舊唐書

巻161

巻161

舊唐書

原文舊唐書

卷一百六十一

原文卷一百六十一

列傳第一百十一 李光進 烏重胤 王沛はい 李珙 李祐 董重質 楊元卿 劉悟 劉沔 石雄

原文列傳第一百十一 李光進 烏重胤 王沛 李珙 李祐 董重質 楊元卿 劉悟 劉沔 石雄

李光進

原文李光進

李光進は、もと河曲部落の稽阿跌の族である。父の良臣は、鶏田州刺史を襲い、朔方軍に隷属した。光進の姉は、舍利葛旃に嫁ぎ、僕固瑒を殺して河東節度使辛雲京に仕えた。光進兄弟は幼少の頃葛旃に寄り添い、これにより太原に家を定めた。

原文李光進,本河曲部落稽阿跌之族也。父良臣,襲雞田州刺史,隸朔方軍。光進姊適舍利葛旃,殺僕固瑒而事河東節度使辛雲京。光進兄弟少依葛旃,因家於太原。

光進は勇毅果敢であり、その武芸と兵略は葛旃に次いだ。粛宗が霊武より兵を観るや、光進は郭子儀に従って賊を破り、両京を収め、累ねて戦功があった。至徳年中、代州刺史を授けられ、范陽郡公に封ぜられ、食邑二百戸を賜う。上元初め、郭子儀が朔方節度使となり、軍を率いて大同・横野・清夷、范陽及び河北の残賊を討つに当たり、光進を用いて都知兵馬使とした。まもなく渭北節度使に遷る。永泰初め、武威郡王に進封される。大暦四年、検校戸部尚書となり、省事を知る。間もなく、また検校刑部尚書・兼太子太保に転ず。この年の冬十月、母を京城の南原に葬るに当たり、将相より致祭する者凡そ四十四幄、窮極奢靡を極め、城内の士庶、観る者堵の如し。

原文光進勇毅果敢,其武藝兵略次於葛旃。肅宗自靈武觀兵,光進從郭子儀破賊,收兩京,累有戰功。至德中,授代州刺史,封范陽郡公,食邑二百戶。上元初,郭子儀為朔方節度,以軍討大同、橫野、清夷,范陽及河北殘寇,用光進為都知兵馬使。尋遷渭北節度使。永泰初,進封武威郡王。大歷四年,檢校戶部尚書,知省事。未幾,又轉檢校刑部尚書、兼太子太保。是歲冬十月,葬母於京城之南原,將相致祭者凡四十四幄,窮極奢靡,城內士庶,觀者如堵。

元和四年、王承宗が反す。范希朝が師を引いて易定を救い、光進を歩都虞候に表す。木刀溝に戦い、光進功あり。六年、銀青光禄大夫・検校工部尚書を拝し、単於大都護・振武節度使を充てる。詔して光進が夙に誠節有り、克く茂勲を著すを以て、姓を李氏に賜う。その弟光顔は洺州刺史を除かれ、本州団練使を充てる。兄弟恩沢同時なり、人皆嘆異す。八年、霊武節度使に遷る。光進は嘗て馬燧に従って臨洺を救い、洹水に戦い、河中を収め、皆功あり。前後軍中の職、歴らざる所無し。中丞・大夫悉く曾て兼帯す。先に易定を救うの師、光進・光顔皆その行に在りし故、軍中光進を呼んで大大夫と為し、光顔を小大夫と為す。十年七月卒す。

原文元和四年,王承宗反。范希朝引師救易定,表光進為步都虞候,戰於木刀溝,光進有功。六年,拜銀青光祿大夫、檢校工部尚書,充單於大都護、振武節度使。詔以光進夙有誠節,克著茂勛,賜姓李氏。其弟光顏除洺州刺史,充本州團練使。兄弟恩澤同時,人皆嘆異。八年,遷靈武節度使。光進嘗從馬燧救臨洺,戰洹水,收河中,皆有功。前後軍中之職,無所不歷;中丞、大夫悉曾兼帶。先是救易定之師,光進、光顏皆在其行,故軍中呼光進為大大夫,光顏為小大夫。十年七月卒。

光進兄弟は少くより孝睦を以て軍中に推さる。母の喪に居るや、三年寝室に帰らず。光顔先に妻を娶り、その母家事を委ぬ。母卒すや、光進始めて娶る。光顔その妻をして管籥・家籍・財物を奉じ、その姒に帰らしむ。光進命じてこれを反し、且つ光顔に謂いて曰く、「新婦逮く母に事え、嘗て以て家を主たるを命ぜらる、改むべからず」と。因り相い持して泣くこと良久くして、乃ち初めの如し。卒する時年六十五、尚書左僕射を贈らる。

原文光進兄弟少以孝睦推於軍中。及居母喪,三年不歸寢室。光顏先娶妻,其母委以家事。母卒,光進始娶。光顏使其妻奉管籥、家籍、財物,歸於其姒。光進命反之,且謂光顏曰:「新婦逮事母,嘗命以主家,不可改也。」因相持泣良久,乃如初。卒時年六十五,贈尚書左僕射。

光顔は兄光進と共に葛旃の騎射に善くするを以て、兄弟幼より皆これを師とし、葛旃独り光顔の勇健を許し、己及ばずとす。長じて、河東軍に従って裨将となり、李懐光・楊恵琳を討ち、皆功あり。後に高崇文に随いて蜀しょくを平らげ、旗を搴ぎ将を斬り、出入り神の如し、これにより稍稍名を知らる。憲宗元和已来より、代・洺二州刺史・兼御史大夫を歴授す。

原文光顏與兄光進以葛旃善騎射,兄弟自幼皆師之,葛旃獨許光顏之勇健,己不能逮。及長,從河東軍為裨將,討李懷光、楊惠琳,皆有功。後隨高崇文平蜀,搴旗斬將,出入如神,由是稍稍知名。自憲宗元和已來,歷授代、洺二州刺史、兼御史大夫。

九年、将に淮・蔡を討たんとし、九月、陳州刺史に遷り、忠武軍都知兵馬使を充てる。月を逾え、忠武軍節度使・検校工部尚書に遷る。会に朝廷天下の兵を征し、申・蔡を環らして呉元済を討つに当たり、詔して光顔に本軍を以て独り一たび面を当たらしむ。光顔ここに兵を引いて溵水に臨み、洄曲に抗す。明年五月、元済の師を時曲に破る。初め、賊衆晨に光顔の壘を圧して陣し、光顔出づるを得ず、乃ち自らその柵の左右を毀ち、騎を出して以てこれを突く。光顔数騎を将いて堅を冒してこれを沖ぎ、出入すること数四。賊衆尽く識り、矢身に集まること蝟の如し。その子光顔の馬鞅を攬ぎ、その深入を止む。光顔刃を挙げてこれを叱し、乃ち退く。ここに於て人争い奮躍す。賊乃ち大いに潰え、死者数千人。捷声京師に至り、人々相賀す。時に蔡を伐つ師、大小凡そ十余鎮、裴度使いより還りてより、唯光顔の勇にして義を知り、終に命を辱しめざるを奏す。ここに至り、果たして功を立つ。この歳十一月、光顔また懐汝節度烏重胤と同く元済の衆を小溵河に破り、その柵を平らぐ。

原文九年,將討淮、蔡,九月,遷陳州刺史,充忠武軍都知兵馬使。逾月,遷忠武軍節度使、檢校工部尚書。會朝廷征天下兵,環申、蔡而討吳元濟,詔光顏以本軍獨當一面。光顏於是引兵臨溵水,抗洄曲。明年五月,破元濟之師於時曲。初,賊眾晨壓光顏之壘而陣,光顏不得出,乃自毀其柵之左右,出騎以突之。光顏將數騎冒堅而沖之,出入者數四。賊眾盡識,矢集於身如蝟。其子攬光顏馬鞅,止其深入。光顏舉刃叱之,乃退。於是人爭奮躍。賊乃大潰,死者數千人。捷聲至京師,人人相賀。時伐蔡之師,大小凡十余鎮,自裴度使還,唯奏光顏勇而知義,終不辱命。至是,果立功焉。是歲十一月,光顏又與懷汝節度烏重胤同破元濟之眾於小溵河,平其柵。

初め、都統韓弘諸軍に令して斉しく賊城を攻めしむ。賊また径に烏重胤の壘を攻む。重胤これを禦ぎ、数槍に中り、馳せて救いを光顔に請う。光顔小溵橋の賊の堡なるを以て、その無備に乗じ、田穎・宋朝隠をして襲い取りしむ。乃ちその城塹を平らげ、これにより重胤を救い克つ。韓弘光顔の令に違うを以て、穎及び朝隠を取りて将に戮せんとす。穎及び朝隠勇にして材有り、軍中皆これを惋惜す。光顔弘を畏れて敢えて留めず。会に中使景忠信至り、その情を知り、乃ち詔を矯めて所在に令し械系せしむ。走馬入見し、具に本末を以て聞こゆ。憲宗忠信の矯詔の罪を赦し、即ち往きて穎及び朝隠を釈せしむ。弘及び光顔叠りて表を以て論ず。憲宗弘の使に謂いて曰く、「穎等都統の令に違うは、固より当に死を処すべし。但だ光顔その賊を襲うに功有るを以て、亦これを宥すべし。軍に三令五申有り、宜しくこれを捨てて来効を収むべし」と。及び詔を以て弘に諭すも、弘悦ばず。十一年、光顔連ねて元済の衆を敗り、賊の凌雲柵を抜く。憲宗大いに悦び、その捷を告ぐる者に奴婢銀錦を賜う。位を進めて検校尚書左僕射と為す。

原文初,都統韓弘令諸軍齊攻賊城,賊又徑攻烏重胤之壘。重胤禦之,中數槍,馳請救於光顏。光顏以小溵橋賊之堡也,乘其無備,使田穎、宋朝隱襲而取之。乃平其城塹,由是克救重胤。韓弘以光顏違令,取穎及朝隱將戮之。穎及朝隱勇而材,軍中皆惋惜之。光顏畏弘不敢留。會中使景忠信至,知其情,乃矯詔令所在械系之。走馬入見,具以本末聞。憲宗赦忠信矯詔罪,令即往釋穎及朝隱。弘及光顏叠以表論。憲宗謂弘使曰:「穎等違都統令,固當處死。但光顏以其襲賊有功,亦可宥之。軍有三令五申,宜舍此以收來效。」及以詔諭弘,弘不悅。十一年,光顏連敗元濟之眾,拔賊淩雲柵,憲宗大悅,賜其告捷者奴婢銀錦。進位檢校尚書左僕射。

