舊唐書

巻162

巻162

舊唐書

原文舊唐書

卷一百六十二

原文卷一百六十二

列傳第一百十二 潘孟陽 李翛 王遂 曹華 韋綬 鄭權 盧士玫 韓全義 高霞寓 高瑀 崔戎 陸亙 張正甫

原文列傳第一百十二 潘孟陽 李翛 王遂 曹華 韋綬 鄭權 盧士玫 韓全義 高霞寓 高瑀 崔戎 陸亙 張正甫

潘孟陽

原文潘孟陽

潘孟陽は、礼部侍郎潘炎の子である。孟陽は父の蔭により進み、博学宏辞科に及第した。累進して殿中侍御史となり、降格されて司議郎となった。孟陽の母は、劉晏の娘である。公卿の多くは父の友人や外祖父の賓客であったため、推薦されて用いられ、累進して兵部郎中に至った。

原文潘孟陽,禮部侍郎炎之子也。孟陽以父廕進,登博學宏辭科。累遷殿中侍御史,降為司議郎。孟陽母,劉晏女也。公卿多父友及外祖賓從,故得薦用,累至兵部郎中。

徳宗の末年、王紹が恩寵により、しばしば孟陽の才能を称えたため、これにより権知戸部侍郎に抜擢され、年齢は四十に満たなかった。順宗が即位し、永貞の内禅があり、王叔文が誅殺されると、杜佑が初めて度支を専断し、孟陽に代わって叔文の副使となるよう請うた。時に憲宗が新たに即位したので、孟陽に命じて江淮を巡行させ財賦を視察させ、さらに塩鉄転運副使を加え、かつ東南の鎮の政務を巡察させた。時に孟陽は気性が豪放で権勢が重く、従者三四百人を率い、歴訪した鎮府では、ただ遊覧賞玩に務め、婦女と夜飲をした。塩鉄転運院に至っては、広く財賄を受け入れ、吏職を補うだけであった。帰還すると、人望を大いに失い、罷免されて大理卿となった。三年、出向して華州刺史となり、転じて梓州刺史・剣南東川節度使となった。武元衡とは旧知であり、元衡が宰相となると、再び召されて戸部侍郎・判度支となり、京北五城営田使を兼ね、和糴使韓重華を副使とした。太府卿王遂は孟陽と不和であり、営田が便利でないと議し、意見を譲らず、孟陽は憤慨の念を言葉に表した。二人ともに対面を請うたが、上は怒って許さず、孟陽を左散騎常侍さんきじょうじに罷免した。翌年、再び戸部侍郎に任じられた。

原文德宗末,王紹以恩幸,數稱孟陽之材,因擢授權知戶部侍郎,年未四十。順宗即位,永貞內禪,王叔文誅,杜佑始專判度支,請孟陽代叔文為副。時憲宗新即位,乃命孟陽巡江淮省財賦,仍加鹽鐵轉運副使,且察東南鎮之政理。時孟陽以氣豪權重,領行從三四百人,所歷鎮府,但務遊賞,與婦女為夜飲。至鹽鐵轉運院,廣納財賄,補吏職而已。及歸,大失人望,罷為大理卿。三年,出為華州刺史,遷梓州刺史、劍南東川節度使。與武元衡有舊,元衡作相,復召為戶部侍郎、判度支,兼京北五城營田使,以和糴使韓重華為副。太府卿王遂與孟陽不協,議以營田非便,持之不下,孟陽忿憾形於言。二人俱請對,上怒不許,乃罷孟陽為左散騎常侍。明年,復拜戶部侍郎。

孟陽は気性が豪傑を尚び、細かい礼節に拘らなかった。居宅は非常に華麗峻厳であった。憲宗が微行して楽遊原に至り、その宏大な様子を見て、工事がまだ終わっていないのを問うた。左右が孟陽と答えると、孟陽は恐れて工事を中止した。性来宴会を好み、公卿朝士の多くと交遊し、時に怒りを指摘する者も少なくなかった。やがて中風で歩行不能となり、左散騎常侍に改められた。元和十年八月に卒去し、兵部尚書を追贈された。憲宗は何事にも道理を求め、たびたび江淮宣慰使を派遣し、左司郎中鄭敬が使節を奉じた。辞去する際、上は戒めて言った、「朕の宮中の用度は、一匹以上すべて帳簿に記録している。ただ貧民を救済する時だけは、計算しない。卿は経学に明るく品行を修めている。今、車に登り命を伝えるに当たり、わが心を体して、潘孟陽が使節を奉じた時のように、到る所でただ大酒を飲み、山寺を遊覧するだけということを学んではならない。」そのように人主に軽んじられたのである。

原文孟陽氣尚豪俊,不拘小節。居第頗極華峻。憲宗微行至樂遊原,見其宏敞,工猶未已,問之。左右以孟陽對,孟陽懼而罷工作。性喜宴,公卿朝士多與之遊,時指怒者不一。俄以風緩不能行,改左散騎常侍。元和十年八月卒,贈兵部尚書。憲宗每事求理,常發江淮宣慰使,左司郎中鄭敬奉使。辭,上誡之曰:「朕宮中用度,一匹已上皆有簿籍,唯賑恤貧民,無所計算。卿經明行修,今登車傳命,宜體吾懷,勿學潘孟陽奉使,所至但務酣飲、遊山寺而已。」其為人主所薄如此!

李翛

原文李翛

李翛は、どこの出身か知られていない。寒賤の身から起こり、莊憲皇后の妹婿であったため、元和以来急速に官位を進めた。恩沢により坊州・絳州刺史に至った。他に才能はなく、性格は細やかで人に迎合した。常に厨房や駅伝を飾り立てて、往来する中使や禁軍中尉の賓客に奉じ、良い評判を求めた。民を治め事に臨むのは、およそ政務の才能があった。上は才能ある者と思い、召して司農卿に任じ、京兆尹に転じた。

原文李翛,不知何許人。起於寒賤,以莊憲皇后妹婿,元和已來驟階仕進。以恩澤至坊州、絳州刺史。無他才,性纖巧承迎。常飾廚傳以奉往來中使及禁軍中尉賓客,以求善譽。治民蒞事,粗有政能。上以為才,召拜司農卿,遷京兆尹。

