舊唐書

巻176

巻176

舊唐書

原文舊唐書

卷一百七十六

原文卷一百七十六

列傳第一百二十六 李宗閔 楊嗣復 楊虞卿 馬植 李讓夷 魏謩 周墀 崔龜從 鄭肅 盧商

原文列傳第一百二十六 李宗閔 楊嗣復 楊虞卿 馬植 李讓夷 魏謩 周墀 崔龜從 鄭肅 盧商

李宗閔

原文李宗閔

李宗閔、字は損之、宗室の鄭王元懿の後裔である。祖父は自仙、楚州別駕。父は、宗正卿となり、出て華州刺史・鎮国軍潼関防禦等使となった。兄の夷簡は、元和年間の宰相である。宗閔は、貞元二十一年に進士に擢第し、元和四年に、再び制挙の賢良方正科に登第した。

原文李宗閔,字損之,宗室鄭王元懿之後。祖自仙,楚州別駕。父,宗正卿,出為華州刺史、鎮國軍潼關防禦等使。兄夷簡,元和中宰相。宗閔,貞元二十一年進士擢第,元和四年,復登制舉賢良方正科。

初め、宗閔は牛僧孺と同年に進士第に登第し、また僧孺と同年に制科に登第した。制科に応じた年、李吉甫が宰相として国政を執り、宗閔・僧孺が対策を述べ、時政の失を指摘し、言うところは甚だ鯁直で、回避する所がなかった。考策官の楊於陵・韋貫之・李益らはまたその策を中等と第し、また不中第の者に牛・李の策の語を註解し、共に誹謗を唱えた。また翰林学士王涯の甥の皇甫湜が中選したが、考核の際に、先に上言しなかったと言う。裴垍は当時学士であり、内にあって覆視したが、異同がなかった。吉甫は上前に泣いて訴え、憲宗は已むを得ず、王涯・裴垍の学士を罷免した。垍は戸部侍郎を守り、涯は都官員外郎を守り、吏部尚書楊於陵は出て嶺南節度使となり、吏部員外郎韋貫之は出て果州刺史となった。王涯は再び虢州司馬に貶され、貫之は再び巴州刺史に貶された。僧孺・宗閔もまた長く調官されず、牒に従って諸侯の府に赴いた。七年、吉甫が卒すると、初めて入朝して監察御史となり、累遷して礼部員外郎となった。

原文初,宗閔與牛僧孺同年登進士第,又與僧孺同年登制科。應制之歲,李吉甫為宰相當國,宗閔、僧孺對策,指切時政之失,言甚鯁直,無所回避。考策官楊於陵、韋貫之、李益等又第其策為中等,又為不中第者註解牛、李策語,同為唱誹。又言翰林學士王涯甥皇甫湜中選,考核之際,不先上言。裴垍時為學士,居中覆視,無所異同。吉甫泣訴於上前,憲宗不獲已,罷王涯、裴垍學士。垍守戶部侍郎,涯守都官員外郎,吏部尚書楊於陵出為嶺南節度使,吏部員外郎韋貫之出為果州刺史。王涯再貶虢州司馬,貫之再貶巴州刺史;僧孺、宗閔亦久之不調,隨牒諸侯府。七年,吉甫卒,方入朝為監察御史,累遷禮部員外郎。

再び入って中書舎人となった。三年の冬、権知礼部侍郎となった。四年、貢挙の事が終わり、権知兵部侍郎となった。宝暦元年、正しく兵部侍郎に拝され、父の憂により免じられた。太和二年、起用されて吏部侍郎となり、金紫の服を賜った。三年八月、本官をもって同平章事となった。

原文復入為中書舍人。三年冬,權知禮部侍郎。四年,貢舉事畢,權知兵部侍郎。寶曆元年,正拜兵部侍郎,父憂免。太和二年,起為吏部侍郎,賜金紫之服。三年八月,以本官同平章事。

時に裴度が李徳裕を推薦し、大いに用いようとした。徳裕は浙西より入朝したが、宗閔を助ける宦官に沮まれ、再び出鎮した。やがて牛僧孺を引きいて同知政事とし、二人は唱和し、凡そ徳裕の党は皆逐われた。累転して中書侍郎・集賢大学士となった。七年、徳裕が相となる。六月、宗閔の知政事を罷め、検校礼部尚書・同平章事・興元尹・山南西道節度使とした。

原文時裴度薦李德裕,將大用。德裕自浙西入朝,為中人助宗閔者所沮,復出鎮。尋引牛僧孺同知政事,二人唱和,凡德裕之黨皆逐之。累轉中書侍郎、集賢大學士。七年,德裕作相。六月,罷宗閔知政事,檢校禮部尚書、同平章事、興元尹、山南西道節度使。

宗閔が吏部侍郎であった時、駙馬都尉沈〓(立義)を通じて女学士宋若憲及び枢密を知る楊承和に結託し、二人がしばしば上前で彼を称揚したので、徴用されることを得た。及んで徳裕が政を執ると、群邪は喜ばず、鄭注・李訓は深くこれを憎んだ。文宗は乃ち宗閔を興元より召し還し、中書侍郎・平章事とし、徳裕に命じて宗閔に代わって興元尹とした。再び権位を得ると、訓・注を輔佐として、特に欲する所を恣にし、襄武侯に進封され、食邑千戸を賜った。

原文宗閔為吏部侍郎時,因駙馬都尉沈{{!|〓|立義}}結托女學士宋若憲及知樞密楊承和,二人數稱之於上前,故獲徵用。及德裕秉政,群邪不悅,而鄭註、李訓深惡之。文宗乃復召宗閔於興元,為中書侍郎、平章事,命德裕代宗閔為興元尹。既再得權位,輔之以訓、註,尤恣所欲,進封襄武侯,食邑千戶。

九年六月、京兆尹楊虞卿が罪を得ると、宗閔は極言して救解した。文宗は怒って叱って曰く、「爾は嘗て鄭覃は妖気なりと謂ったが、今妖をなすのは、覃か、爾か」と。翌日、明州刺史に貶され、やがて再び処州長史に貶された。七月、鄭注が沈〓(立義)・宋若憲の事を発すると、内官の楊承和・韋元素・沈〓(立義)及び若憲の姻党で坐して貶される者十余人、また宗閔を潮州司戸に貶した。時に訓・注は威権を窃み弄び、凡そ己に附かざる者を、宗閔・徳裕の党と目し、貶逐する日なく、中外震駭し、連月陰晦し、人情安からず。九月詔して曰く、

原文九年六月,京兆尹楊虞卿得罪,宗閔極言救解,文宗怒叱之曰:「爾嘗謂鄭覃是妖氣,今作妖,覃耶、爾耶?」翌日,貶明州刺史,尋再貶處州長史。七月,鄭註發沈{{!|〓|立義}}、宋若憲事,內官楊承和、韋元素、沈{{!|〓|立義}}及若憲姻黨坐貶者十餘人,又貶宗閔潮州司戶。時訓、註竊弄威權,凡不附己者,目為宗閔、德裕之黨,貶逐無虛日,中外震駭,連月陰晦,人情不安。九月詔曰:

朕は天を承け歴を纘ぎしも、理を燭くこと明らかならず、虚襟を労して賢を求め、寛徳を励まして衆を容る。頃者、或いは台輔は弼違の道に乖き、而して具僚は朋附の風を扇ぐ。翕然として相従い、実に彜憲を篸す。致して薰蕕を同じく器にし、賢不肖並びに馳す。退跡する者は後時の夫となり、門に登る者は吠えるを迎うるの客あり。繆戾の気、和平を堙郁し、而して陰陽の時に順い、疵癘作らざるを望み、朝廷清粛、班列和安なるは、古より今に及び、未だ嘗て有らざるなり。今既に再び朝典を申し、一たび澆風を変じ、朋比の徒を掃清し、貞廉の俗を匡飭す。凡そ百の卿士、惟新の令猷を思え。聞く所に拠れば、周行の中に、尚ほ疑懼を蓄え、或いは妄りに相指目し、自ら安からしめずと。今斯に曠然として、明らかに朕が意を諭す。応に宗閔・徳裕と或いは親或いは故及び門生旧吏等と、今日以前に黜遠せられたるを除くの外、一切問わず。各々職業に安んじ、復た嫌を為すなかれ。

原文朕承天纘歷,燭理不明,勞虛襟以求賢,勵寬德以容眾。頃者,或臺輔乖弼違之道,而具僚扇朋附之風;翕然相從,實篸彜憲。致使薰蕕共器,賢不肖並馳;退跡者成後時之夫,登門者有迎吠之客。繆戾之氣,堙郁和平,而望陰陽順時,疵癘不作;朝廷清肅,班列和安,自古及今,未嘗有也。今既再申朝典,一變澆風,掃清朋比之徒,匡飭貞廉之俗。凡百卿士,惟新令猷。如聞周行之中,尚蓄疑懼,或有妄相指目,令不自安,今斯曠然,明喻朕意。應與宗閔、德裕或親或故及門生舊吏等,除今日已前黜遠之外,一切不問。各安職業,勿復為嫌。

文宗は二李の朋党を以て、これを縛しても去ることができず、嘗て侍臣に謂って曰く、「河北の賊を去るは難しからず、此の朋党を去るは実に難し」と。宗閔は驟に放黜せられしも、竟に李訓の禍を免れた。

原文文宗以二李朋黨,繩之不能去,嘗謂侍臣曰:「去河北賊非難,去此朋黨實難。」宗閔雖驟放黜,竟免李訓之禍。

会昌初め、李徳裕が政を執り、嗣復・李玨は皆嶺表に竄せられた。三年、劉稹が沢潞に拠りて叛く。徳裕は宗閔が素より劉従諫と厚きを以て、上党は東都に近く、宗閔が分司するは便ならずとし、出して封州刺史とした。又その旧事を発し、郴州司馬に貶し、貶所に卒した。

原文會昌初,李德裕秉政,嗣復、李玨皆竄嶺表。三年,劉稹據澤潞叛。德裕以宗閔素與劉從諫厚,上黨近東都,宗閔分司非便,出為封州刺史。又發其舊事,貶郴州司馬,卒於貶所。

子の琨・瓚は、大中朝に皆進士に擢第した。令狐綯が相となると、特に加えて獎拔した。瓚は員外郎より知制誥となり、中書舎人・翰林学士を歴任した。綯が相を罷めると、出て桂管観察使となった。軍を御するに政なく、卒に逐われ、貶死した。

原文子琨、瓚,大中朝皆進士擢第。令狐綯作相,特加獎拔。瓚自員外郎知制誥,歷中書舍人、翰林學士。綯罷相,出為桂管觀察使。御軍無政,為卒所逐,貶死。

天宝の艱難の後より、宗室の子弟、賢にして功を立てる者は、唯だ鄭王・曹王の子孫のみ。夷簡の再従の季父汧国公勉は、徳宗朝の宰相。夷簡の諸弟の夷亮・夷則・夷範は、皆進士第に登った。宗閔の弟に宗冉。宗冉の子に深・湯。湯は累官して給事中に至り、咸通中に台閣を践更し、時に知名であった。

原文自天寶艱難之後,宗室子弟,賢而立功者,唯鄭王、曹王子孫耳。夷簡再從季父汧國公勉,德宗朝宰相。夷簡諸弟夷亮、夷則、夷範,皆登進士第。宗閔弟宗冉。宗冉子深、湯。湯累官至給事中,咸通中踐更臺閣,知名於時。

