旧唐書
巻一百六十五、列傳第一百十五、韋夏卿、王正雅、柳公綽、崔玄亮、温造、郭承嘏、殷侑、徐晦
韋夏卿
韋夏卿、字は雲客、杜陵の人である。父の迢は、検校都官郎中・嶺南節度行軍司馬であった。夏卿は苦学し、大暦年間に弟の正卿とともに制挙に応じ、同時に策問で高等に入り、高陵主簿に任じられた。累遷して刑部員外郎となった。時に長く旱魃と蝗害があり、詔によって郎官の中から赤畿の令を選ぶこととなり、奉天県令に改められた。課績が第一となったため、長安令に転じた。吏部員外郎に改め、本司の郎中に転じ、給事中に拝された。出て常州刺史となった。夏卿は儒術に深く通じ、赴任先では通経の士を招き礼遇した。時に処士の竇群が郡内に寓居していたが、夏卿はその著した史論をもって朝廷に推薦し、遂に門人となった。蘇州刺史に改められた。貞元の末、徐州の張建封が卒すると、初め夏卿を徐州行軍司馬に任じ、まもなく徐泗濠節度使に任じた。夏卿が未だ到らぬうちに、建封の子の愔が軍人に擁立されて留後となり、これに旌節を授けた。夏卿を召し出して吏部侍郎とし、京兆尹・太子賓客に転じ、検校工部尚書・東都留守を経て、太子少保に遷った。卒した時、年六十四、左僕射を贈られた。
夏卿は風韻があり、談宴をよくし、人と共に居ても、一年を通じて喜びや怒りの色を顔に表さなかった。孤児となった甥を養育し、恩情は実子を超え、早くから時人の称賛があった。その招いて賓佐とした者たちは、皆一時の名士であった。政務を行うに当たっては通達と適宜を旨とし、改作を好まなかった。初め東都に在った時、心を傾けて士を招聘し、多くの才彦を得たが、その後多くが卿相に至り、世間は人を知る者と評した。
王正雅
王正雅、字は光謙、その先祖は太原尹・東都留守の翃の子である。伯父の翊は、代宗朝の御史大夫で、貞亮鯁直をもって当世に名を知られ、卒して忠惠と謚された。正雅は若い時、孝行と行いの謹直で知られた。元和の初め、進士に挙げられ、甲科に登第し、礼部侍郎の崔邠は大いにこれを認め、累次にわたり使府の職に従った。元和十一年、監察御史に拝され、三遷して萬年県令となった。
穆宗の時、京邑は治め難いと称されたが、正雅は強きを抑え弱きを扶け、政績に大いに名声があった。時に柳公綽が京兆尹となり、上前で褒め称えたので、穆宗は緋衣と銀章を命じ、県に赴いて宣賜させた。戸部郎中に遷り、まもなく知臺雑事を加えられ、再遷して太常少卿となり、出て汝州刺史となり、本州防禦使を兼ねた。宦官が監軍としており、権勢を頼んで政事に干渉したため、正雅は耐えられず、病を理由に辞して免じられた。
入朝して大理卿となった。時に宋申錫の事件が起こり、獄は内廷より出たが、ついに証拠はなかった。この時、王守澄の威権、鄭注の寵勢は、宰相や重臣といえども、敢えてその事を明言する者はなかった。ただ正雅と京兆尹の崔綰が上疏し、事件を起こした者を出して、外廷でその事を考証させ、別に状を具えて奏聞するよう請うた。これによって獄情はやや緩み、申錫は貶官に止まり、朝廷内外はこぞってこれを推重した。太和五年十一月に卒し、左散騎常侍を贈られた。
正雅の従弟、重
正雅の従弟の重は、翊の子であり、官位は河東令に止まった。重の子の衆仲は進士第に登り、累官して衡州刺史となった。衆仲の子は凝である。
重の孫、凝
凝、字は致平、幼くして孤となり、宰相鄭肅の甥であり、幼少期は舅の家に寄寓した。十五歳で二つの経書により擢第した。かつて『京城六崗銘』を著し、文士に称賛された。再び進士の甲科に登第した。崔璪が塩鉄使を領すると、巡官に辟召した。梓潼・宣歙の使幕に歴任して佐官となった。宰相の崔龜從が奏して鄠県尉・集賢校理とし、監察御史に遷り、殿中侍御史に転じた。宰相の崔鉉が出て揚州を鎮守する時、奏して節度副使とした。入朝して起居郎となり、礼部・兵部・考功の三員外郎を歴任した。司封郎中・長安令に遷った。中丞の鄭處誨が奏して知臺雑事とし、考功郎中に換え、中書舍人に遷った。時政に協せず、出て同州刺史となり、金紫を賜った。晚年、病を理由に華州の敷水別墅に移った。一年余り後、礼部侍郎として召された。
凝の性質は堅正であり、貢挙の場で士を取るに、寒俊を抜擢し、権豪の請託を行わなかったため、その者らの怒りを買い、出て商州刺史となった。翌年、検校右散騎常侍・潭州刺史・湖南團練觀察使となった。入朝して兵部侍郎となり、塩鉄転運使を領した。またも権幸に奉じなかったため、秘書監に改められた。出て河南尹・検校礼部尚書・宣州刺史・宣歙觀察使となった。凝は咸通年間に二度宣城の使幕を佐け、人の利病を詳らかに究め、積弊を除き、民俗は豊かで安らかであった。
一年余り後、黄巣が嶺表より北帰し、大いに淮南を掠め、和州を攻囲した。凝は牙将の樊儔に命じて師を率いさせ采石を占拠してこれを救援させた。儔が命令に背いたので、凝は直ちにこれを斬って示し、別将の烏穎に代わって儔を救援に赴かせ、ついに歴陽の包囲を解かせた。賊は怒り、衆を率いて宣城を攻めた。大将の王涓が軍を出して迎撃することを請うたが、凝は言った、「賊は憤って来るのだから、持重してこれを待つべきである。彼は衆で我は寡である、万一勝利しなければ、州城が危うい」。涓は鋭意出戦を請い、凝は直ちに丁壮を閲集し、要害を分かち守り、城壁に登って設備を整えた。涓は果たして戦死した。賊が勝ちに乗じて来た時には、守りに備えがあった。賊は梯や衝車の具を造り、数ヶ月急攻したが、防禦の力は尽き、吏民が請うて言った、「賊の兇勢は当たるべからず、願わくは尚書が帰順してこれを退けられよ、尚書の家族が覆されることを恐れます」。凝は言った、「人には皆一族がある、私だけがどうして全うできようか?この城と存亡を共にすることを誓う」。やがて賊は退去した、時に乾符五年であった。その年の夏、病が重くなり、大きな星が正寝に墜ちた。八月に郡で卒した、時に年五十八。子がなく、弟の子の鑣を嗣とした。鑣の兄の鉅は、官位は兵部侍郎に終わった。
柳公綽
柳公綽、字は起之、京兆華原の人である。祖父は正禮、邠州士曹参軍。父は子温、丹州刺史。公綽は幼くして聡敏であった。十八歳の時、制挙に応じ、賢良方正・直言極諫科に登第し、秘書省校書郎に任ぜられた。貞元元年のことである。貞元四年、再び制挙に応じ、賢良方正科に再び登第した。時に二十一歳。制が出て、渭南尉に任ぜられた。
公綽は性質謹厳重厚で、行動は礼法に従った。凶年に当たり、その家は給与はあったが、毎食一器を超えなかった。豊年になると元に戻した。家は甚だ貧しく、書物千巻を有し、聖人の書でないものは読まなかった。文章を為すに浮華を尚ばなかった。慈隰観察使姚齊梧が判官に奏挙し、殿中侍御史を得た。冬、推薦されて開州刺史に任ぜられ、入朝して侍御史となり、再び吏部員外郎に遷った。武元衡が宰相を罷めて西蜀に鎮した時、裴度と共に元衡の判官となり、特に親善であった。先に度が入朝して吏部郎中となった時、度は詩を以て餞別し、「兩人同日事征西、今日君先捧紫泥」の句があった。
元和の初め、憲宗はしばしば遊猟に出、鋭意兵を用いようとした。公綽は事に因って諷諫しようとした。五年十一月、『太醫箴』一篇を献じ、その文は次の通りである。
