舊唐書

巻160

巻160

舊唐書

原文舊唐書

卷一百六十

原文卷一百六十

列傳第一百一十 韓愈 張籍 孟郊 唐衢 李翱 宇文籍 劉禹錫 柳宗元 韓辭

原文列傳第一百一十 韓愈 張籍 孟郊 唐衢 李翱 宇文籍 劉禹錫 柳宗元 韓辭

韓愈

原文韓愈

韓愈、字は退之、昌黎の人である。父は仲卿、名位はなかった。愈は三歳で孤児となり、従父の兄に養育された。愈は孤児であることを自覚し、幼い頃から苦学して儒学を修め、他人の奨励を待たなかった。大暦・貞元の間、文章は多く古学を尊び、楊雄・董仲舒の述作を模倣し、その中で独孤及・梁肅が最も淵奥と称され、儒林で推重された。愈はその徒と交遊し、鋭意に鑽仰し、一代において自ら振るいたいと願った。進士に挙げられてからは、文章を公卿の間に投じ、故相の鄭餘慶が大いにその名声を広めたため、当時に知られるようになった。まもなく進士第に及第した。

原文韓愈,字退之,昌黎人。父仲卿,無名位。愈生三歲而孤,養於從父兄。愈自以孤子,幼刻苦學儒,不俟獎勵。大歷、貞元之間,文字多尚古學,效楊雄、董仲舒之述作,而獨孤及、梁肅最稱淵奧,儒林推重。愈從其徒遊,銳意鉆仰,欲自振於一代。洎舉進士,投文於公卿間,故相鄭餘慶頗為之延譽,由是知名於時。尋登進士第。

宰相の董晉が大梁に出鎮すると、巡官に辟召した。幕府が解散すると、徐州の張建封がまた賓佐として招いた。愈の発言は真率で、畏れ避けるところなく、操行は堅正であったが、世務には拙かった。四門博士に調授され、監察御史に転じた。徳宗の晩年、政令は多門から出て、宰相は機務を専断しなかった。宮市の弊害について、諫官が論じても聞き入れられなかった。愈はかつて数千言の上章を奉ってこれを極論したが、聞き入れられず、怒りに触れて連州山陽県令に貶され、量移して江陵府掾曹となった。

原文宰相董晉出鎮大梁,辟為巡官。府除,徐州張建封又請為其賓佐。愈發言真率,無所畏避,操行堅正,拙於世務。調授四門博士,轉監察御史。德宗晚年,政出多門,宰相不專機務。宮市之弊,諫官論之不聽。愈嘗上章數千言極論之,不聽,怒貶為連州山陽令,量移江陵府掾曹。

元和の初め、国子博士に召され、都官員外郎に遷った。時に華州刺史の閻濟美が公事により華陰県令柳澗の県務を停止し、掾曹を摂行させた。数か月後、濟美が郡を罷免され、公館に出居すると、澗は百姓を唆して道を遮り、前年の軍頓役の代価を要求させた。後任の刺史趙昌が澗の罪状を調べて上奏し、澗は房州司馬に貶された。愈は使いで華州を通過した際、この事を知り、刺史が互いに党与していると考え、上疏して澗を弁護したが、留中されて下されなかった。詔により監察御史李宗奭が検証したところ、澗の贓罪の事実が明らかになり、澗は再び封渓尉に貶された。愈の妄論のため、愈は再び国子博士となった。愈は自ら才高いと思い、累ねて排斥貶黜されたため、『進学解』を作って自らを譬えて言うには、

原文元和初,召為國子博士,遷都官員外郎。時華州刺史閻濟美以公事停華陰令柳澗縣務,俾攝掾曹。居數月,濟美罷郡,出居公館,澗遂諷百姓遮道索前年軍頓役直。後刺史趙昌按得澗罪以聞,貶房州司馬。愈因使過華,知其事,以為刺史相黨,上疏理澗,留中不下。詔監察御史李宗奭按驗,得澗贓狀,再貶澗封溪尉。以愈妄論,復為國子博士。愈自以才高,累被擯黜,作《進學解》以自喻曰:

国子先生が朝に太学に入り、諸生を召して館の下に立たせ、教えて言うには、「学業は勤勉によって精しくなり、遊戯によって荒廃する。行いは思慮によって成就し、付和雷同によって毀損する。今や聖賢が相逢い、治具は華やかに張り巡らされている。兇邪を抜き去り、俊良を登用崇める。小善を占める者は皆記録され、一芸に名を成す者は用いられないことはない。かき集め選び分け、垢を刮り磨き光らせる。幸いにして選ばれる者はあっても、多くいて顕揚されない者があると言えようか。諸生は学業が精しくならないことを憂えよ、有司が明らかでないことを憂えるな。行いが成就しないことを憂えよ、有司が公平でないことを憂えるな。」言葉が終わらないうちに、列の中で笑う者がいて言うには、「先生は私を欺きます。弟子が先生に師事して、すでに数年になります。先生は口を絶やさず六経の文を吟じ、手を休めず百家の編を披覧なさる。事を記すものは必ずその要旨を提げ、言を纂むものは必ずその玄妙を鉤り出す。多くを貪り得ることに務め、細大を問わず捨てない。膏油を焚いて日を継ぎ、常に矻々として年を窮める。先生の学業は、勤勉と言えましょう。異端を排斥し、仏・老を斥ける。隙間の漏れを繕い、幽微なものを顕彰する。茫茫たる墜ちた緒を尋ね、独り広く探し求めて遠く紹ぐ。百川を防ぎ止めて東に流し、既に倒れた狂瀾を引き戻す。先生の儒学に対する功績は、労多くあると言えましょう。濃郁に沈浸し、英華を含み咀み、文章を作れば、その書は家に満ちる。上は姚・姒に規し、渾渾として涯なし。『周誥』『殷盤』は、佶屈聱牙。『春秋』は謹厳、『左氏』は浮誇。『易』は奇にして法あり、『詩』は正にして葩あり。下は『荘』『騒』に及び、太史の記録する所、子雲・相如は、同工異曲。先生の文章は、内に閎大で外に奔放と言えましょう。少にして学を知り、敢為するに勇みあり。長じて方に通じ、左右に具に宜しきを得る。先生の為人は、完成されていると言えましょう。しかしながら公には人に信じられず、私には友に助けられず。前につまずき後につまずき、動けば咎を得る。暫く御史となり、遂に南夷に流される。三たび博士となり、冗員で治績を現さない。運命は仇と謀り、敗を取るは幾時ぞ。冬暖かくして児は寒さに号泣し、年豊かで妻は飢えに啼く。頭は禿げ歯は欠け、死ぬまで何の益があろう。このことを慮らず、かえって人に教えるとは。」先生は言う、「吁、子よ前に来たれ。大木は杗となり、細木は桷となり、欂櫨侏儒、椳闑扂楔、各々その宜しきを得て、室を成すに施すは、匠氏の工である。玉札丹砂、赤箭青芝、朱溲馬勃、敗鼓の皮、俱に収め並び蓄え、用いるに待って遺すところなきは、醫師の良である。明らかに登用し公平に選び、巧拙を雑えて進め、紆余を以て妍とし、卓犖を以て傑とし、短を校え長を量り、唯だ器に適うに任せるは、宰相の方である。昔、孟軻は弁を好み、孔の道は以て明らかになり、轍は天下を環り、卒に行いに老いた。荀卿は正を守り、大論を弘め、讒を楚に逃れ、蘭陵に廢死した。この二儒者は、辞を吐けば経となり、足を挙げれば法となり、類を絶ち倫を離れ、優に聖域に入ったが、その世に遇うたことはどうであったか。今の先生は学は勤勉だが、その統に由らず。言は多いが、その中を要せず。文は奇だが、用に済わず。行いは修まるが、衆に顕れず。それでもなお月に俸銭を費やし、歳に廩粟を靡かせ、子は耕すことを知らず、婦は織ることを知らず、馬に乗り徒を従え、安坐して食らう。常塗に踵して促促とし、陳編を窺って盗竊する。しかし聖主は誅せず、宰臣は斥けず、これ幸いではないか。動けば謗を得、名もまたこれに随う。閑に投じ散に置くは、乃ち分の宜しきところである。若し財賄の有無を商い、班資の崇庳を計り、己が量の称する所を忘れ、前人の瑕疵を指すは、是れ所謂、匠氏に詰えて杙を以て楹とせざるを、而して醫師を訾えて昌陽を以て年を引き、其の豨苓を進めんと欲する者である。」

