旧唐書
李渤
李渤は、字を浚之といい、後魏の横野将軍・申国公李発の後裔である。祖父の玄珪は、衛尉寺主簿であった。父の鈞は、殿中侍御史であったが、母の喪を時に挙げなかったため、施州に流された。渤はその家の汚辱を恥じ、堅苦しく仕官せず、文学に志を励まし、科挙に従わず、嵩山に隠れ、読書と文業を事とした。
元和の初め、戸部侍郎・塩鉄転運使の李巽と諫議大夫の韋況が更にこれを推薦し、山人として左拾遺に徴された。渤は病と称して赴かず、遂に東都に家を定めた。朝廷の政に得失あれば、章疏を付して陳論した。また『禦戎新録』二十巻を撰し、表してこれを献上した。九年、著作郎としてこれを徴した。詔に曰く、「特に関恩を降し、以て旧議を清くす」と。渤はここに官に赴いた。歳余にして、右補闕に遷った。連ねて上章疏し、旨に忤い、丹王府諮議参軍に改められ、分司東都となった。十二年、賛善大夫に遷り、前の如く分司した。
十三年、人を遣わして時政を論ずる上疏を行い、凡そ五事:一に礼楽、二に食貨、三に刑政、四に都を議す、五に讎を弁ず。渤は散官の身分で東都にあり、上章疏を己が任務とし、前後四十五封に及んだ。再び庫部員外郎に遷った。
時に皇甫鎛が宰相となり、下を剥ぎ旨に媚びた。会に澤潞節度使の郗士美が卒し、渤が弔祭使を充てられ、路次陜西に至った。渤は上疏して曰く、「臣が出使して経行し、歴めて利病を求む。窃かに知るに、渭南県長源郷は本四百戸ありしが、今は僅かに百余戸なり;閿郷県は本三千戸ありしが、今は僅かに一千戸あり、他の州県も大略相似たり。積弊を訪い尋ぬれば、均攤逃戸より始まる。凡そ十家の内、大半逃亡すとも、亦た五家に税を攤せざるべからず。石を井中に投ずるが如く、底に到らざれば止まず。攤逃の弊、苛虐斯くの如し。此れ皆、聚斂の臣が下を剥ぎ上に媚び、唯だ沢を竭くすを思い、魚無きを慮らざるなり。詔書を降して、攤逃の弊を絶たんことを乞う。其の逃亡戸は其の家産銭数を以て定めとし、徴するに欠く所あれば、特恩を降して免ぜんことを乞う。計らず数年、人必ず農に帰せん。夫れ農は国の本なり、本立ちて然る後に以て太平を議すべし。若し茲より由らずして太平と云うは、謬りなり」と。又た道途修まらず、駅馬多く死すとを言う。憲宗、疏を覧て驚異し、即ち飛龍馬数百匹を以て、畿内諸駅に付した。渤は既に草疏が切直なるを以て、大いに宰相に忤い、乃ち病を謝して東に帰った。
穆宗即位し、考功員外郎として召された。十一月、京官の考課を定め、権幸を避けず、皆行いを升降した。奏して曰く、
宰臣の蕭俛・段文昌・崔植は、是れ陛下が君臨の初めに、用いて輔弼と為し、安危理乱、決するは此の時に在り。況んや陛下は天下の和平を思い、大臣を敬う礼切なり、固より昵比左右・侈満自賢の心未だ有らず。而して宰相の権、宰相の事、陛下一に之を付す、実に君義臣行、千載一遇の時なり。此の時若し失わば、他に更に時無し。而るに俛等は上は至公を推し、炯誡を申し、先王の道德を陳べて、以て君心を沃す能わず、又た正色匪躬し、旧法を振挙し、百司の本を復して、教化を大いに立つる能わず。臣聞く、政の興廃は賞罰に在りと。俛等が相を作りし已来、未だ一人の德義を奨め、官を守り公に奉ずる者を挙げ、天下の官に在る徒をして激勧する所有らしむるを聞かず、又た一人の職事理まらず、祿を持ち驕を養う者を黜し、屍祿の徒をして懼るる所有らしむるを聞かず。此くの如くせば、則ち刑法立たず。邪正弁ぜず、混然として章無く、教化行わず、賞罰の設け、天下の事、復た何をか望まん。一昨、陛下驪山に遊幸せらる。宰相・翰林学士は是れ陛下の股肱心腹、宜しく皆之を知るべし。蕭俛等は未だ形せざるに先んじて事し、躯を忘れて懇諫する能わずして、陛下をして忽諫の名を史冊に流さしむ、是れ君を過に陷るるなり。孔子曰く、「所謂大臣は、道を以て君に事え、不可なれば則ち止む」と。若し俛等が言行計従わるれば、是くの如くならざるべし。若し言行わず、計従わざれば、須く身を奉じて速やかに退くべく、化源に屍素す宜しからず。進退戾るるなり、何の辞をか避けん。其の蕭俛・段文昌・崔植の三人並びに翰林学士の杜元穎等は、並びに考を中下と請う。御史大夫の李絳・左散騎常侍の張惟素・右散騎常侍の李益等は驪山幸を諫め、鄭覃等は畋遊を諫む。是れ皆、陛下の行幸息まず、情に恣に度無きを恐れ、又た馬に銜蹶不測の変有り、風寒疾を生ずるの憂有り、急奏詣る所無く、国璽婦人中幸の手に委ぬるを恐るるなり。絳等は能く御史諫官を率いて朝に論列し、懇激事君の体有り。其の李絳・張惟素・李益の三人は、伏して上下考を賜わる外、特に関官を遷し、以て陛下の忠を優れ諫を賞むるの美を彰さんことを請う。其の崔元略は供奉の首に冠し、合して上下を考すべし。縁りて於翚と上下考を同じくす。於翚は贓を犯して死を処せられ、令に準じて須らく降すべし。