旧唐書
巻一百六十九 列伝第一百十九 李訓、鄭注、王涯、王璠、賈餗、舒元輿、郭行餘、羅立言、李孝本
李訓
李訓は、粛宗の時の宰相李揆の族孫である。初めは仲言と名乗った。進士に及第した。容貌は魁偉で、神情は洒落としており、弁舌は敏捷で知恵はすばやく、人の心を推し量るのが巧みであった。宝暦年間、従父の李逢吉が宰相となると、訓の陰険で事を計るのに長けているのを以て、ますます親しく厚遇した。初め茅匯らと共に李程を中傷しようとし、武昭の事件が発覚すると、訓は連座して嶺表に長流され、赦令に遇って帰還した。母の喪に服し、洛中に居住した。
時に逢吉は留守となり、再び宰相となることを思い、かつ裴度を深く怨み、常に憤鬱として楽しまなかった。訓はその意を推し量り、即ち奇計を以て動かした。自ら鄭注と親善であると言い、逢吉はこれを信じ、訓に金帛珍宝数百万を遺わし、長安に持参させて注に賄賂を贈らせた。注は賄賂を得て甚だ喜び、隙を見て中尉王守澄に推薦し、遂に注の薬術と訓の『易』の道とを合わせて文宗に推薦した。守澄は訓が喪服を着ているのを以て、禁中に入るのは難しいとした。帝は訓に戎服を着せ、王山人と号させ、注と共に内に入らせた。帝はその旨趣を見て、甚だこれを奇とした。訓が喪服を脱ぐと、京師に在った。太和八年、流人から四門助教に補され、内殿に召し入れられ、面と向かって緋魚袋を賜った。その年十月、国子『周易』博士に遷り、翰林侍講学士を充てた。入院の日、宴を賜い、法曲弟子二十人を宣して院に就かせ法曲を奏させて寵遇した。両省の諫官が閣に伏して切に諫め、訓が奸邪であること、海内に知れ渡っていることを言い、宸扆に侍らせるべきではないとしたが、終に聞き入れられなかった。
文宗は性来、正を守り悪を憎み、宦官の権勢と寵愛が過ぎることを以て、継いで禍の胎となるとし、元和末の弑逆の徒が尚左右に在るのを、外には優遇して仮借する様子を示しながらも、心には耐えられなかった。本根を芟り落として讐恥を雪ごうと思い、九重の深き処に在って、将相と明言するのは難しかった。以前に侍講宋申錫と謀ったが、謀り方が良くなく、殆ど反噬を成すところであった。これより巷伯(宦官)は特に横暴となった。鄭注が守澄の寵幸を得たことにより、彼に訓を援けさせ、黄門(宦官)に疑われないことを冀った。訓が翰林に在ってから、『易』を解く際に、時に巷伯の事に言及すると、再三憤激して、上心を動かした。その言論が縦横であるのを以て、必ず事を成すことができると思い、遂に真摯な気持ちで訓と注に謀った。これより二人は寵幸を受け、言うこと聞かれざるはなく、深く秘めた謀り事が、往々にして外に流れ聞こえた。上は中人の猜慮を慮り、『易』の義を六条に疏して、百辟に示し、訓の意を出せる者があれば賞するとし、蓋し上が師友として寵遇していることを知らしめようとしたのである。九年七月、兵部郎中・知制誥に改め、翰林学士を充てた。九月、礼部侍郎・同平章事に遷り、仍って金紫の服を賜った。詔して平章の暇に、三、五日に一度翰林に入るとした。
訓は権衡を執るや、即ち内豎(宦官)を誅することを謀った。中官陳弘慶は、元和末より弑逆の名を負い、忠義の士は扼腕しない者はなかった。時に襄陽監軍であったが、漢南より召し出し、青泥駅に至らせ、人を遣わして杖を封じて決殺させた。王守澄は長慶以来、枢密を知り、禁軍を典し、威福をほしいままにしていた。訓が宰相となると、守澄を六軍十二衛観軍容使とし、その禁旅の権を罷め、間もなく鴆を賜って殺した。訓はますます恩顧を受け、別殿で奏対する毎に、他の宰相はその言に順成しない者はなく、黄門禁軍は迎え拝んで戢め斂めた。訓は元来細やかで物事に通じ、門庭に趨り附く士は、率いること皆狂怪険異の流れであった。時にまた正人で声望高い者を取って、人心を鎮めることもできた。天下の人には、訓によって太平を致すことを冀う者もあり、独り人主のみがその言に惑わされたのではない。
