旧唐書
巻一百七十九 列伝第一百二十九 蕭遘 孔緯 韋昭度 崔昭緯 張濬 朱朴 鄭綮 劉崇望 徐彦若 陸扆 柳璨
蕭遘
蕭遘は、蘭陵の人である。開元朝の宰相・太師・徐國公蕭嵩の四代孫。蕭嵩は蕭衡を生み、蕭衡は蕭復を生み、蕭復は徳宗朝の宰相となった。蕭復は蕭湛を生み、蕭湛は蕭寘を生み、蕭寘は咸通年間に宰相となった。蕭寘は蕭遘を生み、蕭遘は咸通五年に進士第に登第し、初めて官に就いて秘書省校書郎・太原従事となった。朝廷に入って右拾遺となり、さらに起居舎人に遷った。韋保衡とは同年に進士第に登第したが、保衡は寵愛によって進み芸がなく、同年の門生たちは皆これを軽んじた。
蕭遘は容貌・精神ともに秀でて偉く、志操は群を抜いていた。自らを李徳裕に比べ、同年たちは皆戯れて「太尉」と呼んだが、保衡は心にこれを恨んだ。保衡が宰相となると、蕭遘の過失を捉えて、播州司馬に貶した。三峡を経過する途中、舟を繋いで月夜に詩を賦して自らを悼んだ。保衡に害されることを慮ると、たちまち神人が彼に言うには、「相公憂うることなかれ、予が侮りを防ぎ奉って衛らん」と。蕭遘は心にこれを怪しんだ。峡州を過ぎ、白帝祠を経たが、これがまさに見た神人であった。
保衡が誅殺されると、礼部員外郎として召し還され、考功員外郎・知制誥に転じた。乾符の初め、召されて翰林学士を充てられ、正しく中書舎人に拝され、累進して戸部侍郎・翰林承旨となった。
黄巢が宮闕を犯すと、僖宗は出幸し、供給が足りないため、近臣に計理を掌らせる必要があり、兵部侍郎・判度支に改めた。中和元年三月、褒中から成都に幸し、綿州に駐まった。本官のまま同平章事とし、中書侍郎を加え、累進して吏部尚書・監修国史を兼ねた。
蕭遘は若くして大節を負い、経世済民を己の任とした。台司に処してからは、風望は特に峻厳で、奏対は朗らかで抜きんでており、天子はこれを器とした。光啓の初め、王綱は振るわなかった。この時、天下の諸侯は、半ばは群盗より出で、強弱互いに喰らい合い、衆を恃んで寵を邀い、国法はこれを制することができなかった。
李凝古という者がおり、支詳に従って徐州従事となった。支詳が衙将の時溥に逐われ、賓佐たちは徐州に陥落した。時溥が節度使となると、食中毒にかかった。凝古を憎む者がこれを讒して、支詳の仇を報いるために毒を盛ったと言った。溥は凝古を捕らえて殺した。凝古の父の李損は、当時右常侍であったが、溥が上章して訴え、李損が凝古と共謀したと言った。内官の田令孜は溥から厚い賄賂を受け、曲げて奏請して李損を収監させた。中丞の盧渥は令孜に附き、その獄を鍛錬した。侍御史の王華は悪を嫉み、堅く執って李損に罪なしと奏証した。令孜は怒り、李損を神策獄に移して按問するよう奏したが、王華は詔に奉じることを拒み、奏して言うには、「李損は近侍の位にあり、死すべきときは即ち死すべきであり、どうして黄門の手に辱めを取らせることができようか」と。蕭遘は時ならず状を進め、延英を開くことを請い、奏して言うには、「李凝古の毒を盛る謀り事は、その事曖昧で、既に屠害に遭い、今は再び論じない。李損父子は三四年別れ、音問は断絶しており、どうして誣罔して共謀と言えようか。時溥は勲功を恃んで法を壊し、朝廷を凌蔑し、抗表して侍臣を按ずることを請うとは、悖戾甚だしい。厚く良善を誣いることは、人皆痛心する。もし李損が羅織されて誅せられるなら、行く行くは即ち臣等に及ぶであろう」と。帝はこれに改容し、李損は免れ、停任に止まった。
当時、田令孜は禁軍を専総し、公卿・僚庶、その顔色を伺わない者はなかったが、ただ蕭遘は道をもって自ら処し、一度も屈して降ることはなかった。この年の冬、令孜は安邑両池の塩利を奏し、直に禁軍に属することを請うた。王重栄が上章して論列した。そこで重栄を別鎮に移すよう奏した。重栄は受けず、令孜は禁軍を率いて討つことを請うた。重栄は太原に援を求め、李克用が軍を引いて赴き、沙苑で拒戦し、禁軍は大敗し、京城に迫った。僖宗は恐れ、鳳翔に出幸した。諸藩は上章して抗論し、令孜が事を生じ、方面を離間させたと言った。蕭遘は平素より令孜を憎んでいたので、裴澈とともに書を致して朱玫を召した。朱玫は邠州の軍五千で迎駕し、なお河中・太原と修睦し、ともに王室を匡ふることを請うた。これにより、諸鎮は継いで上章し、駕の京に還ることを請うた。令孜は朱玫の軍が至ると聞き、天子を迫脅して陳倉に幸させた。この時、僖宗は倉卒に出城し、夜中で百官は扈従に及ばなかった。朱玫は令孜が権を弄ぶことに怒り、また天子がその忠を諒としないことに、言葉に怨望の色があり、蕭遘に訴えて言うには、「主上は六年にわたり奔播し、百端の艱険を経た。中原の士庶は、賊と血戦し、肝脳地に塗れ、十室九空となった。比して京都を収復するに至っては、十のうち七八を亡くした。残民遺老は、ようやく車駕の宮に帰ることを喜んでいる。主上は生霊の転輸の労、甲士の血戦の効を念わず、勤王の功業を、敕使の寵栄となし、さらに志を乱邦に在らせ、国と事を生じ、戎を召し怨を結ぶは、他人より出ずるにあらず。昨、指蹤を奉じて、径ちに奔問せんと来たるも、見信を蒙らず、翻って君を脅すに類す。古の忠にして罪を獲るは、正に此の如し。吾等の報国の心は極まれり。賊と戦う力は殫けたり。安んぞ頭を垂れ翼を畳み、喘喘として閽寺の手に在らんや。『春秋』の義、君を喪うも君有り。相国徐ろに其の宜を思い、図を改むるも可なり」と。蕭遘は言うには、「主上は臨御すること十余年、過行を聞かず。比来喪乱播越するは、授任の才ならざるに失う。近年、令孜が掣肘し、動くも意の如くならず、上は毎に之を言い、流涕已まず。昨、陳倉を去るに、上に行意無く、令孜が兵を帳下に陳べ、卒を階前に列ね、造次に行を迫り、旦を俟つことを容れず。静かに此の賊を言えば、罪は誅に容れず。至尊の心、孰か深く鑒とせざらん。足下は乃ち心王室に在り、ただ兵を帰め鎮に還り、表を拝して鑾を迎え、徳業功名、益々図史を光らすのみ。此を捨てて已往すれば、理或は安からず。図を改むるの言、未だ命を聞かず」と。朱玫は言うには、「李家の王子は極めて多く、天下を有つ者は、豈に一王のみならんや」と。蕭遘は言うには、「廃立は危き事、伊尹・霍光の賢有りと雖も、尚ほ後悔を貽す。古人云う、『福の始めと為す勿れ、禍の先と為す勿れ』と。公の矢謀の如きは、未だ其の利を見ず」と。朱玫は退いて宣言して言うには、「我が個の王子を冊して主と為し、従わざる者は斬る」と。襄王が立つに及んで、蕭遘に冊文を作ることを請うた。蕭遘は言うには、「少しく衰疾に嬰り、文思減落す。比来禁署に在りては、未だ人に倩うことを免れず、能者に命ぜられよ」と。遂に筆を措かず。そこで鄭昌図にこれを作らせ、朱玫はますます悦ばなかった。長安に還ると、昌図に代わって蕭遘を相とし、蕭遘を太子太保に署した。そこで疾に移り、百日満ちて、河中の永楽県に退居した。
