旧唐書
令狐楚
令狐楚、字は殼士、自ら言うには国初の十八学士徳棻の裔なり。祖父は崇亮、綿州昌明県令。父は承簡、太原府功曹。家世は儒素なり。楚は児童の時既に属文を学び、弱冠にして進士に応じ、貞元七年に登第す。桂管観察使王拱その才を愛し、礼を以て辟召せんと欲し、楚の従わざるを懼れ、乃ち先ず奏聞して後に聘を致す。楚は父が太原に掾たりしを以て、庭闈の恋有り、又拱の厚意に感じ、登第後径ち桂林に往きて拱に謝す。宴遊に預からず、帰りて奉養を乞い、即ち太原に還る。人皆之を義とす。李説・厳綬・鄭儋相継いで太原を鎮め、其の行義を高くし、皆辟して従事と為す。掌書記より節度判官に至り、殿中侍御史を歴任す。
楚は才思俊麗なり。徳宗文を好み、太原の奏至る毎に、能く楚の為す所を弁じ、頗る之を称す。鄭儋鎮に在りて暴卒し、後事を処分するに及ばず、軍中喧嘩し、将に急変有らんとす。中夜十数騎刃を把りて楚を迫り軍門に至らしめ、諸将之を環り、遺表を草せしむ。楚は白刃の中に在りて、管を搦めば即ち成り、三軍に読示す。感泣せざる無く、軍情乃ち安んず。是より声名益々重し。父憂に丁り、孝を以て聞こゆ。喪を免れ、徴されて右拾遺に拝し、太常博士・礼部員外郎に改む。母憂にて官を去る。服闋し、刑部員外郎を以て征せられ、職方員外郎・知制誥に転ず。
楚は皇甫鎛・蕭俛と同年に進士第に登る。元和九年、鎛初めに財賦を以て幸を得、俛・楚を薦めて俱に翰林に入り、学士を充て、職方郎中・中書舎人に遷り、皆内職に居る。時に淮西に用兵し、事を言う者は師久しく功無しとし、宜しく賊を宥め兵を罷むべしとす。唯裴度と憲宗は寇を殄さんことを志す。十二年夏、度自ら宰相兼彰義軍節度・淮西招撫宣慰処置使と為る。宰相李逢吉は度と協わず、楚と相善し。楚が度の淮西招撫使の制を草すに、度の旨に合わず、度は制内の三数句の語を改めんことを請う。憲宗方に度の用兵を責むるに、乃ち逢吉の相任を罷め、亦楚の内職を罷め、中書舎人を守らしむ。
元和十三年四月、出でて華州刺史と為る。其の年十月、皇甫鎛相を作す。其の月楚を以て河陽懐節度使と為す。十四年四月、裴度出でて太原を鎮む。七月、皇甫鎛楚を薦めて朝に入り、朝議郎より朝議大夫・中書侍郎・同平章事を授け、鎛と同く台衡に処り、深く顧待を承く。
十五年正月、憲宗崩ず。詔して楚を山陵使と為し、仍り哀冊文を撰す。時に天下皇甫鎛の奸邪を怒る。穆宗即位の四日、群臣素服し、月華門外に班し、詔を宣して鎛を貶し、将に之を殺さんとす。会に蕭俛相を作し、中官に托して救解し、方に崖州に貶す。物議は楚が鎛に因りて相と作りて裴度を逐えしを以てし、群情共に怒る。蕭俛の故を以て、敢えて言を措く者無し。
其の年六月、山陵畢り、会に楚の親吏贓汚の事発するを告ぐる有り、出でて宣歙観察使と為る。楚が山陵を充奉する時、親吏韋正牧・奉天令于翬・翰林陰陽官等、官銭を同く隠し、工徒の価銭を与えず、移して羨余十五万貫と為し上献す。怨訴路に盈ち、正牧等下獄して罪に伏し、皆誅さる。楚再び衡州刺史に貶さる。
時に元稹初めて幸を得、学士と為り、素より楚と鎛の膠固して寵を希うを悪む。稹楚の衡州の制を草し、略に曰く「楚早く文芸を以て、班資に践み得たり。憲宗才を念い、禁近に擢き居らしむ。異端斯れ害し、独見明らかならず、密かに討伐の謀を隳し、潜かに奸邪の党に附す。因縁地を得、進取多門、遂に台階を忝くし、実に賢路を妨ぐ。」楚深く稹を恨む。
長慶元年四月、量移して郢州刺史と為り、太子賓客に遷り、分司東都す。二年十一月、陜州大都督府長史・兼御史大夫・陜虢観察使を授く。制下ること旬日、諫官論奏し、言う楚の犯す所軽からず、未だ廉察の任に居るに合わずと。上之を知り、遽かに制を追わしむ。時に楚已に陜州に至り、事を視ること一日なり。復た賓客を授け、東都に帰る。時に李逢吉相を作し、極力楚を援け、李紳の禁密に在りて之を沮むを以て、能く柄を擅にせず。敬宗即位し、逢吉李紳を逐い、尋いで楚を用いて河南尹・兼御史大夫と為す。
其の年九月、検校礼部尚書・汴州刺史・宣武軍節度・汴宋亳観察等使を拝す。汴軍は素より驕り、累ね主帥を逐う。前後韓弘兄弟、率ね峻法を以て之を縄し、人皆偷生し、未だ志を革めず。楚は撫理に長じ、前に河陽を鎮め、烏重胤に代わりて滄州に移鎮す。河陽軍三千人を以て牙卒と為す。卒咸従わんことを願わず、中路に叛して帰り、又州に帰ることを敢えず、境上に聚まる。楚初めて赴任し、之を聞き、乃ち疾駆して懐州に赴く。潰卒亦至る。楚単騎にて之を諭し、咸に弓を橐め甲を解かしめ、前駆と為して用う。卒敢えて乱れず。汴州に蒞るに及び、其の酷法を解き、仁恵を以て治めと為し、其の甚だしきを去る。軍民咸悦び、翕然として化に従い、後竟に善地と為る。汴帥の前例、始めて至る率ね銭二百万を以て其の私蔵を実す。楚独り取らず、其の羨財を以て廨舎数百間を治む。
太和二年九月、徴されて戸部尚書と為る。三年三月、検校兵部尚書・東都留守・東畿汝都防禦使を拝す。其の年十一月、位を進めて検校右僕射・鄆州刺史・天平軍節度・鄆曹濮観察等使と為る。故東平県を天平県と為すことを奏す。歳旱儉に属し、人相食むに至る。楚は富を均し貧を贍し、而して流亡する者無し。六年二月、太原尹・北都留守・河東節度等使に改む。楚久しく并州に在り、其の風俗を練り、人の利する所に因りて之を利し、歳旱に属すと雖も、人転徙する者無し。楚始め書生より、計に随いて成名し、皆太原に在り、実に故裏の如し。是に及びて旄を垂れて鎮を作すに、邑老歓迎す。楚は綏撫方有り、軍民胥悦ぶ。七年六月、入りて吏部尚書と為り、仍り検校右僕射を拝す。故事、検校高官の者は、便ち其の班に従う。楚は正官三品は二品の列に従うべからずとし、本班に従わんことを請う。優詔之を嘉す。九年六月、転じて太常卿と為る。十月、尚書左僕射を守り、彭陽郡開国公に進封さる。十一月、李訓乱を兆し、京師大いに擾る。訓乱の夜、文宗右僕射鄭覃と楚を召して禁中に宿し、制勅を商量す。上皆用いて宰相と為さんと欲す。楚は王涯・賈餗の冤死を以て、其の罪状を叙するに浮泛なり。仇士良等悦ばず、故に輔弼の命李石に移る。乃ち本官を以て塩鉄転運等使を領す。
先ず是れ、鄭註上封して榷茶使の額を置き、塩鉄使兼ねて之を領す。楚奏して之を罷め、曰く
伏して考えるに、江・淮の地は数年この方、水害・旱魃・疫病が相次ぎ、疲弊損傷甚だしく、愁嘆未だ平らかならず。今夏より秋にかけて、やや豊作の兆しあり、まさに恵み恤みを施し、各々を安んじて存せしむべき時なり。先ごろ突如として茶の専売を奏上せしは、実に政を蝕むものなり。これは王涯が滅亡せんとするに当たり、怨嗟怒りを一身に集めし故なり、まさか百姓に茶樹を官場に移し植えさせ、茶葉を官場で摘み製造せしむるなど、児戯に同じく、人情に近からず。当時は恩権の勢い盛んなりしゆえ、誰か敢えて阻み議せんや。朝班は顔を見合わせて色を失い、道路では目を以て声を呑みしものなり。今、宗廟社稷の神霊降り、奸兇ことごとく誅戮され、聖明の御加護により、黎民安んずるを得たり。微臣は恩を蒙り、兼ねて使務を領す。官銜の内に、なおこの名を帯ぶる。俯仰して驚くが若く、夙夜懼れを知る。伏して願わくは、特に聖聴を回らし、愚誠を下し鑑みられ、速やかに宰臣に委ね、この使額を除かれたし。軍国の用が或いは欠け、山沢の利に遺すところあらば、臣に条疏を許し、続けて具に聞奏せしめよ。採造の期近づき、妨げ廃するを憂う。先月二十一日、内殿にて奏対の次、鄭覃と臣と共に論じ終えたり。伏して望むは、聖慈早く処分を賜い、一に旧法に依り、新条を用いざらんことを。ただ納榷の時、須らく等級を以て価を加え、商人転売すれば、必ずやや高価とならん。これ即ち銭は万国より出で、利は有司に帰す。既に茶商を害せず、また茶戸を擾わさず、上は以て陛下の人の愛する徳を彰わし、下は以て微臣の国を憂うる心を竭くさん。遠近伝聞すれば、必ずや感悦すべし。
