舊唐書

巻172

巻172

舊唐書

原文舊唐書

卷一百七十二

原文卷一百七十二

列傳第一百二十二 令狐楚 牛僧孺 蕭俛 李石

原文列傳第一百二十二 令狐楚 牛僧孺 蕭俛 李石

令狐楚

原文令狐楚

令狐楚、字は殼士、自ら言うには国初の十八学士徳棻の裔なり。祖父は崇亮、綿州昌明県令。父は承簡、太原府功曹。家世は儒素なり。楚は児童の時既に属文を学び、弱冠にして進士に応じ、貞元七年に登第す。桂管観察使王拱その才を愛し、礼を以て辟召せんと欲し、楚の従わざるを懼れ、乃ち先ず奏聞して後に聘を致す。楚は父が太原に掾たりしを以て、庭闈の恋有り、又拱の厚意に感じ、登第後径ち桂林に往きて拱に謝す。宴遊に預からず、帰りて奉養を乞い、即ち太原に還る。人皆之を義とす。李説・厳綬・鄭儋相継いで太原を鎮め、其の行義を高くし、皆辟して従事と為す。掌書記より節度判官に至り、殿中侍御史を歴任す。

原文令狐楚,字殼士,自言國初十八學士德棻之裔。祖崇亮,綿州昌明縣令。父承簡,太原府功曹。家世儒素。楚兒童時已學屬文,弱冠應進士,貞元七年登第。桂管觀察使王拱愛其才,欲以禮辟召,懼楚不從,乃先聞奏而後致聘。楚以父掾太原,有庭闈之戀,又感拱厚意,登第後徑往桂林謝拱。不預宴遊,乞歸奉養,即還太原,人皆義之。李說、嚴綬、鄭儋相繼鎮太原,高其行義,皆辟為從事。自掌書記至節度判官,歷殿中侍御史。

楚は才思俊麗なり。徳宗文を好み、太原の奏至る毎に、能く楚の為す所を弁じ、頗る之を称す。鄭儋鎮に在りて暴卒し、後事を処分するに及ばず、軍中喧嘩し、将に急変有らんとす。中夜十数騎刃を把りて楚を迫り軍門に至らしめ、諸将之を環り、遺表を草せしむ。楚は白刃の中に在りて、管を搦めば即ち成り、三軍に読示す。感泣せざる無く、軍情乃ち安んず。是より声名益々重し。父憂に丁り、孝を以て聞こゆ。喪を免れ、徴されて右拾遺に拝し、太常博士・礼部員外郎に改む。母憂にて官を去る。服闋し、刑部員外郎を以て征せられ、職方員外郎・知制誥に転ず。

原文楚才思俊麗。德宗好文,每太原奏至,能辨楚之所為,頗稱之。鄭儋在鎮暴卒,不及處分後事,軍中喧嘩,將有急變。中夜十數騎持刃迫楚至軍門,諸將環之,令草遺表。楚在白刃之中,搦管即成,讀示三軍,無不感泣,軍情乃安。自是聲名益重。丁父憂,以孝聞。免喪,徵拜右拾遺,改太常博士、禮部員外郎。母憂去官。服闋,以刑部員外郎征,轉職方員外郎、知制誥。

楚は皇甫鎛・蕭俛と同年に進士第に登る。元和九年、鎛初めに財賦を以て幸を得、俛・楚を薦めて俱に翰林に入り、学士を充て、職方郎中・中書舎人に遷り、皆内職に居る。時に淮西に用兵し、事を言う者は師久しく功無しとし、宜しく賊を宥め兵を罷むべしとす。唯裴度と憲宗は寇を殄さんことを志す。十二年夏、度自ら宰相兼彰義軍節度・淮西招撫宣慰処置使と為る。宰相李逢吉は度と協わず、楚と相善し。楚が度の淮西招撫使の制を草すに、度の旨に合わず、度は制内の三数句の語を改めんことを請う。憲宗方に度の用兵を責むるに、乃ち逢吉の相任を罷め、亦楚の内職を罷め、中書舎人を守らしむ。

原文楚與皇甫鎛、蕭俛同年登進士第。元和九年,鎛初以財賦得幸,薦俛、楚俱入翰林,充學士,遷職方郎中、中書舍人,皆居內職。時用兵淮西,言事者以師久無功,宜宥賊罷兵,唯裴度與憲宗誌在殄寇。十二年夏,度自宰相兼彰義軍節度、淮西招撫宣慰處置使。宰相李逢吉與度不協,與楚相善。楚草度淮西招撫使制,不合度旨,度請改制內三數句語。憲宗方責度用兵,乃罷逢吉相任,亦罷楚內職,守中書舍人。

元和十三年四月、出でて華州刺史と為る。其の年十月、皇甫鎛相を作す。其の月楚を以て河陽懐節度使と為す。十四年四月、裴度出でて太原を鎮む。七月、皇甫鎛楚を薦めて朝に入り、朝議郎より朝議大夫・中書侍郎・同平章事を授け、鎛と同く台衡に処り、深く顧待を承く。

原文元和十三年四月,出為華州刺史。其年十月,皇甫鎛作相,其月以楚為河陽懷節度使。十四年四月,裴度出鎮太原。七月,皇甫鎛薦楚入朝,自朝議郎授朝議大夫、中書侍郎、同平章事,與鎛同處臺衡,深承顧待。

十五年正月、憲宗崩ず。詔して楚を山陵使と為し、仍り哀冊文を撰す。時に天下皇甫鎛の奸邪を怒る。穆宗即位の四日、群臣素服し、月華門外に班し、詔を宣して鎛を貶し、将に之を殺さんとす。会に蕭俛相を作し、中官に托して救解し、方に崖州に貶す。物議は楚が鎛に因りて相と作りて裴度を逐えしを以てし、群情共に怒る。蕭俛の故を以て、敢えて言を措く者無し。

原文十五年正月,憲宗崩,詔楚為山陵使,仍撰哀冊文。時天下怒皇甫鎛之奸邪。穆宗即位之四日,群臣素服,班於月華門外,宣詔貶鎛,將殺之。會蕭俛作相,托中官救解,方貶崖州。物議以楚因鎛作相而逐裴度,群情共怒。以蕭俛之故,無敢措言。

其の年六月、山陵畢り、会に楚の親吏贓汚の事発するを告ぐる有り、出でて宣歙観察使と為る。楚が山陵を充奉する時、親吏韋正牧・奉天令于翬・翰林陰陽官等、官銭を同く隠し、工徒の価銭を与えず、移して羨余十五万貫と為し上献す。怨訴路に盈ち、正牧等下獄して罪に伏し、皆誅さる。楚再び衡州刺史に貶さる。

原文其年六月,山陵畢,會有告楚親吏贓汙事發,出為宣歙觀察使。楚充奉山陵時,親吏韋正牧、奉天令于翬、翰林陰陽官等同隱官錢,不給工徒價錢,移為羨餘十五萬貫上獻。怨訴盈路,正牧等下獄伏罪,皆誅。楚再貶衡州刺史。

時に元稹初めて幸を得、学士と為り、素より楚と鎛の膠固して寵を希うを悪む。稹楚の衡州の制を草し、略に曰く「楚早く文芸を以て、班資に践み得たり。憲宗才を念い、禁近に擢き居らしむ。異端斯れ害し、独見明らかならず、密かに討伐の謀を隳し、潜かに奸邪の党に附す。因縁地を得、進取多門、遂に台階を忝くし、実に賢路を妨ぐ。」楚深く稹を恨む。

原文時元稹初得幸,為學士,素惡楚與鎛膠固希寵,稹草楚衡州制,略曰:「楚早以文藝,得踐班資,憲宗念才,擢居禁近。異端斯害,獨見不明,密隳討伐之謀,潛附奸邪之黨。因緣得地,進取多門,遂忝臺階,實妨賢路。」楚深恨稹。

長慶元年四月、量移して郢州刺史と為り、太子賓客に遷り、分司東都す。二年十一月、陜州大都督ととく府長史・兼御史大夫・陜虢観察使を授く。制下ること旬日、諫官論奏し、言う楚の犯す所軽からず、未だ廉察の任に居るに合わずと。上之を知り、遽かに制を追わしむ。時に楚已に陜州に至り、事を視ること一日なり。復た賓客を授け、東都に帰る。時に李逢吉相を作し、極力楚を援け、李紳の禁密に在りて之を沮むを以て、能く柄を擅にせず。敬宗即位し、逢吉李紳を逐い、尋いで楚を用いて河南尹・兼御史大夫と為す。

原文長慶元年四月,量移郢州刺史,遷太子賓客,分司東都。二年十一月,授陜州大都督府長史、兼御史大夫、陜虢觀察使。制下旬日,諫官論奏,言楚所犯非輕,未合居廉察之任。上知之,遽令追制。時楚已至陜州,視事一日矣。復授賓客,歸東都。時年逢吉作相,極力援楚,以李紳在禁密沮之,未能擅柄。敬宗即位,逢吉逐李紳,尋用楚為河南尹、兼御史大夫。

其の年九月、検校礼部尚書・汴州刺史・宣武軍節度・汴宋亳観察等使を拝す。汴軍は素より驕り、累ね主帥を逐う。前後韓弘兄弟、率ね峻法を以て之を縄し、人皆偷生し、未だ志を革めず。楚は撫理に長じ、前に河陽を鎮め、烏重胤に代わりて滄州に移鎮す。河陽軍三千人を以て牙卒と為す。卒咸従わんことを願わず、中路に叛して帰り、又州に帰ることを敢えず、境上に聚まる。楚初めて赴任し、之を聞き、乃ち疾駆して懐州に赴く。潰卒亦至る。楚単騎にて之を諭し、咸に弓を橐め甲を解かしめ、前駆と為して用う。卒敢えて乱れず。汴州に蒞るに及び、其の酷法を解き、仁恵を以て治めと為し、其の甚だしきを去る。軍民咸悦び、翕然として化に従い、後竟に善地と為る。汴帥の前例、始めて至る率ね銭二百万を以て其の私蔵を実す。楚独り取らず、其の羨財を以て廨舎数百間を治む。

原文其年九月,檢校禮部尚書、汴州刺史、宣武軍節度、汴宋亳觀察等使。汴軍素驕,累逐主帥;前後韓弘兄弟,率以峻法繩之,人皆偷生,未能革誌。楚長於撫理,前鎮河陽,代烏重胤移鎮滄州,以河陽軍三千人為牙卒,卒咸不願從,中路叛歸,又不敢歸州,聚於境上。楚初赴任,聞之,乃疾驅赴懷州,潰卒亦至,楚單騎喻之,咸令橐弓解甲,用為前驅,卒不敢亂。及蒞汴州,解其酷法,以仁惠為治,去其太甚,軍民咸悅,翕然從化,後竟為善地。汴帥前例,始至率以錢二百萬實其私藏,楚獨不取,以其羨財治廨舍數百間。

太和二年九月、徴されて戸部尚書と為る。三年三月、検校兵部尚書・東都留守・東畿汝都防禦使を拝す。其の年十一月、位を進めて検校右僕射・鄆州刺史・天平軍節度・鄆曹濮観察等使と為る。故東平県を天平県と為すことを奏す。歳旱儉に属し、人相食むに至る。楚は富を均し貧を贍し、而して流亡する者無し。六年二月、太原尹・北都留守・河東節度等使に改む。楚久しく并へい州に在り、其の風俗を練り、人の利する所に因りて之を利し、歳旱に属すと雖も、人転徙する者無し。楚始め書生より、計に随いて成名し、皆太原に在り、実に故裏の如し。是に及びて旄を垂れて鎮を作すに、邑老歓迎す。楚は綏撫方有り、軍民胥悦ぶ。七年六月、入りて吏部尚書と為り、仍り検校右僕射を拝す。故事、検校高官の者は、便ち其の班に従う。楚は正官三品は二品の列に従うべからずとし、本班に従わんことを請う。優詔之を嘉す。九年六月、転じて太常卿と為る。十月、尚書左僕射を守り、彭陽郡開国公に進封さる。十一月、李訓乱を兆し、京師大いに擾る。訓乱の夜、文宗右僕射鄭覃と楚を召して禁中に宿し、制勅を商量す。上皆用いて宰相と為さんと欲す。楚は王涯・賈餗の冤死を以て、其の罪状を叙するに浮泛なり。仇士良等悦ばず、故に輔弼の命李石に移る。乃ち本官を以て塩鉄転運等使を領す。

原文太和二年九月,徵為戶部尚書。三年三月,檢校兵部尚書、東都留守、東畿汝都防禦使。其年十一月,進位檢校右僕射、鄆州刺史、天平軍節度、鄆曹濮觀察等使。奏故東平縣為天平縣。屬歲旱儉,人至相食,楚均富贍貧,而無流亡者。六年二月,改太原尹、北都留守、河東節度等使。楚久在并州,練其風俗,因人所利而利之,雖屬歲旱,人無轉徙。楚始自書生,隨計成名,皆在太原,實如故裏。及是垂旄作鎮,邑老歡迎。楚綏撫有方,軍民胥悅。七年六月,入為吏部尚書,仍檢校右僕射。故事,檢校高官者,便從其班。楚以正官三品不宜從二品之列,請從本班,優詔嘉之。九年六月,轉太常卿。十月,守尚書左僕射,進封彭陽郡開國公。十一月,李訓兆亂,京師大擾。訓亂之夜,文宗召右僕射鄭覃與楚宿於禁中,商量制敕,上皆欲用為宰相。楚以王涯、賈餗冤死,敘其罪狀浮泛,仇士良等不悅,故輔弼之命移於李石。乃以本官領鹽鐵轉運等使。

先ず是れ、鄭註上封して榷茶使の額を置き、塩鉄使兼ねて之を領す。楚奏して之を罷め、曰く

原文先是,鄭註上封置榷茶使額,鹽鐵使兼領之,楚奏罷之,曰:

