旧唐書
李德裕
李德裕、字は文饒、趙郡の人である。祖父の棲筠は御史大夫。父の吉甫は趙国忠公、元和初年の宰相。祖父・父はそれぞれ伝がある。徳裕は幼少より壮志を抱き、苦心して学問に励み、特に『西漢書』・『左氏春秋』に精通した。諸生と共に郷試を受けることを恥じ、科挙試験を好まなかった。年齢がようやく二十歳に達した時、志と学業は大いに成った。貞元年間、父が蛮地に左遷されたため、その側に侍し、官途を求めなかった。元和初年、父が再び国政を執ったため、嫌疑を避けて台省に仕えず、諸府の従事に累次辟召された。十一年、張弘靖が宰相を罷め、太原に鎮した時、掌書記に辟された。大理評事より殿中侍御史を得た。十四年、府が罷められ、弘靖に従って朝廷に入り、真に監察御史に任ぜられた。翌年正月、穆宗が即位し、翰林に召し入れられ、学士を充てた。帝は東宮に在った時、かねてより吉甫の名を聞き、徳裕に会うと、特にこれを重んじた。禁中の詔書や大手筆は、多く徳裕に草させた。この月、思政殿に召し対し、金紫の服を賜った。一ヶ月余りして、屯田員外郎に改めた。
穆宗は政道を保たず、恩赦を多く行い、外戚の諸親族は邪な謀略をもって請謁し、宦官の意を伝え導き、権臣と往来したので、徳裕はこれを憎んだ。長慶元年正月、上疏してこれを論じて言う、「伏して見るに、国朝の故事によれば、駙馬は親密であるが故に、朝廷の要官と往来すべきではない。玄宗の開元年間には、禁止が特に厳しかった。訪聞するに、近ごろ駙馬がしばしば宰相や要官の私邸に至るという。この輩は他に才能も伎芸もなく、接するに足りず、ただ禁中の機密を漏洩し、内外と交通するのみである。群情の知るところであり、甚だ弊害であると思う。朝官で元々雑流の者であれば、往来しても妨げない。もし職が清列にあるならば、どうして知り聞くことができようか。伏して宰臣に宣示し、駙馬や諸親族については、今後公事は即ち中書において宰相に会い、私邸に詣でることを許さないよう請う。」帝はこれを認めた。まもなく考功郎中・知制誥に転じた。二年二月、中書舎人に転じ、学士は元の通り。
初め、吉甫が宰相の位にあった時、牛僧孺・李宗閔が制挙の直言極諫科に応じた。二人は詔に対し、時政の失を深く誹謗したので、吉甫は帝の前で泣いて訴えた。これにより、考策官は皆貶され、事は『李宗閔伝』にある。元和初年、兵を用いて叛を伐つことは、杜黄裳が蜀を誅したことに始まる。吉甫は経画し、両河を定めようとし、まさに出師しようとした時に卒した。その後を継いだのは元衡・裴度である。しかし韋貫之・李逢吉が議を沮み、深く用兵を非とした。そして韋・李は相次いで宰相を罷められたので、逢吉は常に吉甫・裴度を怨んだ。そして徳裕は元和の時、長く調官されず、逢吉・僧孺・宗閔は私怨をもって常にこれを排斥した。
時に徳裕は李紳・元稹と共に翰林に在り、学識才名が類いし、情誼は甚だ密であった。しかし逢吉の党はこれを深く憎んだ。その月、学士を罷め、御史中丞として出された。その元稹は禁中より出て、工部侍郎・平章事に任ぜられた。三月、裴度が太原より再び政を輔けた。この月、李逢吉も襄陽より朝廷に入り、密かに賄賂を用いて小人を買い、于方の獄を構成した。六月、元稹・裴度は共に宰相を罷められた。稹は同州刺史として出された。逢吉は裴度に代わって門下侍郎・平章事となった。権位を得ると、鋭意怨みに報いようとした。時に徳裕と牛僧孺は共に宰相の声望があり、逢吉は僧孺を引き入れようとしたが、李紳と徳裕が禁中でこれを沮むことを恐れた。九月、徳裕を浙西観察使として出し、まもなく僧孺を引き入れて同平章事とした。これにより交怨は愈々深くなった。
潤州は王國清の兵乱の後を承け、前使の竇易直は府蔵を傾けて賞給したため、軍は次第に驕慢となり、財用は尽き果てた。徳裕は自らの供養を倹約し、留州の所得を全て軍を養うに充てた。施与は豊かではなかったが、将卒に怨みはなかった。二年の後、賦税と兵車は再び集まった。
徳裕は壮年にして位を得、布政に鋭意励み、旧俗で民を害するものは、全てその弊を革めた。江・嶺の間では巫祝を信じ、鬼怪に惑わされ、父母兄弟が重病になると、一家挙げてこれを棄てて去った。徳裕はこの風を変えようとし、郷人の中で識見ある者を選び、言葉をもって諭し、法をもって律した。数年の中に、弊風は忽ち革まった。属郡の祠廟については、方誌に按じ、前代の名臣賢者の後裔ならばこれを祀った。四郡の内、淫祠一千十所を除いた。また私邑の山房一千四百六十を罷め、寇盗を清めた。人々はその政を喜び、優詔をもってこれを嘉した。
昭湣皇帝は童年より歴を継ぎ、頗る奢侈に事とした。即位の年の七月、詔して浙西に銀盝子の化粧具二十事を造り内に進めるよう命じた。徳裕は奏上して言う。
臣下たる私は多くの幸いに遇い、昌平の世に遭うことを得た。名ある藩鎮に任を寄せられ、常に職務を怠ることを憂え、孜々として朝から晩まで励み、国の恩に報いようとした。数年このかた、災害と旱魃が相次ぎ、微力な思慮を尽くして、辛うじて流亡を免れ、物資の間では、まだ完全には回復していない。臣は謹んで今年三月三日の赦文に準拠すると、常の貢納の外は、進献を命じないとある。これは陛下の至聖至明にして、細微に至るまで洞察し、一つには聚斂の吏がこれに乗じて奸をなすことを恐れ、一つには疲弊した民がその弊害に耐えられぬことを恐れたからである。上は倹約の徳を弘め、下には惻憫の心を敷かれた。万国の民衆は、鼓舞してやまない。先だって五月二十三日の詔書を奉じ、茅山の真の隠者を訪ねさせ、謙虚で節約の道を師とし、実務を務め華美を去る美を発揮しようとされた。たとえ人が上って丹詔を塞ぐことはなくとも、実際に率土の民はすでに玄妙な風を偃せており、ただ微臣のみならず、独り手を打って賀するのである。況や進献の事は、臣子の常の心であり、たとえ敕文で許さなくとも、また力を尽くして上貢すべきである。ただ臣の管轄する道は、平素富饒と称せられていたが、近年このかた、旧に比べて異なる。貞元の中ごろ、李錡が観察使に任ぜられた時、職は塩鉄を兼ねた。百姓は貫高に随って出した榷酒銭の外に、さらに官酤を置き、一両重ねて納税させ、利益は極めて厚かった。