旧唐書 朱克融

旧唐書

朱克融

朱克融は、賊の朱泚の従孫である。祖父は滔、父は洄。克融は若くして幽州の軍校となり、節度使劉総に仕えた。劉総が朝廷に帰順しようとしたとき、彼らに変事があることを憂慮し、軍中で平素より異志を抱く者を名簿に載せ、朝廷に推薦した。このとき克融もまたその名簿の中にあった。宰相の崔植・杜元穎は兵事を知らず、かつ遠大な方略もなく、両河(河北・河南)には憂いなしと称し、遂に奏上して彼らを帰鎮させた。長慶初年、幽州の軍が乱を起こし、その帥の張弘靖を囚えた。このとき朱洄は病を患って家にいたが、軍中では平素よりその謀略に畏服しており、ここに至って衆人は彼を立てようとした。洄は自ら老いて病であることを理由に、克融に軍務を統べることを推した。朝廷はまもなく検校左散騎常侍を加え、符節を授けた。

その年の五月、本州の軍が乱を起こし、彼を殺害した。子の延齢もまた害に遇った。次子の延嗣がひそかに立ったが、まもなく大将の李載義に殺された。

李載義

李載義は、字を方谷といい、常山湣王の後裔である。代々武力をもって称され、引き継いで幽州の属郡の守となった。載義は幼くして孤となり、郷里のならず者と交遊した。勇力があり、強弓を引くことや角牴をよくした。劉済が幽州節度使となったとき、彼を見て傑物と認め、親軍に招き、征伐に従わせた。功により衙前都知兵馬使に昇進し、検校光禄大夫・兼監察御史となった。宝暦年中、幽州の師(軍)が朱克融を殺害した。その子の延嗣がひそかに父の位を襲い、朝廷の旨に従わず、その民を虐げた。載義は遂に彼を殺し、その罪状を数え上げて朝廷に報告した。敬宗はこれを嘉し、検校戸部尚書・兼御史大夫を拝し、武威郡王に封じ、幽州盧龍等軍節度副大使を充て、節度事を掌らせた。

まもなく、李同捷が滄景を拠点として父の爵位の世襲を求めた。載義は上表し、同捷を討伐して自らの忠誠を示したいと請うた。皇帝はその誠意を嘉し、特に検校右僕射を加えた。賊軍を累破し、功により司空を加えられ、金紫光禄大夫の階を進められた。太和三年、滄景を平定し、策勲して平章事を加えられ、なお実封三百戸を賜った。四年、契丹が辺境を寇し、兵を以てこれを撃退し、なおその名王を虜にした。これにより太保を加えられた。五年春、その部下の楊志誠に追放され、これにより入朝した。皇帝は載義に滄景平定の功があり、また朝廷の旨に恭順したことを以て、再び太保・同平章事を拝した。その年、山南西道節度・観察等使に改め、興元尹を兼ねた。七年、北都留守に遷り、太原尹を兼ね、河東節度観察処置等使を充てた。まもなく開府儀同三司を加えられた。母の喪に服したが、驃騎大将軍として起復され、その他の官職はもとのままとした。

回鶻は毎度使者を入朝させるが、その到る所で強暴を働いた。辺境の城の長吏は多く苟安を務め、法を以てこれを制することを敢えてしなかった。ただ厳重に兵を配置して防禦するのみで、虜はますます驕悍となり、あるいは突如として市肆に乱入し、暴横をほしいままにして憚るところがなかった。ここに至り、回鶻の将軍李暢という者がいた。彼は中国の事情に通暁し、法で制御できないことを知って、ますます驕り恣にふるまった。駅吏を鞭打ち、貪求やむことがなかった。載義はそこで李暢を召し出して語った。「可汗が将軍を朝貢に遣わすのは、舅甥の好みを固めるためである。将軍に中華を暴れ踏ませるべきではない。今、朝廷は饔餼を極めて厚くしており、これは蕃客を礼遇するためである。もし不備があれば、吏は死罪に当たる。もし将軍の部下が規律を正さず、上国を凌侮し、家屋を掠奪するならば、載義は必ず盗賊として殺す。将軍は法令が軽んじられるべきものと思わず、これを戒め励ますがよい。」 かくして防禦の兵を撤収し、二人の兵卒にその門を守らせた。虜は彼の決意を知って、敢えて法令を犯す者はなかった。九年、侍中を加えられた。開成二年に卒去した。享年五十。太尉を追贈された。