伏して考えるに、江・淮の地は数年この方、水害・旱魃・疫病が相次ぎ、疲弊損傷甚だしく、愁嘆未だ平らかならず。今夏より秋にかけて、やや豊作の兆しあり、まさに恵み恤みを施し、各々を安んじて存せしむべき時なり。先ごろ突如として茶の専売を奏上せしは、実に政を蝕むものなり。これは王涯が滅亡せんとするに当たり、怨嗟怒りを一身に集めし故なり、まさか百姓に茶樹を官場に移し植えさせ、茶葉を官場で摘み製造せしむるなど、児戯に同じく、人情に近からず。当時は恩権の勢い盛んなりしゆえ、誰か敢えて阻み議せんや。朝班は顔を見合わせて色を失い、道路では目を以て声を呑みしものなり。今、宗廟社稷の神霊降り、奸兇ことごとく誅戮され、聖明の御加護により、黎民安んずるを得たり。微臣は恩を蒙り、兼ねて使務を領す。官銜の内に、なおこの名を帯ぶる。俯仰して驚くが若く、夙夜懼れを知る。伏して願わくは、特に聖聴を回らし、愚誠を下し鑑みられ、速やかに宰臣に委ね、この使額を除かれたし。軍国の用が或いは欠け、山沢の利に遺すところあらば、臣に条疏を許し、続けて具に聞奏せしめよ。採造の期近づき、妨げ廃するを憂う。先月二十一日、内殿にて奏対の次、鄭覃と臣と共に論じ終えたり。伏して望むは、聖慈早く処分を賜い、一に旧法に依り、新条を用いざらんことを。ただ納榷の時、須らく等級を以て価を加え、商人転売すれば、必ずやや高価とならん。これ即ち銭は万国より出で、利は有司に帰す。既に茶商を害せず、また茶戸を擾わさず、上は以て陛下の人の愛する徳を彰わし、下は以て微臣の国を憂うる心を竭くさん。遠近伝聞すれば、必ずや感悦すべし。

原文伏以江、淮數年已來,水旱疾疫,雕傷頗甚,愁嘆未平。今夏及秋,稍校豐稔,方須惠恤,各使安存。昨者忽奏榷茶,實為蠹政。蓋是王涯破滅將至,怨怒合歸,豈有令百姓移茶樹於官場中栽植,摘茶葉於官場中造作,有同兒戲,不近人情。方在恩權,孰敢沮議?朝班相顧而失色,道路以目而吞聲。今宗社降靈,奸兇盡戮,聖明垂祐,黎庶合安。微臣蒙恩,兼領使務,官銜之內,猶帶此名。俯仰若驚,夙宵知懼。伏乞特回聖聽,下鑒愚誠,速委宰臣,除此使額。緣軍國之用或闕,山澤之利有遺,許臣條疏,續具聞奏。采造將及,妨廢為虞。前月二十一日,內殿奏對之次,鄭覃與臣同陳論訖。伏望聖慈早賜處分,一依舊法,不用新條。唯納榷之時,須節級加價,商人轉賣,必校稍貴,即是錢出萬國,利歸有司。既不害茶商,又不擾茶戶,上以彰陛下愛人之德,下以竭微臣憂國之心。遠近傳聞,必當感悅。

これに従う。

原文從之。

先に、元和十年、内庫の弓箭・陌刀を出して左右街使に賜い、宰相の入朝に充てて翼衛と為し、建福門に至って止まらしむ。これに至り、訓・注の乱により、悉くこれを罷む。令狐楚また奏す:「諸道新たに授かる方鎮節度使等、帑抹を具え、器仗を帯び、尚書省兵部に就き参辞す。伏して考えるに、軍国は容を異にし、古今の定制なり。もし旧に由らざれば、これ常を改むるなり。未だ省閣の門に、忽ち弓刀の器を内するを聞かず。鄭注は外に恩寵を蒙り、内に兇狂を蓄え、首めて奸謀を創め、将に乱の兆を興さんとす。王璠・郭行余の輩をして、敢えて将吏を駆り、直ちに闕庭に詣らしむるに致る。乗輿を震驚せしめ、京国を騒動せしめ、血は朝路に濺ぎ、屍は禁街に僵う。史冊に書する所、人神共に憤る。既往は咎めずと雖も、その源尚開けり。前件の事宜、伏して速やかに停罷を令せられんことを乞う。もし須らく参謝せば、即ち公服を具すべし。」と。これに従う。また曲江亭修繕の絹一万三千七百匹を罷め、回して尚書省を修せしむるを奏請し、これに従う。

原文先是,元和十年,出內庫弓箭陌刀賜左右街使,充宰相入朝以為翼衛,及建福門而止。至是,因訓、註之亂,悉罷之。楚又奏:「諸道新授方鎮節度使等,具帑抹,帶器仗,就尚書省兵部參辭。伏以軍國異容,古今定制,若不由舊,斯為改常。未聞省閣之門,忽內弓刀之器。鄭註外蒙恩寵,內蓄兇狂,首創奸謀,將興亂兆。致王璠、郭行余之輩,敢驅將吏,直詣闕庭。震驚乘輿,騷動京國,血濺朝路,屍僵禁街。史冊所書,人神共憤,既往不咎,其源尚開。前件事宜,伏乞速令停罷,如須參謝,即具公服。」從之。又奏請罷修曲江亭絹一萬三千七百匹,回修尚書省,從之。

開成元年上巳、百僚に曲江亭の宴を賜う。令狐楚は新たに大臣を誅したるを以て、賞宴すべからずとし、独り疾を称して赴かず、論者これを美とす。権が内官に在るを以て、累ねて上疏して使務を解くを乞う。その年四月、検校左僕射・興元尹に任じ、山南西道節度使を充つ。二年十一月、鎮に卒す。年七十二。冊贈して司空しくうと為し、謚して文と曰う。

原文開成元年上巳,賜百僚曲江亭宴。楚以新誅大臣,不宜賞宴,獨稱疾不赴,論者美之。以權在內官,累上疏乞解使務。其年四月,檢校左僕射、興元尹,充山南西道節度使。二年十一月,卒於鎮,年七十二,冊贈司空,謚曰文。

令狐楚は風儀厳重、犯すべからざるが若し。然れども寛厚礼あり、門に雑賓無し。嘗て従事と宴語方酣なるに、非類の者偶々至るあり、直ちに命じて席を徹せしめ、毅然として色変す。累ね重任に居り、貞操初めの如し。未だ終わらざる前三日、猶お吟詠自若たり。疾甚だしく、諸子薬を進むるも、未だ嘗て口に入れず、曰く「修短の期は、分をもって定まれり。何ぞこの物を須いん」と。前一日、従事李商隱を召して曰く「吾が気魄已に殫き、情思俱に尽くせり。然れども懐う所未だ已まず、強いて自ら書きて天に聞こえんと欲す。辞語乖舛なるを恐る。子当に我を助けてこれを成すべし」と。即ち筆を秉り自ら書して曰く、

原文楚風儀嚴重,若不可犯;然寬厚有禮,門無雜賓。嘗與從事宴語方酣,有非類偶至,立命徹席,毅然色變。累居重任,貞操如初。未終前三日,猶吟詠自若。疾甚,諸子進藥,未賞入口,曰:「修短之期,分以定矣,何須此物?」前一日,召從事李商隱曰:「吾氣魄已殫,情思俱盡,然所懷未已,強欲自寫聞天,恐辭語乖舛,子當助我成之。」即秉筆自書曰:

臣永く際会を思い、国恩深く受く。祖を以て父を以て、皆褒贈を蒙り、弟有り子有り、並びに班行に列す。腰領を全うして以て先人に従い、体魄を委ねて以て先帝に事う。これ自ら達せず、誠に甚だ愚かなり。但だ永く泉扃を去り、長く雲陛に辞し、更に屍諫を陳べ、猶お瞽言を進めんとす。号叫すと雖も能わずと雖も、豈に誠明の敢えて忘れんや。今陛下は春秋鼎盛、寰海鏡の如く清し。これ教化を修むるの初め、当に理平を復するの始めなり。然れども前年夏秋以来、貶譴せらるる者多く、誅戮せらるる者少なからず。普く鴻造を加え、稍々皇威を霽らさんことを望む。歿する者は雲雷を以て昭洗し、存する者は雨露を以て沾濡せしめ、五穀をして嘉熟せしめ、兆人をして安康ならしめよ。臣の将に尽きんとする苦言を納れ、臣の永く蟄する幽魄を慰めよ。

原文臣永惟際會,受國深恩。以祖以父,皆蒙褒贈;有弟有子,並列班行。全腰領以從先人,委體魄而事先帝,此不自達,誠為甚愚。但以永去泉扃,長辭雲陛,更陳屍諫,猶進瞽言。雖號叫而不能,豈誠明之敢忘?今陛下春秋鼎盛,寰海鏡清,是修教化之初,當復理平之始。然自前年夏秋已來,貶譴者至多,誅戮者不少,望普加鴻造,稍霽皇威。歿者昭洗以雲雷,存者沾濡以雨露,使五谷嘉熟,兆人安康。納臣將盡之苦言,慰臣永蟄之幽魄。

書き終え、その子緒・綯に謂いて曰く「吾が生くるや人に益無し。謚号を請うる勿れ。葬の日、鼓吹を請うる勿れ。ただ布車一乗を以てすべし。余は飾りを加うる勿れ。銘誌は但だ宗門を誌すべし。筆を秉る者は高位を択ばず」と。歿するの夕、大星寝室の上に隕ち、その光廷を燭す。令狐楚端坐して家人に告訣し、言い終えて而して終わる。嗣子遺旨を奉行す。詔して曰く「生くるは名臣、歿するに理命有り。終始の分、以て両全と謂うべし。鹵簿哀栄の末節は、往意に違い難し。誄謚国家の大典は、須らく彜章を守るべし。鹵簿は宜しく停むべく、易名は須らく旧例に準ずべし」と。後、綯貴く、累贈して太尉に至る。文集一百巻有り、時に行わる。撰する所の『憲宗哀冊文』は、辞情典郁、文士に重んぜらる。

原文書訖,謂其子緒、綯曰:「吾生無益於人,勿請謚號。葬日,勿請鼓吹,唯以布車一乘,余勿加飾。銘誌但誌宗門,秉筆者無擇高位。」當歿之夕,有大星隕於寢室之上,其光燭廷。楚端坐與家人告訣,言已而終。嗣子奉行遺旨。詔曰:「生為名臣,歿有理命。終始之分,可謂兩全。鹵簿哀榮之末節,難違往意;誄謚國家之大典,須守彜章。鹵簿宜停,易名須準舊例。」後綯貴,累贈至太尉。有文集一百卷,行於時。所撰《憲宗哀冊文》,辭情典郁,為文士所重。

令狐楚の弟定、字は履常。元和十一年進士及第、累ね使府に辟さる。太和九年、累遷して職方員外郎・弘文館直学士・検校右散騎常侍さんきじょうじ・桂州刺史・桂管都防禦観察等使に至る。卒し、贈りて礼部尚書と為す。

原文楚弟定,字履常。元和十一年進士及第,累辟使府。太和九年,累遷至職方員外郎、弘文館直學士、檢校右散騎常侍、桂州刺史、桂管都防禦觀察等使。卒,贈禮部尚書。

子 緒

原文子 緒

緒は廕により官を授かり、歴任して随・寿・汝三郡の刺史と為る。汝州に在りし日、能政有り、郡人碑を立て徳を頌せんことを請う。緒は弟綯が輔弼に在るを以て、上言して曰く「臣が先父は元和中特に恩顧を承け、弟綯の官は人に因らず、宸衷より出づ。臣詔書を伏して拝すに、臣が汝州を刺せし日に、粗く政労を立て、吏民碑を立て頌せんことを求むと。尋いで追罷を乞う。臣が随州に任ぜし日、郡人留まらんことを乞い、上下考を得たり。及び河南少尹に転じ、金紫を加えらる。この名は已に日下に聞こゆ。必ずしも更に碑頌を立つるに及ばず。乞うらくは賜いて寝停せられんことを」と。宣宗その意を嘉し、これに従う。

原文緒以廕授官,歷隨、壽、汝三郡刺史。在汝州日,有能政,郡人請立碑頌德。緒以弟襜在輔弼,上言曰:「臣先父元和中特承恩顧,弟綯官不因人,出自宸衷。臣伏睹詔書,以臣刺汝州日,粗立政勞,吏民求立碑頌,尋乞追罷。臣任隨州日,郡人乞留,得上下考。及轉河南少尹,加金紫。此名已聞於日下,不必更立碑頌,乞賜寢停。」宣宗嘉其意,從之。

子 綯

原文子 綯

綯、字は子直。太和四年進士第に登り、弘文館校書郎に釈褐す。開成初め左拾遺と為る。二年、父喪に丁る。服闋し、本官を授かり、尋いで左補闕・史館修撰に改まり、累遷して庫部・戸部員外郎と為る。会昌五年、出でて湖州刺史と為る。大中二年、召されて考功郎中に拝し、尋いで制誥を知る。その年、召し入れられ翰林学士を充つ。三年、中書舎人に拝し、彭陽男を襲封し、食邑三百戸、尋いで御史中丞に拝す。四年、戸部侍郎に転じ、本司事を判ず。その年、兵部侍郎・同中書門下平章事に改まる。綯は旧事に尚書省官を帯ぶるを以て、合せて先ず省に上ずべし。上日の同列少府監に集まる。時に白敏中・崔亀従嘗て太常博士と為り、相位に至り、その旧署を栄えんと欲し、乃ち改めて太常礼院に集まり、亀従手筆を以てその事を壁に誌す。

原文綯字子直。太和四年登進士第,釋褐弘文館校書郎。開成初為左拾遺。二年,丁父喪。服闋,授本官,尋改左補闕、史館修撰,累遷庫部、戶部員外郎。會昌五年,出為湖州刺史。大中二年,召拜考功郎中,尋知制誥。其年,召入充翰林學士。三年,拜中書舍人,襲封彭陽男,食邑三百戶,尋拜御史中丞。四年,轉戶部侍郎,判本司事。其年,改兵部侍郎、同中書門下平章事。綯以舊事帶尚書省官,合先省上。上日同列集於少府監。時白敏中、崔龜從曾為太常博士,至相位,欲榮其舊署,乃改集於太常禮院,龜從手筆誌其事於壁。

綯輔政十年、累官して吏部尚書・右僕射・涼国公に至り、食邑二千戸。十三年、相を罷め、検校司空・同中書門下平章事・河中尹・河中晉絳等節度使と為る。

原文綯輔政十年,累官至吏部尚書、右僕射、涼國公,食邑二千戶。十三年,罷相,檢校司空、同中書門下平章事、河中尹、河中晉絳等節度使。

咸通二年、汴州刺史・宣武軍節度使に改まる。三年冬、遷りて揚州大都督府長史・淮南節度副大使・知節度事と為る。累加して開府儀同三司・検校司徒しと、食邑を進めて三千戸に至る。

原文咸通二年,改汴州刺史、宣武軍節度使。三年冬,遷揚州大都督府長史、淮南節度副大使、知節度事。累加開府儀同三司、檢校司徒,進食邑至三千戶。

九年、徐州の戍兵龐勛が桂州より勝手に帰還す。七月に浙西に至り、江に沿って白沙より濁河に入り、舟船を剽奪して進む。綯、勛の至れるを聞き、使を遣わして慰撫し、芻米を供給す。都押衙李湘、綯に白して曰く、「徐兵の勝手に帰るは、必ずや好意あらず。詔命を除討する無きといえども、権変の制は籓方に在り。昨その党来たりて投ずるに、その数二千を逾えずと言うも、虚に舟航の旗幟を張り、人に見せしむるにその実を恐る。境を渉る已来、心頗る憂惴す。その水路を計るに、須らく高郵県の界を出づべし、河岸斗峻にして水深く狭し。若し奇兵を出だしてこれを邀え、荻船をして前もって火を放たしめ、勁兵後より奮撃せば、敗走必ずなり。若しここに於いて誅鋤せずんば、淮・泗を済むを俟ち、徐人の怨みを負う徒と合すれば、十万を下らず、則ち禍乱小さからず」と。綯、性懦緩にして、又詔命を奉ぜざるを以てし、湘に謂いて曰く、「長淮已南、他の暴を為さず。従いて彼をして過ぎ去らしめよ、余は吾が事に非ず」と。