考を中中と賜わんことを請う。大理卿の許季同は、任使して於翚・韋道沖・韋正牧を用う。皆以て贓を犯し、或いは左降し、或いは死を処せらる。合して中下を考すべし。然れども頃者劉辟の乱に陷り、家を棄てて朝に帰り、忠節明らかに著わる。今宜しく功を以て過を補うべし。考を中中と賜わんことを請う。少府監の裴通は、職事修挙し、合して中上を考すべし。其の生母を追封せんことを請うて嫡母を捨つるを以てす。是れ明らかに君に罔り、幽かに其の先を欺くなり。考を中下と請う。伏して以て、昔、宰夫の寝に入り、擅に師曠・李調を飲ます。今、愚臣官を守り、宰相学士の中下考を書かんことを請う。上は聖運を愛し、下は頽綱を振う。故に臣は言わざるを罪と為すを懼れず、言うを罪と為すを懼れず。其の三品官の考は、伏して縁りて限りを今月内に進するに在り、輒ち先ず具すこと前の如し。其の四品以下の官は、続けて条疏を具して聞奏せん。
状入り、中に留めて下さず。議する者は、宰輔官を曠うるは、自ら宜しく上疏して論列すべく、而るに渤は職を越えて名を釣り、事君の道を尽くすに非ずとす。未だ幾ばくもせず、渤は馬より墜ちて足を傷め、告を請う。会に魏博節度使の田弘正が表して渤を副使と為さんとす。杜元穎奏して曰く、「渤は直を売り名を沽り、動多く狂躁なり。聖恩矜貸し、且つ官に居らしむ。而るに幹進多端、外に方鎮と交わり、遠く奏請を求め、自ら安んずる能わず。久しく朝に留まるは、転た恐らくは事を生ぜん」と。乃ち虔州刺史として出された。
渤、州に至り、奏して隣境の信州に移したる両税銭二百万を還し、税米二万斛を免じ、所由一千六百人を減ず。観察使其の事を上聞す。歳満たずして、江州刺史に遷る。張平叔、度支を判じ、久遠の逋懸を征せんと奏す。渤、州に在りて上疏して曰く、「伏して詔勅を奉るに、度支使の奏する所に雲く、臣に設計して当州の貞元二年の逃戸の欠く所の銭四千四百一十貫を征填せしめよと。臣が当州管する田二千一百九十七頃、今已に旱死一千九百頃余り有り。若し更に度支使の為す所に勒して徇わば、必ずや史官が陛下を大旱中に三十六年前の逋懸を征すと書くを懼る。臣刺史に任ず、罪逃るる所無し。臣は既に上は聖情に副わず、下は黎庶を鞭笞するに忍びず、敢えて軽く符印を持たず、特に関臣を放ちて田に帰らしめんことを乞う」と。乃ち詔を下して曰く、「江州の奏する所、実に懇誠なり。若し容を蠲さざれば、必ず存済に難し。訴うる所の逋欠並びに放つ」と。長慶二年、職方郎中として入る。三年、諫議大夫に遷る。
敬宗は幼年に即位し、朝廷に坐すこと常に遅し。一日、閣に入り、久しく坐さず、群臣は紫宸門外に候立し、耆年衰病の者あり、幾くにか将に頓仆せんとす。渤出でて次第に宰相に白して曰く、「昨日、疏を拝して陳論す。今、坐すること益々遅し。是れ諫官の能く人主の意を回らさざるなり。渤の罪なり。請う、先ず閣を出で、金吾仗に於いて罪を待たん」と。語の次に仗を喚ぶ。乃ち止む。渤また左右常侍を以て、職は観諷に参ずるも、而して循黙して言無し。之を論じて曰く、「若し官を設けて其の事を責めざれば、之を罷するに如かず。以て経費を省くべし。苟も罷むる能わざれば、則ち職業を責むることを請う」と。渤、理匭使を充て、奏して曰く、「事の大なる者は聞奏し、次は中書門下に申し、次は諸司に移す。諸司、処理当たらず、再び匭に投ずれば、即ち事を具して奏聞す。もし妄訴無理なれば、本罪の外に一等を加う。勅に準じて告密人は金吾に付し、身を留めて進止を待たしむ。今、身後を留めて臺府に牒せんと欲す。冀くは兇人を止絶せん」と。之に従う。
長慶・宝暦の中、政は多門より出で、事は邪幸に帰す。渤、忠難を顧みず、章疏を論列し、曾て虚日無し。帝、昏縱と雖も、亦た之が為に感悟す。転じて給事中と為り、面に金紫を賜う。
宝暦元年、元を改めて大赦す。是に先立ち、鄠県令崔発、門外の喧闘を聞く。県吏言う、五坊使の下、百姓を毆撃すと。発怒り、吏を命じて之を捕えしむ。曳挾して既に至る。時に已に曛黒し、色目を問わず。良久して語るに、乃ち是れ一の内官なるを知る。天子之を聞きて怒り、発を収めて御史臺に繫ぐ。禦楼の日、繫囚を放つ。発も亦た鶏竿の下に在り。時に品官五十余人有り、仗を持ちて発を毆ち、縦横に乱撃し、発は面を破られ歯を折らる。臺吏、席を以て之を蔽い、方に免る。是の日、繫囚皆釈さるるも、発独り免れず。渤、疏を上げて之を論じて曰く、「県令は中人を曳くに合わず、中人は禦囚を毆つに合わず。其の罪一なり。然れども県令の犯す所は恩前に在り、中人の犯す所は恩後に在り。中人横暴、一に此に至る。是れ朝廷の馴致して然らしむるなり。若し早く刑書を正さざれば、臣恐らくは四夷の人及び藩鎮の奏事、此の語を伝道して、則ち慢易の心萌えん」と。渤又た朝に宣言して云く、「郊礼の前一日、両神策軍、青城内に於いて京兆府の進食牙盤を奪う。時に処置せず、致して崔発を毆撃するの事有り」と。上之を聞き、左右を按問す。皆言う、食を奪うの事無しと。渤を以て発に党すとし、出して桂州刺史・兼御史中丞と為し、桂管都防禦観察使を充てしむ。