十二年四月、光顔元済の衆三万を郾城に敗る。その将張伯良蔡州に奔り、その賊什二三を殺し、馬千匹、器甲三万聯を獲、皆雷公符を画く。仍りて書して云く、「速やかに城北軍を破れ」と。尋いで郾城守将鄧懐金城を以て降らんことを請う。光顔これを許し、郾城を収む。

原文十二年四月,光顏敗元濟之眾三萬於郾城。其將張伯良奔於蔡州,殺其賊什二三,獲馬千匹,器甲三萬聯,皆畫雷公符。仍書云:「速破城北軍。」尋而郾城守將鄧懷金請以城降。光顏許之,而收郾城。

初め、鄧懐金官軍の青陵城を囲み、その帰路を絶つを以て、懐金懼れ、郾城令董昌齢に謀る。昌齢の母素よりその子に誡めて降るを令す。昌齢この故に懐金を勧めて款を光顔に帰し、且つ曰く、「城中の人、父母妻子皆蔡州に質す。屈せずして降らば、則ち家尽く屠らる。請う来たりて城を攻めよ。我すなわち烽を挙げて救いを求む。救兵将に至らんとす。官軍逆にこれを撃てば必ず敗る。この時当に城を以て降るべし」と。光顔これに従う。賊果たして敗走す。ここに於て昌齢印を執り、吏を帥いて門外に列し、懐金と諸将素服倒戈して門内に列す。光顔降を受け、乃ち羅城に入る。その城自ら五十余歩壊る。

原文初,鄧懷金以官軍圍青陵城,絕其歸路,懷金懼,謀於郾城令董昌齡。昌齡母素誡其子令降,昌齡因此勸懷金歸款於光顏,且曰:「城中之人,父母妻子皆質於蔡州,如不屈而降,則家盡屠矣。請來攻城,我則舉烽求救。救兵將至,官軍逆擊之必敗,此時當以城降。」光顏從之,賊果敗走。於是昌齡執印,帥吏列於門外,懷金與諸將素服倒戈列於門內;光顏受降,乃入羅城,其城自壞五十余步。

時に韓弘は汴帥たりしが、驕り高ぶりて強情なり。常に賊の勢いを恃みて朝廷の姑息を求め、光顔の力戦を憎み、密かに撓屈を図るも、計略施す所なし。遂に大梁城を挙げて一の美婦人を求め、歌舞弦管六博の芸を教え、珠翠金玉衣服の具を以て飾り、計費数百万、使者を命じて光顔に送遺し、一見して悦惑し軍政を怠らんことを冀う。使者は即ち書を賫して先ず光顔の壘に造りて曰く、「本使令公は公の私愛を徳とし、公の暴露を憂え、一妓を進めて以て公の征役の思を慰めんと欲す。謹んで以て命を候う」と。光顔曰く、「今日は既に暮れぬ。明旦に納れん」と。詰朝、光顔乃ち軍士を大いに宴し、三軍咸に集まり、妓を進むるを命ず。妓至れば、則ち容止端麗、殆ど人間の所有に非ず、一座皆驚く。光顔乃ち座上に於いて来使に謂ひて曰く、「令公は光顔の家室を離るる久しきを憐れみ、美妓を捨てて見贈するは、誠に以て徳を荷う有り。然れども光顔は国家の恩を受くる深く、逆賊と同日月の下に同じくせざるを誓う。今戦卒数万、皆妻子を背にし、白刃を蹈む。光顔何を以て女色を楽しみと為さんや」と。言訖、涕泣嗚咽す。堂下の兵士数万、皆感激して流涕す。乃ち厚く縑帛を以て其の来使に酬い、其の妓を領して席上より回らしめ、使者に謂ひて曰く、「光顔に代わりて令公に多謝す。光顔の君に事え国に許すの心は、死して貳する無し」と。此より兵衆の心、弥く激勵を加う。

原文時韓弘為汴帥,驕矜倔強。常倚賊勢索朝廷姑息,惡光顏力戰,陰圖撓屈,計無所施。遂舉大梁城求得一美婦人,教以歌舞弦管六博之藝,飾之以珠翠金玉衣服之具,計費數百萬,命使者送遺光顏,冀一見悅惑而怠於軍政也。使者即賫書先造光顏壘曰:「本使令公德公私愛,憂公暴露,欲進一妓,以慰公征役之思,謹以候命。」光顏曰:「今日已暮,明旦納焉。」詰朝,光顏乃大宴軍士;三軍咸集,命使者進妓。妓至,則容止端麗,殆非人間所有,一座皆驚。光顏乃於座上謂來使曰:「令公憐光顏離家室久,舍美妓見贈,誠有以荷德也。然光顏受國家恩深,誓不與逆賊同生日月下。今戰卒數萬,皆背妻子,蹈白刃,光顏奈何以女色為樂?」言訖,涕泣嗚咽。堂下兵士數萬,皆感激流涕。乃厚以縑帛酬其來使,俾領其妓自席上而回,謂使者曰:「為光顏多謝令公。光顏事君許國之心,死無貳矣!」自此兵眾之心,彌加激勵。

裴度の行営に至るに及び、賓従を率いて方城沱口に於いて板築・五溝を観る。賊遽かに至り、弩を注ぎ刃を挺て、勢い将に度に及ばんとす。光顔は前もって決戦して以て之を却く。時に光顔は其の来るを預め慮り、先ず田布をして二百騎を以て溝中に伏せしめ、賊の意に表せずして之を交撃せしむ。度方に免るるを得たり。布は又先んじて其の溝中の帰路を扼す。賊多く騎を棄てて溝を越え、相牽きて墜ち圧し死する者千余人。是の日、光顔の救い微なれば、度幾くにか陥らんとす。是の月、賊は光顔の勇諸将に冠たるを知り、乃ち其の衆を悉くして光顔の師に当たらしむ。時に李愬其の無備に乗じ、急に兵を引いて蔡州を襲い、之を抜き、元済を獲たり。董重質は洄曲の軍を棄て、城に入りて愬に降る。光顔之を知り、躍馬して賊営に入り、大呼して降らしむ。賊衆万余人、皆甲を解き戈を投げて命を請う。賊平ぎ、検校司空しくうを加う。

原文及裴度至行營,率賓從於方城沱口觀板築、五溝。賊遽至,註弩挺刃,勢將及度。光顏決戰於前以卻之。時光顏預慮其來,先使田布以二百騎伏於溝中,出賊不意交擊之,度方獲免。布又先扼其溝中歸路,賊多棄騎越溝,相牽墜壓而死者千余人。是日微光顏之救,度幾陷矣。是月,賊知光顏勇冠諸將,乃悉其眾出當光顏之師。時李愬乘其無備,急引兵襲蔡州,拔之,獲元濟。董重質棄洄曲軍,入城降愬。光顏知之,躍馬入賊營,大呼以降,賊眾萬余人,皆解甲投戈請命。賊平,加檢校司空。

十三年春、中官を命じて光顔を居第に宴し、芻米二十余車を賜う。憲宗又麟徳殿に禦して召対し、金帯錦彩を賜う。朝廷東に李師道を討たんとし、光顔に義成軍節度使を授く。鎮に至り、尋いで行営に赴く。数旬の内、再び賊軍を濮陽に敗り、殺戮数千人、進軍深く入る。

原文十三年春,命中官宴光顏於居第,賜芻米二十余車。憲宗又禦麟德殿召對,賜金帶錦彩。朝廷東討李師道,授光顏義成軍節度使。至鎮,尋赴行營。數旬之內,再敗賊軍於濮陽,殺戮數千人,進軍深入。

十四年、西蕃寇す。移して邠寧節度使を授く。時に塩州は吐蕃の毀する所と為り、李文悦を刺史と為すを命じ、光顔をして勾当修築塩州城使を充てしむ。仍ち陳許六千人を以て随い邠寧に赴くを許す。是歳、吐蕃涇原を侵す。田縉夏州を鎮むるより、貪猥を以て党項羌を侵撓し、乃ち吐蕃を引いて寇せしむ。蕃軍の涇州を攻むるに及び、辺将郝玼血戦して始めて退く。初め、光顔賊の涇州を攻むるを聞き、兵を料り赴き救わんとす。邠師喧然として曰く、「人に五十千を給うるも戦陣を識らず、彼は何なる人ぞ。常額の衣資を得ずして前に白刃を蹈む、此は何なる人ぞ」と。憤声恟々として遏へ難し。光顔素より士心を得、曲く大義を陳説し、言発して涕流る。三軍之に感じ、亦泣下し、乃ち欣然として即ち路に就き、賊を撃ちて之を退く。

原文十四年,西蕃入寇,移授邠寧節度使。時鹽州為吐蕃所毀,命李文悅為刺史,令光顏充勾當修築鹽州城使。仍許以陳許六千人隨赴邠寧。是歲,吐蕃侵涇原。自田縉鎮夏州,以貪猥侵撓党項羌,乃引吐蕃入寇。及蕃軍攻涇州,邊將郝玼血戰始退。初,光顏聞賊攻涇州,料兵赴救,邠師喧然曰:「人給五十千而不識戰陣,彼何人也!常額衣資不得而前蹈白刃,此何人也!」憤聲恟々不可遏。光顏素得士心,曲為陳說大義,言發涕流。三軍感之,亦泣下,乃欣然即路,擊賊退之。

穆宗即位し、就いて特進を加え、仍ち一子に四品正員官を与う。尋いで詔して闕に赴かしめ、開化裏の第を賜い、進めて同中書門下平章事を加う。穆宗、光顔の功諸将に冠たるを以て、故に闕に召し赴かしめ、宴賜優給す。已にして平章を帯びて復た鎮す。勛臣に報ゆる所以なり。

