旧唐書 列伝第一百一十六 元稹 白居易

旧唐書

列伝第一百一十六 元稹 白居易

元稹

元稹、字は微之、河南の人である。後魏の昭成皇帝は、元稹の十代の祖である。兵部尚書・昌平公の元巖は、六代の祖である。曾祖父の延景は、岐州参軍であった。祖父の悱は、南頓丞であった。父の寛は、比部郎中・舒王府長史であり、元稹の貴顕により、左僕射を追贈された。

元稹は八歳で父を喪った。その母の鄭夫人は、賢明な婦人であった。家が貧しかったため、元稹に自ら書を授け、書学を教えた。元稹は九歳で文章を作ることができた。十五歳で二経に及第した。二十四歳で判の試験に応じて第四等に入り、秘書省校書郎に任じられた。二十八歳で制挙の才識兼茂・明於体用科に応じ、及第した者は十八人で、元稹が第一となり、これは元和元年四月のことであった。制が下り、右拾遺に任じられた。

元稹の性質は鋭く、事を見るや風の起こるが如くであった。諫官の職に居るや、碌碌として自ら滞ることを欲せず、言わざる事なく、即日に上疏して諫職を論じた。また、以前に王叔文・王伾が猥褻の輩として待詔となり、太子の寵幸を受け、永ただの際に大いに朝政を撓乱したことを以て、太子の宮官を訓導するには、正しき人を選ぶべきであるとした。そこで『教本書』を献じて言うには:

臣が拝見するに、陛下は明詔を下し、廃れた学問を修め、胄子を増やし、司成を選ばれた。大なるかな、堯が君主として、伯夷に礼典を司らせ、夔に胄子を教えさせた深い趣旨である。しかしながら、これよりもはるかに重要な事柄がある。臣は敢えて冒昧に死を覚悟して申し上げる。臣は賈生の言を聞いたことがある。『三代の君主が仁であり、かつ長く続いたのは、教えによるものである』と。誠にこの言葉は正しい。そもそも周の成王は、人の中の才に過ぎない。管叔・蔡叔に近づけば讒言が入り、周公・召公がいれば正義が聞こえる。どうして天の聡明と言えようか。しかしながら道を全うして終えることができたのは、教えによるものと言わざるを得ない。伯禽や唐叔と交遊させ、《礼》、《楽》、《詩》、《書》を習わせ、目には淫艶で妖しい誘惑の色を見せず、耳には優笑や凌乱の音を聞かせず、口には操断や撃博の書を習わせず、居所には容順で陰邪な徒党を近づけず、遊びには禽獣を追いかける楽しみを恣にさせず、玩物には遠く異様で僻絶した珍品を持たせなかった。これらすべては、前に備えて行わないというのではなく、見ることもできなかったのである。そして成長して君主となった時には、血気は既に定まり、遊びと学習の習慣は既にできあがっている。たとえ放縦で快楽的な事柄が日々前に並べられても、固くできあがった習慣や定まった心を奪うことはできない。すると、あの忠直で道徳的な言葉は、まさに我が習い聞いたものであり、それを述べる者には諭すべき理由がある。あの凡庸でねい(ねい)で道に背いた説は、まさに我が積もり積もって恐れるものであり、諂(へつら)う者には弁別すべき理由がある。人の情は、その能力を輝かせ、近しい者を徒党を組ませたいと願わない者はない。もし志を得ようとするならば、必ずその内に秘めたものを快く思うであろう。物の性もまた同じである。それゆえ魚は水を得て遊び、馬は逸駕して走り、鳥は風を得て翔け、火は薪を得てさか(さか)んになる。これらは皆、物がその内に秘めたものを快く思うことである。今、成王が内に秘めたものは道徳であり、近づいたのは聖賢である。それゆえその近しい者を挙げれば、周公が左に、召公が右に、伯禽は魯に、太公は斉にいる。その内に秘めたものを快く思えば、礼楽を興して諸侯に朝見させ、刑罰を措(お)いて教化を美しくする。教えの極致である。信じるに足りるとは言えまいか。秦に至ってはそうではなかった。先王の学問を滅ぼし、天下を愚かにしようと言い、師保の位を退け、君臣の分を明らかにしようと言った。胡亥が生まれた時、《詩》、《書》を聞くことができず、聖賢に近づくことができなかった。あの趙高は、詐りの宦官で刑戮を受けた者である。それに残忍で害をなす術を教え込み、さらに天下を恣睢しすい(しすい)して貴しとし、その顔を見せないことを尊しとした。それゆえ天下の人々がまだ愚かになっていないうちに、胡亥はすでに獣畜と区別できなくなっていた。趙高の威は天下を脅かし、胡亥はすでに深宮に幽閉されていた。あの李斯は、秦の寵愛された丞相である。讒言によって冤罪で死に、自ら明らかにする術もなく、ましてや疎遠な臣下や庶民においておやである。このようにすれば、秦の滅亡にはそれなりの理由がある。漢の高祖は兵革を承け継ぎ、漢の文帝は廉謹をもって守ったが、ついに大訓を蘇らせ復活させることはできなかった。それゆえ景帝、武帝、昭帝、宣帝は、天資が甚だ美しく、才によって禍乱を免れることができたが、哀帝、平帝の間になると、簒奪や弑逆を防ぐことができなかった。しかしながら、恵帝が廃立された際には、なおも羽翼(うよく)に頼って邪心に打ち勝った。その後、国を持つ君主で、教化を議論する者は、廉を興し孝を挙げ、学を設け儒を崇めることを意とする者がいなかったわけではないが、教化が行われないのは、貴い者から始まることを知らなかった。貴い者をおろそ(おろそ)かにし、賤しい者を教えるのは、倒置に近いと言わざるを得ない。我が太宗文皇帝が藩邸におられた時から、太子となられるまで、道を知る者十八人を選んで交遊・学習された。即位された後も、遊宴飲食の間であっても、その十八人は常にその中におられた。上の過失は言わないものはなく、下の情実は通じないものはなかった。三、四年と経たないうちに、その名声は盛んな古代に高くならなかった。一日二日でこうなったのだろうか。遊びと学習の積み重ねである。貞観年間以降、師傅は皆宰相が兼ねており、その他の宮僚もまた甚だ重んじられた。馬周は位が高いことを恨んで、司議郎になりたいと願った。これがその証拠である。文皇の後、次第に疎遠にし軽んじるようになった。ついには母后が朝政に臨み、王室を切り捨てるに至った。中宗、睿宗の二聖が勤労された際にも、骨鯁で敢えて言う士がいたが、調護保安の職にいることができず、ついに扶衛の一言を吐くことができなかった。そして医匠の安金蔵に腹を割かせて明らかにさせた。なんと大いに哀れなことではないか。兵乱が起こって以来、この弊害は特に甚だしい。師資保傅の官は、病気で廃人になったり、目がかすみ耳が聞こえなくなって職務に堪えない者がこれを行い、あるいは戦争をやめさせられた将帥で書物を知らない者がこれに就く。友諭・賛議の徒に至っては、疎遠で冗員、散官で賤しい者の中でも甚だしい者であり、縉紳はこれに従うことを恥じる。一人の士でさえ、その子を愛する者は、なおも明哲で慈恵の師を求めて教え、直諒で多聞の友を得て成し遂げさせようとする。天下の元良(皇太子)が、どうして病気で廃人になったり、目がかすみ耳が聞こえなくなって書物を知らない者を師とし、疎遠で冗員、散官で賤しくて役に立たない者を友とすることができようか。これはどうして上古に及ばないことが甚だしいのか。近年の制度では、宮僚のほかに、往々にして沈滞して僻遠の老儒を、侍直・侍読の選に充て、さらに疎遠にし棄て斥逐して、月を越え時を過ぎても召見されることがない。彼らがどうして道徳を伝え成し、その身を保養することができようか。臣は思うに、この弊害が積もったのは、皇天が眷佑して、我が唐の徳に福を授け、舜が堯を継ぐように、陛下に十一聖を伝えられたからであり、生まれながらに神明で、成長して仁聖となられたので、このような細々とした儀礼の学習を省かれたのではないか。臣はただ、歴代の聖帝のご計画としてはそれでよいが、後嗣に伝えることを考えるとそうはいかないと思う。もしも万代の後、周の成王のような中才の者がいて、しかも深宮の優笑の間に生まれ、周公・召公のような保助の教えがなければ、喜怒哀楽がどこから来るのかさえ知ることができず、ましてや農耕の艱難など知る由もないであろう。今、陛下は上聖の質をもって、初めて海内に臨まれる。これは天下の人が耳を傾け心を注ぐ時である。特に願わくは、陛下には成王の訓導の功績を思い、文皇の遊習の積み重ねを念じ、師保を重んじて選び、宮僚を慎重に選ばれ、皆博く厚く弘く深い儒者で、しかも機務に明達した者をこれに任じられ、互いに進見させ、日を重ね月を経て成長させられること。あわせて皇太子に諸生を集めさせ、歯胄講業の儀を定め、厳師問道の礼を行わせられること。至徳要道をもって成し遂げさせ、徹膳記過をもって戒めさせられること。血気が未だ定まらないうちは、禽色の娯楽を去って学問に就かせ、聖質が既に備わったならば、遊習の善きところを資(と)って徳を弘めさせられること。これこそが『一人元良、万方以て貞(ただ)し』という教化である。ただ廃れた学問を修め、司成を選ぶだけで、その盛んなことに匹敵し足りるであろうか。さらに百王ののり(のり)とし、幼い時は同じ師に、成長しては同じ術を持ち、君道が素より定まっていることを識り、天倫が自然であることを知り、その後で賢良を選用し、藩屏として立てられること。出れば晋・鄭・魯・衛の盛んなありさまがあり、入れば東牟・朱虚の強さがある。いわゆる宗子は城を維(つな)ぎ、犬牙は盤石の勢いというものである。どうして魏・晋以降、兄弟を囚人のように賤しめ、自らその本枝を切り捨てた者と、同じ年に語ることができようか。