楊嗣復

原文楊嗣復

楊嗣復は、字を繼之といい、僕射楊於陵の子である。初め、於陵は十九歳で進士に及第し、二十歳で再び博學宏詞科に登第し、潤州句容尉に補せられた。浙西觀察使韓滉は人を見抜く鑑識があり、彼を見て甚だ喜んだ。滉には愛娘がおり、ちょうど良縁を選んでいたが、妻の柳氏に言うには、「私は多くの人を見てきたが、楊生ほど貴くして長寿な者はなく、生む子は必ず宰相となるであろう。」於陵が任期を満了し、揚州に寓居して嗣復を生んだ。後に滉が彼を見て、その頭を撫でて言うには、「名声と地位は果たして父を超えるであろう、楊家の慶事である。」それゆえに字を慶門といった。

原文楊嗣復,字繼之,僕射於陵子也。初,於陵十九登進十第,二十再登博學宏詞科,謂補潤州句容尉。浙西觀察使韓滉有知人之鑒,見之甚悅。滉有愛女,方擇佳婿,謂其妻柳氏曰:「吾閱人多矣,無如楊生貴而有壽,生子必為宰相。」於陵秩滿,寓居揚州而生嗣復。後滉見之,撫其首曰:「名位果逾於父,楊門之慶也。」因字曰慶門。

嗣復は七、八歳の時すでに筆を執って文を作ることができた。二十歳で進士に及第した。二十一歳で、また博學宏詞科に登第し、秘書省校書郎に任じられた。右拾遺に遷り、史館を直した。嗣復が禮學に深いため、太常博士に改めた。元和十年、累遷して刑部員外郎に至った。鄭餘慶が詳定禮儀使となり、彼を判官に奏請し、禮部員外郎に改めた。時に父の於陵が戸部侍郎であったので、嗣復は上言して父と同じ省にいるのは不便であるとし、他の官に換えることを請うた。詔して言うには、「同じ官署に大功以下の親族がいる場合でも、連判や勾檢の官および官長でなければ、回避の限りには当たらない。官署が同じでも職務が異なるならば、父子兄弟であっても避嫌する必要はない。」再び兵部郎中に遷った。長慶元年十月、庫部郎中をもって制誥を知り、正しく中書舍人に拝された。

原文嗣復七八歲時已能秉筆為文。年二十,進士擢第。二十一,又登博學宏詞科,釋褐秘書省校書郎。遷右拾遺,直史館。以嗣復深於禮學,改太常博士。元和十年,累遷至刑部員外郎。鄭餘慶為詳定禮儀使,奏為判官,改禮部員外郎。時父於陵為戶部侍郎,嗣復上言與父同省非便,請換他官。詔曰:「應同司官有大功以下親者,但非連判及勾檢之官並官長,則不在回避之限。如官署同,職司異,雖父子兄弟無所避嫌。」再遷兵部郎中。長慶元年十月,以庫部郎中知制誥,正拜中書舍人。

嗣復は牛僧孺・李宗閔と共に皆、權德輿の貢挙の門生であり、情誼が相得て、進退取捨は多く彼らと同一であった。四年、僧孺が宰相となり、彼を抜擢して大用したいと考え、また於陵が東都留守であったため、まだ相位を経ていないので、嗣復に禮部侍郎を権知させた。寶曆元年二月、貢士六十八人を選び、後に多く達官に至った。文宗が即位すると、戸部侍郎に拝された。父の於陵が太子少傅で致仕し、高齢で病が多く、懇願して侍養を辞退したが、許されなかった。大和四年、父の喪に服して免官となった。七年三月、尚書左丞として起用された。その年、宗閔が宰相を罷め、李德裕が政を補佐した。七月、嗣復を檢校禮部尚書・梓州刺史・劍南東川節度觀察等使とした。九年、宗閔が再び政事を知った。三月、嗣復を檢校戸部尚書・成都尹・劍南西川節度副大使知節度事・觀察處置等使とした。

原文嗣復與牛僧孺、李宗閔皆權德輿貢舉門生,情義相得,進退取舍,多與之同。四年,僧孺作相,欲薦拔大用,又以於陵為東都留守。未歷相位,乃令嗣復權知禮部侍郎。寶曆元年二月,選貢士六十八人,後多至達官。文宗即位,拜戶部侍郎。以父於陵太子少傅致仕,年高多疾,懇辭侍養,不之許。大和四年|830年,丁父憂免。七年三月,起為尚書左丞。其年宗閔罷相,德裕輔政。七月,以嗣復檢校禮部尚書、梓州刺史、劍南東川節度觀察等使。九年,宗閔復知政事。三月,以嗣復檢校戶部尚書、成都尹、劍南西川節度副大使知節度事、觀察處置等使。

八月、紫宸殿で奏事し、言うには、「聖人が上におられ、野に遺賢はない。陸洿が上疏して兵事を論じたが、時事に中らなくとも、その志は褒めるべきである。蘇州に閑居して累年になるので、一官を与えるのがよい。」李玨が言うには、「士子で奔走競争する者が多い中、陸洿を褒めれば、貪欲な者も奮起を知るであろう。先日竇洵直が事を論じ、陛下は幣帛をもって賞されました。まして陸洿に官を与えることなど。」帝が言うには、「洵直はその直心を褒めたのであり、事の当否を言ったのではない。」鄭覃が言うには、「もし苞蔵(私心を隠す)しているならば知る由もない。」嗣復が言うには、「臣は洵直に邪悪な心がないことを深く知っております。陸洿に官を与える件については、まだ聖旨を奉じておりません。」鄭覃が言うには、「陛下は朋黨に備えられねばなりません。」嗣復が言うには、「鄭覃が臣を朋党と疑うのであれば、陛下に臣を帰去させてください。」そこで拝礼して罷免を乞うた。李玨が言うには、「近来の朋党は、最近も少しは鎮まっています。」覃が言うには、「近ごろ小さな朋党が生じています。」帝が言うには、「この連中は凋喪してほぼ尽きている。」覃が言うには、「楊漢公・張又新・李續之は今もなお存命です。」玨が言うには、「今は辺境の事について論奏があります。」覃が言うには、「辺境の事の安危を論ずるならば、臣は玨に及ばない。悪を憎む点では、玨は臣に及ばない。」嗣復が言うには、「臣は聞く、左右佩剣、彼此相笑うと。臣は今、鄭覃が誰を朋党と指すのか知りません。」そこで香案の前で奏して言うには、「臣は宰相の職にありながら、夔や龍の道を申し述べることができず、ただ朋党と見なされて非難されるばかりです。必ず陛下に臣の鼎職を罷めさせてください。」上は彼を慰労した。文宗はちょうど政事を嗣復に委ねようとしており、鄭覃の言葉が厳しいのを嫌った。

原文八月,紫宸奏事,曰:「聖人在上,野無遺賢。陸洿上疏論兵,雖不中時事,意亦可獎。閑居蘇州累年,宜與一官。」李玨曰:「士子趨競者多,若獎陸洿,貪夫知勸矣。昨竇洵直論事,陛下賞之以幣帛,況與陸洿官耶?」帝曰:「洵直獎其直心,不言事之當否。」鄭覃曰:「若苞藏則不可知。」嗣復曰:「臣深知洵直無邪惡,所奏陸洿官,尚未奉聖旨。」鄭覃曰:「陛下須防朋黨。」嗣復曰:「鄭覃疑臣朋黨,乞陛下放臣歸去。」因拜乞罷免。李玨曰:「比來朋黨,近亦稍弭。」覃曰:「近有小朋黨生。」帝曰:「此輩雕喪向盡。」覃曰:「楊漢公、張又新、李續之即今尚在。」玨曰:「今有邊事論奏。」覃曰:「論邊事安危,臣不如玨;嫉惡則玨不如臣。」嗣復曰:「臣聞左右佩劍,彼此相笑。臣今不知鄭覃指誰為朋黨。」因當香案前奏曰:「臣待罪宰相,不能申夔、龍之道,唯以朋黨見譏,必乞陛下罷臣鼎職。」上慰勉之。文宗方以政事委嗣復,惡覃言切。

帝は延英殿で宰臣に言うには、「人々が伝える符讖の言葉は、どこから来るのか。」嗣復が答えて言うには、「漢の光武帝は讖書をもって事を決するのを好み、近代では隋の文帝もこの言葉を信じました。これ以来、この説は日に日に増えました。ただ班彪の『王命論』が引用したように、それは賊乱を止めるために意を矯めたものであり、重んじるべきものではありません。」李玨が言うには、「喪乱の時には、天命を助ける者は神の符命を務めます。治平の世では、ただ人事を推し量るべきです。」上は言うには、「卿の言う通りである。」帝はまた言うには、「則天武后は人を用いるに、布衣から宰相に至る者もいたが、当時はやはり力を発揮したのか。」嗣復が言うには、「則天武后は刑罰を重んじ、官爵を軽々しく用いましたが、皆、自らの計画のためでした。およそ人を用いる道は、幾度も試して初めてその能否が見えます。艱難の時には、あるいは抜擢する必要がありますが、事なき日の平時には、むしろ資格の順序に従う方がよいでしょう。古人が兵卒を抜擢して将としたのは、治平の時ではなく、やむを得ず用いたのです。」上はまた新しく修撰された『開元政要』について、その叙述はどうかと問うた。嗣復が言うには、「臣らはまだ見ておりません。陛下がこれを子孫に遺そうとされるならば、臣らに宣付して、可否を参詳させてください。玄宗は時に遊猟を好み、時に声色を好まれ、貞観の政とは異なります。故に取捨は適切でなければ、後世に伝えるに堪えません。」

原文帝延英謂宰臣曰:「人傳符讖之語,自何而來?」嗣復對曰:「漢光武好以讖書決事,近代隋文帝亦信此言,自是,此說日滋,只如班彪《王命論》所引,蓋矯意以止賊亂,非所重也。」李玨曰:「喪亂之時,佐命者務神符命;理平之代,只合推諸人事。」上曰:「卿言是也。」帝又曰:「天後用人,有自布衣至宰相者,當時還得力否?」嗣復曰:「天後重行刑辟,輕用官爵,皆自圖之計耳。凡用人之道,歷試方見其能否。當艱難之時,或須拔擢,無事之日,不如且循資級。古人拔卒為將,非治平之時,蓋不獲已而用之也。」上又問新修《開元政要》,敘致何如。嗣復曰:「臣等未見。陛下若欲遺之子孫,則請宣付臣等,參詳可否。玄宗或好遊畋,或好聲色,與貞觀之政不同,故取舍須當,方堪流傳。」

