舊唐書

巻164

巻164

舊唐書

原文舊唐書

卷一百六十四

原文卷一百六十四

列傳第一百十四 王播 李絳 楊於陵

原文列傳第一百十四 王播 李絳 楊於陵

王播

原文王播

王播は、字を明揚という。曾祖父の璡は、嘉州司馬であった。祖父の升は、咸陽令であった。父の恕は、揚府参軍であった。播は進士に及第し、賢良方正制科に登第して、集賢校理に任ぜられ、再び監察御史に遷り、殿中に転じ、侍御史を歴任した。貞元の末、幸臣の李実が京兆尹となり、恩寵を恃んで甚だ横暴で、かつて播と道で出会ったが、避けなかった。故事によれば、京兆尹は台官を避けるものである。播は移文してこれを誹謗した。李実は怒り、後に播を三原令に奏上し、これを挫こうとした。播は命を受け、府に急ぎ謁見して謝し、府県の礼儀を尽くした。そして管轄する所に臨むと、政治は整い明らかで、勢力を恃む豪門にも、法を緩めることはなかった。年末の考課で、畿内の県で最も優れていた。李実はその人に政術があるとして、甚だ礼遇し重んじ、頻りに上に推薦した。徳宗はこれを奇異に思い、順序を飛び越えて抜擢任用しようとしたが、ちょうど母の喪に遭った。

原文王播,字明敭。曾祖璡,嘉州司馬。祖升,咸陽令。父恕,揚府參軍。播擢進士第,登賢良方正制科,授集賢校理,再遷監察御史,轉殿中,歷侍御史。貞元末,幸臣李實為京兆尹,恃恩頗橫,嘗遇播於途,不避。故事,尹避臺官。播移文詆之;實怒,後奏播為三原令,欲挫之。播受命,趨府謁謝,盡府縣之儀。及臨所部,政理修明,恃勢豪門,未嘗貸法。歲終考課,為畿邑之最。實以其人有政術,甚禮重之,頻薦之於上。德宗奇之,將不次拔用,會母喪。

順宗が即位すると、駕部郎中に任ぜられ、長安ちょうあん令に改められた。その年のうちに、工部郎中に遷り、台雑を知り、綱憲を刺挙して、人に称えられた。考功郎中に転じ、虢州刺史として出向した。李巽が塩鉄を管轄すると、副使・兵部郎中に奏上した。

原文順宗即位,除駕部郎中,改長安令。歲中,遷工部郎中,知臺雜,刺舉綱憲,為人所稱。轉考功郎中,出為虢州刺史。李巽領鹽鐵,奏為副使、兵部郎中。

元和五年、李夷簡に代わって御史中丞となった。朝章を振るい挙げ、百官の職務が修められた。十月、許孟容に代わって京兆尹となった。当時、禁軍諸鎮が畿内に布列し、軍人が出入りする際、鞬を帯び剣を佩き、しばしば盗賊が発生し、奸悪を捕らえるのが難しかった。そこで播は奏上して、畿内の軍鎮の将卒は、出入りの際に戎具を持ってはならず、諸王・駙馬・権豪の家は、畿内で鷹犬や狩猟の具を試してはならないと請うた。詔はこれに従い、これより奸盗は止み息んだ。六年三月、刑部侍郎に転じ、諸道塩鉄転運使を充てた。

原文元和五年,代李夷簡為御史中丞。振舉朝章,百職修舉。十月,代許孟容為京兆尹。時禁軍諸鎮布列畿內,軍人出入,屬鞬佩劍,往往盜發,難以擒奸。布播奏請畿內軍鎮將卒,出入不得持戎具,諸王駙馬權豪之家,不得於畿內按試鷹犬畋獵之具。詔從之,自是奸盜弭息。六年三月,轉刑部侍郎,充諸道鹽鐵轉運使。

播は吏術に長け、文書が煩雑であっても、分析は流れる如く、狡猾な吏の欺瞞も、明らかに敗露させずにはおかなかった。当時は天下に事変が多く、法寺の議讞は、科条が繁雑であった。播は前後の格条をことごとく挙げて、座右に置いた。凡そ詳決する時は、疾速にして神の如かった。当時の属僚は、嘆服して暇がなかった。

原文播長於吏術,雖案牘鞅掌,剖析如流,黠吏詆欺,無不彰敗。時天下多故,法寺議讞,科條繁雜。播備舉前後格條,置之座右。凡有詳決,疾速如神。當時屬僚,嘆服不暇。

十年四月、礼部尚書に改め、使職は従前の通りであった。先に、李巽が程异を江淮院官とし、异はまた泉貨に通じていた。播が使職を管轄すると、これを副使に奏上した。王師が呉元済を討つ時、异に伝馬を乗り継いで江淮に往かせ、賦輿が大いに集まり、賊が平定されるまで、深く力があった。皇甫鎛が権力を握ると、播が大用されるのを恐れ、乃ち使務を程异に命じて管轄させ、播は本官を守るのみとした。十三年、検校戸部尚書・成都尹・剣南西川節度使となった。

原文十年四月,改禮部尚書,領使如故。先是,李巽以程异為江淮院官,异又通泉貨,及播領使,奏之為副。當王師討吳元濟,令异乘傳往江淮,賦輿大集,以至賊平,深有力焉。及皇甫鎛用事,恐播大用,乃請以使務命程异領之,播守本官而已。十三年,檢校戶部尚書、成都尹、劍南西川節度使。

穆宗が即位し、皇甫鎛が貶されると、播は累表して京師への帰還を求めた。長慶元年七月、征還され、刑部尚書に拝され、再び塩鉄転運等使を管轄した。十月、中書侍郎・平章事を兼ね、使職は従前の通りであった。長慶年間、内外の権臣は、多くが仮借していた。播は銅塩のことで輔弼の位に抜擢され、専ら承迎を事とし、安危を啓沃することには、一言も措かなかった。当時、河北が再び叛き、朝廷は兵を用いた。裴度が太原から入朝した時、朝野の物論は、度が外に居るのは宜しくないと言った。明年三月、度を留めて政事を知らせ、播が度に代わって淮南節度使・検校右僕射となり、使職は従前の通りであった。なお塩鉄の印を携えて赴鎮することを請い、上都院の印は、別に給賜するよう請うた。詔はこれに従った。播が淮南に至ると、旱魃と凶作に遭い、人々は互いに食らい合い、課税は満たされず、法を設けて掊斂し、家ごとに怨嗟の声があった。

原文穆宗即位,皇甫鎛貶,播累表求還京師。長慶元年七月,征還,拜刑部尚書,復領鹽鐵轉運等使。十月,兼中書侍郎、平章事,領使如故。長慶中,內外權臣,率多假借。播因銅鹽擢居輔弼,專以承迎為事,而安危啟沃,不措一言。時河北復叛,朝廷用兵。會裴度自太原入覲,朝野物論,言度不宜居外。明年三月,留度復知政事,以播代度為淮南節度使、檢校右僕射,領使如故。仍請攜鹽鐵印赴鎮,上都院印,請別給賜,從之。播至淮南,屬歲旱儉,人相啖食,課最不充,設法掊斂,比屋嗟怨。

敬宗が即位すると、就いて銀青光禄大夫・検校司空しくうを加えられ、塩鉄転運使を罷免された。当時、中尉の王守澄が権力を握り、播は自ら利権を失い、広く珍異を求め、腹心の吏に命じて内に守澄と結ばせ、助けとした。守澄は隙を見て啓奏し、播に才があると言い、上は延英殿でこれを言った。諫議大夫の独孤朗・張仲方、起居郎の孔敏行・柳公権・宋申錫、補闕の韋仁実・劉敦儒、拾遺の李景譲・薛廷老らは、延英殿を開いて面奏し、播の奸邪で、寵幸と交結し、再び大用を求めることを請うた。天子は幼少で、その言を用いることができなかった。これより、物議は紛然として止まなかった。明年正月、播は再び塩鉄転運使を管轄した。播は旧職を得ると、乃ち銅塩の内で、巧みに賦斂を行い、月進を事とした。名は羨余であるが、実は正額であり、ひたすら奨励抜擢を希い、人の言を顧みなかった。

原文敬宗即位,就加銀青光祿大夫、檢校司空,罷鹽鐵轉運使。時中尉王守澄用事,播自落利權,廣求珍異,令腹心吏內結守澄,以為之助。守澄乘閑啟奏,言播有才,上於延英言之。諫議大夫獨孤朗、張仲方,起居郎孔敏行、柳公權、宋申錫,補闕韋仁實、劉敦儒,拾遺李景讓、薛廷老等,請開延英面奏播之奸邪,交結寵幸,復求大用。天子沖幼,不能用其言。自是,物議紛然不息。明年正月,播復領鹽鐵轉運使。播既得舊職,乃於銅鹽之內,巧為賦斂,以事月進。名為羨余,其實正額,務希獎擢,不恤人言。

当時、揚州城内の官河は水が浅く、旱魃に遇うと漕船が滞った。そこで奏上して、城南の閶門の西七里港から河を開いて東に向かい、屈曲させて禅智寺橋を経て旧官河に通じ、開鑿をやや深くし、舟航が容易に渡れるようにした。開いた長さは十九里で、その工役の材料と費用は、省の銭を破らず、当該の使が方円自ら備え、漕運を阻害しないようにした。後の政事はこれに頼った。

原文時揚州城內官河水淺,遇旱即滯漕船。乃奏自城南閶門西七里港開河向東,屈曲取禪智寺橋通舊官河,開鑿稍深,舟航易濟;所開長一十九里,其工役料度,不破省錢,當使方圓自備,而漕運不阻。後政賴之。

文宗が即位すると、就いて検校司徒しとを加えられた。太和元年五月、淮南から入朝し、大小の銀碗三千四百枚、綾絹二十万匹を進めた。六月、尚書左僕射・同平章事に拝され、使職は従前の通りであった。二年、太原公・太清宮使に封ぜられた。四年正月、喉の腫れを患い急死した。時に七十二歳であった。三日間朝を廃し、太尉を贈られた。