十年、莊憲太后が崩御し、翛は山陵橋道置頓使となった。才能を恃み費用を惜しみ、何事にも減損を加えた。霊駕が灞橋の頓所に至ると、従官の多くが食事を得られなかった。さらに渭城北門に至ると、門が破損した。先に、橋道司が渭城北門の改築を請い、費用三万銭と見積もった。翛は労費を理由に従わず、軌道を深く掘って霊駕を通すよう命じた。土を掘るのが深くなりすぎ、傍らの柱がすべて宙に浮き、それにより突然破損し、霊駕の轀輬車に及ばなかったのは数歩の距離だけであった。初めは城の東北の城壁を壊して、霊駕を出そうとしたが、宦官たちは皆認めず、そこで霊駕を停め、破損した門の土木を取り除いてから進んだ。翛は恐れ、轀輬車の車軸が折れたと虚偽を奏上した。山陵使李逢吉が御史に命じてその車軸を封印させ、陵から帰還し、翛の官職免除を奏請した。上は軍事に用いるため財賦を集める必要があり、翛が前後して進奉していたため、彼を責めず、ただ俸禄を罰するだけだった。逢吉はその罪を極力言上し、ついに銀青光禄大夫の階位を削除した。翌日、再び金紫光禄大夫を賜った。この時より、朝廷の端正な士人は多く讒言で毀損され、義士は彼を横目で睨んだ。時に軍隊が野営しており、糧秣の輸送が整わなかった。浙西の重鎮は殷富と称されていたので、翛を潤州刺史・浙西観察使とし、財貨を鳩集する方法を講じさせた。淮西で軍事が行われた時、その賦税に大いに頼った。十四年、病気を理由に京師への帰還を求め、朝謁せずに卒去した。

原文十年,莊憲太后崩,翛為山陵橋道置頓使。恃能惜費,每事減損。靈駕至灞橋頓,從官多不得食。及至渭城北門,門壞。先是,橋道司請改造渭城北門,計錢三萬。翛以勞費不從,令深鑿軌道以通靈駕。掘土既深,旁柱皆懸,因而頓壞,所不及邅辌車者數步而已。初欲壞城之東北墉,以出靈駕,中人皆不可,乃停駕,徹去壞門土木而後行。翛懼,誣奏邅辌軸折,山陵使李逢吉令御史封其車軸,自陵還,奏請免翛官。上以用兵務集財賦,以翛前後進奉,不之責,但罰俸而已。逢吉極言其罪,乃削銀青階。翌日,復賜金紫。自此,朝廷端士,多遭譖毀,義士為之側目。時宿師於野,饋運不集。浙西重鎮,號為殷阜,乃以翛為潤州刺史、浙西觀察使,令設法鳩聚財貨。淮西用兵,頗賴其賦。十四年,以病求還京師,未朝謁而卒。

王遂

原文王遂

王遂は、宰相王方慶の孫である。吏能をもって当時に知られた。特に利益を興すことに長け、下を操ることに鋭く、法はかなり厳酷であった。累進して鄧州刺史に至った。銭穀に通暁しているため、召されて太府卿となった。潘孟陽が度支を判じ、遂とは私怨があり、互いに論争した。遂は西北供軍使となり、営田が便利でないと主張し、孟陽と会議して互いに非難し合い、それぞれ対面を請うた。上は怒り、ともに面会せず、遂を出して柳州刺史とした。遂の親吏韋行素・柳季常が両池務に課料を請うた。遂が務を罷免されたことに属し、季常らは吏に誣告され、それぞれ笞四十を科された。遂の柳州刺史任命の制書が出ると、左丞呂元膺が執奏して言った、「遂は補吏が贓罪を犯したため、法により連座すべきである。その除官の制書に『清くして能く官に業む』とあるが、遂の犯した罪状に基づけば、『清』の字は相応しくない。柳州は大郡であり、出守するのは優遇である。謹んで制書を封還する。」上は説明するよう命じ、ようやく施行された。数年後、淮西で軍事が行われた。天子は銭穀の吏に頼って財賦を集め、遂が強幹であることを知り、宣州刺史・宣歙観察使に用いた。淮西・蔡州が平定され、王師が東征すると、召して光禄卿に任じ、淄青行営諸軍糧料使を充てた。光禄の職務は祠祭を担当するため、検校左散騎常侍・兼御史大夫に改めた。

原文王遂,宰相方慶之孫也。以吏能聞於時。尤長於興利,銳於操下,法頗嚴酷。累遷至鄧州刺史。以曉達錢穀,入為太府卿。潘孟陽判度支,與遂私憾,互有爭論。遂為西北供軍使,言營田非便,與孟陽會議相非,各求請對。上怒,俱不見,出遂為柳州刺史。遂親吏韋行素、柳季常請課料於兩池務。屬遂罷務,季常等為吏所誣,各笞四十。遂柳州制出,左丞呂元膺執奏曰:「遂以補吏犯贓,法當從坐。其除官制雲『清能業官』,據遂犯狀,不宜有『清』字。柳州大郡,出守為優。謹封還制書。」上令喻之,方行。數年,用兵淮西。天子藉錢穀吏以集財賦,知遂強幹,乃用為宣州刺史、宣歙觀察使。淮、蔡平,王師東討,召拜光祿卿,充淄青行營諸軍糧料使。以光祿職當祠祭,改檢校左散騎常侍、兼御史大夫。

初め、軍隊が出発する際、年間の兵糧は三百万石と見積もられた。鄆州の賊が誅殺されると、遂は余剰百万石を進上し、上は有能であると思った。時に李師道が占拠した十二州を三つの鎮に分け、遂を沂州刺史・沂兗海等州観察使とした。

原文初,師之出也,歲計兵食三百萬石。及鄆賊誅,遂進羨余一百萬,上以為能。時分師道所據十二州為三鎮,乃以遂為沂州刺史、沂兗海等州觀察使。

遂の性格は偏狭で怒りやすく、大局を考えなかった。そして軍州の民吏は、長く汚れた習俗に染まり、多くが粗暴で反抗的であったが、遂はたびたび公事の際に将卒を罵って「反逆者ども」と言ったため、将卒はその憤りに耐えられなかった。牙将王弁が人心の怨怒に乗じ、十四年七月、遂が宴会を開いている最中に、弁は徒党を騒ぎ集め、席上で遂を害し、判官張実・李甫らも同時に害された。曹華が遂に代わって鎮に至ると、乱党の王弁らをことごとく捕らえて誅殺した。

原文遂性狷忿,不存大體。而軍州民吏,久染汙俗,率多獷戾,而遂數因公事訾詈將卒曰「反虜」,將卒不勝其忿。牙將王弁乘人心怨怒,十四年七月,遂方宴集,弁噪集其徒,害遂於席,判官張實、李甫等同遇害。及曹華代遂至鎮,盡擒亂黨王弁等誅之。

遂は器量が広くなく、聚斂に偏り、かつ民を撫でる才能を兼ね備えていなかった。ただ威刑を厳しくして、乱れた習俗を正そうとした。彼が作った笞杖は、すべて通常の規定を超えていた。遂が死んだ後、監軍使がその杖を封じて進呈した。上は朝廷に示して、観察使への戒めとした。