天は寒暑を布くも、人に私せず。品類既に一ならば、崇高も以て均し。謹みて好愛を慎めば、能く其の身を保つ。清浄にして瑕無くば、輝光以て新たなり。寒暑は天地の間に満ち、肌膚を外に浹し、好愛は耳目の前に溢れ、心知を内に誘う。清潔を堤と為せども、奔射猶お敗る。気行に章無くば、隙大ならずと雖も。睿聖の姿、清明俗を絶ち、心正しく邪無く、志高く欲寡し。天高しと謂えども、気之を蒙晦し、地厚しと謂えども、横流之を潰す。聖徳超邁、万方之に頼る。飲食は身を資する所以なれど、過ぐれば則ち患を生じ、衣服は徳に称する所以なれど、侈らば則ち慢を生ず。唯だ過と侈と、心必ず之に随い、気と心と流れ、疾亦之を伺う。聖心惑わずんば、孰か能く之を移さん。畋遊恣に楽しみ、情を流し志を蕩し、馳騁形を労し、咤叱気を傷つく。唯だ天の重きを思い、禽に従うを累と為す。其の外を養わざるは、前修の忌む所。聖心之を非とせば、孰か敢えて之に違わん。人は気に乗じて生じ、嗜欲以て萌し、気離るれば患有り、気凝れば則ち成る。巧は必ず真を喪い、智は必ず情を誘う。彼の煩慮を去り、此の誠明に在れ。医の上なる者は、未然に於いて理め、患は慮の後に居り、防は事の先に処る。心静かにして楽行い、体和して道全うし、然る後に能く徳を万物に施し、以て億年を享く。聖人上に在りて、各々攸く処る所有り。庶政官有り、群芸署有り。臣太醫を司り、敢えて諸禦に告ぐ。
憲宗は深く之を嘉した。翌日、中使を降して之を労い、曰く、「卿の献ずる所の文に云う、『気行に間無く、隙大ならずと雖も』と。何ぞ朕を憂うることの深きや」と。一ヶ月を過ぎて、御史中丞に拝した。
公綽は素より裴垍と厚く、李吉甫が淮南に出鎮した時、垍を深く怨んだ。六年、吉甫が再び政を輔けるに及び、公綽を以て潭州刺史・兼御史中丞と為し、湖南観察使を充てた。湖南の地気は卑湿で、公綽は母が京師に在るを以て、迎え奉ることが出来ず、宰相に書を致し、洛陽に分司を乞い、以て奉養に便ならしめようとしたが、久しく許されなかった。八年、鄂州刺史・鄂岳観察使に移され、乃ち母を江夏に迎えた。
九年、呉元済が蔡州に拠り叛き、王師討伐す。詔して公綽に鄂岳の兵五千を以て安州刺史李聴に隷せしめ、率いて行営に赴かしむ。公綽曰く、「朝廷は吾を儒生として兵を知らざると思わんや」と。即日上奏し、自ら征行するを願い、許された。公綽は鄂より湘江を渡り、直ちに安州に抵る。李聴は廉使の礼を以て之に事えた。公綽之に謂いて曰く、「公の鞬を属け弩を負う所以は、豈に兵事の為に非ざらんや。若し戎容を去りて公服を被らば、両郡の守たるのみ。何をか統摂せん。公を名家として兵に暁るを以てす。若し吾指麾に足らざれば、則ち当に闕に赴くべし。然らずんば、吾且く職名を署し、兵法を以て事に従わん」と。聴曰く、「唯だ公の命に従う」と。即ち聴を署して鄂岳都知兵馬使・中軍先鋒・行営兵馬都虞候と為し、三牒を以て之を授けた。乃ち卒六千を選び聴に属し、其の部校に戒めて曰く、「行営の事は、一に都将に決す」と。聴は恩を感し威を畏れ、麾下に出づるが如し。其の権制変を知るは、甚だ当時に称せられた。鄂軍既に行営に在り、公綽は時に左右をして其の家を省問せしむ。疾病・養生・送死の如きは、必ず厚く廩給した。軍士の妻で治容謹まざる者は、之を江に沈めた。行卒相感じて曰く、「中丞我輩の為に家事を知る。何を以てか報効せん」と。故に鄂人は戦う毎に克捷した。
十一年、入朝して給事中となる。李師道が朝に帰するに及び、公綽を遣わして鄆州に宣諭せしむ。使い還りて、京兆尹に拝し、母憂に因り免ぜられる。
十四年、起用されて刑部侍郎となり、塩鉄転運使を領す。兵部侍郎に転じ、兼御史大夫、使を領すること旧の如し。長慶元年、使を罷め、復た京兆尹・兼御史大夫となる。
時に河朔復た叛き、朝廷兵を用い、行営諸将を補授するに、朝令夕改し、驛騎相望んだ。公綽奏して曰く、「幽・鎮の兵を用うるより以来、使命繁併し、館遞匱乏し、鞍馬多く闕く。又勅使の行李人数、都に限約無し。其の緋紫を衣て馬に乗ずる者は、二十、三十匹、黄緑を衣る者は、十匹、五匹に下らず。驛吏券牒を視ること得ず、口に随いて即ち供す。驛馬既に尽き、遂に路人の鞍馬を奪う。衣冠士庶、驚擾怨嗟し、遠近喧騰し、行李将に絶たんとす。伏して望む、聖慈聊か定限を為さんことを」と。乃ち中書に下して人数を条疏せしむ。是より吏労を告げず。言直きを以て北司に悪まれ、尋いで吏部侍郎に転ず。
二年九月、御史大夫に遷る。韓弘病み、河中より入朝す。弘を以て司徒・中書令を守らしめ、詔して百僚に疾を問わしむ。弘其の子を遣わして情を達せしめ、接見能わずと言う。公綽其の子に謂いて曰く、「聖上公の官重きを以て、百司をして省問せしむ。異礼なり。君賜を拝するが如くは、宜しく力疾して公に見ゆべし。安んぞ臥して子弟に伝言せしめんや」と。弘懼れ、挟扶して出で、人皆聳然たり。
三年、尚書左丞に改め、又検校戸部尚書・襄州刺史・山南東道節度使に拝す。部を行きて鄧県に至る。県の二吏法を犯す。一は贓賄、一は文を舞う。県令は公綽の法を守るを以て、必ず贓吏を殺すべしとす。獄具わりて、之を判じて曰く、「贓吏法を犯せば、法在り。奸吏法を壊せば、法亡ぶ。文を舞う者を誅す」と。公綽の馬、圉人を害す。命じて之を斬らしむ。賓客進みて言う、「良馬惜しむべし。圉人自ら防がず」と。公綽曰く、「安んぞ良馬人を害する有らんや」と。亟に命じて之を殺さしむ。牛僧孺宰相を罷めて江夏に鎮するに、公綽戎容を具え、郵舎に於いて之を候う。軍吏自ら漢上の地鄂より高しとし、礼過ぎたりとす。公綽曰く、「奇章(牛僧孺)才だ台席を離る。方鎮宰相を重んずるは、是れ朝廷を尊ぶなり」と。竟に戎容を以て見ゆ。道士丹薬を献ず。之を試みて験有り。来たる所を問うに、曰く、「此の丹を薊門にて煉る」と。時に硃克融方に叛く。公綽遽かに之に謂いて曰く、「惜しいかな、至薬賊臣の境より来る。験有りと雖も何の益かあらん」と。乃ち之を江に沈め、道士を逐う。鄧県人鄭懷政狂を病み、妄りに天子と称す。公綽捕えて之を殺す。
敬宗が即位すると、検校左僕射を加えられた。宝暦元年、刑部尚書として入朝した。
二年、邠州刺史・邠寧慶節度使を授けられた。管轄下には神策諸鎮があり、要地に駐屯していたが、従来は節度使の制置を受けず、そのため北虜が深く侵入していた。公綽は上疏してこれを論じ、これにより詔して諸鎮は皆邠寧節度使の制置に従うこととなった。
三年、刑部尚書として入朝した。京兆の人で姑が嫁を鞭打って死なせた者がおり、府は償死を断じた。公綽が議して言うには、「尊が卑を毆るのは闘いではなく、またその子がいるのに、妻のことでその母を戮するのは、教えではない」と。ついに死罪を減じた。
太和四年、再び検校左僕射・太原尹・北都留守・河東節度観察等使となった。この年、北虜が梅禄将軍李暢に馬一万匹を持たせて交易に来たが、入貢と称した。経由する州府では、守帥が礼分を仮り、兵備を厳重にした。宿舎に留めれば外で兵卒を戒め、襲撃奪取を恐れた。太原の故事では、出兵して迎えた。暢が境界に至ると、公綽は牙将祖考恭に単騎で慰労させ、修好の意を持って遇した。暢は義に感じて涙を流し、ゆっくりと道中を進み、妄りに馳射しなかった。到着すると、牙門を開き、通訳に謁見を導かせ、常礼で宴を設けた。馬を交易して帰るまで、侵犯しなかった。陘北に沙陀部落があり、九姓・六州の者も皆これを畏避していた。公綽が鎮に至ると、その酋長朱耶執宜を召し、直ちに雲・朔の塞下に至り、廃れた柵十一箇所を修復し、兵三千を募ってこれを預け、塞上に留め屯させて匈奴を防がせた。その妻や母が太原に来た者には、梁国夫人に酒食を対面して与えさせた。沙陀はこれを感じ、深くその効果を得た。
六年、病を理由に代わりを求めた。三月、兵部尚書を授けられ、京師に召還された。四月に卒去し、太子太保を追贈され、諡して成といった。
