舊唐書

巻173

巻173

舊唐書

原文舊唐書

卷一百七十三

原文卷一百七十三

列傳第一百二十三 鄭覃 陳夷行 李紳 吳汝納 李回 李珏 李固言

原文列傳第一百二十三 鄭覃 陳夷行 李紳 吳汝納 李回 李珏 李固言

鄭覃

原文鄭覃

鄭覃は、故宰相鄭珣瑜の子である。父の蔭により弘文校理に補せられ、拾遺・補闕・考功員外郎・刑部郎中を歴任した。元和十四年二月、諫議大夫に遷る。憲宗が内官五人を京西北和糴使としたとき、覃は上疏してこれを廃止させた。穆宗は政事を顧みず、遊宴を好んだ。即位の初め、吐蕃が辺境を侵したとき、覃は同職の崔玄亮らと共に廷上して奏した。「陛下が即位されて以来、宴楽が過度に多く、狩猟遊覧に節度がない。今、蕃寇が国境にあり、緊急の奏報があっても、乗輿の所在を知ることができない。臣らは諫官の任に忝くし、憂慮に堪えず、伏して願わくは遊楽を少し減らし、政道に心を留められますように。伏して聞くに、陛下は朝夕に倡優に昵狎し、近習の者たちに賞賜が甚だ厚いと。およそ金銀貨幣は、皆生民の膏血より出るものであり、功なき者に濫りに賜与を沾うせしめてはならない。たとえ内蔵に余りがあっても、また用いるに節度を乞い、もし辺境に警急があれば、即ち支用に欠けることなからしめ、有司に百姓を重ねて徴収させず、実に天下の幸いこれに過ぎることはありません。」帝は初めその言を悦ばず、宰相蕭俛を顧みて言った。「この輩は何者か。」俛が答えて言った。「諫官でございます。」帝の意は少し解け、乃ち言った。「朕の過失を、臣下がことごとく規諫するのは、忠である。」乃ち覃に言った。「閣中で奏事するのは、甚だ従容ではない。今後、事あれば面陳せよ。朕は卿と延英殿で相見えよう。」当時、久しく閣中での奏事がなく、覃らが抗論したので、人々は皆互いに賀した。

原文鄭覃,故相珣瑜之子。以父廕補弘文校理,歷拾遺、補闕、考功員外郎、刑部郎中。元和十四年二月,遷諫議大夫。憲宗用內官五人為京西北和糴使,覃上疏論罷。穆宗不恤政事,喜遊宴;即位之始,吐蕃寇邊,覃與同職崔玄亮等廷奏曰:「陛下即位已來,宴樂過多,畋遊無度。今蕃寇在境,緩急奏報,不知乘輿所在。臣等忝備諫官,不勝憂惕,伏願稍減遊縱,留心政道。伏聞陛下晨夜昵狎倡優;近習之徒,賞賜太厚。凡金銀貨幣,皆出自生靈膏血,不可使無功之人,濫沾賜與。縱內藏有余,亦乞用之有節,如邊上警急,即支用無闕。免令有司重斂百姓,實天下幸甚。」帝初不悅其言,顧宰相蕭俛曰:「此輩何人?」俛對曰:「諫官也。」帝意稍解,乃曰:「朕之過失,臣下盡規,忠也。」乃謂覃曰:「閣中奏事,殊不從容。今後有事面陳,朕與卿延英相見。」時久無閣中奏事,覃等抗論,人皆相賀。

鎮冀節度使王承宗が死ぬと、その弟の承元は朝廷の旨を聴き、鄭滑節度使に移授された。鎮の三軍が承元を留め、難儀して鎮に赴くことができなかった。承元は重臣の宣諭を乞うたので、覃を宣諭使とし、起居舍人王璠を副使とした。

原文鎮冀節度使王承宗死,其弟承元聽朝旨,移授鄭滑節度。鎮之三軍留承元,以難不能赴鎮;承元乞重臣宣諭,乃以覃為宣諭使,起居舍人王璠副之。

初め、鎮の兵卒の言辞が不遜であったが、覃が至って詔を宣し、大義を諭すと、軍人は疑念を解き、命令を聴いた。長慶元年十一月、給事中に転じる。四年、御史中丞に遷り、十一月、権知工部侍郎となる。宝暦元年、京兆尹に拝される。文宗が即位すると、左散騎常侍さんきじょうじに改められる。三年、本官のまま翰林侍講学士を充てる。四年四月、工部侍郎に拝される。

原文初,鎮卒辭語不遜,覃至宣詔,諭以大義,軍人釋然聽命。長慶元年十一月,轉給事中。四年,遷御史中丞,十一月,權知工部侍郎。寶歷元年,拜京兆尹。文宗即位,改左散騎常侍。三年,以本官充翰林侍講學士。四年四月,拜工部侍郎。

覃は経学に長け、古を稽え正を守ったので、帝は特にこれを重んじた。覃は従容として奏した。「経籍に訛謬があり、博士が相沿襲して、改め正すことが難しい。宿儒で奥深い学識ある者を召し、六籍を校定させ、後漢の故事に準じて、太学に石に刻ませ、永代に則とし、その欠けを正すことを請う。」帝はこれに従った。

原文覃長於經學,稽古守正,帝尤重之。覃從容奏曰:「經籍訛謬,博士相沿,難為改正。請召宿儒奧學,校定六籍;準後漢故事,勒石於太學,永代作則,以正其闕。」從之。

五年、李宗閔・牛僧孺が政を輔けた。宗閔は覃が李徳裕と仲が良いことをもって、これを軽んじた。当時、徳裕は浙西より朝廷に入ったが、また閔・孺に排せられ、蜀しょく川に出鎮した。宗閔は覃が禁中で事を言うのを嫌い、工部尚書に奏し、侍講学士を罷めさせた。文宗は経義を好み、心に覃をしきりに思った。六年二月、再び召して侍講学士とする。七年春、徳裕が宰相となる。五月、覃を御史大夫とする。文宗はかつて延英殿で宰相に言った。「殷侑は経学に通じ、人となりは鄭覃に頗る似ている。」宗閔が言った。「覃・侑は確かに経学はありますが、議論については聴覧に足りません。」李徳裕が対えて言った。「殷・鄭の言は、他人は聞きたくないが、ただ陛下は切に聞こうとされます。」覃はかつて人の朋党を憎んだが、宗閔に軽んじられたためである。八年、戸部尚書に遷る。その年、徳裕が宰相を罷めると、宗閔が再び政を知り、李訓・鄭註と共に李徳裕・李紳を排斥した。二人が貶黜されると、覃もまた左遷されて秘書監となった。九年六月、楊虞卿・李宗閔が罪を得て長流され、再び覃を刑部尚書とする。十月、尚書右僕射に遷り、兼ねて国子祭酒を判ず。訓・註が誅せられると、覃を禁中に召して制勅を草せしめ、明日に本官のまま同平章事とし、滎陽けいよう郡公に封じ、食邑二千戸を与える。

原文五年,李宗閔、牛僧孺輔政。宗閔以覃與李德裕相善,薄之。時德裕自浙西入朝,復為閔、孺所排,出鎮蜀川。宗閔惡覃禁中言事,奏為工部尚書,罷侍講學士。文宗好經義,心頗思之。六年二月,復召為侍講學士。七年春,德裕作相。五月,以覃為御史大夫。文宗嘗於延英謂宰相曰:「殷侑通經學,為人頗似鄭覃。」宗閔曰:「覃、侑誠有經學,於議論不足聽覽。」李德裕對曰:「殷、鄭之言,他人不欲聞,唯陛下切欲聞之。」覃嘗嫉人朋黨,為宗閔所薄故也。八年,遷戶部尚書。其年,德裕罷相,宗閔復知政,與李訓、鄭註同排斥李德裕、李紳。二人貶黜,覃亦左授秘書監。九年六月,楊虞卿、李宗閔得罪長流,復以覃為刑部尚書。十月,遷尚書右僕射,兼判國子祭酒。訓、註伏誅,召覃入禁中草制敕,明日以本官同平章事,封滎陽郡公,食邑二千戶。

覃は経義に精通していたが、文章を作ることができなかった。進士の浮華を憎んだ。開成初め、礼部貢院は進士科を廃止すべきであると奏上した。初め、紫宸殿での対面のとき、上は選士について語り、覃は言った。「南北朝では多く文華を用いたので、治まらなかった。士は才能が堪えるならば即ち用いるべきで、何ぞ必ずしも文辞を要しようか。」帝は言った。「進士及第の人で既に州県官を為した者は、方鎮が奏署すれば即ちこれを可とし、その余は即ち否とする。」覃は言った。「この科は多く軽薄な者がおり、必ずしも全てを用いる必要はない。」帝は言った。「軽薄な者も敦厚な者も、様々にいるもので、必ずしも進士にのみあるのではない。この科が置かれて既に二百年、また急に改めることもできない。」覃は言った。「また過度に崇め立てることもできません。」帝はかつて宰臣に言った。「百官が弛緩しているので、重要な条項を挙げてほしい。」因みに香炉を指して言った。「この炉も初めは華美であったが、用いること久しくして、光彩がなくなった。もし飾りを加えなければ、どうして再び初めのようになろうか。」覃は対えて言った。「風俗を大いに変えるには、実効を考うべきです。三十年以来、多くは実務に努めず、顔色や情実によって取り立てています。嵇康・阮籍の流れのように、職事を摂らない者もおります。」李石が言った。「これは本来、治平によって、人人に事がなく、安逸に陥ったためです。今の人の風俗もまた王夷甫を慕い、これに及ばないことを恥じています。」上は言った。「卿らが朕を輔けるのは、法度を振り挙げるのみである。」

