卷一百七十一
李渤
李渤は、字を浚之といい、後魏の横野将軍・申国公李発の後裔である。祖父の玄珪は、衛尉寺主簿であった。父の鈞は、殿中侍御史であったが、母の喪を時に挙げなかったため、施州に流された。渤はその家の汚辱を恥じ、堅苦しく仕官せず、文学に志を励まし、科挙に従わず、嵩山に隠れ、読書と文業を事とした。
時に皇甫鎛が宰相となり、下を剥ぎ旨に媚びた。会に澤潞節度使の郗士美が卒し、渤が弔祭使を充てられ、路次陜西に至った。渤は上疏して曰く、「臣が出使して経行し、歴めて利病を求む。窃かに知るに、渭南県長源郷は本四百戸ありしが、今は僅かに百余戸なり;閿郷県は本三千戸ありしが、今は僅かに一千戸あり、他の州県も大略相似たり。積弊を訪い尋ぬれば、均攤逃戸より始まる。凡そ十家の内、大半逃亡すとも、亦た五家に税を攤せざるべからず。石を井中に投ずるが如く、底に到らざれば止まず。攤逃の弊、苛虐斯くの如し。此れ皆、聚斂の臣が下を剥ぎ上に媚び、唯だ沢を竭くすを思い、魚無きを慮らざるなり。詔書を降して、攤逃の弊を絶たんことを乞う。其の逃亡戸は其の家産銭数を以て定めとし、徴するに欠く所あれば、特恩を降して免ぜんことを乞う。計らず数年、人必ず農に帰せん。夫れ農は国の本なり、本立ちて然る後に以て太平を議すべし。若し茲より由らずして太平と云うは、謬りなり」と。又た道途修まらず、駅馬多く死すとを言う。憲宗、疏を覧て驚異し、即ち飛龍馬数百匹を以て、畿内諸駅に付した。渤は既に草疏が切直なるを以て、大いに宰相に忤い、乃ち病を謝して東に帰った。
穆宗即位し、考功員外郎として召された。十一月、京官の考課を定め、権幸を避けず、皆行いを升降した。奏して曰く、
宰臣の蕭俛・段文昌・崔植は、是れ陛下が君臨の初めに、用いて輔弼と為し、安危理乱、決するは此の時に在り。況んや陛下は天下の和平を思い、大臣を敬う礼切なり、固より昵比左右・侈満自賢の心未だ有らず。而して宰相の権、宰相の事、陛下一に之を付す、実に君義臣行、千載一遇の時なり。此の時若し失わば、他に更に時無し。而るに俛等は上は至公を推し、炯誡を申し、先王の道德を陳べて、以て君心を沃す能わず、又た正色匪躬し、旧法を振挙し、百司の本を復して、教化を大いに立つる能わず。臣聞く、政の興廃は賞罰に在りと。俛等が相を作りし已来、未だ一人の德義を奨め、官を守り公に奉ずる者を挙げ、天下の官に在る徒をして激勧する所有らしむるを聞かず、又た一人の職事理まらず、祿を持ち驕を養う者を黜し、屍祿の徒をして懼るる所有らしむるを聞かず。此くの如くせば、則ち刑法立たず。邪正弁ぜず、混然として章無く、教化行わず、賞罰の設け、天下の事、復た何をか望まん。一昨、陛下驪山に遊幸せらる。宰相・翰林学士は是れ陛下の股肱心腹、宜しく皆之を知るべし。蕭俛等は未だ形せざるに先んじて事し、躯を忘れて懇諫する能わずして、陛下をして忽諫の名を史冊に流さしむ、是れ君を過に陷るるなり。孔子曰く、「所謂大臣は、道を以て君に事え、不可なれば則ち止む」と。若し俛等が言行計従わるれば、是くの如くならざるべし。若し言行わず、計従わざれば、須く身を奉じて速やかに退くべく、化源に屍素す宜しからず。進退戾るるなり、何の辞をか避けん。其の蕭俛・段文昌・崔植の三人並びに翰林学士の杜元穎等は、並びに考を中下と請う。御史大夫の李絳・左散騎常侍の張惟素・右散騎常侍の李益等は驪山幸を諫め、鄭覃等は畋遊を諫む。是れ皆、陛下の行幸息まず、情に恣に度無きを恐れ、又た馬に銜蹶不測の変有り、風寒疾を生ずるの憂有り、急奏詣る所無く、国璽婦人中幸の手に委ぬるを恐るるなり。