卷一百七十四
李德裕
初め、吉甫が宰相の位にあった時、牛僧孺・李宗閔が制挙の直言極諫科に応じた。二人は詔に対し、時政の失を深く誹謗したので、吉甫は帝の前で泣いて訴えた。これにより、考策官は皆貶され、事は『李宗閔伝』にある。元和初年、兵を用いて叛を伐つことは、杜黄裳が蜀を誅したことに始まる。吉甫は経画し、両河を定めようとし、まさに出師しようとした時に卒した。その後を継いだのは元衡・裴度である。しかし韋貫之・李逢吉が議を沮み、深く用兵を非とした。そして韋・李は相次いで宰相を罷められたので、逢吉は常に吉甫・裴度を怨んだ。そして徳裕は元和の時、長く調官されず、逢吉・僧孺・宗閔は私怨をもって常にこれを排斥した。
時に徳裕は李紳・元稹と共に翰林に在り、学識才名が類いし、情誼は甚だ密であった。しかし逢吉の党はこれを深く憎んだ。その月、学士を罷め、御史中丞として出された。その元稹は禁中より出て、工部侍郎・平章事に任ぜられた。三月、裴度が太原より再び政を輔けた。この月、李逢吉も襄陽より朝廷に入り、密かに賄賂を用いて小人を買い、于方の獄を構成した。六月、元稹・裴度は共に宰相を罷められた。稹は同州刺史として出された。逢吉は裴度に代わって門下侍郎・平章事となった。権位を得ると、鋭意怨みに報いようとした。時に徳裕と牛僧孺は共に宰相の声望があり、逢吉は僧孺を引き入れようとしたが、李紳と徳裕が禁中でこれを沮むことを恐れた。九月、徳裕を浙西観察使として出し、まもなく僧孺を引き入れて同平章事とした。これにより交怨は愈々深くなった。
徳裕は壮年にして位を得、布政に鋭意励み、旧俗で民を害するものは、全てその弊を革めた。江・嶺の間では巫祝を信じ、鬼怪に惑わされ、父母兄弟が重病になると、一家挙げてこれを棄てて去った。徳裕はこの風を変えようとし、郷人の中で識見ある者を選び、言葉をもって諭し、法をもって律した。数年の中に、弊風は忽ち革まった。属郡の祠廟については、方誌に按じ、前代の名臣賢者の後裔ならばこれを祀った。四郡の内、淫祠一千十所を除いた。また私邑の山房一千四百六十を罷め、寇盗を清めた。人々はその政を喜び、優詔をもってこれを嘉した。
昭湣皇帝は童年より歴を継ぎ、頗る奢侈に事とした。即位の年の七月、詔して浙西に銀盝子の化粧具二十事を造り内に進めるよう命じた。徳裕は奏上して言う。
臣下たる私は多くの幸いに遇い、昌平の世に遭うことを得た。名ある藩鎮に任を寄せられ、常に職務を怠ることを憂え、孜々として朝から晩まで励み、国の恩に報いようとした。数年このかた、災害と旱魃が相次ぎ、微力な思慮を尽くして、辛うじて流亡を免れ、物資の間では、まだ完全には回復していない。臣は謹んで今年三月三日の赦文に準拠すると、常の貢納の外は、進献を命じないとある。これは陛下の至聖至明にして、細微に至るまで洞察し、一つには聚斂の吏がこれに乗じて奸をなすことを恐れ、一つには疲弊した民がその弊害に耐えられぬことを恐れたからである。上は倹約の徳を弘め、下には惻憫の心を敷かれた。万国の民衆は、鼓舞してやまない。先だって五月二十三日の詔書を奉じ、茅山の真の隠者を訪ねさせ、謙虚で節約の道を師とし、実務を務め華美を去る美を発揮しようとされた。