原文覃雖精經義,不能為文。嫉進士浮華。開成初,奏禮部貢院宜罷進士科。初,紫宸對,上語及選士,覃曰:「南北朝多用文華,所以不治。士以才堪即用,何必文辭?」帝曰:「進士及第人已曾為州縣官者,方鎮奏署即可之,余即否。」覃曰:「此科率多輕薄,不必盡用。」帝曰:「輕薄敦厚,色色有之,未必獨在進士。此科置已二百年,亦不可遽改。」覃曰:「亦不可過有崇樹。」帝嘗謂宰臣曰:「百司弛慢,要重條舉。」因指香爐曰:「此爐始亦華好,用之既久,乃無光彩。若不加飾,何由復初?」覃對曰:「丕變風俗,當考實效。自三十年已來,多不務實,取於顏情。如嵇、阮之流,不攝職事。」李石云:「此本因治平,人人無事,安逸所致。今之人俗亦慕王夷甫,恥不能及之。」上曰:「卿等輔朕,在振舉法度而已。」

当時、太学で石経を刻んでいたが、覃は起居郎周墀・水部員外郎崔球・監察御史張次宗・礼部員外郎温業らに、『九経』の文字を校定させ、直ちに石に上らせることを奏した。門下侍郎・弘文館大学士・監修国史を加えられる。上はかつて延英殿で古今の詩句の巧拙を論じたが、覃は言った。「孔子が刪定された三百篇がこれです。これより降って五言七言は、文辞が雅正でなく、帝王が賞詠するに足りません。そもそも『詩経』の『雅』『頌』は、皆下が上を刺して為したものであり、上が下を化して作ったものではありません。王者は詩を採って、風俗の得失を考うるのです。仲尼が刪定して、世の規と為されました。近代の陳後主・隋煬帝は皆章句に能くしましたが、王者の大端を知らず、終いに末年の失がありました。章句は小道です。願わくは陛下はこれを取られませんように。」覃は宰相として兼ねて国子祭酒を判じ、太学に五経博士を各一人置くことを奏し、職田がないことを縁由に、王府官の例に依り、祿粟を賜うことを請うた。帝はこれに従った。また『石壁九経』一百六十巻を進めた。

原文時太學勒石經,覃奏起居郎周墀、水部員外郎崔球、監察御史張次宗、禮部員外郎溫業等,校定《九經》文字,旋令上石。加門下侍郎、弘文館大學士、監修國史。上嘗於延英論古今詩句工拙,覃曰:「孔子所刪,三百篇是也。降此五言七言,辭非雅正,不足帝王賞詠。夫《詩》之《雅》、《頌》,皆下刺上所為,非上化下而作。王者采詩,以考風俗得失。仲尼刪定,以為世規。近代陳後主、隋煬帝皆能章句,不知王者大端,終有季年之失。章句小道,願陛下不取也。」覃以宰相兼判國子祭酒,奏太學置五經博士各一人,緣無職田,請依王府官例,賜祿粟。從之。又進《石壁九經》一百六十卷。

その年、李固言が再び宰相となった。固言は李宗閔・楊嗣復と仲が良く、覃はこれを憎んだ。起居郎の欠員があったとき、固言が奏して言った。「周敬復・崔球・張次宗ら三人は、皆この任に堪えます。」覃は言った。「崔球は宗閔の門を遊び、かつ赤墀の下で筆を執ることは千古の法となるものであり、朋党であってはならない。裴中孺・李讓夷のようであれば、臣は微細な異論も持ちません。」乃ち止んだ。三年、楊嗣復が西川より入朝して平章事に拝されると、覃とは特に矛盾した。これに固言・李玨を加え、入対の際には是非が蜂の如く起きた。二月、覃は位を進めて太子太師となる。

原文其年,李固言復為宰相。固言與李宗閔、楊嗣復善,覃憎之。因起居郎闕,固言奏曰:「周敬復、崔球、張次宗等三人,皆堪此任。」覃曰:「崔球遊宗閔之門,且赤墀下秉筆,為千古法,不可朋黨。如裴中孺、李讓夷,臣不敢有纖芥異論。」乃止。三年,楊嗣復自西川入拜平章事,與覃尤相矛盾;加之以固言、李玨,入對之際,是非蜂起。二月,覃進位太子太師。

文宗は旱魃のため囚人を釈放し、宮人劉好奴ら五百余人を出し、両街の寺観に送り、親戚に帰るに任せた。紫宸殿での対面で、李玨が言った。「陛下が宮女を多く放たれたことは、徳が千古に超えています。漢の制では八月に人を選び、晋の武帝が呉を平らげたときも多く採択しました。仲尼の所謂『未だ徳を好むこと色を好むが如きを見ざる』です。今、陛下は無益としてこれを放たれた。微臣敢えて賀します。」覃は言った。「晋の武帝は採択の過失により、中原が左衽に化しました。陛下はこれを殷鑑とされ、放ち去られるのは宜しいことです。」その年十二月、三度上章して罷免を求め、詔により太子太師を落とされ、その余は元の通りとした。なお三五日に一度中書に入り、政事を商量することとした。四年五月、宰相を罷め、左僕射を守る。

原文文宗以旱放系囚,出宮人劉好奴等五百余人,送兩街寺觀,任歸親戚。紫宸對,李玨曰:「陛下放宮女數多,德邁千古。漢制,八月選人,晉武平吳,亦多采擇。仲尼所謂『未見好德如好色』。今陛下以為無益放之,微臣敢賀。」覃曰:「晉武帝以采擇之失,中原化為左衽;陛下以為殷鑒,放去攸宜。」其年十二月,三上章求罷,詔落太子太師,余如故。仍三五日一入中書,商量政事。四年五月,罷相,守左僕射。

武宗が即位し、李德裕が権力を握ると、彼を宰相に引き上げようとしたが、固より足疾のため朝謁に耐えられなかった。會昌二年、司徒しとを守りて致仕し、卒す。

原文武宗即位,李德裕用事,欲援為宰相。固以足疾不任朝謁。會昌二年,守司徒致仕,卒。

子の裔綽は、廕により渭南尉を授かり、弘文館に直す。

原文子裔綽,以廕授渭南尉,直弘文館。

覃は若くして清苦貞退し、軽々しく人と親しく交わらなかった。位は相國に至るも、住居を増飾せず、ただ風雨をしのぐのみであった。家に媵妾なく、人皆その素風を仰いだ。しかし悪を嫉むことあまりに過ぎ、多く容れず、衆は憚りてこれを悪んだ。

原文覃少清苦貞退,不造次與人款狎。位至相國,所居未嘗增飾,才庇風雨。家無媵妾,人皆仰其素風。然嫉惡太過,多所不容,眾憚而惡之。

覃の弟に朗・潛あり。

原文覃弟朗、潛。

子 朗

原文{{--|子}} 朗

朗、字は有融。長慶元年、進士甲科に登第し、再遷して右拾遺となる。開成中、起居郎となる。初め、太和末に風俗稍々奢り、文宗は恭勤節儉にして、その風を改めんことを冀う。宰臣等言うに、「陛下の節儉省用により、風俗は既に移り、長裾大袂は漸く減損す。若し更に戚属にその侈靡を絶たしめば、下の教に従わざるを慮らず」と。帝曰く、「此事も亦戸ごとに曉らすは難し、ただその泰甚を去り、自ら儉徳を以てこれを化すべし。朕聞く、前時内庫に唯だ二錦袍あり、金鳥を以て飾り、一袍は玄宗が溫湯に幸してこれを御し、一は即ち貴妃に與えたり。當時貴重すること此の如し、今の奢靡に在りて、豈に復たこれを貴ぶや?料るに今の富家は往々にして皆これ有らん。左衛副使張元昌は便ち金唾壺を用い、昨李訓に因り、既にこれを誅せり」と。時に朗は螭頭の下に筆を執り、宰臣退くや、上朗に謂いて曰く、「適来の議論、卿記錄せしか?吾試みにこれを観ん」と。朗対えて曰く、「臣が筆を執りて記す所は、便ち史と名づく。故事に準うれば、帝王は観ることを取るべからず。昔、太宗國史を覧んと欲し、諫議大夫硃子奢云う、『史官の述ぶる所は、善悪を隠さず。或いは主上智に非ずして、非を飾り失を護らば、これを見て則ち怨を致す、故に義として観るべからず』と。又た褚遂良曰く、『今の起居郎は、古の左右史なり。人君の言行を記し、善悪必ず書し、庶幾くは非法ならざらしむ。帝王躬自ら史を観るを聞かず』と」と。帝曰く、「適来の記す所は、臧否無し、見るも亦た何の爽かあらん」と。乃ち宰臣に宣して謂いて曰く、「鄭朗故事を引き、起居註を見ることを欲せず。夫れ人君の言は、善悪必ず書す。朕恐らくは平常の閑話、理體に関せず、これを将来に垂れ、窃に恥と為す。異日臨朝し、庶幾くは稍々改めん。何ぞ一見を妨げて、以て醜言を誡めざらん」と。朗遂にこれを進む。朗は考功郎中に転ず。四年、諫議大夫に遷る。

原文朗,字有融。長慶元年,登進士甲科,再遷右拾遺。開成中,為起居郎。初,太和末風俗稍奢,文宗恭勤節儉,冀革其風。宰臣等言曰:「陛下節儉省用,風俗已移,長裾大袂,漸以減損。若更令戚屬絕其侈靡,不慮下不從教。」帝曰:「此事亦難戶曉,但去其泰甚,自以儉德化之。朕聞前時內庫唯二錦袍,飾以金鳥,一袍玄宗幸溫湯禦之,一即與貴妃。當時貴重如此,如今奢靡,豈復貴之?料今富家往往皆有。左衛副使張元昌便用金唾壺,昨因李訓,已誅之矣。」時朗執筆螭頭下,宰臣退,上謂朗曰:「適所議論,卿記錄未?吾試觀之。」朗對曰:「臣執筆所記,便名為史。伏準故事,帝王不可取觀。昔太宗欲覽國史,諫議大夫硃子奢云:『史官所述,不隱善惡。或主非上智,飾非護失,見之則致怨,所以義不可觀。』又褚遂良曰:『今之起居郎,古之左右史也;記人君言行,善惡必書,庶幾不為非法,不聞帝王躬自觀史。』」帝曰:「適來所記,無可否臧,見亦何爽?」乃宣謂宰臣曰:「鄭朗引故事,不欲脫見起居註。夫人君之言,善惡必書。朕恐平常閑話,不關理體,垂諸將來,竊以為恥。異日臨朝,庶幾稍改,何妨一見,以誡醜言。」朗遂進之。朗轉考功郎中。四年,遷諫議大夫。