これに従う。
先に、元和十年、内庫の弓箭・陌刀を出して左右街使に賜い、宰相の入朝に充てて翼衛と為し、建福門に至って止まらしむ。これに至り、訓・注の乱により、悉くこれを罷む。令狐楚また奏す:「諸道新たに授かる方鎮節度使等、帑抹を具え、器仗を帯び、尚書省兵部に就き参辞す。伏して考えるに、軍国は容を異にし、古今の定制なり。もし旧に由らざれば、これ常を改むるなり。未だ省閣の門に、忽ち弓刀の器を内するを聞かず。鄭注は外に恩寵を蒙り、内に兇狂を蓄え、首めて奸謀を創め、将に乱の兆を興さんとす。王璠・郭行余の輩をして、敢えて将吏を駆り、直ちに闕庭に詣らしむるに致る。乗輿を震驚せしめ、京国を騒動せしめ、血は朝路に濺ぎ、屍は禁街に僵う。史冊に書する所、人神共に憤る。既往は咎めずと雖も、その源尚開けり。前件の事宜、伏して速やかに停罷を令せられんことを乞う。もし須らく参謝せば、即ち公服を具すべし。」と。これに従う。また曲江亭修繕の絹一万三千七百匹を罷め、回して尚書省を修せしむるを奏請し、これに従う。
開成元年上巳、百僚に曲江亭の宴を賜う。令狐楚は新たに大臣を誅したるを以て、賞宴すべからずとし、独り疾を称して赴かず、論者これを美とす。権が内官に在るを以て、累ねて上疏して使務を解くを乞う。その年四月、検校左僕射・興元尹に任じ、山南西道節度使を充つ。二年十一月、鎮に卒す。年七十二。冊贈して司空と為し、謚して文と曰う。
令狐楚は風儀厳重、犯すべからざるが若し。然れども寛厚礼あり、門に雑賓無し。嘗て従事と宴語方酣なるに、非類の者偶々至るあり、直ちに命じて席を徹せしめ、毅然として色変す。累ね重任に居り、貞操初めの如し。未だ終わらざる前三日、猶お吟詠自若たり。疾甚だしく、諸子薬を進むるも、未だ嘗て口に入れず、曰く「修短の期は、分をもって定まれり。何ぞこの物を須いん」と。前一日、従事李商隱を召して曰く「吾が気魄已に殫き、情思俱に尽くせり。然れども懐う所未だ已まず、強いて自ら書きて天に聞こえんと欲す。辞語乖舛なるを恐る。子当に我を助けてこれを成すべし」と。即ち筆を秉り自ら書して曰く、
臣永く際会を思い、国恩深く受く。祖を以て父を以て、皆褒贈を蒙り、弟有り子有り、並びに班行に列す。腰領を全うして以て先人に従い、体魄を委ねて以て先帝に事う。これ自ら達せず、誠に甚だ愚かなり。但だ永く泉扃を去り、長く雲陛に辞し、更に屍諫を陳べ、猶お瞽言を進めんとす。号叫すと雖も能わずと雖も、豈に誠明の敢えて忘れんや。今陛下は春秋鼎盛、寰海鏡の如く清し。これ教化を修むるの初め、当に理平を復するの始めなり。然れども前年夏秋以来、貶譴せらるる者多く、誅戮せらるる者少なからず。普く鴻造を加え、稍々皇威を霽らさんことを望む。歿する者は雲雷を以て昭洗し、存する者は雨露を以て沾濡せしめ、五穀をして嘉熟せしめ、兆人をして安康ならしめよ。臣の将に尽きんとする苦言を納れ、臣の永く蟄する幽魄を慰めよ。
書き終え、その子緒・綯に謂いて曰く「吾が生くるや人に益無し。謚号を請うる勿れ。葬の日、鼓吹を請うる勿れ。ただ布車一乗を以てすべし。余は飾りを加うる勿れ。銘誌は但だ宗門を誌すべし。筆を秉る者は高位を択ばず」と。歿するの夕、大星寝室の上に隕ち、その光廷を燭す。令狐楚端坐して家人に告訣し、言い終えて而して終わる。嗣子遺旨を奉行す。詔して曰く「生くるは名臣、歿するに理命有り。終始の分、以て両全と謂うべし。鹵簿哀栄の末節は、往意に違い難し。誄謚国家の大典は、須らく彜章を守るべし。鹵簿は宜しく停むべく、易名は須らく旧例に準ずべし」と。後、綯貴く、累贈して太尉に至る。文集一百巻有り、時に行わる。撰する所の『憲宗哀冊文』は、辞情典郁、文士に重んぜらる。
令狐楚の弟定、字は履常。元和十一年進士及第、累ね使府に辟さる。太和九年、累遷して職方員外郎・弘文館直学士・検校右散騎常侍・桂州刺史・桂管都防禦観察等使に至る。卒し、贈りて礼部尚書と為す。
子 緒
緒は廕により官を授かり、歴任して随・寿・汝三郡の刺史と為る。汝州に在りし日、能政有り、郡人碑を立て徳を頌せんことを請う。緒は弟綯が輔弼に在るを以て、上言して曰く「臣が先父は元和中特に恩顧を承け、弟綯の官は人に因らず、宸衷より出づ。臣詔書を伏して拝すに、臣が汝州を刺せし日に、粗く政労を立て、吏民碑を立て頌せんことを求むと。尋いで追罷を乞う。臣が随州に任ぜし日、郡人留まらんことを乞い、上下考を得たり。及び河南少尹に転じ、金紫を加えらる。この名は已に日下に聞こゆ。必ずしも更に碑頌を立つるに及ばず。乞うらくは賜いて寝停せられんことを」と。宣宗その意を嘉し、これに従う。
子 綯
綯、字は子直。太和四年進士第に登り、弘文館校書郎に釈褐す。開成初め左拾遺と為る。二年、父喪に丁る。服闋し、本官を授かり、尋いで左補闕・史館修撰に改まり、累遷して庫部・戸部員外郎と為る。会昌五年、出でて湖州刺史と為る。大中二年、召されて考功郎中に拝し、尋いで制誥を知る。その年、召し入れられ翰林学士を充つ。三年、中書舎人に拝し、彭陽男を襲封し、食邑三百戸、尋いで御史中丞に拝す。四年、戸部侍郎に転じ、本司事を判ず。その年、兵部侍郎・同中書門下平章事に改まる。綯は旧事に尚書省官を帯ぶるを以て、合せて先ず省に上ずべし。上日の同列少府監に集まる。時に白敏中・崔亀従嘗て太常博士と為り、相位に至り、その旧署を栄えんと欲し、乃ち改めて太常礼院に集まり、亀従手筆を以てその事を壁に誌す。
綯輔政十年、累官して吏部尚書・右僕射・涼国公に至り、食邑二千戸。十三年、相を罷め、検校司空・同中書門下平章事・河中尹・河中晉絳等節度使と為る。
咸通二年、汴州刺史・宣武軍節度使に改まる。三年冬、遷りて揚州大都督府長史・淮南節度副大使・知節度事と為る。累加して開府儀同三司・検校司徒、食邑を進めて三千戸に至る。
九年、徐州の戍兵龐勛が桂州より勝手に帰還す。七月に浙西に至り、江に沿って白沙より濁河に入り、舟船を剽奪して進む。綯、勛の至れるを聞き、使を遣わして慰撫し、芻米を供給す。都押衙李湘、綯に白して曰く、「徐兵の勝手に帰るは、必ずや好意あらず。詔命を除討する無きといえども、権変の制は籓方に在り。昨その党来たりて投ずるに、その数二千を逾えずと言うも、虚に舟航の旗幟を張り、人に見せしむるにその実を恐る。境を渉る已来、心頗る憂惴す。その水路を計るに、須らく高郵県の界を出づべし、河岸斗峻にして水深く狭し。若し奇兵を出だしてこれを邀え、荻船をして前もって火を放たしめ、勁兵後より奮撃せば、敗走必ずなり。若しここに於いて誅鋤せずんば、淮・泗を済むを俟ち、徐人の怨みを負う徒と合すれば、十万を下らず、則ち禍乱小さからず」と。綯、性懦緩にして、又詔命を奉ぜざるを以てし、湘に謂いて曰く、「長淮已南、他の暴を為さず。従いて彼をして過ぎ去らしめよ、余は吾が事に非ず」と。
