舊唐書

巻181

巻181

舊唐書

原文舊唐書

卷一百八十一

原文卷一百八十一

列傳第一百三十一 史憲誠 子孝章 何進滔 韓允忠 樂彥禎 羅弘信

原文列傳第一百三十一 史憲誠 子孝章 何進滔 韓允忠 樂彥禎 羅弘信

史憲誠

原文史憲誠

史憲誠は、その先祖は奚の虜より出で、今は霊武建康の人である。祖父の道德は、開府儀同三司・試太常卿・上柱国・懐沢郡王であった。父の周洛は、魏博の軍校となり、田季安に仕え、兵馬大使・銀青光禄大夫・檢校太子賓客・兼御史中丞・柱国・北海郡王に至った。憲誠は初め材勇をもって、父に従い軍中の右職を歴任し、兼監察御史となった。元和年中、田弘正が李師道を討つに当たり、憲誠に先鋒四千人を率いて河を渡らせ、累ねてその城柵を陥とした。また大軍を以て斉しく進み、勢いに乗じて敗軍を逐い、魏の全軍は鄆の城下に迫った。師道は窮迫し、劉悟がその首を斬って魏軍に投じた。功を録し、憲誠を超えて兼中丞に任じた。

原文史憲誠,其先出於奚虜,今爲靈武建康人。祖道德,開府儀同三司、試太常卿、上柱國、懷澤郡王。父周洛,爲魏博軍校,事田季安,至兵馬大使、銀青光祿大夫、檢校太子賓客、兼御史中丞、柱國、北海郡王。憲誠始以材勇,隨父歷軍中右職,兼監察御史。元和中,田弘正討李師道,令憲誠以先鋒四千人濟河,累下其城柵。復以大軍齊進,乘勢逐北,魏之全師迫於鄆之城下。師道窮蹙,劉悟斬首投魏軍。錄功,超授憲誠兼中丞。

鎮州の王承宗が死ぬと、弘正は魏より移って鎮州を領した。数ヶ月を経て、王廷湊に殺され、遂に兵を以て叛いた。朝廷は弘正の子の布を以て魏博節度使とし、兵を率いて討伐させ、父の冤を復せしめようとした。時に幽州の朱克融が廷湊を援助し、布はこれを制することができず、自ら引決し、軍情は囂然とした。

原文鎮州王承宗死,弘正自魏移領鎮州。居數月,爲王廷湊所殺,遂以兵叛。朝廷以弘正子布爲魏博節度使,領兵討伐,俾復父冤。時幽州硃克融援助廷湊,布不能制,因自引決,軍情囂然。

憲誠は中軍都知兵馬使であり、乱に乗じて河朔の旧事を以てその人心を動かし、諸軍は即ち擁して魏に帰り、共に帥に立てた。国家はこれにより命じた。時に克融・廷湊は並びに兵を拠って乱を為し、憲誠は旄節を得たことを喜び、外は朝旨に順うも、中には朱・王と輔車の勢いを為した。長慶二年正月の事である。

原文憲誠爲中軍都知兵馬使,乘亂以河朔舊事動其人心,諸軍即擁而歸魏,共立爲帥,國家因而命之。時克融、廷湊並據兵爲亂,憲誠喜得旄節,雖外順朝旨,而中與硃、王爲輔車之勢,長慶二年正月也。

尋いで司門郎中韋文恪を遣わして宣慰せしむ。時に李㝏が乱を為し、憲誠と書問を通交せし。憲誠は表を上りて㝏に節鉞を与えることを請い、なお黎陽に舟を艤して、河を渡らんとする意を示した。文恪に会うに及び、挙止驕倨にして、その言甚だ悖る。旋ちに㝏が帳下に殺されたと聞き、乃ち改過に従い、文恪に謂いて曰く「憲誠は蕃人、猶狗のごとし、唯だ主を識るのみ。棒打たるるも、終に離れ忍びず」と。その狡譎此の如し。朝廷は毎に優容し、尋いで左僕射を加う。敬宗即位し、司空しくうに進秩す。

