旧唐書
王播
王播は、字を明揚という。曾祖父の璡は、嘉州司馬であった。祖父の升は、咸陽令であった。父の恕は、揚府参軍であった。播は進士に及第し、賢良方正制科に登第して、集賢校理に任ぜられ、再び監察御史に遷り、殿中に転じ、侍御史を歴任した。貞元の末、幸臣の李実が京兆尹となり、恩寵を恃んで甚だ横暴で、かつて播と道で出会ったが、避けなかった。故事によれば、京兆尹は台官を避けるものである。播は移文してこれを誹謗した。李実は怒り、後に播を三原令に奏上し、これを挫こうとした。播は命を受け、府に急ぎ謁見して謝し、府県の礼儀を尽くした。そして管轄する所に臨むと、政治は整い明らかで、勢力を恃む豪門にも、法を緩めることはなかった。年末の考課で、畿内の県で最も優れていた。李実はその人に政術があるとして、甚だ礼遇し重んじ、頻りに上に推薦した。徳宗はこれを奇異に思い、順序を飛び越えて抜擢任用しようとしたが、ちょうど母の喪に遭った。
順宗が即位すると、駕部郎中に任ぜられ、長安令に改められた。その年のうちに、工部郎中に遷り、台雑を知り、綱憲を刺挙して、人に称えられた。考功郎中に転じ、虢州刺史として出向した。李巽が塩鉄を管轄すると、副使・兵部郎中に奏上した。
元和五年、李夷簡に代わって御史中丞となった。朝章を振るい挙げ、百官の職務が修められた。十月、許孟容に代わって京兆尹となった。当時、禁軍諸鎮が畿内に布列し、軍人が出入りする際、鞬を帯び剣を佩き、しばしば盗賊が発生し、奸悪を捕らえるのが難しかった。そこで播は奏上して、畿内の軍鎮の将卒は、出入りの際に戎具を持ってはならず、諸王・駙馬・権豪の家は、畿内で鷹犬や狩猟の具を試してはならないと請うた。詔はこれに従い、これより奸盗は止み息んだ。六年三月、刑部侍郎に転じ、諸道塩鉄転運使を充てた。
播は吏術に長け、文書が煩雑であっても、分析は流れる如く、狡猾な吏の欺瞞も、明らかに敗露させずにはおかなかった。当時は天下に事変が多く、法寺の議讞は、科条が繁雑であった。播は前後の格条をことごとく挙げて、座右に置いた。凡そ詳決する時は、疾速にして神の如かった。当時の属僚は、嘆服して暇がなかった。
十年四月、礼部尚書に改め、使職は従前の通りであった。先に、李巽が程异を江淮院官とし、异はまた泉貨に通じていた。播が使職を管轄すると、これを副使に奏上した。王師が呉元済を討つ時、异に伝馬を乗り継いで江淮に往かせ、賦輿が大いに集まり、賊が平定されるまで、深く力があった。皇甫鎛が権力を握ると、播が大用されるのを恐れ、乃ち使務を程异に命じて管轄させ、播は本官を守るのみとした。十三年、検校戸部尚書・成都尹・剣南西川節度使となった。
穆宗が即位し、皇甫鎛が貶されると、播は累表して京師への帰還を求めた。長慶元年七月、征還され、刑部尚書に拝され、再び塩鉄転運等使を管轄した。十月、中書侍郎・平章事を兼ね、使職は従前の通りであった。長慶年間、内外の権臣は、多くが仮借していた。播は銅塩のことで輔弼の位に抜擢され、専ら承迎を事とし、安危を啓沃することには、一言も措かなかった。当時、河北が再び叛き、朝廷は兵を用いた。裴度が太原から入朝した時、朝野の物論は、度が外に居るのは宜しくないと言った。明年三月、度を留めて政事を知らせ、播が度に代わって淮南節度使・検校右僕射となり、使職は従前の通りであった。なお塩鉄の印を携えて赴鎮することを請い、上都院の印は、別に給賜するよう請うた。詔はこれに従った。播が淮南に至ると、旱魃と凶作に遭い、人々は互いに食らい合い、課税は満たされず、法を設けて掊斂し、家ごとに怨嗟の声があった。
敬宗が即位すると、就いて銀青光禄大夫・検校司空を加えられ、塩鉄転運使を罷免された。当時、中尉の王守澄が権力を握り、播は自ら利権を失い、広く珍異を求め、腹心の吏に命じて内に守澄と結ばせ、助けとした。守澄は隙を見て啓奏し、播に才があると言い、上は延英殿でこれを言った。諫議大夫の独孤朗・張仲方、起居郎の孔敏行・柳公権・宋申錫、補闕の韋仁実・劉敦儒、拾遺の李景譲・薛廷老らは、延英殿を開いて面奏し、播の奸邪で、寵幸と交結し、再び大用を求めることを請うた。天子は幼少で、その言を用いることができなかった。これより、物議は紛然として止まなかった。明年正月、播は再び塩鉄転運使を管轄した。播は旧職を得ると、乃ち銅塩の内で、巧みに賦斂を行い、月進を事とした。名は羨余であるが、実は正額であり、ひたすら奨励抜擢を希い、人の言を顧みなかった。
当時、揚州城内の官河は水が浅く、旱魃に遇うと漕船が滞った。そこで奏上して、城南の閶門の西七里港から河を開いて東に向かい、屈曲させて禅智寺橋を経て旧官河に通じ、開鑿をやや深くし、舟航が容易に渡れるようにした。開いた長さは十九里で、その工役の材料と費用は、省の銭を破らず、当該の使が方円自ら備え、漕運を阻害しないようにした。後の政事はこれに頼った。