その年の冬、龐勛、崔彥曾を殺し、徐州に拠り、衆六七万を聚む。徐に兵食無く、乃ち賊帥を分遣して淮南諸郡を攻剽し、滁・和・楚・寿継いで陥る。穀食既に尽き、淮南の民多く賊に啖わる。時に両淮の郡県多く陥ち、唯だ杜慆泗州を守るのみ、賊之を攻むること年を経て、下す能わず。初め、詔して綯を徐州南面招討使と為す。賊泗州を攻むること急なり、綯李湘に将兵五千人をしてこれを援けしむ。賊湘の来援するを聞き、人を遣わして綯に書を致し、辞情遜順にして、言うに「朝廷累詔して赦宥す、但だ抗拒する者三両人のみ、旦夕図りてこれを去り、即ち身を束ねて命を請わん、願わくは相公保任せよ」と。綯即ち奏聞し、勛に節鉞を賜わんことを請い、仍て李湘を誡めて但だ淮口に戍らしめ、賊已に招降す、異を立つるを得ずと。ここに由りて湘の軍甲を解き安寝し、警を去り備を徹し、日と賊軍と相対し、歓笑交言す。一日、賊軍間に乗じ、歩騎径ちに湘の壘に入る、淮卒五千人皆生擒せられ徐州に送られ、賊の為に蒸して食らわる。湘と監軍郭厚本と龐勛のために手足を断たれ、以て康承訓の軍に徇す。時に浙西杜審権軍千人を発し、李湘と会して兵を約す、大将翟行約勇敢名有り。浙軍未だ至らずして湘軍敗る。賊乃ち兵を分かち、淮南の旗幟を立て、交闘の状を為す。行約の軍望見し、急ぎ之に趨る、千人並びに賊の為に縛せられ、徐州に送らる。
綯既に師を喪う、朝廷左衛大將軍・徐州西南面招討使馬挙を以て綯に代わり淮南節度使と為す。十二年八月、検校司徒・太子太保を授け、分司東都す。十三年、本官を以て鳳翔尹・鳳翔隴節度使と為り、趙国公に進封せられ、食邑三千戸、卒す。子滈・渙・沨。
綯の子 滈
滈、少く進士に挙げらる、父の内職に在るを以てして止む。及て綯政を輔くること十年、滈鄭顥の親を以てし、驕縦法に従わず、日に事とす遊宴を、貨賄門に盈つ、中外之が為に側目す。綯の党援方に盛んなるを以てし、敢えて言を措く者無し。及て懿宗即位す、訟する者一ならず、故に綯権軸を罷む。河中に至るや既に、上言して曰く、「臣が男滈、爰に孩提より便ち師訓に従い、詞芸に至っては、頗る輩流に及ぶ。会昌二年、臣戸部員外郎に任ずる時、已に応挙せしむ、大中二年に至るも猶未だ成名せず。臣湖州刺史より先帝に蒙り考功郎中・知制誥を擢授せられ、尋いで学士を充つ。継いで渥沢を叨り、遂に枢衡を忝くす、事体妨げ有り、因りて挙を罷めしむ、自ら当に廃絶す、一十九年。毎に退蔵を遣わし、更に勤励を令す。臣禄位分を逾ゆるを以てし、歯発已に衰う。男滈年長成を過ぎ、未だ一第に沾わず、犬馬の私愛、実に憫傷に切なり。臣二三年以来、頻りに罷免を乞う、毎年文解を得、意は中書を離るるや才に、便ち赴挙せしめんと待つ。昨恩制を蒙り、近籓を以て寵す。伏して縁るに已に礼部試期に逼るを以てし、便ち就試せしむ。与奪に至っては、主司より出づ、臣固より敢えて其の衡柄を撓がさず。臣初め機務を離る、合わず具に上聞すべし。昨延英に奉辞し、本擬面奏せんとす、伏して恋恩方に切なるを以てし、誠を陳うること至難なり。伏して冀わくは宸慈、臣が丹懇を察せよ」と。詔して就試せしむ。
是の歳、中書舎人裴坦権に貢挙を知る、登第する者三十人。鄭羲なる者有り、故戸部尚書浣の孫、裴弘余、故相休の子、魏綯故相扶の子、及び滈、皆名臣の子第、言うに実才無し。諫議大夫崔瑄上疏して之を論じて曰く、「令狐滈昨父の相位に居るを以てし、権一門に在り。求請する者は詭党風の如く趨り、妄動する者は群邪雲の如く集まる。毎歳貢闈登第し、朝の清列官を除く、事望は綯より出づと雖も、取舍全く滈に由る。喧然として市の如く、旁ら人無きが若し、権は寰中を動かし、勢は天下に傾く。及て綯相を罷め鎮を作すの日、便ち滈に巻を納めしめて貢闈せしむ。豈に父の枢衡に在るを以てし、独り文柄を撓がすべけんや。請う御史台に下し文解の日月を按問せしめよ」と。奏疏下らず。
滈既に第に及び、褐を釈けて長安尉・集賢校理と為る。咸通二年、右拾遺・史館修撰に遷る。制出づ、左拾遺劉蛻・起居郎張雲、各上疏して極めて滈を論じて云く、「父の権を秉るを恃み、恣に貨賂を受く。李琢の銭を取り、琢を除いて安南都護と為し、遂に蛮をして交州を陥れしむ」と。張雲言う、「大中十年、襜諫議大夫豆盧籍・刑部郎中李鄴を以て夔王已下の侍読と為し、夔王を立てて東宮と為さんと欲し、先朝子弟の序を乱んと欲す。滈内に鄭顥に倚り、人誰か敢えて言わん」と。時に襜淮南に在り、累表自ら雪ぐ。懿宗大臣の意を重ねて傷つけ、雲を貶して興元少尹と為し、蛻を華陰令と為し、滈を改めて詹事府司直と為す。滈衆の非とする所と為り、宦名達せず。
渙・沨倶に進士第に登る。渙位は中書舎人に至る。定の子緘、緘の子澄・湘。澄も亦進士に登第し、累ね使府を辟す。
牛僧孺
牛僧孺、字は思黯、隋の僕射奇章公弘の後。祖紹。父幼簡、官卑し。僧孺進士擢第し、賢良方正制科に登り、褐を釈けて伊闕尉と為り、監察御史に遷り、殿中に転じ、礼部員外郎を歴る。元和中、都官に改め、台雑を知り、尋いで考功員外郎に換え、集賢直学士を充つ。
穆宗即位す、庫部郎中を以て制誥を知る。その年の十一月、御史中丞に改む。州府の刑獄淹滞し、人多く冤抑するを以てし、僧孺条疏して奏請し、按劾相継ぎ、中外粛然たり。
長慶元年、宿州刺史李直臣贓に坐して当に死す、直臣中貴人に賂して之が為に申理せしむ、僧孺堅執して回らざりき。穆宗面に之に諭して曰く、「直臣の事は僭失と雖も、然れども此人経度の才あり、辺任にこれを委ぬべし、朕その法を貸さんと欲す」と。僧孺対えて曰く、「凡そ人の不才は、祿を取り容れらるるに止まるのみ。帝王法を立つるは、奸雄を束縛するは、正に才多き者の為なり。禄山・硃泚才を以て人に過ぎ、天下を濁乱す、況んや直臣の小才、又何ぞ法を屈せんや」と。上その守法を嘉し、面に金紫を賜う。二年正月、戸部侍郎を拝す。三年三月、本官を以て同平章事と為る。
初め、韓弘が朝廷に入ると、宣武の旧事により、人々多く流言を為し、その子公武は家財を以て権幸及び多言の者に厚く賂し、班列の中、悉くその遺を受く。俄にして父子俱に卒し、孤孫幼小、穆宗は廝養の窃盗を恐れ、乃ち中使をその家に至らしめ、その宅簿を閲し、以て家老に付す。而して簿上に具に納賂の所を有す、唯だ僧孺の官側に於いて硃書して曰く「某月日、牛侍郎に物若干を送る、受けず、却って付し訖る」と。穆宗簿を按じて甚だ悦ぶ。居ること無き何、相を命ずるを議し、帝首めて僧孺の名を可とす。
敬宗即位し、中書侍郎・銀青光禄大夫を加え、奇章子を封じ、邑五百戸。十二月、金紫の階を加え、郡公に進封し、集賢殿大学士・監修国史と為す。
宝暦中、朝廷の政事は邪幸より出で、大臣朋比す。僧孺は群小に耐えず、章を拝して罷めを求むること数四。帝曰く「予が郊礼畢るを俟ちて卿を放たん」と。穆宗の廟に祔し郊報後に及び、又た章を拝して退を陳べ、乃ち鄂州に武昌軍の額を置き、僧孺を以て検校礼部尚書・同中書門下平章事・鄂州刺史・武昌軍節度・鄂嶽蘄黄観察等使と為す。江夏城は風土散悪、垣墉を立つる難く、毎年板築を加え、青茆を賦して以て之を覆う。吏縁りて奸を為し、蠹弊綿歳。僧孺至り、茆苫板築の費を計るに、歳十余万、即ち之を{{PUA|〓}}専に賦し、以て苫築の価に当つ。凡そ五年、墉皆甃葺し、蠹弊永く除く。属郡の沔州は鄂と江を隔てて相対し、虚しく吏員を張る、乃ち奏して之を廃し、その管する漢陽・汶川の両県を鄂州に隷す。文宗即位し、就いて検校吏部尚書を加え、凡そ江夏を鎮すること五年。