原文文宗即位,就加檢校司徒。太和元年五月,自淮南入覲,進大小銀碗三千四百枚、綾絹二十萬匹。六月,拜尚書左僕射、同平章事,領使如故。二年,進封太原公、太清宮使。四年正月,患喉腫暴卒,時年七十二。廢朝三日,贈太尉。

播は単門の出であり、文辞をもって自立し、華やかな高位に昇り、能名で満ちていた。しかし勢いに随って沈浮し、士人の行いを保たず、奸邪に進取し、君子はこれを恥じた。しかし天性、吏事に勤勉で、使務が積み重なり、胥吏が廷に満ちて決裁を求め、簿書が机に山積みしても、他人は耐えられないようでも、播はこれをもって適所とした。播の子は式、弟は炎・起である。

原文播出自單門,以文辭自立;踐升華顯,郁有能名。而隨勢沈浮,不存士行;奸邪進取,君子恥之。然天性勤於吏事,使務填委,胥吏盈廷取決,簿書堆案盈幾,他人若不堪勝,而播用此為適。播子式,弟炎、起。

炎は、貞元十五年に進士に及第し、累官して太常博士に至り、早世した。子は鐸・鐐である。

原文炎,貞元十五年登進士第,累官至太常博士,早世。子鐸、鐐。

起は、字を挙之といい、貞元十四年に進士に及第し、集賢校理として初官し、制策直言極諫科に登第して、藍田尉に任ぜられた。宰相の李吉甫が淮南に鎮すると、監察御史として掌書記を充てた。朝廷に入って殿中侍御史となり、起居郎・司勲員外郎・直史館に遷った。元和十四年、比部郎中として制誥を知った。穆宗が即位すると、中書舎人に拝された。

原文起,字舉之,貞元十四年擢進士第,釋褐集賢校理,登制策直言極諫科,授藍田尉。宰相李吉甫鎮淮南,以監察充掌書記。入朝為殿中,遷起居郎、司勛員外郎、直史館。元和十四年,以比部郎中知制誥。穆宗即位,拜中書舍人。

長慶元年、礼部侍郎に遷った。その年、銭徽が貢士を掌り、朝臣の請託を受け、人は濫りであると思った。詔により起は同職の白居易と覆試を行い、覆落した者が多かった。銭徽は官を貶され、起は遂に銭徽に代わって礼部侍郎となった。貢挙を掌ること二年、得た士人は特に精選された。先に、貢挙は猥りに濫り、勢門の子弟が互いに酬酢し、寒門の俊造は十のうち六七を棄てられていた。元稹・李紳が翰林に在った時、深くこの事を怒り、故に覆試の科があった。起が貢士を考査すると、奏上して当司の選んだ進士は、考査した雑文に基づき、先ず中書に送り、宰臣に閲視させ可否を決め、それから当司に下して放榜させるとした。詔はこれに従った。議者は、起は是非を避けたが、貢職を失ったと考え、故に河南尹として出された。朝廷に入って吏部侍郎となった。

原文長慶元年,遷禮部侍郎。其年,錢徽掌貢士,為朝臣請托,人以為濫。詔起與同職白居易覆試,覆落者多。徽貶官,起遂代徽為禮部侍郎。掌貢二年,得士尤精。先是,貢舉猥濫,勢門子弟,交相酬酢;寒門俊造,十棄六七。及元稹、李紳在翰林,深怒其事,故有覆試之科。及起考貢士,奏當司所選進士,據所考雜文,先送中書,令宰臣閱視可否,然後下當司放榜。從之。議者以為起雖避是非,失貢職也,故出為河南尹。入為吏部侍郎。

文宗が即位すると、集賢學士を加えられ、院事を判じた。兄の王播が僕射として政を輔けるにあたり、選部を典とすることは欲せず、兵部侍郎に改められた。太和二年、陝虢觀察使・兼御史大夫として出向した。四年、尚書左丞として召し入れられた。王播の喪に際しては、号泣し礼を過ぎて衰え、友悌の情は特に至った。戸部尚書に遷り、度支を判じた。西北辺境の守備のため、毎年和市を行って軍に供給していたが、民を労して輸送させることを憂い、霊武・邠寧において営田を起こすことを奏上した。六年、檢校吏部尚書・河中尹・河中晉絳節度使となった。時に蝗害と旱魃に見舞われ、粟の価格が暴騰し、豪族は穀物を閉ざして善価を求めていた。王起は蓄えを持つ家を厳しく戒め、市中に粟を出させ、隠匿する者は法に処し、これにより民は救済された。七年、兵部尚書として召し入れられた。八年、檢校右僕射・襄州刺史となり、山南東道節度使を充てた。江・漢の水田は、前任者が法を曲げ、塘堰が破損していた。王起が着任すると、従事の李業に命じて管下の郡を行き巡らせ、点検して補修させ、特に水法を定め、民は凶年に遭わなかった。九年、銀青光禄大夫を加えられた。時に李訓が権勢を振るい、李訓は即ち王起が貢挙で取った門生であり、王起を引き立てて宰相にしようとした。八月、詔により兵部侍郎に任じられ、戸部事を判じた。その冬、李訓が敗れると、王起は儒素の長者であったため、人は累とせず、ただ戸部事判を罷免されたのみであった。

原文文宗即位,加集賢學士、判院事。以兄播為僕射輔政,不欲典選部,改兵部侍郎。太和二年,出為陜虢觀察使、兼御史大夫。四年,入拜尚書左丞。居播之喪,號毀過禮,友悌尤至。遷戶部尚書、判度支。以西北邊備,歲有和市以給軍,勞人饋挽,奏於靈武,邠寧起營田。六年,檢校吏部尚書、河中尹、河中晉絳節度使。時屬蝗旱,粟價暴踴,豪門閉糴,以邀善價。起嚴誡儲蓄之家,出粟於市,隱者致之於法,由是民獲濟焉。七年,入為兵部尚書。八年,檢校右僕射、襄州刺史,充山南東道節度。江、漢水田,前政撓法,塘堰缺壞。起下車,命從事李業行屬郡,檢視而補繕,特為水法,民無兇年。九年,就加銀青光祿大夫。時李訓用事,訓即起貢舉門生也,欲援起為相。八月,詔拜兵部侍郎,判戶部事。其冬,訓敗,起以儒素長者,人不以為累,但罷判戶部事。

文宗は文を好み、特に古學を尊んだ。鄭覃は経義に長け、王起は博洽に長じ、ともに翰林に引き入れられ、経史を講論した。王起は学問に僻して嗜み、官位が崇重であっても耽玩して倦むことがなく、夙夜孜孜として、寝食を忘れるほどであり、書は読まぬものなく、目にしたものは遺すことがなかった。兵部尚書に転じた。莊恪太子が儲君となった際、儒者に経を授けさせようとし、太子侍読を兼ね、太常卿を判じ、禮儀詳定使を充て、礼神の九玉を創造し、奏議して言うには、

原文文宗好文,尤尚古學。鄭覃長於經義,起長於博洽,俱引翰林,講論經史。起僻於嗜學,雖官位崇重,耽玩無篸;夙夜孜孜,殆忘寢食,書無不覽,經目靡遺。轉兵部尚書。以莊恪太子登儲,欲令儒者授經,乃兼太子侍讀,判太常卿,充禮儀詳定使,創造禮神九玉,奏議曰:

邦国の礼において、祭祀は大事である。珪璧の議は、経書に前規がある。謹んで『周礼』を按ずるに、「天地四方に、蒼璧をもって天を礼し、黄琮をもって地を礼し、青珪をもって東方を礼し、赤璋をもって南方を礼し、白琥をもって西方を礼し、黒璜をもって北方を礼す」とある。また云う、「四圭に邸ありて以て天を祀る」「両圭に邸ありて以て地を祀る」「圭璧をもって日月星辰を祀る」と。凡そこの九器は、皆祀神の玉である。また云う、「禋祀をもって昊天上帝を祀る」と。鄭玄は云う、「禋は煙なり、玉幣と為し、祭り終わりてこれを燔き、煙を升らせて以て陽に報いるなり」と。今『開元礼』の義と同じく、これ即ち玉を焚く証拠である。また『周礼』に、「国の玉鎮大宝器を掌り、もし大祭ならば、事既に終わりてこれを蔵す」とある。これ即ち玉を収める証拠である。梁代の崔霊恩が撰した『三礼義宗』に云う、「凡そ天神を祭るに、各二玉あり。一は以て神を礼し、一は則ちこれを燔く。神を礼するものは、事終わりて却って収め、神を祀るものは、犠牲とともに燎す」と。則ち霊恩の義は、『礼経』に合致する。今国家が天を郊祀し地を祀るに、祀神の玉は常用するが、経を守り古に拠れば、礼神の玉は無い。臣ら請う、司に下し、良玉を精求し、蒼璧・黄琮等の九器を創造し、祭り終わりて則ちこれを蔵すべし。その燎玉は即ち常制に依るべし。

原文邦國之禮,祀為大事;珪璧之議,經有前規。謹按《周禮》:「天地四方,以蒼璧禮天,黃琮禮地,青珪禮東方,赤璋禮南方,白琥禮西方,黑璜禮北方。」又云:「四圭有邸以祀天」,「兩圭有邸以祀地」,「圭璧以祀日月星辰」。凡此九器,皆祀神之玉也。又云:「以禋祀祀昊天上帝。」鄭玄云:「禋,煙也,為玉幣,祭訖燔之,而升煙以報陽也。」今與《開元禮》義同,此則焚玉之驗也。又《周禮》:「掌國之玉鎮大寶器,若大祭,既事而藏之。」此則收玉之證也。梁代崔靈恩撰《三禮義宗》云:「凡祭天神,各有二玉:一以禮神,一則燔之。禮神者,訖事卻收;祀神者,與牲俱燎。」則靈恩之義,合於《禮經》。今國家郊天祀地,祀神之玉常用;守經據古,禮神之玉則無。臣等請下有司,精求良玉,創造蒼璧、黃琮等九器,祭訖則藏之。其燎玉即依常制。

これに従った。太子のために『五運図』及び『文場秀句』などを広めて献上した。三年、本官をもって翰林侍講學士を充てた。莊恪太子が薨じると、詔により王起に哀冊文を作らせたが、文辞と情は婉麗であった。