原文九年,徐州戍兵龐勛自桂州擅還。七月至浙西,沿江自白沙入濁河,剽奪舟船而進。綯聞勛至,遣使慰撫,供給芻米。都押衙李湘白綯曰:「徐兵擅還,必無好意。雖無詔命除討,權變制在籓方。昨其黨來投,言其數不逾二千,而虛張舟航旗幟,恐人見其實。涉境已來,心頗憂惴。計其水路,須出高郵縣界,河岸鬥峻而水深狹。若出奇兵邀之,俾荻船縱火於前,勁兵奮擊於後,敗走必矣。若不於此誅鋤,俟濟淮、泗,合徐人負怨之徒,不下十萬,則禍亂非細也。」綯性懦緩,又以不奉詔命,謂湘曰:「長淮已南,他不為暴。從他過去,余非吾事也。」

その年の冬、龐勛、崔彥曾を殺し、徐州に拠り、衆六七万を聚む。徐に兵食無く、乃ち賊帥を分遣して淮南諸郡を攻剽し、滁・和・楚・寿継いで陥る。穀食既に尽き、淮南の民多く賊に啖わる。時に両淮の郡県多く陥ち、唯だ杜慆泗州を守るのみ、賊之を攻むること年を経て、下す能わず。初め、詔して綯を徐州南面招討使と為す。賊泗州を攻むること急なり、綯李湘に将兵五千人をしてこれを援けしむ。賊湘の来援するを聞き、人を遣わして綯に書を致し、辞情遜順にして、言うに「朝廷累詔して赦宥す、但だ抗拒する者三両人のみ、旦夕図りてこれを去り、即ち身を束ねて命を請わん、願わくは相公保任せよ」と。綯即ち奏聞し、勛に節鉞を賜わんことを請い、仍て李湘を誡めて但だ淮口に戍らしめ、賊已に招降す、異を立つるを得ずと。ここに由りて湘の軍甲を解き安寝し、警を去り備を徹し、日と賊軍と相対し、歓笑交言す。一日、賊軍間に乗じ、歩騎径ちに湘の壘に入る、淮卒五千人皆生擒せられ徐州に送られ、賊の為に蒸して食らわる。湘と監軍郭厚本と龐勛のために手足を断たれ、以て康承訓の軍に徇す。時に浙西杜審権軍千人を発し、李湘と会して兵を約す、大将翟行約勇敢名有り。浙軍未だ至らずして湘軍敗る。賊乃ち兵を分かち、淮南の旗幟を立て、交闘の状を為す。行約の軍望見し、急ぎ之に趨る、千人並びに賊の為に縛せられ、徐州に送らる。

原文其年冬,龐勛殺崔彥曾,據徐州,聚眾六七萬。徐無兵食,乃分遣賊帥攻剽淮南諸郡,滁、和、楚、壽繼陷。谷食既盡,淮南之民多為賊所啖。時兩淮郡縣多陷,唯杜慆守泗州,賊攻之經年,不能下。初,詔綯為徐州南面招討使。賊攻泗州急,綯令李湘將兵五千人援之。賊聞湘來援,遣人致書於綯,辭情遜順,言:「朝廷累有詔赦宥,但抗拒者三兩人耳,旦夕圖去之,即束身請命,願相公保任之。」綯即奏聞,請賜勛節鉞,仍誡李湘但戍淮口,賊已招降,不得立異。由是湘軍解甲安寢,去警徹備,日與賊軍相對,歡笑交言。一日,賊軍乘間,步騎徑入湘壘,淮卒五千人皆被生縶送徐州,為賊蒸而食之。湘與監軍郭厚本為龐勛斷手足,以徇於康承訓軍。時浙西杜審權發軍千人,與李湘約會兵,大將翟行約勇敢知名。浙軍未至而湘軍敗。賊乃分兵,立淮南旗幟,為交鬥之狀。行約軍望見,急趨之,千人並為賊所縛。送徐州。

綯既に師を喪う、朝廷左衛大將軍・徐州西南面招討使馬挙を以て綯に代わり淮南節度使と為す。十二年八月、検校司徒・太子太保を授け、分司東都す。十三年、本官を以て鳳翔尹・鳳翔隴節度使と為り、趙国公に進封せられ、食邑三千戸、卒す。子滈・渙・沨。

原文綯既喪師,朝廷以左衛大將軍、徐州西南面招討使馬舉代綯為淮南節度使。十二年八月,授檢校司徒、太子太保,分司東都。十三年,以本官為鳳翔尹、鳳翔隴節度使,進封趙國公,食邑三千戶,卒。子滈、渙、沨。

綯の子 滈

原文綯之子 滈

滈、少く進士に挙げらる、父の内職に在るを以てして止む。及て綯政を輔くること十年、滈鄭顥の親を以てし、驕縦法に従わず、日に事とす遊宴を、貨賄門に盈つ、中外之が為に側目す。綯の党援方に盛んなるを以てし、敢えて言を措く者無し。及て懿宗即位す、訟する者一ならず、故に綯権軸を罷む。河中に至るや既に、上言して曰く、「臣が男滈、爰に孩提より便ち師訓に従い、詞芸に至っては、頗る輩流に及ぶ。会昌二年、臣戸部員外郎に任ずる時、已に応挙せしむ、大中二年に至るも猶未だ成名せず。臣湖州刺史より先帝に蒙り考功郎中・知制誥を擢授せられ、尋いで学士を充つ。継いで渥沢を叨り、遂に枢衡を忝くす、事体妨げ有り、因りて挙を罷めしむ、自ら当に廃絶す、一十九年。毎に退蔵を遣わし、更に勤励を令す。臣禄位分を逾ゆるを以てし、歯発已に衰う。男滈年長成を過ぎ、未だ一第に沾わず、犬馬の私愛、実に憫傷に切なり。臣二三年以来、頻りに罷免を乞う、毎年文解を得、意は中書を離るるや才に、便ち赴挙せしめんと待つ。昨恩制を蒙り、近籓を以て寵す。伏して縁るに已に礼部試期に逼るを以てし、便ち就試せしむ。与奪に至っては、主司より出づ、臣固より敢えて其の衡柄を撓がさず。臣初め機務を離る、合わず具に上聞すべし。昨延英に奉辞し、本擬面奏せんとす、伏して恋恩方に切なるを以てし、誠を陳うること至難なり。伏して冀わくは宸慈、臣が丹懇を察せよ」と。詔して就試せしむ。

原文滈,少舉進士,以父在內職而止。及綯輔政十年,滈以鄭顥之親,驕縱不法,日事遊宴,貨賄盈門,中外為之側目。以綯黨援方盛,無敢措言。及懿宗即位,訟者不一,故綯罷權軸。既至河中,上言曰:「臣男滈,爰自孩提,便從師訓,至於詞藝,頗及輩流。會昌二年,臣任戶部員外郎時,已令應舉,至大中二年猶未成名。臣自湖州刺史蒙先帝擢授考功郎中、知制誥,尋充學士。繼叨渥澤,遂忝樞衡,事體有妨,因令罷舉,自當廢絕,一十九年。每遣退藏,更令勤勵。臣以祿位逾分,齒發已衰。男滈年過長成,未沾一第,犬馬私愛,實切憫傷。臣二三年來,頻乞罷免,每年取得文解,意待才離中書,便令赴舉。昨蒙恩制,寵以近籓。伏緣已逼禮部試期,便令就試。至於與奪,出自主司,臣固不敢撓其衡柄。臣初離機務,合具上聞。昨延英奉辭,本擬面奏,伏以戀恩方切,陳誠至難。伏冀宸慈,察臣丹懇。」詔令就試。

是の歳、中書舎人裴坦権に貢挙を知る、登第する者三十人。鄭羲なる者有り、故戸部尚書浣の孫、裴弘余、故相休の子、魏綯故相扶の子、及び滈、皆名臣の子第、言うに実才無し。諫議大夫崔瑄上疏して之を論じて曰く、「令狐滈昨父の相位に居るを以てし、権一門に在り。求請する者は詭党風の如く趨り、妄動する者は群邪雲の如く集まる。毎歳貢闈登第し、朝の清列官を除く、事望は綯より出づと雖も、取舍全く滈に由る。喧然として市の如く、旁ら人無きが若し、権は寰中を動かし、勢は天下に傾く。及て綯相を罷め鎮を作すの日、便ち滈に巻を納めしめて貢闈せしむ。豈に父の枢衡に在るを以てし、独り文柄を撓がすべけんや。請う御史台に下し文解の日月を按問せしめよ」と。奏疏下らず。

原文是歲,中書舍人裴坦權知貢舉,登第者三十人。有鄭羲者,故戶部尚書浣之孫,裴弘余,故相休之子,魏綯故相扶之子,及滈,皆名臣子第,言無實才。諫議大夫崔瑄上疏論之曰:「令狐滈昨以父居相位,權在一門。求請者詭黨風趨,妄動者群邪雲集。每歲貢闈登第,在朝清列除官,事望雖出於綯,取舍全由於滈。喧然如市,旁若無人,權動寰中,勢傾天下。及綯罷相作鎮之日,便令滈納卷貢闈。豈可以父在樞衡,獨撓文柄?請下御史臺按問文解日月者。」奏疏不下。

滈既に第に及び、褐を釈けて長安ちょうあん尉・集賢校理と為る。咸通二年、右拾遺・史館修撰に遷る。制出づ、左拾遺劉蛻・起居郎張雲、各上疏して極めて滈を論じて云く、「父の権を秉るを恃み、恣に貨賂を受く。李琢の銭を取り、琢を除いて安南都護と為し、遂に蛮をして交州を陥れしむ」と。張雲言う、「大中十年、襜諫議大夫豆盧籍・刑部郎中李鄴を以て夔王已下の侍読と為し、夔王を立てて東宮と為さんと欲し、先朝子弟の序を乱んと欲す。滈内に鄭顥に倚り、人誰か敢えて言わん」と。時に襜淮南に在り、累表自ら雪ぐ。懿宗大臣の意を重ねて傷つけ、雲を貶して興元少尹と為し、蛻を華陰令と為し、滈を改めて詹事府司直と為す。滈衆の非とする所と為り、宦名達せず。

原文滈既及第,釋褐長安尉、集賢校理。咸通二年,遷右拾遺、史館修撰。制出,左拾遺劉蛻、起居郎張雲,各上疏極論滈云:「恃父秉權,恣受貨賂。取李琢錢,除琢安南都護,遂致蠻陷交州。」張雲言:「大中十年,襜以諫議大夫豆盧籍、刑部郎中李鄴為夔王已下侍讀,欲立夔王為東宮,欲亂先朝子弟之序。滈內倚鄭顥,人誰敢言?」時襜在淮南,累表自雪。懿宗重傷大臣意,貶雲為興元少尹,蛻為華陰令,改滈詹事府司直。滈為眾所非,宦名不達。

渙・沨倶に進士第に登る。渙位は中書舎人に至る。定の子緘、緘の子澄・湘。澄も亦進士に登第し、累ね使府を辟す。

原文渙、沨俱登進士第。渙位至中書舍人。定子緘,緘子澄、湘。澄亦以進士登第,累辟使府。

牛僧孺

原文牛僧孺

牛僧孺、字は思黯、隋の僕射奇章公弘の後。祖紹。父幼簡、官卑し。僧孺進士擢第し、賢良方正制科に登り、褐を釈けて伊闕尉と為り、監察御史に遷り、殿中に転じ、礼部員外郎を歴る。元和中、都官に改め、台雑を知り、尋いで考功員外郎に換え、集賢直学士を充つ。

原文牛僧孺,字思黯,隋僕射奇章公弘之後。祖紹。父幼簡,官卑。僧孺進士擢第,登賢良方正制科,釋褐伊闕尉,遷監察御史,轉殿中,歷禮部員外郎。元和中,改都官,知臺雜,尋換考功員外郎,充集賢直學士。

穆宗即位す、庫部郎中を以て制誥を知る。その年の十一月、御史中丞に改む。州府の刑獄淹滞し、人多く冤抑するを以てし、僧孺条疏して奏請し、按劾相継ぎ、中外粛然たり。

原文穆宗即位,以庫部郎中知制誥。其年十一月,改御史中丞。以州府刑獄淹滯,人多冤抑,僧孺條疏奏請,按劾相繼,中外肅然。

長慶元年、宿州刺史李直臣贓に坐して当に死す、直臣中貴人に賂して之が為に申理せしむ、僧孺堅執して回らざりき。穆宗面に之に諭して曰く、「直臣の事は僭失と雖も、然れども此人経度の才あり、辺任にこれを委ぬべし、朕その法を貸さんと欲す」と。僧孺対えて曰く、「凡そ人の不才は、祿を取り容れらるるに止まるのみ。帝王法を立つるは、奸雄を束縛するは、正に才多き者の為なり。禄山・硃泚才を以て人に過ぎ、天下を濁乱す、況んや直臣の小才、又何ぞ法を屈せんや」と。上その守法を嘉し、面に金紫を賜う。二年正月、戸部侍郎を拝す。三年三月、本官を以て同平章事と為る。

原文長慶元年,宿州刺史李直臣坐贓當死,直臣賂中貴人為之申理,僧孺堅執不回。穆宗面喻之曰:「直臣事雖僭失,然此人有經度才,可委之邊任,朕欲貸其法。」僧孺對曰:「凡人不才,止於持祿取容耳。帝王立法,束縛奸雄,正為才多者。祿山、硃泚以才過人,濁亂天下,況直臣小才,又何屈法哉?」上嘉其守法,面賜金紫。二年正月,拜戶部侍郎。三年三月,以本官同平章事。

初め、韓弘が朝廷に入ると、宣武の旧事により、人々多く流言を為し、その子公武は家財を以て権幸及び多言の者に厚く賂し、班列の中、悉くその遺を受く。俄にして父子俱に卒し、孤孫幼小、穆宗は廝養の窃盗を恐れ、乃ち中使をその家に至らしめ、その宅簿を閲し、以て家老に付す。而して簿上に具に納賂の所を有す、唯だ僧孺の官側に於いて硃書して曰く「某月日、牛侍郎に物若干を送る、受けず、却って付し訖る」と。穆宗簿を按じて甚だ悦ぶ。居ること無き何、相を命ずるを議し、帝首めて僧孺の名を可とす。

