旧唐書 巻一百六十三 列伝第一百十三 孟簡、胡證、崔元略、杜元穎、崔弘禮、李虞仲、王質、盧簡辭

旧唐書

巻一百六十三 列伝第一百十三 孟簡、胡證、崔元略、杜元穎、崔弘禮、李虞仲、王質、盧簡辭

孟簡

孟簡は、字を幾道といい、平昌の人である。則天武后の時代の同州刺史・孟詵の孫である。詩に巧みで名があった。進士第に挙げられ、宏辞科に登第し、累官して倉部員外郎に至った。戸部侍郎の王叔文が政権を窃取すると、簡はその配下の官となったが、多くは彼に附かず、叔文は甚だしく憎んだが、排斥するには至らなかった。まもなく司封郎中に遷った。元和四年、超えて諫議大夫に拝され、匭事を知った。簡は仏典に明るかった。六年、詔により給事中の劉伯芻、工部侍郎の帰登、右補闕の蕭俛らと共に、醴泉仏寺において『大乗本生心地観経』を翻訳し、簡が最もその理に長じていた。

王承宗が叛くと、詔により吐突承璀を招討使とした。簡は上疏してこれを論じ、言葉が率直すぎたことで罪を得て、常州刺史として出された。八年、その地において金紫光禄大夫を加えられた。簡が郡に到着した初め、古い孟瀆を開鑿し、長さ四十一里、沃野四千余頃を灌漑し、廉使がその課績を挙げたため、この加官の命があった。この年、召されて給事中に拝された。九年、越州刺史・兼御史中丞・浙東観察使として出された。李遜が士族を抑圧し、編戸を恣にした後を受けて、簡が政を行うと、全てこれを反対に行い、農民や商人は多くその弊害を受け、当時は両者とも良くないとされた。十二年、召されて戸部侍郎となった。十三年、崔元略に代わって御史中丞となり、依然として戸部侍郎を兼ねた。この年、襄州刺史・山南東道節度使として出された。十四年、勅により谷城県に群牧を設置し、「臨漢監」と名付け、簡にその使を充てさせた。簡は均州鄖郷県の鎮遏使・趙潔を本県令に充てるよう奏請したが、台司が刑典を損なうと奏上し、一月の俸禄を罰せられた。この年、太子賓客に改めて授けられ、東都に分司した。十五年、穆宗が即位すると、吉州司馬員外置同正員に貶された。初め、簡が襄陽にいた時、腹心の吏である陸翰に上都の進奏を掌らせ、中貴との連絡を委ねた。翰は簡の密事を握り、次第に制御できなくなった。簡は怒り、州まで追い、土嚢でこれを殺し、口封じをしようとした。翰の子弟が朝廷に赴き、訴状を進めて冤罪を訴え、かつ簡の贓状を告げた。御史台が取り調べると、簡が吐突承璀に賄賂として贈った銭帛など合わせて七千余貫匹を獲得し、事状が明白であったため、再び貶されたのである。長慶元年の大赦で、量移して睦州刺史となった。二年、常州刺史に移った。三年、召されて太子賓客となり、東都に分司した。その年の十二月に卒した。

簡の性質は俊抜で義を尚んだ。若い頃の交友で先に没した者の孤児を見ると、常に手厚く周済し、議論する者は先輩の風があると思った。しかし浮屠の教えに溺れ、儒者の徒から誚られた。

胡證

胡證は、字を啓中といい、河東の人である。父は胡瑱、伯父は胡玫で、共に進士第に登った。證は、貞元年間に続いて科第に登り、咸寧王の渾瑊に辟召されて河中従事となった。殿中侍御史から韶州刺史に拝されたが、母が高齢で遠方に赴くことができないため、改めて太子舎人に授けられた。襄陽節度使の於頔が掌書記に請い、検校祠部員外郎となった。

元和四年、侍御史から左司員外郎、長安県令、戸部郎中を歴任した。田弘正が魏博を帰属させた際、副武を除くよう請うたため、御史中丞を兼ね、魏博節度副使を充て、依然として左庶子を兼ねた。召されて左諫議大夫に遷った。

九年、党項が辺境を侵したため、證に安辺の才略があるとして、単於都護・御史大夫・振武軍節度使を授けた。前任の将帥は統御の才がなく、辺境の政事が廃れていたため、朝廷は特に證を用いて鎮めさせたのである。十三年、金吾大将軍に征され、前のまま御史大夫を兼ねた。十四年、京西・京北巡辺使を充て、その利害を訪れて奏聞させた。

長慶元年、太和公主が回紇に降嫁するに当たり、詔により本官のまま検校工部尚書として和親使を充てた。旧制では、使車が国境を出る際、行人が私的に会見する礼があり、官が供給できないため、富家の子を召して使者に財貨を納めさせ、官に命じていた。證が行こうとする時、真っ先にこれを改革するよう請い、倹約して費用を省き、官を売る門を絶とうとした。行って漠南に至ると、虜の騎兵が続いて到着し、狼の心、犬の態で、一日に千様の様子を示し、戎服をもって華服を変革させようとし、また王姫を疾駆させて直路を行かせようとした。證は志を抗して抜けず、漢の儀礼を守り、夷の法を退け、ついに君命を辱めなかった。使いから還ると、工部侍郎に拝された。