原文從之。為太子廣《五運圖》及《文場秀句》等獻之。三年,以本官充翰林侍講學士。莊恪太子薨,詔起為哀冊文,辭情婉麗。

四年、太子少師に遷り、兵部事を判じ、侍講は元の如くであった。その家が貧しいため、特に詔して毎月仙韶院の月料銭三百千を割いて添給させた。王起は文学に富んでいたが、家を治める法がなく、俸料が門に入れば、即ち仆妾の所有となった。帝は師友の恩により、特に周給を加えた。議者は伶官と分給することを恥とすべきであるとした。

原文四年,遷太子少師,判兵部事,侍講如故。以其家貧,特詔每月割仙韶院月料錢三百千添給。起富於文學,而理家無法,俸料入門,即為仆妾所有。帝以師友之恩,特加周給。議者以與伶官分給,可為恥之。

武宗が即位し、八月、山陵鹵簿使を充てた。枢密使の劉弘逸・薛季稜は誅殺を恐れ、山陵の兵士を因って廃立を謀ろうとした。王起は山陵使とその謀を知り、密かに奏上し、皆誅殺された。まもなく檢校左僕射・東都留守となり、東都尚書省事を判じた。

原文武宗即位,八月,充山陵鹵簿使。樞密使劉弘逸、薛季稜懼誅,欲因山陵兵士謀廢立。起與山陵使知其謀,密奏,皆伏誅。尋檢校左僕射、東都留守,判東都尚書省事。

会昌元年、吏部尚書に召し入れられ、太常卿事を判じた。三年、権知礼部貢挙となった。明年、正しく左僕射に任じられ、再び貢挙を知った。

原文會昌元年,征拜吏部尚書,判太常卿事。三年,權知禮部貢舉。明年,正拜左僕射,復知貢舉。

王起は前後四度貢部を典とし、選んだ者は皆当代の辞芸の士で、時に名があり、人は皆その精鑑と公に殉ずることを賞賛した。その年秋、興元尹・兼同平章事となり、山南西道節度使を充てて出向した。鎮に赴く日、延英殿で辞した。帝はこれに謂って言う、「卿は国の耆老なり、宰相に内外無し、朕に闕政あれば、飛表をもって聞かせよ」と。宴賜は頗る厚かった。鎮において二年、老病を以って代わりを求めたが、許されなかった。大中元年、鎮において卒した。時に八十八歳。三日間朝を廃し、太尉を贈られ、諡して文懿といった。文集一百二十巻、『五緯図』十巻、『写宣』十巻。王起が侍講した時、或いは僻字疑事があると、中使に口宣させ、即ち榜子で対し、故に名づけて『写宣』といった。子の王亀が嗣いだ。

原文起前後四典貢部,所選皆當代辭藝之士,有名於時,人皆賞其精鑒徇公也。其年秋,出為興元尹,兼同平章事,充山南西道節度使。赴鎮日,延英辭。帝謂之曰:「卿國之耆老,宰相無內外,朕有闕政,飛表以聞。」宴賜頗厚。在鎮二年,以老疾求代,不許。大中元年,卒於鎮,時年八十八。廢朝三日,贈太尉,謚曰文懿。文集一百二十卷,《五緯圖》十卷,《寫宣》十卷。起侍講時,或僻字疑事,令中使口宣,即以榜子對,故名曰《寫宣》。子龜嗣。

王亀は、字を大年という。性質は簡淡蕭灑で、仕進を楽しまなかった。少より詩酒琴書をもって自ら適し、科試に従わなかった。京城の光福里の邸宅は、王起兄弟が同居し、宏敞であった。王亀の意は人外にあり、朋遊に接することを倦み、乃ち永達里の園林の深く僻んだ処に書斎を創り、その間に吟嘯し、目して「半隠亭」といった。従父の王起が河中に在った時、中条山の谷の中に草堂を建て、山人道士と遊び、朔望に一度府第に還り、後人は目して「郎君谷」といった。王起が東周を保厘した時、王亀は龍門の西谷に松斎を構え、棲息往来し、事外に思いを放った。王起が興元を鎮めた時、また漢陽の龍山に隠舎を立て、毎度舟を浮かべて往き、その閑逸はこのようであった。武宗はこれを知り、左拾遺として召した。久しくして、方に殿廷に至り一謝し、情を陳べて言う、「臣の才は疏散にして、時に用いること無く、これに疾病に嬰られるを加え、禄仕に任じず。臣の父は年将に九十、遠藩に鎮を作り、喜懼の年、供侍に闕く。今の職を罷め、以て晨昏に奉ぜんことを乞う」と。上は優詔してこれを許した。明年、父の憂に服した。服闋し、右補闕として召され、侍御史・尚書郎に遷った。

原文龜,字大年。性簡淡蕭灑,不樂仕進。少以詩酒琴書自適,不從科試。京城光福裏第,起兄弟同居,斯為宏敞。龜意在人外,倦接朋遊,乃於永達裏園林深僻處創書齋,吟嘯其間,目為「半隱亭」。及從父起在河中,於中條山谷中起草堂,與山人道士遊,朔望一還府第,後人目為「郎君谷」。及起保厘東周,龜於龍門西谷構松齋,棲息往來,放懷事外。起鎮興元,又於漢陽之龍山立隱舍,每浮舟而往,其閑逸如此。武宗知之,以左拾遺征。久之,方至殿廷一謝,陳情曰:「臣才疏散,無用於時,加以疾病所嬰,不任祿仕。臣父年將九十,作鎮遠籓,喜懼之年,闕於供侍。乞罷今職,以奉晨昏。」上優詔許之。明年,丁父憂。服闋,以右補闕征,遷侍御史、尚書郎。

大中末、宣歙団練觀察副使として出向し、緋を賜った。祠部郎中・史館修撰として召し入れられた。以前に崔玙に従って宣歙の副使となり、崔玙が河中を鎮めた時、また副使に奏された。兵部郎中として召し入れられ、金紫を賜い、まもなく知制誥となった。

原文大中末,出為宣歙團練觀察副使,賜緋。入為祠部郎中、史館修撰。前從崔玙貳宣歙,及玙鎮河中,又奏為副使。入為兵部郎中,賜金紫,尋知制誥。

咸通末、弟の王鐸が中書に在ったため、禁掖に在ることを欲せず、太常少卿に改められ、まもなく檢校右散騎常侍さんきじょうじ・同州刺史となった。牙将の白約という者は、甚だ狡蠹で、前後の防禦使も制することができなかった。王亀は事に因って発し、笞打ち死にせしめて衆に示し、人は皆その威を畏れて自ら効した。十四年、越州刺史・御史大夫・浙東団練觀察使に転じた。先に、王亀の兄の王式がこの郡を撫臨し、恵政があった。王亀が再び至ると聞き、舞抃してこれを迎えた。徐・泗の乱に属し、江淮に盗賊が起こり、山越が乱れ、郡を攻め、賊のために害された。工部尚書を贈られた。子に王蕘。

原文咸通末,以弟鐸在中書,不欲在禁掖,改太常少卿,尋檢校右散騎常侍、同州刺史。牙將白約者,甚狡蠹,前後防禦使不能制。龜因事發,笞死以徇,人皆畏威自效。十四年,轉越州刺史、御史大夫、浙東團練觀察使。先是,龜兄式撫臨此郡,有惠政;聞龜復至,舞抃迎之。屬徐、泗之亂,江淮盜起,山越亂,攻郡,為賊所害。贈工部尚書。子蕘。

王蕘は苦学し、文を属することを善くした。季父が相となったため、嫌疑を避けて科試に就かなかった。乾符初、崔瑾が湖南を廉察し、崔涓が江陵を鎮め、皆従事として辟した。蕭遘が相となると、藍田尉に奏授され、直史館となり、左拾遺・右補闕に遷り、中丞の盧涯が侍御史に奏した。僖宗に従って山南に幸し、右司員外郎に拝され、卒した。子の王権は、中興して兵部尚書に至った。

原文蕘苦學,善屬文。以季父作相,避嫌不就科試。乾符初,崔瑾廉察湖南,崔涓鎮江陵,皆辟為從事。蕭遘作相,奏授藍田尉,直史館,遷左拾遺、右補闕,中丞盧涯奏為侍御史。從僖宗幸山南,拜右司員外郎,卒。子權,中興仕至兵部尚書。

王式は門蔭により、累遷して監察御史となり、転じて殿中侍御史となったが、これも巧みな官吏であった。太和年中、鄭注に依拠し、王守澄に謁見したが、中丞帰融に弾劾され、出されて江陵少尹となった。大中以後、省署を歴任した。咸通初め、浙東観察使となった。草賊の仇甫が明州を占拠して叛き、会稽を攻めてきたので、式はこれを討ち平らげた。式には威略があった。三年、徐州の銀刀軍が叛き、式を徐州節度使とした。式が鎮に至ると、銀刀など七軍をことごとく誅殺し、徐州地方を平定した。天子はこれを嘉した。後に累ねて方鎮の任を歴任し、卒した。

原文式以門廕,累遷監察御史,轉殿中,亦巧宦。太和中,依倚鄭註,謁王守澄,為中丞歸融所劾,出為江陵少尹。大中後,踐更省署。咸通初,為浙東觀察使。草賊仇甫據明州叛,來攻會稽,式討平之。式有威略。三年,徐州銀刀軍叛,以式為徐州節度使。式至鎮,盡誅銀刀等七軍,徐方平定。天子嘉之。後累歷方任,卒。

王鐸は、字を昭範という。会昌初めに進士に及第し、二度使府に辟召された。大中初め、入朝して監察御史となった。咸通初め、駕部郎中より知制誥を以て、中書舎人に拝された。五年、礼部侍郎に転じ、二歳にわたり貢士を典試し、時に人を得たと称された。七年、戸部侍郎・判度支を以て、礼部尚書に遷った。十二年、本官のまま同平章事となった。時に宰相韋保衡は抜擢の恩により、王鐸に事えること特に謹み、累ねて刑部尚書・吏部尚書を兼ねた。僖宗が即位すると、右僕射を加えられた。保衡が罪を得ると、王鐸を検校右僕射とし、出して汴州刺史・宣武軍節度使とした。

