舊唐書

巻168

巻168

舊唐書

原文舊唐書

卷一百六十八

原文卷一百六十八

列傳第一百十八 韋溫 獨孤-{郁}- 錢徽 高釴 馮宿 封敖

原文列傳第一百十八 韋溫 獨孤-{郁}- 錢徽 高釴 馮宿 封敖

韋温

原文韋溫

韋温は、字を弘育といい、京兆の人である。祖父の肇は吏部侍郎であった。父の綬は、徳宗の朝に翰林学士となり、散騎常侍さんきじょうじをもって致仕した。綬の弟の貫之は、憲宗の朝の宰相であり、別に伝がある。温は七歳の時、日に『毛詩』一卷を誦した。十一歳の時、両経挙に応じて登第した。初めて官に就き、太常寺奉礼郎となった。書判抜萃により、秘書省校書郎に補せられた。時に綬は田園に致仕していたが、温の登第を聞き、愕然として言うには、「判が高等に入り、群士の上にあるのは、権幸と交結して得たものではないか」と。廷に席を設けさせ、自ら判目を出して二節を試させた。温は筆を命じれば即座に成し、綬は喜んで言うには、「これは愧じるところがない」と。咸陽尉に授けられた。入朝して監察御史となったが、父が田里にいるため、憲府の礼が拘束し、省謁が難しいとして、拝命しなかった。著作郎に換えられ、一度謝してすぐに帰った。父の病に侍り、温は医薬に侍り、衣を解かず、二十年近くに及んだ。父の憂いに遭い、毀瘠して制を越えた。喪が明けて久しくして右補闕となり、忠鯁をもって時を救った。宋申錫が誣告された時、温は声をあげて言うには、「宋公の履行は素よりあり、身は台輔に居り、このようなことがあるべきではない。これは奸人の陷害である。我ら諫官は、一時の雷電を避けて、聖君賢相をして蒙蔽惑乱の咎を蒙らせるべきであろうか」と。そこで同列を率いて閣に伏し、切に争った。これにより名を知られた。

原文韋溫,字弘育,京兆人。祖肇,吏部侍郎。父綬,德宗朝翰林學士,以散騎常侍致仕。綬弟貫之,憲宗朝宰相,自有傳。溫七歲時,日念《毛詩》一卷。年十一歲,應兩經舉登第。釋褐太常寺奉禮郎。以書判拔萃,調補秘書省校書郎。時綬致仕田園,聞溫登第,愕然曰:「判入高等,在群士之上,得非交結權幸而致耶?」令設席於廷,自出判目試兩節。溫命筆即成,綬喜曰:「此無愧也!」調授咸陽尉。入為監察御史,以父在田裏,憲府禮拘,難於省謁,不拜。換著作郎,一謝即還。侍省父疾,溫侍醫藥,衣不解帶,垂二十年。父憂,毀瘠逾制。免喪,久之為右補闕,忠鯁救時。宋申錫被誣,溫倡言曰:「宋公履行有素,身居臺輔,不當有此,是奸人陷害也。吾輩諫官,豈避一時之雷電,而致聖君賢相蒙蔽惑之咎耶?」因率同列伏閣切爭之,由是知名。

太和五年、太廟の第四、第六室が欠漏した。上は怒り、宗正卿の李鋭と将作の王堪を罰し、中使に詔して工匠を集め補修させた。温は上疏して言うには、「臣は聞く、吏がその職を挙げるゆえに国家は治まる。事が正に帰するゆえに朝廷は尊ばれる、と。制度を設け官司を立てるのは、事に典故を存し、国に経費あり、最も重いのは宗廟を奉ずることである。伏して思うに、太廟は修めるべきであり、詔が下って一ヶ月を過ぎたが、有司は弛墮し、かつて誡めを加えなかった。慢官を黜し、恪まざる罪を懲らしめ、任に堪える者を選び、繕完の功を責めるべきである。これこそ事が正に帰し、吏がその職を挙げるというものである。そうすれば聖慮は労せず、百職は曠からず。今、慢官が恪まないのに、止めて俸を罰するのみで、宗廟の切なる事は、便りに内臣に委ねる。これは百司の官に公然と職を廃することを許し、宗廟の重きを以て陛下の私と為し、群官有司を同じく委棄するに等しい。臣は窃かに聖朝のこの事を惜しむ。事は宗廟に関わり、皆史策に書かれる。旧典でなければ、率然とすべきではない。伏して乞う、更に詔書を下し、所司に委ねて営繕させれば、制度は乱れず、官業は共に修まる」と。上は内使を止めた。

原文太和五年,太廟第四、第六室缺漏,上怒,罰宗正卿李銳、將作王堪,乃詔中使鳩工補葺之。溫上疏曰:「臣聞吏舉其職,國家所以治;事歸於正,朝廷所以尊。夫設制度,立官司,事存典故,國有經費,而最重者,奉宗廟也。伏以太廟當修,詔下逾月,有司弛墮,曾不加誡。宜黜慢官,以懲不恪之罪;擇可任者,責以繕完之功。此則事歸於正,吏舉其職也。而聖思不勞,百職無曠。今慢官不恪,止於罰俸,宗廟所切,便委內臣,是許百司之官,公然廢職,以宗廟之重,為陛下所私,群官有司,便同委棄。此臣竊為聖朝惜此事也。事關宗廟,皆書史策,茍非舊典,不可率然。伏乞更下詔書,得委所司營繕,則制度不紊,官業交修。」上乃止內使。

群臣が尊号を上った時、温は上疏して言うには、「徳は三皇の如くても止めて皇と称し、功は五帝の如くても止めて帝と称す。徽号の来たるは、聖王の末事である。今年は三川に水害があり、江淮に旱魃と凶作がある。徽称を崇飾する時ではない」と。帝は深くこれを嘉し、止めた。侍御史に改めた。

原文群臣上尊號,溫上疏曰:「德如三皇止稱皇,功如五帝止稱帝。徽號之來,乃聖王之末事。今歲三川水災,江淮旱歉,恐非崇飾徽稱之時。」帝深嘉之,乃止。改侍御史。

李徳裕が宰相となると、礼部員外郎に遷った。ある者が温が牛僧孺に厚いと徳裕に言った。徳裕は言うには、「この人は堅正で中立、君子である」と。鄭注が鳳翔を鎮めると、自ら歯されないことを知り、徳門の弟子を求めて参佐とし、温に副使を請うた。ある者は理として拒み難く、拒めば患いを生じると言った。温は言うには、「禍を選ぶには軽きに如かず。拒めば遠貶に止まり、従えば測り難き禍がある」と。鄭注が誅せられると、考功員外郎に転じた。まもなく制誥を知り、召されて翰林に入り学士となった。父が禁廷に職したため、憂畏して病となり、遺誡して禁職に居らせないようにし、懇ろに辞して拝命しなかった。

原文李德裕作相,遷禮部員外郎。或以溫厚於牛僧孺,言於德裕。德裕曰:「此人堅正中立,君子也。」鄭註鎮鳳翔,自知不為所齒,求德門弟子為參佐,請溫為副使。或以為理不可拒,拒則生患。溫曰:「擇禍莫若輕。拒之止於遠貶,從之有不測之禍。」鄭註誅,轉考功員外郎。尋知制誥,召入翰林為學士。以父職禁廷,憂畏成病,遺誡不令居禁職,懇辭不拜。

やがて太子侍読を兼ね、毎朝少陽院に至り、午時に荘恪太子に謁した。温は言うには、「殿下は盛年、早く起きるべきであり、周の文王が太子であった時のように、鶏鳴の時に西宮に問安すべきである」と。太子は幼く、その言を行えなかった。病と称した。上は悦ばず、太常少卿に改めた。間もなく給事中に拝した。王晏平が霊武に在り、軍士を刻削し、贓罪が発覚した。帝は智興の故を以て、死を減じて官を貶した。温は三度詔書を封還し、文宗は深くこれを褒めた。荘恪が罪を得た時、百僚を召して諭した。温は言うには、「太子は幼く、陛下が早く訓育されなかったのが原因であり、ここに至ったのは太子の過ちのみではない」と。尚書右丞に遷った。