渤、斥けらるると雖も、正論已まず、而して諫官継いて其の屈を論ず。後、宰相李逢吉・竇易直・李程、延英に因りて上語に及び崔発に及ぶ。逢吉等奏して曰く、「崔発、中人を淩轢す。誠に大不敬なり。然れども発の母は故相韋貫之の姉、年僅かに八十。発の下獄するより、積憂して疾を成す。伏して以て陛下孝を以て天下を治む。稍々恩宥を垂れ賜わんことを」と。帝湣然として良久し、曰く、「比来諫官の論奏するも、但だ発の屈を言うのみ。未だ嘗て不敬の罪を言わず、亦た老母有るを言わず。卿等の言う如く、寧く湣惻無からんや」と。即ち中使を遣わして発を其の家に送り、兼ねて発の母を撫問す。韋夫人号哭し、中使に対し発を杖四十し、章を拝して恩を謝す。帝又た中使を遣わして之を慰安す。
渤、桂管に在ること二年、風恙を以て代を求め、罷めて洛陽に帰る。太和五年、太子賓客を以て京師に征せらる。月余にして卒す。時に年五十九。礼部尚書を贈らる。渤孤貞、力行して操尚を為し、苟も合わず。而して阘茸の流、其の沽激に非ず。言を以て擯退せらるるに至りては、終に言を息まず。以て時病を救い、名節を服する者は之を重んず。
子の祝、会昌中に進士第に登り、諸侯府に辟せらる。
張仲方
張仲方は、韶州始興の人なり。祖は九皐、広州刺史・殿中監・嶺南節度使。父は抗、右僕射を贈らる。仲方の伯祖は始興文献公九齢、開元朝の名相なり。仲方、貞元中に進士擢第し、宏辞に登科し、釈褐して集賢校理と為り、母憂に丁し免ぜらる。服闋し、秘書省正字を補し、咸陽尉に調授さる。出でて邠州従事と為り、入朝して侍御史・倉部員外郎を歴る。
会に呂温・羊士諤、宰相李吉甫の陰事を誣告す。二人俱に貶せらる。仲方は呂温の貢挙門生に坐し、出でて金州刺史と為る。吉甫卒す。入りて度支郎中と為る。時に太常、吉甫の謚を定めて「恭懿」と為す。博士尉遅汾、「敬憲」と為さんことを請う。仲方駁議して曰く、
古より、名を易え謚を請うは、礼の典なり。大位に処る者は、其の巨節を取り、諸の細行を蔑ろにし、範を当時に垂れ、後人に昭示し、然る後に之を書し、不朽に垂る。善を善とし悪を悪とするは、以て誣うべからず。故に一字を称すれば、則ち至明なり。褒貶是非の宜を定め、同異紛綸の論を泯す。贈司徒吉甫は、気を稟き材を生じ、時に乗りて治を佐け、博く渉りて多芸、章を含み文を炳す。陰陽を燮賛し、邦国を経緯す。惜しむらくは通敏の資性、便媚を以て容を取りしを。故に枢衡を載践し、台袞を疊致し、大権己に在り、沈謀罕に成らず、好悪情に徇い、軽諾寡信。諂涙顔に在り、便に遇えば則ち流る。巧言簧の如く、機に応じて必ず発す。夫人臣の元後を翼戴する者は、端恪を致して治め、孜孜として夙夜し、庶績を絹熙し、百揆を平章す。兵は兇器なり、我より始むべからず。罪を伐つに及んでは、則ち敵を料りて以て成功す。至りて内に輔臣を害するの盗有り、外に毒蠆を懐くの孽有らしむ。師徒野に暴れ、戎馬郊に生ず。皇上旰食宵衣し、公卿大夫且に慚じ且つ恥づ。農人は畝に在るを得ず、緝婦は桑に在るを得ず。賦の常資を耗斂し、帑廩の中積を散じ、辺僥の備を征し、運挽の労を竭す。屍僵れ血流れ、胔骼嶽を成し、酷毒の痛、号訴辜無く、群生を剿絶し、今に逮ぶこと四載。禍胎の兆、実に其の謀に始まる。君父の憂を遺す。而るを豈に之を先覚と謂わんや。夫れ大功を論ずる者は、妄りに取るべからず、枉げて致すべからず。資画を為す者は理に体し、顕わず競わず。而るを豈に令美を妨げんや。西蜀を削平するに当たりては、乃ち言語侍従の臣。東呉を擒翦するには、則ち訏謨廊廟の輔。其の功を較うれば則ち異有り、其の力を言えば則ち倫ならず。何ぞ其の重き所を捨てて其の軽き所を録し、其の小なる所を収めて其の大なる所を略すや。且つ奢靡を是れ嗜みて、而して曰く人を愛するに儉を以てすと。受授守り無くして、而して曰く才を慎むに補を以てすと。諫諍の士を外に斥くは、豈に近きの聡を蔽うに近からざらんや。忠烈の廟を内に挙ぐるは、豈に近きの昵愛に近からざらんや。焉んぞ聡を蔽い昵愛し、家範制無くして、能く法を垂れ程を作し、百度を憲章せんや。謹んで謚法に按ずるに、敬は以て内を直くす。内にして粛せざれば、何を以て外に刑せん。憲は法なり。『戴記』に曰く、「文武を憲章す」と。又た曰く、「慮憲を発す」と。義は以て敬恪終始と為す。歴位を載考するに、未だ嘗て一の法官を効し、一の小獄を議せず。重位に居るに及び、安和平易寛柔を以て自ら処る。其の名を考うるに、其の行と類せず。其の事を研ぐるに、其の道と侔わず。一定の辞は、惟だ精惟だ審なり。異日詳制し、諸の史官に貽す。請う、蔡寇将に平らぎ、天下事無きを俟ち、然る後に都堂に聚議せん。謚も亦た未だ遅からず。