文宗が即位すると、就いて検校司徒を加えられた。太和元年五月、淮南から入朝し、大小の銀碗三千四百枚、綾絹二十万匹を進めた。六月、尚書左僕射・同平章事に拝され、使職は従前の通りであった。二年、太原公・太清宮使に封ぜられた。四年正月、喉の腫れを患い急死した。時に七十二歳であった。三日間朝を廃し、太尉を贈られた。
播は単門の出であり、文辞をもって自立し、華やかな高位に昇り、能名で満ちていた。しかし勢いに随って沈浮し、士人の行いを保たず、奸邪に進取し、君子はこれを恥じた。しかし天性、吏事に勤勉で、使務が積み重なり、胥吏が廷に満ちて決裁を求め、簿書が机に山積みしても、他人は耐えられないようでも、播はこれをもって適所とした。播の子は式、弟は炎・起である。
炎は、貞元十五年に進士に及第し、累官して太常博士に至り、早世した。子は鐸・鐐である。
起は、字を挙之といい、貞元十四年に進士に及第し、集賢校理として初官し、制策直言極諫科に登第して、藍田尉に任ぜられた。宰相の李吉甫が淮南に鎮すると、監察御史として掌書記を充てた。朝廷に入って殿中侍御史となり、起居郎・司勲員外郎・直史館に遷った。元和十四年、比部郎中として制誥を知った。穆宗が即位すると、中書舎人に拝された。
長慶元年、礼部侍郎に遷った。その年、銭徽が貢士を掌り、朝臣の請託を受け、人は濫りであると思った。詔により起は同職の白居易と覆試を行い、覆落した者が多かった。銭徽は官を貶され、起は遂に銭徽に代わって礼部侍郎となった。貢挙を掌ること二年、得た士人は特に精選された。先に、貢挙は猥りに濫り、勢門の子弟が互いに酬酢し、寒門の俊造は十のうち六七を棄てられていた。元稹・李紳が翰林に在った時、深くこの事を怒り、故に覆試の科があった。起が貢士を考査すると、奏上して当司の選んだ進士は、考査した雑文に基づき、先ず中書に送り、宰臣に閲視させ可否を決め、それから当司に下して放榜させるとした。詔はこれに従った。議者は、起は是非を避けたが、貢職を失ったと考え、故に河南尹として出された。朝廷に入って吏部侍郎となった。
文宗が即位すると、集賢學士を加えられ、院事を判じた。兄の王播が僕射として政を輔けるにあたり、選部を典とすることは欲せず、兵部侍郎に改められた。太和二年、陝虢觀察使・兼御史大夫として出向した。四年、尚書左丞として召し入れられた。王播の喪に際しては、号泣し礼を過ぎて衰え、友悌の情は特に至った。戸部尚書に遷り、度支を判じた。西北辺境の守備のため、毎年和市を行って軍に供給していたが、民を労して輸送させることを憂い、霊武・邠寧において営田を起こすことを奏上した。六年、檢校吏部尚書・河中尹・河中晉絳節度使となった。時に蝗害と旱魃に見舞われ、粟の価格が暴騰し、豪族は穀物を閉ざして善価を求めていた。王起は蓄えを持つ家を厳しく戒め、市中に粟を出させ、隠匿する者は法に処し、これにより民は救済された。七年、兵部尚書として召し入れられた。八年、檢校右僕射・襄州刺史となり、山南東道節度使を充てた。江・漢の水田は、前任者が法を曲げ、塘堰が破損していた。王起が着任すると、従事の李業に命じて管下の郡を行き巡らせ、点検して補修させ、特に水法を定め、民は凶年に遭わなかった。九年、銀青光禄大夫を加えられた。時に李訓が権勢を振るい、李訓は即ち王起が貢挙で取った門生であり、王起を引き立てて宰相にしようとした。八月、詔により兵部侍郎に任じられ、戸部事を判じた。その冬、李訓が敗れると、王起は儒素の長者であったため、人は累とせず、ただ戸部事判を罷免されたのみであった。
文宗は文を好み、特に古學を尊んだ。鄭覃は経義に長け、王起は博洽に長じ、ともに翰林に引き入れられ、経史を講論した。王起は学問に僻して嗜み、官位が崇重であっても耽玩して倦むことがなく、夙夜孜孜として、寝食を忘れるほどであり、書は読まぬものなく、目にしたものは遺すことがなかった。兵部尚書に転じた。莊恪太子が儲君となった際、儒者に経を授けさせようとし、太子侍読を兼ね、太常卿を判じ、禮儀詳定使を充て、礼神の九玉を創造し、奏議して言うには、
邦国の礼において、祭祀は大事である。珪璧の議は、経書に前規がある。謹んで『周礼』を按ずるに、「天地四方に、蒼璧をもって天を礼し、黄琮をもって地を礼し、青珪をもって東方を礼し、赤璋をもって南方を礼し、白琥をもって西方を礼し、黒璜をもって北方を礼す」とある。また云う、「四圭に邸ありて以て天を祀る」「両圭に邸ありて以て地を祀る」「圭璧をもって日月星辰を祀る」と。凡そこの九器は、皆祀神の玉である。また云う、「禋祀をもって昊天上帝を祀る」と。鄭玄は云う、「禋は煙なり、玉幣と為し、祭り終わりてこれを燔き、煙を升らせて以て陽に報いるなり」と。今『開元礼』の義と同じく、これ即ち玉を焚く証拠である。また『周礼』に、「国の玉鎮大宝器を掌り、もし大祭ならば、事既に終わりてこれを蔵す」とある。これ即ち玉を収める証拠である。梁代の崔霊恩が撰した『三礼義宗』に云う、「凡そ天神を祭るに、各二玉あり。一は以て神を礼し、一は則ちこれを燔く。神を礼するものは、事終わりて却って収め、神を祀るものは、犠牲とともに燎す」と。則ち霊恩の義は、『礼経』に合致する。今国家が天を郊祀し地を祀るに、祀神の玉は常用するが、経を守り古に拠れば、礼神の玉は無い。臣ら請う、司に下し、良玉を精求し、蒼璧・黄琮等の九器を創造し、祭り終わりて則ちこれを蔵すべし。その燎玉は即ち常制に依るべし。