四年五月、上は延英殿で政事について問い、毎日誰が記録を監修しているかと。李玨が言うには、「それは臣の職務です。」陳夷行が言うには、「宰相が記録すれば、必ず自ら功を誇ることになり、聖徳はすぐに覆い隠されてしまいます。臣が頻りに言うのは、威権が下にあることを望まないからです。」玨が言うには、「夷行のこの言葉は、宰相の中に威権を売り、刑賞を売る者がいると疑っているのです。そうでなければ、どうして自ら宰相でありながらこのような言葉を出すのでしょうか。臣は累次退任を求めて上奏しております。もし王傅を得られれば、臣の幸いです。」鄭覃が言うには、「陛下の開成元年・二年の政事は非常に良かったが、三年・四年は次第に前ほどではない。」嗣復が言うには、「元年・二年は鄭覃・夷行が政事を取り仕切り、三年・四年は臣と李玨が共にこれを担当しました。臣は聖慈により宰相の位に抜擢されましたが、心を尽くして職務を奉じることができませんでした。鄭覃が『三年の後、一年ごとに劣っていく』と言うのは、臣の罪です。陛下たとえ誅伐なさらなくとも、臣は自ら消滅を求めるべきです。」そこで頭を叩きつけて言うには、「臣は今日ただちに玉階を辞し、再び中書省に入ることはできません。」すぐに立ち去ろうとした。上は中使に命じて召し戻し、労って言うには、「鄭覃が失言しただけで、卿はどうしてここまでするのか。」覃は起立して謝罪し言うには、「臣は性が愚拙で、言葉に遠慮がありません。近日の事も次第に良くなっており、少しばかり不公正な点は免れませんが、甚だしいところはありません。臣も嗣復だけを非難したわけではなく、どうして急にここまでなさるのですか。このようなことをなさるのは、嗣復が臣を容れないからです。」嗣復が言うには、「陛下は臣の微才をもって中書侍郎に用いられました。時政の善し悪しは、その責は臣にあります。陛下は月に俸銭数十万を費やされ、季節の新しい珍異なものは必ず先に賜与されますが、それは聖明を輔佐して至理に至らせようとされるからです。既に一年ごとに劣っていくのであれば、ただ臣が罪を得るべきであるだけでなく、上は聖徳にも累を及ぼします。伏して別に賢能を命じ、臣の休退を許されたく存じます。」上は言うには、「鄭覃の言葉は偶然である。どうして咎を執るのか。」嗣復は数日間入朝せず、上表して罷免を請うた。帝はちょうど彼を任用しようとしていたので、鄭覃・夷行の知政事を罷めた。これより、政は嗣復に帰し、門下侍郎に進めて加えた。明年正月、文宗は崩御した。

原文四年五月,上問延英政事,逐日何人記錄監修?李玨曰:「是臣職司。」陳夷行曰:「宰相所錄,必當自伐,聖德即將掩之。臣所以頻言,不欲威權在下。」玨曰:「夷行此言,是疑宰相中有賣威權、貨刑賞者。不然,何自為宰相而出此言?臣累奏求退,若得王傅,臣之幸也。」鄭覃曰:「陛下開成元年、二年政事至好,三年、四年漸不如前。」嗣復曰:「元年、二年是鄭覃、夷行用事,三年、四年臣與李玨同之。臣蒙聖慈擢處相位,不能悉心奉職。鄭覃云『三年之後,一年不如一年』,臣之罪也。陛下縱不誅夷,臣合自求泯滅。」因叩頭曰:「臣今日便辭玉階,不敢更入中書。」即趨去。上令中使召還,勞之曰:「鄭覃失言,卿何及此?」覃起謝曰:「臣性愚拙,言無顧慮。近日事亦漸好,未免些些不公,亦無甚處。臣亦不獨斥嗣復,遽何至此。所為若是,乃嗣復不容臣耳。」嗣復曰:「陛下不以臣微才,用為中書侍郎。時政善否,其責在臣。陛下月費俸錢數十萬,時新珍異,必先賜與,蓋欲輔佐聖明,臻於至理。既一年不如一年,非惟臣合得罪,亦上累聖德。伏請別命賢能,許臣休退。」上曰:「鄭覃之言偶然耳,奚執咎耶?」嗣復數日不入,上表請罷。帝方委用,乃罷鄭覃、夷行知政事。自是,政歸嗣復,進加門下侍郎。明年正月,文宗崩。

先に、敬宗の子である陳王を皇太子とした。中尉仇士良は遺令に背いて武宗を立てた。武宗の即位は、宰相の本意では全くなく、執政の臣を甚だ軽んじた。その年の秋、李徳裕が淮南より入朝して政を輔けた。九月、嗣復を出して湖南観察使とした。翌年、枢密薛季稜・劉弘逸を誅した。宦官が言うには、「二人は近ごろ嗣復・李玨に附き、陛下に不利を図った」と。武宗は性急であり、直ちに中使を湖南・桂管に遣わし、嗣復と玨を殺させようとした。宰相崔鄲・崔珙らは急ぎ延英殿の開扉を請い、そこで国朝の故事を極言し、大臣は悪逆が顕著でない限り誅戮された例はなく、願わくば陛下にはその適否を再考されたしと述べた。帝はしばらくして顔色を改め言うには、「朕が嗣を纘ぐ際、宰相は何嘗か数えられたか。李玨・季稜の志は陳王を扶冊することにあり、嗣復・弘逸の志は安王を樹立することにあった。陳王を立てるのはなお文宗の遺旨であるが、嗣復が安王を立てようとしたのは、全く楊妃の意旨を希ったものである。嗣復はかつて妃に書を送り、『姑姑は何ぞ則天の臨朝に敩わざる』と云った」と。珙らは言うには、「この事は曖昧であり、真偽を弁じ難い」と。帝は言うには、「楊妃がかつて臥疾した時、妃の弟玄思を、文宗は内に入らせて侍疾させて一月余り、この時に意旨を通導した。朕は細かに内人に問うたが、情状は皎然としており、私は外に宣べ出そうとは思わない。向使安王が志を得ていたならば、我に豈に今日あらんや。然れども卿らのためにこれを恕す」と。そこで潭・桂の二中使を追い返し、嗣復を再び潮州刺史に貶した。

原文先是,以敬宗子陳王為皇太子。中尉仇士良違遺令立武宗。武宗之立,既非宰相本意,甚薄執政之臣。其年秋,李德裕自淮南入輔政。九月,出嗣復為湖南觀察使。明年,誅樞密薛季稜、劉弘逸。中人言:「二人頃附嗣復、李玨,不利於陛下。」武宗性急,立命中使往湖南、桂管,殺嗣復與玨。宰相崔鄲、崔珙等亟請開延英,因極言國朝故事,大臣非惡逆顯著,未有誅戮者,願陛下復思其宜。帝良久改容曰:「朕纘嗣之際,宰相何嘗比數。李玨、季稜志在扶冊陳王,嗣復、弘逸志在樹立安王。立陳王猶是文宗遺旨,嗣復欲立安王,全是希楊妃意旨。嗣復嘗與妃書云:『姑姑何不敩則天臨朝?』」珙等曰:「此事曖昧,真虛難辨。」帝曰:「楊妃曾臥疾,妃弟玄思,文宗令入內侍疾月餘,此時通導意旨。朕細問內人,情狀皎然,我不欲宣出於外。向使安王得志,我豈有今日?然為卿等恕之。」乃追潭、桂二中使,再貶嗣復潮州刺史。

宣宗が即位すると、吏部尚書に召し拜された。大中二年、潮陽より還る途中、岳州に至り病に罹り、一日にして卒した。時に年六十六。左僕射を贈られ、諡して孝穆といった。

原文宣宗即位,徵拜吏部尚書。大中二年,自潮陽還,至岳州病,一日而卒,時年六十六。贈左僕射,謚曰孝穆。

子に損・授・技・拭・捴があり、授が最も賢であった。

原文子損、授、技、拭、捴,而授最賢。

授は字を得符といい、大中九年に進士に擢第し、褐を釋ぎ諸侯の府に從事し、入って鄠県尉・集賢校理となった。監察御史・殿中を歴任し、東臺に分務した。再び司勛員外郎・洛陽らくよう令・兵部員外郎に遷った。李福が東都留守となると、判官に奏充され、兵部郎中に改め、吏部より左諫議大夫・給事中に拜され、出て河南尹となった。盧攜が相となると、召し拜されて工部侍郎となった。黄巢が京師を犯すと、僖宗は蜀しょくに幸し、召し拜されて戸部侍郎となった。母の病を以て、散秩を求め、秘書監分司に改まった。車駕が還ると、兵部侍郎に拜された。宰相に怨みを報いる者がおり、左散騎常侍さんきじょうじ・国子祭酒に改め、また太子賓客に転じた。昭宗に従って華下に在り、刑部尚書・太子少保に改まった。卒し、左僕射を贈られた。

原文授,字得符,大中九年進士擢第,釋褐從事諸侯府,入為鄠縣尉、集賢校理。歷監察御史、殿中,分務東臺。再遷司勛員外郎、洛陽令、兵部員外郎。李福為東都留守,奏充判官,改兵部郎中,由吏部拜左諫議大夫、給事中,出為河南尹。盧攜作相,召拜工部侍郎。黃巢犯京師,僖宗幸蜀,徵拜戶部侍郎。以母病,求散秩,改秘書監分司。車駕還,拜兵部侍郎。宰相有報怨者,改左散騎常侍、國子祭酒,又轉太子賓客。從昭宗在華下,改刑部尚書、太子少保。卒,贈左僕射。

子の煚は字を公隱といい、進士及び第し、再遷して左拾遺となった。昭宗が初めて即位すると、遊宴を喜び、時事を恤れみず、煚は上疏して極諫し、帝は面して緋袍と象笏を賜った。崔安潛が出鎮して青州に赴くと、支使に辟した。鎮に至らず、太常博士に改まった。主客・戸部の二員外郎を歴任した。関中乱に際し、崔胤が硃全忠を引いて京師に入ると、乃ち家を挈いて湖南に避地し、官は終に諫議大夫であった。

原文子煚,字公隱,進士及第,再遷左拾遺。昭宗初即位,喜遊宴,不恤時事,煚上疏極諫,帝面賜緋袍象笏。崔安潛出鎮青州,辟為支使。不至鎮,改太常博士。歷主客、戶部二員外郎。關中亂,崔胤引硃全忠入京師,乃挈家避地湖南,官終諫議大夫。

損は字を子默といい、廕により官を受け、藍田尉となった。三遷して京兆府司録参軍となり、入って殿中侍御史となった。家は新昌里にあり、宰相路巖の邸と相接していた。巖は地が狭いとして、損の馬廄と換えて広げようとし、人を遣わして意を致した。時に損の伯叔昆仲で朝に在る者十余人、相与って議して言うには、「家門の損益は時相に恃む、何ぞこれを拒むべけんや」と。損は言うには、「然らず。凡そ尺寸の地といえども、吾等の所有に非ず。先人の旧業、安んぞ以て権臣に奉ぜん。窮達は命なり」と。巖は悦ばず。時に制使を差して黔中に獄を鞫するに会い、乃ち損を遣わしてこれに使わしめた。一年余りして還り、戸部員外郎・洛陽県令に改まった。入って吏部員外郎となり、出て絳州刺史となった。路巖が相を罷めると、召し拜されて給事中となり、京兆尹に遷った。盧攜が相となると、宿憾があり、再び給事中に拜され、出て陜虢観察使となった。時に軍乱が起こり、前使崔蕘を逐った。損が至ると、その乱の首魁を尽く誅した。一年余りして、青州刺史・御史大夫・淄青節度使に改まった。また検校刑部尚書・鄆州刺史・天平軍節度使となった。鄆に赴かず、再び青州に留まり、鎮で卒した。

原文損,字子默,以廕受官,為藍田尉。三遷京兆府司錄參軍,入為殿中侍御史。家在新昌里,與宰相路巖第相接。巖以地狹,欲易損馬廄廣之,遣人致意。時損伯叔昆仲在朝者十餘人,相與議曰:「家門損益恃時相,何可拒之?」損曰:「非也。凡尺寸地,非吾等所有。先人舊業,安可以奉權臣?窮達,命也。」巖不悅。會差制使鞫獄黔中,乃遣損使焉。逾年而還,改戶部員外郎、洛陽縣令。入為吏部員外,出為絳州刺史。路巖罷相,徵拜給事中,遷京兆尹。盧攜作相,有宿憾,復拜給事中,出為陜虢觀察使。時軍亂,逐前使崔蕘。損至,盡誅其亂首。逾年,改青州刺史、御史大夫、淄青節度使。又檢校刑部尚書、鄆州刺史、天平軍節度使。未赴鄆,復留青州,卒於鎮。