たとえ人が上って丹詔を塞ぐことはなくとも、実際に率土の民はすでに玄妙な風を偃せており、ただ微臣のみならず、独り手を打って賀するのである。況や進献の事は、臣子の常の心であり、たとえ敕文で許さなくとも、また力を尽くして上貢すべきである。ただ臣の管轄する道は、平素富饒と称せられていたが、近年このかた、旧に比べて異なる。貞元の中ごろ、李錡が観察使に任ぜられた時、職は塩鉄を兼ねた。百姓は貫高に随って出した榷酒銭の外に、さらに官酤を置き、一両重ねて納税させ、利益は極めて厚かった。また当時の進奉を尋ね聞くと、塩鉄の羨余をも兼ねて用い、貢献は繁多で、以後これに及ぶものはなかった。薛蘋が観察使に任ぜられた時には、また榷酒を置くことを奏上した。上供の外に、かなりの余財があり、軍用の間では、実に優れて足りていた。元和十四年七月三日の敕により、榷酤を停めた。また元和十五年五月七日の赦文に準拠すると、諸州の羨余は、使に送ることを命じず、ただ留使銭五十万貫のみである。毎年の支用は、なお十三万貫不足し、常に事を節儉し、百方補填しなければならず、経費の中では、懸欠を免れない。綾紗などの物については、なお本州の産出であり、調達しやすい。金銀は当州から出ず、皆外の地から買い求めねばならない。去る二月の中ごろ、宣旨を奉じて盝子を進めるよう命じられ、銀九千四百余両を用いる計算であった。その時貯備は、二三百両もなく、諸方で買い集めて、ようやく上供の品を製造した。先だってまた宣旨を奉じ、今度は化粧具二十点を進めるよう命じられ、銀一万三千両、金百三十両を用いる計算である。早速四節の進奉金銀を合わせて、二組を造り進納し終えた。今は人を淮南に遣わして買い求め、到着次第製造し、昼夜を分かたず努めているが、力を尽くして求めても、間に合わぬことを深く憂えている。臣が因循として奏上しなければ、陛下の任使の恩に背くことになる。もし分を超えて誅求すれば、また陛下の慈儉の徳を累わすことになる。伏して陛下に前件の榷酤及び諸州の羨余の目録を御覧いただき、臣の軍用が逼迫していることの本末に由があることを知っていただきたい。伏して料るに、陛下は臣の奏論を御覧になり、必ず詳しくご理解いただき、臣が君を愛し事を守る節を尽くし、忠を納れ直を尽くす心を尽くしていることをお知りいただけるであろう。伏して聖慈を乞い、宰臣に宣して議させ、どうすれば臣が上は宣索に違わず、下は軍儲を欠かさず、疲れた民を困らせず、物の怨みを集めず、前後の詔敕をともに遵承できるかを考えていただきたい。宸厳を冒す次第、戦汗の至りに堪えない。
時に赦に準じて進献を許さなかった。一か月余り過ぎた後、貢物を徴発する使者が、道に相継いだ。故に徳裕は訴えを機にこれを諷した。事が奏上されたが、返答はなかった。
また詔して可幅盤条繚綾一千匹を進めるよう命じた。徳裕はまた論じて言った。