原文俄兼太子侍讀,每晨至少陽院,午見莊恪太子。溫曰:「殿下盛年,宜早起,學周文王為太子,雞鳴時問安西宮。」太子幼,不能行其言。稱疾。上不悅,改太常少卿。未幾,拜給事中。王晏平為靈武,刻削軍士,贓罪發,帝以智興之故,減死,貶官。溫三封詔書,文宗深獎之。莊恪得罪,召百僚諭之。溫曰:「太子年幼,陛下訓之不早,到此非獨太子之過。」遷尚書右丞。

吏部員外郎の張文規の父の弘靖は、長慶初めに幽州で朱克融に囚われた。文規は時に省み赴かず、人士が喧然としてこれを罪した。温が綱轄の職にあり、まずこの事を糾弾し、文規を出して安州刺史とした。塩鉄判官の姚勖が河陰院を治め、かつて冤獄を雪いだ。塩鉄使の崔珙が奏して酬奨を加えさせ、職方員外郎を権知させた。制が出て、勖に省に上ることを命じた。温は執奏して言うには、「国朝以来、郎官は最も清選であり、能吏を賞するに用いるべきではない」と。上は中使に宣諭させ、勖は能官であるから省に入れるようにと言った。温は堅く執して詔に奉じず、勖を検校礼部郎中に改めた。翌日、帝は楊嗣復に言うには、「韋温が姚勖を省に入れないのは、故事があるか」と。嗣復は答えて言うには、「韋温は清流を銓択することを志している。しかし姚勖の士行に瑕はなく、梁公(姚崇)の元崇の孫である。殿中より塩鉄案を判じ、陛下がこれを奨めるのは宜しい。もし人に吏能があって清流に入らなければ、誰が陛下のために煩劇を担当するのか。これは衰晋の風である」と。上は素より温を重んじ、その操を奪わず、出して陝虢観察使とした。

原文吏部員外郎張文規父弘靖,長慶初在幽州為硃克融所囚;文規不時省赴,人士喧然罪之。溫居綱轄,首糾其事,出文規為安州刺史。鹽鐵判官姚勖知河陰院,嘗雪冤獄。鹽鐵使崔珙奏加酬獎,乃令權知職方員外郎。制出,令勖上省。溫執奏曰:「國朝已來,郎官最為清選,不可以賞能吏。」上令中使宣諭,言勖能官,且放入省。溫堅執不奉詔,乃改勖檢校禮部郎中。翌日,帝謂楊嗣復曰:「韋溫不放姚勖入省,有故事否?」嗣復對曰:「韋溫誌在銓擇清流。然姚勖士行無玷,梁公元崇之孫,自殿中判鹽鐵案,陛下獎之,宜也。若人有吏能,不入清流,孰為陛下當煩劇者?此衰晉之風也。」上素重溫,亦不奪其操,出為陜虢觀察使。

武宗が即位し、李徳裕が権力を握ると、召して吏部侍郎に拝し、宰相に引き入れようとした。時に李漢は家行が謹ましくないとして、汾州司馬に貶されていた。温は従容として徳裕に白して言うには、「李漢は相公に知られず、昨今不孝の罪で絀免されました。どうか按問を加えられたい」と。徳裕は言うには、「親族か」と。温は言うには、「親昵ではないが、久しく相知っている者です」と。徳裕は悦ばなかった。間もなく、温を出して宣歙観察使とし、鄭処誨を辟いて観察判官とした。徳裕はますます悦ばなかった。池州の人が郡守を訴えたが、温がこれを按ずるに状がなく、杖殺した。

原文武宗即位,李德裕用事,召拜吏部侍郎,欲引以為相。時李漢以家行不謹,貶汾州司馬。溫從容白德裕曰:「李漢不為相公所知,昨以不孝之罪絀免,乞加按問。」德裕曰:「親情耶?」溫曰:「雖非親昵,久相知耳。」德裕不悅。居無何,出溫為宣歙觀察使,辟鄭處誨為觀察判官,德裕愈不悅。池州人訟郡守,溫按之無狀,杖殺之。

明年、瘍が首に生じ、愛婿の張復魯に言うには、「私が校書郎であった時、二人の黄衣人が符を持って追ってくる夢を見た。瀟水に至り、渡ろうとした時、一人が続いて来て言うには、『あの墳は非常に大きく、功には一万日を要する』と。そこで渡らずに目が覚めた。今、一万日を計ると、公と訣別する時である」と。明日、卒した。工部尚書を贈られ、諡して孝といった。

原文明年,瘍生於首,謂愛婿張復魯曰:「予任校書郎時,夢二黃衣人賫符來追,及浐,將渡,一人續至曰:『彼墳至大,功須萬日。』遂不涉而寤。計今萬日矣,與公訣矣。」明日卒,贈工部尚書,謚曰孝。

温が朝に在った時、李玨・楊嗣復と交際した。楊・李の禍が起こると、嘆いて言うには、「楊三(嗣復)・李七(玨)もし私の言葉を取っていたならば、どうしてここまで至っただろうか」と。初め温は楊・李が徳裕と怨みを交わすのを見て、位に居るや、温は楊・李に徳裕を征用して、憾みを解き慍りを和らげるよう勧めた。二人は用いず、故に禍に及んだのである。温に子はなく、娘は薛蒙に嫁ぎ、文を著すことを善くし、曹大家の『女訓』十二章を継ぎ、士族が伝写し、時に流行した。温は剛腸で人と合うことが少なく、人は多く疎簡にしたが、ただ常侍の蕭祐と善くした。

原文溫在朝時,與李玨、楊嗣復周旋。及楊、李禍作,嘆曰:「楊三、李七若取我語,豈至是耶!」初溫以楊、李與德裕交怨,及居位,溫勸楊、李征用德裕,釋憾解慍。二人不能用,故及禍。溫無子,女適薛蒙,善著文,續曹大家《女訓》十二章,士族傳寫,行於時。溫剛腸寡合,人多疏簡,唯與常侍蕭祐善。

附 蕭祐

原文附 蕭祐

蕭祐は、蘭陵の人である。幼くして孤貧であった。耿介として苦学し、親に事えて孝で知られた。処士より征召されて左拾遺に拝し、累遷して考功郎中に至った。祐は博雅で古を好み、特に図画を喜んだ。前代の鐘繇・王羲之の遺法、蕭子雲・張芝の筆勢を編序し真偽を論じ、二十巻とし、元和末に進上した。優詔でこれを嘉し、兵部郎中を授かった。出て虢州刺史となり、入って太常少卿となり、転じて諫議大夫となった。一ヶ月を経て桂州刺史・御史中丞・桂管防禦観察使となった。太和二年八月、官で卒した。右散騎常侍を贈られた。

原文蕭祐者,蘭陵人。少孤貧。耿介苦學,事親以孝聞。自處士征拜左拾遺,累遷至考功郎中。祐博雅好古,尤喜圖畫。前代鐘、王遺法,蕭、張筆勢,編序真偽,為二十卷,元和末進禦,優詔嘉之,授兵部郎中。出為虢州刺史,入為太常少卿,轉諫議大夫。逾月為桂州刺史、御史中丞、桂管防禦觀察使。太和二年八月,卒於官,贈右散騎常侍。

祐閑は淡泊で貞潔、退き隠れることを好み、琴を弾じ詩を賦することに巧みで、書画もことごとく妙を得ていた。心を林壑に遊ばせ、終日嘯詠して、名人高士多くこれと交遊した。給事中韋温は特にこれを重んじ、林泉の友と結んだ。

原文祐閑淡貞退,善鼓琴賦詩,書畫盡妙。遊心林壑,嘯詠終日,而名人高士,多與之遊。給事中韋溫尤重之,結為林泉之友。

獨孤郁

原文獨孤郁

獨孤郁は河南の人である。父の及は、天宝末に李華・蕭潁士らと並び称せられ、文を善くし、著した『仙掌銘』は大いに当時の人々に賞賛され、位は常州刺史に終わった。郁は貞元十四年に進士第に登り、文学は父の風があり、特に舍人権徳輿に称せられ、その娘を娶らせた。貞元末、監察御史となった。

原文獨孤郁,河南人。父及,天寶末與李華、蕭潁士等齊名。善為文,所著《仙掌銘》,大為時流所賞,位終常州刺史。郁,貞元十四年登進士第,文學有父風,尤為舍人權德輿所稱,以子妻之。貞元末,為監察御史。

