旧唐書
巻一百八十二、列伝第一百三十二 王重栄、王処存、諸葛爽、高駢、時溥、朱瑄
王重栄
王重栄は河中人である。父の王縦は塩州刺史であり、咸通年間に辺境の功績があった。重栄は父の蔭により軍校に補せられ、兄の重盈とともに驍雄と号され、軍中に名を知られた。広明初年、重栄は河中馬歩軍都虞候となった。黄巣の賊が長安を占拠すると、蒲帥の李都は抵抗できず、賊に臣を称し、賊は偽って重栄に節度副使を授けた。河中は京師に密接し、賊の徴求は止むことがなく、軍府は供億に疲弊し、賊の使者は百輩もいて、伝舎に充満した。重栄は李都に言った、「私は外援が未だ至らないので、詭謀をもって賊に附き難を紓いだ。今、軍府には蓄積があるが、苦しんで徴求され、また兵を収めに来るのは、賊が我を危うくするものである。もし図りを改めなければ、必ず危亡に至るであろう。橋道を絶ち、城を嬰いて自ら固めることを請う」。李都は言った、「我が兵は微力で寡く、絶てば直ちにその患いを見るであろう。ただ公がこれを図られよ。節鉞を公に仮することを願う」。翌日、李都は行在に帰り、重栄が留後事を知り、賊の使者を斬り、隣籓に援を求めた。やがて賊将の朱温が舟師を率いて同州から至り、黄鄴の兵が華陰から至り、数万でこれを攻めた。重栄は士衆を戒め励まし、これを大いに破った。その兵仗を獲て、軍声は益々振るった。朝廷は遂に節鉞を授け、検校司空とした。時に中和元年の夏である。
やがて忠武監軍の楊復光が陳・蔡の師一万人を率い、重栄と合流した。賊将の李祥が華州を守ると、重栄は勢いを合わせてこれを攻め、李祥を擒らえて徇にした。やがて朱温が同州を以て降った。賊は同州・華州を失うと、狂躁は益々熾んになった。黄巣自ら精兵数万を率い、梁田坡に至った。時に重栄の軍は華陰の南にあり、楊復光は渭北におり、掎角して賊を破り、その不意に出て、賊軍を大いに破り、その将の趙璋を獲た。黄巣は流れ矢に中って退いた。しかし重栄の師は、亡耗すること殆ど半ばであった。賊が再び来ることを懼れ、深くこれを憂えた。復光に言った、「軍は小勝したが、鋭旅を亡失した。万一賊党が再び来れば、何の軍を以て応えようか。我が成敗は、未だ知るべからざるなり」。復光は言った、「雁門の李僕射は、私の家と世々旧交があり、その尊人と私の父兄は同じく患難を共にした。僕射は身を顧みず奮い立ち、義のために死に知己に報いる。もし李雁門を援けとすることができれば、我が事は成るであろう」。そこで使者を遣わして詔を伝え兵を徴した。明年、李克用が兵を率いて至り、黄巣の賊を大いに破り、京城を収復した。その義を倡え導いた功績は、実に重栄が首であった。京師が平定されると、功により検校太尉・同平章事・瑯邪郡王となった。
光啓元年、僖宗が京に還った。喪乱の後、六軍が初めて復し、国蔵は虚竭していた。観軍容使の田令孜が安邑・解県の両池の榷課を、直に省司に属させ、以て贍給に充てることを奏した。旧事として、河中節度は榷使を兼ね、毎年定額を省に輸課していた。重栄は累表して論じ列ね、既に往例に循い、兼ねて大功を恃んだ。令孜は許さず、重栄を定州節度に移すことを奏請した。制が下ると、詔を奉ぜず、令孜は禁軍を率いてこれを攻め、沙苑に屯したが、重栄に撃破された。十二月、令孜は天子を挟んで宝雞に出幸し、太原はこれを聞くと、乃ち重栄とともに京師に入援し、使者を遣わして駕を迎え還宮させた。令孜は特に懼れ、却って幸を劫して山南に至った。朱玫が襄王を立てて制を称すると、重栄は命を受けず、太原の師と河西で会し、以て興復を図った。明年、王行瑜が朱玫を殺し、僖宗が反正すると、重栄の忠力が多くを占めた。
重栄は法を用いること稍々厳しく、晩年は特に甚しかった。部下の常行儒なる者は、嘗て譴罰を受けたことがあり、深くこれを銜んだ。光啓三年六月、行儒は兵を以て府第を攻め、重栄は夜に城外の別墅に出た。詰旦、行儒に害せられ、行儒は乃ち重盈を推して帥とした。重盈が既に立つと、行儒とその党を誅し、軍民を安集した。
乾寧初年、重盈が卒すると、軍府は行軍司馬の王珂を推して留後とした。重盈の子の王珙は、時に陝帥であり、王瑤は絳州刺史であった。王珂は即ち重栄の兄の重簡の子で、出て重栄に継いでいた。ここにおいて蒲帥を争った。王瑤・王珙は上章して論じ列ね、また朱温に書を送って云った、「王珂は我が兄弟ではなく、家の蒼頭である。小字は蟲児、どうして継嗣たることができようか」。王珂は上章して云った、「亡父には興復の功がある」。使者を遣わして太原に援を求め、太原は朝廷に保薦した。王珙は厚く王行瑜・李茂貞・韓建と結んで援とし、三鎮は互いに表薦した。昭宗は詔を以て諭して云った、「我は太原と重栄に再造の功があるので、既にその奏を俞允した」。故に明年五月、茂貞ら三人は兵を率いて入覲し、時政を賊害し、河中を王珙に授けることを請うた。王珙・王瑤は連兵して河中を攻めた。李克用は怒り、師を出して三鎮を討った。王瑤・王珙の兵は退き、克用は絳州を抜き、王瑤を斬り、乃ち渭北に師を出した。天子は王珂を河中節度とし、旄鉞を授け、仍って供軍糧料使を充てた。既に王行瑜を誅すると、克用は娘を娶らせた。王珂は親しく太原に至り、太原は李嗣昭に命じて兵を将い王珂を助け王珙を攻めさせた。王珙は戦う毎に頻りに敗れた。王珙の性格は惨刻で、人が過ちを犯せば、必ず首を斬って座前に置き、言笑自若とし、部下は皆これを苦しんだ。その削弱に因り、皆離叛を懐いた。光化二年六月、部将の李璠が王珙を殺し、自ら留後と称した。