原文國子先生晨入太學,召諸生立館下,誨之曰:「業精於勤,荒於嬉;行成於思,毀於隨。方今聖賢相逢,治具華張。拔去兇邪,登崇俊良。占小善者率以錄,名一藝者無不庸。爬羅剔抉,刮垢磨光。蓋有幸而獲選,孰云多而不揚?諸生業患不能精,無患有司之不明;行患不能成,無患有司之不公!」言未既,有笑於列者曰:「先生欺予哉!弟子事先生,於茲有年矣。先生口不絕吟於六藝之文,手不停披於百家之編。記事者必提其要,纂言者必鉤其玄。貪多務得,細大不捐。燒膏油以繼晷,常矻矻以窮年。先生之業,可謂勤矣。牴排異端,攘斥佛、老;補苴罅漏,張皇幽眇;尋墜緒之茫茫,獨旁搜而遠紹;障百川而東之,回狂瀾於既倒。先生之於儒,可謂有勞矣。沈浸醲郁,含英咀華,作為文章,其書滿家。上規姚、姒,渾渾無涯;《周誥》、《殷盤》,佶屈聱牙;《春秋》謹嚴,《左氏》浮誇;《易》奇而法,《詩》正而葩;下迨《莊》、《騷》,太史所錄,子雲、相如,同工異曲。先生之於文,可謂閎其中而肆其外矣。少始知學,勇於敢為;長通於方,左右具宜。先生之於為人,可謂成矣。然而公不見信於人,私不見助於友;跋前躓後,動輒得咎。暫為御史,遂竄南夷;三為博士,冗不見治。命與仇謀,取敗幾時。冬暖而兒號寒,年豐而妻啼饑。頭童齒豁,竟死何裨?不知慮此,而反教人為!」先生曰:「吁,子來前!夫大木為杗,細木為桷,欂櫨侏儒,椳闑扂楔,各得其宜,施以成室者,匠氏之工也。玉劄丹砂,赤箭青芝,朱溲馬勃,敗鼓之皮,俱收並蓄,待用無遺者,醫師之良也。登明選公,雜進巧拙,紆餘為妍,卓犖為傑,校短量長,唯器是適者,宰相之方也。昔者,孟軻好辯,孔道以明,轍環天下,卒老於行。茍卿守正,大論是弘,逃讒於楚,廢死蘭陵。是二儒者,吐辭為經,舉足為法,絕類離倫,優入聖域,其遇於世何如也?今先生學雖勤,不由其統;言雖多,不要其中;文雖奇,不濟於用;行雖修,不顯於眾。猶且月費俸錢,歲靡廩粟,子不知耕,婦不知織,乘馬從徒,安坐而食,踵常塗之促促,窺陳編以盜竊。然而聖主不加誅,宰臣不見斥,此非其幸哉!動而得謗,名亦隨之。投閑置散,乃分之宜。若夫商財賄之有無,計班資之崇庳,忘己量之所稱,指前人之瑕疵,是所謂詰匠氏之不以杙為楹,而訾醫師以昌陽引年,欲進其豨苓也。」

執政はその文を覧みて憐れみ、史才があるとして、比部郎中・史館修撰に改めた。一年余りして、考功郎中・知制誥に転じ、中書舎人に拝された。

原文執政覽其文而憐之,以其有史才,改比部郎中、史館修撰。逾歲,轉考功郎中、知制誥,拜中書舍人。

まもなく愈を快く思わない者が、その旧事を摘発し、愈が以前左降されて江陵掾曹となった時、荊南節度使裴均が厚くもてなし、均の子の鍔は凡庸で卑しいが、近ごろ鍔が父を見舞いに帰った際、愈が序を作って鍔を餞別し、なおその字を呼んだと述べた。この議論が朝廷で喧しくなり、これにより太子右庶子に改められた。

原文俄有不悅愈者,摭其舊事,言愈前左降為江陵掾曹,荊南節度使裴均館之頗厚,均子鍔凡鄙,近者鍔還省父,愈為序餞鍔,仍呼其字。此論喧於朝列,坐是改太子右庶子。

鳳翔法門寺に護国真身塔があり、塔内に釈迦文仏の指骨一節がある。その書には法を伝えるとあり、三十年に一度開扉し、開けばその年は豊作で人々は安泰であるという。十四年正月、上は中使杜英奇に命じ、宮人三十人を率い、香花を持たせて臨臯駅に赴き仏骨を迎えさせた。光順門から大内に入り、禁中に三日留めた後、諸寺に送った。王公士庶は奔走して施しを捨て、後れることを恐れた。百姓の中には、生業を廃し家産を破り、頂を焼き臂を灼いて供養を求める者もいた。愈は元来仏教を好まず、上疏して諫めて言うには、