臣は先だって宣索に縁り、すでに軍資の歳計及び近年の物力を詳しく奏上した。伏して料るに聖慈は、必ず省覧くださるであろう。また詔旨を奉じ、定羅紗袍段及び可幅盤条繚綾一千匹を織るよう命じられた。詔書を伏して読み、ますます惶灼を増す。臣が伏して見るに、太宗の朝、台使が涼州に至り、名鷹を見て李大亮に献上するよう諷した。大亮は密かに表を奉って誠を陳べた。太宗は詔を賜って言われた。「使者を遣わして献上させようとしたが、遂に曲げて従わなかった。」と再三嘉嘆され、史書に載せられている。また玄宗は中使を江南に遣わして䴔䴖などの鳥を採らせたが、汴州刺史の倪若水が論を陳べ、玄宗もまた詔を賜って嘉納し、その鳥は即時に皆放たれた。また皇甫詢に益州で半臂背子・琵琶扞撥・鏤牙合子などを織らせようとしたが、蘇頲は詔書に奉ぜず、みだりに織るのを停めた。太宗・玄宗はいずれも罪を加えず、陳べたことを欣んで納れられた。臣はひそかに考えるに、䴔䴖・鏤牙は、極めて微細なものであるが、若水らはなお労力を費やし徳を損なうとして、款を瀝して忠を効した。聖祖の朝に、このような臣があったのに、どうして明王の代に、独りその人がいないことがあろうか。おそらく位にある者が蔽って言わないのであり、必ずしも陛下が拒んで納れられないのではない。また四月二十三日の徳音を拝見すると、「方・召の侯伯、位あるの士、吾を棄つることなかれ、教うべからずと謂うことなかれ。道に違い理を傷つけ、欲に徇い安きを懐く者有らば、面を刺し廷に攻め、隠し諱うことなかれ。」とある。これは陛下が誨を受け善に従い、道を祖宗に光らせ、忠規を尽くさない過ちは臣下にあるということである。況や玄鵝・天馬・椈豹・盤絳は、文彩珍奇にして、ただ聖躬ご自身が服用されるにふさわしい。今織らせようとする千匹は、費用が極めて多く、臣の愚かな誠意からしても、また理解できない。昔、漢文帝は弋綈の衣を着、元帝は軽纖の服を罷め、仁徳慈儉は、今に至るまで称えられている。伏して陛下に、近くは太宗・玄宗の容納を御覧いただき、遠くは漢文・孝元の恭己を思し召され、臣の前の表を群臣に宣示し、臣の管轄する道の物力に適宜を酌み、さらに節減を賜わりたい。そうすれば海隅の蒼生、受けない者はないであろう。臣、懇切兢惶の至りに堪えない。
優詔をもってこれに報い、その繚綾の進上を罷めた。
元和以来、累次天下の州府に敕し、私度の僧尼を禁じた。徐州節度使の王智興は貨を聚めて飽くことなく、敬宗の誕月に因み、泗州に僧壇を置き、人を度して福を資け、厚利を邀えようと請うた。江・淮の民は、皆群をなして淮を渡った。徳裕は奏論して言った。
状が奏上されると、即日に詔して徐州にこれを罷めさせた。
敬宗は荒淫日を追って甚だしく、遊幸は常なく、賢能を疎遠し、群小に昵比した。朝に坐する月に二三度もなく、大臣は進言を得ることが稀であった。海内は憂危し、宗社の移ることを慮った。徳裕は身は廉鎮に居ながら、王室に心を傾け、使者を遣わして《丹扆箴》六首を献じ、言った。
臣聞く、『心乎愛すれども、遐く謂わざるなり』と。これ古の賢人の、事君に篤なる所以なり。跡疎にして言親しき者は危うく、地遠にして意忠なる者は忤う。然れども臣竊かに思うに、先聖より抜擢され、偏に寵光を荷う。若し忠をもって君を愛さざれば、則ち是れ上に霊鑒を負うなり。臣頃ごろ先朝に事え、陰沴多きに属り、嘗て『大明賦』を献じて以て諷せしに、頗る先朝の嘉納を蒙る。臣今日明主に節を尽くすも、亦た是の心に由る。昔、張敞の遠郡を守り、梅福の遐僥に在りしも、尚ほ誠を竭し忠を尽くし、尤悔を避けざりき。況んや臣嘗て旧史を学び、頗る箴諷を知る。疎遠に在りと雖も、猶お献替を思う。謹んで『丹扆箴』六首を献じ、仰いで睿鑒に塵す。伏して兢惶を積む。