原文尋遣司門郎中韋文恪宣慰。時李㝏爲亂,與憲誠書問交通。憲誠表請與㝏節鉞,仍於黎陽艤舟,示欲渡河。及見文恪,舉止驕倨,其言甚悖。旋聞絺爲帳下所殺,乃從改過,謂文恪曰:「憲誠蕃人,猶狗也,唯能識主。雖被棒打,終不忍離。」其狡譎如此。朝廷每爲優容,尋加左僕射。敬宗即位,進秩司空。

太和二年、滄景節度使李全略卒す。その子同捷、軍城を窃かに拠り、表して符節を邀え、兵を挙げてこれを伐つ。先だって、憲誠は全略と婚媾し、同捷の叛するに及び、また潜かに糧餉を以て助けたり。上は屡に使を発して申諭し、尋いでまた就いて平章事を加う。憲誠は嘗て驍ぎょう将を闕下に遣わし、恣に張大を為さしむ。宰相韋處厚、語を以てこれを折剉す。憲誠敢えて復た同捷と応を為さず。時に憲誠は出師して共に同捷を討つを示す。滄景平らぎ、司徒しとを加う。憲誠心に自ら安からず、乃ち子の孝章を遣わして入覲せしめ、また飛章して願わくは管する所を以て命に奉らんとす。上これを嘉す。乃ち侍中を加え、鎮を河中に移す。憲誠は素より向背を懐き、忠誠を以てその衆を感激する能わず。未だ城を出でざるに、太和三年六月二十六日夜、軍衆に害せらる。冊して太尉を贈る。

原文太和二年,滄景節度使李全略卒,其子同捷竊據軍城,表邀符節,舉兵伐之。先是,憲誠與全略婚媾,及同捷叛,復潛以糧餉爲助。上屢發使申諭,尋又就加平章事。憲誠嘗遣驍將至闕下,恣爲張大,宰相韋處厚以語折剉之,憲誠不敢復與同捷爲應。時憲誠示出師共討同捷。及滄景平,加司徒。憲誠心不自安,乃遣子孝章入覲,又飛章願以所管奉命。上嘉之。乃加侍中,移鎮河中。憲誠素懷向背,不能以忠誠感激其眾。未及出城,太和三年六月二十六日夜,爲軍眾所害,冊贈太尉。

憲誠の子 孝章

原文憲誠子 孝章

孝章は、幼くして聰悟好学なり。元和年中、李醞が魏帥たりし時、大将の子弟を取って軍籍に列す。孝章は倡言して文職に効いたんことを願い、醞これを奇とし、府参軍を摂せしむ。憲誠が節鉞を領するに及び、士曹参そうしん軍・兼監察御史に改め、緋を賜う。孝章は父が鎮に在りて朝旨に多違うを以て、嘗て雪涕して極諫し、逆順の理を備え陳ぶ。朝廷聞きてこれを嘉し、乃ち檢校太子左諭德・兼侍御史を授け、節度副使を充てしむ。累遷して散騎常侍さんきじょうじ・兼御史大夫に至り、紫を賜う。本道の兵を領して同しく滄景を平らげ、工部尚書を加う。尋いで闕に赴かんことを請い、文宗慰労すること甚だ厚し。憲誠も亦因りて懇に朝覲を乞う。上は憲誠の入覲するは、孝章の謀より出づるを知り、遂に礼部尚書を加え、相・衞えい・澶の三州を分かちて別に一鎮と為し、孝章にこれを領せしむ。孝章未だ鎮に到らざるに、憲誠害に遇う。上は孝章に忠節有るを以て、起復して右金吾衞将軍と為す。間歳、鄜坊節度使を授く。四年居りて、滑に遷る。一歳、入りて右領軍大将軍と為り、右金吾大将軍に改め、俄に邠寧節度を授く。

原文孝章,幼聰悟好學。元和中,李醞爲魏帥,取大將子弟列於軍籍。孝章倡言願效文職,醞奇之,令攝府參軍。及憲誠領節鉞,改士曹參軍、兼監察御史,賜緋。孝章以父在鎮多違朝旨,嘗雪涕極諫,備陳逆順之理。朝廷聞而嘉之,乃授檢校太子左諭德、兼侍御史,充節度副使。累遷至散騎常侍、兼御史大夫,賜紫。領本道兵同平滄景,加工部尚書。尋請赴闕,文宗慰勞甚厚,憲誠亦因懇乞朝覲。上知憲誠之入覲,自孝章之謀,遂加禮部尚書,分相、衞、澶三州別爲一鎮,俾孝章領之。孝章未到鎮,憲誠遇害。上以孝章有忠節,起復爲右金吾衞將軍。間歲,授鄜坊節度使。居四年,遷於滑。一歲,入爲右領軍大將軍,改右金吾大將軍,俄授邠寧節度。