また当時の進奉を尋ね聞くと、塩鉄の羨余をも兼ねて用い、貢献は繁多で、以後これに及ぶものはなかった。薛蘋が観察使に任ぜられた時には、また榷酒を置くことを奏上した。上供の外に、かなりの余財があり、軍用の間では、実に優れて足りていた。元和十四年七月三日の敕により、榷酤を停めた。また元和十五年五月七日の赦文に準拠すると、諸州の羨余は、使に送ることを命じず、ただ留使銭五十万貫のみである。毎年の支用は、なお十三万貫不足し、常に事を節儉し、百方補填しなければならず、経費の中では、懸欠を免れない。綾紗などの物については、なお本州の産出であり、調達しやすい。金銀は当州から出ず、皆外の地から買い求めねばならない。去る二月の中ごろ、宣旨を奉じて盝子を進めるよう命じられ、銀九千四百余両を用いる計算であった。その時貯備は、二三百両もなく、諸方で買い集めて、ようやく上供の品を製造した。先だってまた宣旨を奉じ、今度は化粧具二十点を進めるよう命じられ、銀一万三千両、金百三十両を用いる計算である。早速四節の進奉金銀を合わせて、二組を造り進納し終えた。今は人を淮南に遣わして買い求め、到着次第製造し、昼夜を分かたず努めているが、力を尽くして求めても、間に合わぬことを深く憂えている。臣が因循として奏上しなければ、陛下の任使の恩に背くことになる。もし分を超えて誅求すれば、また陛下の慈儉の徳を累わすことになる。伏して陛下に前件の榷酤及び諸州の羨余の目録を御覧いただき、臣の軍用が逼迫していることの本末に由があることを知っていただきたい。伏して料るに、陛下は臣の奏論を御覧になり、必ず詳しくご理解いただき、臣が君を愛し事を守る節を尽くし、忠を納れ直を尽くす心を尽くしていることをお知りいただけるであろう。伏して聖慈を乞い、宰臣に宣して議させ、どうすれば臣が上は宣索に違わず、下は軍儲を欠かさず、疲れた民を困らせず、物の怨みを集めず、前後の詔敕をともに遵承できるかを考えていただきたい。宸厳を冒す次第、戦汗の至りに堪えない。
時に赦に準じて進献を許さなかった。一か月余り過ぎた後、貢物を徴発する使者が、道に相継いだ。故に徳裕は訴えを機にこれを諷した。事が奏上されたが、返答はなかった。
また詔して可幅盤条繚綾一千匹を進めるよう命じた。徳裕はまた論じて言った。
臣は先だって宣索に縁り、すでに軍資の歳計及び近年の物力を詳しく奏上した。伏して料るに聖慈は、必ず省覧くださるであろう。また詔旨を奉じ、定羅紗袍段及び可幅盤条繚綾一千匹を織るよう命じられた。詔書を伏して読み、ますます惶灼を増す。臣が伏して見るに、太宗の朝、台使が涼州に至り、名鷹を見て李大亮に献上するよう諷した。大亮は密かに表を奉って誠を陳べた。太宗は詔を賜って言われた。「使者を遣わして献上させようとしたが、遂に曲げて従わなかった。」と再三嘉嘆され、史書に載せられている。また玄宗は中使を江南に遣わして䴔䴖などの鳥を採らせたが、汴州刺史の倪若水が論を陳べ、玄宗もまた詔を賜って嘉納し、その鳥は即時に皆放たれた。また皇甫詢に益州で半臂背子・琵琶扞撥・鏤牙合子などを織らせようとしたが、蘇頲は詔書に奉ぜず、みだりに織るのを停めた。太宗・玄宗はいずれも罪を加えず、陳べたことを欣んで納れられた。臣はひそかに考えるに、䴔䴖・鏤牙は、極めて微細なものであるが、若水らはなお労力を費やし徳を損なうとして、款を瀝して忠を効した。聖祖の朝に、このような臣があったのに、どうして明王の代に、独りその人がいないことがあろうか。おそらく位にある者が蔽って言わないのであり、必ずしも陛下が拒んで納れられないのではない。また四月二十三日の徳音を拝見すると、「方・召の侯伯、位あるの士、吾を棄つることなかれ、教うべからずと謂うことなかれ。道に違い理を傷つけ、欲に徇い安きを懐く者有らば、面を刺し廷に攻め、隠し諱うことなかれ。」とある。これは陛下が誨を受け善に従い、道を祖宗に光らせ、忠規を尽くさない過ちは臣下にあるということである。況や玄鵝・天馬・椈豹・盤絳は、文彩珍奇にして、ただ聖躬ご自身が服用されるにふさわしい。今織らせようとする千匹は、費用が極めて多く、臣の愚かな誠意からしても、また理解できない。昔、漢文帝は弋綈の衣を着、元帝は軽纖の服を罷め、仁徳慈儉は、今に至るまで称えられている。伏して陛下に、近くは太宗・玄宗の容納を御覧いただき、遠くは漢文・孝元の恭己を思し召され、臣の前の表を群臣に宣示し、臣の管轄する道の物力に適宜を酌み、さらに節減を賜わりたい。そうすれば海隅の蒼生、受けない者はないであろう。臣、懇切兢惶の至りに堪えない。
優詔をもってこれに報い、その繚綾の進上を罷めた。
元和以来、累次天下の州府に敕し、私度の僧尼を禁じた。徐州節度使の王智興は貨を聚めて飽くことなく、敬宗の誕月に因み、泗州に僧壇を置き、人を度して福を資け、厚利を邀えようと請うた。江・淮の民は、皆群をなして淮を渡った。徳裕は奏論して言った。
王智興は所属の泗州に僧尼戒壇を置き、去る冬から江・淮以南で、至る所に榜を懸けて招き置いた。江・淮では元和二年以後、私度を敢えてしなかった。泗州に壇があると聞くや、戸に三丁あれば必ず一丁を落発させ、王徭を規避し、資産を影庇する意図がある。正月以来、落発する者は数えきれない。臣は今、蒜山渡で通過する者を点検すると、一日に百余人、尋問するとただ十四人が旧日の沙弥で、残りは蘇・常の百姓であり、また本州の文憑もなく、早速本貫に還すよう命じた。泗州の置壇の次第を尋ね聞くと、凡そ僧徒が到れば、人ごとに二緡を納め、牒を与えれば即時に帰り、別に法事はない。もし特に行って禁止しなければ、誕節までに、江・淮以南で六十万の丁壮を失う計算である。この事は小さくなく、朝廷の法度にかかわる。
状が奏上されると、即日に詔して徐州にこれを罷めさせた。
敬宗は荒淫日を追って甚だしく、遊幸は常なく、賢能を疎遠し、群小に昵比した。朝に坐する月に二三度もなく、大臣は進言を得ることが稀であった。海内は憂危し、宗社の移ることを慮った。徳裕は身は廉鎮に居ながら、王室に心を傾け、使者を遣わして《丹扆箴》六首を献じ、言った。