會昌初、給事中となる。出でて華州刺史となり、入りて御史中丞・戸部侍郎となり、本司事を判ず。大中朝、出でて定州刺史・義武軍節度・易定觀察・北平軍等使となる。尋いで檢校戸部尚書・汴州刺史・宣武軍節度・宋亳汴潁觀察等使に遷る。入りて工部尚書となり、度支を判ず。御史大夫に遷り、禮部尚書に改む。本官を以て同平章事とし、中書侍郎・集賢殿大學士を加え、國史を修す。

原文會昌初,為給事中。出為華州刺史,入為御史中丞、戶部侍郎,判本司事。大中朝,出為定州刺史、義武軍節度、易定觀察、北平軍等使。尋遷檢校戶部尚書、汴州刺史、宣武軍節度、宋亳汴潁觀察等使。入為工部尚書,判度支。遷御史大夫,改禮部尚書。以本官同平章事,加中書侍郎、集賢殿大學士,修國史。

大中十年、疾を以て位を辞す。進みて檢校右僕射・守太子少師を加う。十一年十月卒す。詔して曰く、

原文大中十年,以疾辭位。進加檢校右僕射、守太子少師。十一年十月卒。詔曰:

故通議大夫・檢校尚書右僕射・兼太子少師・上柱國・賜紫金魚袋鄭朗は、操を植うるに端方、気を稟くるに莊重、藹として瑞玉の若く、淡として澄川の如し。智略は蓍龜に合い、誠信は僚友に服す。寵寄を膺くるより、頗る全才を負い、諫垣に匪躬を竭し、瑣闥に盡瘁を彰す。方嶽を載踐し、亟に師壇に登る。風を観ては惠愛の心を推し、士を訓うるに撫循の術を得たり。政は聞聽に溢れ、これ征還を念い、位は冬卿に冠し、職は邦計に重し。經費に節有り、財用虧けず。彼の休功を繄ぎ、我が推擇を明らかにす。爰に峭峻を嘉し、紀綱を俾りて総べしむ。公望益隆く、典彜具に挙がり、式に注意に諧い、且つ深衷を沃す。俄にして化源に参し、以て政柄を提す。三事は清廉の節を仰ぎ、百度は損益の能を見る。近くは和風に煦き、遠くは膏雨に浹す。方に雅俗を坐鎮し、庶官を表率せんと俟つに、頤養或いは乖き、腠理疾を生じ、屡び章疏を陳べ、退閑を遂げんことを乞う。既に乃の誠堅く、式に其の請を允す。毎に懿績を図り、唯冀くは瘳え有らんことを。何ぞ竟に彌留に至りて、而して遽に捐代を聞くや。奏を閲して悼みを興し、軒に臨みて懷いを載す。将に視朝の儀を輟め、兼ねて上公の秩を列せんとす。茲の幽壞を慰め、爾の知る有らんことを期す。司空しくうを贈る可し。

原文故通議大夫、檢校尚書右僕射、兼太子少師、上柱國、賜紫金魚袋鄭朗,植操端方,稟氣莊重;藹若瑞玉,淡如澄川。智略合乎蓍龜,誠信服於僚友。自膺寵寄,頗負全才,竭匪躬於諫垣,彰盡瘁於瑣闥。載踐方嶽,亟登師壇。觀風推惠愛之心,訓士得撫循之術。政溢聞聽,念茲征還,位冠冬卿,職重邦計。經費有節,財用不虧。繄彼休功,明我推擇。爰嘉峭峻,俾總紀綱。公望益隆,典彜具舉;式諧註意,且沃深衷。俄參化源,以提政柄。三事仰清廉之節,百度見損益之能。近煦和風,遠浹膏雨。方俟坐鎮雅俗,表率庶官,頤養或乖,腠理生疾,屢陳章疏,乞遂退閑。既堅乃誠,式允其請。每圖懿績,唯冀有瘳。何竟至於彌留,而遽聞於捐代。閱奏興悼,臨軒載懷。將輟視朝之儀,兼列上公之秩。慰茲幽壞,期爾有知,可贈司空。

子 潛

原文{{--|子}} 潛

潛、字は無悶、亦た進士第に登る。

原文潛,字無悶,亦登進士第。

陳夷行

原文陳夷行

陳夷行、字は周道、潁川の人。祖は忠、父は邑。夷行は、元和七年進士第に登り、累ねて使府に辟さる。寶歷末、侍御史より虞部員外郎に改め、皆東都に分務す。太和三年、入りて起居郎・史館修撰となり、《憲宗實錄》の修撰に預かる。四年獻上し、司封員外郎に転ず。五年、吏部郎中に遷る。四月、召されて翰林學士を充す。八年、兼ねて皇太子侍讀を充し、詔して五日一度長生院に入り太子の講經に侍せしむ。上召し対えしめ、面して緋衣牙笏を賜い、諫議大夫・知制誥に遷り、余職は故の如し。九年八月、太常少卿に改め、知制誥・學士侍講は故の如し。

原文陳夷行,字周道,潁川人。祖忠,父邑。夷行,元和七年登進士第,累辟使府。寶歷末,由侍御史改虞部員外郎,皆分務東都。太和三年,入為起居郎、史館修撰,預修《憲宗實錄》。四年獻上,轉司封員外郎。五年,遷吏部郎中。四月,召充翰林學士。八年,兼充皇太子侍讀,詔五日一度入長生院侍太子講經。上召對,面賜緋衣牙笏,遷諫議大夫、知制誥,余職如故。九年八月,改太常少卿,知制誥、學士侍講如故。

開成二年四月、本官を以て同平章事となる。三年、楊嗣復・李玨相継いで輔政に入る。夷行は介特にして、素より其の為す所を悪み、毎に上前に議政するに、語嗣復を侵し、遂に往復に至る。性堪えず、上表して足疾を称し位を辞す。許さず、詔して中使をして第に就き宣勞せしむ。七月、王彥威を忠武節度使とし、史孝章を邠寧節度使とす。皆嗣復の擬議なり。延英対に因り、上夷行に問うて曰く、「昨二鎮を除く、当否や」と。夷行対えて曰く、「但だ聖心より出ずれば即ち当たり」と。楊嗣復曰く、「若し聖心より出でて当たれば、即ち人情皆愜う。如し事或いは過当なれば、臣下安んぞ言無からんや」と。帝曰く、「誠に此の如くならば、朕固より私無し」と。夷行曰く、「三數年來、奸臣権を窃む。陛下太阿を倒持し、人に钅尊柄を授くべからず」と。嗣復曰く、「齊桓管仲を讎虜に用う、豈に太阿の慮有らんや」と。上悦ばず。

原文開成二年四月,以本官同平章事。三年,楊嗣復、李玨繼入輔政。夷行介特,素惡其所為,每上前議政,語侵嗣復,遂至往復。性不能堪,上表稱足疾辭位;不許,詔中使就第宣勞。七月,以王彥威為忠武節度使,史孝章為邠寧節度使,皆嗣復擬議。因延英對,上問夷行曰:「昨除二鎮,當否?」夷行對曰:「但出自聖心即當。」楊嗣復曰:「若出自聖心當,即人情皆愜。如事或過當,臣下安得無言?」帝曰:「誠如此,朕固無私也。」夷行曰:「自三數年來,奸臣竊權,陛下不可倒持太阿,授人钅尊柄。」嗣復曰:「齊桓用管仲於讎虜,豈有太阿之慮乎?」上不悅。

仙韶院の樂官尉遲璋に王府率を授く。右拾遺竇洵直、衙に当たり論じて曰く、「伶人には自ら本色官有り、清秩を授くるに合わず」と。鄭覃曰く、「此れ小事、何ぞ足らんや衙に当たり論列せん!王府率は六品の雑官、之を清秩と謂う、洵直得るか?此れ名に近し」と。嗣復曰く、「嘗て洵直の幽なるを聞く、今一樂官を衙に当たり論ず、幽なるは則ちこれ有り、亦た怪しむに足らず」と。夷行曰く、「諫官衙に当たるは、只だ宰相の得失を論ずるに合い、樂官を論ずるに合わず。然れども業已に陳論せり、須らく処置と與うべし。今後樂人每七八年ごとに一官を転ぜしめ、然らずんば、則ち手力課三數人を加えよ」と。帝曰く、「別に一官を與えよ」と。乃ち光州長史を授け、洵直に絹百疋を賜う。夷行尋いで門下侍郎に転ず。

原文仙韶院樂官尉遲璋授王府率,右拾遺竇洵直當衙論曰:「伶人自有本色官,不合授之清秩。」鄭覃曰:「此小事,何足當衙論列!王府率是六品雜官,謂之清秩,與洵直得否?此近名也。」嗣復曰:「嘗聞洵直幽,今當衙論一樂官,幽則有之,亦不足怪。」夷行曰:「諫官當衙,只合論宰相得失,不合論樂官。然業已陳論,須與處置。今後樂人每七八年與轉一官,不然,則加手力課三數人。」帝曰:「別與一官。」乃授光州長史,賜洵直絹百疋。夷行尋轉門下侍郎。

帝は紫宸殿にて政を議し、因みに曰く、「天寶中の政事は、実に甚だ佳からず。当時、姚、宋は在りしや」と。李玨曰く、「姚は亡び、宋は罷む」と。玨、因みに言う、「人君の明哲は、終始尤も難し。玄宗嘗て云う、『即位已来、未だ嘗て一の不辜を殺さず』と。而して林甫を任じて陷害し人家族を破る、亦惑わざるか」と。夷行曰く、「陛下は権を人に移すべからず」と。嗣復曰く、「夷行の言は容易なり。且つ太宗、房玄齢を十六年、魏徴を十五年用う、何ぞ嘗て道を失わん。臣以爲、房、魏を多時に用うるも理まざるに非ず、邪佞を用うれば一日にして足る」と。夷行の言は、皆嗣復の専権を指す。