憲宗は兵を用いていた折柄、仲方がその事を深く言うのを憎み、甚だ怒り、遂州司馬に貶し、量移して復州司馬とした。河東少尹に遷す。未だ幾ばくもせず、鄭州刺史を拝す。
滎陽の大海仏寺に、高祖が隋の鄭州刺史であった時、太宗の病のために福を祈り、この寺に石像一体を造り、凡そ十六字を刊勒してこれを誌したことがあった。歳月久しく剚缺していたので、滎陽令李光慶が重ねて修飾を加え、仲方が再び石に刊記してこれを聞かせた。
敬宗が即位すると、李程が相となり、仲方とは同年に進士第に登ったので、仲方を召して右諫議大夫とした。敬宗は童年にして戯れ慢り、詔して淮南王播に上巳の競渡船三十隻を造らせた。播は船材を京師に運んで造作し、半年の転運の費用を計ってようやく成し得た。仲方は延英に詣でて面論し、言甚だ懇激であった。帝はただ十隻を造って進めることを命じた。帝はまた華清宮に幸せんと欲し、仲方は諫めて曰く、「万乗の幸する所は、出ずるには儀を備うべし。軽々しく行くべからず、以て威重を失うことなかれ」と。帝は従わなかったが、これを慰労した。
太和初め、出でて福州刺史・兼御史中丞・福建観察使となる。三年、入りて太子賓客となる。五年四月、右散騎常侍に転ず。七年、李徳裕が政を輔けると、出でて太子賓客分司となる。八年、徳裕が相を罷めると、李守閔が再び仲方を召して常侍とした。
九年十一月、李訓の乱があり、四宰相・中丞・京兆尹皆死す。翌日、両省の官が朝に入る。宣政衙門未だ開かず、百官錯立して朝堂に在り、人吏の引接する者無し。逡巡して、閣門使馬元贄が斜めに宣政衙門を開き伝宣して曰く、「勅有り、左散騎常侍張仲方を召す」と。仲方が班を出づ。元贄宣して曰く、「仲方、京兆尹とすべし」と。然る後に衙門大いに開き、仗を喚ぶ。月余りして、鄭覃が相となり、薛元賞を用いて京兆尹とし、仲方を出して華州刺史とする。開成元年五月、入りて秘書監となる。外議は鄭覃が李徳裕に党し、仲方を排擯すとす。覃は朋党に渉るを恐れ、紫宸に奏事するに因り、覃啓して曰く、「丞郎人を闕く、臣張仲方を用いんと欲す」と。文宗曰く、「中台侍郎は、朝廷の華選なり。仲方が牧守として政無し、安んぞ以て丞郎としてこれを処せんや」と。累ねて銀青光禄大夫・上柱国・曲江県開国伯を加え、食邑七百戸。二年四月卒す。
仲方は貞確自立し、綽として祖風有り。謚を駁して以来、徳裕の党に擯斥され、坎坷として歿し、人士これを輩す。文集三十巻有り。
兄仲端は、位都昌令に終わる。弟仲孚は、進士第に登り、監察御史となる。
裴潾
裴潾は、河東の人なり。少く篤く学び、隷書を善くす。門蔭を以て仕に入る。元和初め、累遷して右拾遺となり、左補闕に転ず。元和中、両河に兵を用う。初め、憲宗は内官を寵任し、専ら兵柄に至る者有り、又内官を以て館驛使に充つ。曹進玉という者有り、恩を恃み暴戾にして、四方の使に遇うに多く倨り、捽辱するに至る者有り、宰相李吉甫これを罷むるを奏す。十二年、淮西に兵を用うるに、復た内官を以て使とす。潾上疏して曰く、「館驛の務は、毎驛に皆専知官有り。畿内には京兆尹有り、外道には観察使・刺史相疊りて監臨す;台中には又御史を以て館驛使に充て、専ら過闕を察す。伏して知る、近く敗事有り、上聖聰に聞こゆ。但だ科条を明示し、官吏を督責し、其の犯す所に拠り、重く貶黜を加うれば、敢えて惕懼せずして、日夜精を厲さざらんや。若し宮闈の臣をして、出でて館驛の務に参ぜしむれば、則ち内臣外事、職分各々殊なり、切に侵官の源を塞ぎ、出位の漸を絶つに在り。事不便有れば、必ず初めを以て誡むべく;令妨有るも、必ずしも大なるに在らず。当に妖氛を掃靜するの日、太平至理の風を開くべし。本を澄まし名を正すは、実に今日に在り」と。言用いられずと雖も、帝意これを嘉し、起居舎人に遷す。
憲宗季年、服餌に鋭く、詔して天下に奇士を搜訪せしむ。宰相皇甫鎛と金吾将軍李道古とが邪を挾み寵を固め、山人柳泌及び僧大通・鳳翔人田佐元を薦め、皆翰林に待詔す。憲宗泌の薬を服し、日増しに躁渴し、流聞外に聞こゆ。潾上疏して諫めて曰く、