原文穆宗即位,就加特進,仍與一子四品正員官。尋詔赴闕,賜開化裏第,進加同中書門下平章事。穆宗以光顏功冠諸將,故召赴闕,宴賜優給。已而帶平章復鎮,所以報勛臣也。

長慶初、鳳翔節度使に遷り、前に依りて検校司空・同中書門下平章事たり。歳末、復た許州節度使を授く。朝廷、光顔の昔陳許を鎮めしに、頗る士心を得たるを以て、将に鎮・冀を討たんとす。故に此の拜有り。鎮に赴く日、宰相百僚故事に依りて章敬寺に於いて送別し、穆宗通化門に禦して之を臨送し、錦彩・銀器・良馬・玉帯等の物を賜う。二年、王廷湊を討ち、光顔を命じて兼ねて深州行営諸軍節度使と為す。光顔既に命を受け行き、軍を懸けて賊を討つも、饋運に艱し。朝廷又以て滄・景・徳・棣等州を俾ち之に兼管せしむ。其の賊に隣れる郡を以て、便ち飛挽すべしと為す。光顔、朝廷の制置乖方なるを以て、賊帥連結し、未だ朝夕に平定すべからず。事若し差跌せば、即ち前功悉く棄つるに至らんとし、乃ち懇ろに兼鎮を辞す。尋いで疾作るを以て、表して帰鎮を祈る。朝廷果たして賊を討つも功無くして廷湊を赦す。四年、敬宗即位し、正しく司徒しとを拝す。

原文長慶初,遷鳳翔節度使,依前檢校司空、同中書門下平章事。歲末,復授許州節度使。朝廷以光顏昔鎮陳許,頗得士心,將討鎮、冀,故有此拜。赴鎮日,宰相百僚以故事送別於章敬寺,穆宗禦通化門臨送之,賜錦彩、銀器、良馬、玉帶等物。二年,討王廷湊,命光顏兼深州行營諸軍節度使。光顏既受命而行,懸軍討賊,艱於饋運。朝廷又以滄、景、德、棣等州俾之兼管,以其鄰賊之郡,可便飛挽。光顏以朝廷制置乖方,賊帥連結,未可朝夕平定,事若差跌,即前功悉棄,乃懇辭兼鎮。尋以疾作,表祈歸鎮。朝廷果討賊無功而赦廷湊。四年,敬宗即位,正拜司徒。

汴州李絺其の帥を逐いて叛く。詔して光顔に陳許の師を率いて之を討たしむ。尉氏に営す。俄にして絺を誅す。太原尹・北京留守・河東節度使に遷り、階を進めて開府儀同三司と為し、仍ち正衙に於いて冊を受け司徒兼侍中たり。二年九月卒す。年六十六。朝を廃すること三日。太尉を贈り、謚して忠と曰う。

原文汴州李絺逐其帥叛,詔光顏率陳許之師討之。營於尉氏,俄而誅絺。遷太原尹、北京留守、河東節度使,進階開府儀同三司,仍於正衙受冊司徒兼侍中。二年九月卒,年六十六,廢朝三日,贈太尉,謚曰忠。

烏重胤

原文烏重胤

烏重胤は潞州の牙将なり。元和中、王承宗叛く。王師討伐を加う。潞帥盧従史は軍を出すも、密かに賊と通ず。時に神策行営吐突承璀は従史の軍に相近く、承璀は重胤と謀り、従史を帳下に縛す。是の日、重胤戒厳し、潞軍敢えて動く者無し。憲宗其の功を賞し、潞府左司馬を授け、懐州刺史に遷し、兼ねて河陽三城節度使を充てしむ。会うに淮・蔡を討つに及び、重胤を用いて境を圧し、仍ち汝州を割きて河陽に隷せしむ。王師の淮西を討つこと三年、重胤は李光顔と掎角相応じ、大小百余戦し、以て元濟誅せらるるに至る。就いて検校尚書右僕射を加え、司空に転ず。蔡将に李端と云う者有り、溵河を過ぎて重胤に降る。其の妻は賊の為に樹に束縛せられ、臠食せられ至死す。将に絶えんとするも、猶其の夫を呼びて曰く、「善く烏僕射に事えよ」と。其の人心を得ること此の如し。

原文烏重胤,潞州牙將也。元和中,王承宗叛,王師加討。潞帥盧從史雖出軍,而密與賊通。時神策行營吐突承璀與從史軍相近,承璀與重胤謀,縛從史於帳下。是日,重胤戒嚴,潞軍無敢動者。憲宗賞其功,授潞府左司馬,遷懷州刺史,兼充河陽三城節度使。會討淮、蔡,用重胤壓境,仍割汝州隸河陽。自王師討淮西三年,重胤與李光顏掎角相應,大小百余戰,以至元濟誅。就加檢校尚書右僕射,轉司空。蔡將有李端者,過溵河降重胤。其妻為賊束縛於樹,臠食至死,將絕,猶呼其夫曰:「善事烏僕射。」其得人心如此。

元和十三年、鄭権に代わりて横海軍節度使と為る。既に鎮に至り、上言して曰く、「臣以うるに、河朔の能く朝命を拒ぐ者は、其の大略見るべし。蓋し刺史其の職を失い、反って鎮将に兵事を領せしむるなり。若し刺史各々其の職分を得、又鎮兵有らば、則ち節将に禄山・思明の奸有ると雖も、豈に一州を拠りて叛くことを為さんや。所以に河朔六十年能く朝命を拒ぐ者は、只だ刺史・県令の職を奪い、自ら威福を作す故なり。臣の管する徳・棣・景の三州は、已に公牒を挙げ、各々還りて刺史の職事を為し訖る。応に州兵に在るは、並びに刺史をして収管せしむ。又景州は本は弓高県なり。請う、却って廃して県と為し、帰化県は本は草市なり。請う、県を廃し旧に依りて德州に属せしめん」と。詔して並びに之に従う。是より法制修立し、各々名分に帰す。

原文元和十三年,代鄭權為橫海軍節度使。既至鎮,上言曰:「臣以河朔能拒朝命者,其大略可見。蓋刺史失其職,反使鎮將領兵事。若刺史各得職分,又有鎮兵,則節將雖有祿山、思明之奸,豈能據一州為叛哉?所以河朔六十年能拒朝命者,只以奪刺史、縣令之職,自作威福故也。臣所管德、棣、景三州,已舉公牒,各還刺史職事訖,應在州兵,並令刺史收管。又景州本是弓高縣,請卻廢為縣,歸化縣本是草市,請廢縣依舊屬德州。」詔並從之。由是法制修立,各歸名分。

また、軍を深州に駐屯させた際、重胤は朝廷の措置が適切でなく、賊が勢いに乗っているとして、軽率に進軍すべきでないとし、数か月にわたって様子を見た。穆宗は反乱の誅伐を急ぎ、遂に杜叔良を代わりに任じ、重胤を検校司徒、兼興元尹、山南西道節度使に充てた。京師に召し出され、再び本官のまま天平軍節度使、鄆曹濮等州観察等使となった。李同捷が滄州を占拠し、父の地位を継ぐことを請うたが、朝廷は許さなかった。議論する者は狡猾な若者が命令に逆らうことを憂慮し、重臣を代わりに任じようとした。そこで鎮を兗海に移し、太子太師、平章事を加え、兼ねて滄景節度使を領させ、従前通り斉州を割いてこれに隷属させた。これは、軍を労せずに平定させようという望みからであった。詔が出て十日後、重胤は卒去し、太尉を追贈された。

原文及屯軍深州,重胤以朝廷制置失宜,賊方憑淩,未可輕進,觀望累月。穆宗急於誅叛,遂以杜叔良代之,以重胤檢校司徒,兼興元尹,充山南西道節度使。召至京師,復以本官為天平軍節度、鄆曹濮等州觀察等使。李同捷據滄州,請襲父位,朝廷不從。議者慮狡童拒命,欲以重臣代。乃移鎮兗海,加太子太師、平章事,俾兼領滄景節度,仍舊割齊州隸之,蓋望不勞師而底定。制出旬日,重胤卒,贈太尉。

重胤は兵卒の間から出て、大将帥となるに及び、真心を以て上に奉じた。下の者と苦楽を共にすることができ、赴くところで功を立てたが、一度も誇ることがなかった。そして賓客や幕僚を厚く遇し、礼節も行き届き、当時の名士は皆、彼に頼りたいと願った。身が没した日、軍士二十余人が皆、腿の肉を切り取って祭りの酒に供した。古の名将といえども、これに勝るものはなかった。

原文重胤出自行間,及為長帥,赤心奉上。能與下同甘苦,所至立功,未嘗矜伐。而善待賓寮,禮分同至,當時名士,鹹願依之。身歿之日,軍士二十余人,皆割股肉以為祭酹,雖古之名將,無以加焉。

子の漢弘が嗣ぎ、起復して左領軍衛将軍を授けられた。漢弘は上表して喪に服する期間を全うすることを乞うたので、文宗は詔を嘉してこれに従った。喪が明けて初めて官職を授けられた。

原文子漢弘嗣,起復授左領軍衛將軍。漢弘上表乞終服紀,文宗嘉詔從之。服闋,方授官。

王沛

原文王沛

王沛は許州の人である。十八歳の時、勇猛果断であった。許州節度使上官涚はその才能を奇異とし、娘を娶らせ、牙門将に任じた。涚が卒去すると、娘婿の田偁が涚の子を脅迫し、世襲を求めようとした。監軍使がこれに従わないことを恐れ、謀を結んで伏兵を置いて事を図ろうとした。王沛は密かにその謀を知り、監軍に告げた。そこで伏せていた場所でその一味をことごとく捕らえた。監軍の範日用はこの事を上聞し、徳宗は陳許行軍司馬劉昌裔にその軍を統率させ、王沛に手詔を賜り、涚の子を護衛して上都に赴かせるよう命じた。上都に到着し、召し出されて徳宗は彼に言った。「卿の忠義に照らせば、寵遇は一等を加えるべきである。しかし昌裔の上奏では、ただ監察御史を加えることを請うているのみで、朕の意は甚だ満足しない。卿は速やかに帰り、直ちに昌裔に伝え、改めて上奏させるように。」そこで駅馬で帰還した。許州に至らないうちに、開府儀同三司、兼御史中丞に任じられ、従前の本職のままとした。

原文王沛,許州人。年十八,有勇決。許州節度使上官涚奇其才,以女妻之,署為牙門將。及涚卒,子婿田偁迫脅涚子,欲邀襲位,懼監軍使不順其事,將結謀伏兵以圖之。沛竊知其謀,密告監軍,因盡擒其黨於伏匿之所。監軍範日用以其事聞,德宗乃以陳許行軍司馬劉昌裔總統其軍,賜沛手詔,令護涚之子赴上都。既至,召見,德宗謂之曰:「據卿忠義,寵宜加等。但昌裔所奏,只請加監察御史,朕意殊為不足。卿速歸,便宣付昌裔,更令奏來。」遂驛騎而還。未至許州,拜開府儀同三司、兼御史中丞,依前本職。