訓は鄭注に引用されたが、禄位が共に大きくなるに及んで、勢い両立せず、中外応赴の謀を托して、注を鳳翔節度使として出させた。内豎を誅した後、即ち兼ねて注を図ろうとした。その年十一月に中官を誅することを約し、兵力を仮る必要があったので、大理卿郭行余を邠寧節度使とし、戸部尚書王璠を太原節度使とし、京兆少尹羅立言を権知大尹事とし、太府卿韓約を金吾街使とし、刑部郎中知雑李孝本を権知中丞事とし、皆訓の親厚な者であった。王璠・郭行余が赴鎮しない間に、広く豪侠及び金吾台府の従者を召募させ、その事を集めさせようと冀った。
その月二十一日、帝は紫宸殿に御した。班が定まり、韓約が平安を報ぜず、奏して言うには、「金吾左仗院の石榴樹に、夜来甘露が降りました。臣は既に進状を済ませました」と。乃ち蹈舞して再拝した。宰相百官が相次いで慶賀を称した。李訓が奏して言うには、「甘露が祥瑞として降り、宮禁に在ります。陛下は宜しく親しく左仗に幸してこれをご覧になるべきです」と。班が退き、上は軟輿に乗って紫宸門を出、含元殿の東階より殿に昇り、宰相侍臣は副階に分立し、文武両班は殿前に列した。上は宰相両省官に先ず往って視させた。既に還ると、言うには、「臣等は真の甘露ではないかと恐れ、軽々しく言えません。言い出せば、四方必ず慶賀を称するでしょう」と。上は言うには、「韓約が妄りか」と。乃ち左右軍中尉・枢密内臣に往って視させた。
既に去ると、訓は王璠・郭行余を召して言うには、「来て勅旨を受けよ」と。璠は恐れ慄いて前に進めず、行余独り殿下に拝した。時に両鎮の官健は、皆兵を執って丹鳳門外に在り、訓は既に召すことを命じていたが、唯だ璠の従兵のみが入り、邠寧の兵は遂に至らなかった。中尉・枢密が左仗に至ると、幕下に兵の声を聞き、驚恐して走り出た。閽者が扃ぎ鎖そうとしたが、中人に叱られ、関を執って下ろすことができなかった。内官が回奏すると、韓約は気が怯み汗を流し、首を挙げることができなかった。中官はこれに謂って言うには、「将軍、何ぞ此くの如きに及ぶや」と。又奏して言うには、「事急です。請う、陛下内に入らんことを」と。即ち軟輿を挙げて帝を迎えた。訓は殿上で呼んで言うには、「金吾衛士、殿に上れ。乗輿を護る者、人ごとに百千を賞す」と。内官は殿後の罘罳を決し、輿を挙げて疾く趨った。訓は攀じ登って呼んで言うには、「陛下、内に入るべからず」と。金吾衛士数十人が、訓に随って入った。羅立言が府中の従人を率いて東より来り、李孝本が台中の従人を率いて西より来り、合わせて四百余人、殿に上って内官を縦撃し、死傷者数十人。訓は時に愈々急ぎ、邐迤として宣政門に入った。帝は瞋目して訓を叱り、内官郤誌榮が奮って拳を以てその胸を撃つと、訓は即ち僵んで地に仆した。帝は東上閣門に入り、門は即ち閉じ、内官が万歳を呼ぶこと数四。須臾にして、内官が禁兵五百人を率い、刃を露わして閣門を出、人に遇えば即ち殺した。宰相王涯・賈餗・舒元輿は、方に中書で会食中、難を聞いて出走し、諸司の従吏で死する者六七百人。
この日、訓は拳を中てて仆れ、事の成らざるを知り、乃ち単騎で終南山に走り入り、寺僧の宗密に投じた。訓は宗密と平素親善で、その髪を剃って匿おうとした。従者がこれを止めたので、乃ち鳳翔に趨り、鄭注に依らんとした。山を出て、盩厔鎮将宗楚に得られ、械に繋がれて京師に送られた。昆明池に至り、訓は軍に入って別に搒掠を受けることを恐れ、乃ち兵士に謂って言うには、「所々に兵がいる。我を得る者は即ち富貴となる。我が首を持って行くに如かず、奪い取られるのを免れよう」と。乃ち訓を斬り、首を持って行った。
訓の弟仲景、再従弟の戸部員外郎元臯は、皆法に伏した。
仇士良は宗密が李訓を匿ったとして、人を遣わして左軍に縛り込み、告げなかった罪を責めた。殺そうとしたところ、宗密は怡然として言った、「貧僧は訓を長年知っており、反逆も知っていた。しかし本師の教法は、苦難に遭えば即ち救い、身命を惜しまない。死ぬのはもとより甘んじて受ける」と。中尉魚弘誌はこれを賞賛し、その罪を赦すよう奏上した。
鄭注
鄭注は、絳州翼城の人で、初め薬術をもって長安の権豪の門を遊歴した。本姓は魚であったが、鄭の姓を冒したので、当時は魚鄭と号された。注が権勢を振るう時、人々は彼を「水族」と目した。