その『宵衣箴』に曰く、「先王政を聴くに、昧爽を以て俟つ。鶏鳴既に盈ち、日出でて視る。伯禹大聖、寸陰を貴しとす。光武至仁、反支を忌まず。俾むるなかれ、姜後の独り簪珥を去るを。彤管言を記し、克く前誌を念う。」
その『正服箴』に曰く、「聖人服を作す、法象観るべし。宴遊に在りと雖も、尚ほ安を懐かず。汲黯は荘色にして、能く冠せざるを正す。楊阜は毅然として、亦た縹紈を譏る。四時に禦する所、各々其の官有り。此れに非ざれば服する勿れ、惟れ辟の難き所なり。」
その『罷献箴』に曰く、「漢文献を罷め、詔して騄耳を還す。鑾輅徐かに駆る、焉んぞ千里を用いん。厥の後の令王、亦た能く己を恭しうす。翟裘既に焚け、筒布則ち毀る。道徳を麗しと為し、慈仁を美と為す。天道を過ぎず、斯れ至理と為す。」
その『納誨箴』に曰く、「惟れ後誨を納れ、以て厥の中を求む。善に従うこと流るるが如く、乃ち能く功を成す。漢の驁流湎し、白を挙げて鐘を浮かぶ。魏の睿侈汰し、凌霄に宮を作す。忠は忤わざると雖も、善にも従わず。規を以て瑱と為す、是れを塞聰と謂う。」
その『辯邪箴』に曰く、「上に居りて深きに処るは、微萌を察するに在り。讒慝有りと雖も、能く明を蔽うこと能わず。漢に昭有り、徳は周の成を過ぐ。上書偽を知り、奸を照らして情を得る。燕・蓋既に折れ、王猷洽平す。百代の後、乃ち淑声を流す。」
その『防微箴』に曰く、「天子の孝、王度を敬んで遵う。安きに必ず危うきを思えば、乃ち遺慮無し。乱臣猖蹶す、数す可からず。玄黄弁えず、瑟に触れて始めて仆る。柏谷微行し、豺豕路を塞ぐ。貌を睹て飧を献ず、斯れ懼るる可きを誡む。」
帝手詔を下して答えて曰く、「卿は文雅の大臣、方隅の重寄なり。諸部を表率し、全呉を粛清す。化は行春に洽く、風は坐嘯に澄む。眷言善政、想嘆懐くに在り。卿の宗門、累声績を著す。内廷に冠する者両代、侯伯を襲ぐ者六朝。果たして能く君を愛するの誠を激し、詩人の旨を諭す。遠きに在りて忠告を忘れず、上を諷して常に微を深く慮う。我を博くして端躬を以てし、予を約して礼に循わしむ。三たび規諫を復み、累夕称嗟す。之を座隅に置き、韋弘の益に比し用う。之を心腑に銘し、何くんぞ薬石の功に啻ならんや。卿既に投誠するを以てす、朕毎に開諫を懐う。苟過挙有らば、密陳を忘るる無かれ。山川既に遐し、睠属何ぞ已まん。必ず当に己を克くして、以て乃の誠に副わん。」
德裕の意は切諫に在りて、言を斥けんと欲せず、箴に托して以て意を尽くす。『宵衣』は、坐朝稀晩なるを諷す。『正服』は、服禦乖異なるを諷す。『罷献』は、征求玩好なるを諷す。『納誨』は、侮棄讜言なるを諷す。『辨邪』は、信任群小なるを諷す。『防微』は、軽出遊幸なるを諷す。帝其の言を尽く用うる能わざりと雖も、学士韋処厚に命じて殷勤に詔に答えしめ、頗る其の心を嘉納す。德裕久しく江介に留まり、心は闕廷を恋い、事に因りて情を寄せ、聖奨の回るを望む。而るに逢吉軸に当たり、其の塗を枳棘す。竟に内徙を得ず。
