舊唐書

巻165

巻165

舊唐書

原文舊唐書

卷一百六十五

原文卷一百六十五

巻一百六十五 列傳第一百十五 韋夏卿 王正雅 柳公綽 崔玄亮 温造 郭承嘏 殷侑 徐晦

原文巻一百六十五 列傳第一百十五 韋夏卿 王正雅 柳公綽 崔玄亮 温造 郭承嘏 殷侑 徐晦

巻一百六十五、列傳第一百十五、韋夏卿、王正雅、柳公綽、崔玄亮、温造、郭承嘏、殷侑、徐晦

原文巻一百六十五列傳第一百十五 韋夏卿 王正雅 柳公綽 崔玄亮 温造 郭承嘏 殷侑 徐晦

韋夏卿

原文韋夏卿

韋夏卿、字は雲客、杜陵の人である。父の迢は、検校都官郎中・嶺南節度行軍司馬であった。夏卿は苦学し、大暦年間に弟の正卿とともに制挙に応じ、同時に策問で高等に入り、高陵主簿に任じられた。累遷して刑部員外郎となった。時に長く旱魃と蝗害があり、詔によって郎官の中から赤畿の令を選ぶこととなり、奉天県令に改められた。課績が第一となったため、長安ちょうあん令に転じた。吏部員外郎に改め、本司の郎中に転じ、給事中に拝された。出て常州刺史となった。夏卿は儒術に深く通じ、赴任先では通経の士を招き礼遇した。時に処士の竇群が郡内に寓居していたが、夏卿はその著した史論をもって朝廷に推薦し、遂に門人となった。蘇州刺史に改められた。貞元の末、徐州の張建封が卒すると、初め夏卿を徐州行軍司馬に任じ、まもなく徐泗濠節度使に任じた。夏卿が未だ到らぬうちに、建封の子の愔が軍人に擁立されて留後となり、これに旌節を授けた。夏卿を召し出して吏部侍郎とし、京兆尹・太子賓客に転じ、検校工部尚書・東都留守を経て、太子少保に遷った。卒した時、年六十四、左僕射を贈られた。

原文韋夏卿,字雲客,杜陵人。父迢,檢校都官郎中、嶺南節度行軍司馬。夏卿苦學,大暦中與弟正卿倶應制舉,同時策入髙等,授髙陵主簿。累遷刑部員外郎。時久旱蝗,詔於郎官中選赤畿令,改奉天縣令。以課最第一,轉長安令。改吏部員外郎,轉本司郎中,拜給事中。出爲常州刺史。夏卿深於儒術,所至招禮通經之士。時處士竇群寓於郡界,夏卿以其所著史論,薦之於朝,遂爲門人。改蘇州刺史。貞元末,徐州張建封卒,初授夏卿徐州行軍司馬,尋授徐泗濠節度使。夏卿未至,建封子愔爲軍人立爲留後,因授旄鉞。征夏卿爲吏部侍郎,轉京兆尹、太子賓客,檢校工部尚書、東都留守,遷太子少保。卒時年六十四,贈左僕射。

夏卿は風韻があり、談宴をよくし、人と共に居ても、一年を通じて喜びや怒りの色を顔に表さなかった。孤児となった甥を養育し、恩情は実子を超え、早くから時人の称賛があった。その招いて賓佐とした者たちは、皆一時の名士であった。政務を行うに当たっては通達と適宜を旨とし、改作を好まなかった。初め東都に在った時、心を傾けて士を招聘し、多くの才彦を得たが、その後多くが卿相に至り、世間は人を知る者と評した。

原文夏卿有風韻,善談宴,與人同處,終年而喜慍不形於色。撫孤侄,恩逾己子,早有時稱。其所與遊辟之賓佐,皆一時名士。爲政務通適,不喜改作。始在東都,傾心辟士,頗得才彦,其後多至卿相,世謂之知人。

王正雅

原文王正雅

王正雅、字は光謙、その先祖は太原尹・東都留守の翃の子である。伯父の翊は、代宗朝の御史大夫で、貞亮鯁直をもって当世に名を知られ、卒して忠惠と謚された。正雅は若い時、孝行と行いの謹直で知られた。元和の初め、進士に挙げられ、甲科に登第し、礼部侍郎の崔邠は大いにこれを認め、累次にわたり使府の職に従った。元和十一年、監察御史に拝され、三遷して萬年県令となった。

原文王正雅,字光謙,其先太原尹東都留守翃之子。伯父翊,代宗朝御史大夫,以貞亮鯁直,名於當代,卒謚曰忠惠。正雅少時,以孝行修謹聞。元和初,舉進士,登甲科,禮部侍郎崔邠甚知之,累從職使府。元和十一年,拜監察御史,三遷爲萬年縣令。

穆宗の時、京邑は治め難いと称されたが、正雅は強きを抑え弱きを扶け、政績に大いに名声があった。時に柳公綽が京兆尹となり、上前で褒め称えたので、穆宗は緋衣と銀章を命じ、県に赴いて宣賜させた。戸部郎中に遷り、まもなく知臺雑事を加えられ、再遷して太常少卿となり、出て汝州刺史となり、本州防禦使を兼ねた。宦官が監軍としており、権勢を頼んで政事に干渉したため、正雅は耐えられず、病を理由に辞して免じられた。

原文當穆宗時,京邑號爲難理,正雅抑強扶弱,政甚有聲。會柳公綽爲京兆尹,上前褒稱,穆宗命以緋衣銀章,就縣宣賜。遷戸部郎中,尋加知臺雜事,再遷太常少卿,出爲汝州刺史,充本州防禦使。有中人爲監軍,怙權幹政,正雅不能堪,乃謝病免。

入朝して大理卿となった。時に宋申錫の事件が起こり、獄は内廷より出たが、ついに証拠はなかった。この時、王守澄の威権、鄭注の寵勢は、宰相や重臣といえども、敢えてその事を明言する者はなかった。ただ正雅と京兆尹の崔綰が上疏し、事件を起こした者を出して、外廷でその事を考証させ、別に状を具えて奏聞するよう請うた。これによって獄情はやや緩み、申錫は貶官に止まり、朝廷内外はこぞってこれを推重した。太和五年十一月に卒し、左散騎常侍さんきじょうじを贈られた。

原文入爲大理卿。會宋申錫事起,獄自内出,卒無證驗。是時王守澄之威權,鄭註之寵勢,雖宰相重臣,無敢顯言其事者。唯正雅與京兆尹崔綰上疎,請出造事者,付外考驗其事,別具狀聞。由是獄情稍緩,申錫止於貶官,中外翕然推重之。太和五年十一月卒,贈左散騎常侍。

正雅の従弟、重

原文{{--|正雅從弟}} 重

正雅の従弟の重は、翊の子であり、官位は河東令に止まった。重の子の衆仲は進士第に登り、累官して衡州刺史となった。衆仲の子は凝である。

原文正雅從弟重,翊之子也,位止河東令。重子衆仲,登進士第,累官衡州刺史。衆仲子凝。

重の孫、凝

原文{{--|重孫}} 凝

凝、字は致平、幼くして孤となり、宰相鄭肅の甥であり、幼少期は舅の家に寄寓した。十五歳で二つの経書により擢第した。かつて『京城六崗銘』を著し、文士に称賛された。再び進士の甲科に登第した。崔璪が塩鉄使を領すると、巡官に辟召した。梓潼・宣歙の使幕に歴任して佐官となった。宰相の崔龜從が奏して鄠県尉・集賢校理とし、監察御史に遷り、殿中侍御史に転じた。宰相の崔鉉が出て揚州を鎮守する時、奏して節度副使とした。入朝して起居郎となり、礼部・兵部・考功の三員外郎を歴任した。司封郎中・長安令に遷った。中丞の鄭處誨が奏して知臺雑事とし、考功郎中に換え、中書舍人に遷った。時政に協せず、出て同州刺史となり、金紫を賜った。晚年、病を理由に華州の敷水別墅に移った。一年余り後、礼部侍郎として召された。

原文凝,字致平,少孤,宰相鄭肅之甥,少依舅氏。年十五,兩經擢第。嘗著《京城六崗銘》,爲文士所稱。再登進士甲科。崔璪領鹽鐵,辟爲巡官。歴佐梓潼、宣歙使幕。宰相崔龜從奏爲鄠縣尉、集賢校理,遷監察御史,轉殿中。宰相崔鉉出鎭揚州,奏爲節度副使。入爲起居郎,歴禮部、兵部、考功三員外。遷司封郎中、長安令。中丞鄭處誨奏知臺雜,換考功郎中,遷中書舍人。時政不協,出爲同州刺史,賜金紫。暮年,移疾華州敷水別墅。逾年,以禮部侍郎征。

凝の性質は堅正であり、貢挙の場で士を取るに、寒俊を抜擢し、権豪の請託を行わなかったため、その者らの怒りを買い、出て商州刺史となった。翌年、検校右散騎常侍・潭州刺史・湖南團練觀察使となった。入朝して兵部侍郎となり、塩鉄転運使を領した。またも権幸に奉じなかったため、秘書監に改められた。出て河南尹・検校礼部尚書・宣州刺史・宣歙觀察使となった。凝は咸通年間に二度宣城の使幕を佐け、人の利病を詳らかに究め、積弊を除き、民俗は豊かで安らかであった。

原文凝性堅正,貢闈取士,拔其寒俊,而權豪請托不行,爲其所怒,出爲商州刺史。明年,檢校右散騎常侍、潭州刺史、湖南團練觀察使。入爲兵部侍郎,領鹽鐵轉運使。又以不奉權幸,改秘書監。出爲河南尹、檢校禮部尚書、宣州刺史、宣歙觀察使。凝咸通中兩佐宣城使幕,備究人之利病,滌除積弊,民俗阜康。

一年余り後、黄巣が嶺表より北帰し、大いに淮南を掠め、和州を攻囲した。凝は牙将の樊儔に命じて師を率いさせ采石を占拠してこれを救援させた。儔が命令に背いたので、凝は直ちにこれを斬って示し、別将の烏穎に代わって儔を救援に赴かせ、ついに歴陽の包囲を解かせた。賊は怒り、衆を率いて宣城を攻めた。大将の王涓が軍を出して迎撃することを請うたが、凝は言った、「賊は憤って来るのだから、持重してこれを待つべきである。彼は衆で我は寡である、万一勝利しなければ、州城が危うい」。涓は鋭意出戦を請い、凝は直ちに丁壮を閲集し、要害を分かち守り、城壁に登って設備を整えた。涓は果たして戦死した。賊が勝ちに乗じて来た時には、守りに備えがあった。賊は梯や衝車の具を造り、数ヶ月急攻したが、防禦の力は尽き、吏民が請うて言った、「賊の兇勢は当たるべからず、願わくは尚書が帰順してこれを退けられよ、尚書の家族が覆されることを恐れます」。凝は言った、「人には皆一族がある、私だけがどうして全うできようか?この城と存亡を共にすることを誓う」。やがて賊は退去した、時に乾符五年であった。その年の夏、病が重くなり、大きな星が正寝に墜ちた。八月に郡で卒した、時に年五十八。子がなく、弟の子の鑣を嗣とした。鑣の兄の鉅は、官位は兵部侍郎に終わった。

原文逾歳,黃巣自嶺表北歸,大掠淮南,攻圍和州。凝令牙將樊儔率師據采石以援之。儔犯令,凝即斬之以徇,命別將烏穎代儔赴援,竟解歴陽之圍。賊怒,引衆攻宣城。大將王涓請出軍逆戰,凝曰:「賊忿恚而來,宜持重待之。彼衆我寡,萬一不捷,則州城危矣!」涓鋭意請行,凝即閲集丁壯,分守要害,登陴設備。涓果戰死。賊乘勝而來,則守有備矣。賊爲梯沖之具,急攻數月,禦備力殫,吏民請曰:「賊之兇勢不可當,願尚書歸款退之,懼覆尚書家族。」凝曰:「人皆有族,予豈獨全?誓與此城同存亡也。」既而賊退去,時乾符五年也。其年夏,疾甚,有大星墜於正寢。八月卒於郡,時年五十八。無子,以弟子鑣爲嗣。鑣兄鉅,位終兵部侍郎。

柳公綽

原文柳公綽

柳公綽、字は起之、京兆華原の人である。祖父は正禮、邠州士曹参そうしん軍。父は子温、丹州刺史。公綽は幼くして聡敏であった。十八歳の時、制挙に応じ、賢良方正・直言極諫科に登第し、秘書省校書郎に任ぜられた。貞元元年のことである。貞元四年、再び制挙に応じ、賢良方正科に再び登第した。時に二十一歳。制が出て、渭南尉に任ぜられた。

原文柳公綽,字起之,京兆華原人也。祖正禮,邠州士曹參軍。父子温,丹州刺史。公綽幼聰敏。年十八,應制舉,登賢良方正、直言極諫科,授秘書省校書郎,貞元元年也。貞元四年,復應制舉,再登賢良方正科,時年二十一。制出,授渭南尉。

公綽は性質謹厳重厚で、行動は礼法に従った。凶年に当たり、その家は給与はあったが、毎食一器を超えなかった。豊年になると元に戻した。家は甚だ貧しく、書物千巻を有し、聖人の書でないものは読まなかった。文章を為すに浮華を尚ばなかった。慈隰観察使姚齊梧が判官に奏挙し、殿中侍御史を得た。冬、推薦されて開州刺史に任ぜられ、入朝して侍御史となり、再び吏部員外郎に遷った。武元衡が宰相を罷めて西蜀しょくに鎮した時、裴度と共に元衡の判官となり、特に親善であった。先に度が入朝して吏部郎中となった時、度は詩を以て餞別し、「兩人同日事征西、今日君先捧紫泥」の句があった。

原文公綽性謹重,動循禮法。屬歳饑,其家雖給,而毎飯不過一器。歳稔復初。家甚貧,有書千巻,不讀非聖之書。爲文不尚浮靡。慈隰觀察使姚齊梧奏爲判官,得殿中侍御史。冬,薦授開州刺史,入爲侍御史,再遷吏部員外郎。武元衡罷相鎭西蜀,與裴度倶爲元衡判官,尤相善。先度入爲吏部郎中,度以詩餞別,有「兩人同日事征西,今日君先捧紫泥」之句。

元和の初め、憲宗はしばしば遊猟に出、鋭意兵を用いようとした。公綽は事に因って諷諫しようとした。五年十一月、『太醫箴』一篇を献じ、その文は次の通りである。

原文元和初,憲宗頗出遊畋,鋭意用兵;公綽欲因事諷諫。五年十一月,獻《太醫箴》一篇,其辭曰:

天は寒暑を布くも、人に私せず。品類既に一ならば、崇高も以て均し。謹みて好愛を慎めば、能く其の身を保つ。清浄にして瑕無くば、輝光以て新たなり。寒暑は天地の間に満ち、肌膚を外に浹し、好愛は耳目の前に溢れ、心知を内に誘う。清潔を堤と為せども、奔射猶お敗る。気行に章無くば、隙大ならずと雖も。睿聖の姿、清明俗を絶ち、心正しく邪無く、志高く欲寡し。天高しと謂えども、気之を蒙晦し、地厚しと謂えども、横流之を潰す。聖徳超邁、万方之に頼る。飲食は身を資する所以なれど、過ぐれば則ち患を生じ、衣服は徳に称する所以なれど、侈らば則ち慢を生ず。唯だ過と侈と、心必ず之に随い、気と心と流れ、疾亦之を伺う。聖心惑わずんば、孰か能く之を移さん。畋遊恣に楽しみ、情を流し志を蕩し、馳騁形を労し、咤叱気を傷つく。唯だ天の重きを思い、禽に従うを累と為す。其の外を養わざるは、前修の忌む所。聖心之を非とせば、孰か敢えて之に違わん。人は気に乗じて生じ、嗜欲以て萌し、気離るれば患有り、気凝れば則ち成る。巧は必ず真を喪い、智は必ず情を誘う。彼の煩慮を去り、此の誠明に在れ。医の上なる者は、未然に於いて理め、患は慮の後に居り、防は事の先に処る。心静かにして楽行い、体和して道全うし、然る後に能く徳を万物に施し、以て億年を享く。聖人上に在りて、各々攸く処る所有り。庶政官有り、群芸署有り。臣太醫を司り、敢えて諸禦に告ぐ。

原文天布寒暑,不私於人。品類既一,崇髙以均。惟謹好愛,能保其身。淸凈無瑕,輝光以新。寒暑滿天地之間,浹肌膚於外;好愛溢耳目之前,誘心知於内。淸潔爲隄,奔射猶敗,氣行無章,隙不在大。睿聖之姿,淸明絶俗;心正無邪,志髙寡欲。謂天髙矣,氣蒙晦之;謂地厚矣,橫流潰之。聖德超邁,萬方賴之。飲食所以資身也,過則生患;衣服所以稱德也,侈則生慢。唯過與侈,心必隨之,氣與心流,疾亦伺之。聖心不惑,孰能移之?畋遊恣樂,流情蕩志;馳騁勞形,咤叱傷氣。惟天之重,從禽爲累。不養其外,前修所忌。聖心非之,孰敢違之。人乘氣生,嗜欲以萌,氣離有患,氣凝則成。巧必喪眞,智必誘情,去彼煩慮,在此誠明。醫之上者,理於未然,患居慮後,防處事先。心靜樂行,體和道全,然後能德施萬物,以享億年。聖人在上,各有攸處。庶政有官,群藝有署。臣司太醫,敢告諸禦。

憲宗は深く之を嘉した。翌日、中使を降して之を労い、曰く、「卿の献ずる所の文に云う、『気行に間無く、隙大ならずと雖も』と。何ぞ朕を憂うることの深きや」と。一ヶ月を過ぎて、御史中丞に拝した。

原文憲宗深嘉之。翌日,降中使獎勞之,曰:「卿所獻之文云:『氣行無間,隙不在大。』何憂朕之深也?」逾月,拜御史中丞。

公綽は素より裴垍と厚く、李吉甫が淮南に出鎮した時、垍を深く怨んだ。六年、吉甫が再び政を輔けるに及び、公綽を以て潭州刺史・兼御史中丞と為し、湖南観察使を充てた。湖南の地気は卑湿で、公綽は母が京師に在るを以て、迎え奉ることが出来ず、宰相に書を致し、洛陽らくように分司を乞い、以て奉養に便ならしめようとしたが、久しく許されなかった。八年、鄂州刺史・鄂岳観察使に移され、乃ち母を江夏に迎えた。

原文公綽素與裴垍厚,李吉甫出鎭淮南,深怨垍。六年,吉甫復輔政,以公綽爲潭州刺史、兼御史中丞,充湖南觀察使。湖南地氣卑濕,公綽以母在京師,不可迎侍,致書宰相,乞分司洛陽,以便奉養,久不許。八年,移爲鄂州刺史、鄂嶽觀察使,乃迎母至江夏。

九年、呉元済が蔡州に拠り叛き、王師討伐す。詔して公綽に鄂岳の兵五千を以て安州刺史李聴に隷せしめ、率いて行営に赴かしむ。公綽曰く、「朝廷は吾を儒生として兵を知らざると思わんや」と。即日上奏し、自ら征行するを願い、許された。公綽は鄂より湘江を渡り、直ちに安州に抵る。李聴は廉使の礼を以て之に事えた。公綽之に謂いて曰く、「公の鞬を属け弩を負う所以は、豈に兵事の為に非ざらんや。若し戎容を去りて公服を被らば、両郡の守たるのみ。何をか統摂せん。公を名家として兵に暁るを以てす。若し吾指麾に足らざれば、則ち当に闕に赴くべし。然らずんば、吾且く職名を署し、兵法を以て事に従わん」と。聴曰く、「唯だ公の命に従う」と。即ち聴を署して鄂岳都知兵馬使・中軍先鋒・行営兵馬都虞候と為し、三牒を以て之を授けた。乃ち卒六千を選び聴に属し、其の部校に戒めて曰く、「行営の事は、一に都将に決す」と。聴は恩を感し威を畏れ、麾下に出づるが如し。其の権制変を知るは、甚だ当時に称せられた。鄂軍既に行営に在り、公綽は時に左右をして其の家を省問せしむ。疾病・養生・送死の如きは、必ず厚く廩給した。軍士の妻で治容謹まざる者は、之を江に沈めた。行卒相感じて曰く、「中丞我輩の為に家事を知る。何を以てか報効せん」と。故に鄂人は戦う毎に克捷した。

原文九年,呉元濟據蔡州叛,王師討伐。詔公綽以鄂嶽兵五千隸安州刺史李聽,率赴行營。公綽曰:「朝廷以吾儒生不知兵耶?」即日上奏,願自征行,許之。公綽自鄂濟湘江,直抵安州;李聽以廉使之禮事之。公綽謂之曰:「公所以屬鞬負弩者,豈非爲兵事耶?若去戎容,被公服,兩郡守耳,何所統攝乎?以公名家曉兵,若吾不足以指麾,則當赴闕;不然,吾且署職名,以兵法從事矣。」聽曰:「唯公所命。」即署聽爲鄂嶽都知兵馬使、中軍先鋒、行營兵馬都虞候,三牒授之。乃選卒六千屬聽,戒其部校曰:「行營之事,一決都將。」聽感恩畏威,如出麾下。其知權制變,甚爲當時所稱。鄂軍既在行營,公綽時令左右省問其家。如疾病、養生、送死,必厚廩給之。軍士之妻治容不謹者,沈之於江。行卒相感曰:「中丞爲我輩知家事,何以報效?」故鄂人戰毎克捷。

十一年、入朝して給事中となる。李師道が朝に帰するに及び、公綽を遣わして鄆州に宣諭せしむ。使い還りて、京兆尹に拝し、母憂に因り免ぜられる。

原文十一年,入爲給事中。李師道歸朝,遣公綽往鄆州宣諭。使還,拜京兆尹,以母憂免。

十四年、起用されて刑部侍郎となり、塩鉄転運使を領す。兵部侍郎に転じ、兼御史大夫、使を領すること旧の如し。長慶元年、使を罷め、復た京兆尹・兼御史大夫となる。

原文十四年,起爲刑部侍郎,領鹽鐵轉運使。轉兵部侍郎、兼御史大夫,領使如故。長慶元年,罷使,復爲京兆尹、兼御史大夫。

時に河朔復た叛き、朝廷兵を用い、行営諸将を補授するに、朝令夕改し、驛騎相望んだ。公綽奏して曰く、「幽・鎮の兵を用うるより以来、使命繁併し、館遞匱乏し、鞍馬多く闕く。又勅使の行李人数、都に限約無し。其の緋紫を衣て馬に乗ずる者は、二十、三十匹、黄緑を衣る者は、十匹、五匹に下らず。驛吏券牒を視ること得ず、口に随いて即ち供す。驛馬既に尽き、遂に路人の鞍馬を奪う。衣冠士庶、驚擾怨嗟し、遠近喧騰し、行李将に絶たんとす。伏して望む、聖慈聊か定限を為さんことを」と。乃ち中書に下して人数を条疏せしむ。是より吏労を告げず。言直きを以て北司に悪まれ、尋いで吏部侍郎に転ず。

原文時河朔復叛,朝廷用兵,補授行營諸將,朝令夕改,驛騎相望。公綽奏曰:「自幽、鎭用兵,使命繁並,館遞匱乏,鞍馬多闕。又敕使行李人數,都無限約。其衣緋紫乘馬者,二十、三十匹,衣黃緑者,不下十匹、五匹。驛吏不得視券牒,隨口即供。驛馬既盡,遂奪路人鞍馬。衣冠士庶,驚擾怨嗟,遠近喧騰,行李將絶。伏望聖慈,聊爲定限。」乃下中書條疎人數。自是吏不告勞。以言直爲北司所惡,尋轉吏部侍郎。

二年九月、御史大夫に遷る。韓弘病み、河中より入朝す。弘を以て司徒しと・中書令を守らしめ、詔して百僚に疾を問わしむ。弘其の子を遣わして情を達せしめ、接見能わずと言う。公綽其の子に謂いて曰く、「聖上公の官重きを以て、百司をして省問せしむ。異礼なり。君賜を拝するが如くは、宜しく力疾して公に見ゆべし。安んぞ臥して子弟に伝言せしめんや」と。弘懼れ、挟扶して出で、人皆聳然たり。

原文二年九月,遷御史大夫。韓弘病,自河中入朝。以弘守司徒、中書令,詔百僚問疾。弘遣其子達情,言不能接見。公綽謂其子曰:「聖上以公官重,令百司省問,異禮也。如拜君賜,宜力疾公見。安有臥令子弟傳言耶?」弘懼,挾扶而出,人皆聳然。

三年、尚書左丞に改め、又検校戸部尚書・襄州刺史・山南東道節度使に拝す。部を行きて鄧県に至る。県の二吏法を犯す。一は贓賄、一は文を舞う。県令は公綽の法を守るを以て、必ず贓吏を殺すべしとす。獄具わりて、之を判じて曰く、「贓吏法を犯せば、法在り。奸吏法を壊せば、法亡ぶ。文を舞う者を誅す」と。公綽の馬、圉人を害す。命じて之を斬らしむ。賓客進みて言う、「良馬惜しむべし。圉人自ら防がず」と。公綽曰く、「安んぞ良馬人を害する有らんや」と。亟に命じて之を殺さしむ。牛僧孺宰相を罷めて江夏に鎮するに、公綽戎容を具え、郵舎に於いて之を候う。軍吏自ら漢上の地鄂より高しとし、礼過ぎたりとす。公綽曰く、「奇章(牛僧孺)才だ台席を離る。方鎮宰相を重んずるは、是れ朝廷を尊ぶなり」と。竟に戎容を以て見ゆ。道士丹薬を献ず。之を試みて験有り。来たる所を問うに、曰く、「此の丹を薊門にて煉る」と。時に硃克融方に叛く。公綽遽かに之に謂いて曰く、「惜しいかな、至薬賊臣の境より来る。験有りと雖も何の益かあらん」と。乃ち之を江に沈め、道士を逐う。鄧県人鄭懷政狂を病み、妄りに天子と称す。公綽捕えて之を殺す。

原文三年,改尚書左丞,又拜檢校戸部尚書、襄州刺史、山南東道節度使。行部至鄧縣,縣二吏犯法,一贓賄,一舞文。縣令以公綽守法,必殺贓吏。獄具,判之曰:「贓吏犯法,法在;奸吏壞法,法亡。誅舞文者。」公綽馬害圉人,命斬之。賓客進言曰:「可惜良馬,圉人自防不至。」公綽曰:「安有良馬害人乎?」亟命殺之。牛僧孺罷相鎭江夏,公綽具戎容,於郵舍候之。軍吏自以漢上地髙於鄂,禮太過。公綽曰:「奇章才離臺席,方鎭重宰相,是尊朝廷也。」竟以戎容見。有道士獻丹藥,試之有驗,問所從來,曰:「煉此丹於薊門。」時硃克融方叛,公綽遽謂之曰:「惜哉,至藥來於賊臣之境,雖驗何益!」乃沈之於江,而逐道士。鄧縣人鄭懷政病狂,妄稱天子,公綽捕而殺之。

敬宗が即位すると、検校左僕射を加えられた。宝暦元年、刑部尚書として入朝した。

原文敬宗即位,加檢校左僕射。寶暦元年,入爲刑部尚書。

二年、邠州刺史・邠寧慶節度使を授けられた。管轄下には神策諸鎮があり、要地に駐屯していたが、従来は節度使の制置を受けず、そのため北虜が深く侵入していた。公綽は上疏してこれを論じ、これにより詔して諸鎮は皆邠寧節度使の制置に従うこととなった。

原文二年,授邠州刺史、邠寧慶節度使。所部有神策諸鎭,屯列要地,承前不受節度使制置,遂致北虜深入。公綽上疎論之,因詔諸鎭皆稟邠寧節度使制置。

三年、刑部尚書として入朝した。京兆の人で姑が嫁を鞭打って死なせた者がおり、府は償死を断じた。公綽が議して言うには、「尊が卑を毆るのは闘いではなく、またその子がいるのに、妻のことでその母を戮するのは、教えではない」と。ついに死罪を減じた。

原文三年,入爲刑部尚書,京兆人有姑鞭婦致死者,府斷以償死。公綽議曰:「尊毆卑非鬥,且其子在,以妻而戮其母,非教也。」竟減死。

太和四年、再び検校左僕射・太原尹・北都留守・河東節度観察等使となった。この年、北虜が梅禄将軍李暢に馬一万匹を持たせて交易に来たが、入貢と称した。経由する州府では、守帥が礼分を仮り、兵備を厳重にした。宿舎に留めれば外で兵卒を戒め、襲撃奪取を恐れた。太原の故事では、出兵して迎えた。暢が境界に至ると、公綽は牙将祖考恭に単騎で慰労させ、修好の意を持って遇した。暢は義に感じて涙を流し、ゆっくりと道中を進み、妄りに馳射しなかった。到着すると、牙門を開き、通訳に謁見を導かせ、常礼で宴を設けた。馬を交易して帰るまで、侵犯しなかった。陘北に沙陀部落があり、九姓・六州の者も皆これを畏避していた。公綽が鎮に至ると、その酋長朱耶執宜を召し、直ちに雲・朔の塞下に至り、廃れた柵十一箇所を修復し、兵三千を募ってこれを預け、塞上に留め屯させて匈奴を防がせた。その妻や母が太原に来た者には、梁国夫人に酒食を対面して与えさせた。沙陀はこれを感じ、深くその効果を得た。