光化末、朱温が初めて鎮・定を伏し、将に関輔を図らんとし、劉季述が廃立した際に属し、京師は俶擾した。崔胤は密かに汴に師を乞い、以て反正を図った。温はその将の張存敬・侯言に言った、「王珂は太原の勢いを恃み、籓鄰を侮慢し、骨肉相い残し、自らその事を大とす。爾は我が為に一縄を持ちてこれを縛せよ」。存敬らは兵数万を率いて河を渡り、含山よりその不意に出て、天復元年正月、兵を以て晋・絳を攻めた。王珂の将の絳州刺史陶建釗・晋州刺史張漢瑜は既に備えがなく、即ち門を開いて降った。温は別将の何絪に命じて晋州を守らせ、その援路を扼させた。二月、存敬の大軍が河中に逼り、王珂は太原に告急した。晋・絳は既に兵衝に当たり、援師は進むことができなかった。王珂の妻は書を以て太原に告げて云った、「賊勢が攻め逼り、朝夕に俘囚とならんとし、大梁に食を乞う、大人は安んじて忍び不救か」。克用は云った、「賊は前途を阻み、衆寡敵せず、救えば則ち爾と両亡する。王郎とともに朝廷に帰るべし」。王珂は計る所なく、即ち京師に帰ることを謀った。また人を遣わして李茂貞に告げて云った、「聖上は初めて反正し、詔して籓鎮に相侵伐せず、同しく王室を匡べしと。朱公は国家の約束を顧みず、卒に賊臣を遣わし、急に敝邑を攻むれば、則ち朱公の心は見るべし。敝邑若し亡びば、則ち同・華・邠・岐は諸君の保つ所能くならざるなり。天子の神器、拱手して人に授けん。これ自然の勢いなり。公は華州令公と早く精鋭を出して潼関を固め、以て敝邑に応ぜよ。僕は自ら不武を量り、公の西偏に請いて鎮守を求めん、この地は公に有せしめよ。関西の安危、国祚の延促、公のこの挙に繫る」。茂貞は答えなかった。
王珂の形勢は逼迫し、河を渡って京師に帰ろうとしたが、人心は離合集散していた。当時、河橋は破損し、流氷が詰まって、舟船の渡河は困難であった。王珂の一族は舟を岸につなぐこと数日。王珂は夜に自ら城壁の守備兵を慰撫して諭したが、黙然として応ずる者はなかった。牙将の劉訓が夜半に王珂の寝所の門に至ると、王珂はこれを叱って言った、「兵は謀反を企てるのか」。劉訓は衣を解き臂を袒いで言った、「公がもし疑われるならば、劉訓は臂を断つことを請う」。王珂は言った、「事態はどうなっているか、どうすべきか」。劉訓は言った、「もし夜に出て舟を整えて渡河を待てば、人は必ず舟を争うであろう。もし一人でも暴れ出せば、その禍は測り知れない。明日の朝を待ち、情勢を三軍に諭し、従うことを願う者が必ず半数いるであろう。それから舟に乗って朝廷に赴けば、前に進んで渡ることができる。そうでなければ、諸将校を召し寄せ、ひとまず和睦の様子を示し、賊軍を緩ませ、ゆっくりと去就を図るのが、上策である」。王珂はこれをよしとし、すぐに城に登って葛従周に言った、「私は汴王(朱全忠)とは家事の縁故がある。公は退いて駐屯すべきである。汴王が到着するのを待ち、私は自ら命令を聞こう」。葛従周は即日に退いて駐屯した。
三月、朱温が洛陽から到着し、まず王重栄の墓で哭し、悲しみに耐えず、祭文を述べて祭った。蒲州の人々はこれを聞いて感動し喜んだ。王珂は面縛して羊を牽き、出迎えようとした。朱温は返答して言った、「太師(王重栄)の舅としての恩は、いつ忘れることができようか。郎君(王珂)がもし亡国の礼をもって会おうとするならば、黄泉の下で私は何と言われよう」。王珂が出てくると、路上で迎え、手を握って歔欷し、轡を並べて入城した。
半月ほど滞在した後、葛従周に河中を守らせ、王珂は家族を挙げて汴州に移った。後に朱温は王珂に入朝させ、使いを遣わして華州の駅舎でこれを殺害した。王重栄が初めて河中を統帥してから、王珂に伝わるまで二十年であった。
王処存
王処存は、京兆府万年県勝業里の人である。代々神策軍に属し、京師の富族であり、財産は数百万を数えた。父の王宗は、軍校から累進して検校司空・金吾大将軍・左街使に至り、遙かに興元節度使を兼ねた。王宗は利殖を得意とし、時機に乗じて交易し、これによって富は王者に匹敵し、官職は財貨によって貴くなり、侯服玉食、僮僕は万指に及んだ。処存は右軍鎮使から出仕し、累進して驍衛将軍・左軍巡使となった。乾符六年十月、検校刑部尚書・義武軍節度使となった。
翌年、黄巢が京師を犯し、僖宗は行幸した。処存は数日にわたって号哭し、詔命を待たず、すぐに自軍を率いて救援に入った。二千人を間道から山南に遣わし、車駕に従って護衛させた。当時、李都が河中を守って賊に降り、王重栄が偽使を斬り、処存に使者を通じたので、同盟して誓師し、渭水の北に陣営を構えた。当時、黄巢の賊は僭号し、天下の藩鎮の多くはその偽命を受けたが、ただ鄭畋が鳳翔を守り、鄭従讜が太原を守った。処存と王重栄がまず義挙を唱え、太原を招いた。まもなく鄭畋が賊の前鋒を破り、王鐸が行在から到着したので、諸鎮は翻然として方針を改め、勤王の軍を出した。
中和元年四月、涇原行軍の唐弘夫が賊将の林言・尚譲の軍を破り、勝ちに乗じて京師に進逼した。処存は渭北から自ら驍卒五千を選び、皆白い絹を標識とし、夜に京城に入った。賊はすでに逃げ去っていた。京師の旧知が処存を見て、道を遮って慟哭し、歓呼して道を塞いだ。軍人は皆武器を捨て、邸宅を争って占拠し、町の若者は多く白い標識をつけて雑軍に混じった。翌日、賊が偵察して知り、灞上から再び京師を襲撃した。市民はこれを王師と思い、歓呼して迎えた。処存は賊に追われ、軍を収めて陣営に戻った。賊は怒り、両市の丁壮七八万を召集し、皆殺しにした。血は流れて溝となった。
処存の家は京師にあり、代々国恩を受けていた。賊寇が未だ平定せず、鑾輿が出狩していることを、事に触れて言うたびに、喑嗚して涙を流さぬことはなく、諸軍はその義を重んじた。前後十回にわたり使者を遣わして李克用を迎え、累代の姻戚関係であり、特に親密に交わった。京師を回復した後、王鐸がその功績を評価した。勤王の義挙では、処存が最も優れ、城を回復し賊を破ったのは、克用が最も優れていた。功により検校司空となった。後にまた大将の張公慶に勁兵三千を率いさせ、諸軍と合流して泰山で賊の巣窟を滅ぼし、功により検校司徒となった。
田令孜が王重栄を討とうとした時、詔により処存を河中節度使とした。処存は上奏して弁明し、言った、「重栄に罪はなく、国に対して大功がある。軽々しく任免を改めてはならず、藩鎮の心を動揺させるべきではない」。初め、幽州・鎮州の両藩は兵甲が強盛で、易定はその間にあって、侵寇に疲弊していた。李匡威が志を得て驕慢になり、常にこれを併呑しようとした。太原との姻戚関係に頼り、しばしばこれを救援した。処存もまた礼をもって隣国と睦み、軍民を優遇し、身を低くして士に下り、多くの人がこれに帰した。列鎮と対抗するに至った。累進して侍中・検校太尉となった。乾寧二年九月に卒去、六十五歳。太子太師を追贈され、忠粛と諡された。