臣は聞く、天下の害を除く者は天下の利を受け、天下の楽しみを共にする者は天下の福を享けると。故に上は黄帝・顓頊・堯・舜・禹・湯より、下は周の文王・武王に至るまで、皆功を以て生霊を済い、徳を以て天地に配し、故に天は皆これに上寿を以て報い、祚を無疆に垂れた。伏して見るに、陛下は大孝を以て宗廟を安んじ、至仁を以て黎元を牧す。践祚以来、積代の妖兇を刬ぎ、削平の洪業を開く。而して宰輔を礼敬し、終始を以て待ち、内には能く大断し、外には小故を寛ぐ。この神功聖化は、皆古来の聖主明君の及ばざる所にして、陛下躬親これを行い、実に千古に光映す。是れ即ち天地神祇は、必ず陛下に山嶽の寿を以て報い、宗廟聖霊は、必ず陛下に億万の齢を以て福し、四海蒼生は、皆陛下に覆載の永きを祈らん。自然に万霊保祐し、聖寿無疆ならん。伏して見るに、去年以来、諸処頻りに薬術の士を薦め、韋山甫・柳泌等あり、或いは更に相称引し、今に至るまで狂謬、薦送漸く多し。臣伏して以て真仙有道の士は、皆その名姓を匿し、代に求むることなく、山林に潜遁し、雲壑に影を滅し、唯人に見られんことを恐れ、唯人に聞かれんことを懼る。豈に公卿に干謁し、自らその術を鬻がんや。今者所有の薬術を誇炫する者は、必ず道を知れるの士に非ず。皆利を求めて来たり、飛煉を以て神なりと自ら言い、以て権貴賄賂を誘う。大言怪論、聴を驚かし時を惑わし、その仮偽敗露に及べば、曾て遁逃を恥じず。かかる情状、豈にその術を保信し、親しくその薬を餌らんや。『礼』に曰く「夫人は、味を食い声を別ち、色に被れて生くる者なり」と。『春秋左氏伝』に曰く「味は以て気を行わしめ、気は以て志を実く」と。又曰く「水火醯醢塩梅、以て魚肉を烹る。宰夫これを和し、味を以てこれを斉う。君子これを食し、以てその心を平らぐ」と。夫れ三牲五穀は、五行より稟り、五味として発す。蓋し天地の生む所以の人に奉ずるなり。是を以て聖人はこれを節して食い、以て康強逢吉の福を致す。若し夫れ薬石は、前聖これを以て疾を療す。蓋し常食の物に非ず。況んや金石は皆酷烈熱毒の性を含み、焼治を加うれば、動もすれば歳月を経、既に烈火の気を兼ぬれば、必ず防制し難からんことを恐る。若し乃ち前史を遠征せば、則ち秦・漢の君は、皆方士を信じ、盧生・徐福・欒大・李少君の如き、その後皆奸偽事発し、その薬竟に成ること無し。事『史記』・『漢書』に著し、皆験視すべし。『礼』に曰く「君の薬は、臣先ずこれを嘗む。親の薬は、子先ずこれを嘗む」と。臣子一なり。臣願わくは所有の金石、煉薬人及びこれを薦むる人、皆先ず一年服し、以てその真偽を考うれば、則ち自然に明験あらん。伏して惟うに、元和聖文神武法天応道皇帝陛下は、日月照臨の明を合し、乾元利貞の徳を稟け、正を崇ぶること指南の如く、諫を受くること転規の如し。是必ず精金の刃を発し、疑わしき網を断たん。所有の薬術虚誕の徒、伏して乞う特賜に罷遣し、その幻惑を禁ぜんことを。浮雲尽く徹し、朗日輝を増し、道化羲・農に侔ひ、悠久天地に配するは、実に此に在り。伏して以て、貞観以来、左右起居に褚遂良・杜正倫・呂向・韋述等あり、皆能くその忠誠を竭し、心を悉くして規諫す。小臣謬って侍従に参じ、職起居を奉じ、侍従の中、最も左右に近し。伝に曰く「近臣は規を尽くす」と。則ち近侍の臣、上に忠款を達するは、実にその本職なり。
上疏は旨に忤い、江陵令に貶せらる。
穆宗即位し、柳泌等誅せらる。潾を兵部員外郎に征し、刑部郎中に遷す。前率府倉曹曲元衡なる者有り、百姓柏公成の母を杖殺す。法官は公成の母死辜外に在りとし、元衡の父軍使に任じ、父の廕を以て銅を征す。柏公成密かに元衡の資貨を受け、母の死公府に聞えず。法寺は恩を経て罪を免ず。潾議して曰く「典刑は公柄なり。官に在る者は部属の内に施すことを得。若し官に在らず、又部属に非ざれば、私罪有りと雖も、必ず官に告ぐ。官これを理し、以て斉人に鞭捶を擅に行うことを得ざるを明らかにす。且つ元衡身官に在らず、公成の母部属に非ず。而して威力を憑み、横にこの残虐を加う。豈に常典に拘わるべけんや。柏公成讎より貨を取り、母の死を利す。天性に悖逆し、犯せば則ち必ず誅せらるべし」と。奏下り、元衡は杖六十配流、公成は法に論じて死に至る。公議これ称す。考功・吏部二郎中に転ず。
宝暦初、給事中に拝す。太和四年、汝州刺史・兼御史中丞と為り出で、紫を賜う。法に違いて人を杖殺するに坐し、左庶子に貶せられ、分司東都す。
七年、左散騎常侍に遷り、集賢殿学士を充てる。歴代の文章を集め梁の昭明太子『文選』を継ぎ、三十巻を成し、目して『大和通選』と曰い、並びに音義・目録一巻を上る。当時の文士、素より潾と遊ばざる者は、その文章少しくその選に在り、時論皆これを薄しむ。
八年、刑部侍郎に転じ、尋いで華州刺史に改む。九年、復た刑部侍郎に拝す。開成元年、兵部侍郎に転ず。二年、集賢院学士を加え、院事を判す。尋いで河南尹と為り出で、入りて兵部侍郎と為る。三年四月卒す。戸部尚書を贈り、謚して敬と曰う。
潾は道義を以て自ら処し、事上に心を尽くし、尤も朋党を嫉み、故に権幸に知られず。憲宗竟に薬を以て誤り寿を保たず。君子潾を以て言を知るとす。穆宗柳泌を誅すと雖も、既にして自ら惑い、左右近習、稍稍復た方士を進む。時に処士張臯有り、上疏して曰く。