載義は晚年驕り恣にふるい、一方を惨く暴虐にした。楊志誠が再び部下に追放され、太原を通過したとき、載義は自ら殴りかかり、遂に彼を殺そうとしたが、従事官の救解によって免れた。しかしながら、志誠の妻子および将卒を擅に殺害した。朝廷はその功績を考慮し、法を曲げて問わなかった。

楊志誠

楊志誠は、太和五年に幽州後院副兵馬使となり、李載義に仕えた。時に朝廷が載義に徳政碑文を賜った。載義は中使を招いて撃鞠を行い、志誠もまたこれに参加したが、鞠場で叫び呼び謀乱を起こした。載義は易州に奔り、志誠は本道の馬歩都知兵馬使となった。

文宗はこれを聞いて驚き、急ぎ宰臣を召した。時に牛僧孺が先に到着した。皇帝は言った。「幽州の今日の事態をどうすべきか。」僧孺は答えた。「これは聖慮を煩わすに足りません。臣は召されて急ぎ走り気息が切れております。しばらく息を緩めてからお答えすることをお許しください。」皇帝はしばらくして言った。「卿が憂うるに足らぬとするのは、なぜか。」僧孺は答えて言った。「陛下は范陽の得失が国家の休戚にかかわるとお考えですか。そもそも安禄山・史思明の乱以後、范陽は国家の所有するところではありません。以前、劉総が教化に帰し、土地を朝廷に帰したとき、朝廷は約八十万貫の銭を用いましたが、未だに范陽からの尺布斗粟も天庫に上供したことはありません。ならば今日の志誠の得たものは、前日の載義の得たものと同じです。陛下はただこれに乗じて撫慰なされば、これもまた事の宜しいところです。かつ范陽が国家の頼みとする所以は、その北で突厥を防ぎ、南寇させないことです。今もし志誠に節鉞を仮授し、その土地を惜しませれば、必ず自ら力を尽くすでしょう。ならば爪牙としての用は、そもそも逆順を計る必要はありません。臣は固より聖慮を煩わすに足らぬと申し上げるのです。」皇帝は大いに喜んで言った。「卿の言う通りだ。私はすっきりした。」まもなく嘉王の運を遥領の節度使とし、志誠を節度観察留後・検校左散騎常侍・兼幽州左司馬とした。間もなく検校工部尚書・節度副大使に改め、節度事を掌らせた。

七年、検校吏部尚書に転じた。詔が下ると、進奏官の徐迪が中書省に赴き宰相に申し出た。「軍中では朝廷の官位の序列を識らず、ただ尚書から僕射に改まるのを昇進と知るのみで、工部から吏部に転ずるのを美事と知りません。かつ軍士は盛装して新たな恩命を待っており、一旦また尚書に戻れば、軍中は必ず慚じるでしょう。今、中使が彼の地に赴けば、その勢い恐らく出られなくなるでしょう。」 使者が到着すると、その従者は駆け戻り、奏上した。「楊志誠は僕射を得られなかったことを怒り、三軍にも怨言があります。春衣使の魏宝義、および他の使者の焦奉鸞・尹士恭は、みな志誠に拘束されました。」志誠は将の王文穎を遣わして謝恩し、併せて官を譲った。再び官告と批答を賜ったが、文穎は受けずに帰った。朝廷は裴度の言を容れ、汚れを包み込むことに務め、詔を下してこれを諭し、これにより再び使者を遣わして尚書右僕射を加えた。