蕭遘は相位に在ること五年、累進して尚書右僕射を兼ね、楚国公に進封された。僖宗が再び京に遷ると、宰相の孔緯は蕭遘と協わず、その偽命を受けたことを以て、奏して官を貶した。尋いて永楽で賜死された。咸通年間、王鐸が貢籍を掌り、蕭遘と韋保衡は共に進士として選ばれたが、保衡は暴貴し、王鐸と共に中書に在った。僖宗が蜀に在ると、蕭遘はまた王鐸と並んで相位に居た。帝が嘗て宰臣を召すと、王鐸は年高く、階を昇るに足を跌し、勾陳の中に踣した。蕭遘が傍らから掖き起こすと、帝はこれを見て、喜んで言うには、「輔弼の臣和すは、予が幸いなり」と。蕭遘に謂って言うには、「適に卿が王鐸を扶けるを見る。予は卿の善く長に事うるを喜ぶ」と。蕭遘は対えて言うには、「臣が王鐸を扶くるは、独り長を司るのみに非ず。臣が挙に応ずる歳、王鐸は主司たり、臣を以て選に中る門生なり」と。上は笑って言うには、「王鐸は進士を選び、朕は宰相を選ぶ、卿に負うこと無し」と。蕭遘はこれを謝して退いた。
蕭遘は大臣となり、士大夫としての行いには欠けるところがなかった。時にあわず、偽りの讒言によって汚され、善終を得ず、人々はこれを惜しんだ。
蕭遘の弟に蕭蘧がいる。
弟の蕭蘧は、当時永楽県令であった。
孔緯
孔緯は、字を化文といい、魯の曲阜の人で、宣尼(孔子)の末裔である。曾祖父の岑父は、位は秘書省著作佐郎に終わり、諫議大夫の孔巣父の兄である。祖父の孔戣は、位は礼部尚書に終わり、別に伝がある。父の孔遵孺は、華陰県丞に終わった。
孔緯は幼くして孤となり、伯父(諸父)の孔温裕・孔温業に身を寄せた。二人はいずれも方鎮の長官となり、名士と交際したので、孔緯の名声は早くから高まった。大中十三年、進士に及第し、初めて官に就いて秘書省校書郎となった。崔慎由が梓州を鎮守した時、召し出されて従事となった。また崔鉉に従って揚州支使となり、協律郎を得た。崔慎由が華州・河中を鎮守した時、孔緯はいずれもこれに従い、観察判官を歴任した。宰相の楊收が奏上して長安尉・直弘文館に任じた。御史中丞の王鐸が奏上して監察御史とし、礼部員外郎に転じた。宰相の徐商が奏上して集賢直学士を兼ね、考功員外郎に改めた。母の喪に服して免官となった。喪が明けると、右司員外郎として朝廷に入った。宰相の趙隠はその文才を賞賛し、翰林学士に推薦し、考功郎中・知制誥に転じ、緋色の官服を賜った。正式に中書舎人に任じられ、累進して戸部侍郎となった。拝謝の日、面会して金紫の官服を賜った。乾符年間、学士を罷め、御史中丞として出た。
孔緯は器量と志操が方正高雅で、悪を憎むこと仇の如くであった。憲綱(御史台の綱紀)を総べるや、朝廷内外は規律しなくても自ずから粛然とした。戸部・兵部・吏部の三侍郎を歴任した。選曹(吏部)に在っては、常に格令に従って行動した。権勢ある者が依頼事を託そうと、私信が机に満ちても、これに目を通さなかった。執政者はこれを怒り、太常卿に改めた。
黄巣の乱の時、僖宗に従って蜀に幸し、刑部尚書に改め、戸部事を判った。宰相の蕭遘は翰林に在った時、孔緯と意見が合わなかった。この時、戸部の供給が充分でないことを理由に、閑職に移し、太子少保に改めた。光啓元年、車駕に従って京に還った。
この時、田令孜の軍が敗れ、沙陀が京師に迫ったので、帝は鳳翔に移幸した。邠州の帥(節度使)朱玫が兵を率いて車駕を迎えに来た。田令孜は帝を擁して山南に幸した。時に夜中に出幸したので、百官は従うことができず、車駕に随従したのは黄門(宦官)と衛士数百人だけであった。帝は宝鶏に駐蹕し、百官を待った。詔を下して孔緯を御史大夫に任じ、中使に詔を伝えさせ、孔緯に百官を率いて行在に赴かせようとした。時に京師は急変し、車駕に従った官属は盩厔に至り、ことごとく乱兵に掠奪され、資財や装備はほとんど尽きていた。孔緯は命を受けて宰相に会い事を論じたが、蕭遘・裴澈は田令孜が帝の側にいることを理由に、行くことを望まず、病気と称して孔緯に会わなかった。孔緯は御史台の吏を遣わして百官に上路を促したが、皆、袍や笏が揃っていないことを口実とした。孔緯はどうすることもできず、三院の御史を召して言った。「我々は代々国恩を受け、身は憲台の官にある。たとえ天子の車駕が奔走して逼迫していようとも、天顔は咫尺の間にあり、累次の詔で追徴されているのに、皆これに従おうとしないのは、臣子の義ではない。凡そ布衣の旧交ですら、緩急あれば互いに救い助けるのに、まして君親においておや。名を策に記し身を委ねておきながら、どうして背くことができようか!」言い終わって涙を流した。三院の御史は言った。「どうして思いはないでしょうか。ただ盩厔で掠奪された後では、乞食しても足りません。今もし出発するとしても、まず一日分の費用を調達し、一両日待ってから出発するのがよいでしょう。」孔緯は衣を払って立ち上がり言った。「我が妻は危篤の病にあり、朝には夕べを保たぬ。大丈夫たるもの、妻子の故をもって、君父の急を怠ることがあろうか。諸公はご自身でよく考えられよ。私は行くことを決めた。」
即日、李昌符に会って告げて言った。「主上は再び詔命を下され、百官の前進を促させておられます。群公の意向を見るに、出発の期日は立っていません。私は忝くも憲台にあり、後れを取るべきではありません。道中は障害が多いので、明公、幸いにも五十騎を貸し与え、陳倉まで送ってください。」李昌符はこれを賞賛し、孔緯に言った。「道中に駅伝がなく、食糧は調達できているのか。」そこで銭五十緡を送り、騎士に孔緯を援けさせて散関に達させた。孔緯は朱玫が必ず異心を抱いていると知り、上奏して言った。「関城は小さな邑であり、六軍を駐留させるには足りません。速やかに梁州に幸されることを請います。」翌日、車駕は陳倉を離れ、関に入ったばかりで、邠州・岐州の兵が宝鶏を包囲し、散関を攻めた。孔緯の言葉がなければ危うかったであろう。
褒中に至り、兵部侍郎・同中書門下平章事に改め、まもなく中書侍郎・集賢殿大学士に改めた。王行瑜が朱玫を斬り、京城を平定すると、門下侍郎・監修国史に遷った。車駕に従って京に還り、岐陽に駐蹕し、特進に進階し、吏部尚書を兼ね、諸道塩鉄転運使を領した。車駕が宮中に還ると、左僕射に進位し、「持危啓運保乂功臣」を賜り、食邑四千戸、食実封二百戸を与えられ、鉄券を賜り、十死罪を恕され、天興県の荘園と善和里の邸宅をそれぞれ一区ずつ賜り、京畿営田使を兼領した。