憲宗はこれを読んで甚だ喜んだ。

また西北の辺境の事について論じたが、これらは皆朝政の重要な事柄であった。憲宗は召し出して対面させ、方略を問うた。執政者に忌まれて、河南県尉に左遷された。母の喪に服し、喪が明けると、監察御史に任じられた。

元和四年、元稹は東蜀に使いを奉じて赴き、故剣南東川節度使厳礪が制に違いて擅に賦を徴し、また塗山甫ら吏民八十八戸の田宅一百一十一、奴婢二十七人、草千五百束、銭七千貫を籍没したことを劾奏した。時に礪は既に死しており、七州刺史は皆責罰を受けた。稹は職を挙げたとはいえ、執政の中に礪と厚い者がこれを憎んだ。使いより還り、分務して東臺に在らしむ。浙西観察使韓臯は杖を封じて湖州安吉県令孫澥を決し、四日にして死せしめた。徐州監軍使孟升が卒し、節度使王紹は升の喪柩を伝送して京に還し、券を給して駅に乗じ、なお郵舎に喪柩を安置した。稹はこれらを併せて法に拠り劾奏した。河南尹房式が不法の事を行い、稹は追摂せんと欲し、擅に務を停めしめた。既に表を飛ばして奏聞し、式に一月の俸を罰し、なお稹を召し還して京に至らしめた。敷水駅に宿し、内官劉士元後より至り、庁を争う。士元怒り、その戸を排し、稹は襪を履いたまま庁の後ろに走る。士元これを追い、後に棰を以て稹を撃ち面を傷つけた。執政は稹が年少の後輩であり、威福を作すことを務めるとし、江陵府士曹参軍に貶した。

元稹は聡明で人に絶し、年少にして才名有り、太原の白居易と親善であった。詩を工みにし、風態物色を状詠するに善く、当時詩を言う者は、元・白と称した。衣冠の士子より、閭閻の下俚に至るまで、悉くこれを伝え諷誦し、「元和体」と号した。既に俊爽なるを以て朝に容れられず、荊蛮に流放すること僅かに十年。俄かに白居易もまた江州司馬に貶され、稹は量移して通州司馬となる。通州・江州は懸邈たりといえども、二人は往来して贈答す。凡そ為す所の詩、三十韻・五十韻より乃至百韻に至るもの有り。江南の人士、伝え道い諷誦し、闕下に流聞し、裏巷相伝え、これが為に紙貴す。その流離放逐の意を観るに、靡くも淒惋ならざるは無し。

元和十四年、虢州長史より征還され、膳部員外郎となる。宰相令狐楚は一代の文宗にして、雅に稹の辞学を知り、稹に謂いて曰く、「嘗て足下の制作を覧る、恨む所は多からざるに、これを遅らすること久し。請う其の所有を出だし、以て予が情を豁かしめよ」と。稹は因りて其の文を献じ、自ら叙して曰く。

元稹は初め文を好まず、徒らに仕えるに他岐無きを以て、強いて科試より由る。及び罪有りて譴棄せられたる後、自ら廃滞潦倒たるを以て、復た文字を為して人に聞こゆる有らざらんとす。曾て知らず好事者の刍蕪を抉擿し、尊重を塵瀆すことを。窃かに相公が特に関廊廟の間に於いて稹の詩句を道うを承け、昨又面して教約を奉じ、旧文を献ぜしめらる。戦汗悚踊し、慚靦して地無し。稹は御史府より謫官せられ、今に十余年なり。閑誕として事無く、遂に力を詩章に専らす。日に益し月に滋し、詩句千余首有り。其の間物に感じ意を寓し、矇瞽の風に備うべきもの有り。辞直く気粗く、罪尤を是れ懼る、固より敢えて人に陳露せず。唯だ杯酒光景の間、屡々小碎の篇章を為し、以て自ら吟暢す。然れども律体は卑痹にして、格力揚がらず、苟くも姿態無くんば、則ち流俗に陥ると為す。常に思深く語近く、韻律調新にして、属対差無く、而して風情宛然たるを得んと欲すれども、病みて能わざるなり。江湖の間には新進の小生多く、天下の文に宗主有るを知らず、妄りに相放效し、而して又従って之を失い、遂に支離褊浅の辞に至るまで、皆目して元和詩体と為す。稹は同門生の白居易と親善なり。居易は雅に詩を能くし、就中文字を駆駕し、声韻を窮極するを愛し、或いは千言、或いは五百言の律詩を為し、以て相投寄す。小生自ら審らかに之に過ぐる能わざるを以て、往々戯れて旧韻を排し、別に新辞を創め、名づけて次韻相酬と為し、蓋し難きを以て相排せんと欲するなり。爾来江湖の間に詩を為す者、復た相放效し、力或いは足らざれば、則ち言語を顛倒し、首尾を重復し、韻同じく意等しくして、前篇と異ならず、亦目して元和詩体と為す。而して司文の者は変雅の由を考うるに、往々稹に帰咎す。嘗て彫虫の小事と為し、以て自ら明かすに足らずと為す。始めて相公の記憶するを聞き、累旬已来、実に糞土の墻を慮り、之を大廈を以て庇い、復た破壊せざらしめ、永く板築者の誤りと為さんことを。輒ち古体歌詩一百首、百韻より両韻に至る律詩一百首を写し、五巻と為し、啓を奉り跪いて陳ぶ。或いは廈を構うるの余を希い、一たび観覧を賜わり、小生の章句中に於ける欒櫨榱桷の材を、尽く曾て量度せることを知らば、則ち十余年の邅回、用無きに非ざるなり。