原文初,韓弘入朝,以宣武舊事,人多流言,其子公武以家財厚賂權幸及多言者,班列之中,悉受其遺。俄而父子俱卒,孤孫幼小,穆宗恐為廝養竊盜,乃命中使至其家,閱其宅簿,以付家老。而簿上具有納賂之所,唯於僧孺官側硃書曰:「某月日,送牛侍郎物若干,不受,卻付訖。」穆宗按簿甚悅。居無何,議命相,帝首可僧孺之名。

敬宗即位し、中書侍郎・銀青光禄大夫を加え、奇章子を封じ、邑五百戸。十二月、金紫の階を加え、郡公に進封し、集賢殿大学士・監修国史と為す。

原文敬宗即位,加中書侍郎、銀青光祿大夫,封奇章子,邑五百戶。十二月,加金紫階,進封郡公、集賢殿大學士、監修國史。

宝暦中、朝廷の政事は邪幸より出で、大臣朋比す。僧孺は群小に耐えず、章を拝して罷めを求むること数四。帝曰く「予が郊礼畢るを俟ちて卿を放たん」と。穆宗の廟に祔し郊報後に及び、又た章を拝して退を陳べ、乃ち鄂州に武昌軍の額を置き、僧孺を以て検校礼部尚書・同中書門下平章事・鄂州刺史・武昌軍節度・鄂嶽蘄黄観察等使と為す。江夏城は風土散悪、垣墉を立つる難く、毎年板築を加え、青茆を賦して以て之を覆う。吏縁りて奸を為し、蠹弊綿歳。僧孺至り、茆苫板築の費を計るに、歳十余万、即ち之を〓専に賦し、以て苫築の価に当つ。凡そ五年、墉皆甃葺し、蠹弊永く除く。属郡の沔州は鄂と江を隔てて相対し、虚しく吏員を張る、乃ち奏して之を廃し、その管する漢陽・汶川の両県を鄂州に隷す。文宗即位し、就いて検校吏部尚書を加え、凡そ江夏を鎮すること五年。

原文寶歷中,朝廷政事出於邪幸,大臣朋比。僧孺不奈群小,拜章求罷者數四。帝曰:「俟予郊禮畢放卿。」及穆宗祔廟郊報後,又拜章陳退,乃於鄂州置武昌軍額,以僧孺檢校禮部尚書、同中書門下平章事、鄂州刺史、武昌軍節度、鄂嶽蘄黃觀察等使。江夏城風土散惡,難立垣墉,每年加板築,賦青茆以覆之。吏緣為奸,蠹弊綿歲。僧孺至,計茆苫板築之費,歲十余萬,即賦之以〓專,以當苫築之價。凡五年,墉皆甃葺,蠹弊永除。屬郡沔州與鄂隔江相對,虛張吏員,乃奏廢之,以其所管漢陽、汶川兩縣隸鄂州。文宗即位,就加檢校吏部尚書,凡鎮江夏五年。

太和三年、李宗閔輔政し、屢び僧孺を薦めて才有りとし、外に居るべからずとす。四年正月、召し還し、兵部尚書・同平章事を守る。

原文太和三年,李宗閔輔政,屢薦僧孺有才,不宜居外。四年正月,召還,守兵部尚書、同平章事。

五年正月、幽州軍乱し、その帥李載義を逐う。文宗は載義が国に忠を輸するを以て、遽かに帥を失うを聞き、駭然たり、急に宰臣を召して之に謂いて曰く「范陽の変奈何」と。僧孺対えて曰く「此れ聖慮を煩わすに足らず。且つ范陽の得失は、国家の休戚に係わらず、安・史已来、翻覆此の如し。前時劉総は土地を以て国に帰し、朝廷は百万を耗費し、終に范陽の尺帛斗粟を天府に入るるを得ず、尋いで復た梗と為る。今に至るまで誌誠も、亦た前の載義に由るなり、但だ因りて之を撫し、奚・契丹を扞ぎて寇に入るるを令さず、朝廷の頼む所なり。節旄を仮すれば、必ず自ら力を陳べ、以て逆順を治むるに足らず」と。帝曰く「吾初め詳らかならず、卿の言是なりと思う」と。即日に中使をして宣慰せしむ。尋いで門下侍郎・弘文館大学士を加う。

原文五年正月,幽州軍亂,逐其帥李載義。文宗以載義輸忠於國,遽聞失帥,駭然,急召宰臣謂之曰:「范陽之變奈何?」僧孺對曰:「此不足煩聖慮。且范陽得失,不系國家休戚,自安、史已來,翻覆如此。前時劉總以土地歸國,朝廷耗費百萬,終不得范陽尺帛鬥粟入於天府,尋復為梗。至今誌誠,亦由前載義也,但因而撫之,俾扞奚、契丹不令入寇,朝廷所賴也。假以節旄,必自陳力,不足以逆順治之。」帝曰:「吾初不祥,思卿言是也。」即日命中使宣慰。尋加門下侍郎、弘文館大學士。

六年、吐蕃使いの論董勃義を遣わし入朝して好を修む。俄にして西川節度李徳裕奏す、吐蕃の維州守将悉怛謀城を以て降ると。徳裕又た利害を上りて云く「若し生羌三千を以て、戎の不意に出で、十三橋を焼き、戎の腹心を搗けば、以て志を得べし」と。上その事に惑い、尚書省に下して議せしむ。衆状徳裕の策の如くせんことを請う。僧孺奏して曰く「此の議は非なり。吐蕃の疆土、四面万里、一つの維州を失うも、その勢を損なわず。況んや論董勃義纔に還り、劉元鼎未だ到らず、比来好を修め、戍兵を罷むるを約す。中国の戎を禦ぐるは、信を守るを上と為し、敵に応ずるは之に次ぐ。今一朝信を失わば、戎醜以て詞と為すを得ん。聞くに贊普茹川に牧馬し、秦・隴に俯すと。若し東に隴阪を襲い、径ちに回中に走らば、三日を経ずして咸陽橋に抵り、兵を発して枝梧するも、京国を駭動せん。事或いは此に及び、百の維州を得ると雖も、亦た何の補いかあらん」と。上曰く「然り」と。遂に詔して西川に維州の降将を内れしめず。僧孺素より徳裕と仇怨有り、辺を議するは公体と雖も、徳裕に怙る者は僧孺その功を害すと以て、謗論沸然たり、帝亦た直からずと以為す。その年十二月、検校左僕射・兼平章事・揚州大都督府長史・淮南節度副大使・節度事を知る。

原文六年,吐蕃遣使論董勃義入朝修好。俄而西川節度李德裕奏,吐蕃維州守將悉怛謀以城降。德裕又上利害云:「若以生羌三千,出戎不意,燒十三橋,搗戎之腹心,可以得誌矣。」上惑其事,下尚書省議,眾狀請如德裕之策。僧孺奏曰:「此議非也。吐蕃疆土,四面萬里,失一維州,無損其勢。況論董勃義才還,劉元鼎未到,比來修好,約罷戍兵。中國禦戎,守信為上,應敵次之,今一朝失信,戎醜得以為詞。聞贊普牧馬茹川,俯於秦、隴。若東襲隴阪,徑走回中,不三日抵咸陽橋,而發兵枝梧,駭動京國。事或及此,雖得百維州,亦何補也。」上曰:「然。」遂詔西川不內維州降將。僧孺素與德裕仇怨,雖議邊公體,而怙德裕者以僧孺害其功,謗論沸然,帝亦以為不直。其年十二月,檢校左僕射、兼平章事、揚州大都督府長史、淮南節度副大使、知節度事。

時に中尉王守澄用事し、多く纖人を納れ、窃かに時政を議し、禁中の事密にして、その説を知る者莫し。一日、延英にて宰相に対し、文宗曰く「天下何に由りて太平なるや、卿等此に意有るか」と。僧孺奏して曰く「臣等輔弼に待罪し、康済する能わず、然れども臣思うに太平も亦た象無し。今四夷交侵に至らず、百姓流散に至らず、上に淫虐無く、下に怨讟無く、私室に強家無く、公議に壅滞無し。未だ至理に及ばずと雖も、亦た小康と謂うべし。陛下若し別に太平を求めば、臣等の及ぶ所に非ず」と。既に退きて中書に至り、同列に謂いて曰く「吾輩宰相と為り、天子責成此の如し、安んぞ久しく此の地に処らんや」と。旬日の間、三たび章を上りて退を請い、許されず。

原文時中尉王守澄用事,多納纖人,竊議時政,禁中事密,莫知其說。一日,延英對宰相,文宗曰:「天下何由太平,卿等有意於此乎?」僧孺奏曰:「臣等待罪輔弼,無能康濟,然臣思太平亦無象。今四夷不至交侵,百姓不至流散;上無淫虐,下無怨讟;私室無強家,公議無壅滯。雖未及至理,亦謂小康。陛下若別求太平,非臣等所及。」既退至中書,謂同列曰:「吾輩為宰相,天子責成如是,安可久處茲地耶?」旬日間,三上章請退,不許。

会に徳裕の党盛んにして、将に入朝せんと垂る。僧孺故に請いを得。上既に左右の邪説を受け、太平に急き、奸人その鋭意を伺い、故に訓・註見用せらる。数年之間、幾くにか宗社を危うくす。而して僧孺は道を以て進退し、議する者之を称す。

原文會德裕黨盛,垂將入朝,僧孺故得請。上既受左右邪說,急於太平,奸人伺其銳意,故訓、註見用。數年之間,幾危宗社,而僧孺進退以道,議者稱之。

開成初め、搢紳の道喪え、閽寺権を弄ぶ。僧孺重籓に処するを嫌い、散地に帰らんことを求め、累ねて章を拝して允されず、凡そ淮甸に在ること六年。

原文開成初,搢紳道喪,閽寺弄權,僧孺嫌處重籓,求歸散地,累拜章不允,凡在淮甸六年。

開成二年五月、検校司空を加え、食邑二千戸、東都尚書省事を判じ、東都留守・東畿汝都防禦使と為す。

原文開成二年五月,加檢校司空,食邑二千戶,判東都尚書省事、東都留守、東畿汝都防禦使。

僧孺は識量弘遠、事外に心居り、細故を以て介懷せず。洛都に帰仁里に第を築く。淮南に任ずる時、嘉木怪石を階廷に置き、館宇清華、竹木幽邃。常に詩人の白居易と其の間で吟詠し、復た進取の懷無し。

原文僧孺識量弘遠,心居事外,不以細故介懷。洛都築第於歸仁裏。任淮南時,嘉木怪石,置之階廷,館宇清華,竹木幽邃。常與詩人白居易吟詠其間,無復進取之懷。

三年九月、征し拝して左僕射と為し、仍って左軍副使王元直に告身を賫し宣賜せしむ。旧例、留守入朝するに、中使詔を賜うの例無し。僧孺の退讓を恐れ、促して闕に赴かしむ。僧孺已むを得ず入朝す。属に莊恪太子初めて薨ず。延英に中謝の日、太子に語及び、乃ち懇ろに父子君臣の義、人倫の大経を陳べ、国本を軽く移すべからずとす。上之が為に流涕す。是の時宰輔は皆僧孺の僚旧、未だ嘗てその門を造らず。上頻りに宣召すれども、足疾を托す。久しくして、上楊嗣復に謂いて曰く「僧孺疾を称し、趨朝に任せず、未だ即ち自便を令すべからず」と。四年八月、復た検校司空・兼平章事・襄州刺史・山南東道節度使と為し、食邑を三千戸に加う。辞する日、觚・散・樽・杓等の金銀古器を賜い、中使をして之を喻らしめて曰く「卿を以て正人と為し、此の古器を賜う。卿且く少しく留れ」と。僧孺奏して曰く「漢南水旱の後、流民理を待つ、淹留すべからず」と。再三行を請い、方に允さる。

原文三年九月,征拜左僕射,仍令左軍副使王元直賫告身宣賜。舊例,留守入朝,無中使賜詔例,恐僧孺退讓,促令赴闕。僧孺不獲已入朝。屬莊恪太子初薨,延英中謝日,語及太子,乃懇陳父子君臣之義,人倫大經,不可輕移國本。上為之流涕。是時宰輔皆僧孺僚舊,未嘗造其門。上頻宣召,托以足疾。久之,上謂楊嗣復曰:「僧孺稱疾,不任趨朝,未可即令自便。」四年八月,復檢校司空、兼平章事、襄州刺史、山南東道節度使,加食邑至三千戶。辭日,賜觚、散、樽、杓等金銀古器,令中使喻之曰:「以卿正人,賜此古器,卿且少留。」僧孺奏曰:「漢南水旱之後,流民待理,不宜淹留。」再三請行,方允。

武宗即位し、就いて検校司徒を加う。会昌二年、李徳裕用事し、僧孺の兵権を罷め、征して太子少保と為し、累ねて太子少師を加う。大中初め卒す。太子太師を贈り、謚して文貞と曰う。

原文武宗即位,就加檢校司徒。會昌二年,李德裕用事,罷僧孺兵權,征為太子少保,累加太子少師。大中初卒,贈太子太師,謚曰文貞。

僧孺は若い時に李宗閔と同門の生であり、特に徳裕に憎まれた。会昌年中、宗閔は排斥され、生還することはなかった。僧孺はたびたび徳裕に付け狙われ、罪を加えようとしたが、ただ僧孺が貞直方正で素養があり、人望が模範と仰がれていたので、その隙を窺うことができなかった。徳裕が南方に遷された時、著した『窮愁志』において、里俗の犢子の讖を引き合いに出して僧孺を排斥した。また「太牢公」と目し、その憎み恨む様はこのようであった。僧孺には二人の子がいた。蔚と〓である。

原文僧孺少與李宗閔同門生,尤為德裕所惡。會昌中,宗閔棄斥,不為生還。僧孺數為德裕掎摭,欲加之罪,但以僧孺貞方有素,人望式瞻,無以伺其隙。德裕南遷,所著《窮愁志》,引裏俗犢子之讖以斥僧孺。又目為「太牢公」,其相憎恨如此。僧孺二子:蔚、〓。