孝章は三鎮を歴たり、異績無きも、身を謹み法を畏れ、以て初終を保つ。開成三年十月卒す。右僕射を贈る。

原文孝章歷三鎮,雖無異績,而謹身畏法,以保初終。開成三年十月卒,贈右僕射。

何進滔

原文何進滔

何進滔は、霊武の人である。曾祖の孝物、祖の俊、並びに本州の軍校なり。父の默は、夏州衙前兵馬使・檢校太子賓客・試太常卿たり。進滔の貴に因り、左散騎常侍を贈らる。進滔は魏に客寄し、軍門に質を委ね、節度使田弘正に事う。弘正詔を奉じて鄆州を討ち、李師道を破る。時に進滔は衙内都知兵馬使たりしを以て、功により兼侍御史を授かる。太和三年、軍衆史憲誠を害し、連声して呼びて曰く「衙内都知兵馬使何端公に留後を知らしめば、即ち三軍安んず」と。推してこれを立てる。朝廷因りて進滔に左散騎常侍・魏博等州節度観察処置等使を授く。魏帥として十余年、大いに民情を得、累官して司徒・平章事に至り卒す。

原文何進滔,靈武人也。曾祖孝物,祖俊,並本州軍校。父默,夏州衙前兵馬使,檢校太子賓客,試太常卿。以進滔之貴,贈左散騎常侍。進滔客寄於魏,委質軍門,事節度使田弘正。弘正奉詔討鄆州,破李師道,時進滔爲衙內都知兵馬使,以功授兼侍御史。太和三年,軍眾害史憲誠,連聲而呼曰:「得衙內都知兵馬使何端公知留後,即三軍安矣。」推而立之。朝廷因授進滔左散騎常侍、魏博等州節度觀察處置等使。爲魏帥十餘年,大得民情,累官至司徒、平章事卒。

進滔の子 弘敬

原文進滔子 弘敬

子の弘敬その位を襲ぐ。朝廷時に河中帥李執方・滄州帥劉約を遣わし、各使を遣わして帰闕せしむるを勧め、別に朝旨を俟たしむ。弘敬従わず、竟に節制を加う。劉稹の反するに及び、時に兵を起さず。鎮州の王元逵、邢・洺の二州を下し、兵は上党に次ぐ。弘敬方に師を出して境を圧す。大中後、宣宗その姑息を務め、継いて官爵を加え、亦た使相に至る。咸通初、卒す。子の全皞これ嗣ぐ。朝廷尋いで符節を降し、累官亦た同平章事に至る。十一年、軍人に害せらる。子孫相継ぎ、四十余年。

原文子弘敬襲其位。朝廷時遣河中帥李執方、滄州帥劉約各遣使勸令歸闕,別俟朝旨。弘敬不從,竟就加節制。及劉稹反,不時起兵。鎮州王元逵下邢、洺二州,兵次上黨,弘敬方出師壓境。大中後,宣宗務其姑息,繼加官爵,亦至使相。咸通初,卒。子全皞嗣之。朝廷尋降符節,累官亦至同平章事。十一年,爲軍人所害。子孫相繼,四十餘年。

韓允忠

原文韓允忠

韓允忠は魏州の人である。旧名は君雄といい、懿宗が今の名を改めて賜った。父は国昌、本州の右職を歴任した。会昌年中、何弘敬に従って劉稹を破り、功により貝州刺史・兼御史中丞となった。允忠の故をもって、累贈して兵部尚書となった。允忠は若くして軍門に仕え、裨校に昇進した。潞州の役にもこれに従軍した。咸通十一年、何全皞が軍衆に殺されると、允忠を推して帥とした。時に僖宗は普王であり、すなわち詔を降して遙かに節度を領し、允忠に左散騎常侍・兼御史中丞を授け、節度観察留後を充てた。数ヶ月も経たずして、転じて検校工部尚書・魏州大都督ととく府長史・充魏博節度観察等使となった。累加して検校司空・同平章事に至った。乾符元年十一月に卒す。年六十一。累贈して太尉となった。

