旧唐書 憲宗子

旧唐書

むね

憲宗に二十子あり:穆宗おお帝、宣宗皇帝、惠昭太子寧、澧王惲、深王悰、洋王忻、絳王悟、建王恪、鄜王憬、瓊王悅、沔王恂、婺王懌、茂王愔、淄王協、衡王憺、澶王㤝、棣王惴、彭王惕、信王憻、榮王㥽。

惠昭太子寧は、憲宗の長子なり。母は紀美人と曰う。貞元二十一年四月、平原郡王に封ぜらる。元和元年八月、鄧王に進封せらる。四年閏三月、皇太子に立てられ、名を宙と改む。尋いで今の名に復す。其の年、有司冊礼を行わんとし、孟夏・孟秋に再び日を卜すも、臨事皆雨を以て罷む。十月に至りて方に冊礼を行う。元和六年十二月薨ず。年十九。朝を廃すること十三日。時に勅して国子司業裴茝をして太常博士を摂せしめ、西内を勾当せしむ。茝は古今の礼儀に通習し、嘗て太常博士たり。官郎あたに至りては、毎に其の職を兼ね、司業に改まるに及び、方に兼領を罷む。国典に皇太子薨の礼無し。故に又茝をして之を領せしむ。朝を廃すること十三日は、蓋し期服を以て日を以て月に易うるの制を用うるなり。謚して惠昭と曰う。

澧王惲は、憲宗の第二子なり。本名は寛。貞元二十一年、同安郡王に封ぜらる。元和元年、澧王に進封せらる。七年、今の名に改む。時に吐突承璀の恩寵ことに異なり、惠昭太子薨じ、儲副を立てんことを議す。承璀独り群議を排し、澧王に属し、威権を以て自ら樹てんと欲す。憲宗の明断惑わされざるに頼る。上将に太子を冊拝せんとし、詔して翰林学士崔群に澧王に代わりて譲表一章を作らしむ。群奏して曰く、「凡そ事己に当に之に当たるべくして為さざれば、則ち退譲有り」と。上深く之を納る。憲宗晏駕し、承璀死し、王も亦其の夕に薨ず。元和十五年四月丁丑を以て発喪し、朝を廃すること三日。長子漢は、東陽郡王。次子源は、安陸郡王。第三子演は、臨安郡王。

深王悰は、本名は察、憲宗の第四子なり。貞元二十一年、彭城郡王に封ぜらる。元和元年、深王に進封せらる。今の名に改む。長子潭は、河内郡王。次子淑は、呉興郡王。

洋王忻は、本名は寰、憲宗の第五子なり。貞元二十一年、高密郡王に封ぜらる。元和元年、洋王に進封せらる。七年、今の名に改む。太和二年薨ず。長子沛は、太和八年、潁川郡王に封ぜらる。

絳王悟は、本名は寮、憲宗の第六子なり。貞元二十一年、文安郡王に封ぜらる。元和元年、絳王に進封せらる。七年、今の名に改む。宝暦二年冬、害に遇う。長子洙は、太和八年、新安郡王に封ぜらる。第二子滂は、高平郡王に封ぜらる。

建王恪は、本名は審、憲宗の第十子なり。元和元年八月、淄青節度使李師古卒す。其の弟師道軍務を擅に領し、以て符節を邀う。朝廷方に討罰の師を興し、兵を両地に分かたんと欲せず。乃ち審を建王に封ず。一日を間へ、開府儀同三司・鄆州大都督を授け、平盧軍淄青等州節度営田観察処置・陸運海運・押新羅渤海両蕃等使を充て、而して師道を以て節度留後と為す。閣を出でず。七年、今の名に改む。長慶元年薨ず。