元和初め、制挙の才識兼茂・明於体用に応じ、策が第四等に入り、左拾遺に拝された。太子司議郎杜従郁が左補闕に拝されたとき、郁は同列とともにこれを論じて言うには、「従郁は宰臣佑の子であり、父が宰執に居る以上、従郁は諫列に居るべきではない」と。そこで左拾遺に改められたが、また論じて言うには、「補闕と拾遺とは、資品は異なるものの、ともに諫官である。もし時政に得失があれば、子に父を論ぜしめることはできない」と。従郁は結局他の官に改められた。

原文元和初,應制舉才識兼茂、明於體用,策入第四等,拜左拾遺。太子司議郎杜從郁拜左補闕,郁與同列,論之曰:「從郁是宰臣佑之子,父居宰執,從郁不宜居諫列。」乃改為左拾遺,又論曰:「補闕之與拾遺,資品雖殊,同是諫官,若時政或有得失,不可令子論父。」從郁竟改他官。

四年、右補闕に転じ、また同列とともに上章して、中官吐突承璀が河北招討使となるべきでないと論じ、そこで招撫宣慰使に改めさせた。

原文四年,轉右補闕,又與同列拜章論中官吐突承璀不宜為河北招討使,乃改招撫宣慰使。

五年、史館修撰を兼ねた。まもなく召されて翰林学士を充し、起居郎に遷った。権徳輿が宰相となると、郁は婦公(妻の父)であることを理由に内職を辞した。憲宗は「徳輿にこのような佳婿があるのか」と言い、そこで詔して宰相に士族の家から公主を尚めとる者を選ばせた。郁は考功員外郎に遷り、史館修撰・判館事を充し、『徳宗実録』の編修に預かった。

原文五年,兼史館修撰。尋召充翰林學士,遷起居郎。權德輿作相,郁以婦公辭內職。憲宗曰:「德輿乃有此佳婿。」因詔宰相於士族之家,選尚公主者。遷郁考功員外郎,充史館修撰、判館事,預修《德宗實錄》。

七年、本官のまま再び知制誥を務めた。八年、駕部郎中に転じた。その年十月、再び召されて翰林学士となった。九年、病を理由に内職を辞した。十一月、秘書少監に改め、卒した。

原文七年,以本官復知制誥。八年,轉駕部郎中。其年十月,復召為翰林學士。九年,以疾辭內職。十一月,改秘書少監,卒。

弟 朗

原文弟 朗

郁の弟の朗は、かつて諫官に居て、淮西の用兵を罷めるよう請うたが、旨に合わず、興元戸曹に貶された。入朝して監察御史となり、殿中侍御史に転じた。十五年、史館修撰を兼ねて充し、都官員外郎に遷った。

原文郁弟朗,嘗居諫官,請罷淮西用兵,不協旨,貶興元戶曹。入為監察御史,轉殿中。十五年,兼充史館修撰,遷都官員外郎。

長慶初め、諫議大夫李景儉が史館で酒を飲み、酔いに任せて宰相を謁し、言葉が侵侮に及んだ。朗は同飲した罪に坐し、漳州刺史として出された。入朝して左司員外郎となり、諫議大夫に遷った。揚州節度使王播が兼ねていた塩鉄使を罷められたとき、中人に賄賂を行い、銅塩の管轄を再び領することを求めた。朗は上章してこれを論じた。

原文長慶初,諫議大夫李景儉於史館飲酒,憑醉謁宰相,語辭侵侮;朗坐同飲,出為漳州刺史。入為左司員外郎,遷諫議大夫。揚州節度使王播罷兼鹽鐵使,行賂於中人,求復領銅鹽。朗上章論之。

宝暦元年十一月、御史中丞に拝された。二年六月、金紫の服を賜った。侍御史李道樞が酔いに乗じて朗を謁した。朗はこれを弾劾し、司議郎に左授した。憲府の故事では、三院の御史は大夫・中丞が自ら辟召し、朝廷に命を請うものである。時に崔晃・鄭居中は憲長を経由せずに除され、いずれも丞相の旧僚であった。勅命は行われたが、朗は拒んで受け入れず、晃は結局太常博士に改められ、居中是東臺に分司された。その年十月、高少逸が入閣の際に儀を失したが、朗は弾奏しなかった。宰相は崔晃の件で朗を恨んでおり、少逸を賛善大夫に左授し、朗も俸を罰せられた。朗は執法に不適任を称し、中丞を罷めるよう乞うたが、敬宗は中使を遣わして諭し、その譲りを許さなかった。文宗が即位すると、工部侍郎に改められた。太和元年八月、福州刺史・御史中丞・福建観察使として出された。その月に任地へ赴く途中、路上で急死し、右散騎常侍を贈られた。

原文寶歷元年十一月,拜御史中丞。二年六月,賜金紫之服。侍御史李道樞乘醉謁朗;朗劾之,左授司議郎。憲府故事,三院御史由大夫、中丞自辟,請命於朝。時崔晃、鄭居中不由憲長而除,皆丞相之僚舊也,敕命雖行,朗拒而不納,晃竟改太常博士,居中分司東臺。其年十月,高少逸入閣失儀,朗不彈奏,宰相銜阻崔晃事,左授少逸贊善大夫,朗亦罰俸。朗稱執法不稱,乞罷中丞,敬宗令中使諭之,不允其讓。文宗即位,改工部侍郎。太和元年八月,出為福州刺史、御史中丞、福建觀察使。是月赴官,暴卒於路,贈右散騎常侍。

子 庠

原文子 庠

郁の子の庠もまた進士第に登った。大中以後に官は達し、侍郎にまで至った。

原文郁子庠,亦登進士第。大中後官達,亦至侍郎。

錢徽

原文錢徽

錢徽は字を蔚章といい、呉郡の人である。父の起は、天宝十年に進士第に登った。起は五言詩を作ることができた。初め郷薦に従い、家を江湖に寄せたとき、ある時客舎で月夜に独り吟じていると、突然庭で人が吟ずる声を聞いた、「曲終人不見、江上数峰青」と。起は愕然として衣を整えて見たが、何も見えなかった。鬼怪と思い、その十字を記憶した。起が試験を受けた年、李暐の試みた『湘霊鼓瑟詩』の題中に「青」の字があり、起は即ち鬼の謡った十字を落句として用いた。暐は深くこれを嘉し、絶唱と称した。この年に登第し、秘書省校書郎として官に就いた。大歷年中、韓翃・李端ら十人とともに、詩の才能をもって貴遊の門に出入りし、当時「十才子」と号され、図画に描かれた。起の位は尚書郎に終わった。

原文錢徽,字蔚章,吳郡人。父起,天寶十年登進士第。起能五言詩。初從鄉薦,寄家江湖,嘗於客舍月夜獨吟,遽聞人吟於庭曰:「曲終人不見,江上數峰青。」起愕然,攝衣視之,無所見矣,以為鬼怪,而誌其一十字。起就試之年,李暐所試《湘靈鼓瑟詩》題中有「青」字,起即以鬼謠十字為落句,暐深嘉之,稱為絕唱。是歲登第,釋褐秘書省校書郎。大歷中,與韓翃、李端輩十人,俱以能詩,出入貴遊之門,時號「十才子」,形於圖畫。起位終尚書郎。

錢徽は、貞元初年に進士に及第し、軍幕に従事した。元和初年に朝廷に入り、三度の遷転を経て祠部員外郎となり、召されて翰林學士を充任した。六年、祠部郎中に轉じ、知制誥を兼ねた。八年、司封郎中に改められ、緋魚袋を賜わり、職はもとのままである。九年、中書舍人に拝された。十一年、王師が淮西を討つにあたり、詔して朝臣に兵事を議わせたところ、徽は上疏して、用兵が累年にわたり、供饋の力が尽きているので、淮西の征伐をやめるべきであると述べた。憲宗は喜ばず、徽の學士の職を罷め、本官を守らせた。

原文徽,貞元初進士擢第,從事戎幕。元和初入朝,三遷祠部員外郎,召充翰林學士。六年,轉祠部郎中、知制誥。八年,改司封郎中、賜緋魚袋,職如故。九年,拜中書舍人。十一年,王師討淮西,詔朝臣議兵,徽上疏言用兵累歲,供饋力殫,宜罷淮西之征。憲宗不悅,罷徽學士之職,守本官。