絳等は能く御史諫官を率いて朝に論列し、懇激事君の体有り。其の李絳・張惟素・李益の三人は、伏して上下考を賜わる外、特に関官を遷し、以て陛下の忠を優れ諫を賞むるの美を彰さんことを請う。其の崔元略は供奉の首に冠し、合して上下を考すべし。縁りて於翚と上下考を同じくす。於翚は贓を犯して死を処せられ、令に準じて須らく降すべし。考を中中と賜わんことを請う。大理卿の許季同は、任使して於翚・韋道沖・韋正牧を用う。皆以て贓を犯し、或いは左降し、或いは死を処せらる。合して中下を考すべし。然れども頃者劉辟の乱に陷り、家を棄てて朝に帰り、忠節明らかに著わる。今宜しく功を以て過を補うべし。考を中中と賜わんことを請う。少府監の裴通は、職事修挙し、合して中上を考すべし。其の生母を追封せんことを請うて嫡母を捨つるを以てす。是れ明らかに君に罔り、幽かに其の先を欺くなり。考を中下と請う。伏して以て、昔、宰夫の寝に入り、擅に師曠・李調を飲ます。今、愚臣官を守り、宰相学士の中下考を書かんことを請う。上は聖運を愛し、下は頽綱を振う。故に臣は言わざるを罪と為すを懼れず、言うを罪と為すを懼れず。其の三品官の考は、伏して縁りて限りを今月内に進するに在り、輒ち先ず具すこと前の如し。其の四品以下の官は、続けて条疏を具して聞奏せん。
状入り、中に留めて下さず。議する者は、宰輔官を曠うるは、自ら宜しく上疏して論列すべく、而るに渤は職を越えて名を釣り、事君の道を尽くすに非ずとす。未だ幾ばくもせず、渤は馬より墜ちて足を傷め、告を請う。会に魏博節度使の田弘正が表して渤を副使と為さんとす。杜元穎奏して曰く、「渤は直を売り名を沽り、動多く狂躁なり。聖恩矜貸し、且つ官に居らしむ。而るに幹進多端、外に方鎮と交わり、遠く奏請を求め、自ら安んずる能わず。久しく朝に留まるは、転た恐らくは事を生ぜん」と。乃ち虔州刺史として出された。
敬宗は幼年に即位し、朝廷に坐すこと常に遅し。一日、閣に入り、久しく坐さず、群臣は紫宸門外に候立し、耆年衰病の者あり、幾くにか将に頓仆せんとす。渤出でて次第に宰相に白して曰く、「昨日、疏を拝して陳論す。今、坐すること益々遅し。是れ諫官の能く人主の意を回らさざるなり。渤の罪なり。請う、先ず閣を出で、金吾仗に於いて罪を待たん」と。語の次に仗を喚ぶ。乃ち止む。渤また左右常侍を以て、職は観諷に参ずるも、而して循黙して言無し。之を論じて曰く、「若し官を設けて其の事を責めざれば、之を罷するに如かず。以て経費を省くべし。苟も罷むる能わざれば、則ち職業を責むることを請う」と。渤、理匭使を充て、奏して曰く、「事の大なる者は聞奏し、次は中書門下に申し、次は諸司に移す。諸司、処理当たらず、再び匭に投ずれば、即ち事を具して奏聞す。もし妄訴無理なれば、本罪の外に一等を加う。勅に準じて告密人は金吾に付し、身を留めて進止を待たしむ。今、身後を留めて臺府に牒せんと欲す。冀くは兇人を止絶せん」と。之に従う。
長慶・宝暦の中、政は多門より出で、事は邪幸に帰す。渤、忠難を顧みず、章疏を論列し、曾て虚日無し。帝、昏縱と雖も、亦た之が為に感悟す。転じて給事中と為り、面に金紫を賜う。
渤、斥けらるると雖も、正論已まず、而して諫官継いて其の屈を論ず。後、宰相李逢吉・竇易直・李程、延英に因りて上語に及び崔発に及ぶ。逢吉等奏して曰く、「崔発、中人を淩轢す。誠に大不敬なり。然れども発の母は故相韋貫之の姉、年僅かに八十。発の下獄するより、積憂して疾を成す。伏して以て陛下孝を以て天下を治む。稍々恩宥を垂れ賜わんことを」と。帝湣然として良久し、曰く、「比来諫官の論奏するも、但だ発の屈を言うのみ。未だ嘗て不敬の罪を言わず、亦た老母有るを言わず。卿等の言う如く、寧く湣惻無からんや」と。即ち中使を遣わして発を其の家に送り、兼ねて発の母を撫問す。韋夫人号哭し、中使に対し発を杖四十し、章を拝して恩を謝す。帝又た中使を遣わして之を慰安す。