公綽は天性仁孝であり、初め母崔夫人の喪に遭い、三年間沐浴しなかった。継母薛氏に三十年仕え、姻戚も公綽が薛氏の生みでないことを知らなかった。外兄薛宮が早くに亡くなり、一人の娘が孤となったので、張毅夫に嫁がせ、資産を与えることは己の子よりも厚かった。性質は端正で寡合であり、銭徽・蒋乂・杜元穎・薛存誠と文雅をもって知り合い、交情は親密であった。凡そ六度開府の幕僚を置き、得た人材は特に盛んであった。銭徽が貢挙を掌った年、鄭朗が落第したが、公綽が襄陽に赴こうとする時、真っ先にこれを召し、朗はついに名相となった。盧簡辞・崔玙・夏侯孜・韋長・李続・李拭は、皆公卿に至った。吏部侍郎となった時、舅の左丞崔従と同じ省にあり、人士はこれを栄誉とした。子は仲郢、弟は公権・公諒。
仲郢
仲郢は、字を諭蒙といい、元和十三年に進士に及第し、初めて秘書省校書郎に任じられた。牛僧孺が江夏を鎮守した時、従事として召し出された。仲郢には父の風があり、行動は礼法を修め、僧孺は嘆じて言うには、「名教を積習していなければ、どうしてここまで及べようか」と。監察御史として入朝した。
五年、侍御史に遷った。富平県の人李秀才は、籍が禁軍にあり、郷人が父の墓の柏を伐ったと誣告し、これを射殺した。法司は専殺として論じた。文宗は宦官の庇護により、杖刑を決して配流とした。右補闕蒋系が上疏してこれを論じたが、聞き入れられなかった。仲郢が執奏して言うには、「聖王が憲を作れば、人を殺せば必ず死すべき令がある。聖明が上に在れば、官に当たる者に法を壊す臣はない。今秀才は人を殺す科条を犯し、愚臣は監決の任を備えている。この賊が死ななければ、典章を乱すことになる。臣はたとえ微賤であっても、どうして職を空しくできようか。その秀才は未だ決行することを敢えてしない。別に勅を降して処分されることを望む」と。そこで詔して御史蕭傑に監させた。傑もまた執奏した。帝はついに京兆府に決行させ、監することは用いなかった。しかし朝廷はその守法を嘉した。
会昌年中、三度遷って吏部郎中となり、李徳裕は大いにこれを知った。武宗が冗官削減を詔すると、吏部が条疏し、天下の州府に牒を出して定員外の官員を取ろうとした。仲郢は言うには、「諸州は毎冬欠員を申告する。どうして牒を煩わす必要があろうか」と。幸運の門はたちまち塞がれた。仲郢が十日ほど条理すると、一千二百員を減じ、当時の議論は妥当とした。諫議大夫に遷った。
五年、淮南が呉湘の獄を奏上し、御史崔元藻が覆按して罪を得た。仲郢が上疏してこれを弁明し、人々は皆危惧した。徳裕はその私心のないことを知り、ますます重んじた。武宗が望仙台を築くと、仲郢は累次上疏して切諫した。帝は召して諭して言うには、「ただ旧趾を因って増築しただけであり、卿の忠言には愧じる」と。徳裕が京兆尹に奏上した。謝恩の日、言うには、「下官は太尉の恩奨がここまで及ぶとは期さず、厚徳に報いるため、敢えて奇章公(牛僧孺)の門館のようではありませぬ」と。徳裕はこれを嫌わなかった。時に浮屠法を廃し、銅像で銭を鋳造した。仲郢は京畿鋳銭使となり、銭工が型に新字を加えようとしたが、仲郢はこれを止め、ただ淮南だけが新字を加え、後についに僧人がこれを取って像設の鐘磬とした。紇幹臯が表甥の劉詡が母を毆ったと訴え出た。詡は禁軍の小校であったが、仲郢は奏下を待たず、杖殺した。北司に讒訴され、右散騎常侍に改められ、権知吏部尚書銓事となった。
宣宗が即位し、徳裕が宰相を罷められると、仲郢を出して鄭州刺史とした。周墀が江西から滑台に移鎮した。鄭州を通り、その境内が大いに治まっているのを見て、大いにこれを褒めた。まもなく墀が入朝して政務を補佐すると、仲郢を河南尹に遷した。職務に就いて一月余りで、戸部侍郎に召し拝された。間もなく、墀が政事を知ることを罷められた。同列に仲郢が墀と親しいことを疑う者がおり、秘書監に左遷された。数か月後、再び出て河南尹となった。寛恵を以て政を行い、言事者は京兆の政と似ていないとした。仲郢は言うには、「輦轂の下では、弾圧が先であり、郡邑の治めでは、恵養が根本である。どうして類を取る必要があろうか」と。
大中年中、梓州刺史・剣南東川節度使に転じた。孔目吏の辺章簡という者は、財貨で近幸と交わり、前後の廉使もどうすることもできなかった。仲郢は事に因って決殺し、管内は粛然とし、法を行わずして自ら治まった。鎮に五年在り、美績が流れ聞こえ、吏部侍郎に召された。入朝して未だ謝恩せず、兵部侍郎に改められ、諸道塩鉄転運使を充てられた。
大中十二年、使職を罷め、刑部尚書を守った。咸通初年、兵部に転じ、金紫光禄大夫・河東男・食邑三百戸を加えられた。まもなく出て興元尹・山南西道節度使となった。鳳州刺史盧方乂が軽い罪で部下を決杖し、数日で死んだ。その妻が列訴し、また傍らに他の吏を引き合いに出し、械で繋がれた者が獄に満ちた。仲郢はその妻を召して言うには、「刺史が小罪を科して人を戒めるが、本来死刑ではなく、未だ辜(罪の結果による死)を出さず、実は病死したのだ」と。方乂に百直を罰し、繋がれていた者を皆釈放し、郡人は深くこれを感じた。贓吏を決するのに過当であったため、太子賓客として東都に分司された。一年余りして、虢州刺史となった。数か月後、検校尚書左僕射・東都留守となった。盗賊が先祖の墓を発したため、官を棄てて華原に帰った。華州刺史に除されたが拝命せず。数か月後、本官のまま鄆州刺史・天平軍節度観察等使となり、節鉞を華原の別墅で授けられ、鎮で卒去した。
初め、仲郢が諫議大夫を拝して後、官が遷る度に、群烏が大いに昇平里の邸宅に集まり、庭の樹や戟架に満ち、凡そ五日で散じた。詔が下ると再び集まらず、家人はこれを兆候としたが、ただ天平に除された時だけは、烏は集まらなかった。
仲郢は礼法を厳しくし、気義を重んじ、かつて李徳裕の知遇に感じ入った。大中年間に、李氏には禄仕する者がなかった。仲郢が塩鉄使を領した時、徳裕の兄の子である従質を推官に取り立て、蘇州院の事を知らせ、禄利をもって南宅を養わせた。令狐綯が宰相となると、甚だ悦ばなかった。仲郢は綯に書を送って自ら弁明し、その要旨は「任安は去らず、常に昔人に愧じ、呉詠は自ら裁断し、また今日に何を施さん。李太尉は責めを受けて既に久しく、その家はすでに空しく、ついに蒸嘗を絶ち、誠に痛惻を増す」というものであった。綯は深く感嘆し、まもなく従質に正員の官を与えた。
仲郢は礼法をもって自らを律し、私宅に居ても拱手せざることはなく、内斎に居ても帯を束ねざることはなかった。三たび大鎮を為し、厩には名馬なく、衣には香を薫ぜず。公務を退いては書巻を開き、昼夜を捨てなかった。『九経』『三史』を一たび書き写し、魏晋以来の南北史を再び書き写した。手で書き写して分門した三十巻を、『柳氏自備』と号した。また仏典に精通し、『瑜伽』『智度大論』はいずれも再び書き写した。その他の仏書は、多く手ずから要義を記した。小楷は精謹で、一字たりとも筆を肆にするものはなかった。『尚書二十四司箴』を撰し、韓愈・柳宗元は深くこれを賞賛した。文集二十巻がある。子に珪・璧・玭がいる。
仲郢の子、珪
珪は字を鎮方といい、大中五年に進士第に登り、累次使府に辟召されたが、早世した。
仲郢の子、璧