敬宗が即位した初め、検校戸部尚書となり、京兆尹を守った。数月後、左散騎常侍に遷った。宝暦初年、戸部尚書・判度支に拝されたが、上表して免職を乞い、藩服で効力を尽くすことを願った。二年、検校兵部尚書・広州刺史となり、嶺南節度使を充てた。太和二年、病気のため上表して京師への帰還を求めた。この年の十月に嶺南で卒し、時に七十一歳であった。一日朝を廃し、左僕射を贈られた。

広州は海の利があり、貨貝が頻繁に至った。證は蓄積に長け、華美を務め、自らの養いを厚くし、童奴数百人を有し、京城の修行里に邸宅を建て、里巷に連なった。嶺表の奇貨が道途に絶えず、京邑では富家と推された。證は平素より賈餗と親善であったが、李訓の事が敗れると、禁軍がその財を利して、證の子の胡溵が賈餗を匿ったと称し、その家を破った。一日の内に、家財は全て尽きた。軍人が胡溵を捕えて左軍に入れ、仇士良が斬って示衆するよう命じた。時に溵の弟の胡湘が太原従事であったが、ある日突然、昼間に緑衣の首のない人が、血を流して地を覆い、室に入るのを見て、湘はこれを嫌った。翌日、溵の凶報が至り、湘は免れたのである。

崔元略

崔元略は、博陵の人である。祖父は崔渾之。父は崔儆で、貞元年間に官は尚書左丞に至った。元略は進士に挙げられ、使府の佐官を歴任した。元和八年、殿中侍御史に拝された。十二年、刑部郎中に遷り、台雑事を知り、抜擢されて御史中丞に拝された。元和十三年、李夷簡が西川から召されて御史大夫に拝されたため、元略に命じて東台に留まって司らせた。まもなく京兆少尹を除かれ、府事を知り、依然として金紫を加えられた。数月後、真に京兆尹に拝された。翌年、左散騎常侍に改めた。

穆宗が即位すると、元略を党項宣撫使に任じようとした。元略は病気を理由に辞退して行かず、黔南観察使・兼御史中丞として出された。初め、元略は党項への使者を命じられたとき、宰相が私怨で自分を排斥したと思い、かなり怨言を漏らした。宰相の崔植が上奏して言うには、「先ごろ聖意が党項の安撫に切なるものがあり、元略を差し向けようとしたのである。命を受けた後、苦しんで行くのを喜ばず、言辞の間、去就にかなり背いている。どうして身に重恩を忝くしながら、報効を思わないことがあろうか。もし自分に都合が良くなければ、すなわち行こうとしない。薄い懲罰が必要であり、在職者を粛正するため、黔中観察使として出すよう請う」と。初め、崔植は吏部郎中に任ぜられ、元略は刑部郎中知雑事に任ぜられていた。時に中丞が京兆尹に改められ、世論は崔植に風憲の官(御史台長官)となる望みがあるとしていた。元略は閣中に入った際、妄りに崔植の失儀を称し、御史に弾劾させた。時に二人とも中丞に擬されて進められていたが、中旨(内廷からの命令)は果たして元略を授け、崔植はこれを深く恨んだ。崔植が宰相となると、元略は左散騎常侍として党項に使わされた。元略は崔植に排斥されたと思い、病気を理由に行かず、譴責を受けて出された。一年余りして、鄂州刺史・鄂嶽都団練観察使に転じた。長慶四年、召されて大理卿となった。

敬宗が即位すると、再び京兆尹となり、まもなく御史大夫を兼ねた。畿内の経赦免放緡銭一万七千貫を誤って徴収したことで、侍御史の蕭澈に弾劾された。詔により刑部郎中趙元亮・大理正元従質・侍御史温造が三司として覆審を担当した。元略には内廷の助力があり、兼ねた大夫を削られるにとどまった。初め、元略には宰相となる望みがあったが、この事件で望みはますます減じた。

宝暦元年、戸部侍郎に遷った。議する者は、元略の版図(戸部)の官への任命は、宣授(皇帝の直接任命)によるものだとした。時に諫官が上疏し、内常侍の崔潭峻がまさに権勢と寵愛を得ており、元略がこれを諸父として事えていると指摘し、故に弾劾されながらも急に顕要な官に遷ったのだと言った。元略も上章して自ら弁明し、かつ言うには、「先ごろ府県が条疏し、台司が挙劾したが、孤立して党がなく、誹謗の言葉はますます明らかになった。宸衷(帝心)から詔が出され、望外の恩恵が延びるとは思わなかった。南宮(尚書省)の重位に処し、左戸(戸部)の清班に列するなど、臣のような庸虚の者が敢えて自ら求めて冒すことではあるまい。天心が選ばれたのであり、特進の恩に驚くが、衆口が非難するため、因縁の説が致されたのである」と。詔はこれに答えて言うには、「朕が命ずる官は、豈に公選でないことがあろうか。卿が職に称するならば、何ぞ人の言を憂えよう」と。しかし元略はついに父として潭峻に事えた名を逃れることはできなかった。