令狐楚は深く称賞し、今代の鮑照・謝霊運なりと為す。

穆宗皇帝、東宮に在りし時、妃嬪左右に嘗て稹の歌詩を誦して楽曲と為す者あり、稹の為す所を知り、嘗て其の善を称し、宮中に元才子と呼ぶ。荊南監軍崔潭峻は甚だ礼を以て稹に接し、掾吏を以て遇せず、常に其の詩什を征して諷誦せしむ。長慶初、潭峻朝に帰り、稹の『連昌宮辞』等百余篇を出だして奏御す。穆宗大いに悦び、稹の安在を問う。対えて曰く、「今南宮散郎と為す」と。即日に祠部郎中・知制誥に転ず。朝廷は書命相府より由らざるを以て、甚だ之を鄙む。然れども辞誥の出づる所、夐然として古と侔しく、遂に代に盛んに伝わり、是れより極めて恩顧を承く。嘗て『長慶宮辞』数十百篇を為し、京師競いて相伝唱す。居ること無き幾何、翰林に召し入られ、中書舎人・承旨学士と為る。中人は潭峻の故を以て、争って稹と交わり、而して枢密を知る魏弘簡は尤も稹と相善くし、穆宗愈々深く知り重んず。河東節度使裴度三たび疏を上り、稹と弘簡は刎頸の交わり有り、朝政を乱るを謀ると言い、言甚だ激訐なり。穆宗は中外の人情を顧み、乃ち稹の内職を罷め、工部侍郎を授く。上の恩顧未だ衰えず。長慶二年、平章事を拝す。詔下るの日、朝野軽笑せざる無し。

時に王廷湊・朱克融連兵して牛元翼を深州に囲む。朝廷倶に其の罪を赦し、節鉞を賜い、兵を罷めしめんとすれども、倶に詔を奉ぜず。稹は天子の次を非ざる抜擢を以て、立つ所有りて以て上に報いんと欲す。和王府傅の於方なる者有り、故司空の于頔の子、干進して稹に至る。奇士王昭・王友明の二人有り、嘗て燕・趙の間に客し、頗る賊党と通熟し、以て反間して元翼を出だすべしと言う。仍って自ら家財を以て其の行を資し、仍って兵吏部令史を賂して告身二十通を出ださしめ、便宜を以て給賜せしむ。稹皆之を然りとす。李賞なる者有り、於方の謀を知り、稹と裴度に隙有るを以て、乃ち度に告げて云く、「於方は稹に使われ、客の王昭等を結びて度を刺さんと欲す」と。度は隠して発せず。及び神策軍中尉が於方の事を奏するに及び、乃ち三司使韓臯等に詔して訊鞫せしむ。而して裴度を害する事は験無く、前の事尽く露わる。遂に倶に稹・度の平章事を罷め、乃ち稹を出だして同州刺史と為し、度は僕射を守らしむ。諫官疏を上り、度を責むること太重く、稹を責むること太軽しと言う。上心稹を憐れみ、止むるに長春宮使を削るを以てす。

元稹初めて相を罷められし時、三司の獄未だ奏せず、京兆尹劉遵古は坊の所由に遣わして潜かに稹の居第を邏せしむ。稹奏して之を訴う。上怒り、遵古を罰し、中人を遣わして稹を撫諭す。稹は同州に至り、因りて表して上に謝し、自ら叙して曰く。

臣元稹は聖明に背き、恩奨を辱めることとなり、自ら死地を求めるべきであり、なお官栄を辱めるなどとは思いもよらなかった。臣元稹死罪。臣は八歳で父を喪い、家は貧しく生業もなかった。母と兄が物乞いをして養いを供した。衣は体を覆わず、食は腹を満たさなかった。学び始める年齢になっても、師の教えを受けることはできなかった。隣家の子供たちに父兄が学校を開いているのを見て感じ入り、涙を流して発憤し、『詩経』『書経』を知りたいと願った。慈母は臣を哀れみ、自ら教授した。十五歳の時、明経科に合格して官途につき、ここから苦心して文章を書き、日夜勉学に励んだ。二十四歳の時、吏部の乙科に及第し、校書郎に任じられた。二十八歳の時、制挙の首席に選ばれ、左拾遺に任じられた。学問を始めてから朝廷に昇るまで、臣のために吹聴してくれる友人も、臣を援護してくれる親戚もいなかった。すべて自ら苦労したのであり、実に他人によるものではなく、独立独歩の性質ができあがり、ついに交際を結ぶこともなかった。拾遺を務めていた時、たびたび時政を上奏し、先帝(憲宗)に延英殿で召し出されて問われた。間もなく宰相に憎まれ、臣を河南県尉に左遷した。監察御史となった時も、また回避せず、専心して糾弾・矯正に努めたため、再び宰相が臣がその親族・党派をかばったと怒り、別の事を理由に臣を江陵府の判司に貶した。十年間廃棄され、溝渠で死ぬ覚悟であった。元和十四年、憲宗皇帝が罪を許され、初めて臣を膳部員外郎に任じられた。臣と同じ官省にいる者の多くは、臣が朝廷に登った時の挙人であり、卿相を務める者の半分は、臣が諫院にいた時の拾遺・補闕であった。愚臣は陛下の天聴がかくも低くまで及び、臣の薄い技芸をご存知で、硃書をもって臣に制誥を授け、延英殿で召し出されて緋衣を賜るとは、思いもよらなかった。宰相は臣がその門下から出ていないことを憎み、ここからあらゆる手段で誹謗中傷した。陛下は臣に罪のないことをお察しになり、寵愛と褒賞をますます深くされ、臣を召し出して固く中書舎人に任じ、翰林学士承旨を充てさせられ、金章紫服をもって、卑しい身を飾り立てられた。人生の栄誉として、臣は極みに達した。しかし臣はますます誹謗を受け、日夜憂い危惧した。ただ陛下の聖鑑が照り臨み、ますます保護任用され、ついに群議を排して、臣を御史大夫に抜擢された。臣は肺肝を有する身として、どうして尋常の宰相と同列でありえようか。ましてや行営が退散した後、牛元翼が脱出するまでの間、陛下の憂慮の言葉を聞くたびに、愚臣は自ら士卒に先んじることができなかったことを恨んだ。于方に問うた計策は、王友明らを派遣して深州を救い解かせようとしたものであり、これは聖情に副おうとしたに過ぎず、どうして別に他意を抱いていただろうか。奸人が臣が裴度を殺害したと疑い、妄りに告訴論告し、聖聴を汚したことは、天地に愧じ恥じる。臣は本来、ひとたび弁明してはっきりさせたなら、ただちに身を殺して責めを謝そうと考えていた。どうして聖慈がなお薄く貶めて同州刺史とするとは、思いもよらなかった。咫尺の間を隔てるとはいえ、郊圻の境から遠く離れているわけではなく、伏して考えるに、必ずや宸衷(帝心)の独断で、臣にこの官を乞うたのであろう。もし他人に相談させたなら、むしろ臣を遠方の藩鎮に遣わしたであろうに、どうして臣を闕廷に近い地に俯せさせようと肯うだろうか。恨むべきは今月三日、なお延英殿で召し出されて対面したことである。この時に泣血して辞し、天顔を仰いで辞することができず、ついに今日の追放に至った。臣は京国を離れて以来、目は絶え魂は消える思いである。毎朝五更の朝謁の時になるたびに、実に涙を制することができない。臣がもし余生を終えずに死なず、いつの日か万一帰還することがあれば、再び天顔を拝することは望まず、ただ再び京城の鐘鼓の音を聞くことができれば、臣はたとえ黄土に顔を覆われようとも、九泉に恨みはない。臣は任に堪えず、自ら恨み自ら慚じ、聖慈に攀じ恋慕する極みである。

郡に二年在任し、越州刺史・兼御史大夫・浙東観察使に改めて任じられた。会稽の山水は奇抜で秀麗であり、元稹が辟召した幕職は皆当時の文士であり、鏡湖・秦望への遊覧は月に三四度あった。そして詩歌を諷詠し、動けば巻帙を満たすほどであった。副使の竇鞏は海内に詩名があり、元稹と最も多く唱和し、今に至るまで蘭亭の絶唱と称される。元稹はすでに思いのままに遊楽にふけり、やや辺幅を修めず、汚職で当時に聞こえた。合わせて越州に八年在任した。