原文上紫宸議政,因曰:「天寶中政事,實不甚佳。當時姚、宋在否?」李玨曰:「姚亡而宋罷。」玨因言:「人君明哲,終始尤難。玄宗嘗云:『自即位已來,未嘗殺一不辜。』而任林甫陷害破人家族,不亦惑乎?」夷行曰:「陛下不可移權與人。」嗣復曰:「夷行之言容易,且太宗用房玄齡十六年、魏徵十五年,何嘗失道?臣以為用房、魏多時不為不理,用邪佞一日便足。」夷行之言,皆指嗣復專權。

文宗、郭薳を以て坊州刺史となし、右拾遺、宋邧論列し、以て不可と為す。既にして薳贓に坐す。帝、宰相に謂いて曰く、「宋邧の事を論ずるは嘉すべし。邧、官を授けられ来ること幾時ぞ」と。嗣復曰く、「去年なり」と。因みに曰く、「諫官の事を論ずるは、陛下但だ其の姓名を記し、稍く優獎を加うべし。如し当たらずと雖も、亦須く知らしむべし」と。夷行曰く、「諫官の事を論ずるは、是れ其の本職なり。若し一事を論ずる毎に一官を加うれば、則ち官何ぞ由てか得ん、情免れず」と。帝曰く、「情は固より免れず。理平の時も、亦免れ難し」と。上竟に夷行の議論過ぎるを以て、恩禮漸く薄し。尋いで政事を知るを罷め、吏部尚書を守る。

原文文宗用郭薳為坊州刺史,右拾遺,宋邧論列,以為不可。既而薳坐贓。帝謂宰相曰:「宋邧論事可嘉,邧授官來幾時?」嗣復曰:「去年。」因曰:「諫官論事,陛下但記其姓名,稍加優獎。如不當,亦須令知。」夷行曰:「諫官論事,是其本職。若論一事即加一官,則官何由得,不免有情。」帝曰:「情固不免,理平之時,亦不可免。」上竟以夷行議論太過,恩禮漸薄。尋罷知政事,守吏部尚書。

四年九月、檢校禮部尚書、出でて華州刺史と為る。五年、武宗即位し、李德裕政を秉る。七月、華より召し入れて、復た中書侍郎、平章事と為る。

原文四年九月,檢校禮部尚書,出為華州刺史。五年,武宗即位,李德裕秉政。七月自華召入,復為中書侍郎、平章事。

會昌三年十一月、檢校司空、平章事、河中尹、河中晉絳節度使。卒し、司徒を贈らる。

原文會昌三年十一月,檢校司空、平章事、河中尹、河中晉絳節度使。卒,贈司徒。

弟玄錫、夷實、皆進士擢第す。玄錫又制策に登科す。

原文弟玄錫、夷實,皆進士擢第。玄賜又制策登科。

李紳

原文李紳

李紳、字は公垂、潤州無錫の人。本より山東の著姓。高祖こうそ敬玄、則天朝の中書令、趙國文憲公に封ぜられ、自ら傳有り。祖守一、成都郫縣令。父晤、歴て金壇、烏程、晉陵三縣令、因りて無錫に家す。

原文李紳,字公垂,潤州無錫人。本山東著姓。高祖敬玄,則天朝中書令,封趙國文憲公,自有傳。祖守一,成都郫縣令。父晤,歷金壇、烏程、晉陵三縣令,因家無錫。

紳六歳にして孤と為り、母盧氏經義を以て教う。紳形狀眇小にして精悍、歌詩を為す能くす。鄉賦の年、諷誦多く人の口に在り。元和初、進士第に登り、褐を釋けて國子助教と為るも、其の好に非ず。東に歸り金陵す。觀察使李锜其の才を愛し、辟いて從事と為す。紳、锜の為す所の専恣を以て、其の書幣を受けず。锜怒り、将に紳を殺さんとす。遁れて免る。锜誅せられ、朝廷之を嘉し、召して右拾遺に拝す。

原文紳六歲而孤,母盧氏教以經義。紳形狀眇小而精悍,能為歌詩。鄉賦之年,諷誦多在人口。元和初,登進士第,釋褐國子助教,非其好也。東歸金陵,觀察使李锜愛其才,辟為從事。紳以锜所為專恣,不受其書幣;锜怒,將殺紳,遁而獲免。锜誅,朝廷嘉之,召拜右拾遺。

歳余りして、穆宗召して翰林學士と為し、李德裕、元稹と同しく禁署に在り、時に「三俊」と稱し、情意相善し。尋いで右補闕に轉ず。長慶元年三月、司勛員外郎、知制誥に改む。二年二月、超えて中書舍人に拝し、内職は旧の如し。

原文歲餘,穆宗召為翰林學士,與李德裕、元稹同在禁署,時稱「三俊」,情意相善。尋轉右補闕。長慶元年三月,改司勛員外郎、知制誥。二年二月,超拜中書舍人,內職如故。

俄にして稹相と作る。尋いで李逢吉、人を教えて稹の陰事を告げしむ。稹相を罷め、出でて同州刺史と為る。時に德裕と牛僧孺俱に相望有り。德裕恩顧稍く深し。逢吉僧孺を用いんと欲し、紳と德裕の禁中に沮まんことを懼る。二年九月、德裕を出して浙西觀察使と為し、乃ち僧孺を用いて平章事と為し、紳を以て御史中丞と為し、内職を離れしめ、易く掎摭して之を逐わんことを冀う。乃ち吏部侍郎韓愈を以て京兆尹と為し、兼ねて御史大夫とし、臺參を放つ。紳の剛褊なるを知り、必ず韓愈と忿爭せんとす。制出で、紳果たに牒を移し往来し、臺府の事體を論ず。而して愈復た性訐にして、言辭遜らず、大いに物議喧し。是れ由りて両つながら之を罷む。愈兵部侍郎に改め、紳江西觀察使と為る。天子紳を待すること素より厚く、逢吉の禍を嫁ぐるを悟らず、其の心外任を希うを為し、乃ち中使をして第に就き宣勞せしめ、之に玉帶を賜う。紳中使に対し泣きて其の事を訴え、言う、逢吉に排せられしと、闕を戀うの情已む無しと。及中謝の日、面をして自ら陳訴す。帝方に省悟し、乃ち改めて戸部侍郎を授く。

原文俄而稹作相,尋為李逢吉教人告稹陰事;稹罷相,出為同州刺史。時德裕與牛僧孺俱有相望,德裕恩顧稍深。逢吉欲用僧孺,懼紳與德裕沮於禁中。二年九月,出德裕為浙西觀察使,乃用僧孺為平章事,以紳為御史中丞,冀離內職,易掎摭而逐之。乃以吏部侍郎韓愈為京兆尹,兼御史大夫,放臺參。知紳剛褊,必與韓愈忿爭。制出,紳果移牒往來,論臺府事體。而愈復性訐,言辭不遜,大喧物議,由是兩罷之。愈改兵部侍郎,紳為江西觀察使。天子待紳素厚,不悟逢吉之嫁禍,為其心希外任,乃令中使就第宣勞,賜之玉帶。紳對中使泣訴其事,言為逢吉所排,戀闕之情無已。及中謝日,面自陳訴,帝方省悟,乃改授戶部侍郎。

中尉王守澄事を用う。逢吉門生故吏をして守澄に結托し援と為し以て紳を傾けしめ、晝夜計畫す。會す、紳の族子虞、文學知名、華陽に隠居し、自ら仕進を樂しまずと言い、時に京師に来り紳を省う。虞と從伯耆、進士程昔範、皆紳に依る。及耆左拾遺に拝するに及び、虞華陽に在りて書を寓して耆に薦めを求め、書誤って紳に達す。紳其の進退二三を以て、書を以て之を誚る。虞大いに怨望す。及京師に来り、盡く紳の嘗て密かに話したる逢吉の奸邪附會の語を逢吉に告ぐ。逢吉大いに怒り、門人張又新、李續之に計を問う。咸に曰く、「搢紳皆自ら毛羽を惜しみ、孰か肯て相公の為に搏撃せん。須らく非常の奇士、死力を出す者を要すべし。前鄧州司倉劉棲楚有り、嘗て吏と為る。鎮州王承宗事を以て之を繩す。棲楚首を以て地に觸れ固く爭い、而して承宗竟に奪う能わず。其の果銳此の如し。若し相公之を取って諫官と為し、紳の失を伺わしめ、一旦上前に於て其の過を暴揚せしめば、恩寵必ず替わらん。事苟しくも行わずんば、過は棲楚に在り、亦惜しむに足らず」と。逢吉乃ち李虞、程昔範、劉棲楚を用い、皆擢て拾遺と為し、以て紳の隙を伺わしむ。

原文中尉王守澄用事,逢吉令門生故吏結托守澄為援以傾紳,晝夜計畫。會紳族子虞,文學知名,隱居華陽,自言不樂仕進,時來京師省紳。虞與從伯耆、進士程昔範,皆依紳。及耆拜左拾遺,虞在華陽寓書與耆求薦,書誤達於紳。紳以其進退二三,以書誚之。虞大怨望。及來京師,盡以紳嘗所密話言逢吉奸邪附會之語告逢吉。逢吉大怒,問計於門人張又新、李續之,咸曰:「搢紳皆自惜毛羽,孰肯為相公搏擊!須得非常奇士出死力者。有前鄧州司倉劉棲楚者,嘗為吏。鎮州王承宗以事繩之。棲楚以首觸地固爭,而承宗竟不能奪,其果銳如此。若相公取之為諫官,令伺紳之失,一旦於上前暴揚其過,恩寵必替。事茍不行,過在棲楚,亦不足惜也。」逢吉乃用李虞、程昔範、劉棲楚,皆擢為拾遺,以伺紳隙。