璧は大中九年に進士第に登った。文格は高雅であった。かつて『馬嵬詩』を作り、詩人の韓琮・李商隱はこれを称えた。馬植が陳許を鎮守した時、掌書記に辟召し、また植に従って汴州に赴いた。李瓚が桂管を鎮守した時、観察判官に奏請した。軍政が適わず、璧は極言したが容れられず、衣を払って去った。桂府はまもなく乱が起こり、入朝して右補闕となった。僖宗が蜀に幸した時、召されて翰林学士を充て、累遷して諫議大夫となり、職を充てた。
仲郢の子、玭
玭は両経挙に応じ、秘書正字に初官した。また書判抜萃に及第し、高湜が度支推官に辟召した。一年余りして、右補闕に任ぜられた。湜が沢潞に出鎮した時、節度副使に奏請した。入朝して殿中侍御史となった。李蔚が襄陽を鎮守した時、掌書記に辟召した。湜が再び沢潞を鎮守した時、また副使となった。入朝して刑部員外郎となった。湜が乱将に逐われて高要尉に貶せられた時、玭は三たび上疏して弁明した。湜は疏の本を見て嘆じて言うには、「我自ら弁析するも、またこれに及ばない」と。まもなく広州節度副使に出た。翌年、黄巣が広州を陥落させた時、郡人の鄧承勛が小船で玭を載せて禍を脱出させた。召されて起居郎となった。賊が長安を陥落させた時、刃傷を受け、行在に奔出し、歴任して諫議大夫・給事中となり、位は御史大夫に至った。
玭はかつて書を著してその子弟を誡めて言うには、
門地の高い者は、畏るべく恃むべからず。畏るべきは、身を立て己を行い、一事でも先人の訓えに墜つれば、その罪は他人より大である。生きては苟も名位を取り得るも、死して何をもって地下の祖先に見えん。恃むべからざるは、門が高ければ自ら驕り、族が盛んなれば人の嫉むところとなる。実なる技芸や美しい行いは、人は必ずしも信ぜず、細かい瑕や微かな累は、十手争って指すのである。故に世胄を承ける者は、己を修めるには懇ろならざるを得ず、学を為すには堅固ならざるを得ない。人の世に生まれて、無能をもって他人の用いられることを望み、無善をもって他人の愛されることを望み、用いられ愛される様子がなければ、「我は時に遇わず、時は賢を急とせず」と言う。これはまた農夫が鹵莽に種を蒔きながら、天の潤いがないと怨むようなもので、飢えずにいようとしても、どうして得られようか。私は幼い頃より先人の訓えを聞き、家法を講論した。身を立てるには孝悌を基とし、恭黙を本とし、畏怯を務めとし、勤倹を法とし、交結を末事とし、気義を兇人とする。家を肥やすには忍順をもってし、交わりを保つには簡敬をもってする。百行備わりても、身の未だ周からざるを疑い、三緘密にして、言の或いは失うを慮る。広く記すことは及ばざるが如く、名を求めることは儻来の如し。吝と驕を去りて、過ちを減ずるに庶幾からん。官に蒞るには己を潔くし事を省み、然る後に以て法を守ることを言うべく、法を守りて然る後に以て人を養うことを言うべし。直は禍に近づかず、廉は名を沽さず。廩禄は微少なりとも、黎氓の膏血を易えるべからず。榎楚は用いるも、褊狭の胸襟を恣にするべからず。憂いと福は偕らず、潔と富は並ばず。近頃門家の子孫を見るに、その先人は正直に官に当たり、耿介として特立し、強禦を畏れず、その衰えた時には、ただ上を犯すことを好み、他に能あること更に無し。もしその先人が遜順に己を処し、和柔に身を保ち、悔尤を遠ざけたならば、その衰えた時には、ただ暗劣あるのみで、宗とすべきを知らない。この際の幾微は、賢ならざれば達せられない。名を壊し己を災いし、先を辱しめ家を喪う。その失うこと特に大なる者五つあり、宜しく深くこれを志すべし。第一に、自ら安逸を求め、淡泊を甘んぜず、苟も己に利あれば、人の言を恤れない。第二に、儒術を知らず、古道を悦ばず、前経に懵として恥じず、当世を論じて解頤し、身既に寡知にして、人の学あるを悪む。第三に、己に勝る者を厭い、己に諂う者を悦び、ただ戯談を楽しみ、古道を思わず、人の善を聞けばこれを嫉み、人の悪を聞けばこれを揚げ、浸漬して頗僻となり、徳義を銷刻し、簪裾徒に在るも、廝養と何の異なることがあろう。第四に、慢遊を崇好し、曲糵に耽嗜し、杯を銜むことを高致とし、事に勤むことを俗流とし、習い易くして荒れ、覚めて已に悔い難し。第五に、名宦に急き、権要に昵近し、一資半級、或いは得ることあれども、衆怒群猜、存する者鮮なし。この五つの不是は、痤疽よりも甚だしい。痤疽は砭石にて癒ゆるを得るも、五失は巫医も及ばない。前賢の炯戒は方冊に具存し、近代の覆車は聞見相接している。中人以下の者は、辞を修め力を学べば、躁進して失いを患い、その用いられることを思って展べ、命を審らかにして退くを知れば、業は荒れ文は蕪なり、一つとして採るに足らぬ。ただ上智はその慮りを研ぎ、その聞を博くし、その習いを堅くし、その業を精しくし、用いられれば行い、捨てられれば蔵する。もしこれに異なるならば、どうして君子と為さんや。
初め公綽は家を治めること甚だ厳しく、子弟はよく誡訓を稟け、家法を言う者は、世に柳氏を称えた。
公綽の弟、公権
公権は字を誠懇という。幼くして学を嗜み、十二歳で辞賦を作ることができた。元和初年、進士に擢第し、秘書省校書郎に初官した。李聴が夏州を鎮守した時、掌書記に辟召した。穆宗が即位し、入朝して奏事した時、帝は公権を召見して言うには、「我は仏寺にて卿の筆跡を見て、久しく思っていた」と。即日に右拾遺に任じ、翰林侍書学士を充てた。右補闕・司封員外郎に遷った。穆宗の政道僻く、かつて公権に筆がどうして尽く善いのかと問うた。対えて言うには、「筆を用いるは心にあり、心正しければ則ち筆正し」と。上は顔色を改め、これが筆諫であることを知った。穆・敬・文の三朝に歴任し、禁中に侍書した。公綽が太原にいた時、宰相の李宗閔に書を送って言うには、「家弟は苦心して辞芸に励み、先朝は侍書として用いられたが、甚だ工祝と偕しく、心実にこれを恥じる。一散秩に換えられんことを乞う」と。そこで右司郎中に遷し、累次司封・兵部の二郎中・弘文館学士に換えた。
文宗はこれを思案し、再び侍書を召し出し、諫議大夫に転任させた。ほどなく中書舎人に改め、翰林書詔学士を充てた。浴堂で召し出して対面するたび、蝋燭が燃え尽きても語りは尽きず、蝋燭を取り替えようとせず、宮人が蝋の涙を揉んだ紙を継ぎ足した。未央宮に従駕した際、苑中で輦を停めて公権に言うには、「朕に一つの喜び事がある。辺境への衣料の賜与が長らく期日に間に合わなかったが、今年二月に春衣の支給を終えた。」公権が前に進んで祝賀すると、帝は言った、「単なる祝賀では足りぬ。卿は詩をもって朕を賀すべし。」宮人が口添えして促すと、公権は声に応じて曰く、「去歳は戦い無かりしも、今年は帰るを得ず。皇恩に何をもって報いん、春日に春衣を得たり。」帝は喜び、久しく激賞した。便殿で六学士に対面した時、帝が漢の文帝の恭倹について語り、袖を挙げて言うには、「これは三度洗濯したものである。」学士は皆、帝の倹徳を称賛したが、ただ公権のみは無言であった。帝は留めて問うと、答えて言うには、「人主は賢良を進め、不肖を退け、諫諍を納れ、賞罰を明らかにすべきである。洗濯した衣を着るのは、小節に過ぎません。」時に周墀が同席しており、股が震えるほどであったが、公権の言葉の勢いは奪うことができなかった。帝は彼に言った、「極めて知っている、舎人は諫議に合わぬと。しかし卿の言事には諍臣の風采があるゆえ、かえって卿に諫議大夫を授けよう。」翌日に制を降し、諫議大夫をもって制誥を知らしめ、学士は元の通りとした。