臣聞く、『心乎愛すれども、遐(とお)く謂(い)わざるなり』と。これ古の賢人の、事君に篤なる所以なり。跡疎にして言親しき者は危うく、地遠にして意忠なる者は忤(さから)う。然れども臣竊(ひそ)かに思うに、先聖より抜擢され、偏(ひとえ)に寵光を荷(にな)う。若し忠をもって君を愛さざれば、則ち是れ上(かみ)に霊鑒(れいかん)を負うなり。臣頃(ちか)ごろ先朝に事え、陰沴(いんれい)多きに属(あた)り、嘗て『大明賦』を献じて以て諷(ふう)せしに、頗る先朝の嘉納(かのう)を蒙る。臣今日明主に節を尽くすも、亦た是の心に由る。昔、張敞の遠郡を守り、梅福の遐僥(かぎょう)に在りしも、尚ほ誠を竭(つく)し忠を尽くし、尤悔(ゆうかい)を避けざりき。況んや臣嘗て旧史を学び、頗る箴諷(しんぷう)を知る。疎遠に在りと雖も、猶お献替(けんたい)を思う。謹んで『丹扆箴(たんいしん)』六首を献じ、仰いで睿鑒(えいかん)に塵(ちり)す。伏して兢惶(きょうこう)を積む。
その『宵衣箴(しょういしん)』に曰く、「先王政を聴くに、昧爽(まいそう)を以て俟(ま)つ。鶏鳴既に盈(み)ち、日出でて視る。伯禹(はくう)大聖、寸陰を貴しとす。光武至仁、反支(はんし)を忌まず。俾(し)むるなかれ、姜後(きょうごう)の独り簪珥(しんじ)を去るを。彤管(とうかん)言を記し、克く前誌を念う。」
その『正服箴(せいふくしん)』に曰く、「聖人服を作す、法象(ほうしょう)観るべし。宴遊に在りと雖も、尚ほ安を懐かず。汲黯(きゅうあん)は荘色(そうしょく)にして、能く冠せざるを正す。楊阜(ようふ)は毅然(きぜん)として、亦た縹紈(ひょうかん)を譏(そし)る。四時に禦(ぎょ)する所、各々其の官有り。此れに非ざれば服する勿れ、惟(こ)れ辟の難き所なり。」
その『罷献箴(はいけんしん)』に曰く、「漢文(かんぶん)献を罷(や)め、詔して騄耳(ろくじ)を還す。鑾輅(らんろ)徐(しず)かに駆る、焉(いずく)んぞ千里を用いん。厥(そ)の後の令王(れいおう)、亦た能く己を恭(うやうや)しうす。翟裘(てききゅう)既に焚け、筒布(とうふ)則ち毀(やぶ)る。道徳を麗(うるわ)しと為し、慈仁を美と為す。天道を過(す)ぎず、斯(こ)れ至理と為す。」
その『納誨箴(のうかいしん)』に曰く、「惟(こ)れ後(きみ)誨(かい)を納れ、以て厥(そ)の中を求む。善に従うこと流るるが如く、乃(すなわ)ち能く功を成す。漢の驁(ごう)流湎(りゅうべん)し、白(はく)を挙げて鐘(しょう)を浮かぶ。魏の睿(えい)侈汰(したい)し、凌霄(りょうしょう)に宮を作す。忠は忤(さから)わざると雖も、善にも従わず。規(き)を以て瑱(てん)と為す、是れを塞聰と謂う。」
その『辯邪箴(べんじゃしん)』に曰く、「上に居りて深きに処るは、微萌(びほう)を察するに在り。讒慝(ざんとく)有りと雖も、能く明を蔽(おお)うこと能わず。漢に昭(しょう)有り、徳は周の成(せい)を過ぐ。上書(じょうしょ)偽(ぎ)を知り、奸(かん)を照らして情を得る。燕(えん)・蓋(がい)既に折れ、王猷(おうゆう)洽平(こうへい)す。百代の後、乃ち淑声(しゅくせい)を流す。」
その『防微箴(ぼうびしん)』に曰く、「天子の孝、王度(おうど)を敬(つつし)んで遵(したが)う。安きに必ず危うきを思えば、乃ち遺慮(いりょ)無し。乱臣猖蹶(しょうけつ)す、数(しば)す可からず。玄黄(げんこう)弁(わきま)えず、瑟(しつ)に触れて始めて仆(たお)る。柏谷(はくこく)微行(びこう)し、豺豕(さいし)路を塞ぐ。貌(かたち)を睹(み)て飧(そん)を献ず、斯(こ)れ懼(おそ)るる可きを誡(いまし)む。」
帝手詔を下して答えて曰く、「卿は文雅の大臣、方隅(ほうぐう)の重寄(じゅうき)なり。諸部を表率し、全呉を粛清す。化は行春(こうしゅん)に洽(あまね)く、風は坐嘯(ざしょう)に澄む。眷言(けんげん)善政、想嘆(そうたん)懐(いだ)くに在り。卿の宗門、累(しばしば)声績を著す。内廷に冠する者両代、侯伯を襲(つ)ぐ者六朝。果たして能く君を愛するの誠を激し、詩人の旨を諭(さと)す。遠きに在りて忠告を忘れず、上を諷して常に微を深く慮う。我を博(ひろ)くして端躬(たんきゅう)を以てし、予を約して礼に循(したが)わしむ。三たび規諫を復(かえり)み、累夕(るいせき)称嗟(しょうさ)す。之を座隅(ざぐう)に置き、韋弘(いこう)の益に比し用う。之を心腑(しんぷ)に銘し、何(いず)くんぞ薬石の功に啻(ただ)ならんや。卿既に投誠(とうせい)するを以てす、朕毎(つね)に開諫(かいかん)を懐(おも)う。苟(もし)過挙有らば、密陳を忘るる無かれ。山川既に遐(とお)し、睠属(けんぞく)何ぞ已(や)まん。必ず当に己を克(よ)くして、以て乃(なんじ)の誠に副わん。」
德裕の意は切諫に在りて、言を斥(しりぞ)けんと欲せず、箴に托して以て意を尽くす。『宵衣』は、坐朝稀晩なるを諷す。『正服』は、服禦乖異なるを諷す。『罷献』は、征求玩好なるを諷す。『納誨』は、侮棄讜言(ぼうきとうげん)なるを諷す。『辨邪』は、信任群小なるを諷す。『防微』は、軽出遊幸なるを諷す。帝其の言を尽く用うる能わざりと雖も、学士韋処厚に命じて殷勤(いんぎん)に詔に答えしめ、頗る其の心を嘉納す。德裕久しく江介に留まり、心は闕廷(けってい)を恋い、事に因りて情を寄せ、聖奨の回(かえ)るを望む。而るに逢吉軸に当たり、其の塗を枳棘(ききょく)す。竟(つい)に内徙(ないし)を得ず。
宝暦二年、亳州言う、聖水出ず、之を飲む者は疾を愈(い)やすと。德裕奏して曰く、「臣訪聞するに、此の水は本(もと)妖僧の誑惑(おうわく)に因り、狡計(こうけい)以て銭を丐(こ)う。数月已来、江南の人、奔走して路を塞ぐ。毎(ごと)に三二十家、都(すべ)て一人を顧(やと)いて水を取らしむ。取らんと擬(はか)るの時、疾者は葷血(くんけつ)を断食し、既に飲みし後、又た二七日(にしちにち)蔬飧(そそん)す。危疾の人、之を俟(ま)ちて病を愈やす。其の水斗価三貫、而して取る者之に他水を益し、路に沿いて転(うつ)りて以て人に市(う)る。老疾之を飲み、多(しばしば)危篤に至る。昨(さき)に両浙・福建の百姓の江を渡る者を点ずるに、日三五十人。臣蒜山渡に於いて已に捉搦(とくじゃく)を加う。若し其の根本を絶たざれば、終に黎氓(れいぼう)に益無し。昔、呉の時に聖水有り、宋・斉に聖火有り。事皆妖妄、古人の非とす。本道観察使令狐楚に下し、速やかに填塞(てんそく)せしめ、以て妖源を絶たんことを乞う。」之に従う。