長慶元年、禮部侍郎となった。時に宰相段文昌が蜀しょく川に出鎮することとなった。文昌は學問を好み、特に圖書や古畫を喜んだ。故刑部侍郎楊憑の兄弟は、文學をもって知られ、家に多くの書畫を蔵し、鐘繇・王羲之・張芝・鄭法士らの真跡で『書斷』や『畫呂』に載るものを、兼ねて所有していた。楊憑の子渾之は進士に及第しようとし、家に蔵する書畫をすべて文昌に献上し、進士及第の取り計らいを求めた。文昌が出発するにあたり、面と向かって錢徽に託し、続いて私信をもって保薦した。翰林學士李紳もまた、舉子周漢賓を徽に託した。ところが榜が出ると、渾之・漢賓ともに選に中らなかった。李宗閔と元稹は平素から親厚であった。初め元稹は直道のために譴責され長く追放されていたが、朝廷に還ることができてからは、以前の志を大きく改めた。邪な道によって僥倖を得て進達し、宗閔もまた進取に急であったので、二人の間にはやがてわだかまりが生じた。楊汝士は徽と旧知の間柄であった。この年、宗閔の娘婿蘇巢および汝士の末弟殷士がともに及第した。そこで文昌と李紳は大いに怒った。文昌は任地へ赴くにあたり、辞する日に内殿で面奏し、徽が放榜した進士鄭朗ら十四人は、みな子弟で藝が薄く、選中にあるべきではないと述べた。穆宗はこの件について學士元稹・李紳に意見を求めると、二人の答えは文昌と同じであった。そこで中書舍人王起・主客郎中知制誥白居易に命じて、子亭で重試を行わせ、内より題目『孤竹管賦』『鳥散余花落』詩を出したところ、十人が選に中らなかった。詔して曰く、

原文長慶元年,為禮部侍郎。時宰相段文昌出鎮蜀川。文昌好學,尤喜圖書古畫。故刑部侍郎楊憑兄弟,以文學知名,家多書畫,鐘、王、張、鄭之跡在《書斷》、《畫呂》者,兼而有之。憑子渾之求進,盡以家藏書畫獻文昌,求致進士第。文昌將發,面托錢徽,繼以私書保薦。翰林學士李紳亦托舉子周漢賓於徽。及榜出,渾之、漢賓皆不中選。李宗閔與元稹素相厚善。初稹以直道譴逐久之,及得還朝,大改前志。由逕以僥進達,宗閔亦急於進取,二人遂有嫌隙。楊汝士與徽有舊。是歲,宗閔子婿蘇巢及汝士季弟殷士俱及第。故文昌、李紳大怒。文昌赴鎮。辭日,內殿面奏,言徽所放進士鄭朗等十四人,皆子弟藝薄,不當在選中。穆宗以其事訪於學士元稹、李紳,二人對與文昌同。遂命中書舍人王起、主客郎中知制誥白居易,於子亭重試,內出題目《孤竹管賦》、《鳥散余花落》詩,而十人不中選。詔曰:

國家が文學の科を設けるのは、本来才能と実質を求めるのであり、もし僥倖を容れるならば、至公とは異なる。尋ね聞くところによれば、近ごろ浮薄の徒が、朋黨を扇動し、これを關節と称して、主司を幹撓している。毎年策名する者に、先だって定まらぬ者はなく、永く言えば風俗を敗り、深くこれを憂う。鄭朗らに先ごろ重試を命じたのは、その藝能を精しく覈実しようとする意図であり、異書の中にあえて深く僻な題目を求めたのではなく、試みたところの成果を責めて、學藝の淺深を観ようとしたのである。孤竹管は祭天の楽であり、『周禮』の正經に出ている。その呈試した文を閱するに、みなその本事を知らず、辭律は鄙淺で、蕪累もまた多い。先に錢徽に宣示したのは、深く自ら愧じることを望んだのであり、誠にすべて棄てて、将来を戒めるべきである。ただ四海に虞がなく、人心がまさに泰平であるので、寧撫を弘めるため、殊恩を示すべく、特に爾らの瑕を掩い、わが志を明らかにしたい。孔溫業・趙存約・竇洵直の試みたところは粗く通じており、及第を与える。裴撰には特に及第を賜う。鄭朗ら十人はともに落とす。今後より禮部の舉人は、開元二十五年の敕に準ずべく、及第したならば、試みた雑文および策を、中書門下に送って詳しく覆勘せよ。

原文國家設文學之科,本求才實,茍容僥幸,則異至公。訪聞近日浮薄之徒,扇為朋黨,謂之關節,幹撓主司。每歲策名,無不先定,永言敗俗,深用興懷。鄭朗等昨令重試,意在精核藝能,不於異書之中,固求深僻題目,責令所試成就,以觀學藝淺深。孤竹管是祭天之樂,出於《周禮》正經;閱其呈試之文,都不知其本事,辭律鄙淺,蕪累亦多。比令宣示錢徽,庶其深自懷愧,誠宜盡棄,以警將來。但以四海無虞,人心方泰,用弘寧撫,式示殊恩,特掩爾瑕,庶明予誌。孔溫業、趙存約、竇洵直所試粗通,與及第;裴撰特賜及第;鄭朗等十人並落下。自今後禮部舉人,宜準開元二十五年敕,及第訖,所試雜文並策,送中書門下詳覆。

まもなく徽を貶して江州刺史とし、中書舍人李宗閔を劍州刺史とし、右補闕楊汝士を開江令とした。初め徽を貶することを議したとき、宗閔・汝士は徽に、文昌・李紳の私信を進呈するよう勧めれば、上は必ず悟りを開くだろうと言った。徽は言った、「そうではない。もし心に愧ずるところがなければ、得喪は一致するものであり、身を修め行いを慎む者が、どうして私信をもって証拠とすることができようか」と。子弟に命じてそれを焼かせたので、人士は徽を長者と称えた。

原文尋貶徽為江州刺史,中書舍人李宗閔劍州刺史,右補闕楊汝士開江令。初議貶徽,宗閔、汝士令徽以文昌、李紳私書進呈,上必開悟。徽曰:「不然。茍無愧心,得喪一致,修身慎行,安可以私書相證耶?」令子弟焚之,人士稱徽長者。

やがて穆宗はその朋比の端緒を知り、詔を下して曰く、

原文既而穆宗知其朋比之端,乃下詔曰:

昔、卿大夫は朝廷で互いに譲り合い、士庶人は列で互いに譲り合った。周の成王は刑措いて用いず、漢の文帝は人の過ちを言うことを恥じた。これはまことに古の理であり、朕は甚だ慕う。中代以降、爭端これ起こり、その言を掩え抑えれば専蔽となり、その説を誘え掖ければ侵誣となる。実を責め名に循うのでなければ、善を彰かし悪を癉することはできない。故に孝宣帝は必ず告訐が下に及ぶことを有し、光武帝は単なる言葉によって軽々に行わなかった。『論語』は上を訕る非を称え、律には匿名の禁があり、いずれも三至の毀を防ぎ、両造の明を重んじるためである。これによって朝に人に爵すればみな勧められ、市に人を刑すればみな懼れ、罪は帰すべきところに帰し、賞は事に当たるのである。

原文昔者,卿大夫相與讓於朝,士庶人相與讓於列;周成王刑措不用,漢文帝恥言人過,真理古也,朕甚慕焉。中代已還,爭端斯起,掩抑其言則專蔽,誘掖其說則侵誣。自非責實循名,不能彰善癉惡,故孝宣必有告訐及下,光武不以單辭遽行。《語》稱訕上之非,律有匿名之禁,皆以防三至之毀,重兩造之明。是以爵人於朝則皆勸,刑人於市則皆懼,罪有歸而賞當事也。