原文韓允忠,魏州人也。舊名君雄,懿宗改賜今名。父國昌,歷本州右職。會昌中,從何弘敬破劉稹,以功爲貝州刺史、兼御史中丞。以允忠故,累贈兵部尚書。允忠少仕軍門,繼升裨校。潞州之役,亦與其行。咸通十一年,何全皞爲軍眾所殺,推允忠爲帥。時僖宗爲普王,即降詔遙領節度,授允忠左散騎常侍、兼御史中丞,充節度觀察留後。不數月,轉檢校工部尚書、魏州大都督府長史、充魏博節度觀察等使。累加至檢校司空、同平章事。乾符元年十一月卒,年六十一。累贈太尉。

允忠の子 簡

原文允忠子 簡

子の簡は、允忠が初めて軍帥を授けられた時から、節度副使となった。乾符の初め、累官して検校工部尚書に至った。允忠が卒すると、すなわち起復して節度観察留後となった。一月余りして、検校右僕射を加えられた。その後累加して侍中に至り、昌黎郡王に封ぜられた。

原文子簡,自允忠初授戎帥,便爲節度副使。乾符初,累官至檢校工部尚書。允忠卒,即起復爲節度觀察留後。逾月,加檢校右僕射。其後累加至侍中,封昌黎郡王。

賊の黄巣の乱に、諸葛爽はその偽命である河陽節度使を受けた。時に僖宗は蜀しょくにあり、寇盗が蜂起した。簡は六州を拠有し、甲兵が強盛であったため、ひそかに僭乱の志を抱き、かつその封疆を啓かんと欲し、すなわち兵を挙げて河陽を攻めた。爽は城を棄てて走った。簡はすなわち兵を留めて守り、北に邢・洺を掠めて帰り、すなわち軍を移して鄆を攻めた。鄆の帥曹全晸は出戦し、簡に敗れて死んだ。鄆の将崔君裕が残衆を収合し、鄆州を保った。簡は進んでその城を攻めたが、半年下らず、河陽はふたたび諸葛爽に襲われた。簡はすなわち先ず君裕を討ち、次いで河陽に及ぼさんと欲し、すなわち兵を挙げて鄆に至った。君裕は降を請うた。まもなく軍を移してふたたび河陽を攻め、新郷に至った時、爽の軍に逆撃され、敗れた。簡は単騎で奔回し、憂憤した。背に疽を発して卒した。時に中和元年十一月である。

原文賊巢之亂,諸葛爽受其偽命河陽節度使。時僖宗在蜀,寇盜蜂起,簡據有六州,甲兵強盛,竊懷僭亂之志,且欲啟其封疆,乃舉兵攻河陽,爽棄城而走。簡遂留兵保守,因北掠邢、洺而歸,遂移軍攻鄆。鄆帥曹全晸出戰,爲簡所敗,死之。鄆將崔君裕收合殘眾,保鄆州。簡進攻其城,半年不下,河陽復爲諸葛爽所襲。簡因欲先討君裕,次及河陽,乃舉兵至鄆,君裕請降。尋移軍復攻河陽,行及新鄕,爲爽軍逆擊,敗之。簡單騎奔回,憂憤。疽發背而卒,時中和元年十一月也。

楽彦禎

原文樂彥禎

楽彦禎は魏州の人である。父は少寂、澶・博・貝の三州刺史を歴任し、工部尚書を贈られた。彦禎は若くして本州の軍校となった。韓簡が節旄を領した時、彦禎を馬歩軍都虞候とし、転じて博州刺史とした。河陽を下し、諸葛爽を走らせた。功があり、澶州刺史に遷った。簡がふたたび河陽を討って敗れた時、彦禎は一軍を率いて先に帰り、魏人はすなわち共にこれを立てた。朝廷はまもなく検校工部尚書を授け、魏博留後を権知させた。やがて戸部尚書を加え、節度観察処置等使を充てた。中和四年、累加して尚書左僕射・同平章事に至った。僖宗が蜀より回った時、開府儀同三司を加えられ、司徒に冊拝された。