敬宗、両街道士趙帰真の神仙の術を説くを以てし、異人を訪求して以て其の道を師とすべしとす。僧惟貞・斉賢・正簡、祠禱修福を説くを以てし、以て長年を致すとす。四人皆禁中に出入し、日々邪説を進む。山人杜景先、状を進めて、江南に於いて異人を求訪せんことを請う。浙西に至り、言う、隠士周息元有り、寿数数百歳と。帝即ち高品・薛季棱を令し、潤州に往きて之を迎えしむ。仍詔して德裕に公乗を給し遣わさしむ。德裕、中使の還るに因り、疏を献じて曰く。
臣聞く、道の高き者は、広成・玄元の如きはなく、人の聖なる者は、軒黄・孔子の若きはなしと。昔し軒黄、広成子に問う、身を治むるの要、何を以てか長久ならんと。対えて曰く、「視ること無く聴くこと無く、神を抱いて静かにす。形は自ら正しからん、神は必ず自ら清からん。子の形を労すること無く、子の精を揺るがすこと無く、乃ち長生すべし。慎んで其の一を守り、以て其の和に処る。故に我れ身を修むること千二百歳、吾が形未だ嘗て衰えず」と。又云く、「吾が道を得る者は、上は皇となり下は王となす」と。玄元、孔子に語りて曰く、「子の驕気と多欲とを去り、態色と淫志とを去れ、是れ皆子の身に益無し。吾の子に告げる所の者は是れ已に」と。故に軒黄は天を謂うの嘆を発し、孔子は猶龍の感を興す。前聖の道に於ける、其れ至らざるか。伏して惟うに、文武大聖広孝皇帝陛下、玄祖の訓を用い、軒黄の術を修め、神を凝らして閑館に在り、異人を物色し、将に以て冰雪の姿を覿し、順風の請を屈せんとす。恭しく惟うに聖感、必ず真仙を降すべし。若し広成・玄元をして混跡して至らしめ、陛下に道を語り、陛下に言を授けしめば、臣の度り思うに、此に出ずるは無し。臣の慮る所、召しに赴く者は、必ず迂怪の士、苟合の徒にして、物をして氷を淖せしめ、以て小術と為し、邪僻を炫耀し、聰明を蔽欺せん。文成・五利の如く、一も験すべき無し。臣の所以に三年の内、四たび詔書を奉りて、未だ敢て一人を以て詔を塞がざるは、実に懼るる所有るなり。臣又聞く、前代の帝王、方士を好むと雖も、未だ其の薬を服する者有らず。故に『漢書』に称す、黄金成す可く、以て飲食の器と為せば則ち寿を益すと。又高宗朝の劉道合、玄宗朝の孫甑生、皆黄金を成すと雖も、二祖竟に敢て服せず。豈に宗廟社稷の重きを以て、軽々しくす可からざるに非ずや。此事炳然として国史に載す。臣の微見を以てす、倘し陛下睿慮精求して、必ず真隠を致さば、唯だ保和の術を問い、餌薬の功を求めず、縦令黄金必ず成るとも、止む可く玩好に充つるのみ。則ち九廟の霊鑒、必ず当に慰悦すべく、寰海の兆庶、誰か歓心せざらん。臣愚衷を竭くして思ひ、以て玄化に裨益せんと欲し、兢憂の至りに任せず。
息元京師に至る。帝之を山亭に館し、道術を以て問う。自ら張果・葉静能を識ると言う。詔して写真待詔李士昉に其の形状を問わしめ、図して以て進む。息元は山野の常人、本より道学無く、事を言うこと誕妄にして、人情に近からず。及んで昭湣盗に遇いて殂し、文宗之を江左に放還す。徳裕深く識りて正を守る、皆此の類なり。
文宗即位し、就いて検校礼部尚書を加う。太和三年八月、兵部侍郎として召す。裴度之を以て相と為すべく薦む。而して吏部侍郎李宗閔は中人の助有り、是の月平章事を拝し、徳裕の大用を懼る。九月、検校礼部尚書と為し、出でて鄭滑節度使と為す。徳裕は逢吉に擯かれて、浙西に在ること八年。闕庭に遠ざかる雖も、毎に章を上て事を言う。文宗素より忠藎を知り、朝論を采りて之を征す。到る未だ旬時にあたらず、又宗閔に逐われ、中に懐くに於悒、自ら申す所以無し。鄭覃の禁中に侍講するに頼り、時に其の善を称す。朋党流言と雖も、帝乃心未だ已まず。宗閔尋いで牛僧孺を引きて同く政事を知らしめ、二憾相結び、凡そ徳裕の善き者は、皆之を外に斥く。四年十月、徳裕を以て検校兵部尚書・成都尹・剣南西川節度副大使・節度事を知る・管内観察処置・西山八国雲南招撫等使と為す。裴度は宗閔に恩有り。度淮西を征する時、宗閔を請うて彰義観察判官と為し、此より後名位日進す。是に至りて度の徳裕を援くるを恨み、度の相位を罷め、出でて興元節度使と為す。牛・李の権、天下に赫たり。
西川は蛮寇の剽號したる後を承け、郭釗撫理の術無く、人の聊生する無し。徳裕乃ち復た関防を葺き、兵守を繕完す。又人を遣わして南詔に入り、其の俘えしる所の工匠を求め、僧道工巧四千余人を得て、復た成都に帰す。五年九月、吐蕃維州の守将悉怛謀、城を以て降らんことを請う。其の州は南界江陽にし、岷山は嶺を連ねて西に走り、其の極まるを知らず。北に隴山を望めば、積雪玉の如し。東に成都を望めば、井底に在るが若し。一面孤峰、三面江に臨み、是れ西蜀の吐蕃を控うる要地なり。至徳の後、河・隴は蕃に陥ち、唯だ此の州のみ尚存す。吐蕃は険要を利し、婦人を此の州の閽者に嫁す。二十年の後、婦人は二子を生み成長す。蕃兵の城を攻むるに及び、二子内応し、其の州遂に陥つ。吐蕃之を得て、号して「無憂城」と曰う。貞元中、韋臯蜀を鎮め、西山八国を経略し、万計を以て之を取るも獲ず。是に至りて悉怛謀、人を遣わして款を送る。徳裕其の詐を疑い、人を遣わして錦袍金帯を之に送り、進止を取るを候うと托け言う。悉怛謀乃ち尽く郡人を率いて成都に帰す。徳裕乃ち兵を発して鎮守し、因りて出でて攻むるの利害を陳ぶ。時に牛僧孺議を沮み、新に吐蕃と盟を結ぶと言い、約を敗るに宜しからずと。語は『僧孺伝』に在り。乃ち詔して徳裕に悉怛謀一部の人を却て維州に送還せしむ。賛普之を得て、皆虐刑を加う。徳裕六年に復た邛峡関を修し、巂州を臺登城に移して以て蛮を扞ぐ。