技は進士及び第し、位は中書舎人に至った。

原文技進士及第,位至中書舍人。

拭の官は終に考功員外郎であった。捴は終に兵部郎中であった。拭・捴ともに進士に擢第した。

原文拭官終考功員外郎。捴終兵部郎中。拭、捴並進士擢第。

楊虞卿

原文楊虞卿

楊虞卿は字を師臯といい、虢州弘農の人である。祖父は燕客。父の寧は、貞元中に長安ちょうあん尉となった。少くより棲遁の志があり、処士として徴されて朝に入った。口辯があり、公卿の間を優遊した。竇參は特にこれを重んじたが、參が貶されるに会い、仕進は達せずして卒した。

原文楊虞卿,字師臯,虢州弘農人。祖燕客。父寧,貞元中為長安尉。少有棲遁之志,以處士徵入朝。有口辯,優遊公卿間。竇參尤重之,會參貶,仕進不達而卒。

虞卿は、元和五年に進士に擢第し、また博学宏辞科に応じた。元和の末、累官して監察御史に至った。穆宗が初めて即位すると、政道を修めず、盤遊に節なく、虞卿は上疏して諫めて言うには、

原文虞卿,元和五年進士擢第,又應博學宏辭科。元和末,累官至監察御史。穆宗初即位,不修政道,盤遊無節,虞卿上疏諫曰:

臣聞く、鳶烏害に遭えば則ち仁鳥逝き、誹謗誅せられざれば則ち良言進むと。況んや詔旨は勉諭し、愚誠を陳ぶるを許す。故に臣は誅を避けずして、狂瞽を献ず。

原文臣聞鳶烏遭害則仁鳥逝,誹謗不誅則良言進。況詔旨勉諭,許陳愚誠,故臣不敢避誅,以獻狂瞽。

窃かに聞く、堯・舜は命を受けて、天下を以て憂えと為し、位を以て楽しまると聞かず。況んや北虜なお梗み、西戎未だ賓せず、両河の瘡磐未だ平らかならず、五嶺の妖氛未だ解けず。生人の疾苦尽く在り、朝廷の制度修まらず、辺儲屡く空しく、国用猶お屈す。固より未だ以て高枕無虞とすべからざるなり。

原文竊聞堯、舜受命,以天下為憂,不聞以位為樂。況北虜猶梗,西戎未賓,兩河之瘡磐未平,五嶺之妖氛未解。生人之疾苦盡在,朝廷之制度莫修,邊儲屢空,國用猶屈。固未可以高枕無虞也。

陛下初めて万宇に臨み、天下を憂うるの志あり。宜しく日々輔臣公卿百執事を延いて、旒を凝らして問い、膝を造して求め、四方内外をして観る所あらしむべし。聴政以来、六十日、八たび延英を開くも、独り三数の大臣のみ龍顏を仰ぎ、聖問を承く。その余の侍従詔誥の臣は、偕に入りて斉に出ず、何ぞ以て政事を聞くに足らんや!諫臣盈廷すれども、忠言未だ聖聴に聞こえず、臣実にこれを羞ず。蓋し主恩尚お疏く、衆正の路未だ啓けざるによる。

原文陛下初臨萬宇,有憂天下之志。宜日延輔臣公卿百執事,凝旒而問,造膝以求,使四方內外,有所觀焉。自聽政已來,六十日矣,八開延英,獨三數大臣仰龍顏,承聖問。其餘侍從詔誥之臣,偕入而齊出,何足以聞政事哉!諫臣盈廷,忠言未聞於聖聽,臣實羞之。蓋由主恩尚疏,而眾正之路未啟也。

夫れ公卿大臣は、宜しく朝夕接見して道を論じ、賜与従容ならしめば、則ち君臣の情相接し、理道備く聞こゆ。今、宰相以下四五人のみ、時に頃刻侍坐を得、天威遠からず、鞠躬隕越し、旨に随いて上下し、往来する能わず。これは君太だ尊く、臣太だ卑しきによる。公卿以下、清地を歴踐すれども、曾て天睠を祗奉して下問を承くることなく、正路を郁塞し、幸門に偷安す。況んや陛下の神聖五帝の如く、臣下清光を望むこと能わず。周遍顧問し、その気色を恵み、支體相輔わせ、君臣明らかに喻かるべし。陛下は公卿に理を求め、公卿は臣輩に理を求むれば、自然上下孜孜として相問い、忠を進むること利に趨くが若く、政を論ずること冤を訴うるが若くせん。此くの如くにして過失を聞かず、升平を致さざるは、未だこれ有らざるなり。

原文夫公卿大臣,宜朝夕接見論道,賜與從容,則君臣之情相接,而理道備聞矣。今自宰相已下四五人,時得頃刻侍坐,天威不遠,鞠躬隕越,隨旨上下,無能往來。此由君太尊、臣太卑故也。自公卿已下,雖歷踐清地,曾未祗奉天睠,以承下問,郁塞正路,偷安幸門。況陛下神聖如五帝,臣下莫能望清光。所宜周遍顧問,惠其氣色,使支體相輔,君臣喻明。陛下求理於公卿,公卿求理於臣輩,自然上下孜孜相問,使進忠若趨利,論政若訴冤。如此而不聞過失、不致升平者,未之有也。

古より帝王、危きに居りて安きを思う心は相異ならず、安きに居りて危きを慮うる心は相及ばず、故に皆聖帝明王と為すを得ず。

原文自古帝王,居危思安之心不相殊,而居安慮危之心不相及,故不得皆為聖帝明王。

小臣は疎遠にして卑賤、豈に此れに及ぶべけんや、ただ栄を冒し禄を偸みて、聖朝に負うを忍びざるのみ。惟うに陛下之を図らんことを。

原文小臣疏賤,豈宜及此,獨不忍冒榮偷祿,以負聖朝。惟陛下圖之。

帝は深く其の言を褒めたまう。尋いで西北辺に奉使せしめ、戍卒を犒賞し、侍御史に遷り、再び転じて礼部員外郎・史館修撰となる。長慶四年八月、吏部員外郎に改む。

原文帝深獎其言。尋令奉使西北邊,犒賞戍卒,遷侍御史,再轉禮部員外郎、史館修撰。長慶四年八月,改吏部員外郎。

李宗閔・牛僧孺の政を輔くるに及び、起用されて左司郎中となる。五年六月、諫議大夫に拝し、弘文館学士を充て、院事を判ず。六年、給事中に転ず。七年、宗閔相を罷め、李德裕政事を知るに及び、出でて常州刺史となる。

原文及李宗閔、牛僧孺輔政,起為左司郎中。五年六月,拜諫議大夫,充弘文館學士,判院事。六年,轉給事中。七年,宗閔罷相,李德裕知政事,出為常州刺史。

虞卿は性柔佞にして、権幸に阿附して奸利を為す能くす。毎歳銓曹貢部に於いて、挙選人の為に馳走し科第を取り、員闕を占め、其の欲する所を得ざる無し。昇沈取舍、其の唇吻より出づ。而して李宗閔は之を骨肉の如く待ち、朋比唱和する能きを以ての故に、時に党魁と号す。八年、宗閔復た相に入り、尋いで召されて工部侍郎となる。九年四月、京兆尹に拝す。其の年六月、京師に訛言す、鄭註上為に金丹を合わすに、小児の心肝を須い、密旨にて小児を捕うること算無しと。民間相告げ語り、小児を扃鎖すること甚だ密にして、街肆洶洶たり。上之を聞きて悦ばず、鄭註頗る自ら安からず。御史大夫李固言素より虞卿の朋党を嫉み、乃ち奏して曰く、「臣昨其の由を窮問す、此の語は京兆尹の従人より出で、此に因りて都下に扇がる」と。上怒り、即ち虞卿を収めて獄に下すを令す。虞卿の弟漢公並びに男知進等八人自ら系し、鼓を撾って冤を訴う。詔して虞卿を私第に帰らしむ。翌日、虔州司馬に貶し、再び虔州司戸に貶す。貶所に卒す。

原文虞卿性柔佞,能阿附權幸以為奸利。每歲銓曹貢部,為舉選人馳走取科第,占員闕,無不得其所欲;升沈取舍,出其脣吻。而李宗閔待之如骨肉,以能朋比唱和,故時號黨魁。八年,宗閔復入相,尋召為工部侍郎。九年四月,拜京兆尹。其年六月,京師訛言鄭註為上合金丹,須小兒心肝,密旨捕小兒無算。民間相告語,扃鎖小兒甚密,街肆洶洶。上聞之不悅,鄭註頗不自安。御史大夫李固言素嫉虞卿朋黨,乃奏曰:「臣昨窮問其由,此語出於京兆尹從人,因此扇於都下。」上怒,即令收虞卿下獄。虞卿弟漢公並男知進等八人自系,撾鼓訴冤,詔虞卿歸私第。翌日,貶虔州司馬,再貶虔州司戶,卒於貶所。

子知進・知退・堪、弟漢公、皆進士第に登る。知退は都官・戸部の二郎中を歴任し、堪は庫部・吏部の二員外郎となる。

原文子知進、知退、堪,弟漢公,皆登進士第。知退歷都官、戶部二郎中;堪庫部、吏部二員外郎。

虞卿の弟 漢公

原文虞卿弟 漢公

漢公は、太和八年進士第に擢でられ、又書判抜萃に及第し、褐を釈けて李絳の興元従事と為る。絳害に遇い、漢公遁れて免るるを得。累遷して戸部郎中・史館修撰となる。太和七年、司封郎中に遷る。

原文漢公,太和八年擢進士第,又書判拔萃,釋褐為李絳興元從事。絳遇害,漢公遁而獲免。累遷戶部郎中、史館修撰。太和七年,遷司封郎中。

漢公の子範・籌、皆進士第に登り、累ねて使府に辟せらる。

原文漢公子範、籌,皆登進士第,累辟使府。

虞卿の従兄 汝士

原文虞卿從兄 汝士

虞卿の従兄汝士。汝士は字を慕巢とす。元和四年進士擢第し、又博学宏詞科に登り、累ねて使府に辟せらる。長慶元年右補闕と為る。弟殷士の貢挙覆落に坐し、開江令に貶せらる。入りて戸部員外となり、再遷して職方郎中となる。太和三年七月、本官を以て制誥を知る。時に李宗閔・牛僧孺政を輔け、汝士を厚く待つ。尋いで正しく中書舍人に拝し、工部侍郎に改む。八年、出でて同州刺史となる。九年九月、入りて戸部侍郎となる。開成元年七月、兵部侍郎に転ず。其の年十二月、検校礼部尚書・梓州刺史・剣南東川節度使を拝す。時に宗人嗣復西川を鎮め、兄弟節制に対居し、時人之を栄しとす。四年九月、入りて吏部侍郎となり、位は尚書に至り卒す。

原文虞卿從兄汝士。汝士,字慕巢,元和四年進士擢第,又登博學宏詞科,累辟使府。長慶元年為右補闕。坐弟殷士貢舉覆落,貶開江令。入為戶部員外,再遷職方郎中。太和三年七月,以本官知制誥。時李宗閔、牛僧孺輔政,待汝士厚。尋正拜中書舍人,改工部侍郎。八年,出為同州刺史。九年九月,入為戶部侍郎。開成元年七月,轉兵部侍郎。其年十二月,檢校禮部尚書、梓州刺史、劍南東川節度使。時宗人嗣復鎮西川,兄弟對居節制,時人榮之。四年九月,入為吏部侍郎,位至尚書,卒。

