舊唐書

巻178

巻178

舊唐書

原文舊唐書

卷一百七十八

原文卷一百七十八

列傳第一百二十八 趙隱 張裼 李蔚 崔彥昭 鄭畋 盧攜 王徽

原文列傳第一百二十八 趙隱 張裼 李蔚 崔彥昭 鄭畋 盧攜 王徽

目次

原文(段落全体)趙隱

趙隱

原文(段落全体)趙隱

趙隱は字を大隱といい、京兆奉天の人である。祖父は植である。建中末の朱泚の乱のとき、徳宗が奉天に幸したが、時に倉卒の変が起こり、羽衛が集まらず、数日の間に賊が城を攻めてきた。植は家人と奴客を率いて奮力して拒ぎ守り、さらに家財を献じて軍の賞与を助けたので、天子はこれを嘉した。賊が平定されると、咸寧王渾瑊が推官に辟し、累遷して殿中侍御史となった。貞元初め、鄭州刺史に遷った。鄭滑節度使李融が副使を兼ねるよう奏上した。十年、融が病むと、軍府の政務を植に委ねた。大将宋朝晏が三軍をそそのかして乱を起こし、夜中に火が上がった。植は監軍とともに兵卒を並べてこれを待った。夜明け近くになって、乱卒は自ら潰走し、即日に誅斬してことごとく尽くした。帝は優詔を下してこれを嘉し、入朝して衛尉少卿となり、三遷して尚書工部侍郎となった。十七年、出て広州刺史・兼御史大夫・嶺南東道節度觀察等使となり、鎮で卒した。子に存約・滂がある。

原文趙隱,字大隱,京兆奉天人也。祖植。建中末硃泚之亂,德宗幸奉天,時倉卒變起,羽衛不集,數日間賊來攻城,植以家人奴客奮力拒守,仍獻家財以助軍賞,天子嘉之。賊平,咸寧王渾瑊辟為推官,累遷殿中侍御史。貞元初,遷鄭州刺史。鄭滑節度使李融奏兼副使。十年,融病,軍府之政委於植。大將宋朝晏構三軍為亂,中夜火發,植與監軍列卒待之。遲明,亂卒自潰,即日誅斬皆盡。帝優詔嘉之,入為衛尉少卿,三遷尚書工部侍郎。十七年,出為廣州刺史、兼御史大夫、嶺南東道節度觀察等使,卒於鎮。子存約、滂。

存約は、太和三年に興元の従事となった。この時軍が乱れ、存約は節度使李絳とちょうど宴席で語らっていた。吏が報じて「新軍が乱れ、突入して府廨に入りました。公は避けられるべきです」という。絳は「我は帥臣である。去ってどこへ行くのか」と言い、存約に手を振って逃げるよう命じた。存約は「公の厚い徳を蒙り、賓階に侍ることを得ました。恩に背いて苟くも免れようとするのは、我が志ではありません」と言い、即座に左右を分かち配して賊を拒ごうとした。この日、絳とともに害に遇った。

原文存約,太和三年為興元從事。是時軍亂,存約與節度使李絳方宴語,吏報:「新軍亂,突入府廨,公宜避之。」絳曰:「吾為帥臣,去之安往?」麾存約令遁,存約曰:「荷公厚德,獲奉賓階。背恩茍免,非吾誌也。」即欲部分左右拒賊,是日與絳同遇害。

隱は父が非命の禍に遭ったため、泣いて松楸を守り、十余年の間門を閉ざして書を読み、辟命に応じなかった。会昌年中、父の友人が権要に当たり、仕進を敦め勉めたので、ようやく弓招に応じ、累遷して従事となった。大中三年、進士に応じて登第し、累遷して郡守・尚書郎・給事中・河南尹となり、戸部・兵部の二侍郎を歴任し、塩鉄転運等使を領した。咸通末、本官をもって同平章事となり、中書侍郎を加えられ、礼部尚書を兼ね、階は特進に進み、天水伯に封ぜられ、食邑七百戸を与えられた。

原文隱以父罹非禍,泣守松楸,十余年杜門讀書,不應辟命。會昌中,父友當權要,敦勉仕進,方應弓招,累為從事。大中三年,應進士登第,累遷郡守、尚書郎、給事中、河南尹,歷戶、兵二侍郎,領鹽鐵轉運等使。咸通末,以本官同平章事,加中書侍郎,兼禮部尚書,進階特進、天水伯、食邑七百戶。

隱の性質は仁孝であり、弟の騭と特に友悌と称された。幼くして孤貧であり、兄弟は力を合わせて耕作し親に仕え、軽々しく親戚に干渉しなかった。宰輔の位に居てからも、権位をもって自ら高ぶることはなかった。退朝して衣を着替えると、兄弟は母の左右に侍った。歳時の伏臘には、公卿大臣が門に満ちて消息を通じたが、大臣としての母の栄えは、これに比べるものはなかった。乾符年中に相を罷め、検校兵部尚書・潤州刺史・浙西觀察等使となった。入朝して太常卿となり、転じて吏部尚書となり、累加して尚書左僕射となった。広明年中に卒した。子に光逢・光裔・光胤がある。

原文隱性仁孝,與弟騭尤稱友悌。少孤貧,弟兄力耕稼以奉親,造次不幹親戚。既居宰輔,不以權位自高。退朝易衣,弟兄侍母左右。歲時伏臘,公卿大臣盈門通訊,而大臣及母之榮,無如其比。乾符中罷相,檢校兵部尚書、潤州刺史、浙西觀察等使。入為太常卿,轉吏部尚書,累加尚書左僕射。廣明中卒。子光逢、光裔、光胤。

弟の騭もまた進士に登第した。大中末、兄の隱とともに省閣を践んだ。咸通初め、兵部員外郎として知制誥となり、転じて郎中となり、正しく中書舎人に拝された。六年、権知貢挙となった。七年、士を選び、多く名流を得たので、礼部侍郎・御史中丞に拝され、累遷して華州刺史・潼関防禦・鎮国軍等使となり、卒した。

原文弟騭,亦以進士登第。大中末,與兄隱並踐省閣。咸通初,以兵部員外郎知制誥,轉郎中,正拜中書舍人。六年,權知貢舉。七年,選士,多得名流,拜禮部侍郎、御史中丞,累遷華州刺史、潼關防禦、鎮國軍等使,卒。

光逢は、乾符五年に進士に登第し、初官として鳳翔推官となった。入朝して監察御史となったが、父の憂に服して免じられた。僖宗が京に還ると、太常博士を授けられ、礼部・司勲・吏部の三員外郎、集賢殿学士を歴任し、転じて礼部郎中となった。景福年中、祠部郎中として知制誥となり、まもなく召されて翰林学士を充てられ、正しく中書舎人・戸部侍郎・学士承旨に拝された。兵部侍郎・尚書左丞に改められ、学士はもとの通りであった。乾寧三年、駕に従って華州に幸し、御史中丞に拝され、礼部侍郎に改められた。

原文光逢,乾符五年登進士第,釋褐鳳翔推官。入朝為監察御史,丁父憂免。僖宗還京,授太常博士,歷禮部、司勛、吏部三員外郎,集賢殿學士,轉禮部郎中。景福中,以祠部郎中知制誥,尋召充翰林學士,正拜中書舍人、戶部侍郎、學士承旨。改兵部侍郎、尚書左丞,學士如故。乾寧三年,從駕幸華州,拜御史中丞,改禮部侍郎。

劉季述の廃立の後、宰相崔胤と黄門が権を争い、衣冠の道は喪われた。光逢は病を理由に移り、洛陽らくように退居し、門を閉ざして掃除もせず六七年を過ごした。昭宗が洛に遷ると、起用されて吏部侍郎となり、再び左丞となり、太常卿を歴任した。鼎が梁に没すると、累官して宰輔に至り、斉国公に封ぜられた。

原文劉季述廢立之後,宰相崔胤與黃門爭權,衣冠道喪。光逢移疾,退居洛陽,閉關卻掃六七年。昭宗遷洛,起為吏部侍郎,復為左丞,歷太常卿。鼎沒於梁,累官至宰輔,封齊國公。

光裔は、光啓三年に進士に擢第した。乾寧年中、累遷して司勲郎中・弘文館学士となり、膳部郎中・知制誥に改められ、金紫の服を賜った。兄弟が内外の制命を対掌し、時人はこれを栄とした。季述の廃立の後、光逢は洛に帰った。光裔は江表に遊歴して患を避けた。嶺南の劉隱は深く礼遇し、副使に奏し、これにより嶺外に家を定めた。

原文光裔,光啟三年進士擢第。乾寧中,累遷司勛郎中、弘文館學士,改膳部郎中、知制誥,賜金紫之服。兄弟對掌內外制命,時人榮之。季述廢立之後,光逢歸洛。光裔旅遊江表以避患。嶺南劉隱深禮之,奏為副使,因家嶺外。

光胤は、大順二年に進士に登第した。天祐初め、累官して駕部郎中に至った。梁に入り、顕位を歴任した。中興の時に用いられて宰輔となった。

原文光胤,大順二年進士登第。天祐初,累官至駕部郎中。入梁,歷顯位。中興用為宰輔。

張裼

原文張裼

張裼は字を公表といい、河間の人である。父は君卿で、元和年中に進士に挙げられ、詞学で知られ、累任して郡守となった。裼は、会昌四年に進士に擢第し、初官として寿州防禦判官となった。于琮が布衣の時、寿春に客遊し、郡守はこれを厚く遇さなかった。裼は琮が衣冠の子であるとして、異礼をもって遇した。琮が別れようとするとき、裼に「私は逆旅の翁に五十千を贈ったが、郡将の恵はその数に達しない。どうしたものか」と言った。裼はちょうど母に仕えており、家が貧しく、たまたま俸絹五十匹を得たので、ことごとく琮に与え、「他時に出処窮達があれば、互いに恤しみ合おう」と約した。裼は累次辟されて太原掌書記となった。大中朝、琮が翰林学士となり、まもなく宰輔に登り、度支を判じた。琮は裼を召して司勲員外郎・判度支とした。まもなく用いて翰林学士とし、転じて郎中・知制誥となり、中書舎人・戸部侍郎・学士承旨に拝された。咸通末、琮が韋保衡に陥れられて譴逐されると、裼は連座して封州司馬に貶された。保衡が誅されると、琮は雪冤された。裼は量移して入朝し、太子賓客となり、吏部侍郎・京兆尹に遷った。乾符三年、出て華州刺史となった。その年冬、検校吏部尚書・鄆州刺史・天平軍節度觀察等使となった。四年、鎮で卒し、時に年六十四であった。子に文蔚・済美・貽憲がある。

原文張裼,字公表,河間人。父君卿,元和中舉進士,詞學知名,累歷郡守。裼,會昌四年進士擢第,釋褐壽州防禦判官。于琮布衣時,客遊壽春,郡守待之不厚。裼以琮衣冠子,異禮遇之。琮將別,謂裼曰:「吾餉逆旅翁五十千,郡將之惠不登其數,如何?」裼方奉母,家貧,適得俸絹五十匹,盡以遺琮,約曰:「他時出處窮達,交相恤也。」裼累辟太原掌書記。大中朝,琮為翰林學士,俄登宰輔,判度支。琮召裼為司勛員外郎、判度支。尋用為翰林學士,轉郎中、知制誥,拜中書舍人、戶部侍郎、學士承旨。咸通末,琮為韋保衡所構譴逐,裼坐貶封州司馬。保衡誅,琮得雪。裼量移入朝,為太子賓客,遷吏部侍郎、京兆尹。乾符三年,出為華州刺史。其年冬,檢校吏部尚書、鄆州刺史、天平軍節度觀察等使。四年,卒於鎮,時年六十四。子文蔚、濟美、貽憲。