原文樂彥禎,魏州人也。父少寂,歷澶、博、貝三州刺史,贈工部尚書。彥禎少爲本州軍校。韓簡之領節旄也,以彥禎爲馬歩軍都虞候,轉博州刺史。下河陽,走諸葛爽。有功,遷澶州刺史。簡再討河陽之敗也。彥禎以一軍先歸,魏人遂共立之。朝廷尋授檢校工部尚書,知魏博留後。俄加戸部尚書,充節度觀察處置等使。中和四年,累加至尚書左僕射、同平章事。僖宗自蜀回,加開府儀同三司,冊拜司徒。

彦禎は志満ちて驕大となり、動くごとに不法が多い。ある時六州の衆を徴発し、羅城を板築し、河門の旧堤に沿って周囲八十里を築き、一月余りで完了した。人々は怨咨を用いた。

原文彥禎志滿驕大,動多不法。一旦征六州之眾,板築羅城,約河門舊堤,周八十里,月餘而畢,人用怨咨。

彦禎の子 従訓

原文彥禎子 從訓

またその子従訓は天資悖逆であった。王鐸が滑より移鎮して滄州に赴く時、魏の郊を過ぎた。従訓はその女妓を見てこれを利し、先に兵を漳南の高鶏泊に伏せ、鐸の至るを待って囲み害し、その所有を掠めた。時に朝廷は微弱で、詰めることができなかった。魏人はもとより鐸の名望を知っており、議者はこれを惜しみ、従訓を罪した。従訓はまた亡命の徒五百余人を召し、臥内に出入りさせ、「子将」と号し、腹心に委ねた。軍人は籍籍として、それぞれ異議があった。従訓はこれを聞いて忌み、服を易えて遁出し、近県に止まった。彦禎はすなわち命じて六州都指揮使とした。まもなく、また相州刺史を兼ねた。任に到った後、軍器を般輦し、銭帛を取索し、人を行き来させ、塗路に交午したため、軍府は疑貳した。

原文又其子從訓天資悖逆。王鐸自滑移鎮滄州,過魏郊,從訓見其女妓,利之,先伏兵於漳南高雞泊,俟鐸之至,圍而害之,掠其所有。時朝廷微弱,不能詰。魏人素知鐸名望,議者惜之,而罪從訓。從訓又召亡命之徒五百餘輩,出入臥內,號爲「子將」,委以腹心。軍人籍籍,各有異議。從訓聞而忌之,易服遁出,止於近縣。彥禎因命爲六州都指揮使。未幾,又兼相州刺史。到任之後,般輦軍器,取索錢帛,使人來往,交午塗路,軍府疑貳。

彦禎は危憤して卒し、衆は都将趙文㺹を推して留後事を権知させた。従訓は相州より兵三万余りを率いて城下に至った。文㺹は兵を按じて出なかった。衆は疑懼し、ふたたび文㺹を害し、羅弘信を推して帥とした。弘信は兵を出して戦い、これを敗った。従訓は余衆を招集し、洹水に次いだ。弘信は将程公佐を遣わし兵を率いて討撃させ、大いにこれを破り、従訓の首を軍門に梟した。時に文徳元年の春である。

原文彥禎危憤而卒,眾推都將趙文㺹知留後事。從訓自相州領兵三萬餘人至城下,文㺹按兵不出。眾懷疑懼,復害文㺹,推羅弘信爲帥。弘信以兵出戰,敗之。從訓招集餘眾,次於洹水。弘信遣將程公佐領兵討擊,大敗之,梟從訓首於軍門,時文德元年春也。