原文鳳翔法門寺有護國真身塔,塔內有釋迦文佛指骨一節,其書本傳法,三十年一開,開則歲豐人泰。十四年正月,上令中使杜英奇押宮人三十人,持香花赴臨臯驛迎佛骨。自光順門入大內,留禁中三日,乃送諸寺。王公士庶,奔走舍施,唯恐在後。百姓有廢業破產、燒頂灼臂而求供養者。愈素不喜佛,上疏諫曰:

伏して考えるに、仏とは夷狄の一法に過ぎない。後漢の時に始めて中国に流入し、上古には未だ嘗て有らざるなり。昔、黄帝は在位百年、年百一十歳、少昊は在位八十年、年百歳、顓頊は在位七十九年、年九十八歳、帝嚳は在位七十年、年百五歳、帝堯は在位九十八年、年百一十八歳、帝舜及び禹は年皆百歳なり。この時、天下太平にして、百姓安楽寿考なりしも、然れども中国には未だ仏有らず。その後、殷の湯も亦年百歳、湯の孫太戊は在位七十五年、武丁は在位五十年、書史その寿を言わざれども、その年数を推すに、蓋し亦俱に百歳を減ぜざるべし。周の文王は年九十七歳、武王は年九十三歳、穆王は在位百年なり。この時、仏法も亦未だ中国に至らず、事仏に因りて此れを致すに非ざるなり。漢の明帝の時に始めて仏法有り、明帝の在位は、纔かに十八年に過ぎず。その後、乱亡相継ぎ、運祚長からず。宋・斉・梁・陳・元魏以下、事仏漸く謹み、年代尤も促し。唯だ梁の武帝は在位四十八年、前後三度身を捨てて仏に施し、宗廟の祭には、牲牢を用いず、昼日一食にして、菜果に止まる。その後竟に侯景に逼られ、台城に餓死し、国も亦尋いで滅ぶ。事仏して福を求め、乃ち更に禍を得たり。此れより観るに、仏は信ずるに足らず、亦知るべし。高祖こうそ始めて隋の禅を受けし時は、則ち之を除かんと議す。当時群臣識見遠からず、能く先王の道・古今の宜を深く究めず、聖明を推闡して以て此の弊を救うに至らず、其事遂に止む。臣嘗て之を恨む。伏して惟うに、皇帝陛下は、神聖英武にして、数千百年以来未だ倫比有らず。即位の初めより、即ち人を度して僧尼・道士と為すを許さず、又別に寺観を立つるを許さず。臣当時に、高祖の志は、必ず陛下の手に行わるべしと以為えり。今縱え即ち行わるる能わずとも、豈に恣に之を転じて盛んならしむべけんや。今聞く、陛下群僧をして鳳翔に於て仏骨を迎えしめ、楼に御して以て観、大内に舁き入れ、諸寺に令して遞に迎え供養せしむと。臣雖だ至愚なりとも、必ず知る、陛下仏に惑わされず、此の崇奉を作して以て福祥を祈るに非ざるを。直に年豊かに人楽しむに因り、人の心に徇い、京都の士庶の為に詭異の観・戯玩の具を設くるのみ。安んぞ聖明此の若きにして肯て此等の事を信ぜんや。然れども百姓愚冥にして、惑わし易く曉し難し、苟くも陛下此の如きを見ば、将に真心仏を信ずと謂わん。皆云う、天子大聖にして、猶一心に敬信す、百姓微賤にして、仏に於て豈に身命を惜しむに合わんやと。是を以て頂を灼き指を燔き、百十群を為し、衣を解き銭を散じ、朝より暮に至る。転相仿效し、唯だ後時を恐れ、老幼奔波し、其の生業を棄つ。若し即ち禁遏を加えざれば、更に諸寺を歴るに、必ず臂を断ち身を臠きて以て供養する者有らん。風を傷み俗を敗り、四方に笑いを伝え、細事に非ざるなり。仏は本夷狄の人にして、中国と言語通ぜず、衣服制を殊にす。口に先王の法言を道わず、身に先王の法行を服せず、君臣の義・父子の情を知らず。仮令其身尚在り、其の国命を奉じ、来りて京師に朝せば、陛下容れて之に接するも、宣政に一見するに過ぎず、礼賓一設し、衣一襲を賜い、衛して之を境に出し、衆をして惑わさしめざるのみ。況んや其身死して已久しく、枯朽の骨、兇穢の余、豈に宮禁に入るべけんや。孔子曰く、「鬼神を敬して之を遠ざく。」古の諸侯、国に行吊するに、尚巫祝をして先ず桃茢を以てし、不祥を祓除せしめ、然る後に進みて吊す。今故無く朽穢の物を取り、親臨して之を観るに、巫祝先んぜず、桃茢用いず、群臣其の非を言わず、御史其の失を挙げず、臣実に之を恥ず。乞うらくは此の骨を水火に付し、根本を永く絶ち、天下の疑を断ち、後代の惑を絶たん。天下の人をして、大聖人の為す所の作為は、尋常を出ること万万なるを知らしめん、豈に盛んならずや、豈に快からずや。仏もし霊有りて、能く禍祟を作さば、凡そ殃咎有らば、宜しく臣の身に加うべし。上天鑒臨す、臣怨悔せず。