文蔚は、乾符二年に進士に擢第し、累次使府を佐けた。龍紀初め、入朝して尚書郎となった。乾寧年中、祠部郎中として知制誥となり、正しく中書舎人に拝され、紫を賜った。崔胤が朝政を擅にし、蔚は同年の進士で、特に相善くし、用いて翰林学士・戸部侍郎とし、兵部に転じた。昭宗に従って洛陽に遷った。輝王の時、中書侍郎・平章事に拝された。梁に入り、卒した。

原文文蔚,乾符二年進士擢第,累佐使府。龍紀初,入朝為尚書郎。乾寧中,以祠部郎中知制誥,正拜中書舍人,賜紫。崔胤擅朝政,與蔚同年進士,尤相善,用為翰林學士、戶部侍郎,轉兵部。從昭宗遷洛陽。輝王時,拜中書侍郎、平章事。入梁,卒。

済美と貽憲は、相次いで進士に登第した。貽憲は覆試で落第し、戸部巡官・集賢校理となった。

原文濟美、貽憲,相繼以進士登第。貽憲覆試落籍,為戶部巡官、集賢校理。

李蔚

原文李蔚

李蔚は、字を茂休といい、隴西の人である。祖父の上公は司農卿の位にあり、元和の初めに陝虢観察使となった。父の景素は、太和年間に進士となった。蔚は、開成の末に進士に擢第し、襄陽の従事として官途に就いた。会昌の末に選を調え、また書判抜萃に挙げられ、監察御史に拝され、殿中監に転じた。大中七年、員外郎として台雑を知り、まもなく制誥を知り、郎中に転じ、正しく中書舎人に拝された。咸通五年、礼部貢挙を権知した。六年、礼部侍郎に拝され、尚書右丞に転じた。

原文李蔚,字茂休,隴西人。祖上公,位司農卿,元和初為陜虢觀察使。父景素,太和中進士。蔚,開成末進士擢第,釋褐襄陽從事。會昌末調選,又以書判拔萃,拜監察御史,轉殿中監。大中七年,以員外郎知臺雜,尋知制誥,轉郎中,正拜中書舍人。咸通五年,權知禮部貢舉。六年,拜禮部侍郎,轉尚書右丞。

懿宗は仏教を奉ずることが過度で、常に禁中で僧に飯を供し、自ら賛唄をした。旃檀で二つの高座を作り、安国寺の僧徹に賜い、八日に一度万僧に飯を供した。蔚は上疏して諫めて言った。

原文懿宗奉佛太過,常於禁中飯僧,親為贊唄。以旃檀為二高座,賜安國寺僧徹,逢八飯萬僧。蔚上疏諫曰:

臣は聞く、孔丘は聖人であるが、言うときは周任の言を引き、苻融は賢人であるが、諫める時は必ず王猛の議を称えると。誠に事は古に師を求めるを以てとし、詞は情を達するを貴ぶのである。陛下は帝図を纘いで以来、仏事を克く崇められたが、ただ外を修めるに止まり、甚だ中を得てはいない。臣は略く本朝の名臣の啓奏の言を採り、以て仏を奉ずる初終の要を証したい。天後(則天武后)の時、かつて大像を営み、功費は百万に及んだが、狄仁傑が諫めて言った。『そもそも宝鉸は綴飾に尽き、瑰材は輪奐に竭きる。功は鬼を使わず、必ず人を役する。物は天から来ず、皆地から出る。百姓を苦しめなければ、物をどうして求めることができようか。物は生ずるに時があり、之を用いるに度がない。臣は毎に思惟して、実に悲痛に堪えない。かつて江表に在った時、像法が盛んに興り、梁の武帝・簡文帝は施捨に限りがなかった。そして三淮は沸浪し、五嶺は煙を騰げ、列剎は衢に満ちても、危亡の禍を救うことはなく、緇衣は路を蔽っても、どうして勤王の師に益することがあろうか。況や近年以来、風塵が屡々擾り、水旱が節を失い、征役が稍々繁くなっている。もし多く官財を費やし、また人力を苦しめるならば、一隅に難があれば、将に何を以てか救おうか』。これが切当な言の一つである。中宗の時、公主と外戚が僧尼の度を奏請したが、姚崇が諫めて言った。『仏は外に在らず、心にこれを求める。仏図澄は最も賢かったが、後趙に益せず、羅什は多芸であったが、姚秦を救わなかった。何充・苻融は皆敗滅に遭い、斉の襄帝・梁の武帝は災殃を免れなかった。ただ慈悲を志し、利益を心行し、もし蒼生が安楽ならば、即ちこれ仏身である』。これが切当な言の二つである。睿宗が金仙・玉真の二公主のために二つの道宮を造った時、辛替否が諫めて言った。『夏以来、淫雨が解けず、穀は壟に荒れ、麦は場に爛れる。秋以来、亢旱が災いとなり、苗は実らず、霜が損じ虫が暴れ、草菜は枯黄する。下人は咨嗟するが、未だ賑貸を加えず。陛下は両女を愛して両観を造り、瓦を焼き木を運び、土を載せ沙を填む。道路の流言は、皆百万の銭を用いると云う。陛下は聖人であるから、遠くて知らぬことはなく、陛下は明君であるから、細かくて見えぬことはない。既に知り且つ見ているならば、倉に幾年の儲があるか、庫に幾年の帛があるか、知っているか。百姓の間は生き延びることができるか、三辺の士は転輸することができるか、知っているか。今一卒を発して辺陲を扞ぎ、一兵を追って社稷を衛らせようとしても、多くは衣食なく、皆飢寒を帯びている。賞賜の間、全く出る所がない。軍旅が驟に敗れるのは、皆この由による。しかるに陛下は百万貫の銭を破って、不急の観を造り、以て六合の怨を買い、以て万人の心に違う』。これが切当な言の三つである。替否はまた寺を造ることを諫めて言った。『釈教は清浄を基とし、慈悲を主とする。常に道を体して物を済し、己を利して人を害さず。毎に己を去って真を全うし、身を営んで教を害さない。今三時の月に、山を築き池を穿つのは、命を損うことである。府を殫くし蔵を虚にするのは、人を損うことである。広殿長廊を造るのは、身を営むことである。命を損うのは慈悲でなく、人を損うのは物を済さず、身を営むのは清浄でない。どうして大聖至神の心であろうか。仏書に曰く、「一切の有為法は、夢幻泡影の如く、露の如くまた電の如し」と。臣は以為う、彫琢の費を減じて貧人を賑わすのは、如来の徳有るなり。穿掘の苦を息めて昆虫を全うするのは、如来の仁有るなり。営葺の直を罷めて辺陲に給するのは、湯武の功有るなり。不急の禄を回して清廉を購うのは、唐虞の治有るなり。陛下はその急ぐ所を緩め、その緩む所を急がせ、未来に親しんで見在を疎んじ、真実を失って虚無を冀う。俗人の為す所を重んじ、天子の功業を軽んずる。臣は実にこれを痛む』。これが切当な言の四つである。臣は観るに、仁傑は天後時の上公であり、姚崇は開元時の賢相であり、替否は睿宗の直臣である。臣は毎にこれらの言を覧て、未だ嘗て巻を廃して太息せず、その言の行われざるを痛んだことがない。伏して考えるに、陛下は深く緇流を重んじ、妙に仏事を崇め、その善を楽しまれることは、実に前蹤を邁っている。ただ細かに時代の安危を詳らかにし、渺かに昔賢の敷奏を鑒みれば、則ち過半を思うことができ、道は遠いだろうか。臣は過って渥恩を忝くし、言は匡諫に虧けるが、ただ従縄の義を挙げて、少し負扆の明を裨えたい。営繕の間は、稍々停減すべきである。

原文臣聞孔丘,聖者也,言則引周任之言;苻融,賢者也,諫必稱王猛之議。誠以事求師古,詞貴達情。陛下自纘帝圖,克崇佛事,止當修外,未甚得中。臣略采本朝名臣啟奏之言,以證奉佛初終之要。天後時,曾營大像,功費百萬,狄仁傑諫曰:「夫寶鉸殫於綴飾,瑰材竭於輪奐。功不使鬼,必在役人;物不天來,皆從地出;非苦百姓,物何以求?物生有時,用之無度;臣每思惟,實所悲痛。至如往在江表,像法盛興;梁武、簡文,施舍無限。及乎三淮沸浪,五嶺騰煙,列剎盈衢,無救危亡之禍;緇衣蔽路,豈益勤王之師?況近年以來,風塵屢擾;水旱失節,征役稍繁。必若多費官財,又苦人力,一隅有難,將何以救?」此切當之言一也。中宗時,公主外戚,奏度僧尼,姚崇諫曰:「佛不在外,求之於心。佛圖澄最賢,無益於後趙;羅什多藝,不救於姚秦。何充、苻融,皆遭敗滅;齊襄、梁武,未免災殃。但誌發慈悲,心行利益,若蒼生安樂,即是佛身。」此切當之言二也。睿宗為金仙、玉真二公主造二道宮,辛替否諫曰:「自夏以來,淫雨不解,谷荒於壟,麥爛於場。入秋以來,亢旱為災,苗而不實,霜損蟲暴,草菜枯黃;下人咨嗟,未加賑貸。陛下愛兩女而造兩觀,燒瓦運木,載土填沙。道路流言,皆云用錢百萬。陛下聖人也,遠無不知;陛下明君也,細無不見!既知且見,知倉有幾年之儲?庫有幾年之帛?知百姓之間可存活乎?三邊之士可轉輸乎?今發一卒扞以邊陲,追一兵以衛社稷,多無衣食,皆帶饑寒;賞賜之間,迥無所出。軍旅驟敗,莫不由斯。而陛下破百萬貫錢,造不急之觀,以賈六合之怨,以違萬人之心。」此切當之言三也。替否又諫造寺曰:「釋教以清凈為基,慈悲為主。常體道以濟物,不利己而害人。每去己以全真,不營身以害教。今三時之月,築山穿池,損命也;殫府虛藏,損人也;廣殿長廊,營身也。損命,則不慈悲,損人,則不濟物,營身,則不清凈。豈大聖至神之心乎?佛書曰:『一切有為法,如夢幻泡影,如露亦如電。』臣以為減雕琢之費以賑貧人,是有如來之德;息穿掘之苦以全昆蟲,是有如來之仁;罷營葺之直以給邊陲,是有湯武之功;回不急之祿以購清廉,是有唐虞之治。陛下緩其所急,急其所緩;親未來而疏見在,失真實而冀虛無。重俗人之所為,輕天子之功業,臣實痛之!」此切當之言四也。臣觀仁傑,天後時上公也;姚崇,開元時賢相也;替否,睿宗之直臣也。臣每覽斯言,未嘗不廢卷而太息,痛其言之不行也。伏以陛下深重緇流,妙崇佛事,其為樂善,實邁前蹤。但細詳時代之安危,渺鑒昔賢之敷奏,則思過半矣,道遠乎哉!臣過忝渥恩,言虧匡諫,但舉從繩之義,少裨負扆之明。營繕之間,稍宜停減。

優詔を下してこれを嘉した。まもなく京兆尹・太常卿に拝された。

原文優詔嘉之。尋拜京兆尹、太常卿。

まもなく本官のまま同平章事とされ、中書侍郎を加えられ、盧攜・鄭畋とともに政を輔けた。宰相を罷められ、襄州刺史・山南東道節度使として出された。入って吏部尚書となり、検校尚書右僕射・汴州刺史・宣武軍節度観察等使を加えられた。咸通十四年、揚州大都督ととく府長史・淮南節度副大使知節度事に転じた。乾符三年に代えられると、百姓が闕に詣でて一年留まることを乞い、従われた。四年、再び吏部尚書となり、まもなく検校司空しくう・東都留守・東畿汝都防禦使に遷った。六年、河東軍が乱を起こし、崔季康を殺した。詔して邠寧の李侃を以て太原を鎮めさせたが、軍情が服さなかった。蔚がかつて太原の従事であったため、軍民がこれを懐かしんだ。八月、蔚を太原尹・北都留守・河東節度観察等使とした。その年十月に鎮に到着し、下車して三日、暴病で卒した。