開成三年、工部侍郎に転じ、職を充てた。嘗て入朝して対面した時、帝が言うには、「近頃、外間の議論はどうか。」公権が答えて言うには、「郭旼が邠寧に除授されて以来、世論には賛否がかなりあります。」帝は言った、「旼は尚父(郭子儀)の従子であり、太皇太后の季父である。官職に過ちはない。金吾大将から邠寧の小鎮に授けただけのことで、何事を議論するというのか。」公権は言った、「旼の勲徳をもってすれば、鎮を除するのは妥当です。人情が議論するのは、旼が二人の娘を宮中に入れたため、この除拜に至ったと言うからです。これは本当ですか。」帝は言った、「二人の娘は太后に参内したのであって、献上したのではない。」公権は言った、「瓜田李下の嫌疑を、どうして戸々に知らせましょうか。」そこで王珪が太宗に廬江王妃を出すことを諫めた故事を引き合いに出した。帝は直ちに南内使の張日華に命じて二人の娘を旼のもとに送り返させた。公権の忠言による補益は、皆この類いであった。累進して学士承旨となった。
武宗が即位すると、内職を罷め、右散騎常侍を授けられた。宰相の崔珙が集賢学士・判院事に任用した。李徳裕は平素より公権を厚く遇していたが、珙が奏薦したため、頗る不悦であった。左遷されて太子詹事とされ、太子賓客に改められた。累進して金紫光禄大夫・上柱国・河東郡開国公・食邑二千戸となった。再び左散騎常侍・国子祭酒となった。工部尚書を歴任した。咸通初年、太子少傅に改め、さらに太子少師に改められ、三品・二品の班に三十年間在った。六年に卒去し、太子太師を追贈され、時に八十八歳であった。
公権は初め王羲之の書を学び、近代の筆法を遍く閲し、体勢は勁健で優美、一家を成した。当時、公卿大臣の家の碑板で、公権の手筆でないものは、人は不孝と見なした。外夷が貢ぎ物をする時も、別に貨貝を用意し、これを柳書購入のためと称した。上都西明寺の『金剛経碑』には鍾繇・王羲之・欧陽詢・虞世南・褚遂良・陸柬之の体を備えており、特に得意の作であった。文宗が夏の日に学士と聯句し、帝が曰く、「人皆苦しむ炎熱、我愛す夏日の長きを。」公権が続けて曰く、「薫風南より来たり、殿閣微涼を生ず。」時に丁・袁ら五学士も皆継いだが、帝は独り公権の二句を口ずさみ、「辞清く意足り、得難し。」と言った。そこで公権に命じて殿壁に題させ、字は方円五寸、帝はこれを見て嘆じて曰く、「鍾繇・王羲之が生き返っても、これ以上はあるまい。」
大中初年、少師に転じ、中謝の際、宣宗が殿上に召し上げ、御前で三紙を書かせた。軍容使の西門季玄が硯を捧げ、枢密使の崔巨源が筆を渡した。一紙は真書十字、「衛夫人、筆法を王右軍に伝う」;一紙は行書十一字、「永禅師真草『千字文』、家法を得たり」;一紙は草書八字、「謂う、語助者、焉・哉・乎・也なり」。錦彩・瓶盤などの銀器を賜り、なお自ら謝状を書かせ、真行に拘らせなかった。帝は特に珍重した。
公権は志を書学に耽らせ、生計を営むことができなかった。勲戚の家の碑板を書くと、歳時の謝礼は巨万に上り、多くは主蔵の下僕の海鷗・龍安に窃まれた。別に貯えた酒器杯盂一笥は、封印は元の通りであったが、器は皆無くなっていた。海鷗に訊ねると、言うには、「その亡くなったことを測り知りません。」公権は笑って言った、「銀杯が羽化したのだろう。」それ以上は言わなかった。宝としたのは筆硯図画のみで、自ら鍵をかけて保管した。常に硯を評し、青州の石末を第一とし、墨が冷えやすいと言い、次いで絳州の黒硯とした。特に『左氏伝』・『国語』・『尚書』・『毛詩』・『莊子』に精通した。一つの義を説くごとに、必ず数紙を誦した。性は音律に通暁したが、奏楽を好まなかった。常に言うには、「音楽を聞くと人を驕り怠らせるからである。」
公綽の伯父、子華。
公綽の伯父の子華は、永泰初年、厳武の西蜀判官となり、成都令に奏薦された。累進して池州刺史となった。入朝して昭応令となり、府東十三県の捕賊を管轄し、まもなく検校金部郎中・修葺華清宮使となった。元載が京兆尹に任用しようとしたが、拝受せずに卒去した。自ら死期を知り、あらかじめ墓誌を作った。人を見抜く明があった。公綽が生まれて三日目にこれを見て、その弟の子温に言うには、「この児を保ち惜しめ、福祚は我ら兄弟の及ぶところではない。我が門を興す者は、この児である。」そこで起之をもって公綽の字とした。
子華の二人の子:公器、公度。
公度は養生法に長け、八十余歳でも歩行が軽快であった。その術を請う者があれば、言うには、「私は初め術はない。ただ未だかつて元気をもって喜怒を助けず、気海を常に温かく保つだけである。」位は光禄少卿に止まった。
公器の子は遵。遵の子は璨。璨は宰相に至り、別に伝がある。
崔玄亮。
崔玄亮、字は晦叔、山東磁州の人である。玄亮は貞元十一年に進士第に及第し、諸侯の幕府に従事した。性は雅淡で、道術を好み、競争に趨ることを楽しまず、長く江湖を遊歴した。元和初年に至り、知己の推薦により朝廷に入った。再遷して監察御史となり、侍御史に転じた。出向して密・湖・曹三郡の刺史となった。官位が遷るごとに、謙譲の色が顔に現れた。
太和初年、入朝して太常少卿となった。四年、諫議大夫に拝され、中謝の日、面と向かって金紫を賜った。朝廷はその名望を推し、右散騎常侍に遷した。
翌年、宰相の宋申錫が鄭注によって誣告され、獄が内より起こり、京師は震駭した。玄亮は先頭に立ち、諫官十四人を率いて延英殿に詣でて対面を請い、文宗と数百言を往復した。文宗は初めその諫言を理解せず、申錫を法に置こうとした。玄亮は涙ながらに奏上して言うには、「孟軻に言う、衆人皆曰く之を殺せと、未だ可ならず;卿大夫皆曰く之を殺せと、未だ可ならず;天下皆曰く之を殺せと、然る後に之を察し、方に法に置く。今至聖の代に、一凡庶を殺すにも、尚お典法に合するを須い、況や無辜の一宰相を殺すことにおいてをや。臣は陛下のために天下の法を惜しむのであり、実は申錫のためではありません。」言い終えて、俯伏して嗚咽した。文宗はこれに感じ悟った。玄亮はこれにより朝廷に名を重くした。
七年、病を以て外任を求む。宰相は弘農を以て其の請いに便ならしむ。乃ち検校左散騎常侍・虢州刺史を授く。是の歳七月、郡所に卒す。中外嘆惜せざるなし。
初め玄亮第に登り、弟純亮・寅亮相次いで進士科に昇る。蕃府辟召すれど、玄亮最も達す。玄亮の孫貽孫、位は侍郎に至る。
温造
温造、字は簡輿、河内の人。祖は景倩、南鄭令。父は輔國、太常丞。造幼より学を嗜み、吏を試みるを喜ばず、自ら節概を負い、志を降すこと少なく、王屋に隠居し、漁釣逍遙を以て事とす。寿州刺史張建封風聞して書幣を致し招延す。造欣然として親しむ所に謂ひて曰く「此れ可人なり」と。家を徙して之に従ふ。建封動静を諮詢すれど、敢えて職任を以て縻せず。建封節を彭門に授けらるるに及び、造下邳に帰り、天下に高き心あり。建封一旦造を失はんことを恐れ、乃ち兄の女を以て之に妻せしむ。
時に李希烈方に悖り、籓隣を侵寇し、屡々郡邑を陥とす。天下の城鎮兵を恃む者は、従ひて動揺し、多く主帥を逐ひ、自ら留後を立て、節鉞を邀求す。徳宗之を患ふ。范陽の劉濟方に忠款を輸すれど、未だ朝廷の倚賴の意を尽くして達せざるを以て、密詔を以て建封に特達識略の士を選び往きて之を喩せしむ。建封乃ち強ひて造を節度参謀に署し、幽州に使はす。造語る未だ訖らざるに、濟俯伏して流涕し曰く「濟遐裔に僻在し、天子の神聖、大臣の忠藎を知らず。願はくは率先して諸侯に、死節を以て效はん」と。造還り、建封其の名を以て上聞す。徳宗其の才を愛し、京師に召し至り、之に謂ひて曰く「卿誰が家の子ぞ。年復た幾何ぞ」と。造対へて曰く「臣が五代祖は大雅、外五代祖は李勣。臣が犬馬の年三十有二」と。徳宗之を奇とし、諫官に用ひんと欲すれど、語の泄るるを以て事寝む。