蔚は、字を大章といい、十五歳で両経挙に応じた。太和九年、再び進士第に登った。三府が辟召して従事とし、朝廷に入って監察御史となった。大中初年、右補闕となり、たびたび章疏を上奏し、時弊を指摘した。宣宗はこれを賞賛し、「牛氏の子は父の風範があり、やや人心を慰める」と言った。まもなく司門員外郎に改められ、出向して金州刺史となり、入朝して礼部郎中・吏部郎中を拝命した。祀事が礼に準じ、天官の司の所掌する班列に、権勢を恃んで職を越える者がいたので、蔚が上奏してこれを正したため、時の権力者に忌まれ、左遷されて国子博士となり、東都に分司した。一ヶ月余りして、権臣が罷免され、再び召されて吏部郎中となり、史館修撰を兼ね、左諫議大夫に遷った。咸通年中、給事中となり、延英殿で謝恩の日に、面賜で金紫を賜った。蔚は封駁を憚らず、帝はこれを嘉した。一年余りして、戸部侍郎に遷り、奇章侯の封を襲い、公事により免官された。その年のうちに元の官に復し、工部尚書・礼部尚書・刑部尚書を歴任した。咸通末年、検校兵部尚書・興元尹・山南西道節度使となった。鎮守すること三年。時に宦官が権力を握り、賄賂を急いでいた。徐州で兵を用いることに属し、両中尉が諸藩に貢奉して軍を助けるようほのめかしたので、蔚は軍府にある三万端匹をことごとく求め、表に随って進納した。宦官は怒り、すぐに神策軍の将である呉行魯を代わりに派遣して召還させた。黄巢が宮闕を犯すに及んで、自ら京師から逃れ、山南に避難し、上表して老齢を請い、尚書左僕射をもって致仕した。卒し、累贈して太尉となった。子に循・徽がいる。

原文蔚,字大章,十五應兩經舉。太和九年,復登進士第。三府辟署為從事,入朝為監察御史。大中初,為右補闕,屢陳章疏,指斥時病。宣宗嘉之,曰:「牛氏子有父風,差慰人意。」尋改司門員外郎,出為金州刺史,入拜禮、吏二郎中。以祀事準禮,天官司所掌班列,有恃權越職者,蔚奏正之,為時權所忌,左授國子博士,分司東都。逾月,權臣罷免,復征為吏部郎中,兼史館修撰,遷左諫議大夫。咸通中,為給事中,延英謝日,面賜金紫。蔚封駁無避,帝嘉之。逾歲,遷戶部侍郎,襲封奇章侯,以公事免。歲中復本官,歷工、禮、刑三尚書。咸通末,檢校兵部尚書、興元尹、山南西道節度使。在鎮三年。時中官用事,急於賄賂。屬徐方用兵,兩中尉諷諸籓貢奉助軍,蔚盡索軍府之有三萬端匹,隨表進納。中官怒,即以神策將吳行魯代還。及黃巢犯闕,乃自京師奔遁,避地山南,拜章請老,以尚書左僕射致仕。卒,累贈太尉。子循、徽。

徽は、咸通八年に進士第に登り、三度諸侯の幕府に佐け、殿中侍御史を得て、緋魚袋を賜った。朝廷に入って右補闕となり、再び吏部員外郎に遷った。乾符年中、選曹は猥雑濫觴し、吏が奸弊を行い、毎年選人は四千余名に及んだ。徽の性質は貞剛であり、特に上奏して請うた。これによって銓叙はやや正され、能・否が旌別され、世論はこれを称えた。

原文徽,咸通八年登進士第,三佐諸侯府,得殿中侍御史,賜緋魚。入朝為右補闕,再遷吏部員外郎。乾符中,選曹猥濫,吏為奸弊,每歲選人四千余員。徽性貞剛,特為奏請。由是銓敘稍正,能否旌別,物議稱之。

黄巢の賊が京師を犯した時、父の蔚はちょうど病んでおり、徽はその子と共に自ら籃輿を支え、山南に逃げ込んだ。閣道は険しく狭く、盗賊が縦横に跋扈し、谷中で盗賊に遇い、徽を撃って頭を破り、流血が体を覆ったが、輿を捉えてやめなかった。盗賊は彼を苦しめて迫ったが、徽は拝礼して言った。「父は年高く病が甚だしく、驚かせ動揺させたくない。人皆父あり、幸いに憐れみを垂れ給え。」盗賊はこれに感じて止めた。前の谷に至ると、また先の盗賊に逢い、互いに告げ語って言った。「これは孝子である。」即ち共に輿を挙げ、その家に招き、帛で創傷を封じ、粥をすすり飲ませて蔚に奉った。二晩留め、梁州に到達した。旧吏は恩を感じ、争って駆けつけて見舞った。時に僖宗は既に成都に行幸しており、徽は行朝に至って上表し、帰って侍疾することを乞うた。既に諫議大夫に除されていたが拝命せず、宰相の杜譲能に言った。「願わくは兄の循を朝廷に留め、以て門戸に当たらせ、医薬に侍ることを乞う。」時に循は給事中であり、丞相はこれを許した。

原文巢賊犯京師,父蔚方病,徽與其子自扶籃輿,投竄山南。閣路險狹,盜賊縱橫,谷中遇盜,擊徽破首,流血被體,而捉輿不輟。盜苦迫之,徽拜之曰:「父年高疾甚,不欲駭動。人皆有父,幸相垂恤。」盜感之而止。及前谷,又逢前盜,相告語曰:「此孝子也。」即同舉輿,延於其家,以帛封創,饘飲奉蔚。留之信宿,得達梁州。故吏感恩,爭來奔問。時僖宗已幸成都,徽至行朝拜章,乞歸侍疾。已除諫議大夫,不拜。謂宰相杜讓能曰:「願留兄循在朝,以當門戶,乞侍醫藥。」時循為給事中,丞相許之。

その年、父母の喪に遭い、梁・漢で喪に服した。喪が除かれた後、中書舎人として召されたが、赴任せず、病が発した。舎人は綸制の地であり、官を空けることはできないとして、散秩を授かることを請い、給事中に改められた。車駕に従って京に還る途中、陳倉に至り、病が甚だしく、一年を経てやや良くなった。

原文其年鐘家艱,執喪梁、漢。既除,以中書舍人征,未赴,疾作。以舍人綸制之地,不可曠官,請授散秩,改給事中。從駕還京,至陳倉,疾甚,經年方間。

宰相の張浚が招討使となり、徽を判官、検校左散騎常侍に奏請した。詔が鳳翔に下り、促して闕に赴くことを命じた。徽は親しい者に言った。「国運はまさに艱難であり、皇居は初めて復したばかりで、国庫は皆空虚であり、正に群臣が協力し、王室に同心するに頼っている。しかるに破敗の余りに、雄覇の挙を図り、諸侯を離心させれば、必ず後悔を残すであろう。我が衰疾の年、どうしてこれが難を払うことができようか。」病を理由にして起たなかった。翌年、浚は敗れ、徽は給事中に召された。

原文宰相張浚為招討使,奏徽為判官,檢校左散騎常侍。詔下鳳翔,促令赴闕。徽謂所親曰:「國步方艱,皇居初復,帑廩皆虛,正賴群臣協力,同心王室。而於破敗之余,圖雄霸之舉,俾諸侯離心,必貽後悔也。以吾衰疾之年,安能為之扞難。」辭疾不起。明年,浚敗,召徽為給事中。

楊復恭が叛いて山南に帰ると、李茂貞が上表し、自ら兵糧を出して問罪することを請うたが、ただ臣に詔討使を授けるだけでよいと奏した。奏は返答を待たず、茂貞と王行瑜の軍は既に疆を出ていた。上はその専断を怒り、すぐには許可せず、茂貞は強さを恃み、章疏を止めなかった。昭宗は延英殿で諫官・宰相を召して可否を議した。邠・鳳には皆宦官の内応があるので、極言することができず、互いに顧みて辞退し、上の心情は快く思わなかった。徽が上奏して言った。「両朝多難、茂貞は実に翼衛の功があり、諸楊の兵を阻むことを憎み、その意は悪を嫉むにある。軽率であった点は、命を待たずに出師したことである。近く聞くところでは、両鎮の兵が境界に入り、多く殺傷があり、陛下が処分しなければ、梁・漢の民は尽きてしまいます。須らく使名を授け、明らかに約束を行えば、軍中争って法を畏れないことはありません。」帝は言った。「この言は極めて是である。」乃ち招討の命をこれに授けた。茂貞が賊を平定すると、自ら恃んで次第に驕り、多く国政を撓乱し、命じて杜譲能に兵を整え討伐させた。徽は諫めて言った。「岐は国の門戸であり、茂貞は倔強で、禍患を顧みません。万一躓けば、国威を挫きます、漸く以てこれを制するに如かず。」師が出ると、再び徽を召してこれに言った。「卿は時事を斟酌でき、岐軍は烏合の衆、朕は必ず平定されると見込むが、卿は捷は何日にあると思うか。」徽は対えて言った。「臣は侍従諫諍の列に忝くし、言うところの軍国は、理に拠って陳聞します。賊を破る期日については、陛下が蓍亀を考へ、将帥に責むるに在り、臣の職ではありません。」而して王師は果たして敗れ、大臣は害された。

原文楊復恭叛歸山南,李茂貞上表,請自出兵糧問罪,但授臣詔討使。奏不待報,茂貞與王行瑜軍已出疆。上怒其專,不時可之,茂貞恃強,章疏不已。昭宗延英召諫官宰相議可否。以邠、鳳皆有中人內應,不敢極言,相顧辭遜,上情不悅。徽奏曰:「兩朝多艱,茂貞實有翼衛之功,惡諸楊阻兵,意在嫉惡。所造次者,不俟命而出師也。近聞兩鎮兵入界,多有殺傷,陛下若不處分,梁、漢之民盡矣。須授以使名,明行約束,則軍中爭不畏法。」帝曰:「此言極是。」乃以招討之命授之。及茂貞平賊,自恃浸驕,多撓國政,命杜讓能料兵討之。徽諫曰:「岐是國門,茂貞倔強,不顧禍患。萬一蹉跌,挫國威也,不若漸以制之。」及師出,復召徽謂之曰:「卿能斟酌時事,岐軍烏合,朕料必平,卿以為捷在何日?」徽對曰:「臣忝侍從諫諍之列,所言軍國,據理陳聞。如破賊之期,在陛下考蓍龜,責將帥,非臣之職也。」而王師果衄,大臣被害。

徽はまもなく中書舎人に改められた。その年のうちに、刑部侍郎に遷り、奇章男に封ぜられた。崔胤が汴州と連結し、徽が事を言うことを憎み、散騎常侍に改めた。拝命せず、太子賓客に換えられた。天復初年、賊臣が権力を握り、朝政に綱紀なく、上表して罷免を請うた。詔して刑部尚書をもって致仕させ、乃ち樊川の別墅に帰った。病没し、吏部尚書を贈られた。

原文徽尋改中書舍人。歲中,遷刑部侍郎,封奇章男。崔胤連結汴州,惡徽言事,改散騎常侍。不拜,換太子賓客。天復初,賊臣用事,朝政不綱,拜章請罷。詔以刑部尚書致仕,乃歸樊川別墅。病卒,贈吏部尚書。

蕭俛

原文蕭俛

蕭俛は、字を思謙という。曾祖父は太師徐国公の嵩で、開元中の宰相である。祖父は華で、徐国公を襲い、粛宗朝の宰相である。父は恒で、吏部尚書を贈られた。皆それぞれ伝がある。俛は、貞元七年に進士に擢第した。元和初年、再び賢良方正制科に登り、右拾遺を拝し、右補闕に遷った。元和六年、召されて翰林学士を充たした。七年、司封員外郎に転じた。九年、駕部郎中・知制誥に改め、内職は元の通りであった。張仲方と親しくしていたことで連座し、仲方が李吉甫の諡議を駁し、兵を用い徴発することの弊は吉甫より生じたと述べた。憲宗は怒り、仲方を貶した。俛も学士を罷め、左遷されて太僕少卿となった。

原文蕭俛,字思謙。曾祖太師徐國公嵩,開元中宰相。祖華,襲徐國公,肅宗朝宰相。父恆,贈吏部尚書。皆自有傳。俛,貞元七年進士擢第。元和初,復登賢良方正制科,拜右拾遺,遷右補闕。元和六年,召充翰林學士。七年,轉司封員外郎。九年,改駕部郎中、知制誥,內職如故。坐與張仲方善,仲方駁李吉甫謚議,言用兵征發之弊,由吉甫而生。憲宗怒,貶仲方。俛亦罷學士,左授太仆少卿。

十三年、皇甫镈が権力を握り、憲宗に言上して、俛を御史中丞に拝した。俛は镈及び令狐楚と、同年に進士第に登った。翌年、镈は楚を援けて宰相とし、二人は双々で俛を上に推薦した。ここより、顧眄日増しに隆盛となり、階を進めて朝議郎・飛騎尉となり、徐国公を襲い、緋魚袋を賜った。穆宗が即位した月、宰相を命ずることを議し、令狐楚がこれを援け、中書侍郎・平章事を拝し、仍として金紫の服を賜った。八月、門下侍郎に転じた。

原文十三年,皇甫镈用事,言於憲宗,拜俛御史中丞。俛與镈及令狐楚,同年登進士第。明年,镈援楚作相,二人雙薦俛於上。自是,顧眄日隆,進階朝議郎、飛騎尉,襲徐國公,賜緋魚袋。穆宗即位之月,議命宰相,令狐楚援之,拜中書侍郎、平章事,仍賜金紫之服。八月,轉門下侍郎。

十月、吐蕃が涇原を寇し、中使に命じて禁軍を以てこれを援けしむ。穆宗、宰臣に謂いて曰く、「用兵に必勝の法有りや」と。俛対えて曰く、「兵は兇器なり、戦は危事なり、聖主やむを得ずして之を用う。仁を以て不仁を討ち、義を以て不義を討ち、先ず招懐を務め、掩襲を為さず。古の兵を用うるや、祀を斬らず、厲を殺さず、二毛を擒えず、田稼を犯さず。人を安んじ暴を禁ずるは、師の上なり。水火に甚だしきを救うが如し。故に王者の師は、征有りて戦無し、これ必勝の道なり。もし或いは小忿を縦肆し、軽く干戈を動かし、敵人の怨結をして、師出でて名無からしむれば、惟に勝たざるのみならず、乃ち自ら危うきの道なり。固より宜しく深く慎むべし」と。帝然りとす。

原文十月,吐蕃寇涇原,命中使以禁軍援之。穆宗謂宰臣曰:「用兵有必勝之法乎?」俛對曰:「兵者兇器,戰者危事,聖主不得已而用之。以仁討不仁,以義討不義,先務招懷,不為掩襲。古之用兵,不斬祀,不殺厲,不擒二毛,不犯田稼。安人禁暴,師之上也。如救之甚於水火。故王者之師,有征無戰,此必勝之道也。如或縱肆小忿,輕動干戈,使敵人怨結,師出無名,非惟不勝,乃自危之道也。固宜深慎!」帝然之。