子知温・知遠・知権、皆進士第に登る。

原文子知溫、知遠、知權,皆登進士第。

汝士の子 知温

原文汝士子 知溫

知温は累官して礼部郎中・知制誥に至り、入りて翰林学士・戸部侍郎となり、左丞に転ず。出でて河南尹・陝虢観察使となる。遷りて検校兵部尚書・襄州刺史・山南東道節度使となる。

原文知溫累官至禮部郎中、知制誥,入為翰林學士、戶部侍郎,轉左丞。出為河南尹、陜虢觀察使。遷檢校兵部尚書、襄州刺史、山南東道節度使。

知温の弟 知至

原文知溫弟 知至

知溫の弟知至は、累官して比部郎中・知制誥に至る。故府劉瞻の罷相に坐し、官を貶せられる。知至もまた瓊州司馬に貶せられる。入朝して諫議大夫となり、累遷して京兆尹・工部侍郎となる。知溫・知至は皆、列曹尚書の位に至る。

原文知溫弟知至,累官至比部郎中、知制誥。坐故府劉瞻罷相,貶官。知至亦貶瓊州司馬。入為諫議大夫,累遷京兆尹、工部侍郎。知溫、知至皆位至列曹尚書。

汝士の弟 魯士

原文汝士弟 魯士

汝士の弟魯士。魯士は、字を宗尹といい、本名は殷士である。長慶元年、進士に擢第し、その年詔して翰林に覆試せしむ。殷士は鄭朗らとともに覆落し、よって名を魯士と改む。再び制科に登り、位は達せずして卒す。

原文汝士弟魯士。魯士,字宗尹,本名殷士。長慶元年,進士擢第,其年詔翰林覆試。殷士與鄭朗等覆落,因改名魯士。復登制科,位不達而卒。

初め汝士が第に中り、時に名あり、遂に清貫を歴る。その年、諸子皆正卿に至り、郁として昌族となる。居所は静恭里、知溫兄弟、並びに門戟を列ねる。咸通の中、昆仲子孫、朝行方鎮にある者十余人。

原文初汝士中第,有時名,遂歷清貫。其年諸子皆至正卿,郁為昌族。所居靜恭里,知溫兄弟,並列門戟。咸通中,昆仲子孫,在朝行方鎮者十餘人。

馬植

原文馬植

馬植は、扶風の人。父は曛。植は、元和十四年進士に擢第し、また制策科に登り、褐を脱ぎて寿州団練副使となる。秘書省校書郎を得、三遷して饒州刺史となる。開成初め、安南都護・御史中丞・安南招討使に遷る。

原文馬植,扶風人。父曛。植,元和十四年進士擢第,又登制策科,釋褐壽州團練副使。得秘書省校書郎,三遷饒州刺史。開成初,遷安南都護、御史中丞、安南招討使。

植は文雅の余り、吏術に長ず。三年、奏す:「管当の羈縻州首領は、或いは居を巣穴に固め、或いは南蛮に誘われ、諭すべからず、事に虞るべきあり。臣、鎮に到るより、これに信誠を約し、逆順を暁す。今諸首領、総べて忠言を発し、賦税を納れんことを願う。その武陸県は請う、州に升し、首領を以て刺史と為さんことを。」これに従う。また奏す、陸州界の廃珠池、復た珠を生ず。能政を以て、就きて検校左散騎常侍を加え、中散大夫を加え、黔中観察使に転ず。会昌の中、入朝して大理卿となる。

原文植文雅之餘,長於吏術。三年,奏:「當管羈縻州首領,或居巢穴自固,或為南蠻所誘,不可招諭,事有可虞。臣自到鎮,約之以信誠,曉之以逆順。今諸首領,總發忠言,願納賦稅。其武陸縣請升為州,以首領為刺史。」從之。又奏陸州界廢珠池復生珠。以能政,就加檢校左散騎常侍,加中散大夫,轉黔中觀察使。會昌中,入為大理卿。

植は文学政事を以て時に知らる。久しく辺遠に在り、及び朝に還り、顕官を得ず、必ず微かに望みあり、李徳裕は素よりこれを重んぜず。宣宗即位し、宰相白敏中は徳裕と隙あり、凡そ徳裕の薄くする者は、必ず次を俟たず抜擢す。乃ち植に金紫光禄大夫を加え、刑部侍郎を行い、諸道塩鉄転運使を充てる。戸部侍郎に転じ、使を領することもと如し。俄かに本官を以て同平章事と為り、中書侍郎に遷り、礼部尚書を兼ぬ。敏中罷相し、植もまた罷められて太子賓客と為り、東都に分司す。数年、出でて許州刺史・検校刑部尚書・忠武軍節度観察等使と為る。大中末、汴州刺史・宣武軍節度観察等使に遷る。鎮に卒す。

原文植以文學政事為時所知。久在邊遠,及還朝,不獲顯官,必微有望,李德裕素不重之。宣宗即位,宰相白敏中與德裕有隙,凡德裕所薄者,必不次拔擢之。乃加植金紫光祿大夫,行刑部侍郎,充諸道鹽鐵轉運使。轉戶部侍郎,領使如故。俄以本官同平章事,遷中書侍郎,兼禮部尚書。敏中罷相,植亦罷為太子賓客,分司東都。數年,出為許州刺史、檢校刑部尚書、忠武軍節度觀察等使。大中末,遷汴州刺史、宣武軍節度觀察等使。卒於鎮。

李讓夷

原文李讓夷

李讓夷は、字を達心といい、隴西の人。祖は悅、父は応規。讓夷は、元和十四年進士第に擢り、褐を脱ぎて諸侯府に仕う。太和初め入朝し、右拾遺と為り、召されて翰林学士を充て、左補闕に転ず。三年、職方員外郎・左司郎中に遷り、職を充てる。九年、諫議大夫を拝す。

原文李讓夷,字達心,隴西人。祖悅,父應規。讓夷,元和十四年擢進士第,釋褐諸侯府。太和初入朝,為右拾遺,召充翰林學士,轉左補闕。三年,遷職方員外郎、左司郎中,充職。九年,拜諫議大夫。

及び徳裕政を秉るや、驟に抜擢を加え、工・戸二侍郎を歴り、左丞に転ず。累遷して検校尚書右僕射となり、俄かに中書侍郎を拝し、同平章事と為る。宣宗即位し罷相し、太子賓客を以て分司し卒す。

原文及德裕秉政,驟加拔擢,歷工、戶二侍郎,轉左丞。累遷檢校尚書右僕射,俄拜中書侍郎,同平章事。宣宗即位罷相,以太子賓客分司卒。

魏謩

原文魏謩

魏謩は、字を申之といい、鉅鹿の人。五代祖は文貞公徴、貞観朝の名相。曾祖は殷、汝陽令。祖は明、亦た県令と為る。父は馮、献陵臺令。謩は、太和七年進士第に登る。楊汝士同州を牧し、辟いて防禦判官と為し、秘書省校書郎を得る。汝士入朝し、薦めて右拾遺と為す。文宗は謩を魏徴の裔とし、頗る奇としてこれを待つ。

原文魏謩,字申之,鉅鹿人。五代祖文貞公徵,貞觀朝名相。曾祖殷,汝陽令。祖明,亦為縣令。父馮,獻陵臺令。謩,太和七年登進士第。楊汝士牧同州,辟為防禦判官,得秘書省校書郎。汝士入朝,薦為右拾遺。文宗以謩魏徵之裔,頗奇待之。

前邕管経略使董昌齢は枉くして録事参軍衡方厚を殺し、坐して漵州司戸に貶せらる。是に至り量移して硤州刺史と為る。謩上疏してこれを論じて曰く:「王者は渙汗の恩を施して罪あるを赦すも、唯だ故意に人を殺す者は赦さず。昌齢は比者微効を録してこれに方隅を授く。能く寵光を祗慎せず、その狂暴を恣にし、辜なきを専ら殺し、事跡顕彰す。妻孥冤を銜み、万里訴えを披く。及び按鞫して罪に伏し、微生を以てこれを貸す。中外の議論、法を屈すと為す。今若しこれに牧守を授け、以て疲人を理めば、則ち人を殺す者は抜擢され、而して冤苦する者は何をか伸べん。憲章を交紊し、至理に乗ることあり。」疏奏す。乃ち改めて洪州別駕と為す。

原文前邕管經略使董昌齡枉殺錄事參軍衡方厚,坐貶漵州司戶。至是量移硤州刺史,謩上疏論之曰:「王者施渙汗之恩以赦有罪,唯故意殺人無赦。昌齡比者錄以微效,授之方隅,不能祗慎寵光,恣其狂暴,無辜專殺,事跡顯彰。妻孥銜冤,萬里披訴。及按鞫伏罪,貸以微生,中外議論,以為屈法。今若授之牧守,以理疲人,則殺人者拔擢,而冤苦者何伸?交紊憲章,有乘至理。」疏奏,乃改為洪州別駕。

御史中丞李孝本は、皇族なり。李訓の誅に坐し、女有りて掖廷に没入せらる。謩諫めて曰く:

原文御史中丞李孝本,皇族也,坐李訓誅,有女沒人掖廷。謩諫曰:

臣は聞く、国家を治むる者は、先ず徳義に資く。徳義修まらざれば、家邦必ず壊つ。故に王者は徳を以て人を服し、義を以て人を使う。服し使うの術は、要は修身に在り。修身の道は、孜孜たるに在り。夫れ一を失いて百を虧くの戒めは、久要の源に存す。前志に曰く、「小悪を以て之を為すこと勿れ、小善を以て為さざること勿れ」と。斯れ漸を懼るるなり。臣又聞く、君は日の如し。顕晦の微は、人皆瞻仰す。照臨の大は、何を以てか掩藏せん。前代は敢諫の鼓を設け、誹謗の木を立て、其の過を聞くを貴びたり。陛下即位以来、文徳を誕敷し、声色を悦ばず、後宮の怨婦を出だし、在外の鰥夫に配す。今に至る十年、未だ嘗て采擇せず。数月以来、天睠稍く回り、妓楽に留神し、教坊百人・二百人、選試未だ已まず。庄宅司収市、亹癖聞こゆ。昨又李孝本の女を宣取して内に入る。宗姓異ならず、寵幸何の名ぞ。此の事深く慎修を累し、一簣を虧く有り。陛下九重の内、聞知を得ず。凡そ此の流、大いに物議を生じ、実に理道の本を傷つけ、塵穢の嫌を免れず。夫れ人に知られざらんと欲せば、為さざるに若くは莫し。諺に曰く、「寒を止むるは重裘に若くは莫く、謗を止むるは自修に若くは莫し」と。伏して希くは陛下照鑒して惑わず、千載の盛徳を崇め、一旦の玩好を去らんことを。教坊停息し、宗女遣還せば、則ち大いに人倫の風を正し、深く王者の体を弘めん。

原文臣聞治國家者,先資於德義;德義不修,家邦必壞。故王者以德服人,以義使人。服使之術,要在修身;修身之道,在於孜孜。夫一失百虧之戒,存乎久要之源。前志曰:「勿以小惡而為之,勿以小善而不為。」斯則懼於漸也!臣又聞,君如日焉,顯晦之微,人皆瞻仰;照臨之大,何以掩藏?前代設敢諫之鼓,立誹謗之木,貴聞其過也。陛下即位以來,誕敷文德,不悅聲色,出後宮之怨婦,配在外之鰥夫。洎今十年,未嘗采擇。自數月已來,天睠稍回,留神妓樂,教坊百人、二百人,選試未已;莊宅司收市,亹癖有聞。昨又宣取李孝本之女入內。宗姓不異,寵幸何名?此事深累慎修,有虧一簣。陛下九重之內,不得聞知。凡此之流,大生物議,實傷理道之本,未免塵穢之嫌。夫欲人不知,莫若勿為。諺曰:「止寒莫若重裘,止謗莫若自修。」伏希陛下照鑒不惑;崇千載之盛德,去一旦之玩好。教坊停息,宗女遣還,則大正人倫之風,深弘王者之體。