原文太和四年,復檢校左僕射、太原尹、北都留守、河東節度觀察等使。是歳,北虜遣梅祿將軍李暢以馬萬匹來市,托雲入貢。所經州府,守帥假之禮分,嚴其兵備。留館則戒卒於外,懼其襲奪。太原故事,出兵迎之。暢及界上,公綽使牙將祖考恭單馬勞問,待以修好之意。暢感義出涕,徐驅道中,不妄馳獵。及至,辟牙門,令譯引謁,宴以常禮。及市馬而還,不敢侵犯。陘北有沙陁部落,自九姓、六州皆畏避之。公綽至鎭,召其酋硃耶執宜,直抵雲、朔塞下,治廢柵十一所,募兵三千付之,留屯塞上,以禦匈奴。其妻母來太原者,請梁國夫人對酒食問遺之。沙陁感之,深得其效。

六年、病を理由に代わりを求めた。三月、兵部尚書を授けられ、京師に召還された。四月に卒去し、太子太保を追贈され、諡して成といった。

原文六年,以病求代。三月,授兵部尚書,征還京師。四月卒,贈太子太保,謚曰成。

公綽は天性仁孝であり、初め母崔夫人の喪に遭い、三年間沐浴しなかった。継母薛氏に三十年仕え、姻戚も公綽が薛氏の生みでないことを知らなかった。外兄薛宮が早くに亡くなり、一人の娘が孤となったので、張毅夫に嫁がせ、資産を与えることは己の子よりも厚かった。性質は端正で寡合であり、銭徽・蒋乂・杜元穎・薛存誠と文雅をもって知り合い、交情は親密であった。凡そ六度開府の幕僚を置き、得た人材は特に盛んであった。銭徽が貢挙を掌った年、鄭朗が落第したが、公綽が襄陽に赴こうとする時、真っ先にこれを召し、朗はついに名相となった。盧簡辞・崔玙・夏侯孜・韋長・李続・李拭は、皆公卿に至った。吏部侍郎となった時、舅の左丞崔従と同じ省にあり、人士はこれを栄誉とした。子は仲郢、弟は公権・公諒。

原文公綽天資仁孝,初丁母崔夫人之喪,三年不沐浴。事繼親薛氏三十年,姻戚不知公綽非薛氏所生。外兄薛宮早卒,一女孤,配張毅夫,資遺甚於己子。性端介寡合,與錢微、蔣乂、杜元穎、薛存誠文雅相知,交情款密。凡六開府幕,得人尤盛。錢徽掌貢之年,鄭朗覆落,公綽將赴襄陽,首辟之,朗竟爲名相。盧簡辭、崔玙、夏侯孜、韋長、李續、李拭,皆至公卿。爲吏部侍郎,與舅左丞崔從同省,人士榮之。子仲郢,弟公權、公諒。

仲郢

原文{{--|公綽子}} 仲郢

仲郢は、字を諭蒙といい、元和十三年に進士に及第し、初めて秘書省校書郎に任じられた。牛僧孺が江夏を鎮守した時、従事として召し出された。仲郢には父の風があり、行動は礼法を修め、僧孺は嘆じて言うには、「名教を積習していなければ、どうしてここまで及べようか」と。監察御史として入朝した。

原文仲郢,字諭蒙,元和十三年進士擢第,釋褐秘書省校書郎。牛僧孺鎭江夏,辟爲從事。仲郢有父風,動修禮法,僧孺嘆曰:「非積習名教,安能及此!」入爲監察御史。

五年、侍御史に遷った。富平県の人李秀才は、籍が禁軍にあり、郷人が父の墓の柏を伐ったと誣告し、これを射殺した。法司は専殺として論じた。文宗は宦官の庇護により、杖刑を決して配流とした。右補闕蒋系が上疏してこれを論じたが、聞き入れられなかった。仲郢が執奏して言うには、「聖王が憲を作れば、人を殺せば必ず死すべき令がある。聖明が上に在れば、官に当たる者に法を壊す臣はない。今秀才は人を殺す科条を犯し、愚臣は監決の任を備えている。この賊が死ななければ、典章を乱すことになる。臣はたとえ微賤であっても、どうして職を空しくできようか。その秀才は未だ決行することを敢えてしない。別に勅を降して処分されることを望む」と。そこで詔して御史蕭傑に監させた。傑もまた執奏した。帝はついに京兆府に決行させ、監することは用いなかった。しかし朝廷はその守法を嘉した。

原文五年,遷侍御史。富平縣人李秀才,籍在禁軍,誣鄕人斫父墓柏,射殺之。法司以專殺論。文宗以中官所庇,決杖配流。右補闕蔣系上疎論之,不省。仲郢執奏曰:「聖王作憲,殺人有必死之令;聖明在上,當官無壞法之臣。今秀才犯殺人之科,愚臣備監決之任,此賊不死,是亂典章。臣雖至微,豈敢曠職?其秀才未敢行決,望別降敕處分。」乃詔御史蕭傑監之。傑又執奏。帝遂詔京兆府行決,不用監之。然朝廷嘉其守法。

会昌年中、三度遷って吏部郎中となり、李徳裕は大いにこれを知った。武宗が冗官削減を詔すると、吏部が条疏し、天下の州府に牒を出して定員外の官員を取ろうとした。仲郢は言うには、「諸州は毎冬欠員を申告する。どうして牒を煩わす必要があろうか」と。幸運の門はたちまち塞がれた。仲郢が十日ほど条理すると、一千二百員を減じ、当時の議論は妥当とした。諫議大夫に遷った。

原文會昌中,三遷吏部郎中,李德裕頗知之。武宗有詔減冗官,吏部條疎,欲牒天下州府取額外官員。仲郢曰:「諸州毎冬申闕,何煩牒耶?」幸門頓塞。仲郢條理旬日,減一千二百員,時議爲愜。遷諫議大夫。

五年、淮南が呉湘の獄を奏上し、御史崔元藻が覆按して罪を得た。仲郢が上疏してこれを弁明し、人々は皆危惧した。徳裕はその私心のないことを知り、ますます重んじた。武宗が望仙台を築くと、仲郢は累次上疏して切諫した。帝は召して諭して言うには、「ただ旧趾を因って増築しただけであり、卿の忠言には愧じる」と。徳裕が京兆尹に奏上した。謝恩の日、言うには、「下官は太尉の恩奨がここまで及ぶとは期さず、厚徳に報いるため、敢えて奇章公(牛僧孺)の門館のようではありませぬ」と。徳裕はこれを嫌わなかった。時に浮屠法を廃し、銅像で銭を鋳造した。仲郢は京畿鋳銭使となり、銭工が型に新字を加えようとしたが、仲郢はこれを止め、ただ淮南だけが新字を加え、後についに僧人がこれを取って像設の鐘磬とした。紇幹臯が表甥の劉詡が母を毆ったと訴え出た。詡は禁軍の小校であったが、仲郢は奏下を待たず、杖殺した。北司に讒訴され、右散騎常侍に改められ、権知吏部尚書銓事となった。

原文五年,準南奏呉湘獄,御史崔元藻覆按得罪。仲郢上疎理之,人皆危懼。德裕知其無私,益重之。武宗築望仙臺,仲郢累疎切諫。帝召諭之曰:「聊因舊趾增葺,愧卿忠言。」德裕奏爲京兆尹,謝日,言曰:「下官不期太尉恩獎及此,仰報厚德,敢不如奇章門館。」德裕不以爲嫌。時廢浮圖法,以銅像鑄錢。仲郢爲京畿鑄錢使,錢工欲於模加新字;仲郢止之,唯淮南加新字,後竟爲僧人取之爲像設鐘罄。紇幹臯訴表甥劉詡毆母,詡爲禁軍小校,仲郢不俟奏下,杖殺。爲北司所譖,改右散騎常侍,權知吏部尚書銓事。

宣宗が即位し、徳裕が宰相を罷められると、仲郢を出して鄭州刺史とした。周墀が江西から滑台に移鎮した。鄭州を通り、その境内が大いに治まっているのを見て、大いにこれを褒めた。まもなく墀が入朝して政務を補佐すると、仲郢を河南尹に遷した。職務に就いて一月余りで、戸部侍郎に召し拝された。間もなく、墀が政事を知ることを罷められた。同列に仲郢が墀と親しいことを疑う者がおり、秘書監に左遷された。数か月後、再び出て河南尹となった。寛恵を以て政を行い、言事者は京兆の政と似ていないとした。仲郢は言うには、「輦轂の下では、弾圧が先であり、郡邑の治めでは、恵養が根本である。どうして類を取る必要があろうか」と。

原文宣宗即位,德裕罷相,出仲郢爲鄭州刺史。周墀自江西移鎭滑臺。過鄭,觀其境内大理,甚獎之。俄而墀入輔政,遷爲河南尹。蒞事逾月,召拜戸部侍郎。居無何,墀罷知政事。同列有疑仲郢與墀善,左授秘書監。數月,復出爲河南尹。以寬惠爲政,言事者以爲不類京兆之政。仲郢曰:「輦轂之下,彈壓爲先;郡邑之治,惠養爲本。何取類耶?」

大中年中、梓州刺史・剣南東川節度使に転じた。孔目吏の辺章簡という者は、財貨で近幸と交わり、前後の廉使もどうすることもできなかった。仲郢は事に因って決殺し、管内は粛然とし、法を行わずして自ら治まった。鎮に五年在り、美績が流れ聞こえ、吏部侍郎に召された。入朝して未だ謝恩せず、兵部侍郎に改められ、諸道塩鉄転運使を充てられた。

原文大中年,轉梓州刺史、劍南東川節度使。孔目吏邊章簡者,以貨交近幸,前後廉使無如之何。仲郢因事決殺,部内肅然,不俟行法而自理。在鎭五年,美績流聞,征爲吏部侍郎。入朝未謝,改兵部侍郎,充諸道鹽鐵轉運使。

大中十二年、使職を罷め、刑部尚書を守った。咸通初年、兵部に転じ、金紫光禄大夫・河東男・食邑三百戸を加えられた。まもなく出て興元尹・山南西道節度使となった。鳳州刺史盧方乂が軽い罪で部下を決杖し、数日で死んだ。その妻が列訴し、また傍らに他の吏を引き合いに出し、械で繋がれた者が獄に満ちた。仲郢はその妻を召して言うには、「刺史が小罪を科して人を戒めるが、本来死刑ではなく、未だ辜(罪の結果による死)を出さず、実は病死したのだ」と。方乂に百直を罰し、繋がれていた者を皆釈放し、郡人は深くこれを感じた。贓吏を決するのに過当であったため、太子賓客として東都に分司された。一年余りして、虢州刺史となった。数か月後、検校尚書左僕射・東都留守となった。盗賊が先祖の墓を発したため、官を棄てて華原に帰った。華州刺史に除されたが拝命せず。数か月後、本官のまま鄆州刺史・天平軍節度観察等使となり、節鉞を華原の別墅で授けられ、鎮で卒去した。

原文大中十二年,罷使,守刑部尚書。咸通初,轉兵部,加金紫光祿大夫、河東男、食邑三百戸。俄出爲興元尹、山南西道節度使。鳳州刺史盧方乂以輕罪決部叫,數日而斃。其妻列訴,又旁引他吏,械系滿獄。仲郢召其妻謂之曰:「刺史科小罪誡人,但本非死刑,雖未出辜,其實病死。」罰方乂百直,系者皆釋,郡人深感之。因決贓吏過當,以太子賓客分司東都。逾年,爲虢州刺史。數月,檢校尚書左僕射、東都留守。盜發先人墓,棄官歸華原。除華州刺史,不拜。數月,以本官爲鄆州刺史,天平軍節度觀察等使,授節鉞於華原別墅,卒於鎭。

初め、仲郢が諫議大夫を拝して後、官が遷る度に、群烏が大いに昇平里の邸宅に集まり、庭の樹や戟架に満ち、凡そ五日で散じた。詔が下ると再び集まらず、家人はこれを兆候としたが、ただ天平に除された時だけは、烏は集まらなかった。

原文初,仲郢自拜諫議後,毎遷官,群烏大集於升平裏第,廷樹戟架皆滿,凡五日而散。詔下,不復集,家人以爲候,唯除天平,烏不集。

仲郢は礼法を厳しくし、気義を重んじ、かつて李徳裕の知遇に感じ入った。大中年間に、李氏には禄仕する者がなかった。仲郢が塩鉄使を領した時、徳裕の兄の子である従質を推官に取り立て、蘇州院の事を知らせ、禄利をもって南宅を養わせた。令狐綯が宰相となると、甚だ悦ばなかった。仲郢は綯に書を送って自ら弁明し、その要旨は「任安は去らず、常に昔人に愧じ、呉詠は自ら裁断し、また今日に何を施さん。李太尉は責めを受けて既に久しく、その家はすでに空しく、ついに蒸嘗を絶ち、誠に痛惻を増す」というものであった。綯は深く感嘆し、まもなく従質に正員の官を与えた。

原文仲郢嚴禮法,重氣義,嘗感李德裕之知。大中朝,李氏無祿仕者。仲郢領鹽鐵時,取德裕兄子從質爲推官,知蘇州院事,令以祿利贍南宅。令孤綯爲宰相,頗不悅。仲郢與綯書自明,其要云:「任安不去,常自愧於昔人;呉詠自裁,亦何施於今日?李太尉受責既久,其家已空,遂絶蒸嘗,誠增痛惻。」綯深感嘆,尋與從質正員官。

仲郢は礼法をもって自らを律し、私宅に居ても拱手せざることはなく、内斎に居ても帯を束ねざることはなかった。三たび大鎮を為し、厩には名馬なく、衣には香を薫ぜず。公務を退いては書巻を開き、昼夜を捨てなかった。『九経』『三史』を一たび書き写し、魏晋以来の南北史を再び書き写した。手で書き写して分門した三十巻を、『柳氏自備』と号した。また仏典に精通し、『瑜伽』『智度大論』はいずれも再び書き写した。その他の仏書は、多く手ずから要義を記した。小楷は精謹で、一字たりとも筆を肆にするものはなかった。『尚書二十四司箴』を撰し、韓愈・柳宗元は深くこれを賞賛した。文集二十巻がある。子に珪・璧・玭がいる。

原文仲郢以禮法自持,私居未嘗不拱手,内齋未嘗不束帶。三爲大鎭,廄無名馬,衣不薰香。退公布巻,不舍晝夜。《九經》、《三史》一鈔;魏、晉已來南北史再鈔;手鈔分門三十巻,號《柳氏自備》。又精釋典,《瑜伽》、《智度大論》皆再鈔;自余佛書,多手記要義。小楷精謹,無一字肆筆。撰《尚書二十四司箴》,韓愈、柳宗元深賞之。有文集二十巻。子珪、璧、玭。