宝暦二年四月、京兆府は、元略が以前京兆尹であった時に橋道使として、東渭橋を造営した際、本典の鄭位・判官の鄭復が物価を虚偽に高くし、評価を抬げて費用を支給し、人夫の賃銭を返さず、工匠から率斂して費消し、計贓二万一千七百九貫に及んだと上奏した。勅は「元略は下を検察できず、慢官に涉るものがある。一月の俸料を罰する」とした。時に劉棲楚は自ら京兆尹となり、相位を覬覦する意があった。元略はまさに次対(宰相に次ぐ対面の機会)の地位にあり、また多く裴度の門を遊んだので、棲楚は己に障りがあることを恐れ、計略でこれを摧き、山陵(皇帝陵)造営時の銭物を按挙して汚そうとした。

太和三年、戸部尚書に転じた。四年、度支を判じた。五年、検校吏部尚書となった。出されて東都留守・畿汝等防禦使となった。この年、また滑州刺史・義成軍節度使に遷った。十二月に卒去し、三日間朝を廃し、尚書左僕射を追贈された。子に鉉がいる。

元略の子、鉉。

鉉は字を台碩といい、進士第に登った。三たび諸侯の幕府に辟召され、荊南・西蜀で掌書記を務めた。会昌初年、召されて左拾遺となり、再び員外郎に遷り、知制誥となり、翰林に召し入れられて学士を充てた。累遷して戸部侍郎承旨となった。会昌末、本官のまま同平章事となった。同列の李徳裕に嫉まれ、宰相を罷められ、陝虢観察使・検校刑部尚書となった。

宣宗が即位すると、検校兵部尚書・河中尹・博陵県開国子に遷り、食邑五百戸を与えられた。大中三年、召されて御史大夫に拝され、まもなく正議大夫・中書侍郎・同平章事を加えられた。累遷して金紫光禄大夫となり、左僕射・門下侍郎・太清宮使・弘文館大学士・博陵県開国公を守り、食邑は二千戸に至った。七年、館中の学士の崔〓彖・薛逢らに『続会要』四十巻を撰させ、これを献上した。九年、検校司徒・揚州大都督長史となり、魏国公に進封され淮南節度使となった。宣宗は太液亭で詩を賦し宴を開いて餞別し、「七載秉鈞調四序」の句があり、儒者として栄誉とされた。

咸通初年、襄州に移鎮した。咸通八年、徐州の戍将の龐勛が桂管から勝手に帰還し、道中で掠奪を行った。鉉は時に荊南節度使であり、徐州の軍が湖南に至ったと聞き、州兵を全て率い、丁壮を点募し、江・湘の要害を分け扼え、ことごとくこれを擒えようとした。徐寇はこれを聞き、嶺を越えて江西・淮右から北へ渡った。朝議はこれを壮とした。江陵で卒去した。

子に沆・汀・潭・沂がいる。

鉉の子、沆。

沆は進士第に登り、官は員外郎・知制誥に至り、中書舎人に拝された。事に坐して循州司戸に貶された。乾符初年、再び舎人に拝され、まもなく礼部侍郎に遷り、貢挙を典した。名士十数人を選び、多くは卿相に至った。乾符末、本官のまま同平章事となった。京国が盗賊に占拠されるに遇い、車駕に従えずに卒去した。沂は後に官も隆盛顕赫であった。

元略の弟、元受。

元略の弟に元受・元式・元儒がいる。

元受は進士第に登り、高陵尉・直史館となった。元和初年、于臯謨が河北行営糧料使となった。元受は韋岵・薛巽・王湘らとともに皆臯謨の判官となり、分かれて供饋を監督した。兵が罷められた後、ある者が臯謨の贓罪隠没を告げ、除名の上賜死された。元受は従坐し、皆嶺表に逐われ、ついに坎壈として志を得ずに卒去した。子の鈞・铏・銖は相次いで進士第に登り、諸侯の幕府に辟召された。

元略の弟に元式あり。

元式は、会昌三年に検校左散騎常侍・河中尹・河中晋絳観察使となった。四年、検校礼部尚書・太原尹・北都留守・河東節度使となった。六年、入朝して刑部尚書となった。宣宗の朝に度支を管轄し、本官のまま同平章事となった。