敬宗、両街道士趙帰真の神仙の術を説くを以てし、異人を訪求して以て其の道を師とすべしとす。僧惟貞・斉賢・正簡、祠禱修福を説くを以てし、以て長年を致すとす。四人皆禁中に出入し、日々邪説を進む。山人杜景先、状を進めて、江南に於いて異人を求訪せんことを請う。浙西に至り、言う、隠士周息元有り、寿数数百歳と。帝即ち高品・薛季棱を令し、潤州に往きて之を迎えしむ。仍詔して德裕に公乗を給し遣わさしむ。德裕、中使の還るに因り、疏を献じて曰く。
息元京師に至る。帝之を山亭に館し、道術を以て問う。自ら張果・葉静能を識ると言う。詔して写真待詔李士昉に其の形状を問わしめ、図して以て進む。息元は山野の常人、本より道学無く、事を言うこと誕妄にして、人情に近からず。及んで昭湣盗に遇いて殂し、文宗之を江左に放還す。徳裕深く識りて正を守る、皆此の類なり。
西川は蛮寇の剽號したる後を承け、郭釗撫理の術無く、人の聊生する無し。徳裕乃ち復た関防を葺き、兵守を繕完す。又人を遣わして南詔に入り、其の俘えしる所の工匠を求め、僧道工巧四千余人を得て、復た成都に帰す。五年九月、吐蕃維州の守将悉怛謀、城を以て降らんことを請う。其の州は南界江陽にし、岷山は嶺を連ねて西に走り、其の極まるを知らず。北に隴山を望めば、積雪玉の如し。東に成都を望めば、井底に在るが若し。一面孤峰、三面江に臨み、是れ西蜀の吐蕃を控うる要地なり。至徳の後、河・隴は蕃に陥ち、唯だ此の州のみ尚存す。吐蕃は険要を利し、婦人を此の州の閽者に嫁す。二十年の後、婦人は二子を生み成長す。蕃兵の城を攻むるに及び、二子内応し、其の州遂に陥つ。吐蕃之を得て、号して「無憂城」と曰う。貞元中、韋臯蜀を鎮め、西山八国を経略し、万計を以て之を取るも獲ず。是に至りて悉怛謀、人を遣わして款を送る。徳裕其の詐を疑い、人を遣わして錦袍金帯を之に送り、進止を取るを候うと托け言う。悉怛謀乃ち尽く郡人を率いて成都に帰す。徳裕乃ち兵を発して鎮守し、因りて出でて攻むるの利害を陳ぶ。時に牛僧孺議を沮み、新に吐蕃と盟を結ぶと言い、約を敗るに宜しからずと。語は『僧孺伝』に在り。乃ち詔して徳裕に悉怛謀一部の人を却て維州に送還せしむ。賛普之を得て、皆虐刑を加う。徳裕六年に復た邛峡関を修し、巂州を臺登城に移して以て蛮を扞ぐ。
徳裕の歴れる征鎮は、政績を以て聞こゆ。其の蜀に在るや、西は吐蕃を拒ぎ、南は蛮・蜒を平ぐ。数年之内、夜犬驚かず。瘡痏の民、粗く以て完復す。会に監軍王踐言朝に入りて枢密を知る。嘗て上前に於いて悉怛謀を縛送して以て戎心を快くし、帰降の義を絶つと言う。上頗る僧孺を尤む。其の年冬、徳裕を兵部尚書として召す。僧孺相を罷め、出でて淮南節度使と為す。七年二月、徳裕本官を以て平章事と為り、進みて贊皇伯に封ぜられ、食邑七百戸。六月、宗閔亦罷め、徳裕代わりて中書侍郎・集賢大学士と為る。