原文遂器用不弘,僻於聚斂,而非兼撫之才。但峻威刑,以繩亂俗。其所制笞杖,率逾常制。遂既死,監軍使封其杖進呈。上令出示於朝,以誡廉使。

曹華

原文曹華

曹華は、宋州楚丘の人で、宣武軍に仕えて牙校となった。貞元の末年、呉少誠が叛くと、本軍は華が驍ぎょう勇果断で智謀があるとして、襄城の戍将に用いた。蔡賊が襄城を攻めると、華はたびたびこれを破り、徳宗は特に旗甲を賜った。元和九年、功により寧州刺史を授けられた。赴任せずに呉元済が叛き、朝廷は河陽帥烏重胤に賊討伐を命じた。重胤は華を懐汝節度行営副使に請うた。前後数十戦し、青陵城で賊を大破した。賊が平定されると、棣州刺史を授けられ、陳留郡王に封じられた。棣州は鄆州に隣接し、賊がたびたび侵攻逼迫したため、華は群盗の中の精鋭を募集し、軍卒に補い、要路に分かれて守らせた。その後、賊が来るたびにこれを撃破し、鄆州の者は北を顧みることができなかった。李師道が誅殺されると、その管轄する十二州を三つの鎮に分けた。王遂が沂兗海観察使となったが、偏狭で苛酷で衆を統御できず、牙将王弁に害された。朝廷はついに華を左散騎常侍・沂州刺史・沂海兗観察使に任じた。

原文曹華,宋州楚丘人,仕宣武軍為牙校。貞元末,吳少誠叛,本軍以華驍果有智算,用為襄城戍將。蔡賊攻襄城,華屢敗之,德宗特賜旗甲。元和九年,以功授寧州刺史。未行而吳元濟叛,朝廷命河陽帥烏重胤討賊。重胤請華為懷汝節度行營副使。前後數十戰,大破賊於青陵城。賊平,授棣州刺史,封陳留郡王。棣鄰於鄆,賊屢侵逼,華招募群盜之勁者,補之軍卒,分據要路。其後,賊至皆擊敗之,鄆人不敢北顧。及李師道誅,分所管十二州為三鎮。王遂為沂兗海觀察使,褊刻不能馭眾,為牙將王弁所害,朝廷遂授華左散騎常侍、沂州刺史、沂海兗觀察使。

王沛はいが任地に至り、三日目に政務を執り、将吏を宴に招き、千人余りの甲士を幕下に伏せさせた。

原文華至鎮,視事三日,宴將吏,伏甲士千人於幕下。群校既集,華喻之曰:「吾受命廉問,奉聖旨,以鄆州將士分割三處,有道途轉徙之勞。今有頒給,北州兵稍厚。鄆州士卒處右,州兵處左,冀易以區別。」分定,並令州兵出外。既出闔門,乃謂鄆卒曰:「天子深知鄆人之勞,然前害主帥者,不能免罪。」甲士自幕中出,周環之,凡鄆一千二百人,立斬於庭,血流成渠。是日,門屏之間,有赤霧高丈余,久之方散。自是海、沂之人,重足股栗,無敢為盜者。

群校が集まると、王沛は彼らに告げて言うには、「私は詔を受けて巡察に当たり、聖旨を奉じて、鄆州の将士を三つの場所に分割し、道中を転徙する労苦を負わせている。

原文華惡沂之地褊,請移理於兗,許之。初,李正己盜有青、鄆十二州,傳襲四世,垂五十年,人俗頑驁,不知禮教。華令將吏曰:「鄒、魯儒者之鄉,不宜忘於禮義。」乃躬禮儒士,習俎豆之容,春秋釋奠於孔子廟,立學講經,儒冠四集。出家財贍給,俾成名入仕,其往者如歸。

今、頒給があるが、北州の兵にはやや厚く与える。

原文及鎮州軍亂,殺田弘正,華表請以本軍進討,就加檢校工部尚書,升兗海為武寧節度,賜之節鉞。李絺叛於大梁,華不俟命赴討。絺方遣兵三千人取宋州,華逆擊敗之。由是,宋、亳不從絺亂。絺平,以功加檢校尚書右僕射。以河朔拒命,移華為滑州刺史、義成軍節度使。長慶三年七月,卒於鎮,時年六十九。

鄆州の士卒は右に、州兵は左に置き、区別しやすくしよう。」

原文華雖出自戎行,而動必由禮。尤重士大夫,未嘗以富貴驕人;下迨仆隸走使之徒,必待之以誠信,人以為難。贈司空。

分け定めると、州兵を外に出させた。

原文韋綬

出て門を閉じると、鄆州の士卒に向かって言うには、「天子は鄆人の労苦を深く知っているが、先に主帥を害した者は、罪を免れない。」

原文韋綬,字子章,京兆人。少有至性,喪父,刺血寫佛經。初為長安縣尉,遭硃泚之亂,變服乘驢赴奉天。於頔鎮襄陽,辟為賓佐。嘗因言政,面刺頔之縱恣。入朝為工部員外,轉屯田郎中。元和十年,改職方郎中,充太子諸王侍讀,再遷諫議大夫。

甲士が幕中から出てきて、彼らを取り囲み、鄆州の者一千二百人を全て庭に立たせて斬り、血流が溝をなした。

原文時穆宗在東宮,方幼好戲。綬講書之隙,頗以嘲誚悅之。嘗密賫家所造食,入宮餉太子。憲宗嘗召對,綬奏曰:「太子學書,至『依』字,輒去旁『人』。臣問之,太子云:『君父以此字可天下奏事,臣子不合全書。』」上益嘉太子之賢,賜綬錦彩。綬無威儀,時以人間鄙說戲言以取悅太子。太子因入侍,道綬語。憲宗不悅,謂侍臣曰:「凡侍讀者,當以經義輔導太子,納之輒物,而綬語及此,予何望耶?」乃罷侍讀,出為虔州刺史。

この日、門と屏の間に、赤い霧が一丈余り高く立ち、久しくしてようやく散じた。

原文穆宗即位,以師友之恩,召為尚書右丞,兼集賢院學士,甚承恩顧,出入禁中。綬以七月六日是穆宗載誕節,請以是日百官詣光順門賀太后,然後上皇帝壽。時政道頗僻,敕出,人不敢議。久之,宰臣奏古無生日稱賀之儀,其事終寢。綬在集賢,遇重陽,賜宰臣百官曲江宴;綬請與集賢學士別為一會,從之。長慶元年三月,轉禮部尚書,判集賢院事。