元和十三年、李愬が襄陽節度使となると、注は赴いてこれに依った。愬はその薬の効力を得て、厚く遇し、節度衙推に任じた。愬に従って徐州に移鎮し、また職事となり、軍政の可否を、密かに参決した。注は詭弁に陰狡で、人の意を探るのが巧みで、愬と籌謀するに、その意に中らぬことはなかった。しかし邪を挟み数に任せ、専ら威福をなしたので、軍府はこれを患った。時に王守澄が徐軍を監していたが、深く注を怒った。ある日、軍情に関する患いを注のせいとして愬に告げた。愬は言った、「彼はこのようではあるが、実に奇才である。将軍試みに彼と語ってみよ。もし意に叶わなければ、去らせても遅くはない」と。愬は即ち監軍に謁せしめた。守澄は初め難色を示したが、座に延いて語るに及び、機辯縦横、ことごとくその意に中り、遂に内室に延いて促膝投分、相見ゆるの晚きを恨んだ。翌日、守澄は愬に言った、「誠に公の言う通り、実に奇士である」と。ここより守澄の門を出入りし、まったく隔てがなくなった。愬は巡官に任じ、賓席に列した。
守澄が枢密を知るに及び、長慶・宝暦の際、国政は多く守澄に専らされた。注は昼は伏し夜は動き、賂遺を交通した。初めは讒邪奸巧の徒がこれに附いて進取を図り、数年後には、達僚権臣が争ってその門に湊った。累ねて山東・京西諸軍に従い、衛佐・評事・御史を歴任し、また検校庫部郎中となり、昭義節度副使となった。既に陰事をもって宋申錫を誣陷し、守道の正人より、初めて側目されるようになった。
太和七年、邠寧行軍司馬を罷め、京師に入った。御史李款が閣内でこれを弾劾して言った、「鄭注は内に敕使と通じ、外に朝官と結び、両地往来し、財貨を卜射し、昼伏夜動、化権を幹窃す。人は敢えて言わず、道路以て目す。法司に付するを請う」と。旬日の内に、諫章十数、文宗は納れなかった。まもなく注を通王府司馬に授け、右神策判官を充て、中外駭嘆した。八年九月、注は薬方一卷を進め、守澄に命じて注を浴堂門に召対させ、錦彩を賜った。召対の夜、彗星が東方に出て、長さ三尺、光耀甚だ緊であった。その年十二月、太僕卿・兼御史大夫に拝された。
注は善和裏に邸を建て、永巷に通じ、長廊復壁を設けた。日ごと京師の軽薄子弟・方鎮将吏を集め、権利を招いた。間日に禁軍に入り、守澄と款密に語り、必ず時を移し、あるいは徹夜眠らなかった。李訓は既に注に附いて進み、間を承けて入謁した。そして軽浮躁進の者が、注の門に満ちた。九年八月、工部尚書に遷り、翰林侍講学士を充てた。九仙門より召され、帝は面して告身を賜った。時に李訓は既に禁庭におり、二人は相洽い、日ごと君側に侍り、太平の術を講貫し、朝夕に昇平を致す可しとした。両奸合従し、天子ますますその説に惑わされた。この時、訓・注の権勢は天下に赫とした。既にその志を行うを得、平生の恩仇は、絲毫も必ず報いた。楊虞卿の獄に因り、李宗閔・李徳裕を忌み挟み、心に悪む者を、二人の党と目した。朝士相継いで斥逐され、班列これがために一空し、人人惴栗し、厥角を崩すが若かった。帝は微かにこれを知り、詔を下して慰諭し、人情稍々安んじた。
訓・注は天資狂妄で、偷合苟容し、経略謀猷に至っては、称すべきものはなかった。初め浴堂で召対した時、上は富人の術を訪ねると、榷茶を以て答えた。その法は、江湖百姓の茶園を、官自ら造作し、量を給して直分し、使者を命じてこれを主たらしめようとするものであった。帝はその言に惑い、王涯に兼ねて榷茶使を命じた。また秦中に災いあり、工役を興して以てこれを禳うべしと言った。文宗は詩を能くし、嘗て杜甫の『江頭篇』を吟じて「江頭宮殿鎖千門、細柳新蒲誰が為れか緑」と言った。ここに始めて天宝以前、曲江の四岸を環らして楼臺行宮廨署有りしことを知り、心に切にこれを慕った。既に注の言を得て、即ち左右神策軍に命じて人を差し曲江・昆明の二池を淘らせ、仍って公卿士大夫の家に江頭に亭館を立つるを許し、時に追賞せしめた。時に両軍は紫雲楼・彩霞亭を造り、内より楼額を出してこれを賜った。注の言うこと従わざるはなく、皆この類いであった。
