旧唐書 李光進

旧唐書

李光進

李光進は、もと河曲部落の稽阿跌の族である。父の良臣は、鶏田州刺史を襲い、朔方軍に隷属した。光進の姉は、舍利葛旃に嫁ぎ、僕固瑒を殺して河東節度使辛雲京に仕えた。光進兄弟は幼少の頃葛旃に寄り添い、これにより太原に家を定めた。

光進は勇毅果敢であり、その武芸と兵略は葛旃に次いだ。粛宗が霊武より兵を観るや、光進は郭子儀に従って賊を破り、両京を収め、累ねて戦功があった。至徳年中、代州刺史を授けられ、范陽郡公に封ぜられ、食邑二百戸を賜う。上元初め、郭子儀が朔方節度使となり、軍を率いて大同・横野・清夷、范陽及び河北の残賊を討つに当たり、光進を用いて都知兵馬使とした。まもなく渭北節度使に遷る。永泰初め、武威郡王に進封される。大暦四年、検校戸部尚書となり、省事を知る。間もなく、また検校刑部尚書・兼太子太保に転ず。この年の冬十月、母を京城の南原に葬るに当たり、将相より致祭する者凡そ四十四幄、窮極奢靡を極め、城内の士庶、観る者堵の如し。

元和四年、王承宗が反す。范希朝が師を引いて易定を救い、光進を歩都虞候に表す。木刀溝に戦い、光進功あり。六年、銀青光禄大夫・検校工部尚書を拝し、単於大都護・振武節度使を充てる。詔して光進が夙に誠節有り、克く茂勲を著すを以て、姓を李氏に賜う。その弟光顔は洺州刺史を除かれ、本州団練使を充てる。兄弟恩沢同時なり、人皆嘆異す。八年、霊武節度使に遷る。光進は嘗て馬燧に従って臨洺を救い、洹水に戦い、河中を収め、皆功あり。前後軍中の職、歴らざる所無し。中丞・大夫悉く曾て兼帯す。先に易定を救うの師、光進・光顔皆その行に在りし故、軍中光進を呼んで大大夫と為し、光顔を小大夫と為す。十年七月卒す。

光進兄弟は少くより孝睦を以て軍中に推さる。母の喪に居るや、三年寝室に帰らず。光顔先に妻を娶り、その母家事を委ぬ。母卒すや、光進始めて娶る。光顔その妻をして管籥・家籍・財物を奉じ、その姒に帰らしむ。光進命じてこれを反し、且つ光顔に謂いて曰く、「新婦逮く母に事え、嘗て以て家を主たるを命ぜらる、改むべからず」と。因り相い持して泣くこと良久くして、乃ち初めの如し。卒する時年六十五、尚書左僕射を贈らる。

光顔は兄光進と共に葛旃の騎射に善くするを以て、兄弟幼より皆これを師とし、葛旃独り光顔の勇健を許し、己及ばずとす。長じて、河東軍に従って裨将となり、李懐光・楊恵琳を討ち、皆功あり。後に高崇文に随いて蜀を平らげ、旗を搴ぎ将を斬り、出入り神の如し、これにより稍稍名を知らる。憲宗元和已来より、代・洺二州刺史・兼御史大夫を歴授す。

九年、将に淮・蔡を討たんとし、九月、陳州刺史に遷り、忠武軍都知兵馬使を充てる。月を逾え、忠武軍節度使・検校工部尚書に遷る。会に朝廷天下の兵を征し、申・蔡を環らして呉元済を討つに当たり、詔して光顔に本軍を以て独り一たび面を当たらしむ。光顔ここに兵を引いて溵水に臨み、洄曲に抗す。明年五月、元済の師を時曲に破る。初め、賊衆晨に光顔の壘を圧して陣し、光顔出づるを得ず、乃ち自らその柵の左右を毀ち、騎を出して以てこれを突く。光顔数騎を将いて堅を冒してこれを沖ぎ、出入すること数四。賊衆尽く識り、矢身に集まること蝟の如し。その子光顔の馬鞅を攬ぎ、その深入を止む。光顔刃を挙げてこれを叱し、乃ち退く。ここに於て人争い奮躍す。賊乃ち大いに潰え、死者数千人。捷声京師に至り、人々相賀す。時に蔡を伐つ師、大小凡そ十余鎮、裴度使いより還りてより、唯光顔の勇にして義を知り、終に命を辱しめざるを奏す。ここに至り、果たして功を立つ。この歳十一月、光顔また懐汝節度烏重胤と同く元済の衆を小溵河に破り、その柵を平らぐ。

初め、都統韓弘諸軍に令して斉しく賊城を攻めしむ。賊また径に烏重胤の壘を攻む。重胤これを禦ぎ、数槍に中り、馳せて救いを光顔に請う。光顔小溵橋の賊の堡なるを以て、その無備に乗じ、田穎・宋朝隠をして襲い取りしむ。乃ちその城塹を平らげ、これにより重胤を救い克つ。韓弘光顔の令に違うを以て、穎及び朝隠を取りて将に戮せんとす。穎及び朝隠勇にして材有り、軍中皆これを惋惜す。光顔弘を畏れて敢えて留めず。会に中使景忠信至り、その情を知り、乃ち詔を矯めて所在に令し械系せしむ。走馬入見し、具に本末を以て聞こゆ。憲宗忠信の矯詔の罪を赦し、即ち往きて穎及び朝隠を釈せしむ。弘及び光顔叠りて表を以て論ず。憲宗弘の使に謂いて曰く、「穎等都統の令に違うは、固より当に死を処すべし。但だ光顔その賊を襲うに功有るを以て、亦これを宥すべし。軍に三令五申有り、宜しくこれを捨てて来効を収むべし」と。及び詔を以て弘に諭すも、弘悦ばず。十一年、光顔連ねて元済の衆を敗り、賊の凌雲柵を抜く。憲宗大いに悦び、その捷を告ぐる者に奴婢銀錦を賜う。位を進めて検校尚書左僕射と為す。