太和初年、就いて検校礼部尚書を加えられた。三年九月、入朝して尚書左丞となった。紀綱を振るい起こし、郎官の中で甚だ公議に背く者七人を出した。しかし元稹は平素より操行を検めず、人々の心は服さなかった。時に宰相王播が急死し、元稹は大いに岐路に立ち、相位を営んだ。四年正月、検校戸部尚書・兼鄂州刺史・御史大夫・武昌軍節度使となった。五年七月二十二日、急病にかかり、一日で鎮所にて卒した。時に五十三歳。尚書右僕射を追贈された。子に道護という者がおり、時に三歳であった。元稹の次兄で司農少卿の元積が、喪事を営み護った。著した詩賦・詔冊・銘誄・論議などの雑文一百巻があり、『元氏長慶集』と号した。また古今の刑政に関する書三百巻を著し、『類集』と号し、ともに世に行われた。

元稹は長慶末年にその文稿を編刪し、『自叙』に曰く。

劉歆が云うには、制度は削るべからずと。私は、削るべきものがあると考える。謀猷を貢ぎ、嗜欲を制するものは、君主がこれを有すれば誉れは上に帰し、臣下がこれを専らにすれば誉れは下に帰す。もしこれを存置すれば、その攘奪は道に非ず。制度を経緯し、利害を明らかにし、邪正を区別し、嫌惑を弁別するものは、これを存すれば事柄は分ち著明となり、これを去れば是非は泯滅す。もしこれを削れば、その過ちは道に非ず。元和の初め、章武皇帝(憲宗)新たに即位し、臣下未だ言を以て視聴を刮ぐ者無し。私は時に始めて詔に対し拾遺の中に供奉し、ここより『教本書』『諫職』『論事』等の表十数通を献じ、なお裴度・李正辞・韋熏が言うところの当を得たりと訟え、而して宰相は上語を曲げて伝う。上頗る悟り、召見して状を問う。宰相大いにこれを悪み、一月ならず、出でて河南尉と為る。後累歳、御史を補し、東川に使す。謹んで元和の赦書を以て、節度使厳礪が塗山甫等八十八家を籍没し、梓・遂の民に数百万を過賦せしを劾す。朝廷これを異とし、七刺史の料を奪い、悉く籍没したる所を人に帰す。潘孟陽が礪に代わりて節度使と為るに会い、貪婪礪に過ぎ、且つ承迎する所あり、敢えて尽く詔を廃せざるも、因って当に籍を得べき者の皆資を入るるを命ず。資その称に過ぎ、薪を榷し盗賦する無からず、なお礪の為に密かに状し醜謚を得るに当らざるを為す。我東川より還りしより、礪と朋なる者潜かに切歯す。間も無く、分かれて東都台に蒞る。天子久しく都に在らず、都下に不法の者多し。百司皆牢獄と為り、吏の械人を裁接して歳を逾えても台府之を知るを得ざる者有り、我因って飛奏して百司の専らに禁錮するを絶つ。河南尉判官、我これを劾し、宰相の旨に忤る。徐使を監し軍に死す、徐帥郵伝して其の柩を伝う、柩洛に至り、其の下主郵吏を欧詬す、我吏を命じて柩を外に徙し、復た伝乗するを得ざらしむ。浙西観察使封杖を以て安吉令を決し死に至らしむ;河南尹誣奏して書生尹太階の死を請う;飛龍使誘いて趙寔家の逃奴を養子と為す;田季安盗みて洛陽の衣冠の女を娶る;汴州死商の銭を没入すること且つ千万;滑州民に賦するに千を以てし、人に授くるに八百を以てす;朝廷東師に饋す、主計者誤って牛車四千三百乗を命じ飛芻して太行を越えしむ。是に類する数十事、或いは移し或いは奏し、皆之を主る。貞元以来、文法を用いるに慣れず、内外の寵臣皆喑嗚す。会に河南尹房式詐諼の事発し、奏して之を摂す。前に喑嗚せし者叫噪す。宰相素より叛官の事を劾するを以て相銜み、是に乗じて我を江陵掾に黜す。後十年、始めて膳部員外郎と為る。穆宗の初め、宰相更相に用事し、丞相段公一日独り対を得、因って亟に兵部郎中薛存慶・考功員外郎牛僧孺を用いるを請う、我も亦請の中に在り、上然り之。十数日に満たず次に用いて給事中・中書舎人と為し、他の忿恨する者日夜飛語を構う、我罪を懼れ、比して上書して自ら明らかにす。上之を憐れみ、三たび召して語る。語兵賦及び西北辺事に及び、因って之を経紀せしむ。是の後書奏及び進見するに、皆天下の事を言い、外間知らず、多く臆度す。陛下益々其の禁中の語を漏らさざるを憐れみ、禁林に召し入れ、且つ亟に用いて宰相と為さんと欲す。是の時裴度太原に在り、亦宰相の望有り、巧者謀りて俱に之を廃せんと欲し、乃ち我に無き所を以て裴に構う。裴の奏至り、之を験するに皆実を失う。上裴方に兵を握るを以て、曲直を校えんと欲せず、我を出して工部侍郎と為し、而して裴を相すべき期亦衰う。累月ならず、上尽く構うる所の者を得、暴揚すること能わざるも、遂に初意を果たし、卒に我と裴を用いて俱に宰相と為す。復た狂民を購いて我が客を借りて裴を刺すを告ぐる者有り、之を鞫するに復た状無く、而して裴と我以て故に俱に罷免せらる。始め元和十五年八月上に見え得、是に至る未だ二歳ならず、僭りて恩寵に忝くし、是の如き速きは無し;謗咎に遭罹し、亦是の如き甚だしきは無し。是を以て心腹腎腸、危亡を扶衛するに糜費して暇あらず、又悪くんぞ暇あらんや陛下の付する所を経紀するに。然れども造次顛沛の中、前後列上する兵賦辺防の状、得て存する可き者一百一十五。もし之を削らば、是れ先帝の器使を傷つくるなり。陳暢辨謗の章に至りては、之を去れば則ち以て朋友に自ら明らかにする無し。其の余の郡県の奏請、賀慶の礼、因って亦件目に附す。始め『教本書』より、人の為す雑奏に至るまで、二十有七軸、凡そ二百二十有七奏。終に吾が世を歿し、之を子孫に貽し式とす、以て経制の行い難く、而して銷毀の至り易きを明らかにする所以なり。

其の自叙此の如し、其の作者の意を知らんと欲すれば、此の篇に備わる。

稹の文友は白居易と最も善し。後進の士、最も龐嚴を重んず、其の文体己に類するを言い、之を保薦す。

龐嚴

龐嚴は、寿春の人。父は景昭。厳は元和の中に進士第に登り、長慶元年に制挙の賢良方正・能直言極諫科に応じ、策は三等に入り、制科の首を冠す。是の月、左拾遺に拝す。聡敏人に絶ち、文章峭麗なり。翰林学士元稹・李紳頗る之を知る。明年二月、召し入れて翰林に学士と為る。左補闕に転じ、再び駕部郎中・知制誥に遷る。厳は右拾遺蔣防と俱に稹・紳の保薦に為り、諫官内職に至る。

四年、昭湣(敬宗)即位し、李紳は宰相李逢吉に排せられ、端州司馬に貶せらる。厳坐に累い、出でて江州刺史と為る。給事中於敖素より厳と善し、制既に下り、敖封して還す、時人凜然として相顧みて曰く「於給事宰相の怒りを犯して知己の為にす、亦危からずや」と。覆制の出づるに及び、乃ち知る敖の制書を駁して厳を貶する太だ軽きを、中外嗤誚する無からず、以て口実と為す。初め李紳官を謫せられ、朝官皆逢吉を賀す、唯だ右拾遺呉思賀せず。逢吉怒り、改めて殿中侍御史と為し、入蕃告哀使を充つ。厳復た入りて庫部郎中と為る。

太和二年二月、上制挙人を試し、命じて厳と左散騎常侍馮宿・太常少卿賈餗を試官と為し、裴休を以て甲等制科の首と為す。直言極諫挙人に応ずる劉蕡有り、条対激切、凡そ数千言。選に中らず、人皆以て屈と為す。其の対する策、大いに時に行わる、登科者身名を以て蕡に授けんと請う者有り。厳再び太常少卿に遷る。

