とし、多くはその職に称する者であった。
貞元五年、京兆尹に拝された。玨は剛厳で明察、法理に練達し、勤めて身をもって下を率いたが、繊巧に失し、文学の大體はなかった。八年、竇參に坐して太子賓客に改められた。まもなく、嶺南節度観察使を除された。疾を以て卒し、年七十四、朝を一日廃し、工部尚書を贈られた。子に存慶あり、自ら伝がある。
李惠登
李惠登は平盧の人である。少くして平盧の裨将となった。安禄山が反すると、兵馬使董秦海に従って滄州・棣州等を転収し、軽師遠鬥して賊は支えることができなかった。史思明が反すると、再び賊に陥った。身を脱して山南節度使来瑱に投じ、奏して試金吾衛将軍を授けられた。
李希烈が反すると、恵登に兵二千を授け、隋州を鎮守させた。貞元初年、州を挙げて帰順し、隋州刺史・兼御史中丞を授けられた。李忠臣・希烈の殲残の後に遭い、野は曠ろで人無かった。恵登は朴素で学を知らず、官に居て抜萃するところはなかったが、率心して政を行い、皆理に順った。人に利するものは因ってこれを行い、人を病ますものは因ってこれを去り、二十年の間に田疇は開け、戸口は加わった。諸州の奏吏がその境に入る者、その能を歌謡しない者はなかった。及んで于頔が山南東道節度となると、その績を上聞し、御史大夫を加え、その州を上州に昇格させた。まもなく検校国子祭酒を加えられた。及び卒すると、洪州都督を加贈された。
任迪簡
任迪簡は京兆万年の人である。進士に挙げられた。初め天徳軍使李景略の判官となった。性重厚で、嘗て軍宴があり、行酒者が誤って酢を進めた。迪簡は誤りを知り、景略の性が厳しいことを慮り、主酒者に坐することを憂い、乃ち勉めてこれを飲み尽くし、而して偽ってその過ちを容れ、酒薄きを以て景略に白し、換えることを請うた。ここにおいて軍中皆感悦した。及んで景略が卒すると、衆は迪簡を長者として、議して帥と為すことを請うた。監軍使これを聞き、迪簡を別室に拘したが、軍衆連呼して至り、戸の扃を発いてこれを取った。表して聞かせると、徳宗は察せしめ、具に軍情を以て奏し、豊州刺史・天徳軍使を除し、殿中より兼御史大夫を授け、さらに常侍を加えた。追い入られ、太常少卿・汝州刺史・左庶子に拝された。
及び張茂昭が易定を去ると、迪簡を行軍司馬とした。既に至ると、虞候楊伯玉が府城を以て叛くに属し、俄にして衆これを殺した。迪簡の兵馬使張佐元また叛き、迪簡政めてこれを殺し、乃ち入るを得た。まもなく検校工部尚書を加え、節度使を充てた。
初め、茂昭は奢蕩で節なく、公私殫罄していた。迪簡至り、士を饗わんと欲したが、取って給する所無く、乃ち糲食を以て士とともに之を同じくした。身は戟門下に居ること凡そ周月、軍吏これに感じ、堂寝に帰ることを請うたので、迪簡乃ちその位を安んじた。三年、疾を以て代えられ、工部侍郎を除され、京に至ったが、竟に朝謝することができなかった。太子賓客に改めて卒し、刑部尚書を贈られた。
范伝正
范伝正、字は西老、南陽順陽の人である。父の倫は戸部員外郎で、郡人の李華と交友の契りを敦くした。伝正は進士に挙げられ、また博学宏辞及び書判皆甲科に登り、集賢殿校書郎・渭南尉を授けられ、監察・殿中侍御史に拝された。比部員外郎より出でて歙州刺史となり、湖州刺史に転じ、三郡を歴て、政事修理を以て聞こえた。宣歙観察使に擢げられ、代を受けて京師に至ると、憲宗その裏第の過侈を聞き、これを薄し、因って光禄卿に拝した。風恙を以て卒し、左散騎常侍を贈られた。
伝正は精悍にして立つ所あり、古を好み自ら飭った。及び廉察となると、頗る奢侈を事とし、厚く財貨を以て権貴に問遺し、公蓄を視ること私蔵の如くしたが、幸いに甚だしく敗れるに至らなかった。褐衣の時西辺に遊び、『西陲要略』三巻を著した。
袁滋