長慶元年、京兆府司録参軍を授く。河朔に奉使して旨に称す。殿中侍御史に遷る。既にして幽州の劉総、請ふ所部の九州を以て朝旨を聴かんとす。穆宗使い得べき者を選び、或ひは造を薦む。帝召して之に謂ひて曰く「朕劉総の忠を輸するを以て、書詔便蕃なれど、未だ朕が深意を尽くさず。卿の素に事を辨ふる能ふを以て、朕が為に此行せよ」と。造対へて曰く「臣府県の走吏、初めて憲職を受け、望軽く事重し。恐らくは国命を辱しめ、旨を諭す能はざらん」と。帝曰く「我東宮に在りし時、劉総の覲を請ふを聞く。我即位するに及び、比年上書絶えず、行期を約するに及びては、即ち喑默して報ぜず。卿機を識り変を知る。往きて我が懐を喩せ。多く譲る無かれ」と。乃ち起居舎人を拝し、緋魚袋を賜ひ、太原・鎮州・幽州宣諭使を充つ。造初めて范陽に至る。劉総櫜鞬を具へて郊迎す。乃ち聖旨を宣べ、禍福を以て示す。総俯伏して流汗す、兵の頸に加はるが若し。造使より還るに及び、総遂に家を移して入覲し、朝廷遂に張弘靖を以て之に代ふ。朱克融弘靖を逐ひ、鎮州田弘正を殺すに及び、朝廷兵を用ふるに、乃ち先づ造をして命を銜みて河東・魏博・澤潞・横海・深冀・易定等の道に、軍期を以て喩せしむ。事皆旨に称す。
俄にして諫議大夫李景儉と史館にて飲酒するに坐し、景儉酔ひて丞相に謁す。造を出して朗州刺史とす。任に在りて後郷渠九十七里を開き、田二千頃を溉ぎ、郡人利を得る。乃ち名づけて右史渠と為す。四年居り、召されて侍御史を拝す。請ふ外廊に弾事朱衣・豸冠を復置せんことを。大臣阻みて行はれず。李祐夏州より入りて金吾を拝す。制に違ひて馬一百五十匹を進む。造正衙にて弾奏す。祐股戦ひ汗流る。祐私かに人に謂ひて曰く「吾夜蔡州城を逾えて呉元済を擒ふるも、未だ嘗て心動かず。今日胆落つ温御史に。吁、畏るべし哉」と。左司郎中に遷り、再び雑事を知る。尋ひて御史中丞を拝す。
太和二年十一月、宮中昭徳寺火災す。寺は宣政殿の東隔垣に在り、火勢将に及ばんとす。宰臣・両省・京兆尹・中尉・枢密、皆日華門外に環立し、神策兵士をして之を救はしむ。晡後稍く息む。是の日、唯だ台官到らざりき。造奏して曰く「昨宮中火を遺す。縁て台に囚を繫ぐ有り。恐らくは縁りて奸を為さんことを、人吏を追集し堤防す。所以れ朝堂に在る後なり。臣請ふ自ら三十直を罰せん。其の両巡使崔蠡・姚合は火滅して方に到る。請ふ別に責罰を議せん」と。勅して曰く「事は非常に出づ。台に囚繫有り、官曹警備す。亦た周慮を為すなり。即ち合す朝堂に待罪し、進止を取るを候ふべし。量罰自ら許すは、事乖儀に渉る。温造・姚合・崔蠡各一月の俸料を罰す」と。
造性剛褊、人或は激觸すれど、貴勢を顧みず、気を以て淩藉す。嘗て左補闕李虞に街に遇ふ。其の避けざるを怒り、祗承人を捕へて脊を決すること十下。左拾遺舒元褒等上疏して之を論じて曰く「国朝の故事、供奉官街中にては、宰相を除く外、回避する所無し。温造朝廷の典禮を蔑し、陛下の侍臣を淩ぎ、胸臆を行ひ恣にし、曾て畏忌無し。凡そ事小なりと雖も分理に関はる者は、失ふ可からず。分理一たび失はば、乱之より生ず。遺・補の官秩卑しと雖も、陛下の侍臣なり。中丞高しと雖も、法吏なり。侍臣見淩さるるは、是れ敬を広めざるなり。法吏法を壊さば、何を以て縄を持たん。前時中書舎人李虞仲造と相逢ふ。造乃ち引馬を曳き去る。知制誥崔咸造と相逢ふ。造又其の従人を捉ふ。當時縁りて上聞せざりしを以て、所以れ暴犯益甚だし。臣聞く元和・長慶中、中丞の行李半坊を過ぎず。今乃ち遠く両坊に至る。之を『籠街喝道』と謂ふ。但だ崇高を以て自ら大とし、僭擬の嫌ひを思はざるなり。若し糾縄せずんば、実に彜典を虧かん」と。勅して曰く「憲官の職は、佞を指し邪に觸るるに在りて、行李自ら大なるに在らず。侍臣の職は、可を献げ否を替ふるに在りて、道路相高むるに在らず。並びに通班に列し、名分を知るを合す。喧競を聞く如く、亦た已に再三なり。既に人言を招き、甚だ朝体を損ふ。其の台官と供奉官同道するは、先後して行くを聴し、道途にては即ち祗揖して過ぎよ。其の参従人は則ち各本官の後に随ひ、少しく相辟避し、衝突を言ふ無かれ。又聞く近日已来、応に導従すべき官、事力多き者は、街衢の中にて行李過ぎたることを。自今以後、伝呼前後三百歩を過ぐること無かれ」と。然れども造の挙奏、吐茹する所無し。朝廷に喪礼を以てせず、配類を以てせざる者有れば、悉く之を劾す。偽官王果等九十余人を獲、南曹吏李賨等六人を杖殺し、都市に刑す。尚書右丞に遷り、大中大夫を加へ、祁県開国子を封じ、金紫を賜ふ。
四年、興元軍が乱を起こし、節度使李絳を殺害した。文宗は温造の気概豪壮にして悪を憎むことを以て、乃ち検校右散騎常侍・興元尹・山南西道節度使を授けた。造は鎮に赴くことを辞し、興元に兆乱の状有ることを奏上した。文宗は其の根本を尽く悟り、便宜に従事することを許した。帝は兵を用いる労費を慮りたまう。造は奏して曰く、「臣が計るに、諸道の蛮を征討する兵は既に帰還しつつあり、臣の行程が褒県に至るを俟ち、臣に密詔を賜わり、使いて約束を受けしめられんことを望む。臣が興元に及ぶ頃には、諸軍相継いで至らん。臣は此れを用いて足れり」と。乃ち造に手詔四通を授けた。神策行営将董重質、河中都将温徳彜、郃陽都将劉士和等、皆な造の命に稟ることを令した。造が褒城に行き至ると、興元都将衛志忠が蛮征討より帰還し、謁見した。造は即ち留めて自衛と為し、密かに志忠と謀る。又、亜将張丕・李少直を召し、各々其の旨を諭した。褒城を発するに及び、八百人を以て衙隊と為し、五百人を以て前軍と為し、府に入りて諸門を分守せしむ。造は下車して宴を設け、所司に供帳を庁事にせしむ。造曰く、「此れは隘狭にして、以て士卒を饗するに足らず、之を牙門に移せ」と。坐定まり、将卒羅拝す。志忠の兵之を周環す。造曰く、「吾れ新軍の去住の意を問わんと欲す。悉く前に進むべし。旧軍は錯雑する無かれ」と。労問既に畢り、伝言して坐を令す。未だ至らざる者有り、因って酒を舁いて巡行せしむ。酒匝まるに及び、未だ至らざる者皆な至る。牙兵之を囲むも亦合す。坐卒未だ悟らず。席上に先覚する者有り、揮って起たしむ。造、伝言して之を叱す。因って帖息して敢えて動かず。即ち坐卒を召し、絳を殺害した状を詰う。志忠・張丕階に夾み立ち、剣を抜いて呼びて曰く「殺せ」と。囲兵斉しく奮い、其の賊首教練使丘鑄等並びに官健千人、皆な地に斬首せられ、血流四註す。監軍楊叔元座に在り、遽かに起ちて哀を求め、造の靴を擁して命を請う。兵を遣わして之を衛り出だし、以て朝旨を俟つ。勅旨にて康州に配流す。其の親しく絳を刃する者は斬りて百断と為し、号令する者は斬りて三断と為し、余は並びに斬首す。内、百首を以て李絳を祭り、三十首を以て王景延・趙存約等を祭り、並びに屍を江に投ず。功を以て就きて検校礼部尚書を加う。
五年四月、兵部侍郎として入朝す。耳疾を以て退を求む。七月、検校戸部尚書・東都留守、東都尚書省事を判じ、東畿汝防禦使と為る。
造、洛中に至る。九月、制を以て河陽懐節度観察等使に改授す。造は河内膏腴なるも、民戸雕瘵なるを以て、懐州古秦渠枋口堰を開浚することを奏す。役工四万、済源・河内・温・武陟四県の田五千余頃を溉ぐ。
七年十一月、御史大夫として入朝す。造、初めて漢中に赴鎮するに、大雨に遇い、平地水深尺余。乃ち鷄翁山に禱りて晴を祈る。俄かに疾風雲を駆り、即時に開斉す。文宗嘗て其の事を聞きたまい、会に造入対して之を言う。乃ち詔して鷄翁山を封じて侯と為す。