羅弘信

原文羅弘信

羅弘信は字を徳孚といい、魏州貴郷の人である。曾祖は秀、祖は珍、父は譲、皆本州の軍校となった。弘信は若くして戎役に従い、節度使韓簡・楽彦禎に歴事した。光啓の末、彦禎の子従訓が牙軍を忌み、外に出て居た時、軍衆は彦禎を廃し、趙文㺹を推して軍州事を権主させた。衆はふたたびこれを不便とし、弘信を推して帥とした。先だって、隣人が密かに弘信に謂って曰く、「某嘗て夜に一白鬚の翁に遇い、相告して雲う、君まさに土地の主となるべし、と。この如きこと再三なり。」弘信はひそかにこれを異とした。文㺹を廃するに及んで、軍人が聚呼して曰く、「孰か節度使たらんことを願う者ぞ。」弘信はすなわち応えて曰く、「白鬚の翁早く以て我に命ず。」衆はすなわち環りてこれを視て曰く、「可なり。」これによりこれを立てた。僖宗これを聞き、文徳元年四月、詔して工部尚書を加え、節度留後を権知させた。七月、ふたたび金紫光禄大夫・検校尚書右僕射を加え、魏博節度観察処置等使を充てた。龍紀年中、検校司空・同平章事を加えられ、豫よ章郡公に封ぜられた。

原文羅弘信,字德孚,魏州貴鄕人。曾祖秀,祖珍,父讓,皆爲本州軍校。弘信少從戎役,歷事節度使韓簡、樂彥禎。光啟末,彥禎子從訓忌牙軍,出居於外,軍眾廢彥禎,推趙文㺹權主軍州事。眾復以爲不便,因推弘信爲帥。先是,有鄰人密謂弘信曰:「某嘗夜遇一白鬚翁,相告雲,君當爲土地主。如是者再三。」弘信竊異之。及廢文㺹,軍人聚呼曰:「孰願爲節度使者?」弘信即應之曰:「白鬚翁早以命我。」眾乃環而視之,曰:「可也。」由是立之。僖宗聞之,文德元年四月,詔加工部尚書,權知節度留後。七月,復加金紫光祿大夫、檢校尚書右僕射,充魏博節度觀察處置等使。龍紀中,加檢校司空、同平章事,封豫章郡公。

乾寧年中、朱全忠が急に兗鄆を攻め、朱瑄が太原に救援を求めた。太原は軍を発し、魏に道を仮し、大将李存信を莘県に屯させた。存信は軍を御するに法なく、魏の芻牧を侵したため、弘信はこれを平らげず。全忠はふたたび人を遣わしてこれに謂って曰く、「太原は河朔を呑まんと志し、戈を回すの日、貴道憂うるに堪えん。」弘信はすなわち汴に好を托し、師三万を出して存信を攻め、これを破った。太原は怒り、兵を挙げて魏を攻め、観音門外に営した。汴の将葛従周がこれを援け、洹水に屯した。李克用の子落落は時に鉄林軍使であり、従周に擒えられ、すなわち退いて帰った。これより太原の師は、毎年相・魏を侵擾し、魏人はこれを患えた。

原文乾寧中,朱全忠急攻兗鄆,朱瑄求援於太原。太原發軍,假道於魏,令大將李存信屯莘縣。存信御軍無法,侵魏之芻牧,弘信不平之。全忠復遣人謂之曰:「太原志吞河朔,回戈之日,貴道堪憂。」弘信乃托好於汴,出師三萬攻存信,敗之。太原怒,舉兵攻魏,營於觀音門外。汴將葛從周援之,屯於洹水。李克用子落落時爲鐵林軍使,爲從周所擒,乃退歸。自是太原之師,每歲侵擾相、魏,魏人患之。

朱全忠はまさに兗鄆を事とし、弘信の離貳を懼れ、毎歳時賂遺し、必ず卑辞厚礼をもって答貺した。全忠は魏の使に対し北面して拝してこれを受け、曰く、「六兄は予に比して倍年已上なり。兄弟の国、安んぞ常の隣をもってこれに遇せんや。」弘信は己を厚くすと以為い、また心を推した。弘信は累官して検校太師・守侍中・臨清王に至った。光化元年九月に卒す。年六十三。太師を贈られ、追封して北平王とし、謚して莊肅といった。子は威。

原文朱全忠方事兗鄆,懼弘信離貳,每歲時賂遺,必卑辭厚禮答貺。全忠對魏使北面拜而受之,曰:「六兄比予倍年已上,兄弟之國,安得以常鄰遇之。」弘信以爲厚己,亦推心焉。弘信累官至檢校太師、守侍中、臨清王。光化元年九月卒,年六十三,贈太師,追封北平王,謚曰莊肅。子威。