其の年十二月、文宗暴風恙に罹り、言うこと能わざること月余。八年正月十六日、始めて力疾して紫宸に御し百僚に見ゆ。宰臣退きて安否を問う。上嘆じて医に名工無きことを久しうす。此より王守澄鄭註を進む。初め、註は宋申錫の事を構う。帝深く之を悪み、京兆尹をして杖殺せしめんと欲す。是に至りて薬稍く効あるを以て、始めて之を善遇す。守澄復た李訓を進む。訓は『易』に善し。其の年秋、上訓に諫官を授けんと欲す。徳裕奏して曰く、「李訓は小人、陛下の左右に在るべからず。頃年悪積み、天下皆知る。故無く之を用いれば、必ず視聴を駭すべし」と。上曰く、「人誰か過ち無からん、其の悛改を俟つ。朕は逢吉の托する所を以て、言を負うに忍びず」と。徳裕曰く、「聖人に過ちを改むるの義有り。訓は天性奸邪、悛改の理無し」と。上王涯を顧みて曰く、「商量して別に一官を与えよ」と。遂に四門助教を授く。制出ずるや、給事中鄭肅・韓佽之を封じて下さず。王涯、肅を召して面に喻し令して下さしむ。俄にして鄭註亦た絳州より至る。訓・註は徳裕の己を排するを悪み、九月十日、復た宗閔を興元より召し、中書侍郎・平章事を授け、徳裕に代わる。徳裕を出して興元節度使と為す。徳裕中謝の日、自ら闕を恋うるを陳べ、出藩するを願わず。追って勅して兵部尚書を守らしむ。宗閔奏して制命已に行わる、自便すべからずと。尋いで検校尚書左僕射・潤州刺史・鎮海軍節度・蘇常杭潤観察等使に改め、王璠に代わる。
德裕は任地に至り、詔を奉じて宮人杜仲陽を道観に安置し、これに供給を与えた。仲陽は、漳王の養母であり、王が罪を得たため、仲陽を潤州に放逐したのである。九年三月、左丞王璠・戸部侍郎李漢が状を進めて論じ、德裕が任地において厚く仲陽に賂を贈り、漳王と結託して、不軌を図ったと述べた。四月、帝は蓬萊殿において王涯・李固言・路隨・王璠・李漢・鄭註等を召し、面と向かってこの事を証言させた。璠・漢は誣告と捏造を加え、言葉は甚だ切迫していた。路隨が奏上して言うには、「德裕は実はここまで至らない。誠に璠・漢の言う通りならば、微臣もまた罪を得るべきである。」群議はやや収まった。間もなく德裕を太子賓客に任じ、東都に分司させた。その月、また袁州長史に貶した。路隨は德裕を証言したことで連座し、宰相を罷められ、浙西に出鎮した。その年七月、宗閔は楊虞卿を救ったことで連座し、処州に貶された。李漢は宗閔に与したことで連座し、汾州に貶された。十一月、王璠は李訓と乱を造って誅殺されたが、文宗は深く前事を悟り、德裕が朋党によって誣告されたことを知った。明年三月、德裕に銀青光禄大夫を授け、量移して滁州刺史とした。七月、太子賓客に遷した。十一月、検校戸部尚書とし、再び浙西観察使とした。德裕は凡そ三度浙西を鎮め、前後十余年に及んだ。
初め、德裕の父吉甫は、五十一歳で淮南に出鎮し、五十四歳で淮南より再び宰相となった。今、德裕が淮南を鎮め、再び宰相に入ったことは、父の年齢と全く同じであり、これも異事であった。
やがて回紇の宰相霡没斯が赤心宰相を殺し、その衆を率いて来降した。赤心の部族はまた幽州に投じた。烏介は勢い孤となり、これに米を与えなかったので、その衆は飢え疲れ、漸く振武の保大柵・杷頭峰に近づき、朔州の州界に突入した。沙陀・退渾は皆その家を以て山険を保ち、雲州の張献節は城を嬰いて自ら固守した。虜は大いに掠奪をほしいままにし、遂に拒ぐ者はなかった。上はこれを憂い、宰臣と事を計った。德裕は言う、「杷頭峰の北は、即ち沙磧であり、あの地での野戦には、騎兵を用いねばならない。もし歩卒を以てこれに敵すれば、理の上から必勝は難しい。今、烏介の恃むところは公主である。もし勇将をして奇を出して公主を奪い得させれば、虜は自ずから敗れるであろう。」上はこれを然りとし、即ち德裕に制を草して代北の諸軍を処分させ、関防を固め、奇形勢を以て劉沔に授けた。沔は大将石雄に命じて急に可汗を殺胡山において撃たせた。これを破り、公主を迎えて還宮させた。語は『石雄伝』にある。間もなく司空に進位した。