呉元済が反乱を起こすと、李光顔は命を受けて攻め討ち、王沛の節操と気概を奇異とし、行営兵馬使に任じ、別に精兵を率いて近郊に駐屯させた。軍が合流すると、連続して蔡の賊を破った。頻りに詔して進軍を促したが、諸将は様子を見て、誰も先に溵河を渡ろうとしなかった。王沛は兵五千を率い、夜に溵河の合流口を渡り、まっすぐに賊の喉元を扼して城を築いた。これより、河陽、宣武、太原、魏博等の軍が続いて渡河し、犄角の勢いで郾城を進攻した。王沛は先に陣を築いて賊と対峙し、賊将の鄧懐金が衆を率いて面縛して降った。蔡賊は平定された。王沛は李光顔に従って入朝し、光顔は王沛の功績を詳しく述べ、御史大夫を加えられた。

原文吳元濟反,李光顏受命攻討,奇沛節概,署行營兵馬使,別統勁兵屯於近郊。及軍合,連破蔡寇。頻詔進軍,諸將觀望,無敢先渡溵河。沛率兵五千,夜渡溵河合流口,徑扼賊喉而成城。自是,河陽、宣武、太原、魏博等軍繼渡,掎角進攻郾城。沛先結壘與賊對,賊將鄧懷金率眾面縛而降。蔡賊平。沛隨李光顏入朝,光顏具陳沛功,加御史大夫。

鎮に戻ると、光顔は詔を受けて鄆の賊を討った。李師道が誅殺されると、詔して許州の兵を分けて邠に駐屯させ、王沛を都将として塩州を救援し、吐蕃を撃退させた。功により寧州刺史を加えられ、陳州に転じた。李絺が反乱を起こすと、詔して王沛に忠武節度副使を兼ねさせ、軍を率いて絺を討たせた。絺が平定されると、検校右散騎常侍さんきじょうじを加えられ、兗海沂密節度使、観察等使に転じた。この国は新たに設置されたばかりで、人情は荒々しく強情であったが、王沛は法令を明らかにし、軍政を選び練り、一年で大いに治まった。翌年、検校工部尚書に改め、忠武軍節度使、陳許蔡観察等使を充てた。鎮で卒去し、右僕射を追贈された。子に逢がいる。

原文既還鎮,光顏受詔討鄆寇。及李師道誅,詔分許州兵戍於邠,以沛為都將,救鹽州,擊退吐蕃。以功加寧州刺史,遷陳州。李絺反,詔沛兼忠武節度副使,率師討絺。絺平,加檢校右散騎常侍,遷兗海沂密節度、觀察等使。此邦新造,人情獷驁,沛明申法令,選蒐軍政,期年大理。明年,改檢校工部尚書,充忠武軍節度、陳許蔡觀察等使。卒於鎮,贈右僕射。子逢。

逢は、若い頃から沈着勇猛で、父に従って征伐し功績があり、忠武都知兵馬使となった。太和年間、宿衛に入り、諸衛将軍を歴任した。石雄、劉沔に従って天徳で回紇を破った。性質は果断で、法の運用は厳格であった。その時、二千人が戦陣に上らなかったが、官から賜った賞給を、逢は皆与えなかった。ある者がこれを非難すると、逢は言った。「健児が前に進んで白刃を冒すのに、功もない者に賞を与えるならば、白刃を冒す者はどう思うだろうか。」王宰が劉稹を攻めた時、逢は陳許の七千兵を率いて翼城に駐屯し、田令昭の代わりとなった。賊が平定されると、検校左散騎常侍となった。累進して忠武軍節度使、陳許観察等使に至った。

原文逢,少沈勇,從父征伐有功,為忠武都知兵馬使。太和中,入宿衛,歷諸衛將軍。從石雄、劉沔破回紇於天德。性果決,用法嚴。其時有二千人不上陣,官賜賞給,逢皆不與。或非之,逢曰:「健兒向前冒白刃,若無功而賞,其如冒刃者何?」王宰攻劉稹,逢領陳許七千人屯翼城,代田令昭。賊平,檢校左散騎常侍。累遷至忠武軍節度、陳許觀察等使。

李珙

原文李珙

李珙は山東の名門の出身で、代々婚姻を修めていた。珙に至っては、読書を好まず、ただ弓馬を務めとした。身長六尺余り、気貌は魁偉であった。かつて沢潞に赴き李抱真に謁見したところ、抱真は彼を異才とし、衙門将に選ぼうとしたが、すぐに酒に酔って気勢をあげたため、再び見捨てようとした。都将の王虔休が抱真に言った。「李珙は奇士です。もし用いられないならば、殺してしまう方が良いでしょう。他の者の手に渡してはなりません。」

原文李珙,山東甲姓,代修婚姻。至珙,不好讀書,唯以弓馬為務。長六尺余,氣貌魁岸。嘗詣澤潞謁李抱真,異之,將選為衙門將,旋以酒酣使氣,復欲棄之。都將王虔休謂抱真曰:「李珙,奇士也,若不能用,不如殺之,無為他人所得。」

抱真が死ぬと、虔休が帥となり、珙は虔休に依り、累進して昭義の大将となった。吐突承璀が盧従史を捕らえた時、烏重胤は実際にその謀に参与していたが、珙は初め知らず、従史を救おうとした。重胤が朝廷の旨を受けたと聞くと、様子を見て進まなかった。重胤はこのことで彼に恩義を感じた。後に河陽を領すると、彼を麾下に置いた。しかし朝廷は、彼が従史と親しくしていたため、結局北辺の一校として出させた。

原文抱真死,虔休為帥,乃依虔休,累為昭義大將。吐突承璀之擒盧從史,烏重胤實預其謀,珙初不知,將救從史。聞重胤受朝旨,乃觀望不進,重胤以此德之。後領河陽,乃置於麾下。然朝廷以與從史厚善,竟出為北邊一校。

元和十年、淮西を征討する際、重胤は懇願して上表し、彼を諸道行営都虞候とした。詔は特にこれを許したが、まもなく母の喪で職を去った。喪が明けると、右武衛上将軍に任じられた。長慶四年八月に卒去し、六十四歳であった。一日朝を廃した。

原文元和十年,征淮西,重胤懇表為諸道行營都虞候,詔特從之,俄以母憂去職。服闋,除右武衛上將軍。長慶四年八月卒,年六十四,廢朝一日。

李祐

原文李祐

李祐は、もと蔡州の牙将であった。呉元済に仕え、驍ぎょう勇で戦いに長けた。官軍が淮西を討伐して以来、祐は行営将として、常に官軍に抵抗し、皆彼を恐れた。元和十二年、李愬に捕らえられた。愬は祐に胆略があることを知り、死罪を免じ、厚く遇した。誠意を推して本分を定め、共に寝食を共にし、しばしば帳中で密談し、夜明けまで眠らなかった。外で耳をそばだてる者がいたが、ただ幾度も祐が感激して泣く声を聞いただけである。しかし軍中では、以前に祐に殺傷された者が多かったため、営塁の諸兵卒が会議を開き、皆祐を殺さなかったことを恨んだ。愬は衆情が怨みを向けているため、祐を全うできないと考え、そこで祐を京師に送り、上表して彼を救った。憲宗は特に許し、遂に祐を愬に賜った。愬は大いに喜び、直ちに三千の精兵を彼に託した。祐はその言葉を聴き、疑うところなく、ついに祐によって蔡を破り、元済を生け捕りにした。功により神武将軍を授けられ、金吾将軍、検校左散騎常侍、夏州刺史、御史大夫、夏綏銀宥節度使に転じた。

原文李祐,本蔡州牙將。事吳元濟,驍勇善戰。自王師討淮西,祐為行營將,每抗官軍,皆憚之。元和十二年,為李愬所擒。愬知祐有膽略,釋其死,厚遇之。推誠定分,與同寢食,往往帳中密語,達曙不寐。人有耳屬於外者,但屢聞祐感泣聲。而軍中以前時為祐殺傷者多,營壘諸卒會議,皆恨不殺祐。愬以眾情歸怨,慮不能全,因送祐於京師,乃上表救之。憲宗特恕,遂遣祐賜愬。愬大喜,即以三千精兵付之。祐聽言,無有所疑,竟以祐破蔡,擒元濟。以功授神武將軍,遷金吾將軍、檢校左散騎常侍、夏州刺史、御史大夫、夏綏銀宥節度使。

宝暦初年、入朝して右金吾大将軍となった。まもなく吐蕃が侵入したため、出て涇州刺史、涇原節度使となった。太和初年、李同捷を討ち、検校戸部尚書、滄州刺史、滄徳景節度使に転じた。太和三年五月に卒去した。

原文寶歷初,入為右金吾大將軍。尋以吐蕃入寇,出為涇州刺史、涇原節度使。太和初,討李同捷,遷檢校戶部尚書、滄州刺史、滄德景節度使。太和三年五月卒。

董重質

原文董重質

董重質は、もと淮西の牙将であり、呉少誠の女婿である。性質は勇猛で悍しく、軍機を識り、兵を用いるに巧みであった。元済が命に背いた時、重質はまた謀主となり、大軍を率いて官軍に当たり、連年抜くことができなかったのは、皆重質の謀略によるものであった。元和十二年、宰相裴度が淮西に兵を督し、郾城に至ると、元済は左右及び城を守る兵卒を悉く発し、重質に委ねて度を防がせた。時に李愬が虚に乗じて蔡に入った。元済を擒えた後、重質の家族は蔡に在ったが、愬はこれを安んじて慰め、なおその子に書礼を持たせて重質を召し寄せた。重質はその子を見て、城が既に陥ちたこと、及び元済が囚われ窮迫している様を知り、慨然として単騎で愬に帰し、白衣で叩頭して伏した。愬は揖して階に登らせ、賓礼をもってこれと食を共にした。憲宗はこれを殺そうとしたが、愬は不死を許して降って来たと奏上し、これを免ずることを請い、かつ本軍に駆使することを乞うた。ここにおいて、春州司戸参軍に貶した。