元略の弟に元儒あり。

元儒は、元和五年に進士第に及第した。

元式の子に鍇あり。

元式の子鍇は、官は京兆尹に至った。

杜元穎

杜元穎は、萊公杜如晦の裔孫である。父の佐は、官位は低かった。元穎は、貞元末年に進士に及第し、再び使府に辟召された。元和年間に左拾遺・右補闕となり、召されて翰林に入り、学士を充てられた。筆が敏速で、憲宗はこれを称賛した。呉元済が平定された時、詔勅起草の功労により、緋魚袋を賜った。司勲員外郎に転じ、知制誥を兼ねた。穆宗が即位すると、思政殿で召対を受け、金紫を賜り、超えて中書舎人に任じられた。その年の冬、戸部侍郎承旨となった。長慶元年三月、本官のまま同平章事となり、上柱国・建安男の爵位を加えられた。元穎は穆宗が帝位に就いてから、補闕から侍郎に至るまで、一年も経たずに輔相の地位に就いた。文辞の臣としての速達ぶりは、元穎に比べるものはなかった。

三年の冬、平章事を帯びて蜀州に出鎮することとなり、穆宗は安福門に臨んで餞別した。昭湣帝が即位すると、童心で偏ったところが多く、奢侈に務めたが、元穎は蜀中の珍異な玩好の品を求め、貢ぎ物を相次いで奉り、恩寵を固めようとした。このため、箕で搔き集めるように収奪し、工事や労役のない日はなく、軍民は怨嗟し、その声は朝廷にまで伝わった。太和三年、南詔の蛮が戎州・巂州などを陥落させ、まっすぐに成都を侵犯した。兵が城下に及んだ時、何の備えもなく、ただ左右を率いて牙城を固守するばかりであった。蛮兵は蜀城の玉帛・子女・工巧の具を大いに掠奪して去った。この時、蛮は三つの道から来襲し、東道は梓州を攻めたが、郭釗がこれを防いで退却させた。当時、元穎は危うく陥落するところであったが、郭釗がその軍勢を撃破したおかげで、ようやく帰還できた。蛮は蜀人を大渡河まで追い立て、彼らに言った。「ここから南は我が境である。お前たちを放して、故郷に別れを告げて泣かせてやる。」数万の男女が一時に慟哭し、風や日さえもそのために惨憺たるものとなった。泣き終わると、水に投身して死んだ者は千余人に及んだ。怨嗟の声は、数年たっても止まなかった。蛮の首領の泬顛は人を遣わして上表し、言った。「蛮軍はこれまで職貢を修めてきたのに、どうして突然国境を侵すことができようか。ただ杜元穎が三軍を顧みず、兵士を蛮の疆域に入らせて賊をさせたのである。移文して彼に報じたが、全く信じてもらえなかった。それ故、蜀部の軍人が続いて案内役となったのは、蜀人の怨み苦しみが深く、我がこの行いを請い、虐げる将帥を誅することを祈ったからである。これを誅さなければ、蜀の士人の心を慰めることができない。願わくは陛下がこれを誅されたい。」監軍小使の張士謙が到着し、元穎の過失を詳しく述べた。これにより罪に坐し、循州司馬に貶せられ、判官の崔璜は連州司馬に、紇幹臮は郢州長史に、盧並は唐州司馬に、いずれも元穎を補佐して善政がなかったためである。六年、貶所で卒去した。臨終に、上表して官位の追贈を請い、湖州刺史を追贈された。

元穎の弟の元絳は、官は太子賓客で終わった。絳の子の審権は、官は宰相に至り、別に伝がある。

崔弘禮

崔弘禮、字は従周、博陵の人である。北斉の崔懐遠の七代の孫。祖父の育は、常州江陰県令。父の孚は、湖州長城県令。弘礼は風貌が魁偉で、磊落として大志があった。進士に挙げられ、累ねて藩府の佐官となり、官は侍御史に至った。

元和年間、呂元膺が東都留守となった時、弘礼を従事とした。当時、淮西の呉少陽が初めて死去し、呉元済が兵を恃んで朝命に背き、山東の反覆の徒がこれに影のように援護した。東では李師道と結び、東都洛陽を襲撃しようと謀り、朝廷を脅かそうとした。弘礼は元膺のために策をめぐらし、兵士を配置して東都を固め、ついに禍患もなかった。累ねて汾州刺史・棣州刺史に除された。ちょうど田弘正が入朝を請い、副使を求めたので、弘礼を衛州刺史に任じ、魏博節度副使を充て、鄭州刺史を歴任した。長慶元年、劉総が入朝し、張弘靖が范陽に移鎮すると、再び弘礼に検校左散騎常侍を加え、幽州盧龍軍節度副使を充てた。境に至らないうちに、幽州・鎮州で兵乱が起こり、絳州刺史に改められた。翌年、汴州で李絺が反乱を起こすと、急ぎ詔を下して弘礼を河南尹・兼御史大夫・東都畿汝都防禦副使に任じた。李絺が平定されると、河陽節度使に遷った。戈矛を整え練兵し、軍備を大いに壮んにした。また上言して秦渠の下に荒田三百頃を開墾することを請い、毎年粟二万斛を収穫し、詔はすべてこれに従った。病気のため連続して上表して代わりを請うた。数年後、検校戸部尚書・華州刺史に任じられた。ちょうど天平軍節度使の烏重胤が卒去し、朝廷は後任に適任者を見出し難く、再び弘礼を天平軍節度使とし、即日に駅伝に乗って赴鎮するよう詔した。