五年、権知京兆尹、強幹にして権豪を避けざるを以て称せらる、然れども士君子の検操無く、勢を貪り利を嗜む。酔いに因りて卒す。

白居易

白居易、字は楽天、太原の人。北齊の五兵尚書建の仍孫。建は士通を生む、皇朝の利州都督。士通は志善を生む、尚衣奉御。志善は溫を生む、検校都官郎中。溫は锽を生む、酸棗・鞏の二県令を歴任す。锽は季庚を生む、建中の初め彭城令と為る。時に李正己河南十余州に拠りて叛く。正己の宗人洧徐州刺史と為り、季庚洧を説きて彭門を以て国に帰せしめ、因りて朝散大夫・大理少卿・徐州別駕を授けられ、緋魚袋を賜い、兼ねて徐泗観察判官と為る。衢州・襄州別駕を歴任す。锽より季庚に至るまで、世儒業を敦くし、皆明経を以て出身す。季庚は居易を生む。初め、建は高齊に功を立て、韓城に田を賜わり、子孫ここに家し、遂に籍を同州に移す。溫に至りて下邽に徙り、今は下邽の人と為る。

白居易は幼少より聡明で人並み外れ、胸襟は広く開放的であった。十五、六歳の時、文章を一編袖に隠し、著作郎の呉人顧況に投じた。顧況は文才に優れるが、性格は軽薄で、後進の文章で気に入るものはなかった。白居易の文を見て、思わず門を出て礼遇し、言うには、「私はこのような文章はすでに絶えたと思っていたが、また君を得た」と。

貞元十四年、初めて進士として試験を受け、礼部侍郎高郢が甲科に抜擢し、吏部の判により等第に入り、秘書省校書郎を授かった。元和元年四月、憲宗が制挙人を策試し、才識兼茂・明於体用科に応じ、策が第四等に入り、盩厔うちつ県尉・集賢校理を授かった。

白居易の文辞は豊かで華麗、特に詩作に精通していた。校書郎から畿内の県尉に至るまで、著した歌詩は数十百篇に及び、いずれも諷諫の意を込め、時の弊を戒め、政の欠を補うものであった。士君子はこれを称え、しばしば宮中にまで流伝した。章武皇帝(憲宗)は諫言を容れ治道を考え、正しい言論を切望し、二年十一月、翰林学士として召し入れた。三年五月、左拾遺に任じた。白居易は自ら、文を好む君主に遇い、格別の抜擢を受けたことを思い、平生蓄えたところを以て、恩顧に報いようとした。任を受けた日、上疏して事を言上した。

恩を蒙り臣に左拾遺を授けられ、前の通り翰林学士を兼ね、既に崔群と共に状を奉って謝意を陳べた。しかし、忝くもその職に冒すと言うのみで、衷心の誠を吐露していない。今再び宸厳を瀆すが、伏して重ねて詳しくご覧賜わることを願う。臣が謹んで『六典』を按ずるに、左右拾遺は、供奉諷諫を掌り、凡そ令を発し事を挙げるに、時に不便で、道に合わざるものあれば、小なるは封事を上じ、大なるは廷上で諍う。その選は甚だ重く、その秩は甚だ卑しい。そうである所以は、抑々由緒がある。およそ人の情は、位が高ければその位を惜しみ、身が貴ければその身を愛する。位を惜しめば迎合して言わず、身を愛すれば苟くも容れられんとして諫めず、これは必然の理である。故に拾遺を置く所以は、その秩を卑しくするのは、位が未だ惜しむに足らず、身が未だ愛するに足らしめるためである。その選を重くするのは、下として心に背くに忍びず、上として恩に背くに忍びないようにするためである。位は惜しむに足らず、恩は背くに忍びず、然る後に欠けたるあれば必ず規正し、違えるあれば必ず諫めることができる。朝廷の得失を察せざるはなく、天下の利害を言わざるはない。これが国朝が拾遺を置く本意である。これによって言えば、豈に小臣の愚劣暗懦の居るべき所であろうか。況や臣は本来、郷校の卑しい儒者、府県の走吏に過ぎず、心を泥滓に委ね、煙霄を望むことを絶っていた。豈に聖慈の、近職に抜擢せられることを期したであろうか。毎たび宴飲には必ず先んじて預かり、毎たび慶賜には必ず先んじて沾い、中厩の馬はその労に代わり、内厨の膳はその食を給する。朝に慚じ夕に惕み、既に半年を過ぎ、塵曠漸く深く、憂愧ますます甚だしい。微効を未だ申さざるに、又清班に抜擢される。臣が授官されて以来僅か十日を経るに、食は味を知らず、寝は安んずる暇あらず。ただ粉骨砕身して殊寵に答えることを思うのみであるが、未だ粉骨砕身する所を得ざるのみである。今陛下は皇極に臨み初め、鴻名を受け初め、夙夜憂勤して、理を致さんことを求められる。一政を施し一事を挙ぐる毎に、道に合わず時に便ならざるものはない。万一事に時に不便なるものあれば、陛下豈にこれを聞かんと欲せられないことがあろうか。万一政に道に合わざるものあれば、陛下豈にこれを知らんと欲せられないことがあろうか。倘や陛下の言動の際、詔令の間に、小なる闕遺あり、稍々損益に関わるものあれば、臣は必ず密かに所見を陳べ、潜かに所聞を献じ、ただ聖心の裁断に在るのみである。臣は又職禁中に在り、外司と同じからず、愚誠を竭くさんと欲すれば、先ず陳露すべきである。伏して天鑑を希い、深く赤誠を察されたく。

白居易は河南の元稹と親しく、同年に制挙に登第し、交情は厚かった。元稹が監察御史から左遷されて江陵府士曹参軍となった時、翰林学士李絳・崔群が上前で元稹に罪なしと論じ、白居易も累次上疏して切に諫めた。

臣は先頃元稹が左遷された縁由で、頻りに既に奏聞した。臣は内に事情を察し、外に衆議を聴くに、元稹の左遷には三つの不可がある。何となれば、元稹は官を守って正直、人の共に知るところである。御史を授けられて以来、権勢を避けずに挙奏し、只だ李佐公等の事を奏した如きは、多くは朝廷の親族である。人に私なき者あらんや、これによって恨みを挟み、或いは公議を仮り、私嫌を報ぜんとし、遂に誣謗の声を、天聴に上聞せしめるに至った。臣は元稹が左遷された後、凡そ在位の者は、職を挙げんと欲する毎に、必ず先ず元稹を戒めとし、陛下のために官に当たり法を守る者なく、陛下のために悪を嫉み愆を正す者なからんことを恐れる。内外の権貴親党は、大過大罪ある者あれば、必ず相容れ隠すのみで、陛下はこれより由って知るを得ざらん。これが一つの不可である。先頃元稹が追及査問した房式の事は、心は公に殉ずるも、事は稍々過当であった。既に重罰に処せられ、以て違背を懲らしむるに足り、況や謝恩を経て、旋って又左遷される。前事を引きて責めの辞と為すとは雖も、然れども外議喧喧として、皆元稹が中使劉士元と庁を争い、これによって罪を得たと為す。庁を争う事理に至っては、已に前状を具えて奏陳した。況んや士元が駅門を蹴破り、鞍馬を奪い取り、仍って弓箭を求め、朝官を嚇し辱めたことを聞く。承前以来、この事未だ有らず。今中官に罪有りと雖も、未だ処置を聞かず。御史に過ち無きに、却って先ず官を貶す。遠近聞き知り、実に聖徳を損う。臣は今後より、中官の出使するは、暴を恣にすること益々甚だしく、朝官辱めを受くるは、必ず敢えて言わず、縦え凌辱殴打せらるる者あれども、亦元稹を戒めとし、只だ声を吞むのみならんことを恐れる。陛下はこれより由って聞くを得ざらん。これが二つ目の不可である。臣は又訪い聞くに、元稹は去年以来、厳礪が東川在任中に枉法し、平民の資産八十余家を没収したことを挙奏し、又王沼が法に違って券を給し、監軍に柩及び家族を駅に押し入るることを令したことを奏し、又裴玢が勅に違って百姓の草を徴したことを奏し、又韓臯が軍将に封杖を以て県令を打ち殺すことを令したことを奏した。この如き事、前後甚だ多く、朝廷の法行に属し、悉く懲罰有り。天下の方鎮を計るに、皆元稹の官を守ることを怒る。今江陵の判司に貶すは、即ち方鎮に送り与えることであり、これより方便に怨みを報い、朝廷何ぞ由って知るを得ん。臣が伏して聞くに、徳宗の時に崔善貞という者あり、李錡必ず反すと告げたが、徳宗信ぜず、李錡に送り与えた。錡は坑を掘り火を熾して、善貞を焼き殺した。未だ数年を経ずして、李錡果たして反し、今天下之が為に痛心する。臣は元稹が貶官せられ、方鎮に過ち有るも、敢えて言う者なく、陛下は由って不法の事を知るを得ざらんことを恐れる。これが三つ目の不可である。若しこの三つの不可が無ければ、仮令朝廷誤って一御史を左降するも、蓋し小事であり、臣安んぞ敢えて聖聴を煩わし瀆すことを、再三に至らんや。誠に損う所深く、関わる所大なるを以て、これを思慮し、敢えて極言せざらんや。