これに従った。太子のために『五運図』及び『文場秀句』などを広めて献上した。三年、本官をもって翰林侍講學士を充てた。莊恪太子が薨じると、詔により王起に哀冊文を作らせたが、文辞と情は婉麗であった。
四年、太子少師に遷り、兵部事を判じ、侍講は元の如くであった。その家が貧しいため、特に詔して毎月仙韶院の月料銭三百千を割いて添給させた。王起は文学に富んでいたが、家を治める法がなく、俸料が門に入れば、即ち仆妾の所有となった。帝は師友の恩により、特に周給を加えた。議者は伶官と分給することを恥とすべきであるとした。
武宗が即位し、八月、山陵鹵簿使を充てた。枢密使の劉弘逸・薛季稜は誅殺を恐れ、山陵の兵士を因って廃立を謀ろうとした。王起は山陵使とその謀を知り、密かに奏上し、皆誅殺された。まもなく檢校左僕射・東都留守となり、東都尚書省事を判じた。
会昌元年、吏部尚書に召し入れられ、太常卿事を判じた。三年、権知礼部貢挙となった。明年、正しく左僕射に任じられ、再び貢挙を知った。
王起は前後四度貢部を典とし、選んだ者は皆当代の辞芸の士で、時に名があり、人は皆その精鑑と公に殉ずることを賞賛した。その年秋、興元尹・兼同平章事となり、山南西道節度使を充てて出向した。鎮に赴く日、延英殿で辞した。帝はこれに謂って言う、「卿は国の耆老なり、宰相に内外無し、朕に闕政あれば、飛表をもって聞かせよ」と。宴賜は頗る厚かった。鎮において二年、老病を以って代わりを求めたが、許されなかった。大中元年、鎮において卒した。時に八十八歳。三日間朝を廃し、太尉を贈られ、諡して文懿といった。文集一百二十巻、『五緯図』十巻、『写宣』十巻。王起が侍講した時、或いは僻字疑事があると、中使に口宣させ、即ち榜子で対し、故に名づけて『写宣』といった。子の王亀が嗣いだ。
王亀は、字を大年という。性質は簡淡蕭灑で、仕進を楽しまなかった。少より詩酒琴書をもって自ら適し、科試に従わなかった。京城の光福里の邸宅は、王起兄弟が同居し、宏敞であった。王亀の意は人外にあり、朋遊に接することを倦み、乃ち永達里の園林の深く僻んだ処に書斎を創り、その間に吟嘯し、目して「半隠亭」といった。従父の王起が河中に在った時、中条山の谷の中に草堂を建て、山人道士と遊び、朔望に一度府第に還り、後人は目して「郎君谷」といった。王起が東周を保厘した時、王亀は龍門の西谷に松斎を構え、棲息往来し、事外に思いを放った。王起が興元を鎮めた時、また漢陽の龍山に隠舎を立て、毎度舟を浮かべて往き、その閑逸はこのようであった。武宗はこれを知り、左拾遺として召した。久しくして、方に殿廷に至り一謝し、情を陳べて言う、「臣の才は疏散にして、時に用いること無く、これに疾病に嬰られるを加え、禄仕に任じず。臣の父は年将に九十、遠藩に鎮を作り、喜懼の年、供侍に闕く。今の職を罷め、以て晨昏に奉ぜんことを乞う」と。上は優詔してこれを許した。明年、父の憂に服した。服闋し、右補闕として召され、侍御史・尚書郎に遷った。
大中末、宣歙団練觀察副使として出向し、緋を賜った。祠部郎中・史館修撰として召し入れられた。以前に崔玙に従って宣歙の副使となり、崔玙が河中を鎮めた時、また副使に奏された。兵部郎中として召し入れられ、金紫を賜い、まもなく知制誥となった。
咸通末、弟の王鐸が中書に在ったため、禁掖に在ることを欲せず、太常少卿に改められ、まもなく檢校右散騎常侍・同州刺史となった。牙将の白約という者は、甚だ狡蠹で、前後の防禦使も制することができなかった。王亀は事に因って発し、笞打ち死にせしめて衆に示し、人は皆その威を畏れて自ら効した。十四年、越州刺史・御史大夫・浙東団練觀察使に転じた。先に、王亀の兄の王式がこの郡を撫臨し、恵政があった。王亀が再び至ると聞き、舞抃してこれを迎えた。徐・泗の乱に属し、江淮に盗賊が起こり、山越が乱れ、郡を攻め、賊のために害された。工部尚書を贈られた。子に王蕘。
王蕘は苦学し、文を属することを善くした。季父が相となったため、嫌疑を避けて科試に就かなかった。乾符初、崔瑾が湖南を廉察し、崔涓が江陵を鎮め、皆従事として辟した。蕭遘が相となると、藍田尉に奏授され、直史館となり、左拾遺・右補闕に遷り、中丞の盧涯が侍御史に奏した。僖宗に従って山南に幸し、右司員外郎に拝され、卒した。子の王権は、中興して兵部尚書に至った。