鄜王憬は、長慶元年封ぜらる。開成四年七月薨ず。長子溥は、平陽郡王。

瓊王悅は、長慶元年封ぜらる。第二子津は、河間郡王。

沔王恂は、長慶元年封ぜらる。長子瀛は、晋陵郡王。

婺王懌は、長慶元年封ぜらる。長子清は、新平郡王。

茂王愔は、長慶元年封ぜらる。長子潓は、武功郡王。

淄王協は、憲宗の第十四子なり。長慶元年封ぜらる。開成元年薨ず。長子浣は、太和八年八月許昌郡王に封ぜらる。第三子渙は、馮翊郡王。

衡王李憺は、長慶元年に封ぜられた。長子の李渉は、晋平郡王である。

澶王李㤝は、長慶元年に封ぜられた。長子の李濘は、雁門郡王である。

棣王李惴は、大中六年に封ぜられ、咸通三年に薨去した。

彭王李惕は、大中三年に封ぜられた。

信王李憻は、大中十四年に封ぜられ、咸通八年に薨去した。

栄王李㥽は、咸通三年に封ぜられ、広明元年八月十九日に開府儀同三司・守司空を授けられ、その年の十月九日に薨去した。その子の李令平が王を嗣いだ。

穆宗の子

穆宗に五子あり。敬宗皇帝、文宗皇帝、武宗皇帝、懐懿太子李湊、安王李溶である。

懐懿太子李湊は、穆宗の第六子である。幼少より寛和で温雅、斉荘にして度合いがあった。長慶初め、漳王に封ぜられた。文宗は王守澄が権勢を恃むのを以て、宦官を深く怒り、これを尽く誅殺せんと欲し、密かに宰相の宋申たまに命じて外臣と謀を画策させた。守澄の門人である鄭註がこの事を窺い知り、先んじて申錫を誅殺せんとした。漳王が賢明で声望があるのを以て、神策虞候の豆盧著に命じて変事を告げさせて言わせた。「十六宅の宮市典である晏敬則・朱訓が申錫の親吏である王師文と共に不軌を謀り、朱訓と王師文は聖上は病多く、太子は年若い、もし兄弟を立てるならば、次は漳王であると言い、先ず結託せんとし、師文の処より銀五鋌・絹八百匹を得た。また晏敬則は十六宅において漳王の呉綾の汗衫一領・熟線綾一匹を持ち出し、申錫に答えた。」この事は全て鄭註が虚構を捏造したものであるが、朱訓らを黄門獄に擒え、鍛錬して偽りの供状を成した。三四日を経て、朝臣は初めてその誣構に気付いた。諫官の崔玄亮らが閣中で極諫し、叩頭して血を流し、申錫を獄より出して外に付し推問することを請うた。鄭註の輩はその偽りの跡が敗露することを恐れ、貶黜を行うことを請うた。制書に曰く。「王者の教えは先ず愛を入れるを以てとし、義は親を遺さず。豈に同気の中において、異詞の間を致すべけんや。もし慎修至らず、詿誤聞こゆる有り、厲階を構え、我が邦紀を犯すも、未だ殛竄を加えず、たっと彜章を屈するは、漳王湊は手足の親にして、盤石の固きに居り、崇き寵秩に居り、戚籓に列す。頃多く克順の心有り、亦尚賢の志有り。而して満盈して患を生じ、敗覆を図るは、奸兇会同し、謀議聯及す。我が皇化を汚し、外朝に彰くす。初め予が衷を駭かし、再び群聴を驚かす。尚未だ獄詞具わらず、猶審慎を資すを以て、建侯の命は、姑く務めて寛に従う。降封して巣県公とすべし。」制が下り、上は中使に巣県の官告を齎らせ、十宅に就いて湊に賜う。国法須らく此くの如くすべきを言い、爾は宜しく寛勉すべしと。八年に薨じ、斉王を追封された。

鄭註は誅殺された。帝は湊が陥れられたことを思い心を傷め、開成三年正月に制を下して曰く。

善を褒め終を飾るは、王者の常典なり。況んや我が友於の愛、手足の親、永く言う痛悼の懐、用て元良の命を錫う。故斉王湊は天宇に霊を孕み、本枝より秀で、孝敬は孩提より知り、恵和は親愛に洽し。将に磐石を固くせんとし、遂に茅社を分つ。学は蟻術の精を探り、智は象舟の妙有り。書を好み善を楽み、造次も其の清規を失わず、醴を置き師を尊び、風雨も其の至敬を忘れず。方に臺耇を期し、以て怡怡を保たんとす。天胡ぞ仁ならず、我が同気を殲うす。周宣の好愛の分を念い、長慟追う莫く、魏文の栄楽の言を覧て、軫懐已む無し。是れ由りて諸の前典を稽え、式に追栄を殿し、特峻の彜章を以て、恩を泉壌に表す。礼命の儀は則ち爾りと雖も、天倫の恨何ぞ攄かん。幽魂を遐想すれば、宜しく寵数にるべし。懐懿太子を贈るべし。有司日に択びて冊命せよ。