俄にして穆宗晏駕す。敬宗初めに即位し、逢吉紳の勢を失うを快とし、嗣君の復た之を用いんことを慮る。張又新等謀りて紳を逐わんとす。會す、荊州刺史蘇遇朝に入る。遇陰事を決する能くす。衆、遇に計を問う。遇曰く、「上聽政の後、当に延英を開くべし。必ず次对有らん。官本を抜き源を塞がんと欲せば、先ず次對を以て慮いと為すべし。余は恃むに足らず」と。群黨深く之を然りとす。逢吉乃ち遇を以て左常侍と為す。王守澄毎に從容として敬宗に謂いて曰く、「陛下九五に登るは、逢吉の助けなり。先朝初めに儲貳を定むるに、唯臣備わって知る。時に翰林學士杜元穎、李紳深王を立てんことを勧め、而して逢吉固く請うて陛下を立てしめ、而して李續之、李虞継いで章疏を献ず」と。帝沖年と雖も、亦其の事を疑う。會す、逢吉擬を進め、李紳の内署に在りし時、嘗て陛下に利あらずと進め、行きて貶逐を請う。帝初めに即位し、方に大臣を倚り、自ら執る能わず。乃ち紳を貶して端州司馬と為す。貶制既に行わる。百僚中書にて宰相を賀す。唯右拾遺吳思賀せず。逢吉怒り、改めて殿中侍御史と為し、充てて吐蕃に入り告哀使と為す。

原文俄而穆宗晏駕。敬宗初即位,逢吉快紳失勢,慮嗣君復用之。張又新等謀逐紳。會荊州刺史蘇遇入朝,遇能決陰事,眾問計於遇。遇曰:「上聽政後,當開延英,必有次對,官欲拔本塞源,先以次對為慮,余不足恃。」群黨深然之。逢吉乃以遇為左常侍。王守澄每從容謂敬宗曰:「陛下登九五,逢吉之助也。先朝初定儲貳,唯臣備知。時翰林學士杜元穎、李紳勸立深王,而逢吉固請立陛下,而李續之、李虞繼獻章疏。」帝雖沖年,亦疑其事。會逢吉進擬,進李紳在內署時,嘗不利於陛下,請行貶逐。帝初即位,方倚大臣,不能自執,乃貶紳端州司馬。貶制既行,百僚中書賀宰相,唯右拾遺吳思不賀。逢吉怒,改為殿中侍御史,充入吐蕃告哀使。

紳の貶せらるるや、正人腹に誹り、敢えて言う者有らず。唯翰林學士韋處厚疏を上し、極めて逢吉の奸邪を言い、紳の罪を誣摭するを言う。語は『處厚傳』に在り。天子亦稍く開悟す。會す、禁中旧書を檢尋するに、穆宗時の封書一篋を得たり。之を發し、裴度、杜元穎と紳三人の献ぜし疏を得て、敬宗を立てて太子と為さんことを請う。帝感悟し興嘆し、悉く命じて逢吉黨の上しし謗書を焚かしむ。是れ由りて讒言稍く息み、紳黨保全を得。

原文紳之貶也,正人腹誹,無敢有言。唯翰林學士韋處厚上疏,極言逢吉奸邪,誣摭紳罪,語在《處厚傳》。天子亦稍開悟。會禁中檢尋舊書,得穆宗時封書一篋。發之,得裴度、杜元穎與紳三人所獻疏,請立敬宗為太子。帝感悟興嘆,悉命焚逢吉黨所上謗書,由是讒言稍息,紳黨得保全。

及寶歷改元大赦す。逢吉赦書の節文を定め、紳の量移せんことを欲せず。但だ云う、「左降官已に量移せし者は量移に與う」と。左降官と量移に與うとは言わず。韋處厚復た疏を上して之を論ず。語は『處厚傳』に在り。帝特ちに赦書を追い、節文に添えて云う「左降官と量移に與う」と。紳方に移されて江州長史と為る。再び遷りて太子賓客、分司東都。

原文及寶歷改元大赦,逢吉定赦書節文,不欲紳量移,但雲左降官已經量移者與量移,不言左降官與量移。韋處厚復上疏論之,語在《處厚傳》。帝特追赦書,添節文雲「左降官與量移」,紳方移為江州長史。再遷太子賓客,分司東都。

太和七年、李徳裕が宰相となる。七月、検校左常侍・越州刺史・浙東観察使となる。九年、李訓が権力を握り、李宗閔が再び宰相となり、李訓・鄭注と結託して李徳裕を排斥し宰相を罷免させると、李紳は李徳裕とともに太子賓客として分司となる。

原文太和七年,李德裕作相。七月,檢校左常侍、越州刺史、浙東觀察使。九年,李訓用事,李宗閔復相,與李訓、鄭註連衡排擯德裕罷相,紳與德裕俱以太子賓客分司。

開成元年、鄭覃が政務を補佐し、李徳裕を起用して浙西観察使とし、李紳を河南尹とする。六月、検校戸部尚書・汴州刺史・宣武節度使・宋亳汴潁観察等使となる。二年、夏秋に旱魃があり、大蝗害が発生したが、汴・宋の境域には入らず、詔書で褒め称えられた。また州内に利潤楼店を設置する。四年、そのまま検校兵部尚書を加えられる。

原文開成元年,鄭覃輔政,起德裕為浙西觀察使,紳為河南尹。六月,檢校戶部尚書、汴州刺史、宣武節度、宋亳汴潁觀察等使。二年,夏秋旱,大蝗,獨不入汴、宋之境,詔書褒美。又於州置利潤樓店。四年,就加檢校兵部尚書。

武宗が即位すると、検校尚書右僕射・揚州大都督ととく府長史を加えられ、淮南節度大使事を管掌する。会昌元年、召されて兵部侍郎・同平章事となり、中書侍郎に改め、累進して守右僕射・門下侍郎・監修国史・上柱国・趙国公となり、食邑二千戸を賜る。四年、突然中風の病にかかり、足が緩んで朝謁に耐えられず、上表して罷免を求める。十一月、守僕射・平章事として、出向して淮南節度使となる。六年、卒去する。

原文武宗即位,加檢校尚書右僕射、揚州大都督府長史,知淮南節度大使事。會昌元年,入為兵部侍郎、同平章事,改中書侍郎,累遷守右僕射、門下侍郎、監修國史、上柱國、趙國公,食邑二千戶。四年,暴中風恙,足緩不任朝謁,拜章求罷。十一月,守僕射、平章事,出為淮南節度使。六年,卒。

李紳は初め文芸と節操によって登用され、宮中で顧みを受けた。後に朋党によって排斥され、禍患に瀕した。正人の匡救に頼り、功名を全うすることができた。没後、宣宗が即位し、李徳裕が失脚して宰相を罷免され、洛陽らくように帰った。そして李宗閔・楊嗣復の党派である崔鉉・白敏中・令狐綯は李徳裕に重罪を科そうとした。大中初年、人を唆して李紳が揚州を鎮守した時の旧事を発掘させ、李徳裕を陥れようとした。

原文紳始以文藝節操進用,受顧禁中。後為朋黨所擠,濱於禍患。賴正人匡救,得以功名始終。歿後,宣宗即位,李德裕失勢罷相,歸洛陽;而宗閔、嗣復之黨崔鉉、白敏中、令狐綯欲置德裕深罪。大中初,教人發紳鎮揚州時舊事,以傾德裕。

初め、会昌五年、揚州江都県尉の呉湘が贓罪により投獄され、法に照らして死罪に当たると、事の詳細を上奏した。諫官はその冤罪を疑い、論じた。御史の崔元藻を派遣して再審させると、揚州の上奏と多く同じであり、呉湘はついに法に伏した。李徳裕が宰相を罷免されると、怨嗟の徒がちょうど策謀を巡らし、呉湘の兄で進士の呉汝納が、宮門に赴いて冤罪を訴え、李紳が淮南で李徳裕の権勢を頼み、臣の弟を冤殺したと述べた。李徳裕が既に貶謫された後、李紳もまた三任の官告を追って削除された。

原文初,會昌五年,揚州江都縣尉吳湘坐贓下獄,準法當死,具事上聞。諫官疑其冤,論之。遣御史崔元藻覆推,與揚州所奏多同,湘竟伏法。及德裕罷相,群怨方構,湘兄進士汝納,詣闕訴冤,言紳在淮南恃德裕之勢,枉殺臣弟。德裕既貶,紳亦追削三任官告。

呉汝納は、澧州の人で、故韶州刺史の呉武陵の兄の子である。呉武陵は進士に及第し、史学を有し、劉軻とともに史才をもって史館に直った。呉武陵は『十三代史駁議』二十巻を撰した。尚書員外郎から出向して忠州刺史となり、韶州に改められた。贓罪に坐して潘州司戸に貶謫され、そこで卒去した。

原文吳汝納者,澧州人,故韶州刺史武陵兄之子。武陵進士登第,有史學,與劉軻並以史才直史館。武陵撰《十三代史駁議》二十卷。自尚書員外郎出為忠州刺史,改韶州。坐贓貶潘州司戶卒。

呉汝納もまた進士に及第したが、叔父の贓罪のため、長らく官職が調整されなかった。会昌年間、河南府永寧県尉となる。初め、呉武陵が贓罪に坐した時、李徳裕が宰相であり、彼を貶した。故に呉汝納は不遇を抱いて怨み、李宗閔・楊嗣復の党派に附き、ともに誹謗の言をなした。ちょうど呉汝納の弟の呉湘が江都尉となり、部下から贓罪を訴えられ、兼ねて百姓の顔悦の娘を娶って妻としたが、格律を超えていた。李紳は観察判官の魏鉏に審理させ、贓状は明白であり、法に伏した。呉湘の妻の顔氏と、顔氏の継母の焦氏は、ともに笞刑に処して釈放した。なお江都県令の張弘思に命じて船で監送させ、呉湘の妻の顔氏と児女を澧州に送らせた。