十二年四月、光顔元済の衆三万を郾城に敗る。その将張伯良蔡州に奔り、その賊什二三を殺し、馬千匹、器甲三万聯を獲、皆雷公符を画く。仍りて書して云く、「速やかに城北軍を破れ」と。尋いで郾城守将鄧懐金城を以て降らんことを請う。光顔これを許し、郾城を収む。

初め、鄧懐金官軍の青陵城を囲み、その帰路を絶つを以て、懐金懼れ、郾城令董昌齢に謀る。昌齢の母素よりその子に誡めて降るを令す。昌齢この故に懐金を勧めて款を光顔に帰し、且つ曰く、「城中の人、父母妻子皆蔡州に質す。屈せずして降らば、則ち家尽く屠らる。請う来たりて城を攻めよ。我すなわち烽を挙げて救いを求む。救兵将に至らんとす。官軍逆にこれを撃てば必ず敗る。この時当に城を以て降るべし」と。光顔これに従う。賊果たして敗走す。ここに於て昌齢印を執り、吏を帥いて門外に列し、懐金と諸将素服倒戈して門内に列す。光顔降を受け、乃ち羅城に入る。その城自ら五十余歩壊る。

時に韓弘は汴帥たりしが、驕り高ぶりて強情なり。常に賊の勢いを恃みて朝廷の姑息を求め、光顔の力戦を憎み、密かに撓屈を図るも、計略施す所なし。遂に大梁城を挙げて一の美婦人を求め、歌舞弦管六博の芸を教え、珠翠金玉衣服の具を以て飾り、計費数百万、使者を命じて光顔に送遺し、一見して悦惑し軍政を怠らんことを冀う。使者は即ち書を賫して先ず光顔の壘に造りて曰く、「本使令公は公の私愛を徳とし、公の暴露を憂え、一妓を進めて以て公の征役の思を慰めんと欲す。謹んで以て命を候う」と。光顔曰く、「今日は既に暮れぬ。明旦に納れん」と。詰朝、光顔乃ち軍士を大いに宴し、三軍咸に集まり、妓を進むるを命ず。妓至れば、則ち容止端麗、殆ど人間の所有に非ず、一座皆驚く。光顔乃ち座上に於いて来使に謂ひて曰く、「令公は光顔の家室を離るる久しきを憐れみ、美妓を捨てて見贈するは、誠に以て徳を荷う有り。然れども光顔は国家の恩を受くる深く、逆賊と同日月の下に同じくせざるを誓う。今戦卒数万、皆妻子を背にし、白刃を蹈む。光顔何を以て女色を楽しみと為さんや」と。言訖、涕泣嗚咽す。堂下の兵士数万、皆感激して流涕す。乃ち厚く縑帛を以て其の来使に酬い、其の妓を領して席上より回らしめ、使者に謂ひて曰く、「光顔に代わりて令公に多謝す。光顔の君に事え国に許すの心は、死して貳する無し」と。此より兵衆の心、弥く激勵を加う。

裴度の行営に至るに及び、賓従を率いて方城沱口に於いて板築・五溝を観る。賊遽かに至り、弩を注ぎ刃を挺て、勢い将に度に及ばんとす。光顔は前もって決戦して以て之を却く。時に光顔は其の来るを預め慮り、先ず田布をして二百騎を以て溝中に伏せしめ、賊の意に表せずして之を交撃せしむ。度方に免るるを得たり。布は又先んじて其の溝中の帰路を扼す。賊多く騎を棄てて溝を越え、相牽きて墜ち圧し死する者千余人。是の日、光顔の救い微なれば、度幾くにか陥らんとす。是の月、賊は光顔の勇諸将に冠たるを知り、乃ち其の衆を悉くして光顔の師に当たらしむ。時に李愬其の無備に乗じ、急に兵を引いて蔡州を襲い、之を抜き、元済を獲たり。董重質は洄曲の軍を棄て、城に入りて愬に降る。光顔之を知り、躍馬して賊営に入り、大呼して降らしむ。賊衆万余人、皆甲を解き戈を投げて命を請う。賊平ぎ、検校司空を加う。

十三年春、中官を命じて光顔を居第に宴し、芻米二十余車を賜う。憲宗又麟徳殿に禦して召対し、金帯錦彩を賜う。朝廷東に李師道を討たんとし、光顔に義成軍節度使を授く。鎮に至り、尋いで行営に赴く。数旬の内、再び賊軍を濮陽に敗り、殺戮数千人、進軍深く入る。

十四年、西蕃寇す。移して邠寧節度使を授く。時に塩州は吐蕃の毀する所と為り、李文悦を刺史と為すを命じ、光顔をして勾当修築塩州城使を充てしむ。仍ち陳許六千人を以て随い邠寧に赴くを許す。是歳、吐蕃涇原を侵す。田縉夏州を鎮むるより、貪猥を以て党項羌を侵撓し、乃ち吐蕃を引いて寇せしむ。蕃軍の涇州を攻むるに及び、辺将郝玼血戦して始めて退く。初め、光顔賊の涇州を攻むるを聞き、兵を料り赴き救わんとす。邠師喧然として曰く、「人に五十千を給うるも戦陣を識らず、彼は何なる人ぞ。常額の衣資を得ずして前に白刃を蹈む、此は何なる人ぞ」と。憤声恟々として遏へ難し。光顔素より士心を得、曲く大義を陳説し、言発して涕流る。三軍之に感じ、亦泣下し、乃ち欣然として即ち路に就き、賊を撃ちて之を退く。

穆宗即位し、就いて特進を加え、仍ち一子に四品正員官を与う。尋いで詔して闕に赴かしめ、開化裏の第を賜い、進めて同中書門下平章事を加う。穆宗、光顔の功諸将に冠たるを以て、故に闕に召し赴かしめ、宴賜優給す。已にして平章を帯びて復た鎮す。勛臣に報ゆる所以なり。