王式は門蔭により、累遷して監察御史となり、転じて殿中侍御史となったが、これも巧みな官吏であった。太和年中、鄭注に依拠し、王守澄に謁見したが、中丞帰融に弾劾され、出されて江陵少尹となった。大中以後、省署を歴任した。咸通初め、浙東観察使となった。草賊の仇甫が明州を占拠して叛き、会稽を攻めてきたので、式はこれを討ち平らげた。式には威略があった。三年、徐州の銀刀軍が叛き、式を徐州節度使とした。式が鎮に至ると、銀刀など七軍をことごとく誅殺し、徐州地方を平定した。天子はこれを嘉した。後に累ねて方鎮の任を歴任し、卒した。
王鐸は、字を昭範という。会昌初めに進士に及第し、二度使府に辟召された。大中初め、入朝して監察御史となった。咸通初め、駕部郎中より知制誥を以て、中書舎人に拝された。五年、礼部侍郎に転じ、二歳にわたり貢士を典試し、時に人を得たと称された。七年、戸部侍郎・判度支を以て、礼部尚書に遷った。十二年、本官のまま同平章事となった。時に宰相韋保衡は抜擢の恩により、王鐸に事えること特に謹み、累ねて刑部尚書・吏部尚書を兼ねた。僖宗が即位すると、右僕射を加えられた。保衡が罪を得ると、王鐸を検校右僕射とし、出して汴州刺史・宣武軍節度使とした。
王鐸には経世の大志があり、安邦を己れの任とし、士友に推された。乾符二年、河南・江左で相継いで寇盗が結集すると、内官田令孜は平素より王鐸の名を聞いていたので、乃ち再び王鐸を召し、右僕射・門下侍郎・同平章事に拝した。四年、賊が江陵を陥とし、楊知溫が守りを失い、宋威が賊を破るに失策した。朝議で統率を論じると、宰相盧攜は高駢が累ねて戦功を立てたことを称え、軍権を付与すべきとし、物議は未だ允されなかった。王鐸が廷上で奏して言うには、「臣は宰執の長を忝くし、朝廷に在っては陛下の憂いを分つに足らず。臣は自ら諸軍を率い、群盗を蕩滌せんことを願う」と。朝議はこれを然りとした。五年、王鐸を以て司徒・門下侍郎・同平章事を守らせ、江陵尹・荊南節度使を兼ね、諸道行営兵馬都統を充てさせた。王鐸が鎮に至ると、流散を綏懐し、軍戎を完葺し、期年の間に、武備は厳整となった。
時に兗州節度使李系なる者は、西平王李晟の孫であり、その家世の将才を以て、奏用して都統都押衙とし、湘南団練使を兼ねさせた。時に黄巢は嶺南に在り、王鐸は精甲を悉く李系に付し、分兵して嶺路を扼せしめた。李系には将略が無く、微かに口才があり、軍政を治めなかった。広明初め、賊は嶺南より湖南諸郡を寇し、李系は城を守って自ら固め、敢えて出戦しなかった。賊は木を編んで筏とし、湘に沿って下り、急に潭州を攻めて、これを陥とした。李系の甲兵五万は、皆賊に殺され、屍は江に投げられた。王鐸は李系の敗北を聞き、部将董漢宏に江陵を守らせ、自ら兵万余を率いて襄陽の師と会した。江陵は遂に賊に陥とされた。天子はこれを責めなかった。宰相を罷め、太子太師を守らせた。宰相盧攜が権を執り、遂に淮南の高駢を以て王鐸に代えて都統とした。
その年の秋、賊は淮南を焚掠し、高駢は挫敗した。賊が両京を陥とすに及び、盧攜が罪を得ると、天子は鄭畋を兵馬都統に用いた。明年、鄭畋は病んで行在に帰り、朝議は復た王鐸を侍中・滑州刺史・義成軍節度使とし、諸道行営都統を充てさせた。禁軍・山南・東蜀の師三万を率い、盩厔の東に営し、進んで霊感寺に屯した。
明年の春、兗・鄆・徐・許・鄭・滑・邠・寧・鳳翔の十鎮の師が大いに関内に集結した。時に賊は既に名号を僭称し、以前の浙東観察使崔璆・尚譲を宰相とし、偽命を伝えた。天下の藩帥は、多く両端を持した。既に王鐸が四方に檄を伝えるを聞き、諸侯は翻然として景附した。賊の号令は、東西は岐・華を過ぎず、南北は山・河に止まった。而して勁卒驍将は、日に国門を馳突し、群賊は是より離心した。その年の秋、賊将朱温が降り、同州を収めた。十一月、賊の華州戍卒七千が来奔した。三年二月、沙陀軍が至り、華州を収めた。四月、良田坡にて賊を破り、遂に京城を収めた。王鐸を晋国公に封じた。王鐸は中書令を加えられ、城を収めた諸将の、その功伐の高下を量り、制を承って爵賞を以て聞かせた。是の時、国命は綴旒の若く危うく、天子は蛮陬に播越し、大事は去った。若し鄭畋の奮発、王鐸の忠義が無ければ、則ち土運の隆替は、未だ知るべからざるなり。
黄巢・尚譲の乱より、関東の方鎮牙将は、皆主帥を逐い、自ら藩臣と号した。時溥は徐州を占拠し、朱瑄は鄆州を占拠し、朱瑾は兗州を占拠し、王敬武は青州を占拠し、周岌は許州を占拠し、王重栄は河中を占拠し、諸葛爽は河陽を占拠し、皆自ら一藩を擅にし、職貢は入らず、賞罰は己れより出した。既に賊を関より逐い出すと、特に功伐を恃み、朝廷は姑息に暇あらず。黄巢賊は関東を出で、蔡帥秦宗権と合縦した。時溥は徐方に挙兵し、身を以て先ず賊を討たんことを請うたので、乃ち時溥に都統の命を授けた。十軍軍容使田令孜は、内官楊復光に監護用師の功有るを以て、特に儒臣の事を立つるを忌み、故に時溥の授け有り。
初め、王鐸が出軍するに、鄭滑節度使を兼ね、以て供饋に便ならしめた。是に至り、王鐸の都統の権を罷め、節を仗して藩に帰らしめた。王鐸は朱全忠が己れに恩有るを以て、藩蔽として倚りた。初め、朱全忠は辞礼恭順であったが、既にして朱全忠の軍旅稍く集まるに及び、その意漸く倨慢となった。王鐸は依るべからざるを知り、表を上して還朝を求めた。