三軍は河朔の旧例により、その子の副大使の王郜を留後として推戴した。朝廷はこれに従って命じた。旌節を授け、まもなく検校司空・同平章事を加え、累進して太保に至った。光化三年七月、汴将の張存敬が幽州に侵攻し、すぐに祁溝に入った。王郜は馬歩都将の王処直に兵を率いてこれを防がせたが、存敬に敗れ、沙河に退いて陣営を構えた。汴軍が進撃し、懐徳駅に陣営を構えた。処直の軍勢は敗走し、城中は大いに恐れた。十月、王郜は城を捨てて一族を連れて太原に奔った。太原は累次上表して検校太尉を授けた。天復初年、晋陽で卒去した。
王郜の弟 王鄴
その弟の王鄴に、李克用は娘を娶わせ、嵐州刺史・石州刺史・沔州刺史・大同軍防禦使を歴任した。天祐年間に卒去した。
王処存の同母弟 王処直
処直は、字を允明といい、処存の同母弟である。初め定州後院軍都知兵馬使であった。汴軍が侵攻した時、処直は防戦したが利あらず退却した。三軍が大いに騒ぎ、処直を帥に推戴した。王郜が出奔した後、暫く留後の事務を執った。汴将の張存敬が城を攻め、雲梯や衝車が雲のように集まった。処直は城に登って呼びかけた、「弊邑は朝廷に対して未だ忠ならざることはなく、隣藩に対して未だ礼を失ったことはない。思いがけず君が我が地に足を踏み入れるのは、どういうわけか」。朱温は人を遣わして返答させた、「なぜ太原に附き、隣道を弱くするのか」。処直は返答した、「我が兄は太原と同時に王室のために勲功を立て、地もまた隣接している。友好を修め往来するのは、常道である。ここから方針を改めることを請う」。朱温はこれを許した。引き続き罪を孔目吏の梁問に帰し、絹十万匹と牛酒を出して汴軍を犒労した。存敬は盟約を結んで退いた。朱温はこれにより旌節を授けるよう上表し、検校左僕射とした。天祐元年、太保を加え、太原王に封じられた。後に偽梁に仕え、北平王を授けられ、検校太尉となった。数年を経ず、また後唐荘宗に帰した。後十数年、その子の王都によって廃され私第に帰り、まもなく卒去した。六十一歳。
諸葛爽
諸葛爽は青州博昌の人である。県に属して伍伯として役務に服し、県令に鞭打たれたため、役務を棄て、裏謳(大道芸)で自ら生計を立てた。龐勛の乱に遭い、身を委ねて徐州の兵卒となり、軍功を重ねて小校に至った。官軍が徐州を討つと、龐勛の勢力は窮迫し、百余りを率いて泗州の守将陽群と共に帰順した。累次して汝州防禦使を授けられた。李琢が招討使となり、雲州で沙陀を討つに当たり、表して爽を副使とした。広明元年、賊が京師を陥落させると、詔により爽は代北行営の兵馬を率いて関中に急難に赴いた。爽の軍は櫟陽に駐屯した。潼関が守られず、車駕(天子)が外に出て幸すると、爽は賊に降った。黄巢は爽を河陽節度使とした。黄巢の賊が敗れると、再び表して帰順し、位を進めて検校司徒となった。
時に魏博の韓簡の軍勢は盛んであった。中和元年四月、魏人が河陽を攻め、修武において爽の軍を大いに破り、爽は城を棄てて遁走した。簡は大将に河陽を守らせた。そして出師して鄆州の曹全晸を討った。十月、孟州の人々が再び爽を誘い、爽は金商より兵千人を率いて、再び河陽に入った。そして魏人を犒労し、趙文㺹にこれを率いさせて去らせた。十一月、爽は新郷を攻めた。簡は鄆より来て迎え戦い、軍を獲嘉の西北に置いた。時に簡は魏人を率いて関輔に入り、黄巢の残党を誅除しようとし、自ら図王の志を持ち、三軍が屡々諫めても従わなかった。偏将の楽彦禎は衆心が揺らぐに乗じ、これを説き激し、牙軍は魏州に奔り帰った。爽の軍はこれに乗じた。簡の郷兵八万は大敗し、奔騰して乱死し、清水はこれにより流れなくなった。明年正月、簡は牙軍に殺され、爽の軍はこれにより大いに振るった。
黄巢の賊が敗れようとすると、爽は再び帰順した。爽は群盗より起こったが、貴くなった後は、よく治めることを善くし、至る所で法令は澄明で、人に怨嘆がなく、人士はこれをもって多くこれを称えた。光啓二年、爽が卒すると、帳中の将劉経・張言は爽の子仲方を孟の帥とした。やがて蔡賊の孫儒が衆を率いてこれを攻め、城は賊に陥ち、仲方は汴に帰し、儒は遂に孟州を拠った。
高駢
高駢は字を千里といい、幽州の人である。祖父の崇文は元和初年の功臣で、南平王に封ぜられ、別に伝がある。父の承明は神策虞候であった。駢は家世禁軍に仕え、幼くして朗抜で、文を好み、多く儒者と交遊し、理道を言うことを喜んだ。両軍の中貴は一致して称え重んじ、勇爵に縻し、累次して神策都虞候を歴任した。党項羌が叛くと、禁兵一万を率いて長武城を戍守することを命じられた。時に諸将は羌を防ぐに功がなく、ただ駢のみ隙を伺って兵を用い、出でては必ず捷った。懿宗は深くこれを嘉した。西蕃が辺境を寇すと、鎮を秦州に移し、尋いで秦州刺史・本州経略使を授けられた。
先に、李琢が安南都護となり、貨賄に貪り、夷獠に虐賦し、多くが怨み叛いた。遂に蛮軍と結んで勢を合わせて安南を攻め、これを陥落させた。これより累年将帥を命じたが、収復できなかった。五年、駢を安南都護に移した。至ると五管の兵を匡合し、期年の内に溪洞を招懐し、その首悪を誅し、一戦にして蛮卒は遁去し、交州の郡邑を収復した。また広州の饋運が艱澀であるのを以て、駢はその水路を視察し、交より広に至るまで、多く巨石が途を梗めているのを見て、工徒を購募し、法を作ってこれを除いた。これにより舟楫に滞りなく、安南の儲備に乏しからず、今日に至るまでこれに頼っている。天子はその才を嘉し、検校工部尚書・鄆州刺史・天平軍節度観察等使に遷した。鄆を治める政は、民吏これを歌った。
南詔蛮が巂州を寇し、滬を渡って肆掠した。そこで駢を成都尹・剣南西川節度観察等使とした。蜀の土は散悪で、成都には比するに垣墉がなく、駢は毎年の完葺の費を計り、磚甓でこれを甃いた。雉堞はこれにより完堅となった。雲南に檄を伝え、兵をもって境を圧し、信を講じ好を修め、敢えて入寇しなかった。位を進めて検校尚書右僕射・江陵尹・荊南節度観察等使となった。乾符四年、位を進めて検校司空・潤州刺史・鎮海軍節度・浙江西道観察等使となり、進んで燕国公に封ぜられた。