仲郢の子、珪

原文{{--|仲郢子}} 珪

珪は字を鎮方といい、大中五年に進士第に登り、累次使府に辟召されたが、早世した。

原文珪,字鎭方,大中五年登進士第,累辟使府,早卒。

仲郢の子、璧

原文{{--|仲郢子}} 璧

璧は大中九年に進士第に登った。文格は高雅であった。かつて『馬嵬詩』を作り、詩人の韓琮・李商隱はこれを称えた。馬植が陳許を鎮守した時、掌書記に辟召し、また植に従って汴州に赴いた。李瓚が桂管を鎮守した時、観察判官に奏請した。軍政が適わず、璧は極言したが容れられず、衣を払って去った。桂府はまもなく乱が起こり、入朝して右補闕となった。僖宗が蜀に幸した時、召されて翰林学士を充て、累遷して諫議大夫となり、職を充てた。

原文璧,大中九年登進士第。文格髙雅。嘗爲《馬嵬詩》,詩人韓琮、李商隱嘉之。馬植鎭陳許,辟爲掌書記,又從植汴州。李瓚鎭桂管,奏爲觀察判官。軍政不愜,璧極言不納,拂衣而去。桂府尋亂,入爲右補闕。僖宗幸蜀,召充翰林學士,累遷諫議大夫,充職。

仲郢の子、玭

原文{{--|仲郢子}} 玭

玭は両経挙に応じ、秘書正字に初官した。また書判抜萃に及第し、高湜が度支推官に辟召した。一年余りして、右補闕に任ぜられた。湜が沢潞に出鎮した時、節度副使に奏請した。入朝して殿中侍御史となった。李蔚が襄陽を鎮守した時、掌書記に辟召した。湜が再び沢潞を鎮守した時、また副使となった。入朝して刑部員外郎となった。湜が乱将に逐われて高要尉に貶せられた時、玭は三たび上疏して弁明した。湜は疏の本を見て嘆じて言うには、「我自ら弁析するも、またこれに及ばない」と。まもなく広州節度副使に出た。翌年、黄巣が広州を陥落させた時、郡人の鄧承勛が小船で玭を載せて禍を脱出させた。召されて起居郎となった。賊が長安を陥落させた時、刃傷を受け、行在に奔出し、歴任して諫議大夫・給事中となり、位は御史大夫に至った。

原文玭應兩經舉,釋褐秘書正字。又書判拔萃,髙湜辟爲度支推官。逾年,拜右補闕。湜出鎭澤潞,奏爲節度副使。入爲殿中侍御史。李蔚鎭襄陽,辟爲掌書記。湜再鎭澤潞,復爲副使。入爲刑部員外。湜爲亂將所逐,貶髙要尉,玭三上疎申理。湜見疎本嘆曰:「我自辨析,亦不及此。」尋出廣州節度副使。明年,黃巣陷廣州,郡人鄧承勛以小舟載玭脱禍。召爲起居郎。賊陷長安,爲刃所傷,出奔行在,歴諫議給事中,位至御史大夫。

玭はかつて書を著してその子弟を誡めて言うには、

原文玭嘗著書誡其子弟曰:

門地の高い者は、畏るべく恃むべからず。畏るべきは、身を立て己を行い、一事でも先人の訓えに墜つれば、その罪は他人より大である。生きては苟も名位を取り得るも、死して何をもって地下の祖先に見えん。恃むべからざるは、門が高ければ自ら驕り、族が盛んなれば人の嫉むところとなる。実なる技芸や美しい行いは、人は必ずしも信ぜず、細かい瑕や微かな累は、十手争って指すのである。故に世胄を承ける者は、己を修めるには懇ろならざるを得ず、学を為すには堅固ならざるを得ない。人の世に生まれて、無能をもって他人の用いられることを望み、無善をもって他人の愛されることを望み、用いられ愛される様子がなければ、「我は時に遇わず、時は賢を急とせず」と言う。これはまた農夫が鹵莽に種を蒔きながら、天の潤いがないと怨むようなもので、飢えずにいようとしても、どうして得られようか。私は幼い頃より先人の訓えを聞き、家法を講論した。身を立てるには孝悌を基とし、恭黙を本とし、畏怯を務めとし、勤倹を法とし、交結を末事とし、気義を兇人とする。家を肥やすには忍順をもってし、交わりを保つには簡敬をもってする。百行備わりても、身の未だ周からざるを疑い、三緘密にして、言の或いは失うを慮る。広く記すことは及ばざるが如く、名を求めることは儻来の如し。吝と驕を去りて、過ちを減ずるに庶幾からん。官に蒞るには己を潔くし事を省み、然る後に以て法を守ることを言うべく、法を守りて然る後に以て人を養うことを言うべし。直は禍に近づかず、廉は名を沽さず。廩禄は微少なりとも、黎氓の膏血を易えるべからず。榎楚は用いるも、褊狭の胸襟を恣にするべからず。憂いと福は偕らず、潔と富は並ばず。近頃門家の子孫を見るに、その先人は正直に官に当たり、耿介として特立し、強禦を畏れず、その衰えた時には、ただ上を犯すことを好み、他に能あること更に無し。もしその先人が遜順に己を処し、和柔に身を保ち、悔尤を遠ざけたならば、その衰えた時には、ただ暗劣あるのみで、宗とすべきを知らない。この際の幾微は、賢ならざれば達せられない。名を壊し己を災いし、先を辱しめ家を喪う。その失うこと特に大なる者五つあり、宜しく深くこれを志すべし。第一に、自ら安逸を求め、淡泊を甘んぜず、苟も己に利あれば、人の言を恤れない。第二に、儒術を知らず、古道を悦ばず、前経に懵として恥じず、当世を論じて解頤し、身既に寡知にして、人の学あるを悪む。第三に、己に勝る者を厭い、己に諂う者を悦び、ただ戯談を楽しみ、古道を思わず、人の善を聞けばこれを嫉み、人の悪を聞けばこれを揚げ、浸漬して頗僻となり、徳義を銷刻し、簪裾徒に在るも、廝養と何の異なることがあろう。第四に、慢遊を崇好し、曲糵に耽嗜し、杯を銜むことを高致とし、事に勤むことを俗流とし、習い易くして荒れ、覚めて已に悔い難し。第五に、名宦に急き、権要に昵近し、一資半級、或いは得ることあれども、衆怒群猜、存する者鮮なし。この五つの不是は、痤疽よりも甚だしい。痤疽は砭石にて癒ゆるを得るも、五失は巫医も及ばない。前賢の炯戒は方冊に具存し、近代の覆車は聞見相接している。中人以下の者は、辞を修め力を学べば、躁進して失いを患い、その用いられることを思って展べ、命を審らかにして退くを知れば、業は荒れ文は蕪なり、一つとして採るに足らぬ。ただ上智はその慮りを研ぎ、その聞を博くし、その習いを堅くし、その業を精しくし、用いられれば行い、捨てられれば蔵する。もしこれに異なるならば、どうして君子と為さんや。

原文夫門地髙者,可畏不可恃。可畏者,立身行己,一事有墜先訓,則罪大於他人。雖生可以茍取名位,死何以見祖先於地下?不可恃者,門髙則自驕,族盛則人之所嫉。實藝懿行,人未必信;纖瑕微累,十手爭指矣。所以承世胄者,修己不得不懇,爲學不得不堅。夫人生世,以無能望他人用,以無善望他人愛,用愛無狀,則曰「我不遇時,時不急賢」。亦由農夫鹵莽而種,而怨天澤之不潤,雖欲弗餒,其可得乎!予幼聞先訓,講論家法。立身以孝悌爲基,以恭默爲本,以畏怯爲務,以勤儉爲法,以交結爲末事,以氣義爲兇人。肥家以忍順,保交以簡敬。百行備,疑身之未周;三緘密,慮言之或失。廣記如不及,求名如儻來。去吝與驕,庶幾減過。蒞官則潔己省事,而後可以言守法;守法而後可以言養人。直不近禍,廉不沽名。廩祿雖微,不可易黎氓之膏血;榎楚雖用,不可恣褊狹之胸襟。憂與福不偕,潔與富不並。比見門家子孫,其先正直當官,耿介特立,不畏強禦;及其衰也,唯好犯上,更無他能。如其先遜順處己,和柔保身,以遠悔尤;及其衰也,但有暗劣,莫知所宗。此際幾微,非賢不達。夫壞名災己,辱先喪家。其失尤大者五,宜深志之。其一,自求安逸,靡甘淡泊,茍利於己,不恤人言。其二,不知儒術,不悅古道:懵前經而不恥,論當世而解頤;身既寡知,惡人有學。其三,勝己者厭之,佞己者悅之,唯樂戲譚,莫思古道。聞人之善嫉之,聞人之惡揚之。浸漬頗僻,銷刻德義,簪裾徒在,廝養何殊。其四,崇好慢遊,耽嗜曲糵,以銜杯爲髙致,以勤事爲俗流,習之易荒,覺已難悔。其五,急於名宦,昵近權要,一資半級,雖或得之;衆怒群猜,鮮有存者。茲五不是,甚於痤疽。痤疽則砭石可瘳,五失則巫醫莫及。前賢炯戒,方冊具存,近代覆車,聞見相接。夫中人已下,修辭力學者,則躁進患失,思展其用;審命知退者,則業荒文蕪,一不足采。唯上智則研其慮,博其聞,堅其習,精其業,用之則行,舍之則藏。茍異於斯,豈爲君子?

初め公綽は家を治めること甚だ厳しく、子弟はよく誡訓を稟け、家法を言う者は、世に柳氏を称えた。

原文初公綽理家甚嚴,子弟克稟誡訓,言家法者,世稱柳氏云。

公綽の弟、公権

原文{{--|公綽弟}} 公權

公権は字を誠懇という。幼くして学を嗜み、十二歳で辞賦を作ることができた。元和初年、進士に擢第し、秘書省校書郎に初官した。李聴が夏州を鎮守した時、掌書記に辟召した。穆宗が即位し、入朝して奏事した時、帝は公権を召見して言うには、「我は仏寺にて卿の筆跡を見て、久しく思っていた」と。即日に右拾遺に任じ、翰林侍書学士を充てた。右補闕・司封員外郎に遷った。穆宗の政道僻く、かつて公権に筆がどうして尽く善いのかと問うた。対えて言うには、「筆を用いるは心にあり、心正しければ則ち筆正し」と。上は顔色を改め、これが筆諫であることを知った。穆・敬・文の三朝に歴任し、禁中に侍書した。公綽が太原にいた時、宰相の李宗閔に書を送って言うには、「家弟は苦心して辞芸に励み、先朝は侍書として用いられたが、甚だ工祝と偕しく、心実にこれを恥じる。一散秩に換えられんことを乞う」と。そこで右司郎中に遷し、累次司封・兵部の二郎中・弘文館学士に換えた。

原文公權,字誠懇。幼嗜學,十二能爲辭賦。元和初,進士擢第,釋褐秘書省校書郎。李聽鎭夏州,辟爲掌書記。穆宗即位,入奏事,帝召見,謂公權曰:「我於佛寺見卿筆跡,思之久矣。」即日拜右拾遺,充翰林侍書學士。遷右補闕、司封員外郎。穆宗政僻,嘗問公權筆何盡善,對曰:「用筆在心,心正則筆正。」上改容,知其筆諫也。歴穆、敬、文三朝,侍書中禁。公綽在太原,致書於宰相李宗閔云:「家弟苦心辭藝,先朝以侍書見用,頗偕工祝,心實恥之,乞換一散秩。」乃遷右司郎中,累換司封、兵部二郎中、弘文館學士。

文宗はこれを思案し、再び侍書を召し出し、諫議大夫に転任させた。ほどなく中書舎人に改め、翰林書詔学士を充てた。浴堂で召し出して対面するたび、蝋燭が燃え尽きても語りは尽きず、蝋燭を取り替えようとせず、宮人が蝋の涙を揉んだ紙を継ぎ足した。未央宮に従駕した際、苑中で輦を停めて公権に言うには、「朕に一つの喜び事がある。辺境への衣料の賜与が長らく期日に間に合わなかったが、今年二月に春衣の支給を終えた。」公権が前に進んで祝賀すると、帝は言った、「単なる祝賀では足りぬ。卿は詩をもって朕を賀すべし。」宮人が口添えして促すと、公権は声に応じて曰く、「去歳は戦い無かりしも、今年は帰るを得ず。皇恩に何をもって報いん、春日に春衣を得たり。」帝は喜び、久しく激賞した。便殿で六学士に対面した時、帝が漢の文帝の恭倹について語り、袖を挙げて言うには、「これは三度洗濯したものである。」学士は皆、帝の倹徳を称賛したが、ただ公権のみは無言であった。帝は留めて問うと、答えて言うには、「人主は賢良を進め、不肖を退け、諫諍を納れ、賞罰を明らかにすべきである。洗濯した衣を着るのは、小節に過ぎません。」時に周墀が同席しており、股が震えるほどであったが、公権の言葉の勢いは奪うことができなかった。帝は彼に言った、「極めて知っている、舎人は諫議に合わぬと。しかし卿の言事には諍臣の風采があるゆえ、かえって卿に諫議大夫を授けよう。」翌日に制を降し、諫議大夫をもって制誥を知らしめ、学士は元の通りとした。

原文文嘗思之,復召侍書,遷諫議大夫。俄改中書舍人,充翰林書詔學士。毎浴堂召對,繼燭見跋,語猶未盡,不欲取燭,宮人以蠟涙揉紙繼之。從幸未央宮,苑中駐輦謂公權曰:「我有一喜事,邊上衣賜,久不及時,今年二月給春衣訖。」公權前奉賀,上曰:「單賀未了,卿可賀我以詩。」宮人迫其口進,公權應聲曰:「去歳雖無戰,今年未得歸。皇恩何以報,春日得春衣。」上悅,激賞久之。便殿對六學士,上語及漢文恭儉,帝舉袂曰:「此浣濯者三矣。」學士皆贊詠帝之儉德,唯公權無言。帝留而問之,對曰:「人主當進賢良,退不肖,納諫諍,明賞罰。服浣濯之衣,乃小節耳。」時周墀同對,爲之股栗,公權辭氣不可奪。帝謂之曰:「極知舍人不合作諫議,以卿言事有諍臣風彩,卻授卿諫議大夫。」翌日降制,以諫議知制誥,學士如故。

開成三年、工部侍郎に転じ、職を充てた。嘗て入朝して対面した時、帝が言うには、「近頃、外間の議論はどうか。」公権が答えて言うには、「郭旼が邠寧に除授されて以来、世論には賛否がかなりあります。」帝は言った、「旼は尚父(郭子儀)の従子であり、太皇太后の季父である。官職に過ちはない。金吾大将から邠寧の小鎮に授けただけのことで、何事を議論するというのか。」公権は言った、「旼の勲徳をもってすれば、鎮を除するのは妥当です。人情が議論するのは、旼が二人の娘を宮中に入れたため、この除拜に至ったと言うからです。これは本当ですか。」帝は言った、「二人の娘は太后に参内したのであって、献上したのではない。」公権は言った、「瓜田李下の嫌疑を、どうして戸々に知らせましょうか。」そこで王珪が太宗に廬江王妃を出すことを諫めた故事を引き合いに出した。帝は直ちに南内使の張日華に命じて二人の娘を旼のもとに送り返させた。公権の忠言による補益は、皆この類いであった。累進して学士承旨となった。