僖宗が崩御すると、山陵使を充てられた。僖宗が太廟に合祀されると、孔緯は故事に準じて、朝廷に入らなかった。昭宗は中使を遣わして延英殿に召し出し、孔緯に従前の通り政務を執るよう命じ、司空を加えた。国学が盗賊の放火で焼かれたので、孔緯に修復を命じ、引き続き国子祭酒を兼領させた。蔡賊の秦宗権が誅殺されると、開府儀同三司に進階し、司徒に進位し、魯国公に封ぜられた。
十一月、昭宗が郊廟を謁見するに際し、両中尉・内枢密使が朝服を着用することを請うた。所司が前例を申し立てたが、中貴人に朝服を着て助祭する礼はなく、少府監にも素より冠服の制がなかった。中尉は怒り、直ちに製造を命じ、太常礼院に下した。礼官が故事を挙げても、中尉が朝服を着て助祭する文はないと称し、諫官もこれを論じた。孔緯は上奏して言った。「中貴が朝服を着ずに助祭することは、国の典制です。陛下が権道をもって内臣を寵遇しようとされるなら、兼任する官に依ってその服を着ることを請います。」天子は諫官を召して言った。「大礼の日が近い。異を立てるのは宜しくない。朕のために容赦せよ。」そこで内官は朝服を着て助祭した。郊祀の礼が終わると、太保を兼ねる位に進んだ。
延英殿で拝謝し、上奏して言った。「臣が以前宰相の任にありました時、智術が短浅で、輔弼調和の任に背きました。陛下は特に刑書を赦し、曲りなりに腰領を全うさせてくださいました。臣は死して泉下に報いんことを期し、生きて玉階を叩くことを望みませんでした。再び龍顔を拝することは、実に臣の栄幸です。しかし臣は近年衰病に罹り、枕に伏すること数年、形骸は存するも、生気はことごとく尽きております。平素無理をして、政事を執るにもなお疎かです。ましてやこの病弱な身で、どうして重い委任に勝てましょうか。国運はまさに盛んで、英彦が朝廷に満ちております。どうして朽ち果てた人間が、再び機務を汚すことがありましょうか。臣は病を押して一度殿庭に拝し、陛下に臣の自便を許されることを乞います。」言って嗚咽して涙を流した。孔緯は長く病んでおり、拝舞することが困難であったので、上は中使にこれを止めさせ、顔色を改めて哀れみを思った。閣門使に命じて孔緯を中書省に送り、政務を執らせた。十日と経たないうちに、沙陀が河中に駐屯し、同州の王行約が京師に入って乱を謀ったので、天子は石門に出幸した。孔緯は車駕に従って莎城に至ったが、病状が次第に危篤となったので、先に京城に還った。九月、光徳里の邸宅で卒去した。太尉を追贈された。
孔緯は節義を尊び、毅然として屈しなかった。たとえ権勢が盛んでも、恩礼を仮り与えることはなかった。大順の初め、天武都頭の李順節は恩寵を恃んで甚だ横暴であり、一年も経たぬうちに浙西節度使を領し、まもなく平章事を加えられた。謝恩の日、臺吏が中書に申し上げ、天武相公が衙で謝し、例に準じて百官に班見すると称した。孔緯は判して曰く、「班を立てるには及ばぬ」と。順節は粗暴な小人で、朝法に通ぜず、盛んに装いを整えて中書に趨ったが、班がないのを見て、心甚だ怏怏とした。他日、会合の際、順節が微かにそのことを言った。孔緯曰く、「必ずや公の慊(うら)むところを知る。そもそも百辟卿士は、天子の庭臣である。近頃宰相に班見するのは、輔臣が班列の首に居るからで、長を奉ずる義である。公は天武の健児を握りながら、政事廳において百官の班見を受け、心安からんか。必ずやこの儀を須いとすれば、『都頭』の二字を去るを俟つべし」と。順節は敢えて再び言わなかった。その礼を秉(と)って回らざるは、多くこの類である。
孔氏は元和以後、兄弟が貴盛となり、正卿・方鎮に至る者は六七人いたが、宰輔となった者はなく、孔緯に至って初めて鼎司に在った。
孔緯の子 孔崇弼
子の崇弼もまた進士第に登り、散騎常侍に至った。
韋昭度
韋昭度、字は正紀、京兆の人である。祖父は縃、父は逢。昭度は咸通八年に進士擢第した。乾符中、累遷して尚書郎・知制誥となり、正しく中書舍人に拝された。僖宗に従って蜀に幸し、戸部侍郎に拝された。中和元年、権知礼部貢挙となった。明年、本官をもって同平章事とし、吏部尚書を兼ねた。
昭宗が即位すると、閬州刺史の王建が成都において陳敬瑄を攻め、貢奉を隔絶した。そこで昭度を検校司空・同平章事・成都尹・劍南西川節度招撫宣慰等使とした。昭度が鎮に赴くと、敬瑄は代わらなかった。詔して東川の顧彥朗に王建と合勢してこれを討たしめた。昭度は行營招討となった。一年を経て、ただ漢州を抜くに止まった。王建が昭度に言うには、「相公は師を労し衆を弊し、遠く蛮夷に事えています。聞くところによれば、京洛以東では群侯が相喰み、禍難未だ已みません。朝廷が治まらぬのは、腹心の疾です。相公は急ぎ京師に還り、諮謀して匡合し、両河を平定されるのが国家の利です。敬瑄は小醜であり、日月を以てこれを制すれば、必ず擒にします。この事は建に責めさせれば為し得ます」と。昭度はこれを然りとし、還都を奏請した。昭度が京師に及ばぬうちに、建は重兵をもって劍門を守り、急攻して成都を下した。敬瑄を殺し、自ら留後と称した。昭度は還り、検校司空をもって東都留守を充てた。召還されて右僕射となった。
先に、邠州の王行瑜が尚書令を求めた。昭度が奏議して云うには、「国朝已来、功は郭子儀の如きも、未だ曾てこの官を兼ねたことを省みず」と。そこで「尚父」の号を賜った。崔昭緯の宗人である鋌は、かつて行瑜の従事となり、朝廷が制勅を降すごとに、昭緯に便ならざるものがあれば、即ち鋌を行瑜に訴えさせ、上章して論列させた。朝旨に少しでも依違があれば、即ち表章は不遜であった。ここに至り李谿が入って拝された。昭緯が鋌に言うには、「前時の尚父の命は既に行われたが、昭度がこれを沮んだ。今また谿を引いて同列とする。この人は姦纎で、上の視聴を惑わし、宗社を安からしめない。恐らくまた杜太尉の事があるだろう」と。行瑜と李茂貞が上章して言うには、「相を命ずるにその人に非ず、宗社を危うくするを懼れる」と。天子は優詔をもって諭し、谿に才あることを言った。その年五月、行瑜・茂貞・華州の韓建が兵をもって入覲し、面奏して昭度・李谿の姦邪を言い、譴逐を加えることを請うた。制勅未だ行わざるうちに、三鎮の兵が都亭驛において昭度を害した。行瑜が誅せられると、制を降してその官爵を復し、その家に収葬せしめた。
崔昭緯
崔昭緯は清河の人である。祖父は庇、滑州酸棗県尉。父は巘、鄂州観察使。昭緯は進士及第した。昭宗朝、中書舍人・翰林学士・戸部侍郎・同平章事を歴任した。性、姦纎で、前達を忌んだ。内に中人と結び、外に籓閫と連なる。朝廷微弱に属し、毎に援を托して人主を淩ごうとした。昭宗は明察で、心に堪えられなかった。三鎮の将兵を誘召して闕に詣でさせ、宰輔内臣を賊殺したので、帝は深く歯を切った。太原の師が行瑜を誅するに会い、罷相して右僕射を授けられた。後また汴州に托附したことを以て、再び梧州司馬に貶された。尋で制を降して曰く、