時に草賊王仙芝が荊襄を陥落させ、宋威が諸道の師を率いて討逐し、その衆は離散して江表を過ぎた。天子は駢が以前鄆を鎮め、軍民が畏服し、仙芝の徒党が鄆の人であるのを以て、駢に京口の節鉞を授け、これを招懐させようとした。尋いで諸道兵馬都統・江淮塩鉄転運等使を授けた。駢はその将張璘・梁纘に命じて分兵して賊を討たせ、前後累次捷ち、その首領数十人を降した。賊は南に趨って嶺表に至り、天子はこれを嘉した。六年冬、位を進めて検校司徒・揚州大都督府長史・淮南節度副大使知節度事となり、兵馬都統・塩鉄転運使は元の如くであった。駢は淮南に至り、城壘を繕完し、軍旅を招募し、土客の軍七万を得た。乃ち檄を伝えて天下の兵を征し、威望大いに振るった。朝廷は深くこれを倚頼し、位を進めて検校太尉・同平章事とした。
既にして黄巢の賊が仙芝の残党と合し、再び湖南・浙西の州郡を陥落させ、衆は百万と号した。黄巢は広州を拠り、天平の節鉞を求めた。朝廷は議して南海の節鉞を授けようとした。宰相の盧攜は駢と素より善くし、駢が以前浙西において既に討賊の効を立て、今方諸道の師を淮甸に集めているので、賊を捨てて士心を弱めるべきでないとした。鄭畋は議して暫く賊に方鎮を仮すべきで難を紓くべしとした。二人は朝廷で争論し、言詞が遜らず、これにより両者罷免された。駢は方に兵柄を握り、朝議の異同を聞き、心に頗るこれを平らかでないと思った。
広明元年夏、黄巢の党が嶺表より北に趨って江淮に至り、采石より江を渡った。張璘は兵を天長に勒し、これを撃たんとした。駢は朝議に己に附かざる者あるを怨み、賊をして河洛に縦横せしめ、朝廷を聳振させ、則ち従ってこれを誅さんとした。大将の畢師鐸が曰く、「妖賊百万、経過する鎮戍は無人の境を蹈むが如し。今朝廷の恃む所は都統なり、賊を破る要害の地は、唯江淮を首とす。彼衆我寡、若し津要を拠らずしてこれを撃たず、北に長淮を渡らしめば、何を以て扼束せん?中原の陷覆必ずなり!」駢は駭然として曰く、「君の言是なり。」即ち出軍を命じた。愛将の呂用之という者あり、左道をもって駢に媚び、駢は頗るその言を用いた。用之は師鐸らが功を立て、即ち己の権を奪うことを懼れ、従容として駢に謂いて曰く、「相公の勲業高し、妖賊未だ殄せず、朝廷既に間言あり。賊若し蕩平すれば、則ち威望主を震わし、功は賞せざるに居り、公安く税駕せんや?公の為に良く画すは、釁を観るに若かず、自ら多福を求めよ。」駢は深くこれを然りとし、乃ち諸将を止め、ただ兵を握り境を保つのみとした。
その年冬、賊は河洛を陥落させた。中使が駢に賊を討つことを促し、冠蓋相望んだ。駢は終に逗撓して行かず。既にして両京覆没し、盧攜死す。駢は大いに軍師を閲し、両浙を兼並し、孫策の三分の計となさんとした。天子は蜀に在り、亟に出師を命じた。中和二年五月、雉が揚州の廨舎に雊き、占者は云う、「野鳥室に入るは、軍府将に空しからん。」駢は心にこれを悪んだ。その月、尽く兵を東塘に出し、壘を結んで処り、毎日教閲し、難に赴くが如き勢いであった。仍て浙西の周宝に書を送り、共に入り京師を援けんことを請うた。宝は大喜し、即ち点閲し、将に赴かんとし、人を遣わして偵ると、その実ならざるを知った。駢は東塘に凡そ百日在り、再び広陵に還った。蓋し雊雉の異を禳わんとする所以であった。
僖宗は駢に赴難の意なきを知り、乃ち宰臣王鐸を以て京城四面諸道行營兵馬都統と為し、崔安潛之を副え、韋昭度に江淮鹽鐵轉運使を領せしむ。駢の階爵を増し、使務並びに停む。駢は既に兵柄を失い、又利権を落とし、袂を攘げて大いに詬り、累ねて章を上り論列し、語詞遜らず。其の末章に曰く、
臣伏して詔命を奉るに、臣に自省せしめ、更に依違する勿からしむと。臣天を仰ぎ地に訴え、自ら淚交流す;剣戟心に攢るが如く、湯火己に在るが若し。只だ黄巢の大寇、天長の小城を圍逼すること、四旬余り有りて、竟に敗走に至る。臣諸道の兵甲を散征し、家財を盡くして賞給すと雖も、而して諸道多く兵を發せず、財物即ち己が有と為る。縱然使者を遣わして征得すと雖も、敕旨淮を過ぐるを許さず。其の時黄巢の殘兇、纔かに二萬に及び、數千里を經過すと雖も、軍鎮盡く人無きが若し。只だ潼關已東、一徑を止むる有り、其の險固なること、井陘に甚だし。豈に狂寇奔衝して、略く阻礙無からんや、即ち百二の地、固に是れ虛言なり。神策六軍、此時安くにか在る。陛下蒼黄西に出で、內官奔命東に來たり、黎庶盡く殺傷せられ、衣冠悉く屠戮せらる。今則園陵開毀し、宗廟荊榛たり、遠近痛傷し、遐邇嗟怨す。然りと雖も、奸臣未だ悟らず、陛下猶ほ迷い、宗廟の焚燒を思わず、園陵の開毀を痛まず。臣が痛むや、實に斯に在り!此事多年に見るも、獨り今日に知るに非ず。況んや萑蒲の盜起りてより、朝廷征用すること至多し、上は帥臣に至り、下は裨將に及ぶも、臣の料る所を以てすれば、悉く坐して擒う可く、此を以て謀と為すも、安くにか事を辦ぜん。陛下今王鐸を用い、盡く兵權を主らしむ、誠に知る狂寇必ず殲え、梟巢即ち覆らんと。臣『禮』を讀みて宣尼の矍相の圃に射るに至る、蓋し觀者堵墻の如く、子路をして出で延いて射しめて曰く、「軍を潰すの將、國を亡ぼすの大夫、人後に與る者は、射に入らず」と。嚴誡斯くの如し、功を圖るや、豈に容易ならんや。陛下安くにか敗軍の將を委ね、一儒臣を陷れんことを忍びん。崔安潛到る處貪殘、只だ西川の如き、驗と為す可し、之を副貳に委ぬるも、詎ぞ戎を平げん。況んや天下の兵驕り、在處僭越す、豈に二儒士、能く強兵を戢めんや、萬一乖張せば、將に何を以てか救助せん。願わくは陛下下に黎庶を念い、上に宗祧の為に、百代に抱恨の臣有らしむること無く、千古に刮席の恥を留めしむること無からんことを。臣但だ寇東土に生じ、劉氏復興せんことを慮る、即ち軹道の災、豈に獨り往日のみならんや!乞うらくは陛下稍く神慮を留めて、以て宗社を安んぜん。今賢才野に在り、憸人朝に滿つ、陛下をして亡國の君と為らしむ、此等の計將に安くにか出でん。伏して乞うらくは官を賣り爵を鬻ぐの輩を戮し、鯁直公正の臣を征し、之を重難に委ね、之を左右に置き、宮闕を克復せん、斯に尚るは莫し!若し此時忠臣を謗誹し、烈士を沈埋せば、宗社を匡復する、未だ期有るを見ず!臣國恩深く受く、覺えず語切なり、憂懼の至りに任せず。
詔を報じて駢に曰く、