長慶初、鳳翔節度使に遷り、前に依りて検校司空・同中書門下平章事たり。歳末、復た許州節度使を授く。朝廷、光顔の昔陳許を鎮めしに、頗る士心を得たるを以て、将に鎮・冀を討たんとす。故に此の拜有り。鎮に赴く日、宰相百僚故事に依りて章敬寺に於いて送別し、穆宗通化門に禦して之を臨送し、錦彩・銀器・良馬・玉帯等の物を賜う。二年、王廷湊を討ち、光顔を命じて兼ねて深州行営諸軍節度使と為す。光顔既に命を受け行き、軍を懸けて賊を討つも、饋運に艱し。朝廷又以て滄・景・徳・棣等州を俾ち之に兼管せしむ。其の賊に隣れる郡を以て、便ち飛挽すべしと為す。光顔、朝廷の制置乖方なるを以て、賊帥連結し、未だ朝夕に平定すべからず。事若し差跌せば、即ち前功悉く棄つるに至らんとし、乃ち懇ろに兼鎮を辞す。尋いで疾作るを以て、表して帰鎮を祈る。朝廷果たして賊を討つも功無くして廷湊を赦す。四年、敬宗即位し、正しく司徒を拝す。

汴州李絺其の帥を逐いて叛く。詔して光顔に陳許の師を率いて之を討たしむ。尉氏に営す。俄にして絺を誅す。太原尹・北京留守・河東節度使に遷り、階を進めて開府儀同三司と為し、仍ち正衙に於いて冊を受け司徒兼侍中たり。二年九月卒す。年六十六。朝を廃すること三日。太尉を贈り、謚して忠と曰う。

烏重胤

烏重胤は潞州の牙将なり。元和中、王承宗叛く。王師討伐を加う。潞帥盧従史は軍を出すも、密かに賊と通ず。時に神策行営吐突承璀は従史の軍に相近く、承璀は重胤と謀り、従史を帳下に縛す。是の日、重胤戒厳し、潞軍敢えて動く者無し。憲宗其の功を賞し、潞府左司馬を授け、懐州刺史に遷し、兼ねて河陽三城節度使を充てしむ。会うに淮・蔡を討つに及び、重胤を用いて境を圧し、仍ち汝州を割きて河陽に隷せしむ。王師の淮西を討つこと三年、重胤は李光顔と掎角相応じ、大小百余戦し、以て元濟誅せらるるに至る。就いて検校尚書右僕射を加え、司空に転ず。蔡将に李端と云う者有り、溵河を過ぎて重胤に降る。其の妻は賊の為に樹に束縛せられ、臠食せられ至死す。将に絶えんとするも、猶其の夫を呼びて曰く、「善く烏僕射に事えよ」と。其の人心を得ること此の如し。

元和十三年、鄭権に代わりて横海軍節度使と為る。既に鎮に至り、上言して曰く、「臣以うるに、河朔の能く朝命を拒ぐ者は、其の大略見るべし。蓋し刺史其の職を失い、反って鎮将に兵事を領せしむるなり。若し刺史各々其の職分を得、又鎮兵有らば、則ち節将に禄山・思明の奸有ると雖も、豈に一州を拠りて叛くことを為さんや。所以に河朔六十年能く朝命を拒ぐ者は、只だ刺史・県令の職を奪い、自ら威福を作す故なり。臣の管する徳・棣・景の三州は、已に公牒を挙げ、各々還りて刺史の職事を為し訖る。応に州兵に在るは、並びに刺史をして収管せしむ。又景州は本は弓高県なり。請う、却って廃して県と為し、帰化県は本は草市なり。請う、県を廃し旧に依りて德州に属せしめん」と。詔して並びに之に従う。是より法制修立し、各々名分に帰す。

また、軍を深州に駐屯させた際、重胤は朝廷の措置が適切でなく、賊が勢いに乗っているとして、軽率に進軍すべきでないとし、数か月にわたって様子を見た。穆宗は反乱の誅伐を急ぎ、遂に杜叔良を代わりに任じ、重胤を検校司徒、兼興元尹、山南西道節度使に充てた。京師に召し出され、再び本官のまま天平軍節度使、鄆曹濮等州観察等使となった。李同捷が滄州を占拠し、父の地位を継ぐことを請うたが、朝廷は許さなかった。議論する者は狡猾な若者が命令に逆らうことを憂慮し、重臣を代わりに任じようとした。そこで鎮を兗海に移し、太子太師、平章事を加え、兼ねて滄景節度使を領させ、従前通り斉州を割いてこれに隷属させた。これは、軍を労せずに平定させようという望みからであった。詔が出て十日後、重胤は卒去し、太尉を追贈された。

重胤は兵卒の間から出て、大将帥となるに及び、真心を以て上に奉じた。下の者と苦楽を共にすることができ、赴くところで功を立てたが、一度も誇ることがなかった。そして賓客や幕僚を厚く遇し、礼節も行き届き、当時の名士は皆、彼に頼りたいと願った。身が没した日、軍士二十余人が皆、腿の肉を切り取って祭りの酒に供した。古の名将といえども、これに勝るものはなかった。

子の漢弘が嗣ぎ、起復して左領軍衛将軍を授けられた。漢弘は上表して喪に服する期間を全うすることを乞うたので、文宗は詔を嘉してこれに従った。喪が明けて初めて官職を授けられた。

王沛

王沛は許州の人である。十八歳の時、勇猛果断であった。許州節度使上官涚はその才能を奇異とし、娘を娶らせ、牙門将に任じた。涚が卒去すると、娘婿の田偁が涚の子を脅迫し、世襲を求めようとした。監軍使がこれに従わないことを恐れ、謀を結んで伏兵を置いて事を図ろうとした。王沛は密かにその謀を知り、監軍に告げた。そこで伏せていた場所でその一味をことごとく捕らえた。監軍の範日用はこの事を上聞し、徳宗は陳許行軍司馬劉昌裔にその軍を統率させ、王沛に手詔を賜り、涚の子を護衛して上都に赴かせるよう命じた。上都に到着し、召し出されて徳宗は彼に言った。「卿の忠義に照らせば、寵遇は一等を加えるべきである。しかし昌裔の上奏では、ただ監察御史を加えることを請うているのみで、朕の意は甚だ満足しない。卿は速やかに帰り、直ちに昌裔に伝え、改めて上奏させるように。」そこで駅馬で帰還した。許州に至らないうちに、開府儀同三司、兼御史中丞に任じられ、従前の本職のままとした。