文宗が即位すると、就任のまま検校左僕射を加えられた。鄆州を治めること三年、東都留守に改めて任じられ、さらに刑部尚書に遷った。詔して朝廷に赴かせたが、病気のため到着しなかった。太和四年十月、再び留守に任じられた。この年の十二月に卒去した。享年六十四。司空を追贈された。

弘礼は若い頃、ひたすらに倜儻たる意気を以て自ら任じた。兵書に広く通じ、軍旅の要諦に心を留め、これによって累ねて選抜任用され、藩鎮を歴任した。居官した地に特に称えられるほどの治績はなく、城壁などの修繕補完は普段から行っていたが、生計を立て蓄積することに長けていたため、世間の評判はやや劣った。

李虞仲

李虞仲、字は見之、趙郡の人である。祖父の震は大理丞であった。父の端は進士第に登第し、詩をよくした。大歷年間の中頃、韓翃・錢起・盧綸らと詩文を詠じ唱和し、都下に名を馳せて、「大歷十才子」と号された。時に郭尚父(子儀)の末子の曖が代宗の娘の升平公主に尚し、賢明で才思があり、殊に詩人を喜び、端ら十人は多く曖の門下にあった。宴を開き集まって詩を賦するごとに、公主は簾の中に坐って視て、詩の美なるものには、百匹の縑を賞した。曖が官を拝するに際し、十人を会して曰く、「詩を先に成す者を賞す」と。時に端が先に献じ、警句に云う、「薰香荀令偏に小を憐れみ、傅粉何郎愁ひを知らず」と。主は即ち百縑を以て之を賞した。錢起が曰く、「李校書は誠に才あり、此の篇は宿構なり。願わくは一韻を賦して之を正さん、起の姓を以て韻と為さんことを請う」と。端は即ち箋を襞きて献じて曰く、「方塘は鏡に似て草芊芊たり、初月は鉤の如くして未だ上弦せず。新たに金埒を開きて馬を調ふるを教え、旧に銅山を賜ひて銭を鑄するを許す」と。曖曰く、「此れ愈よ工なり」と。起ら始めて服した。端は校書郎より疾を移して江南に赴き、杭州司馬を授けられて卒した。

虞仲もまた詩をよくした。元和の初め、進士第に登第し、また制策に登科し、弘文校書を授けられた。荊南に従事し、入って太常博士となり、兵部員外・司勛郎中に遷った。寶歷年間、制策を考ふるに甚だ精しく、兵部郎中に転じ、制誥を知り、中書舍人を拝した。太和四年、出でて華州刺史・兼御史大夫となった。入朝して左散騎常侍を拝し、兼秘書監となった。八年、尚書右丞に転じた。九年、兵部侍郎となり、尋いで吏部に改めた。開成元年四月卒し、時に年六十五。

虞仲は簡淡にして寡欲、立性方雅、奕代の文学、達して矜らず、士友之を重んじた。

王質

王質、字は華卿、太原祁の人である。五代の祖の通、字は仲淹、隋末の大儒で、文中子と号された。通は福祚を生み、上蔡主簿に終わった。福祚は勉を生み、進士第に登第し、制策に登科し、位は寶鼎令に終わった。勉は怡を生み、渝州司戸に終わった。怡は潛を生み、揚州天長丞となった。質は即ち潛の第五子である。少より志操を負い、家世の官卑きを以て、世に名を立てて、其の門を大にせんと思い、壽春に寓居し、躬耕して母を養い、専ら講学を事とし、門人業を受くる者大いに其の門に集った。年甫だ強仕に及び、聞達を求めず、親友之を規めて曰く、「華卿の才を以てすれば、名位を取ること地芥を俯拾するが如し、安んぞ自ら亹茸に苦しむ者ならんや。名を揚げ親を顕はすは、耕稼にて致す可きに非ず」と。質乃ち母に白して、郷挙に赴かんことを請うた。元和六年、進士甲科に登第した。嶺南管記に釈褐し、淮蔡・許昌・梓潼・興元の四府に歴佐し、累ねて兼監察御史を奏した。朝に入りて殿中となり、侍御史・戸部員外郎に遷った。旧府の延薦にて、檢校司封郎中となり、金紫を賜わり、興元節度副使を充てた。入朝して戸部郎中となり、諫議大夫に遷った。

太和年間、王守澄が宰相の宋申錫を構陥した。文宗怒り、極法を加へんと欲した。質と常侍の崔玄亮は雨泣して切に諫め、外に付して推鞫せんことを請い、申錫は方って軽典に従った。質は中人に側目せられ、執政より出でて虢州刺史となった。質が射策した時、深く李吉甫に器とされ、徳裕が相となると、甚だ之を礼し、事必ず咨決した。尋いで給事中・河南尹に召された。八年、宣州刺史・兼御史中丞・宣歙団練観察使となった。政に在ること三年。開成元年十二月、疾無く暴卒し、時に年六十八、左散騎常侍を贈られ、謚して定と曰う。