末代は巧みにごまかし、内は荏にして外は剛である。卿大夫には進んで思いて忠を尽くす誠がなく、退いて後言の謗が多い。士庶人には切磋琢磨の益がなく、鑠し浸潤する讒が多い。進めば諛言諂笑をもって相求め、退けば群居州処して相議する。留中して出さぬ請いは、その陰私を発くためであり、公論が容れざる誅は、朋黨から生ずるのである。一官を擢げれば、恩はみな我より出ずと言い、一職を黜すれば、事は他門より出ずと言う。比周の跡はすでに彰かでありながら、なお介特を矜り、由徑の蹤はことごとく露わでありながら、自ら貞方と謂う。省寺に居る者は勤恪をもって官に蒞まず、務めて簡易に従うと言い、紀綱を提げる者は準繩をもって下を檢せず、密に風聞を奏すと言う。章疏を献ずる者は互いに是非を争い、顧問を備える者は互いに憎愛を有す。もし秦鏡が膽を照らし、堯羊が邪に觸れることがなければ、時の君がこれを聴いて、どうして惑わされぬことがあろうか。参断一つ誤れば、俗化はますます訛る。禍は齒牙より発し、言は枝葉より生ず。この道に率いるので、朕は甚だ憫む。

原文末代偷巧,內荏外剛。卿大夫無進思盡忠之誠,多退有後言之謗;士庶人無切磋琢磨之益,多鑠浸潤之讒。進則諛言諂笑以相求,退則群居州處以相議。留中不出之請,蓋發其陰私;公論不容之誅,是生於朋黨。擢一官,則曰恩皆自我;黜一職,則曰事出他門。比周之跡已彰,尚矜介特;由徑之蹤盡露,自謂貞方。居省寺者不以勤恪蒞官,而曰務從簡易;提紀綱者不以準繩檢下,而曰密奏風聞。獻章疏者更相是非,備顧問者互有憎愛。茍非秦鏡照膽,堯羊觸邪,時君聽之,安可不惑?參斷一謬,俗化益訛。禍發齒牙,言生枝葉,率是道也,朕甚憫焉。

我が國家の貞観・開元は、三代に符節を合わせ、風俗は厚きに帰し、禮譲はみな行われた。兵興以来、人は散じて久しい。初めは徳をもって導こうとし、刑をもって駆り立てようとはしなかった。しかし信は未だ孚らず、理は未だ至らず、曾て恥格なく、ますます雕琢を用いる。小は綜覈の権が下輩に侵され、大は樞機の重みが薄徒に旁撓される。なおこれを因って化そうと念い、またその尤なる者を去らんことを冀う。ところが宰臣はその浸染を懼れ、未だ克く澄清せず。祖宗の書を備えて引き、勸誡の詔を垂れんことを願い、遂に告諭を伸べ、頗る殷勤を用いる。各おの自らその躬を省み、我とともに道に底せよ。

原文我國家貞觀、開元,同符三代,風俗歸厚,禮讓皆行。兵興已來,人散久矣。始欲導之以德,不欲驅之以刑。然而信有未孚,理有未至,曾無恥格,益用雕元刂。小則綜核之權,見侵於下輩;大則樞機之重,旁撓於薄徒。尚念因而化之,亦冀去其尤者。而宰臣懼其浸染,未克澄清。備引祖宗之書,願垂勸誡之詔,遂伸告諭,頗用殷勤。各當自省厥躬,與我同底於道。

これは元稹の文辭である。制が出ると、朋比の徒は、市で撻たれるが如く、みな李紳・元稹を睚眥した。

原文元稹之辭也。制出,朋比之徒,如撻於市,鹹睚眥於紳、稹。

徽は翌年、華州刺史・潼關防禦・鎮國軍等使に遷った。文宗が即位すると、征して尚書左丞に拝した。太和元年十二月、再び華州刺史を授けられた。二年秋、病を以て位を辞し、吏部尚書を授けられて致仕した。三年三月に卒した。時に七十五歳。子の可復・可及は、ともに進士に及第した。

原文徽明年遷華州刺史、潼關防禦、鎮國軍等使。文宗即位,征拜尚書左丞。太和元年十二月,復授華州刺史。二年秋,以疾辭位,授吏部尚書致仕。三年三月卒,時年七十五。子可復、可及,皆登進士第。

可復は累官して禮部郎中に至った。太和九年、鄭註が鳳翔に出鎮することとなり、李訓は名家の子を選んで賓佐とし、可復に檢校兵部郎中・兼御史中丞を授け、鳳翔節度副使を充任させた。その年十一月、李訓が敗れ、鄭註が誅せられると、可復は鳳翔監軍使に害された。

原文可復累官至禮部郎中。太和九年,鄭註出鎮鳳翔,李訓選名家子以為賓佐,授可復檢校兵部郎中、兼御史中丞,充鳳翔節度副使。其年十一月,李訓敗,鄭註誅,可復為鳳翔監軍使所害。

高釴

原文高釴

高釴は、字を翹ぎょう之という。祖父の鄭賓は、宋州寧陵の令であった。父の去疾は、攝監察御史であった。釴は、元和初年に進士及第し、判入等して、秘書省校書郎に補され、累遷して右補闕に至り、史館修撰を充任した。十四年、上疏して内官を京西北和糴使としないよう請うた。十五年、起居郎に轉じ、前のごとく充職した。

原文高釴,字翹之。祖鄭賓,宋州寧陵令。父去疾,攝監察御史。釴,元和初進士及第,判入等,補秘書省校書郎,累遷至右補闕,充史館修撰。十四年,上疏請不以內官為京西北和糴使。十五年,轉起居郎,依前充職。

釴は孤高で貞潔にして党派なく、しかも累次にわたり時政の得失を陳述することができた。長慶元年、穆宗はこれを憐れみ、思政殿において面と向かって緋衣を賜い、なお本官をもって翰林學士を充てることを命じた。二年、兵部員外郎に遷り、前のごとく職を充てた。四年四月、禁中に張韶の変があり、敬宗は左軍に幸した。この夜、釴は帝に従って左軍に宿泊した。翌日賊が平定され、従臣を賞し、釴に錦彩七十匹を賜い、戸部郎中・知制誥に転じた。十二月、正しく中書舍人を拝し、職を充てることは前のごとくであった。思政殿で謝恩し、ついで敬宗を諫めて、道理を求めるには躬親に如くはないとし、憂勤の旨を示すためであった。帝は深くその言を納れ、また錦彩五十匹を賜った。

原文釴孤貞無黨,而能累陳時政得失。長慶元年,穆宗憐之,面賜緋於思政殿,仍命以本官充翰林學士。二年,遷兵部員外郎,依前充職。四年四月,禁中有張韶之變,敬宗幸左軍。是夜,釴從帝宿於左軍。翌日賊平,賞從臣,賜釴錦彩七十匹,轉戶部郎中、知制誥。十二月,正拜中書舍人,充職如故。謝恩於思政殿,因諫敬宗,以求理莫若躬親,用示憂勤之旨也。帝深納其言,又賜錦彩五十匹。

寶曆二年三月、學士を罷め、本官を守った。太和三年七月、刑部侍郎を授けられた。四年冬、吏部侍郎に遷った。銓綜の司において、官業は振るい挙がった。七年、出て同州刺史・兼御史中丞となった。八年六月卒し、兵部尚書を贈られ、遺命は薄葬であった。釴は少時孤貧であり、己を潔くし力行し、弟の銖・鍇とともに皆、檢靜をもって自立し、高位顕職に至り、家に居ては友睦であり、搢紳に重んじられた。

原文寶曆二年三月,罷學士,守本官。太和三年七月,授刑部侍郎。四年冬,遷吏部侍郎。銓綜之司,官業振舉。七年,出為同州刺史、兼御史中丞。八年六月卒,贈兵部尚書,遺命薄葬。釴少時孤貧,潔己力行,與弟銖、鍇皆以檢靜自立,致位崇顯,居家友睦,為搢紳所重。

釴の弟 銖

原文釴弟 銖

銖は、元和六年に進士第に登った。穆宗が即位すると、朝に入り監察御史となり、累遷して員外郎・吏部郎中となった。太和五年、給事中を拝した。七年、外官監考使となった。八年十月、文宗が國子助教李仲言を用いて侍講としようとしたとき、銖は諫官を率いて閣に伏して論じて言うには、「仲言は素行が纖邪であり、もし聴用すれば必ず國經を乱すであろう」と。上は中使に命じて宣諭させて言うには、「朕は仲言に書を講ぜしめようとするのであって、聴用するのではない」と。この年、先に旱魃の後水害があり、京師の穀価は騰踊した。彗星が変異となり、挙選は皆停止され、人情は雑然として流言が飛び交った。鄭註の奸謀は、日に外に聞こえた。銖らは難を犯して論諍し、上に省悟されることを冀った。宣伝の命を奉じた後、顔を見合わせて色を失い、その危亡は足を翹げて待つことができるほどであった。明年、訓・註が権を窃み、銖が己に附かないことを憎み、五月、出して越州刺史・御史中丞・浙東觀察使とした。開成三年、就いて檢校左散騎常侍を加えられ、まもなく入朝して刑部侍郎となった。四年七月、出て河南尹となった。會昌の末、吏部侍郎となった。