崔昭緯は頃に内署に居り、粗かに微労を著す。侍従の司より擢で、燮調の任に委ぬ。忠貞をもって国に報い、端慎をもって身を処する能わず。潜かに姦臣と交結し、機事の漏泄を致す。星霜累換し、匡輔蔑聞す。これ爾が罪の一なり。またその私忿を快くし、輒ち陰謀を恣にす。崔鋌の険巇に托し、行瑜の計畫に連なり、遂に兵を称して闕に向かい、衆を怙(たの)みて君を脅かすに致す。故に宰臣韋昭度・李谿、並びに無辜を以て見害せられ、幾(ほとん)ど宗社を危うくし、顕かに君親を辱しむ。これ爾が罪の二なり。行瑜敗滅し、京国甫(はじ)めて安んずるに及び、而して乃ち自ら欺誣を懼れ、別に托附を謀る。また籓閫に於いて、潜かに薦論を請い、唯に罪愆を苟免せんとするのみならず、兼ねてまた再び任用を希う。栄を貪り寵を冒し、僭濫厭うこと無く、俗を敗り風を傷い、賢愚共に鄙む。これ爾が罪の三なり。また将に厚賂を以て、諸王を結ばんと欲し、我が憲章を軽侮し、我が骨肉を玷瀆す。貨財の数、文字具存す。諸王の朕が腹心と作るに頼り、その蠹害を嫉み、尽く昭緯の情款と、その親吏の姓名とを、直ちに具に奏聞し、その求托を拒ぐ。昭緯は曾て宰輔に居り、久しく清崇を歴たり。但だその回邪を逞しくせんと欲し、都(すべ)てその事体を顧みず。その識見を観るに、実に聴聞を駭かす。これ爾が罪の四なり。姦邪既に露れ、情状容れ難し。尚お寛刑を示し、未だ厳憲を行わず、荒裔に投じて、その自新を冀う。而して能く過尤を退き省み、制命を恭承し、速かに貶所に赴き、常規を用いて守ることをせず。而して猶お自ら宴安を務め、尋ね聞くところの所在に留駐す。籓鎮を攪擾し、朝章を侮慢す。曾て稟畏の心無く、苞蔵の計を験すべし。愆咎を知らず、唯だ朝廷を謗る。これ爾が罪の五なり。朕は恩沢を以て帝王の雨露と為し、法を弄するを邦国の雷霆と為す。雨露無くんば則ち庶物栄えず、雷霆無くんば則ち万邦粛まらず。朕は天道を体して化育し、王度を遵って澄清す。罪既に昭彰なれば、理難く含垢す。凡百多士、宜しく予が懐を体すべし。宜しく所在に自尽を賜うべし。
時に昭緯は行くこと荊南に至り、中使が至って、これを斬った。
昭緯の兄 昭符
兄の昭符は礼部尚書に至った。昭願は太子少保。昭矩は給事中。昭遠は考功員外郎。
張濬
張濬は、字を禹川といい、河間の人である。祖父の仲素は、中書舍人の位に至った。父の鐐は官位が低く、家は州に寓居していた。濬は倜儻として羈絆されず、文史に渉猟し、大言を好み、士友から擯棄された。初め郷賦に従って計吏に随い、皆その人となりを軽んじた。濬は憤憤として志を得ず、田衣野服を着て、金鳳山に隠れ、鬼谷の縦横の術を学び、捭闔によって貴仕を得ようとした。乾符年間、枢密使楊復恭が使節として彼に遇い、処士から太常博士に推薦し、累転して度支員外郎となった。
黄巢が関輔に迫らんとしたとき、濬は病と称して告暇を請い、母に侍し、一族を率いて商州に避乱した。賊が京師を犯すと、僖宗は出幸し、途上に供頓がなく、衛軍は食を得られなかった。漢陰令李康が糗餌数百騾綱を献上し、軍士はようやく食を得た。僖宗は康を召して問うて言うには、「卿は県令であるのに、どうしてここまで心を配ったのか」と。康は対えて言うには、「臣は塵吏に過ぎず、敢えてこのような進献をしたわけではありません。張濬員外が臣に教えたのです」と。帝はこれを異とし、急ぎ行在に召し、兵部郎中に拝した。間もなく、諫議大夫に拝した。
その年の冬、宰相王鐸が滑臺に至り、天下行営都統を兼ねて充任した。諸侯に兵を徴するにあたり、濬を行営都統判官に奏用した。時に王敬武が初めて弘霸郎を破り、軍威大いに振るい、累詔して平盧兵を征したが、敬武のみは赴援しなかった。鐸は濬を遣わしてこれを説かせた。敬武は既に偽命を受け、さらに強を恃んで詔使を迎えなかった。濬が至り、謁見して責めて言うには、「公は天子のために藩を守り、王臣が詔を齎して宣諭するのに、詔使を侮慢する。既に君臣の礼分を識らず、また何の顔あって軍民を統御できようか」と。敬武は愕然として謝罪した。詔を宣した後、軍士は兵を按じて黙然としていた。濬は将佐を併せて召し、鞠場に集めて面諭して言うには、「人生、忠に效い義に仗つは、粗かに順逆を分かち、利害を知らんことを冀うのである。黄巢は前日に過ぎぬ塩を売る虜に過ぎぬ。公らは累葉の天子を捨てて、塩売りの白丁に臣従する。何の利害を論ずることができようか。今、諸侯は王事に勤め、天下はこれに応ずる。公らは独り一州を拠り、成敗を坐観する。賊が平定された後、去就をどう安んじようか。もしこの際に難を排え紛を解き、師を陳ね旅を鞠して、共に寇盗を誅し、鑾輿を迎え奉れば、富貴功名は指掌の間に取ることができる。吾は公らが安きを捨てて危きに就くことを惜しむ」と。諸将は顔色を改めて過ちを引き、敬武に言うには、「諫議の言う通りである」と。即時に軍を出し、濬に従って京師に入援した。賊が平定され、累遷して戸部侍郎となった。僖宗が再び山南に幸すると、平章事・判度支に拝した。
濬は初め発跡するに当たり、楊復恭に依った。復恭が失勢すると、田令孜に依り、重位に至ったが、かえって復恭を軽んじた。再び山南に幸すると、復恭が令孜に代わって中尉となり、濬の知政事を罷免した。昭宗は初め藩邸におられた時、深く宦官を嫉み、復恭は援立の大勲があり、恩を恃んで事を任じたので、上は心にこれを平らかに思わなかった。当時、時勢に趨く者は、多く濬に方略あり、大計を画策できると言い、再び宰相・判度支に用いた。上は嘗て濬に問うて、理を致すに何事が最も急かと。対えて言うには、「兵を強くすることに如くはありません。兵強ければ天下服します」と。上はここにより専ら兵甲を捜補することを務め、武功をもって天下に勝たんとした。後に延英で前代の治の得失を論じ、濬は言うには、「必ずしも遠く漢・晋の弊を征するには及びません。臣窃かに見るに、陛下は春秋に鼎盛で、英睿このようでありながら、内外強臣に逼られています。臣がこれを思う毎に、実に痛心して泣血します」と。