乃ち止めた。
帝はそのことを傷み、やがて官を追贈した。
その年、李德裕は司徒を兼ねた。四月、沢潞節度使劉従諫が卒去し、軍人はその甥の劉稹が擅に留後を総べることを許し、三軍は旌節の授与を請うた。帝は宰臣と議して可否を論じた。李德裕は言った。「沢潞は国家の内地であり、河朔とは異なる。前後に命じられた帥は、皆儒臣を用いた。近ごろ李抱真がこの軍を成立させ、身没した後、徳宗でさえも継承を許さず、李緘に喪を護って洛陽に帰ることを命じた。劉悟が鎮守となってから、長慶年中は甚だ自専であった。敬宗の因循に属し、ついに劉従諫の継承を許した。
開成初年、長子に軍を屯させ、晋陽の甲を興して君側の奸を除かんとし、鄭注・李訓と深く交結し、外には忠を効うと託しながら、実には窺伺の心を抱いていた。疾病の初めから、すでに劉稹に兵馬を管轄させていた。もし討伐を加えなければ、どうして四方に号令できようか。もし因循してこれを授ければ、則ち藩鎮は相倣い、ここより威令は失われるであろう。」帝は言った。「卿は用兵すれば必ず勝つと算えるか。」対えて言った。「劉稹の恃むところは、河朔三鎮のみである。ただ魏博・成徳の両鎮が劉稹と同調しなければ、これを破ることは必ずである。重臣一人を派遣し、聖旨を伝達させ、沢潞の帥を命ずることは三鎮とは異なること、艱難以来、歴代の聖上は皆三鎮の嗣襲を許し、既に故事となっていること、今国家が兵を加えて劉稹を誅伐しようとしていること、禁軍は山東に出ることを欲しないこと、その山東の三州は、鎮州・魏博に委せて出兵攻取させることを言わせてください。」上はこれを認め、御史中丞李回を三鎮に使いさせて旨を諭し、魏博・鎮州に詔書を賜って言った。「卿、子孫のための謀りごとをなすことなく、輔車の勢いを存せんと欲することなかれ。」何弘敬・王元逵は詔を受け、聳然として命令に従った。初め出兵を議した時、朝官の上疏が相次ぎ、劉従諫の例に依り、その継襲を許すべきことを請うた。また宰臣四人の中にも、出師が便ならざることを論ずる者がいた。李德裕は上奏して言った。「もし師を出して功がなければ、臣が自ら罪を引き受けます。李紳・李讓夷らを累わせないでください。」そして何弘敬・王元逵が出兵すると、李德裕はまた上奏して言った。「貞元・太和の間、朝廷が叛を伐つ時、諸道に会兵を詔し、境界を出ただけで度支の供餉を費やし、遅留逗撓して国力を困窮させた。あるいは密かに賊と商量し、一県一柵を取って勝捷としたため、師を出して功がなかった。今、王元逵・何弘敬に処分を下し、ただ州を収めるのみで、県邑を攻めさせないようにしてください。」帝はこれを認めた。そして王宰・石雄が進討し、一年を経ても沢潞を抜くことができなかった。何弘敬・王元逵が邢州・洺州・磁州の三州を収めると、劉稹の党は遂に離反し、平定殄滅するに至った。皆その算のごとくであった。