呉元済が反乱を起こすと、李光顔は命を受けて攻め討ち、王沛の節操と気概を奇異とし、行営兵馬使に任じ、別に精兵を率いて近郊に駐屯させた。軍が合流すると、連続して蔡の賊を破った。頻りに詔して進軍を促したが、諸将は様子を見て、誰も先に溵河を渡ろうとしなかった。王沛は兵五千を率い、夜に溵河の合流口を渡り、まっすぐに賊の喉元を扼して城を築いた。これより、河陽、宣武、太原、魏博等の軍が続いて渡河し、犄角の勢いで郾城を進攻した。王沛は先に陣を築いて賊と対峙し、賊将の鄧懐金が衆を率いて面縛して降った。蔡賊は平定された。王沛は李光顔に従って入朝し、光顔は王沛の功績を詳しく述べ、御史大夫を加えられた。

鎮に戻ると、光顔は詔を受けて鄆の賊を討った。李師道が誅殺されると、詔して許州の兵を分けて邠に駐屯させ、王沛を都将として塩州を救援し、吐蕃を撃退させた。功により寧州刺史を加えられ、陳州に転じた。李絺が反乱を起こすと、詔して王沛に忠武節度副使を兼ねさせ、軍を率いて絺を討たせた。絺が平定されると、検校右散騎常侍を加えられ、兗海沂密節度使、観察等使に転じた。この国は新たに設置されたばかりで、人情は荒々しく強情であったが、王沛は法令を明らかにし、軍政を選び練り、一年で大いに治まった。翌年、検校工部尚書に改め、忠武軍節度使、陳許蔡観察等使を充てた。鎮で卒去し、右僕射を追贈された。子に逢がいる。

逢は、若い頃から沈着勇猛で、父に従って征伐し功績があり、忠武都知兵馬使となった。太和年間、宿衛に入り、諸衛将軍を歴任した。石雄、劉沔に従って天徳で回紇を破った。性質は果断で、法の運用は厳格であった。その時、二千人が戦陣に上らなかったが、官から賜った賞給を、逢は皆与えなかった。ある者がこれを非難すると、逢は言った。「健児が前に進んで白刃を冒すのに、功もない者に賞を与えるならば、白刃を冒す者はどう思うだろうか。」王宰が劉稹を攻めた時、逢は陳許の七千兵を率いて翼城に駐屯し、田令昭の代わりとなった。賊が平定されると、検校左散騎常侍となった。累進して忠武軍節度使、陳許観察等使に至った。

李珙

李珙は山東の名門の出身で、代々婚姻を修めていた。珙に至っては、読書を好まず、ただ弓馬を務めとした。身長六尺余り、気貌は魁偉であった。かつて沢潞に赴き李抱真に謁見したところ、抱真は彼を異才とし、衙門将に選ぼうとしたが、すぐに酒に酔って気勢をあげたため、再び見捨てようとした。都将の王虔休が抱真に言った。「李珙は奇士です。もし用いられないならば、殺してしまう方が良いでしょう。他の者の手に渡してはなりません。」

抱真が死ぬと、虔休が帥となり、珙は虔休に依り、累進して昭義の大将となった。吐突承璀が盧従史を捕らえた時、烏重胤は実際にその謀に参与していたが、珙は初め知らず、従史を救おうとした。重胤が朝廷の旨を受けたと聞くと、様子を見て進まなかった。重胤はこのことで彼に恩義を感じた。後に河陽を領すると、彼を麾下に置いた。しかし朝廷は、彼が従史と親しくしていたため、結局北辺の一校として出させた。

元和十年、淮西を征討する際、重胤は懇願して上表し、彼を諸道行営都虞候とした。詔は特にこれを許したが、まもなく母の喪で職を去った。喪が明けると、右武衛上将軍に任じられた。長慶四年八月に卒去し、六十四歳であった。一日朝を廃した。

李祐

李祐は、もと蔡州の牙将であった。呉元済に仕え、驍勇で戦いに長けた。官軍が淮西を討伐して以来、祐は行営将として、常に官軍に抵抗し、皆彼を恐れた。元和十二年、李愬に捕らえられた。愬は祐に胆略があることを知り、死罪を免じ、厚く遇した。誠意を推して本分を定め、共に寝食を共にし、しばしば帳中で密談し、夜明けまで眠らなかった。外で耳をそばだてる者がいたが、ただ幾度も祐が感激して泣く声を聞いただけである。しかし軍中では、以前に祐に殺傷された者が多かったため、営塁の諸兵卒が会議を開き、皆祐を殺さなかったことを恨んだ。愬は衆情が怨みを向けているため、祐を全うできないと考え、そこで祐を京師に送り、上表して彼を救った。憲宗は特に許し、遂に祐を愬に賜った。愬は大いに喜び、直ちに三千の精兵を彼に託した。祐はその言葉を聴き、疑うところなく、ついに祐によって蔡を破り、元済を生け捕りにした。功により神武将軍を授けられ、金吾将軍、検校左散騎常侍、夏州刺史、御史大夫、夏綏銀宥節度使に転じた。

宝暦初年、入朝して右金吾大将軍となった。まもなく吐蕃が侵入したため、出て涇州刺史、涇原節度使となった。太和初年、李同捷を討ち、検校戸部尚書、滄州刺史、滄徳景節度使に転じた。太和三年五月に卒去した。

董重質

董重質は、もと淮西の牙将であり、呉少誠の女婿である。性質は勇猛で悍しく、軍機を識り、兵を用いるに巧みであった。元済が命に背いた時、重質はまた謀主となり、大軍を率いて官軍に当たり、連年抜くことができなかったのは、皆重質の謀略によるものであった。元和十二年、宰相裴度が淮西に兵を督し、郾城に至ると、元済は左右及び城を守る兵卒を悉く発し、重質に委ねて度を防がせた。時に李愬が虚に乗じて蔡に入った。元済を擒えた後、重質の家族は蔡に在ったが、愬はこれを安んじて慰め、なおその子に書礼を持たせて重質を召し寄せた。重質はその子を見て、城が既に陥ちたこと、及び元済が囚われ窮迫している様を知り、慨然として単騎で愬に帰し、白衣で叩頭して伏した。愬は揖して階に登らせ、賓礼をもってこれと食を共にした。憲宗はこれを殺そうとしたが、愬は不死を許して降って来たと奏上し、これを免ずることを請い、かつ本軍に駆使することを乞うた。ここにおいて、春州司戸参軍に貶した。