原文銖,元和六年登進士第。穆宗即位,入朝為監察御史,累遷員外郎、吏部郎中。太和五年,拜給事中。七年,為外官監考使。八年十月,文宗用國子助教李仲言為侍講,銖率諫官伏閣論曰:「仲言素行纖邪,若聽用,必亂國經。」上令中使宣諭曰:「朕要仲言講書,非有聽用也。」是歲,先旱後水,京師谷價騰踴;彗星為變,舉選皆停,人情雜然流議。鄭註奸謀,日聞於外。銖等犯難論諍,冀上省悟。既奉宣傳,相顧失色,以其危亡可翹足而待也。明年,訓、註竊權,惡銖不附己,五月,出為越州刺史、御史中丞、浙東觀察使。開成三年,就加檢校左散騎常侍,尋入為刑部侍郎。四年七月,出為河南尹。會昌末,為吏部侍郎。

釴の弟 鍇

原文釴弟 鍇

鍇は、元和九年に進士第に登り、宏辭科に昇り、累遷して吏部員外となった。太和三年、敕に準じて別頭進士明經鄭齊之ら十八人を試した。榜が出た後、語辞が紛競した。監察御史姚中立がこれを聞こしめし、詔して鍇に審定させた。そこで李景・王淑らを昇格させ、人は公平と認めた。六年二月、司勛郎中より転じて諫議大夫となった。七年、中書舍人に遷った。九年十月、本官をもって礼部貢挙を権知した。開成元年春、試が終わり、及第人名を進呈すると、文宗は侍臣に言うには、「以前の文格は佳くなく、昨出した進士の題目は朕が出したもので、試は去年より勝れているようだ」と。鄭覃が言うには、「陛下が詩賦の格調を改め、頽俗を正されましたが、高鍇もまた精励して士を選び、聖旨に副うことができました」と。帝はまた言うには、「近ごろ諸侯の章奏は、語が浮華に過ぎ、典実に背いている。掌書記を罰して、その流れを誡めるべきである」と。李石が言うには、「古人は事によって文を為し、今人は文によって事を害し、弊を懲らし末を抑えることは、まさに盛時に在ります」と。そこで鍇を礼部侍郎とした。凡そ貢部を掌ること三年、毎年登第する者は四十人であった。三年、榜が出た後、敕して言うには、「進士は毎年四十人、その数が過多であれば精選に背く。官途は填委し、その源を塞ぐべきであり、宜しく毎年三十人を限って放つことに改め、もしその数に登らなくとも、また聴く」と。しかし鍇の選擢は多く、頗る実才を得、豪華を抑え、孤進を擢げ、今に至るまで称えられている。まもなく吏部侍郎に転じた。その年九月、出て鄂州刺史・御史大夫・鄂嶽觀察使となり、卒した。

原文鍇,元和九年登進士第,升宏辭科,累遷吏部員外。太和三年,準敕試別頭進士明經鄭齊之等十八人。榜出之後,語辭紛競。監察御史姚中立以聞,詔鍇審定。乃升李景、王淑等,人以為公。六年二月,自司勛郎中轉諫議大夫。七年,遷中書舍人。九年十月,以本官權知禮部貢舉。開成元年春,試畢,進呈及第人名,文宗謂侍臣曰:「從前文格非佳,昨出進士題目,是朕出之,所試似勝去年。」鄭覃曰:「陛下改詩賦格調,以正頹俗,然高鍇亦能勵精選士,仰副聖旨。」帝又曰:「近日諸侯章奏,語太浮華,有乖典實。宜罰掌書記,以誡其流。」李石曰:「古人因事為文,今人以文害事,懲弊抑末,實在盛時。」乃以鍇為禮部侍郎。凡掌貢部三年,每歲登第者四十人。三年,榜出後,敕曰:「進士每歲四十人,其數過多,則乖精選。官途填委,要窒其源,宜改每年限放三十人,如不登其數,亦聽。」然鍇選擢雖多,頗得實才,抑豪華,擢孤進,至今稱之。尋轉吏部侍郎。其年九月,出為鄂州刺史、御史大夫、鄂嶽觀察使,卒。

釴の子湜、鍇の子湘は、ともに進士第に登った。湜は、咸通十二年に礼部侍郎となった。湘は員外郎より知制誥となり、正しく中書舍人を拝した。咸通年間、諫議大夫に改めた。宰相劉瞻と親厚であったことで坐し、高州司馬に貶された。乾符初め、再び中書舍人となった。三年、礼部侍郎に遷り、士を選んで人を得た。出て潞州大都督ととく府長史・昭義節度・澤潞觀察等使となり、卒した。

原文釴子湜,鍇子湘,偕登進士第。湜,咸通十二年為禮部侍郎。湘自員外郎知制誥,正拜中書舍人。咸通年,改諫議大夫。坐宰相劉瞻親厚,貶高州司馬。乾符初,復為中書舍人。三年,遷禮部侍郎,選士得人。出為潞州大都督府長史、昭義節度、澤潞觀察等使,卒。

馮宿

原文馮宿

馮宿は、東陽の人である。幼少の頃、父の子華に従って祖墓に廬し、霊芝・白兔の祥瑞があった。宿の昆弟二人は、皆幼くして文学があった。宿は進士第に登り、徐州節度張建封に辟かれて掌書記となった。後に建封が卒すると、その子の愔が軍士に立てられ、李師古が喪に乗じて襲い取ろうとした。時に王武俊がその隙を窺っていたので、愔は恐懼し、計る所を知らなかった。宿はそこで檄書をもって師古を招き、武俊を説いて言うには、「張公は君と兄弟となり、力を同じくして両河を駆り天子に帰せんと欲したことは、衆の知るところである。今張公が歿し、幼子が乱兵に脅迫され、内には誠款が朝廷より隔絶し、外には境土が強寇に侵逼されている。孤危この如きに、公どうして坐視できようか!誠に天子に奏上し、先僕射の忠勛を念い、その子の迫脅を赦し、束身して自ら帰らせることができれば、公は朝廷に対しては乱を靖める功があり、張氏に対しては絶えたものを継ぐ徳があるであろう」と。武俊は大いに悦び、直ちに表して聞こしめした。これにより朝廷は愔に節鉞を賜い、なお建封に司徒しとを贈った。

原文馮宿,東陽人。丱歲隨父子華廬祖墓,有靈芝、白兔之祥。宿昆弟二人,皆幼有文學。宿登進士第,徐州節度張建封辟為掌書記。後建封卒,其子愔為軍士所立,李師古欲乘喪襲取。時王武俊且觀其釁,愔恐懼,計無所出。宿乃以檄書招師古,而說武俊曰:「張公與君為兄弟,欲同力驅兩河歸天子,眾所知也。今張公歿,幼子為亂兵所脅,內則誠款隔絕於朝廷,外則境土侵逼於強寇。孤危若此,公安得坐視哉!誠能奏天子,念先僕射之忠勛,舍其子之迫脅,使得束身自歸,則公於朝廷有靖亂之功,於張氏有繼絕之德矣!」武俊大悅,即以表聞。由是朝廷賜愔節鉞,仍贈建封司徒。

宿はかつて建封に従ったことがあったので、その子と処ることを楽しまず、そこで浙東觀察使賈全の府に辟かれた。愔はその己を去ることを恨み、奏して泉州司戸に貶した。征召されて太常博士となった。王士真が死に、その子の承宗が順わなかったため、謚を加えなかった。宿は、懐柔の義として、その忠労を遺すべからずと考え、美謚を加えた。虞部・都官の二員外郎に転じた。

原文宿以嘗從建封,不樂與其子處,乃從浙東觀察使賈全府辟。愔恨其去己,奏貶泉州司戶。征為太常博士。王士真死,以其子承宗不順,不加謚。宿以為懷柔之義,不可遺其忠勞,乃加之美謚。轉虞部、都官二員外郎。