上疏は入ったが、回答はなかった。

また淄青節度使李師道が絹を進めて、魏徴の子孫の為に宅を贖おうとした。白居易は諫めて言うには、「魏徴は陛下の先朝の宰相であり、太宗は嘗て殿材を賜ってその正室を成し、特に諸家の第宅と異なる。子孫が質入れしたのは、その銭多くなく、自ら官中でこれを収め贖うことができ、師道に美を掠めさせしめるは、事実宜しからず」と。憲宗は深くこれを然りとした。

上は又、河東の王鍔に平章事を加えようとした。白居易は諫めて言うには、「宰相は陛下の輔臣であり、賢良でなければこの位に当たるべからず。王鍔は民財を誅剥し、以て恩沢を買う。四方の人をして、陛下が王鍔の進奉を得て、これに宰相を与うと言わしむるは、聖朝に深く益無し」と。乃ち止めた。

王承宗が命令に従わず、帝は神策中尉の吐突承璀を招討使とせんとした。諫官が上章する者十に七、八を数えた。白居易が面論し、言辞と心情は切実にして至った。既にしてまた河北の用兵を罷めよと請い、凡そ数千百言に及び、皆人の言い難きことを言った。帝は多くこれを聴き納れた。ただ承璀のことを諫めることが切実であったため、帝は頗る悦ばず、李絳に謂いて曰く、「白居易の小僧は、朕が抜擢して名位に致したる者なれど、朕に対して礼無し。朕は実に耐え難し」と。絳対えて曰く、「白居易が死を避けざる誅を避けず、事の大小を問わず必ず言う所以は、蓋し陛下の特力抜擢に酬いんがためなり。軽々に言うに非ず」と。帝曰く、「卿の言は是なり」と。ここにより多く聴き納れられるを見る。

五年、官を改むべきに当たり、帝は崔群に謂いて曰く、「白居易は官卑く俸薄く、資地に拘われて超等すべからず。その官は自便に聴き奏来せしむべし」と。居易奏して曰く、「臣聞く、姜公輔が内職たりしとき、京府の判司を求めたるは、親を奉ぜんがためなりと。臣に老母あり、家貧しく養い薄し。公輔の例の如く乞う」と。ここにより、京兆府戸曹参軍を除す。六年四月、母の陳夫人の喪に丁り、下邽に退居す。九年冬、朝に入り、太子左賛善大夫を授かる。

十年七月、盗が宰相の武元衡を殺す。白居易が首に疏を上りてその冤を論じ、急ぎ賊を捕らえて国恥を雪がんことを請う。宰相は宮官は諫職に非ず、諫官に先んじて事を言うべからずとす。会に素より居易を悪む者有り、居易を掎摭し、浮華にして行い無しと言い、その母は花を見んとして井に堕ちて死せしに、而るに居易は『賞花』及び『新井』の詩を作り、甚だ名教を傷つく、彼を周行に置くに宜しからずと。執政方にその事を言うを悪み、奏して江表の刺史に貶す。詔出で、中書舎人の王涯上疏してこれを論じ、居易の犯せる状跡は郡を治むるに宜しからずと。詔を追って江州司馬を授く。

居易は儒学の外、特に釈典に通じ、常に忘懐処順を事とし、遷謫を意に介さず。湓城に在り、廬山の遺愛寺に隠舎を立て、嘗て人に与える書にこれを言いて曰く、「予去年秋廬山に遊び始め、東西の二林の間、香炉峰の下に到り、雲木泉石を見るに、勝絶第一なり。愛して捨つる能わず、因って草堂を立つ。前に喬松十数株有り、修竹千余竿、青羅を以て墻援と為し、白石を以て橋道と為す。流水は舎下に周り、飛泉は檐間に落つ。紅榴白蓮、池砌に羅生す」と。居易は湊・満・朗・晦の四禅師と、永・遠・宗・雷の跡を追い、人外の交わりを為す。毎に相携えて遊詠し、危きに躋り険しきに登り、林泉の幽邃を極む。翛然として順適の際に至りては、幾くばくかその形骸を忘れんと欲す。或いは時を経て帰らず、或いは月を逾えて返る。郡守は朝貴を以てこれに遇い、これを責めず。

時に元稹は通州に在り、篇詠を贈答して往来し、数千里を遠しとせず。嘗て稹に与える書に、因って作文の大旨を論じて曰く、

居易は自らこのように述べているが、文士たちはこれを信じるものとしている。

十三年の冬、忠州刺史に量移された。潯陽より長江を遡り三峡を上った。十四年三月、元稹が峡口で居易と会い、夷陵に舟を停めて三日を過ごした。時に末弟の行簡が従行しており、三人は峡州の西二十里にある黄牛峡の峡口の石洞の中で、酒を設けて詩を賦し、名残惜しくして別れがたかった。南賓郡は峡路の深く険しい所に当たり、花木に奇なるものが多かった。居易は郡において、『木蓮荔枝図』を作り、朝廷の親友に寄せ、それぞれその様子を記して言うには、「荔枝は巴・峡の間に生じ、形は円く帷蓋の如し。葉は桂の如く、冬も青し;花は橘の如く、春に栄える;実は丹の如く、夏に熟す。房は蒲萄の如く、核は枇杷の如く、殻は紅繒の如く、膜は紫綃の如く、瓤肉は瑩白として雪の如く、漿液は甘酸にして醴酪の如し。大略この如く、その実はこれを過ぎる。もし本枝を離れれば、一日にして色変わり、二日にして香変わり、三日にして味変わり、四五日を過ぎれば、色香味ことごとく去る。」「木蓮の大なるものは高さ四五丈、巴の民は黄心樹と呼び、冬を経ても凋まない。身は青楊の如く、白文あり。葉は桂の如く、厚く大きくして脊なし。花は蓮の如く、香り色艶やかでなめらかなことは皆同じだが、花房と蕊だけが異なる。四月の初めに開き始め、開いてから謝るまで、わずか二十日である。元和十四年の夏、道士の毋丘元志に命じてこれを写させた。その遠く僻れたるを惜しみ、もって三絶を賦した。」「天の教え、深山に抛擲す」の句あり、みな都下に伝わり、好事の者たちが喧しく模写した。

その年の冬、召されて京師に還り、司門員外郎に拝された。明年、主客郎中・知制誥に転じ、朝散大夫を加えられ、始めて緋色の袍を着た。時に元稹もまた征召されて尚書郎・知制誥となり、ともに綸閣に在った。長慶元年三月、詔を受けて中書舎人王起とともに覆試し、礼部侍郎錢徽の下で及第した鄭朗ら十四人を試した。十月、中書舎人に転じた。十一月、穆宗が自ら制挙人を試し、また賈餗・陳岵とともに考策官となった。およそ朝廷の文字の職は、その選にまず居らざるはなかったが、多くは排斥され、その才を用いることができなかった。