質は清廉方雅、政を為すに声有り。権臣之を厚く待つと雖も、而して己を行ふに素有り、朋比の議に渉らず。宣城に在りて崔珦・劉濩・裴夷直・趙丱を辟いて従事と為し、皆一代の名流なり。其の与する所を視れば、人士之を重んじた。子曰く慶存。

盧簡辭

盧簡辭、字は子策、范陽の人、後に蒲に徙家した。祖は翰。父は綸、天宝末に進士を挙げるも、乱に遇ひて第せず、親を奉じて鄱陽に避地し、郡人の吉中孚と林泉の友と為った。大歷初め、京師に還り、宰相の王縉が奏して集賢学士・秘書省校書郎と為した。王縉兄弟は世に詩名有り、縉既に官重く、凡そ延辟する所は皆辞人名士、綸の詩能くするを以て、礼待愈よ厚し。会に縉罪を得て、累に坐した。久しくして、陜府戸曹・河南密県令に調う。建中初め、昭応令と為る。硃泚の乱に、咸寧王渾瑊が京城西面副元帥を充てると、乃ち綸を抜きて元帥判官・檢校金部郎中と為した。貞元中、吉中孚が翰林学士・戸部侍郎となり、邦賦を典とし、綸を朝に薦む。会に家艱に丁り、而して中孚卒す。太府卿の韋渠牟は徳宗に幸を得、綸は即ち渠牟の甥なり、数へて綸の才を称す。徳宗之を内殿に召し、御制詩を和せしめ、超拜して戸部郎中と為した。方に之に掌誥を委んと欲す、居ること無何、卒す。

初め、大歷中、詩人の李端・錢起・韓翃らは五言詩を能くし、而して辞情捷麗、綸の作は尤も工なり。貞元末に至り、錢・李諸公凋落し、綸嘗て『懐旧詩』五十韻を為し、其の事を叙べて曰く、「吾と吉侍郎中孚・司空郎中曙・苗員外発・崔補闕峒・耿拾遺湋・李校書端は、風塵追遊、向かうこと三十載。数公皆当時の盛称栄耀を負ひ、未だ幾ばくもせず、倶に下泉に沈む。傷悼の際、常に暢博士前事を追感し、詩五十韻を賦して見寄す。輒ち酬有り、以て旧を悲しむを申べ、兼ねて夏侯審侍御に寄す」と。其の諸子を歴言して云く、「侍郎は文章の宗、傑出して淮楚の霊。賦を掌るは籟を吹くが若く、言を司るは瓴を建つるが如し。郎中は慶余を善くし、雅韻は琴と清し。郁郁たる松は雪を帯び、蕭蕭たる鴻は冥に入る。員外は貞かに貴儒、弱冠にして華纓を被る。月香は桂実に飄ひ、乳溜は瓊英を瀝る。補闕は思沖融、巾拂の芸も亦精し。彩蝶は方圃に戯れ、瑞雲は翠屏を滋す。拾遺は興難侔、逸調曠にして程無し。九醖は貯めて弥潔、三花は寒くして転た馨し。校書は才智雄、挙世一の娉婷。墅を賭すれば鬼神変じ、辞に属すれば鸞鳳驚く。差肩して長裾を曳き、総轡して和鈴に奉ず。共に瑤臺の雪を賦し、同く金谷の笙を観る。天に倚りて方に剣に比し、水に沈みて忽ち瓶の如し。君は玉盤の珠を持し、我が懐袖の盈つるを写す。読み罷りて涕頤に交はり、願わくは言ひて百齢に躋らん」と。綸の才思は、皆此の類なり。文宗は文を好み、尤も綸の詩を重んじ、嘗て侍臣に問ひて曰く、「『盧綸集』は幾巻か、子弟有りや」と。李徳裕対へて曰く、「綸に四男有り、皆進士第に登り、今の員外郎簡能・侍御史簡辞是なり」と。即ち中使を其の家に詣らしめ、文集を進めしむ。簡能は尽く集むる所の五百篇を以て上献し、優詔以て之を嘉した。

簡辭は、元和六年に進士に及第し、三度諸侯の幕府に招聘された。長慶の末、朝廷に入り監察御史となり、侍御史に転じた。文雅の余暇に、特に法律に精通し、歴朝の簿籍を、ことごとく胸中に収めた。宝暦年間、故京兆尹黎幹の子煟が御史臺に赴き、父の葉県における旧業の処理を求めたが、臺司はその経緯を知らなかった。簡辭は言った、「幹は魚朝恩の党与に坐して誅せられ、田産は没収された。大暦以来、幾多の赦令があるが、どうして朝恩や黎幹を雪ぐ条文があろうか。ましてその田産は百姓に分け与えられ、百年に及ぼうとしているのに、煟は中助を恃んで妄りに論ずるのか」と。そこで汝州刺史裴通に移牒し、大暦元年の勅に準じて百姓に給するよう命じた。また福建塩鉄院の官盧昂が贓三十万に坐した時、簡辭がこれを推按したところ、その家から金床、瑟瑟の枕で斗ほど大きなものを得た。昭湣帝(敬宗)はこれを見て言った、「これは宮中にないもので、盧昂が吏であったことが分かる」と。まもなく考功員外郎に転じ、郎中に転じた。太和年間、事に坐して太僕卿から衢州刺史に出された。会昌年間、朝廷に入り刑部侍郎となり、戸部に転じた。大中初年、兵部侍郎・検校工部尚書・許州刺史・御史大夫・忠武軍節度使に転じ、検校刑部尚書・襄州刺史・山南東道節度使に遷り、卒した。簡辭の兄は簡能である。