太和三年、李宗閔輔政し、屢び僧孺を薦めて才有りとし、外に居るべからずとす。四年正月、召し還し、兵部尚書・同平章事を守る。
五年正月、幽州軍乱し、その帥李載義を逐う。文宗は載義が国に忠を輸するを以て、遽かに帥を失うを聞き、駭然たり、急に宰臣を召して之に謂いて曰く「范陽の変奈何」と。僧孺対えて曰く「此れ聖慮を煩わすに足らず。且つ范陽の得失は、国家の休戚に係わらず、安・史已来、翻覆此の如し。前時劉総は土地を以て国に帰し、朝廷は百万を耗費し、終に范陽の尺帛斗粟を天府に入るるを得ず、尋いで復た梗と為る。今に至るまで誌誠も、亦た前の載義に由るなり、但だ因りて之を撫し、奚・契丹を扞ぎて寇に入るるを令さず、朝廷の頼む所なり。節旄を仮すれば、必ず自ら力を陳べ、以て逆順を治むるに足らず」と。帝曰く「吾初め詳らかならず、卿の言是なりと思う」と。即日に中使をして宣慰せしむ。尋いで門下侍郎・弘文館大学士を加う。
六年、吐蕃使いの論董勃義を遣わし入朝して好を修む。俄にして西川節度李徳裕奏す、吐蕃の維州守将悉怛謀城を以て降ると。徳裕又た利害を上りて云く「若し生羌三千を以て、戎の不意に出で、十三橋を焼き、戎の腹心を搗けば、以て志を得べし」と。上その事に惑い、尚書省に下して議せしむ。衆状徳裕の策の如くせんことを請う。僧孺奏して曰く「此の議は非なり。吐蕃の疆土、四面万里、一つの維州を失うも、その勢を損なわず。況んや論董勃義纔に還り、劉元鼎未だ到らず、比来好を修め、戍兵を罷むるを約す。中国の戎を禦ぐるは、信を守るを上と為し、敵に応ずるは之に次ぐ。今一朝信を失わば、戎醜以て詞と為すを得ん。聞くに贊普茹川に牧馬し、秦・隴に俯すと。若し東に隴阪を襲い、径ちに回中に走らば、三日を経ずして咸陽橋に抵り、兵を発して枝梧するも、京国を駭動せん。事或いは此に及び、百の維州を得ると雖も、亦た何の補いかあらん」と。上曰く「然り」と。遂に詔して西川に維州の降将を内れしめず。僧孺素より徳裕と仇怨有り、辺を議するは公体と雖も、徳裕に怙る者は僧孺その功を害すと以て、謗論沸然たり、帝亦た直からずと以為す。その年十二月、検校左僕射・兼平章事・揚州大都督府長史・淮南節度副大使・節度事を知る。
時に中尉王守澄用事し、多く纖人を納れ、窃かに時政を議し、禁中の事密にして、その説を知る者莫し。一日、延英にて宰相に対し、文宗曰く「天下何に由りて太平なるや、卿等此に意有るか」と。僧孺奏して曰く「臣等輔弼に待罪し、康済する能わず、然れども臣思うに太平も亦た象無し。今四夷交侵に至らず、百姓流散に至らず、上に淫虐無く、下に怨讟無く、私室に強家無く、公議に壅滞無し。未だ至理に及ばずと雖も、亦た小康と謂うべし。陛下若し別に太平を求めば、臣等の及ぶ所に非ず」と。既に退きて中書に至り、同列に謂いて曰く「吾輩宰相と為り、天子責成此の如し、安んぞ久しく此の地に処らんや」と。旬日の間、三たび章を上りて退を請い、許されず。
会に徳裕の党盛んにして、将に入朝せんと垂る。僧孺故に請いを得。上既に左右の邪説を受け、太平に急き、奸人その鋭意を伺い、故に訓・註見用せらる。数年之間、幾くにか宗社を危うくす。而して僧孺は道を以て進退し、議する者之を称す。
開成初め、搢紳の道喪え、閽寺権を弄ぶ。僧孺重籓に処するを嫌い、散地に帰らんことを求め、累ねて章を拝して允されず、凡そ淮甸に在ること六年。
開成二年五月、検校司空を加え、食邑二千戸、東都尚書省事を判じ、東都留守・東畿汝都防禦使と為す。
僧孺は識量弘遠、事外に心居り、細故を以て介懷せず。洛都に帰仁里に第を築く。淮南に任ずる時、嘉木怪石を階廷に置き、館宇清華、竹木幽邃。常に詩人の白居易と其の間で吟詠し、復た進取の懷無し。
三年九月、征し拝して左僕射と為し、仍って左軍副使王元直に告身を賫し宣賜せしむ。旧例、留守入朝するに、中使詔を賜うの例無し。僧孺の退讓を恐れ、促して闕に赴かしむ。僧孺已むを得ず入朝す。属に莊恪太子初めて薨ず。延英に中謝の日、太子に語及び、乃ち懇ろに父子君臣の義、人倫の大経を陳べ、国本を軽く移すべからずとす。上之が為に流涕す。是の時宰輔は皆僧孺の僚旧、未だ嘗てその門を造らず。上頻りに宣召すれども、足疾を托す。久しくして、上楊嗣復に謂いて曰く「僧孺疾を称し、趨朝に任せず、未だ即ち自便を令すべからず」と。四年八月、復た検校司空・兼平章事・襄州刺史・山南東道節度使と為し、食邑を三千戸に加う。辞する日、觚・散・樽・杓等の金銀古器を賜い、中使をして之を喻らしめて曰く「卿を以て正人と為し、此の古器を賜う。卿且く少しく留れ」と。僧孺奏して曰く「漢南水旱の後、流民理を待つ、淹留すべからず」と。再三行を請い、方に允さる。
武宗即位し、就いて検校司徒を加う。会昌二年、李徳裕用事し、僧孺の兵権を罷め、征して太子少保と為し、累ねて太子少師を加う。大中初め卒す。太子太師を贈り、謚して文貞と曰う。
僧孺は若い時に李宗閔と同門の生であり、特に徳裕に憎まれた。会昌年中、宗閔は排斥され、生還することはなかった。僧孺はたびたび徳裕に付け狙われ、罪を加えようとしたが、ただ僧孺が貞直方正で素養があり、人望が模範と仰がれていたので、その隙を窺うことができなかった。徳裕が南方に遷された時、著した『窮愁志』において、里俗の犢子の讖を引き合いに出して僧孺を排斥した。また「太牢公」と目し、その憎み恨む様はこのようであった。僧孺には二人の子がいた。蔚と{{PUA|〓}}である。
蔚は、字を大章といい、十五歳で両経挙に応じた。太和九年、再び進士第に登った。三府が辟召して従事とし、朝廷に入って監察御史となった。大中初年、右補闕となり、たびたび章疏を上奏し、時弊を指摘した。宣宗はこれを賞賛し、「牛氏の子は父の風範があり、やや人心を慰める」と言った。まもなく司門員外郎に改められ、出向して金州刺史となり、入朝して礼部郎中・吏部郎中を拝命した。祀事が礼に準じ、天官の司の所掌する班列に、権勢を恃んで職を越える者がいたので、蔚が上奏してこれを正したため、時の権力者に忌まれ、左遷されて国子博士となり、東都に分司した。一ヶ月余りして、権臣が罷免され、再び召されて吏部郎中となり、史館修撰を兼ね、左諫議大夫に遷った。咸通年中、給事中となり、延英殿で謝恩の日に、面賜で金紫を賜った。蔚は封駁を憚らず、帝はこれを嘉した。一年余りして、戸部侍郎に遷り、奇章侯の封を襲い、公事により免官された。その年のうちに元の官に復し、工部尚書・礼部尚書・刑部尚書を歴任した。咸通末年、検校兵部尚書・興元尹・山南西道節度使となった。鎮守すること三年。時に宦官が権力を握り、賄賂を急いでいた。徐州で兵を用いることに属し、両中尉が諸藩に貢奉して軍を助けるようほのめかしたので、蔚は軍府にある三万端匹をことごとく求め、表に随って進納した。宦官は怒り、すぐに神策軍の将である呉行魯を代わりに派遣して召還させた。黄巢が宮闕を犯すに及んで、自ら京師から逃れ、山南に避難し、上表して老齢を請い、尚書左僕射をもって致仕した。卒し、累贈して太尉となった。子に循・徽がいる。