神慮淡ければ則ち血気和し、嗜欲勝てば則ち疾疹作る。和すれば則ち必ず寿考に臻し、作れば則ち必ず傷残に致る。是を以て古の聖賢は、務めて自ら頤養し、外物を以て耳目を撓さず、声色に徇いて性情を敗らず。此に由りて和平自ら臻し、福慶斯に集る。故に『易』に曰く「妄り無きの疾、薬勿れ有れ喜び有り」と。『詩』に曰く「天より康を降し、福を降す穰穰たり」と。此れ皆理天人に合し、経訓に著る。然らば則ち薬は以て疾を攻む。疾無ければ固よりこれを餌るべからず。高宗朝、処士孫思邈なる者、精識高道有り、摂生に深く達し、著す所の『千金方』三十巻、代に行わる。その『序論』に云く「凡人故無くして薬を服すべからず。薬気偏に助くるところ有り、人の臓気をして平らかならしめず」と。思邈この言、事理に洞たりと謂うべし。或いは寒暑寇と為り、節宣乖わ有り、事医方を資とすと雖も、尚須らく重慎す。故に『礼』に云く「医三代に及ばざれば、その薬を服さず」と。凡庶に施すも、猶且く此の如し。況んや天子に在りて、豈に自ら軽んずべけんや。先朝暮年、頗る方士を好み、征集合せず一ならず、嘗試亦多し。果たして危疾を致し、中外に聞ゆ。足りて殷鑒と為す。皆陛下素より詳しく知る所、必ず更に前車に踵き、自ら後悔を貽すべからず。今朝野の人、紛紜窃に議す。直ちに旨に忤うを畏れ、敢えて言を献ぜず。臣蓬艾の微生、麋鹿と同処す。既に寵を邀えず、亦又何をか求む。但だ古今を泛覧し、粗く忠義を知り、聞きて黙するは、理に安からず。願わくは陛下芻蕘を怒ること無く、庶くは万一に裨せんことを。
穆宗その言を嘆賞し、尋いで臯を訪わしむるも、獲ず。
李中敏
李中敏は隴西の人である。父は李嬰。中敏は元和の末に進士第に登り、性質は剛直で偏狭、敢えて直言する。進士杜牧・李甘と親しく交わり、文章の趣向は、大略似通う。中敏は累次府の辟召に従い、入朝して監察となり、侍御史を歴任した。太和年間、司門員外郎となった。
六年の夏旱魃あり、時に王守澄は鄭註を寵愛し、及び宋申錫を誣告して陥れた後、人々は側目してこれを畏れた。上は久しく旱魃が続くを以て、詔して雨を致す方策を求む。中敏上言して曰く、「連年の大旱は、聖徳の至らざるに非ず、ただ宋申錫の冤濫、鄭註の奸弊によるのみ。今雨を致す方策は、鄭註を斬り申錫の冤罪を雪ぐに若くは莫し」と。士大夫皆これを危ぶみ、上疏は留中して下さず。明年、中敏は病を謝して洛陽に帰る。訓・註の誅殺に及び、遂に申錫の冤罪を雪ぎ、中敏を召して司勛員外郎となす。尋いで刑部郎中に遷り、臺雜を知る。
其の年、諫議大夫に拝し、理匭使を充てる。上言して曰く、「旧例に拠れば、匭に進状を投ずる者は先ず副本を匭使に呈し、或いは詭異にして行い難きものは、進入を許さず。臣文按を検尋するも、本勅を見ず、所由はただ貞元に奉宣せしと云うのみ、恐らくは一時の事ならん。臣以為く、本匭函を置くは、毎日内より将出し、日暮に進入するは、意は冤濫無告にして、有司の申理せざる者をして、或いは時政を論じ、或いは利害を陳ぜしめんが為なり。宜しく其の必達の路を開くべく、以て聡明を広くし幽枉を慮る所以なり。若し有司をして先に見せしめ、其の可否を裁せしむれば、即ち事を重密にし、壅塞して自ら九重に伸ぶるを俾すの意に非ず。臣伏して請う、今後所有の進状及び封事は、臣但だ引進を為し、取舍可否は、断じて中旨よりせしめん。庶幾くは名実茲に在りて、以て匭を置くの本を明らかにせん」と。之に従う。尋いで給事中に拝す。
李甘
李甘、字は和鼎。長慶末、進士に擢第し、又制策に登科す。太和年間、累官して侍御史に至る。鄭註が翰林侍講に入り、舒元輿既に相と作るや、註も亦た中書に入らんことを求む。甘朝に唱えて曰く、「宰相は、天に代わりて物を理むる者、先ず徳望にして後に文藝なり。註は何なる人ぞ、敢えて茲に叨竊せん。白麻若し出ずれば、吾必ず之を壊さん」と。会に李訓も亦た註の求むる所を悪む、註を相とする事竟に寝す。訓已むを得ず、甘を封州司馬に貶す。
又李款有り、中敏と同時に侍御史と為る。鄭註邠寧より入朝す、款閣に伏して註を弾劾し云く、「内に敕使に通じ、外に朝官を結び、両地往来し、財貨を卜射す」と。文宗之を省みず。及び註用事するに及び、款も亦た逐われぬ。開成中、累官して諫議大夫に至り、出でて蘇州刺史と為り、洪州刺史・江西観察使に遷る。杜牧は自ら伝有り。
高元裕
高元裕、字は景圭、渤海の人。祖父は高甝。父は高集、官は卑し。元裕は進士第に登り、本名は允中、太和初、侍御史と為り、奏して元裕と改む。累遷して左司郎中。李宗閔相と作るや、用いて諫議大夫と為し、尋いで中書舎人に改む。九年、宗閔罪有って南遷す、元裕城を出でて餞送す、李訓の怒る所と為り、出でて閬州刺史と為る。時に鄭註翰林に入る、元裕註の制辞を草し、註の医薬を以て親に召し奉るを言う、註怒る。会に宗閔を送るに及び、乃ち之を貶す。訓・註既に誅せられ、復た征して諫議大夫と為す。