八年、三軍に追放され、史元忠が立てられた。元忠は志誠の造らせた袞龍衣二副および被服・鞍韉を進上した。いずれも鸞鳳や日月の形が刺繍で飾られ、あるいは王の字が施されていた。これにより御史台に付して審問させ、嶺南に流罪とした。商州に至ったとき、殺害した。

初め、元忠が志誠を追放すると、詔を以て通王の淳を遥領の節度使とし、元忠に左散騎常侍・幽州大都督府左司馬・知府事を授け、節度留後を充てた。翌年、検校工部尚書・節度副大使に転じ、節度事を掌らせた。後に偏将の陳行泰に殺された。

張仲武

張仲武は范陽の人である。仲武は若くして『左氏春秋』を学び、筆を擲って薊北の雄武軍使となった。会昌の初め、陳行泰が節度使史元忠を殺し、暫く留後を主宰した。間もなく、行泰はまた次将の張絳に殺され、三軍に命じて上表させ、符節の降下を請うた。時に仲武は軍吏の呉仲舒を遣わして表を奉り、本軍をもって叛を伐つことを請うた。上は宰臣を遣わしてその事を問わしめ、仲舒は言う、「絳と行泰は皆遊客であり、軍の人心は附かず。仲武は軍中の旧将張光朝の子で、年五十余り、兼ねて儒書に通じ、戎事に老練、忠義の性を抱き、心を闕廷に帰せんと願う」と。李徳裕はこれにより奏す、「陳行泰・張絳は皆大将に上奏させ、節旄を邀求するが故に、必ず与うべからず。今仲武は上表して誠を布き、先ず密款を陳ぶ、これにより抜擢任用すれば、即ち名有るが如し」と。これを許し、乃ち兵馬留後を授け、詔して撫王の李紘に遥かに節度を領せしむ。間もなく仲武を節度副大使・知節度事、検校工部尚書・幽州大都督府長史・兼御史大夫・蘭陵郡王に改む。間もなく回鶻が辺を擾す。

時に回鶻には将の勒那頡啜が赤心宰相の一族七千帳を擁し、東に漁陽を逼る。仲武はその弟の仲至と裨将の遊奉寰・王如清らを遣わし、鋭兵三万を率いてこれを大破す。前後してその侯王貴族千余人を収め、三万人を降し、牛馬・橐駝・旗纛・罽幕を獲ること勝え計らず。従事の李周瞳・牙門将の国従〓を遣わし、相次いで捷を献ず。詔して検校兵部尚書を加え、兼ねて東面招撫回鶻使とす。先に、奚・契丹には皆回鶻の監護使有り、歳貢を督し、且つ漢の諜と為る。ここに至り、裨将の石公緒らを遣わして両部に意を諭し、凡そ八百余人を戮す。又回鶻は初め宣門将軍ら四十七人を遣わし、詭詞を以て歓を結び、潜かに辺隙を伺う。仲武は密かにその下を賂し、尽く陰謀を得る。且つ五原に馳せ入り、雑虜を駆掠せんと欲す。遂にその使を逗留し、彼の師期を緩む。人馬病死し、竟にこれを遣わさず。回鶻の烏介可汗既に敗れ、辺に近づくを敢えず、乃ち康居に依りて活を求め、余種を尽く徙し、黒車子部に寄托す。