原文尋以本官同平章事,加中書侍郎,與盧攜、鄭畋同輔政。罷相,出為襄州刺史、山南東道節度使。入為吏部尚書,加檢校尚書右僕射、汴州刺史、宣武軍節度觀察等使。咸通十四年,轉揚州大都督府長史、淮南節度副大使知節度事。乾符三年受代,百姓詣闕乞留一年,從之。四年,復為吏部尚書,尋遷檢校司空、東都留守、東畿汝都防禦使。六年,河東軍亂,殺崔季康,詔以邠寧李侃鎮太原,軍情不伏。以蔚嘗為太原從事,軍民懷之。八月,以蔚為太原尹、北都留守、河東節度觀察等使。其年十月到鎮,下車三日,暴病卒。

弟の綰と従兄の繪は、累官して刺史に至った。

原文弟綰,從兄繪,累官至刺史。

蔚の三子は、渥・洵・澤である。

原文蔚三子:渥、洵、澤。

渥は咸通の末に進士及第し、太原の従事として官途に就き、累ねて中書舎人・礼部侍郎に拝された。光化三年、貢士を選んだ。洵は福建観察使に至った。

原文渥,咸通末進士及第,釋褐太原從事,累拜中書舍人、禮部侍郎。光化三年,選貢士。洵至福建觀察使。

崔彦昭

原文崔彥昭

崔彦昭は、字を思文といい、清河の人である。父は豈。彦昭は、大中三年に進士に擢第し、諸侯府に官途に就いた。咸通の初め、累遷して兵部員外郎となり、郎中・知制誥に転じ、中書舎人に拝され、再び戸部侍郎に遷り、本司事を判じた。

原文崔彥昭,字思文,清河人。父豈。彥昭,大中三年進士擢第,釋褐諸侯府。咸通初,累遷兵部員外郎,轉郎中、知制誥,拜中書舍人,再遷戶部侍郎,判本司事。

彦昭は経済に長け、儒學に優深く、吏事に精しかった。前に数郡を治め、所蒞に声有り、動くこと多く遺愛を残した。十年、検校礼部尚書・孟州刺史・河陽懐節度使となり、階を金紫に進めた。十二年正月、検校刑部尚書・太原尹・北都留守・河東節度管内観察等使を加えられた。

原文彥昭長於經濟,儒學優深,精於吏事。前治數郡,所蒞有聲,動多遺愛。十年,檢校禮部尚書、孟州刺史、河陽懷節度使,進階金紫。十二年正月,加檢校刑部尚書、太原尹、北都留守、河東節度管內觀察等使。

時に徐・泗の用兵の後、北戎は多く辺境を寇し、沙陀諸部は動いて紀律を干す。彦昭は恩恵を以て柔らげ、兵威を以て来たりしめ、三年の間に、北門大いに治まり、軍民之を歌う。考満して代を受くるに、耆老数千、闕に詣でて留まることを乞う。詔して報いて曰く、「彦昭は早く令名を著し、累ね劇任を更む。入りて邦計を司り、開張経緯の文を用い、出でて藩維を統べ、撫馭韜鈐の術を得たり。自ら并へい部に臨みて、隠然として長城の若し。但だ先ず衆を和し人を安んじ、険と馬を恃むことを欲せず。遂に三軍百姓をして、懇を瀝ぎて詞を同じくし、政能を備述し、唯だ罷去を恐るるに至らしむ。顧みるに此の重鎮、方に長材を委ぬ。既に便安を得たり、未だ移替を議せず、想うに当に知悉すべし」。

原文時徐、泗用兵之後,北戎多寇邊,沙阤諸部動幹紀律。彥昭柔以恩惠,來以兵威,三年之間,北門大治,軍民歌之。考滿受代,耆老數千詣闕乞留。詔報曰:「彥昭早著令名,累更劇任。入司邦計,開張用經緯之文;出統籓維,撫馭得韜鈐之術。自臨並部,隱若長城。但先和眾安人,不欲恃險與馬。遂致三軍百姓,瀝懇同詞,備述政能,唯恐罷去。顧茲重鎮,方委長材。既獲便安,未議移替,想當知悉。」

僖宗即位し、就いて検校吏部尚書を加う。時に趙隠・高璩政事を知り、彦昭と同年の進士たり、彦昭の財賦を治むるに長ずるを薦む。十五年三月、召して吏部侍郎と為し、諸道塩鉄転運使を充てしむ。乾符初め、本官を以て同平章事・判度支と為す。

原文僖宗即位,就加檢校吏部尚書。時趙隱、高璩知政事,與彥昭同年進士,薦彥昭長於治財賦。十五年三月,召為吏部侍郎,充諸道鹽鐵轉運使。乾符初,以本官同平章事、判度支。

先に、楊収・路巌・韋保衡皆、朋党を以て賂を好みて罪を得たり。蕭倣政を秉り、頗る前弊を革む。而して彦昭輔政すること数月、百職斯に挙がり、察して煩わしからず、士君子之を称す。二年、其の転官に因り、僖宗誡めて曰く、

原文先是,楊收、路巖、韋保衡皆以朋黨好賂得罪。蕭倣秉政,頗革前弊。而彥昭輔政數月,百職斯舉,察而不煩,士君子稱之。二年,因其轉官,僖宗誡曰:

彦昭は歴試して労有り、僉諧して愧無し。六月に渉り、是の一心を秉る。乃ち文を修むれば以て文教を興すべく、乃ち武を励ませば以て武功を成すべし。前規を重整し、両司の大計、清能壁の立つが如く、政乃ち風の行くが如し。奸欺は多岐に屏絶し、請托は正議に銷摧す。内庫を煩わさず、涓毫を助け有り、外藩を仮さず、絲発を進め有り。軍食の入る所、余剰は明年に於いて有り、郊廟の供する所、克く今歳に於いて弁ず。頗る神化に符し、真に廟謀と謂うべし。良臣有らずんば、安んぞ能く国を富ますべけんや。宜しく勲を黄閣に酬い、紫垣に正位せしむべし。誡詞を敬服し、永く茂業を堅くせよ、鳴呼!鈞を秉るの道、何ぞ難き所かあらんや;軍を覆すの塗、近く已に多し!其れ党を樹つるに与りては、身を修むるに若かず;其れ恩を収むるに与りては、直を秉るに如かず。暫しの勝ちを買う者は、其の永き敗れを貽し、小智を沽う者は、其の大愚を嚢う。人に及ぶを貴ばず、唯だ我より争う;初め誠に屋を潤すも、尋いで以て家を危うくす。金玉堂に満つも、之を守る莫し、縦い経営して位を得るとも、枉撓を用いて辜に当たる。唯だ爾は朕が心より選び、人望に采る。宣詔既に畢り、閑門未だ知らず、来りて遂に車を奔らしめ、退きて私謝無し。独り元老を推し、曾て急征を請う;道を守りて以て自ら臻るに、実に親を栄すの最も重きなり。爾其れ正直を堅持し、允かに規程を執れ。但だ幽陰を畏れ、必ず公当に帰せん。甘言憚るべく、往を叙ぶる嗤うべし。善を奨むるには明を須い、奸を懲らすには鋭を須う。人に利する者は、難きと雖も必ず挙げ、己に利する者は、易きと雖も為す勿れ。頻りに孤寒を念い、毎に耕織を思い、常に数事に自ら勤め、便ち中興に望み有らん。朕の臣を知るを彰し、卿の国を匡うに在り、必ず恩をして下より布かしめ、法をして上より行わしめよ。但だ直標を立てば、終に曲影無からん。苟くも我を堯・舜に致さば、亦た爾を臯・夔に比せん。中書侍郎と為すべく、前に依りて判度支事を兼ぬ。

原文彥昭歷試有勞,僉諧無愧。涉於六月,秉是一心。修乃文可以興文教,勵乃武可以成武功。重整前規,兩司大計,清能壁立,政乃風行。奸欺屏絕於多歧,請托銷摧於正議。不煩內庫,有助涓毫;不假外籓,有進絲發。軍食所入,余剩於明年;郊廟所供,克辦於今歲。頗符神化,真謂廟謀。不有良臣,安能富國?宜酬勛於黃閣,俾正位於紫垣。敬服誡詞,永堅茂業,鳴呼!秉鈞之道,何所難哉;覆軍之塗,近已多矣!與其樹黨,不若修身;與其收恩,不如秉直。買暫勝者;貽其永敗,沽小智者,囊其大愚。不貴及人,唯爭自我;初誠潤屋,尋以危家。金玉滿堂,莫之能守,縱經營而得位,用枉撓而當辜。唯爾選自朕心,采於人望。宣詔既畢,閑門未知,來遂奔車,退無私謝。獨推元老,曾請急征;以守道而自臻,實榮親之最重。爾其堅持正直,允執規程。但畏幽陰,必歸公當。甘言可憚,敘往可嗤。獎善須明,懲奸須銳。利於人者,雖難必舉;利於己者,雖易勿為。頻念孤寒,每思耕織,常自勤於數事,便有望於中興。彰朕知臣,在卿匡國,必使恩從下布,法自上行。但立直標,終無曲影。茍致我於堯、舜,亦比爾於臯、夔。可中書侍郎,依前判度支事。

彦昭は母に事うること至孝、宰輔に位すと雖も、退朝して膳に侍し、家人と雑処し、左右を承奉して、未だ嘗て高言せず。歳時の慶賀、公卿席を拝し、時人之を栄しとす。累ね門下侍郎に遷り、刑部尚書を兼ね、太清宮使・弘文館大学士を充てしむ。鄭畋・李蔚と同に政事を知り、三たび兼官を加え、皆度支を領すること前に如し。階を進めて特進と為し、累ね尚書右僕射を兼ぬ。相を罷め、方鎮を歴て、太子太保を以て分司し卒す。子に保謙有り。

原文彥昭事母至孝,雖位居宰輔,退朝侍膳,與家人雜處,承奉左右,未嘗高言。歲時慶賀,公卿拜席,時人榮之。累遷門下侍郎,兼刑部尚書,充太清宮使、弘文館大學士。與鄭畋、李蔚同知政事,三加兼官,皆領度支如故。進階特進,累兼尚書右僕射。罷相,歷方鎮,以太子太保分司卒。子保謙。

鄭畋

原文鄭畋

鄭畋は、字は臺文、滎陽けいようの人なり。曾祖は鄰、祖は穆、父は亞、並びに進士第に登る。亞は、字は子佐、元和十五年進士第に擢で、又賢良方正・直言極諫の制科に応ず。吏部調選に、又以て書判抜萃し、数歳の内に、連ねて三科に中る。聰悟絶倫、文章秀発す。李徳裕翰林に在り、亞文を以て幹謁し、深く之を知る。浙西に出鎮し、辟して従事と為す。累ね家艱に属し、人多に忌嫉せられ、久しく調せず。会昌初め、始めて朝に入り監察御史と為り、累ね刑部郎中に遷る。中丞李回、雑を知るを奏し、諫議大夫・給事中に遷る。五年、徳裕相を罷め渚宮に鎮す、亞に正議大夫を授け、桂州刺史・御史中丞・桂管都防禦経略使に出だす。大中二年、呉汝納冤を訴え、徳裕再び潮州に貶せられ、亞亦た循州刺史に貶せられ卒す。

原文鄭畋,字臺文,滎陽人也。曾祖鄰,祖穆,父亞,並登進士第。亞,字子佐,元和十五年擢進士第,又應賢良方正、直言極諫制科。吏部調選,又以書判拔萃,數歲之內,連中三科。聰悟絕倫,文章秀發。李德裕在翰林,亞以文幹謁,深知之。出鎮浙西,辟為從事。累屬家艱,人多忌嫉,久之不調。會昌初,始入朝為監察御史,累遷刑部郎中。中丞李回奏知雜,遷諫議大夫、給事中。五年,德裕罷相鎮渚宮,授亞正議大夫,出為桂州刺史、御史中丞、桂管都防禦經略使。大中二年,吳汝納訴冤,德裕再貶潮州,亞亦貶循州刺史,卒。