上表を省覧し、すべて承知した。卿は一門忠孝、三代の勲庸、景鐘に銘し、青史に煥たり。卿は祖父の訓を承け、弓冶の基を襲い、禁軍より起り、微より著に至る。始めは囊錐露穎、稍々知音有り、尋で天驥才を呈し、試効を急ぐ。秦州経略使より、交趾の節旄を授けられ、聯翩たる寵栄、汗漫たる富貴、断絶せず、僅かに二十年。卿の報国の功、亦た悉く数うべし。最も顕赫なるは、安南にて蛮を拒ぎ、今に至るまで海隅尚お守る。次は汶陽の日、政声洽平たり。成都に臨むに及び、驃信を脅して帰せしめ、三載の内、亦た侵淩無し。羅城を創築し、錦裏を大いに新たにす、其の雄壮たる為、実に比儔少なし。渚宮は施為に暇あらず、便ち鎮を移すべく、建鄴は安静を聞くや才に、旋って江を渡る。広陵に到るより、並びに鐘多壘、即ち亦た草寇を招降し、臨淮を救援す。およそ昭灼たる功勲、此の数者より大ならず。朝廷累ねて渥沢を加え、徽章を吝しまず、位は三公に極まり、兵は大鎮を環らす。銅塩の重務、綰握およそ七年に及び、都統の雄籓、幅圓幾ば万里に及ぶ。朕は太華の如く瞻り、長城の如く倚り、凡そ奏論有るも、依允せざる無し、其の托頼たるや、豈に神明に愧じんや。黄巢が咸京に毒を肆うより、卿は並びに隋苑を離れず。豈に金陵の苑水、鵝鸛の雄を遮り能わんや、風伯雨師、終に帆檣の利を阻まんや。帰止を聞くより、寧くも郁陶を免れんや。卿既に蕪城に安住し、鄭畋は春初に入覲す、遂に上相を命じ、師徒を親領せしめ、卿の都統の名を落とすに因り、固より亦た事例に乖かず。仍て封実を加え、優恩を表すを貴しとす。何ぞ乃ち疑忿太深く、指陳過当ならん、時に移りて省読し、深く震嗟を用う。聊か諸条を挙げ、粗く報復を申す。卿の表に云う「是れ自ら陛下微臣を用いざるより、固より微臣陛下に負くに非ず」と。朕は卿を汶上に抜き、超えて剣南を領せしめ、荊・潤・維・揚、四鎮に聯居せしむ。利を綰ねば則ち牢盆手に在り、兵を主れば則ち都統権を当つ。京北・京南・神策諸鎮に至るまで、悉く指揮の下に在り、董制の雄を知るべし。而るに乃ち貴くして司徒と作り、栄えて太尉と為り、以て用いられずと為す、何を以て用いられたりと名づけんや。卿又云う「若し旧勛を俯念し、後効を佇観せんと欲せば、何ぞ王鐸の権位を以て、臣と主持せしめざる、必ずや諸侯を糾率し、群盗を誅鋤せん」と。朕は久しく卿に兵柄を付するを縁とし、元兇を翦滅する能わず。天長より漏網して淮を過ぐるより、一兵を出だして襲逐せず、京国を奄残し、首尾三年、広陵の師、封部を離れず、忠臣積望し、勇士譏を興す。是を以て元臣を擢用し、巨寇を誅夷し、心に貔武を期し、便ち欃槍を掃わんとす。卿初めに張璘を委ね、諸道の兵士を放卻せんことを請う、辛勤して召置し、容易に放還す、璘果たして敗亡し、巢益々顛越す。卿前年の初夏、神機を逞発し、京中の朝貴に与える書に、題して云う「霊仙の教導を得、芒種の後、賊必ず蕩平せん」と。尋で天長を囲逼するを聞き、必ずや卿の手に死せんと謂う、豈知らんや魚は鼎釜に跳り、狐は網羅を脱し、遽かに長淮を過ぎ、竟に大憝と為る。都統既に禦遏する能わず、諸将更に何を以て枝梧せん。果たして連ねて関河を犯し、継いで都邑を傾けしむ。従来倚仗の意、一旦控告門無く、東南を凝睇し、惟だ淒惻を増す。朕の蒙塵して蜀に入るに及び、宗廟賊庭に汚され、天下の人心、雪涕せざる無し。既に歴数猶お在り、謳謠未だ移らざるを知り、則ち忠を懐い拗怒の臣、救難除奸の誌を貯うれば、便ち果決すべく、安んぞ因循せん。況んや恩厚き者は其の報深く、位重き者は其の心急し。此の際天下の義挙、皆淮海の率先を望む。豈知らんや近輔の儒臣、先ず首唱と為り、而して窮辺の勇将、誓誌して戎を平げんとし、関東寂寥、幹羽を見ず。初秋に表を覧むに及び、方に仲夏に兵を発すと雲い、便ち軍前に詔し、並びに汶上に移す。兵勢を聞くを喜び、旌幢を見んことを渇く。尋で宣潤阻艱と称し、天討に従い難しとす。謝玄は苻堅を淝水に破り、裴度は元済を淮西に平ぐ、必ずしも儒臣武将に如かずと謂わず。卿又云う「若し邪佞を斥逐し、忠良に親近せずんば、臣既に家を保つ能わず、陛下豈に国を安んぜんや。忽ち当に今日に、寒灰の如く棄てらる」と。未だ誰か是れ忠良、誰か邪佞たるかを委ねず。終日寵栄富貴、何ぞ嘗て其の家を保たざらん、人無くして冠戎を扞禦すれば、以て国を安んぜざる所以なり。豈に位将相を兼ね、銅塩を帯せしめ、自ら寒灰と謂い、真に浪語に同じからんや。卿又云う「園陵の開毀を通ぜず、宗廟の焚焼を念わず、臣実に之を痛む、実に茲に在り」と。且つ龜玉櫝中に毀るるは、誰が過ちぞ。鯨鯢網外に漏るるは、抑も其の由有り。卿手に強兵を握り、身に大鎮に居り、遮囲擒戮する能わず、致して脱漏猖狂せしむ、雖も則ち上は天時に系るも、抑も亦た旁ら人事に由る。朕自ら西蜀に到り、一室の中を離れず、笙歌を屏棄し、遊獵を杜絶し、蔬食口に適い、布服身に被り、香を焚きて園陵を望み、涕を雪ぎて宗廟を思い、躬を省み己を罪し、遑安せざる敢えず。「奸臣未だ悟らず」の言、誰人か肯て認めん。「陛下猶お迷う」の語、朕敢えて当たらず。卿又云う「自ら来用いる将帥、上は帥臣に至り、下は裨将に及び、臣の料る所を以て、悉く坐して擒う可し、此を以て謀と為せば、安んぞ事を集めん」と。且つ十室の邑、猶お忠信有り、天下至大、豈に英雄無からんや。況んや固く城池を守り、悉く兵甲を厳にす、縦い尽美に非ずと雖も、安んぞ平に欺かん。卿尚お黄巢を天長に縛する能わず、安んぞ諸将を坐して擒う可からん。只だ拓拔思恭・諸葛爽の輩の如き、安んぞ坐して擒う可からんや。大言を務むる勿れ、垂訓に堪えず。卿又云う「王鐸は敗軍の将、兼ねて矍相の射義を征引す」と。昔曹沫三敗し、終に魯讎を復し、孟明再奔し、竟に秦恥を雪ぐ。近代汾陽尚父、咸寧太師、亦た曾て鼓鼙に利あらず、尋で則ち功成り鐘鼎す。安んぞ王鐸大勛を立たざるを知らん。卿又云う「百代に抱恨の臣有ること無からしめ、千古に刮席の恥を留めざらしめん。但だ寇東土に生じ、劉氏復興せんことを慮る、即ち軹道の災、豈に独り往日のみならんや」と。我が国家景祚方に遠く、天命未だ窮まらず、海内の人心、尚お唐徳を楽しましむ。朕は酒色に荒まず、刑名を虧かず、生霊に怨を結ばず、宇県に財を貪らず。自ら運歴を知り、必ず延洪を保たん。況んや巡省已来、禎祥薦降し、西蜀半年の内、声名又以て備全す。塞北・日南、悉く朝貢に来たり、黠戛・善闡、並びに梯航に至る。但だ天宝・建中を慮うに、未だ今日の如くならず、清宮復国、必ず近き期有らん。卿雲う「劉氏復興」、誰か其の首たるを知らず。遽に「刮席の恥」を言い、朕を劉盆子に比すか。