九年五月、礼部尚書に転ず。其の年六月病卒す。時に年七十。右僕射を贈る。文集八十巻有り。造は晩年に於いて財貨を積聚し、一も散施せず。時に頗る之を譏る。子の璋嗣ぐ。
璋は蔭を以て仕に入り、累ね使府に佐え、三郡の刺史を歴任す。咸通末、徐泗節度使と為る。徐州の牙卒を銀刀軍と曰い、頗る驕横なり。璋至り、其の悪しき者五百余人を誅す。是より軍中法を畏る。京兆尹として入朝し、法を持するに太だ深く、豪右一皆屛跡す。会に同昌公主薨ず。懿宗怒り、医官を殺す。其の家属宗枝獄に下る者三百人。璋上疏切諫し、以て刑法太だ深しと為す。帝怒り、璋を振州司馬に貶す。制出づ。璋嘆じて曰く、「生れて時に逢わず、死すること何ぞ惜しむに足らん」と。是の夜自縊して卒す。
郭承嘏
郭承嘏、字は復卿。曾祖は尚父汾陽王(郭子儀)。祖は晞、諸衞将軍。父は鈞。承嘏は生まれながらにして秀異、乳保の年、即ち筆硯を好む。成童に及び、能く『五経』を通ず。元和四年、礼部侍郎張弘靖其の才を知り、進士第に擢升す。累ね使幕に辟せらる。渭南尉を歴任す。朝に入り監察御史と為り、起居舎人に遷る。内艱に丁り、孝を以て聞こえ、喪終わりて、侍御史、職方・兵部二員外、兵部郎中と為る。太和六年、諫議大夫を拝す。頻りに上疏し、時政の得失を言う。文宗、鄭註を太僕卿と為さんとす。承嘏論諫激切、註甚だ之を懼る。本官にて匭院事を知る。九年、給事中に転ず。
開成元年、華州刺史・兼御史中丞として出づ。詔下る。両省相次いで中書に詣り、承嘏の出麾の由を求む。給事中盧載詔書を封還し、奏して曰く、「承嘏此の官に居るより、継ぎて封駁有り、能く其の職を奉ず。宜しく瑣闥に在るべし。牧守の才は、推択し易し」と。文宗、宰臣に謂いて曰く、「承嘏久しく黄扉に在り、其の祿俸を優にせんと欲し、暫く廉問を令して近関にせしむ。而るに諫列章を拝し、其の称職を惜しむは、甚だ美事なり」と。乃ち復た給事中と為す。
文宗、淮南諸道累歳大旱、租賦登らず、国用多闕なるを以て、是に及び、度支・戸部分けて宰臣を命じて之を鎮めしむ。承嘏之を論じて曰く、「宰相なる者は、上は陰陽を調え、下は黎庶を安んじ、君を堯・舜に致し、時を清平に致す。之をして簿書を閲し、緡帛を算せしむるは、宜しき所に非ず」と。帝深く之を嘉し、刑部侍郎に遷す。時に朔望に因り、以て刑法官対を得。文宗従容として顧問したまい、恩礼甚だ厚し。未だ大用せられざるに、二年二月に卒す。承嘏身歿の後、家に余財無く、喪祭の費は、皆な親友共に給して而して後具う。搢紳の流、痛惜せざる無し。吏部尚書を贈る。
殷侑
殷侑は陳郡の人。父は懌。侑は児童の時、志を励まし力学し、家人の資産を問わず。長ずるに及び、経を通じ、講習を以て自ら娯しむ。貞元末、『五経』を以て第に登り、歴代の沿革礼に精し。元和中、累ね太常博士と為る。時に回紇和親を請う。朝廷費を計るに五百万緡。朝廷方に兵を用いて叛を伐ち、費用百端、其の期を緩めんと欲す。乃ち宗正少卿李孝誠を命じて使と為し宣諭せしめ、侑を以て副と為す。侑は謹重にして節概有り、事に臨みて俊弁なり。既に虜庭に至る。可汗初め漢使を待つに、兵甲を盛んに陳べ、漢使を臣と為さんと欲して拝答せず。侑堅く立ちて動かず。宣諭畢りて、可汗其の倨なるを責め、宣言して留めて遣わさんと欲す。行く者皆な懼る。侑、虜使に謂いて曰く、「可汗は漢家の子婿なり。坐して使臣の拝を受けんと欲するは、是れ可汗の失礼にして、使臣の倨に非ざるなり」と。可汗其の言を憚り、卒に敢えて逼らず。使い還りて、虞部員外郎を拝す。王承宗命に拒む。侑を遣わして命を銜みて之を招諭せしむ。承宗尋いで朝旨に稟り、徳・棣二州を献じ、二子を遣わして朝に入らしむ。侑を諫議大夫に遷す。凡そ朝廷の得失、悉く以て陳論す。前後八十四章を上る。言の激切なるを以て、桂管観察使として出づ。
宝暦元年、検校右散騎常侍・洪州刺史となり、江西観察使に転じた。赴任先では清廉潔白で知られた。入朝して衛尉卿となった。文宗が即位したばかりの時、滄州の李同捷が叛き、王廷湊がこれを助けたため、鎮州に兵を加えようと、五品以上の官を都省に集めて議させた。当時、上は賊を討つことに意気込み、宰相たちは異議を唱える者もなかった。ただ殷侑のみが、廷湊が河朔を再び乱し、招き懐柔しようとしている時であり、凶徒に与しているとはいえ、まだ甚だしく露見していないので、しばらくは包容し、専ら同捷を討つべきだと論じた。その上疏の末尾に、「伏して願わくは宗廟社稷の安危を大計とし、善く師を以て攻心を神武とし、垢を含みて人を安んずるを遠図とし、網漏れて舟を呑むを至誡とせられんことを」と記した。文宗は採用しなかったが、深くこれを嘉した。
滄景が平定されると、殷侑がかつて滄州行軍司馬であったことから、太和四年、検校工部尚書・滄斉徳観察使を加えられた。当時は大戦の後で、見渡す限り荊棘が生い茂り、遺骸が野を覆い、人煙は絶えていた。殷侑は妻子を連れて赴任せず、着任した時は空城であった。殷侑は苦労を厭わず粗食に甘んじ、士卒と労苦を共にした。一年後には、流民が子供を背負って帰還した。殷侑は上表して耕牛三万頭を借り受け、流民に与えるよう請い、詔により度支から綾絹五万匹を賜り、牛を買って与えた。数年後には、戸口が増え豊かになり、倉庫は満ちあふれ、人々は亡命の苦しみを忘れた。当初、州兵三万の糧秣は全て度支から支給されていた。殷侑は一年で賦税収入の半分を自給し、二年で全ての費用を賄えるようになり、度支からの給与支給の停止を請うた。そして多方面に勧農・徴税を行い、民も吏も共に喜び、上表して徳政碑の建立を請うた。功により検校吏部尚書を加えられた。殷侑は、郭下の清池県が子城の北にあるのは不便であるとして、南郭の内に移すことを奏上した。
六年、入朝して刑部尚書となり、まもなく再び検校吏部尚書・鄆州刺史・兼御史大夫となり、天平軍節度使・鄆曹濮観察等使を充てた。元和末年以来、李師道の十二州を収復して三鎮とした。朝廷は反逆者の懐柔に努め、徴収した賦税は全て軍の糧秣に充て、一貫の銭、一尺の布も王府に入らなかった。殷侑は、軍賦に余裕がありながら賦税を上供しないのは法に反すると考え、太和七年から、毎年両税・酒専売などの銭十五万貫、粟五万石を供出することを上表して請うた。詔に曰く、「鄆・曹・濮等州は、元和以来、元々殷富の地であったが、三道に分かれてから十五年以上、詔書を頒布したにもかかわらず、ついに賦税を納めなかった。殷侑は兵乱の後、凶作旱魃の余波の中で、勤勉に公務に奉じ、謹んで身を律し法を守った。わずか一年で、すでに繁栄安定をもたらした。しかも国を思い忠誠を尽くし、率先して貢納し、三軍の上に奉ずる志を成し遂げ、一境の喜んで納める心を表明した。まもなく上表したことを、まことに嘉嘆に値する」と。まもなく検校右僕射を加えられた。
九年、御史大夫温造が、殷侑が制旨によらずに監軍の俸給を増やし、民に賦斂したことを弾劾した。上は問わず、庾承宣を代わりに任じて召還した。