疏奏す。帝即日孝本の女を出だし、謩を右補闕に遷す。詔して曰く、「昔乃が先祖貞観中諫書十上し、事を指して直言し、避諱する所無し。国史を覧む毎に、未だ嘗て沈吟して巻を伸べず、嘉尚すること久し。爾拾遺たり、其の風墜ちず、屡へ章疏を献じ、必ず其の所以を道う。諸王に備へ灑掃するに至りては、自ら其の声妓を広むるに非ず。髫齔の宗女を恤ふは、固より徴取を嫌ふに非ず。然りと雖も、疑似の間は、家に至り戸に曉すべからず。爾能く詞旨深切、是れ我が意を博くすること多し。噫、人能く躬を匪にして謇諤、其の先祖に似たり。吾豈に懐を虚しくして延納し、仰いで貞観の理を希はざらんや。而して謩官に居る日浅く、未だ当に敘進すべからず。吾豈に常典を以て限り、直臣を待たんや。右補闕とすべし」と。帝宰臣に謂ひて曰く、「昔太宗皇帝魏徴を得て、闕失を裨補し、聖政を弼成す。我魏謩を得て、疑似の間に於て、必ず能く極諫す。敢へて貞観の政を希はず、庶幾くは過無き地に処らん」と。

原文疏奏,帝即日出孝本女,遷謩右補闕。詔曰:「昔乃先祖貞觀中諫書十上,指事直言,無所避諱。每覽國史,未嘗不沈吟伸卷,嘉尚久之。爾為拾遺,其風不墜,屢獻章疏,必道其所以。至於備灑掃於諸王,非自廣其聲妓也;恤髫齔之宗女,固無嫌於徵取也。雖然,疑似之間,不可家至而戶曉。爾能詞旨深切,是博我之意多也。噫!人能匪躬謇諤,似其先祖;吾豈不能虛懷延納,仰希貞觀之理歟?而謩居官日淺,未當敘進,吾豈限以常典,以待直臣!可右補闕。」帝謂宰臣曰:「昔太宗皇帝得魏徵,裨補闕失,弼成聖政。我得魏謩,於疑似之間,必能極諫。不敢希貞觀之政,庶幾處無過之地矣。」

教坊副使雲朝霞笛を善く吹き、新声変律、深く上旨に愜ふ。左驍ぎょう衛將軍より宣授して兼ねて揚府司馬とす。宰臣奏して曰く、「揚府司馬品高く、郎官刺史叠処す、伶官に授くべからず」と。上之を授けんと欲する意有り、宰臣の対に因り、亟に朝霞の善を称す。謩之を聞き、累疏して陳論す。乃ち改めて潤州司馬に授く。荊南監軍使呂令琮の従人、擅に江陵県に入り、県令韓忠を毀罵す。觀察使韋長状を申して樞密使に之を訴ふ。謩上疏して曰く、「伏して以ふ、州県侵屈は、只合上聞すべし。中外関連は、須く旧制を存すべし。韋長廉使に任じ膺け、体精詳に合す。公事都て奏聞せず、私情擅に逾越を為す。況んや事巨細無く、将迎すべからず。県令官業乖有れば、便宜理罪すべし。監軍職司侵越すれば、即ち合天に聞くべし。或は以て聖聴を煩はすを慮るは、何ぞ但だ門下に申さざる。今則ち首めて常典を紊し、理合糾繩すべし。伏して望む、聖慈速かに懲戒を加へんことを」と。疏奏して出でず、時論之を惜しむ。

原文教坊副使雲朝霞善吹笛,新聲變律,深愜上旨。自左驍衛將軍宣授兼揚府司馬。宰臣奏曰:「揚府司馬品高,郎官刺史叠處,不可授伶官。」上意欲授之,因宰臣對,亟稱朝霞之善。謩聞之,累疏陳論,乃改授潤州司馬。荊南監軍使呂令琮從人,擅入江陵縣,毀罵縣令韓忠,觀察使韋長申狀與樞密使訴之。謩上疏曰:「伏以州縣侵屈,只合上聞。中外關連,須存舊制。韋長任膺廉使,體合精詳,公事都不奏聞,私情擅為逾越。況事無巨細,不可將迎。縣令官業有乖,便宜理罪;監軍職司侵越,即合聞天。或以慮煩聖聽,何不但申門下?今則首紊常典,理合糾繩。伏望聖慈,速加懲戒!」疏奏不出,時論惜之。

三年、起居舍人に転ず。紫宸に中謝し、帝之に謂ひて曰く、「卿の論事忠切なるを以て、文貞の風有り。故に月限に循はず、卿に此の官を授く」と。又之に謂ひて曰く、「卿が家に何の旧書詔有りや」と。対へて曰く、「比多く失墜す。惟だ簪笏見存す」と。上進來を令す。鄭覃曰く、「人に在りて笏に在らず」と。上曰く、「鄭覃我が意を会せず。此れ即ち《甘棠》の義、笏に在るのみに非ず」と。謩将に退かんとす。又召して之を誡めて曰く、「事不當有れば、即ち須らく奏論すべし」と。謩曰く、「臣頃に諫官たり、合は規諷を伸ぶべし。今史職に居り、職は言を記すに在り。臣敢へて輒に職分を逾えず」と。帝曰く、「凡そ両省官並びに論事に合す。此言に拘る勿れ」と。尋いで本官を以て弘文館に直す。

原文三年,轉起居舍人。紫宸中謝,帝謂之曰:「以卿論事忠切,有文貞之風,故不循月限,授卿此官。」又謂之曰:「卿家有何舊書詔?」對曰:「比多失墜,惟簪笏見存。」上令進來。鄭覃曰:「在人不在笏。」上曰:「鄭覃不會我意,此即《甘棠》之義,非在笏而已。」謩將退,又召誡之曰:「事有不當,即須奏論。」謩曰:「臣頃為諫官,合伸規諷。今居史職,職在記言,臣不敢輒逾職分。」帝曰:「凡兩省官並合論事,勿拘此言。」尋以本官直弘文館。

四年、諫議大夫を拝し、仍ひ起居舍人を兼ね、弘文館事を判ず。紫宸入閣し、中使を遣はし謩の起居註を取り、之を視んと欲す。謩執奏して曰く、「古より史官を置き、事を書して以て鑒誡を明にす。陛下但だ善事を為し、臣の書かざるを畏るる勿れ。如し陛下の行ふ所錯忤有らば、臣縦ひ書かずとも、天下の人之を書かん。臣陛下を文皇帝と為し、陛下臣を褚遂良に比す」と。帝又曰く、「我嘗て取りて之を観たり」と。謩曰く、「史官職分を守らざるに由る。臣豈に敢へて陛下を陷れて非法たらしめんや。陛下一覧の後、此より事を書くに須らく回避有らん。此くの如くすれば、善悪直からず、史に非ず。後代に遺す、何を以てか信を取らん」と。乃ち止む。

原文四年,拜諫議大夫,仍兼起居舍人,判弘文館事。紫宸入閣,遣中使取謩起居註,欲視之。謩執奏曰:「自古置史官,書事以明鑒誡。陛下但為善事,勿畏臣不書。如陛下所行錯忤,臣縱不書,天下之人書之。臣以陛下為文皇帝,陛下比臣如褚遂良。」帝又曰:「我嘗取觀之。」謩曰:「由史官不守職分,臣豈敢陷陛下為非法?陛下一覽之後,自此書事須有回避。如此,善惡不直,非史也。遺後代,何以取信?」乃止。

初め朝に立ち、李固言・李玨・楊嗣復に引かれ、数年之内に、諫議大夫に至る。武宗即位し、李德裕用事す。謩楊・李の党に坐し、出でて汾州刺史と為る。楊・李官を貶せられ、謩も亦た信州長史に貶せらる。宣宗即位し、白敏中国に当り、量移して郢州刺史と為り、尋いで商州に換ふ。二年、内に徴せられ給事中と為り、御史中丞に遷る。謝日の面に金紫の服を賜ふ。駙馬都尉杜中立の贓罪を弾し、貴戚之を憚る。戸部侍郎を兼ね、本司事を判ず。謩奏して曰く、「御史臺は紀綱の地、宜しく泉貨の吏と雑処すべからず。乞ふらくは中司を罷め、専ら戸部公事を綜せん」と。之に従ふ。

原文初立朝,為李固言、李玨、楊嗣復所引,數年之內,至諫議大夫。武宗即位,李德裕用事,謩坐楊、李之黨,出為汾州刺史。楊、李貶官,謩亦貶信州長史。宣宗即位,白敏中當國,量移郢州刺史,尋換商州。二年,內徵為給事中,遷御史中丞。謝日,面賜金紫之服。彈駙馬都尉杜中立贓罪,貴戚憚之。兼戶部侍郎,判本司事。謩奏曰:「御史臺紀綱之地,不宜與泉貨吏雜處,乞罷中司,專綜戶部公事。」從之。

尋いで本官を以て同平章事と為り、判使旧の如し。謝日、奏して曰く、「臣に夔・契の才無く、驟ち夔・契の任を叨む。将た何を以てか鴻私を仰報せん。今辺戍粗安んじ、海内寧息す。臣愚の切にすることは、陛下未だ東宮を立てず、正人をして傳導せしめ、以て副貳の重を存せんとす」と。因りて泣下す。上感して之を聴く。

原文尋以本官同平章事,判使如故。謝日,奏曰:「臣無夔、契之才,驟叨夔、契之任,將何以仰報鴻私?今邊戍粗安,海內寧息,臣愚所切者,陛下未立東宮,俾正人傳導,以存副貳之重。」因泣下。上感而聽之。

先づ是れ、累朝人君人をして立儲貳を言はしむるを欲せず。人主の己が欲するに非ざれば、臣下敢へて言を献ぜず。宣宗春秋高く、嫡嗣未だ辨ぜず。謩相と為るの日、率先して啓奏す。人士之を重んず。尋いで集賢大学士を兼ぬ。詹毗国象を献ず。謩其の性中土に安からずと以て、請ふらくは其の使を還さんと。之に従ふ。太原節度使李業降虜を殺し、北辺大いに擾ふ。業恃む所有り、人敢へて非とせず。謩即ち其の事を奏す。乃ち業を滑州に移す。中書侍郎を加ふ。大理卿馬曙の従人王慶、曙の家に兵甲を蔵するを告ぐ。曙坐して官を貶せられ、而して慶は罪無し。謩法律を引いて之を論じ、竟に慶を杖殺す。

原文先是,累朝人君不欲人言立儲貳,若非人主己欲,臣下不敢獻言。宣宗春秋高,嫡嗣未辨,謩作相之日,率先啟奏,人士重之。尋兼集賢大學士。詹毗國獻象,謩以其性不安中土,請還其使,從之。太原節度使李業殺降虜,北邊大擾。業有所恃,人不敢非。謩即奏其事,乃移業滑州。加中書侍郎。大理卿馬曙從人王慶告曙家藏兵甲。曙坐貶官,而慶無罪。謩引法律論之,竟杖殺慶。