時に朱全忠が秦宗権を誅し、安居受が李克恭を殺し、潞州をもって全忠に降った。幽州の李匡威・雲州の赫連鐸らが軍を出して太原を討つことを奏請した。詔して四品以上の官に議させたが、皆言うには、「国祚未だ安からず、事を生ずるに宜しからず。仮に太原を得たとしても、また国家の所有とすべきではない」と。濬は議して言うには、「先帝は頻りに播越に至り、王室安からず。その乱階を原れば、克用と全忠の矛盾によるものです。その奏に因り、全忠の立功に乗じ、両雄の勢いを断つべきです」と。上は言うには、「収復の功は、克用が第一である。今その危困に乗じて兵を加えれば、諸侯は我を何と言おうか」と。濬は兵を用いる利害を懇ろに論じ、蓋し外勢を示して復恭を擠まんとしたのである。上の旨は未だ決しなかった。宰臣孔緯は言うには、「張濬の陳ぶる所は、万代の利です。陛下の惜しまれる所は、即日の利です。臣の料る所によれば、師が河を渡れば賊必ず自ら破れましょう。昨、軍中の転餉犒労を計度しましたが、一二年の間、必ず闕事はありません。陛下は断意してこれを行われますように」と。
既に二相ともに論じたので、濬を河東行営兵馬都招討宣慰使とし、京兆尹孫揆をその副使とした。なお揆に昭義節度使を授け、華州の韓建を供軍使とし、朱全忠を太原西南面招討使とし、李匡威・赫連鐸を太原東北面招討使とした。全忠は汴軍三千を以て濬の牙隊とした。大順元年六月、濬は軍五十二都を率い、邠寧・鄜・夏の雑虜を兼ねて共に五万人騎、京師より発した。昭宗は安喜楼に御して臨送し、濬は酒酣に泣いて奏して言うには、「陛下は動くごとに賊臣に掣肘されました。臣が誓って死し憤惋する所以は、陛下のためにその僭逼を除かんがためです」と。楊復恭これを聞いて悦ばず。中尉内使が長楽で餞別し、復恭は巵酒を奉じて濬に属したが、濬は辞して言うには、「聖人が酒を賜り、既に酔いました」と。復恭は戯れて言うには、「相公は禁兵を握り、大蒐を擁し、独り一面に当たる。復恭の意を領して面子を作らぬのか」と。濬は笑って言うには、「賊が平定された後に、初めて面子が見えましょう」と。復恭はこれを恨んだ。
時に汴・華・邠・岐の師が河を渡り、晋州で濬と会した。汴将の朱崇節が権知潞州事となり、太原将の李存孝がこれを攻めた。濬は賊が平定されれば汴人が昭義を占拠することを慮り、孫揆に分兵して鎮に赴かせ、中使韓帰範が旌節を送って軍に至らせた。八月、揆と帰範は潞州に赴いた。潞に至り、ともに存孝に擒えられて太原に送られた。九月、汴将の葛従周が潞州を棄てた。十月、濬の軍は陰地に至り、邠・岐・華三鎮の師は平陽に営した。李存孝がこれを撃ち、一戦にして敗れ、兵仗を委ねて潰散した。晋州を進攻した。数日後、夜中に濬は衆を斂めて遁走した。曙に及んで、師を喪うこと殆ど半ばに及んだ。存孝は進んで晋・絳・慈・隰等の州を収めた。濬は狼狽して含山より王屋を逾え、河清に出て、屋木を拆き筏を縛り河を済り、部下は離散して将に尽きんとした。李克用が上章して論訴して言うには、
晉州長寧關使張承暉が当道において張濬の榜文と詔書を書き写したところによれば、張濬が招討制置使に充てられ、軍を率いて臣を討伐するよう命じられ、兼ねて臣の属籍と官爵を削るという。臣は誠に冤罪であり憤り、頓首し、頓首する。伏して考えるに、宰臣張濬は天を欺き日を蔽い、朝廷に容れられない。君に臣を讒言し、臣の地位を奪う。燕帥に依拠して妄りに奏上し、汴賊と恩を結び、皇威を仮託し、王命を擅に宣べ、師旅を徴集し、乾坤を撹乱する。陛下の中興の謀を誤らせ、黔黎に重傷の困苦を資する。臣は実に何の罪があって、陛下はこれを伐つのだろうか。これは宰臣が権を握り、面と向かって陛下を欺くことである。況や臣父子三代、四朝に恩を受け、徐方を破り、荊楚を救い、鳳闕を収め、梟巣を砕き、陛下が今日通天の冠を戴き、白玉の璽を佩くに至らしめた。臣の属籍は、懿皇が賜うところであり、臣の師律は、先帝が命じたところである。臣に逆節はなく、濬は何の名目で討伐するのか。陛下もし功臣を厭いて逐い、文吏を用いようとされるなら、自ら臣の封邑を遷し、侯として邸に就かせればよい。どうしてその罪を加えられようか、誰が肯って言葉なからんや。もし臣の雲中の伐が時に罪を得たというなら、則ち拓拔思恭が鄜・延を取ったこと、朱全忠が徐・鄆を侵したことについて、陛下はどうしてこれを討たれないのか。仮に李孝德が主に忠でないとして、これを伐つのが正しいとするなら、則ち朱瑄・時溥は何の罪があるのか。これは同じ罪座にありながら名を異にし、彼を賞して此を誅するものであり、天下の藩服をして、強者は扼腕し、弱者は自ら恐れ、流言窃議し、臣のために怨み嘆かせるもので、固より中興の術ではない。且つ陛下が危殆の秋には、臣を韓信・彭越・伊尹・霍光として褒め称え、既に安んじた後には、臣を戎・羯・蕃・夷と罵る。海内で兵を握り事を立てる者、臣の如き者は多い。陛下の他時の罵りを恐れない者があろうか。臣は先日燕軍に遇い、礼をもって退舍した。匡威は浅昧で、厚く自ら矜誇し、乃ち臣が矢石に中り、士卒を覆えたと言う。内外の吠声を一発させ、短謀を競って陳べさせ、陛下君臣の分を誤らせるに至った。況や命官選将は、自ら典刑があり、必ずしも臣の弱きを幸いとして後にこれを取る必要はない。もし臣が期を延ばし命を挺して、尚ほ一方を固守するならば、彼は実に何の顔あって陛下に謁見できようか。これは奸邪の朋党が、軽々しく邦典を弄び、陛下が旒を凝らし扆に端座しておられることによるもので、どうしてこれを知ることができようか。今張濬が既に出軍した以上、微臣は固より束手し難い。臣は便ち閽を叫び、軽騎で面と向かって玉階を叩き、邪佞を陛下の彤墀に訴え、詔命を先皇の宗廟に納め、然る後に身を束ねて司敗に付し、甘んじて憲章に処せんと欲する。
時に克用は捕らえた中使に表を奉らせたが、表が届いた時には既に張濬は敗れており、朝廷は聳然として震えた。制書に曰く、
漢の武帝は恭倹富庶の後に乗じて、朔方を建置しようとしたが、公孫弘がこれを沮み、十のうち一も得られなかった。しかし良史が弘に宰相の体有りと評するのは、誠に人を愛し国を治めることを先とし、境を拓き疆を開くことを末としたからである。孝宣帝が雄才削平の余りに値し、北征を議しようとした時、魏相がこれを争い、五将は尋いで罷められた。果たして中興を致し、賢輔と号された。況や朕は天が兵戈を厭う後に承け、人が休息を思う時に当たり、どうして臯陶・夔のごときを望み、共に堯の日を成さんや。孫弘・魏相に及ぶことを庶幾い、粗く漢の年に及ぼさんとする。もしこれを易えるならば、どうして倚註できようか。光禄大夫・門下侍郎・兼戸部尚書・同中書門下平章事・上柱国・清河郡開国伯・食邑一千二百戸・充河東行営諸道兵馬招討制置等使張濬は、早くより盛名を以て、奇士と称せられ、是れにより再び徴用を加えられ、鈞衡を委ねられた。必ず小康を致し、大任に克く勝つと謂われた。然るに乃ち守道を思わず、ただ功を邀えんと欲し、詭ならざる諮謀を用い、名無き兵革を起こした。