原文汝納亦進士擢第,以季父贓罪,久之不調。會昌中,為河南府永寧縣尉。初,武陵坐贓時,李德裕作相,貶之。故汝納以不調挾怨,而附宗閔、嗣復之黨,同作謗言。會汝納弟湘為江都尉,為部人所訟贓罪,兼娶百姓顏悅女為妻,有逾格律。李紳令觀察判官魏铏鞫之,贓狀明白,伏法。湘妻顏,顏繼母焦,皆笞而釋之。仍令江都令張弘思以船監送湘妻顏及兒女送澧州。

揚州から詳細な判決記録が上奏されると、世論は李徳裕が平素から呉氏を憎んでいたため、李紳がその罪をでっち上げたのではないかと疑った。諫官がこれを論じたため、御史の崔元藻を制使として派遣し、呉湘の獄を再審させた。供述に基づき、程糧銭を不当に費消した罪を認め、贓額を計算して法に照らした。官職を頼んで百姓の顔悦の娘を娶って妻とした件については、顔悦は前青州衙推であると称した。顔悦は先に王氏を娶ったが、これは衣冠の家の娘であり、継室の焦氏の生んだ子ではなく、揚州の案と少し異なっていた。李徳裕は崔元藻が確定的な判断を下さなかったとして、上奏して崖州司戸に貶した。呉汝納が訴状を進上すると、崔元藻を召し還して再審問させた。崔元藻は既に李徳裕を恨んでおり、陰に崔鉉・白敏中・令狐綯に利益で誘われ、すなわち呉湘は贓罪に坐したが、死罪に至る罪ではないと述べた。また、顔悦は実は百姓ではない、この獄は鄭亜が率先し、元寿が李恪と協力して鍛錬し、李回が便宣上奏したのだと述べた。そこで三司に下して詳細に審理させた。故に李徳裕は再び貶謫され、李回・鄭亜らは皆流罪に処された。呉汝納・崔元藻は崔鉉・白敏中・令狐綯に奨励され、数年でともに顕官に至った。

原文及揚州上具獄,物議以德裕素憎吳氏,疑李紳織成其罪。諫官論之,乃差御史崔元藻為制使,覆吳湘獄。,據款伏妄破程糧錢,計贓準法。其恃官娶百姓顏悅女為妻,則稱悅是前青州衙推。悅先娶王氏,是衣冠女,非繼室焦所生,與揚州案小有不同。德裕以元藻無定奪,奏貶崖州司戶。及汝納進狀,追元藻覆問。元藻既恨德裕,陰為崔鉉、白敏中、令狐綯所利誘,即言湘雖坐贓,罪不至死。又雲,顏悅實非百姓,此獄是鄭亞首唱,元壽協李恪鍛成,李回便奏。遂下三司詳鞫。故德裕再貶,李回、鄭亞等皆竄逐。吳汝納、崔元藻為崔、白、令狐所獎,數年並至顯官。

李回

原文李回

李回は、字を昭度といい、宗室の郇王李禕の後裔である。父は李如仙。李回は本名を躔といったが、武宗の廟諱を避けた。長慶初年、進士に及第し、また賢良方正制科に登第した。初官は滑臺従事、揚州掌書記となり、監察御史を得た。召されて京兆府戸曹となり、司録参軍に転じた。朝廷にて正補闕・起居郎となり、特に宰相の李徳裕に知られた。李回は強幹で吏才があり、事に遇って通敏で、官庁の事務はよく治まった。職方員外郎を授かり、戸部の案件を裁決し、吏部員外郎を歴任し、南曹を裁決した。刑部員外郎として御史台の雑務を管掌し、緋衣を賜った。開成初年、庫部郎中として知制誥となり、中書舎人に任じられ、金紫服を賜った。武宗が即位すると、工部侍郎に任じられ、戸部侍郎に転じ、本司事を裁決した。三年、御史中丞を兼ねた。

原文李回,字昭度,宗室郇王祎之後。父如仙。回本名躔,以避武宗廟諱。長慶初,進士擢第,又登賢良方正制科。釋褐滑臺從事,揚州掌書記,得監察御史。入為京兆府戶曹,轉司錄參軍。合朝為正補闕、起居郎,尤為宰相李德裕所知。回強幹有吏才,遇事通敏,官曹無不理。授職方員外郎,判戶部案,歷吏部員外郎,判南曹。以刑部員外郎知臺雜,賜緋。開成初,以庫部郎中知制誥,拜中書舍人,賜金紫服。武宗即位,拜工部侍郎,轉戶部侍郎,判本司事。三年,兼御史中丞。

会昌三年、劉稹が潞州を占拠し、節度使の地位を要求したが、朝廷の議論はこれを許さず、兵を加えて罪を問うこととした。武宗は劉稹が陰に河朔三鎮に附いて、王師を沮むことを恐れ、李回に命じて河朔に使者として赴かせた。魏博の何弘敬・鎮冀の王元逵は皆、弓袋と矢筒を帯びて郊外で出迎えた。李回は朝旨を諭し、沢潞は王畿に密接し、河北とは異なり、艱難(安史の乱)以来、ただ魏・鎮の両藩のみが、歴代の皇帝に皆世襲を許されてきたが、劉稹は功績がなく、河朔の故事に倣おうとするのは、道理に甚だ背くと述べた。聖上はただ山東の三郡が、境が魏・鎮に連なり、軍事的に近便であるため、王師は軽々しく山東に出撃したくないので、魏・鎮の両藩に山東三郡のみを収めよと請うた。何弘敬・王元逵はうつむいて従命した。幽州の張仲武と太原の劉沔は回鶻を攻撃していた。当時両者は不協和であり、朝廷はちょうど出兵中で、藩帥の不和を望まなかった。李回が幽州に至り、和協の旨を諭すと、張仲武は喜んで遺恨を解いた。そこで劉沔を滑臺に移鎮させ、張仲武に命じて太原軍を率いて潞州を攻撃させた。賊が平定されると、本官のまま同平章事となり、累進して中書侍郎を加えられ、門下侍郎に転じ、戸部・吏部の二尚書を歴任した。

原文會昌三年,劉稹據潞州,邀求旄鉞,朝議不允,加兵問罪。武宗懼稹陰附河朔三鎮,以沮王師,乃命回奉使河朔。魏博何弘敬、鎮冀王元逵皆具櫜鞬郊迎。回喻以朝旨,言澤潞密邇王畿,不同河北,自艱難已來,唯魏、鎮兩籓,列聖皆許襲,而稹無功,欲效河朔故事,理即太悖。聖上但以山東三郡,境連魏、鎮,用軍便近,王師不欲輕出山東,請魏、鎮兩籓只收山東三郡。弘敬、元逵俯僂從命。幽州張仲武與太原劉沔攻回鶻。時兩人不協,朝廷方用兵,不欲籓帥不和。回至幽州,喻以和協之旨,仲武欣然釋憾。乃移劉沔鎮滑臺,命仲武領太原軍攻潞。賊平,以本官同平章事,累加中書侍郎,轉門下,歷戶、吏二尚書。

武宗が崩御すると、李回は山陵使を務め、廟への合祀が終わると、出向して成都尹・剣南西川節度使となる。大中元年冬、李徳裕と親善した罪に坐し、潭州刺史・湖南観察使に改められ、再び撫州刺史に貶謫された。白敏中・令狐綯が宰相を罷免されると、召されて兵部尚書となり、再び出向して成都尹・剣南西川節度使となる。卒去し、司徒を追贈され、諡して文懿といった。

原文武宗崩,回充山陵使,祔廟竟,出為成都尹、劍南西川節度。大中元年冬,坐與李德裕親善,改潭州刺史、湖南觀察使,再貶撫州刺史。白敏中、令狐綯罷相,入朝為兵部尚書,復出為成都尹、劍南西川節度使。卒,贈司徒,謚曰文懿。

李玨

原文李玨

李玨は、字を待価といい、趙郡の人である。父は李仲朝。李玨は進士に及第し、また書判抜萃科に登第し、累官して右拾遺に至った。穆宗は酒色にふけり、易月の喪制が終わるや、すぐに勲臣と飲宴した。李玨は同僚とともに上疏してこれを論じた。

原文李玨,字待價,趙郡人。父仲朝。玨進士擢弟,又登書判拔萃科,累官至右拾遺。穆宗荒於酒色,才終易月之制,即與勛臣飲宴。玨與同列上疏論之曰:

臣下は聞く、人臣の節は、忠誠を尽くすことを本とし、もし見解があれば、すみやかに上奏すべきであると。ましてや陛下の諫官として、陛下の厚い俸禄を食む身であり、どうして腹中で誹り巷で議論し、恩寵と栄誉に背くことができようか。臣らは巷の噂を聞いたが、真偽はわからない。皆が言うには、詔を下して李光顔・李醖を召還し、重陽の節日に群臣を集めて宴を催そうとしているという。もし本当にそうであるならば、それは陛下が群臣を思いやり、恵みを施そうとする慈愛の御心によるものであろう。しかし、元号はまだ改まらず、先帝の陵墓もなお新しい。たとえ陛下が易月の期限を執り、人々の願いに従われたとしても、礼経には三年の喪制が明記されており、心の喪に服すべきである。今、諸侯が参集する機会に、ちょうど都を離れようとしている者もあり、遠方の夷狄に告げる使者も、まだ帰還の命を受けていない。音楽を止め禁令を緩めるのは、民を斉一にするためであり、内廷で宴を催すことは、いまだ行うべきではない。明王の挙動は、天下の規範となる。王の言葉が下れば、その出ずるや絹糸のごとく広がる。もしも皇猷を汚すことになれば、ただ直言を上奏するだけである。臣らはこのゆえに、死を冒して上聞するのである。かつ光顔・李愬は、長く忠勤を立てており、今は盛秋にあたり、辺境を開拓することを務めている。もしも召見されるならば、謀略を詔して授け、その積年の勲功を褒め称え、辺境の事を委ねるならば、鐘鼓を鳴らして宴を催し、酒食を供して歓を邀えることとは、同日に論じることはできない。陛下が皇位を継がれて以来、号令を発し政令を下すことは、すべて孝の理に基づく御心からであり、詔勅に現れている。すでに人倫を感動させるに足る。さらに慎んで威儀を敬い、聖徳を保つことにあるのみである。