九月、検校尚書左僕射・鳳翔尹・鳳翔節度使となった。蓋し李訓と謀事に期有り、中外協勢せんと欲したのである。十一月、注は訓の事発するを聞き、鳳翔より親兵五百余人を率いて闕に赴いた。扶風に至り、訓の敗れたるを聞き、乃ち還った。監軍使張仲清は既に密詔を得て、迎えて労い、監軍府に召して事を議した。注は兵衛に倚りて即ちこれに赴いたが、仲清は既に幕下に伏兵を設けていた。注方に坐するや、伏兵発し、注を斬り、首を京師に伝え、部下は潰散した。注の家屬は屠滅され、孑遺有ること靡かった。初め注を獲ざりし時、京師は憂恐した。ここに至り、人人相慶した。
注は両目遠く視る能わず、自ら金丹の術有りと称し、痿弱重膇の疾を去る可しと言った。初め李愬自ら効を得たりと云い、乃ちこれを守澄に移し、またその事を神とした。ここより中官は注を見るに皆これを憐み、卒にこれをもってその狂謀を售った。而して守澄は自らその患いを貽し、復た衣冠を塗地に致した。豈に一時の沴気であろうか。既にその家財を籍没するに、絹一百万匹を得、他の貨もこれに称した。
王涯
王涯、字は広津、太原の人。父は晃。涯は、貞元八年進士に擢第し、宏辞科に登った。藍田尉に釈褐した。貞元二十年十一月、召されて翰林学士を充て、右拾遺・左補闕・起居舍人に拝され、皆内職を充てた。元和三年、宰相李吉甫の怒りに触れ、学士を罷め、都官員外郎を守り、再び虢州司馬に貶された。五年、吏部員外に入った。七年、兵部員外郎・知制誥に改めた。九年八月、正しく舍人に拝された。十年、工部侍郎・知制誥に転じ、通議大夫・清源県開国男を加えられ、学士は元の如くであった。十一年十二月、中書侍郎・同平章事を加えられた。十三年八月、相を罷め、兵部侍郎を守り、尋いで吏部に遷った。
穆宗が即位すると、涯は検校礼部尚書・梓州刺史・剣南東川節度使に任ぜられた。その年の十一月、吐蕃が南北から犄角の勢いで侵入し、西北辺境が騒動したため、詔して両川の兵にこれを防がせた。時に吐蕃軍が雅州に迫ったので、涯は上疏して言うには、「臣が管轄する道から出兵し、賊の腹地に直入するには二つの道がある。一つは龍州清川鎮から吐蕃の境界に入り、直ちに故松州城に至る道で、これは吐蕃が旧来節度を置いた所である。もう一つは綿州威蕃柵から吐蕃の境界に入り、直ちに棲鶏城に至る道で、いずれも吐蕃の険要の地である」。また言うには、「臣が拝見するに、方今天下には犬の吠えるような警報もなく、海内は覆いをかぶせた盂のように安泰である。しかし蕃戎が一度警報を発すれば、内外ともに震動し、陛下に遅くまで食事もとれず心を痛める憂いを生じさせる。これはまさに臣らが大官に居り、重い任を受けている者の深い責務である。詔を承って兵を発し、心は敵の朝廷に馳せ、期するところは国のために討ち除き、戎人を芟り剪ることにある。昼夜考えをめぐらせても、何の補いになろうか。それゆえ愚かな心を尽くして、万が一でも申し上げたい。臣が観るに、古来の長策は明らかに徴すべきものがある。それは辺境の兵を充実させ、良将を選び、斥候を明らかにし、資糧の蓄えを広め、その奸謀を杜絶し、その走集(要害)を険しくすることにある。これは朝廷の士大夫が皆知っていることで、微臣だけが知っているのではない。ただ実行するのみである。しかし臣の愚見の及ぶところを、なお述べたいのは、誠に願わくは陛下が金帛の費用を惜しまず、これをもって北虜の心を釣ろうとされることである。信頼する臣を臨時に派遣し、彼らと約定を定めて言うには、『犬戎が道理に背き恩を負い、辺境の患いとなったことは数度に及ぶ。これを制して服させることのできるのは、ただ北蕃(回鶻など)にある。もし兵を発して深く侵入し、若干の人を殺し、若干の地を取れば、それに応じて若干の賞を受ける』と。懐を開いて示し、厚い利益で誘い、要約を勧めそそのかすことを他日とは異ならしめれば、匈奴(回鶻)の鋭鋒を出すことができるであろう。一戦の後には、西戎(吐蕃)の力は衰えるであろう」。穆宗はその謀を用いることができなかった。
長慶元年、幽州・鎮州が再び乱を起こし、王師がこれを征討したが、勝利の報は聞こえなかった。涯は任地で上書して用兵について論じた。