仲武はこれにより威を北狄に加え、表して薊北に『紀聖功銘』を立てんことを請う。勅して李徳裕にその文を為さしむ。その銘に曰く、

太和の初、赤気宵に興り、開成の末、彤雲暮に凝る。異鳥南より来たり、胡滅の徴。北夷飈掃し、厥の国土崩る。逼迫遷徙し、我が辺鄙を震わす。長蛇穴を去り、奔鯨水を失う。上都薊門、兵千里に連なり、曾て天を畏れず、猶お驕子と為る。我が辺谷を丐い、我が王師を邀え、我に一城を仮し、彼の幡旗を建つ。帰計強漢、郅支の嫚辞。狼顧して朔野し、伏莽して羸を見る。雁門の北、羌戎雑処し、濈々たる群羊、茫茫たる大鹵。その梟騎を縦し、我が牧圉を驚かす。暴は豺狼の若く、疾は風雨の如し。皇赫として斯に怒り、羽檄兵を徴す。謀は泉の如く默し、断は霆の声。沈機変化し、動は神明に合す。沙漠の外、虜隠情無し。漁陽の突騎、燕歌の壮気、赳赳たる元戎、眈眈たる虎視。金鼓衆に誓い、幹旄地を蔽う。爰にその弟を命じ、之を大事に属す。翩翩たる飛将、我が三軍を董す。兄の制を稟け、帥の勤を代う。威略火烈し、胡馬星分つ。戈は白日に回り、剣は浮雲に薄す。天街の北、旄頭已に落つ。絶轡の野、蚩尤未だ縛されず。我が元侯を俾ち、遠略を恢弘す。終に単於を取り、之を徽索に系ぐ。陰山鋒を寝め、亭僥弓を弢う。万里の昆夷、九訳して通ず。蛮夷既に同じ、天子の功。儒臣美を篆し、石を刊して鴻を垂る。

仲武は歴官して司徒・中書門下平章事に至る。大中年に卒す。謚して莊と曰う。

子 直方

子の直方は、幽州節度副使として父の位を襲ぐ。動多く法に合わず、将卒に図らるるを慮る。三年の冬、遊獵を托して闕庭に奔赴す。間もなく金吾将軍を授かる。直方は性率暴にして、豪奪の事を行い、罪に累ねて柳州司馬に貶せらる。十一年、右驍衛将軍に遷り、分司東都す。咸通の中、位は羽林統軍に至る。中和の歳、賊の黄巢闕を犯す。公卿その豪を恃み、多く第に隠藏す。直方は亡命を納れ、謀りて黄巢を劫わんと欲す。或いは告ぐる者有り、これにより兵を以て囲みて之を害す。

張允伸

張允伸は、字は逢昌、范陽の人である。曾祖父は秀、檀州刺史。祖父は巌、納降軍使。父は朝掖、太尉を贈らる。允伸は世に幽州の軍門に仕え、累職して押衙に至り、兼ねて馬歩都知兵馬使となる。大中四年、戎帥の周綝疾に臥し、表して允伸を留後とす。朝廷その奏を可とし、右散騎常侍を加う。その年の冬、詔して旌節を賜い、検校工部尚書に遷す。咸通九年、累加して光禄大夫・検校司徒・兼太傅・同中書門下平章事・燕国公に至る。

十年、徐人の乱作る。弟の允臯に兵を領せしめて叛を伐たんことを請う。懿宗允さず。助軍の米五十万石、塩二万石を進む。詔して之を嘉し、錦彩・玉帯・金銀器等を賜う。冬、又特進を加え、兼ねて侍中とす。十二年、風恙を以て章を奉り医薬に就かんことを請う。詔して之を許す。子の簡会を以て検校工部尚書とし、節度副大使を充てしむ。十三年、允伸再び表を上りて賜わられたる旌節を進納す。朝命未だ至らざるに、その年の正月二十五日卒す。年八十八。再び太尉を贈らる。謚して忠烈と曰う。

允伸が鎮を領すること凡そ二十三年、克く勤め克く倹し、比歳豊登す。辺鄙虞無く、軍民用いて乂う。今に至るまで談ずる者之を美とす。子十四人有り。

簡真は幽府左司馬、允伸に先だって卒す。簡寿は右領軍衛大将軍。余は或いは朝籍に升り、或いは刺史・郡佐と為る。

張公素

張公素は、范陽の人である。咸通の中、幽州の軍校と為る。張允伸に事え、累遷して平州刺史に至る。允伸卒し、子の簡会暫く留後事を主宰す。公素は本郡の兵を領して之に赴く。三軍素より公素の威望を畏れ、簡会は力制し能わざるを知り、即時に出奔す。遂に帥として立てらる。朝廷間もなく旌節を授け、累加して中書門下平章事に至る。幾ばくも無く、李茂勛その位を奪う。公素闕に帰り、復州司戸参軍に貶せらる。