自ら一挙の間に、旬時に止まると云い、抗論を堅く請い、勢いこれを奪う能わず。軽々しく諸葛亮の渭濱の役をなし、小さく裴度の淮右の行を見做した。功を経ること寒暄の間、百万を費消した。虚誕は朝野に彰け、詐詭は華夷に布き、横草の功蔑ろに聞かず、燎原の勢い愈急なり。旄を擁し驛に乗るの使をして、虜庭に囚われしめ、王に勤め国に奉ずるの軍をして、本土に帰らんことを懐かしめしむ。廊廟の威重を忘れ、藩屏の仇讎を結ぶ。海内の生霊をして、その貢賦を竭きしめんと欲し、ただ河中の郡邑のみならず、丘墟と化さしめんとする。潜かに厲階を生じ、誰に帰咎せんと欲するのか。嗚呼、晁錯を征するの故事を思い、王恢の旧章を思う。国に明文有り、爾当に何をか逭れん。尚ほ人を愛するに礼を以てするは、理体宜しく然るべし。廉鎮の劇権、武昌の善地、枢軸の務を罷め、仍って支度の司を停むるに宜しい。勉めて自ら思惟し、以て後の命を逃れよ。検校戸部尚書・鄂州刺史・武昌軍節度観察等使とすべし。
尋いで連州刺史に貶し、馳驛にて発遣させた。藍田関に至って行かず、華州に留まり韓建に依った。時に朝廷微弱にして、竟に詰めることができなかった。
永寧県の吏葉彦なる者は、張氏が平素より厚く遇していた。楊麟が来ることを、彦は知り、張濬の第二子格に告げて言うには、「相公の禍は免れ難い。郎君は宜しく自ら謀るべし」と。格と濬父子は号咷するのみであった。濬は格に言うには、「留まれば則ち命を共にし、去れば或いは免れることがあろう。汝自ら図れ。吾を累いとするなかれ。後祀を存することを冀う」と。格は拝辞して去った。葉彦は義士三十人を率い、漢江を渡るまで送って引き返した。格は荊江より峡を上り蜀に入った。王建が僭号すると、宰相として用いた。中興して蜀を平らげると、任圜が格を携えて還った。格は葉彦の恩恵を感じ、これを訪ねたが、身は既に歿しており、その家に厚く報いた。張濬の第三子は楊行密のもとに竄れた。
乾寧以後より、賊臣内に侮り、王室次第に微となる。昭宗は凌弱に堪えず、奇材を簡抜して相と為さんと欲した。然れども群小の論に采り、未だ嘗て一名人を得ず。登用されたる徒は、時に嗤誚されざる者無し。
朱朴
朱朴なる者は、乾寧中国子博士であった。腐儒で木強、他に才伎無し。道士許巖士が禁中に出入りし、嘗て朴に依って姦利を為し、従容として上前にて朴が経済の才あることを薦めた。昭宗が召見し、経義を以て対えると、甚だ悦び、即日諫議大夫・平章事に拝した。中書に在りて名公と歯し、筆札議論、動もすれば笑いの端となる。数月後、巖士の事敗れ、共に韓建に殺された。
鄭綮
鄭綮なる者は、進士に登第し、監察・殿中、倉・戸二員外、金・刑・右司三郎中を歴任した。家貧しく郡を求め、出でて廬州刺史となった。黄巢が嶺表より還り、淮南を経て剽掠した。綮は黄巢に文牒を移し、郡界を犯さざることを請うた。巢は笑ってこれに従い、一郡独り寇されず。天子これを嘉し、緋魚袋を賜うた。郡を罷むるとき、銭千緡有り、州の帑に寄託した。後、郡数度陥落すれども、盗賊鄭使君の寄庫の銭を犯さず。楊行密が刺史となると、寄託したものを京師に送り綮に還した。
綮は詩を善くし、多く侮劇して時を刺し、故に格調を落とし、時に鄭五歇後体と号された。初めて廬江を去る時、郡人と別れて云うには、「唯だ有り両行の公廨の涙、一時に灑向す渡頭の風」と。滑稽皆この類いである。
王徽が御史大夫となると、鄭綮を兵部郎中・知臺雜に奏挙し、給事中に遷し、金紫を賜う。僖宗が山南より還御するに及び、宰相杜讓能の弟弘徽を中書舎人とした。綮は弘徽の兄が中書に在るを以て、弟は禁近に同居すべからずとし、制書を封還す。天子は報いず、綮は即ち病を移して休官す。間もなく、左散騎常侍として征還さる。朝政に欠けるところあれば、上章して論列せざるはなく、事は行われざるも、喧伝都下し、執政これを悪む。国子祭酒に改む。物議、綮の匡諫を以て散地に置くは不可なりとす。執政懼れ、復た常侍に用う。
光化初め、昭宗宮に還り、庶政未だ愜わず。綮は毎に詩什に形してこれを嘲り、中人或いはその語を上前に誦す。昭宗その激訐を見て、蘊蓄有りと謂い、常奏班簿の側に就いて註して云く、「鄭綮は礼部侍郎・平章事とすべし」と。中書の胥吏その家に詣でて参謁す。綮笑ってこれを問いて曰く、「諸君大いに誤れり、天下の人をして並びに字を識らずせしめ、宰相鄭五に及ばざらしむるなり」と。胥吏曰く、「聖旨の特恩に出づ、来日制下す」と。その手を抗ぎて曰く、「万一かくの如くならば、人を笑殺すべし」と。明日果たして制下し、親賓来賀す。首を搔きて言う、「歇後鄭五が宰相と作る、時事知るべし」と。累表して遜譲すれども、獲ず。既に視事に入り、侃然として道を守り、復た詼諧せず。終に物望宜しからざるを以て、自ら引退を求む。三月余りして、疾を移して骸を乞い、太子少保を以て致仕す。光化二年卒す。
時の議、昭宗の台臣濬・朴・綮の三人を命ずるは尤も謬り、季末の妖なりとす。
劉崇望
先祖
劉崇望、字は希徒。その先は代郡の人、元魏の孝文帝に随い洛陽に徙り、遂に河南の人と為る。八代祖は隋の大理卿坦、政会を生む。政会は太宗を輔けて晋陽に起義し、官は戸部尚書に至り、渝国公に封ぜられ、形を淩煙閣に図る。政会は玄意を生む。玄意は太宗の女南平公主を尚し、洪・饒八州采訪使を歴任す。玄意は奇を生む。位は吏部侍郎に至る。奇は慎知を生む。仕えて獲嘉令に至る。慎知は褧を生む。仕えて東阿令に至る。褧は藻を生む。位は終に秘書郎。藻は符を生む。進士登第し、咸通中位は終に蔡州刺史、八子を生む。崇龜・崇望・崇魯・崇謨最も知名なり。
崇望の兄 崇龜
崇龜、咸通六年進士擢第し、累遷して起居舎人、礼部・兵部二員外。母憂に丁り免ぜらる。広明元年春、鄭従讜相を罷め、太原に鎮す。崇龜を度支判官・検校吏部郎中・御史中丞に奏し、金紫を賜う。中和三年入朝し、兵部郎中と為り、給事中を拝す。大順中、左散騎常侍・集賢殿学士・判院事に遷り、戸部侍郎に改め、検校戸部尚書。出でて広州刺史・清海軍節度・嶺南東道観察処置等使と為り、卒す。
崇望
崇望、咸通十五年進士科に登る。王凝宣歙を廉問し、転運巡官に辟く。戸部侍郎裴坦塩鉄を領し、参佐に辟く。崔安潜許昌・成都を鎮む。崇望昆仲四人、皆安潜の幕下に在り。入りて長安尉と為り、弘文館に直し、監察御史・右補闕・起居郎・弘文館学士に遷り、司勲・吏部二員外郎に転ず。崔安潜吏部尚書と為る。崇望南曹を判じ、宿弊を滌除し、選部を復た清む。田令孜政を幹き、藩鎮怨望す。河中尤も甚だしく、職貢を修めず。僖宗山南に在り、蒲阪関に近きを以て、その效用を欲し、使を選び旨を諭す。崇望を諫議大夫と為す。既に至り、大義を諭す。重栄詔を奉じて恭順し、心を誓いて匡復を請い、朱玫を殺して自ら贖わんことを請う。使還り、上悦び、召し入れて翰林に充て学士とし、累遷して戸部侍郎・承旨、兵部に転じ、禁署に四年在る。