徳裕の歴れる征鎮は、政績を以て聞こゆ。其の蜀に在るや、西は吐蕃を拒ぎ、南は蛮・蜒を平ぐ。数年之内、夜犬驚かず。瘡痏の民、粗く以て完復す。会に監軍王踐言朝に入りて枢密を知る。嘗て上前に於いて悉怛謀を縛送して以て戎心を快くし、帰降の義を絶つと言う。上頗る僧孺を尤む。其の年冬、徳裕を兵部尚書として召す。僧孺相を罷め、出でて淮南節度使と為す。七年二月、徳裕本官を以て平章事と為り、進みて贊皇伯に封ぜられ、食邑七百戸。六月、宗閔亦罷め、徳裕代わりて中書侍郎・集賢大学士と為る。
其の年十二月、文宗暴風恙に罹り、言うこと能わざること月余。八年正月十六日、始めて力疾して紫宸に御し百僚に見ゆ。宰臣退きて安否を問う。上嘆じて医に名工無きことを久しうす。此より王守澄鄭註を進む。初め、註は宋申錫の事を構う。帝深く之を悪み、京兆尹をして杖殺せしめんと欲す。是に至りて薬稍く効あるを以て、始めて之を善遇す。守澄復た李訓を進む。訓は『易』に善し。其の年秋、上訓に諫官を授けんと欲す。徳裕奏して曰く、「李訓は小人、陛下の左右に在るべからず。頃年悪積み、天下皆知る。故無く之を用いれば、必ず視聴を駭すべし」と。上曰く、「人誰か過ち無からん、其の悛改を俟つ。朕は逢吉の托する所を以て、言を負うに忍びず」と。徳裕曰く、「聖人に過ちを改むるの義有り。訓は天性奸邪、悛改の理無し」と。上王涯を顧みて曰く、「商量して別に一官を与えよ」と。遂に四門助教を授く。制出ずるや、給事中鄭肅・韓佽之を封じて下さず。王涯、肅を召して面に喻し令して下さしむ。俄にして鄭註亦た絳州より至る。訓・註は徳裕の己を排するを悪み、九月十日、復た宗閔を興元より召し、中書侍郎・平章事を授け、徳裕に代わる。徳裕を出して興元節度使と為す。徳裕中謝の日、自ら闕を恋うるを陳べ、出藩するを願わず。追って勅して兵部尚書を守らしむ。宗閔奏して制命已に行わる、自便すべからずと。尋いで検校尚書左僕射・潤州刺史・鎮海軍節度・蘇常杭潤観察等使に改め、王璠に代わる。
德裕は任地に至り、詔を奉じて宮人杜仲陽を道観に安置し、これに供給を与えた。仲陽は、漳王の養母であり、王が罪を得たため、仲陽を潤州に放逐したのである。九年三月、左丞王璠・戸部侍郎李漢が状を進めて論じ、德裕が任地において厚く仲陽に賂を贈り、漳王と結託して、不軌を図ったと述べた。四月、帝は蓬萊殿において王涯・李固言・路隨・王璠・李漢・鄭註等を召し、面と向かってこの事を証言させた。璠・漢は誣告と捏造を加え、言葉は甚だ切迫していた。路隨が奏上して言うには、「德裕は実はここまで至らない。誠に璠・漢の言う通りならば、微臣もまた罪を得るべきである。」群議はやや収まった。間もなく德裕を太子賓客に任じ、東都に分司させた。その月、また袁州長史に貶した。路隨は德裕を証言したことで連座し、宰相を罷められ、浙西に出鎮した。その年七月、宗閔は楊虞卿を救ったことで連座し、処州に貶された。李漢は宗閔に与したことで連座し、汾州に貶された。十一月、王璠は李訓と乱を造って誅殺されたが、文宗は深く前事を悟り、德裕が朋党によって誣告されたことを知った。明年三月、德裕に銀青光禄大夫を授け、量移して滁州刺史とした。七月、太子賓客に遷した。十一月、検校戸部尚書とし、再び浙西観察使とした。德裕は凡そ三度浙西を鎮め、前後十余年に及んだ。
開成二年五月、揚州大都督府長史・淮南節度副大使・節度使事知事を授け、牛僧孺に代わった。初め、僧孺は德裕が己に代わることを聞き、軍府の事を副使張鷺に交付し、即時に朝廷に入った。時に揚州府の蔵する銭帛は八十万貫匹あったが、德裕が任地に至った時、奏上して領得したのは四十万に止まり、半分は張鷺が支用し尽くしていた。僧孺は上章してこの事を訟え、詔して德裕に重ねて検括させたところ、果たして僧孺の言う数であった。德裕は初めて任地に着いた時病気で、吏に隠蔽欺瞞されたと称し、罰を請うた。詔してこれを釈放した。補闕王績・魏謨、崔党の韋有翼・拾遺令狐綯が書を左僕射に上す。五年正月、武宗が即位した。七月、德裕を淮南より召した。九月、門下侍郎・同平章事を授けた。
初め、德裕の父吉甫は、五十一歳で淮南に出鎮し、五十四歳で淮南より再び宰相となった。今、德裕が淮南を鎮め、再び宰相に入ったことは、父の年齢と全く同じであり、これも異事であった。
會昌元年、左僕射を兼ねた。開成の末、回紇は黠戛斯に攻撃された。戦いに敗れ、部族は離散した。烏介可汗は太和公主を奉じて南来した。會昌二年二月、塞上に牙を置き、使を遣わして兵糧の援助を求め、本国を収復し、天徳軍を仮に借りて公主を安んじようとした。時に天徳軍使田牟は、沙陀・退渾等の諸部落の兵をもってこれを撃つことを請うた。上の意は未だ決せず、百官に下して商議させたが、議する者は多く牟の奏の如くすべしと言った。德裕は言う、「近頃国家艱難の際、回紇は引き続き大功を立てた。今、国破れ家亡び、逃げ投ずる所なく、自ら塞上に居るも、未だ侵淫に至らず。窮して来帰するに、急に行って殺伐するは、漢の宣帝が呼韓邪を待った道ではない。聊か資糧を済すに如かず、徐々にその変を観るがよかろう。」宰相陳夷行は言う、「これは寇に兵を借りて盗に糧を資するものであり、計略ではない。撃つのが便利である。」德裕は言う、「田牟・韋仲平が沙陀・退渾は共に賊を撃つことを願うと言うが、これは緩急によって恃むべからざるものである。利を見れば進み、敵に遇えば散るは、雑虜の常態であり、必ずや国家のために辺境を扞禦しようとはしない。天徳一城は、戍兵が寡弱であるのに、勁虜と讎を結ぼうとすれば、陥れることは必至である。理をもってこれを恤れむに如かず、その越軼を俟ち、用兵するが便利である。」帝はこれを然りとし、米三万石を借り与えることを許した。