原文伏以佛者,夷狄之一法耳。自後漢時始流入中國,上古未嘗有也。昔黃帝在位百年,年百一十歲;少昊在位八十年,年百歲;顓頊在位七十九年,年九十八歲;帝嚳在位七十年,年百五歲;帝堯在位九十八年,年百一十八歲;帝舜及禹年皆百歲。此時天下太平,百姓安樂壽考,然而中國未有佛也。其後殷湯亦年百歲,湯孫太戊在位七十五年,武丁在位五十年,書史不言其壽,推其年數,蓋亦俱不減百歲。周文王年九十七歲,武王年九十三歲,穆王在位百年。此時佛法亦未至中國,非因事佛而致此也。漢明帝時始有佛法,明帝在位,才十八年耳。其後亂亡相繼,運祚不長。宋、齊、梁、陳、元魏已下,事佛漸謹,年代尤促。唯梁武帝在位四十八年,前後三度舍身施佛,宗廟之祭,不用牲牢,晝日一食,止於菜果。其後竟為侯景所逼,餓死臺城,國亦尋滅。事佛求福,乃更得禍。由此觀之,佛不足信,亦可知矣。高祖始受隋禪,則議除之。當時群臣識見不遠,不能深究先王之道、古今之宜,推闡聖明,以救斯弊,其事遂止。臣嘗恨焉!伏惟皇帝陛下,神聖英武,數千百年以來未有倫比。即位之初,即不許度人為僧尼、道士,又不許別立寺觀。臣當時以為高祖之誌,必行於陛下之手。今縱未能即行,豈可恣之轉令盛也!今聞陛下令群僧迎佛骨於鳳翔,御樓以觀,舁入大內,令諸寺遞迎供養。臣雖至愚,必知陛下不惑於佛,作此崇奉以祈福祥也。直以年豐人樂,徇人之心,為京都士庶設詭異之觀、戲玩之具耳。安有聖明若此而肯信此等事哉!然百姓愚冥,易惑難曉,茍見陛下如此,將謂真心信佛。皆云天子大聖,猶一心敬信;百姓微賤,於佛豈合惜身命。所以灼頂燔指,百十為群,解衣散錢,自朝至暮。轉相仿效,唯恐後時,老幼奔波,棄其生業。若不即加禁遏,更歷諸寺,必有斷臂臠身以為供養者。傷風敗俗,傳笑四方,非細事也。佛本夷狄之人,與中國言語不通,衣服殊制。口不道先王之法言,身不服先王之法行,不知君臣之義、父子之情。假如其身尚在,奉其國命,來朝京師,陛下容而接之,不過宣政一見,禮賓一設,賜衣一襲,衛而出之於境,不令惑於眾也。況其身死已久,枯朽之骨,兇穢之餘,豈宜以入宮禁!孔子曰:「敬鬼神而遠之。」古之諸侯,行吊於國,尚令巫祝先以桃茢,祓除不祥,然後進吊。今無故取朽穢之物,親臨觀之,巫祝不先,桃茢不用,群臣不言其非,御史不舉其失,臣實恥之。乞以此骨付之水火,永絕根本,斷天下之疑,絕後代之惑。使天下之人,知大聖人之所作為,出於尋常萬萬也,豈不盛哉!豈不快哉!佛如有靈,能作禍祟,凡有殃咎,宜加臣身。上天鑒臨,臣不怨悔。

疏奏す、憲宗怒り甚だし。一日を間へ、疏を出して宰臣に示し、将に極法を加えんとす。裴度・崔群奏して曰く、「韓愈上り尊聴に忤う、誠に罪を得る宜し、然れども内に忠懐を懐き、黜責を避けざるに非ざれば、豈に此れに至らんや。伏して乞う、稍く寛容を賜いて、以て諫者を来らしめん。」上曰く、「愈言う、我仏を奉ずること過ぎたりと、我猶之を容る。東漢仏を奉ずるの後、帝王咸に夭促を致すに至りては、何の言の乖刺なるや。愈人臣として、敢えて爾く狂妄なる、固に赦すべからず。」ここにおいて人情驚惋し、乃ち国戚諸貴に至るも、亦愈を罪する太重きを以てし、事に因りて之を言う。乃ち潮州刺史に貶す。

原文疏奏,憲宗怒甚。間一日,出疏以示宰臣,將加極法。裴度、崔群奏曰:「韓愈上忤尊聽,誠宜得罪,然而非內懷忠懇,不避黜責,豈能至此?伏乞稍賜寬容,以來諫者。」上曰:「愈言我奉佛太過,我猶為容之。至謂東漢奉佛之後,帝王鹹致夭促,何言之乖刺也?愈為人臣,敢爾狂妄,固不可赦!」於是人情驚惋,乃至國戚諸貴,亦以罪愈太重,因事言之,乃貶為潮州刺史。

愈潮陽に至り、表を上りて曰く、

原文愈至潮陽,上表曰:

臣今年正月十四日、恩を蒙り潮州刺史を授かり、即日馳駅して路に就く。嶺海を経渉し、水陸万里。臣の領する州は、広府の極東に在り。広府を去ること二千里と云うと雖も、然れども来往動もて皆月を逾ゆ。海口を過ぎ、悪水に下り、濤瀧壮猛にして、期程を計い難く、颶風鱷魚、患禍測るべからず。州南近界、漲海天に連なり、毒霧瘴気、日夕発作す。臣少より病多く、年纔かに五十、発白き歯落つ、理に久長ならず。加うるに罪犯至重、処する所又極めて遠悪、憂惶慚悸し、死亡日に無し。単立一身、朝に親党無く、蛮夷の地に居り、魍魅と群を同じうす。苟くも陛下哀れみて之を念わざれば、誰か肯て臣の為に言わん。臣性を受くる愚陋、人事多く通ぜざる所有れども、唯酷く学問文章を好み、未だ嘗て一日暫くも廃せず、実に時輩の推許する所と為る。臣当時の文に於ても、亦人を過ぐる者未だ有らず。陛下の功徳を論述するに至りては、『詩』・『書』と相表裏す。歌詩を作し、之を郊廟に薦め、太山の封を紀し、白玉の牒を鏤り、天に対する宏休を鋪張し、前に無き偉跡を揚厲し、『詩』・『書』の策に編して愧ずること無く、天地の間に措いて虧くこと無し。古人をして復生せしむると雖も、臣未だ肯て多く譲らじ。伏して惟うに、大唐命を受けて天下を有ち、四海の内、臣妾ならざる莫し、南北東西、地各万里。天宝の後より、政治少しく懈り、文致優れず、武克綱を為さず。孽臣奸隸、外は順いて内は悖り、父死して子代わり、祖を以てし孫を以てす。古の諸侯の如く、自ら其の地を擅にし、朝せず貢せず、六七十年。四聖伝序して、陛下に至り、躬親聴断し、干戈の麾く所、従順ならざる無し。宜しく楽章を定めて、以て神明に告げ、東に泰山を巡り、功を皇天に奏し、永永万年に、我が成烈に服せしむべし。此の際に当たり、所謂千載一時、逢い難き嘉会。而るに臣罪を負い釁を嬰き、自ら海島に拘わり、戚戚嗟嗟し、日と死と迫り、曾て薄伎を従官の内・隷御の間に奏するを得ず、思を窮め精を畢くして、以て前過を贖わん。痛みを懐きて天に窮し、死して目を閉ざさじ。宸極を瞻望し、魂神飛び去る。伏して惟うに、陛下は天地父母、哀れみて之を憐れまんことを。