畋年十八、進士第に登り、釈褐して汴宋節度推官と為り、秘書省校書郎を得たり。二十二、吏部調選に、又以て書判抜萃す。渭南尉・直史館事を授かる。行かず、亞桂州に出づ、畋左右に随い侍す。大中朝、白敏中・令狐綯相継ぎて十余年政を秉り、素より徳裕と相悪む。凡そ徳裕の親旧多く之を廃斥し、畋久しく士伍と偕にせず。咸通中、令狐綯出鎮し、劉瞻北門に鎮す、辟して従事と為す。朝に入り虞部員外郎と為る。右丞鄭薰は、令狐の党なり、畋の旧事を摭りて覆奏し、省に入るるを放たず、畋復た出でて従事と為る。五年、入りて刑部員外郎と為り、転じて万年令と為る。九年、劉瞻相を作し、薦めて翰林学士と為し、転じて戸部郎中と為す。

原文畋年十八,登進士第,釋褐汴宋節度推官,得秘書省校書郎。二十二,吏部調選,又以書判拔萃。授渭南尉、直史館事。未行,亞出桂州,畋隨侍左右。大中朝,白敏中、令狐綯相繼秉政十余年,素與德裕相惡。凡德裕親舊多廢斥之,畋久不偕於士伍。咸通中,令狐綯出鎮,劉瞻鎮北門,辟為從事。入朝為虞部員外郎。右丞鄭薰,令狐之黨也,摭畋舊事覆奏,不放入省,畋復出為從事。五年,入為刑部員外郎,轉萬年令。九年,劉瞻作相,薦為翰林學士,轉戶部郎中。

畋は久しく擯棄に罹りしを以て、幸いに抜擢を承け、官を授くるに因り自ら陳して曰く、「臣十八にして進士及第し、二十二にして書判登科す。此時王畿に綬を結び、便ち青雲の望を貯う。風水に一たび沈み、星霜久しく換わり、外府の樽罍に厭き、明庭の礼楽に渇く。咸通五年、方に始めて朝に登る。若し聖君に遭逢せずんば、以て幽跡を発揚すべからず。臣刑部員外郎の任に日、累ね閣内に対揚す。去冬蒙って万年を宰するに擢で、又延英に中謝を得たり。藿を傾けて幸いに白日に依り、盆を舍てて終に青天を睹る。昨は京県浩穰を以て、苦心して政を為し、疲羸粗く息み、強禦蹤無し。方に宰字の心を専らにし、以て憂勤の化に副わんとす。陛下過って采聴を垂れ、恩栄を超授し、百里の中より擢で、三清の上に致す。才は翰苑を超え、遽かに郎曹を改む」。

原文畋以久罹擯棄,幸承拔擢,因授官自陳曰:「臣十八進士及第,二十二書判登科。此時結綬王畿,便貯青雲之望。洎一沈風水,久換星霜,厭外府之樽罍,渴明庭之禮樂。咸通五年,方始登朝。若匪遭逢聖君,無以發揚幽跡。臣任刑部員外郎日,累於閣內對揚。去冬蒙擢宰萬年,又得延英中謝。傾藿幸依於白日,舍盆終睹於青天。昨以京縣浩穰,苦心為政,疲羸粗息,強禦無蹤。方專宰字之心,用副憂勤之化。陛下過垂采聽,超授恩榮,擢於百里之中,致在三清之上。才超翰苑,遽改郎曹。」

尋いで知制誥を加えらる、又自ら陳して曰く、「臣会昌二年、進士及第し、大中首歳、書判登科す。其の時故昭義節度使沈詢に替わりて渭南県尉を作す;両考罷免し、楊收は綬を結ぶを以て臣に替わる。詢は則ち顕栄を備歴し、歿すること数載を経、収は則ち寵極めて台輔に至るも、絀すること已に三年。臣は則ち外は賓筵に困し、内は散秩に甘んじ、霄漢を仰ぎ窺い、空しく雲泥を嘆ず。雖云う賦命屯奇と、実に人以て遭い排忌せらる」。其の事に因りて自ら洗滌する此の如し。

原文尋加知制誥,又自陳曰:「臣會昌二年,進士及第,大中首歲,書判登科。其時替故昭義節度使沈詢作渭南縣尉;兩考罷免,楊收以結綬替臣。詢則備歷顯榮,歿經數載;收則寵極臺輔,絀已三年。臣則外困賓筵,內甘散秩,仰窺霄漢,空嘆雲泥。雖雲賦命屯奇,實以遭人排忌。」其因事自洗滌如此。

やがて中書舎人に遷る。十年、王師が徐方を討つに当たり、禁庭の書詔が頻繁に飛び交う。鄭畋は筆を揮えば泉の湧くが如く、動くに滞る思慮なく、言うこと皆的に当たり、同僚は筆を置いてこれを推した。まもなく戸部侍郎に遷る。龐勛が平定されると、本官のまま承旨を充てる。畋は徳望において先達たりながら、長く沈滞していた。禁庭に冠した以上、宰輔となるべきであり、承旨を謝するに当たり自ら陳べて曰く、「禁林はもとより清厳と号し、承旨は特に峻重と称せらる。偏に顧問に膺え、英賢の首に冠す。今の宰輔四人、三はこの官を以て騰躍し、その盛美たるや、尋常を異にす。豈に凡流を謂えんや、この芳躅を継ぐことを、臣が承旨の任に称せざるを憂うる所以なり。至りて劉瞻の慎密を継ぎ、保衡の規程を守り、懇を瀝ぎて君に事え、肝を披きて聖を翊く。貞方を以て介冑と為し、忠信を用いて藩籬と作す。帝文を丹青し、王度を金玉す、臣もまた承旨の職を譲らざるを敢えてせん。況や沈舟墜羽、聖主の発揚に因り、薄芸微才ありて、鴻恩の知遇を受く。再び寒暑を周し、六たび官栄を忝うす。郎吏より以て貳卿に至り、末僚より以て上列に遷る。」と。その大用に切なることかくの如し。

原文俄遷中書舍人。十年,王師討徐方,禁庭書詔旁午。畋灑翰泉湧,動無滯思,言皆破的,同僚閣筆推之。尋遷戶部侍郎。龐勛平,以本官充承旨。畋以德望先達,淪滯久之。既冠禁庭,當為宰輔,因謝承旨自陳曰:「禁林素號清嚴,承旨尤稱峻重。偏膺顧問,首冠英賢。今之宰輔四人,三以此官騰躍,其為盛美,更異尋常。豈謂凡流,繼茲芳躅,臣所以憂不稱承旨之任也。至若繼劉瞻之慎密,守保衡之規程,瀝懇事君,披肝翊聖。以貞方為介胄,用忠信作籓籬。丹青帝文,金玉王度,臣亦不敢讓承旨之職。況沈舟墜羽,因聖主發揚,有薄藝微才,受鴻恩知遇。再周寒暑,六忝官榮,由郎吏以至於貳卿,自末僚而遷於上列。」其切於大用如此。

その年八月、劉瞻が医工の宗族を囚うるを諫めて、相を罷められ、出でて荊南節度使と為る。畋が制を草するに美詞を過ぎたり。懿宗これを省みて甚だ怒り、責めて曰く、「畋は頃に行跡玷穢ありて、時に棄捐せられ、朝籍周行に、階を践むこと無し。竟に径由に因りて、遂に叨居を致し、塵忝既に多く、狡蠹尤も甚だし。且つ承旨に居りて、朕が懐に合体すべし。一昨劉瞻が出藩す、朕豈に意無からんや?爾が次に草を視るに当たり、過ぎて美詞を為す。譎詭を筆端に逞しくし、愛憎を形内に籠む。徒に瞻が咳唾の恵に報いるを知りて、誰か我が抜擢の恩を蔑ろにするを思わん?言の偽にして堅きを詳らかに載せ、果たして同悪相済ぐを明らかにす。人の僻むこと、一にここに至る!宜しく竄逐の科を行い、回邪の党を屏ぐべし。梧州刺史と為すべし。」と。

原文其年八月,劉瞻以諫囚醫工宗族,罷相,出為荊南節度使。畋草制過為美詞。懿宗省之甚怒,責之曰:「畋頃以行跡玷穢,為時棄捐,朝籍周行,無階踐歷。竟因由徑,遂致叨居,塵忝既多,狡蠹尤甚。且居承旨,合體朕懷。一昨劉蟾出籓,朕豈無意?爾次當視草,過為美詞。逞譎詭於筆端,籠愛憎於形內。徒知報瞻欬唾之惠,誰思蔑我拔擢之恩?載詳言偽而堅,果明同惡相濟。人之多僻,一至於斯!宜行竄逐之科,用屏回邪之黨。可梧州刺史。」

僖宗即位し、召し還す。右散騎常侍さんきじょうじを授け、兵部侍郎に改む。乾符四年、吏部侍郎に遷る。尋いで制を降して曰く、「頃者時正途に鬱し、権邪幸に帰す。爾畋は心を執りて惑わず、節を秉りて讒せられ、鴛行に征復し、愈々人望に洽う。既に弥綸の業を負う、宜しく輔弼の司に居るべし。本官を以て同平章事と為すべし。」と。僖宗尊号を上る礼畢り、中書侍郎を進め加え、階を特進に進め、門下侍郎に転じ、礼部尚書・集賢殿大学士を兼ぬ。

原文僖宗即位,召還。授右散騎常侍,改兵部侍郎。乾符四年,遷吏部侍郎。尋降制曰:「頃者時郁正途,權歸邪幸。爾畋執心無惑,秉節被讒,征復鴛行,愈洽人望。既負彌綸之業,宜居輔弼之司。可本官同平章事。」僖宗上尊號禮畢,進加中書侍郎,進階特進,轉門下侍郎,兼禮部尚書、集賢殿大學士。

五年、黄巢曹・鄆より起り、南は荊・襄を犯し、東は江・淮を渡り、衆帰すること百万、経る所屡々郡邑を陥す。六年、安南府を陥してこれを据う。書を浙東観察使崔璆に致し、鄆州節鉞を求む。璆は賊勢図り難きを言い、宜しくこれを授くるに因りて、北顧の患を絶つべしとす。天子百僚に下して議す。初め、黄巢の起るや、宰相盧攜は浙西観察使高駢素より軍功有るを以て、淮南節度使に奏し、賊の沖を扼せしむ。尋いで駢を諸道行営都統と為す。崔璆の奏に及び、朝臣これを議す。節を仮して以て患を紓くを請う者有り。畋は群議を采り、南海節制を以てこれを縻せんと欲す。攜は始め高駢を用い、奇功を立てて以て勝を図らんと欲す。攜曰く、「高駢将略無双、淮士甲兵甚だ鋭し。今諸道の師方に集まる、蕞爾たる纖寇、平殄に足らず。何事ぞこれを捨てて怯を示し、諸軍をして解体せしめんや!」畋曰く、「巢賊の乱、本より饑歳に因る。人利を以て合し、乃至実に繁し。江・淮以南、薦食殆ど半ばす。国家久しく兵を用いず、士皆戦を忘る;所在の節将、門を閉じて自ら守るも、尚よく枝うること能わず。咎を釈し包容するに如かず、権りに恩沢を降す。彼本より饑年利合す、一たび豊歳に遇えば、孰か郷土を懐い思わざらん?その衆一たび離れば、則ち巢賊幾上の肉のみ、これ所謂戦わずして人の兵を屈するなり!この際を以て計を以て攻めず、全く兵力に恃らば、恐らく天下の憂い未だ艾たざらん。」と。