時に令狐楚西川節度使に左遷せられ、王播広く貨幣を以て中人権幸に賂り、宰相たるを求む。而して宰相段文昌復た之を左右す。俛性悪を嫉み、延英にて面して播の纖邪納賄、中外に喧しきを言い、以て臺司を汚すべからずとす。事已に成らんと垂れ、帝之を省みず、俛三たび章を上りて相任を罷むるを求む。長慶元年正月、左僕射を守り、徐国公に進封せられ、政事を知るを罷む。俛相位に居り、孜々として正道を重んじ、名器を慎む。毎に一官を除くに、常に乖当を慮う、故に簡抜すること鮮くして克深に渉る、然れども志奸邪を嫉み、重位を脱屣す、時の論之を称す。

原文時令狐楚左遷西川節度使,王播廣以貨幣賂中人權幸,求為宰相。而宰相段文昌復左右之。俛性嫉惡,延英面言播之纖邪納賄,喧於中外,不可以汙臺司。事已垂成,帝不之省,俛三上章求罷相任。長慶元年正月,守左僕射,進封徐國公,罷知政事。俛居相位,孜孜正道,重慎名器。每除一官,常慮乖當,故鮮有簡拔而涉克深,然誌嫉奸邪,脫屣重位,時論稱之。

穆宗章武恢復の余に乗じ、即位の始め、両河廓定し、四鄙虞無し。而して俛と段文昌屢たび太平の策を献じ、以て兵は以て乱を静む、時已に治まりたるを以為い、武を黷すべからず、穆宗に兵を休め武を偃ぐるを勧む。又兵は頓に去るべからずとし、天下の軍鎮兵有る処に密語し、毎年百人のうち、八人の逃死を限る、之を「消兵」と謂う。帝既に荒縦にして、深く料る能わず、遂に天下に詔し、其の策の如くに行わしむ。而して籓籍の卒、合して盗と為り、山林に伏す。明年、硃克融・王廷湊復た河朔を乱し、一呼して遺卒皆至る。朝廷方に諸籓に兵を征す、籍既に充たず、尋いで招募を行う。烏合の徒、動もすれば賊に敗る、ここに由りて復た河朔を失う、蓋し「消兵」の失なり。

原文穆宗乘章武恢復之余,即位之始,兩河廓定,四鄙無虞。而俛與段文昌屢獻太平之策,以為兵以靜亂,時已治矣,不宜黷武,勸穆宗休兵偃武。又以兵不可頓去,請密語天下軍鎮有兵處,每年百人之中,限八人逃死,謂之「消兵」。帝既荒縱,不能深料,遂詔天下,如其策而行之。而籓籍之卒,合而為盜,伏於山林。明年,硃克融、王廷湊復亂河朔,一呼而遺卒皆至。朝廷方征兵諸籓,籍既不充,尋行招募。烏合之徒,動為賊敗,由是復失河朔,蓋「消兵」之失也。

俛性介独にして、法を守り正を守る。己が輔政日浅く、超擢太だ驟なるを以て、三たび章を上りて僕射を懇辞し、拝せず。詔して曰く、「蕭俛は勤を以て国に事え、疾を以て身を退く、本末初終、其の道を失わず、枢務を罷むる既に、端揆に居らしむ。朕恩を加え超等せんと欲し、吾が前言を復たす。而して継いて譲章有り、三四に至り、敦諭頗る切に、陳乞弥堅なり。爾が謙光を成し、之を選部に移す、吏部尚書とすべし」と。俛又選曹の簿書煩雑なるを以て、摂生の道に非ずとし、散秩に換うるを乞う。其の年十月、兵部尚書に改む。二年、疾を以て表して分司を求め、許さず。三月、太子少保に改め、尋いで同州刺史を授く。宝暦二年、復た少保を以て東都に分司す。

原文俛性介獨,持法守正。以己輔政日淺,超擢太驟,三上章懇辭僕射,不拜。詔曰:「蕭俛以勤事國,以疾退身,本末初終,不失其道,既罷樞務,俾居端揆。朕欲加恩超等,復吾前言。而繼有讓章,至於三四,敦諭頗切,陳乞彌堅。成爾謙光,移之選部,可吏部尚書。」俛又以選曹簿書煩雜,非攝生之道,乞換散秩。其年十月,改兵部尚書。二年,以疾表求分司,不許。三月,改太子少保,尋授同州刺史。寶歷二年,復以少保分司東都。

文宗即位し、検校左僕射・守太子少師を授く。俛疾篤きを称し、闕に赴くに任せず、授くる所の官を罷むるを乞う。詔して曰く、「新たに除する太子少師蕭俛は、代炳台耀し、躬茂天爵す。文は以て邦俗を経緯し、行は以て神祇を感動す。夷淡粹和、精深敏直、進退道に由り、周旋令名す。近く師傅の崇を以て、旧徳に疇し、優逸に従わしめ、養頤を保たんことを冀う。而して疏を抗し懇辞し、勇退知止す、嘗また敦諭すれども、確乎として抜く難し。遂に茲の牢譲、以て時風を厚くす、銀青光禄大夫・守尚書左僕射致仕とすべし」と。

原文文宗即位,授檢校左僕射、守太子少師。俛稱疾篤,不任赴闕,乞罷所授官。詔曰:「新除太子少師蕭俛,代炳臺耀,躬茂天爵。文可以經緯邦俗,行可以感動神祇。夷淡粹和,精深敏直,進退由道,周旋令名。近以師傅之崇,疇於舊德,俾從優逸,冀保養頤。而抗疏懇辭,勇退知止,嘗亦敦諭,確乎難拔。遂茲牢讓,以厚時風,可銀青光祿大夫、守尚書左僕射致仕。」

俛趣尚簡潔にして、声利を以て自ら汚さず。相位に在る時、穆宗詔して『故成徳軍節度使王士真神道碑』を撰せしむ。対えて曰く、「臣器褊狭、此れ強うること能わず。王承宗先朝命を阻み、事観るべき無し、臣が筆を秉る如くは、美を溢すこと能わず。或いは撰進の後、例として貺遺を行わん。臣若し公然阻絶せば、則ち陛下の撫納の宜に違う。僶俛之を受けば、則ち微臣平生の志に非ず。臣之が為に筆を秉るを願わず」と。帝嘉して之を免ず。

原文俛趣尚簡潔,不以聲利自汙。在相位時,穆宗詔撰《故成德軍節度使王士真神道碑》,對曰:「臣器褊狹,此不能強。王承宗先朝阻命,事無可觀,如臣秉筆,不能溢美。或撰進之後,例行貺遺。臣若公然阻絕,則違陛下撫納之宜;僶俛受之,則非微臣平生之誌。臣不願為之秉筆。」帝嘉而免之。

俛家行尤も孝なり。母韋氏、賢明礼有り、家を理むること甚だ厳し。俛宰相と為ると雖も、母の左右に侍すこと、褐衣の時に異ならず。母喪に丁り、毀瘠制を踰ゆ。喪を免れ、文宗征詔す、懇に疾を以て辞す。既に家に致仕し、洛都の官属賓友、歳時の請謁の煩を避けんとし、乃ち済源別墅に帰り、山野に逍遙し、嘯詠窮年す。

原文俛家行尤孝。母韋氏,賢明有禮,理家甚嚴。俛雖為宰相,侍母左右,不異褐衣時。丁母喪,毀瘠逾制。免喪,文宗征詔,懇以疾辭。既致仕於家,以洛都官屬賓友,避歲時請謁之煩,乃歸濟源別墅,逍遙山野,嘯詠窮年。

八年、庄恪太子東宮に在るを以て、上耆徳を以て輔導せんと欲し、復た少師を以て之を征す。俛弟傑に令して表を京師に奉らしめ、復た制書を納れ、痼疾を堅辞す。詔して曰く、「年を待たずして謝を求むるは、理身の道に於いては則ち至れり、其れ朝廷の望を如何。朕元良を肇建し、精く師傅を求む。漢朝の故事を遐想し、玄成・石慶、当時の重徳、咸く此の官を歴る。吾元子幼沖を以て、師訓に切ならんとし、汝を以て古今を発明せしめ、忠孝の規を冀い、日に耳に聞かんと欲す。特に左右を遣わし、林園に至らしむ。而して卿高蹈翛然、趨進を屏絶し、復た令弟を遣わして詔書を還召す。天爵自ら優れ、冥鴻方に遠し、転ぜざるの志、其れ山の若く堅し。来章を循省し、致煩愧を為す。終に呂尚の秩を以て、其の疏曠の心を遂ぐ。俗を励まし貪を激す、補う所多し。政に益有らば、声を寄せて以て聞かしめ、亦旧臣に望有り。太子太傅致仕とすべし」と。

原文八年,以莊恪太子在東宮,上欲以耆德輔導,復以少師征之。俛令弟傑奉表京師,復納制書,堅辭痼疾。詔曰:「不待年而求謝,於理身之道則至矣,其如朝廷之望何?朕以肇建元良,精求師傅,遐想漢朝故事,玄成、石慶,當時重德,鹹歷此官。吾以元子幼沖,切於師訓,欲以敕汝發明古今,冀忠孝之規,日聞於耳。特遣左右,至於林園。而卿高蹈翛然,屏絕趨進,復遣令弟還召詔書。天爵自優,冥鴻方遠,不轉之誌,其堅若山。循省來章,致煩為愧。終以呂尚之秩,遂其疏曠之心。勵俗激貪,所補多矣。有益於政,寄聲以聞,亦有望於舊臣矣。可太子太傅致仕。」

開成二年、俛弟俶楚州刺史を授かる。辞する日、文宗俶に謂いて曰く、「蕭俛先朝の名相、筋力未だ衰えず、一たび来たりて京国すべし。朕蕭俛に詔書匹帛を賜う、卿便ち賫りて済源に至り、吾が此の意を道え」と。詔して曰く、「卿道は時髦に冠たり、業は儒行に高し。著作は礪き済川の効を弘め、君を致し国を匡うるの規を致し、芳を巌廊に留め、老を林壑に逸す。累ね褒詔を降し、亟に崇秩を加うれども、志は奪う可からず、情は辞に乎りて見ゆ。鴻飛びて冥に入り、吟想嘆を増す。今に絹三百匹を賜う、便ち蕭俶に宣示せしむ」と。俛竟に起たず、卒す。

原文開成二年,俛弟俶授楚州刺史。辭日,文宗謂俶曰:「蕭俛先朝名相,觔力未衰,可一來京國。朕賜俛詔書匹帛,卿便賫至濟源,道吾此意。」詔曰:「卿道冠時髦,業高儒行。著作礪濟川之效,弘致君匡國之規,留芳巖廊,逸老林壑。累降褒詔,亟加崇秩,而誌不可奪,情見乎辭。鴻飛入冥,吟想增嘆。今賜絹三百匹,便令蕭俶宣示。」俛竟不起,卒。

傑、字は豪士。元和十二年進士第に登る。累官して侍御史、遷りて主客員外郎。太和九年十月、鄭注鳳翔節度使と為り、慎んで参佐を選ぶ。李訓傑を以て検校工部郎中とし、鳳翔隴観察判官を充てしむ。其の年十一月、鄭注誅せられ、傑鳳翔監軍使の害する所と為る。

原文傑,字豪士。元和十二年登進士第。累官侍御史,遷主客員外郎。太和九年十月,鄭註為鳳翔節度使,慎選參佐。李訓以傑檢校工部郎中,充鳳翔隴觀察判官。其年十一月,鄭註誅,傑為鳳翔監軍使所害。

俶蔭を以て官を授かる。太和中、累遷して河南少尹に至る。九年五月、諫議大夫を拝す。開成二年、出でて楚州刺史と為る。四年三月、越州刺史・御史中丞・浙東都団練観察使に遷る。会昌中、入りて左散騎常侍と為り、遷りて検校刑部尚書・華州刺史・潼関防禦等使。大中初、華州に在る時獄を断むる不法に坐し、太子賓客分司を授かる。四年、検校戸部尚書・兗州刺史・兗沂海節度使。復た入りて太子賓客と為る。大中十二年、太子少保を以て東都に分司し、卒す。俛の従父弟に仿有り。

原文俶以廕授官。太和中,累遷至河南少尹。九年五月,拜諫議大夫。開成二年,出為楚州刺史。四年三月,遷越州刺史、御史中丞、浙東都團練觀察使。會昌中,入為左散騎常侍,遷檢校刑部尚書、華州刺史、潼關防禦等使。大中初,坐在華州時斷獄不法,授太子賓客分司。四年,檢校戶部尚書、兗州刺史、兗沂海節度使。復入為太子賓客。大中十二年,以太子少保分司東都,卒。俛從父弟仿。

倣、父は悟、恆の弟なり。悟、仕えて大理司直に至る。倣、太和元年進士第に登る。大中朝、諫議大夫・給事中を歴る。咸通初、左散騎常侍に遷る。

原文倣,父悟,恆之弟也。悟,仕至大理司直。倣,太和元年登進士第。大中朝,歷諫議大夫、給事中。咸通初,遷左散騎常侍。

懿宗は朝政を怠り、仏を奉ずることに偏り、宮中に道場を設け、僧を集めて念誦させた。またしばしば諸寺に幸し、施与は度を過ぎた。倣は上疏してこれを論じて言うには、

原文懿宗怠臨朝政,僻於奉佛,內結道場,聚僧念誦。又數幸諸寺,施與過當。倣上疏論之曰:

臣は聞く、玄祖の道は、慈儉を以て先とし、素王の風は、仁義を以て首とすと。百代を相沿い、千年に則を作り、至聖至明、易うべからざるなり。仏とや、天竺に生まれ、彼の王宮を去り、愛中の至難を割き、滅後の殊勝を取る。名は象外に帰し、理は塵中に絶つ。帝王の能く慕うべきに非ざるなり。昔、貞観中、高宗東宮に在りし時、長孫皇后の疾篤きを以て、嘗て上言して曰く、「僧を度せんと欲し、以て福事に資せん」と。后曰く、「善を為すに徴有り、吾は未だ悪を為さず。善或いは報い無くんば、福を求むるは宜しからず。且つ仏は、異方の教なり。存して論ぜざるべし。豈に一女子を以てして王道を紊さんや」と。故に文徳と謚す。且つ母后の論、尚お能く斯くの如し。哲王の謨、安んぞ是に反せんや。伏して陛下の天竺に留神し、桑門に属意し、内に道場を設け、中に講会を開き、或いは手ずから梵策を録し、或いは口に仏音を揚ぐるを睹る。時に延英を啓くといえども、四輔に従容し、政を聴くに稍稀なるを慮り、万機を廃失す。安に居りて危を思う、忽にすべからざるなり。夫れ従容なる者は、君なり。必ず臣に疇咨し、忠を尽くして匡救し、外には其の耳に逆らい、内には其の心を沃す。臯陶の謨を陳べ、仲虺の誥を述ぶ。王道を発揮し、帝図を恢益す。賜対の間に非ずして、徒らに坐に侍るのみなるに非ざるなり。夫れ廃失なる者は、上は其の諫を拒ぎ、下は其の旨を希う。言えば則ち狎玩し、意は順従に在り。漢は神仙を重んじ、東方朔は『十洲』の記を著し、梁は佛法を崇め、劉孝儀は『七覚』の詩を詠ず。祠禱を致して休むこと無く、講誦して已むこと無く、以て大空海内に至り、中輟す江東。此を以て之を言えば、是れ廃失なり。然れども仏は、当に悟りを以て取るべく、相を以て求むべからず。漢・晋已来、互いに宝刹を興し、姚・石の際、亦た高僧有り。或いは苦空を以て問い、其の不滅を究め、性有るを聞くに止まり、多くは言を忘るると曰う。貪縁に執着するは、其の旨に非ざるなり。必ず陛下に乞う、民瘼を力求し、宗祧を虔奉せんことを。繆賞と濫刑を思えば、其の殃立ち至らん。勝残して殺を去るを俟てば、福を得ること甚だ多し。幸いに講筵を罷め、頻りに政事に親しまんことを。昔年、韓愈已に憲宗に罪を得、今日、微臣固より遐僥に甘心す。