仍て「軹道の災」を憂え、朕を秦の子嬰に方うか。直行と称すと雖も、何ぞ太だ罔誣ならん。斯の言を三復し、尤も深く駭異す。卿又云う「賢才野に在り、憸人朝に満つ、致して陛下を亡国の君と為す、此の子等計将に安く出でん。伏して乞う、売官鬻爵の輩を戮し、鯁直公正の臣を征せん」と。且つ唐・虞の世、必ずしも尽く忠良に非ず、今巖野の間、安んぞ賢彦を遺さざらん。朕毎に銓択を令し、亦た訪求を遣わす。其の将を選び兵を料り、人を安んじ物を救うに於いて、但だ収復の業に属し、理化の基を講求せば、自ら長才有り、同く大計を匡うべし。売官鬻爵の士、中外必ず之を有せず、狂辞を聴く勿れ、以て遊説に資す。且つ朕遠く宮闕に違い、巴邛に寄寓す、恩を失う者甚だ多し、尚お怨を興さず、卿一都統を落とす、何ぞ介懷に足らん。況んや天歩未だ傾かず、皇綱尚お整い、三靈昧まず、百度猶お存す。但だ君臣の軌儀を守り、上下の名分を正し、宜しく教約に遵い、未だ可く隳淩すべからず。朕雖も沖人、安んぞ軽侮せん。但だ卿を知ること歳久しく、卿に分を許すこと深きを以て、終始の恩を存するを貴しとし、猜嫌の慮を貯うるを忽せず。宜しく深く省み、更に過言無からんことを。
駢は初め兵権を以て、藩鎮を臨み、江南を併呑せんと欲し、一朝之を失い、威望頓に滅び、陰謀自ら阻まる。故に累表を上し堅く論じ、其の故に復せんことを欲す。明年四月、王鐸諸道の師と賊を関中に敗り、京城を収復す。駢之を聞き、悔恨万状。而して部下多く叛き、計無くして出ず、乃ち神仙を求むるに托し、戎政を屏絶し、軍中の可否、呂用之に取決す。
光啓初、僖宗再び山南に幸す。李襜僭号し、偽に駢を中書令・諸道兵馬都統・江淮塩鉄転運等使に授く。駢方に怨望し、而して偽署に甘んじ、藩を称し賄を納れ、途に絶えず、晏安自得し、日を以て神仙を事とす。呂用之又暨工諸葛殷・張守一の長年の術有るを存し、駪並びに之を牙将に署す。府第に別に道院を建て、院に迎仙楼・延和閣有り、高さ八十尺、珠璣金鈿を以て飾る。侍女数百、皆羽衣霓服、声を和し曲を度し、之を鈞天に擬す。日に用之・殷・守一の三人と道家の法箓を授け、其の間に談論し、賓佐其の面を罕に見る。
府第に隋煬帝の造れる所の門屋数間有り、俗に中書門と号し、最も宏壮なり、光啓元年、故無くして自ら壊る。明年、淮南饑え、蝗西より来たり、行きて飛ばず、水に浮き城に縁りて府第に入る。道院の竹木、一夕に翦るが如く、経像幢節、皆其の首を嚙み去らる。撲つも能く止めず。旬日の内に、蝗自ら食啖して尽くす。
其の年九月、魚を雨ふ。是の月十日夜、大星延和閣の前に隕ち、其の声雷の如く、火光地を爍く。二年十一月より雨雪陰晦、三年二月に至るまで解けず。比歳稔らず、食物踊貴し、道殣相望み、饑骸地を蔽う。是の月、浙西の周宝三軍に逐はる。駢喜び、以て妖異之に当るべしと為す。
三月、蔡賊淮口を過ぐ、駢畢師鐸を令し軍を出して之を禦がしむ。師鐸高郵鎮将張神劍・鄭漢璋等と、行営の兵を率いて反し揚州を攻む。四月、城陥ち、師鐸駢を道院に囚へ、宣州観察使秦彦を召して広陵の帥と為す。既にして蔡賊楊行密寿州より兵三万を率い、虚に乗じて城を攻む。城中米斗五十千、餓死大半。駢の家屬並びに道院に在り、秦彦供給甚だ薄く、薪蒸亦闕く。奴仆延和閣の闌檻を徹し革帯を煮て之を食ひ、互いに篡啖す。駢従事盧涚を召して之に謂ひて曰く、「予三朝に国為にし、粗く功名を立てり。比に塵埃を擺脱し、自ら清浄を求め、人世と利を争はず。一旦此に至る、神道其れ何を望まんや」と。涕を掩ひて已む能はず。
初め、師鐸の城に入るや、愛将申及駢に謂ひて曰く、「逆党人数多からず、即日に防禁弛み、願はくは令公を奉じて潜かに広陵を出で、支郡に依投し、以て雪恥を図らん、賊平らぐに足らず。若し疑を持して決せずんば、及旦夕公の左右に在るを得ず」と。駢怯懼し、其の謀を行ふ能はず。九月、師鐸城を出でて戦ひ敗れ、駢の賊の内応と為らんことを慮り、又尼奉仙有り、自ら神に通ずと云ひ、師鐸に謂ひて曰く、「揚府災有り、当に大人の死有りて之に応ずべし、此より善なり」と。秦彦曰く、「大人は高令公に非ずや」と。即ち師鐸を令し兵を以て道院を攻めしむ。侍者駢に白して曰く、「賊門を攻む」と。曰く、「此れ秦彦の来るなり」と。衣を整へて之を候ふ。俄にして、乱卒階を升り、駢を曳きて之を数へて曰く、「公上は天子の恩に負ひ、下は揚州の民を陥れ、淮南塗炭、公の罪なり」と。駢言ふ暇無く、首已に地に墮つ。
駢既に死す、左右の奴客垣を踰えて遁れ、行密の軍に入る。行密之を聞き、挙軍縞素し、城を繞りて大哭する者竟日す、仍て紙を焚き酒を奠め、信宿して已まず。駢と児侄道院に死し、都て一坎に瘞し、之を氈を以て裹む。行密城に入り、駢の孫俞を判官と為し、令して喪事を主らしむ。葬送未だ行はれずして俞卒す、後故吏鄺師虔之を収葬す。
初め、師鐸の城に入るや、呂用之・張守一奔り出でて楊行密に奔る、詐りて居る所に金有りと言ふ。行密城に入り、其の家の地下を掘り、銅人を得、長さ三尺余、身に桎梏を被り、其の心を釘し、「高駢」の二字を胸に刻す、蓋し魅道を以て厭勝し其の心を蠱惑し、以て族滅に至らしむ。
畢師鐸は、曹州冤朐の人なり。乾符初、裏人王仙芝と嘯聚して盗と為り、相与に曹・鄆・荊・襄を陥す。師鐸騎射に善く、其の徒自ら「鷂子」と為す。仙芝死し、来たりて高駢に降る。初め黄巣を浙西に敗るは、皆師鐸・梁纘の効なり、頗る寵待す。
駢末年呂用之に惑はされ、旧将俞公楚・姚帰礼皆用之の讒構に為りて見殺さる。師鐸意自ら安からず、愛妾復用之に奪はる。
光啓三年三月、蔡賊楊行密淮口に逼る、駢師鐸を令し三百騎を率ひて高郵を戍らしむ。戍将張神劍亦用之を怒り、両人自安の計を謀る。用之之を伺ひ知り、亟に召還を請ふ。師鐸の母広陵に在り、信を遣はし師鐸を令して遁去せしむ。或ひは師鐸に謂ひて曰く、「請ふ神劍を殺し、並びに高郵の兵を率ひて府に趨り、令公必ず用之を殺して解と為さしめん」と。又曰く、「徐州に投ずるに如かず、則ち身存して家保たれん」と。師鐸曰く、「計に非ず。呂用之主帥を誑惑し、生民を塗炭す、七八年来、鬼怨み人怒る。今日の事、安んぞ天予に仮りて妖乱を誅し淮甸を康ならしめざるを知らんや」と。又曰く、「鄭漢璋は我が帰順時の副使なり、常に用之に切歯す、今精兵を率ひて淮口に在り。吾が此の挙を聞けば、即ち楽従せん」と。乃ち淮口に趨り、漢璋と合し、兵千人を得。又相与に高郵に至り、張神劍に計を問ふ。神劍曰く、「公事を見る遅きか。用之一の妖物のみ、前に襄王の偽命を受け、広州に鎮作し、遅留して行かず、志は淮海の節鎮を図る。令公已に其の魄を奪ふ、彼一旦事を成せば、焉んぞ能く北面して妖物に事へんや」と。即ち臂の血を割きて盟と為し、師鐸を推して盟主と為し、大丞相と称す。檄を郡県に移し、以て用之・守一・殷を誅するを名とし、乃ち其の卒長唐宏・王朗・駱玄真・倪詳・逯本・趙簡等を署し、分ち其の卒三千人を董す。