袁滋、字は徳深、陳郡汝南の人である。弱歳より強学し、外兄の道州刺史元結が重名あるを以て、往来してこれに依った。読書する毎に、玄解旨奥、結は甚だこれを重んじた。まもなく、黜陟使趙贊が処士として薦め、試校書郎を授けられた。何士幹が武昌を鎮めると、辟いて従事とし、累官して詹事府司直となった。部に邑長あり、下吏が盗金を以て誣うたが、滋はその冤を察し、竟にこれを出した。御史中丞韋縚これを聞き、侍御史として薦め、工部員外郎に転じた。
貞元十九年、韋臯初めて西南蛮夷を通じ、酋長異牟尋が琛を貢して使を請うた。朝廷方に撫諭を命じ、郎吏の行うべき者を選んだが、皆西南の遐遠を憚った。滋独り辞さず、徳宗甚だこれを嘉し、本官を以て兼御史中丞とし、節を持って入南詔使を充てた。未だ行かず、祠部郎中に遷り、使はもと通りとした。来年夏、使い還り、諫議大夫に擢げられた。俄かに尚書右丞を拝し、吏部選事を知った。出でて華州刺史・兼御史中丞・潼関防禦使・鎮国軍使となった。寛易清簡を以て政と為した。百姓に他境より至る者あれば、皆地を給して居らせ、その居を義合裏と名付けた。専ら慈恵を本とし、人甚だこれを愛した。然れども百姓に過犯ある者は、皆これを縦して理めず、盗を擒れば輒ちこれを捨て、あるいは物を以てこれに償った。征されて金吾衛大将軍に拝されると、耆耋鰥寡道を遮って進むことを得させなかった。楊於陵その任に代わると、宣言して百姓に謂って曰く、「於陵は袁公の政を易えることを敢えず」と。然る後に羅拝して訣した。
上(憲宗)が初めて国政を監した時、杜黄裳と共に宰相となり、中書侍郎・平章事に任じられた。ちょうど韋臯が没し、劉辟が兵を擁して命令を擅にした際、滋は節を持って安撫に当たった。道中に至り、検校吏部尚書・平章事・剣南西川節度使に任じられ、百姓は生祠を立てて彼のために祈った。戸部尚書に召されて任じられ、続けて荊・襄二鎮の帥となり、彰義軍節度・随唐鄧申光等州観察使に改められた。逆賊呉元済は官軍と数年にわたり対峙したが、滋はついに逗留して功績なく、撫州刺史に貶せられた。間もなく、湖南観察使に遷って卒し、年七十、太子少保を贈られた。
滋は篆籀の書に巧みで、古法を雅に有していた。使節として行った際に因り、『雲南記』五巻を著した。かつて劉暉の『悲甘陵賦』を読み、その善を褒め悪を懲らしめることは『春秋』の旨を失うものの、その文は廃すべからざるを嘆き、因って『甘陵賦後序』を著した。
子の都は、翰林学士に至って仕えた。
薛蘋
薛蘋は、河東宝鼎の人である。若くして吏事によって進み、累官して長安令に至り、虢州刺史に任じられた。朝廷は特に考課が優れているとしてこれを抜擢し湖南観察使とし、また浙江東道観察使に遷し、治行によって浙江西道観察使に遷した。風俗を廉まし、法度を守り、人々は大いに安んじた。身を治めること倹約質素で、かつて一つの緑袍を着て、十数年も替えず、因って朱紱を加えて賜わり、その後初めて解き去った。
蘋は三鎮を歴任し、凡そ十余年にわたり、家に声楽なく、俸禄は悉く諸々の親族・故人・子弟に散じた。左散騎常侍を除かれて致仕した。時に年が懸車(七十歳)を過ぎても止むことを知らない者がいたが、ただ蘋のみは年が至って疾なくして告(致仕)を請い、角巾を着て東洛に隠れ、時に大いにこれを高く評価した。卒し、年七十四、工部尚書を贈られた。
閻済美
閻済美は、進士第に登った。累ねて台省を歴任し、長者の誉れがあった。婺州刺史より福建観察使となり、また潤州刺史・浙西観察使となった。至る所で簡淡を以て治め、両地の人は、常賦の外、他のことを知らなかった。入朝して右散騎常侍に拝された。華州刺史・潼関防禦・鎮国軍使となり、入朝して秘書監となった。年が懸車に及んだことを以て、上表して骸骨を乞い、工部尚書として致仕した。後に恩例によって、累ねて進改があった。家にて歿し、年九十余。
賛
賛して曰く、聖人は世を造り、才傑は時に済(すく)う。理に在りて治を致すは、無為にして為すなり。坑鹔(苛酷)を非議し、簡易に規に従う。楽只君子は、邦家の基なり。