開成五年冬回紇天德に至りより、会昌四年八月澤潞を平ぐるに至るまで、首尾五年、其の籌度機宜、将帥を選用し、軍中の書詔、奏請雲の如く合し、草を起し蹤を指すは、皆獨り德裕に決し、諸相預かる無し。功を以て太尉を兼ね守り、衛国公に進み封ぜられ、三千戸。五年、武宗徽號を上ぐる後、累表して骸を乞うも、許さず。德裕病み月余り、堅く機務を解くを請う、乃ち本官平章事を以て江陵尹・荊南節度使を兼ぬ。数月にして追い還し、復た政事を知る。宣宗即位し、相を罷め、出でて東都留守・東畿汝都防禦使と為る。
德裕は特だ武宗の恩顧を承け、樞衡に委ねらる。決策論兵、挙げて遺悔無く、身を以て難を扞ぎ、功社稷に流る。昭肅天下を棄つるに及び、不逞の伍、皆其の功を害す。白敏中・令狐綯は、会昌中德裕朋党を以て之を疑わず、之を臺閣に置き、顧待甚だ優なり。德裕勢を失うに及び、掌を抵ち手を戟し、同謀して斥逐し、而して崔鉉も亦会昌末相を罷めて德裕を怨む。
德裕は器業を以て自ら負い、特達にして群れず。書を著し文を為すを好み、善を奨め悪を嫉み、位極めて臺輔と雖も、而して読書輟まず。劉三復なる者有り、章奏に長ず、尤も奇として之を待つ。德裕始め浙西を鎮むるより、淮甸に迄るまで、皆参佐賓筵す。軍政の余、之と吟詠して終日す。長安の私第に在りて、別に起草院を構う。院に精思亭有り。朝廷兵を用うる毎に、詔令制置し、而して獨り亭中に処り、凝然として管を握り、左右の侍者預かる能わず。東都に於いて伊闕の南に平泉別墅を置き、清流翠〓、樹石幽奇なり。初め未だ仕えざる時、其の中に講学す。官に従い籓服に及び、出でて将となり入りて相と為り、三十年復た遊ばず、而して題寄する歌詩は、皆之を石に銘す。今に《花木記》・《歌詩篇錄》二石存す。文集二十巻有り。旧事を記述するは、則ち《次柳氏旧書》・《御臣要略》・《代叛志》・《献替錄》世に行わる。
初め潮州に貶さるるや、蒼黄顛沛の中に在りと雖も、猶著述に心を留め、雑序数十篇、号して《窮愁志》と曰う。其の《論冥数》に曰く、
其の自序此の如し。斯の論は以て躁競の者を警ます可く、故に事の末に書す。
【史評】
史臣曰く、臣が総角の時、しばしば耆徳より衛公(李德裕)の故事を聞く。是の時、天子は神武にして、聴断に明らかなり。公も亦た身を以て難を犯し、特達の遇に酬ゆ。言は行はれ計は従はれ、功成り事遂げ、君臣の分、千載一時なり。其の禁掖に弥綸し、巌廊に啓奏し、敵を料り勝を制し、襟霊独断するを観るに、由基の命中するが如く、虚発する罔し、実に奇才なり。文章を語れば、則ち厳・馬も扶輪し、政事を論ずれば、則ち蕭・曹も席を避く。其の位を窃むを罪するは、即ち太だ深文なり。議する可き者は、憾を釈し仇を解き、以て徳を以て怨に報い、是非を度外に泯し、彼我を環中に斉うする能はざるなり。夫の市井の徒と、錐刀の末を力戦し、身を瘴海に淪して、傷心と為す可し。古の所謂く、金を攫む都下、市人に忽ちにし、離婁も眉睫に見えず。才は則ち才なり、道を語れば則ち難し。
【贊】
贊して曰く、公の智決、利なること青萍の若し。虜を破り叛を誅し、枯を摧き瓴を建つ。功は北闕に成り、骨は南溟に葬る。嗚呼煙閣、誰か丹青に上らん。