銀青光禄大夫に進階し、礼部尚書を兼ね、国史の監修を務めた。『文宗実録』四十巻を修成し、これを献上した。その修史官である給事中盧耽、太常少卿蔣偕、司勲員外郎王諷、右補闕盧告、膳部員外郎牛叢には、皆錦彩や銀器を賜り、官職を昇進させた。魏謩は門下侍郎に転じ、戸部尚書を兼ねた。大中十年、本官のまま平章事、成都尹、剣南西川節度副大使知節度事となった。十一年、病気を理由に代わりを求め、吏部尚書として召し出された。病気が癒えず、散官の官職を授かることを乞い、検校右僕射に改め、太子少保を守った。十二年十二月に卒去した。時に六十六歳。司徒しとを追贈された。

原文進階銀青光祿大夫,兼禮部尚書、監修國史。修成《文宗實錄》四十卷,上之。其修史官給事中盧耽、太常少卿蔣偕、司勛員外郎王諷、右補闕盧告、膳部員外郎牛叢,皆頒賜錦彩、銀器,序遷職秩。謩轉門下侍郎,兼戶部尚書。大中十年,以本官平章事、成都尹、劍南西川節度副大使知節度事。十一年,以疾求代,徵拜吏部尚書。以疾未痊,乞授散秩,改檢校右僕射,守太子少保。十二年十二月卒,時年六十六,贈司徒。

魏謩は容姿が魁偉で、言論は切直であり、同列の者と共に上前で事を言上する際、他の宰相は必ず婉曲に諫め諷したが、魏謩のみは直言して畏れ避けるところがなかった。宣宗は常に「魏謩は大いに祖父(魏徴)の風があり、名公の子孫である。我は彼を重んじる」と言った。しかし、ついに言葉が余りに剛直であったため、令狐綯に忌まれ、罷免された。

原文謩儀容魁偉,言論切直,與同列上前言事,他宰相必委曲規諷,唯謩讜言無所畏避。宣宗每曰:「魏謩綽有祖風,名公子孫,我心重之。」然竟以語辭太剛,為令狐綯所忌,罷之。

魏謩はかつて諸子の書から要言を抄録し、類によって相従わせ、二十巻とし、『魏氏手略』と号した。文集十巻がある。

原文謩嘗鈔撮子書要言,以類相從,二十卷,號曰《魏氏手略》。有文集十卷。

子に潜、滂がいた。潜は進士に及第した。潜の子の敖は、韋琮の甥である。後に韋琮が宰相となると、潜は顕官を歴任した。

原文子潛、滂。潛登進士第。潛子敖,韋琮甥。後琮為相,潛歷顯官。

周墀

原文周墀

周墀は、字を徳升といい、汝南の人である。祖父は颋、父は霈。周墀は長慶二年に進士に及第し、太和の末年に累進して起居郎となった。周墀は古文を作ることができ、史才があった。文宗は彼を重んじ、集賢学士を補し、考功員外郎に転じ、なお起居舎人の職事を兼ねた。開成二年冬、本官のまま知制誥となり、まもなく翰林学士に充てられた。三年、職方郎中に遷った。四年十月、正しく中書舎人を拝し、内職は元の通りであった。武宗が即位すると、華州刺史、鎮国軍潼関防禦等使として出向し、鄂州刺史、御史中丞、鄂岳観察使に改められた。会昌六年十一月、洪州刺史、江南西道観察使に遷った。大中初年、検校礼部尚書、滑州刺史、義成軍節度、鄭滑観察等使、上柱国、汝南男に任じられ、食邑三百戸を与えられた。朝廷に入り兵部侍郎、度支を判った。まもなく本官のまま同平章事となり、累進して銀青光禄大夫、中書侍郎、国史監修を兼ね、刑部尚書を兼ねた。宰相を罷め、検校刑部尚書、梓州刺史、御史大夫、剣南東川節度使となった。赴任せず、詔を追って検校右僕射に改め、食邑五百戸を加えられた。方鎮を歴任して卒去した。

原文周墀,字德升,汝南人。祖颋,父霈。墀,長慶二年擢進士第,太和末,累遷至起居郎。墀能為古文,有史才。文宗重之,補集賢學士,轉考功員外郎,仍兼起居舍人事。開成二年冬,以本官知制誥,尋召充翰林學士。三年,遷職方郎中。四年十月,正拜中書舍人,內職如故。武宗即位,出為華州刺史、鎮國軍潼關防禦等使,改鄂州刺史、御史中丞、鄂嶽觀察使。會昌六年十一月,遷洪州刺史、江南西道觀察使。大中初,檢校禮部尚書、滑州刺史、義成軍節度、鄭滑觀察等使、上柱國、汝南男,食邑三百戶。入朝為兵部侍郎、判度支。尋以本官同平章事,累遷銀青光祿大夫、中書侍郎、監修國史,兼刑部尚書。罷相,檢校刑部尚書、梓州刺史、御史大夫、劍南東川節度使。未行,追制改檢校右僕射,加食邑五百戶。歷方鎮卒。

崔龜從

原文崔龜從

崔龜從は、字を玄告といい、清河の人である。祖父は璜、父は誠、官は微であった。龜從は、元和十二年に進士に及第し、また賢良方正制科に登第し、及び書判抜萃の二科に及第し、初めて官に就き右拾遺を拝した。太和二年、太常博士に改められた。

原文崔龜從,字玄告,清河人。祖璜,父誠,官微。龜從,元和十二年擢進士第,又登賢良方正制科,及書判拔萃二科,釋褐拜右拾遺。太和二年,改太常博士。

崔龜從は礼学に長け、歴代の沿革に精通し、問うて通じないことがなかった。時に敬宗の廟室で宗廟を饗する際、祝板に皇帝孝弟と称していた。龜從が議して言うには、「臣が詳しく孝の字を検討し、礼文を考証すると、その義は本来子孫に主とし、理として兄弟に施すことは難しい。『礼記』の卜虞の文を按ずるに、子孫は哀と曰い、兄弟は某と曰う。されば虞に哀と称するは、祭に孝と称するに、その義は一つである。祖禰に対しては理として孝と称すべきであり、伯仲に対してはただ名を称するのみとすべきである。また東晉の温嶠が宗廟の祝辞を議し、孝の字については子でない者は称せず、傍系の親族には直言して敢えて告ぐとしている。当時の朝議は、皆これが宜しいとした。今、臣が上は礼経を考証しても、兄弟が孝と称する義はなく、下は晋史を徴しても、傍親を称さない文がある。臣は敬宗の廟を饗するには、孝弟の両字を去るべきであると謂う」と。

原文龜從長於禮學,精歷代沿革,問無不通。時饗宗廟於敬宗室,祝板稱皇帝孝弟。龜從議曰:「臣審祥孝字,載考禮文,義本主於子孫,理難施於兄弟。按《禮記》卜虞之文,子孫曰哀,兄弟曰某。然則虞之稱哀,與祭之稱孝,其義一也。於祖禰則理宜稱孝,於伯仲則止可稱名。又東晉溫嶠議宗廟祝辭,於孝字非子者則不稱,傍親直言敢告。當時朝議,咸以為宜。今臣上考禮經,無兄弟稱孝之義;下徵晉史,有不稱傍親之文。臣謂饗敬宗廟,宜去孝弟兩字。」

また、九宮壇を祀ることは、旧来は大祠であった。龜從が議して言うには、「九宮貴神は、経典に記載されていない。天宝年中、術士が奏請し、そこで祠壇を立てた。事は一時に出たもので、礼は郊祀と同じである。臣がその図法を詳しく見ると、皆星名を主とし、仮に水旱兵荒を司どるとしても、その品秩は列宿を超えない。今、五星は悉く従祀であり、日月はなお中祠にある。どうして九宮のみが常礼を越え、王事に備え列し、百官に誡誓することがあろうか。尊卑の儀に乖くこと、これに甚だしいものはない。もし嘗て祀典に在ったことを以て、廃除できないとするならば、臣は中祠に降格することを請う」と。詔はこれに従った。

原文又以祀九宮壇,舊是大祠。龜從議曰:「九宮貴神,經典不載。天寶中,術士奏請,遂立祠壇。事出一時,禮同郊祀。臣詳其圖法,皆主星名,縱司水旱兵荒,品秩不過列宿。今者,五星悉是從祀,日月猶在中祠,豈容九宮獨越常禮,備列王事,誡誓百官?尊卑乖儀,莫甚於此。若以嘗在祀典,不可廢除,臣請降為中祠。」制從之。

崔龜從はまた、大臣が薨去した際、訃報を聞いた日に朝を廃しないことについて、奏議して言うには、「伏して思うに、朝を廃して哀悼することは、君臣の義を重んじるものであり、哀しみに及ぶことを貴び、特に信を示すべきである。頃年以来、朝を廃するのは奏報の時ではなく、数日外に備礼している。常制に遵うとはいえ、本情に依らないようである。臣は敢えて古書を遠く徴することはせず、国朝の故事を引いて請う。貞観中、任瑰が卒した時、有司が対仗して闕を奏上して聞かせたところ、太宗はその礼に乖くことを責めた。岑文本が既に歿したその晩、警厳を廃した。張公謹が亡くなった時、辰日を避けずに哭した。これにより哀悼の意は、時を過ごすべきでないことが知られる。臣は謂う、大臣が薨じたなら、礼として朝を廃すべきである。仮に機務が急速であっても、便殿で宰臣を召す必要があるならば、正朝に臨まなければ、事体を損なうことはない。このようにすれば、衷より出る信は、幽明に感ぜられ、情に称する文は、典礼に虧くことがない」と。また奏上して言うには、「文武三品官が薨卒した際に朝を廃する。かつて親重にされた官ではなく、今の任がまた散列である者に対して、礼を変えることは、誠に宜しからぬと恐れる。今後より、文武三品以上の官で、かつて将相を任じた者、及びかつて密近に在った者、恩礼を加えるべき者以外は、残りは朝を廃する限りに在らざることを請う」と。詔はこれに従った。

原文龜從又以大臣薨謝,不於聞哀日輟朝,奏議曰:「伏以廢朝軫悼,義重君臣,所貴及哀,尤宜示信。自頃已來,輟朝非奏報之時,備禮於數日外。雖遵常制,似不本情。臣不敢遠徵古書,請引國朝故事:貞觀中任瑰卒,有司對仗奏闕聞,太宗責其乖禮;岑文本既歿,其夕為罷警嚴;張公謹之亡,哭之不避辰日。是知閔悼之意,不宜過時。臣謂大臣薨,禮合輟朝。縱有機務急速,便殿須召宰臣,不臨正朝,無爽事體。如此,則由衷之信,載感於幽明;稱情之文,無虧於典禮。」又奏:「文武三品官薨卒輟朝。有未經親重之官,今任又是散列者,為之變禮,誠恐非宜。自今後,文武三品以上官,非曾任將相,及曾在密近,宜加恩禮者,餘請不在輟朝之限。」從之。

累進して考功郎中、史館修撰となった。九年、司勲郎中、知制誥に転じた。十二月、正しく中書舎人を拝した。開成初年、華州刺史として出向した。三年三月、朝廷に入り戸部侍郎となり、本司の事を判った。四年、吏部尚書銓事を権判した。大中四年、中書侍郎、同平章事となり、吏部尚書を兼ねた。五年七月、『続唐歴』三十巻を撰成し、これを献上した。六年、宰相を罷め、検校吏部尚書、汴州刺史、宣武軍節度観察等使となり、方鎮を歴任して卒去した。