李可舉

李可舉は、本来回鶻の阿布思の族である。張仲武が回鶻を破ると、可舉の父茂勛は本部の侯王と共に降った。茂勛は騎射に優れ、性格は沈着剛毅であり、仲武は彼を重んじた。常に辺境を開拓する任に遣わされ、功績により郡王に封ぜられ、姓名を賜った。

咸通の末、納降軍使陳貢言という者は、幽州の宿将で、人々の信服を得ていた。茂勛は密かに謀って彼を襲撃して殺し、貢言が挙兵したと称した。張公素が兵を率いて迎撃したが利あらず、公素は逃走し、茂勛が城に入ると、軍民は初めて彼が貢言でないことを知った。既にその衆を有するに及び、遂に推戴して立てられ、朝廷は直ちに符節を授けた。間もなく、病気を理由に老齢を告げ、右僕射を授けられて致仕し、上表して可舉を節度副使・幽州左司馬から右散騎常侍に加え、節度留後とした。中和年間、累官して検校太尉に至った。

中和の末、太原の李克用の兵勢が盛んであることを以て、定州の王處存と密かに結びついた。可舉は彼らが山東を窺い、終には己の禍患となることを憂い、遂に使者を遣わして雲中の赫連鐸を唆しその背後を衝かせ、則ち鎮州と謀を合わせて挙兵し、兼ねて易州・定州は燕・趙の余地であると言い、その地を得れば正にその疆理を正して分かつと説いた。時に可舉は将李全忠を遣わして易州を攻撃させた。次将に劉仁恭という者あり、権謀術数に長けていた。攻めること一月余り下らず、遂に地道を掘って侵入した。その城が陥ちると、易州の士卒は次第に驕慢となった。王處存は軽軍三千を率い、羊皮で覆い、夜に城外に伏せ、更に別に間道より騎士で待ち構えた。燕軍はこれを見て、群羊と思い、争って趨った。處存はその隊列をなしていないのに乗じ、一撃して大いにこれを破り、間もなくその城を回復した。全忠は逃げ帰り、可舉に罪を問われることを懼れ、その余衆を収めて、逆に幽州を攻撃した。可舉は危急に陥り、その一族を集め、楼閣に登って自ら焼死した。

李全忠

李全忠は、范陽の人である。廣明年間、棣州司馬となった。蘆が室内に生え、一尺に三節あり、心に怪しんだ。別駕張建に謂って「我が室に蘆が生えるのは、怪しいことではないか」と言うと、建は「蘆は茅の類いで、潤いを得て茂ります。公の家に茅土の慶びがあるのは、恐らく天意でしょう。その三節生ずるは、必ずや節鉞を伝える者三人あるでしょう。公は功名を立てるよう努め、この言葉を忘れないでください」と言った。全忠は任期満了で郷里に帰り、節度使李可舉に仕えて牙将となった。時に可舉の兵鋒は盛んで、鎮人と易州・定州を分かち取ろうと欲し、全忠を遣わして兵を率いさせて攻撃させたが、定州軍に易水で大敗した。全忠は懼れ、その余衆を率いて不意に幽州を攻撃した。可舉は死んだ。三軍は全忠を推して留後とし、朝廷はこれに因って節鉞を授けた。光啓元年の春である。