子の祝、会昌中に進士第に登り、諸侯府に辟せらる。
張仲方
張仲方は、韶州始興の人なり。祖は九皐、広州刺史・殿中監・嶺南節度使。父は抗、右僕射を贈らる。仲方の伯祖は始興文献公九齢、開元朝の名相なり。仲方、貞元中に進士擢第し、宏辞に登科し、釈褐して集賢校理と為り、母憂に丁し免ぜらる。服闋し、秘書省正字を補し、咸陽尉に調授さる。出でて邠州従事と為り、入朝して侍御史・倉部員外郎を歴る。
会に呂温・羊士諤、宰相李吉甫の陰事を誣告す。二人俱に貶せらる。仲方は呂温の貢挙門生に坐し、出でて金州刺史と為る。吉甫卒す。入りて度支郎中と為る。時に太常、吉甫の謚を定めて「恭懿」と為す。博士尉遅汾、「敬憲」と為さんことを請う。仲方駁議して曰く、
古より、名を易え謚を請うは、礼の典なり。大位に処る者は、其の巨節を取り、諸の細行を蔑ろにし、範を当時に垂れ、後人に昭示し、然る後に之を書し、不朽に垂る。善を善とし悪を悪とするは、以て誣うべからず。故に一字を称すれば、則ち至明なり。褒貶是非の宜を定め、同異紛綸の論を泯す。贈司徒吉甫は、気を稟き材を生じ、時に乗りて治を佐け、博く渉りて多芸、章を含み文を炳す。陰陽を燮賛し、邦国を経緯す。惜しむらくは通敏の資性、便媚を以て容を取りしを。故に枢衡を載践し、台袞を疊致し、大権己に在り、沈謀罕に成らず、好悪情に徇い、軽諾寡信。諂涙顔に在り、便に遇えば則ち流る。巧言簧の如く、機に応じて必ず発す。夫人臣の元後を翼戴する者は、端恪を致して治め、孜孜として夙夜し、庶績を絹熙し、百揆を平章す。兵は兇器なり、我より始むべからず。罪を伐つに及んでは、則ち敵を料りて以て成功す。至りて内に輔臣を害するの盗有り、外に毒蠆を懐くの孽有らしむ。師徒野に暴れ、戎馬郊に生ず。皇上旰食宵衣し、公卿大夫且に慚じ且つ恥づ。農人は畝に在るを得ず、緝婦は桑に在るを得ず。賦の常資を耗斂し、帑廩の中積を散じ、辺僥の備を征し、運挽の労を竭す。屍僵れ血流れ、胔骼嶽を成し、酷毒の痛、号訴辜無く、群生を剿絶し、今に逮ぶこと四載。禍胎の兆、実に其の謀に始まる。君父の憂を遺す。而るを豈に之を先覚と謂わんや。夫れ大功を論ずる者は、妄りに取るべからず、枉げて致すべからず。資画を為す者は理に体し、顕わず競わず。而るを豈に令美を妨げんや。西蜀を削平するに当たりては、乃ち言語侍従の臣。東呉を擒翦するには、則ち訏謨廊廟の輔。其の功を較うれば則ち異有り、其の力を言えば則ち倫ならず。何ぞ其の重き所を捨てて其の軽き所を録し、其の小なる所を収めて其の大なる所を略すや。且つ奢靡を是れ嗜みて、而して曰く人を愛するに儉を以てすと。受授守り無くして、而して曰く才を慎むに補を以てすと。諫諍の士を外に斥くは、豈に近きの聡を蔽うに近からざらんや。忠烈の廟を内に挙ぐるは、豈に近きの昵愛に近からざらんや。焉んぞ聡を蔽い昵愛し、家範制無くして、能く法を垂れ程を作し、百度を憲章せんや。謹んで謚法に按ずるに、敬は以て内を直くす。内にして粛せざれば、何を以て外に刑せん。憲は法なり。『戴記』に曰く、「文武を憲章す」と。又た曰く、「慮憲を発す」と。義は以て敬恪終始と為す。歴位を載考するに、未だ嘗て一の法官を効し、一の小獄を議せず。重位に居るに及び、安和平易寛柔を以て自ら処る。其の名を考うるに、其の行と類せず。其の事を研ぐるに、其の道と侔わず。一定の辞は、惟だ精惟だ審なり。異日詳制し、諸の史官に貽す。請う、蔡寇将に平らぎ、天下事無きを俟ち、然る後に都堂に聚議せん。謚も亦た未だ遅からず。