原文累轉考功郎中、史館修撰。九年,轉司勛郎中、知制誥。十二月,正拜中書舍人。開成初,出為華州刺史。三年三月,人為戶部侍郎,判本司事。四年,權判吏部尚書銓事。大中四年,為中書侍郎、同平章事,兼吏部尚書。五年七月,撰成《續唐歷》三十卷,上之。六年,罷相,檢校吏部尚書,汴州刺史、宣武軍節度觀察等使,累歷方鎮卒。

鄭肅

原文鄭肅

鄭肅は、滎陽けいようの人である。祖父は烈、父は閲、代々儒家であった。鄭肅は苦心して力学した。元和三年、進士に及第し、また書判抜萃に及第し、使府の佐官を歴任した。太和初年、朝廷に入り尚書郎となった。六年、太常少卿に転じた。鄭肅は古文を作ることができ、経学に長け、左丘明、『三礼』、儀注の疑義については、博士以下は必ず鄭肅に決断を求めた。

原文鄭肅,滎陽人。祖烈,父閱,世儒家。肅苦心力學。元和三年,擢進士第,又以書判拔萃,歷佐使府。太和初,入朝為尚書郎。六年,轉太常少卿。肅能為古文,長於經學,左丘明、《三禮》、儀註疑議,博士以下必就肅決之。

時に魯王李永は寵愛を受け、文宗は名儒を選んでその王府の属官とし、戸部侍郎庾敬休を兼ねて王傅とし、戸部郎中李踐方を兼ねて司馬とし、蕭肅を本官のまま兼ねて長史とし、これによって名を知られた。翌年、魯王が太子となると、蕭肅は給事中を加えられた。九年、刑部侍郎に改め、まもなく尚書右丞に改め、権判吏部西銓事を務めた。開成初年、出て陝虢都防禦觀察使・兼御史大夫となった。二年九月、召されて吏部侍郎に任じられた。帝は蕭肅がかつて太子に仕え、言論が典拠に適い正しいことを思い、再び兼ねて太子賓客とし、東宮で経書を授けさせた。やがて太子は寵を失い、上は喜ばず、廃して斥けようとする意向があった。蕭肅は召見に因り、深く邦国の大本、君臣父子の義を陳べた。上は顔色を改めてこれを嘉した。しかし太子はついに楊妃の故に罪を得た。そこで蕭肅を検校礼部尚書とし、兼ねて河中尹・河中節度・晉絳觀察等使とした。会昌初年、武宗は太子李永の無罪を思い、李永を陥れた党類をことごとく誅した。朝議は蕭肅が忠正で、大臣の節操があると称えた。召されて太常卿に任じられ、累遷して戸部・兵部尚書となった。

原文時魯王永有寵,文宗擇名儒為其府屬,用戶部侍郎庾敬休兼王傅,戶部郎中李踐方兼司馬,以肅本官兼長史,由是知名。明年,魯王為太子,肅加給事中。九年,改刑部侍郎,尋改尚書右丞,權判吏部西銓事。開成初,出為陜虢都防禦觀察使、兼御史大夫。二年九月,召拜吏部侍郎。帝以肅嘗侍太子,言論典正,復令兼太子賓客,為東宮授經。既而太子失寵,上不悅,有廢斥意。肅因召見,深陳邦國大本、君臣父子之義。上改容嘉之。而太子竟以楊妃故得罪。乃以肅檢校禮部尚書,兼河中尹、河中節度、晉絳觀察等使。會昌初,武宗思太子永之無罪,盡誅陷永之黨。朝議稱肅忠正,有大臣之節。召拜太常卿,累遷戶部、兵部尚書。

五年、本官のまま同平章事とし、中書・門下二侍郎を加えられ、監修国史を兼ね、兼ねて尚書右僕射となった。平素より李徳裕と親密であった。宣宗が即位すると、李徳裕は政事を罷められ、蕭肅もまた相を罷められ、再び河中節度使となった。病気を理由に辞し、太子太保に任じられ、卒した。

原文五年,以本官同平章事,加中書、門下二侍郎,監修國史,兼尚書右僕射。素與李德裕親厚。宣宗即位,德裕罷知政事,肅亦罷相,復為河中節度使。以疾辭,拜太子太保,卒。

子に洎あり。

原文子 洎

子の洎は、咸通年間に累官して尚書郎となり、出て刺史となった。洎の子仁規・仁表は、ともに俊才があり、文筆は高雅で抜きん出ていた。

原文子洎,咸通中累官尚書郎,出為刺史。洎子仁規、仁表,俱有俊才,文翰高逸。

孫の仁規。

原文孫 仁規

仁規は累遷して拾遺・補闕・尚書郎・湖州刺史・尚書郎知制誥となり、正しく中書舎人に任じられ、卒した。

原文仁規累遷拾遣、補闕、尚書郎、湖州刺史、尚書郎知制誥,正拜中書舍人,卒。

孫の仁表。

原文孫 仁表

仁表は科挙に及第した後、杜審権・趙騭に従って華州・河中の掌書記となり、入朝して起居郎となった。仁表の文章は特に俊抜と称されたが、才を恃んで物に傲り、人士はこれを軽んじた。自ら門地・人物・文章の三つが揃って美しいと称し、嘗て「天瑞には五色雲があり、人瑞には鄭仁表がある」と言った。劉鄴が若い時、洎に文章を投じたが、仁表兄弟はこれを嗤って鄙しんだ。咸通末、劉鄴が宰相となると、仁表はついに南の辺境に貶謫されて死んだ。

原文仁表擢第後,從杜審權、趙騭為華州、河中掌書記,入為起居郎。仁表文章尤稱俊拔,然恃才傲物,人士薄之。自謂門地、人物、文章具美,嘗曰:「天瑞有五色雲,人瑞有鄭仁表。」劉鄴少時,投文於洎,仁表兄弟嗤鄙之。咸通末,鄴為宰相,仁表竟貶死南荒。

盧商。

原文盧商

盧商、字は為臣、范陽の人である。祖父の昂は、灃州刺史。父の広は、河南県尉。盧商は、元和四年に進士第に擢でられ、また書判抜萃科に登第した。幼くして孤貧で学問に励み、初官は秘書省校書郎となった。範傅式が宣歙を廉察した時、辟かれて従事となった。王播・段文昌が相次いで西蜀を鎮守した時、盧商はいずれも記室として職を補佐し、累次改めて礼部員外郎となった。入朝して工部員外郎・河南県令となり、工部・度支・司封の三郎中を歴任した。太和九年、京兆少尹に改め、権大理卿事を務めた。

原文盧商,字為臣,范陽人。祖昂,灃州刺史。父廣,河南縣尉。商,元和四年擢進士第,又書判拔萃登科。少孤貧力學,釋褐秘書省校書郎。範傅式廉察宣歙,辟為從事。王播、段文昌相繼鎮西蜀,商皆佐職為記室,累改禮部員外郎。入朝為工部員外郎、河南縣令,歷工部、度支、司封三郎中。太和九年,改京兆少尹,權大理卿事。

開成初年、出て蘇州刺史となった。中謝の日、金紫の服を賜った。

原文開成初,出為蘇州刺史。中謝日,賜金紫之服。

初め、郡人は塩法が煩瑣すぎることを苦しみ、奸吏が侵漁していた。盧商が到着すると、現存する戸籍に基づき、必要な分を量って自ら販売させ、定額を設けなかった。蘇州の民はこれを便利とし、年間の租税収入は倍増した。宰相が塩鉄を管轄し、その実績を上奏したため、潤州刺史・浙西団練観察使に遷った。入朝して刑部侍郎となり、転じて京兆尹となった。三年、朝廷が上党に用兵し、太行山を越えて糧秣を輸送するのに、周囲六七鎮の地を環して、盧商を戸部侍郎とし、度支を判り、兼ねて供軍使とし、軍用に欠けることがなかった。逆賊劉稹が平定されると、検校礼部尚書・梓州刺史・剣南東川節度使を加えられた。

原文初,郡人苦鹽法太煩,奸吏侵漁。商至,籍見戶,量所要自售,無定額。蘇人便之,歲課增倍。宰相領鹽鐵,以其績上,遷潤州刺史、浙西團練觀察使。入為刑部侍郎,轉京兆尹。三年,朝廷用兵上黨,飛挽越太行者,環地六七鎮,以商為戶部侍郎,判度支,兼供軍使,軍用無闕。逆稹蕩平,加檢校禮部尚書、梓州刺史、劍南東川節度使。

宣宗が即位すると、入朝して兵部侍郎となった。まもなく本官のまま同平章事・范陽郡開国公とされ、食邑二千戸、兼ねて工部尚書を加えられた。数年後、検校工部尚書となり、出て鄂岳観察使となり、そのまま検校兵部尚書を加えられた。大中十三年、病気を理由に代わりを求め、召されて戸部尚書に任じられた。その年八月、漢陰駅で卒し、時に七十一歳であった。

原文宣宗即位,入為兵部侍郎。尋以本官同平章事、范陽郡開國公,食邑二千戶,加兼工部尚書。數年,檢校工部尚書,出為鄂嶽觀察使,就加檢校兵部尚書。大中十三年,以疾求代,徵拜戶部尚書。其年八月,卒於漢陰驛,時年七十一。

子に知遠・知微・知宗・僧朗・蕘あり。

原文子知遠、知微、知宗、僧朗、蕘。

史臣が曰く、宗閔・嗣復は、宗室世家の地冑を受け継ぎ、文学政事の美名を持ち、清華の職を徘徊し、隆盛で顕要な地位に出入りした。もしも義を以て上とし、群れて党をなさず、稷・契の列において太平を議し、人主を勛・華の盛に致すことができたならば、時に遭い位を得て、誰が然りと言わないであろうか。しかし大いなる謀略を捨て、この鼠輩に親しみ、虞卿を養って利を射ようとし、徳裕に抗して仇を報いた。矛盾相攻め、幾ばくか王室を傾け、身を蛮瘴の地に没し、その利は何であったか。古より、廉頗・藺相如は仇を解き、国体の全きことを望んだが、歓を邀えて憾みを釈することは、実に大倫を乱すものである。世道が衰え削がれ、一たびここに至った。崔・魏の二丞相は、嘉言を啓奏し、正人に恥じることがなかった。墀・譲の史才、蕭肅の礼学、盧商の長者の風は、或いは三事に登り、或いは六卿を践み、道を以て始終し、何ぞ不韙であろうか。

原文史臣曰:宗閔、嗣復,承宗室世家之地胄,有文學政事之美名,徊翔清華,出入隆顯。茍能義以為上,群而不黨,議太平於稷、契之列,致人主於勛、華之盛,遭時得位,誰曰不然?而舍披鴻猷,狎茲鼠輩,養虞卿而射利,抗德裕以報仇。矛盾相攻,幾傾王室,沒身蠻瘴,其利伊何?古者,廉、藺解仇,冀全國體,而邀歡釋憾,實亂大倫。世道銷刓,一至於此!崔、魏二丞相,嘉言啟奏,無忝正人。墀、讓史才,肅之禮學,商之長者,或登三事,或踐六卿,以道始終,夫何不韙。

賛に曰く、漢は鉤黨を誅し、魏は疽囊を破る。何鄧の後、二李三楊。権を窃みて怨みに報い、国を任せて存亡す。茲に覆轍を書きて、敢えて巌廊に告げん。

原文贊曰:漢誅鉤黨,魏破疽囊。何鄧之後,二李三楊。偷權報怨,任國存亡。書茲覆轍,敢告巖廊!