原文鐸,字昭範。會昌初進士第,兩辟使府。大中初,入為監察御史。咸通初,由駕部郎中知制誥,拜中書舍人。五年,轉禮部侍郎,典貢士兩歲,時稱得人。七年,以戶部侍郎、判度支,遷禮部尚書。十二年,以本官同平章事。時宰相韋保衡以拔擢之恩,事鐸尤謹,累兼刑部、吏部尚書。僖宗即位,加右僕射。保衡得罪,以鐸檢校右僕射,出為汴州刺史、宣武軍節度使。

王鐸には経世の大志があり、安邦を己れの任とし、士友に推された。乾符二年、河南・江左で相継いで寇盗が結集すると、内官田令孜は平素より王鐸の名を聞いていたので、乃ち再び王鐸を召し、右僕射・門下侍郎・同平章事に拝した。四年、賊が江陵を陥とし、楊知溫が守りを失い、宋威が賊を破るに失策した。朝議で統率を論じると、宰相盧攜は高駢が累ねて戦功を立てたことを称え、軍権を付与すべきとし、物議は未だ允されなかった。王鐸が廷上で奏して言うには、「臣は宰執の長を忝くし、朝廷に在っては陛下の憂いを分つに足らず。臣は自ら諸軍を率い、群盗を蕩滌せんことを願う」と。朝議はこれを然りとした。五年、王鐸を以て司徒・門下侍郎・同平章事を守らせ、江陵尹・荊南節度使を兼ね、諸道行営兵馬都統を充てさせた。王鐸が鎮に至ると、流散を綏懐し、軍戎を完葺し、期年の間に、武備は厳整となった。

原文鐸有經世大志,以安邦為己任,士友推之。乾符二年,河南、江左相繼寇盜結集,內官田令孜素聞鐸名,乃復召鐸,拜右僕射、門下侍郎、同平章事。四年,賊陷江陵,楊知溫失守,宋威破賊失策。朝議統率,宰相盧攜稱高駢累立戰功,宜付軍柄,物議未允。鐸廷奏曰:「臣忝宰執之長,在朝不足分陛下之憂。臣願自率諸軍,蕩滌群盜。」朝議然之。五年,以鐸守司徒、門下侍郎、同平章事,兼江陵尹、荊南節度使,充諸道行營兵馬都統。鐸至鎮,綏懷流散,完葺軍戎,期年之間,武備嚴整。

時に兗州節度使李系なる者は、西平王李晟の孫であり、その家世の将才を以て、奏用して都統都押衙とし、湘南団練使を兼ねさせた。時に黄巢は嶺南に在り、王鐸は精甲を悉く李系に付し、分兵して嶺路を扼せしめた。李系には将略が無く、微かに口才があり、軍政を治めなかった。広明初め、賊は嶺南より湖南諸郡を寇し、李系は城を守って自ら固め、敢えて出戦しなかった。賊は木を編んで筏とし、湘に沿って下り、急に潭州を攻めて、これを陥とした。李系の甲兵五万は、皆賊に殺され、屍は江に投げられた。王鐸は李系の敗北を聞き、部将董漢宏に江陵を守らせ、自ら兵万余を率いて襄陽の師と会した。江陵は遂に賊に陥とされた。天子はこれを責めなかった。宰相を罷め、太子太師を守らせた。宰相盧攜が権を執り、遂に淮南の高駢を以て王鐸に代えて都統とした。

原文時兗州節度使李系者,西平王晟之孫,以其家世將才,奏用為都統都押衙,兼湘南團練使。時黃巢在嶺南,鐸悉以精甲付系,令分兵扼嶺路。系無將略,微有口才,軍政不理。廣明初,賊自嶺南寇湖南諸郡,系守城自固,不敢出戰。賊編木為〓伐,沿湘而下,急攻潭州,陷之。系甲兵五萬,皆為賊所殺,投屍於江。鐸聞系敗,令部將董漢宏守江陵,自率兵萬余會襄陽之師。江陵竟陷於賊。天子不之責。罷相,守太子太師。宰相盧攜用事,竟以淮南高駢代鐸為都統。

その年の秋、賊は淮南を焚掠し、高駢は挫敗した。賊が両京を陥とすに及び、盧攜が罪を得ると、天子は鄭畋を兵馬都統に用いた。明年、鄭畋は病んで行在に帰り、朝議は復た王鐸を侍中・滑州刺史・義成軍節度使とし、諸道行営都統を充てさせた。禁軍・山南・東蜀しょくの師三万を率い、盩厔の東に営し、進んで霊感寺に屯した。

原文其年秋,賊焚剽淮南,高駢挫敗。及賊陷兩京,盧攜得罪,天子用鄭畋為兵馬都統。明年,畋病歸行在,朝議復以鐸為侍中、滑州刺史、義成軍節度使,充諸道行營都統。率禁軍、山南、東蜀之師三萬,營於盩厔東,進屯靈感寺。

明年の春、兗・鄆・徐・許・鄭・滑・邠・寧・鳳翔の十鎮の師が大いに関内に集結した。時に賊は既に名号を僭称し、以前の浙東観察使崔璆・尚譲を宰相とし、偽命を伝えた。天下の藩帥は、多く両端を持した。既に王鐸が四方に檄を伝えるを聞き、諸侯は翻然として景附した。賊の号令は、東西は岐・華を過ぎず、南北は山・河に止まった。而して勁卒驍ぎょう将は、日に国門を馳突し、群賊は是より離心した。その年の秋、賊将朱温が降り、同州を収めた。十一月、賊の華州戍卒七千が来奔した。三年二月、沙陀軍が至り、華州を収めた。四月、良田坡にて賊を破り、遂に京城を収めた。王鐸を晋国公に封じた。王鐸は中書令を加えられ、城を収めた諸将の、その功伐の高下を量り、制を承って爵賞を以て聞かせた。是の時、国命は綴旒の若く危うく、天子は蛮陬に播越し、大事は去った。若し鄭畋の奮発、王鐸の忠義が無ければ、則ち土運の隆替は、未だ知るべからざるなり。

原文明年春,兗、鄆、徐、許、鄭、滑、邠、寧、鳳翔十鎮之師大集關內。時賊已僭名號;以前漸東觀察使崔璆、尚讓為宰相,傳偽命。天下籓帥,多持兩端。既聞鐸傳檄四方,諸侯翻然景附。賊之號令,東西不過岐、華,南北止及山、河。而勁卒驍將,日馳突於國門,群賊由是離心。其年秋,賊將硃溫降,收同州。十一月,賊華州戍卒七千來奔。三年二月,沙陀軍至,收華州。四月,敗賊於良田坡,遂收京城。封鐸晉國公。鐸加中書令,以收城諸將,量其功伐高下,承制爵賞以聞。是時國命危若綴旒,天子播越蠻陬,大事去矣。若非鄭畋之奮發,鐸之忠義,則土運之隆替,未可知也。

黄巢・尚譲の乱より、関東の方鎮牙将は、皆主帥を逐い、自ら藩臣と号した。時溥は徐州を占拠し、朱瑄は鄆州を占拠し、朱瑾は兗州を占拠し、王敬武は青州を占拠し、周岌は許州を占拠し、王重栄は河中を占拠し、諸葛爽は河陽を占拠し、皆自ら一藩を擅にし、職貢は入らず、賞罰は己れより出した。既に賊を関より逐い出すと、特に功伐を恃み、朝廷は姑息に暇あらず。黄巢賊は関東を出で、蔡帥秦宗権と合縦した。時溥は徐方に挙兵し、身を以て先ず賊を討たんことを請うたので、乃ち時溥に都統の命を授けた。十軍軍容使田令孜は、内官楊復光に監護用師の功有るを以て、特に儒臣の事を立つるを忌み、故に時溥の授け有り。

原文自巢、讓之亂,關東方鎮牙將,皆逐主帥,自號籓臣。時溥據徐州,硃瑄據鄆州,硃瑾據兗州,王敬武據青州,周岌據許州,王重榮據河中,諸葛爽據河陽,皆自擅一籓,職貢不入,賞罰由己。既逐賊出關,尤恃功伐,朝廷姑息不暇。巢賊出關東,與蔡帥秦宗權合縱。時溥舉兵徐方,請身先討賊,乃授溥都統之命。十軍軍容使田令孜,以內官楊復光有監護用師之功,尤忌儒臣立事,故有時溥之授。

初め、王鐸が出軍するに、鄭滑節度使を兼ね、以て供饋に便ならしめた。是に至り、王鐸の都統の権を罷め、節を仗して藩に帰らしめた。王鐸は朱全忠が己れに恩有るを以て、藩蔽として倚りた。初め、朱全忠は辞礼恭順であったが、既にして朱全忠の軍旅稍く集まるに及び、その意漸く倨慢となった。王鐸は依るべからざるを知り、表を上して還朝を求めた。

原文初,鐸出軍,兼鄭滑節度使,以便供饋。至是,罷鐸都統之權,令仗節歸籓。鐸以硃全忠於己有恩,倚為籓蔽。初,全忠辭禮恭順,既而全忠軍旅稍集,其意漸倨。鐸知不可依,表求還朝。

その年の冬、僖宗が蜀より将に還らんとす、乃ち王鐸を以て滄景節度使とした。時に楊全玫は滄州に在り、王鐸の来るを聞き、魏州の楽彦貞に訴えた。王鐸は命を受けて鎮に赴くに、魏州に至ること旬日、楽彦貞は迎謁し、宴労ことのほか甚だしかった。王鐸は上臺の元老、功は群後に蓋い、行くには則ち肩輿に乗り、妓女が夾侍し、賓僚の服禦、尽く美を一時にした。楽彦貞の子従訓は、兇戾にして行い無く、窃かにこれを慕い、甘陵州の卒数百人をして、漳南の高鶏泊に伏せしめた。王鐸の行李の至るに及び、皆これが為に掠められ、王鐸と賓客十余人は、皆害に遇った。時に光啓四年十二月なり。