憲宗は兵を用いていた折柄、仲方がその事を深く言うのを憎み、甚だ怒り、遂州司馬に貶し、量移して復州司馬とした。河東少尹に遷す。未だ幾ばくもせず、鄭州刺史を拝す。
敬宗が即位すると、李程が相となり、仲方とは同年に進士第に登ったので、仲方を召して右諫議大夫とした。敬宗は童年にして戯れ慢り、詔して淮南王播に上巳の競渡船三十隻を造らせた。播は船材を京師に運んで造作し、半年の転運の費用を計ってようやく成し得た。仲方は延英に詣でて面論し、言甚だ懇激であった。帝はただ十隻を造って進めることを命じた。帝はまた華清宮に幸せんと欲し、仲方は諫めて曰く、「万乗の幸する所は、出ずるには儀を備うべし。軽々しく行くべからず、以て威重を失うことなかれ」と。帝は従わなかったが、これを慰労した。
仲方は貞確自立し、綽として祖風有り。謚を駁して以来、徳裕の党に擯斥され、坎坷として歿し、人士これを輩す。文集三十巻有り。
兄仲端は、位都昌令に終わる。弟仲孚は、進士第に登り、監察御史となる。
裴潾
憲宗季年、服餌に鋭く、詔して天下に奇士を搜訪せしむ。宰相皇甫鎛と金吾将軍李道古とが邪を挾み寵を固め、山人柳泌及び僧大通・鳳翔人田佐元を薦め、皆翰林に待詔す。憲宗泌の薬を服し、日増しに躁渴し、流聞外に聞こゆ。潾上疏して諫めて曰く、
臣は聞く、天下の害を除く者は天下の利を受け、天下の楽しみを共にする者は天下の福を享けると。故に上は黄帝・顓頊・堯・舜・禹・湯より、下は周の文王・武王に至るまで、皆功を以て生霊を済い、徳を以て天地に配し、故に天は皆これに上寿を以て報い、祚を無疆に垂れた。伏して見るに、陛下は大孝を以て宗廟を安んじ、至仁を以て黎元を牧す。践祚以来、積代の妖兇を刬ぎ、削平の洪業を開く。而して宰輔を礼敬し、終始を以て待ち、内には能く大断し、外には小故を寛ぐ。この神功聖化は、皆古来の聖主明君の及ばざる所にして、陛下躬親これを行い、実に千古に光映す。是れ即ち天地神祇は、必ず陛下に山嶽の寿を以て報い、宗廟聖霊は、必ず陛下に億万の齢を以て福し、四海蒼生は、皆陛下に覆載の永きを祈らん。自然に万霊保祐し、聖寿無疆ならん。伏して見るに、去年以来、諸処頻りに薬術の士を薦め、韋山甫・柳泌等あり、或いは更に相称引し、今に至るまで狂謬、薦送漸く多し。臣伏して以て真仙有道の士は、皆その名姓を匿し、代に求むることなく、山林に潜遁し、雲壑に影を滅し、唯人に見られんことを恐れ、唯人に聞かれんことを懼る。豈に公卿に干謁し、自らその術を鬻がんや。今者所有の薬術を誇炫する者は、必ず道を知れるの士に非ず。皆利を求めて来たり、飛煉を以て神なりと自ら言い、以て権貴賄賂を誘う。大言怪論、聴を驚かし時を惑わし、その仮偽敗露に及べば、曾て遁逃を恥じず。かかる情状、豈にその術を保信し、親しくその薬を餌らんや。『礼』に曰く「夫人は、味を食い声を別ち、色に被れて生くる者なり」と。『春秋左氏伝』に曰く「味は以て気を行わしめ、気は以て志を実く」と。又曰く「水火醯醢塩梅、以て魚肉を烹る。宰夫これを和し、味を以てこれを斉う。君子これを食し、以てその心を平らぐ」と。夫れ三牲五穀は、五行より稟り、五味として発す。蓋し天地の生む所以の人に奉ずるなり。是を以て聖人はこれを節して食い、以て康強逢吉の福を致す。