明年、太子少詹事に転じ、武寧軍に委ねて収管駆使させ、なお金紫を加えた。十五年、征入して左神武軍将軍を授け、軍事を知り、御史中丞を兼ねた。なお金帛を賜い、有功者と等しくした。まもなく塩州刺史を授け、また左右神策及び諸道剣南西川行営節度使・検校左散騎常侍に遷った。太和四年、また夏綏銀宥節度使に転じた。五年、就いて検校工部尚書を加えた。重質は兵を訓え法を立て、羌戎は畏服した。八年八月卒し、尚書右僕射を贈られた。

楊元卿

楊元卿、祖父は子華、德州安陵県丞。父は寓、申州鐘山県令。元卿は少くして孤となり、慷慨として才略有り。冠に及んで、なお江嶺の表を漂蕩し、遊を縦にし言を放ち、人はこれを狂生と謂う。時に呉少誠が蔡州を専らにし、朝廷はこれを姑息した。元卿は白衣で謁見し、劇県に署し、旋いて従事に辟し、試大理評事を奏授した。また少陽に事え、後に監察裏行に転ずることを奏した。上奏に因り、宰相李吉甫深く慰納を加え、ここより一歳に或いは再び奏に随って京師に至る。元卿は毎に少陽と言し、大義を諭す。乃ち凶党に構えられ、節度判官蘇肇の保持に頼り、故に免れた。元卿は潜かに朝廷に奉じ、内に少陽の事を耗した。

少陽の死に及んで、その子元済が継いで立つ。元卿は説いて曰く、「先尚書は性吝にして、諸将は皆饑寒す。今須らく恵を布きて以て自ら固くすべし。府中の有無は、元卿熟く之を知る。何ぞ諸道に聘を散じ、辞を卑くし礼を厚くし、以て丈人行として群帥を呼び、庶幾く一助あらんや。而して諸将大いに獲ん。」元卿は留後の表を将いて上聞せんことを願う。朝廷安んぞ従わざらんや。」元済これを許す。元卿は即日蔡を離れ、賊の勢の盈虚を条奏し、潜かに詔して諸道に使者を拘留せんことを請う。元済の覚むるに及んで、元卿の妻陳氏並びに四男は並びに元済に殺され、同じく一つの射垛に塗り込められた。蘇肇は元卿を保持したため、亦同日に害された。詔して元卿に嶽王府司馬を授け、尋いで太子僕射に遷す。

元和十三年、蔡州刺史・兼御史中丞を授く。未だ行かず、光禄少卿に改授す。初め、朝廷は元卿に李愬と会議せしめ、唐州東境に要便の処を選び、権に行蔡州を置かしむ。百姓官健に帰順する者有らば、便ち勅に準じて優恤し、必ず全活せしむ。既にして召見す。元卿遽かに度支の銭を借らんことを奏請し、及び言事頗る多く旨に合わず。宰相裴度も亦諸将の賊を討つこと三年、功成るは旦暮に在り。更に土地を元卿に分かち与うれば、即ち相侵して事を生ずるを恐る。故に前命を罷めて改授す。是歳、既に淮西を平げ、元卿奏して曰く、「淮西には甚だ宝貨及び犀帯有り。臣之を知る。往きて取れば必ず得ん。」上曰く、「朕本賊を討ち、人の為に害を除く。今賊平ぎ人安んず。則ち我之を求めて得たり。宝貨犀帯は求むる所に非ず。復た此の言うこと勿れ。」是月、詔して左金吾衛将軍を授く。未だ幾もなく、汾州刺史に改め、復た征して左金吾衛将軍と為す。

長慶初め、鎮・魏の守臣を易置す。元卿宰相に詣り利害を深く陳べ、並びに其の事を表に具す。後穆宗感悟し、白玉帯を賜い、旋いて検校左散騎常侍・涇州刺史・涇原渭節度観察等使を授け、兼ねて四鎮北庭行軍を充す。元卿乃ち屯田五千頃を置くことを奏し、毎屯墻を築くこと高さ数仞、鍵閉牢密、卒然寇至るも、尽く保守すべし。検校工部尚書を加う。営田成り、復た使号を加う。六年居り、涇人の論奏する所と為り、徳政碑を立て、移して懐州刺史を授け、河陽三城節度観察等使を充す。太和五年、就いて検校司空を加え、階を光禄大夫に進む。其の営田して粟二十万石を納れ、経費を裨する故なり。是歳、汴宋亳観察等使に改授す。凡そ廃置する所は、皆弘益有り、詔並びに之に従う。年七十、寝疾し、洛陽に帰る。詔して太子太保を授く。是歳八月卒す。朝を廃すること三日、司徒を贈る。元卿始め家を毀ちて効順し、累ね方鎮を授かる。然れども性険巧にして、至る所好んで聚斂し、善く結交す。涇人の情を得るも、亦此に由るなり。

子延宗、開成中に磁州刺史と為り、謀りて河陽節度使を逐い以て自立せんと坐し、其の党の告ぐる所と為り、台司推鞫して実を得、之を誅す。

劉悟

劉悟は、正臣の孫なり。正臣は本名客奴。天宝末、禄山叛く。平盧軍節度使柳知晦賊の偽署を受く。客奴時に職牙門に居り、知晦を襲殺し、章を馳せて以て聞かす。平盧軍節度使を授け、名を正臣と賜う。

悟は少くして勇力有り。叔逸準は汴帥と為り、緡銭数百万を洛中に積む。悟輒ち扃鐍を破り、悉く盗み用う。既にして懼れ、亡れて李師古に帰す。始め亦甚だ知らざりしが、後因りて球を撃ち馳突し、師古の馬を沖いで仆す。師古怒り、将に之を斬らんとす。悟猛に気語を以て師古に押触す。師古奇として之を免す。因りて壮士を管せしめ、後軍を将い、累ねて衙門の右職に署し、淄青節度都知兵馬使・兼監察御史を奏授す。