原文臣今年正月十四日,蒙恩授潮州刺史,即日馳驛就路。經涉嶺海,水陸萬里。臣所領州,在廣府極東。去廣府雖云二千里,然來往動皆逾月。過海口,下惡水,濤瀧壯猛,難計期程,颶風鱷魚,患禍不測。州南近界,漲海連天,毒霧瘴氛,日夕發作。臣少多病,年才五十,發白齒落,理不久長。加以罪犯至重,所處又極遠惡,憂惶慚悸,死亡無日。單立一身,朝無親黨,居蠻夷之地,與魍魅同群。茍非陛下哀而念之,誰肯為臣言者。臣受性愚陋,人事多所不通,唯酷好學問文章,未嘗一日暫廢,實為時輩推許。臣於當時之文,亦未有過人者。至於論述陛下功德,與《詩》、《書》相表裏。作為歌詩,薦之郊廟,紀太山之封,鏤白玉之牒;鋪張對天之宏休,揚厲無前之偉跡;編於《詩》、《書》之策而無愧,措於天地之間而無虧。雖使古人復生,臣未肯多讓。伏以大唐受命有天下,四海之內,莫不臣妾南北東西,地各萬里。自天寶之後,政治少懈,文致未優,武克不綱。孽臣奸隸,外順內悖;父死子代,以祖以孫。如古諸侯,自擅其地,不朝不貢,六七十年。四聖傳序,以至陛下,躬親聽斷,干戈所麾,無不從順。宜定樂章,以告神明;東巡泰山,奏功皇天,使永永萬年,服我成烈。當此之際,所謂千載一時,不可逢之嘉會。而臣負罪嬰釁,自拘海島,戚戚嗟嗟,日與死迫;曾不得奏薄伎於從官之內、隸御之間,窮思畢精,以贖前過。懷痛窮天,死不閉目!瞻望宸極,魂神飛去。伏惟陛下,天地父母,哀而憐之。

憲宗は宰臣に謂ひて曰く、「昨韓愈の潮州に到れる表を得たり、因りて其の諫むる佛骨の事を思ふに、大いに是れ我を愛するなり、我豈に知らざらんや!然れども愈は人臣たる者、人主の佛に事ふること乃ち年を促すと當に言ふべからず。我是を以て其の容易なるを惡む。」上愈を用ひんと欲す、故に先づ語及び、宰臣の奏對を觀る。而して皇甫鎛愈の狷直なるを惡み、其の復用せらるるを恐れ、率先して對へて曰く、「愈終に大に狂疏なり、且つ量移して一郡とすべし。」乃ち袁州刺史を授く。

原文憲宗謂宰臣曰:「昨得韓愈到潮州表,因思其所諫佛骨事,大是愛我,我豈不知!然愈為人臣,不當言人主事佛乃年促也。我以是惡其容易。」上欲復用愈,故先語及,觀宰臣之奏對。而皇甫镈惡愈狷直,恐其復用,率先對曰:「愈終大狂疏,且可量移一郡。」乃授袁州刺史。

初め、愈潮陽に至り、既に事を視るに及び、吏民の疾苦を詢ねしに、皆曰く、「郡西の湫水に鱷魚有り、卵して化し、長さ數丈、民の畜産を食ひて將に盡きんとす、是を以て民貧し。」數日居りて、愈往きて之を視、判官秦濟に令して一豚一羊を砲り、之を湫水に投げ、之を祝して曰く、

原文初,愈至潮陽,既視事,詢吏民疾苦,皆曰:「郡西湫水有鱷魚,卵而化,長數丈,食民畜產將盡,以是民貧。」居數日,愈往視之,令判官秦濟砲一豚一羊,投之湫水,祝之曰:

前代の德薄きの君、楚・越の地を棄つれば、則ち鱷魚此に涵泳するも可なり。今天子神聖にして、四海の外、撫して之を有つ。況んや揚州の境は、刺史縣令の治むる所、貢賦を出して以て天地宗廟の祀を共にす、鱷魚豈に刺史と雜りて此の土に處すべけんや?刺史天子の命を受け、令して此の土を守る、而るに鱷魚睅然として溪潭に安んぜず、民の畜たる熊鹿麞豕を食ひ、以て其の身を肥し、以て其の卵を繁くし、刺史と爭ひて長たらんとす。刺史雖だ駑弱なりと雖も、安んぞ鱷魚が爲に首を低めて下らんや!今潮州大海其の南に在り、鯨鵬の大なる、蝦蟹の細なる、容れざる無し、鱷魚朝に發して夕に至らん。今鱷魚と約す、三日乃至七日、若し頑にして徙らずば、須らく物害と爲るべし、則ち刺史材伎の壯夫を選び、勁弓毒矢を操り、鱷魚と事を從事せん!

原文前代德薄之君,棄楚、越之地,則鱷魚涵泳於此可也。今天子神聖,四海之外,撫而有之。況揚州之境,刺史縣令之所治,出貢賦以共天地宗廟之祀,鱷魚豈可與刺史雜處此土哉?刺史受天子命,令守此土,而鱷魚睅然不安溪潭,食民畜熊鹿麞豕,以肥其身,以繁其卵,與刺史爭為長。刺史雖駑弱,安肯為鱷魚低首而下哉!今潮州大海在其南,鯨鵬之大,蝦蟹之細,無不容,鱷魚朝發而夕至。今與鱷魚約,三日乃至七日,如頑而不徙,須為物害,則刺史選材伎壯夫,操勁弓毒矢,與鱷魚從事矣!