伏して考えるに、幽・鎮の両州は天の秩序に背き乱し、養育の厚い徳を迷わせ、豺虎のような非道な心をほしいままにしている。鼎臣(重臣)を囚禁し、戎帥(将帥)を殺害し、毒は諸郡に流れ、禍いは賓僚に及んでいる。情あるもの全て、誰が手を扼して憤らないであろうか。皆、戈を横たえ戟を担いで、賊の朝廷に罪を問いたいと思っている。伏して考えるに、国家は文徳を広く敷き、武功を継いで立て、遠くは服さざるものなく、近くは安からざるものはない。ましてやこの二方(幽・鎮)が、敢えて天理に逆らうことができようか。臣はひそかに考えるに、詔書が朝に下れば、諸鎮は夕に駆けつけ、貔貅のような罪を問う師をもって、猖狂として節を失った寇に当たらせれば、山を傾けて卵を圧し、海を決して蛍を灌ぐがごとき勢いの差は、これ以上ないであろう。
ただ常山(鎮州)と燕郡(幽州)は、虞と虢が互いに依存するような関係にあり、一時に兵を興せば、財力の浪費を恐れる。しかも罪には軽重があり、事には後先があり、堅いものを攻めるには易しいものから従うべきである。聞くところによれば、范陽(幽州)の乱の始まりは一時の出来事から出ており、事は以前からの謀りごとではなく、その心情も推察できる。鎮州が禍いを構えたのは、全く偶然ではなく、属城を扇動し、兵をもって境を拒んでいる。このようにすれば、幽・薊の衆には寛大な刑を示すことができ、鎮・冀の戎には先に討伐を加えるべきである。況や王廷湊は卑小な人物で、父祖の恩恵を受け継いでいない。成徳軍は分離し、人は多く脅迫の勢いにある。今、魏博の仇を復そうとする衆、昭義の敵を尽くさんとする師に、晋陽の兵を加え、滄・易の兵で補助し、犄角の勢いで進めば、高屋建瓴のごとく容易であり、その城をことごとく屠り、その後北を首として燕の路に向かう。朝廷にとっては信を失うことにならず、軍勢にとっては実に機宜を得たことになる。臣の愚かな忠誠は、ここにある。
臣はまた聞く、用兵は闘うこと喉を扼するがごとし、と。今、瀛・莫・易・定は、両賊の咽喉である。誠にこれに威権を仮し、重兵をもって守らせるべきである。彼らに生死を知り合わず、間諜の入る余地なくし、そして大軍を以て先ず冀・趙に迫り、次いで井陘を下せば、これは百挙百全の勢いである。臣は恩を受けること深く至り、これに報いる術がない。軽々しく陳述して聞かせ、戦慄の至りに耐えない。
涯の上疏が届いた時には、盧士玫は既に賊に劫われ、瀛・莫州は陥落し、凶悪な勢いは止めることができなかった。間もなく二凶(朱克融・王廷湊)ともに赦された。
三年、入朝して御史大夫となった。敬宗が即位すると、戸部侍郎・兼御史大夫に改め、塩鉄転運使を充て、間もなく礼部尚書に遷り、職を充てた。宝暦二年、検校尚書左僕射・興元尹・山南西道節度使となり、就任の上加えて検校司空を加えられた。
太和三年正月、入朝して太常卿となった。文宗は楽府の音が鄭衛の音(俗楽)のようになりすぎているとして、古楽を聞きたいと思い、涯に旧来の楽工に問わせ、開元時代の雅楽を取り、楽童を選んでこれを習わせ、名づけて『雲韶楽』とした。楽曲が完成すると、涯は太常丞李廓・少府監庾承憲とともに楽工を率いて黎園亭で献上し、帝は会昌殿でこれを演奏させた。上は喜び、涯らに錦彩を賜った。
四年正月、吏部尚書を守り、検校司空となり、再び塩鉄転運使を領した。その年九月、左僕射を守り、使を領した。李師道が以前河南十二州を占拠していた時、その兗・鄆・淄・青・濮州の境界には、旧来銅鉄の冶(製錬所)があり、毎年の利益は百余万に上ったが、収復以来、税額が定まっていないので、再び塩鉄司に所属させ、建中元年九月の敕例に依って制置することを請うた。これに従った。
七年七月、本官のまま同平章事となり、代国公に進封され、食邑二千戸を与えられた。八年正月、検校司空・門下侍郎・弘文館大学士・太清宮使を加えられた。九年五月、正しく司空に拝され、引き続き所司に冊命を行わせ、開府儀同三司を加えられ、引き続き江南榷茶使を兼領した。