昭宗即位し、中書侍郎・同平章事を拝し、累ね兵部・吏部尚書を兼ぬ。大順初め、同列張濬策を画して太原を討たんとす。崇望は以て不可と為す。濬果たして敗る。濬黜せられ、崇望代わって門下侍郎・監修国史・判度支と為る。
明年、玉山都頭楊守信、楊復恭に協して兵を称し闕下に闕し、陣を通化門にす。上は兵を延嘉門に陳ぶ。是の夜、崇望に命じて度支庫を守らしむ。明日暁、含光門に入る。未だ開かず、門内の禁軍左右に列し、門開くを俟ちて即ち両市を劫掠せんとす。及び宰相来ると伝呼するを聞き、門方に啓く。崇望馬を駐めて慰諭して曰く、「聖上は街東に在りて親しく戎事を総ぶ。公等禁軍、何ぞ楼前に賊を殺し、功名を立取せざる。切に街市を剽掠し、小利を図りて悪名を成すべからず」と。将士唯唯し、崇望に従いて長楽門に至る。守信兵来るを見て、即ち遁去し、軍士万歳を呼ぶ。是の日庫市全きを得、軍人乱れず、これ崇望の方略に繋る。尋ねて左僕射を加う。
時溥と朱全忠衡を争う。全忠徐・泗を兼ねんと謀り、表を上りて重臣を以て徐に鎮せんことを請う。乃ち崇望を以て本官を守り、武寧軍節度使を充てしむ。溥代を受けず、行きて華陰に至りて還り、太常卿を拝す。王重盈死す。王珂・王珙河中の節鉞を争う。朝廷宰相崔胤を以て河中節度使と為す。珂は李克用の子婿なり。河東の進奏官薛志勤声を揚げて言う、「崔相は重徳と雖も、鎮として河中に作り王珂に代わるは、光徳劉公に如かず、我が公の事に素なり」と。及び三鎮兵を以て朝に入り、大臣を殺害し、志勤の言を以て、崇望を責授して昭州司馬と為す。及び王行瑜誅せられ、太原表を上りて崇望の無辜放逐を言う。時に已に荊南に至る。詔有りて召し還り、吏部尚書を拝す。未だ至らざるに、王溥再び政事を知り、吏部尚書を兼ぬ。乃ち崇望を兵部尚書に改む。
時に西川顧彦暉を侵寇し、東川を併せんと欲す。崇望を以て検校右僕射・平章事・梓州刺史・剣南東川節度使と為す。未だ鎮に至らざるに、召し還り、復た兵部尚書と為す。光化二年卒す。時に年六十二、冊贈して司空と為す。
崇望の弟 崇魯
崇魯は、広明元年に進士第に登り、鄭従讜が奏上して太原推官に充てた。時に兄の崇亀は節度判官であり、兄弟は共に幕府に同居し、まもなく掌書記に転じた。中和二年に朝廷に入り、右拾遺・左補闕に拝された。景福初め、水部員外郎をもって制誥を知る。二年、杜譲能が罪を得ると、昭宗は再び韋昭度を宰相に命じ、翰林学士の李谿を同平章事とした。崇魯は崔昭緯と親しくしていた。昭緯は邠州・岐州の援けを恃み、譲能が誅殺された後は、権力を己に帰し、昭宗が李谿を師として文章を学ぶのを、その地位に居て寵愛を得れば恩顧が次第に衰えることを恐れ、ひそかに崇魯と謀ってこれを阻んだ。李谿の任命が宣制された日、班を出て泣き、昭緯に言うには、「朝廷は賢者を欠いているとはいえ、賤しい者を用いて宰輔とすべきではない。李谿はかつて楊復恭・西門重遂に依って内職に居た。先日杜太尉(譲能)が狼藉を働き、朝廷の深き恥となった。今またこのように国力を弱めているのに、どうしてさらに覆轍を踏むことができようか」と。これによって李谿の任命は行われなかった。李谿は十一月初めから歳暮まで、連続して十の表を上って冤罪を訴え、その言葉は誹謗であり、聞くに忍びなかった。明年の春、再び李谿を平章事に命じた。昭緯は李茂貞・王行瑜・韓建を召して兵を率いて朝廷に入らせ、昭度と李谿を殺させた。その年、太原(李克用)が王行瑜を誅殺し、昭緯は官を貶され、崇魯は連座して崖州司戸に貶された。初め崇亀は外に在り、崇魯が詔書(麻)に対して泣いたと聞き、大いに怒り、数日間食事をせず、親しい者に言うには、「我が家の兄弟は進身に素養があり、未だかつて名声利欲によって名を敗ったことはない。我が家の不幸、このような児を生んだことよ」と。
崇望の弟 崇謨
崇謨は、中和三年に進士及第した。乾寧末、太常少卿・弘文館直学士となった。
徐彦若
徐彦若は、天后朝の大理卿有功の子孫である。曾祖父は宰、祖父は陶、父は商、三代続けて進士科に登った。商は字を義声といい、大中十三年に及第し、秘書省校書郎に初任した。累遷して侍御史となり、礼部員外郎に改めた。まもなく制誥を知り、郎中に転じ、召されて翰林学士に充てられ、中書舎人・戸部侍郎となり本司事を判じ、検校戸部尚書・襄州刺史・山南東道節度等使となった。朝廷に入り御史大夫となった。咸通初め、刑部尚書を加えられ、諸道塩鉄転運使を充て、兵部尚書・東莞子に遷り、食邑五百戸を与えられた。四年、本官をもって同平章事となった。六年に宰相を罷め、検校右僕射・江陵尹・荊南節度観察等使となった。朝廷に入り吏部尚書となり、累遷して太子太保となり、卒した。
彦若は、咸通十二年に進士に擢第した。乾符末、尚書郎をもって制誥を知り、正しく中書舎人に拝された。昭宗が即位すると、御史中丞に遷り、吏部侍郎に転じ、検校戸部尚書となり、李茂貞に代わって鳳翔隴節度使となった。茂貞は交代を受け入れず、再び中丞に拝され、兵部侍郎・同平章事に改められ、中書侍郎に進み加えられ、累ねて左僕射を兼ね、国史を監修した。昭宗に扈従して石門から宮中に還ると、開府儀同三司・守司空を加えられ、斉国公に進封され、太清宮・修奉太廟等使となり、弘文館大学士を加えられ、「扶危匡国致理功臣」の名を賜った。昭宗が華州から還宮すると、太保・門下侍郎に進位した。時に崔胤が権力を専らにし、彦若が己の上位にいるのを、事権をその門に集めようとした。二年九月、彦若を検校太尉・同平章事・広州刺史・清海軍節度・嶺南東道節度等使とした。鎮所で卒した。
彦若の弟 彦枢
弟の彦枢は、位は太常少卿に至った。
彦若の子 綰
子の綰は、天祐初めに司勲・兵部の二員外郎、戸部・兵部の二郎中を歴任した。
陸扆
陸扆は、字を祥文といい、本名は允迪、呉郡の人である。家を陝に移し、今は陝州の人となった。曾祖父は澧、位は殿中侍御史で終わった。祖父は師徳、淮南観察支使であった。父は鄯、陝州法曹参軍であった。扆は、光啓二年に進士第に登り、その年に僖宗に従って興元に幸した。九月、宰相韋昭度が塩鉄を領し、巡官に奏した。明年、宰相孔緯が史館に直すよう奏し、校書郎を得たが、まもなく母の喪に服して免官となった。龍紀元年冬、召されて藍田尉を授けられ、弘文館に直し、左拾遺に遷り、集賢学士を兼ねた。中丞柳玭が奏して監察御史に改めた。大順二年三月、召されて翰林学士に充てられ、屯田員外郎に改められ、緋色の服を賜った。景福元年、祠部郎中・知制誥を加えられ、二年の元日の朝賀で、面と向かって金紫の服を賜った。五月、中書舎人に拝された。