安王李溶は、穆宗の第八子である。母は楊賢妃、長慶元年に封ぜられた。太和八年、開府儀同三司・検校吏部尚書を授けられた。開成初め、勅して安王・潁王は、共に百官の例に以て、逐月料銭を給す。武宗即位の後、李徳ゆたかが政を執るに及び、或る者が告げて言うには、文宗崩御の時、楊嗣復は賢妃と宗家なるを以て、安王を立てて嗣とせんと欲した故に、王は禍を受け、嗣復は官を貶されたと。

敬宗の子

敬宗に五子あり。悼懐太子李普、梁王李休復、襄王李執中、紀王李言揚、陳王李成美である。

悼懐太子李普は、敬宗の長子である。母は郭妃という。宝暦元年、晋王に封ぜられた。太和二年に薨じ、年五歳。上はこれを撫で念うこと甚だ厚く、冊して悼懐太子を贈った。

梁王休復。開成二年八月に詔して曰く、「王者は土を(さ)き疆を畫(か)き、子弟を封建するは、帝室を承衛し、本枝を蕃茂せしむる所以なり。祖宗の成式、朕何ぞ敢て廢せんや。況んや天は正性を付し、夙に至訓を奉じ、賢を尊び善を好み、仁を體し禮に由る。是れ建侯の命を舉げ、分社の榮を膺(う)くる可きなり。親を親しみ賢を賢とするは、是に於いて在り。敬宗皇帝第二子休復、第三子執中、第四子言揚、第六子成美、皆氣は中和を蘊(やど)し、行は敬慎を推し、『墳』『索』に遊泳し、師言を佩服す。宜しく土宇の封を開き、睦族の典を申すべし。休復は梁王に封ず可く、執中は襄王に封ず可く、言揚は紀王に封ず可く、成美は陳王に封ず可し。宜しく有司に令して日を擇び禮を備へ冊命せしむべし」。

襄王執中は、梁王と同時に封を受けしなり。第三男采、樂平郡王。

紀王は、襄王と同時に封を受けしなり。

陳王成美は、紀王言揚と同時に封を受けしなり。開成四年十月、詔して曰く、「古先哲王の天下を有つや、何ぞ嘗て國本を正し天序を承け、儲貳を建て重離を主たることをせざらんや。朕寡くらを以て、丕圖を祗荷す。虔恭寅畏し、鴻業を固めんと思ひ、全懿を慎擇すれども、旬時にむな(むな)し。而るに卿士謀を獻じ、龜筮吉を告げ、少陽虛位と為し、盛儀を舉げんことを願ふ。列聖休を垂れ、予が志を俾(し)め合はしむ。賢を選びて立て、私無きを式表す。敬宗皇帝第六男陳王成美、天は忠孝を(か)し、日に道德を新たにす。溫文雅に合ひ、謙敬和を保つ。端明の體度に裕(ゆたか)にして、尚ほ『詩』『書』の辭訓を尚(たっと)び、言は皆禮に中(あた)り、行は仁に違はず。是れ以て舊章を訓考し、成命を欽若し、之に匕鬯を授け、以て粢盛を奉ぜしむ可し。宜しく硃邸の榮を回らし、青宮の重きを踐ましむべし。皇太子に立つ可し。宜しく所司に令して日を擇び禮を備へ冊命せしむべし」。莊恪太子薨じてより、將相大臣職言者におよ(およ)び、章を拜し面陳すること凡そ累月、上遂に陳王を立てしめんと命ず。未だ冊禮を行はず、復た降して仍舊とす。其の年、籓邸に殂(そ)す。第十九男儼、宣城郡王。

文宗の子

文宗二子:莊恪太子永、蔣王宗儉。

莊恪太子永は、文宗の長子なり。母は王德妃と曰ふ。太和四年正月、魯王に封ぜらる。六年、上王の年幼なるを以て、賢傅を得て之を輔導せんと思ふ。時に王傅和元亮、待制に因り召して問ふ。元亮は卒吏より出で、書を知らず、一も對ふること能はず。後、宰相延英に奏事す。上從容として曰く、「魯王質性教ふ可し。賢士大夫を擇びて官屬と為すべし。復た和元亮の輩を用ふ可からず」と。因りて戶部侍郎庾敬休に本官を守らしめ、兼ねて魯王傅と為し、太常卿鄭肅に本官を守らしめ、兼ねて王府長史と為し、戶部郎中李踐方に本官を守らしめ、兼ねて王府司馬と為す。其の年十月、詔を降して冊し皇太子と為す。