元和末、憲宗既に淮西を平げ、詔を下して師道を誅せんとす。悟を遣わし兵を将いて魏博軍に拒がしめ、而して数たび悟を促して戦わしむ。悟未だ進まず、馳使して之を召す。悟度るに使来れば必ず己を殺さんと、乃ち偽りて疾ありて出でず、都虞候をして往きて之を迎えしむ。使者亦果して誠を以て其人に告げ、云く「命を奉じて悟を殺し以て悟に代わん」。都虞候即時に先ず還る。悟これを劾して実を得、乃ち諸将を召して謀りて曰く、「魏博田弘正の兵強し。出でて戦えば必ず敗る。出でざれば則ち死す。今天子の誅する所は、司空一人のみ。悟と公等は皆其の駆迫せらるる所と為り、死に就かしめらる。何ぞ其の来使を殺し、戈を整えて以て鄆を取り、大功を立て、危亡を転じて富貴と為さんや。」衆皆曰く、「善し。唯だ都将の命する所に従わん。」悟ここに於て立って其の使を斬り、兵を以て鄆を取り、其の内城を囲み、兼ねて火を以て其の門を攻む。数刻を経ず、師道並びに男二人を擒え、並びに其の首を斬りて以て献ず。悟を擢いて検校工部尚書・兼御史大夫・義成軍節度使に拝し、彭城郡王に封じ、仍って実封五百戸、銭二万貫、庄・宅各一区を賜う。十五年正月入覲し、又検校兵部尚書を加え、余は故の如し。

穆宗即位し、恩例に以て検校尚書右僕射に遷す。是歳十月、鎮を移して沢潞とし、旋って本官を以て平章事を兼ぬ。

長慶元年、幽州の大将朱克融が叛き、その帥張弘靖を囚ふ。朝廷は名将を求めて漁陽を鎮めしむ。乃ち悟に検校司空・平章事を加へ、盧龍軍節度使を充てる。悟は幽州方に乱るるを以て、未だ進討に克たず、節鉞を授けて之を徐に図らんことを請ふ。乃ち復た悟を以て沢潞節度と為し、検校司徒を拝し、兼ねて太子太傅、前の如く平章事とす。時に監軍劉承偕は頗る恩権に恃み、常に衆に対し悟を辱しむ。又その下の法を乱るるを縦す。悟平らかならず。異日、中使有りて至る。承偕之を宴し、悟を請ふ。悟往かんと欲す。左右皆曰く、「往かば必ず其の困辱を為さん」と。軍衆因りて乱る。悟之を止めず。乃ち承偕を擒へて牙門に至らしめ、其の二仆を殺し、並びに承偕を害せんと欲す。悟之を救ひて免るるを得しむ。朝廷已むを得ず、承偕を貶す。是より悟頗る縦恣にして、河朔三鎮に效はんと欲す。朝廷に失意不逞の徒、多く潞州に投寄して援を求め、往々奏章を以て事を論じ、辞旨遜らず。

宝暦元年九月、病にて卒す。太尉を贈る。遺表して請ふ、其の子従諫を以て戎事を継纘せしむべしと。敬宗大臣を下して議せしむ。僕射李絳は沢潞を内地と為し、三鎮と事理を同じくせず、許すべからずとす。宰相李逢吉・中尉王守澄其の賂を受け、曲りて奏請を為す。

従諫、将作監主簿より自ら起復し、雲麾将軍・守金吾衛大将軍同正・検校左散騎常侍・兼御史大夫となり、昭義節度副大使を充て、節度観察等留後を掌る。二年、金吾上将軍・検校工部尚書を加へられ、昭義節度等使を充つ。文宗即位し、検校司空に進む。六年十二月入覲す。七年春藩に帰り、同中書門下平章事を加へらる。九年、李訓の事敗れ、宰相王涯等四人禍を受く。時に涯兼ねて邦計を掌る。李訓と同謀せずと雖も、然れども其の間に自ら異ならず、既に死すも其の罪に非ず。従諫素より涯の私恩に徳し、心頗る平らかならず、四たび上章して涯等の罪名を請ひ、仇士良の輩深く之を憚る。是の時中官頗る横はり、天子制すること能はず。朝臣日ごとに族の陷らんことを憂ふ。従諫の論列に頼り、而して鄭覃・李石方に能く粗く朝政を秉る。

先づ、蕭洪と云ふ者有り、詐りて太后の弟と称し、仇士良の保任に因り、之に厚賂を許す。洪累ね方鎮を授けらるるに及び、納むる賂士良の志に満たず。士良怒り、人を遣はして上書し、洪の太后の親に非ざるを論じ、又た蕭本を以て太后の弟と為す。従諫深く内宮の故を知る。乃ち自ら潞府より飛章して之を論じて曰く、「臣聞く、偽を造りて真を乱る者は、匹夫之を知りて尚ほ不可なり、況んや天下皆知るにおいてをや。疏を執りて親と為す者は、匹夫の家に在りて尚ほ不可なり、況んや大国の朝に処るにおいてをや。臣国恩を受くる深く、公に奉ずる心切なり。此の失有るを知りて、安んぞ敢へて言はざらんや。伏して惟ふに皇帝陛下仁万方に及び、孝九族に敦く、而して心を推して党無く、唯だ理を是れ求む。微臣の以て直言を避けず、深事を切に論ずる所以なり。伏して見るに、金吾将軍蕭本、是れ太后の親弟と称し、此の官栄を受く。今国都に喧然たり、迨に藩府に聞こゆ。上より下に及び、異口同音、皆言ふ、蕭弘は真なり、蕭本は偽なりと。臣傍らに衆論を聴き、遍く群情を察す。咸く発明を思ひ、以て名分を正さんとす。今年二月、其の蕭弘臣が当道に投じ、臣に上聞せしむるを求め、自ら言ふ、比者福建観察使唐扶及び監軍劉行立根源を審らかに具し、已に曾て論奏す。其の時蕭本の外戚と為るを得、左軍より来るに属す。台司既に敢へて研窮せず、聖意遂に郷里に還るを勒す。茲より議論転じて益々沸騰す。臣亦た潜かに左軍に問ひ、大體を榷論せしむ。而して士良至公の道を推し、不党の言を発す。蓋し蕭本自ら孤危を度り、妄りに憑恃有らんとす。伏して惟ふに、名は国舅に居り、位は朝班に列す。而して真偽分かず、中外の恥と為す。切に慮る、皇太后此の罔惑を受け、已に恩情有らんことを。若し一時に垢を含まば、終に千古に笑はれん。伏して乞ふ、蕭弘を追ひて闕に赴かしめ、蕭本と対推し、細かに根源を詰め、必ず真偽を辨ぜしめん」と。詔して三司使に推按せしむ。帝二蕭詐りと雖も、太后の宗に托名するを以て、誅するを欲せず、倶に嶺表に流す。従諫位を進めて検校司徒と為る。会昌三年卒す。