十一月二十一日、李訓の事が失敗し、文宗は内宮に入った。涯は同僚とともに中書省に帰り食事を共にしたが、箸を下ろさないうちに、吏が兵が閣門から出て、人に逢えば即ち殺すと報告した。涯らは蒼惶として歩み出て、永昌里の茶店に至り、禁兵に捕らえられ、その家族奴婢とともに、皆獄に繋がれた。仇士良が涯に反状を鞫問したが、涯は実はその理由を知らなかった。械縛が急であり、鞭打ちの酷さに耐えられず、遂に手ずから反状を書かせ、自ら李訓と同謀であったと誣らせた。獄が決すると、左軍の兵馬三百人が涯と王璠・羅立言を率い、右軍の兵馬三百人が賈餗・舒元輿・李孝本を率い、先ず郊廟に赴き、両市で示衆した後、子城の西南隅の独柳の樹下で腰斬に処した。涯は榷茶の事で、百姓の怨恨と罵りを受け、瓦礫を投げつけられた。中書房の吏焦寓・焦璇、臺吏李楚ら十余人は、吏卒が争って殺し、その家を籍没した。涯の子で工部郎中・集賢殿学士の孟賢、太堂博士の仲翔、その他の幼い子供や妻女は、襟を連ね頸に繋がれ、両軍に送られ、老若を問わず皆誅殺された。涯以下十一家の資財は、悉く軍卒に分けられた。涯が蓄積した家財は巨万に上ったが、両軍の士卒と市人が乱れ取って、一日中でも尽きなかった。
涯は博学で古を好み、文を作ることができ、辞芸をもって科第に登った。清峻な地位を歴任したが、権を貪り寵を固め、邪佞の流れから遠ざからず、ついに一族を赤くするに至った。涯の家には書物が数万巻あり、秘府に匹敵した。前代の法書名画で、人々が大切にしているものを、厚い財貨で手に入れた。財貨を受け取らない者には、官爵で手に入れた。厚い壁に穴を穿ち、複壁の中にこれを隠した。この時、人がその壁を破って取り出し、あるいは函や箱の金宝の飾りやその玉軸を剔り取って、残りを棄てた。
涯の死は、人々は冤罪であると考えた。昭義節度使劉従諫が三度上章し、涯ら三相の罪名を示すことを求めたので、仇士良は大いに憂い恐れた。初め宦官が毒を放ち、南司(外朝)を凌辱していたが、従諫が奏論してから、凶悪な気焰はやや収まり、人士はこれに頼った。
王璠
王璠は字を魯玉という。父の礎は進士に及第し、文辞で名を知られた。元和五年、進士に及第し、宏辞科に登第した。風采容儀を整え、操行は甚だ堅固で、累次諸侯の府に辟召された。元和中、朝廷に入り監察御史となり、再び起居舎人に遷り、鄭覃に副えて鎮州に宣慰した。長慶中、累次員外郎を歴任した。十四年、職方郎中をもって制誥を知る。宝暦元年二月、御史中丞に転ず。
時に李逢吉が宰相となり、璠と親密であったので、郎官より誥を掌ることより、便ち中丞を拝した。逢吉の勢いを恃み、稍々横暴であった。嘗て左僕射李絳と街中で出会い、車を交わして避けなかった。絳は上疏してこれを論じて曰く、「左・右僕射は、庶僚の師長であり、開元中これを丞相と称した。その後三事の機務を去ったと雖も、猶百司の権を総べる。表状の中、その姓を署さず。尚書以下、毎月合衙す。上日に百僚班を列ね、宰相は上に居り、中丞御史は廷に位を列ねる。礼儀の崇きこと、中外特に異なる。これ武徳・貞観以来、聖君賢臣、政を布き弊を除くも、この礼を革めず、合宜と謂う。苟くも安からざる有らば、尋いでまた廃すべし。近年、才位に当たらず、恩を加えて特拝する者あるに縁り、便ち権便に従い、旧儀を用いず。群情に酌むに、事実未だ当たらず。今或は僕射初めて除せられ、中丞院の門に就き相見る有り、即ち参せんと欲するに何ぞ異ならん。或は中丞新たに授けられ、亦僕射を見る処無し。及び参賀の処、或は僕射先ず至り、中丞後より来る。憲度宜しきを乖き、尊卑倒置す。倘し人材位を忝くすは、自ら別に賢良を授くべし。若し朝命官を守るは、豈に法制を虧く有らんや。伏して望む、百僚を下して事体を詳定せしめ、永く遵行すべからしむ」と。勅旨して両省に詳議せしむ。両省奏して曰く、「元和中、伊慎師長の位を忝くし、太常博士韋謙旧儀を削去す。今李絳の論ずる所、礼に於いて甚だ当たる」と。逢吉は素より絳の直なるを悪み、天子旧儀を行わんと許すと雖も、中書竟に処分無く、乃ち璠の中丞を罷め、工部侍郎に遷す。尋いで絳の僕射を罷め、太子少師を以て東都に分司す。その権を弄び寵を怙る、此の如し。
璠は二年七月出でて河南尹となる。太和二年、本官を以て東都選を権知す。十月、尚書右丞に転じ、勅して選畢りて朝に入る。三年、吏部侍郎に改む。四年七月、京兆尹・兼御史大夫を拝す。十二月、左丞に遷り、太常卿事を判ず。六年八月、検校礼部尚書・潤州刺史・浙西観察使となる。