原文董重質,本淮西牙將,吳少誠之子婿也。性勇悍,識軍機,善用兵。及元濟拒命,重質又為謀主,領大軍當王師,連歲不拔,皆重質之謀也。元和十二年,宰相裴度督兵淮西,至郾城,元濟乃悉發左右及守城之卒,委重質而拒度。時李愬乘虛入蔡。既擒元濟,重質之家在蔡,愬乃安恤之,仍使其子持書禮以召重質。重質見其子,知城已陷,及元濟囚窘之狀,乃慨然以單騎歸愬,白衣叩伏。愬揖登階,以賓禮與之食。憲宗欲殺之,愬奏許以不死而來降,請免之,且乞於本軍驅使。於是,貶春州司戶參軍。

明年、太子少詹事に転じ、武寧軍に委ねて収管駆使させ、なお金紫を加えた。十五年、征入して左神武軍将軍を授け、軍事を知り、御史中丞を兼ねた。なお金帛を賜い、有功者と等しくした。まもなく塩州刺史を授け、また左右神策及び諸道剣南西川行営節度使・検校左散騎常侍に遷った。太和四年、また夏綏銀宥節度使に転じた。五年、就いて検校工部尚書を加えた。重質は兵を訓え法を立て、羌戎は畏服した。八年八月卒し、尚書右僕射を贈られた。

原文明年,轉太子少詹事,委武寧軍收管驅使,仍加金紫。十五年,征入,授左神武軍將軍,知軍事,兼御史中丞。仍賜金帛,與有功者等。尋授鹽州刺史,又遷左右神策及諸道劍南西川行營節度使、檢校左散騎常侍。太和四年,又轉夏綏銀宥節度使。五年,就加檢校工部尚書。重質訓兵立法,羌戎畏服。八年八月卒,贈尚書右僕射。

楊元卿

原文楊元卿

楊元卿、祖父は子華、德州安陵県丞。父は寓、申州鐘山県令。元卿は少くして孤となり、慷慨として才略有り。冠に及んで、なお江嶺の表を漂蕩し、遊を縦にし言を放ち、人はこれを狂生と謂う。時に呉少誠が蔡州を専らにし、朝廷はこれを姑息した。元卿は白衣で謁見し、劇県に署し、旋いて従事に辟し、試大理評事を奏授した。また少陽に事え、後に監察裏行に転ずることを奏した。上奏に因り、宰相李吉甫深く慰納を加え、ここより一歳に或いは再び奏に随って京師に至る。元卿は毎に少陽と言し、大義を諭す。乃ち凶党に構えられ、節度判官蘇肇の保持に頼り、故に免れた。元卿は潜かに朝廷に奉じ、内に少陽の事を耗した。

原文楊元卿,祖子華,德州安陵縣丞。父寓,申州鐘山縣令。元卿少孤,慷慨有才略。及冠,尚漂蕩江嶺之表,縱遊放言,人謂之狂生。時吳少誠專蔡州,朝廷姑息之。元卿白衣謁見,署以劇縣,旋辟為從事,奏授試大理評事。亦事少陽,後奏轉監察裏行。因上奏,宰相李吉甫深加慰納,自是一歲或再隨奏至京師。元卿每與少陽言,諭以大義。乃為兇黨所構,賴節度判官蘇肇保持,故免。元卿潛奉朝廷,內耗少陽之事。

少陽の死に及んで、その子元済が継いで立つ。元卿は説いて曰く、「先尚書は性吝にして、諸将は皆饑寒す。今須らく恵を布きて以て自ら固くすべし。府中の有無は、元卿熟く之を知る。何ぞ諸道に聘を散じ、辞を卑くし礼を厚くし、以て丈人行として群帥を呼び、庶幾く一助あらんや。而して諸将大いに獲ん。」元卿は留後の表を将いて上聞せんことを願う。朝廷安んぞ従わざらんや。」元済これを許す。元卿は即日蔡を離れ、賊の勢の盈虚を条奏し、潜かに詔して諸道に使者を拘留せんことを請う。元済の覚むるに及んで、元卿の妻陳氏並びに四男は並びに元済に殺され、同じく一つの射垛に塗り込められた。蘇肇は元卿を保持したため、亦同日に害された。詔して元卿に嶽王府司馬を授け、尋いで太子僕射に遷す。

原文及少陽死,其子元濟繼立。元卿說曰:「先尚書性吝,諸將皆饑寒。今須布惠以自固也。府中有無,元卿熟知之,曷若散聘諸道,卑辭厚禮,以丈人行呼群帥,庶幾一助,而諸將大獲矣。元卿願將留後表上聞,朝廷安得不從哉?」元濟許之。元卿即日離蔡,以賊勢盈虛條奏,潛請詔諸道拘留使者。及元濟覺,元卿妻陳氏並四男並為元濟所殺,同圬一射垛。蘇肇以保持元卿,亦同日被害。詔授元卿嶽王府司馬,尋遷太子僕射。

元和十三年、蔡州刺史・兼御史中丞を授く。未だ行かず、光禄少卿に改授す。初め、朝廷は元卿に李愬と会議せしめ、唐州東境に要便の処を選び、権に行蔡州を置かしむ。百姓官健に帰順する者有らば、便ち勅に準じて優恤し、必ず全活せしむ。既にして召見す。元卿遽かに度支の銭を借らんことを奏請し、及び言事頗る多く旨に合わず。宰相裴度も亦諸将の賊を討つこと三年、功成るは旦暮に在り。更に土地を元卿に分かち与うれば、即ち相侵して事を生ずるを恐る。故に前命を罷めて改授す。是歳、既に淮西を平げ、元卿奏して曰く、「淮西には甚だ宝貨及び犀帯有り。臣之を知る。往きて取れば必ず得ん。」上曰く、「朕本賊を討ち、人の為に害を除く。今賊平ぎ人安んず。則ち我之を求めて得たり。宝貨犀帯は求むる所に非ず。復た此の言うこと勿れ。」是月、詔して左金吾衛将軍を授く。未だ幾もなく、汾州刺史に改め、復た征して左金吾衛将軍と為す。

原文元和十三年,授蔡州刺史、兼御史中丞。未行,改授光祿少卿。初,朝廷比令元卿與李愬會議,於唐州東境選要便處,權置行蔡州。如百姓官健有歸順者,便準敕優恤,必令全活。既而召見,元卿遽奏請借度支錢,及言事頗多不合旨。宰相裴度亦以諸將討賊三年,功成在旦暮,如更分土地與元卿,即恐相侵生事,故罷前命而改授焉。是歲,既平淮西,元卿奏曰:「淮西甚有寶貨及犀帶,臣知之,往取必得。」上曰:「朕本討賊,為人除害,今賊平人安,則我求之得矣。寶貨犀帶,非所求也,勿復此言。」是月,詔授左金吾衛將軍。未幾,改汾州刺史,復征為左金吾衛將軍。

長慶初め、鎮・魏の守臣を易置す。元卿宰相に詣り利害を深く陳べ、並びに其の事を表に具す。後穆宗感悟し、白玉帯を賜い、旋いて検校左散騎常侍・涇州刺史・涇原渭節度観察等使を授け、兼ねて四鎮北庭行軍を充す。元卿乃ち屯田五千頃を置くことを奏し、毎屯墻を築くこと高さ数仞、鍵閉牢密、卒然寇至るも、尽く保守すべし。検校工部尚書を加う。営田成り、復た使号を加う。六年居り、涇人の論奏する所と為り、徳政碑を立て、移して懐州刺史を授け、河陽三城節度観察等使を充す。太和五年、就いて検校司空を加え、階を光禄大夫に進む。其の営田して粟二十万石を納れ、経費を裨する故なり。是歳、汴宋亳観察等使に改授す。凡そ廃置する所は、皆弘益有り、詔並びに之に従う。年七十、寝疾し、洛陽らくように帰る。詔して太子太保を授く。是歳八月卒す。朝を廃すること三日、司徒を贈る。元卿始め家を毀ちて効順し、累ね方鎮を授かる。然れども性険巧にして、至る所好んで聚斂し、善く結交す。涇人の情を得るも、亦此に由るなり。

原文長慶初,易置鎮、魏守臣。元卿詣宰相深陳利害,並具表其事。後穆宗感悟,賜白玉帶,旋授檢校左散騎常侍、涇州刺史、涇原渭節度觀察等使,兼充四鎮北庭行軍。元卿乃奏置屯田五千頃,每屯築墻高數仞,鍵閉牢密,卒然寇至,盡可保守。加檢校工部尚書。營田成,復加使號。居六年,涇人論奏,為立德政碑,移授懷州刺史,充河陽三城節度觀察等使。太和五年,就加檢校司空,進階光祿大夫,以其營田納粟二十萬石,以裨經費故也。是歲,改授汴宋亳觀察等使。凡所廢置,皆有弘益,詔並從之。年七十,寢疾,歸洛陽,詔授太子太保。是歲八月卒,廢朝三日,贈司徒。元卿始以毀家效順,累授方鎮。然性險巧,所至好聚斂,善結交,涇人得情,亦由此也。

子延宗、開成中に磁州刺史と為り、謀りて河陽節度使を逐い以て自立せんと坐し、其の党の告ぐる所と為り、台司推鞫して実を得、之を誅す。

原文子延宗,開成中為磁州刺史,坐謀逐河陽節度使以自立,為其黨所告,臺司推鞫得實,誅之。

劉悟

原文劉悟

劉悟は、正臣の孫なり。正臣は本名客奴。天宝末、禄山叛く。平盧軍節度使柳知晦賊の偽署を受く。客奴時に職牙門に居り、知晦を襲殺し、章を馳せて以て聞かす。平盧軍節度使を授け、名を正臣と賜う。

原文劉悟,正臣之孫也。正臣本名客奴。天寶末,祿山叛,平盧軍節度使柳知晦受賊偽署。客奴時職居牙門,襲殺知晦,馳章以聞。授平盧軍節度使,賜名正臣。

悟は少くして勇力有り。叔逸準は汴帥と為り、緡銭数百万を洛中に積む。悟輒ち扃鐍を破り、悉く盗み用う。既にして懼れ、亡れて李師古に帰す。始め亦甚だ知らざりしが、後因りて球を撃ち馳突し、師古の馬を沖いで仆す。師古怒り、将に之を斬らんとす。悟猛に気語を以て師古に押触す。師古奇として之を免す。因りて壮士を管せしめ、後軍を将い、累ねて衙門の右職に署し、淄青節度都知兵馬使・兼監察御史を奏授す。