原文開成三年,轉工部侍郎,充職。嘗入對,上謂曰:「近日外議如何?」公權對曰:「自郭旼除授邠寧,物議頗有臧否。」帝曰:「旼是尚父之從子,太皇太后之季父,在官無過。自金吾大將授邠寧小鎭,何事議論耶?」公權曰:「以旼勛德,除鎭攸宜。人情論議者,言旼進二女入宮,致此除拜,此信乎?」帝曰:「二女入宮參太后,非獻也。」公權曰:「瓜李之嫌,何以戸曉?」因引王珪諫太宗出廬江王妃故事。帝即令南内使張日華送二女還旼。公權忠言匡益,皆此類也。累遷學士承旨。

武宗が即位すると、内職を罷め、右散騎常侍を授けられた。宰相の崔珙が集賢学士・判院事に任用した。李徳裕は平素より公権を厚く遇していたが、珙が奏薦したため、頗る不悦であった。左遷されて太子詹事とされ、太子賓客に改められた。累進して金紫光禄大夫・上柱国・河東郡開国公・食邑二千戸となった。再び左散騎常侍・国子祭酒となった。工部尚書を歴任した。咸通初年、太子少傅に改め、さらに太子少師に改められ、三品・二品の班に三十年間在った。六年に卒去し、太子太師を追贈され、時に八十八歳であった。

原文武宗即位,罷内職,授右散騎常侍。宰相崔珙用爲集賢學士、判院事。李德裕素待公權厚,及爲珙奏薦,頗不悅。左授太子詹事,改賓客。累遷金紫光祿大夫、上柱國、河東郡開國公、食邑二千戸。復爲左常侍、國子祭酒。歴工部尚書。咸通初,改太子少傅,改少師,居三品、二品班三十年。六年卒,贈太子太師,時年八十八。

公権は初め王羲之の書を学び、近代の筆法を遍く閲し、体勢は勁健で優美、一家を成した。当時、公卿大臣の家の碑板で、公権の手筆でないものは、人は不孝と見なした。外夷が貢ぎ物をする時も、別に貨貝を用意し、これを柳書購入のためと称した。上都西明寺の『金剛経碑』には鍾繇・王羲之・欧陽詢・虞世南・褚遂良・陸柬之の体を備えており、特に得意の作であった。文宗が夏の日に学士と聯句し、帝が曰く、「人皆苦しむ炎熱、我愛す夏日の長きを。」公権が続けて曰く、「薫風南より来たり、殿閣微涼を生ず。」時に丁・袁ら五学士も皆継いだが、帝は独り公権の二句を口ずさみ、「辞清く意足り、得難し。」と言った。そこで公権に命じて殿壁に題させ、字は方円五寸、帝はこれを見て嘆じて曰く、「鍾繇・王羲之が生き返っても、これ以上はあるまい。」

原文公權初學王書,遍閲近代筆法,體勢勁媚,自成一家。當時公卿大臣家碑板,不得公權手筆者,人以爲不孝。外夷入貢,皆別署貨貝,曰此購柳書。上都西明寺《金剛經碑》備有鍾、王、歐、虞、褚、陸之體,尤爲得意。文宗夏日與學士聯句,帝曰:「人皆苦炎熱,我愛夏日長。」公權續曰:「薰風自南來,殿閣生微涼。」時丁、袁五學士皆屬繼,帝獨諷公權兩句,曰:「辭淸意足,不可多得。」乃令公權題於殿壁,字方圓五寸,帝視之,嘆曰:「鍾、王復生,無以加焉!」

大中初年、少師に転じ、中謝の際、宣宗が殿上に召し上げ、御前で三紙を書かせた。軍容使の西門季玄が硯を捧げ、枢密使の崔巨源が筆を渡した。一紙は真書十字、「衛夫人、筆法を王右軍に伝う」;一紙は行書十一字、「永禅師真草『千字文』、家法を得たり」;一紙は草書八字、「謂う、語助者、焉・哉・乎・也なり」。錦彩・瓶盤などの銀器を賜り、なお自ら謝状を書かせ、真行に拘らせなかった。帝は特に珍重した。

原文大中初,轉少師,中謝,宣宗召升殿,御前書三紙,軍容使西門季玄捧硯,樞密使崔巨源過筆。一紙眞書十字,曰「衞夫人傳筆法於王右軍」;一紙行書十一字,曰「永禪師眞草《千字文》得家法」;一紙草書八字,曰「謂語助者焉哉乎也」。賜錦彩、甁盤等銀器,仍令自書謝狀,勿拘眞行,帝尤奇惜之。

公権は志を書学に耽らせ、生計を営むことができなかった。勲戚の家の碑板を書くと、歳時の謝礼は巨万に上り、多くは主蔵の下僕の海鷗・龍安に窃まれた。別に貯えた酒器杯盂一笥は、封印は元の通りであったが、器は皆無くなっていた。海鷗に訊ねると、言うには、「その亡くなったことを測り知りません。」公権は笑って言った、「銀杯が羽化したのだろう。」それ以上は言わなかった。宝としたのは筆硯図画のみで、自ら鍵をかけて保管した。常に硯を評し、青州の石末を第一とし、墨が冷えやすいと言い、次いで絳州の黒硯とした。特に『左氏伝』・『国語』・『尚書』・『毛詩』・『莊子』に精通した。一つの義を説くごとに、必ず数紙を誦した。性は音律に通暁したが、奏楽を好まなかった。常に言うには、「音楽を聞くと人を驕り怠らせるからである。」

原文公權志耽書學,不能治生;爲勛戚家碑板,問遺歳時鉅萬,多爲主藏豎海鷗、龍安所竊。別貯酒器杯盂一笥,緘滕如故,其器皆亡。訊海鷗,乃曰:「不測其亡。」公權哂曰:「銀杯羽化耳。」不復更言。所寶唯筆硯圖畫,自扃鐍之。常評硯,以靑州石末爲第一,言墨易冷,絳州黑硯次之。尤精《左氏傳》、《國語》、《尚書》、《毛詩》、《莊子》。毎説一義,必誦數紙。性曉音律,不好奏樂。常云:「聞樂令人驕怠故也。」

公綽の伯父、子華。

原文{{--|公綽伯父}} 子華

公綽の伯父の子華は、永泰初年、厳武の西蜀判官となり、成都令に奏薦された。累進して池州刺史となった。入朝して昭応令となり、府東十三県の捕賊を管轄し、まもなく検校金部郎中・修葺華清宮使となった。元載が京兆尹に任用しようとしたが、拝受せずに卒去した。自ら死期を知り、あらかじめ墓誌を作った。人を見抜く明があった。公綽が生まれて三日目にこれを見て、その弟の子温に言うには、「この児を保ち惜しめ、福祚は我ら兄弟の及ぶところではない。我が門を興す者は、この児である。」そこで起之をもって公綽の字とした。

原文公綽伯父子華,永泰初,爲嚴武西蜀判官,奏爲成都令。累遷池州刺史。入爲昭應令,知府東十三縣捕賊,尋檢校金部郎中、修葺華淸宮使。元載欲用爲京兆尹,未拜而卒。自知死日,預爲墓誌。有知人之明。公綽生三日,視之,謂其弟子温曰:「保惜此兒,福祚吾兄弟不能及。興吾門者,此兒也。」因以起之爲公綽字。

子華の二人の子:公器、公度。

原文子華二子:公器、公度。

公度は養生法に長け、八十余歳でも歩行が軽快であった。その術を請う者があれば、言うには、「私は初め術はない。ただ未だかつて元気をもって喜怒を助けず、気海を常に温かく保つだけである。」位は光禄少卿に止まった。

原文公度善攝生,年八十餘,歩履輕便。或祈其術,曰:「吾初無術,但未嘗以元氣佐喜怒,氣海常温耳!」位止光祿少卿。

公器の子は遵。遵の子は璨。璨は宰相に至り、別に伝がある。

原文公器子遵。遵子璨。璨仕至宰相,自有傳。

崔玄亮。

原文崔玄亮

崔玄亮、字は晦叔、山東磁州の人である。玄亮は貞元十一年に進士第に及第し、諸侯の幕府に従事した。性は雅淡で、道術を好み、競争に趨ることを楽しまず、長く江湖を遊歴した。元和初年に至り、知己の推薦により朝廷に入った。再遷して監察御史となり、侍御史に転じた。出向して密・湖・曹三郡の刺史となった。官位が遷るごとに、謙譲の色が顔に現れた。

原文崔玄亮,字晦叔,山東磁州人也。玄亮貞元十一年登進士第,從事諸侯府。性雅淡,好道術,不樂趨競,久遊江湖。至元和初,因知己薦達入朝。再遷監察御史,轉侍御史。出爲密、湖、曹三郡刺史。毎一遷秩,謙讓輒形於色。

太和初年、入朝して太常少卿となった。四年、諫議大夫に拝され、中謝の日、面と向かって金紫を賜った。朝廷はその名望を推し、右散騎常侍に遷した。

原文太和初,入爲太常少卿。四年,拜諫議大夫,中謝日,面賜金紫。朝廷推其名望,遷右散騎常侍。

翌年、宰相の宋申錫が鄭注によって誣告され、獄が内より起こり、京師は震駭した。玄亮は先頭に立ち、諫官十四人を率いて延英殿に詣でて対面を請い、文宗と数百言を往復した。文宗は初めその諫言を理解せず、申錫を法に置こうとした。玄亮は涙ながらに奏上して言うには、「孟軻に言う、衆人皆曰く之を殺せと、未だ可ならず;卿大夫皆曰く之を殺せと、未だ可ならず;天下皆曰く之を殺せと、然る後に之を察し、方に法に置く。今至聖の代に、一凡庶を殺すにも、尚お典法に合するを須い、況や無辜の一宰相を殺すことにおいてをや。臣は陛下のために天下の法を惜しむのであり、実は申錫のためではありません。」言い終えて、俯伏して嗚咽した。文宗はこれに感じ悟った。玄亮はこれにより朝廷に名を重くした。

原文來年,宰相宋申錫爲鄭註所構,獄自内起,京師震懼。玄亮首率諫官十四人,詣延英請對,與文宗往復數百言。文宗初不省其諫,欲置申錫於法。玄亮泣奏曰:「孟軻有言:衆人皆曰殺之,未可也;卿大夫皆曰殺之,未可也;天下皆曰殺之,然後察之,方置於法。今至聖之代,殺一凡庶,尚須合於典法,況無辜殺一宰相乎?臣爲陛下惜天下法,實不爲申錫也。」言訖,俯伏嗚咽,文宗爲之感悟。玄亮由此名重於朝。

七年、病を以て外任を求む。宰相は弘農を以て其の請いに便ならしむ。乃ち検校左散騎常侍・虢州刺史を授く。是の歳七月、郡所に卒す。中外嘆惜せざるなし。

原文七年,以疾求爲外任;宰相以弘農便其所請。乃授檢校左散騎常侍、虢州刺史。是歳七月,卒於郡所,中外無不嘆惜。

初め玄亮第に登り、弟純亮・寅亮相次いで進士科に昇る。蕃府辟召すれど、玄亮最も達す。玄亮の孫貽孫、位は侍郎に至る。

原文始玄亮登第,弟純亮、寅亮相次升進士科。蕃府辟召,而玄亮最達。玄亮孫貽孫,位至侍郎。

温造

原文温造

温造、字は簡輿、河内の人。祖は景倩、南鄭令。父は輔國、太常丞。造幼より学を嗜み、吏を試みるを喜ばず、自ら節概を負い、志を降すこと少なく、王屋に隠居し、漁釣逍遙を以て事とす。寿州刺史張建封風聞して書幣を致し招延す。造欣然として親しむ所に謂ひて曰く「此れ可人なり」と。家を徙して之に従ふ。建封動静を諮詢すれど、敢えて職任を以て縻せず。建封節を彭門に授けらるるに及び、造下邳に帰り、天下に高き心あり。建封一旦造を失はんことを恐れ、乃ち兄の女を以て之に妻せしむ。

原文温造,字簡輿,河内人。祖景倩,南鄭令。父輔國,太常丞。造幼嗜學,不喜試吏,自負節概,少所降志,隱居王屋,以漁釣逍遙爲事。壽州刺史張建封聞風致書幣招延,造欣然謂所親曰:「此可人也。」徙家從之。建封動靜咨詢,而不敢縻以職任。及建封授節彭門,造歸下邳,有髙天下之心。建封恐一旦失造,乃以兄女妻之。

時に李希烈方に悖り、籓隣を侵寇し、屡々郡邑を陥とす。天下の城鎮兵を恃む者は、従ひて動揺し、多く主帥を逐ひ、自ら留後を立て、節鉞を邀求す。徳宗之を患ふ。范陽の劉濟方に忠款を輸すれど、未だ朝廷の倚賴の意を尽くして達せざるを以て、密詔を以て建封に特達識略の士を選び往きて之を喩せしむ。建封乃ち強ひて造を節度参謀に署し、幽州に使はす。造語る未だ訖らざるに、濟俯伏して流涕し曰く「濟遐裔に僻在し、天子の神聖、大臣の忠藎を知らず。願はくは率先して諸侯に、死節を以て效はん」と。造還り、建封其の名を以て上聞す。徳宗其の才を愛し、京師に召し至り、之に謂ひて曰く「卿誰が家の子ぞ。年復た幾何ぞ」と。造対へて曰く「臣が五代祖は大雅、外五代祖は李勣。臣が犬馬の年三十有二」と。徳宗之を奇とし、諫官に用ひんと欲すれど、語の泄るるを以て事寝む。

原文時李希烈方悖,侵寇籓鄰,屢陷郡邑。天下城鎭恃兵者,從而動搖,多逐主帥,自立留後,邀求節鉞。德宗患之,以范陽劉濟方輸忠款,但未能盡達朝廷倚賴之意;與密詔建封選特達識略之士往喩之。建封乃強署造節度參謀,使於幽州。造與語未訖,濟俯伏流涕曰:「濟僻在遐裔,不知天子神聖,大臣忠藎。願得率先諸侯,效以死節。」造還,建封以其名上聞。德宗愛其才,召至京師,謂之曰:「卿誰家子?年復幾何?」造對曰:「臣五代祖大雅,外五代祖李勣。臣犬馬之年三十有二。」德宗奇之,欲用爲諫官,以語泄事寢。