原文其年冬,僖宗自蜀將還,乃以鐸為滄景節度使。時楊全玫在滄州,聞鐸之來,訴於魏州樂彥貞。鐸受命赴鎮,至魏州旬日,彥貞迎謁,宴勞甚至。鐸以上臺元老,功蓋群後,行則肩輿,妓女夾侍,賓僚服禦,盡美一時。彥貞子從訓,兇戾無行,竊所慕之;令甘陵州卒數百人,伏於漳南之高雞泊。及鐸行李至,皆為所掠,鐸與賓客十余人,皆遇害。時光啟四年十二月也。

王鐸の弟王鐐は、累官して汝州刺史に至った。王仙芝が郡城を陥とし、害に遇った。

原文鐸弟鐐,累官至汝州刺史。王仙芝陷郡城,被害。

李絳

原文李絳

李絳は、字を深之といい、趙郡贊皇の人である。曾祖は貞簡。祖は剛、官は終に宰邑。父は元善、襄州録事参軍。李絳は進士に挙げられ、宏辞科に登第し、秘書省校書郎を授かった。秩満し、渭南尉を補した。貞元末、監察御史に拝された。元和二年、本官のまま翰林学士を充てた。未だ幾ばくもなく、尚書主客員外郎に改めた。年を逾え、司勲員外郎に転じた。五年、本司郎中・知制誥に遷った。皆内職を離れず、孜孜として匡諫を己れの任とした。

原文李絳,字深之,趙郡贊皇人也。曾祖貞簡。祖剛,官終宰邑。父元善,襄州錄事參軍。絳舉進士,登宏辭科,授秘書省校書郎。秩滿,補渭南尉。貞元末,拜監察御史。元和二年,以本官充翰林學士。未幾,改尚書主客員外郎。逾年,轉司勛員外郎。五年,遷本司郎中、知制誥。皆不離內職,孜孜以匡諫為己任。

憲宗が即位し、叛臣李錡が浙右に兵を阻んだ。李錡が既に誅せられると、朝廷はその没収した家財を輦運せんとした。李絳が上言して言うには、「李錡は兇狡叛戾、僭侈誅求し、六州の人を刻剝し、一道の苦を積み成す。聖恩は本より叛乱を以て致討し、一方を蘇息せしむ。今、錢帛を輦運し、四海に播聞するは、所謂乱略を式遏し、困窮を恵綏するに非ず。伏して天慈を望み、並びに本道に賜い、貧下戸の今年の租税に代えしめば、則ち万姓欣戴し、四海歌詠せん」と。憲宗はこれを嘉した。

原文憲宗即位,叛臣李锜阻兵於浙右。锜既誅,朝廷將輦其所沒家財。絳上言曰:「李锜兇狡叛戾,僭侈誅求,刻剝六州之人,積成一道之苦。聖恩本以叛亂致討,蘇息一方。今輦運錢帛,播聞四海,非所謂式遏亂略,惠綏困窮。伏望天慈,並賜本道,代貧下戶今年租稅,則萬姓欣戴,四海歌詠矣。」憲宗嘉之。

時に中官吐突承璀は藩邸より恩寵を承け、神策護軍中尉となり、乃ち安国仏寺に『聖政碑』を建立し、大いに功作を興し、仍って翰林にその文を請うた。李絳が上言して言うには、

原文時中官吐突承璀自籓邸承恩寵,為神策護軍中尉,乃於安國佛寺建立《聖政碑》,大興功作,仍請翰林為其文。絳上言曰:

陛下は維新の政を布き、積習の弊を刬ぎ、四海は頸を延べて、日に徳音を望む。今忽ちに『聖政碑』を立て、天下に不広を示す。『易』に称す、大人なる者は天地と徳を合し、日月と明を合すと。契を執り拱を垂れ、精を励まして理を求め、豈に文字を以て聖徳を尽くし、碑表を以て皇猷を賛すべけんや。若し叙述すべきならば、是れ分限有り、盛徳を虧損し、豈に至道を敷揚するを謂わんや。故に堯・舜・禹・湯・文・武より、並びに碑を建つる事無し。秦の始皇に至りて、荒逸の君、煩酷の政にして、然る後に罘・嶧の碑有り、誅伐の功を揚げ、巡幸の跡を紀す、適足らく百王の笑い為す所、万代の譏る所と為す。今に至るまで失道亡国の主と称せらる、豈に此れに擬議すべけんや。陛下は高祖こうそ・太宗の業を嗣ぎ、貞観・開元の政を挙げ、理を思うに食を遑えず、諫に従うこと順流の如し。固より堯・舜・禹・湯・文・武と方駕して行うべく、又安んぞ秦の皇の暴虐不経の事を追い、自ら聖政を損ぜんや。近くは、閻巨源の紀聖功碑を立てんことを請う、陛下は事の宜しきを詳らかに尽くし、皆許さず。今忽ちに此れを立てしむるは、前の事と頗る乖けり。況んや此の碑は既に安国寺に在り、遊観宗飾の事を叙載せざるを得ず。遊観を述くるは且つ理要に乖き、崇飾を叙するは又政経に匪ず、固より哲王の宜しく行う所に非ず。其の碑は、伏して乞う、聖恩を以て特に関罷せしめんことを。

原文陛下布惟新之政,刬積習之弊,四海延頸,日望德音。今忽立《聖政碑》,示天下以不廣。《易》稱:大人者與天地合德,與日月合明。執契垂拱,勵精求理,豈可以文字而盡聖德,碑表而贊皇猷?若可敘述,是有分限,虧損盛德,豈謂敷揚至道哉?故自堯、舜、禹、湯、文、武,並無建碑之事。至秦始皇荒逸之君,煩酷之政,然後有罘、嶧之碑,揚誅伐之功,紀巡幸之跡,適足為百王所笑,萬代所譏。至今稱為失道亡國之主,豈可擬議於此!陛下嗣高祖、太宗之業,舉貞觀、開元之政,思理不遑食,從諫如順流;固可與堯、舜、禹、湯、文、武方駕而行,又安得追秦皇暴虐不經之事,而自損聖政?近者,閻巨源請立紀聖功碑,陛下詳盡事宜,皆不允許。今忽令立此,與前事頗乖。況此碑既在安國寺,不得不敘載遊觀宗飾之事。述遊觀且乖理要,敘崇飾又匪政經,固非哲王所宜行也。其碑,伏乞聖恩特令寢罷。

憲宗は深く之を然りとし、其の碑遂に止む。

原文憲宗深然之,其碑遂止。

絳後に浴堂北廊に因りて奏対し、中官の縦恣、方鎮の進献の事を極論す。憲宗怒り、声を厲して曰く、「卿の論奏する所、何ぞ過ぎたるや」と。絳前に論じて已まず、曰く、「臣の諫論する所は、臣に利無く、是れ国家の利なり。陛下臣の愚を以てせず、腹心の地に処せしむ、豈に事の聖徳を虧き、清時を損ずるを見て、身を惜しみて言わざるべけんや。屋を仰ぎ窃かに嘆ずるは、是れ臣の陛下に負う所なり。若し患禍を顧みず、誠を尽くして奏論し、旁ら幸臣に忤い、上り聖旨を犯し、此れを以て罪を獲るは、是れ陛下の臣に負う所なり。且つ臣と中官とは、素より相識らず、又嫌隙無し、只だ威福の太盛にして、上り聖朝を損ずるを以て、臣敢へて論ぜざる所以なり。臣をして緘黙せしむるは、社稷の福に非ず」と。憲宗其の誠切なるを見て、容を改めて慰喻して曰く、「卿朕に節を尽くし、人の言い難き者を、卿悉く之を言う、朕をして聞かざる所を聞かしむ、真に忠正誠節の臣なり。他日南面するも、亦須らく此くの如くすべし」と。絳恩を拝して退く。遽かに宰臣を宣し、官を改めしむるを令す。乃ち中書舎人を授け、前に依りて翰林学士とす。翌日、面して金紫を賜い、帝親しく絳が為に良笏を択びて之を賜う。

原文絳後因浴堂北廊奏對,極論中官縱恣、方鎮進獻之事。憲宗怒,厲聲曰:「卿所論奏,何太過耶?」絳前論不已,曰:「臣所諫論,於臣無利,是國家之利。陛下不以臣愚,使處腹心之地,豈可見事虧聖德,致損清時,而惜身不言?仰屋竊嘆,是臣負陛下也。若不顧患禍,盡誠奏論,旁忤幸臣,上犯聖旨,以此獲罪,是陛下負臣也。且臣與中官,素不相識,又無嫌隙,只是威福太盛,上損聖朝,臣所以不敢不論耳。使臣緘默,非社稷之福也。」憲宗見其誠切,改容慰喻之曰:「卿盡節於朕,人所難言者,卿悉言之,使朕聞所不聞,真忠正誠節之臣也。他日南面,亦須如此。」絳拜恩而退。遽宣宰臣,令與改官,乃授中書舍人,依前翰林學士。翌日,面賜金紫,帝親為絳擇良笏賜之。

前後の朝臣裴武・柳公綽・白居易等、或は奸人の排陥する所と為り、特らに貶黜を加う。絳毎に密疏を以て申論し、皆寛宥を獲たり。鎮州節度使王士真の死するに及び、朝廷兵を用いて討除せんとす。絳深く陳べて未だ可からずと為す。絳既に心を尽くして匡益す。帝毎に詢訪有れば、多く事機に協う。六年、猶お中人の故を以て、学士を罷め、戸部侍郎を守り、本司事を判す。嘗て次対に因りて、憲宗曰く、「戸部比に進献有り、卿に至りて独り無し、何ぞや」と。絳曰く、「戸部の銭を将て内蔵に献入するは、是れ物を用いて私恩を結ぶなり」と。上聳然とし、益々其の直を嘉す。吐突承璀恩寵二と莫く、是の歳、将に絳を用いて宰相と為さんとす。前一日、承璀を出して淮南監軍と為す。翌日、制を降し、絳を以て中書侍郎・同中書門下平章事と為す。同列の李吉甫便僻にして、善く上意に逢迎す。絳梗直にして、多く規諫する所有り。故に吉甫と協わず。時に議する者、吉甫の承璀に通ずるを以て、故に絳尤も之を悪む。絳性剛訐にして、毎に吉甫と争論す。人多く絳を直とす。憲宗絳の忠正自立するを察す。故に絳の論奏、多く允従する所あり。