原文悟少有勇力。叔逸準為汴帥,積緡錢數百萬於洛中;悟輒破扃鐍,悉盜用之。既而懼,亡歸李師古。始亦未甚知,後因擊球馳突,沖師古馬仆,師古怒,將斬之。悟猛以氣語押觸師古,師古奇而免之。因令管壯士,將後軍,累署衙門右職,奏授淄青節度都知兵馬使、兼監察御史。

元和末、憲宗既に淮西を平げ、詔を下して師道を誅せんとす。悟を遣わし兵を将いて魏博軍に拒がしめ、而して数たび悟を促して戦わしむ。悟未だ進まず、馳使して之を召す。悟度るに使来れば必ず己を殺さんと、乃ち偽りて疾ありて出でず、都虞候をして往きて之を迎えしむ。使者亦果して誠を以て其人に告げ、云く「命を奉じて悟を殺し以て悟に代わん」。都虞候即時に先ず還る。悟これを劾して実を得、乃ち諸将を召して謀りて曰く、「魏博田弘正の兵強し。出でて戦えば必ず敗る。出でざれば則ち死す。今天子の誅する所は、司空一人のみ。悟と公等は皆其の駆迫せらるる所と為り、死に就かしめらる。何ぞ其の来使を殺し、戈を整えて以て鄆を取り、大功を立て、危亡を転じて富貴と為さんや。」衆皆曰く、「善し。唯だ都将の命する所に従わん。」悟ここに於て立って其の使を斬り、兵を以て鄆を取り、其の内城を囲み、兼ねて火を以て其の門を攻む。数刻を経ず、師道並びに男二人を擒え、並びに其の首を斬りて以て献ず。悟を擢いて検校工部尚書・兼御史大夫・義成軍節度使に拝し、彭城郡王に封じ、仍って実封五百戸、銭二万貫、庄・宅各一区を賜う。十五年正月入覲し、又検校兵部尚書を加え、余は故の如し。

原文元和末,憲宗既平淮西,下詔誅師道。遣悟將兵拒魏博軍,而數促悟戰。悟未及進,馳使召之。悟度使來必殺己,乃偽疾不出,令都虞候往迎之。使者亦果以誠告其人,雲「奉命殺悟以代悟」。都虞候即時先還,悟劾之得其實,乃召諸將與謀曰:「魏博田弘正兵強,出戰必敗,不出則死。今天子所誅者,司空一人而已,悟與公等皆為所驅迫,使就其死。何如殺其來使,整戈以取鄆,立大功,轉危亡為富貴耶!」眾咸曰:「善,唯都將所命!」悟於是立斬其使,以兵取鄆,圍其內城,兼以火攻其門。不數刻,擒師道並男二人,並斬其首以獻。擢拜悟檢校工部尚書、兼御史大夫、義成軍節度使,封彭城郡王,仍賜實封五百戶,錢二萬貫,莊、宅各一區。十五年正月入覲,又加檢校兵部尚書,余如故。

穆宗即位し、恩例に以て検校尚書右僕射に遷す。是歳十月、鎮を移して沢潞とし、旋って本官を以て平章事を兼ぬ。

原文穆宗即位,以恩例遷檢校尚書右僕射。是歲十月,移鎮澤潞,旋以本官兼平章事。

長慶元年、幽州の大将朱克融が叛き、その帥張弘靖を囚ふ。朝廷は名将を求めて漁陽を鎮めしむ。乃ち悟に検校司空・平章事を加へ、盧龍軍節度使を充てる。悟は幽州方に乱るるを以て、未だ進討に克たず、節鉞を授けて之を徐に図らんことを請ふ。乃ち復た悟を以て沢潞節度と為し、検校司徒を拝し、兼ねて太子太傅、前の如く平章事とす。時に監軍劉承偕は頗る恩権に恃み、常に衆に対し悟を辱しむ。又その下の法を乱るるを縦す。悟平らかならず。異日、中使有りて至る。承偕之を宴し、悟を請ふ。悟往かんと欲す。左右皆曰く、「往かば必ず其の困辱を為さん」と。軍衆因りて乱る。悟之を止めず。乃ち承偕を擒へて牙門に至らしめ、其の二仆を殺し、並びに承偕を害せんと欲す。悟之を救ひて免るるを得しむ。朝廷已むを得ず、承偕を貶す。是より悟頗る縦恣にして、河朔三鎮に效はんと欲す。朝廷に失意不逞の徒、多く潞州に投寄して援を求め、往々奏章を以て事を論じ、辞旨遜らず。

原文長慶元年,幽州大將硃克融叛,囚其帥張弘靖,朝廷求名將以鎮漁陽。乃加悟檢校司空、平章事,充盧龍軍節度使。悟以幽州方亂,未克進討,請授之節鉞,徐圖之。乃復以悟為澤潞節度,拜檢校司徒,兼太子太傅,依前平章事。時監軍劉承偕頗恃恩權,常對眾辱悟;又縱其下亂法,悟不能平。異日有中使至,承偕宴之,請悟,悟欲往。左右皆曰:「往則必為其困辱矣!」軍眾因亂,悟不止之。乃擒承偕至牙門,殺其二仆,欲並害承偕,悟救之獲免。朝廷不獲已,貶承偕。自是悟頗縱恣,欲效河朔三鎮。朝廷失意不逞之徒,多投寄潞州以求援。往往奏章論事,辭旨不遜。

宝暦元年九月、病にて卒す。太尉を贈る。遺表して請ふ、其の子従諫を以て戎事を継纘せしむべしと。敬宗大臣を下して議せしむ。僕射李絳は沢潞を内地と為し、三鎮と事理を同じくせず、許すべからずとす。宰相李逢吉・中尉王守澄其の賂を受け、曲りて奏請を為す。

原文寶歷元年九月病卒,贈太尉。遺表請以其子從諫繼纘戎事。敬宗下大臣議。僕射李絳以澤潞內地,與三鎮事理不同,不可許。宰相李逢吉、中尉王守澄受其賂,曲為奏請。

従諫、将作監主簿より自ら起復し、雲麾将軍・守金吾衛大将軍同正・検校左散騎常侍・兼御史大夫となり、昭義節度副大使を充て、節度観察等留後を掌る。二年、金吾上将軍・検校工部尚書を加へられ、昭義節度等使を充つ。文宗即位し、検校司空に進む。六年十二月入覲す。七年春藩に帰り、同中書門下平章事を加へらる。九年、李訓の事敗れ、宰相王涯等四人禍を受く。時に涯兼ねて邦計を掌る。李訓と同謀せずと雖も、然れども其の間に自ら異ならず、既に死すも其の罪に非ず。従諫素より涯の私恩に徳し、心頗る平らかならず、四たび上章して涯等の罪名を請ひ、仇士良の輩深く之を憚る。是の時中官頗る横はり、天子制すること能はず。朝臣日ごとに族の陷らんことを憂ふ。従諫の論列に頼り、而して鄭覃・李石方に能く粗く朝政を秉る。

原文從諫自將作監主簿,起復雲麾將軍,守金吾衛大將軍同正、檢校左散騎常侍、兼御史大夫,充昭義節度副大使,知節度觀察等留後。二年,加金吾上將軍、檢校工部尚書,充昭義節度等使。文宗即位,進檢校司空。六年十二月入覲。七年春歸籓,加同中書門下平章事。九年,李訓事敗,宰相王涯等四人被禍。時涯兼掌邦計,雖不與李訓同謀,然不自異於其間,既死非其罪。從諫素德涯之私恩,心頗不平,四上章請涯等罪名,仇士良輩深憚之。是時中官頗橫,天子不能制。朝臣日憂陷族,賴從諫論列,而鄭覃、李石方能粗秉朝政。

先づ、蕭洪と云ふ者有り、詐りて太后の弟と称し、仇士良の保任に因り、之に厚賂を許す。洪累ね方鎮を授けらるるに及び、納むる賂士良の志に満たず。士良怒り、人を遣はして上書し、洪の太后の親に非ざるを論じ、又た蕭本を以て太后の弟と為す。従諫深く内宮の故を知る。乃ち自ら潞府より飛章して之を論じて曰く、「臣聞く、偽を造りて真を乱る者は、匹夫之を知りて尚ほ不可なり、況んや天下皆知るにおいてをや。疏を執りて親と為す者は、匹夫の家に在りて尚ほ不可なり、況んや大国の朝に処るにおいてをや。臣国恩を受くる深く、公に奉ずる心切なり。此の失有るを知りて、安んぞ敢へて言はざらんや。伏して惟ふに皇帝陛下仁万方に及び、孝九族に敦く、而して心を推して党無く、唯だ理を是れ求む。微臣の以て直言を避けず、深事を切に論ずる所以なり。伏して見るに、金吾将軍蕭本、是れ太后の親弟と称し、此の官栄を受く。今国都に喧然たり、迨に藩府に聞こゆ。上より下に及び、異口同音、皆言ふ、蕭弘は真なり、蕭本は偽なりと。臣傍らに衆論を聴き、遍く群情を察す。咸く発明を思ひ、以て名分を正さんとす。今年二月、其の蕭弘臣が当道に投じ、臣に上聞せしむるを求め、自ら言ふ、比者福建観察使唐扶及び監軍劉行立根源を審らかに具し、已に曾て論奏す。其の時蕭本の外戚と為るを得、左軍より来るに属す。台司既に敢へて研窮せず、聖意遂に郷里に還るを勒す。茲より議論転じて益々沸騰す。臣亦た潜かに左軍に問ひ、大體を榷論せしむ。而して士良至公の道を推し、不党の言を発す。蓋し蕭本自ら孤危を度り、妄りに憑恃有らんとす。伏して惟ふに、名は国舅に居り、位は朝班に列す。而して真偽分かず、中外の恥と為す。切に慮る、皇太后此の罔惑を受け、已に恩情有らんことを。若し一時に垢を含まば、終に千古に笑はれん。伏して乞ふ、蕭弘を追ひて闕に赴かしめ、蕭本と対推し、細かに根源を詰め、必ず真偽を辨ぜしめん」と。詔して三司使に推按せしむ。帝二蕭詐りと雖も、太后の宗に托名するを以て、誅するを欲せず、倶に嶺表に流す。従諫位を進めて検校司徒と為る。会昌三年卒す。