これより海州・沂州の人は、足を重ね股を震わせ、敢えて盗みを働く者はいなかった。

原文帝嘗問:「禳災祈福,其可必乎?」綬對曰:「昔宋景公以一善言而法星退之三舍,此禳災以德也。漢文帝除秘祝,每於祠祭,盡敬而已,言無所祈,以明福不可以求致也。而二君卒能變已變之災,享自致之福,著於史傳,其理甚明。如失德以祈災消,媚神以祈福至,神茍有知,當因以致譴,非祈禳之道也。」時人主失德,綬因以諷之。

王沛は沂の地が狭いのを嫌い、治所を兗州に移すことを請い、許された。

原文二年十月,檢校戶部尚書、興元尹、山南西道節度使。辭日,請門戟十二,自將赴鎮。又訴家貧,請賜錢二百萬。又面乞授子元弼官。上皆可之。綬禦事無術,洎臨戎鎮,庶政隳紊。二年八月卒,贈尚書右僕射。博士劉端夫請謚為「通」,殿中侍御史孟琯上言以為非當。博士權安請謚為「繆」,竟不施行。

初め、李正己が青州・鄆州など十二州を盗み有し、四世に伝襲され、五十年近くに及び、人俗は頑なで傲慢で、礼教を知らなかった。

原文鄭權

王沛は将吏に命じて言うには、「鄒・魯は儒者の郷である、礼義を忘れるべきではない。」

原文鄭權,滎陽開封人也。登進士第,釋褐涇原從事。節度使劉昌符病亟,請入覲,度軍情必變,以權寬厚容眾,俾主留務。及昌符上路,兵果亂。權挺身入白刃中,抗辭喻以逆順。因殺其首亂者數人,三軍畏伏。德宗聞而嘉之。時天子厭兵,籓鎮將吏得軍情者,多超授官爵。自試衛佐擢授行軍司馬、御史中丞。入朝為倉部郎中,累遷至河南尹。十一年,代李遜為襄州刺史、山南東道節度使。十二年,轉華州刺史、潼關防禦、鎮國軍使。十三年,遷德州刺史、德棣滄景節度使。

そこで自ら儒士を礼遇し、俎豆の容儀を習わせ、春秋に孔子廟で釈奠を行い、学を立てて経を講じ、儒冠が四方から集まった。

原文時朝廷用兵討李師道,權以德、棣之兵臨境。奏於平原、安德二縣之間置歸化縣,以集降民。滄州刺史李宗奭與權不協,每事多違,不稟節制。權奏之,上令中使追之。宗奭諷州兵留己,上言懼亂,未敢離郡,乃以烏重胤鎮橫海,代權歸朝。滄州將吏懼,共逐宗奭。宗奭方奔歸京師。詔以悖慢之罪,斬於獨柳之下。其弟宗爽,長流汀州。授權邠寧節度。會天德軍使上章論宗奭之冤,為權誣奏,權降授原王傅。尋遷右金吾衛大將軍,充左街使。

家財を出して給与し、名を成して仕官させるようにし、往く者は帰るが如くであった。

原文穆宗即位,改左散騎常侍,充入回鶻告哀使。憚其遠役,辭以足疾,不獲免,肩輿而行。權器度魁偉,有辭辯。既至虜廷,與虜主爭論曲直,言辭激壯,可汗深敬異之。

鎮州で軍が乱を起こし、田弘正を殺すと、王沛は上表して本軍を以て進討することを請い、そのまま検校工部尚書を加えられ、兗海を武寧節度に昇格させ、節鉞を賜った。

原文長慶元年使還。出為河南尹,入拜工部侍郎,遷本曹尚書。以家人數多,俸入不足,求為鎮守。旬月,檢校右僕射、廣州刺史、嶺南節度使。初,權出鎮,有中人之助。南海多珍貨,權頗積聚以遺之,大為朝士所嗤。四年十月卒。

盧士玫

原文盧士玫

盧士玫は山東の名族に生まれ、文儒をもって進用された。性質は端正で温厚、人と争うことなく、優れた名声があった。初め吏部員外郎となり、職務に適任であったため、郎中・京兆少尹に転じた。憲宗の園陵を奉仕し、刑罰は簡素で事は集まり、当時の論はその才能を推し、権知京兆尹事を任された。時に幽州の劉総が兵権を解いて入朝することを願い、張弘靖を用いて自らに代えるよう請うた。さらに瀛州・漠州の二州を分割し、士玫を帥とするよう請うた。朝廷はすべてこれに従った。士玫はそこで検校右常侍を授けられ、瀛・漠両州都防禦觀察使を充てられた。

原文盧士玫,山東右族,以文儒進。性端厚,與物無競,雅有令聞。始為吏部員外郎,稱職,轉郎中、京兆少尹。奉憲宗園寢,刑簡事集,時論推其有才,權知京兆尹事。會幽州劉總願釋兵柄入朝,請用張弘靖代己。復請析瀛、漠兩州,用士玫為帥,朝廷一皆從之。士玫遂授檢校右常侍,充瀛、漠兩州都防禦觀察使。

間もなく、幽州で乱が起こり、賓客や僚佐が害され、弘靖は拘束され、裨将の朱克融が軍務を領し、兵を遣わして瀛州・漠州を襲撃した。朝廷は防禦の名では凶逆に抗し得ぬと考え、即日に士玫を検校工部尚書に除し、瀛漠節度使を充てた。士玫もまた家財を尽くして軍用を助け、叛徒を堅く拒むこと数ヶ月に及んだ。ついに官軍の救援が至らず、また瀛漠の兵卒の親族や親しい者の多くが幽州にいたため、ついにその部下がひそかに克融の兵を導いて潰走させた。士玫および従事は皆拘束され、幽州に送られ、賓館に囚われた。朝廷が克融の罪を赦すに及んで、士玫はようやく東洛に帰ることができた。まもなく太子賓客に拝され、洛中に留司し、ほどなく虢州刺史を除され、また賓客となった。宝暦元年七月に卒し、工部尚書を贈られた。

原文無何,幽州亂,害賓佐,縶弘靖,取裨將硃克融領軍務,遣兵襲瀛、漠。朝廷慮防禦之名不足抗兇逆,即日除士玫檢校工部尚書,充瀛漠節度使。士玫亦罄家財助軍用,堅拒叛徒者累月。竟以官軍救之不至,又瀛漠之卒親愛多在幽州,遂為其下陰導克融之兵以潰。士玫及從事皆被拘執,送幽州,囚於賓館。及朝廷宥克融之罪,士玫方得歸東洛。尋拜太子賓客,留司洛中,旋除虢州刺史,復為賓客。寶歷元年七月卒,贈工部尚書。