その年の冬、僖宗が蜀より将に還らんとす、乃ち王鐸を以て滄景節度使とした。時に楊全玫は滄州に在り、王鐸の来るを聞き、魏州の楽彦貞に訴えた。王鐸は命を受けて鎮に赴くに、魏州に至ること旬日、楽彦貞は迎謁し、宴労ことのほか甚だしかった。王鐸は上臺の元老、功は群後に蓋い、行くには則ち肩輿に乗り、妓女が夾侍し、賓僚の服禦、尽く美を一時にした。楽彦貞の子従訓は、兇戾にして行い無く、窃かにこれを慕い、甘陵州の卒数百人をして、漳南の高鶏泊に伏せしめた。王鐸の行李の至るに及び、皆これが為に掠められ、王鐸と賓客十余人は、皆害に遇った。時に光啓四年十二月なり。
王鐸の弟王鐐は、累官して汝州刺史に至った。王仙芝が郡城を陥とし、害に遇った。
李絳
李絳は、字を深之といい、趙郡贊皇の人である。曾祖は貞簡。祖は剛、官は終に宰邑。父は元善、襄州録事参軍。李絳は進士に挙げられ、宏辞科に登第し、秘書省校書郎を授かった。秩満し、渭南尉を補した。貞元末、監察御史に拝された。元和二年、本官のまま翰林学士を充てた。未だ幾ばくもなく、尚書主客員外郎に改めた。年を逾え、司勲員外郎に転じた。五年、本司郎中・知制誥に遷った。皆内職を離れず、孜孜として匡諫を己れの任とした。
憲宗が即位し、叛臣李錡が浙右に兵を阻んだ。李錡が既に誅せられると、朝廷はその没収した家財を輦運せんとした。李絳が上言して言うには、「李錡は兇狡叛戾、僭侈誅求し、六州の人を刻剝し、一道の苦を積み成す。聖恩は本より叛乱を以て致討し、一方を蘇息せしむ。今、錢帛を輦運し、四海に播聞するは、所謂乱略を式遏し、困窮を恵綏するに非ず。伏して天慈を望み、並びに本道に賜い、貧下戸の今年の租税に代えしめば、則ち万姓欣戴し、四海歌詠せん」と。憲宗はこれを嘉した。
時に中官吐突承璀は藩邸より恩寵を承け、神策護軍中尉となり、乃ち安国仏寺に『聖政碑』を建立し、大いに功作を興し、仍って翰林にその文を請うた。李絳が上言して言うには、
陛下は維新の政を布き、積習の弊を刬ぎ、四海は頸を延べて、日に徳音を望む。今忽ちに『聖政碑』を立て、天下に不広を示す。『易』に称す、大人なる者は天地と徳を合し、日月と明を合すと。契を執り拱を垂れ、精を励まして理を求め、豈に文字を以て聖徳を尽くし、碑表を以て皇猷を賛すべけんや。若し叙述すべきならば、是れ分限有り、盛徳を虧損し、豈に至道を敷揚するを謂わんや。故に堯・舜・禹・湯・文・武より、並びに碑を建つる事無し。秦の始皇に至りて、荒逸の君、煩酷の政にして、然る後に罘・嶧の碑有り、誅伐の功を揚げ、巡幸の跡を紀す、適足らく百王の笑い為す所、万代の譏る所と為す。今に至るまで失道亡国の主と称せらる、豈に此れに擬議すべけんや。陛下は高祖・太宗の業を嗣ぎ、貞観・開元の政を挙げ、理を思うに食を遑えず、諫に従うこと順流の如し。固より堯・舜・禹・湯・文・武と方駕して行うべく、又安んぞ秦の皇の暴虐不経の事を追い、自ら聖政を損ぜんや。近くは、閻巨源の紀聖功碑を立てんことを請う、陛下は事の宜しきを詳らかに尽くし、皆許さず。今忽ちに此れを立てしむるは、前の事と頗る乖けり。況んや此の碑は既に安国寺に在り、遊観宗飾の事を叙載せざるを得ず。遊観を述くるは且つ理要に乖き、崇飾を叙するは又政経に匪ず、固より哲王の宜しく行う所に非ず。其の碑は、伏して乞う、聖恩を以て特に関罷せしめんことを。
憲宗は深く之を然りとし、其の碑遂に止む。
絳後に浴堂北廊に因りて奏対し、中官の縦恣、方鎮の進献の事を極論す。憲宗怒り、声を厲して曰く、「卿の論奏する所、何ぞ過ぎたるや」と。絳前に論じて已まず、曰く、「臣の諫論する所は、臣に利無く、是れ国家の利なり。陛下臣の愚を以てせず、腹心の地に処せしむ、豈に事の聖徳を虧き、清時を損ずるを見て、身を惜しみて言わざるべけんや。屋を仰ぎ窃かに嘆ずるは、是れ臣の陛下に負う所なり。若し患禍を顧みず、誠を尽くして奏論し、旁ら幸臣に忤い、上り聖旨を犯し、此れを以て罪を獲るは、是れ陛下の臣に負う所なり。且つ臣と中官とは、素より相識らず、又嫌隙無し、只だ威福の太盛にして、上り聖朝を損ずるを以て、臣敢へて論ぜざる所以なり。臣をして緘黙せしむるは、社稷の福に非ず」と。憲宗其の誠切なるを見て、容を改めて慰喻して曰く、「卿朕に節を尽くし、人の言い難き者を、卿悉く之を言う、朕をして聞かざる所を聞かしむ、真に忠正誠節の臣なり。他日南面するも、亦須らく此くの如くすべし」と。絳恩を拝して退く。遽かに宰臣を宣し、官を改めしむるを令す。乃ち中書舎人を授け、前に依りて翰林学士とす。翌日、面して金紫を賜い、帝親しく絳が為に良笏を択びて之を賜う。