原文先是,有蕭洪者,詐稱太后弟,因仇士良保任,許之厚賂。及洪累授方鎮,納賂不滿士良之誌,士良怒,遣人上書論洪非太后之親,又以蕭本者為太后弟。從諫深知內宮之故,乃自潞府飛章論之曰:「臣聞造偽以亂真者,匹夫知之尚不可,況天下皆知乎?執疏以為親者,在匹夫之家尚不可,況處大國之朝乎?臣受國恩深,奉公心切,知有此失,安敢不言!伏唯皇帝陛下仁及萬方,孝敦九族,而推心無黨,唯理是求。微臣所以不避直言,切論深事。伏見金吾將軍蕭本,稱是太后親弟,受此官榮。今喧然國都,迨聞籓府,自上及下,異口同音,皆言蕭弘是真,蕭本是偽。臣傍聽眾論,遍察群情,鹹思發明,以正名分。今年二月,其蕭弘投臣當道,求臣上聞,自言:比者福建觀察使唐扶及監軍劉行立具審根源,已曾論奏。其時屬蕭本得為外戚,來自左軍,臺司既不敢研窮,聖意遂勒還鄉里。自茲議論,轉益沸騰。臣亦令潛問左軍,榷論大體,而士良推至公之道,發不黨之言。蓋蕭本自度孤危,妄有憑恃。伏以名居國舅,位列朝班,而真偽不分,中外所恥。切慮皇太后受此罔惑,已有恩情,若含垢於一時,終取笑於千古。伏乞追蕭弘赴闕,與蕭本對推,細詰根源,必辨真偽。」詔令三司使推按。帝以二蕭雖詐,托名太后之宗,不欲誅之,俱流嶺表。從諫進位檢校司徒。會昌三年卒。

大将郭誼等喪を匿し、其の姪稹を用ひて権に軍務を領せしむ。時に宰相李徳裕事を用ひ、素より従諫の奸回を悪む。劉稹に喪を護りて洛に帰り、以て朝旨を聴かしむるを奏請す。稹竟に叛く。徳裕中丞李回を用ひて河朔に奉使し、説きて三鎮に令し兵を加へて稹を討たしむ。乃ち稹の官を削奪し、徐・許・滑・孟・魏・鎮・幽・并へい八鎮の師を命じ、四面より進攻す。四年、郭誼稹を斬り、首を京師に伝ふ。

原文大將郭誼等匿喪,用其侄稹權領軍務。時宰相李德裕用事,素惡從諫之奸回,奏請劉稹護喪歸洛,以聽朝旨。稹竟叛。德裕用中丞李回奉使河朔,說令三鎮加兵討稹;乃削奪稹官,命徐許滑孟魏鎮幽并八鎮之師,四面進攻。四年,郭誼斬稹,傳首京師。

従諫の妻裴氏。初め、稹命に拒む。裴氏大将の妻を召集し同宴し、酒を以て寿し、泣下して已む能はず。諸婦命を請ふ。裴曰く、「新婦各汝が夫に文字を与へ、先相公の抜擢を忘るるなかれ。李丕の背恩に效ふ莫れ、走りて国家に投ぜん。子母を托す、故に悲しみて已む能はざるなり」と。諸婦亦た泣下す。故に潞将叛く志益々堅し。稹死し、裴亦た此を以て極刑に処せらる。稹の族属昆仲九人、皆誅せらる。

原文從諫妻裴氏。初,稹拒命,裴氏召集大將妻同宴,以酒為壽,泣下不能已。諸婦請命,裴曰:「新婦各與汝夫文字,勿忘先相公之拔擢,莫效李丕背恩,走投國家。子母為托,故悲不能已也。」諸婦亦泣下,故潞將叛誌益堅。稹死,裴亦以此極刑。稹族屬昆仲九人,皆誅。

劉沔

原文劉沔

劉沔は許州の牙将なり。少く李光顔に事へて帳中の親将と為る。元和の末、光顔呉元済を討つ。常に沔を用ひて先鋒と為す。蔡将に董重質と云ふ者有り、洄曲を守る。其の部下騾に乗じて即ち戦ひ、号して「騾子軍」と云ふ。最も勁悍にして、官軍常に之を警備す。沔驍鋭にして騎射に善く、毎に騾軍と接戦すれば、必ず刃を冒し堅きを陥れ、俘馘して還る。故に忠武一軍、賊を破ること第一なり。淮・蔡平ぐ。光顔に随ひて朝に入る。憲宗宿衛に留め、三将軍を歴す。塩州刺史・天徳軍防禦使を歴任し、西北辺に在りて累ね奇效を立つ。

原文劉沔,許州牙將也。少事李光顏為帳中親將。元和末,光顏討吳元濟,常用沔為前鋒。蔡將有董重質者,守洄曲,其部下乘騾即戰,號「騾子軍」,最為勁悍,官軍常警備之。沔驍銳善騎射,每與騾軍接戰,必冒刃陷堅,俘馘而還,故忠武一軍,破賊第一。淮、蔡平,隨光顏入朝。憲宗留宿衛,歷三將軍。歷鹽州刺史、天德軍防禦使,在西北邊累立奇效。

太和の末、河西の党項羌叛く。沔天徳の師を以て屢其の酋渠を誅す。振武節度使に移授し、検校右散騎常侍・単于大都護と為る。開成中、党項雑虜大いに河西を擾す。沔吐渾・契苾・沙陀三部落等諸族万人・馬三千騎を率ひ、径ち銀・夏に至り討襲し、大いに之を破る。俘獲万計、捷を告げて還る。功を以て検校戸部尚書を加へらる。会昌初、回紇部饑ふ。烏介可汗太和公主を奉じて漢南に至り食を求む。杷頭峰を過ぎ、雲・朔・北川を犯す。朝廷太原の重地を以て、諸戎を控扼す。乃ち沔を河東節度使・検校尚書左僕射・太原尹・北京留守に移す。詔して幽州張仲武と協力して回鶻を招撫せしむ。竟に虜寇を破り、公主を迎へて宮に還す。功を以て位を進めて検校司空と為り、尋で滑州刺史・義成軍節度使に改む。

原文太和末,河西党項羌叛。沔以天德之師屢誅其酋渠,移授振武節度使,檢校右散騎常侍、單於大都護。開成中,党項雜虜大擾河西。沔率吐渾、契苾、沙陁三部落等諸族萬人、馬三千騎,徑至銀、夏討襲,大破之。俘獲萬計,告捷而還。以功加檢校戶部尚書。會昌初,回紇部饑,烏介可汗奉太和公主至漢南求食。過杷頭峰,犯雲、朔、北川。朝廷以太原重地,控扼諸戎,乃移沔河東節度使、檢校尚書左僕射、太原尹、北京留守。詔與幽州張仲武協力招撫回鶻,竟破虜寇,迎公主還宮。以功進位檢校司空,尋改滑州刺史、義成軍節度使。

四年、潞帥劉従諫卒す。子稹喪を匿し、擅に留務を主り、旌鉞を要求す。武宗怒り、忠武節度使王宰・徐州節度李彦佐等を命じ、潞府西南面招撫使を充てしむ。遂に復た沔に太原節度を授け、潞府北面招討使を充てしむ。沔張仲武と協せず。方に幽州に兵を征せんとす。乃ち沔を鄭滑節度使に移し、位を進めて検校司徒と為す。既にして疾を以て洛陽に帰らんことを求め、太子太保を授けらる。卒す。

原文四年,潞帥劉從諫卒,子稹匿喪,擅主留務,要求旌鉞。武宗怒,命忠武節度使王宰、徐州節度李彥佐等,充潞府西南面招撫使。遂復授沔太原節度,充潞府北面招討使。沔與張仲武不協,方征兵幽州,乃移沔為鄭滑節度使,進位檢校司徒。既而以疾求歸洛陽,授太子太保,卒。

初めに、劉沔は忠武軍の小校となり、李光顔に従って淮西を討ち、捉生将となった。前後して賊と血戦し、鋒刃に傷つけられ、死に瀕すること数度に及んだ。嘗て重傷を負い草むらに臥せり、月暗くして帰路を知らず、昏然として眠るに、夢に人が双燭を授け、曰く「汝はまさに大いに貴き身とならん、この行いに患いなし、これを持ちて還れ」と。既に行けば、炯然として双の光が前にあり。その後より虜を破り危難に遭うも、毎に行くに常にこの光あり。及んで鎮を罷めて後、双の光は止む。五年、李徳裕が出鎮し、劉沔を罷めて太子太保とす。明年、太子太保を以て致仕し卒す。

原文初,沔為忠武小校,從李光顏討淮西,為捉生將。前後遇賊血戰,鋒刃所傷,幾死者數四。嘗傷重臥草中,月黑不知歸路,昏然而睡,夢人授之雙燭,曰:「子方大貴,此行無患,可持此而還。」既行,炯然有雙光在前。自後破虜危難,每行常有此光。及罷鎮後,雙光息。五年,李德裕出鎮,罷沔為太子太保。明年,以太子太保致仕卒。

石雄

原文石雄

石雄は、徐州の牙校なり。王智興が李同捷を討つに当たり、雄を石廂捉生兵馬使とす。勇敢にして戦に善く、気は三軍を凌ぐ。智興が兵を以て賊境に臨み、率先して棣州を収むるより、雄は先駆けて河を渡り、前に堅陣無し。徐人は雄の撫待に伏し、智興の虐を悪み、之を逐いて雄を立てんと欲す。智興は軍が賊境にあるを以て、その変の生ずるを懼れ、その立功に因り、一郡の刺史を授けんことを請う。朝廷は京師に征赴せしめ、壁州刺史を授く。智興は尋いで雄と素より相善き諸将士卒百余りを殺し、仍って雄が軍情を揺動すと奏し、誅戮を行わんことを請う。文宗は雅くその能を知り、之を惜しみ、乃ち白州に長流す。

原文石雄,徐州牙校也。王智興之討李同捷,以雄為石廂捉生兵馬使。勇敢善戰,氣淩三軍。自智興以兵臨賊境,率先收棣州,雄先驅渡河,前無堅陣。徐人伏雄之撫待,惡智興之虐,欲逐之而立雄。智興以軍在賊境,懼其變生,因其立功,請授一郡刺史。朝廷征赴京師,授壁州刺史。智興尋殺雄之素相善諸將士百余人,仍奏雄搖動軍情,請行誅戮。文宗雅知其能,惜之,乃長流白州。