原文五年,黃巢起曹、鄆,南犯荊、襄,東渡江、淮,眾歸百萬,所經屢陷郡邑。六年,陷安南府據之。致書與浙東觀察使崔璆,求鄆州節鉞。璆言賊勢難圖,宜因授之,以絕北顧之患。天子下百僚議。初,黃巢之起也,宰相盧攜以浙西觀察使高駢素有軍功,奏為淮南節度使,令扼賊沖。尋以駢為諸道行營都統。及崔璆之奏,朝臣議之。有請假節以紓患者。畋采群議,欲以南海節制縻之。攜以始用高駢,欲立奇功以圖勝。攜曰:「高駢將略無雙,淮士甲兵甚銳。今諸道之師方集,蕞爾纖寇,不足平殄。何事舍之示怯,而令諸軍解體耶!」畋曰:「巢賊之亂,本因饑歲。人以利合,乃至實繁。江、淮以南,薦食殆半。國家久不用兵,士皆忘戰;所在節將,閉門自守,尚不能枝。不如釋咎包容,權降恩澤。彼本以饑年利合,一遇豐歲,孰不懷思鄉土?其眾一離,則巢賊幾上肉耳,此所謂不戰而屈人兵也!若此際不以計攻,全恃兵力,恐天下之憂未艾也。」

群議これに然り、而して左僕射於琮曰く、「南海に市舶の利あり、歳に珠璣を貢ぐ。今妖賊の所有するが如くんば、国蔵漸く当に廃竭すべし。」と。上もまた駢の成功を望み、乃ち攜の議に依る。中書に至り制勅を商量するに、畋曰く、「妖賊百万、天下に横行し、高公遷延玩寇し、翦除する意無く、又従ってこれを保つ、彼計を得たり。国祚の安危、我輩三四人の画度に在り。公は淮南に倚りて兵を用う、吾は税駕の所を知らず!」攜怒り、衣を拂いて起ち、袂硯に染まるに因り、これを投ぐ。僖宗これを聞きて怒り、曰く、「大臣相詬う、何を以て四海を表儀せん?」二人俱に政事を罷め、太子賓客を以て東都に分司す。

原文群議然之,而左僕射於琮曰:「南海有市舶之利,歲貢珠璣。如今妖賊所有,國藏漸當廢竭。」上亦望駢成功,乃依攜議。及中書商量制敕,畋曰:「妖賊百萬,橫行天下,高公遷延玩寇,無意翦除,又從而保之,彼得計矣。國祚安危,在我輩三四人畫度。公倚淮南用兵,吾不知稅駕之所矣!」攜怒,拂衣而起,袂染於硯,因投之。僖宗聞之怒,曰:「大臣相詬,何以表儀四海?」二人俱罷政事,以太子賓客分司東都。

広明元年、賊嶺表より北し江・浙を渡り、崔璆を虜い、淮南郡県を陥す。高駢はただ張璘に令して沖要を控制せしめ、壁を閉じて自ら固くす。天子始めて畋の前言を思い、二人俱に征し還し、畋に礼部尚書を拝す。尋いで出でて鳳翔隴右節度使と為る。この冬、賊京師を陥し、僖宗出幸す。畋難の作るを聞き、駕を斜谷に候いて迎謁し、泣き垂れて曰く、「将相陛下を誤り、以てここに至る。臣実に罪人、死を請うて以て無状を懲らさん。」上曰く、「卿の失に非ず。朕狂寇の凌犯を以て、且つ蹕を興元に駐めん。卿宜しく賊の沖を堅く扼し、滋蔓せしむるなかれ。」畋対えて曰く、「臣心国に報い、死して後已む、陛下に東顧の憂い無からんことを請う。然れども道路艱虞、奏報梗澀、機に臨みて遠く聖旨を稟する能わず、願わくは臣の便宜に事を行うを聴かん。」と。上曰く、「苟くも宗社に利あらば、卿の行う所に任せん。」畋鎮に還り、乗を搜し卒を補い、戎仗を繕修し、城壘を浚飾す。家財を尽くして以て士卒に散じ、昼夜大敵に臨むが如し。

原文廣明元年,賊自嶺表北渡江、浙,虜崔璆,陷淮南郡縣。高駢止令張璘控制沖要,閉壁自固。天子始思畋前言,二人俱征還,拜畋禮部尚書。尋出為鳳翔隴右節度使。是冬,賊陷京師,僖宗出幸。畋聞難作,候駕於斜谷迎謁,垂泣曰:「將相誤陛下,以至於此。臣實罪人,請死以懲無狀。」上曰:「非卿失也。朕以狂寇淩犯,且駐蹕興元。卿宜堅扼賊沖,勿令滋蔓。」畋對曰:「臣心報國,死而後已,請陛下無東顧之憂。然道路艱虞,奏報梗澀,臨機不能遠稟聖旨,願聽臣便宜從事。」,上曰:「茍利宗社,任卿所行。」畋還鎮,搜乘補卒,繕修戎仗,浚飾城壘。盡出家財以散士卒。晝夜如臨大敵。

中和元年二月、賊将尚讓・王璠、衆五万を率い、鳳翔を攻めんと欲す。畋賊の至るを預め知り、大将李昌言等を令して要害に伏せしむ。賊は畋を儒者とし、必ず拒ぐ能わざるべしとし、歩騎長駆し、部伍整わず。畋は鋭卒数千を以て、高岡に陳し、虚しく旗幟を立て、延袤数里。賊より十余里を距て、鼓を伐って陣す。賊その衆寡を測らず、始めて卒を列べて陣せんと欲すも、後軍未だ至らず、而して昌言等伏を発してこれを撃つ、その衆大いに撓く。日既に晡れば、岐軍四面より合い、龍尾陂に於いて追撃し、賊兵仗を委して自ら潰え、斬馘万計、その鎧仗を得、岐軍大いに振う。天子これを聞き、宰相に謂いて曰く、「予畋の尽くさざる儒者の勇を知る、甚だ予が懐を慰む。」即ち畋に検校尚書左僕射・同平章事を授け、京西諸道行営都統を充てる。

原文中和元年二月,賊將尚讓、王璠率眾五萬,欲攻鳳翔。畋預知賊至,令大將李昌言等伏於要害。賊以畋儒者,必不能拒,步騎長驅,部伍不整。畋以銳卒數千,陳於高岡,虛立旗幟,延袤數里。距賊十餘里,伐鼓而陣。賊不之測眾寡,始欲列卒而陣,後軍未至,而昌言等發伏擊之,其眾大撓。日既晡矣,岐軍四合,追擊於龍尾陂,賊委兵仗自潰,斬馘萬計,得其鎧仗,岐軍大振。天子聞之,謂宰相曰:「予知畋不盡儒者之勇,甚慰予懷。」即授畋檢校尚書左僕射、同平章事,充京西諸道行營都統。

時に畿内諸鎮の禁軍尚ほ数万、賊巢京師を汚した後、衆帰する所無し。畋制を承りて招諭し、諸鎮の将校皆岐陽に萃る。畋は財を分かちて以てその心を結び、これと盟誓し、期して王室を匡せんとす。又檄を天下に伝えて曰く、

原文時畿內諸鎮禁軍尚數萬,賊巢汙京師後,眾無所歸。畋承制招諭,諸鎮將校皆萃岐陽。畋分財以結其心,與之盟誓,期匡王室。又傳檄天下曰:

鳳翔隴右節度使、檢校尚書左僕射、同中書門下平章事、充京西諸道行營都統、上柱國、滎陽郡開國公、食邑二千戶鄭畋が、檄文を移して諸藩鎮・郡県・侯伯・牧守・将吏に告げて言うには、屯亨には数あり、否泰は相い沿う、日月の蔽虧の如く、陰陽の愆伏に似たり。ここを以て漢朝方に盛んなるも、則ち莽・卓その奸兇を肆ほしいままにし、夏道未だ衰えざるに、而して羿・浞その残酷を騁はせる。僭越無からずと雖も、尋いでまた誅夷せらる。即ち知る、妖孽の生ずるは、古今免れ難し。代々忠貞の士有り、力を匡復の謀と為す。我が国家、五運に応じて乾を承け、三王の垂統を躡ふむ。綿区化を飲み、匝宇仁に帰す。十八帝の鴻猷、神鼎に銘し、三百年の睿沢、人謡に播ひろまる。加うるに政は寛弘を尚び、刑は枉濫無く、翼翼として王道に行い、孜孜として生霊を恤めぐむ。足らく以て宝祚を無窮に伝え、瑤図を不朽に禦ふせぐべし。近年螟蝗害を為し、旱魃災を延ぶ。因って無頼の徒をして、遽かに乱常の暴を起こさしむ。討逐を加うるも、猶お猖狂を肆にす。草賊黄巢は、奴仆の下才、豺狼の醜類なり。寒く耕し熱く耨くさぎるも、田疇に力を励ますことなく、食を媮ぬすみ衣を靡ついやすも、剽奪に生を偷ぬすむことを務む。兇党を結連し、平人を駆迫し、始め里閭を擾害し、遂に郡邑を侵淩す。藩臣武無く、戎士財を貪るに属し、徒らに討逐の名を加え、竟に遷延の役を為す。致して蔓延せしめ、累ねて邀求有らしむ。聖上愛育の情深く、含弘の道広し。万方を指して己を罪し、百姓を用いて以て心と為す。節旄を仮し、藩鎮に委ね、其の悛革を冀い、疲羸を困ぜしめんとす。而るに殊に犬馬の誠無く、但だ蟲蛇の毒を恣ほしいままにす。我が征鎮を剽掠し、我が京都を覆没し、我が衣冠を淩辱し、我が士庶を屠残す。人命を視ること草芥に同じくし、大宝を謂うこと易く取るは弈棋の如しと。而して乃ち宮闈を窃かに据え、名号を偽りて称す。羊頭を爛ただれて爵を拝し、狗尾を続けて以て官を命ず。燕幕に巣くいて以て安きを誇り、魚鼎に在りて猶お戯る。知らず、五侯拗怒し、期して項羽こううの屍を分かち、四冢既に成り、待って蚩尤の骨を葬らんとす。猶お復た広く田宅を侵し、濫りに貨財を瀆けがす。溪壑に比べて以て盈ち難く、烏鳶に類して而して攫つかむを縦す。茫茫たる赤県、僅かに夷貊の郷に同じく、惴惴たる黔黎、狴牢の内に在るが若し。固より已に人神共に怒り、行路心を傷ます。畋、謬あやまって藩垣を領し、将相を兼ねて栄え、毎に戈を枕して旦を待ち、常に血を泣いて以て餐を忘る。義士忠臣と誓いて、共に狐鳴狗盗を翦きらんとす。近く詔命を承け、諸軍を会合す。皇帝親しく六師を禦し、即ち三蜀しょくを離る。霜戈万隊、鉄馬千群、雕虎嘯いて風生じ、応龍驤あがりて雲起つ。淮南高相公、関東諸道の百万雄師を会し、計らくは夏の初めを以て、関内に会せんとす。畋は涇原節度使程宗楚・秦州節度使仇公遇等と、已に組練を駆り、大いに関畿に集う。争って隴右の蛇矛を麾し、関中の蟻聚を掃うを待つ。而して吐蕃・党項は久しく皇化を被り、深く国讎に憤り、願わくは沙漠の軍を以て、共に蕩平の捷を献ぜんとす。此の際華戎勢を合わし、藩鎮衡を連ね、旌旗雲霞に煥爛とし、剣戟霜雪に晶熒たり。繩を持って試みを待ち、勇を賈あがなって率先を争わざる莫し。竹帛の功を垂れんと思い、朝廷の恥を雪がんと誓う。況んや此の残孽、殄除に足らず。況や諸道は世に国恩を受け、身に好爵を縻つなぐ。皆な匡邦の略を貯え、咸な致主の誠を傾く。函・洛に氛を構え、鑾輿狄を避くるよりこのかた、銅駝を指して皆な裂け、玉壘を望みて魂を銷しょうせざる莫し。此の勤王を聞けば、固より袂を投ぐべし。更に憤激を希い、速やかに寇讎を殄ほろぼせ。永く社稷の勲を図り、以て君親の徳に報い、鑾を迎えて反正せば、豈に休ならずや。