韓全義

原文韓全義

韓全義は行伍の間より出で、若くして禁軍に従い、竇文場に仕えた。文場が中尉となると、全義を用いて帳中の偏将とし、禁兵を率いて長武城にあった。貞元十三年、神策行営節度・長武城使となり、韓潭に代わって夏綏銀宥節度使とされ、詔により長武の兵を率いて鎮に赴くこととなった。全義は貪欲で勇気なく、撫御の術に欠けていた。制が下る前に、軍中はこれを知り、互いに謀って言った。「夏州は砂礫の地で、耕織の生業がない。盛夏に移るのは、我々にはできない。」その夜、戍卒が騒ぎ立てて乱を起こし、全義は城を越えて逃れて難を免れ、その親将の王棲巌・趙虔曜らが殺された。都虞候の高崇文が乱の首謀者を誅してこれを止めたため、全義はようやく鎮に赴くことができた。

原文韓全義,出自行間,少從禁軍,事竇文場。及文場為中尉,用全義為帳中偏將,典禁兵在長武城。貞元十三年,為神策行營節度、長武城使,代韓潭為夏綏銀宥節度,詔以長武兵赴鎮。全義貪而無勇,短於撫禦。制未下,軍中知之,相與謀曰:「夏州沙磧之地,無耕蠶生業。盛夏移徙,吾所不能。」是夜,戍卒鼓噪為亂,全義逾城而免,殺其親將王棲巖、趙虔曜等。賴都虞候高崇文誅其亂首而止之,全義方獲赴鎮。

翌年、呉少誠が命に背くと、詔して十七鎮の師を徴発してこれを討たせた。当時、軍に統帥がなく、兵の多少にかかわらず、皆宦官を監軍として付け、師の進退は主将によらなかった。十五年冬、王師は賊に小溵河で敗れた。徳宗は文場が平素から全義を厚遇していたため、これを用いて蔡州四面行営招討使とし、なお陳許節度使の上官涚を副使とした。諸鎮の師は、皆全義の節度を受けた。全義は将略を長とせず、巧みな諂いと財貨をもって中貴人と結び、推薦されて用いられた。師が賊の境に臨むと、また制は監軍にあり、兵を出すことを議するごとに、一つの帳中に、宦官が十数人もいて、紛然と論争して決まらなかった。蔡賊はこれを聞き、しばしば決戦を求めた。十六年五月、賊と溵水の南の広利城で遭遇した。旗鼓未だ交わらずして、諸軍は大いに潰え、賊の攻撃を受けた。全義は五楼に退いて守り、賊は対壘して相望んだ。潰兵がまだ集まらないうちに、監軍の賈英秀・賈国良らとともに溵水県を守った。賊は溵水より五六里のところに軍を置き、全義はその突撃を恐れ、陳州に退いて守った。その汴宋・河北の軍は、皆亡きて本鎮に帰り、ただ陳許の将孟元陽・神策の将蘇光栄ら数千人が溵水を守った。全義は潞州の大将夏侯仲宣・滑州の将時昂・河陽の将権文度・河中の将郭湘らを誘って誅殺した。これにより軍情はやや固まった。少誠は王師の無能なるを知り、書と幣を贈って監軍に告げ、昭雪を求めることを願った。徳宗は大臣を召して議し、宰相の賈耽が言うには、「先般全義が五楼から退軍したとき、賊が追撃しなかったのは、国家の恩赦を望んだからでしょう。臣は恐らく生路を開くべきかと存じます。」上はこれをよしとした。また監軍らの上奏を得て、即時に制を下して罪を洗い、その爵位を加えた。

原文明年,吳少誠拒命,詔征十七鎮之師討之。時軍無統帥,兵無多少,皆以內官監之,師之進退不由主將。十五年冬,王師為賊所敗於小溵河。德宗以文場素待全義,乃用為蔡州四面行營招討使,仍以陳許節度使上官涚副之。諸鎮之師,皆取全義節度。全義將略非所長,能以巧佞財賄結中貴人,以被薦用。及師臨賊境,又制在監軍,每議兵出,一帳之中,中人十數,紛然爭論莫決。蔡賊聞之,屢求決戰。十六年五月,遇賊於溵水南廣利城。旗鼓未交,諸軍大潰,為賊所乘。全義退保五樓,賊對壘相望。潰兵未集,乃與監軍賈英秀、賈國良等保溵水縣。賊距溵水五六里而軍,全義懼其淩突,退保陳州。其汴宋、河北之軍,皆亡歸本鎮,唯陳許將孟元陽、神策將蘇光榮等數千人守溵水。全義誘潞州大將夏侯仲宣、滑將時昂、河陽將權文度、河中將郭湘等誅之。由是軍情稍固。少誠知王師無能為,致書幣以告監軍,願求昭洗。德宗召大臣議,宰相賈耽曰:「昨全義五樓退軍,賊不追擊者,應望國家恩貸。臣伏恐須開生路。」上然之。又得監軍等奏,即下制洗滌,加其爵秩。

十七年、全義は陳州より班師したが、宦官がその敗跡を隠したため、上は初めのごとく遇した。全義は武臣で、朝儀に通ぜず、足疾を口実に、謁見に堪えぬとした。全義の司馬崔放が対し、徳宗が労問すると、放は過ちを引き、招撫の功がないと述べた。徳宗は言った。「全義は招討使として、呉少誠を招いて帰国させた。その功は大きい。どうして人を殺すことが功でなければならないのか。」まもなく鎮に還ることを命じ、中使をその邸に遣わして宴を賜い、賞賜は甚だ厚かった。還ってから辞するまで、まったく謁見せずに去った。議する者は、法制を毀ち敗ること、古より以来、貞元のごとき甚だしきはなかったという。憲宗が藩王であったとき、常にこの事を憎んだ。即位すると、全義は恐れ、入覲を求め、詔して太子太保をもって致仕させた。その年七月に卒した。

原文十七年,全義自陳州班師,而中人掩其敗跡,上待之如初。全義武臣,不達朝儀,托以足疾,不任謁見。全義司馬崔放入對,德宗勞問,放引過,言招撫無功。德宗曰:「全義為招討使,招得吳少誠歸國,其功大矣。何必殺人乃為功耶!」旋命還鎮,令中使就第賜宴,錫賫頗厚。自還至辭,都不謁見而去。議者以隳敗法制,從古已還,未如貞元之甚。憲宗在籓,常惡其事。及即位,全義懼,求入覲,詔以太子太保致仕。其年七月卒。

高霞寓

原文高霞寓

高霞寓は范陽の人である。祖父の仙、父の棲鶴は、皆孝行で知られた。五代にわたって同爨した。徳宗の朝、采訪使洪経綸がその門閭を旌表するよう奏上し、郷里はその事を称美した。霞寓は若くして『左氏春秋』および孫子・呉子の『兵法』を読み、大言を好み、節概をもって自ら任じた。