弘信の子、威

原文弘信子 威

威は、字を端己という。文徳の初め、左散騎常侍に任ぜられ、天雄軍節度副使を充任した。龍紀より乾寧に至るまで、十年のうちに、官爵を累加された。弘信が卒すると、父の位を襲って留後となり、朝廷これに従って命じた。天復の末、累加して検校太傅・兼侍中・長沙王に至る。天祐の初め、検校太尉・守侍中を授けられ、鄴王に進封され、「忠勤宣力致理功臣」の号を賜った。

原文威,字端己。文德初,授左散騎常侍,充天雄軍節度副使。自龍紀至乾寧,十年之中,累加官爵。弘信卒,襲父位爲留後,朝廷從而命之。天復末,累加至檢校太傅、兼侍中、長沙王。天祐初,授檢校太尉、守侍中,進封鄴王,賜號「忠勤宣力致理功臣」。

魏の牙中軍というものは、至徳中より、田承嗣が相・魏・澶・博・衞・貝等の六州を盗み拠り、軍中の子弟を召募してその部下に置き、遂にこれを号とした。皆、豊かに給し厚く賜い、驕寵に勝えず。年代浸く遠く、父子相襲い、親党膠固たり。その凶戾なる者は、強買豪奪し、法を踰え令を犯し、長吏も禁ずることができなかった。主帥を変易すること、児戯に同じく、史憲誠・何進滔・韓君雄・樂彥禎のごときは、皆その立つところとなった。優獎少し意に如かざれば、則ち挙族害せられた。威はその往時の弊を懲らし、貨賂をもって姑息するも、心にこれを銜んだ。

原文魏之牙中軍者,自至德中,田承嗣盜據相、魏、澶、博、衞、貝等六州,召募軍中子弟置之部下,遂以爲號。皆豐給厚賜,不勝驕寵。年代浸遠,父子相襲,親黨膠固。其凶戾者,強買豪奪,逾法犯令,長吏不能禁。變易主帥,有同兒戲,如史憲誠、何進滔、韓君雄、樂彥禎,皆爲其所立。優獎小不如意,則舉族被害。威懲其往弊,雖以貨賂姑息,而心銜之。

威が世を嗣いだ明年の正月、幽州の劉仁恭、兵十万を擁して河朔に乱を謀り、進んで貝州を陥し、長駆して魏を攻めた。威、汴に援を求む。朱全忠、将李思安を遣わして洹水に屯せしむ。葛従周、邢・洺より軍を引きて魏に入る。燕将劉守文・単可及、汴軍を内黄に攻む。思安逆戦し、大いにこれを破り、勝に乗じて追躡す。従周出で会い掩撃し、燕軍を覆敗し、首三万を斬る。三年、威、汴軍を引きて滄州を攻め、以てこれに報ゆ。是より、威、全忠の援助の恩に感じ、合従景附す。

原文威嗣世之明年,正月,幽州劉仁恭擁兵十萬,謀亂河朔,進陷貝州,長驅攻魏。威求援於汴。朱全忠遣將李思安屯於洹水。葛從周自邢、洺引軍入魏。燕將劉守文、單可及攻汴軍於內黃。思安逆戰,大敗之,乘勝追躡。從周出會掩擊,覆敗燕軍,斬首三萬。三年,威引汴軍攻滄州以報之。自是,威感全忠援助之恩,合從景附。