開成三年、翰林侍講学士を充てる。文宗莊恪太子を寵し、正人をして師友たらしめんと欲す。乃ち太子賓客を兼ぬ。四年、御史中丞に改め、風望峻整たり。上言して曰く、「御史府は紀綱の地、官属の選用は、宜しく実才を得べし。其の称せざる者は、臣請う之を出ださん」と。監察御史杜宣猷・柳壞・崔郢、侍御史魏中庸・高弘簡、並びに称せざるを以て、出でて府県の職と為す。尋いで藍田県の人賀蘭進、裏内の五十余人と相い聚りて念佛す、神策鎮将皆之を捕え、以て謀逆と為し、大辟に当たる。元裕其の冤を疑い、上疏して賀蘭進等を出だして臺に付し覆問せしめ、然る後に刑を行わんことを請う、之に従う。
会昌中、京兆尹と為る。大中初、刑部尚書と為る。二年、検校吏部尚書・襄州刺史、銀青光禄大夫・渤海郡公・山南東道節度使を加う。入朝して吏部尚書と為り、卒す。元裕の兄に少逸・元恭有り。
少逸、長慶末侍御史と為り、弟元裕の貶官に坐し、左授して賛善大夫と為り、累遷して左司郎中。元裕中丞と為るや、少逸諫議大夫に遷り、元裕に代わりて侍講学士と為る。兄弟禁密に叠り処る、時人之を栄しむ。会昌中、給事中と為り、封奏多し。大中初、検校礼部尚書・華州刺史・潼関防禦・鎮国軍使。入朝して左散騎常侍・工部尚書と為り、卒す。
元裕の子璩、進士第に登る。大中朝、内外の制を歴て丞郎、度支を判ず。咸通中、中書侍郎・平章事を守る。
李漢
李漢、字は南紀、宗室淮陽王李道明の後。道明は景融を生み、景融は務該を生み、務該は思を生み、思は岌を生む。岌より以上は名位無く、及び岌は蜀州晉原尉と為る。岌は荊を生み、荊は陜州司馬と為る。荊は漢を生む。
漢、元和七年進士第に登り、累次使府を辟す。長慶末、左拾遺と為る。敬宗宮室を治むるを好み、波斯の賈人李蘇沙沈香亭子の材を献ず。漢上疏して之を論じて曰く、「若し沈香を以て亭子と為さば、即ち瑤臺瓊室の事と同じ」と。寶歷中、王政日に僻し、漢は同列薛廷老と、閣に入るに因り、廷に奏して曰く、「近日除授は中書に由らず、擬議多くは宣出して施行す。臣恐らくは此より紀綱大いに壊れ、奸邪恣に行わるるを。願わくは陛下各々有司に敕し、稍く典故を存せしめよ」と。言以て旨に忤うに坐し、出でて興元従事と為る。
文宗が即位すると、召されて屯田員外郎・史館修撰となった。李漢は韓愈の娘婿であり、幼少より韓愈に師事して文章を学び、古学に長じ、剛直で直言する点も韓愈に似ていた。『憲宗実録』の編纂に預かり、特に李徳裕に憎まれた。太和四年、兵部員外郎に転じた。李宗閔が宰相となると、知制誥に任用され、まもなく駕部郎中に昇進した。
八年、宇文鼎に代わって御史中丞となった。時に李程が左僕射であり、儀注が定まっていないとして、定制を奏請した。先に、太和三年に、両省の官人が左右僕射の儀注を共に定めたことがあった。御史中丞以下は、僕射と道で出会えば、令に依って敬意を表し、馬を引き止めて側に立って待つ。僕射が謝官(新任の挨拶)の日には、大夫・中丞・三院の御史が、幕次に赴いて参見する。観象門外での立班(整列)では、後から到着する者を上位とする慣例であった。大夫・中丞が班に到着した後、朝堂所由が僕射をその位置に導き、伝呼して礼儀を唱導し、それから大夫が列に就く儀礼が始まる。班が退く時も、唱導は同様である。御史大夫と僕射が道で出会えば、別々の道を行く。旧例では、左右僕射が初めて上省する時、御史中丞・吏部侍郎以下が羅列して拝礼した。四年に、中書が奏上した。『僕射が中丞・侍郎の拝礼を受けるのは、あまりに重すぎる。郎官以下の拝礼に答えるのは、軽すぎる。今後は、諸司の四品以下の官、及び御史台の六品以下と郎官は、旧例に準じることを望む。その他は元和七年の勅の処分に依る。』と。これを許可した。この時、李程の奏上に因り、李漢が議して言った。『左右僕射が初上する時、左右丞・諸曹侍郎・諸司四品及び御史中丞以下の拝礼を受ける。謹んで『開元礼』及び『六典』を按ずるに、この儀注は無く、その由来を知らない。或いは僕射は百僚の師長であるというが、この言葉も根拠が無く、ただ曹魏の時の賈詡の『譲官表』中の一句があるのみである。しかも尚書令は正長であるが、拝礼を受けるという条文は無い。旧例では、御史中丞・司隷校尉と共に、三独坐と号した。朝廷においては比肩し、同じく聖主に仕える者であり、南面して拝礼を受けるのは、臣下としてどうして安んじられようか。仮に明文があっても、なお改めるべきである。故に『礼記』に曰く、『君は士に対しては拝礼に答えない。その臣でなければ答える。』とある。ましてや御史中丞・殿中御史は供奉官であるから、特に不可である。儀制令には隔品の条文があるが、それがそのまま拝礼を受けることになるかは分からない。また御史大夫も、かつては御史以下の拝礼を受けたが、今は行われていない。礼数が僭越で逼迫し、人臣の安んずる所ではないからである。元和六年七月に、詔して崔邠・段平仲に当時の礼官王涇・韋公肅らと共にこの事を議させたが、その理は甚だ精詳であった。今これを挙げて行うことを請う。折衷と為すであろう。』時に李程が省に入り、結局は旧儀のままとなったが、議者は李漢の奏を正しいとした。