若し夫れ薬石は、前聖これを以て疾を療す。蓋し常食の物に非ず。況んや金石は皆酷烈熱毒の性を含み、焼治を加うれば、動もすれば歳月を経、既に烈火の気を兼ぬれば、必ず防制し難からんことを恐る。若し乃ち前史を遠征せば、則ち秦・漢の君は、皆方士を信じ、盧生・徐福・欒大・李少君の如き、その後皆奸偽事発し、その薬竟に成ること無し。事『史記』・『漢書』に著し、皆験視すべし。『礼』に曰く「君の薬は、臣先ずこれを嘗む。親の薬は、子先ずこれを嘗む」と。臣子一なり。臣願わくは所有の金石、煉薬人及びこれを薦むる人、皆先ず一年服し、以てその真偽を考うれば、則ち自然に明験あらん。伏して惟うに、元和聖文神武法天応道皇帝陛下は、日月照臨の明を合し、乾元利貞の徳を稟け、正を崇ぶること指南の如く、諫を受くること転規の如し。是必ず精金の刃を発し、疑わしき網を断たん。所有の薬術虚誕の徒、伏して乞う特賜に罷遣し、その幻惑を禁ぜんことを。浮雲尽く徹し、朗日輝を増し、道化羲・農に侔ひ、悠久天地に配するは、実に此に在り。伏して以て、貞観以来、左右起居に褚遂良・杜正倫・呂向・韋述等あり、皆能くその忠誠を竭し、心を悉くして規諫す。小臣謬って侍従に参じ、職起居を奉じ、侍従の中、最も左右に近し。伝に曰く「近臣は規を尽くす」と。則ち近侍の臣、上に忠款を達するは、実にその本職なり。
上疏は旨に忤い、江陵令に貶せらる。
穆宗即位し、柳泌等誅せらる。潾を兵部員外郎に征し、刑部郎中に遷す。前率府倉曹曲元衡なる者有り、百姓柏公成の母を杖殺す。法官は公成の母死辜外に在りとし、元衡の父軍使に任じ、父の廕を以て銅を征す。柏公成密かに元衡の資貨を受け、母の死公府に聞えず。法寺は恩を経て罪を免ず。潾議して曰く「典刑は公柄なり。官に在る者は部属の内に施すことを得。若し官に在らず、又部属に非ざれば、私罪有りと雖も、必ず官に告ぐ。官これを理し、以て斉人に鞭捶を擅に行うことを得ざるを明らかにす。且つ元衡身官に在らず、公成の母部属に非ず。而して威力を憑み、横にこの残虐を加う。豈に常典に拘わるべけんや。柏公成讎より貨を取り、母の死を利す。天性に悖逆し、犯せば則ち必ず誅せらるべし」と。奏下り、元衡は杖六十配流、公成は法に論じて死に至る。公議これ称す。考功・吏部二郎中に転ず。
宝暦初、給事中に拝す。太和四年、汝州刺史・兼御史中丞と為り出で、紫を賜う。法に違いて人を杖殺するに坐し、左庶子に貶せられ、分司東都す。
七年、左散騎常侍に遷り、集賢殿学士を充てる。歴代の文章を集め梁の昭明太子『文選』を継ぎ、三十巻を成し、目して『大和通選』と曰い、並びに音義・目録一巻を上る。当時の文士、素より潾と遊ばざる者は、その文章少しくその選に在り、時論皆これを薄しむ。
潾は道義を以て自ら処し、事上に心を尽くし、尤も朋党を嫉み、故に権幸に知られず。憲宗竟に薬を以て誤り寿を保たず。君子潾を以て言を知るとす。穆宗柳泌を誅すと雖も、既にして自ら惑い、左右近習、稍稍復た方士を進む。時に処士張臯有り、上疏して曰く。