原文鳳翔隴右節度使、檢校尚書左僕射、同中書門下平章事、充京西諸道行營都統、上柱國、滎陽郡開國公、食邑二千戶鄭畋,移檄告諸籓鎮、郡縣、侯伯、牧守、將吏曰:夫屯亨有數,否泰相沿,如日月之蔽虧,似陰陽之愆伏。是以漢朝方盛,則莽、卓肆其奸兇;夏道未衰,而羿、浞騁其殘酷。不無僭越,尋亦誅夷。即知妖孽之生,古今難免。代有忠貞之士,力為匡復之謀。我國家應五運以承乾,躡三王之垂統,綿區飲化,匝宇歸仁。十八帝之鴻猷,銘於神鼎;三百年之睿澤,播在人謠。加以政尚寬弘,刑無枉濫,翼翼勤行於王道,孜孜務恤於生靈。足可傳寶祚於無窮,禦瑤圖於不朽。近歲螟蝗作害,旱〓延災,因令無賴之徒,遽起亂常之暴。雖加討逐,猶肆猖狂。草賊黃巢,奴仆下才,豺狼醜類。寒耕熱耨,不勵力於田疇;媮食靡衣,務偷生於剽奪。結連兇黨,驅迫平人,始擾害於里閭,遂侵淩於郡邑。屬以籓臣不武,戎士貪財,徒加討逐之名,竟作遷延之役。致令滋蔓,累有邀求。聖上愛育情深,含弘道廣,指萬方而罪己,用百姓以為心。假以節旄,委之籓鎮,冀其悛革,免困疲羸。而殊無犬馬之誠,但恣蟲蛇之毒。剽掠我征鎮,覆沒我京都,淩辱我衣冠,屠殘我士庶。視人命有同於草芥,謂大寶易取如弈棋。而乃竊據宮闈,偽稱名號。爛羊頭而拜爵,續狗尾以命官。燕巢幕以誇安,魚在鼎而猶戲。殊不知五侯拗怒,期分項羽之屍;四冢既成,待葬蚩尤之骨。猶復廣侵田宅,濫瀆貨財,比溪壑以難盈,類烏鳶而縱攫。茫茫赤縣,僅同夷貊之鄉;惴惴黔黎,若在狴牢之內。固已人神共怒,行路傷心。畋謬領籓垣,榮兼將相,每枕戈而待旦,常泣血以忘餐;誓與義士忠臣,共翦狐鳴狗盜。近承詔命,會合諸軍。皇帝親禦六師,即離三蜀;霜戈萬隊,鐵馬千群;雕虎嘯以風生,應龍驤而雲起。淮南高相公,會關東諸道百萬雄師,計以夏初,會於關內。畋與涇原節度使程宗楚、秦州節度使仇公遇等,已驅組練,大集關畿;爭麾隴右之蛇矛,待掃關中之蟻聚。而吐蕃、党項以久被皇化,深憤國讎,願以沙漠之軍,共獻蕩平之捷。此際華戎合勢,籓鎮連衡,旌旗煥爛於雲霞,劍戟晶熒於霜雪。莫不持繩待試,賈勇爭先;思垂竹帛之功,誓雪朝廷之恥。矧茲殘孽,不足殄除。況諸道世受國恩,身縻好爵,皆貯匡邦之略,鹹傾致主之誠。自函、洛構氛,鑾輿避狄,莫不指銅駝而皆裂,望玉壘以魂銷。聞此勤王,固宜投袂。更希憤激,速殄寇讎。永圖社稷之勛,以報君親之德,迎鑾反正,豈不休哉。

時に駕は坤維に在り、音驛阻絶し、以て朝廷復た振るう能わずと為す。及び畋檄を伝うるに及び、諸藩聳動し、各おの勤王の師を治め、巢賊之を聞きて大いに懼る。是より賊騎京西を過ぎず。当時に畋賊の沖を扼せざれば、褒・蜀危うからん。尋いで位を進めて檢校司空と為す。

原文時駕在坤維,音驛阻絕,以為朝廷無能復振。及畋傳檄,諸籓聳動,各治勤王之師,巢賊聞之大懼。自是賊騎不過京西。當時非畋扼賊之沖,褒、蜀危矣。尋進位檢校司空。

其の年冬、畋暴病す。岐山方に賊の沖を禦するを以て、宜しく須らく驍ぎょう将をして鎮守せしむべく、表して大将李昌言を薦む。詔して之を可とす。詔して畋を行在に赴かしむ。二年正月成都に至り、王鐸を以て畋に代わり兵を将いて収復せしむ。畋尋いで僕射平章事と為すも、疾を以て、久しく拝せず、累表して機務を解くことを乞う。二年冬、相を罷め、太子少保を授く。僖宗、畋の子給事中凝績を以て隴州刺史と為し、詔して畋に侍して郡に就き疾を養わしむ。郡舎に薨ず。時に年五十九。

原文其年冬,畋暴病,以岐山方禦賊沖,宜須驍將鎮守,表薦大將李昌言,詔可之。詔畋赴行在。二年正月至成都,以王鐸代畋將兵收復。畋尋以僕射平章事,以疾,久之不拜,累表乞解機務。二年冬,罷相,授太子少保。僖宗以畋子給事中凝績為隴州刺史,詔侍畋就郡養疾,薨於郡舍,時年五十九。

光啓末、李茂貞鳳翔節度使を授かる。畋兵を会する時、茂貞博野軍の小校として奉天に在り、畋其の軍を尽く召して岐下に至らしめ、茂貞の軍旅に勤むるを以て、之を甚だ奇とし、遊邏の任に委ぬ。是に至り、茂貞畋の獎待の恩を思い、表を上りて之を論ず曰く。

原文光啟末,李茂貞授鳳翔節度使。畋會兵時,茂貞為博野軍小校在奉天,畋盡召其軍至岐下,以茂貞勤於軍旅,甚奇之,委以遊邏之任。至是,茂貞思畋獎待之恩,上表論之曰:

臣伏して見る、当道の故檢校司空・同平章事鄭畋は、瑞応は星精、祥開は月角、聖代に洪炉を建て、明昌に庶績を成す。鳳毛方に春池に浴し、龍節忽ち右輔に移る。旋たちまち群鴟の嘯聚を以てし、万蝟の鋒攣ほうさんす。蒼黄として玉輅省方し、次第として金門鑰を徹す。九州相い望み、初め猶豫よして風に従い、百辟帰する所無く、半ば狐疑して質を委ぬ。而して畋は沖冠怒発し、袂を投げて兵を治む。剣戟を樽前に羅し、貔貅を閫外に練る。牲を坎ほりて衆に誓い、鼓を釁ちして師を出す。羽檄を四方に馳せ、皇威を万里に暢のぶ。身は地軸を維つなぎ、横流を決して尽く東溟に入り、手は天関を正し、妖星を掃いて重ねて北極を尊ぶ。及び沙を囊ふくろにし竈を減じ、鼓を伐ち旌を揚ぐるに至り、四兇方に獣心を侈ほしいままにすと雖も、一陣尽く龍尾に塗る。建瓴の捷を大いに振い、只だ反掌の間に在り。期せず天柱朝に摧け、将星夜に隕つ。竹帛徒いたずらに茂烈を書くも、松楸未だ易名に煥せず。臣始め仕えて戎に従い、爰ここに指顧を承け、三令五申の戒を稟うけ、一匡九合の謀に預かる。今則ち謬って微功を以て、重鎮に居ることを獲えたり。武侯の遺愛を尋ねれば、城壘宛然たり、叔子の高蹤を念えば、涕零何ぞ極まらん。伏して冀こいねがわくは特に贈謚を加え、以て泉扃を慰めん。

原文臣伏見當道故檢校司空、同平章事鄭畋,瑞應星精,祥開月角;建洪爐於聖代,成庶績於明昌。鳳毛方浴於春池,龍節忽移於右輔。旋以群鴟嘯聚,萬蝟鋒攢,蒼黃而玉輅省方,次第而金門徹鑰。九州相望,初猶豫以從風;百辟無歸,半狐疑而委質。而畋沖冠怒發,投袂治兵;羅劍戟於樽前,練貔貅於閫外。坎牲誓眾,釁鼓出師;馳羽檄於四方,暢皇威於萬里。身維地軸,決橫流而盡入東溟;手正天關,掃妖星而重尊北極。及至囊沙減竈,伐鼓揚旌;四兇方侈於獸心,一陣盡塗於龍尾。大振建瓴之捷,只於反掌之間。不期天柱朝摧,將星夜隕;竹帛徒書於茂烈,松楸未煥於易名。臣始仕從戎,爰承指顧,稟三令五申之戒,預一匡九合之謀。今則謬以微功,獲居重鎮。尋武侯之遺愛,城壘宛然;念叔子之高蹤,涕零何極?伏冀特加贈謚,以慰泉扃。

昭宗之を嘉し、詔して司徒しとを贈り、謚して文昭と曰う。

原文昭宗嘉之,詔贈司徒,謚曰文昭。

畋は文学優深、器量弘恕なり。風儀美しく、神彩玉の如し。尤も能く詩を賦す。人と交わりを結ぶに、栄悴一の如し。始め員外郎と為る時、鄭薰省上を放たず、畋憾みと為さず。及び畋相を作すに及び、薰の子郎と為るも、畋特ちに獎抜して給事中・列曹侍郎と為す。其の徳を以て怨に報いる、多く此の類なり。

原文畋文學優深,器量弘恕。美風儀,神彩如玉,尤能賦詩。與人結交,榮悴如一。始為員外郎,為鄭薰不放省上,畋不以為憾。及畋作相,薰子為郎,畋特獎拔為給事中,列曹侍郎。其以德報怨,多此類也。

子凝績、景福中に歴て刑部・戸部侍郎と為る。

原文子凝績,景福中歷刑部、戶部侍郎。

盧攜

原文盧攜

盧攜は、字を子升といい、范陽の人である。祖父は損。父の求は、寶歷の初めに進士第に登り、諸府の辟召に応じた。位は郡守に終わった。攜は、大中九年に進士擢第し、集賢校理を授けられ、出て使府を佐けた。咸通年間、入朝して右拾遺・殿中侍御史となり、累転して員外郎中・長安ちょうあん縣令・鄭州刺史となった。召されて諫議大夫に拝された。乾符の初め、本官をもって召され翰林學士を充てられ、中書舍人に拝された。乾符の末、戸部侍郎・學士承旨を加えられた。四年、本官をもって同中書門下平章事となり、累加して門下侍郎、兼兵部尚書・弘文館大學士となった。

原文盧攜,字子升,范陽人。祖損。父求,寶歷初登進士第,應諸府辟召。位終郡守。攜,大中九年進士擢第,授集賢校理,出佐使府。咸通中,入朝為右拾遺、殿中侍御史,累轉員外郎中、長安縣令、鄭州刺史。召拜諫議大夫。乾符初,以本官召充翰林學士,拜中書舍人。乾符末,加戶部侍郎、學士承旨。四年,以本官同中書門下平章事,累加門下侍郎,兼兵部尚書、弘文館大學士。

五年、黃巢が荊南・江西の外郭及び虔・吉・饒・信等の州を陥とし、浙東より福建を陥とし、遂に嶺南に至り、廣州を陥として節度使李岧を殺し、遂に表を抗して節鉞を求めた。初め、王仙芝が河南に起こると、攜は宋威・齊克讓・曾袞等に将略ありと挙げ、招討使に用いた。宋威が尚君長を殺すに及んで、賊の充斥を招いた。朝廷は遂に宰臣王鐸を都統とし、攜は深く悦ばず。浙帥崔璆等が上表し、黃巢に廣州節鉞を仮せんことを請うと、上は宰臣に議せしめた。攜は王鐸を統帥とすることを以て、黃巢を激怒せしめんと欲し、堅く賊に節制を仮すべからずと言い、ただ率府率を授くるに止めた。同列の鄭畋と爭論し、硯を地に投げた。ここにおいて両者を罷免し、太子賓客分司となった。