やがて回紇の宰相霡没斯が赤心宰相を殺し、その衆を率いて来降した。赤心の部族はまた幽州に投じた。烏介は勢い孤となり、これに米を与えなかったので、その衆は飢え疲れ、漸く振武の保大柵・杷頭峰に近づき、朔州の州界に突入した。沙陀・退渾は皆その家を以て山険を保ち、雲州の張献節は城を嬰いて自ら固守した。虜は大いに掠奪をほしいままにし、遂に拒ぐ者はなかった。上はこれを憂い、宰臣と事を計った。德裕は言う、「杷頭峰の北は、即ち沙磧であり、あの地での野戦には、騎兵を用いねばならない。もし歩卒を以てこれに敵すれば、理の上から必勝は難しい。今、烏介の恃むところは公主である。もし勇将をして奇を出して公主を奪い得させれば、虜は自ずから敗れるであろう。」上はこれを然りとし、即ち德裕に制を草して代北の諸軍を処分させ、関防を固め、奇形勢を以て劉沔に授けた。沔は大将石雄に命じて急に可汗を殺胡山において撃たせた。これを破り、公主を迎えて還宮させた。語は『石雄伝』にある。間もなく司空に進位した。
三年二月、趙蕃が奏上して、黠戛斯が安西・北庭都護府を攻撃したので、出師して応援すべきであると言った。德裕は奏上して言うには、
地誌に拠れば、安西は京を去ること七千一百里、北庭は京を去ること五千二百里である。承平の時、西路は河西・隴右より玉門関を出て、迤邐として国家の州県であり、所在には皆重兵があった。その安西・北庭の要兵は、側近より征発するに便であった。艱難以後より、河・隴は尽く吐蕃に陥ち、もし安西・北庭に通ずるには、回紇の路を取って行かねばならない。今回紇は破滅し、また確かに黠戛斯に属するか否かも知れない。仮令救い得たとしても、便ち却って都護を置き、漢兵を以て鎮守せねばならない。毎処一万を下らず、一万の兵を何より征発するか。饋運は何の道路を取るか。今天徳・振武は京に至って近く、兵力は常に不足を苦しむ。無事の時でさえ糧を貯えて三年を支え得ず、朝廷の力は猶及ばない。況んや七千里の安西を保たんや。臣が謂う所以に、仮令これを得たとしても、実は往昔無用のものである。昔、漢の宣帝の時、魏相は車師の田を罷めることを請い、漢の元帝の時、賈捐之は珠崖郡を棄つることを請い、国朝の賢相狄仁傑もまた四鎮を棄て、斛瑟羅を立てて可汗とし、また安東を棄て、却って高氏を立てることを請うた。蓋し外に貪り内を虚しくし、生霊を耗竭せしむるを欲せざるがためである。この三臣は、自らこれを有する時に当たり、尚これを棄てて以て中国を肥やすことを欲した。況んや万里を隔越して、安んぞこれを救えようか。臣は蕃戎の計多く、国の力及ばざるを知り、偽り且つこれを許し、中国の金帛を邀求することを恐れる。陛下は中悔すべからず。これ則ち実費を以て虚事に換えることであり、即ちは一回紇を滅ぼして而又びこれを生ずるに等しく、計略として便ならざるを恐れる。
乃ち止めた。
李德裕はまた、太和五年に吐蕃の維州守将が城を降してきたが、牛僧孺に阻まれ、ついに維州を失ったことを論じて上奏した。曰く、臣は先朝において、西蜀に出鎮した。その時、吐蕃の維州首領悉怛謀は、雑虜ではあるが、久しく皇風を慕い、その堅城を率いて臣の本道に降った。臣は直ちに兵馬を差し向けてその城を占拠し、急報をもって上聞したところ、先帝は驚嘆された。その時、臣と不仲であった者は、風聞に乗じて臣を嫉み、急いで疑わしい言葉を献上し、上を欺いて宸聴を惑わし、吐蕃との盟約は背くべからず、必ずやこれを口実として侵犯してくるであろうと申し上げた。詔勅により臣はこの城を返還し、さらに悉怛謀らを捕らえて送り、彼らに自ら誅殺させるよう命じられた。さらに中使が降りて、送還を督促した。昔、白起が降伏者を殺したため、ついに杜郵で禍いに遭い、陳湯が流刑に処せられたのは、郅支の仇を報いたためである。前事を感嘆し、終日愧じる思いである。今、幸いに英主に逢い、忝くも台司に備わる身となり、敢えて往事を追論する次第である。伏してご省察を願う。かつ維州は高山の絶頂に位置し、三方が江に臨み、戎虜の平野への要衝であり、漢地より兵を入れる通路である。初め、河州・隴州はことごとく陥落したが、この州のみが残存した。吐蕃は密かに婦人をこの州の門子に嫁がせた。二十年後、二人の男子が成長し、密かに塁門を開いて兵を引き入れ夜間に侵入し、これによって陥落し、「無憂」と号した。これにより西辺に力を集中させ、南路には憂いがなくなり、近郊を侵し、累朝にわたり宵旰の労をかけた。貞元年中、韋臯が河湟を経略しようとした際、この城を手始めとすべく、精鋭一万の軍旅を尽くし、数年をかけて急攻した。吐蕃はこれを非常に惜しみ、ついに舅の論莽熱を派遣して救援させた。城壁は高く険しく、衝車をもってしても層霄に及ぶことは難く、鳥の通うような屈曲した小道では、猛士も多く擂石に潰された。公輸の巧みさも発揮できず、空しく莽熱を捕らえて帰還したのみであった。そして南蛮が恩を負い、地を掃うように略奪を繰り返した。臣が初めて西蜀に到着した時、人心は未だ安まらず、外には国威を揚げ、内には辺境の守りを整えた。その維州が臣の信令に従い、臣に降伏を申し出た。臣は上奏を待つべきことを告げ、その真偽を探ることを望んだ。その悉怛謀はやがて一城の兵衆を率い、州の印と甲仗を携え、道を塞ぐほど相次いで、空の城壁を残して臣に帰順した。臣は大いに牙兵を出して、その降伏の礼を受けた。南蛮が列席していたが、仰ぎ見る者もなかった。況んや西山八国は、この州を隔てており、これまで帯びていた使名は、みな虚語となっていた。諸羌は久しく蕃中の徴役に苦しみ、大国の王民となることを願っていた。維州が降伏した後、皆が言うには、ただ臣の信牒と帽子さえ得れば、相率いて内属すると。その蕃界の合水・棲鶏などの城は、既に険阻を失い、自ら撤退せざるを得ず、八か所の鎮兵を減らすことができ、坐して千里の旧地を収めることができる。臣はこれが莫大な利益であり、まさに回復の基となると見た。引き続き詳細に奏上し、賞を与えるよう請うた。臣は自ら錦袍と金帯を与え、詔書を待ち望んだ。かつ吐蕃は維州が未だ降伏する前の年でさえ、なお魯州を包囲していた。このことから言えば、どうして盟約を守っていたと言えようか。況して臣は未だ兵を用いて攻め取ったわけではなく、彼らが自ら感化されて降伏してきたのである。また、この議論を阻む者は、事実を知らない。犬戎は鈍重で、土地は広く人はまばらであり、秋に乗じて辺境を侵犯しようとするたびに、皆数年にわたって食糧を調達しなければならない。臣が維州を得てから一か月余り、一人の使者も国境に入ってこなかった。