長慶元年、京兆府司録参軍を授く。河朔に奉使して旨に称す。殿中侍御史に遷る。既にして幽州の劉総、請ふ所部の九州を以て朝旨を聴かんとす。穆宗使い得べき者を選び、或ひは造を薦む。帝召して之に謂ひて曰く「朕劉総の忠を輸するを以て、書詔便蕃なれど、未だ朕が深意を尽くさず。卿の素に事を辨ふる能ふを以て、朕が為に此行せよ」と。造対へて曰く「臣府県の走吏、初めて憲職を受け、望軽く事重し。恐らくは国命を辱しめ、旨を諭す能はざらん」と。帝曰く「我東宮に在りし時、劉総の覲を請ふを聞く。我即位するに及び、比年上書絶えず、行期を約するに及びては、即ち喑默して報ぜず。卿機を識り変を知る。往きて我が懐を喩せ。多く譲る無かれ」と。乃ち起居舎人を拝し、緋魚袋を賜ひ、太原・鎮州・幽州宣諭使を充つ。造初めて范陽に至る。劉総櫜鞬を具へて郊迎す。乃ち聖旨を宣べ、禍福を以て示す。総俯伏して流汗す、兵の頸に加はるが若し。造使より還るに及び、総遂に家を移して入覲し、朝廷遂に張弘靖を以て之に代ふ。朱克融弘靖を逐ひ、鎮州田弘正を殺すに及び、朝廷兵を用ふるに、乃ち先づ造をして命を銜みて河東・魏博・澤潞・横海・深冀・易定等の道に、軍期を以て喩せしむ。事皆旨に称す。

原文長慶元年,授京兆府司録參軍。奉使河朔稱旨,遷殿中侍御史。既而幽州劉總請以所部九州聽朝旨。穆宗選可使者,或薦造。帝召而謂之曰:「朕以劉總輸忠,雖書詔便蕃,未盡朕之深意。以卿素能辦事,爲朕此行。」造對曰:「臣府縣走吏,初受憲職,望輕事重,恐辱國命,無能諭旨。」帝曰:「我在東宮時,聞劉總請覲;及我即位,比年上書不絶,及約以行期,即喑默不報。卿識機知變,往喩我懷,無多讓也。」乃拜起居舍人,賜緋魚袋,充太原、鎭州、幽州宣諭使。造初至范陽,劉總具櫜鞬郊迎;乃宣聖旨,示以禍福。總俯伏流汗,若兵加於頸矣。及造使還,總遂移家入覲,朝廷遂以張弘靖代之。及硃克融逐弘靖,鎭州殺田弘正,朝廷用兵,乃先令造銜命河東、魏博、澤潞、橫海、深冀、易定等道,喩以軍期,事皆稱旨。

俄にして諫議大夫李景儉と史館にて飲酒するに坐し、景儉酔ひて丞相に謁す。造を出して朗州刺史とす。任に在りて後郷渠九十七里を開き、田二千頃を溉ぎ、郡人利を得る。乃ち名づけて右史渠と為す。四年居り、召されて侍御史を拝す。請ふ外廊に弾事朱衣・豸冠を復置せんことを。大臣阻みて行はれず。李祐夏州より入りて金吾を拝す。制に違ひて馬一百五十匹を進む。造正衙にて弾奏す。祐股戦ひ汗流る。祐私かに人に謂ひて曰く「吾夜蔡州城を逾えて呉元済を擒ふるも、未だ嘗て心動かず。今日胆落つ温御史に。吁、畏るべし哉」と。左司郎中に遷り、再び雑事を知る。尋ひて御史中丞を拝す。

原文俄而坐與諫議大夫李景儉史館飲酒,景儉醉謁丞相,出造爲朗州刺史。在任開後鄕渠九十七里,溉田二千頃,郡人獲利,乃名爲右史渠。居四年,召拜侍御史,請復置彈事硃衣、豸冠於外廊,大臣阻而不行。李祐自夏州入拜金吾,違制進馬一百五十匹。造正衙彈奏,祐股戰汗流。祐私謂人曰:「吾夜逾蔡州城擒呉元濟,未嘗心動,今日膽落於温御史。籲,可畏哉!」遷左司郎中,再知雜事。尋拜御史中丞。

太和二年十一月、宮中昭徳寺火災す。寺は宣政殿の東隔垣に在り、火勢将に及ばんとす。宰臣・両省・京兆尹・中尉・枢密、皆日華門外に環立し、神策兵士をして之を救はしむ。晡後稍く息む。是の日、唯だ台官到らざりき。造奏して曰く「昨宮中火を遺す。縁て台に囚を繫ぐ有り。恐らくは縁りて奸を為さんことを、人吏を追集し堤防す。所以れ朝堂に在る後なり。臣請ふ自ら三十直を罰せん。其の両巡使崔蠡・姚合は火滅して方に到る。請ふ別に責罰を議せん」と。勅して曰く「事は非常に出づ。台に囚繫有り、官曹警備す。亦た周慮を為すなり。即ち合す朝堂に待罪し、進止を取るを候ふべし。量罰自ら許すは、事乖儀に渉る。温造・姚合・崔蠡各一月の俸料を罰す」と。

原文太和二年十一月,宮中昭德寺火。寺在宣政殿東隔垣,火勢將及,宰臣、兩省、京兆尹、中尉、樞密,皆環立於日華門外,令神策兵士救之,晡後稍息。是日,唯臺官不到。造奏曰:「昨宮中遺火,縁臺有系囚,恐縁爲奸,追集人吏堤防,所以至朝堂在後,臣請自罰三十直。其兩巡使崔蠡、姚合火滅方到,請別議責罰。」敕曰:「事出非常,臺有囚系,官曹警備,亦爲周慮,即合待罪朝堂,候取進止。量罰自許,事渉乖儀。温造、姚合、崔蠡各罰一月俸料。」

造性剛褊、人或は激觸すれど、貴勢を顧みず、気を以て淩藉す。嘗て左補闕李虞に街に遇ふ。其の避けざるを怒り、祗承人を捕へて脊を決すること十下。左拾遺舒元褒等上疏して之を論じて曰く「国朝の故事、供奉官街中にては、宰相を除く外、回避する所無し。温造朝廷の典禮を蔑し、陛下の侍臣を淩ぎ、胸臆を行ひ恣にし、曾て畏忌無し。凡そ事小なりと雖も分理に関はる者は、失ふ可からず。分理一たび失はば、乱之より生ず。遺・補の官秩卑しと雖も、陛下の侍臣なり。中丞高しと雖も、法吏なり。侍臣見淩さるるは、是れ敬を広めざるなり。法吏法を壊さば、何を以て縄を持たん。前時中書舎人李虞仲造と相逢ふ。造乃ち引馬を曳き去る。知制誥崔咸造と相逢ふ。造又其の従人を捉ふ。當時縁りて上聞せざりしを以て、所以れ暴犯益甚だし。臣聞く元和・長慶中、中丞の行李半坊を過ぎず。今乃ち遠く両坊に至る。之を『籠街喝道』と謂ふ。但だ崇高を以て自ら大とし、僭擬の嫌ひを思はざるなり。若し糾縄せずんば、実に彜典を虧かん」と。勅して曰く「憲官の職は、佞を指し邪に觸るるに在りて、行李自ら大なるに在らず。侍臣の職は、可を献げ否を替ふるに在りて、道路相高むるに在らず。並びに通班に列し、名分を知るを合す。喧競を聞く如く、亦た已に再三なり。既に人言を招き、甚だ朝体を損ふ。其の台官と供奉官同道するは、先後して行くを聴し、道途にては即ち祗揖して過ぎよ。其の参従人は則ち各本官の後に随ひ、少しく相辟避し、衝突を言ふ無かれ。又聞く近日已来、応に導従すべき官、事力多き者は、街衢の中にて行李過ぎたることを。自今以後、伝呼前後三百歩を過ぐること無かれ」と。然れども造の挙奏、吐茹する所無し。朝廷に喪礼を以てせず、配類を以てせざる者有れば、悉く之を劾す。偽官王果等九十余人を獲、南曹吏李賨等六人を杖殺し、都市に刑す。尚書右丞に遷り、大中大夫を加へ、祁県開国子を封じ、金紫を賜ふ。

原文造性剛褊,人或激觸,不顧貴勢,以氣淩藉。嘗遇左補闕李虞於街,怒其不避,捕祗承人決脊十下。左拾遺舒元褒等上疎論之曰:「國朝故事,供奉官街中,除宰相外,無所回避。温造蔑朝廷典禮,淩陛下侍臣,恣行胸臆,曾無畏忌。凡事有小而關分理者,不可失也。分理一失,亂由之生。遺、補官秩雖卑,陛下侍臣也;中丞雖髙,法吏也。侍臣見淩,是不廣敬;法吏壞法,何以持繩?前時中書舍人李虞仲與造相逢,造乃曳去引馬。知制誥崔咸與造相逢,造又捉其從人。當時縁不上聞,所以暴犯益甚。臣聞元和、長慶中,中丞行李不過半坊,今乃遠至兩坊,謂之『籠街喝道』。但以崇髙自大,不思僭擬之嫌。若不糾繩,實虧彜典。」敕曰:「憲官之職,在指佞觸邪,不在行李自大;侍臣之職,在獻可替否,不在道路相髙。並列通班,合知名分,如聞喧競,亦已再三,既招人言,甚損朝體。其臺官與供奉官同道,聽先後而行,道途即祗揖而過,其參從人則各隨本官之後,少相辟避,勿言沖突。又聞近日已來,應合導從官,事力多者,街衢之中,行李太過。自今後,傳呼前後,不得過三百歩。」然造之舉奏,無所吐茹。朝廷有喪不以禮、配不以類者,悉劾之。獲偽官王果等九十餘人,杖殺南曹吏李賨等六人,刑於都市。遷尚書右丞,加大中大夫,封祁縣開國子,賜金紫。

四年、興元軍が乱を起こし、節度使李絳を殺害した。文宗は温造の気概豪壮にして悪を憎むことを以て、乃ち検校右散騎常侍・興元尹・山南西道節度使を授けた。造は鎮に赴くことを辞し、興元に兆乱の状有ることを奏上した。文宗は其の根本を尽く悟り、便宜に従事することを許した。帝は兵を用いる労費を慮りたまう。造は奏して曰く、「臣が計るに、諸道の蛮を征討する兵は既に帰還しつつあり、臣の行程が褒県に至るを俟ち、臣に密詔を賜わり、使いて約束を受けしめられんことを望む。臣が興元に及ぶ頃には、諸軍相継いで至らん。臣は此れを用いて足れり」と。乃ち造に手詔四通を授けた。神策行営将董重質、河中都将温徳彜、郃陽都将劉士和等、皆な造の命に稟ることを令した。造が褒城に行き至ると、興元都将衛志忠が蛮征討より帰還し、謁見した。造は即ち留めて自衛と為し、密かに志忠と謀る。又、亜将張丕・李少直を召し、各々其の旨を諭した。褒城を発するに及び、八百人を以て衙隊と為し、五百人を以て前軍と為し、府に入りて諸門を分守せしむ。造は下車して宴を設け、所司に供帳を庁事にせしむ。造曰く、「此れは隘狭にして、以て士卒を饗するに足らず、之を牙門に移せ」と。坐定まり、将卒羅拝す。志忠の兵之を周環す。造曰く、「吾れ新軍の去住の意を問わんと欲す。悉く前に進むべし。旧軍は錯雑する無かれ」と。労問既に畢り、伝言して坐を令す。未だ至らざる者有り、因って酒を舁いて巡行せしむ。酒匝まるに及び、未だ至らざる者皆な至る。牙兵之を囲むも亦合す。坐卒未だ悟らず。席上に先覚する者有り、揮って起たしむ。造、伝言して之を叱す。因って帖息して敢えて動かず。即ち坐卒を召し、絳を殺害した状を詰う。志忠・張丕階に夾み立ち、剣を抜いて呼びて曰く「殺せ」と。囲兵斉しく奮い、其の賊首教練使丘鑄等並びに官健千人、皆な地に斬首せられ、血流四註す。監軍楊叔元座に在り、遽かに起ちて哀を求め、造の靴を擁して命を請う。兵を遣わして之を衛り出だし、以て朝旨を俟つ。勅旨にて康州に配流す。其の親しく絳を刃する者は斬りて百断と為し、号令する者は斬りて三断と為し、余は並びに斬首す。内、百首を以て李絳を祭り、三十首を以て王景延・趙存約等を祭り、並びに屍を江に投ず。功を以て就きて検校礼部尚書を加う。

原文四年,興元軍亂,殺節度使李絳。文宗以造氣豪嫉惡,乃授檢校右散騎常侍、興元尹、山南西道節度使。造辭赴鎭,以興元兆亂之狀奏之,文宗盡悟其根本,許以便宜從事。帝慮用兵勞費,造奏曰:「臣計諸道征蠻之兵已回,俟臣行程至褒縣,望賜臣密詔,使受約束。比臣及興元,諸軍相續而至,臣用此足矣。」乃授造手詔四通。神策行營將董重質、河中都將温德彜、郃陽都將劉士和等,咸令稟造之命。造行至褒城,會興元都將衞志忠征蠻回,謁見。造即留以自衞,密與志忠謀。又召亞將張丕、李少直各諭其旨。暨發褒城,以八百人爲衙隊,五百人爲前軍,入府分守諸門。造下車置宴,所司供帳於廳事。造曰:「此隘狹,不足以饗士卒,移之牙門。」坐定,將卒羅拜,志忠兵周環之。造曰:「吾欲問新軍去住之意。可悉前,舊軍無得錯雜。」勞問既畢,傳言令坐,有未至者,因令舁酒巡行。及酒匝,未至者皆至,牙兵圍之亦合。坐卒未悟,席上有先覺者,揮令起,造傳言叱之,因帖息不敢動。即召坐卒,詰以殺絳之狀。志忠、張丕夾階立,拔劍呼曰「殺」。圍兵齊奮,其賊首教練使丘鑄等並官健千人,皆斬首於地,血流四註。監軍楊叔元在座,遽起求哀,擁造靴以請命;遣兵衞出之,以俟朝旨。敕旨配流康州。其親刃絳者斬一百斷,號令者斬三斷,餘並斬首。内一百首祭李絳,三十首祭王景延、趙存約等,並投屍於江。以功就加檢校禮部尚書。

五年四月、兵部侍郎として入朝す。耳疾を以て退を求む。七月、検校戸部尚書・東都留守、東都尚書省事を判じ、東畿汝防禦使と為る。

原文五年四月,入爲兵部侍郎,以耳疾求退。七月,檢校戸部尚書、東都留守,判東都尚書省事、東畿汝防禦使。

造、洛中に至る。九月、制を以て河陽懐節度観察等使に改授す。造は河内膏腴なるも、民戸雕瘵なるを以て、懐州古秦渠枋口堰を開浚することを奏す。役工四万、済源・河内・温・武陟四県の田五千余頃を溉ぐ。