原文前後朝臣裴武、柳公綽、白居易等,或為奸人所排陷,特加貶黜;絳每以密疏申論,皆獲寬宥。及鎮州節度使王士真死,朝廷將用兵討除,絳深陳以為未可。絳既盡心匡益,帝每有詢訪,多協事機。六年,猶以中人之故,罷學士,守戶部侍郎,判本司事。嘗因次對,憲宗曰:「戶部比有進獻,至卿獨無,何也?」絳曰:「將戶部錢獻入內藏,是用物以結私恩。」上聳然,益嘉其直。吐突承璀恩寵莫二,是歲,將用絳為宰相;前一日,出承璀為淮南監軍。翌日,降制,以絳為中書侍郎、同中書門下平章事。同列李吉甫便僻,善逢迎上意;絳梗直,多所規諫,故與吉甫不協。時議者以吉甫通於承璀,故絳尤惡之。絳性剛訐,每與吉甫爭論,人多直絳。憲宗察絳忠正自立,故絳論奏,多所允從。

上嘗て絳に謂ひて曰く、「卜筮の事、習ふ者精なること罕なり。或ひは中り或ひは否む。近日の風俗、尤更に崇尚す。何ぞや」と。対へて曰く、「臣聞く、古の先哲の王は天命を畏れ、敢へて専にせざるを示す。邦に大事有りて疑はしき者は、故に先づ卿士庶人に謀り、次ひで卜筮に決す。俱に協へば則ち之を行ふ。末俗浮偽にして、幸ひに以て僥福す。正行は危を慮ひ、邪謀は安を覬ひ、疑ひ遅らせ惑ひ昏みて、小数の能く之を決すと謂ふ。而して愚夫愚婦、時日鬼神を仮る者は、利を欲して欺詐し、之を見聞に参へ、用ひて刺射の小近き事を為し、神として之を異にす。近くは、風俗巫に近し。此れ誠に弊俗なり。聖旨の及ぶ所、実に邪源を弁ず。但だ存して論ぜざれば、弊斯くの如く息む」と。

原文上嘗謂絳曰:「卜筮之事,習者罕精,或中或否。近日風俗。,尤更崇尚,何也?」對曰:「臣聞古先哲王畏天命,示不敢專,邦有大事可疑者,故先謀於卿士庶人,次決於卜筮,俱協則行之。末俗浮偽,幸以僥福。正行慮危,邪謀覬安,遲疑昏惑,謂小數能決之。而愚夫愚婦,假時日鬼神者,欲利欺詐,參之見聞,用以刺射小近之事,神而異之。近者,風俗近巫,此誠弊俗。聖旨所及,實辨邪源。但存而不論,弊斯息矣。」

他日延英にて、上曰く、「朕『玄宗実録』を読み、開元の理を致し、天宝の乱を兆すを見る。事一つの朝に出でて、治乱相反す。何ぞや」と。絳対へて曰く、

原文他日延英,上曰:「朕讀《玄宗實錄》,見開元致理,天寶兆亂。事出一朝,治亂相反,何也?」絳對曰:

臣聞く、理は危心に生じ、乱は肆志に生ず。玄宗は天後の朝より出でて藩邸に居り、嘗て官守を蒞み、時賢を外に接し、人事の艱難を知る。臨禦の初め、姚崇・宋璟を用ふ。二人皆忠鯁の上才にして、動もて主を致すを心と為す。明皇思理の初めに乗じ、亦励精して聴納す。故に当時名賢位に在り、左右前後、皆忠正を尚ぶ。是を以て君臣交泰し、内外寧謐す。開元二十年以後、李林甫・楊国忠相継いで事を用ひ、専ら柔佞の人を引き、要劇に分居せしめ、苟も上に媚び、直言を聞かず。嗜欲転た熾んにして、国用足らず。奸臣は利を興すを以て説き、武夫は辺を開くを以て説く。天下騒動し、奸盗隙に乗ず。遂に両都覆敗し、四海沸騰し、乗輿播遷し、幾くんぞ復た難からんとす。蓋し小人の啓導し、縦逸して驕を生ずるの致す所なり。今に至るまで兵両河に宿し、西疆削ぎ尽くされ、甿戸彫耗し、府蔵空虚す。皆天宝の喪乱に因りて、以て此に至る。安危理乱は、実に時主の行ふ所に繫る。陛下天聴を広く思し召し、国史を親覧し、精賾に意を垂れ、化源に鑑みらるるは、実に天下幸甚なり。

原文臣聞理生於危心,亂生於肆誌。玄宗自天後朝出居籓邸,嘗蒞官守,接時賢於外,知人事之艱難。臨禦之初,任姚崇、宋璟,二人皆忠鯁上才,動以致主為心。明皇乘思理之初,亦勵精聽納,故當時名賢在位,左右前後,皆尚忠正。是以君臣交泰,內外寧謐。開元二十年以後,李林甫、楊國忠相繼用事,專引柔佞之人,分居要劇,茍媚於上,不聞直言。嗜欲轉熾,國用不足,奸臣說以興利,武夫說以開邊。天下騷動,奸盜乘隙,遂至兩都覆敗,四海沸騰,乘輿播遷,幾至難復。蓋小人啟導,縱逸生驕之致也。至今兵宿兩河,西疆削盡,甿戶雕耗,府藏空虛,皆因天寶喪亂,以至於此。安危理亂,實系時主所行。陛下思廣天聰,親覽國史,垂意精賾,鑒於化源,實天下幸甚。

上又曰く、「凡人行事するに、常に理に通ぜざるを患ふ。已然の失は、追悔誠に難し。古人此れに処するに、復た道有りや否や」と。絳対へて曰く、「行事過差するは、聖哲皆免れざる所なり。故に天子諍臣を致して其の失を匡む。故に主は心を中に理し、臣は論を外に正す。理を未だ乱れざるに制し、患を未だ萌さざるに銷す。主或ひは挙ぐるに過ぐれば、則ち諫めて以て之を正す。故に上下体を同じくし、猶ほ手足の心膂に於けるが如く、交相用ひて以て康寧を致す。此れ亦常理にして、難きに遵ふ事に非ず。但だ得を矜り失を護るは、常情の蔽ふ所なり。古人は過ちを改めて吝からざるを貴び、善に従うこと流るるが如きを良しと為すは、此れ為なり。臣等位に備はりて、発明する所無し。但だ陛下芻言を廃せざれば、則ち端士賢臣、必当自ら効すべし」と。帝曰く、「朕卿等を擢用するは、直言を冀ふ所なり。各宜く心を尽くして隠すこと無く、以て逮はざるを匡へよ。失を護るを以て慮ひと為すこと無かれ」と。

原文上又曰:「凡人行事,常患不通於理,已然之失,追悔誠難。古人處此,復有道否?」絳對曰:「行事過差,聖哲皆所不免,故天子致諍臣以匡其失。故主心理於中,臣論正於外,制理於未亂,銷患於未萌。主或過舉,則諫以正之,故上下同體,猶手足之於心膂,交相為用,以致康寧。此亦常理,非難遵之事。但矜得護失,常情所蔽。古人貴改過不吝,從善如流,良為此也。臣等備位,無所發明,但陛下不廢芻言,則端士賢臣,必當自效。」帝曰:「朕擢用卿等,所冀直言。各宜盡心無隱,以匡不逮。無以護失為慮也!」

其の秋、魏博節度使田季安死す。其の子懷諫幼弱なり。軍中其の大将田興を立て、軍事を主らしむ。興遂に六州の地を以て命に帰す。其の経始営創するは、皆絳の謀なり。

原文其秋,魏博節度使田季安死,其子懷諫幼弱,軍中立其大將田興,使主軍事,興卒以六州之地歸命。其經始營創,皆絳之謀也。

時に教坊が突如として密旨を称し、良家の子女及び衣冠の別第の妓人を取る。京師は騒然となる。李絳は同列に謂いて曰く、「此の事は大いに聖徳を虧損す、論諫有るべし」と。或る人は曰く、「此れは嗜欲の間の事、自ら諫官の論列有るべし」と。絳曰く、「相公は常に諫官の事を論ずるを病む、此の難事即ち諫官に推す、可ならんや」と。乃ち極めて言論を奏す。翌日の延英にて、憲宗は手を挙げて絳に謂いて曰く、「昨卿の状の論ずる所の采択の事を見る、卿の朕に尽忠せざれば、何ぞ此れに及ばんや。朕は皆外の事を知らず、此れは教坊の罪過、朕の意を諭さず、以て此れに至る。朕は丹王已下四人の縁に因り、院中に皆侍者無し、朕は楽工中及び閭裏に情願する者に於て、其の錢帛を厚くし、只だ四人を取り、四王各一人に与う。彼は朕の意を会せず、便に此の如く事を生ず。朕は已に科罰を令す、其の取る所の人、並びに已に帰を放つ。若し卿の言に非ざれば、朕寧ぞ此の過を知らんや」と。

原文時教坊忽稱密旨,取良家士女及衣冠別第妓人,京師囂然。絳謂同列曰:「此事大虧損聖德,須有論諫。」或曰:「此嗜欲間事,自有諫官論列。」絳曰:「相公居常病諫官論事,此難事即推與諫官,可乎?」乃極言論奏。翌日延英,憲宗舉手謂絳曰:「昨見卿狀所論采擇事,非卿盡忠於朕,何以及此?朕都不知向外事,此是教坊罪過,不諭朕意,以至於此。朕緣丹王已下四人,院中都無侍者,朕令於樂工中及閭裏有情願者,厚其錢帛,只取四人,四王各與一人。伊不會朕意,便如此生事。朕已令科罰,其所取人,並已放歸。若非卿言,朕寧知此過?」

八年、高邑県男を封ず。絳は足疾を以て、章を拝して免を求む。九年、政事を知るを罷め、礼部尚書を授く。十年、戸部尚書を検校し、出でて華州刺史と為る。未だ幾ばくもあらず、入りて兵部尚書と為る。母憂に丁す。十四年、吏部尚書を検校し、出でて河中観察使と為る。河中は旧く節制と為るも、皇甫鎛は絳を悪み、只だ観察を以て之を命ず。十五年、鎛罪を得、絳復た兵部尚書と為る。