大将郭誼等喪を匿し、其の姪稹を用ひて権に軍務を領せしむ。時に宰相李徳裕事を用ひ、素より従諫の奸回を悪む。劉稹に喪を護りて洛に帰り、以て朝旨を聴かしむるを奏請す。稹竟に叛く。徳裕中丞李回を用ひて河朔に奉使し、説きて三鎮に令し兵を加へて稹を討たしむ。乃ち稹の官を削奪し、徐・許・滑・孟・魏・鎮・幽・并八鎮の師を命じ、四面より進攻す。四年、郭誼稹を斬り、首を京師に伝ふ。

従諫の妻裴氏。初め、稹命に拒む。裴氏大将の妻を召集し同宴し、酒を以て寿し、泣下して已む能はず。諸婦命を請ふ。裴曰く、「新婦各汝が夫に文字を与へ、先相公の抜擢を忘るるなかれ。李丕の背恩に效ふ莫れ、走りて国家に投ぜん。子母を托す、故に悲しみて已む能はざるなり」と。諸婦亦た泣下す。故に潞将叛く志益々堅し。稹死し、裴亦た此を以て極刑に処せらる。稹の族属昆仲九人、皆誅せらる。

劉沔

劉沔は許州の牙将なり。少く李光顔に事へて帳中の親将と為る。元和の末、光顔呉元済を討つ。常に沔を用ひて先鋒と為す。蔡将に董重質と云ふ者有り、洄曲を守る。其の部下騾に乗じて即ち戦ひ、号して「騾子軍」と云ふ。最も勁悍にして、官軍常に之を警備す。沔驍鋭にして騎射に善く、毎に騾軍と接戦すれば、必ず刃を冒し堅きを陥れ、俘馘して還る。故に忠武一軍、賊を破ること第一なり。淮・蔡平ぐ。光顔に随ひて朝に入る。憲宗宿衛に留め、三将軍を歴す。塩州刺史・天徳軍防禦使を歴任し、西北辺に在りて累ね奇效を立つ。

太和の末、河西の党項羌叛く。沔天徳の師を以て屢其の酋渠を誅す。振武節度使に移授し、検校右散騎常侍・単于大都護と為る。開成中、党項雑虜大いに河西を擾す。沔吐渾・契苾・沙陀三部落等諸族万人・馬三千騎を率ひ、径ち銀・夏に至り討襲し、大いに之を破る。俘獲万計、捷を告げて還る。功を以て検校戸部尚書を加へらる。会昌初、回紇部饑ふ。烏介可汗太和公主を奉じて漢南に至り食を求む。杷頭峰を過ぎ、雲・朔・北川を犯す。朝廷太原の重地を以て、諸戎を控扼す。乃ち沔を河東節度使・検校尚書左僕射・太原尹・北京留守に移す。詔して幽州張仲武と協力して回鶻を招撫せしむ。竟に虜寇を破り、公主を迎へて宮に還す。功を以て位を進めて検校司空と為り、尋で滑州刺史・義成軍節度使に改む。

四年、潞帥劉従諫卒す。子稹喪を匿し、擅に留務を主り、旌鉞を要求す。武宗怒り、忠武節度使王宰・徐州節度李彦佐等を命じ、潞府西南面招撫使を充てしむ。遂に復た沔に太原節度を授け、潞府北面招討使を充てしむ。沔張仲武と協せず。方に幽州に兵を征せんとす。乃ち沔を鄭滑節度使に移し、位を進めて検校司徒と為す。既にして疾を以て洛陽に帰らんことを求め、太子太保を授けらる。卒す。

初めに、劉沔は忠武軍の小校となり、李光顔に従って淮西を討ち、捉生将となった。前後して賊と血戦し、鋒刃に傷つけられ、死に瀕すること数度に及んだ。嘗て重傷を負い草むらに臥せり、月暗くして帰路を知らず、昏然として眠るに、夢に人が双燭を授け、曰く「汝はまさに大いに貴き身とならん、この行いに患いなし、これを持ちて還れ」と。既に行けば、炯然として双の光が前にあり。その後より虜を破り危難に遭うも、毎に行くに常にこの光あり。及んで鎮を罷めて後、双の光は止む。五年、李徳裕が出鎮し、劉沔を罷めて太子太保とす。明年、太子太保を以て致仕し卒す。

石雄

石雄は、徐州の牙校なり。王智興が李同捷を討つに当たり、雄を石廂捉生兵馬使とす。勇敢にして戦に善く、気は三軍を凌ぐ。智興が兵を以て賊境に臨み、率先して棣州を収むるより、雄は先駆けて河を渡り、前に堅陣無し。徐人は雄の撫待に伏し、智興の虐を悪み、之を逐いて雄を立てんと欲す。智興は軍が賊境にあるを以て、その変の生ずるを懼れ、その立功に因り、一郡の刺史を授けんことを請う。朝廷は京師に征赴せしめ、壁州刺史を授く。智興は尋いで雄と素より相善き諸将士卒百余りを殺し、仍って雄が軍情を揺動すと奏し、誅戮を行わんことを請う。文宗は雅くその能を知り、之を惜しみ、乃ち白州に長流す。