前後の朝臣裴武・柳公綽・白居易等、或は奸人の排陥する所と為り、特らに貶黜を加う。絳毎に密疏を以て申論し、皆寛宥を獲たり。鎮州節度使王士真の死するに及び、朝廷兵を用いて討除せんとす。絳深く陳べて未だ可からずと為す。絳既に心を尽くして匡益す。帝毎に詢訪有れば、多く事機に協う。六年、猶お中人の故を以て、学士を罷め、戸部侍郎を守り、本司事を判す。嘗て次対に因りて、憲宗曰く、「戸部比に進献有り、卿に至りて独り無し、何ぞや」と。絳曰く、「戸部の銭を将て内蔵に献入するは、是れ物を用いて私恩を結ぶなり」と。上聳然とし、益々其の直を嘉す。吐突承璀恩寵二と莫く、是の歳、将に絳を用いて宰相と為さんとす。前一日、承璀を出して淮南監軍と為す。翌日、制を降し、絳を以て中書侍郎・同中書門下平章事と為す。同列の李吉甫便僻にして、善く上意に逢迎す。絳梗直にして、多く規諫する所有り。故に吉甫と協わず。時に議する者、吉甫の承璀に通ずるを以て、故に絳尤も之を悪む。絳性剛訐にして、毎に吉甫と争論す。人多く絳を直とす。憲宗絳の忠正自立するを察す。故に絳の論奏、多く允従する所あり。
上嘗て絳に謂ひて曰く、「卜筮の事、習ふ者精なること罕なり。或ひは中り或ひは否む。近日の風俗、尤更に崇尚す。何ぞや」と。対へて曰く、「臣聞く、古の先哲の王は天命を畏れ、敢へて専にせざるを示す。邦に大事有りて疑はしき者は、故に先づ卿士庶人に謀り、次ひで卜筮に決す。俱に協へば則ち之を行ふ。末俗浮偽にして、幸ひに以て僥福す。正行は危を慮ひ、邪謀は安を覬ひ、疑ひ遅らせ惑ひ昏みて、小数の能く之を決すと謂ふ。而して愚夫愚婦、時日鬼神を仮る者は、利を欲して欺詐し、之を見聞に参へ、用ひて刺射の小近き事を為し、神として之を異にす。近くは、風俗巫に近し。此れ誠に弊俗なり。聖旨の及ぶ所、実に邪源を弁ず。但だ存して論ぜざれば、弊斯くの如く息む」と。
他日延英にて、上曰く、「朕『玄宗実録』を読み、開元の理を致し、天宝の乱を兆すを見る。事一つの朝に出でて、治乱相反す。何ぞや」と。絳対へて曰く、
臣聞く、理は危心に生じ、乱は肆志に生ず。玄宗は天後の朝より出でて藩邸に居り、嘗て官守を蒞み、時賢を外に接し、人事の艱難を知る。臨禦の初め、姚崇・宋璟を用ふ。二人皆忠鯁の上才にして、動もて主を致すを心と為す。明皇思理の初めに乗じ、亦励精して聴納す。故に当時名賢位に在り、左右前後、皆忠正を尚ぶ。是を以て君臣交泰し、内外寧謐す。開元二十年以後、李林甫・楊国忠相継いで事を用ひ、専ら柔佞の人を引き、要劇に分居せしめ、苟も上に媚び、直言を聞かず。嗜欲転た熾んにして、国用足らず。奸臣は利を興すを以て説き、武夫は辺を開くを以て説く。天下騒動し、奸盗隙に乗ず。遂に両都覆敗し、四海沸騰し、乗輿播遷し、幾くんぞ復た難からんとす。蓋し小人の啓導し、縦逸して驕を生ずるの致す所なり。今に至るまで兵両河に宿し、西疆削ぎ尽くされ、甿戸彫耗し、府蔵空虚す。皆天宝の喪乱に因りて、以て此に至る。安危理乱は、実に時主の行ふ所に繫る。陛下天聴を広く思し召し、国史を親覧し、精賾に意を垂れ、化源に鑑みらるるは、実に天下幸甚なり。
上又曰く、「凡人行事するに、常に理に通ぜざるを患ふ。已然の失は、追悔誠に難し。古人此れに処するに、復た道有りや否や」と。絳対へて曰く、「行事過差するは、聖哲皆免れざる所なり。故に天子諍臣を致して其の失を匡む。故に主は心を中に理し、臣は論を外に正す。理を未だ乱れざるに制し、患を未だ萌さざるに銷す。主或ひは挙ぐるに過ぐれば、則ち諫めて以て之を正す。故に上下体を同じくし、猶ほ手足の心膂に於けるが如く、交相用ひて以て康寧を致す。此れ亦常理にして、難きに遵ふ事に非ず。但だ得を矜り失を護るは、常情の蔽ふ所なり。古人は過ちを改めて吝からざるを貴び、善に従うこと流るるが如きを良しと為すは、此れ為なり。臣等位に備はりて、発明する所無し。但だ陛下芻言を廃せざれば、則ち端士賢臣、必当自ら効すべし」と。帝曰く、「朕卿等を擢用するは、直言を冀ふ所なり。各宜く心を尽くして隠すこと無く、以て逮はざるを匡へよ。失を護るを以て慮ひと為すこと無かれ」と。
其の秋、魏博節度使田季安死す。其の子懷諫幼弱なり。軍中其の大将田興を立て、軍事を主らしむ。興遂に六州の地を以て命に帰す。其の経始営創するは、皆絳の謀なり。
時に教坊が突如として密旨を称し、良家の子女及び衣冠の別第の妓人を取る。京師は騒然となる。李絳は同列に謂いて曰く、「此の事は大いに聖徳を虧損す、論諫有るべし」と。或る人は曰く、「此れは嗜欲の間の事、自ら諫官の論列有るべし」と。絳曰く、「相公は常に諫官の事を論ずるを病む、此の難事即ち諫官に推す、可ならんや」と。乃ち極めて言論を奏す。翌日の延英にて、憲宗は手を挙げて絳に謂いて曰く、「昨卿の状の論ずる所の采択の事を見る、卿の朕に尽忠せざれば、何ぞ此れに及ばんや。朕は皆外の事を知らず、此れは教坊の罪過、朕の意を諭さず、以て此れに至る。朕は丹王已下四人の縁に因り、院中に皆侍者無し、朕は楽工中及び閭裏に情願する者に於て、其の錢帛を厚くし、只だ四人を取り、四王各一人に与う。彼は朕の意を会せず、便に此の如く事を生ず。朕は已に科罰を令す、其の取る所の人、並びに已に帰を放つ。若し卿の言に非ざれば、朕寧ぞ此の過を知らんや」と。