時に天子は放縦で法に従わず、執政はその人を得ず、制御の方を誤り、河朔が再び乱れた。居易は累次上疏してこの事を論じたが、天子は用いず、そこで外任を求めた。七月、杭州刺史を除された。まもなく元稹が宰相を罷められ、馮翊より転じて浙東観察使となった。交わりはもとより深く、杭・越は境を接し、詩篇を往来させ、十日と間を置かなかった。かつて境上で会い、数日して別れた。任期が満ちると、太子左庶子を除され、東都に分司した。宝暦年中、再び出て蘇州刺史となった。文宗が即位すると、征召されて秘書監に拝され、金紫を賜った。九月の上誕節に、居易と僧惟澄・道士趙常盈を召して麟徳殿で御前に講論させた。居易の論難は鋒鋭に起こり、弁舌は泉のごとく注ぎ、上はあらかじめ構えたものかと疑い、深く嘆賞した。太和二年正月、刑部侍郎に転じ、晋陽県男に封ぜられ、食邑三百戸を賜った。三年、病と称して東に帰り、分司官を求め、まもなく太子賓客を除された。

居易は初めに対策で高第となり、翰林に抜擢され、英主の特達なる顧遇を受け、大いに奮励して報いようとし、もし身を訏謨の地に致すことができれば、生霊を兼ねて済わしめようと志したが、志は未だ果たさず、風向きを見るに当路者に排擠され、江湖に流徙した。四五年の間、ほとんど蛮瘴の地に沈みかけた。ここより宦情衰え落ち、出処に意なく、ただ逍遥自得し、情性を吟詠することを事とした。太和以後、李宗閔・李徳裕の朋党の事が起こり、是非排陷し、朝に昇り暮に黜けられ、天子もまたこれを如何ともすることができなかった。楊穎士・楊虞卿は宗閔と親しく、居易の妻は穎士の従父妹である。居易はますます自ら安からず、党人として斥けられることを恐れ、そこで散地に身を致すことを求め、害を遠ざけんことを望んだ。およそ居官したところ、未だ任期を終えたことはなく、おおむね病を以て免じられ、固より分務を求め、識者はこれを多とした。五年、河南尹を除された。七年、再び太子賓客分司を授けられた。

初め、居易が杭州を罷め、洛陽に帰った時、履道里に故散騎常侍楊憑の宅を得た。竹木池館、林泉の趣きがあった。家妓の樊素・蛮子は、歌と舞いに長けていた。居易はすでに尹正を罷めて帰った後、しばしば舟中で独り酌みして詩を賦し、そこで『池上篇』を作って曰く:

東都の風土水木の勝れたるは東南の偏にあり、東南の勝れたるは履道里にあり、里の勝れたるは西北の隅にあり、西の閈(門)北の垣の第一第、すなわち白氏の叟楽天が退老の地である。地は十七畝、屋室はその三分の一、水は五分の一、竹は九分の一、そして島・樹・橋・道がその間に在る。初め楽天が主となってより、喜んでかつ曰く、「池臺あれども、粟なければ守れず」と、そこで池の東に粟廩を作った。また曰く、「子弟あれども、書なければ訓えず」と、そこで池の北に書庫を作った。また曰く、「賓朋あれども、琴酒なければ楽しめず」と、そこで池の西に琴亭を作り、石樽を加えた。楽天が杭州刺史を罷めた時、天竺石一つ、華亭の鶴二羽を得て帰った。始めて西平橋を作り、池を環する路を開いた。蘇州刺史を罷めた時、太湖石五つ、白蓮・折腰菱・青板舫を得て帰り、また中高橋を作り、三島に通ずる径を通した。刑部侍郎を罷めた時、粟千斛、書一車、および管磬弦歌に習熟した臧獲(奴婢)百指を得て帰った。これより先、潁川の陳孝仙より醸酒法を与えられ、味は甚だ佳かった;博陵の崔晦叔より琴を与えられ、韻は甚だ清かった;蜀客の姜発より『秋思』を授けられ、声は甚だ淡かった;弘農の楊貞一より青石三つを与えられ、方長平滑で、坐臥に適していた。太和三年の夏、楽天は始めて請い出て太子賓客となり、洛下に分秩し、池上に躬を息めた。およそ三任で得たもの、四人から与えられたもの、およびわが不才の身、今みな池中の物となる。毎に池風の春、池月の秋、水香れ蓮開くの旦、露清く鶴唳くの夕に至れば、楊石を拂い、陳酒を挙げ、崔琴を援り、『秋思』を弾じ、頽然として自ら適し、他のことを知らない。酒酣く琴罷みて、また楽童を命じて中島の亭に登らせ、『霓裳散序』を合奏させ、声は風に随って飄ち、或いは凝り或いは散じ、竹煙波月の際に悠揚すること久し。曲未だ竟わざるに、楽天は陶然として石上に在り。睡り起きて偶に詠ず、詩に非ず賦に非ず、阿龜筆を握り、因りて石間に題す。その粗く韻章を成すを見て、『池上篇』と命ず。十畝の宅、五畝の園、水一池あり、竹千竿あり。土狭しと謂うなかれ、地偏りと謂うなかれ、膝を容れ、肩を息わしむるに足る。堂あり亭あり、橋あり船あり、書あり酒あり、歌あり弦あり。叟其中に在り、白須颯然たり、分を識り足ることを知り、外に求むるなし。鳥の木を択ぶが如く、姑く務めて巣安からんとし;蛙の坎を作すが如く、海の寬きを知らず。霊鵲怪石、紫菱白蓮、皆吾の好むところ、尽く我が前に在り。時に一杯を引き、或いは一篇を吟ず。妻孥熙熙たり、鶏犬閑閑たり。優哉遊哉、吾将にその間に老いんか。

また陶潜の『五柳先生伝』に倣い、『酔吟先生伝』を作って自らに譬えた。文章の曠達なること、皆この類である。

太和の末、李訓が禍を構え、衣冠塗地、士林は傷感し、居易はますます宦情無し。開成元年、同州刺史を除せられるも、疾を辞して拝せず。尋いで太子少傅を授けられ、馮翊県開国侯に進封される。四年の冬、風病を得て、枕に伏すること累月、乃ち諸妓女樊・蛮等を放ち、仍自ら墓誌を作り、病中吟詠を輟めず。自ら言う、「予年六十有八、始めて風痺の疾を患い、体は郤き首は胘き、左足支えず。蓋し老病相乗じ、時に至る有り耳。予は心を釈梵に棲まわせ、跡を老・荘に浪せしめ、疾に因りて身を観、果たして得る所有り。何ぞ則ちか。外形骸にして内に憂患を忘れ、先ず禅観にして後に医治に順う。旬月以還、其の疾少しく間あり、門を杜ぎ枕を高くし、淡然安閑たり。吟詠興来れば、亦た能く遏せず、遂に『病中詩』十五篇を作りて以て自ら諭す」と。