元和十二年、裴度に従って東征し、彰義軍節度判官となった。淮西が平定されると、比部郎中を拝した。時に韓愈が仏骨を論じたとき、時の宰相は宿が疏を草したのではないかと疑い、出して歙州刺史とした。入朝して刑部郎中となった。十五年、権判考功を務めた。宿は、宰臣及び三品已下の官については、故事により内で校考し、別に封をして進上するものとした。翰林學士は、職は内署に居り、事を知ることができないので、前のごとく上考を書くことを請うた。諫官御史もまた旧に依ることを請い、ともに中上考を書いた。

原文元和十二年,從裴度東征,為彰義軍節度判官。淮西平,拜比部郎中。會韓愈論佛骨,時宰疑宿草疏,出為歙州刺史。入為刑部郎中。十五年,權判考功。宿以宰臣及三品已下官,故事內校考,別封以進;翰林學士,職居內署,事莫能知,請依前書上考;諫官御史亦請仍舊,並書中上考。

長慶元年、本官をもって知制誥となった。二年、兵部郎中に転じ、前のごとく職を充てた。牛元翼が深州をもって王庭湊に従わなかったので、詔して襄州節度使を授けた。元翼は未だ出でず、深州は庭湊に囲まれた。二年、宿を以て檢校右庶子・兼御史中丞とし、紫金魚袋を賜い、留務を総べさせた。監軍使周進榮が詔命に遵わなかったので、宿は状を以て聞こしめした。元翼が到着した後、宿は朝に帰り、中書舍人を拝し、太常少卿に転じた。

原文長慶元年,以本官知制誥。二年,轉兵部郎中,依前充職。牛元翼以深州不從王庭湊,詔授襄州節度使。元翼未出,深州為庭湊所圍。二年,以宿檢校右庶子、兼御史中丞,賜紫金魚袋,往總留務。監軍使周進榮不遵詔命,宿以狀聞。元翼既至,宿歸朝,拜中書舍人,轉太常少卿。

敬宗が即位すると、宿は常に乗輿を導引したが、出て華州刺史となった。父の名を憚って章を上って罷めることを乞い、左散騎常侍に改め、兼集賢殿學士とし、考制策官を充てた。

原文敬宗即位,宿常導引乘輿,出為華州刺史。以父名拜章乞罷,改左散騎常侍,兼集賢殿學士,充考制策官。

太和二年、河南尹を拝した。時に洛苑使姚文壽が部下を縦して百姓を侵欺し、吏は敢えて捕えなかった。ある日、大会に遇い、かつて捕えようとした者が文壽の側で傲睨していたので、宿は知ってこれを掩い、杖死させた。

原文太和二年,拜河南尹。時洛苑使姚文壽縱部下侵欺百姓,吏不敢捕。一日,遇大會,嘗所捕者傲睨於文壽之側,宿知而掩之,杖死。

太和四年、入朝して工部侍郎となった。六年、刑部侍郎に遷り、『格後敕』三十巻を修し、兵部侍郎に遷った。九年、出て剣南東川節度使となり、檢校礼部尚書を兼ねた。

原文太和四年,入為工部侍郎。六年,遷刑部侍郎,修《格後敕》三十卷,遷兵部侍郎。九年,出為劍南東川節度使,檢校禮部尚書。

開成元年十二月に卒し、朝を廃し、吏部尚書を贈られ、諡して懿という。文集四十巻あり。子に図・陶・韜の三人、皆進士に登第し、清要な官職を歴任した。

原文開成元年十二月卒,廢朝,贈吏部尚書,謚曰懿。有文集四十卷。子圖、陶、韜,三人皆登進士,揚歷清顯。

弟 定

原文弟 定

宿の弟定、字は介夫。容姿は雄壮で、宿とともに文学があり、而定はそれを凌いだ。貞元中に皆進士に挙げられ、当時の人はこれを漢朝の二馮君に比した。于頔が姑蘇を治めたとき、定はそこに寓居し、頔は布衣の間で友とした。後に頔が襄陽を帥とすると、定は驢に乗って軍門に詣でた。吏が直ちに通報しなかったので、定は留まらずに去った。頔は慚じ、軍吏を笞打ち、急いで銭五十万を載せて境まで行き謝罪した。定は旅舎で食事をし、返書をして貴傲を責めてその贈り物を返し、頔は深く恨みとした。権徳輿が貢士を掌ると、上第に抜擢し、後に潤州で薛蘋の幕下に佐わり、校書郎を得、まもなく鄠県尉となり、集賢校理を充てた。定は先に父の喪に服し、号泣して肺病を得、役所に赴くのが時に及ばず、大学士はその才を恃んで怠慢であると疑い、その職を奪い、大理評事とした。朝廷に登り太常博士となり、祠部員外郎に転じた。

原文宿弟定,字介夫。儀貌壯偉,與宿俱有文學,而定過之。貞元中皆舉進士,時人比之漢朝二馮君。於頔牧姑蘇也,定寓焉,頔友於布衣間。後頔帥襄陽,定乘驢詣軍門;吏不時白,定不留而去。頔慚,笞軍吏,馳載錢五十萬,及境謝之。定飯逆旅,復書責以貴傲而返其遺,頔深以為恨。權德輿掌貢士,擢居上第,後於澗州佐薛蘋幕,得校書郎,尋為鄠縣尉,充集賢校理。定先時居父憂,因號毀得肺病,趨府或不及時,大學士疑其恃才簡怠,乃奪其職,俾為大理評事。登朝為大常博士,轉祠部員外郎。

宝暦二年、出て郢州刺史となった。長寿県尉馬洪沼が定が人妻を強奪し、また欠員の官職田の禄粟を私用に費やしたと告げた。詔して監察御史李顧行にこれを審理させた。獄が成って上聞すると、制に曰く、「馮定は使臣に推問させたが、私腹を肥やす贓物はなく、告発された罰銭も皆公用であった。しかし長吏の体面は、頗る無礼に渉り、刑賞或いは誤り、宴遊節度なし。恩赦を経た縁故により、改めて科条で処することは難く、なお郡の符節を保持するは、公議許さず。宜しく現任を停むべし。」まもなく国子司業・河南少尹を除かれた。

原文寶歷二年,出為郢州刺史。長壽縣尉馬洪沼告定強奪人妻,及將闕官職田祿粟入己費用,詔監察御史李顧行鞫之。獄具上聞,制曰:「馮定經使臣推問,無入己贓私,所告罰錢,又皆公用。然長吏之體,頗涉無儀,刑賞或乖,宴遊不節。緣經恩赦,難更科書,猶持郡符,公議不可,宜停見任。」尋除國子司業、河南少尹。

太和九年八月、太常少卿となった。文宗は毎度音楽を聴き、鄭・衛の声を鄙び、詔して奉常に開元中の『霓裳羽衣舞』を習わせ、『雲韶楽』でこれに合わせた。舞曲が成ると、定は楽工を総べて庭で検閲し、定はその間に立った。文宗はその端厳で凝然として植わったようであるのを見て、その姓氏を問うた。翰林学士李玨が対えて曰く、「これは馮定です。」文宗は喜び、問うて曰く、「古い章句を作る者ではないか。」乃ち召して階を昇らせた。文宗は自ら定の『送客西江詩』を吟じ、吟じ終えてますます喜び、因って禁中の瑞錦を賜い、なお大いに著した古体詩を録して献上せしめた。まもなく諫議大夫に遷り、匭事を知った。

原文太和九年八月,為太常少卿。文宗每聽樂,鄙鄭、衛聲,詔奉常習開元中《霓裳羽衣舞》,以《雲韶樂》和之。舞曲成,定總樂工閱於庭,定立於其間。文宗以其端凝若植,問其姓氏。翰林學士李玨對曰:「此馮定也。」文宗喜,問曰:「豈非能為古章句者耶?」乃召升階。文宗自吟定《送客西江詩》,吟罷益喜,因錫禁中瑞錦,仍令大錄所著古體詩以獻。尋遷諫議大夫、知匭事。