徽は、咸通八年に進士第に登り、三度諸侯の幕府に佐け、殿中侍御史を得て、緋魚袋を賜った。朝廷に入って右補闕となり、再び吏部員外郎に遷った。乾符年中、選曹は猥雑濫觴し、吏が奸弊を行い、毎年選人は四千余名に及んだ。徽の性質は貞剛であり、特に上奏して請うた。これによって銓叙はやや正され、能・否が旌別され、世論はこれを称えた。
黄巢の賊が京師を犯した時、父の蔚はちょうど病んでおり、徽はその子と共に自ら籃輿を支え、山南に逃げ込んだ。閣道は険しく狭く、盗賊が縦横に跋扈し、谷中で盗賊に遇い、徽を撃って頭を破り、流血が体を覆ったが、輿を捉えてやめなかった。盗賊は彼を苦しめて迫ったが、徽は拝礼して言った。「父は年高く病が甚だしく、驚かせ動揺させたくない。人皆父あり、幸いに憐れみを垂れ給え。」盗賊はこれに感じて止めた。前の谷に至ると、また先の盗賊に逢い、互いに告げ語って言った。「これは孝子である。」即ち共に輿を挙げ、その家に招き、帛で創傷を封じ、粥をすすり飲ませて蔚に奉った。二晩留め、梁州に到達した。旧吏は恩を感じ、争って駆けつけて見舞った。時に僖宗は既に成都に行幸しており、徽は行朝に至って上表し、帰って侍疾することを乞うた。既に諫議大夫に除されていたが拝命せず、宰相の杜譲能に言った。「願わくは兄の循を朝廷に留め、以て門戸に当たらせ、医薬に侍ることを乞う。」時に循は給事中であり、丞相はこれを許した。
その年、父母の喪に遭い、梁・漢で喪に服した。喪が除かれた後、中書舎人として召されたが、赴任せず、病が発した。舎人は綸制の地であり、官を空けることはできないとして、散秩を授かることを請い、給事中に改められた。車駕に従って京に還る途中、陳倉に至り、病が甚だしく、一年を経てやや良くなった。
宰相の張浚が招討使となり、徽を判官、検校左散騎常侍に奏請した。詔が鳳翔に下り、促して闕に赴くことを命じた。徽は親しい者に言った。「国運はまさに艱難であり、皇居は初めて復したばかりで、国庫は皆空虚であり、正に群臣が協力し、王室に同心するに頼っている。しかるに破敗の余りに、雄覇の挙を図り、諸侯を離心させれば、必ず後悔を残すであろう。我が衰疾の年、どうしてこれが難を払うことができようか。」病を理由にして起たなかった。翌年、浚は敗れ、徽は給事中に召された。
楊復恭が叛いて山南に帰ると、李茂貞が上表し、自ら兵糧を出して問罪することを請うたが、ただ臣に詔討使を授けるだけでよいと奏した。奏は返答を待たず、茂貞と王行瑜の軍は既に疆を出ていた。上はその専断を怒り、すぐには許可せず、茂貞は強さを恃み、章疏を止めなかった。昭宗は延英殿で諫官・宰相を召して可否を議した。邠・鳳には皆宦官の内応があるので、極言することができず、互いに顧みて辞退し、上の心情は快く思わなかった。徽が上奏して言った。「両朝多難、茂貞は実に翼衛の功があり、諸楊の兵を阻むことを憎み、その意は悪を嫉むにある。軽率であった点は、命を待たずに出師したことである。近く聞くところでは、両鎮の兵が境界に入り、多く殺傷があり、陛下が処分しなければ、梁・漢の民は尽きてしまいます。須らく使名を授け、明らかに約束を行えば、軍中争って法を畏れないことはありません。」帝は言った。「この言は極めて是である。」乃ち招討の命をこれに授けた。茂貞が賊を平定すると、自ら恃んで次第に驕り、多く国政を撓乱し、命じて杜譲能に兵を整え討伐させた。徽は諫めて言った。「岐は国の門戸であり、茂貞は倔強で、禍患を顧みません。万一躓けば、国威を挫きます、漸く以てこれを制するに如かず。」師が出ると、再び徽を召してこれに言った。「卿は時事を斟酌でき、岐軍は烏合の衆、朕は必ず平定されると見込むが、卿は捷は何日にあると思うか。」徽は対えて言った。「臣は侍従諫諍の列に忝くし、言うところの軍国は、理に拠って陳聞します。賊を破る期日については、陛下が蓍亀を考へ、将帥に責むるに在り、臣の職ではありません。」而して王師は果たして敗れ、大臣は害された。
徽はまもなく中書舎人に改められた。その年のうちに、刑部侍郎に遷り、奇章男に封ぜられた。崔胤が汴州と連結し、徽が事を言うことを憎み、散騎常侍に改めた。拝命せず、太子賓客に換えられた。天復初年、賊臣が権力を握り、朝政に綱紀なく、上表して罷免を請うた。詔して刑部尚書をもって致仕させ、乃ち樊川の別墅に帰った。病没し、吏部尚書を贈られた。
蕭俛
蕭俛は、字を思謙という。曾祖父は太師徐国公の嵩で、開元中の宰相である。祖父は華で、徐国公を襲い、粛宗朝の宰相である。父は恒で、吏部尚書を贈られた。皆それぞれ伝がある。俛は、貞元七年に進士に擢第した。元和初年、再び賢良方正制科に登り、右拾遺を拝し、右補闕に遷った。元和六年、召されて翰林学士を充たした。七年、司封員外郎に転じた。九年、駕部郎中・知制誥に改め、内職は元の通りであった。張仲方と親しくしていたことで連座し、仲方が李吉甫の諡議を駁し、兵を用い徴発することの弊は吉甫より生じたと述べた。憲宗は怒り、仲方を貶した。俛も学士を罷め、左遷されて太僕少卿となった。
十三年、皇甫镈が権力を握り、憲宗に言上して、俛を御史中丞に拝した。俛は镈及び令狐楚と、同年に進士第に登った。翌年、镈は楚を援けて宰相とし、二人は双々で俛を上に推薦した。ここより、顧眄日増しに隆盛となり、階を進めて朝議郎・飛騎尉となり、徐国公を襲い、緋魚袋を賜った。穆宗が即位した月、宰相を命ずることを議し、令狐楚がこれを援け、中書侍郎・平章事を拝し、仍として金紫の服を賜った。八月、門下侍郎に転じた。
十月、吐蕃が涇原を寇し、中使に命じて禁軍を以てこれを援けしむ。穆宗、宰臣に謂いて曰く、「用兵に必勝の法有りや」と。俛対えて曰く、「兵は兇器なり、戦は危事なり、聖主やむを得ずして之を用う。仁を以て不仁を討ち、義を以て不義を討ち、先ず招懐を務め、掩襲を為さず。古の兵を用うるや、祀を斬らず、厲を殺さず、二毛を擒えず、田稼を犯さず。人を安んじ暴を禁ずるは、師の上なり。水火に甚だしきを救うが如し。故に王者の師は、征有りて戦無し、これ必勝の道なり。もし或いは小忿を縦肆し、軽く干戈を動かし、敵人の怨結をして、師出でて名無からしむれば、惟に勝たざるのみならず、乃ち自ら危うきの道なり。固より宜しく深く慎むべし」と。帝然りとす。
時に令狐楚西川節度使に左遷せられ、王播広く貨幣を以て中人権幸に賂り、宰相たるを求む。而して宰相段文昌復た之を左右す。俛性悪を嫉み、延英にて面して播の纖邪納賄、中外に喧しきを言い、以て臺司を汚すべからずとす。事已に成らんと垂れ、帝之を省みず、俛三たび章を上りて相任を罷むるを求む。長慶元年正月、左僕射を守り、徐国公に進封せられ、政事を知るを罷む。俛相位に居り、孜々として正道を重んじ、名器を慎む。毎に一官を除くに、常に乖当を慮う、故に簡抜すること鮮くして克深に渉る、然れども志奸邪を嫉み、重位を脱屣す、時の論之を称す。