神慮淡ければ則ち血気和し、嗜欲勝てば則ち疾疹作る。和すれば則ち必ず寿考に臻し、作れば則ち必ず傷残に致る。是を以て古の聖賢は、務めて自ら頤養し、外物を以て耳目を撓さず、声色に徇いて性情を敗らず。此に由りて和平自ら臻し、福慶斯に集る。故に『易』に曰く「妄り無きの疾、薬勿れ有れ喜び有り」と。『詩』に曰く「天より康を降し、福を降す穰穰たり」と。此れ皆理天人に合し、経訓に著る。然らば則ち薬は以て疾を攻む。疾無ければ固よりこれを餌るべからず。高宗朝、処士孫思邈なる者、精識高道有り、摂生に深く達し、著す所の『千金方』三十巻、代に行わる。その『序論』に云く「凡人故無くして薬を服すべからず。薬気偏に助くるところ有り、人の臓気をして平らかならしめず」と。思邈この言、事理に洞たりと謂うべし。或いは寒暑寇と為り、節宣乖わ有り、事医方を資とすと雖も、尚須らく重慎す。故に『礼』に云く「医三代に及ばざれば、その薬を服さず」と。凡庶に施すも、猶且く此の如し。況んや天子に在りて、豈に自ら軽んずべけんや。先朝暮年、頗る方士を好み、征集合せず一ならず、嘗試亦多し。果たして危疾を致し、中外に聞ゆ。足りて殷鑒と為す。皆陛下素より詳しく知る所、必ず更に前車に踵き、自ら後悔を貽すべからず。今朝野の人、紛紜窃に議す。直ちに旨に忤うを畏れ、敢えて言を献ぜず。臣蓬艾の微生、麋鹿と同処す。既に寵を邀えず、亦又何をか求む。但だ古今を泛覧し、粗く忠義を知り、聞きて黙するは、理に安からず。願わくは陛下芻蕘を怒ること無く、庶くは万一に裨せんことを。
穆宗その言を嘆賞し、尋いで臯を訪わしむるも、獲ず。
李中敏
李中敏は隴西の人である。父は李嬰。中敏は元和の末に進士第に登り、性質は剛直で偏狭、敢えて直言する。進士杜牧・李甘と親しく交わり、文章の趣向は、大略似通う。中敏は累次府の辟召に従い、入朝して監察となり、侍御史を歴任した。太和年間、司門員外郎となった。
六年の夏旱魃あり、時に王守澄は鄭註を寵愛し、及び宋申錫を誣告して陥れた後、人々は側目してこれを畏れた。上は久しく旱魃が続くを以て、詔して雨を致す方策を求む。中敏上言して曰く、「連年の大旱は、聖徳の至らざるに非ず、ただ宋申錫の冤濫、鄭註の奸弊によるのみ。今雨を致す方策は、鄭註を斬り申錫の冤罪を雪ぐに若くは莫し」と。士大夫皆これを危ぶみ、上疏は留中して下さず。明年、中敏は病を謝して洛陽に帰る。訓・註の誅殺に及び、遂に申錫の冤罪を雪ぎ、中敏を召して司勛員外郎となす。尋いで刑部郎中に遷り、臺雜を知る。
其の年、諫議大夫に拝し、理匭使を充てる。上言して曰く、「旧例に拠れば、匭に進状を投ずる者は先ず副本を匭使に呈し、或いは詭異にして行い難きものは、進入を許さず。臣文按を検尋するも、本勅を見ず、所由はただ貞元に奉宣せしと云うのみ、恐らくは一時の事ならん。臣以為く、本匭函を置くは、毎日内より将出し、日暮に進入するは、意は冤濫無告にして、有司の申理せざる者をして、或いは時政を論じ、或いは利害を陳ぜしめんが為なり。宜しく其の必達の路を開くべく、以て聡明を広くし幽枉を慮る所以なり。若し有司をして先に見せしめ、其の可否を裁せしむれば、即ち事を重密にし、壅塞して自ら九重に伸ぶるを俾すの意に非ず。臣伏して請う、今後所有の進状及び封事は、臣但だ引進を為し、取舍可否は、断じて中旨よりせしめん。庶幾くは名実茲に在りて、以て匭を置くの本を明らかにせん」と。之に従う。尋いで給事中に拝す。
李甘
李甘、字は和鼎。長慶末、進士に擢第し、又制策に登科す。太和年間、累官して侍御史に至る。鄭註が翰林侍講に入り、舒元輿既に相と作るや、註も亦た中書に入らんことを求む。甘朝に唱えて曰く、「宰相は、天に代わりて物を理むる者、先ず徳望にして後に文藝なり。註は何なる人ぞ、敢えて茲に叨竊せん。白麻若し出ずれば、吾必ず之を壊さん」と。会に李訓も亦た註の求むる所を悪む、註を相とする事竟に寝す。訓已むを得ず、甘を封州司馬に貶す。