之を祝する夕、暴風雷湫中に起る有り。數日、湫水盡く涸れ、舊湫の西六十里に徙る。是より潮人鱷患無し。

原文祝之夕,有暴風雷起於湫中。數日,湫水盡涸,徙於舊湫西六十里。自是潮人無鱷患。

袁州の俗、男女人の隷たる者、約を逾ゆれば則ち出錢の家に沒入す。愈至り、法を設けて其の沒せられたる男女を贖ひ、其の父母に歸す。仍りて其の俗法を削り、人に隷するを許さず。

原文袁州之俗,男女隸於人者,逾約則沒入出錢之家。愈至,設法贖其所沒男女,歸其父母。仍削其俗法,不許隸人。

十五年、徵されて國子祭酒と爲り、轉じて兵部侍郎と爲る。會に鎮州田弘正を殺し、王廷湊を立て、愈を令して鎮州に往き宣諭せしむ。愈既に至り、軍民を集め、逆順を以て諭す。辭情切至、廷湊畏れて之を重んず。吏部侍郎に改む。轉じて京兆尹と爲り、御史大夫を兼ぬ。臺參せざるを以て、御史中丞李紳の劾する所と爲る。愈伏せず、敕に準じて仍りて臺參せずと言ふ。紳・愈性皆褊僻、刺を移して往來し、紛然として止まず、乃ち紳を出して浙西觀察使と爲し、愈も亦尹を罷めて兵部侍郎と爲る。及び紳面辭して鎮に赴かんとし、涕泣して陳敘す。穆宗之を憐れみ、乃ち制を追ひて紳を兵部侍郎と爲し、愈復た吏部侍郎と爲る。長慶四年十二月卒す、時に年五十七、禮部尚書を贈り、謚して文と曰ふ。

原文十五年,徵為國子祭酒,轉兵部侍郎。會鎮州殺田弘正,立王廷湊,令愈往鎮州宣諭。愈既至,集軍民,諭以逆順。辭情切至,廷湊畏重之。改吏部侍郎。轉京兆尹,兼御史大夫。以不臺參,為御史中丞李紳所劾。愈不伏,言準敕仍不臺參。紳、愈性皆褊僻,移刺往來,紛然不止,乃出紳為浙西觀察使,愈亦罷尹為兵部侍郎。及紳面辭赴鎮,泣涕陳敘。穆宗憐之,乃追制以紳為兵部侍郎,愈復為吏部侍郎。長慶四年十二月卒,時年五十七,贈禮部尚書,謚曰文。

愈性弘通、人と交はり、榮悴易へず。少時洛陽らくようの人孟郊・東郡の人張籍と友善し。二人名位未だ振はざるも、愈寒暑を避けず、公卿の間に稱薦し、而して籍終に科第を成し、祿仕に榮ゆ。後貴に通ずるも、每公を退くるの隙あれば、則ち相與に談宴し、文を論じ詩を賦し、平昔の如し。而して諸の權門豪士を觀るに、僕隷の如く、瞪然として顧みず。而して頗る能く後進を誘厲し、之を館する者十六七、晨炊給はざるも、怡然として意に介せず。大抵名教を興起し、仁義を弘獎するを事とす。凡そ内外及び友朋の孤女を嫁すこと僅かに十人。

原文愈性弘通,與人交,榮悴不易。少時與洛陽人孟郊、東郡人張籍友善。二人名位未振,愈不避寒暑,稱薦於公卿間,而籍終成科第,榮於祿仕。後雖通貴,每退公之隙,則相與談宴,論文賦詩,如平昔焉。而觀諸權門豪士,如僕隸焉,瞪然不顧。而頗能誘厲後進,館之者十六七,雖晨炊不給,怡然不介意。大抵以興起名教,弘獎仁義為事。凡嫁內外及友朋孤女僅十人。

常に以爲らく、魏・晉已還より、文を爲る者多く偶對に拘はり、而して經誥の指歸、遷・雄の氣格、復た振起せずと。故に愈の爲す所の文は、務めて近體に反し;意を抒き言を立て、自ら一家の新語を成す。後學の士、取りて師法と爲す。當時の作者甚だ衆し、以て之に過ぐる無し、故に世「韓文」と稱す。然れども時に才を恃みて意に肆する有り、亦孔・孟の旨に盩く有り。若し南人の妄りに柳宗元を羅池神と爲し、而して愈碑を撰して以て之を實くす;李賀の父名は晉、進士に應ずべからず、而して愈賀が爲に『諱辨』を作り、進士を舉げしむ;又『毛穎傳』を爲り、譏戲して人情に近からず:此れ文章の甚だ紕繆なる者。時に愈史筆有りと謂ひ、及び『順宗實錄』を撰すに及び、繁簡當らず、敘事取舍に拙く、頗る當代の非と爲る所と爲る。穆宗・文宗嘗て史臣に詔して添改せしむ、時に愈の婿李漢・蔣系顯位に在り、諸公之を難しとす。而して韋處厚竟に別に『順宗實錄』三卷を撰す。文集四十卷有り、李漢之が爲に序す。

原文常以為自魏、晉已還,為文者多拘偶對,而經誥之指歸,遷、雄之氣格,不復振起矣。故愈所為,文,務反近體;抒意立言,自成一家新語。後學之士,取為師法。當時作者甚眾,無以過之,故世稱「韓文」焉。然時有恃才肆意,亦有盩孔、孟之旨。若南人妄以柳宗元為羅池神,而愈撰碑以實之;李賀父名晉,不應進士,而愈為賀作《諱辨》,令舉進士;又為《毛穎傳》,譏戲不近人情:此文章之甚紕繆者。時謂愈有史筆,及撰《順宗實錄》,繁簡不當,敘事拙於取舍,頗為當代所非。穆宗、文宗嘗詔史臣添改,時愈婿李漢、蔣系在顯位,諸公難之。而韋處厚竟別撰《順宗實錄》三卷。有文集四十卷,李漢為之序。

子昶、亦進士第に登る。

原文子昶,亦登進士第。

(附)張籍

原文{{-|附}} 張籍

張籍は、貞元中進士第に登る。性詭激、能く古體詩を爲し、警策の句有りて時に傳はる。調補して太常寺太祝と爲り、轉じて國子助教・秘書郎と爲る。詩を以て當代に名有り、公卿裴度・令狐楚、才名白居易・元稹の如き、皆之と遊び、而して韓愈尤も之を重んず。累授して國子博士・水部員外郎と爲り、轉じて水部郎中と爲り、卒す。世之を張水部と謂ふ。

原文張籍者,貞元中登進士第。性詭激,能為古體詩,有警策之句傳於時。調補太常寺太祝,轉國子助教、秘書郎。以詩名當代,公卿裴度、令狐楚,才名如白居易、元稹,皆與之遊,而韓愈尤重之。累授國子博士、水部員外郎,轉水部郎中,卒。世謂之張水部云。