穆宗章武恢復の余に乗じ、即位の始め、両河廓定し、四鄙虞無し。而して俛と段文昌屢たび太平の策を献じ、以て兵は以て乱を静む、時已に治まりたるを以為い、武を黷すべからず、穆宗に兵を休め武を偃ぐるを勧む。又兵は頓に去るべからずとし、天下の軍鎮兵有る処に密語し、毎年百人のうち、八人の逃死を限る、之を「消兵」と謂う。帝既に荒縦にして、深く料る能わず、遂に天下に詔し、其の策の如くに行わしむ。而して籓籍の卒、合して盗と為り、山林に伏す。明年、硃克融・王廷湊復た河朔を乱し、一呼して遺卒皆至る。朝廷方に諸籓に兵を征す、籍既に充たず、尋いで招募を行う。烏合の徒、動もすれば賊に敗る、ここに由りて復た河朔を失う、蓋し「消兵」の失なり。
俛性介独にして、法を守り正を守る。己が輔政日浅く、超擢太だ驟なるを以て、三たび章を上りて僕射を懇辞し、拝せず。詔して曰く、「蕭俛は勤を以て国に事え、疾を以て身を退く、本末初終、其の道を失わず、枢務を罷むる既に、端揆に居らしむ。朕恩を加え超等せんと欲し、吾が前言を復たす。而して継いて譲章有り、三四に至り、敦諭頗る切に、陳乞弥堅なり。爾が謙光を成し、之を選部に移す、吏部尚書とすべし」と。俛又選曹の簿書煩雑なるを以て、摂生の道に非ずとし、散秩に換うるを乞う。其の年十月、兵部尚書に改む。二年、疾を以て表して分司を求め、許さず。三月、太子少保に改め、尋いで同州刺史を授く。宝暦二年、復た少保を以て東都に分司す。
文宗即位し、検校左僕射・守太子少師を授く。俛疾篤きを称し、闕に赴くに任せず、授くる所の官を罷むるを乞う。詔して曰く、「新たに除する太子少師蕭俛は、代炳台耀し、躬茂天爵す。文は以て邦俗を経緯し、行は以て神祇を感動す。夷淡粹和、精深敏直、進退道に由り、周旋令名す。近く師傅の崇を以て、旧徳に疇し、優逸に従わしめ、養頤を保たんことを冀う。而して疏を抗し懇辞し、勇退知止す、嘗また敦諭すれども、確乎として抜く難し。遂に茲の牢譲、以て時風を厚くす、銀青光禄大夫・守尚書左僕射致仕とすべし」と。
俛趣尚簡潔にして、声利を以て自ら汚さず。相位に在る時、穆宗詔して『故成徳軍節度使王士真神道碑』を撰せしむ。対えて曰く、「臣器褊狭、此れ強うること能わず。王承宗先朝命を阻み、事観るべき無し、臣が筆を秉る如くは、美を溢すこと能わず。或いは撰進の後、例として貺遺を行わん。臣若し公然阻絶せば、則ち陛下の撫納の宜に違う。僶俛之を受けば、則ち微臣平生の志に非ず。臣之が為に筆を秉るを願わず」と。帝嘉して之を免ず。
俛家行尤も孝なり。母韋氏、賢明礼有り、家を理むること甚だ厳し。俛宰相と為ると雖も、母の左右に侍すこと、褐衣の時に異ならず。母喪に丁り、毀瘠制を踰ゆ。喪を免れ、文宗征詔す、懇に疾を以て辞す。既に家に致仕し、洛都の官属賓友、歳時の請謁の煩を避けんとし、乃ち済源別墅に帰り、山野に逍遙し、嘯詠窮年す。
八年、庄恪太子東宮に在るを以て、上耆徳を以て輔導せんと欲し、復た少師を以て之を征す。俛弟傑に令して表を京師に奉らしめ、復た制書を納れ、痼疾を堅辞す。詔して曰く、「年を待たずして謝を求むるは、理身の道に於いては則ち至れり、其れ朝廷の望を如何。朕元良を肇建し、精く師傅を求む。漢朝の故事を遐想し、玄成・石慶、当時の重徳、咸く此の官を歴る。吾元子幼沖を以て、師訓に切ならんとし、汝を以て古今を発明せしめ、忠孝の規を冀い、日に耳に聞かんと欲す。特に左右を遣わし、林園に至らしむ。而して卿高蹈翛然、趨進を屏絶し、復た令弟を遣わして詔書を還召す。天爵自ら優れ、冥鴻方に遠し、転ぜざるの志、其れ山の若く堅し。来章を循省し、致煩愧を為す。終に呂尚の秩を以て、其の疏曠の心を遂ぐ。俗を励まし貪を激す、補う所多し。政に益有らば、声を寄せて以て聞かしめ、亦旧臣に望有り。太子太傅致仕とすべし」と。
開成二年、俛弟俶楚州刺史を授かる。辞する日、文宗俶に謂いて曰く、「蕭俛先朝の名相、筋力未だ衰えず、一たび来たりて京国すべし。朕蕭俛に詔書匹帛を賜う、卿便ち賫りて済源に至り、吾が此の意を道え」と。詔して曰く、「卿道は時髦に冠たり、業は儒行に高し。著作は礪き済川の効を弘め、君を致し国を匡うるの規を致し、芳を巌廊に留め、老を林壑に逸す。累ね褒詔を降し、亟に崇秩を加うれども、志は奪う可からず、情は辞に乎りて見ゆ。鴻飛びて冥に入り、吟想嘆を増す。今に絹三百匹を賜う、便ち蕭俶に宣示せしむ」と。俛竟に起たず、卒す。
傑、字は豪士。元和十二年進士第に登る。累官して侍御史、遷りて主客員外郎。太和九年十月、鄭注鳳翔節度使と為り、慎んで参佐を選ぶ。李訓傑を以て検校工部郎中とし、鳳翔隴観察判官を充てしむ。其の年十一月、鄭注誅せられ、傑鳳翔監軍使の害する所と為る。
俶蔭を以て官を授かる。太和中、累遷して河南少尹に至る。九年五月、諫議大夫を拝す。開成二年、出でて楚州刺史と為る。四年三月、越州刺史・御史中丞・浙東都団練観察使に遷る。会昌中、入りて左散騎常侍と為り、遷りて検校刑部尚書・華州刺史・潼関防禦等使。大中初、華州に在る時獄を断むる不法に坐し、太子賓客分司を授かる。四年、検校戸部尚書・兗州刺史・兗沂海節度使。復た入りて太子賓客と為る。大中十二年、太子少保を以て東都に分司し、卒す。俛の従父弟に仿有り。
倣、父は悟、恆の弟なり。悟、仕えて大理司直に至る。倣、太和元年進士第に登る。大中朝、諫議大夫・給事中を歴る。咸通初、左散騎常侍に遷る。
懿宗は朝政を怠り、仏を奉ずることに偏り、宮中に道場を設け、僧を集めて念誦させた。またしばしば諸寺に幸し、施与は度を過ぎた。倣は上疏してこれを論じて言うには、
臣は聞く、玄祖の道は、慈儉を以て先とし、素王の風は、仁義を以て首とすと。百代を相沿い、千年に則を作り、至聖至明、易うべからざるなり。仏とや、天竺に生まれ、彼の王宮を去り、愛中の至難を割き、滅後の殊勝を取る。名は象外に帰し、理は塵中に絶つ。帝王の能く慕うべきに非ざるなり。昔、貞観中、高宗東宮に在りし時、長孫皇后の疾篤きを以て、嘗て上言して曰く、「僧を度せんと欲し、以て福事に資せん」と。后曰く、「善を為すに徴有り、吾は未だ悪を為さず。善或いは報い無くんば、福を求むるは宜しからず。且つ仏は、異方の教なり。存して論ぜざるべし。豈に一女子を以てして王道を紊さんや」と。故に文徳と謚す。且つ母后の論、尚お能く斯くの如し。哲王の謨、安んぞ是に反せんや。伏して陛下の天竺に留神し、桑門に属意し、内に道場を設け、中に講会を開き、或いは手ずから梵策を録し、或いは口に仏音を揚ぐるを睹る。時に延英を啓くといえども、四輔に従容し、政を聴くに稍稀なるを慮り、万機を廃失す。安に居りて危を思う、忽にすべからざるなり。夫れ従容なる者は、君なり。必ず臣に疇咨し、忠を尽くして匡救し、外には其の耳に逆らい、内には其の心を沃す。臯陶の謨を陳べ、仲虺の誥を述ぶ。王道を発揮し、帝図を恢益す。賜対の間に非ずして、徒らに坐に侍るのみなるに非ざるなり。夫れ廃失なる者は、上は其の諫を拒ぎ、下は其の旨を希う。言えば則ち狎玩し、意は順従に在り。漢は神仙を重んじ、東方朔は『十洲』の記を著し、梁は佛法を崇め、劉孝儀は『七覚』の詩を詠ず。祠禱を致して休むこと無く、講誦して已むこと無く、以て大空海内に至り、中輟す江東。此を以て之を言えば、是れ廃失なり。然れども仏は、当に悟りを以て取るべく、相を以て求むべからず。漢・晋已来、互いに宝刹を興し、姚・石の際、亦た高僧有り。或いは苦空を以て問い、其の不滅を究め、性有るを聞くに止まり、多くは言を忘るると曰う。貪縁に執着するは、其の旨に非ざるなり。必ず陛下に乞う、民瘼を力求し、宗祧を虔奉せんことを。繆賞と濫刑を思えば、其の殃立ち至らん。勝残して殺を去るを俟てば、福を得ること甚だ多し。幸いに講筵を罷め、頻りに政事に親しまんことを。昔年、韓愈已に憲宗に罪を得、今日、微臣固より遐僥に甘心す。