原文高霞寓,范陽人。祖仙,父棲鶴,皆以孝聞。凡五代同爨。德宗朝,采訪使洪經綸奏旌表其門閭,鄉里稱美其事。霞寓少讀《左氏春秋》及孫、吳《兵法》,好大言,頗以節概自許。

貞元年中、徒歩で長武城使高崇文を訪ね、猶子の分けで遇され、軍職に抜擢され、たびたび憲宗に奏上され、甚だ信任された。元和初年、詔により兼御史大夫を授けられ、崇文に従って兵を率いて劉辟を撃ち、連戦連勝し、鹿頭城を陥とし、李文悦・仇良輔を降した。蜀しょくが平定されると、功により彭州刺史に拝され、まもなく崇文の後を継いで長武城使となり、感義郡王に封ぜられた。元和五年、左威衛将軍として吐突承璀に従い王承宗を撃ち、さらに左散騎常侍を加えられた。翌年、豊州刺史・三城都団練防禦使に改められた。六遷して検校工部尚書に至った。

原文貞元中,徒步造長武城使高崇文,待以猶子之分,擢授軍職,累奏憲宗,甚見委信。元和初,詔授兼御史大夫,從崇文將兵擊劉辟,連戰皆克,下鹿頭城,降李文悅、仇良輔。蜀平,以功拜彭州刺史,尋繼崇文為長武城使,封感義郡王。元和五年,以左威衛將軍隨吐突承璀擊王承宗,又加左散騎常侍。明年,改豐州刺史、三城都團練防禦使。六遷至檢校工部尚書。

元和十年、朝廷が呉元済を討つにあたり、霞寓を宿将として、山南東道を二つの鎮に分割し、霞寓を唐鄧隋節度使とした。

原文元和十年,朝廷討吳元濟,以霞寓宿將,乃析山南東道為兩鎮,以霞寓為唐鄧隋節度使。

霞寓は勇敢と称せられたが、平素から機略に暗く、統制については特に長じていなかった。任地に着くと、兵を率いて蕭陂に向かい、賊と決戦した。小勝した後、さらに進んで文城柵に至った。賊軍は偽って敗退し、霞寓はこれを追撃してやまず、伏兵に襲われ、王師は大敗し、霞寓はただ一身をもって免れた。これにより帰州刺史に貶せられた。後に恩例により、右衛大将軍に徴された。

原文霞寓雖稱勇敢,素昧機略;至於統制,尤非所長。及達所部,乃率兵趣蕭陂,與賊決戰。既小勝,又進至文城柵。賊軍偽敗而退,霞寓逐之不已,因為伏兵所掩,王師大衄,霞寓僅以身免。坐貶歸州刺史。後以恩例,征為右衛大將軍。

十三年、振武節度使として出向し、入って左武衛大将軍となった。長慶元年、邠寧節度使を授けられた。三年、就いて検校右僕射を加えられた。四年、検校司空しくうを加え、さらに司徒しとを加えられた。

原文十三年,出為振武節度使,入為左武衛大將軍。長慶元年,授邠寧節度使。三年,就加檢校右僕射。四年,加檢校司空,又加司徒。

宝暦二年、頭に疽が発し、事務を執ることができず、帰京を求めた。その夏、右金吾衛大将軍・検校司徒を授けられたが、途次奉天で卒し、五十五歳であった。太保を贈られた。

原文寶歷二年,疽發首,不能理事,求歸闕下。其夏,授右金吾衛大將軍、檢校司徒,途次奉天而卒,年五十五,贈太保。

霞寓は卒伍の常材に過ぎず、初め宦官によって進用され、節度使の位に至った。位望が高くなるにつれ、言葉は多く不遜であった。朝廷はこれを知り、移転罷免を議しようとした。霞寓は甚だ憂い恐れ、私邸を仏寺とし、上言して寺額を「懐恩」と請い、聖福を資けんとした。おおよそ奸妄兇狡このようであった。また朝列を非難し、僚属を侮慢し、卑しい言葉や俗語が、日々世に聞こえた。

原文霞寓卒伍常材,始因宦官進用,遂階節將。位望既高,言多不遜。朝廷知之,欲議移罷。霞寓頗懷憂恐,舍私第為佛寺,上言請額為「懷恩」,用資聖福。大率奸妄兇狡如此。又非斥朝列,侮慢僚屬,鄙辭俚語,日聞於時。

高瑀

原文高瑀

高瑀は、渤海郡蓚県の人である。若い頃より兵事を論ずることを好み、初官は右金吾胄曹に任ぜられ、累次諸府の從事に辟召され、陳州・蔡州の二郡刺史を歴任し、入朝して太僕卿となった。太和初年、忠武節度使王沛が卒すると、世論は陳許軍が四方征討に功績があったので、必ず自ら帥を選ぶであろうと言い、ある者は禁軍の将がこれを得るであろうと言った。宰相裴度・韋處厚は、高瑀が深沈で方正雅量があり、かつて陳州・蔡州を刺史として治め、人々がその善政を懐かしみ、また忠武軍の内情に詳しいので、高瑀を用いることを請おうと議した。事がまだ上聞されないうちに、陳許の表が届き、果たして高瑀を帥に請うたので、乃ち検校左散騎常侍・許州刺史・忠武節度使を授けた。大暦以来、節度使の除拜は、多く禁軍中尉から出ていた。凡そ一帥を命ずるに、必ず広く重賂を輸送した。禁軍将校で帥となるべき者は、自ら家財が無ければ、必ず人から資金を取った。鎮を得た後は、則ち民の膏血を絞り疲弊させてこれを償った。高瑀の拝官に及んで、内外の公議により、搢紳は相慶して言うには、「韋公が相となれば、債帥は少ないであろう」と。

原文高瑀,渤海蓚人。少好論兵,釋褐右金吾胄曹,累辟諸府從事,歷陳、蔡二郡刺史,入為太仆卿。太和初,忠武節度使王沛卒,物議以陳許軍四征有功,必自擇帥;或以禁軍之將得之。宰相裴度、韋處厚議瑀深沈方雅,曾刺陳、蔡,人懷良政,又熟忠武軍情,欲請用瑀。事未聞,陳許表至,果請瑀為帥,乃授檢校左散騎常侍、許州刺史、忠武節度使。自大歷已來,節制之除拜,多出禁軍中尉。凡命一帥,必廣輸重賂。禁軍將校當為帥者,自無家財,必取資於人;得鎮之後,則膏血疲民以償之。及瑀之拜,以內外公議,搢紳相慶曰:「韋公作相,債帥鮮矣!」