原文五年,黃巢陷荊南、江西外郛及虔、吉、饒、信等州,自浙東陷福建,遂至嶺南,陷廣州,殺節度使李岧,遂抗表求節鉞。初,王仙芝起河南,攜舉宋威、齊克讓、曾袞等有將略,用為招討使。及宋威殺尚君長,致賊充斥。朝廷遂以宰臣王鐸為都統,攜深不悅。浙帥崔璆等上表,請假黃巢廣州節鉞,上令宰臣議。攜以王鐸為統帥,欲激怒黃巢,堅言不可假賊節制,止授率府率而已。與同列鄭畋爭論,投硯於地。由是兩罷之,為太子賓客分司。

六年、高駢の大将張麟が頻りに賊を破った。攜は平素より高駢を厚く待遇し、常に統帥たるべきを挙げていた。天子は駢が功を立てたことを以て、再び攜を召して政を輔えしめた。王鐸が守りを失い、都統を罷められ、高駢をもってこれに代えるに及んで、ここにおいて潼関以東より、汝・陜・許・鄧・汴・滑・青・兗は皆帥を易えた。王鐸・鄭畋が授任した者は、皆これを易えた。攜は内に田令孜を倚り、外に高駢を援けとし、朝廷の大政は、高下を心に任せた。時に攜は風疾を病み、精神恍惚たり。政事の可否は、皆親吏の溫季修に決せられ、貨賄公行した。賊が淮南を擾し、張麟が殺され、許州では帥を逐い、溵水の兵は潰えた。朝廷震懼し、皆その罪を攜に帰した。賊が潼関を陥とするに及び、攜の相を罷め、太子賓客とした。この夜、仰薬して死んだ。

原文六年,高駢大將張麟頻破賊。攜素待高駢厚,常舉可為統帥。天子以駢立功,復召攜輔政。及王鐸失守,罷都統,以高駢代之。由是自潼關以東,汝、陜、許、鄧、汴、滑、青、兗皆易帥。王鐸、鄭畋所授任者,皆易之。攜內倚田令孜,外以高駢為援,朝廷大政,高下在心。時攜病風,精神恍惚。政事可否,皆決於親吏溫季修,貨賄公行。及賊擾淮南,張麟被殺,而許州逐帥,溵水兵潰。朝廷震懼,皆歸罪於攜。及賊陷潼關,罷攜相,為太子賓客,是夜仰藥而死。

子の晏は、天祐の初め、河南縣尉となり、柳璨に殺された。

原文子晏,天祐初,為河南縣尉,為柳璨所殺。

王徽

原文王徽

王徽は、字を昭文といい、京兆杜陵の人である。その先は梁の魏より出づ。魏は秦に滅ぼされ、始皇は関東の豪族を徙めて関中に実し、魏の諸公子は霸は陵に徙った。その故王族なるを以て、遂に王氏となった。後周の同州刺史熊は、徽の十代祖であり、咸陽の鳳岐原に葬られ、子孫ここに家す。曾祖の擇は、従兄の易從は、天後朝に進士第に登った。従弟の明從・言從は、睿宗朝に並び進士擢第した。昆仲四人、開元中に三たび鳳閣舍人に至り、故に時に「鳳閣王家」と号した。その後、易從の子定、定の子逢、逢の弟仲周、定の兄密、密の子行古、行古の子收、收の子超は、皆進士登第した。王氏は易從より已降、大中朝に至るまで進士科に登った者は十八人、臺省に登り牧守・賓佐を歴たる者は三十余人である。擇從は、大足三年に進士第に登り、先天年中、また賢良方正制挙に応じ、乙第に昇り、再遷して京兆士曹参そうしん軍となり、麗正殿學士を充てた。祖の察は、至徳二年に進士第に登り、位は連州刺史に終わった。父の自立は、位は緱氏令に終わった。

原文王徽,字昭文,京兆杜陵人,其先出於梁魏。魏為秦滅,始皇徙關東豪族實關中,魏諸公子徙於霸陵。以其故王族,遂為王氏。後周同州刺史熊,徽之十代祖,葬咸陽之鳳岐原,子孫因家焉。曾祖擇,從兄易從,天後朝登進士第。從弟明從、言從,睿宗朝並以進士擢第。昆仲四人,開元中三至鳳閣舍人,故時號「鳳閣王家」。其後,易從子定,定子逢,逢弟仲周,定兄密,密子行古,行古子收,收子超,皆以進士登第。王氏自易從已降,至大中朝登進士科者,一十八人;登臺省,歷牧守、賓佐者,三十余人。擇從,大足三年登進士第,先天中,又應賢良方正制舉,升乙第,再遷京兆士曹參軍,充麗正殿學士。祖察,至德二年登進士第,位終連州刺史。父自立,位終緱氏令。

徽は大中十一年に進士擢第し、秘書省校書郎を釋褐した。戸部侍郎沈詢が度支を判じ、巡官に辟した。宰相徐商が鹽鐵を領し、また參佐に奏した。時に宣宗は詔して宰相に進士中より子弟を選び主に尚せしめんとし、或いは徽の名籍を上聞した。徽は性沖淡にして勢利を遠ざけ、これを聞きて憂い色に形る。徽が登第した時、年四十を踰え、宰相劉瑑に哀れみを乞い、年既に高く、居常多病にして以て禁臠を塵汙するに足らずと具に陳べた。瑑は上前にこれを言って免れた。令狐綯に従い宣武・淮南両鎮の掌書記を歴任し、大理評事を得た。召されて右拾遺に拝され、前後二十三の疏を上りて事を論じ、人の言い難き者は必ず顔を犯して爭い、人士翕然として称重した。

原文徽大中十一年進士擢第,釋褐秘書省校書郎。戶部侍郎沈詢判度支,辟為巡官。宰相徐商領鹽鐵,又奏為參佐。時宣宗詔宰相於進士中選子弟尚主,或以徽籍上聞。徽性沖淡,遠勢利,聞之憂形於色。徽登第時,年逾四十,見宰相劉瑑哀祈,具陳年已高矣,居常多病,不足以塵汙禁臠。瑑於上前言之方免。從令狐綯歷宣武、淮南兩鎮掌書記,得大理評事。召拜右拾遺,前後上疏論事二十三,人難言者必犯顏爭之,人士翕然稱重。

時に徐商が宰相を罷め江陵に鎮するに会い、徽を旧僚とし、奏辟を加えんと欲したが敢えて言わず。徽はその旨を探り知り、即席に言うことく、「僕は進士中にありて、公の重顧を荷い、公は印を佩きて戎に臨む、下官安んぞ従わざらんや」と。商は甚だ喜び、殿中侍御史を奏授し、緋を賜い、荊南節度判官とした。

原文會徐商罷相鎮江陵,以徽舊僚,欲加奏辟而不敢言。徽探知其旨,即席言曰:「僕在進士中,荷公重顧,公佩印臨戎,下官安得不從?」商喜甚,奏授殿中侍御史,賜緋,荊南節度判官。

高湜の時、憲綱を持し、侍御史知雑に奏し、職方員外郎を兼ね、考功員外に転じた。時に考簿の上中下の字は硃書し、吏これに縁りて奸を行い、多く揩改あり。徽は僕射に白し、墨書を以てせんことを請い、遂に奸吏の弊を絶った。宰相蕭倣は徽の吏術に明るきを以て、特にこれを重んじた。乾封の初め、司封郎中・長安縣令に遷った。學士に闕人あり、倣は徽を用いて翰林學士とし、職方郎中・知制誥に改め、正しく中書舍人に拝した。延英に中謝し、面して金紫を賜い、戸部侍郎・學士承旨に遷った。兵部侍郎・尚書左丞に改め、學士承旨はもとの如し。

原文高湜時持憲綱,奏為侍御史知雜,兼職方員外郎,轉考功員外。時考簿上中下字硃書,吏緣為奸,多有揩改。徽白僕射,請以墨書,遂絕奸吏之弊。宰相蕭倣以徽明於吏術,尤重之。乾封初,遷司封郎中、長安縣令。學士闕人,倣用徽為翰林學士,改職方郎中、知制誥,正拜中書舍人。延英中謝,面賜金紫,遷戶部侍郎、學士承旨。改兵部侍郎、尚書左丞,學士承旨如故。

廣明元年十二月三日、戸部侍郎・同平章事に改めた。この日、黃巢が潼関に入り、その夜僖宗は出幸した。徽は同列の崔沆・豆盧瑑・僕射于琮とともに、曙に至って方に車駕の出幸を知り、遂に相奔馳して行在に赴いた。徽は夜に荊榛の中に落ち、崖谷に墜ち、賊に得られ、迫られて京師に還った。偽命を授けんとすると、徽は足折れ口喑するを示し、白刃これを環らすも、終に懼色無し。賊は輿に命じて第に帰らせ、醫工を命じてこれを視させた。月余りして、守視する者稍だ怠り、徽は乃ち負販に雑じ、河中に竄れ、人を遣わして間道より絹表を奉じて蜀に入らしめた。

原文廣明元年十二月三日,改戶部侍郎、同平章事。是日,黃巢入潼關,其夜僖宗出幸。徽與同列崔沆、豆盧瑑、僕射于琮,至曙方知車駕出幸,遂相奔馳赴行在。徽夜落荊榛中,墜於崖谷,為賊所得,迫還京師。將授之偽命,徽示以足折口喑,雖白刃環之,終無懼色。賊令輿歸第,命醫工視之。月余,守視者稍怠,徽乃雜於負販,竄之河中,遣人間道奉絹表入蜀。

天子これを嘉し、詔して光祿大夫を授け、兵部尚書を守らしめた。行在に赴かんとするに、尋いで詔して徽に本官をもって東面宣慰催陣使を充てしめた。時に王鐸の都統行営兵馬は河中にあり、累年賊を破ること能わず。徽は行営都監楊復光と謀り、沙陁三部落を赦し、難に赴かしめた。その年の夏、代北の軍至り、決戦累捷し、京師を収復し、功を以て尚書右僕射を加えられた。

原文天子嘉之,詔授光祿大夫,守兵部尚書。將赴行在,尋詔徽以本官充東面宣慰催陣使。時王鐸都統行營兵馬在河中,累年未能破賊。徽與行營都監楊復光謀,赦沙陁三部落,令赴難。其年夏,代北軍至,決戰累捷,收復京師,以功加尚書右僕射。

光啓年中、潞州軍乱し、その帥成麟を殺し、兵部侍郎鄭昌図をもって昭義軍事を権知せしめた。時に孟方立は山東三州を割拠し、別に一鎮をなす。上党の支郡は、ただ澤州のみにして、軍中の人は多く方立に附き、昌図は制すること能わず。宰相は重臣を以てこれを鎮めんことを奏請し、乃ち徽に檢校尚書左僕射・同平章事・潞州大都督府長史・澤潞邢洺磁觀察等使を授けた。時に鑾輅未だ還らず、関東は盗を聚む。而して河東の李克用と孟方立は方に澤潞を爭う。朝廷の兵力必ず加うること能わざるを以て、上表してこれを訴えて曰く。

原文光啟中,潞州軍亂,殺其帥成麟,以兵部侍郎鄭昌圖權知昭義軍事。時孟方立割據山東三州,別為一鎮。上黨支郡,唯澤州耳,而軍中之人多附方立,昌圖不能制。宰相奏請以重臣鎮之,乃授徽檢校尚書左僕射、同平章事、潞州大都督府長史、澤潞邢洺磁觀察等使。時鑾輅未還,關東聚盜。而河東李克用與孟方立方爭澤潞。以朝廷兵力必不能加,上表訴之曰:

臣は聞く、才能を量って職を授けることは、本来人民を安んずることに切なるものであり、上に奉じて忠を推すことは、国を体するに先んずるものはないと。臣は早く昌運に逢い、華やかな官歴を備え、ただ誠を尽くすことを仗り、幸いに躁急な跡は無かった。六年の内職においては、侍従の栄に叨るとはいえ、一日の台司においては、匡扶の志を展べることはなかった。敢えて急病を忘れず、憂勤に副わんことを用いる。況や重鎮の兵符、元戎の相印は、特に寵寄を膺け、宸衷より出でたものであり、どうして労を憚り、更に衷款を陳べるべきであろうか。ただ鄭昌図が留を主ること累月、深根を結ばんとし、孟方立が三州を専らに据えて、積釁を転じて成す。その外を招けば潞人は胥怨し、その内を撫すれば邢将は益々疑う。禍は既に焚けたるに熾んとし、計は已に失せるに奈何せん。勝負を観るを須い、乃ち安危を決すべし。命に遵って勇行せんと欲すれば、則ち寝と百慮とあり、身を奉じて先退せんと思えば、則ち事体両全す。伏して聖慈を乞い、廷議を博く求め、その付すべきを択び、理は長に従うに在り。微臣が寵を負うの譏を免れ、上党に必争の勢を破らしめん。籓に触れて難を知り、庶幾くは前言に愧じず、国に報いて功を図り、豈に此の日に伸びざらんや。

原文臣聞量才授任,本切於安人;奉上推忠,莫先於體國。臣早逢昌運,備歷華資,止仗竭誠,幸無躁跡。六年內置,雖叨侍從之榮;一日臺司,未展匡扶之誌。敢忘急病,用副憂勤。況重鎮兵符,元戎相印,特膺寵寄,出自宸衷,豈合憚勞,更陳衷款。但以鄭昌圖主留累月,將結深根;孟方立專據三州,轉成積釁。招其外則潞人胥怨,撫其內則邢將益疑。禍方熾於既焚,計奈何於已失。須觀勝負,乃決安危。欲遵命而勇行,則寢與百慮;思奉身而先退,則事體兩全。伏乞聖慈,博求廷議,擇其可付,理在從長。免微臣負懷寵之譏,使上黨破必爭勢。觸籓知難,庶無愧於前言;報國圖功,豈無伸於此日。

天子は乃ち昌図を以てこれを鎮め、徽を以て諸道租庸供軍等使とし、余官は元の如し。

原文天子乃以昌圖鎮之,以徽為諸道租庸供軍等使,餘官如故。

時に京師は収復の後、宮寺は焚焼し、園陵は毀廢せられ、故に車駕は久しくして未だ還らず。乃ち徽を以て大明宮留守・京畿安撫制置・修奉園陵等使とす。徽は方に財賦を治め、又制置を兼ね、王畿の人は大半流喪す。乃ち遺散を招合し、これを撫すること子の如し。数年之間に、版戸稍く葺まり、東内の齋閣は、繕完すること序あり。徽は表を拝して車駕の京に還るを請い、曰く、「昨者狂寇将に逃れんとし、延災方に甚だし。而して端門鳳畤は、福地を鎮めて独り存し、王気龍盤は、祥煙を鬱して散ぜず。足りて宗祧の祉を降し、臨禦遥かならざるを表す。今初めに修崇を議するといえども、未だ壮麗を全うせず、卑宮の儉を示し、更に馭道の尊を凝らす。且つ粛宗は才に捷書を見て、便ち岐下を離れ、徳宗は盛暑に当たりながらも、漢中に駐まらず。故事具に存し、昌期緩み難し。願わくは鑾輅を回し、早く京師に復せられん。臣は謬りに散材を以て、重寄に叨り、閣を閉じて深く念い、章を拝して累ねて陳ぶ。時事の安危を審らかにし、廟謀の得失に係る。臣は随宜に制置し、力を竭くして撫綏すといえども、もし鑾駕未だ回らざれば、必ずや人心復た散ずるを恐る。微効を成すとも、終に殊私を負わん。勢必然有り、理過慮に宜し。以て此れに淹駐すれば、転じて機宜を失わん。実に宸聡に永く掛かり、清蹕を亟に還らんことを希う。」帝深く嘉納し、位を進めて検校司空・御史大夫とし、権知京兆尹事を以てす。

原文時京師收復之後,宮寺焚燒,園陵毀廢,故車駕久而未還。乃以徽為大明宮留守、京畿安撫制置、修奉園陵等使。徽方治財賦,又兼制置,王畿之人,大半流喪,乃招合遺散,撫之如子。數年之間,版戶稍葺,東內齋閣,繕完有序。徽拜表請車駕還京,曰:「昨者狂寇將逃,延災方甚。而端門鳳畤,鎮福地而獨存;王氣龍盤,郁祥煙而不散。足表宗祧降祉,臨禦非遙。今雖初議修崇,未全壯麗,式示卑宮之儉,更凝馭道之尊。且肅宗才見捷書,便離岐下;德宗雖當盛暑,不駐漢中。故事具存,昌期難緩,願回鑾輅,早復京師。臣謬以散材,叨膺重寄,閉閣深念,拜章累陳。審時事之安危,系廟謀之得失。臣雖隨宜制置,竭力撫綏,如或鑾駕未回,必恐人心復散。縱成微效,終負殊私。勢有必然,理宜過慮。以茲淹駐,轉失機宜。實希永掛宸聰,亟還清蹕。」帝深嘉納,進位檢校司空、御史大夫,權知京兆尹事。

中外の権臣は、人を遣わして京師に第を治めしむ。その乱後の因りて、多く居人を侵犯し、百姓告訴相継ぐ。徽は権豪を避けず、法を以てこれを平らぐ。ここにより残民は業に安んじ、而して権幸は側目してその強きを悪む。乃ちその党薛杞を少尹とし、府事を知府せしむ。杞方に父喪に居る。徽は執奏して府に入るを令せず。権臣愈々怒り、徽の使務を罷むるを奏し、本官を以て行在に徴赴せしむ。尋いて太子少師を授け、疾を移して蒲州に退居す。十旬に満ち、罷むるを請う。僖宗宮に還り、復た太子少師を授く。疾有り、未だ朝謁に任ぜず。宰相は徽の怨望を以て、集州刺史に貶すを奏す。徽は乃ち輿疾して貶所に赴く。旬日とせず、沙陀京師に逼り、僖宗出でて宝鶏に幸す。而して軍容田令孜は咎を得たり。天子は徽に罪無きを以て、召して吏部尚書を拝し、瑯邪郡侯に封じ、食邑千戸。徽将に行在に赴かんとし、而して襄王僭偽す。邠・岐の兵士、乗輿を追逼す。天子漢中に幸す。徽進むこと能わず。李熅の偽制河中府に至り、徽を召して闕に赴かしむ。徽は風疾を托して、歩履すること能わずとす。熅将に号を僭せんとし、内外の臣僚を逼って誓状に署せしむ。徽は臂緩と称して、筆を秉ることを能わず、竟に署名せず。

原文中外權臣,遣人治第京師。因其亂後,多侵犯居人,百姓告訴相繼。徽不避權豪,平之以法。由是殘民安業,而權幸側目惡其強。乃以其黨薛杞為少尹,知府事。杞方居父喪,徽執奏不令入府。權臣愈怒,奏罷徽使務,以本官徵赴行在。尋授太子少師,移疾退居蒲州。滿十旬,請罷。僖宗還宮,復授太子少師,疾,未任朝謁。宰相以徽怨望,奏貶集州刺史,徽乃輿疾赴貶所。不旬日,沙陀逼京師,僖宗出幸寶雞,而軍容田令孜得咎。天子以徽無罪,召拜吏部尚書,封瑯邪郡侯,食邑千戶。徽將赴行在,而襄王僭偽。邠、岐兵士,追逼乘輿。天子幸漢中,徽不能進。李熅偽制至河中府,召徽赴闕。徽托以風疾,不能步履。熅將僭號,逼內外臣僚署誓狀。徽稱臂緩,不能秉筆,竟不署名。

硃玫既に誅せらる。天子褒中より還り、鳳翔に至り、徽を召して御史大夫を拝す。車駕宮に還り、徽章を上る。足膝風痹を以て、朝拝に任ぜず、散秩を除くことを乞う。復た太子少師を授く。便殿に中謝するに及び、昭宗顧み進対して曰く、「王徽は神気尚お強し、安んぞ自便せん。」乃ち改めて吏部尚書を授く。大乱の後、銓選緒を失い、吏奸蠹たり、重疊補擬する者有り。徽は初めより註授に従い、便ち手歴を置き、一一に検視し、人擁滞無く、内外これを称す。位を進めて検校司空とし、尚書右僕射を守る。大順元年十二月卒す。太尉を贈り、謚して貞と曰う。

原文硃玫既誅,天子自褒中還,至鳳翔,召徽拜御史大夫。車駕還宮,徽上章,以足膝風痹,不任朝拜,乞除散秩,復授太子少師。及便殿中謝,昭宗顧瞻進對,曰:「王徽神氣尚強,安可自便?」乃改授吏部尚書。大亂之後,銓選失緒,吏為奸蠹,有重疊補擬者。徽從初註授,便置手歷,一一檢視,人無擁滯,內外稱之。進位檢校司空,守尚書右僕射。大順元年十二月卒,贈太尉,謚曰貞。

子三人:椿・樗・松。

原文子三人:椿、樗、松。

【贊】

原文【贊】

史臣曰う、兵を議するの難きは、古より百勝無し。蓋し権を行い変を制するは、法断は臨機に在り、奇を出して窮まり無きは、声実は的中に懸かる。昔、晋国の孫皓を平らぐるに、賈公閭は堅く渡江を沮み、呉人の曹瞞を拒がんと欲するに、張輔呉は終に失策を慚ず。彼の賢俊も、悔尤を免れず。況んや盧子升は平代の書生、素より軍誌に迷い、只だ高駢の平昔を保ち、高駢の苞蔵を料らず。以て力は黄巢に困り、毒は赤県に流れ、吭を絶ち薬を仰ぎ、何の補か有らん。臺文は気壮図に激し、志宿憤を攄さんとし、慷慨して衆に誓い、叱咤して戎に臨む。竟に賊の喉を扼し、以て天歩を康んず。これを不武と謂わば、斯れ焉くにか斯れを取らん。崔・趙は鼎職を以て親に奉じ、天倫並びに達し、慶を積み裕を垂れ、美を士林に播す。徽は志盗泉を吐き、身を虎口より脱し、功名墜ちず、君子多く之を為す。

原文史臣曰:議兵之難,古無百勝,蓋以行權制變,法斷在於臨機;出奇無窮,聲實懸於中的。昔晉國之平孫皓,賈公閭堅沮渡江;吳人欲拒曹瞞,張輔吳終慚失策。彼之賢俊,未免悔尤。況盧子升平代書生,素迷軍誌,只保高駢之平昔,不料高駢之苞藏;以至力困黃巢,毒流赤縣,絕吭仰藥,何所補焉?臺文氣激壯圖,誌攄宿憤,慷慨誓眾,叱咤臨戎;竟扼賊喉,以康天步,謂之不武,斯焉取斯?崔、趙以鼎職奉親,天倫並達,積慶垂裕,播美士林。徽誌吐盜泉,脫身虎口,功名不墜,君子多之。

贊して曰う、武は以て威を伸べ、謀は以て敵を制す。何ぞ必ずしも戎に臨み、師を衽席に陳べん。高駢は寇を玩び、盧攜は奸を保つ。聖断一たび誤り、崎嶇として剣山に陥る。

原文贊曰:武以伸威,謀以制敵。何必臨戎,陳師衽席。高駢玩寇,盧攜保奸。聖斷一誤,崎嶇劍山。