疏が奏上されると、帝は甚だ之を嘉した。
四年、本官のまま権知貢挙となり、礼部侍郎に遷り、戸部に転ず。検校工部尚書を以て、滑州刺史として出向し、義成軍節度使・鄭滑潁観察処置等使を充てた。鎮に在ること四年、滑は黄河に臨み、頻年に水潦有り、河流泛溢し、西北の堤を壊す。倣は奏して河を四里移し、両月にして功を畢え、図を画いて以て進む。懿宗之を嘉し、就いて刑部尚書を加え、兵部尚書・判度支として入朝し、吏部尚書に転じ、選序平允なり。咸通末、再び兵部尚書・判度支となる。尋いで本官のまま同平章事となり、累遷して中書・門下二侍郎、兼戸部・兵部尚書となる。左右僕射に遷り、司空・弘文館大学士・蘭陵郡開国侯に改む。
俄にして盗賊河南に起こり、内官兵を握り、王室濁乱す。倣は気勁く論直にして、同列之を忌む。政事を知るを罷め、広州刺史・嶺南節度使として出される。
倣の性は公廉なり。南海は富み珍奇と雖も、月俸の外は、其の門に入らず。家人疾病し、医工薬を治すに、烏梅を須う。左右公厨に於いて之を取る。倣知りて命じて還し、市に於いて買うを促す。乱に遇い、京師に至らずして卒す。
子の廩、咸通三年進士に擢第し、累遷して尚書郎となる。乾符中、父の南海に出鎮するに因り、官を免じ侍行す。中和中、征せられて中書舎人となり、再遷して京兆尹となる。僖宗再び山南に幸す。廩は疾を以て従う能わず。襄王僭窃す。廩の宗人遘、偽署を受けしを以て、廩懼れ、自ら洛より河朔に避地し、鎮冀節度使王镕之を深州に館す。光化三年卒す。
廩は貞退にして寡合、綽として家法有り。初め父に従い南海に在りし時、地は多く穀紙有り。倣は子弟に勅して缺落の文史を繕写せしむ。廩白して曰く、「家書の缺くる者は、誠に宜しく補葺すべし。然れども此れ京師を去ること、水際万里、露賫すべからず、当に篋笥を須うべし。人の観るに兼乗し、是れ貨財と謂わん。古人の薏苡の嫌、深誡と為すを得ん」と。倣曰く、「吾之を思わざるなり」と。故に濁乱の際、能く令名を保つ。
子の頎、亦た進士第に登り、後官位顕達す。
李石
李石、字は中玉、隴西の人。祖は堅、父は明。石は元和十三年進士に擢第し、涼国公李聽に従い四鎮の従事を歴任す。石は機弁方略有り、尤も吏術に精しく、藩府之を称す。聽の征伐に従い、常に留使務を司り、事辦わざる無し。太和三年、鄭滑行軍司馬となる。時に聽は河北に兵を握り、石をして朝に入り事を奏せしむ。占対明弁、文宗目して之を嘉す。府罷まり、工部郎中として入朝し、塩鉄案を判ず。五年、刑部郎中に改む。兵部郎中令狐楚の請いに由り、太原節度副使と為る。七年、給事中に拝す。九年七月、権知京兆尹事。十月、戸部侍郎に遷り、度支事を判ず。
文宗は徳裕・宗閔の朋党相傾くを自らす。太和七年以後、宿素の大臣、穎にして用いず。意は新進孤立を擢用し、庶幾くは党無く、以て前弊を革めんとす。故に賈餗・舒元輿、驟に階を大用す。訓・註の誅せらるるに及び、令狐楚を用いんと欲す。尋いで中輟す。石は朝議郎より朝議大夫を加えられ、本官のまま同平章事となり、使を判ずること故の如し。石の器度は豁如として、官に当たりて撓まず。京師変乱の後より、宦者は気盛んにして、南司を凌轢し、延英に議事するに、中貴の語必ず訓を引きて以て文臣を折す。石と鄭覃嘗て之に謂いて曰く、「京師の乱は、訓・註に始まる。而して訓・註の起るは、何人に始まるか」と。仇士良等対うる能わず。其の勢稍や抑えられ、縉紳之に頼る。是の時、月を逾え、人情安んぜず。帝侍臣に謂いて曰く、「聞く所に依れば人心未だ安帖せず、比日は何如」と。石対えて曰く、「比日苦寒なるは、蓋し刑殺過多なるを致し、此の陰沴を致す。昨鄭註の鳳翔に到り、士卒を招募して至らず、誅夷を捕索して已まずと聞く。臣辺上之を聞き、乗じて此れに生事するを恐る。宜しく詔を降し其の心を安んじ諭すべし」と。之に従う。
江西・湖南両道の観察使は、新たに王訓・王註の乱を経て、吏卒が多く死んだため、官健の衣糧を百二十分進上し、宰相が従人を募召するのに充てようとした。李石が上奏して言うには、「宰相は上は聖政を輔弼し、下は群司を統理する。もし忠正で私心がなく、宗廟社稷の加護があれば、たとえ盗賊に遭おうとも、兵は傷つけることができない。もし事が隠蔽や欺瞞に及び、心に偽りや妄りを抱くならば、たとえ防衛があろうとも、鬼がこれを誅するであろう。臣らは赤心を推し進めて聖奨に答えたいと願う。孟軻は臧氏でないことを知り、孔子は匡人を畏れなかった。両道が進上する衣糧は、ともに停止されることを望み、以前の制置に従い、金吾の手力のみを引従とするのがよい。」と。これを許可した。帝はまた言った、「宰相の任は、賢を選び能を用いるにある。」李石は言った、「臣と鄭覃は常にこのことを切実なことと考えておりますが、ただ人はそれぞれに求めるものがあり、もしその欲するところを遂げれば美誉が至り、少しでも意にかなわなければ誹謗の議論が生じます。ただ各々所司に委ねて推薦させ、臣らが授けるに足る者を選ぶならば、世間の議論は収まるでしょう。」
その年の十二月、中使の田全操・劉行深が辺境を巡視して帰り、走馬して金光門に入った。従者が兵が来たと誤って言い、百官が朝を退いた後、倉惶として驚き散った。帯を締める暇もなく、靴下のまま乗る者もあった。市の人が叫び騒ぎ、塵埃が四方に立ち上がった。二相(李石と鄭覃)が中書省にいたが、人吏は次第に散った。鄭覃が言った、「耳目に入るものがかなり異様である、しばらく出て行くのがよい。」李石が言った、「事の成り行きは知ることができないが、ただ堅く座してこれを鎮めるべきであり、平穏になることを望む。もし宰相までもが逃げれば、朝廷内外は乱れるであろう。もし乱が続くならば、逃げてもどこに逃れられようか?任は重く官は高く、人心の属するところであり、軽んじてはならない。」李石は簿書を見て、泰然自若としていた。京城の無頼の徒は、皆、戎服を着て兵仗を持ち、北を望んで闕門を待ち、変事に備えた。内使が連続して皇城門を閉めるよう催促したが、金吾大将軍の陳君賞がその配下を率いて望仙門の下に立ち、中使に言った、「たとえ賊がいたとしても、門を閉めるのは遅くない。どうかゆっくりとその変を見守り、自ら弱るようなことをなさらないでほしい。」夕方になってようやく鎮定した。この日、もし李石の鎮静と陳君賞の侮りを防ぐことがなければ、ほとんど乱になるところであった。