簡辭の兄 簡能

簡能は、字を子拙といい、進士及第後再び藩府に招聘され、朝廷に入り監察御史となった。太和九年、駕部員外より検校司封郎中を以て、鳳翔節度判官を充てた。時に鄭註が寵を得ており、李訓は彼と謀り宦官を誅殺しようとし、註をして鳳翔を鎮守させ、当時の才俊を妙選して賓佐とした。簡能は蕭俛の弟傑、錢起の子可復と共に、皆訓に選ばれ、註に従った。訓が敗れると、註は誅殺された。簡能、蕭傑ら四人は皆監軍使に害せられた。

簡辭の弟に弘正、簡求がいる。

簡辭の弟 弘正

弘正は、字を子強といい、元和末に進士第に登り、累次使府の掌書記に招聘された。朝廷に入り監察御史、侍御史となった。太和年間、華州刺史宇文鼎、戸部員外盧允中が贓罪に坐した時、弘正がこれを推按した。文宗は怒り、鼎を殺そうとしたが、弘正が奏上して言った、「鼎は歴代綱憲を執り、糾弾する官であったが、今は近輔の刺史として、贓汚を聞こえしめ、死は固より常典である。しかし取受の首は、罪は允中にあり、監司の責は、鼎が連坐すべきである」と。文宗はこれを釈放し、鼎はようやく減等された。三度遷って兵部郎中、給事中となった。

会昌末、王師が劉稹を討った。時に詔して河北三帥に山東の州郡を収めさせた。まもなく何弘敬、王元逵が邢・洺・磁の三郡を得た。宰臣が奏議して言った、「山東三郡は、賊稹未だ誅せられざるを以て、暫く留後を立てるべきである。もし弘敬、元逵に陳請する所あれば、則ち朝廷は依違し難し」と。上(武宗)は言った、「然り、誰を任ずべきか」と。李徳裕が言った、「給事中盧弘正は嘗て昭義の判官を為し、性また通敏なり、推択するに宜しき者なり」と。即ち命じて邢洺磁団練観察留後と為した。未だ行かずして稹誅せられ、乃ち弘正に命じて銜命し河北三鎮に宣諭せしめた。使い還り、工部侍郎に拝された。

大中初、戸部侍郎に転じ、塩鉄転運使を充てた。以前は、安邑・解県の両池の塩法に積弊があり、課入充たさず。弘正は判官司空輿をして池務に至り検察せしめ、特たる新法を立て、仍て輿を両池使と為すことを奏した。三年、課入倍加し、その法は今に至るまでこれに頼る。検校戸部尚書となり、徐州刺史・武寧軍節度使・徐泗濠観察等使として出鎮した。徐州は智興の後より、軍士驕怠し、銀刀都と称するものあり、特に姑息を労し、前後屡々主帥を逐う。弘正が鎮すること期年にして、皆その首悪を去り、忠義を諭した。代を受けるに至るまで、軍中に喧嘩無し。徐を鎮すること四年、検校兵部尚書・汴州刺史・宣武軍節度・宋亳潁観察等使に遷り、鎮中に卒した。

簡辭の弟 簡求

簡求は、字を子臧といい、長慶元年に進士第に登り、初官を江西の王仲舒の従事とした。また元稹に従い浙東・江夏の二府の掌書記となった。裴度が襄陽を鎮め、洛都を保厘する時、皆これを賓佐に辟き、殿中侍御史を奏した。朝廷に入り、監察御史を拝した。裴度が太原を鎮める時、復た記室を奏した。朝廷に入り殿中侍御史となり、緋衣を賜う。牛僧孺が襄漢を鎮める時、観察判官に辟した。朝廷に入り水部・戸部の二員外郎となった。会昌末、劉稹を討つに当たり、詔して許帥李彦佐を招討使と為した。朝廷は簡求が累次使府を佐け、機略に達するを以て、乃ち簡求を忠武節度副使知節度事・本道供軍使と為した。朝廷に入り吏部員外郎となり、本司郎中に転じ、蘇州刺史を求めた。