八年、李訓寵を得、累次上に薦む。召し還され、復た右丞を拝す。璠は逢吉の故吏たり、是より訓に傾心し、権幸朝を傾く。九年五月、戸部尚書・判度支に遷る。謝日に浴堂に召し対し、錦彩を賜う。その年十一月、李訓内官を誅せんとし、璠に令して豪侠を召募せしむ。乃ち太原節度使を授け、爪牙を募るを名と托す。訓敗れたる日、璠は長興里の第に帰る。是夜禁軍に捕えられ、挙家獄に下る。璠を独柳樹に斬り、家に少長無く皆死す。
子 遐休
璠の子遐休は、弘文館に直す。李訓事を挙ぐる日、遐休は館中に礼上し、同職の駕部郎中令狐定等五六人これを送る。是日悉く乱兵に執えらる。定は兄楚が僕射なるを以て、軍士これを釈し、独り遐休を執えて誅す。
初め璠浙西に在り、城壕を繕う。役人掘りて方石を得、上に十二字有り、云く、「山に石有り、石に玉有り、玉に瑕有り、瑕即ち休す」と。璠視てその旨を知らず、京口の老人これを講じて曰く、「此の石は尚書の吉兆に非ず。尚書の祖名は崟、崟礎を生む、是れ山に石有りなり。礎尚書を生む、是れ石に玉有りなり。尚書の子名は遐休、休は絶ゆるなり。此れ吉征に非ず」と。果たして赤族す。
賈餗
賈餗は字を子美と云い、河南の人。祖は渭。大父は寧。餗進士に擢第し、又制策甲科に登り、文史兼ねて美しく、四遷して考功員外郎に至る。長慶初、賢良を策召し、当時の名士を選び策を考ふ。餗と白居易俱に考策官となり、文人を選び以て公と為す。尋いで本官を以て制誥を知り、庫部郎中に遷り、職を充す。四年、張又新に構えられ、出でて常州刺史となる。太和初、入りて太常少卿と為る。二年、本官を以て制誥を知る。三年七月、中書舎人を拝す。四年九月、礼部貢挙を権知す。五年、榜出でし後、正しく礼部侍郎を拝す。凡そ礼闈を典すること三歳、選ぶ所の士七十五人、その名人を得て公卿に至る者多し。七年五月、兵部侍郎に転ず。八年十一月、京兆尹・兼御史大夫に遷る。九年四月、検校礼部尚書・潤州刺史・浙西観察使となる。制出でて未だ行わず、中書侍郎・同平章事を拝し、金紫階に進み、姑臧男に封じ、食邑三百戸。未だ幾ばくもせず、集賢殿学士を加え、国史を監修す。
その年十一月、李訓事発し、兵殿廷に交わり、禁軍肆に掠む。餗服を易え歩行して内より出で、身を潜めて人間す。翌日、自ら神策軍に投じ、王涯等と皆族誅せらる。餗は中立自ら持すと雖も、然れども身を以て難に犯し、奸纖を排斥する能わず、脂韋その間にし、遂に族を覆すに至る。時に逢うこと僻多く、死その罪に非ず、世多くこれを冤む。
舒元輿
舒元輿は、江州の人。元和八年進士に登第し、諸府の從事に釈褐す。太和初、朝に入り監察と為り、侍御史に転ず。
初め、天宝中、玄宗九宮壇を祀り、次いで郊壇に行事し、御署して祝板す。元輿監察たり、祭事を監し、以て太重しと為し、奏して曰く、「臣伏して見るに、九宮貴神を祀る祝板九片、陛下親しく御名を署し、及び九宮の神に臣と称す。臣伏して惟うに、天子の尊、天地宗廟を祭るを除く外、臣と称すべき者無し。王者は天を父とし地を母とし、日を兄とし月を姉とす。而して貴神は九宮を目とし、是れ方に分かちてその位を守るに宜し。臣その名号を数うるに、太一・天一・招搖・軒轅・鹹池・青龍・太陰・天符・摂提なり。此の九神は、天地に於いて猶子男の如く、日月に於いて猶侯伯の如し。陛下天子と為り、豈に反って天の子男に臣たるべけんや。臣窃に過ちと為す。縦え陰陽の者流その合祀を言うと雖も、則ち陛下当に『皇帝某官を遣わし九宮の神に祭るを致す』と称すべく、臣と名と称すべからず。臣愚瞽と雖も、その可なるを知らず。礼官を下して詳議せしむるを乞う」と。これに従う。尋いで刑部員外郎に転ず。
元輿は自ら奇才を恃み、進取に鋭意であったので、自らの業とした文章を進めて、試用の効用を乞うたが、宰執はその躁競を謂う。五年八月、著作郎に改めて授けられ、東都に分司す。時に李訓は母憂に服して洛に在り、元輿と性ともに詭激にして、険に乗り利を蹈み、相得て甚だ歓びし。訓が文宗に寵遇せられてより、復た尚書郎として召される。九年、右司郎中として臺雜を知る。七月、中丞事を権知す。九年、御史中丞に拝し、兼ねて刑部侍郎を判ず。是の月、本官を以て同平章事と為り、訓とともに政事を知る。而して深謀詭算、主聽を熒惑するは、皆二兇より生ず。訓が窃発したる日、兵は内より出づ。元輿は服を易え単馬にて安化門より出で、追騎に擒えられ、左軍に送られて族誅せらる。