七年、礼部侍郎に転じた。八年、戸部侍郎に改めた。九年四月、吏部侍郎に転じた。六月、李宗閔が罪を得て宰相を罷免されると、李漢はその党に坐して、汾州刺史として出された。宗閔が再び貶されると、李漢も汾州司馬に改められ、なお二、三十年にわたり録用されなかった。会昌年中、李徳裕が権勢を握ると、李漢は遂に落ちぶれて没した。
李漢の弟の李浐・李洗・李潘は、皆進士第に及第した。李潘は大中初年に礼部侍郎となった。李漢の子の李貺も、進士第に及第した。
李景儉
李景儉、字は寛中、漢中王李瑀の孫である。父は李褚、太子中舎を務めた。景儉は貞元十五年に進士第に及第した。性質は俊朗で、博聞強記、よく前史を読み、その成敗を詳しく知った。自ら王覇の略を負い、士大夫の間で屈したり降ったりすることは無かった。
貞元末、韋執誼・王叔文が東宮で権勢を握り、特に彼を重んじ、管仲・諸葛亮の才を持って遇した。叔文が政権を窃取した時、景儉は母の喪に服していたため、連座に及ばなかった。韋夏卿が東都留守となると、従事として召し抱えた。竇群が御史中丞となると、監察御史に推挙した。竇群が罪を得て左遷されると、景儉は連座して江陵戸曹に貶された。累遷して忠州刺史となった。
元和末年に朝廷に入った。執政者は彼を憎み、澧州刺史として出した。元稹・李紳と親しくした。時に李紳・元稹は翰林に在り、しばしば天子の前で言上した。延英殿で辞する日、景儉は自ら己が屈していることを陳べると、穆宗はこれを憐れみ、詔を追って倉部員外郎に任じた。一月余りで、急に諫議大夫に昇進した。
性質は既に傲慢で、寵愛と抜擢を受けた後は、公卿大臣を凌ぎ蔑ろにし、酒に任せた振る舞いが特に甚だしかった。中丞蕭俛・学士段文昌が相次いで政務を補佐したが、景儉は彼らを軽んじ、談笑や戯れの言葉に表した。二人共にこれを訴え出ると、穆宗は已むを得ず、彼を貶した。制書に曰く、『諫議大夫李景儉は、宗枝より抜擢され、かつて儒術を探り、台閣を歴任し、また郡の符節も分掌した。しかし行動は時に仁に背き、行いは義によらない。権幸に附いて節を損ない、奸党の陰謀に通じた。衆情は皆疑い、群議は収まり難い。その因縁の状に拠れば、厳しい科罰を置くべきであるが、長養(万物が育つ夏)の時に順い、特に寛大な典則に従う。過ちを省みるよう努め、非を曲げて従ってはならない。建州刺史とすることを可とする。』と。間もなく元稹が権勢を握ると、郡から召還され、再び諫議大夫となった。
その年十二月、景儉が朝を退いた後、兵部郎中知制誥の馮宿・庫部郎中知制誥の楊嗣復・起居舎人の温造・司勲員外郎の李肇・刑部員外郎の王鎰らと共に史官の獨孤朗を訪ね、史館で酒を飲んだ。景儉は酔いに乗じて中書省に赴き宰相を訪ね、王播・崔植・杜元穎の名を呼び、面と向かってその過失を列挙し、言葉は甚だ背いて無礼であった。宰相は穏やかな言葉で止めたが、直ちに奏上して漳州刺史に貶した。この日史館で共に飲んだ者は皆貶逐された。
景儉が漳州に到着しないうちに元稹が宰相となり、楚州刺史に改めて授けた。議者は、景儉が酒に任せて宰臣を凌ぎ侮り、詔令が行われたばかりなのに、急に大郡に遷されたと評した。元稹は世間の非議を恐れ、追いかけて召還し、少府少監を授けた。連座した者も皆召還された。しかし景儉は遂に人に逆らい志を得ずに没した。景儉は財を疎んじ議論を尊び、名節を厳しくは守らなかったが、死んだ日、知名の士は皆惜しんだ。
景儉の弟の景儒・景信・景仁は、皆学芸に優れ、当時に知られた。景信・景仁は、共に進士第に及第した。
【賛】
史臣曰く、仲尼に言あり、『中行を得てこれと与せずんば、必ずや狂狷か。』と。もし張仲方が考第を論じ、李渤が諡を駁したことは、誠に後悔を知りながら、言うことを止められなかったと言え、狷と呼ぶべきか。賊臣の鄭注が邪を挟んだ時に、群公は口を結んで沈黙したが、高元裕・李甘・李中敏は、或いはその言を肆にし、或いはその筆を奮い、醜い行跡を暴露し、虎の鬚をかきむしることを憚らなかった。これを狂と呼べば、遺恨があるが、佞臣の首を断つために剣を請うた者と比べても、同年に語ることもできよう。李漢は良史の才があり、自立するに足りたが、権幸と協力し比肩し、顛沛して終わった。君子は独りを慎む、どうして軽んじることができようか。景儉は自負が過ぎ、放蕩で検束がなく、良馬が中年に跅弛(行儀が悪くなる)する患いである。
賛して曰く、張仲方・李中敏の切なる言論は、鋭い刃が雲を断つが如し。裴濆が方士を諫めたのは、深く誠を尽くして君を愛したからである。賊臣の鄭注を排撃した言論は、高元裕・李甘は群を抜いている。李漢・李景儉が朋党を結んだことは、何を云うに足らん。