四月、広陵に急行し、大明寺に営を置く。揚州は大いに驚く。呂用之は兵を分けて城を守らせ、高駢は延和閣に登り、鼓噪の声を聞いて怪しむ。用之曰く、「師鐸の兵士が戈を返し、止めることができず、ちょうど適宜に処置したところです。公はどうか憂いなきよう。もし聞き入れなければ、ただ玄女の一符を労するのみです」と。師鐸は数日間兵を陳べ、用之はたびたび出戦する。師鐸は勝たぬことを憂い、宣州の秦彦に救いを求め、「もし広陵を得れば、公を迎えて帥とします」と言う。彦は牙将秦稠に命じ、兵三千を率いてこれを助けしむ。師鐸の門客畢慕顔が城中より出でて曰く、「人心すでに離る。これを破ること必ずせん」と。秦稠の軍至り、兵威次第に振るう。駢聞きて甚だ憂い、用之に謂いて曰く、「吾は心腹をもって爾に仗る。この輩を駕馭できず、吾を誤ること何ぞ多き。百姓は饑饉に遭い罹る。虐げ用うべからず。吾自ら手ずから手札を書きて師鐸を諭さん。大将一人をして自ら行かしむべし」と。用之は即ちその党の許戡をして駢の書を送らしむ。師鐸怒って曰く、「梁纘、韓問は何処に在るか。爾をして来させしや」と。即ちこれを斬る。用之は勁兵を選んで自衛す。一日、道院に至る。駢これを叱り去る。乃ち猶子の傑に牙兵を握らせ、師鐸の母に書を作らせ、大将古鍔と師鐸の子を遣わし、出城してこれを諭さしむ。師鐸は子を還し、白して曰く、「令公の恩徳に背かんとせず、ただ淮南の弊を除かんとするのみ。ただ用之、守一を斬らば、即日に退き高郵に還らん」と。秦稠は西南隅を攻む。城中これに応ず。即日城陥つ。呂用之は参佐門より遁走す。駢、師鐸の至るを聞き、服を改めてこれを待ち、師鐸と交拜し、賓主の儀の如くす。即日に署して節度副使とし、漢璋、神劍皆職事を署す。
秦稠は府庫を点検し、これを監守す。なお密かに彦を宣州より召す。或る者師鐸に謂いて曰く、「公は昨日起兵して二つの妖物を誅せし故、人情楽しんで従う。今軍府すでに安んず。事理を以てこれを論ずれば、公は宜しく政を高公に還し、自ら兵馬を典し、戎権を手にし、取舍自由にすべし。藩隣これを聞き、大義を失わず。議する者皆言う、秦稠が城を破る日、すでに秦彦を召せりと。彦もし帥とならば、兵権は足下に有らず。公はその援に感じ、ただ金玉を以てこれに報い、その江を渡るを阻む、最も上策なり。もし秦彦が帥と作らば、則ち楊行密は朝に聞きて夕に至らん。もし高令復た帥とならば、外寇必ず自ら巻き懐かん」と。師鐸は猶豫して未だ決せず、而して秦彦の軍至る。
五月、彦は節度使となり、師鐸を行軍司馬に署し、牙外に移り住ましむ。心頗る悦ばず。是の月、楊行密は軍を引きて揚州を攻む。彦の兵拒戦して継ぎて敗る。八月、師鐸と鄭漢璋は軍を出し万人を以て行密を撃つ。皆大敗して還る。ここより復た出でず。九月、師鐸は高駢を殺す。十月、秦彦、師鐸は囲みを突いて遁走す。十一月、秦彦、師鐸は蔡賊孫儒の兵三万を引きて揚州を囲む。行密は汴に救いを求め、朱全忠は大将李璠を遣わし師を淮口に率い、以て声援と為す。孫儒は広陵未だ下らず、而して汴の卒来り、又秦彦、師鐸の異志を慮る。四年正月、孫儒は秦彦、師鐸を高郵の南に斬る。鄭漢璋も亦死す。
附 秦彦
秦彦は、徐州の人、本名は立。卒と為り、徐軍に隷す。乾符中、盗みに坐して獄に繫がれ、将に死せんとす。夢に人これに謂いて曰く、「爾は我に随うべし」と。及び寤るに、械破れ、乃ち逸去するを得。因りて名を彦と改む。乃ち徒百人を聚め、下邳の令を殺し、その資装を取りて黄巢の軍に入る。巢の兵、淮南に敗るるや、乃ち許勍と俱に高駢に降る。累ねて奏して和州刺史を授く。中和二年、宣歙観察使竇潏病む。彦は兵を以て襲い取りしむ。遂に潏に代わりて観察使と為り、朝廷因りてこれを命ず。
光啓三年、揚州牙将畢師鐸その帥高駢を囚う。外寇来侵を懼れ、乃ち彦を迎えて帥と為す。彦は池州刺史趙锽を召して宣州の事を知らしめ、自ら衆を率いて揚州に入る。師鐸は彦を推して帥と為す。
五月、寿州刺史楊行密は兵を率いて彦を攻む。その将張神劍を遣わし、兵を統べさせて湾頭の山光寺に屯せしむ。行密は大雲寺に屯し、北は長岡に跨り、前は大道に臨み、楊子江より北は槐家橋に至るまで、柵壘相聯る。秦彦城に登りてこれを望み、懼色形に現る。秦稠、師鐸に命じ勁卒八千を率いて出でて闘わしむ。行密に掩われる所となり、尽く没す。稠これに死す。彦急ぎ蘇州刺史張雄に援を求む。雄は兵を率いてこれに赴き、東塘に屯す。重囲半年、城中芻糧並びに尽き、草根木実、市肆の薬物、皮嚢革帯、これを食うも亦尽きる。外軍は人を掠めて売り、人五十千。死者十六七、縦え存する者も鬼形鳥面、氣息奄然たり。張雄は軍糧多く、相約して交市す。城中は宝貝を以て米を市い、金一斤、通犀帯一、米五升を得る。雄の軍は貨を得て、戦わずして去る。九月、畢師鐸出でて戦い、又敗る。ここより日ごとに秦彦と相対して嗟惋す。神尼奉仙に問う、何を以てか済わんと。尼曰く、「走るを上計と為すなり」と。十月、彦と師鐸は囲みを突いて孫儒に投ず。並びに殺される所と為る。
江淮の間、広陵は大鎮、富は天下に甲たり。師鐸、秦彦の後より、孫儒、行密継ぎ踵いで相攻ち、四五年の間、兵を連ねて息まず、廬舍焚蕩し、民戸喪亡し、広陵の雄富は地を掃う。
時溥