原文臣聞人臣之節,本於忠盡,茍有所見,即宜上陳。況為陛下諫官,食陛下厚祿,豈敢腹誹巷議,辜負恩榮?臣等聞諸道路,不知信否,皆云有詔追李光顏、李醖,欲於重陽節日,合宴群臣。倘誠有之,乃陛下念群臣,敷惠澤之慈旨也。然元朔未改,園陵尚新。雖陛下執易月之期,俯從人欲;而禮經著三年之制,猶服心喪。今遵同軌之會,適去於中邦;告遠夷之使,未復其來命。遏密弛禁,蓋為齊人,合宴內廷,事將未可。夫明王之舉動,為天下法;王言既降,其出如綸。茍玷皇猷,徒章直諫,臣等是以昧死上聞。且光顏、李愬,久立忠勞,今方盛秋,務拓邊境。如或召見,詔以謀猷,褒其宿勛,付以疆事,則與歌鐘合宴,酒食邀歡,不得同年而語也。陛下自纘嗣以來,發號施令,無非孝理因心,形於詔敕,固以感動於人倫。更在敬慎威儀,保持聖德而已。

上はその言を用いなかったが、慰労して帰らせた。

原文上雖不用其言,慰勞遣之。

長慶元年、塩鉄使王播が茶税を増額し、初めは百文に課税していたものを、五十文増やした。李玨が上疏してこれを論じた。その文は以下の通りである。

原文長慶元年,鹽鐵使王播增茶稅,初稅一百,增之五十,玨上疏論之曰:

専売による徴税は弊害を救うため、戦乱の時代に始まったものであり、天下が平穏であれば、すみやかに減免すべきである。ましてや茶に課税することは、ことに近年始まったことであり、貞元元年の当時は、やむを得なかったのであろう。今、四海は鏡のように澄み渡り、八方は砥石のように平らかである。民に重税を課すことは、国体を大いに傷つける。これが第一の不可である。

原文榷率救弊,起自干戈,天下無事,即宜蠲省。況稅茶之事,尤出近年,在貞元元年中,不得不爾。今四海鏡清,八方砥平,厚斂於人,殊傷國體。其不可一也。

茶は食物であり、米や塩と異なることはない。人々が頼るものであり、遠近を問わず同じく需要がある。疲れを癒し欠乏を補うものであり、しばしも捨てがたく、田舎の間では、嗜好が特に切実である。今、税が重くなれば、時価も必ず上がり、民に流れる弊害は、まず貧弱な者に及ぶ。これが第二の不可である。

原文茶為食物,無異米鹽,於人所資,遠近同俗。既袪竭乏,難舍斯須,田閭之間,嗜好尤切。今增稅既重,時估必增,流弊於民,先及貧弱。其不可二也。

かつ山沢の産物は、出る量に定数がなく、斤量に応じて税を論じるのは、多く売れることを期待してのことである。価格が高ければ買う者は少なく、価格が安ければ買う者は多い。歳末に上計するとき、その利益はどれほどあろうか。財を豊かにする様子は見えず、ただ怨みを集めると聞くのみである。これが第三の不可である。

原文且山澤之饒,出無定數,量斤論稅,所冀售多。價高則市者稀,價賤則市者廣,歲終上計,其利幾何?未見阜財,徒聞斂怨。其不可三也。

臣は遠く故事を引くことはせず、ただ目前に見えることを述べる。伏して願わくは、しばらく聡明を留め、少し思いを垂れ、特に成命を追い返し、改めてご考慮を賜りたい。陛下が即位された初め、すでに聚斂を戒められ、地方官による献上品の押送も、まもなく詔を下して停止された。広く行き渡る徳音は、千古に朽ちない。今もし茶の専売税を増やせば、人情を大いに失うことになろう。臣は諫官の職にあり、黙しているわけにはいかない。

原文臣不敢遠征故事,直以目前所見陳之。伏望暫留聰明,稍垂念慮,特追成命,更賜商量。陛下即位之初,已懲聚斂,外官押貫,旋有詔停,洋洋德音,千古不朽。今若榷茶加稅,頗失人情。臣忝諫司,不敢緘默。

当時、禁中に百尺楼を造営しており、国家の財用が足りなかった。王播は恩寵を求めて税を増やし、皇帝の嗜欲に奉じた。上疏が奏上されたが、省みられなかった。李玨は吏部員外郎に転じ、さらに司勲員外郎・知制誥となった。

原文時禁中造百尺樓,國計不充。王播希恩增稅,奉帝嗜欲,疏奏不省。遷吏部員外郎,轉司勛員外郎、知制誥。

太和五年、李宗閔・牛僧孺が宰相に在り、李玨と親密であったため、度支郎中・知制誥に改められ、ついに翰林に入り学士を充たした。七年三月、正式に中書舍人に任じられた。九年五月、戸部侍郎に転じ、職を充たした。七月、宗閔が罪を得たため、李玨は連座して、江州刺史として出された。開成元年四月、太子賓客として東都に分司し、河南尹に遷った。二年五月、李固言が宰相に入ると、李玨を召し戻して再び戸部侍郎とし、本司の事を判じさせた。三年、楊嗣復が政を補佐し、李玨を本官のまま同平章事に推挙した。李玨は固言・嗣復と親しく、固言が地位を得てからは、相次いで引き立てられた。大政に居て、鄭覃・陳夷行・李德裕の三人を傾けようとした。奏議があるごとに、必ず朋党の謀りごととし、たびたび覃によって朝廷で論破された。李玨は朝議郎から正議大夫に進階し、その年の十二月、上疏して罷免を求めたが、許されなかった。

原文太和五年,李宗閔、牛僧孺在相,與玨親厚,改度支郎中、知制誥,遂入翰林充學士。七年三月,正拜中書舍人。九年五月,轉戶部侍郎充職。七月,宗閔得罪,玨坐累,出為江州刺史。開成元年四月,以太子賓客分司東都,遷河南尹。二年五月,李固言入相,召玨復為戶部侍郎,判本司事。三年,楊嗣復輔政,薦玨以本官同平章事。玨與固言、嗣復相善,自固言得位,相繼援引;居大政,以傾鄭覃、陳夷行、李德裕三人。凡有奏議,必以朋黨為謀,屢為覃所廷折之。玨自朝議郎進階正議大夫,其年十二月,上疏求罷,不許。

四年三月、文宗が宰相らに言った。「朕が在位して十四年、天下は事なく、まだ至治には至らないが、今日のように事のないことは少ない。」李玨が答えて言った。「国家の安危は、人の身体にも似ている。四肢が平和な時には、常に調子を整え、寒暖の節に順応すべきである。もし安泰を恃んでおろそかにすれば、たちまち疾患が生じる。朝廷は事のない時に、欠失を思い返して補えば、禍難は起こらないでしょう。」

原文四年三月,文宗謂宰臣曰:「朕在位十四年,屬天下無事,雖未至理,亦少有如今日之無事也。」玨對曰:「邦國安危,亦知人之身。當四體和平之時,長宜調適,以順寒暄之節。如恃安自忽,則疾患旋生。朝廷當無事之時,思省闕失而補之,則禍難不作矣。」

文宗は杜悰が度支を管轄して職務に適っているとして、戸部尚書を加えようとし、紫宸殿でそのことを言った。陳夷行が言った。「すべての恩賞と権限は、君主に帰すべきです。陛下ご自身で可否をお決めになりますか。」李玨が答えて言った。「太宗は宰相を用いられ、天下の事はすべて先に評議させ、それを平章事と称しました。天に代わって万物を治め、上下に疑いがなければ、太平を致す所以です。もし一官を任じ、一職を命ずることに、すべて君主が決断されるならば、どうしてあの宰相を用いる必要がありましょうか。昔、隋文帝はすべてを自ら労力し、臣下が意見を述べれば疑い、臣下を用いる時は宰相、用いない時は普通の官僚としており、どうして自らを保つことができたでしょうか。陛下は常に臣に言われます。『竇易直が私を諫めて、宰相が進める擬議は、五人の中から三人・二人を留め、一人を勾消せよと言った。彼はむしろ私に宰相を選ぶことを勧めるべきで、宰相を疑うことを勧めるべきではなかった。』と。」帝は言った。「易直のこの言葉は甚だ卑しい。」また言った。「韋処厚が宰相となって、三日で六人の僧侶を推薦したのも、大いに怪しむべきことだ。」李玨が言った。「処厚は仏教に溺れて、その是非を悟らなかったのです。」

原文文宗以杜悰領度支稱職,欲加戶部尚書,因紫宸言之。陳夷行曰:「一切恩權,合歸君上。陛下自看可否?」玨對曰:「太宗用宰臣,天下事皆先平章,謂之平章事。代天理物,上下無疑,所以致太平者也。若拜一官,命一職,事事皆決於君上,即焉用彼相?昔隋文帝一切自勞心力,臣下發論則疑,凡臣下用之則宰相,不用是常僚,豈可自保?陛下常語臣云:『竇易直勸我,宰相進擬,但五人留三人、兩人,勾一人。渠即合勸我擇宰相,不合勸我疑宰相。』」帝曰:「易直此言甚鄙。」又曰:「韋處厚作相,三日薦六度師,亦大可怪。」玨曰:「處厚淫於奉佛,不悟其是非也。」