この後こそ、彼らは肝を潰すべきであり、どうしてその後の怨みを慮り、このような浮説を煽ることがあろうか。臣が降伏を受けた時、天を指して誓った。どうして三百余人の性命を棄てて、信義を捨てて安きに就くことができようか。累表を上陳し、哀れみ赦されることを乞うた。答詔は厳しく切迫しており、ついに捕らえて送還することを命じ、さらに体に桎梏を着せ、竹の畚に乗せて運んだ。路に就こうとする時、冤罪を叫び天を呼んだ。将吏は臣に対し、涙を流さぬ者はいなかった。その護送の任に当たった者は、蕃帥の譏誚に遭い、「既に彼らに降ったのに、どうして送ってくる必要があるのか」と言われた。そしてこの降人たちを、漢界の上で誅戮し、恣に残害を加え、離反を固くするために用いた。ついにはその嬰児を投げ上げ、槍や槊で受け止めることさえあった。臣は聞く、楚の霊王が蛮子を誘い殺したことを、『春秋』は明らかに譏り、周の文王が外へ鄧叔を送ったことを、簡冊は深く鄙しむと。況んや大国が、この異類に負い、忠款の路を絶ち、兇虐の情を快くするなど、古来より未だかってこのようなことはなかった。臣は実に悉怛謀が一城を挙げて酷い目に遭ったことを痛み、臣がこの無辜の者を陥れたことを悔いる。忠魂を慰め、特に褒賞と追贈を加えられることを乞う。
帝はそのことを傷み、やがて官を追贈した。
その年、李德裕は司徒を兼ねた。四月、沢潞節度使劉従諫が卒去し、軍人はその甥の劉稹が擅に留後を総べることを許し、三軍は旌節の授与を請うた。帝は宰臣と議して可否を論じた。李德裕は言った。「沢潞は国家の内地であり、河朔とは異なる。前後に命じられた帥は、皆儒臣を用いた。近ごろ李抱真がこの軍を成立させ、身没した後、徳宗でさえも継承を許さず、李緘に喪を護って洛陽に帰ることを命じた。劉悟が鎮守となってから、長慶年中は甚だ自専であった。敬宗の因循に属し、ついに劉従諫の継承を許した。
開成初年、長子に軍を屯させ、晋陽の甲を興して君側の奸を除かんとし、鄭注・李訓と深く交結し、外には忠を効うと託しながら、実には窺伺の心を抱いていた。疾病の初めから、すでに劉稹に兵馬を管轄させていた。もし討伐を加えなければ、どうして四方に号令できようか。もし因循してこれを授ければ、則ち藩鎮は相倣い、ここより威令は失われるであろう。」帝は言った。「卿は用兵すれば必ず勝つと算えるか。」対えて言った。「劉稹の恃むところは、河朔三鎮のみである。ただ魏博・成徳の両鎮が劉稹と同調しなければ、これを破ることは必ずである。重臣一人を派遣し、聖旨を伝達させ、沢潞の帥を命ずることは三鎮とは異なること、艱難以来、歴代の聖上は皆三鎮の嗣襲を許し、既に故事となっていること、今国家が兵を加えて劉稹を誅伐しようとしていること、禁軍は山東に出ることを欲しないこと、その山東の三州は、鎮州・魏博に委せて出兵攻取させることを言わせてください。」上はこれを認め、御史中丞李回を三鎮に使いさせて旨を諭し、魏博・鎮州に詔書を賜って言った。「卿、子孫のための謀りごとをなすことなく、輔車の勢いを存せんと欲することなかれ。」何弘敬・王元逵は詔を受け、聳然として命令に従った。初め出兵を議した時、朝官の上疏が相次ぎ、劉従諫の例に依り、その継襲を許すべきことを請うた。また宰臣四人の中にも、出師が便ならざることを論ずる者がいた。李德裕は上奏して言った。「もし師を出して功がなければ、臣が自ら罪を引き受けます。李紳・李讓夷らを累わせないでください。」そして何弘敬・王元逵が出兵すると、李德裕はまた上奏して言った。「貞元・太和の間、朝廷が叛を伐つ時、諸道に会兵を詔し、境界を出ただけで度支の供餉を費やし、遅留逗撓して国力を困窮させた。あるいは密かに賊と商量し、一県一柵を取って勝捷としたため、師を出して功がなかった。今、王元逵・何弘敬に処分を下し、ただ州を収めるのみで、県邑を攻めさせないようにしてください。」帝はこれを認めた。そして王宰・石雄が進討し、一年を経ても沢潞を抜くことができなかった。何弘敬・王元逵が邢州・洺州・磁州の三州を収めると、劉稹の党は遂に離反し、平定殄滅するに至った。皆その算のごとくであった。
時に王師は方に澤潞を討たんとす。三年十二月、太原の横水戍兵は戍を移して榆社に至る。乃ち戈を倒して太原城に入り、節度使李石を逐い、其の都將楊弁を推して留後と為す。武宗は賊稹未だ殄せず、又太原の乱を起こすを以て、心頗る之を憂う。中使馬元貫を遣わして太原に往き宣諭せしめ、其の為す所を覘わしむ。元貫は楊弁の賂を受け、之を保祐せんと欲す。四年正月、使還りて奏して曰く、「楊弁の兵馬極めて多し、牙門より隊を列ねて柳子に至るまで、十五余里、明光甲地を曳く。」と。德裕奏して曰く、「李石比に城内に兵無きを以て、横水兵一千五百人を抽きて榆社に赴かしむ、安んぞ朝夕の間に便ち十五里の兵甲を致すを得んや。」と。元貫曰く、「晉人は驍敢にして、尽く兵と為す可く、重賞を以て招致するのみ。」と。德裕曰く、「招召には須らく財有り、昨横水の兵乱は、只だ絹一匹を欠くが為のみ。李石に得る処無くんば、楊弁何に従ってか致さん。又太原に一聯の甲有り、並に行営に在り、安んぞ十五里の明光を致さんや。」と。元貫詞屈す。德裕奏して曰く、「楊弁は微賊、決して恕す可からず。如し国力及ばずんば、寧ろ劉稹を捨てよ。」と。即時に詔を降すを請い、王逢をして榆社の軍を起こさしめ、又王元逵の兵をして土門より入り、太原に会せしむ。河東監軍呂義忠之を聞き、即日榆社の本道兵を召し、楊弁を誅して以て聞かしむ。
開成五年冬回紇天德に至りより、会昌四年八月澤潞を平ぐるに至るまで、首尾五年、其の籌度機宜、将帥を選用し、軍中の書詔、奏請雲の如く合し、草を起し蹤を指すは、皆獨り德裕に決し、諸相預かる無し。功を以て太尉を兼ね守り、衛国公に進み封ぜられ、三千戸。五年、武宗徽號を上ぐる後、累表して骸を乞うも、許さず。德裕病み月余り、堅く機務を解くを請う、乃ち本官平章事を以て江陵尹・荊南節度使を兼ぬ。数月にして追い還し、復た政事を知る。宣宗即位し、相を罷め、出でて東都留守・東畿汝都防禦使と為る。