(附)孟郊

原文{{-|附}} 孟郊

孟郊は、少く嵩山に隱れ、處士と稱す。李翺洛中に分司し、之と遊ぶ。留守鄭餘慶に薦め、辟かれて賓佐と爲る。性孤僻にして寡合、韓愈一見して以て忘形の契と爲し、常に其の字を稱して東野と曰ひ、之と文酒の間に唱和す。鄭餘慶興元を鎮むるに及び、又奏して從事と爲し、辟書下りて而して卒す。餘慶錢數萬を給して葬送し、其の妻子を贍給すること累年。

原文孟郊者,少隱於嵩山,稱處士。李翺分司洛中,與之遊。薦於留守鄭餘慶,辟為賓佐。性孤僻寡合,韓愈一見以為忘形之契,常稱其字曰東野,與之唱和於文酒之間。鄭餘慶鎮興元,又奏為從事,辟書下而卒。餘慶給錢數萬葬送,贍給其妻子者累年。

(附)唐衢

原文{{-|附}} 唐衢

唐衢は、進士に應ずるも、久しくして第せず。能く歌詩を爲し、意多く感發有り。人の文章に傷嘆する所有る者を見れば、讀み訖りて必ず哭し、涕泗已む能はず。每に人と言論し、既に相別れ、聲を發して一號し、音辭哀切、之を聞く者莫く淒然として泣下せず。嘗て客遊して太原に在り、戎帥の軍宴に屬し、衢會に預るを得たり。酒酣に事を言ひ、音を抗して哭す、一席樂しまず、之が爲に會を罷む、故に世唐衢の善哭と稱す。左拾遺白居易之に詩を遺して曰く、「賈誼は時事を哭し、阮籍は路歧を哭す。唐生今亦哭す、異代其の悲を同じくす。唐生とは何の人ぞ?五十寒く且つ饑ゆ。口に食無きを悲しまず、身に衣無きを悲しまず。悲しむ所は忠と義、悲しみ甚しければ則ち之を哭す。太尉賊を撃つ日、尚書盜を叱す時。大夫兇寇に死し、諫議蠻夷に謫せらる。每に此の如き事を見れば、聲發して涕輒ち隨ふ。我も亦君の徒、鬱鬱として何を爲す所ぞ?聲を發して哭する能はず、轉た樂府の辭を作す。」其の名流の稱重する此の若き。竟に一命をも登らずして卒す。

原文唐衢者,應進士,久而不第。能為歌詩,意多感發。見人文章有所傷嘆者,讀訖必哭,涕泗不能已。每與人言論,既相別,發聲一號,音辭哀切,聞之者莫不淒然泣下。嘗客遊太原,屬戎帥軍宴,衢得預會。酒酣言事,抗音而哭,一席不樂,為之罷會,故世稱唐衢善哭。左拾遺白居易遺之詩曰:「賈誼哭時事,阮籍哭路歧。唐生今亦哭,異代同其悲。唐生者何人?五十寒且饑。不悲口無食,不悲身無衣。所悲忠與義,悲甚則哭之。太尉擊賊日,尚書叱盜時。大夫死兇寇,諫議謫蠻夷。每見如此事,聲發涕輒隨。我亦君之徒,鬱鬱何所為?不能發聲哭,轉作樂府辭。」其為名流稱重若此。竟不登一命而卒。

李翺

原文李翺

李翺、字は習之、涼の武昭王の後裔である。父は楚金、貝州司法参軍であった。翺は幼くして儒学に勤しみ、博雅で古を好み、文章を為すに気質を尚んだ。貞元十四年に進士第に登り、校書郎を授かった。三度遷って京兆府司録参軍に至った。元和の初め、国子博士・史館修撰に転じた。

原文李翺,字習之,涼武昭王之後。父楚金,貝州司法參軍。翺幼勤於儒學,博雅好古,為文尚氣質。貞元十四年登進士第,授校書郎。三遷至京兆府司錄參軍。元和初,轉國子博士、史館修撰。

十四年、太常丞王涇が上疏して太廟における朔望の上食を廃止するよう請うたので、詔して百官に議させた。議する者は『開元礼』によれば、太廟では毎年、礿・祠・蒸・嘗・臘の五つの祭祀があるとしていた。天宝の末、玄宗が尚食に命じて毎月の朔望に常饌を備えさせ、宮闈令に命じて太廟に上食させたが、後には常例となった。これにより朔望には朝政を視ず、大祠に比していた。翺が奏議して言うには、

原文十四年,太常丞王涇上疏請去太廟朔望上食,詔百官議。議者以《開元禮》,太廟每歲礿、祠、蒸、嘗、臘,凡五享。天寶末,玄宗令尚食每月朔望具常饌,令宮闈令上食於太廟,後遂為常。由是朔望不視朝,比之大祠。翺奏議曰:

『国語』に曰く、王者は日祭を行うとある。『礼記』に曰く、王は七廟を立て、皆月祭を行うとある。『周礼』には時祭として、礿・祠・蒸・嘗がある。漢代は皆これらを雑用した。秦の焚書により、『詩』・『書』・『礼経』は灰燼かいじんに帰し、編は残り簡は欠け、漢がこれを求めたのである。先儒は穿鑿し、各々己の見を伸ばし、皆古の聖賢の名に託して、その言葉を信じさせたので、記すところ各々同じではない。古は廟に寢があり墓祭はなかった。秦・漢になって初めて園陵に寢廟を建て、上食を行った。国家はこれに因って改めなかった。『貞観礼』・『開元礼』には共に宗廟の日祭・月祭の礼はない。それは日祭・月祭が既に陵寢で行われているからである。故に太廟においては、毎年五饗六告のみである。そうでなければ、房玄齢・魏徴らは皆一代の名臣で、経史を極めた者であるが、『国語』・『礼記』に日祭・月祭の言葉があるのを見ないはずがあろうか。これをもって明らかである。伏して考えるに、太廟の饗は、籩豆牲牢、三代の通礼であり、これは誠を貴ぶ意義である。園陵の奠は、常饌に改めて用いる。秦・漢の権制であり、食味の道である。今、朔望に太廟に上食するのは、常の褻味を用いて品数を貴ぶことではあるまいか。かつ『礼』の所謂「至敬は味を饗せずして気臭を貴ぶ」の意義ではない。『伝』に称する、屈到は芰を嗜み、病に罹り、その宗老を召して告げて言うには、「我を祭るには必ず芰を用いよ」と。祭るに及んで、芰を薦めると、その子は命に背いて芰を去り羊を用い、籩豆脯醢を饋った。君子はこれを是とした。祖考に事える意義は、礼を以て重しとすべきで、その生存時の嗜好を以て献じるべきではないと言うのである。食味ではないことを明らかにしている。然らば常饌を太廟に薦めるのは、芰の比と為すことにはならないか。かつ三代の聖王の行ったところではない。況や祭器に俎豆を陳べず、祭官に三公を命ぜず、執事する者は宮闈令と宗正卿のみである。これを上食と謂うのは、どうして祭と為すことができようか。かつ太廟における時享は、有司が事を摂り、祝文に曰く、「孝曾孫皇帝臣某、謹んで太尉臣某を遣わし、敢えて昭かに高祖神堯皇帝・祖妣太穆皇后竇氏に告ぐ。時に孟春に惟り、永く罔極を懐う。謹んで一元大武・柔毛剛鬣・明粢薌萁・嘉蔬嘉薦醴齊を以て、敬しく時享を修め、以て追慕を申す」と。これは祝辞である。享の七日前の質明に、太尉が尚書省において百官に誓って言うには、「某月某日、太廟において時享を行う。各々その職を揚げよ。その事に供せざれば、国に常刑あり」と。凡そ陪享の官は、散斎四日、致斎三日し、然る後に祭を為すことができる。宗廟の礼は、敢えて擅に議するものではない。知る者あれども、誰か敢えて言わん。故に六十余年行われて廃されなかった。今、聖朝は弓矢既に橐に納まり、礼楽を大と為す故に、百僚に下して詳議を得る。臣等は『貞観礼』・『開元礼』には共に太廟上食の文がなく、礼を以て情を断つに、これを罷むるは可なりと為す。陵寢の上食に至っては、『国語』・『礼記』の日祭・月祭の詞を採り、秦・漢の制に因り、修めてこれを存し、以て孝道を広むるは可なり。かくの如くすれば、経義に拠ることができ、故事を遺さず。大礼既に明らかになり、永く異論を息め、二帝三王に継ぎて万代の法と為すことができる。礼を瀆し古を越え、因循を貴び改作を憚るよりは、猶天地の相い遠きが如し。