原文八年,封高邑縣男。絳以足疾,拜章求免。九年,罷知政事,授禮部尚書。十年,檢校戶部尚書,出為華州刺史。未幾,入為兵部尚書。丁母憂。十四年,檢校吏部尚書,出為河中觀察使。河中舊為節制,皇甫镈惡絳,只以觀察命之。十五年,镈得罪,絳復為兵部尚書。

穆宗即位し、御史大夫に改む。穆宗は畋遊行幸に亟にして、絳は延英に於て切に諫むも、帝用いる能わず。絳は疾を以て辞し、復た兵部尚書と為る。長慶元年、吏部尚書に転ず。是の歳、検校尚書右僕射を加え、東都尚書省事を判じ、東都留守を充つ。二年正月、本官・兗州刺史・兗海節度観察等使を検校す。三年、復た東都留守と為る。四年、就いて検校司空を加う。

原文穆宗即位,改御史大夫。穆宗亟於畋遊行幸,絳於延英切諫,帝不能用。絳以疾辭,復為兵部尚書。長慶元年,轉吏部尚書。是歲,加檢校尚書右僕射,判東都尚書省事,充東都留守。二年正月,檢校本官、兗州刺史、兗海節度觀察待使。三年,復為東都留守。四年,就加檢校司空。

宝暦初め、入りて尚書左僕射と為る。二年九月、昭義節度使劉悟卒し、遺表して請う子の従諫を以て嗣襲せしめんと、将吏闕に詣りて論請す。絳は密かに奏して速やかに近く澤潞四面の将帥一人を除き、以て節度を充てしめ、倍程を令して鎮に赴かしめ、従諫の未だ命を拒ぐに及ばざるに、新使已に到らしめんことを請う。所謂「疾雷耳に及ばず」と。潞州の軍心、自ら系く所有り。従諫は位無く、何を以てか主張せん。時に宰相李逢吉・王守澄は已に従諫の賂を受け、倶に従諫を留後と為さんことを請う。絳の言を用いる能わず。

原文寶歷初,入為尚書左僕射。二年九月,昭議節度使劉悟卒,遺表請以子從諫嗣襲,將吏詣闕論請。絳密奏請速除近澤潞四面將帥一人,以充節度;令倍程赴鎮,使從諫未及拒命,新使已到,所謂「疾雷不及掩耳」。潞州軍心,自有所系。從諫無位,何名主張。時宰相李逢吉、王守澄已受從諫賂,俱請以從諫留後,不能用絳言。

絳は直道を以て進退し、聞望一時に傾く。然れども剛腸にして悪を嫉み、賢不肖を太だ分つ、此れを以て非正の徒の忌む所と為る。又嘗て御史中丞王播と道に於て相遇う、播は之が為に避けず。絳は事体を論じて奏し、勅を命じて両省に詳議せしむ。皆絳の論奏是なりと為す。李逢吉は播を佑けて絳を悪み、乃ち絳の僕射を罷め、改めて太子少師を授け、東都に分司せしむ。

原文絳以直道進退,聞望傾於一時。然剛腸嫉惡,賢不肖太分,以此為非正之徒所忌。又嘗與御史中丞王播相遇於道,播不為之避;絳奏論事體,敕命兩省詳議,鹹以絳論奏是。李逢吉佑播惡絳,乃罷絳僕射,改授太子少師,分司東都。

文宗即位し、征して太常卿と為す。二年、司空を検校し、出でて興元尹・山南西道節度使と為る。三年冬、南蛮西蜀を寇す。詔して赴援を征す。絳は本道に於て兵千人を募りて蜀に赴く。中路に及び、蛮軍已に退き、募る所の者皆還る。興元の兵額は素より定まり、募卒は悉く罷帰を令す。四年二月十日、絳は晨興して事を視し、募卒を召し、詔旨を以て諭して之を遣り、仍って廩麦を給す。皆怏怏として退く。監軍使楊叔元は財を貪り寵を怙り、絳の己に奉ぜざるを怨む。乃ち募卒の賞薄きに因り、衆の辞するの際、言を以て之を激し、其の乱を為さんことを欲し、以て私憾を逞うす。募卒は監軍の言に因り、怒気益甚だしく、乃ち噪聚して府に趨き、庫兵を劫して使衙に入る。絳方に賓僚と会宴し、設備に及ばず。乱を聞きて北走し陴に登る。衙将王景延力戦して以て之を禦ぐ。兵折れ矢窮まり、景延死す。絳乃ち乱兵の害する所と為る。時に年六十七。

原文文宗即位,征為太常卿。二年,檢校司空,出為興元尹、山南西道節度使。三年冬,南蠻寇西蜀,詔征赴援。絳於本道募兵千人赴蜀;及中路,蠻軍已退,所募皆還。興元兵額素定,募卒悉令罷歸。四年二月十日,絳晨興視事,召募卒,以詔旨喻而遣之,仍給以廩麥,皆怏怏而退。監軍使楊叔元貪財怙寵,怨絳不奉己,乃因募卒賞薄,眾辭之際,以言激之,欲其為亂,以逞私憾。募卒因監軍之言,怒氣益甚,乃噪聚趨府,劫庫兵以入使衙。絳方與賓僚會宴,不及設備。聞亂北走登陴,衙將王景延力戰以禦之。兵折矢窮,景延死。絳乃為亂兵所害,時年六十七。

絳初めに陴に登る、左右絳に城を縋るを請う、以て避くべしと。絳従わず。乃ち並びに従事趙存約・薛齊と倶に死す。

原文絳初登陴,左右請絳縋城,可以避免,絳不從。乃並從事趙存約、薛齊俱死焉。

文宗奏を聞き震悼し、制を下して曰く、「朝に正人有り、時に令徳を称す。入りて廟算に参じ、出でて師幹を総ぶ。方に寵任の臣たらんとす、横に不幸の酷に罹う。殄瘁して嘆きを興す、搢紳の同くする所。故山南西道節度・管内観察処置等使・銀青光禄大夫・検校司空、兼ねて興元尹・御史大夫・上柱国・趙郡開国公・食邑二千戸李絳は、神に聰明を授けられ、天に清直を賦せらる。仁義を抱きて前哲に希い、標準を立てて後来を程す。時情を抑揚し、坐して臺輔を致す。我が烈祖を佐け、皇天に格る。鉞を仗して風を宣べ、聯居して楽土に居る。軒に乗り玉を鳴らし、嘗て清班を極む。先声して物議皆帰し、約せずして群情自ら許す。漢中の名部、便安を遂げしめんとす。而して変は図らずして起り、禍は兆無くして生ず。良を殲むるの慟、訃を聞きて傷を増す。是れ哀栄を極め、用て典礼を優せんとす。三公の正秩、品数甚だ崇し、式に異恩を表し、以て沈痛を攄く。司徒を贈る可し。仍って所司に日を択び礼を備え冊命せしめよ」と。賻に布帛三千段・米粟二百碩を賜う。子に璋・頊有り。

原文文宗聞奏震悼,下制曰:「朝有正人,時稱令德,入參廟算,出總師幹。方當寵任之臣,橫罹不幸之酷。殄瘁興嘆,搢紳所同。故山南西道節度、管內觀察處置等使、銀青光祿大夫、檢校司空,兼興元尹、御史大夫、上柱國、趙郡開國公、食邑二千戶李絳,神授聰明,天賦清直。抱仁義以希前哲,立標準以程後來。抑揚時情,坐致臺輔。佐我烈祖,格於皇天。仗鉞宣風,聯居樂土。乘軒鳴玉,嘗極清班。先聲而物議皆歸,不約而群情自許。漢中名部,俾遂便安。而變起不圖,禍生無兆。殲良之慟,聞訃增傷。是極哀榮,用優典禮。三公正秩,品數甚崇,式表異恩,以攄沈痛。可贈司徒。仍令所司擇日備禮冊命。」賻布帛三千段、米粟二百碩。子璋、頊。

璋、進士第に登る。盧鈞太原に鎮し、辟いて従事と為す。大中末、朝に入りて監察と為り、侍御史に転ず。出でて両郡を刺し、終に宣歙観察使と為る。子に徳林有り。

原文璋,登進士第。盧鈞鎮太原,辟為從事。大中末,入朝為監察,轉侍御史。出刺兩郡,終宣歙觀察使。子德林。

楊於陵

原文楊於陵

楊於陵、字は達夫、弘農の人。漢の太尉楊震の第五子の奉の後。曾祖は珪、辰州掾曹と為る。祖は冠俗、奉先尉。父は太清、宋州単父尉。於陵、天宝末に家を河朔に寄す。禄山乱に、其の父賊に歿す。於陵始め六歳。及び長じ、江南に客す。好学し、奇誌有り。弱冠にして進士を挙げ、褐を釈して潤州句容主簿と為る。時に韓滉金陵を節制す。滉は性剛厳にして、接与する所少なし。及び於陵属吏を以て謁謝するに及び、滉甚だ之を奇とし、其の妻柳氏に謂いて曰く、「夫人常に佳婿を択ぶ、吾人多くを閲す、楊主簿の如きは無し」と。後竟に女を以て之に妻す。秩満し、鄂嶽・江南二府の従事と為り、累官して侍御史に至る。

原文楊於陵,字達夫,弘農人。漢太尉震之第五子奉之後。曾祖珪,為辰州掾曹。祖冠俗,奉先尉。父太清,宋州單父尉。於陵,天寶末家寄河朔。祿山亂,其父歿於賊,於陵始六歲。及長,客於江南。好學,有奇誌。弱冠舉進士,釋褐為潤州句容主簿。時韓滉節制金陵,滉性剛嚴,少所接與。及於陵以屬吏謁謝,滉甚奇之,謂其妻柳氏曰:「夫人常擇佳婿,吾閱人多矣,無如楊主簿者。」後竟以女妻之。秩滿,為鄂嶽、江南二府從事,累官至侍御史。