德裕は特だ武宗の恩顧を承け、樞衡に委ねらる。決策論兵、挙げて遺悔無く、身を以て難を扞ぎ、功社稷に流る。昭肅天下を棄つるに及び、不逞の伍、皆其の功を害す。白敏中・令狐綯は、会昌中德裕朋党を以て之を疑わず、之を臺閣に置き、顧待甚だ優なり。德裕勢を失うに及び、掌を抵ち手を戟し、同謀して斥逐し、而して崔鉉も亦会昌末相を罷めて德裕を怨む。
大中初、敏中復た鉉を薦めて中書に在らしむ、乃ち相與に掎摭し構致して、其の党人李鹹なる者をして、德裕輔政の時の陰事を訟わしむ。乃ち德裕の留守を罷め、太子少保を以て東都に分司せしむ、時に大中元年秋。尋いで再び潮州司馬に貶す。敏中等又前永寧県尉吳汝納をして状を進めしめ、李紳揚州に鎮する時の謬れる刑獄断ずるを訟わしむ。明年冬、又潮州司戸に貶す。德裕既に貶せられ、大中二年、洛陽より水路を経て江・淮を赴き潮州に至る。其の年冬、潮陽に至り、又崖州司戸に貶す。三年正月に至り、方に珠崖郡に達す。十二月卒す、時に年六十三。
德裕は器業を以て自ら負い、特達にして群れず。書を著し文を為すを好み、善を奨め悪を嫉み、位極めて臺輔と雖も、而して読書輟まず。劉三復なる者有り、章奏に長ず、尤も奇として之を待つ。德裕始め浙西を鎮むるより、淮甸に迄るまで、皆参佐賓筵す。軍政の余、之と吟詠して終日す。長安の私第に在りて、別に起草院を構う。院に精思亭有り。朝廷兵を用うる毎に、詔令制置し、而して獨り亭中に処り、凝然として管を握り、左右の侍者預かる能わず。東都に於いて伊闕の南に平泉別墅を置き、清流翠{{PUA|〓}}、樹石幽奇なり。初め未だ仕えざる時、其の中に講学す。官に従い籓服に及び、出でて将となり入りて相と為り、三十年復た遊ばず、而して題寄する歌詩は、皆之を石に銘す。今に《花木記》・《歌詩篇錄》二石存す。文集二十巻有り。旧事を記述するは、則ち《次柳氏旧書》・《御臣要略》・《代叛志》・《献替錄》世に行わる。
初め潮州に貶さるるや、蒼黄顛沛の中に在りと雖も、猶著述に心を留め、雑序数十篇、号して《窮愁志》と曰う。其の《論冥数》に曰く、
仲尼は命を罕に言い、神を語らず、無きを謂うに非ざるなり。人に三綱の道を厳にし、五常の教を奉じ、天爵を修めて人爵を致さしめ、富貴を天命に信じ、福祿を冥数に委ねしめざらんと欲するなり。昔衛は沙兵に協して卜し、謚を為す已に久し。秦は臨洮に属して塞ぎ、名子悟らず。朝歌未だ滅せずして、国丹烏に流れ、白帝尚在りて、漢素蛇を断つ。皆兆は先に発し、而して符は後に応ず、以て智測す可からず。周・孔は天地と德を合わし、神明と契を合わし、将来の数、情を遁るる所無し。而して狼は周に跋し、鳳は楚に衰う、豈に親戚の義、去く可からざるか、人倫の教、廃す可からざるか。條侯の貴、鄧通の富、兵革に死するは可なり、女室に死するは可なり、唯だ餒を以て終わるに宜しからず、此れ又理を以て得る可からざるなり。命偶時に来たり、名器を盗む者は、禍福は胸懐より出で、栄枯は口吻より生ずと謂い、沛然として安んじ、溘然として笑い、曾て黄雀茂樹に遊び、而して弾を挟む者其の後に在るを知らず。乙丑の歳、予自ら荊楚より、東周を保厘し、路方城の間に出づ。隠者有りて泥塗に困し、其の如く所を知らず、方城長に謂いて曰く、「此の官人居守の後二年、南行すること万里。」と。則ち知る、予を憾む者は必ず天譴に因り、予を譖る者は乃ち鬼謀より自らすと。至冤を抱くと雖も、恨と為さず。予嘗て三たび異人に遇う、卜祝の流に非ず、皆遁世者なり。初め記を掌りて北門に在りし時、管涔の隠者予に謂いて曰く、「君明年当に人君の左右に在り、文翰の職を為し、須らく少主に値わん。」と。予之を聞き、愕然として色を変え、隠者亦失言を悔い、席を避けて去らんと求む。予問うて曰く、「何ぞ少主に事えん。」と。対えて曰く、「君と少主は已に宿縁有り。」と。其の年秋朝に登り、明年正月に至り、穆宗緒を纘ぎ、禁苑に召し入る。中丞と為るに及び、閩中の隠者門を叩きて見請う、予榻を下して与に語る。曰く、「時事久しからず、公早く去らざれば、冬必ず相を作し、禍将に至らん。若し亟に外に居るを請わば、則ち公に代わる者患を受く。公後十年終に当に相を作し、西より入らん。」と。是の秋、出でて呉門を鎮む、時に年三十六歳。八稔を経て、尋いで又鉞を仗して南燕す。秋暮、邑子の於生有りて鄴郡の道士を引き至る。階を升るに才し、未だ席を命ぜざるに、予に謂いて曰く、「公当に西南の節制と為り、孟冬望舒の前、符節至らん。」と。三者皆之と協い、歳月を差かさず。憲闈より竟に十年相位に居り、西蜀より入り、予に代わって憲を持つ者、俄に亦竄逐せらる。唯だ再び南荒に謫せらるるは、未だ嘗て前知の士有りて予の為に之を言うこと無し。豈に禍患移す可からざる者、神道の秘する所、預り聞くを得ざるか。
其の自序此の如し。斯の論は以て躁競の者を警ます可く、故に事の末に書す。
德裕に三子あり。燁は、検校祠部員外郎・汴宋亳観察判官。大中二年、父の事に坐して象州立山尉に貶せられる。二子は幼く、父に従って崖州にて歿す。燁は咸通初めに量移されて郴州郴県尉となり、桂陽にて卒す。子に延古あり。
【史評】
史臣曰く、臣が総角の時、しばしば耆徳より衛公(李德裕)の故事を聞く。是の時、天子は神武にして、聴断に明らかなり。公も亦た身を以て難を犯し、特達の遇に酬ゆ。言は行はれ計は従はれ、功成り事遂げ、君臣の分、千載一時なり。其の禁掖に弥綸し、巌廊に啓奏し、敵を料り勝を制し、襟霊独断するを観るに、由基の命中するが如く、虚発する罔し、実に奇才なり。文章を語れば、則ち厳・馬も扶輪し、政事を論ずれば、則ち蕭・曹も席を避く。其の位を窃むを罪するは、即ち太だ深文なり。議する可き者は、憾を釈し仇を解き、以て徳を以て怨に報い、是非を度外に泯し、彼我を環中に斉うする能はざるなり。夫の市井の徒と、錐刀の末を力戦し、身を瘴海に淪して、傷心と為す可し。古の所謂く、金を攫む都下、市人に忽ちにし、離婁も眉睫に見えず。才は則ち才なり、道を語れば則ち難し。
【贊】
贊して曰く、公の智決、利なること青萍の若し。虜を破り叛を誅し、枯を摧き瓴を建つ。功は北闕に成り、骨は南溟に葬る。嗚呼煙閣、誰か丹青に上らん。