時溥は、彭城の人、徐の牙将。黄巢長安に据わる。詔して天下の兵を征し進討せしむ。中和二年、武寧軍節度使支詳は溥と副将陳璠を遣わし師五千を率いて難に赴かしむ。河陰に行き至り、軍乱れ、河陰県を剽して回る。溥は招合撫諭し、その衆復た集まる。罪を懼れ、境上に屯す。詳は人を遣わし迎え犒い、悉くこれを恕す。溥は乃ち軍を移して徐州に向かう。既に入るや、軍人大呼し、溥を推して留後と為し、詳を大彭館に送る。溥は大いに資装を出し、陳璠を遣わし詳を援けて京に帰らしむ。詳は七里亭に宿す。その夜、璠に殺される所となり、挙家屠害せらる。溥は璠を以て宿州刺史と為す。竟に命に違いて詳を殺す。溥は璠を誅し、又別将に命じ軍三千を帥いて難に京師に赴かしむ。天子宮に還り、これに節鉞を授く。
及び黄巢陳州を攻め、秦宗権蔡州に据わり、賊と連結す。徐、蔡相近し、溥は師を出してこれを討つ。軍鋒益々盛んに、戦う毎に屡々捷つ。黄巢の敗るるや、その将尚讓は数千人を以て溥に降り、後林言又黄巢の首を斬りて徐州に帰す。時溥の功第一に居り、詔して検校太尉、中書令、鉅鹿郡王を授く。宗権未だ平らず、仍く溥に徐州行営兵馬都統を授く。
蔡州の賊が平定されると、朱全忠は時溥と功績を争い、互いに恨みを抱くようになった。淮南が乱れると、朝廷は朱全忠に淮南節度使を遙任させ、孫儒と楊行密の乱を平定させようとした。汴軍が応援に向かう途中、徐州を通る道を時溥が遮った。朱全忠は怒り、軍を出して徐州を攻めた。光啓から大順までの六、七年の間、汴軍が四方から集まり、徐・泗の三郡では民は耕作できず、連年水害に見舞われ、人口の十の六、七を失った。時溥は窮迫し、汴に和睦を求めた。朱全忠は「鎮を移すならばよい」と言った。時溥はそれを承諾した。朝廷は尚書の劉崇望を時溥の代わりに任じ、時溥を太子太師とした。時溥は城外に出て害を受けることを恐れ、交代を受け入れなかった。汴将の龐師古が野に兵を陳べると、時溥は兗州に援軍を求めた。朱瑾が兵を出して救援したが、大雪に遭い、食糧が尽きて引き返した。城中の城壁を守る者はひどく飢え、さらに疫病が加わった。汴将の王重師と牛存節が夜に梯子をかけて城内に入り、時溥は妻子と共に楼に登って自ら焼死した。景福二年四月のことである。その地は汴に帰した。
朱瑄
朱瑄は宋州の人である。父の慶は、塩を盗んで法に触れた。朱瑄は青州に逃れ、王敬武の牙軍の兵卒となった。中和の初め、黄巢が長安を占拠すると、詔勅で天下の兵を徴発した。敬武は牙将の曹全晸に兵三千を率いさせて関西の難に赴かせ、朱瑄を軍候とした。ちょうど青州が危急となったので、敬武は全晸を召還し、その途上で鄆州を通った。当時、鄆帥の薛崇は草賊の王仙芝に殺され、鄆将の崔君裕が州事を代行していた。全晸はその兵が少ないことを知り、君裕を襲撃して殺し、鄆州を占拠して自ら留後を称した。朱瑄に功があったので、濮州刺史に任じ、牙軍の将として留め置いた。
光啓の初め、魏博の韓簡が曹・鄆を併呑しようとし、兵を率いて黄河を渡り鄆州を取ろうとした。全晸が兵を出して迎え撃ったが、魏軍に敗れ、全晸は戦死した。朱瑄は残った兵を収容し合流させ、州城を守った。韓簡が半年間包囲攻撃したが、陥落させることができなかった。ちょうど魏軍に乱が起こり、退去した。朝廷はこれを賞賛し、節度使の節鉞を授けた。
当時、朱瑄は三万の兵を有していた。その弟の瑾は、勇気が三軍に冠たり、天下を争う志を持っていた。秦宗権が盛んな時、しばしば鄭・汴を侵した。朱全忠が賊に攻められ、非常に窮地に陥り、朱瑄に救援を求めた。朱瑄は硃瑾に命じて軍を出してこれを救援させた。秦宗権を撃破し、全忠は朱瑄と極めて親密な関係となった。
全忠は狡猾で裏切りやすく、虎のごとく隣接する藩鎮を睨んでいた。秦宗権が誅殺されると、急いで徐州を攻めた。時溥が朱瑄に救援を求めると、朱瑄は全忠に書簡を送り、時溥を許して和好するよう請い、全忠は偽ってこれを承諾した。朱瑄は全忠に恩を施したと思い、使者を遣わしてこれを責め、また硃瑾に軍を出させて時溥を救援させた。徐・泗が平定されると、全忠は兵を移して鄆州を攻めた。三、四年の間、毎年春と秋にその境に侵入して略奪し、人は耕作や機織もできず、民の十の五、六が捕虜となり、朱瑄の防備は尽き果てた。景福の末、弟の瑾と両鎮の兵を合わせ、汴軍と魚山の下で大戦し、朱瑄・朱瑾ともに敗れ、兵士は陥没した。汴将の朱友裕が長い塹壕で包囲した。乾寧四年正月、城中の食糧が尽き、朱瑄は妻の栄氏と共に逃亡し、中都に至り、野人に害され、首は汴州に伝えられた。栄氏は汴州に至り尼となった。
朱瑄の同母弟 瑾
朱瑾は、朱瑄の同母弟で、勇猛果敢で戦いに長けていた。初め、乾符の末、朝廷は将軍の斉克譲を兗州節度使とした。朱瑾はこれを襲って奪おうとし、克譲に婚姻を求めた。親迎の時、朱瑾は勇士を選んで護衛とし、婚礼の夜に密かに兵を起こし、克譲を追い払い、遂に城を占拠して留後を称した。朝廷はやむを得ず、節鉞を授けた。朱瑄が平定されると、汴人が兵を移して兗州を攻め、一年を経て食糧が尽き、朱瑾は城外に出て食糧を求めた。帰還しようとした時、別将に拒まれて入ることができなかった。そこで淮河を渡って楊行密に身を寄せた。行密は彼を寵愛して厚遇し、寿州刺史に任用し、清口で汴軍を大破した。これ以降、全忠は兵を率いて淮河を渡ることを敢えてしなかった。朱瑾は、楊溥の時に乱を謀り、徐知訓に殺された。
史臣曰
史臣が言う。疾風に勁草を知り、世乱れて忠臣を見る。誠にこの言は然り。土徳の運が中衰し、賊の黄巢が僭越し、藩伯が王事に勤め、難に赴く者は、概ね名声はあっても実質はなかった。ただ王重栄のみが近関で賊の使者を斬り、王処存のみが安喜で義兵を挙げ、身を挺して涙ながらに赴き、禍患を顧みず、遂に義徒が雲のごとく集まり、逆党の勢いを窮した。冕服を着て軒車に乗り、家を伝え土地を賜わるのは当然である。しかし重栄は峻法によって傷つき、厳しくして恩が少なく、禍が輿臺(下僕)から起こったのは、誠に枉った横死を悲しむべきである。高駢は禁軍から身を起こし、かなり功名を立てたが、賊を侮り妖術を崇め、このような狼藉を招いた。後の勲功と徳行は、前軍の戒めとすべきである。朱瑄・時溥は善をもって取らなかったので、固より凶終すべきであった。朱瑾がこのような狼のような心を持っていて、どうして虎の口を逃れられようか。王綱が乱れ、群盗がここに至る。また何を言わんや。
贊
贊に言う。王者は運を撫で、安きに居りて危うきを慮う。徳をもって処さざれば、即ち盗賊に窺われる。乾坤が覆り蕩かされ、生民は離散流離する。高駢の上奏文を読めば、涕涙を流すべきである。