その年の五月、上は宰相らに言った。「貞元の政事は、初年は非常に良かった。」李玨が言った。「徳宗は中年になって財貨を好み、方鎮が進奉すれば、すぐに恩沢を加えられました。租賦は百姓から出るもので、さらに貪吏に剥削させ、財貨を集めて恩寵を希うのは、治道としてはよろしくありません。」上は言った。「君主が聚斂することは、なお自ら行うべきではない。ただ租税を軽くし費用を節約すればよい。」李玨はまた言った。「貞観年中、房玄齢・杜如晦・王珪・魏徴が文皇帝に啓告した意図は、まさにここにありました。どうか初心を変えられませんように。古来、善政は始めても、最後まで貫くことは実に難しいのです。」上は言った。「朕の心は終わりまで改めない。」まもなく李玨は贊皇男に封ぜられ、食邑三百戸を賜った。

原文其年五月,上謂宰臣曰:「貞元政事,初年至好。」玨曰:「德宗中年好貨,方鎮進奉,即加恩澤。租賦出自百姓,更令貪吏剝削,聚貨以希恩,理道故不可也。」上曰:「人君聚斂,猶自不可。但輕賦節用可也。」玨又曰:「貞觀中,房、杜、王、魏啟告文皇,意只在此,請不易初心。自古好事,克終實難。」上曰:「朕心終不改也。」尋封贊皇男,食邑三百戶。

武宗が即位した年の九月、楊嗣復とともに宰相を罷められ、桂州刺史・桂管観察使として出された。三年、驩州に長流された。大中二年、崔鉉・白敏中が李德裕を追放すると、召し入れて朝に帰し戸部尚書とした。河陽節度使として出された。吏部尚書として入朝し、累進して金紫光禄大夫・検校尚書右僕射・揚州大都督府長史・淮南節度使・上柱国・贊皇郡開国公・食邑一千五百戸となった。大中七年に卒し、司空を追贈された。

原文武宗即位之年九月,與楊嗣復俱罷相,出為桂州刺史、桂管觀察使。三年,長流驩州。大中二年,崔鉉、白敏中逐李德裕,征入朝為戶部尚書。出為河陽節度使。入為吏部尚書,累遷金紫光祿大夫、檢校尚書右僕射、揚州大都督府長史、淮南節度使、上柱國、贊皇郡開國公、食邑一千五百戶。大中七年卒,贈司空。

李固言

原文李固言

李固言は、趙郡の人である。祖父は並、父は現。固言は、元和七年に進士甲科に及第した。太和初年、累官して賀部郎中・知臺雑となった。四年、李宗閔が宰相となると、用いられて給事中となった。五年、宋申錫が王守澄に誣陷された時、固言は同僚とともに閤の下に伏してこれを論じた。将作監王堪が太廟の修復を怠ったため、俸禄を罰せられ、さらに官を改めて太子賓客とされた。制書が出ると、固言は封還して言った。「東宮は太子を調護する場所であり、怠慢の罰を受けた者を置くべきではありません。」均王傅に改められた。六年、工部侍郎に遷った。七年四月、尚書左丞に転じ、詔を奉じて左右僕射の上事儀注を定めた。八年、李德裕が政を補佐すると、華州刺史として出された。

原文李固言,趙郡人。祖並,父現。固言,元和七年登進士甲科。太和初,累官至賀部郎中、知臺雜。四年,李宗閔作相,用為給事中。五年,宋申錫為王守澄誣陷,固言與同列伏閣論之。將作監王堪修奉太廟弛慢,罰俸,仍改官為太子賓客。制出,固言封還曰:「東宮調護之地,不可令弛慢被罰之人處之。」改為均王傅。六年,遷工部侍郎。七年四月,轉尚書左丞,奉詔定左右僕射上事儀註。八年,李德裕輔政,出為華州刺史。

その年十月、宗閔は再び入朝し、召されて吏部侍郎に拝された。九年五月、御史大夫に遷った。六月、宗閔は罪を得て、固言が代わって門下侍郎・平章事となり、まもなく崇文館大学士を加えられた。時に李訓・鄭註が権勢を握り、自ら輔相の権を窃らんと欲していた。宗閔が既に追放された後、外見は公の体裁を示し、固言を立てたが、その実は宗閔の朋党であることを憎んだのである。九月、兵部尚書として出向し、興元節度使となった。李訓が固言に代わって平章事となった。李訓・鄭註が誅殺されると、文宗はその讜直を思い、開成元年四月、再び召して平章事とし、戸部事を判らせた。

原文其年十月,宗閔復入,召拜吏部侍郎。九年五月,遷御史大夫。六月,宗閔得罪,固言代為門下侍郎、平章事,尋加崇文館大學士。時李訓、鄭註用事,自欲竊輔相之權。宗閔既逐,外示公體,爰立固言,其實惡與宗閔朋黨。九月,以兵部尚書出為興元節度使。李訓自代固言為平章事。訓、註誅,文宗思其讜正,開成元年四月,復召為平章事,判戶部事。

二年、君臣が徽号を上奏した。帝は紫宸殿で言われた、「中外より上章し、徽号を加えることを請う。朕は思うに、治道はなお鬱屈しており、まことに嶽牧の請いに愧じる。聞くところによれば、州郡には甚だ政の行われぬところがあるというが、どうか。」固言が言った、「人言に、鄧州の王堪は衰老し、隋州の鄭襄は政を行わないと申します。」帝は言われた、「王堪は貞元の時の御史で、ただこの一人のみである。」鄭覃が言った、「臣は王堪を旧人として、刺史に推挙いたしました。鄭襄は近来官を守るも、また敗事はありません。もし外郡が治まらぬと言うならば、何ぞ二人に止まらん。」帝は言われた、「濟濟たる多士、文王以て寧んず。徳宗の時、班行には閑員多く、豈に時に才乏しきや。」李石が答えて言った、「十室の邑といえども、必ず忠信あり。安んぞ大国にして人無からんや。蓋し貞元中、仕進の路塞がりしが故に、才ある人は或いは他所に跡を托し、これ乃ち人才を叙進せざる過ちなり。」固言が言った、「才を求むるの道は、人に保任せられ、便宜に奨励任用すべし。その職に称するか否かに随ってこれを升黜すべきです。」上は言われた、「宰相が人を薦むるに、親疏を計るなかれ。竇易直が相となった時、未だ嘗て親情を用いるを論ぜず。もし己が相の才に非ざれば、自ら退くべし。もし公挙ならば、親といえども何ぞ嫌わん。人に全才鮮し、ただその長ずる所を用いるのみ。」

原文二年,君臣上徽號,上紫宸言曰:「中外上章,請加徽號。朕思理道猶郁,實愧嶽牧之請。如聞州郡甚有無政處?」固言曰:「人言鄧州王堪衰老,隋州鄭襄無政。」帝曰:「堪是貞元時御史,只有此一人。」鄭覃曰:「臣以王堪舊人,舉為刺史。鄭襄比來守官,亦無敗事。若言外郡不理,何止二人?」帝曰:「濟濟多士,文王以寧。德宗時,班行多閑員,豈時乏才耶?」李石對曰:「十室之邑,必有忠信。安有大國無人?蓋貞元中仕進路塞,所以有才之人或托跡他所,此乃不敘進人才之過也。」固言曰:「求才之道,有人保任,便宜獎用。隨其稱職與否升黜之。」上曰:「宰相薦人,莫計親疏。竇易直作相,未嘗論用親情。若己非相才,自宜引退。若是公舉,親亦何嫌?人鮮全才,但用其所長爾。」

まもなく金紫光禄大夫の階を進められ、戸部事を判った。その年十月、門下侍郎平章事として出向し、成都尹・剣南西川節度使となり、楊嗣復に代わった。表を上って門下侍郎を譲り、乃ち検校左僕射となった。会昌初年に入朝し、兵部・戸部二尚書を歴任した。宣宗が即位すると、累ねて検校司徒・東都留守・東畿汝都防禦使を授けられた。大中の末、太常卿孫簡に代えられ、太子太傅に拝され、東都に分司し、卒した。

原文尋進階金紫,判戶部事。其年十月,以門下侍郎平章事出為成都尹、劍南西川節度使,代楊嗣復。上表讓門下侍郎,乃檢校左僕射。會昌初入朝,歷兵、戶二部尚書。宣宗即位,累授檢校司徒、東都留守、東畿汝都防禦使。大中末,以太常卿孫簡代之,拜太子太傅,分司東都,卒。

史臣曰く

原文史臣曰

史臣曰く、陳・鄭諸公は、章疏議論に、端士の風を綽かに有す。天子は賢能をもってこれに待ち、鼎職をこれに付す。延英殿に献納すれども、康済の謨を聞くこと罕なり。文陛に敷揚すれども、具瞻の望に副うこと莫し。これに互いに傾奪を生じ、競い起こって愛憎を起こすを加う。ただ李回は使命を奉じて藩臣を諭し、危邦を救いて宿憾を除く。況んや昭献帝は文章は以て世の範と為すべく、德行は以て人の師と為すべし。啓・誦の上才有りて、桓・霊の失道に非ず。詎んぞ己が過ちを思わず、只だ面欺を務めんや。輔弼の宜しき、安んぞ訓を垂るべけんや。若し韓非の言を進めしめば、子輩安んぞ逃れんや。土運の衰え、これ魍魎たり、悲しいかな。

原文史臣曰:陳、鄭諸公,章疏議論,綽有端士之風。天子待以賢能,付之以鼎職。延英獻納,罕聞康濟之謨;文陛敷揚,莫副具瞻之望。加以互生傾奪,競起愛憎。惟回奉使命而喻籓臣,救危邦而除宿憾。況昭獻文章可以為世範,德行可以為人師,有啟、誦之上才,非桓、靈之失道,詎可不思己過,只務面欺。輔弼之宜,安可垂訓?若俾韓非之言進矣,子輩安可逃乎?土運之衰,斯為魍魎,悲夫!

賛して曰く、愛して悪を知り、憎んで善を忘れず。平心をもって非を救い、鼎鉉に居るべし。声に吠えて悪を助け、党を結びて朝に専らす。身を謀りて国を壊す。何の名をもって燮調と為さん。

原文贊曰:愛而知惡,憎不忘善。平心救非,可居鼎鉉。吠聲濟惡,結黨專朝。謀身壞國。何名燮調?