原文造至洛中。九月,制改授河陽懷節度觀察等使。造以河内膏腴,民戸雕瘵,奏開浚懷州古秦渠枋口堰;役工四萬,溉濟源、河内、温、武陟四縣田五千餘頃。

七年十一月、御史大夫として入朝す。造、初めて漢中に赴鎮するに、大雨に遇い、平地水深尺余。乃ち鷄翁山に禱りて晴を祈る。俄かに疾風雲を駆り、即時に開斉す。文宗嘗て其の事を聞きたまい、会に造入対して之を言う。乃ち詔して鷄翁山を封じて侯と為す。

原文七年十一月,入爲御史大夫。造初赴鎭漢中,遇大雨,平地水深尺餘,乃禱鷄翁山祈晴,俄而疾風驅雲,即時開齊。文宗嘗聞其事,會造入對言之,乃詔封鷄翁山爲侯。

九年五月、礼部尚書に転ず。其の年六月病卒す。時に年七十。右僕射を贈る。文集八十巻有り。造は晩年に於いて財貨を積聚し、一も散施せず。時に頗る之を譏る。子の璋嗣ぐ。

原文九年五月,轉禮部尚書。其年六月病卒,時年七十,贈右僕射。有文集八十巻。造於晩年積聚財貨,一無散施,時頗譏之。子璋嗣。

璋は蔭を以て仕に入り、累ね使府に佐え、三郡の刺史を歴任す。咸通末、徐泗節度使と為る。徐州の牙卒を銀刀軍と曰い、頗る驕横なり。璋至り、其の悪しき者五百余人を誅す。是より軍中法を畏る。京兆尹として入朝し、法を持するに太だ深く、豪右一皆屛跡す。会に同昌公主薨ず。懿宗怒り、医官を殺す。其の家属宗枝獄に下る者三百人。璋上疏切諫し、以て刑法太だ深しと為す。帝怒り、璋を振州司馬に貶す。制出づ。璋嘆じて曰く、「生れて時に逢わず、死すること何ぞ惜しむに足らん」と。是の夜自縊して卒す。

原文璋以廕入仕,累佐使府,歴三郡刺史。咸通末,爲徐泗節度使,徐州牙卒曰銀刀軍,頗驕橫。璋至,誅其惡者五百餘人,自是軍中畏法。入爲京兆尹,持法太深,豪右一皆屛跡。會同昌公主薨,懿宗怒,殺醫官,其家屬宗枝下獄者三百人。璋上疎切諫,以爲刑法太深。帝怒,貶璋振州司馬。制出,璋嘆曰:「生不逢時,死何足惜?」是夜自縊而卒。

郭承嘏

原文郭承嘏

郭承嘏、字は復卿。曾祖は尚父汾陽王(郭子儀)。祖は晞、諸衞えい将軍。父は鈞。承嘏は生まれながらにして秀異、乳保の年、即ち筆硯を好む。成童に及び、能く『五経』を通ず。元和四年、礼部侍郎張弘靖其の才を知り、進士第に擢升す。累ね使幕に辟せらる。渭南尉を歴任す。朝に入り監察御史と為り、起居舎人に遷る。内艱に丁り、孝を以て聞こえ、喪終わりて、侍御史、職方・兵部二員外、兵部郎中と為る。太和六年、諫議大夫を拝す。頻りに上疏し、時政の得失を言う。文宗、鄭註を太僕卿と為さんとす。承嘏論諫激切、註甚だ之を懼る。本官にて匭院事を知る。九年、給事中に転ず。

原文郭承嘏,字復卿。曾祖尚父汾陽王。祖晞,諸衞將軍。父鈞。承嘏生而秀異,乳保之年,即好筆硯。比及成童,能通《五經》。元和四年,禮部侍郎張弘靖知其才,擢升進士第,累辟使幕。歴渭南尉。入朝爲監察御史,遷起居舍人。丁内艱,以孝聞,終喪,爲侍御史,職方、兵部二員外,兵部郎中。太和六年,拜諫議大夫。頻上疎,言時政得失。文宗以鄭註爲太仆卿,承嘏論諫激切,註甚懼之。本官知匭院事。九年,轉給事中。

開成元年、華州刺史・兼御史中丞として出づ。詔下る。両省相次いで中書に詣り、承嘏の出麾の由を求む。給事中盧載詔書を封還し、奏して曰く、「承嘏此の官に居るより、継ぎて封駁有り、能く其の職を奉ず。宜しく瑣闥に在るべし。牧守の才は、推択し易し」と。文宗、宰臣に謂いて曰く、「承嘏久しく黄扉に在り、其の祿俸を優にせんと欲し、暫く廉問を令して近関にせしむ。而るに諫列章を拝し、其の称職を惜しむは、甚だ美事なり」と。乃ち復た給事中と為す。

原文開成元年,出爲華州刺史、兼御史中丞。詔下,兩省叠詣中書,求承嘏出麾之由。給事中盧載封還詔書,奏曰:「承嘏自居此官,繼有封駁,能奉其職,宜在瑣闥。牧守之才,易爲推擇。」文宗謂宰臣曰:「承嘏久在黃扉,欲優其祿俸,暫令廉問近關。而諫列拜章,惜其稱職,甚美事也。」乃復爲給事中。

文宗、淮南諸道累歳大旱、租賦登らず、国用多闕なるを以て、是に及び、度支・戸部分けて宰臣を命じて之を鎮めしむ。承嘏之を論じて曰く、「宰相なる者は、上は陰陽を調え、下は黎庶を安んじ、君を堯・舜に致し、時を清平に致す。之をして簿書を閲し、緡帛を算せしむるは、宜しき所に非ず」と。帝深く之を嘉し、刑部侍郎に遷す。時に朔望に因り、以て刑法官対を得。文宗従容として顧問したまい、恩礼甚だ厚し。未だ大用せられざるに、二年二月に卒す。承嘏身歿の後、家に余財無く、喪祭の費は、皆な親友共に給して而して後具う。搢紳の流、痛惜せざる無し。吏部尚書を贈る。

原文文宗以淮南諸道累歳大旱,租賦不登,國用多闕。及是,以度支、戸部分命宰臣鎭之。承嘏論之曰:「宰相者,上調陰陽,下安黎庶,致君堯、舜,致時淸平。俾之閲簿書,算緡帛,非所宜也。」帝深嘉之,遷刑部侍郎。時因朔望,以刑法官得對,文宗從容顧問,恩禮甚厚。未及大用,以二年二月卒。承嘏身歿之後,家無餘財,喪祭所費,皆親友共給而後具。搢紳之流,無不痛惜。贈吏部尚書。

殷侑

原文殷侑

殷侑は陳郡の人。父は懌。侑は児童の時、志を励まし力学し、家人の資産を問わず。長ずるに及び、経を通じ、講習を以て自ら娯しむ。貞元末、『五経』を以て第に登り、歴代の沿革礼に精し。元和中、累ね太常博士と為る。時に回紇和親を請う。朝廷費を計るに五百万緡。朝廷方に兵を用いて叛を伐ち、費用百端、其の期を緩めんと欲す。乃ち宗正少卿李孝誠を命じて使と為し宣諭せしめ、侑を以て副と為す。侑は謹重にして節概有り、事に臨みて俊弁なり。既に虜庭に至る。可汗初め漢使を待つに、兵甲を盛んに陳べ、漢使を臣と為さんと欲して拝答せず。侑堅く立ちて動かず。宣諭畢りて、可汗其の倨なるを責め、宣言して留めて遣わさんと欲す。行く者皆な懼る。侑、虜使に謂いて曰く、「可汗は漢家の子婿なり。坐して使臣の拝を受けんと欲するは、是れ可汗の失礼にして、使臣の倨に非ざるなり」と。可汗其の言を憚り、卒に敢えて逼らず。使い還りて、虞部員外郎を拝す。王承宗命に拒む。侑を遣わして命を銜みて之を招諭せしむ。承宗尋いで朝旨に稟り、徳・棣二州を献じ、二子を遣わして朝に入らしむ。侑を諫議大夫に遷す。凡そ朝廷の得失、悉く以て陳論す。前後八十四章を上る。言の激切なるを以て、桂管観察使として出づ。

原文殷侑,陳郡人。父懌。侑爲兒童時,勵志力學,不問家人資産。及長,通經,以講習自娯。貞元末,以《五經》登第,精於歴代沿革禮。元和中,累爲太常博士。時回紇請和親,朝廷計費五百萬緡。朝廷方用兵伐叛,費用百端,欲緩其期。乃命宗正少卿李孝誠奉使宣諭,以侑爲副。侑謹重有節概,臨事俊辯。既至虜庭,可汗初待漢使,盛陳兵甲,欲臣漢使而不答拜。侑堅立不動,宣諭畢,可汗責其倨,宣言欲留而不遣。行者皆懼,侑謂虜使曰:「可汗是漢家子婿,欲坐受使臣拜,是可汗失禮,非使臣之倨也。」可汗憚其言,卒不敢逼。使還,拜虞部員外郎。王承宗拒命,遣侑銜命招諭之。承宗尋稟朝旨,獻德、棣二州,遣二子入朝。遷侑諫議大夫。凡朝廷之得失,悉以陳論。前後上八十四章,以言激切,出爲桂管觀察使。

宝暦元年、検校右散騎常侍・洪州刺史となり、江西観察使に転じた。赴任先では清廉潔白で知られた。入朝して衛尉卿となった。文宗が即位したばかりの時、滄州の李同捷が叛き、王廷湊がこれを助けたため、鎮州に兵を加えようと、五品以上の官を都省に集めて議させた。当時、上は賊を討つことに意気込み、宰相たちは異議を唱える者もなかった。ただ殷侑のみが、廷湊が河朔を再び乱し、招き懐柔しようとしている時であり、凶徒に与しているとはいえ、まだ甚だしく露見していないので、しばらくは包容し、専ら同捷を討つべきだと論じた。その上疏の末尾に、「伏して願わくは宗廟社稷の安危を大計とし、善く師を以て攻心を神武とし、垢を含みて人を安んずるを遠図とし、網漏れて舟を呑むを至誡とせられんことを」と記した。文宗は採用しなかったが、深くこれを嘉した。

原文寶暦元年,檢校右散騎常侍、洪州刺史,轉江西觀察使。所至以潔廉著稱。入爲衞尉卿。文宗初即位,滄州李同捷叛,而王廷湊助逆,欲加兵鎭州,詔五品已上都省集議。時上鋭於破賊,宰臣莫敢異議。獨侑以廷湊再亂河朔,方徇招懷,雖附兇徒,未甚彰露,宜且含容,專討同捷。其疎末云:「伏願以宗社安危爲大計,以善師攻心爲神武,以含垢安人爲遠圖,以網漏呑舟爲至誡。」文宗雖不納,深所嘉之。

滄景が平定されると、殷侑がかつて滄州行軍司馬であったことから、太和四年、検校工部尚書・滄斉徳観察使を加えられた。当時は大戦の後で、見渡す限り荊棘が生い茂り、遺骸が野を覆い、人煙は絶えていた。殷侑は妻子を連れて赴任せず、着任した時は空城であった。殷侑は苦労を厭わず粗食に甘んじ、士卒と労苦を共にした。一年後には、流民が子供を背負って帰還した。殷侑は上表して耕牛三万頭を借り受け、流民に与えるよう請い、詔により度支から綾絹五万匹を賜り、牛を買って与えた。数年後には、戸口が増え豊かになり、倉庫は満ちあふれ、人々は亡命の苦しみを忘れた。当初、州兵三万の糧秣は全て度支から支給されていた。殷侑は一年で賦税収入の半分を自給し、二年で全ての費用を賄えるようになり、度支からの給与支給の停止を請うた。そして多方面に勧農・徴税を行い、民も吏も共に喜び、上表して徳政碑の建立を請うた。功により検校吏部尚書を加えられた。殷侑は、郭下の清池県が子城の北にあるのは不便であるとして、南郭の内に移すことを奏上した。

原文滄景平,以侑嘗爲滄州行軍司馬。太和四年,加檢校工部尚書、滄齊德觀察使。時大兵之後,滿目荊榛,遺骸蔽野,寂無人煙。侑不以妻子之官,始至,空城而已。侑攻苦食淡,與士卒同勞苦。周歳之後,流民繈負而歸。侑上表請借耕牛三萬,以給流民,乃詔度支賜綾絹五萬匹,買牛以給之。數年之後,戸口滋饒,倉稟盈積,人皆忘亡。初州兵三萬,悉取給於度支。侑一歳而賦入自贍其半,二歳而給用悉周,請罷度支給賜。而勸課多方,民吏胥悅,上表請立德政碑。以功加檢校吏部尚書。侑以郭下淸池縣在子城北,非便,奏移於南郭之内。

六年、入朝して刑部尚書となり、まもなく再び検校吏部尚書・鄆州刺史・兼御史大夫となり、天平軍節度使・鄆曹濮観察等使を充てた。元和末年以来、李師道の十二州を収復して三鎮とした。朝廷は反逆者の懐柔に努め、徴収した賦税は全て軍の糧秣に充て、一貫の銭、一尺の布も王府に入らなかった。殷侑は、軍賦に余裕がありながら賦税を上供しないのは法に反すると考え、太和七年から、毎年両税・酒専売などの銭十五万貫、粟五万石を供出することを上表して請うた。詔に曰く、「鄆・曹・濮等州は、元和以来、元々殷富の地であったが、三道に分かれてから十五年以上、詔書を頒布したにもかかわらず、ついに賦税を納めなかった。殷侑は兵乱の後、凶作旱魃の余波の中で、勤勉に公務に奉じ、謹んで身を律し法を守った。わずか一年で、すでに繁栄安定をもたらした。しかも国を思い忠誠を尽くし、率先して貢納し、三軍の上に奉ずる志を成し遂げ、一境の喜んで納める心を表明した。まもなく上表したことを、まことに嘉嘆に値する」と。まもなく検校右僕射を加えられた。

原文六年,入爲刑部尚書,尋復檢校吏部尚書、鄆州刺史、兼御史大夫,充天平軍節度、鄆曹濮觀察等使。自元和末,收復師道十二州爲三鎭。朝廷務安反側,征賦所入,盡留贍軍,貫緡尺帛,不入王府。侑以軍賦有餘,賦不上供,非法也,乃上表起太和七年,請歳供兩稅、榷酒等錢十五萬貫、粟五萬碩。詔曰:「鄆、曹、濮等州,元和已來,地本殷實,自分三道,十五餘年,雖頒詔書,竟未入賦。殷侑承兵戈之後,當歉旱之餘,勤力奉公,謹身守法。才及周歳,已致阜安。而又體國輸忠,率先入貢,成三軍奉上之志,陳一境樂輸之心。尋有表章,良用嘉嘆!」尋就加檢校右僕射。