太和の中、河西の党項擾乱し、武士を選び求む。乃ち召し還し、振武の劉沔の軍に隷して裨将と為し、累ねて羌を破る功を立てる。文宗は智興の故を以て、甚だ提擢せず、而して李紳・李徳裕は崔群の旧将として、素より之を嘉す。

原文太和中,河西党項擾亂,選求武士。乃召還,隸振武劉沔軍為裨將,累立破羌之功。文宗以智興故,未甚提擢,而李紳、李德裕以崔群舊將,素嘉之。

会昌の初め、回鶻が天徳を寇し、詔命して劉沔を招撫回鶻使とす。三年、回鶻大いに雲・朔の北辺を掠め、牙を五原にす。沔は太原の師を以て雲州に屯す。沔、雄に謂いて曰く「黠虜離散し、駆除に足らず。国家は公主の故を以て、急攻を欲せず。今その為す所を観るに、気は我輩を凌ぐ。若し朝旨を稟けば、或いは依違せんことを恐る。我輩は辺を捍ぎ、但だ患を除く能くば、之を専にす可し。公は驍健を選び、その不意に乗じ、径ちに虜帳に趨くべし。彼は疾雷の勢を以て、枝梧する暇無く、必ず公主を棄てて亡竄せん。事苟も捷からずんば、吾自ら進み継がん、亦た患い無からん」と。雄、教を受け、自ら勁騎を選び、沙陀の李国昌の三部落を得、兼ねて契苾・拓拔の雑虜三千騎を加え、月暗き夜に馬邑を発ち、径ちに烏介の牙に趨く。時に虜帳は振武に逼り、雄既に城に入り、堞に登りてその衆寡を視る。氈車数十を見るに、従者は皆朱碧を衣し、類は華人の服飾なり。雄、諜者をして訊めしむ「此れ何の大人ぞ」と。虜曰く「此れ公主の帳なり」と。雄、その人に諭して曰く「国家の兵馬は可汗を取らんと欲す。公主ここに至るは、家国なり、須らく帰路を謀るべし。兵の合う時を俟ちて帳幕を動かすべからず」と。雄乃ち大いに城内の牛馬雑畜及び大鼓を率い、夜に城に穴して十余門と為す。遅明、城上に旗幟炬火を立て、乃ち諸門に於いてその牛畜を縱ち、鼓噪して之に従い、直ちに烏介の牙帳を犯す。炬火天を燭し、鼓噪地を動かし、可汗惶駭して測る莫く、騎を率いて奔る。雄、勁騎を率いて殺胡山に追い至り、急に之を撃つ。首級一万を斬り、五千を生擒し、羊馬車帳皆之に委ねて去る。遂に公主を迎えて太原に還す。功を以て検校左散騎常侍・豊州刺史・兼御史大夫・天徳防禦等使を加う。

原文會昌初,回鶻寇天德,詔命劉沔為招撫回鶻使。三年,回鶻大掠雲、朔北邊,牙於五原。沔以太原之師屯於雲州。沔謂雄曰:「黠虜離散,不足驅除。國家以公主之故,不欲急攻。今觀其所為,氣淩我輩。若稟朝旨,或恐依違。我輩捍邊,但能除患,專之可也。公可選驍健,乘其不意,徑趨虜帳,彼以疾雷之勢,不暇枝梧,必棄公主亡竄。事茍不捷,吾自繼進,亦無患也。」雄受教,自選勁騎,得沙陁李國昌三部落,兼契苾拓拔雜虜三千騎,月暗夜發馬邑,徑趨烏介之牙。時虜帳逼振武,雄既入城,登堞視其眾寡。見氈車數十,從者皆衣硃碧,類華人服飾。雄令諜者訊之:「此何大人?」虜曰:「此公主帳也。」雄喻其人曰:「國家兵馬欲取可汗。公主至此,家國也,須謀歸路。俟兵合時不得動帳幕。」雄乃大率城內牛馬雜畜及大鼓,夜穴城為十余門。遲明,城上立旗幟炬火,乃於諸門縱其牛畜,鼓噪從之,直犯烏介牙帳。炬火燭天,鼓噪動地,可汗惶駭莫測,率騎而奔。雄率勁騎追至殺胡山,急擊之。斬首萬級,生擒五千,羊馬車帳皆委之而去。遂迎公主還太原。以功加檢校左散騎常侍、豐州刺名、兼御史大夫、天德防禦等使。

雄は沈勇にして義に徇い、財に臨みて甚だ廉し。毎に賊を破り功を立て、朝廷特に賜与するも、皆私室に入れず。軍門に置き、首に一分を取り、余は並びに分け与う。此を以て軍士義に感じ、皆奮発を思う。累ねて検校左僕射・河中尹・河中晋絳節度使に遷る。

原文雄沈勇徇義,臨財甚廉。每破賊立功,朝廷特有賜與,皆不入私室;置於軍門,首取一分,余並分給,以此軍士感義,皆思奮發。累遷檢校左僕射、河中尹、河中晉絳節度使。

俄にして昭義の劉従諫卒し、その子の稹が擅に軍務を主る。朝議罪を問う。徐帥の李彦佐を潞府西南面招撫使とし、晋州刺史の李丕を副とす。時に王宰は万善柵に在り、劉沔は石会に在り、相顧みて進まず。雄、代を受くるの翌日、烏嶺を越え、賊の五砦を破り、斬獲千計に及ぶ。武宗、捷を聞きて大いに悦び、侍臣に謂いて曰く「今の義にして勇あるは、雄に比ぶる者罕なり」と。雄既に率先して賊を破り、旬日ならずして、王宰は天井関を収め、何弘敬・王元逵も亦た磁洺等の郡を収む。先に潞州の狂人が市に於いて腰を折り、人に謂いて曰く「雄七千人至れり」と。劉従諫これを捕えて誅す。及んで稹危蹙す、大将の郭誼密かに款して稹を斬りて朝に帰らんことを請う。軍中その詐を疑う。雄倡言して曰く「賊稹の叛くは、郭誼が謀主なり。今稹を斬らんと請うは、即ち誼の自ら謀る所、又何ぞ疑わんや」と。武宗も亦た狂人の言を以て、詔して雄に七千の兵を以て降を受けしむ。雄即ち径ちに潞州に馳せて誼を降し、その党与を尽く擒う。賊平ぎ、進みて検校司空を加う。

原文俄而昭義劉從諫卒,其子稹擅主軍務,朝議問罪。令徐帥李彥佐為潞府西南面招撫使,以晉州刺史李丕為副。時王宰在萬善柵,劉沔在石會,相顧未進。雄受代之翌日,越烏嶺,破賊五砦,斬獲千計。武宗聞捷大悅,謂侍臣曰:「今之義而有勇,罕有雄之比者。」雄既率先破賊,不旬日,王宰收天井關,何弘敬、王元逵亦收磁洺等郡。先是潞州狂人折腰於市,謂人曰:「雄七千人至矣。」劉從諫捕而誅之。及稹危蹙,大將郭誼密款請斬稹歸朝,軍中疑其詐。雄倡言曰:「賊稹之叛,郭誼為謀主。今請斬稹,即誼自謀,又何疑焉?」武宗亦以狂人之言,詔雄以七千兵受降。雄即徑馳潞州降誼,盡擒其黨與。賊平,進加檢校司空。

王宰は智興の子にして、雄に足らず、雄は轅門の子弟として善く之を礼す。然れども潞を討つの役、雄に始卒の功あり、宰心に之を悪む。及んで李徳裕相を罷むるや、宰の党雄を排擯し、鎮を罷む。既にして徳裕の貶されるを聞き、疾を発して卒す。

原文王宰,智興之子,於雄不足,雄以轅門子弟善禮之。然討潞之役,雄有始卒之功,宰心惡之。及李德裕罷相,宰黨排擯雄,罷鎮。既而聞德裕貶,發疾而卒。

史臣曰く、古の所謂名将たる者は、必ずしも輪を蒙り距を抜くの材、虎を拉ぎ熊を批つ力を蒙らざるも、要は当に義を以て終始し、謀を好みて成すべし。而して阿跌の昆仲は、気を陰山に稟け、率ね多く令範あり。家権を主婦に譲り、美妓を奸臣に拒む。章武恢復の功は、義師の効なり。重胤は事上に忠にして、下を撫でるに仁あり、淮・蔡の役、勲は光顔に亜ぐ。邦を殿するの臣なり、得難きものなり。王沛の僚婿を擒うるは、李祐の賊渠を執るは、皆事に因りて功を立て、禍を転じて福と為す。智は則ち智なり、仁者は為さず。而して劉悟は自ら恃むこと太だ尤もしく、世に纘襲を邀う、赤族に至るに及んでは、報も亦た晩きか。雄・沔は羽を負いて辺城にあり、声は沙漠に馳せ、貴主を奉迎し、昆戎を摧破す、亦た壮ならずや。雄は能く知己に感ずるに、無義を為さず、美なるかな。

原文史臣曰:古所謂名將者,不必蒙輪拔距之材,拉虎批熊之力;要當以義終始,好謀而成。而阿跌昆仲,稟氣陰山,率多令範。讓家權於主婦,拒美妓於奸臣;章武恢復之功,義師之效也。重胤忠於事上,仁於撫下,淮、蔡之役,勛亞光顏;殿邦之臣也,不可多得。王沛之擒僚婿,李祐之執賊渠,皆因事立功,轉禍為福。智則智矣,仁者不為!而劉悟自恃太尤,世邀纘襲,至於赤族,報亦晚耶!雄、沔負羽邊城,聲馳沙漠,奉迎貴主,摧破昆戎,不亦壯乎!雄能感於知己,不為無義,美哉!

贊して曰く、淮・鄆砥平ぎ、義将誠を輸す。二兇縛を受け、亦たその悪を同じくす。義を毀ち忠を棄つれば、必ず爾が宗を殄す。孰か善将と称すべき、劉沔・石雄。

原文贊曰:淮、鄆砥平,義將輸誠。二兇受縛,亦其同惡。毀義棄忠,必殄爾宗。孰稱善將?劉沔、石雄。