上即位より、敬宗盤遊荒怠の後に承け、恭儉惕慎し、以て天下を安んず。晉王謹願なるを以て、且つ儲貳に建てんと欲す。未幾、晉王薨ず。上哀悼甚だしく、復た東宮の事を言はずすること久し。今是の命有り、中外慶悅す。後に王起・陳夷行を以て侍讀と為す。

開成三年、上皇太子宴遊敗度にして、教導す可からざるを以て、將に廢黜を議せんとす。特(こと)に延英を開き、宰臣及び兩省御史臺五品已上、南班四品已上の官を召して對せしむ。宰臣及び眾官、儲後年小なるを以て、改過を俟つ可く、國本至重なりと為し、寬宥を願ふ。御史中丞狄兼謨、上前に雪涕して以て諫め、詞理懇切なり。翌日、翰林學士六人神策六軍軍使十六人に洎(およ)び、又表を進めて陳論す。上意稍く解く。

其の日一更、太子少陽院に歸る。中人張克己・柏常心を以て少陽院使に充て、如京使王少華・判官袁載和及び品官・白身・內園小兒・官人等數十人、連坐して死に至り及び剝色・流竄せらる。尋で詔して侍讀竇宗直・周敬慎に前の如く隔日に少陽院に入らしむ。

其の年薨ず。勅して兵部尚書王起に哀冊文を撰せしむ。其の文に曰く、

(こ)れ大唐開成三年、歲次戊午、十月乙酉朔、十六日庚子、皇太子少陽院に薨ず。十七日辛丑、座を大吉殿に遷す。十一月乙卯朔、二十四日戊寅、冊使太子太師兼右僕射・門下侍郎・國子祭酒・平章事鄭覃、副使中書侍郎・平章事楊嗣復を命じ、節を持ちて冊し謚して莊恪と曰ふ。十二月乙酉朔、十二日丙申、驪山の北原莊恪陵に葬る。禮なり。玉琯歲窮み、金壺漏盡き、祖奠告徹し、哀笳將に引かんとす。庭燎滅びて月寒く、路旍搖りて風緊し。皇帝主鬯の缺位を念ひ、佩觿の夭年を悼む。銅樓已に閉ざされ、銀牒徒らに懸く。方に對日の思ひを追ひしに、遽(にわか)に冥寞として賓天す。典冊具に舉がり、文物鹹く備はる。ここに侍臣に詔し、上嗣を顯揚せしむ。其の詞に曰く、

(おお)いなるかな帝緒、肇(はじ)めて基くは綿古なり。德を(う)ゑ道を尊び、文を宗(むね)とし武を祖とす。上聖開成し、天下和平す。祉を儲け祥を發し、是れ元良を生む。覃訏の初め、岐嶷用て彰る。才をやど(やど)し藝に遊び、玉裕金相なり。既に孩提を免れ、是に封殖を加ふ。城を東魯に維(つな)がしめ、介珪を上國に錫(たま)ふ。榮を硃邸に辭し、位を青宮に正す。師を尊び傅を重んじ、德を養ひ聰を含む。馳道を畏れて絶えず、寢門を問ひて益恭なり。賢を招き戒め警しめ、胄を齒して謙沖なり。日に三善に躋(のぼ)らんことを冀ひ、天慈を九重に奉ぜんとす。漢莊學を好むは、既に外に顯れ、魏丕文を能くするは、方に內にしたがふ。顏過に二ならざるを美とし、鯉退に三を得るを嘉とす。甲觀に焜耀し、瑜珮に鏗鏘たり。方に善を積みて山を為さんとす。何ぞ反真して岱に遊ばんや。嗚呼哀哉。