韓滉が江南より入朝し、将相と財賦の任を総べ、顧遇を大いに受け、権勢は中外に傾いた。於陵は江西府を罷めてより、婦翁の権幸が方に熾んであるを以て、進取を欲せず。乃ち建昌に卜築し、書を読み山水を楽しむを以て楽しみとした。滉歿し、貞元八年に始めて入朝し、膳部員外郎となり、考功・吏部の三員外を歴任し、南曹を判じた。時に宰相に密親ありて調集せんとし、文書が式に如かざるを、於陵これを駁し、大いに物論に協った。右司郎中に遷り、復た吏部郎中に転じ、京兆少尹に改めた。出でて絳州刺史となる。徳宗は雅にその名を聞き、郡に赴かんとして辞せんとするに、詔してこれを留め、中書舍人を拝した。時に李実が京兆尹たり、承恩寵を恃み、於陵は給事中許孟容とともに附協せず、実のために媒孽せられ、孟容は太常少卿に改められ、於陵は秘書少監となった。貞元末、実の輩敗れ、於陵を華州刺史に遷し、潼関防禦・鎮国軍等使を充てた。未だ幾ばくもせず、浙江東道都団練観察等使に遷った。政声流聞し、入朝して戸部侍郎を拝し、復た京兆尹に改めた。先に、禁軍が編戸を影占し、区別する術なし。於陵より挾名を致さんことを請うてより、五丁毎に、両丁を軍に入れ、四丁・三丁の者は、各条限に以てす。これにより京師の豪強、復た畏るべき所を知る。再び戸部侍郎に遷る。

原文韓滉自江南入朝,總將相財賦之任,頗承顧遇,權傾中外。於陵自江西府罷,以婦翁權幸方熾,不欲進取。乃卜築於建昌,以讀書山水為樂。滉歿,貞元八年始入朝,為膳部員外郎,歷考功、吏部三員外,判南曹。時宰相有密親調集,文書不如式,於陵駁之,大協物論。遷右司郎中,復轉吏部郎中,改京兆少尹。出為絳州刺史。德宗雅聞其名,將辭赴郡,詔留之,拜中書舍人。時李實為京兆尹,恃承恩寵,於陵與給事中許孟容俱不附協,為實媒孽,孟容改太常少卿,於陵為秘書少監。貞元末,實輩敗,遷於陵為華州刺史,充潼關防禦、鎮國軍等使。未幾,遷浙江東道都團練觀察等使。政聲流聞,入拜戶部侍郎,復改京兆尹。先是,禁軍影占編戶,無以區別。自於陵請致挾名,每五丁者,得兩丁入軍,四丁、三丁者,各以條限。由是京師豪強,復知所畏。再遷戶部侍郎。

元和初め、考策を以て、直言極諫の牛僧孺等を昇進せしめ、執政の怒りに触れ、嶺南節度使として出された。時に監軍使許遂振が悍戾貪恣にして、軍政を幹撓す。於陵は公に奉じ己を潔くし、遂振は奈何する能わず、乃ち飛語を以て上聞す。憲宗驚惑すれども、宰相裴垍が於陵のために申理するに頼り、憲宗感ずる所ありて悟る。

原文元和初,以考策,升直言極諫牛僧孺等,為執政所怒,出為嶺南節度使。會監軍使許遂振悍戾貪恣,幹撓軍政。於陵奉公潔己,遂振無能奈何,乃以飛語上聞。憲宗驚惑,賴宰相裴垍為於陵申理,憲宗感悟。

五年、入朝して吏部侍郎となる。遂振は終に自ら罪を得たり。

原文五年,入為吏部侍郎。遂振終自得罪。

於陵が吏部に在ること、凡そ四歳、奸吏を監察し、調補平允にして、当時にこれを称せらる。初め、吏部は判を試みるに、別に考判官三人を差して能否を校せしめしが、元和初めにこれを罷む。

原文於陵為吏部,凡四周歲,監察奸吏,調補平允,當時稱之。初,吏部試判,別差考判官三人校能否,元和初罷之。

七年、吏部尚書鄭余慶疾を以て告を請う、乃ち復た考判官を置き、兵部員外郎韋顗・屯田員外張仲素・太学博士陸亙等を以てこれとなす。於陵東都より来たりて言うに、「本司の判を考ふるは、自ら公心を当てるべし。次に非ざる官を置くは、曹内の公事を知らず。考官は只だ判の能否を論じ、闕員を計らず;本司は只だ員闕幾何を計り、その留放を定む。官を置くは便ならず。」宰執は已に顗等を置きたるを以て、只だ科目選人の考を令し、その余の常調は、本司に委ねて自ら考せしむ。於陵また甲歴年深く朽断し、吏これに縁りて奸をなすを以て、大暦七年より貞元二十年に至る甲庫の歴を換うることを奏し、本司の郎官に令して監換せしむ。

原文七年,吏部尚書鄭余慶以疾請告,乃復置考判官,以兵部員外郎韋顗、屯田員外張仲素、太學博士陸亙等為之。於陵自東都來,言曰:「本司考判,自當公心。非次置官,不知曹內公事。考官只論判之能否,不計闕員;本司只計員闕幾何,定其留放。置官不便。」宰執以已置顗等,只令考科目選人,其余常調,委本司自考。於陵又以甲歷年深朽斷,吏緣為奸,奏換大歷七年至貞元二十年甲庫歷,令本司郎官監換。

九年、妖人楊叔高広州より来たりて於陵に干し、己が輔となることを請う、於陵執奏してこれを殺す。兵部侍郎・判度支に改む。時に淮西に兵を用う、於陵親しき者を用いて唐鄧供軍使と為し、節度使高霞寓は供軍に闕あるを以て、牒を度支に移すも、於陵これが為に易えず、その闕は旧の如し。霞寓の軍屡に摧敗あり、詔書これを督責す;乃ち度支の饋運継がざるを以て奏す。憲宗怒り、

原文九年,妖人楊叔高自廣州來幹於陵,請為己輔,於陵執奏殺之。改兵部侍郎、判度支。時淮西用兵,於陵用所親為唐鄧供軍使,節度使高霞寓以供軍有闕,移牒度支,於陵不為之易,其闕如舊。霞寓軍屢有摧敗,詔書督責之;乃奏以度支饋運不繼。憲宗怒,

十一年、於陵を桂陽郡守に貶し、量移して原王傅とす。復た戸部侍郎に遷し、吏部選事を知る。時に李師道を誅し、その地を分けて三鎮と為すに会い、朝廷思う所ありて制置せんとし、於陵を以て御史大夫を兼ね、淄・青十二州宣慰使を充てしむ。還りて奏するに旨に合う。

原文十一年,貶於陵為桂陽郡守,量移原王傅。復遷戶部侍郎,知吏部選事。會誅李師道,分其地為三鎮,朝廷思有所制置,以於陵兼御史大夫,充淄、青十二州宣慰使,還奏合旨。

穆宗即位し、戸部尚書に遷る。長慶初め、太常卿を拝し、東都留守を充て、年高くして章を拝して位を辞す。宝暦二年、検校右僕射・兼太子太傅を授く。旋って左僕射を以て致仕し、詔して全俸を給すも、懇に譲りて受けず。

原文穆宗即位,遷戶部尚書。長慶初,拜太常卿,充東都留守,年高,拜章辭位。寶歷二年,授檢校右僕射、兼太子太傅。旋以左僕射致仕,詔給全俸,懇讓不受。

於陵器度弘雅にして、進止常あり。朝に居ること三十余年、中外に践更し、終始その正を失わず。官に居り職を奉ずるも、また善く操守し、時人皆その風徳を仰ぐ。太和四年十月卒す、年七十八、冊して司空を贈り、謚して貞孝と曰う。

原文於陵器度弘雅,進止有常。居朝三十余年,踐更中外,始終不失其正。居官奉職,亦善操守,時人皆仰其風德。太和四年十月卒,年七十八,冊贈司空,謚貞孝。

子四人:景復・嗣復・紹復・師復。

原文子四人:景復、嗣復、紹復、師復。

嗣復は自ら伝あり。景復は位終に同州刺史。紹復は進士に擢第し、弘辞に登科し、位終に中書舍人。師復は位終に大理卿。

原文嗣復自有傳。景復位終同州刺史。紹復進士擢第,弘辭登科,位終中書舍人。師復位終大理卿。

大中後、楊氏の諸子進士第に登る者十人:嗣復の子授・技・拭・捴;紹復の子擢・拯・據・揆;師復の子拙・振等。擢は終に給事中。拯は司封員外郎。據は右補闕。揆は左諫議大夫。拙は左庶子。振は左拾遺。

原文大中後,楊氏諸子登進士第者十人:嗣復子授、技、拭、捴;紹復子擢、拯、據、揆;師復子拙、振等。擢終給事中。拯司封員外郎。據右補闕。揆左諫議大夫。拙左庶子。振左拾遺。

【贊】

原文【贊】

史臣曰く:王氏の二英、播・起は位将相に崇く、善く始め令終す。而して炎は祐薄く齢短く、美は鐸に鐘し、而も能く首を驤け翼を矯め、亨衢を淩厲し、鉞を仗り衡を秉り、衰運を扶持す。天何ぞ善を罰し、盗に遇いて殂せしむるや、悲しいかな!李趙公は禁林に頡頏し、相府に訏謨し、嘉言を以て啓沃し、身を以てせず。躯を将壇に糜し、没して余裕あり。楊僕射は婦翁の当軸を避け、驕尹の権を怙うを疏んじ、道を守り貞に居り、寿考終に吉く、己を行なう始め終わり、人以為難し。美しいかな!

原文史臣曰:王氏二英,播、起位崇將相,善始令終。而炎薄祐短齡,美鐘於鐸,而能驤首矯翼,淩厲亨衢,仗鉞秉衡,扶持衰運。天胡罰善,遇盜而殂,悲哉!李趙公頡頏禁林,訏謨相府,嘉言啟沃,不以身為。糜軀將壇,沒有余裕。楊僕射避婦翁之當軸,疏驕尹之怙權,守道居貞,壽考終吉,行己始卒,人以為難。美哉!

贊して曰く:王氏は儒宗、一門三相。趙公は排擯せられ、言猶お鯁亮なり。幹将は折ると雖も、その剛を改めず。楊君の徳は、『韶』・『夏』洋洋たり。

原文贊曰:王氏儒宗,一門三相。趙公排擯,言猶鯁亮。幹將雖折,不改其剛。楊君之德,《韶》、《夏》洋洋。