開成元年、元号を改め、大赦を行った。李石らが赦文の条項を協議し、京畿の一年分の租税を免除することとした。また、正月・冬至・端午の進奉を、ともに三年間停止し、その銭を百姓の紐配銭に代えて充てることとした。諸道は、薬物・口味・茶果を除き、進献してはならない。諸司の宣索による製造は、ともに三年間停止する。赦の後、紫宸殿で宣対があった。鄭覃が言った、「陛下が元号を改めて御殿に臨み、京畿の一年分の租税を全免し、また天下の節鎮の進奉を停止されました。恩沢の及ぶところは、実に肝要な点に当たります。近年の赦令は、皆これに及びません。」上(文宗)は言った、「朕は実を務めて行い、空文を重んじ長くしたくはない。」李石が対えて言った、「赦書は内に一本を置き、陛下が時折これをご覧になるべきです。十道の黜陟使が出発する日に、公事の根本としてこれを渡し、長吏と詳しく選んで施行させれば、ようやく利害の要を尽くすことができます。」李石は、以前の徳音(恩赦の詔)は降りても、人君がこれを守らず、奸吏がこれに従って違反するため、内に置くことを上奏してこれを諷したのである。
まもなく中書侍郎・集賢殿大学士を加えられ、塩鉄転運使を領した。上は紫宸殿で政を論じて言った、「国を治める道は、治を致すことが甚だ難しい。」李石が対えて言った、「朝廷の法令が行われれば易しいのです。臣は聞きます、文王は上に陟降されると。陛下が赤誠を推し進め、天に上達すれば、何を憂えて治まらないことがありましょうか?」上はまた言った、「治乱は人の邪正によるのか、それとも時運によるのか?」鄭覃が対えて言った、「聖帝によるのであり、忠臣によるのであり、これは人によるのです。」李石は言った、「時運にもよります。九廟の聖霊が、徳を陛下に集められたのは、時です。陛下が己の道を行われるのは、人によるのです。しかし前代の帝王で甚だ徳のある者でも、乱離やどうしようもない際に当たれば、またどうして運を推さずにいられましょうか?」帝は言った、「卿の言う通りである。」李石はまた上奏した、「咸陽県令の韓遼が興成渠の開削を請うています。旧い漕路は咸陽県の西十八里にあり、東は永豊倉に達し、秦・漢以来に疏鑿され、その後埋もれて廃れました。先ごろ韓遼が計画したところ、用工は多くありません。この漕路ができれば、咸陽から潼関に至る三百里の間、車で引く労がなくなり、轅下の牛はすべて耕すことに帰することができ、永久に秦中の利益となります。」李固言が言った、「王涯が以前にすでに陳奏しており、実に秦中の利益ですが、ただ徴役が今はその時ではないことを恐れます。」上は言った、「陰陽の拘忌があるのか?もし人に利するならば、朕は何も慮るところはない。」李石は使務を領することを辞した。八月、塩鉄転運使を罷免された。李石は金部員外郎の韓益を用いて度支案を判らせたが、韓益は贓罪に坐して御史台に拘束された。李石が上奏して言った、「臣は韓益が銭穀に明るいので任用しましたが、このように貪婪で卑しいとは思いませんでした!」帝は言った、「宰相はただ人を知れば用い、過ちがあれば懲らしめる。卿が用いた人について、その悪を隠さないとは、至公と言える。以前の宰相は人を用いて、過ちがあっても曲げてこれを隠し、人が弾劾するのを望まなかったが、これは大いに誤りである。ただ能あれば挙げ、挙げて職を失わなければこれを奨励すれば、自然と人を得やすく、どうして容認し隠す必要があろうか。」
三年正月五日、李石が親仁里から夜明け前に朝に入ろうとしたとき、盗賊が故郭尚父(郭子儀)の宅で発し、弓を引いて追い及んで、矢がやっと皮膚を破り、馬が逸走して戻った。盗賊はすでに坊門に伏し、刀を振るって李石を斬り、馬の尾を断ったが、ついに馬が逸走したため私第に帰り得た。上はこれを聞いて驚愕し、中使を遣わして慰問させ、金瘡薬を賜い、よって六軍の兵士三十人を差し向けて宰相を衛従させた。この日、京師は大いに恐れ、常参官で朝に入った者は、九人だけであった。十日ほどしてようやく安堵した。李石は上章して位を辞することを三度行った。そこで金紫光禄大夫・中書侍郎・同平章事・江陵尹・荊南節度使を加えられた。
李訓の乱のとき、人情は危険で逼迫し、天子は李石を常僚の中から起用し、政権を託した。李石は身を以て国に殉じ、患難を顧みず、朝綱を振るい挙げ、国威を再び回復した。しかし中官の仇士良は歯ぎしりしてこれを憎み、伏兵を置いて害を加えた。天子はその故を深く知っていたが、逼迫を畏れて理めることができず、ついに罷免に至った。李石が鎮に赴くとき、賜宴の儀礼はともに欠け、人士はこれを傷み、君子の道が消えることを恥じた。李石が鎮に至り、中書侍郎を譲ることを上表したので、検校兵部尚書・兼平章事を加えられた。
武宗が即位すると、就いて検校尚書右僕射を加えられた。会昌三年十月、検校司空・平章事・隴西郡開国伯・食邑七百戸・太原尹・北都留守・河東節度観察等使を加えられた。時に沢潞の劉稹が兵を阻んでいたが、李石がかつて太原副使を務め、北門の軍政に熟練していたため、劉沔に代わってこれを鎮めた。
初め、劉沔は兵三千人を横水に戍らせていた。王師が沢潞を討ったとき、王逢が軍を榆社に置き、兵が少ないと訴えて増員を請うたので、詔して李石に太原の兵卒を榆社に赴かせた。李石はそこで横水の戍卒一千五百人を割き、別将の楊弁にこれを率いさせて、王逢に赴かせた。旧例では軍を発するとき、人ごとに二匹の縑を与える。李石は支計が不足するため、一匹を量り減らしたので、軍人は怨みを募らせた。また歳除(年の暮れ)に及ぼうとしていたので、上路を促して命じたので、衆はますます悦ばなかった。楊弁はその隙に乗じて乱を謀り、言葉を出して軍人を激動させた。
四年正月、軍が乱を起こして李石を追い出したので、朝廷は晋絳観察使の崔元式を代わりとして還した。五年、検校司徒・東都留守・判東都尚書省事・畿汝都防禦使となった。太子少保として分司し、そこで卒した。
石の弟福、字は能之。太和七年に進士第に登り、累次使府に辟召される。石が宰相となると、自ら弟を延英殿にて推挙し、福の才は民を治めるに堪えると述べ、監察御史を授けられる。累遷して尚書郎となり、出て商州・鄭州・汝州・潁州の四州刺史となる。大中時、検校工部尚書・滑州刺史・兼御史大夫となり、義成軍節度使・鄭滑潁観察使を充任する。入朝して刑部侍郎となり、累遷して刑部尚書・戸部尚書となる。乾符初め、検校右僕射・襄州刺史・兼御史大夫を以て山南東道節度使を充任す。
四年、草賊王仙芝の徒党数万が山南を寇掠す。福は郷兵を団練し、要路に屯集し、賊は敢えて犯さず。その秋、賊は岳州・鄂州・饒州・信州等を陥落す。十二月、江陵に迫り、節度使楊知温が福に援を求む。福は即ち自ら州兵及び沙陀五百騎を率いて赴援す。時に賊は既に江陵の外郭を陥とし、福の兵の至るを聞き、乃ち退去す。僖宗之を嘉し、就いて検校司空・同平章事を加う。帰朝し、終に太子太傅に至る。
【史評】
史臣曰く、彭陽・奇章は、徒歩より起りて台鼎に昇る。その人文の彪炳たるを観、邦典を潤色し、射策命中し、一時を横絶す、誠に俊賢なり。而して峨冠曳組し、皋・夔の伍に論道す、孰か然らざらんと曰わん。如し能く道を蹈みて躬を匪とせず、中立して党無くば、則ち其の善尽きる矣。蕭太師は貞独にして悪を嫉み、利の為に回らず、夷・惠を以て之に擬せず、之をして経綸せしむれば、則ち其の道至る矣。開成の始め、帝道方に淪ぶ。石此の時に於いて頽緒を振わんと欲し、幾ば戕賊に嬰る、咄嗟と為す可し。僻多きの時、止だ太息すべし。
賛に曰く、喬松孤立し、蘿蔦夤縁す。柔附淩雲す、豈に能賢と曰わんや。嗚呼楚・孺、道喪いて曲全す。蕭・李相才、之を外篇に致す。