天祐二年七月十三日の夜、牙軍の裨校李公佺乱を起こし、威は僅かに身を免るるのみ。公佺、出奔して滄州に至る。是より愈々懼れ、使を遣わして全忠に援を求め、密かにこれを破らんと謀る。全忠、李思安を遣わして魏博軍と会し、再び滄州を攻めしむ。全忠の女、威の子廷規に妻す、先に卒す。全忠、長直軍校馬嗣勳を遣わし、兵千人を選び、密かに輿中に兵甲を実して魏に入らしめ、女の葬事を助くると言う。三年正月五日、嗣勳至る。全忠親しく大軍を率いて河を済し、滄景に行営を視ると言う。威、因って出迎えんと欲し、期に至りて、即ち全忠の帳下の鋭卒を仮り入りて夾攻せんとす。牙軍頗る疑い、堅く出でざるを請う。威、その事の洩るるを恐れ、慰撫してこれを納る。是の月十四日の夜、廝養百余輩を率い、嗣勳と合してこれを攻む。時に牙城に宿る者千人、遅明にこれを殺すこと殆んど尽くす。凡そ八千の家、皆その族を破る。魏軍の滄州を攻むる者、歴亭に在りて変有るを聞き、その将史仁遇これを擁し、高唐に保つ。六州の内、皆讎敵と為り、累月にしてこれを平ぐ。威、梁に仕えること数年にして卒す。年三十四。位は守太師・兼中書令に至り、尚書令しょうしょれいを贈られ、謚して貞壮という。

原文天祐二年七月十三日夜,牙軍裨校李公佺作亂,威僅以身免。公佺出奔滄州。自是愈懼,遣使求援於全忠,密謀破之。全忠遣李思安會魏博軍,再攻滄州。全忠女妻威子廷規,先是卒。全忠遣長直軍校馬嗣勳選兵千人,密於輿中實兵甲入魏,言助女葬事。三年正月五日,嗣勳至,全忠親率大軍濟河,言視行營於滄景。威欲因而出迎,至期,即假全忠帳下銳卒入而夾攻之。牙軍頗疑,堅請不出。威恐洩其事,慰納之。是月十四日夜,率廝養百十輩,與嗣勳合攻之。時宿於牙城者千人,遲明殺之殆盡;凡八千家,皆破其族。魏軍攻滄州者,在歷亭聞有變,其將史仁遇擁之,保於高唐。六州之內,皆爲讎敵,累月平之。威仕梁數年後卒,年三十四,位至守太師、兼中書令,贈尚書令,謚曰貞壯。

威の性質明敏にして、吏道に達す。儒術に伏膺し、文人を招納し、書を聚むること万巻に至る。花朝月夕毎に、賓佐と賦詠し、甚だ情致有り。銭塘の人羅隠なる者、当世に詩名有り、自ら「江東生」と号す。威、使を遣わして賂遺し、その宗姓を叙し、叔父として推す。隠も亦その詩を集めてこれに寄す。威酷にその作を嗜み、己の為すところを目して『偷江東集』と曰う。凡そ五巻、今鄴中の人士これを諷詠す。

原文威性明敏,達於吏道。伏膺儒術,招納文人,聚書至萬卷。每花朝月夕,與賓佐賦詠,甚有情致。錢塘人羅隱者,有當世詩名,自號「江東生」。威遣使賂遺,敘其宗姓,推爲叔父。隱亦集其詩寄之。威酷嗜其作,目己所爲曰《偷江東集》,凡五卷,今鄴中人士諷詠之。

史臣曰く

原文史臣曰

史臣曰く、魏・鎮・燕の三鎮は、これを制すること能わざること久し。兵強く地広く、合従連衡す。爵命は朝廷に仮るも、群臣は元帥に自ら謀る。史憲誠等の五家のごとき、その初め皆これに因りて之を得、その後も亦これに因りて之を失う。蓋し権を以てこれを取り、仁を以てこれを守るを知らざれば、則ち遠きかな。若し善く継ぐ者は、史氏・羅氏の二子これ有り、その余は観るに足らず。

原文史臣曰:魏、鎮、燕三鎮,不能制之也久矣。兵強地廣,合從連衡。爵命雖假於朝廷,群臣自謀於元帥。如史憲誠等五家,其初皆因此而得之,其後亦因此而失之。蓋不知取之以權,守之以仁,則遠矣。若善繼者,史氏、羅氏之二子有焉,其餘不足觀也。

賛

原文贊

賛して曰く、逆に取り順に守るは、古より亦これ有り。その逆に守るが如きは、滅亡必ずこれに随う。史・何・韓・楽、世数盛衰す。以て鑑と為すに足り、茲を念い茲に在り。

原文贊曰:逆取順守,古亦有之。如其逆守,滅亡必隨。史、何、韓、樂,世數盛衰。足以爲鑒,念茲在茲。