この年、李訓の事が敗れて誅せられ、士大夫が横にその禍いに罹り、朝廷内外危惧疑惑した。改元して殿に御するに及び、中尉仇士良が神策軍の仗衛を用いて殿門に在らしめることを請うた。定は抗疏して論じて罷めさせ、人々はこれを危ぶんだ。また左右史が宰臣に随って延英殿に入り事を記すことを許すよう請うたが、宰臣は喜ばなかった。二年、太子詹事に改めた。三年、宰臣鄭覃が太子太師に拝され、尚書省で上事しようとした。定が奏して曰く、「『六典』によれば、太師は詹事府に居り、都省で礼上するに合わず。」乃ち詔して本司で上事せしめ、人々はこれを推して美とした。四年、衛尉卿に遷った。この年、上章して老いを請い、詔して左散騎常侍をもって致仕せしめた。会昌六年、工部尚書に改めて卒した。

原文是歲,李訓事敗伏誅,衣冠橫罹其禍,中外危疑。及改元禦殿,中尉仇士良請用神策仗衛在殿門;定抗疏論罷,人情危之。又請許左右史隨宰臣入延英記事,宰臣不樂。二年,改太子詹事。三年,宰臣鄭覃拜太子太師,欲於尚書省上事。定奏曰:「據《六典》,太師居詹事府,不合於都省禮上。」乃詔於本司上事,人推美之。四年,遷衛尉卿。是歲,上章請老,詔以左散騎常侍致仕。會昌六年,改工部尚書而卒。

先に長慶中、源寂が新羅国に使いし、その国の人が伝え写し諷誦する定の作った『黒水碑』・『画鶴記』を見た。韋休符が西番に使いしたとき、その国の人が定の『商山記』を屏風に書き写しているのを見た。その文名はこのように戎夷にまで馳せた。

原文先長慶中,源寂使新羅國,見其國人傳寫諷念定所為《黑水碑》、《畫鶴記》。韋休符之使西番也,見其國人寫定《商山記》於屏障。其文名馳於戎夷如此。

子に袞・顓・軒・巖の四人、皆進士に登第した。咸通中、台省の官職を歴任した。宿の従弟に審・寛あり。

原文子袞、顓、軒、巖四人,皆進士登第。咸通中,歷任臺省。宿從弟審、寬。

従弟 審

原文從弟 審

審の父は郁。審は貞元十二年に進士第に登り、累次使府に辟召された。入朝して監察御史となり、累遷して兵部郎中に至った。開成三年、諫議大夫に遷った。四年九月、出て桂州刺史・桂管観察使となった。入朝して国子祭酒となった。国子監に『孔子碑』があり、睿宗の篆額に「大周」の二字が加えられていたが、これは武后の時の篆である。審は偽号を琢り去り、「大唐」の字に復するよう請うた。従った。咸通中、秘書監で卒した。

原文審父子郁。審,貞元十二年登進士第,累辟使府。入為監察御史,累遷至兵部郎中。開成三年,遷諫議大夫。四年九月,出為桂州刺史、桂管觀察使。入為國子祭酒。國子監有《孔子碑》,睿宗篆額,加「大周」兩字,蓋武后時篆也。審請琢去偽號,復「大唐」字,從之。咸通中,卒於秘書監。

審の弟 寛

原文審弟 寬

審の弟寛、子の緘、皆進士に擢第し、当時に知名であった。

原文審弟寬,子緘,皆進士擢第,知名於時。

封敖

原文封敖

封敖、字は碩夫、その先祖は渤海蓚の人。祖父は希奭。父は諒、官は卑しかった。敖は元和十年に進士第に登り、累次諸侯の府に辟召された。太和中、入朝して右拾遺となった。会昌初め、員外郎として制誥を知り、召されて翰林に入り学士となり、中書舎人に拝された。

原文封敖,字碩夫,其先渤海蓚人。祖希奭。父諒,官卑。敖,元和十年登進士第,累辟諸侯府。太和中,入朝為右拾遺。會昌初,以員外郎知制誥,召入翰林為學士,拜中書舍人。

敖は構想が敏速で、言葉は近くして理が勝り、奇抜や晦渋を求めず、武宗は深くこれを重んじた。嘗て『賜陣傷辺将詔』を草し、警句に云く、「傷は爾が体に居れども、痛みは朕が身に在り。」帝はこれを見て善しとし、宮錦を賜った。李徳裕が相位に在り、策を定めて回鶻を破り、劉稹を誅した。議兵の際、同列に或いは不可の言あるも、唯だ徳裕が籌計し指画し、竟に奇功を立てた。武宗はこれを賞し、衛国公に封じ、太尉を守らせた。その制語に、「横議を風波に遏え、奇謀を掌握に定む。逆稹兵を盗み、壷関昼に鎖さる。膝を造り嘉話し、懐を開き静かに思う。意皆我と同く、言他に惑わず。」とある。制が出ると、敖は往ってこれを慶賀した。徳裕は口にこの数句を誦し、敖を撫でて曰く、「陸生に言あり、恨む所は文の意に逮わざるなりと。卿がこの語の如きは、筆を執る者も容易に措言し難し。」座中で賜った玉帯を解いて敖に遺し、深く礼を重んじた。

原文敖構思敏速,語近而理勝,不務奇澀,武宗深重之。嘗草《賜陣傷邊將詔》,警句云:「傷居爾體,痛在朕躬。」帝覽而善之,賜之宮錦。李德裕在相位,定策破回鶻,誅劉稹。議兵之際,同列或有不可之言,唯德裕籌計指畫,竟立奇功。武宗賞之,封衛國公,守太尉。其制語有:「遏橫議於風波,定奇謀於掌握。逆稹盜兵,壺關晝鎖,造膝嘉話,開懷靜思,意皆我同,言不他惑。」制出,敖往慶之,德裕口誦此數句,撫敖曰:「陸生有言,所恨文不迨意。如卿此語,秉筆者不易措言。」座中解其所賜玉帶以遺敖,深禮重之。

しかし韋敖は士の規範を保持せず、人はその才能を重んじてその行いを軽んじたので、李德裕は大いに用いることができなかった。李德裕が宰相を罷めると、韋敖もまた内職を罷免された。宣宗が即位すると、礼部侍郎に遷った。大中二年、貢部を主管し、多くの文士を抜擢した。吏部侍郎・渤海男・食邑七百戸に転じた。四年、出て興元尹・御史大夫・山南西道節度使となり、左散騎常侍を歴任した。十一年、太常卿に拝され、出て淄青節度使となり、入って戸部尚書となり、卒した。

原文然敖不持士範,人重其才而輕其所為,德裕不能大用之。德裕罷相,敖亦罷內職。宣宗即位,遷禮部侍郎。大中二年,典貢部,多擢文士。轉吏部侍郎、渤海男、食邑七百戶。四年,出為興元尹、御史大夫、山南西道節度使,歷左散騎常侍。十一年,拜太常卿,出為淄青節度使,入為戶部尚書,卒。

子の彦卿・望卿、従子の特卿は皆進士及第し、咸通の後、清要な官位を歴任した。

原文子彥卿、望卿,從子特卿,皆進士及第,咸通後,歷位清顯。

史臣が曰く、韋公(韋温)は鯁直で官職を守り、犯して礼を得た。蕭子(蕭祐)は吏隠に恬淡として、抑も名賢である。蔚章(韋表微)の操り韻は高くはないが、従容たる長者である。韋郁・韋朗の襟概は、韋郁に世風があった。三高(高釴・高銖・高錡)は一時に並び秀で、二馮(馮宿・馮定)は千里を争って駆け、皆英華を摛り藻を掞って、国を華やかにし名を揚げた。潤色の能、封(封敖)に譲る所無く、寿考は慶を垂れ、儒は何ぞ負かんや。

原文史臣曰:韋公鯁亮守官,犯而得禮。蕭子恬於吏隱,抑亦名賢。蔚章操韻非高,而從容長者。郁、朗襟概,郁有世風。三高並秀於一時,二馮爭驅於千里,威以摛英掞藻,華國揚名。潤色之能,封無與讓,壽考垂慶,儒何負哉!

賛して曰く、蒲に伏して諫を進め、翰を染めて文を為す。独孤(独孤郁)・韋氏(韋温)、志は君を匡すに在り。馮・高諸子、綺繡繽紛たり。禁垣に美を擅にし、渤海(封敖)は雲を凌ぐ。

原文贊曰:伏蒲進諫,染翰為文。獨孤、韋氏,誌在匡君。馮、高諸子,綺繡繽紛。禁垣擅美,渤海淩云。