憂兢壽を損し、沈屙始めて(あ)ふ。群望並び走り、百靈宜しく祐(たす)くべし。吳客の問ひ徒らに為り、越人の方靡(な)く救ふ。前星の掩曜を占ひ、東朝の降咎を知る。天は象を垂れて則ち然り。人己に由りて何か有らん。嗚呼哀哉。駕を稅(お)して華に乘じけい(けい)即ち宮は夜臺、鳳笙長く絶え兮蜃輅徐ろに來たる。青宮を啓きて右に出で、玄灞を歷て左に回る。雕林を度り兮魂斷ち、曠野に入り兮心摧(くだ)く。水は挽を助けて幽咽し、雲は翣を帶びて徘徊す。佳城の已に掩はるるを悲しみ、新廟の方に開かるるを見る。嗚呼哀哉。經を授くる兮何の期ぞ、紼を執る兮增欷す。九原作る兮何ぞ嗟及びん、七日還る兮安ぞ希はん。少海の波逝く有りて、西園の蓋飛ぶ無し。商山の羽翼已に散じ、望苑の賓客鹹く歸る。きら(きら)ける彼の玉簡、泉扉に閟(と)づ。用て信を文字に傳へ、音徽を昧ますこと無からんことを願ふ。嗚呼哀哉。

初め、帝は太子が稍々長ずるに及び、法度に循わず、小人に昵近するを以て、廃黜を加えんと欲す。公卿の請に迫られて、乃ち止む。太子終に悛改せず、ここに至り暴薨す。時に伝うるに云く、太子は徳妃の出なり、晚年寵衰す。賢妃楊氏、恩渥方に深し。太子の他日に己に利あらざるを懼れ、故に日に誣譖を加う。太子終に自ら弁明する能わず。太子既に薨じ、帝の意追悔す。四年、会寧殿の宴に因る。小児橦に縁る。一夫下に在りて、其の地に墮つるを憂うる、狂者の若き有り。止めて之を問うに、乃ち其の父なり。帝因りて感泣し、左右に謂いて曰く、「朕は天下を富み有すと雖も、一子を全うする能わず」と。遂に楽官劉楚材・宮人張十十等を召して責めて曰く、「吾が太子を陥れたるは、皆爾曹なり。今已に太子有り、更に前を踵がんと欲するか」と。立命にて之を殺す。

蔣王宗儉は、文宗の第二子、開成二年に封ぜらる。

武宗の子

武宗五子:杞王峻は開成五年に封ぜられ、益王峴・兗王岐・徳王嶧・昌王嵯は皆会昌二年に封ぜらる。

宣宗の子

宣宗十一子:懿宗皇帝、余は並びに王に封ぜらる。

靖懐太子漢は、会昌六年に雍王に封ぜられ、大中六年に薨じ、冊を贈りて靖懐太子とす。

雅王涇は、宣宗の第二子。大中元年に封ぜらる。

衛王灌は、大中十一年に封ぜられ、十四年に薨ず。

夔王滋は、宣宗の第三子なり。会昌六年に封ぜられ、咸通四年に薨ず。

慶王沂は、第四子なり。会昌六年に封ぜられ、大中十四年に薨ず。

濮王澤は、第五子なり。大中二年に封ぜらる。

鄂王潤は、第六子なり。大中五年に封ぜられ、乾符三年に薨ず。

懷王洽は、第七子なり。大中八年に封ぜらる。

昭王汭は、第八子なり。大中八年に封ぜられ、乾符三年に薨ず。

康王の汶は、大中八年に封ぜられた。

広王の澭は、大中十一年に封ぜられた。

懿宗の子

懿宗に八人の子あり:僖宗皇帝、昭宗皇帝、その他は皆王に封ぜられた。

魏王の佾は、咸通三年に封ぜられた。

涼王の健は、咸通三年に封ぜられ、乾符六年に薨去した。

蜀王の佶は、咸通三年に封ぜられた。

咸王の侃は、咸通六年に郢王に封ぜられ、十年に今の王号に改封された。

吉王の保は、咸通十三年に封ぜられ、文徳元年八月九日に開府儀同三司・検校太傅を授けられ、さらに食邑三百戸を加増された。

睦王の倚は、咸通十三年に封ぜられた。

僖宗の子

僖宗に二子あり:

建王の震は、中和元年九月十六日に封ぜられた。

益王の升は、光啓三年十一月十四日に封ぜられた。

昭宗の子

昭宗の子は十人:哀帝、その他は皆王に封ぜられた。

徳王裕は、昭宗の長子である。大順二年六月二十八日に封ぜられ、乾寧四年二月十四日に冊立されて皇太子となった。時に帝は華州にあり、韓建は諸王が兵を掌握することを恐れ、防城卒の張行思・花重武を誘って相次いで通王以下が建を殺さんとしていると告げさせた。建はまた他日、諸王が車駕を劫略して遷し、別に藩鎮に幸せんとしているとの訛言を造った。諸王は恐れて、建のもとに赴き自ら陳べた。建はそこで臥内に延し入れ、密かに人を遣わして奏上した、「今日睦王・済王・韶王・通王・彭王・韓王・儀王・陳王等八人が臣の治所に到り、事の由を測りがたい。臣は窃かに事体を量るに、諸王と相見えるは合わず、兼ねて久しく臣の所に在るは、事に於いて宜しからず。忽然として門に及び、その意は測りがたい」。また上疏して抗論し、十六宅に帰ることを請うた。このようにすること数四、帝は允さず。建は諸王に図られることを懼れ、精甲数千をもって行宮を囲み、定州護駕軍都將李筠を誅することを請うた。帝は甚だ懼れ、大雲橋において筠を斬ることを詔した。その三都の軍士は、尋いで本道に放還された。殿後都もまた三都と元より行宮を繞りて扈蹕した。至って昌に至り、並びに急詔してこれを散らした。諸王の兵柄を罷む。建は上(帝)の不悦を慮り、乃ち上表して徳王を立てて皇太子とすることを請うた。その年八月、嗣延王戒丕が太原より還り、詔して通王以下八王と並びに石堤谷において賜死せしめられた。

光化の末、枢密使劉季述・王仲先等が昭宗を東内に幽閉し、裕を冊立して帝とした。天復の初めに季述・仲先を誅するに及び、寺人とともに右軍に匿れた。群臣はこれを殺すことを請うたが、昭宗は「太子は幼沖にして、賊輩に立てられたものなり」と言い、旧に依って少陽院に帰すことを命じた。朱全忠が鳳翔より車駕を迎えて京に還るに及び、徳王が眉目疏秀にして、春秋漸く盛んなるを以て、常にこれを悪んだ。崔胤に謂って「徳王は曾て宝位を窃かに居し、天下これを知る。大義は親を滅す、何ぞ久しく留めおくを得んや。これは後代に不孝を教えるものなり。公、密かに啓せよ」と言った。胤はこれを然りとし、昭宗は納れなかった。他日、全忠に言うと、全忠は「これは国家の大事、臣安んぞ窃かに議するを得んや。これは崔胤が臣を売るものなり」と言った。尋いで哀帝を天下兵馬元帥とした。

後に昭宗が洛下に至り、一日幸いにして福先寺に至り、枢密使蔣玄暉に謂って「徳王は朕の愛子なり、全忠何の故をもって須らくこれを廃し、また殺さんと欲するのか」と言い、言い終わって涙を流し、因ってその中指を嚙み血を流した。玄暉は詳しく全忠に報じ、これにより転じて恚った。昭宗が弑された日、蔣玄暉は西内において社の筵を設け、酒酣に及び、徳王以下六王は皆玄暉に殺され、屍を九曲池に投げ込まれた。

棣王祤。乾寧元年十月八日に封ぜられた。

虔王禊・沂王禋・遂王祎は、並びに棣王と同時に封冊された。

景王秘は、乾寧四年十月二十二日に封ぜられた。

祁王祺は景王と同時に封冊された。

雅王禛・瓊王祥は、並びに光化元年十一月九日に封ぜられた。

嗣襄王襜は、性柔善にして、他に能無し。光啓二年春、車駕は宝雞に在り、西軍が逼って岐隴に幸することを請う。帝は数十騎をもって大散関より興元に幸す。時に襜は疾あり、従う能わず、因って朱玫に挟まれて鳳翔に至る。台省の官で従行に及ばなかった者は僅かに百人。四月、玫は乃ち宰相蕭遘・裴澈とともに群僚を率いて襜を監国に冊立した。襜は鄭昌図に度支を判させ、而して塩鉄・戸部には各々副使を置き、三司の事は一にこれを委ね、目して「廃置相公」と言う。五月、襜は偽戸部侍郎柳陟等十余人を遣わし、関東・河北諸道に分かれて諭し、偽命を受ける者甚だ衆し。十月、朱玫は蕭遘等を率いて襜を帝に冊立し、元号を改めて永貞とし、遥かに僖宗を太上元皇聖帝と尊んだ。