会昌中、太子少傅を罷むるを請い、刑部尚書を以て致仕す。香山の僧如満と香火社を結び、毎に肩輿にて往来し、白衣鳩杖、自ら香山居士と称す。

大中元年卒す、時に年七十六、尚書右僕射を贈られる。文集七十五巻、『経史事類』三十巻有り、並びに世に行わる。長慶の末、浙東観察使元稹、居易の集の序を作りて曰く、

楽天始めて言わざる時、試みに「之」「無」の字を指さしむるも、誤らざる能くす。始めて言うや、書を読みて勤敏、他の児と異なり。五六歳にして声韻を識り、十五にして辞賦を志し、二十七にして進士に挙げらる。貞元の末、進士は尚ほ馳競し、文を尚ばず、就中六籍は尤も擯落せらる。礼部侍郎高郢始めて経芸を以て進退と為し、楽天一挙にして上第に擢でらる。明年、抜萃甲科に中り、是より『性習相近遠』『玄珠』『斬白蛇剣』等の賦及び百節の判、新進士競いて京師に伝う。会に憲宗皇帝天下の士を策召し、詔に対し旨に称し、又た甲科に登る。未だ幾ばくもあらざるに、選ばれて翰林に入り、制誥を掌る。比比に上書して得失を言い、因りて『賀雨詩』『秦中吟』等数十章を作り、指して天下の事を言う、時人これを『風』『騒』に比す。予始めて楽天と同秘書に在り、前後多く詩章を以て相贈答す。予江陵に譴掾せらるるも、楽天猶お翰林に在り、予に百韻律体及び雑体を寄せ、前後数十詩。是より後各江・通を佐け、復た相酬寄す。巴・蜀・江・楚の間及び長安中の少年、遞いに仿效し、競いて新辞を作り、自ら元和詩と謂う。而るに楽天の『秦中吟』『賀雨』諷諭閑適等の篇、時人能く知る者罕なり。然れども二十年の間、禁省観寺・郵候墻壁の上に書かざる無く、王公妾婦・牛童馬走の口に道わざる無し。其の繕写模勒し、市井に炫売し、或いは之を以て酒茗を交わす者、処処に皆是れなり。其の甚だしきは名姓を盗竊し、苟くも自ら售らんを求めて、雑乱間廁し、奈何ともすべからざるに至る。予嘗て平水市中に於いて、村校諸童の競いて歌詠を習うを見、召して之を問うに、皆対えて曰く、「先生我に楽天・微之の詩を教う」と。固より亦た予が微之なるを知らざるなり。又た鶏林の賈人市を求むること頗る切にして、自ら云う、「本国の宰相、毎に一金を以て一篇を換え、甚だ偽る者、宰相輒ち能く之を弁別す」と。篇章已来、未だ是の如く流伝の広き有らざるなり。長慶四年、楽天杭州刺史より右庶子を以て召し還され、予時に会稽を刺す、因りて其の文を尽く征し得て、手自ら排纘し、五十巻を成す、凡そ二千二百五十一首。前輩多く前集・中集を以て名と為す、予以為く、陛下明年当に元を改むべく、長慶は是に於いて訖る、因りて『白氏長慶集』と号す。大凡そ人の文各長ずる所あり、楽天の長ずる以て多しと為すべし。夫れ諷諭の詩は激に長じ、閑適の詩は遣に長じ、感傷の詩は切に長じ、五字律詩百言以上は贍に長じ、五字・七字百言以下は情に長じ、賦賛箴誡の類は当に長じ、碑記叙事制誥は実に長じ、啓奏表状は直に長じ、書檄辞冊剖判は尽に長ず。総じてこれを言えば、亦た多からずや。

人以為く、稹の序其の能事を尽くすと。

居易嘗て其の文集を写し、江州東西二林寺・洛城香山聖善等の寺に送り、仏書雑伝の例の如く流行せしむ。子無し、其の侄孫を以て嗣がしむ。遺命して下邽に帰さず、香山如満師塔の側に葬るべしと、家人命に従いて葬る。

弟行簡

行簡、字は知退。貞元の末、進士第に登り、秘書省校書郎を授かる。元和の中、盧坦東蜀を鎮むるに、辟かれて掌書記と為る。府罷み、潯陽に帰る。居易江州司馬を授かり、兄に従いて郡に之く。十五年、居易朝に入り尚書郎と為り、行簡も亦た左拾遺を授かる。累遷して司門員外郎・主客郎中。長慶の末、振武水運営田使賀抜志の営田数実を過ぐると奏す、詔して行簡に按覆せしむ。実せず、志弘、自ら刺し死す。行簡宝暦二年冬病卒す、文集一十巻有り。行簡の文筆兄の風有り、辞賦は尤も精密と称せられ、文士皆之を師法す。居易友愛人に過ぎ、兄弟相待すること賓客の如し。行簡の子亀児、多く自ら教習し、以て名を成すに至る。当時友悌、之に比ぶる無し。

従父弟敏中

敏中、字は用晦、居易の従父弟なり。祖鏻、位は終に揚府録事参軍。父季康、溧陽令。敏中少くして孤、諸兄の訓歴する所と為る。長慶初、進士第に登り、李聴を佐け、河東・鄭滑・邠寧三府節度掌書記を歴任し、大理評事を試む。大和七年、母憂に丁り、下邽に退居す。会昌初、殿中侍御史と為り、東都に分司す。尋いで戸部員外郎を除せられ、京に還る。

武宗皇帝素より居易の名を聞き、即位に及び、之を用いんと欲す。宰相李徳裕、居易衰病にして朝謁に任じずと言い、因りて従弟敏中の辞芸は居易に類すと言う、即日に制誥を知り、召し入れて翰林に学士を充て、中書舎人に遷る。累りて兵部侍郎・学士承旨に至る。会昌の末、同平章事、兼ねて刑部尚書・集賢史館大学士。宣宗即位、右僕射・金紫光禄大夫・太清宮使・太原郡開国公・食邑二千戸を加えらる。及び李徳裕再び嶺南に貶せらるるに、敏中四輔の首に居り、雷同毀誉し、一言も伸理すること無く、特に関わって之を罪す。五年、相を罷め、検校司空、出でて邠州刺史・邠寧節度・招撫党項都制置等使と為る。七年、位を進めて特進・成都尹・剣南西川節度副大使・知節度等事。十一年二月、検校司徒・平章事・江陵尹・荊南節度使。懿宗即位、征し拝して司徒・門下侍郎・平章事と為し、復た政を輔く。尋いで侍中を加う。三年相を罷め、河中尹・河中晋絳節度使と為る。累遷して中書令。太子太師にて致仕し、卒す。

評賛

史臣が曰く、人材を挙げ士を選ぶ法は、古くからある。漢では賢良を策問し、隋では詩賦を加え、中正の法を廃し、銓挙の司に委ねた。ここより争って彫虫の技に務め、函丈に趨くことは稀となり、首を矯めて皆屈・宋を希い、肩を駕して並びに『風』『騷』に擬す。或いは箴闕の篇に侔し、或いは補亡の句を敩う。皆『采葛』を錙銖し、『懐沙』を糠秕とし、碧鶏に於いて麗藻を較べ、白鳳に於いて新奇を闘わす。簡牘に編し、管弦に播くに及んでも、季緒の詆訶を逃れず、孰れか『子虚』の称賞を望まん。今に至る千載、辞人に乏しからず、六義の源を統論し、其の三変の体を較ぶるに、二班の如き者は寡く、七子に類する者は幾何ぞ。潘・陸の情致の文、鮑・謝の清便の作に至り、徐・庾に及んで、麗を踵ぎ華を増し、組を纂成して珠璣を以て耀き、瑤台を構えて金碧を之に間う。国初文館を開き、高宗茂才を礼し、虞・許は前に価を擅にし、蘇・李は後に声を馳す。或いは位は台鼎に昇り、学は天人に際し、潤色の文は皆編集に布く。然れども古に向かう者は太僻に傷き、華に徇う者は経に至らざる有り、齷齪たる者は宮商に局し、放縦なる者は鄭・衛に流る。若し律度を品調し、古今を揚搉し、賢不肖皆其の文を賞するは、元・白の盛んなるに如かざるなり。昔建安の才子、始めて曹・劉に於いて覇を定め、永明の辞宗、先ず沈・謝に功を譲る。元和に主盟するは、微之・楽天のみ。臣、元の制策、白の奏議を観るに、文章の壺奥を極め、治乱の根荄を尽くす。徒に謡頌の片言、盤盂の小説に非ず。文を以て行いを観れば、居易を優と為す、自得の場に心を放ち、必安の地に器を置き、優遊して歳を卒うる、亦賢からずや。

賛に曰く、文章新体は、建安・永明。沈・謝既に往き、元・白挺生す。但だ金石を留め、長く『莖英』有らん。孫・吳を習わざれば、焉んぞ用兵を知らん。