三年、就いて検校工部尚書を加えられた。連年水旱の災害があり、人民は飢饉が重なった。高瑀は州民を召集し、城郭を巡らせて堤塘一百八十里を築き、蓄水と排水が均しくなり、人々に飢饉の年が無くなった。検校右僕射を加えられた。六年、徐州刺史・武寧軍節度等使に移任された。議者は、徐泗は王智興の後であり、軍士が驕慢で恣に振る舞うので、雄帥を得てこれを鎮めるべきであると言った。乃ち太府卿崔珙を以て高瑀に代え、征されて刑部尚書となった。疾病を理由に分司を求め、太子少傅を拝した。その月、再び検校右僕射・陳許蔡節度使を授けられた。八年六月に卒し、司空を贈られた。

原文三年,就加檢校工部尚書。比年水旱,人民薦饑。瑀召集州民,繞郭立堤塘一百八十里,蓄泄既均,人無饑年。加檢校右僕射。六年,移授徐州刺史、武寧軍節度等使。議者以徐泗王智興之後,軍士驕恣,宜得雄帥鎮之。乃以太府卿崔珙代瑀,征為刑部尚書。以疾求分司,拜太子少傅。其月,復授檢校右僕射、陳許蔡節度使。八年六月卒,贈司空。

高瑀の性格は寛和で、度量があり、官として赫々たる誉れは無かったが、赴任した所は皆よく治まり、特に士心を得たので、論者はこれを称えた。

原文瑀性寬和,有體量,為官雖無赫赫之譽,所至皆理,尤得士心,論者美之。

崔戎

原文崔戎

崔戎は、字を可大という。高伯祖は玄暐で、神龍初年に大功があり、博陵郡王に封ぜられた。祖父は嬰で、郢州刺史であった。父は貞固で、太原郡榆次県尉であった。崔戎は両経に挙げられて科第に登り、太子校書を授けられ、調判で入等し、藍田主簿を授けられ、藩鎮の名公に交えて辟召された。

原文崔戎,字可大。高伯祖玄暐,神龍初有大功,封博陵郡王。祖嬰,郢州刺史。父貞固,太原榆次尉。戎舉兩經登科,授太子校書,調判入等,授藍田主薄,為籓鎮名公交辟。

裴度が太原を領すると、参謀に署した。時に王承宗が鎮州を拠りて叛いたので、裴度は崔戎に単車で往きてこれを諭すことを請うた。王承宗は感泣して教えを受けた。入朝して殿中侍御史となり、累次吏部郎中を拝し、諫議大夫に遷った。まもなく剣南東・西両川宣慰使となった。西州は蛮寇の後を承け、崔戎は宣撫するとともに、再び徴税を定め、廃置が適切で、公私ともにこれを便利とした。還朝して給事中を拝し、駁奏は当時に称えられた。華州刺史に改め、兗海沂密都団練観察等使に遷った。将に行かんとする時、州人が恋惜して道を遮り、靴を解ぎ鐙を断つ者さえあった。兗州を治めること一年、大和八年五月に卒し、礼部尚書を贈られた。

原文裴度領太原,署為參謀。時王承宗據鎮州叛,度請戎單車往諭之,承宗感泣受教。入為殿中侍御史,累拜吏部郎中,遷諫議大夫。尋為劍南東、西兩川宣慰使。西州承蠻寇之後,戎既宣撫,兼再定征稅,廢置得所,公私便之。還,拜給事中,駁奏為當時所稱。改華州刺史,遷兗海沂密都團練觀察等使。將行,州人戀惜遮道,至有解靴斷〓登者。理兗一年,大和八年五月卒,贈禮部尚書。

陸亙

原文陸亙

陸亙は、字を景山といい、呉郡の人である。祖父は元明で、睦州司馬であった。父は持詮で、恵陵台令であった。陸亙は書判により集賢殿正字・華原県尉を授けられた。制挙に応じ、万年県丞を授けられた。京兆府兵曹参そうしん軍より太常博士を拝した。寺に礼生の孟真がおり、長くその事に従事し、凡そ吉凶の大儀は、礼官が通達できず、大抵孟真に訪ねた。孟真もまたこれに頼って姑息を求めた。元和七年、皇太子を冊立するに当たり、将に儀注を撰せんとした時、孟真もまた参預しようとした。陸亙はこれを笞打ち、これにより礼儀は胥吏に専らされなくなった。虞部員外郎より出て鄧州刺史となった。その後入朝して戸部郎中・秘書少監・太常少卿となり、兗州・蔡州・虢州・蘇州の四郡刺史を歴任した。越州刺史・浙東団練観察等使に遷った。宣歙観察使に移り、御史大夫を加えられた。大和八年九月に卒し、年七十一、礼部尚書を贈られた。

原文陸亙,字景山,吳郡人。祖元明,睦州司馬。父持詮,惠陵臺令。亙以書判授集賢殿正字、華原縣尉。應制舉,授萬年縣丞。自京兆府兵曹參軍拜太常博士。寺有禮生孟真,久於其事,凡吉兇大儀,禮官不能達,率訪真。真亦賴是須要姑息。元和七年,冊皇太子,將撰儀註,真亦欲參預;亙笞之,由是禮儀不專於胥吏。自虞部員外郎出為鄧州刺史。其後入為戶部郎中、秘書少監、太常少卿,歷刺兗、蔡、虢、蘇四郡。遷越州刺史、浙東團練觀察等使。移宣歙觀察使,加御史大夫。太和八年九月卒,年七十一,贈禮部尚書。

陸亙は強明で厳毅であり、赴任した所でよく治まると称えられた。初めて兗州に赴く時、延英殿で面奏して言うには、「凡そ節度使が兵を握り属郡に分屯させる者は、刺史がこれを制することができず、遂に一州の弊となる。宜しく処分有るべし」と。これにより詔して、天下の兵で属郡に分屯する者は、刺史に隷属させた。越州の永喜郡は、海浜に城を築き、常に寇境に陥り、官吏の俸禄の半分を集めて常賦に代え、因循して相踵ぎ、吏は返って幸いとした。陸亙は贓罪を挙げて按問し、表を奉って郡守以下、その俸給を増給することを請い、人々は皆これに頼った。

原文亙強明嚴毅,所至稱理。初赴兗州,延英面奏曰:「凡節度使握兵分屯屬郡者,刺史不能制,遂為一州之弊,宜有處分。」因詔天下兵分屯屬郡者,隸於刺史。越之永喜郡,城於海閆,常陷寇境,集官吏廩祿之半,以代常賦,因循相踵,吏返為幸。亙按舉贓罪,表請郡守以降,增給其俸,人皆賴之。