全忠が卒すると、子の匡威が自ら父の位を襲い、留後を称した。匡威は平素豪爽と称され、乱離の世に遇い、燕薊に甲冑を整え、四海を呑む志を有した。赫連鐸が雲中に拠り、しばしば匡威を誘って河東と雲州・代州を争わせ、兵を合わせること数年に及んだ。景福初め、鎮州の王鎔が河東の将李存孝を誘った。克用は怒り、兵を加えて討った。時に鎔は幼く、燕に援軍を求めた。匡威は親しく軍を率いて応じた。二年春、河東が再び井陘より出師し、再び援軍を乞うと、匡威が来援した。

匡威の弟匡籌の妻張氏は国色の持ち主であった。軍が発しようとする時、家族が別れを告げ、匡威は酒酣に、張氏を留めて報いた。匡籌は内心忿怒を懐き、匡威の軍が博野に至ると、匡籌は城を拠って自ら節度となった。匡威の部下がこれを聞き、逃亡して帰る者が半ばとなった。匡威は退くに帰路なく、京師に入朝しようとした。時に匡威は深州に留まり、判官李抱貞を遣わして奏章を奉じて上聞させた。京師が大乱の後であったため、匡威が来朝すると聞き、市人は震恐し、皆「金頭王が社稷を謀りに来た」と言い、士庶には山谷に逃亡する者もあった。匡威は実際には行かず、鎮州を図り、留まる意思がないことを示した。鎔は匡威が再び己を救援し、そのために軍を失ったことを以て、使者を遣わして府第に迎え入れ、父として事えた。匡威は鎔のために城郭を築き甲冑を整え、方略を指陳し、鎔を子のように見た。常に陰謀を急に施し、以て人心を悦ばせた。鎮州の三軍は、元より王氏に忠誠を尽くし、その所為を憎んだ。鎔が匡威の邸を訪れて忌辰を慰める時、匡威は縞衣で甲冑を包み、伏兵を以て鎔を劫いて牙城に入れた。鎔の兵が逆襲し、東の偏門を焼き、軍士が叫び登屋し、矢が雨のように降った。鎔の僕墨君和が乱中に鎔を扶けて屋上に登らせ難を免れ、匡威を斬って示衆した。

この年、匡籌は師を出して鎮州の楽寿・武強を攻撃し、恥を報いた。匡威の部曲劉仁恭は河東に帰順した。乾寧元年冬、河東は仁恭の謀を聴き、師を出して進討した。二月、居庸で燕軍を破り、匡籌はその一族を携えて遁走し、京師に赴こうとした。景城に至り、滄州節度使盧彦威に殺され、その輜重車・妓妾を掠奪された。匡籌の妻張氏は路上で出産し、進むことができず、劉仁恭がこれを捕らえ、李克用に献じ、後に夫人として立てられ、寵愛を専らにした。李氏父子三代、十年にして滅亡した。

【贊】

史臣曰く、大都が国と並ぶは、乱の本である。故に古の先哲の王は国を建て、公侯の封は千乗を過ぎず、以て幹を強くし枝を弱くし、その悖慢を防いだ。かの幽州は、九圍の一つを列し、地方千里を遥かに超え、その民は剛強、その田は沃壌である。遠くは田光・荊卿の義を慕い、近くは禄山・思明の風に染まる。二百余年、自ら崇め立て、朝廷時に帥を命ずるも、土人は多く君を逐うことに務めた。苦しみに習い非を忘れ、尾大不掉、一朝一夕の故ではない。李載義・張仲武・張允伸の如きは、利に因り便に乗じ、旌旗を領することを得、仁を以てこれを守り、恭順に朝旨に従い、亦た足りて称すべきである。硃克融・楊志誠・史元忠・張公素・李可舉・李全忠の如きは、不仁を以てこれを得、曩志を改めず。或いは間もなく篡奪され、或いは僅かに子孫に伝えるのみで、皆令終せず、蓋しその宜なるかな。

贊に曰く、蠍石の野、気勁くして人豪なり。二百余載、自ら相尊び高し。載義・仲武、亦た忠労多し。余は篡奪に因りて得、不仁何ぞ逃れん。