原文臣聞玄祖之道,由慈儉為先;而素王之風,以仁義為首。相沿百代,作則千年,至聖至明,不可易也。如佛者,生於天竺,去彼王宮,割愛中之至難,取滅後之殊勝,名歸象外,理絕塵中,非為帝王之所能慕也。昔貞觀中,高宗在東宮,以長孫皇后疾亟,嘗上言曰:「欲請度僧,以資福事。」後曰:「為善有征,吾未為惡,善或無報,求福非宜。且佛者,異方之教,所可存而勿論。豈以一女子而紊王道乎?」故謚為文德。且母後之論,尚能如斯,哲王之謨,安可反是?伏睹陛下留神天竺,屬意桑門,內設道場,中開講會,或手錄梵策,或口揚佛音。雖時啟於延英,從容四輔;慮稍稀於聽政,廢失萬機。居安思危,不可忽也。夫從容者,君也,必疇咨於臣,盡忠匡救,外逆其耳,內沃其心;陳臯陶之謨,述仲虺之誥;發揮王道,恢益帝圖,非賜對之間,徒侍坐而已。夫廢失者,上拒其諫,下希其旨,言則狎玩,意在順從。漢重神仙,東方朔著《十洲》之記;梁崇佛法,劉孝儀詠《七覺》之詩。致祠禱無休,講誦不已,以至大空海內,中輟江東。以此言之,是廢失也。然佛者,當可以悟取,不可以相求。漢、晉已來,互興寶剎;姚、石之際,亦有高僧。或問以苦空,究其不滅,止聞有性,多曰忘言。執著貪緣,非其旨也。必乞陛下力求民瘼,虔奉宗祧。思繆賞與濫刑,其殃立至;俟勝殘而去殺,得福甚多。幸罷講筵,頻親政事。昔年韓愈已得罪於憲宗,今日微臣固甘心於遐僥。

疏が奏上されると、帝は甚だ之を嘉した。

原文疏奏,帝甚嘉之。

四年、本官のまま権知貢挙となり、礼部侍郎に遷り、戸部に転ず。検校工部尚書を以て、滑州刺史として出向し、義成軍節度使・鄭滑潁観察処置等使を充てた。鎮に在ること四年、滑は黄河に臨み、頻年に水潦有り、河流泛溢し、西北の堤を壊す。倣は奏して河を四里移し、両月にして功を畢え、図を画いて以て進む。懿宗之を嘉し、就いて刑部尚書を加え、兵部尚書・判度支として入朝し、吏部尚書に転じ、選序平允なり。咸通末、再び兵部尚書・判度支となる。尋いで本官のまま同平章事となり、累遷して中書・門下二侍郎、兼戸部・兵部尚書となる。左右僕射に遷り、司空・弘文館大学士・蘭陵郡開国侯に改む。

原文四年,本官權知貢舉,遷禮部侍郎,轉戶部。以檢校工部尚書,出為滑州刺史,充義成軍節度、鄭滑潁觀察處置等使。在鎮四年,滑臨黃河,頻年水潦,河流泛溢,壞西北堤。倣奏移河四里,兩月畢功,畫圖以進。懿宗嘉之,就加刑部尚書,入為兵部尚書、判度支,轉吏部尚書,選序平允。咸通末,復為兵部尚書、判度支。尋以本官同平章事,累遷中書、門下二侍郎,兼戶部、兵部尚書。遷左右僕射,改司空、弘文館大學士、蘭陵郡開國侯。

俄にして盗賊河南に起こり、内官兵を握り、王室濁乱す。倣は気勁く論直にして、同列之を忌む。政事を知るを罷め、広州刺史・嶺南節度使として出される。

原文俄而盜起河南,內官握兵,王室濁亂。倣氣勁論直,同列忌之;罷知政事,出為廣州刺史、嶺南節度使。

倣の性は公廉なり。南海は富み珍奇と雖も、月俸の外は、其の門に入らず。家人疾病し、医工薬を治すに、烏梅を須う。左右公厨に於いて之を取る。倣知りて命じて還し、市に於いて買うを促す。乱に遇い、京師に至らずして卒す。

原文倣性公廉,南海雖富珍奇,月俸之外,不入其門。家人疾病,醫工治藥,須烏梅,左右於公廚取之;倣知而命還,促買於市。遇亂,不至京師而卒。

子の廩、咸通三年進士に擢第し、累遷して尚書郎となる。乾符中、父の南海に出鎮するに因り、官を免じ侍行す。中和中、征せられて中書舎人となり、再遷して京兆尹となる。僖宗再び山南に幸す。廩は疾を以て従う能わず。襄王僭窃す。廩の宗人遘、偽署を受けしを以て、廩懼れ、自ら洛より河朔に避地し、鎮冀節度使王镕之を深州に館す。光化三年卒す。

原文子廩,咸通三年進士擢第,累遷尚書郎。乾符中,以父出鎮南海,免官侍行。中和中,征為中書舍人,再遷京兆尹。僖宗再幸山南,廩以疾不能從。襄王僭竊,廩宗人遘受偽署;廩懼,自洛避地河朔,鎮冀節度使王镕館之於深州。光化三年卒。

廩は貞退にして寡合、綽として家法有り。初め父に従い南海に在りし時、地は多く穀紙有り。倣は子弟に勅して缺落の文史を繕写せしむ。廩白して曰く、「家書の缺くる者は、誠に宜しく補葺すべし。然れども此れ京師を去ること、水際万里、露賫すべからず、当に篋笥を須うべし。人の観るに兼乗し、是れ貨財と謂わん。古人の薏苡の嫌、深誡と為すを得ん」と。倣曰く、「吾之を思わざるなり」と。故に濁乱の際、能く令名を保つ。

原文廩貞退寡合,綽有家法。初從父南海,地多谷紙,倣敕子弟繕寫缺落文史。廩白曰:「家書缺者,誠宜補葺。然此去京師,水際萬里,不可露賫,當須篋笥。人觀兼乘,謂是貨財,古人薏苡之嫌,得為深誡。」倣曰:「吾不之思也。」故濁亂之際,克保令名。

子の頎、亦た進士第に登り、後官位顕達す。

原文子頎,亦登進士第,後官位顯達。

李石

原文李石

李石、字は中玉、隴西の人。祖は堅、父は明。石は元和十三年進士に擢第し、涼国公李聽に従い四鎮の従事を歴任す。石は機弁方略有り、尤も吏術に精しく、藩府之を称す。聽の征伐に従い、常に留使務を司り、事辦わざる無し。太和三年、鄭滑行軍司馬となる。時に聽は河北に兵を握り、石をして朝に入り事を奏せしむ。占対明弁、文宗目して之を嘉す。府罷まり、工部郎中として入朝し、塩鉄案を判ず。五年、刑部郎中に改む。兵部郎中令狐楚の請いに由り、太原節度副使と為る。七年、給事中に拝す。九年七月、権知京兆尹事。十月、戸部侍郎に遷り、度支事を判ず。

原文李石,字中玉,隴西人。祖堅,父明。石,元和十三年進士擢第,從涼國公李聽歷四鎮從事。石機辯有方略,尤精吏術,籓府稱之。自聽征伐,常司留使務,事無不辦。太和三年,為鄭滑行軍司馬。時聽握兵河北,令石入朝奏事,占對明辯,文宗目而嘉之。府罷,入為工部郎中,判鹽鐵案。五年,改刑部郎中。由兵部郎中令狐楚請為太原節度副使。七年,拜給事中。九年七月,權知京兆尹事。十月,遷戶部侍郎,判度支事。

文宗は徳裕・宗閔の朋党相傾くを自らす。太和七年以後、宿素の大臣、穎にして用いず。意は新進孤立を擢用し、庶幾くは党無く、以て前弊を革めんとす。故に賈餗・舒元輿、驟に階を大用す。訓・註の誅せらるるに及び、令狐楚を用いんと欲す。尋いで中輟す。石は朝議郎より朝議大夫を加えられ、本官のまま同平章事となり、使を判ずること故の如し。石の器度は豁如として、官に当たりて撓まず。京師変乱の後より、宦者は気盛んにして、南司を凌轢し、延英に議事するに、中貴の語必ず訓を引きて以て文臣を折す。石と鄭覃嘗て之に謂いて曰く、「京師の乱は、訓・註に始まる。而して訓・註の起るは、何人に始まるか」と。仇士良等対うる能わず。其の勢稍や抑えられ、縉紳之に頼る。是の時、月を逾え、人情安んぜず。帝侍臣に謂いて曰く、「聞く所に依れば人心未だ安帖せず、比日は何如」と。石対えて曰く、「比日苦寒なるは、蓋し刑殺過多なるを致し、此の陰沴を致す。昨鄭註の鳳翔に到り、士卒を招募して至らず、誅夷を捕索して已まずと聞く。臣辺上之を聞き、乗じて此れに生事するを恐る。宜しく詔を降し其の心を安んじ諭すべし」と。之に従う。

原文文宗自德裕、宗閔朋黨相傾。太和七年以後,宿素大臣,穎而不用。意在擢用新進孤立,庶幾無黨,以革前弊,故賈餗、舒元輿驟階大用。及訓、註伏誅,欲用令狐楚,尋而中輟。石自朝議郎加朝議大夫,以本官同平章事,判使如故。石器度豁如,當官不撓。自京師變亂之後,宦者氣盛,淩轢南司,延英議事,中貴語必引訓以折文臣。石與鄭覃嘗謂之曰:「京師之亂,始自訓、註;而訓、註之起,始自何人?」仇士良等不能對。其勢稍抑,縉紳賴之。是時,逾月,人情不安。帝謂侍臣曰:「如聞人心尚未安帖,比日何如?」石對曰:「比日苦寒,蓋刑殺太過,致此陰沴。昨聞鄭註到鳳翔,招募士卒不至,捕索誅夷不已,臣恐邊上聞之,乘此生事。宜降詔安喻其心。」從之。

江西・湖南両道の観察使は、新たに王訓・王註の乱を経て、吏卒が多く死んだため、官健の衣糧を百二十分進上し、宰相が従人を募召するのに充てようとした。李石が上奏して言うには、「宰相は上は聖政を輔弼し、下は群司を統理する。もし忠正で私心がなく、宗廟社稷の加護があれば、たとえ盗賊に遭おうとも、兵は傷つけることができない。もし事が隠蔽や欺瞞に及び、心に偽りや妄りを抱くならば、たとえ防衛があろうとも、鬼がこれを誅するであろう。臣らは赤心を推し進めて聖奨に答えたいと願う。孟軻は臧氏でないことを知り、孔子は匡人を畏れなかった。両道が進上する衣糧は、ともに停止されることを望み、以前の制置に従い、金吾の手力のみを引従とするのがよい。」と。これを許可した。帝はまた言った、「宰相の任は、賢を選び能を用いるにある。」李石は言った、「臣と鄭覃は常にこのことを切実なことと考えておりますが、ただ人はそれぞれに求めるものがあり、もしその欲するところを遂げれば美誉が至り、少しでも意にかなわなければ誹謗の議論が生じます。ただ各々所司に委ねて推薦させ、臣らが授けるに足る者を選ぶならば、世間の議論は収まるでしょう。」

原文江西、湖南兩道觀察使以新經訓、註之亂,吏卒多死,進官健衣糧一百二十分,充宰相募召從人。石奏曰:「宰相上弼聖政,下理群司。若忠正無私,宗社所祐,縱逢盜賊,兵不能傷;若事涉隱欺,心懷矯妄,雖有防衛,鬼得而誅。臣等願推赤心以答聖獎。孟軻知非臧氏,孔子不畏匡人。其兩道所進衣糧,並望停寢,依從前制置,只以金吾手力引從。」可之。帝又曰:「宰相之任,在選賢任能。」石曰:「臣與鄭覃常以此事為切,但以人各有求,茍遂所欲則美譽至,稍不如意則謗議生。只宜各委所司薦用,臣等擇可授之,則物議息矣。」

その年の十二月、中使の田全操・劉行深が辺境を巡視して帰り、走馬して金光門に入った。従者が兵が来たと誤って言い、百官が朝を退いた後、倉惶として驚き散った。帯を締める暇もなく、靴下のまま乗る者もあった。市の人が叫び騒ぎ、塵埃が四方に立ち上がった。二相(李石と鄭覃)が中書省にいたが、人吏は次第に散った。鄭覃が言った、「耳目に入るものがかなり異様である、しばらく出て行くのがよい。」李石が言った、「事の成り行きは知ることができないが、ただ堅く座してこれを鎮めるべきであり、平穏になることを望む。もし宰相までもが逃げれば、朝廷内外は乱れるであろう。もし乱が続くならば、逃げてもどこに逃れられようか?任は重く官は高く、人心の属するところであり、軽んじてはならない。」李石は簿書を見て、泰然自若としていた。京城の無頼の徒は、皆、戎服を着て兵仗を持ち、北を望んで闕門を待ち、変事に備えた。内使が連続して皇城門を閉めるよう催促したが、金吾大将軍の陳君賞がその配下を率いて望仙門の下に立ち、中使に言った、「たとえ賊がいたとしても、門を閉めるのは遅くない。どうかゆっくりとその変を見守り、自ら弱るようなことをなさらないでほしい。」夕方になってようやく鎮定した。この日、もし李石の鎮静と陳君賞の侮りを防ぐことがなければ、ほとんど乱になるところであった。