八年、高邑県男を封ず。絳は足疾を以て、章を拝して免を求む。九年、政事を知るを罷め、礼部尚書を授く。十年、戸部尚書を検校し、出でて華州刺史と為る。未だ幾ばくもあらず、入りて兵部尚書と為る。母憂に丁す。十四年、吏部尚書を検校し、出でて河中観察使と為る。河中は旧く節制と為るも、皇甫鎛は絳を悪み、只だ観察を以て之を命ず。十五年、鎛罪を得、絳復た兵部尚書と為る。
穆宗即位し、御史大夫に改む。穆宗は畋遊行幸に亟にして、絳は延英に於て切に諫むも、帝用いる能わず。絳は疾を以て辞し、復た兵部尚書と為る。長慶元年、吏部尚書に転ず。是の歳、検校尚書右僕射を加え、東都尚書省事を判じ、東都留守を充つ。二年正月、本官・兗州刺史・兗海節度観察等使を検校す。三年、復た東都留守と為る。四年、就いて検校司空を加う。
宝暦初め、入りて尚書左僕射と為る。二年九月、昭義節度使劉悟卒し、遺表して請う子の従諫を以て嗣襲せしめんと、将吏闕に詣りて論請す。絳は密かに奏して速やかに近く澤潞四面の将帥一人を除き、以て節度を充てしめ、倍程を令して鎮に赴かしめ、従諫の未だ命を拒ぐに及ばざるに、新使已に到らしめんことを請う。所謂「疾雷耳に及ばず」と。潞州の軍心、自ら系く所有り。従諫は位無く、何を以てか主張せん。時に宰相李逢吉・王守澄は已に従諫の賂を受け、倶に従諫を留後と為さんことを請う。絳の言を用いる能わず。
絳は直道を以て進退し、聞望一時に傾く。然れども剛腸にして悪を嫉み、賢不肖を太だ分つ、此れを以て非正の徒の忌む所と為る。又嘗て御史中丞王播と道に於て相遇う、播は之が為に避けず。絳は事体を論じて奏し、勅を命じて両省に詳議せしむ。皆絳の論奏是なりと為す。李逢吉は播を佑けて絳を悪み、乃ち絳の僕射を罷め、改めて太子少師を授け、東都に分司せしむ。
文宗即位し、征して太常卿と為す。二年、司空を検校し、出でて興元尹・山南西道節度使と為る。三年冬、南蛮西蜀を寇す。詔して赴援を征す。絳は本道に於て兵千人を募りて蜀に赴く。中路に及び、蛮軍已に退き、募る所の者皆還る。興元の兵額は素より定まり、募卒は悉く罷帰を令す。四年二月十日、絳は晨興して事を視し、募卒を召し、詔旨を以て諭して之を遣り、仍って廩麦を給す。皆怏怏として退く。監軍使楊叔元は財を貪り寵を怙り、絳の己に奉ぜざるを怨む。乃ち募卒の賞薄きに因り、衆の辞するの際、言を以て之を激し、其の乱を為さんことを欲し、以て私憾を逞うす。募卒は監軍の言に因り、怒気益甚だしく、乃ち噪聚して府に趨き、庫兵を劫して使衙に入る。絳方に賓僚と会宴し、設備に及ばず。乱を聞きて北走し陴に登る。衙将王景延力戦して以て之を禦ぐ。兵折れ矢窮まり、景延死す。絳乃ち乱兵の害する所と為る。時に年六十七。
絳初めに陴に登る、左右絳に城を縋るを請う、以て避くべしと。絳従わず。乃ち並びに従事趙存約・薛齊と倶に死す。
文宗奏を聞き震悼し、制を下して曰く、「朝に正人有り、時に令徳を称す。入りて廟算に参じ、出でて師幹を総ぶ。方に寵任の臣たらんとす、横に不幸の酷に罹う。殄瘁して嘆きを興す、搢紳の同くする所。故山南西道節度・管内観察処置等使・銀青光禄大夫・検校司空、兼ねて興元尹・御史大夫・上柱国・趙郡開国公・食邑二千戸李絳は、神に聰明を授けられ、天に清直を賦せらる。仁義を抱きて前哲に希い、標準を立てて後来を程す。時情を抑揚し、坐して臺輔を致す。我が烈祖を佐け、皇天に格る。鉞を仗して風を宣べ、聯居して楽土に居る。軒に乗り玉を鳴らし、嘗て清班を極む。先声して物議皆帰し、約せずして群情自ら許す。漢中の名部、便安を遂げしめんとす。而して変は図らずして起り、禍は兆無くして生ず。良を殲むるの慟、訃を聞きて傷を増す。是れ哀栄を極め、用て典礼を優せんとす。三公の正秩、品数甚だ崇し、式に異恩を表し、以て沈痛を攄く。司徒を贈る可し。仍って所司に日を択び礼を備え冊命せしめよ」と。賻に布帛三千段・米粟二百碩を賜う。子に璋・頊有り。
璋、進士第に登る。盧鈞太原に鎮し、辟いて従事と為す。大中末、朝に入りて監察と為り、侍御史に転ず。出でて両郡を刺し、終に宣歙観察使と為る。子に徳林有り。
楊於陵
楊於陵、字は達夫、弘農の人。漢の太尉楊震の第五子の奉の後。曾祖は珪、辰州掾曹と為る。祖は冠俗、奉先尉。父は太清、宋州単父尉。於陵、天宝末に家を河朔に寄す。禄山乱に、其の父賊に歿す。於陵始め六歳。及び長じ、江南に客す。好学し、奇誌有り。弱冠にして進士を挙げ、褐を釈して潤州句容主簿と為る。時に韓滉金陵を節制す。滉は性剛厳にして、接与する所少なし。及び於陵属吏を以て謁謝するに及び、滉甚だ之を奇とし、其の妻柳氏に謂いて曰く、「夫人常に佳婿を択ぶ、吾人多くを閲す、楊主簿の如きは無し」と。後竟に女を以て之に妻す。秩満し、鄂嶽・江南二府の従事と為り、累官して侍御史に至る。