又李款有り、中敏と同時に侍御史と為る。鄭註邠寧より入朝す、款閣に伏して註を弾劾し云く、「内に敕使に通じ、外に朝官を結び、両地往来し、財貨を卜射す」と。文宗之を省みず。及び註用事するに及び、款も亦た逐われぬ。開成中、累官して諫議大夫に至り、出でて蘇州刺史と為り、洪州刺史・江西観察使に遷る。杜牧は自ら伝有り。
高元裕
高元裕、字は景圭、渤海の人。祖父は高甝。父は高集、官は卑し。元裕は進士第に登り、本名は允中、太和初、侍御史と為り、奏して元裕と改む。累遷して左司郎中。李宗閔相と作るや、用いて諫議大夫と為し、尋いで中書舎人に改む。九年、宗閔罪有って南遷す、元裕城を出でて餞送す、李訓の怒る所と為り、出でて閬州刺史と為る。時に鄭註翰林に入る、元裕註の制辞を草し、註の医薬を以て親に召し奉るを言う、註怒る。会に宗閔を送るに及び、乃ち之を貶す。訓・註既に誅せられ、復た征して諫議大夫と為す。
少逸、長慶末侍御史と為り、弟元裕の貶官に坐し、左授して賛善大夫と為り、累遷して左司郎中。元裕中丞と為るや、少逸諫議大夫に遷り、元裕に代わりて侍講学士と為る。兄弟禁密に叠り処る、時人之を栄しむ。会昌中、給事中と為り、封奏多し。大中初、検校礼部尚書・華州刺史・潼関防禦・鎮国軍使。入朝して左散騎常侍・工部尚書と為り、卒す。
元裕の子璩、進士第に登る。大中朝、内外の制を歴て丞郎、度支を判ず。咸通中、中書侍郎・平章事を守る。
李漢
李漢、字は南紀、宗室淮陽王李道明の後。道明は景融を生み、景融は務該を生み、務該は思を生み、思は岌を生む。岌より以上は名位無く、及び岌は蜀州晉原尉と為る。岌は荊を生み、荊は陜州司馬と為る。荊は漢を生む。
漢、元和七年進士第に登り、累次使府を辟す。長慶末、左拾遺と為る。敬宗宮室を治むるを好み、波斯の賈人李蘇沙沈香亭子の材を献ず。漢上疏して之を論じて曰く、「若し沈香を以て亭子と為さば、即ち瑤臺瓊室の事と同じ」と。寶歷中、王政日に僻し、漢は同列薛廷老と、閣に入るに因り、廷に奏して曰く、「近日除授は中書に由らず、擬議多くは宣出して施行す。臣恐らくは此より紀綱大いに壊れ、奸邪恣に行わるるを。願わくは陛下各々有司に敕し、稍く典故を存せしめよ」と。言以て旨に忤うに坐し、出でて興元従事と為る。
文宗が即位すると、召されて屯田員外郎・史館修撰となった。李漢は韓愈の娘婿であり、幼少より韓愈に師事して文章を学び、古学に長じ、剛直で直言する点も韓愈に似ていた。『憲宗実録』の編纂に預かり、特に李徳裕に憎まれた。太和四年、兵部員外郎に転じた。李宗閔が宰相となると、知制誥に任用され、まもなく駕部郎中に昇進した。
七年、礼部侍郎に転じた。八年、戸部侍郎に改めた。九年四月、吏部侍郎に転じた。六月、李宗閔が罪を得て宰相を罷免されると、李漢はその党に坐して、汾州刺史として出された。宗閔が再び貶されると、李漢も汾州司馬に改められ、なお二、三十年にわたり録用されなかった。会昌年中、李徳裕が権勢を握ると、李漢は遂に落ちぶれて没した。
李漢の弟の李浐・李洗・李潘は、皆進士第に及第した。李潘は大中初年に礼部侍郎となった。李漢の子の李貺も、進士第に及第した。
李景儉
李景儉、字は寛中、漢中王李瑀の孫である。父は李褚、太子中舎を務めた。景儉は貞元十五年に進士第に及第した。性質は俊朗で、博聞強記、よく前史を読み、その成敗を詳しく知った。自ら王覇の略を負い、士大夫の間で屈したり降ったりすることは無かった。
貞元末、韋執誼・王叔文が東宮で権勢を握り、特に彼を重んじ、管仲・諸葛亮の才を持って遇した。叔文が政権を窃取した時、景儉は母の喪に服していたため、連座に及ばなかった。韋夏卿が東都留守となると、従事として召し抱えた。竇群が御史中丞となると、監察御史に推挙した。竇群が罪を得て左遷されると、景儉は連座して江陵戸曹に貶された。累遷して忠州刺史となった。