九年、御史大夫温造が、殷侑が制旨によらずに監軍の俸給を増やし、民に賦斂したことを弾劾した。上は問わず、庾承宣を代わりに任じて召還した。

原文九年,御史大夫温造劾侑不由制旨,增監軍俸入,賦斂於人。上不問,以庾承宣代還。

その年、濮州録事参軍崔元武が、五県の人吏から徴収し、及び県官の俸料銭を、私馬を高く評価させて官に納めさせ、絹百二十匹に相当した。大理寺は、三つの罪が同時に発覚した場合は重い方で論ずると判断し、ただ私馬を不正に高く評価した罪を重いとして、三任の官を削るのみとした。しかし刑部が覆奏し、杖刑を加えて流刑に処するよう命じた。判決は確定していなかった。殷侑が上奏して言うには、「法官は法律に通じておらず、三犯が異なる場合、その重い罪に坐する。元武の犯した罪は、いずれも枉法によって財物を受け取ったものであり、律に照らせば、枉法十五匹以上は絞刑である。《律疏》に云う、すなわち贓物によって罪を得た場合、頻繁に犯した者は累計して科断する、と。元武の犯した罪に基づけば、今や絞刑に処すべきである」と。上疏が奏上されると、元武は刑部の奏請に従い、六十回の杖刑を加えられ、賀州に流された。そこで殷侑を刑部尚書に任じた。八月、検校右僕射となり、再び天平軍節度使となった。上は温造の奏上した深文(厳しい解釈)のためである。

原文其年,濮州録事參軍崔元武,於五縣人吏率斂,及縣官料錢,以私馬擡估納官,計絹一百二十匹。大理寺斷三犯倶發,以重者論。只以中私馬爲重,止令削三任官。而刑部覆奏,令決杖配流。獄未決。侑奏曰:「法官不習法律,三犯不同,即坐其所重。元武所犯,皆枉法取受,準律,枉法十五匹已上絞。《律疎》云:即以贓致罪,頻犯者並累科。據元武所犯,令當入處絞刑。」疎奏,元武依刑部奏,決六十,流賀州。乃授侑刑部尚書。八月,檢校右僕射,復爲天平軍節度使。上以温造所奏深文故也。

開成元年、再び召されて刑部尚書となった。当時は李訓の乱が終わったばかりで、上は殷侑に治安の術を問うた。殷侑は、任せて責めること、朝廷の老徳を重用すべきこと、新進の小生を軽々しく用いるべきではないことを極言した。帝は深くこれを嘉し、錦彩三百匹を賜った。及び、中謝(拝謝)の時、また中使をその邸に遣わして金十斤を賜った。その年七月、検校左僕射となり、出向して襄州刺史・山南東道節度使となった。

原文開成元年,復召爲刑部尚書。時初經李訓之亂,上問侑治安之術。侑極言委任責成,宜在朝之耆德,新進小生,無宜輕用。帝深嘉之,賜錦彩三百匹。及中謝,又令中使就第賜金十斤。其年七月,檢校左僕射,出爲襄州刺史、山南東道節度使。

二年三月、病気を理由に代わりを求め、太子賓客として東都に分司された。十一月、再び検校右僕射となり、出向して忠武節度使・陳許蔡観察等使となった。三年七月、任地で卒去した。時に七十二歳。司空しくうを追贈された。

原文二年三月,以病求代,以太子賓客分司東都。十一月,復檢校右僕射,出爲忠武節度、陳許蔡觀察等使。三年七月,卒於鎭,時年七十二,贈司空。

殷侑は経書に通じて仕官し、風俗を観察し撫でること、赴任先では名声があった。しかし晩年は大用されることを急ぎ、やや権幸と通じ、世間の評価は以前より減じた。子に殷羽。

原文侑以通經入仕,觀風撫俗,所蒞有聲。而晩年急於大用,稍通權幸,物望減於往時。子羽。

殷羽は太和五年に進士第に及第し、藩府から召し出されたが、顕官には至らなかった。子に殷盈孫。

原文羽太和五年登進士第,籓府辟召,不至通顯。子盈孫。

殷盈孫は、乾符末年に成都の属官となった。皇帝が西川におられた時、太常博士に任用され、礼学に祖父の風があった。光啓二年冬、皇帝に従って成都から還った。三年二月、鳳翔に駐蹕した。当時、宗廟が賊に焼かれ、車駕が長安に至っても、告享を行う場所がなかった。四月、盈孫が宰相らに言うには、「太廟十一室、及び祧廟八室、並びに三太后三室は、光啓元年十二月二十五日に車駕が宮中を出られた際、その縁室の法物神主は、当該官庁が運搬したが、鄠県で全て盗賊に奪われた。皇帝が還宮されるに当たり、先ずこれを造るべきである」と。宰相鄭延昌が奏上して言うには、「太廟大殿二十二間は、工事が非常に大きく、費用の見積もりも少なくない。また宗廟の制度は、増減が重大で難しい。今、元の見積もりに従って修造奉るべきか、あるいは別に協議すべきか、未だ審らかでない」と。勅命により礼院に下して詳議させた。

原文盈孫,乾符末爲成都掾。駕在西川,用爲太常博士,禮學有祖風。光啓二年冬,隨駕自成都還。三年二月,駐蹕鳳翔。時宗廟爲賊所焚,車駕至京,告享無所。四月,盈孫謂宰執曰:「太廟十一室,並祧廟八室,及三太后三室,因光啓元年十二月二十五日車駕出宮,其縁室法物神主,本司載行,至鄠縣並被盜剽奪。皇帝還宮,合先制造。」宰相鄭延昌奏曰:「太廟大殿二十二間,功績至大,計料支費不少;兼宗廟制度,損益重難,今未審依元料修奉,爲復別有商量。」敕付禮院詳議。

当時、博士は四人おり、杜用勵は利州に、崔澄は河中に、封舜卿は巴南にいた。ただ殷盈孫のみが意見を献じて言うには、「太廟の制度は、歴代参酌され、皆典籍に符合しており、増減を議するのは難しい。謹んで旧制を按ずるに、十一室、二十三間、十一架である。垣墉の広狭の度合い、堂室の深浅の規格、階陛の等級の差、棟宇の高低の法則は、前古において奢っても侈らず、倹しても越えられないと謂われたものである。今、朝廷の国庫が空虚で、費用がやや広がっているため、礼を変通し、便宜に従うことを務めねばならず、固より前聖の規模を易え、大朝の制度を狭めることはできない。典実に拠り、別に参酌すべきである。謹んで至徳二年を按ずるに、太廟が修理中であったため、新たに神主を作り、長安殿に安置し、便りに饗告の礼を行い、宗廟の儀と同様にし、廟の完成を待って、遷祔した。当時の議論には、是非はなかった。窃かに知るに、今の京城には大内の正衙の他に、別の殿宇はない。伏して聞くに、先に詔旨があり、少府監の大廳を暫定的に太廟に充てるとのことである。伏して考えるに、十一室を五間の中に陳列するのは狭隘である。伏して請う、廳の両端を接続して十一室とし、饗薦を行うこと。三太后廟は、監内の西南に、別に屋宇三間を取り、暫定的に廟室に充てること。太廟の修造奉仕が完了した日を待って、別に遷祔を議すること」と。勅旨はこの奏上に従った。その神主・法物・楽懸は、全て盈孫が奏上して改めて修造させ、礼を知る者は博識洽聞と称した。

原文時博士四人,杜用勵在利州,崔澄在河中,封舜卿在巴南。獨盈孫獻議曰:「太廟制度。歴代參詳,皆符典經,難議損益。謹按舊制,十一室,二十三間,十一架。垣墉廣袤之度,堂室淺深之規,階陛等級之差,棟宇崇低之則,前古所謂奢不能侈,儉不能逾者也。今以朝廷帑藏方虚,費用稍廣,須資變禮,將務從宜,固不可易前聖之規模,狹大朝之制度,當憑典實,別有參詳。謹按至德二年,以太廟方修,新作神主,於長安殿安置,便行饗告之禮,如同宗廟之儀,以俟廟成,方爲遷祔。當時議論,無所是非。竊知今者京城除大内正衙外,別無殿宇。伏聞先有詔旨,且以少府監大廳權充太廟。伏縁十一室於五間之中,陳設隘狹,伏請接續廳之兩頭,成十一室,薦饗之。三太后廟,即於監内西南,別取屋宇三間,且充廟室。候太廟修奉畢日,別議遷祔。」敕旨依奏。其神主、法物、樂懸,皆盈孫奏重修制,知禮者稱爲博洽。

龍紀元年十一月、昭宗は圜丘で郊祀を行った。両中尉楊復恭及び両枢密は、皆朝服を着用するよう請うた。盈孫が上疏して言うには、「臣が先日斎宮に赴いたところ、中尉・枢密の内臣が皆朝服を着用していた。臣が前代及び国朝の典令を尋ねたが、内官の朝服制度はない。伏して考えるに、皇帝陛下は天を承け暦を御し、聖なる皇統を中興され、宗廟を敬い見て、大礼をよく陳べることは、皆高祖こうそ・太宗の成制を稟け、必ず虞・夏・商・周の旧経に従うものである。軒冕と服章は、彝憲に従って式とする。もし内官が朝服を着ようとするなら、その守る官の本品の服に依るよう命じるべきである。事は根拠がないが、粗くこれを行うことはできる。臣は礼司に忝くし、合わせて陳奏すべきである。」と。当時、中貴は皆宰相大臣の朝服のようであったので、盈孫がこれを論じた。帝は従わなかったが、その守るところを嘉した。秘書少監に転じ、卒した。

原文龍紀元年十一月,昭宗郊祀圓丘。兩中尉楊復恭及兩樞密,皆請朝服。盈孫上疎曰:「臣昨赴齋宮,見中尉、樞密内臣,皆具朝服。臣尋前代及國朝典令,無内官朝服制度。伏以皇帝陛下,承天御暦,聖祚中興,祗見宗祧,克陳大禮,皆稟髙祖、太宗之成制,必循虞、夏、商、周之舊經。軒冕服章,式遵彜憲。若内官要衣朝服,令依所守官本品之服。事雖無據,粗可行之。臣忝禮司,合具陳奏。」時中貴皆如宰相大臣朝服,故盈孫論之。帝雖不從,嘉其所守。轉秘書少監,卒。

徐晦

原文徐晦

徐晦は、進士に擢第し、直言極諫の制科に登り、櫟陽尉に授けられたが、皆楊憑の推薦によるものであった。楊憑が罪を得て臨賀尉に貶された時、交親で敢えて送別する者はなかった。ただ徐晦だけが藍田まで送り、楊憑と別れを言った。当時、故相の権徳輿は楊憑と交分が最も深く、徐晦の行いを知り、徐晦に言った。「今日、臨賀(楊憑)を見送ることは、誠に厚いことではあるが、累となるのではないか。」徐晦は言った。「晦は布衣の身から楊公の眷顧を受けました。今、彼が流播する時に、どうして無言で別れを忍べましょうか。もし他日、相公が奸邪に譖られて外で失意されることがあれば、晦はどうして相公と軽々しく別れられましょうか。」徳輿はその真摯な誠意を嘉し、朝廷で大いに称えた。数日も経たないうちに、御史中丞李夷簡が監察に請うた。徐晦は李夷簡に申し出て言った。「生まれてこの方、公門を踏んだことがありません。公は何を取って信じ、私を奨励抜擢されるのですか。」夷簡は言った。「君が楊臨賀を見送り、難を犯すことを顧みなかったと聞く。どうして国に背くことがあろうか。」これによって名を知られた。殿中侍御史・尚書郎を歴任し、出て晋州刺史となった。入って中書舎人を拝した。宝暦元年、出て福建観察使となった。二年、入って工部侍郎となり、出て同州刺史・兼御史中丞となった。太和四年、兵部侍郎に征拝された。五年、太子賓客となり、東都に分司した。徐晦の性格は強直で、世態に従わず、官に当たっては正を守った。ただ酒を嗜むことが甚だしく、晚年に目を喪い、ついに沈んで廃された。礼部尚書をもって致仕した。開成三年三月に卒し、兵部尚書を贈られた。

原文徐晦,進士擢第,登直言極諫制科,授櫟陽尉,皆自楊憑所薦。及憑得罪,貶臨賀尉,交親無敢祖送者;獨晦送至藍田,與憑言別。時故相權德輿與憑交分最深,知晦之行,因謂晦曰:「今日送臨賀,誠爲厚矣,無乃爲累乎!」晦曰:「晦自布衣受楊公之眷,方茲流播,爭忍無言而別?如他日相公爲奸邪所譖,失意於外,晦安得與相公輕別?」德輿嘉其眞懇,大稱之於朝。不數日,御史中丞李夷簡請爲監察,晦白夷簡曰:「生平不踐公門,公何取信而見獎拔?」夷簡曰:「聞君送楊臨賀,不顧犯難,肯負國乎?」由是知名。歴殿中侍御史、尚書郎,出爲晉州刺史。入拜中書舍人。寶暦元年,出爲福建觀察使。二年,入爲工部侍郎,出爲同州刺史、兼御史中丞。太和四年,征拜兵部侍郎。五年,爲太子賓客,分司東都。晦性強直,不隨世態,當官守正。唯嗜酒太過,晩年喪明,乃至沈廢。以禮部尚書致仕。開成三年三月卒,贈兵部尚書。

史臣曰

原文史臣曰

史臣曰く、温・柳の二公は、文行をもって身を飾り、名節を砥礪し、官に当たって法を守り、侃侃として大臣の節有り。しかるに竟に三事に登らず、位は正卿に止まった。これによって公輔の量は、和を以て貴しとすること知るべし。漢武帝は汲黯を畏れて孫弘を相とし、太宗は魏徴を重んじて玄齢に委ねた。その旨は遠い。韋・崔は名士であり、賢を薦めて主に致し、古風に豊かであった。殷司空は民を治め、これこそ循吏であり、忠規壮節は晩年に至るまで衰えなかった。徐・郭の讜言は、佳士として盛んである。数君の如きは、実に人を令するものである。

原文史臣曰:温、柳二公,以文行飾躬,砥礪名節,當官守法,侃侃有大臣之節,而竟不登三事,位止正卿。所以知公輔之量,以和爲貴。漢武帝畏汲黯而相孫弘,太宗重魏徴而委玄齡,其旨遠也。韋、崔名士,薦賢致主,綽有古風。殷司空治民,斯爲循吏,而忠規壯節,至晩不衰。徐、郭讜言,郁爲佳士。如數君者,實爲令人。

贊

原文贊

贊して曰く、柳氏の礼法、公忠の節概。搏撃は優れているが、弥綸は則ち隘である。夏卿は奨励抜擢し、晦叔は匡め将う。徐・郭の議は、金玉鏘鏘たり。

原文贊曰:柳氏禮法,公忠節概。搏撃爲優,彌綸則隘。夏卿獎拔,晦叔匡將。徐、郭之議,金玉鏘鏘。