韓滉が江南より入朝し、将相と財賦の任を総べ、顧遇を大いに受け、権勢は中外に傾いた。於陵は江西府を罷めてより、婦翁の権幸が方に熾んであるを以て、進取を欲せず。乃ち建昌に卜築し、書を読み山水を楽しむを以て楽しみとした。滉歿し、貞元八年に始めて入朝し、膳部員外郎となり、考功・吏部の三員外を歴任し、南曹を判じた。時に宰相に密親ありて調集せんとし、文書が式に如かざるを、於陵これを駁し、大いに物論に協った。右司郎中に遷り、復た吏部郎中に転じ、京兆少尹に改めた。出でて絳州刺史となる。徳宗は雅にその名を聞き、郡に赴かんとして辞せんとするに、詔してこれを留め、中書舍人を拝した。時に李実が京兆尹たり、承恩寵を恃み、於陵は給事中許孟容とともに附協せず、実のために媒孽せられ、孟容は太常少卿に改められ、於陵は秘書少監となった。貞元末、実の輩敗れ、於陵を華州刺史に遷し、潼関防禦・鎮国軍等使を充てた。未だ幾ばくもせず、浙江東道都団練観察等使に遷った。政声流聞し、入朝して戸部侍郎を拝し、復た京兆尹に改めた。先に、禁軍が編戸を影占し、区別する術なし。於陵より挾名を致さんことを請うてより、五丁毎に、両丁を軍に入れ、四丁・三丁の者は、各条限に以てす。これにより京師の豪強、復た畏るべき所を知る。再び戸部侍郎に遷る。
元和初め、考策を以て、直言極諫の牛僧孺等を昇進せしめ、執政の怒りに触れ、嶺南節度使として出された。時に監軍使許遂振が悍戾貪恣にして、軍政を幹撓す。於陵は公に奉じ己を潔くし、遂振は奈何する能わず、乃ち飛語を以て上聞す。憲宗驚惑すれども、宰相裴垍が於陵のために申理するに頼り、憲宗感ずる所ありて悟る。
五年、入朝して吏部侍郎となる。遂振は終に自ら罪を得たり。
於陵が吏部に在ること、凡そ四歳、奸吏を監察し、調補平允にして、当時にこれを称せらる。初め、吏部は判を試みるに、別に考判官三人を差して能否を校せしめしが、元和初めにこれを罷む。
七年、吏部尚書鄭余慶疾を以て告を請う、乃ち復た考判官を置き、兵部員外郎韋顗・屯田員外張仲素・太学博士陸亙等を以てこれとなす。於陵東都より来たりて言うに、「本司の判を考ふるは、自ら公心を当てるべし。次に非ざる官を置くは、曹内の公事を知らず。考官は只だ判の能否を論じ、闕員を計らず;本司は只だ員闕幾何を計り、その留放を定む。官を置くは便ならず。」宰執は已に顗等を置きたるを以て、只だ科目選人の考を令し、その余の常調は、本司に委ねて自ら考せしむ。於陵また甲歴年深く朽断し、吏これに縁りて奸をなすを以て、大暦七年より貞元二十年に至る甲庫の歴を換うることを奏し、本司の郎官に令して監換せしむ。
九年、妖人楊叔高広州より来たりて於陵に干し、己が輔となることを請う、於陵執奏してこれを殺す。兵部侍郎・判度支に改む。時に淮西に兵を用う、於陵親しき者を用いて唐鄧供軍使と為し、節度使高霞寓は供軍に闕あるを以て、牒を度支に移すも、於陵これが為に易えず、その闕は旧の如し。霞寓の軍屡に摧敗あり、詔書これを督責す;乃ち度支の饋運継がざるを以て奏す。憲宗怒り、
十一年、於陵を桂陽郡守に貶し、量移して原王傅とす。復た戸部侍郎に遷し、吏部選事を知る。時に李師道を誅し、その地を分けて三鎮と為すに会い、朝廷思う所ありて制置せんとし、於陵を以て御史大夫を兼ね、淄・青十二州宣慰使を充てしむ。還りて奏するに旨に合う。
穆宗即位し、戸部尚書に遷る。長慶初め、太常卿を拝し、東都留守を充て、年高くして章を拝して位を辞す。宝暦二年、検校右僕射・兼太子太傅を授く。旋って左僕射を以て致仕し、詔して全俸を給すも、懇に譲りて受けず。
於陵器度弘雅にして、進止常あり。朝に居ること三十余年、中外に践更し、終始その正を失わず。官に居り職を奉ずるも、また善く操守し、時人皆その風徳を仰ぐ。太和四年十月卒す、年七十八、冊して司空を贈り、謚して貞孝と曰う。
子四人:景復・嗣復・紹復・師復。
嗣復は自ら伝あり。景復は位終に同州刺史。紹復は進士に擢第し、弘辞に登科し、位終に中書舍人。師復は位終に大理卿。
大中後、楊氏の諸子進士第に登る者十人:嗣復の子授・技・拭・捴;紹復の子擢・拯・據・揆;師復の子拙・振等。擢は終に給事中。拯は司封員外郎。據は右補闕。揆は左諫議大夫。拙は左庶子。振は左拾遺。
【贊】
史臣曰く:王氏の二英、播・起は位将相に崇く、善く始め令終す。而して炎は祐薄く齢短く、美は鐸に鐘し、而も能く首を驤け翼を矯め、亨衢を淩厲し、鉞を仗り衡を秉り、衰運を扶持す。天何ぞ善を罰し、盗に遇いて殂せしむるや、悲しいかな!李趙公は禁林に頡頏し、相府に訏謨し、嘉言を以て啓沃し、身を以てせず。躯を将壇に糜し、没して余裕あり。楊僕射は婦翁の当軸を避け、驕尹の権を怙うを疏んじ、道を守り貞に居り、寿考終に吉く、己を行なう始め終わり、人以為難し。美しいかな!
贊して曰く:王氏は儒宗、一門三相。趙公は排擯せられ、言猶お鯁亮なり。幹将は折ると雖も、その剛を改めず。楊君の徳は、『韶』・『夏』洋洋たり。