張正甫

原文張正甫

張正甫は、字を踐方といい、南陽の人である。曾祖父は大礼で、坊州刺史であった。祖父は紹貞で、尚書右丞であった。父は泚で、蘇州司馬であった。張正甫は進士第に登り、樊澤に従って襄陽従事となり、累次転じて監察御史となった。于頔が樊澤に代わると、張正甫を留めて辟召しようとした。張正甫は堅くこれを辞したので、遂に誣奏して郴州長史に貶した。後に邕府より征されて殿中侍御史を拝し、戸部員外郎に遷り、司封員外郎に転じ、侍御史を兼ねて雑事を知った。戸部郎中に遷り、河南尹に改めた。尚書右丞より同州刺史となり、入朝して左散騎常侍・集賢殿学士を拝し院事を判じた。工部尚書に転じた。五年、検校兵部尚書・太子詹事となった。明年、吏部尚書を以て致仕した。張正甫は仁にして端亮であり、官に莅むこと清強であった。外任に居り、赴任した所でよく治まると称えられた。大和八年九月に卒し、年八十三、累贈して太師となった。子に毅夫がいる。

原文張正甫,字踐方,南陽人。曾祖大禮,坊州刺史。祖紹貞,尚書右丞。父泚,蘇州司馬。正甫登進士第,從樊澤為襄陽從事,累轉監察御史。於頔代澤,辟留正甫。正甫堅辭之,遂誣奏貶郴州長史。後由邕府征拜殿中侍御史,遷戶部員外郎,轉司封員外、兼侍御史知雜事。遷戶部郎中,改河南尹。由尚書右丞為同州刺史,入拜左散騎常侍、集賢殿學士判院事。轉工部尚書。五年,檢校兵部尚書、太子詹事。明年,以吏部尚書致仕。正甫仁而端亮,蒞官清強。居外任,所至稱理。太和八年九月卒,年八十三,累贈太師。子毅夫。

毅夫は、進士第に登った。初め張正甫の兄の式は、大暦中に進士第に登り、これに継いで張正甫が登第し、式の子の元夫・傑夫・征夫がまた相次いで科第に登った。太和中、文章の盛んなことは、世に共にこれを称えた。元夫は、太和初年に兵部郎中・知制誥となり、中書舎人に遷り、出て汝州刺史となった。毅夫は位は戸部侍郎・弘文館学士に至り院事を判じた。諸群従で登第した者は数人おり、毅夫の子の祎が最も知名であった。

原文毅夫,登進士第。初正甫兄式,大歷中進士登第,繼之以正甫,式子元夫、傑夫、征夫又相次登科。太和中,文章之盛,世共稱之。元夫,太和初兵部郎中、知制誥,遷中書舍人,出為汝州刺史。毅夫位至戶部侍郎、弘文館學士判院事。諸群從登第者數人,而毅夫子祎最知名。

祎は、字を冠章といい、初官は汴州従事・戸部判官となり、入朝して藍田尉・集賢校理となった。趙隱が浙西を鎮め、劉鄴が淮南を鎮めた時、皆賓佐として辟召した。入朝して監察御史となり、左補闕に遷った。乾符中、詔されて翰林に入り学士となり、累官して中書舎人に至った。黄巢が京師を犯すと、僖宗に従って蜀に幸し、工部侍郎を拝し戸部事を判じた。江淮に奉使して還ると、当塗者と協わず、太子賓客・左散騎常侍に改め、吏部侍郎に転じ、刑部尚書・兵部尚書を歴任した。昭宗に従って華州に在った時、韓建に構えられて衡州司馬に貶された。昭宗が還京すると、征されて礼部尚書・太常卿を拝し、礼儀使を充て、兵部尚書に遷った。

原文祎,字冠章,釋褐汴州從事、戶部判官,入為藍田尉、集賢校理。趙隱鎮浙西,劉鄴鎮淮南,皆辟為賓佐。入為監察御史,遷左補闕。乾符中,詔入翰林為學士,累官至中書舍人。黃巢犯京師,從僖宗幸蜀,拜工部侍郎,判戶部事。奉使江淮還,為當塗者不協,改太子賓客、左散騎常侍,轉吏部侍郎,歷刑部、兵部尚書。從昭宗在華,為韓建所構,貶衡州司馬。昭宗還京,征拜禮部尚書、太常卿,充禮儀使,遷兵部尚書。

祎は苦心して文を作り、老いて益々壮んであった。刑部尚書の時、劉鄴の子の覃が、黄巢の寇の時に禍を避けて金吾将軍張直方の邸にいたが、被害に遭った。僖宗が還京すると、覃を憎む者が、逆党に附托し、義に非ずして死んだとして、三司に下して罪を詳らかにさせた。祎は上章して理を申し、覃父子は賊廷において共に命を絶ったのであって、豈に逆に附したと言えようか、と言った。その家は竟に冤罪を雪がれ、覃もまた官を贈られた。その行義の始終は、皆この類いであった。

原文祎苦心為文,老而益壯。為刑部時,劉鄴子覃,當巢寇時避禍於金吾將軍張直方之第,被害。僖宗還京,而惡覃者以托附逆黨,死不以義,下三司詳罪。祎上章申理,言覃父子並命於賊廷,豈附逆耶?其家竟獲洗雪,覃亦贈官。其行義始終,皆如此類。

【贊】

原文【贊】

史臣曰く、孟陽・王遂は儒雅の曹にして、才は称すべきあり、竟に財を以て時君に媚び、俗吏と為るに陥る。道を蹈むの論、懼れざるべけんや。全義は官は妄進に由り、霞寓は位は卒升に以てし、勇毅は以て行を啓くに足らず、謀慮は以て変に応ずるに足らず、敗亡の辱、亦た宜ならずや。朝に責帥の刑無きは、蓋し自ら恥づるなり。権・瑀は長者にして、末塗に真を喪ひ、食貧に牽かるるに雖も、純は則ち偽なり。

原文史臣曰:孟陽、王遂儒雅之曹,才有可稱,竟以財媚時君,陷為俗吏。蹈道之論,可不懼耶!全義官由妄進,霞寓位以卒升,勇毅不足以啟行,謀慮不足以應變,敗亡之辱,不亦宜乎?朝無責帥之刑,蓋自恥也。權、瑀長者,末塗喪真,雖牽於食貧,純則偽矣。

賛に曰く、仁を蘊めば則ち哲なり、利を蘊めば則ち狂なり。搢紳の胤、潘・王に效ふ勿れ。全義は責を逃れ、貞元は策を失ふ。霞寓は刑を薄くし、元和は復興す。

原文贊曰:蘊仁則哲,蘊利則狂。搢紳之胤,勿效潘、王。全義逃責,貞元失策。霞寓薄刑,元和復興。