時に簡辭は漢南を鎮め、弘正は侍郎として使務を領し、昆仲皆顕列に居り、時人これを栄しとした。既にして宰執協わず、弘正は出鎮し、簡求は左庶子分司に罷められた。数年して、寿州刺史として出された。九年、党項叛き、簡求を以て四鎮北庭行軍・涇州刺史・涇原渭武節度押蕃落等使・検校左散騎常侍・上柱国・范陽県男・食邑三百戸と為した。十一年、検校工部尚書・定州刺史・御史大夫・義武軍節度・北平軍等使に遷った。十三年、検校刑部尚書・鳳翔尹・鳳翔隴西節度観察等使となった。十四年八月、裴休に代わり太原尹・北都留守、河東節度観察等使を充てた。

簡求は辞翰縦横、応変に長け、歴任した四鎮は、皆辺陲を控えた。雑虜の辺境を寇するに属し、之に因り移授され、至る所で撫禦し、辺鄙晏然たり。太原軍は素より退渾・契苾・沙陁の三部落を管し、或いは撫納至らざれば、多く辺患と為った。前政は或いは之を詛盟に要し、その子弟を質としたが、然れども盗み止まず。簡求は懐を開き撫待し、恩信を以て接し、質とした子弟は一切これを遣わした。故に五部の人は、欣然として命を聴いた。咸通初、疾を以て辞し、表章に懇を瀝した。制して太子太師を以て致仕せしめ、東都に還った。都城に園林別墅あり、歳時行楽し、子弟側に侍り、公卿席に在り、詩酒賞詠し、竟日帰るを忘れ、是の如き者累年なり。五年十月卒す、時に年七十六。尚書左僕射を贈られた。

簡能の子 知猷

簡能の子知猷。知猷は進士第に登り、初官を秘書省正字とした。宰臣蕭鄴が江陵・成都を鎮める時、両府の記室に辟した。朝廷に入り左拾遺を拝し、右補闕・史館修撰に改め、員外郎に転じた。饒州刺史として出された。朝廷に入り兵部郎中を拝し、緋魚袋を賜い、吏部郎中・太常少卿に改めた。商州刺史として出された。征されて給事中に拝し、中書舎人に転じた。僖宗が山南に幸する時、襄王が偽って署し、乃ち金州に避地した。車駕還り、征されて工部侍郎に拝し、戸部に転じ、史館を判じ、尚書右丞・兵部侍郎に遷った。太常卿、工部・戸部尚書を歴任し、復た太常卿を領した。昭宗が華下に在る時、検校右僕射を加え、太子少師を守った。進んで太子太師、検校司空となり、華下に卒した。知猷は器度長厚、文辞美麗。特に書を工み、簡に落し翰を措くに、人争って模倣す。子の文度、位亦た丞郎に至る。

簡辭の子 貽殷

簡辭には子がなく、簡求の子貽殷・玄禧を養子に迎えた。貽殷は光祿少卿に終わった。

簡辭の子 玄禧

玄禧は進士に及第し、國子博士に終わった。

弘正の子 虔灌

弘正の子虔灌は俊才あり、進士に及第した。著した文筆は、時に称せられた。位は秘書監に終わった。

簡求の子 嗣業

簡求には十人の子があり、嗣業・汝弼が最も知名であった。

嗣業は進士に及第し、累次使府に辟召された。廣明の初め、長安尉を以て昭文館に直し、左拾遺・右補闕となった。王鐸が兩京を収めるために兵を徴したとき、都統判官・檢校禮部郎中に辟され、卒した。

簡求の子 汝弼

汝弼は進士に及第し、累遷して祠部員外郎・知制誥に至り、昭宗に従って洛陽に遷った。時に柳璨が賊臣に黨附し、士族を誣陷したので、汝弼は懼れ、病を移して退居し、上黨に客遊した。潞府が太原に攻められるに遇い、節度使丁會が歸降したので、會に従って太原に至り、李克用が節度副使に奏し、累次戸部侍郎に奏した。太原の使府に龍泉亭があり、簡求が節度使であった時に手書した詩一章が、亭の西壁にあった。汝弼はまた亞帥となり、毎に亭中で宴集するも、未だ嘗て賓位に居らず、西に向かって俯首するのみであった。人士はこれを嘉した。

盧氏は兩世貴盛で、六卿・方鎮が相継いだが、輔相に居る者はなかった。中興に至り、嗣業の子文紀は、尚書中書侍郎・平章事に仕えた。

史臣曰く

史臣曰く、孟襄陽の清節、胡廣州の堅正も、卒に權幸と結ぶことにより敗れ、貨賄を積むことにより亡んだ。人の面の如く、固より知り難し。二崔は綱憲を以て相傾け、元穎は奇を獻じて媚を取る。時に多僻に遭うも、位は鼎司に至る。正人を言うも、亦孔の醜なり。而して宦者を父事するは、何ぞ譏を逃れん。端・綸の才を以て、任は元士を逾えず。而るに盧簡辭の昆仲は、雲を摶ち水を撃ち、郁として鼎門となる。德積み慶鐘らざれば、安くぞ此に及ばん。辭人の後、亦た休なるかな。

贊に曰く、君子は義に喩り、小人は利に近し。孟譴び胡亡びて、家財地を掃す。聲勢相傾き、崔・杜醜名。端・綸諸子、奕葉光榮。