その年、濮州録事参軍崔元武が、五県の人吏から徴収し、及び県官の俸料銭を、私馬を高く評価させて官に納めさせ、絹百二十匹に相当した。大理寺は、三つの罪が同時に発覚した場合は重い方で論ずると判断し、ただ私馬を不正に高く評価した罪を重いとして、三任の官を削るのみとした。しかし刑部が覆奏し、杖刑を加えて流刑に処するよう命じた。判決は確定していなかった。殷侑が上奏して言うには、「法官は法律に通じておらず、三犯が異なる場合、その重い罪に坐する。元武の犯した罪は、いずれも枉法によって財物を受け取ったものであり、律に照らせば、枉法十五匹以上は絞刑である。《律疏》に云う、すなわち贓物によって罪を得た場合、頻繁に犯した者は累計して科断する、と。元武の犯した罪に基づけば、今や絞刑に処すべきである」と。上疏が奏上されると、元武は刑部の奏請に従い、六十回の杖刑を加えられ、賀州に流された。そこで殷侑を刑部尚書に任じた。八月、検校右僕射となり、再び天平軍節度使となった。上は温造の奏上した深文(厳しい解釈)のためである。
開成元年、再び召されて刑部尚書となった。当時は李訓の乱が終わったばかりで、上は殷侑に治安の術を問うた。殷侑は、任せて責めること、朝廷の老徳を重用すべきこと、新進の小生を軽々しく用いるべきではないことを極言した。帝は深くこれを嘉し、錦彩三百匹を賜った。及び、中謝(拝謝)の時、また中使をその邸に遣わして金十斤を賜った。その年七月、検校左僕射となり、出向して襄州刺史・山南東道節度使となった。
二年三月、病気を理由に代わりを求め、太子賓客として東都に分司された。十一月、再び検校右僕射となり、出向して忠武節度使・陳許蔡観察等使となった。三年七月、任地で卒去した。時に七十二歳。司空を追贈された。
殷侑は経書に通じて仕官し、風俗を観察し撫でること、赴任先では名声があった。しかし晩年は大用されることを急ぎ、やや権幸と通じ、世間の評価は以前より減じた。子に殷羽。
殷羽は太和五年に進士第に及第し、藩府から召し出されたが、顕官には至らなかった。子に殷盈孫。
殷盈孫は、乾符末年に成都の属官となった。皇帝が西川におられた時、太常博士に任用され、礼学に祖父の風があった。光啓二年冬、皇帝に従って成都から還った。三年二月、鳳翔に駐蹕した。当時、宗廟が賊に焼かれ、車駕が長安に至っても、告享を行う場所がなかった。四月、盈孫が宰相らに言うには、「太廟十一室、及び祧廟八室、並びに三太后三室は、光啓元年十二月二十五日に車駕が宮中を出られた際、その縁室の法物神主は、当該官庁が運搬したが、鄠県で全て盗賊に奪われた。皇帝が還宮されるに当たり、先ずこれを造るべきである」と。宰相鄭延昌が奏上して言うには、「太廟大殿二十二間は、工事が非常に大きく、費用の見積もりも少なくない。また宗廟の制度は、増減が重大で難しい。今、元の見積もりに従って修造奉るべきか、あるいは別に協議すべきか、未だ審らかでない」と。勅命により礼院に下して詳議させた。
当時、博士は四人おり、杜用勵は利州に、崔澄は河中に、封舜卿は巴南にいた。ただ殷盈孫のみが意見を献じて言うには、「太廟の制度は、歴代参酌され、皆典籍に符合しており、増減を議するのは難しい。謹んで旧制を按ずるに、十一室、二十三間、十一架である。垣墉の広狭の度合い、堂室の深浅の規格、階陛の等級の差、棟宇の高低の法則は、前古において奢っても侈らず、倹しても越えられないと謂われたものである。今、朝廷の国庫が空虚で、費用がやや広がっているため、礼を変通し、便宜に従うことを務めねばならず、固より前聖の規模を易え、大朝の制度を狭めることはできない。典実に拠り、別に参酌すべきである。謹んで至徳二年を按ずるに、太廟が修理中であったため、新たに神主を作り、長安殿に安置し、便りに饗告の礼を行い、宗廟の儀と同様にし、廟の完成を待って、遷祔した。当時の議論には、是非はなかった。窃かに知るに、今の京城には大内の正衙の他に、別の殿宇はない。伏して聞くに、先に詔旨があり、少府監の大廳を暫定的に太廟に充てるとのことである。伏して考えるに、十一室を五間の中に陳列するのは狭隘である。伏して請う、廳の両端を接続して十一室とし、饗薦を行うこと。三太后廟は、監内の西南に、別に屋宇三間を取り、暫定的に廟室に充てること。太廟の修造奉仕が完了した日を待って、別に遷祔を議すること」と。勅旨はこの奏上に従った。その神主・法物・楽懸は、全て盈孫が奏上して改めて修造させ、礼を知る者は博識洽聞と称した。
龍紀元年十一月、昭宗は圜丘で郊祀を行った。両中尉楊復恭及び両枢密は、皆朝服を着用するよう請うた。盈孫が上疏して言うには、「臣が先日斎宮に赴いたところ、中尉・枢密の内臣が皆朝服を着用していた。臣が前代及び国朝の典令を尋ねたが、内官の朝服制度はない。伏して考えるに、皇帝陛下は天を承け暦を御し、聖なる皇統を中興され、宗廟を敬い見て、大礼をよく陳べることは、皆高祖・太宗の成制を稟け、必ず虞・夏・商・周の旧経に従うものである。軒冕と服章は、彝憲に従って式とする。もし内官が朝服を着ようとするなら、その守る官の本品の服に依るよう命じるべきである。事は根拠がないが、粗くこれを行うことはできる。臣は礼司に忝くし、合わせて陳奏すべきである。」と。当時、中貴は皆宰相大臣の朝服のようであったので、盈孫がこれを論じた。帝は従わなかったが、その守るところを嘉した。秘書少監に転じ、卒した。
徐晦
徐晦は、進士に擢第し、直言極諫の制科に登り、櫟陽尉に授けられたが、皆楊憑の推薦によるものであった。楊憑が罪を得て臨賀尉に貶された時、交親で敢えて送別する者はなかった。ただ徐晦だけが藍田まで送り、楊憑と別れを言った。当時、故相の権徳輿は楊憑と交分が最も深く、徐晦の行いを知り、徐晦に言った。「今日、臨賀(楊憑)を見送ることは、誠に厚いことではあるが、累となるのではないか。」徐晦は言った。「晦は布衣の身から楊公の眷顧を受けました。今、彼が流播する時に、どうして無言で別れを忍べましょうか。もし他日、相公が奸邪に譖られて外で失意されることがあれば、晦はどうして相公と軽々しく別れられましょうか。」徳輿はその真摯な誠意を嘉し、朝廷で大いに称えた。数日も経たないうちに、御史中丞李夷簡が監察に請うた。徐晦は李夷簡に申し出て言った。「生まれてこの方、公門を踏んだことがありません。公は何を取って信じ、私を奨励抜擢されるのですか。」夷簡は言った。「君が楊臨賀を見送り、難を犯すことを顧みなかったと聞く。どうして国に背くことがあろうか。」これによって名を知られた。殿中侍御史・尚書郎を歴任し、出て晋州刺史となった。入って中書舎人を拝した。宝暦元年、出て福建観察使となった。二年、入って工部侍郎となり、出て同州刺史・兼御史中丞となった。太和四年、兵部侍郎に征拝された。五年、太子賓客となり、東都に分司した。徐晦の性格は強直で、世態に従わず、官に当たっては正を守った。ただ酒を嗜むことが甚だしく、晚年に目を喪い、ついに沈んで廃された。礼部尚書をもって致仕した。開成三年三月に卒し、兵部尚書を贈られた。
史臣曰
史臣曰く、温・柳の二公は、文行をもって身を飾り、名節を砥礪し、官に当たって法を守り、侃侃として大臣の節有り。しかるに竟に三事に登らず、位は正卿に止まった。これによって公輔の量は、和を以て貴しとすること知るべし。漢武帝は汲黯を畏れて孫弘を相とし、太宗は魏徴を重んじて玄齢に委ねた。その旨は遠い。韋・崔は名士であり、賢を薦めて主に致し、古風に豊かであった。殷司空は民を治め、これこそ循吏であり、忠規壮節は晩年に至るまで衰えなかった。徐・郭の讜言は、佳士として盛んである。数君の如きは、実に人を令するものである。
贊
贊して曰く、柳氏の礼法、公忠の節概。搏撃は優れているが、弥綸は則ち隘である。夏卿は奨励抜擢し、晦叔は匡め将う。徐・郭の議は、金玉鏘鏘たり。