原文其年十二月,中使田全操、劉行深巡邊回,走馬入金光門。從者訛言兵至,百官朝退,倉惶駭散。有不及束帶、襪而乘者。市人叫噪,塵坌四起。二相在中書,人吏稍散。鄭覃曰:「耳目頗異,且宜出去。」石曰:「事勢不可知,但宜堅坐鎮之,冀將寧息。若宰相亦走,則中外亂矣。必若繼亂,走亦何逃?任重官崇,人心所屬,不可忽也。」石視簿書,沛然自若。京城無賴之徒,皆戎服兵仗,北望闕門以俟變。內使連催閉皇城門,金吾大將軍陳君賞率其徒立望仙門下,謂中使曰:「假如有賊,閉門不晚。請徐觀其變,無宜自弱。」晡晚方定。是日,茍非石之鎮靜,君賞之禦侮,幾將亂矣。

開成元年、元号を改め、大赦を行った。李石らが赦文の条項を協議し、京畿の一年分の租税を免除することとした。また、正月・冬至・端午の進奉を、ともに三年間停止し、その銭を百姓の紐配銭に代えて充てることとした。諸道は、薬物・口味・茶果を除き、進献してはならない。諸司の宣索による製造は、ともに三年間停止する。赦の後、紫宸殿で宣対があった。鄭覃が言った、「陛下が元号を改めて御殿に臨み、京畿の一年分の租税を全免し、また天下の節鎮の進奉を停止されました。恩沢の及ぶところは、実に肝要な点に当たります。近年の赦令は、皆これに及びません。」上(文宗)は言った、「朕は実を務めて行い、空文を重んじ長くしたくはない。」李石が対えて言った、「赦書は内に一本を置き、陛下が時折これをご覧になるべきです。十道の黜陟使が出発する日に、公事の根本としてこれを渡し、長吏と詳しく選んで施行させれば、ようやく利害の要を尽くすことができます。」李石は、以前の徳音(恩赦の詔)は降りても、人君がこれを守らず、奸吏がこれに従って違反するため、内に置くことを上奏してこれを諷したのである。

原文開成元年,改元,大赦。石等商量節文,放京一年租稅。及正、至、端午進奉,並停三年,其錢代充百姓紐配錢。諸道除藥物、口味、茶果外,不得進獻。諸司宣索制造,並停三年。赦後,紫宸宣對。鄭覃曰:「陛下改元禦殿,全放京畿一年租稅,又停天下節鎮進奉。恩澤所該,實當要切。近年赦令,皆不及此。」上曰:「朕務行其實,不欲崇長空文。」石對曰:「赦書須內置一本,陛下時省覽之。十道黜陟使發日,付與公事根本,令與長吏詳擇施行,方盡利害之要。」石以從前德音雖降,人君不能守,奸吏從而違之,故有內置之奏以諷之。

まもなく中書侍郎・集賢殿大学士を加えられ、塩鉄転運使を領した。上は紫宸殿で政を論じて言った、「国を治める道は、治を致すことが甚だ難しい。」李石が対えて言った、「朝廷の法令が行われれば易しいのです。臣は聞きます、文王は上に陟降されると。陛下が赤誠を推し進め、天に上達すれば、何を憂えて治まらないことがありましょうか?」上はまた言った、「治乱は人の邪正によるのか、それとも時運によるのか?」鄭覃が対えて言った、「聖帝によるのであり、忠臣によるのであり、これは人によるのです。」李石は言った、「時運にもよります。九廟の聖霊が、徳を陛下に集められたのは、時です。陛下が己の道を行われるのは、人によるのです。しかし前代の帝王で甚だ徳のある者でも、乱離やどうしようもない際に当たれば、またどうして運を推さずにいられましょうか?」帝は言った、「卿の言う通りである。」李石はまた上奏した、「咸陽県令の韓遼が興成渠の開削を請うています。旧い漕路は咸陽県の西十八里にあり、東は永豊倉に達し、秦・漢以来に疏鑿され、その後埋もれて廃れました。先ごろ韓遼が計画したところ、用工は多くありません。この漕路ができれば、咸陽から潼関に至る三百里の間、車で引く労がなくなり、轅下の牛はすべて耕すことに帰することができ、永久に秦中の利益となります。」李固言が言った、「王涯が以前にすでに陳奏しており、実に秦中の利益ですが、ただ徴役が今はその時ではないことを恐れます。」上は言った、「陰陽の拘忌があるのか?もし人に利するならば、朕は何も慮るところはない。」李石は使務を領することを辞した。八月、塩鉄転運使を罷免された。李石は金部員外郎の韓益を用いて度支案を判らせたが、韓益は贓罪に坐して御史台に拘束された。李石が上奏して言った、「臣は韓益が銭穀に明るいので任用しましたが、このように貪婪で卑しいとは思いませんでした!」帝は言った、「宰相はただ人を知れば用い、過ちがあれば懲らしめる。卿が用いた人について、その悪を隠さないとは、至公と言える。以前の宰相は人を用いて、過ちがあっても曲げてこれを隠し、人が弾劾するのを望まなかったが、これは大いに誤りである。ただ能あれば挙げ、挙げて職を失わなければこれを奨励すれば、自然と人を得やすく、どうして容認し隠す必要があろうか。」

原文尋加中書侍郎、集賢殿大學士,領鹽鐵轉運使。上御紫宸論政曰:「為國之道,致治甚難。」石對曰:「朝廷法令行則易。臣聞文王陟降在上,陛下推赤誠,上達於天,何憂不治?」上又曰:「治亂由人邪正,由時運耶?」鄭覃對曰:「由聖帝,由忠臣,是由人也。」石曰:「亦由時運。九廟聖靈,鐘德於陛下,時也;陛下行己之道,則是由人。而前代帝王甚有德者,當亂離無奈何之際,又安得不推運耶?」帝曰:「卿言是也。」石又奏:「咸陽令韓遼請開興成渠。舊漕在咸陽縣西十八里,東達永豐倉,自秦、漢已來疏鑿,其後堙廢。昨遼計度,用功不多。此漕若成,自咸陽抵潼關,三百里內無車挽之勤,則轅下牛盡得歸耕,永利秦中矣。」李固言曰:「王涯已前已曾陳奏,實秦中之利,但恐征役今非其時。」上曰:「莫有陰陽拘忌否?茍利於人,朕無所慮也。」石辭領使務。八月,罷鹽鐵轉運使。石用金部員外郎韓益判度支案,益坐贓系臺。石奏曰:「臣以韓益曉錢穀錄用之,不謂貪猥如此!」帝曰:「宰相但知人則用,有過則懲。卿所用人,且不掩其惡,可謂至公。從前宰相用人,有過曲為蔽之,不欲人彈劾,此大謬也。但知能則舉,舉不失職則獎之,自然易得其人,何必容隱。」

三年正月五日、李石が親仁里から夜明け前に朝に入ろうとしたとき、盗賊が故郭尚父(郭子儀)の宅で発し、弓を引いて追い及んで、矢がやっと皮膚を破り、馬が逸走して戻った。盗賊はすでに坊門に伏し、刀を振るって李石を斬り、馬の尾を断ったが、ついに馬が逸走したため私第に帰り得た。上はこれを聞いて驚愕し、中使を遣わして慰問させ、金瘡薬を賜い、よって六軍の兵士三十人を差し向けて宰相を衛従させた。この日、京師は大いに恐れ、常参官で朝に入った者は、九人だけであった。十日ほどしてようやく安堵した。李石は上章して位を辞することを三度行った。そこで金紫光禄大夫・中書侍郎・同平章事・江陵尹・荊南節度使を加えられた。

原文三年正月五日,石自親仁裏將曙入朝,盜發於故郭尚父宅;引弓追及,矢才破膚,馬逸而回。盜已伏坊門,揮刀斫石,斷馬尾,竟以馬逸得還私第。上聞之駭愕,遣中使撫問,賜金瘡藥,因差六軍兵士三十人衛從宰相。是日,京師大恐,常參官入朝者,九人而已,旬日方安。石拜章辭位者三。乃加金紫光祿大夫、中書侍郎、同平章事、江陵尹、荊南節度使。

李訓の乱のとき、人情は危険で逼迫し、天子は李石を常僚の中から起用し、政権を託した。李石は身を以て国に殉じ、患難を顧みず、朝綱を振るい挙げ、国威を再び回復した。しかし中官の仇士良は歯ぎしりしてこれを憎み、伏兵を置いて害を加えた。天子はその故を深く知っていたが、逼迫を畏れて理めることができず、ついに罷免に至った。李石が鎮に赴くとき、賜宴の儀礼はともに欠け、人士はこれを傷み、君子の道が消えることを恥じた。李石が鎮に至り、中書侍郎を譲ることを上表したので、検校兵部尚書・兼平章事を加えられた。

原文李訓之亂,人情危迫,天子起石於常僚之中,付以衡柄。石以身徇國,不顧患難,振舉朝綱,國威再復。而中官仇士良切齒惡之,而伏戎加害。天子深知其故,畏逼而不能理,乃至罷免。及石赴鎮,賜宴之儀並闕,人士傷之,恥君子之道消也。石至鎮,表讓中書侍郎,乃加檢校兵部尚書、兼平章事。

武宗が即位すると、就いて検校尚書右僕射を加えられた。会昌三年十月、検校司空・平章事・隴西郡開国伯・食邑七百戸・太原尹・北都留守・河東節度観察等使を加えられた。時に沢潞の劉稹が兵を阻んでいたが、李石がかつて太原副使を務め、北門の軍政に熟練していたため、劉沔に代わってこれを鎮めた。

原文武宗即位,就加檢校尚書右僕射。會昌三年十月,加檢校司空、平章事、隴西郡開國伯、食邑七百戶、太原尹、北都留守、河東節度觀察等使。時澤潞劉稹阻兵,以石嘗為太原副使,諳練北門軍政,故代劉沔鎮之。

初め、劉沔は兵三千人を横水に戍らせていた。王師が沢潞を討ったとき、王逢が軍を榆社に置き、兵が少ないと訴えて増員を請うたので、詔して李石に太原の兵卒を榆社に赴かせた。李石はそこで横水の戍卒一千五百人を割き、別将の楊弁にこれを率いさせて、王逢に赴かせた。旧例では軍を発するとき、人ごとに二匹の縑を与える。李石は支計が不足するため、一匹を量り減らしたので、軍人は怨みを募らせた。また歳除(年の暮れ)に及ぼうとしていたので、上路を促して命じたので、衆はますます悦ばなかった。楊弁はその隙に乗じて乱を謀り、言葉を出して軍人を激動させた。

原文初,沔以兵三千人戍橫水。王師之討澤潞也,王逢軍於榆社,訴兵少,請益之,詔石以太原之卒赴榆社。石乃割橫水戍卒一千五百人,令別將楊弁率之,以赴王逢。舊例發軍,人給二縑。石以支計不足,量減一匹,軍人聚怨。又將及歲除,促令上路,眾愈不悅。楊弁乘其釁謀亂,出言激動軍人。

四年正月、軍が乱を起こして李石を追い出したので、朝廷は晋絳観察使の崔元式を代わりとして還した。五年、検校司徒・東都留守・判東都尚書省事・畿汝都防禦使となった。太子少保として分司し、そこで卒した。

原文四年正月,軍亂逐石,朝廷乃以晉絳觀察使崔元式代還。五年,檢校司徒、東都留守、判東都尚書省事、畿汝都防禦使。以太子少保分司卒。

石の弟福、字は能之。太和七年に進士第に登り、累次使府に辟召される。石が宰相となると、自ら弟を延英殿にて推挙し、福の才は民を治めるに堪えると述べ、監察御史を授けられる。累遷して尚書郎となり、出て商州・鄭州・汝州・潁州の四州刺史となる。大中時、検校工部尚書・滑州刺史・兼御史大夫となり、義成軍節度使・鄭滑潁観察使を充任する。入朝して刑部侍郎となり、累遷して刑部尚書・戸部尚書となる。乾符初め、検校右僕射・襄州刺史・兼御史大夫を以て山南東道節度使を充任す。

原文石弟福,字能之。太和七年登進士第,累辟使府。石為宰相,自薦弟於延英,言福才堪理人,授監察御史。累遷尚書郎,出為商、鄭、汝、潁四州刺史。大中時,檢校工部尚書、滑州刺史、兼御史大夫,充義成軍節度、鄭滑潁觀察使。入為刑部侍郎,累遷刑部、戶部尚書。乾符初,以檢校右僕射、襄州刺史、兼御史大夫充山南東道節度。

四年、草賊王仙芝の徒党数万が山南を寇掠す。福は郷兵を団練し、要路に屯集し、賊は敢えて犯さず。その秋、賊は岳州・鄂州・饒州・信州等を陥落す。十二月、江陵に迫り、節度使楊知温が福に援を求む。福は即ち自ら州兵及び沙陀五百騎を率いて赴援す。時に賊は既に江陵の外郭を陥とし、福の兵の至るを聞き、乃ち退去す。僖宗之を嘉し、就いて検校司空・同平章事を加う。帰朝し、終に太子太傅に至る。

原文四年,草賊王仙芝徒黨數萬寇掠山南。福團練鄉兵,屯集要路,賊不敢犯。其秋,賊陷嶽、鄂、饒、信等州。十二月,逼江陵,節度使楊知溫求援於福;福即自率州兵及沙阤五百騎赴援。時賊已陷江陵之郛,聞福兵至,乃退去。僖宗嘉之,就加檢校司空、同平章事。歸朝,終於太子太傅。

【史評】

原文【史評】

史臣曰く、彭陽・奇章は、徒歩より起りて台鼎に昇る。その人文の彪炳たるを観、邦典を潤色し、射策命中し、一時を横絶す、誠に俊賢なり。而して峨冠曳組し、皋・夔の伍に論道す、孰か然らざらんと曰わん。如し能く道を蹈みて躬を匪とせず、中立して党無くば、則ち其の善尽きる矣。蕭太師は貞独にして悪を嫉み、利の為に回らず、夷・惠を以て之に擬せず、之をして経綸せしむれば、則ち其の道至る矣。開成の始め、帝道方に淪ぶ。石此の時に於いて頽緒を振わんと欲し、幾ば戕賊に嬰る、咄嗟と為す可し。僻多きの時、止だ太息すべし。

原文史臣曰:彭陽奇章,起徒步而升臺鼎。觀其人文彪炳,潤色邦典,射策命中,橫絕一時,誠俊賢也。而峨冠曳組,論道於臯、夔之伍,孰曰不然?如能蹈道匪躬,中立無黨,則其善盡矣。蕭太師貞獨嫉惡,不為利回,不以夷、惠儗之,俾之經綸,則其道至矣。開成之始,帝道方淪,石於此時欲振頹緒,幾嬰戕賊,可為咄嗟。多僻之時,止堪太息。

賛に曰く、喬松孤立し、蘿蔦夤縁す。柔附淩雲す、豈に能賢と曰わんや。嗚呼楚・孺、道喪いて曲全す。蕭・李相才、之を外篇に致す。

原文贊曰:喬松孤立,蘿蔦夤緣。柔附淩雲,豈曰能賢?嗚呼楚、孺,道喪曲全!蕭、李相才,致之外篇。