太和の中、河西の党項擾乱し、武士を選び求む。乃ち召し還し、振武の劉沔の軍に隷して裨将と為し、累ねて羌を破る功を立てる。文宗は智興の故を以て、甚だ提擢せず、而して李紳・李徳裕は崔群の旧将として、素より之を嘉す。

会昌の初め、回鶻が天徳を寇し、詔命して劉沔を招撫回鶻使とす。三年、回鶻大いに雲・朔の北辺を掠め、牙を五原にす。沔は太原の師を以て雲州に屯す。沔、雄に謂いて曰く「黠虜離散し、駆除に足らず。国家は公主の故を以て、急攻を欲せず。今その為す所を観るに、気は我輩を凌ぐ。若し朝旨を稟けば、或いは依違せんことを恐る。我輩は辺を捍ぎ、但だ患を除く能くば、之を専にす可し。公は驍健を選び、その不意に乗じ、径ちに虜帳に趨くべし。彼は疾雷の勢を以て、枝梧する暇無く、必ず公主を棄てて亡竄せん。事苟も捷からずんば、吾自ら進み継がん、亦た患い無からん」と。雄、教を受け、自ら勁騎を選び、沙陀の李国昌の三部落を得、兼ねて契苾・拓拔の雑虜三千騎を加え、月暗き夜に馬邑を発ち、径ちに烏介の牙に趨く。時に虜帳は振武に逼り、雄既に城に入り、堞に登りてその衆寡を視る。氈車数十を見るに、従者は皆朱碧を衣し、類は華人の服飾なり。雄、諜者をして訊めしむ「此れ何の大人ぞ」と。虜曰く「此れ公主の帳なり」と。雄、その人に諭して曰く「国家の兵馬は可汗を取らんと欲す。公主ここに至るは、家国なり、須らく帰路を謀るべし。兵の合う時を俟ちて帳幕を動かすべからず」と。雄乃ち大いに城内の牛馬雑畜及び大鼓を率い、夜に城に穴して十余門と為す。遅明、城上に旗幟炬火を立て、乃ち諸門に於いてその牛畜を縱ち、鼓噪して之に従い、直ちに烏介の牙帳を犯す。炬火天を燭し、鼓噪地を動かし、可汗惶駭して測る莫く、騎を率いて奔る。雄、勁騎を率いて殺胡山に追い至り、急に之を撃つ。首級一万を斬り、五千を生擒し、羊馬車帳皆之に委ねて去る。遂に公主を迎えて太原に還す。功を以て検校左散騎常侍・豊州刺史・兼御史大夫・天徳防禦等使を加う。

雄は沈勇にして義に徇い、財に臨みて甚だ廉し。毎に賊を破り功を立て、朝廷特に賜与するも、皆私室に入れず。軍門に置き、首に一分を取り、余は並びに分け与う。此を以て軍士義に感じ、皆奮発を思う。累ねて検校左僕射・河中尹・河中晋絳節度使に遷る。

俄にして昭義の劉従諫卒し、その子の稹が擅に軍務を主る。朝議罪を問う。徐帥の李彦佐を潞府西南面招撫使とし、晋州刺史の李丕を副とす。時に王宰は万善柵に在り、劉沔は石会に在り、相顧みて進まず。雄、代を受くるの翌日、烏嶺を越え、賊の五砦を破り、斬獲千計に及ぶ。武宗、捷を聞きて大いに悦び、侍臣に謂いて曰く「今の義にして勇あるは、雄に比ぶる者罕なり」と。雄既に率先して賊を破り、旬日ならずして、王宰は天井関を収め、何弘敬・王元逵も亦た磁洺等の郡を収む。先に潞州の狂人が市に於いて腰を折り、人に謂いて曰く「雄七千人至れり」と。劉従諫これを捕えて誅す。及んで稹危蹙す、大将の郭誼密かに款して稹を斬りて朝に帰らんことを請う。軍中その詐を疑う。雄倡言して曰く「賊稹の叛くは、郭誼が謀主なり。今稹を斬らんと請うは、即ち誼の自ら謀る所、又何ぞ疑わんや」と。武宗も亦た狂人の言を以て、詔して雄に七千の兵を以て降を受けしむ。雄即ち径ちに潞州に馳せて誼を降し、その党与を尽く擒う。賊平ぎ、進みて検校司空を加う。

王宰は智興の子にして、雄に足らず、雄は轅門の子弟として善く之を礼す。然れども潞を討つの役、雄に始卒の功あり、宰心に之を悪む。及んで李徳裕相を罷むるや、宰の党雄を排擯し、鎮を罷む。既にして徳裕の貶されるを聞き、疾を発して卒す。

史臣曰く、古の所謂名将たる者は、必ずしも輪を蒙り距を抜くの材、虎を拉ぎ熊を批つ力を蒙らざるも、要は当に義を以て終始し、謀を好みて成すべし。而して阿跌の昆仲は、気を陰山に稟け、率ね多く令範あり。家権を主婦に譲り、美妓を奸臣に拒む。章武恢復の功は、義師の効なり。重胤は事上に忠にして、下を撫でるに仁あり、淮・蔡の役、勲は光顔に亜ぐ。邦を殿するの臣なり、得難きものなり。王沛の僚婿を擒うるは、李祐の賊渠を執るは、皆事に因りて功を立て、禍を転じて福と為す。智は則ち智なり、仁者は為さず。而して劉悟は自ら恃むこと太だ尤もしく、世に纘襲を邀う、赤族に至るに及んでは、報も亦た晩きか。雄・沔は羽を負いて辺城にあり、声は沙漠に馳せ、貴主を奉迎し、昆戎を摧破す、亦た壮ならずや。雄は能く知己に感ずるに、無義を為さず、美なるかな。

贊して曰く、淮・鄆砥平ぎ、義将誠を輸す。二兇縛を受け、亦たその悪を同じくす。義を毀ち忠を棄つれば、必ず爾が宗を殄す。孰か善将と称すべき、劉沔・石雄。