扆は文思が敏速で、初めから思慮することなく、筆を揮うこと飛ぶが如く、文理ともに満足すべきもので、同僚はその才能に服した。天子の顧み待遇は特に異なっていた。かつて金鑾殿で賦を作り、学士に和するよう命じたが、扆が先に成した。帝はこれを見て嘆賞し、「朕は聞く、貞元の時に陸贄・呉通玄兄弟がいて、内庭の文書を作ることができたが、後来は全く継ぐ者がいなかった。今朕は卿を得て、この文は絶えることがない」と言った。
乾寧初め、戸部侍郎に転じた。二年、兵部に改め、階は銀青光禄大夫に進み、嘉興男に封じられ、三百戸を与えられた。三年正月、宣旨により学士承旨を授けられ、まもなく左丞に改めた。その年七月、戸部侍郎・同平章事に改めた。故事では、三署(三省)の除拜には、旧僚を宴するための光署銭があったが、内署(翰林院)にはこの例がなかった。扆が輔相に拝された月、学士に光院銭五百貫を送り、特に新例を挙げ、内署はこれを栄誉とした。八月、中書侍郎・集賢殿大学士・判戸部事を加えられた。
九月、覃王が師を率いて徐彦若を鳳翔に送った。師の起こりに、扆は強く請うて言った、「播遷の後、国歩は初めて集まりつつあり、近隣の藩鎮と悪しき関係を持つべきではなく、必ず他賊に窺われることになろう。さらに親王が兵を統率することは、世間の議論が沸き立ち、事に益なく、ただ後患を残すのみである」と。昭宗はすでに兵を発し、扆が議論を沮むことに怒り、この月十九日、硤州刺史に責授した。師は出て果たして敗れ、車駕は出幸した。四年二月、再び扆に工部尚書を授けた。八月、兵部尚書に転じ、昭宗に従って華州から宮中に還った。
明年正月、再び中書侍郎・同平章事に拝せられる。光化三年四月、戸部尚書を兼ね、呉郡開国公に進封され、食邑一千戸を賜る。九月、門下侍郎・監修国史に転ず。天復元年五月、特進に進階し、兵部尚書を兼ね、食邑五百戸を加えられる。車駕が鳳翔より京師に還り、赦後に諸道に皆詔書を降すが、独り鳳翔に詔無し。扆奏して曰く、「鳳翔は国門に近く、其の心跡を責むれば、罪実に難容なり。然れども比来職貢に虧無く、朝廷未だ之と絶たず。一朝独り詔命無きは、人に示すに広からず。」崔胤怒り、扆を沂王傅に貶し、東都に分司せしめ、階を削りて正議大夫に至らしむるを奏す。居ること無幾、崔胤誅せられ、復た吏部尚書を授けられ、階封は故の如し。昭宗に従ひ洛陽に還る。其の年秋、昭宗弑害に遇ふ。明年正月、責授せられて濮州司戸と為り、裴樞・崔遠・独孤損等と共に滑州白馬驛に於て害せられ、時に年五十九。
扆の子 璪
子璪、後に緱氏令と為る。
柳璨
柳璨は河東の人。曾祖は子華。祖は公器、僕射公綽の再従弟なり。父は遵。璨は少くして孤貧にして学を好み、林泉に僻居す。晝は則ち薪を採り、夜は則ち木の葉を燃して以て書を照らす。性謇直にして、縁飾無し。宗人の壁・玭、朝に貴仕すれども、璨の樸鈍を鄙み、諸宗を以て之を齒せず。光化中、進士第に登る。尤も『漢史』に精しく、魯国の顔蕘深く之を重んず。蕘は中書舍人と為り、史館を判じ、之を引いて直学士と為す。璨は劉子玄の撰する所の『史通』が経史を譏駁する過當なるを以て、璨は子玄の失を紀し、別に十巻を為し、号して『柳氏釈史』と曰ふ。学者其の優贍なるに伏す。左拾遺に遷る。公卿朝野、箋奏を托す。時誉日洽なり。其の博奥なるを以て、目して「柳篋子」と為す。
昭宗文を好み、初め李谿の頗る学有るを寵待す。谿其の死を得ざるに及び、心常に之を惜しみ、文士にして谿に似たる者を求む。或ひは璨の高才を薦む。召見し、詩什を以て試みるに、甚だ喜ぶ。無幾、翰林学士に召す。崔胤罪を得る前日、璨を召して内殿に入れ制勅を草せしむ。胤の死の日、既に夕に、璨内より出で、前駆「相公来る」と伝呼す。人未だ制勅を見ず、測る所以無し。翌日学士に対し、上之に謂ひて曰く、「朕柳璨を奇特と為し、似たるは奨任す可きか。若し政事に預からしむれば、宜く何の官を授くべきか。」承旨張文蔚曰く、「陛下賢能を抜用し、固より資級に拘はらず。恩命の高下は、聖懐より出づ。若し両省の遷転に循はば、拾遺超等して起居郎に入り、大位に臨むは、宜しからず。」帝曰く、「超えて諫議大夫に至らしむるは可なるか。」文蔚曰く、「此の命甚だ愜なり。」即ち諫議大夫平章事を以てし、中書侍郎に改む。人の任ずる速きこと、古に茲の例無し。
同列の裴樞・独孤損・崔遠は皆宿素の名徳有り、遽に璨と同列と為り、意微かに之を軽んず。璨深く怨を蓄ふ。昭宗洛陽に遷る。諸司の内使・宿衛の将佐は、皆朱全忠の腹心なり。璨皆将迎し、恩を以て之に接し、厚く相交結す。故に當時の権任皆之に帰す。
二年五月、西北に長星竟天し、太微・文昌・帝座諸宿を掃ふ。全忠方に篡代を謀る。而して妖星謫見す。占者云く、「君臣俱に災有り、宜しく刑殺を以て天変に応ずべし。」蔣玄暉・張廷範、衣冠の宿望にして制し難き者を謀殺せんとす。璨即ち首に素より快からざる者三十余人を疏し、相次いで誅殺す。班行為の一空と為り、冤声路に載す。傷害既に甚だしきに、朱全忠心に之を悪む。会に全忠九錫を授けられ、蔣玄暉等別に意見を陳ぶ。王殷大梁に至り、玄暉等が宮掖に通導し、李氏を興復せんと欲すと誣る。全忠怒り、廷範を捕へ、河南に令して衆を聚め、五軍分裂して之を誅し、兼ねて璨を誅す。臨刑に呼びて曰く、「国に負ふ賊柳璨、死する其れ宜なり。」初め、璨洛陽に遷りて後、累ねて戸部尚書を兼ね、司空を守り、光禄大夫に進階し、塩鉄転運使と為る。
其の弟の瑀・瑊、璨に坐して笞死す。
史臣曰く
史臣曰く、嗚呼、李氏の馭を失へるや、孛沴の気紛如たり。仁義の徒殆んど尽きぬ。狐鳴き鴟嘯き、瓦解し土崩す。河を帯び嶽を礪くの門、寂として琨・逖無し。挺を奮ひ竿を掲ぐの類、唯だ敦・玄に效ふ。手未だ棘矜を舎てざるに、心已に問鼎を萌す。之に囂浮の士子、阘茸の鯫儒を加ふ。管・葛の濟時の才に昧く、王・謝の扶顛の業無く、功を邀へ利を射て、族を陷れ邦を喪ふ。濬・緯は前に虎を養ひ、胤・璨は後に廬を剝ぐ。徐・薛を瘴海に逐ひ、綮・朴を巖廊に置く。殿廷に哭制の夫有り、輔弼に破輿の党走る。九疇既に紊れ、百怪斯に呈す。木将に朽ちんとして蠹蠍生じ、厲既に篤くして夔魖見る。妖徒此の若くんば、亡国宜なり。何ぞ必ずしも長星を以てせん、更に衰運に臨むに。
贊
贊に曰く、蕭召・朱玫、孔符・張濬、身世殃に罹り、邦家釁を起す。木の斯くの如く蠹くが如く、自ら中に潰る。巇を抵ひ乱を侮り、戎を伏するを安んぞ責めん。