郭行餘
郭行餘もまた進士第に登る。太和初、累官して楚州刺史に至る。五年、移刺して汝州と為り、御史中丞を兼ぬ。九月、入りて大理卿と為る。李訓が東都に在りし時、行余と親善にして、行余は数え相餉遺し、至るに用いて九列と為す。十一月、訓は窃発せんと欲し、其に兵を募らしむるを令す。乃ち邠寧節度使を授く。訓敗れ、族誅せらる。
羅立言
羅立言は、父の名は歓。貞元末、進士第に登る。寶歷初、檢校主客員外郎と為り、鹽鐵河陰院官と為る。二年、米を糴するに実ならざるに坐し、贓一萬九千貫を計う。鹽鐵使其の吏能を惜しみ、定罪して兼ぬる所の侍御史を削るに止む。太和中、司農少卿と為り、太倉の出納物を主り、貨を以て厚く鄭註に賂り、李訓も亦た之を重んず。訓将に窃発せんとし、兵を須いて事を集むるに、京兆府に吏卒多きを以て、立言を用いて京兆少尹と為し、府事を知らしむ。訓敗れたる日、族誅せらる。
長安縣令孟琯は硤州長史に貶せられ、萬年縣令姚中立は朗州長史に貶せらる。両縣の捕賊官が立言の指使を受けたる故なり。初め立言は両縣の吏卒を集む。萬年捕賊官鄭洪は禍を懼れて疾に托し、既にして死を詐り、家人に喪服を着せ聚哭せしむ。姚中立陰に其の故を知り、詐りを以て聞こえ、其の累を免れざらんことを恐れ、乃ち状を以て洪の詐りを告ぐ。仇士良洪を拘えて軍に入る。洪は中立の告げを銜み、士良に謂いて曰く「追集する所由は、皆縣令の処分に因る。予何の罪か有らん」と。故に中立坐して貶せられ、洪は死を免る。
李孝本
李孝本は宗室の子なり。累官して刑部郎中に至り、而して訓・註に依りて進を求む。舒元輿相と作るや、訓は孝本を用いて臺雜を知らしめ、中丞事を権知せしむ。最も訓の謀に預かる。窃発したる日、孝本は人に従いて殿廷にて内官十余りを殺す。事の濟まざるを知り、単騎にて走り鄭註に投ず。咸陽西原に至り、追騎に捕えられ、族誅せらる。訓・註に坐して族せらるる者は、凡そ十一家、人以て冤と為す。
史臣曰
史臣曰く、王者の政は徳を以てし、霸者の政は権を以てす。古先の後王、率ね茲の道に由り、而して遂に能く人を息め亂を靖め、統を垂れ則を作す。梓人の柯を共にして工を殊にするが如く、良奕の枰を同じくして勝を獨にするが如し。蓋し其の術を得るに在れば、則ち事に後艱無し。昭獻皇帝は端冕深帷し、其の厮養を憤り、宮居の弊を鏟がんと欲し、刑政の源を載せて澄まさんとす。まさに宜しく一代の正人を禮し、先朝の耆德を訪い、文教を修めて風俗を厚くし、武備を設けて要荒を服せしむべし。西を被き東を漸からしめて、皆景化に陶かれしめ、柔祗蒼昊、必ず闕祥を降さん。自然に徳を懐いて以て寧く、服せざる無きを思わん。況んや區區の宦者、獨り能く化に悖らんや。故に豎刁・易牙は、齊桓の霸を廢せず、韓嫣・籍孺は、何ぞ漢帝の明を妨げん。蓋し管仲・亞夫の賢有りて、之に大政を属する故なり。此の二君は、閽寺を制禦するに其の道を得たり。而るに昭獻は忽ちに君人の大體を忽せにし、纖狡の庸儒に惑う。終日横經し、連篇屬思すと雖も、但だ好文の譽を得るのみ。庸ぞ致治の先に非ざらん。且つ李訓は、狙詐百端、陰險萬狀、守澄に背きて鴆を勧め、鄭註を出だして以て権を擅にす。只だ四星を盡隕し、兼ねて八校を権るるが如き、小人の方寸、即ち又た知り難し。但だ蚤虱と為りて溪蓀を采るを慮るも、翻って螾蜓の患ひを獲ん。嗚呼明主よ、夫れ何をか思わざる、遽かにして血の黄門に濺ぎ、兵の青瑣に交わるを致す。苟も籓後の勢ひ無からば、黄屋危うきかな。涯・餗は綽かに士風有り、晚く利の為に喪ひ、身を鬼蜮の伍に致し、何ぞ瞰室の災を逃れん。天の仁ならざるに非ず、子の道を失えるなり。
贊
贊に曰く、奭・旦は周を興し、斯・高は秦を亡ぼす。禍福は天に非ず、治亂は人に由る。訓・註は奸偽、血は象魏に頽る。時に賢乏しきに非ず、君迷いて倒置す。