元和末年に朝廷に入った。執政者は彼を憎み、澧州刺史として出した。元稹・李紳と親しくした。時に李紳・元稹は翰林に在り、しばしば天子の前で言上した。延英殿で辞する日、景儉は自ら己が屈していることを陳べると、穆宗はこれを憐れみ、詔を追って倉部員外郎に任じた。一月余りで、急に諫議大夫に昇進した。
性質は既に傲慢で、寵愛と抜擢を受けた後は、公卿大臣を凌ぎ蔑ろにし、酒に任せた振る舞いが特に甚だしかった。中丞蕭俛・学士段文昌が相次いで政務を補佐したが、景儉は彼らを軽んじ、談笑や戯れの言葉に表した。二人共にこれを訴え出ると、穆宗は已むを得ず、彼を貶した。制書に曰く、『諫議大夫李景儉は、宗枝より抜擢され、かつて儒術を探り、台閣を歴任し、また郡の符節も分掌した。しかし行動は時に仁に背き、行いは義によらない。権幸に附いて節を損ない、奸党の陰謀に通じた。衆情は皆疑い、群議は収まり難い。その因縁の状に拠れば、厳しい科罰を置くべきであるが、長養(万物が育つ夏)の時に順い、特に寛大な典則に従う。過ちを省みるよう努め、非を曲げて従ってはならない。建州刺史とすることを可とする。』と。間もなく元稹が権勢を握ると、郡から召還され、再び諫議大夫となった。
その年十二月、景儉が朝を退いた後、兵部郎中知制誥の馮宿・庫部郎中知制誥の楊嗣復・起居舎人の温造・司勲員外郎の李肇・刑部員外郎の王鎰らと共に史官の獨孤朗を訪ね、史館で酒を飲んだ。景儉は酔いに乗じて中書省に赴き宰相を訪ね、王播・崔植・杜元穎の名を呼び、面と向かってその過失を列挙し、言葉は甚だ背いて無礼であった。宰相は穏やかな言葉で止めたが、直ちに奏上して漳州刺史に貶した。この日史館で共に飲んだ者は皆貶逐された。
景儉が漳州に到着しないうちに元稹が宰相となり、楚州刺史に改めて授けた。議者は、景儉が酒に任せて宰臣を凌ぎ侮り、詔令が行われたばかりなのに、急に大郡に遷されたと評した。元稹は世間の非議を恐れ、追いかけて召還し、少府少監を授けた。連座した者も皆召還された。しかし景儉は遂に人に逆らい志を得ずに没した。景儉は財を疎んじ議論を尊び、名節を厳しくは守らなかったが、死んだ日、知名の士は皆惜しんだ。
景儉の弟の景儒・景信・景仁は、皆学芸に優れ、当時に知られた。景信・景仁は、共に進士第に及第した。
【賛】
史臣曰く、仲尼に言あり、『中行を得てこれと与せずんば、必ずや狂狷か。』と。もし張仲方が考第を論じ、李渤が諡を駁したことは、誠に後悔を知りながら、言うことを止められなかったと言え、狷と呼ぶべきか。賊臣の鄭注が邪を挟んだ時に、群公は口を結んで沈黙したが、高元裕・李甘・李中敏は、或いはその言を肆にし、或いはその筆を奮い、醜い行跡を暴露し、虎の鬚をかきむしることを憚らなかった。これを狂と呼べば、遺恨があるが、佞臣の首を断つために剣を請うた者と比べても、同年に語ることもできよう。李漢は良史の才があり、自立するに足りたが、権幸と協力し比肩し、顛沛して終わった。君子は独りを慎む、どうして軽んじることができようか。景儉は自負が過ぎ、放蕩で検束がなく、良馬が中年に跅弛(行儀が悪くなる)する患いである。
賛して曰く、張仲方・李中敏の切なる言論は、鋭い刃が雲を断つが如し。裴濆が方士を諫めたのは、深く誠を尽くして君を愛したからである。賊臣の鄭注を排撃した言論は、高元裕・李甘は群を抜いている。李漢・李景儉が朋党を結んだことは、何を云うに足らん。