初め、河中の王重栄が表率して東の諸侯に進貢をさせたが、唯蔡賊と太原のみ順わず。秦宗権は自ら僭号し、太原は朱玫と協せざる故なり。王行瑜が朱玫を殺すに及び、襜は渭上に奔り至る。王重栄が人を遣わしてこれを迎えると、襜は偽百官と泣いて別れ、謂って「朕が重栄に会えば、当に卿等のために各々備える所の服をもって以て卿等を接せしめん」と言った。朱玫を殺した翌日、襜は鄜州の乱軍に殺され、行瑜は遂に首を函にして行在に送った。襜は四月に監国となり、十二月に死するに至るまで、凡そ偽位に在ること九月であった。

朱玫は、邠州の人なり。少くより辺に従い、功を以て郡守を歴任す。乾符の末、邠寧節度使を領す。中和の中、京師を収復し、太原の李克用・東方達と同制にて使相を加えられる。光啓元年冬、詔を受けて河中を招討するも、軍敗れる。軍容使田令孜の失策を以て、時に諸軍皆怒り、乃ち人情に徇い、表を上して令孜を誅することを請う。令孜と楊復恭が帝を挟んで西に幸すと、玫また失策す。乃ち嗣襄王襜を虜い、蕭遘等とともに同しく立てて帝とし、大いに封拜を行い、以て諸侯を啖う。而して天下の人、帰する者十に五六なり。李昌符と始め冊立を謀り、及び後、玫は自ら大丞相と称し、吐握は己に在り。昌符これを怒る。乃ち表をもって行在に款を通じ、また密かに枢密使楊復恭と結び、人心乃ち離る。

時に行在より令を出し、朱玫の首を斬る者あれば、則ち邠帥を授く。賊将王行瑜は大唐峰に利あらず、退いて鳳州を保つ。終に罪を得るを慮り、腹心と密謀し、径ちに京師に入る。時に玫は第が和善里にあり、行瑜は兵仗を率いて入見す。玫は猶も擅に還るを責むると、行瑜は「我は爾に代わって邠州節度使を領せんと要す、何ぞ復た多く言わん」と言い、遂にこれを斬った。

王行瑜は、邠州の人なり。少くより本軍に隷し、朱玫に事えて偏将となり、巢寇を平らげて功あり。光啓二年、玫が嗣襄王襜を偽帝に冊立し、天平軍節度使を授く。兵を領して大散関を守り、大唐峰を攻むるも、李鋌に敗られ、乃ち款を行在に送る。部下を以て闕下において朱玫を反攻し、これを斬り、因って邠州節度使を授けられる。後に山南において楊守亮を平らげ、功を以て累次加えられて中書令に至る。景福の中、朝廷に逼って尚書令を加えんことを請う。宰臣韋昭度が密奏して不可とす。会に韓建・李茂貞が兵を称して入覲し、廃立を行わんと欲す。果たさず、乃ち昭度と李磎を殺すことを請う。是の歳、また弟の行約を遣わして河中を攻む。河中は太原の軍を引き至らしめ、由って大いに敗る。行約・行実は車駕を劫略するも獲ず、遂に邠州に帰る。行瑜は兵を率いて梨園に屯す。王師の囲み急なり。行実・行約は先ず敗れ、次いで龍泉を保つ。行瑜はまた遁れて邠州に至るも、守る能わず。乾寧二年十一月、族を携えて慶州に至り、部下に殺された。

【論】

史臣が曰く、天宝以後、宦官は禁中の兵権を握り、中宮の継嗣も皆その心より出ず。故に手は万機を掌握し、目は既に六宅を睨み、防閑禁錮は人情に近からず。文宗は古を好み親を睦まじくし、友悌に至って敦厚なり。斉湊に於ける前非を悔い、儲闈を以て褒め、後事を陳王に付し、その胄席に帰す。或いは朱邸に降輿し、瓊筵に対食し、怡怡として肺腑の情を申し、穆穆として棣華の義を尽くす。近朝の盛美、風謠に洽うべし。昭粛帝は讒に惑い、毒は安邸に流る。大臣の議を覧て、磐石の維たらしめんと欲すと雖も、竟に出閣の儀無く、終身幽枉す。『谷風』の怨み、傷心と為すべし。大中・咸通以来、宝図は世及す。犬牙麟趾、周の姬に迨ばざるも、平什布謠、宗籍に甚だ悲しまず。姬に於いては足らず、魏に比すれば余り有り。

賛に曰く、周は子弟を封じ、運祚綿長し。管・蔡は剿絶し、魯・魏は克昌す。叛を誅し順を賞するは、王者の大綱なり。法は親を私せず、棣萼その芳し。