原文《國語》曰:王者日祭。《禮記》曰:王立七廟,皆月祭之。《周禮》時祭,礿祠蒸嘗。漢氏皆雜而用之。蓋遭秦火,《詩》、《書》、《禮經》燼滅;編殘簡缺,漢乃求之。先儒穿鑿,各伸己見,皆托古聖賢之名,以信其語,故所記各不同也。古者廟有寢而不墓祭;秦、漢始建寢廟於園陵,而上食焉。國家因之而不改。《貞觀》、《開元禮》並無宗廟日祭、月祭之禮,蓋以日祭、月祭,既已行於陵寢矣。故太廟之中,每歲五饗六告而已。不然者,房玄齡、魏徵輩皆一代名臣,窮極經史,豈不見《國語》、《禮記》有日祭、月祭之詞乎?斯足以明矣。伏以太廟之饗,籩豆牲牢,三代之通禮,是貴誠之義也。園陵之奠,改用常饌;秦、漢之權制,乃食味之道也。今朔望上食於太廟,豈非用常褻味而貴多品乎?且非《禮》所謂「至敬不饗味而貴氣臭」之義也。《傳》稱:屈到嗜芰,有疾,召其宗老而屬之曰:「祭我必以芰。」及祭,薦芰,其子違命去芰而用羊,饋籩豆脯醢,君子是之。言事祖考之義,當以禮為重,不以其生存所嗜為獻,蓋明非食味也。然則薦常饌於太廟,無乃與芰為比乎?且非三代聖王之所行也。況祭器不陳俎豆,祭官不命三公,執事者唯宮闈令與宗正卿而已。謂之上食也,安得以為祭乎?且時享於太廟,有司攝事,祝文曰:「孝曾孫皇帝臣某,謹遣太尉臣名,敢昭告於高祖神堯皇帝、祖妣太穆皇后竇氏。時惟孟春,永懷罔極。謹以一元大武、柔毛剛鬣、明粢薌萁、嘉蔬嘉薦醴齊,敬脩時享,以申追慕。」此祝辭也。前享七日質明,太尉誓百官於尚書省曰:「某月某日時享於太廟,各揚其職。不供其事,國有常刑。」凡陪享之官,散齋四日,致齋三日,然後可以為祭也。宗廟之禮,非敢擅議,雖有知者,其誰敢言?故六十餘年行之不廢。今聖朝以弓矢既橐,禮樂為大,故下百僚,可得詳議。臣等以為《貞觀》、《開元禮》並無太廟上食之文,以禮斷情,罷之可也。至若陵寢上食,采《國語》、《禮記》日祭、月祭之詞,因秦、漢之制,修而存之,以廣孝道可也。如此,則經義可據,故事不遺。大禮既明,永息異論,可以繼二帝三王,而為萬代法。與其瀆禮越古,貴因循而憚改作,猶天地之相遠也。

礼を知る者はこれを是としたが、事は遂に行われなかった。

原文知禮者是之,事竟不行。

翺の性質は剛急で、議論に避けるところがなかった。執政はその学を重んじたが、その激しい訐りを悪んだので、久しく次第に遷らずにいた。翺は史官の事を記すのが実を記さないとして、奏状を上して言うには、「臣は誤って史館に筆を執り、記註を職とするを得た。善を勧め悪を懲らしめ、正言直筆し、聖朝の功德を紀し、忠賢の事業を述べ、奸臣の醜行を載せて、以て無窮に伝えることは、史官の任である。凡そ人の事跡は、大善大悪でなければ、則ち衆人これを知る由なし。旧例は皆人に訪い、また行状謚議を取って以て依拠とする。今、行状を作る者は、多くはその門生故吏で、虚しく仁義礼智を加えずといふことなく、妄りに忠肅惠和を言う。これは唯その心に処すること実ならざるのみならず、苟くも恩を受けた地に虚美を欲するからである。文を為す者は、また子游・子夏・司馬遷・揚雄の列ではなく、華に務めてその実を忘れ、文に溺れてその理を棄てる。故に文を為すには『六経』の古風を失い、事を紀するには史遷の実録に非ず。臣は今、行状を作る者に請うには、只事実を指し、直ちに事功を載せることである。仮に『魏徴伝』を作るには、只その諫諍の辞を記して、以て正直と為すに足りる。段秀実は只その司農の印を倒用して逆兵を追い、象笏を以て朱泚を撃ったことを記して、以て忠烈と為すに足りる。若し考功が行状を視て、これに依らざるものは受けざるを得ず。これに依れば、則ち考功は太常に下し、史館に牒し、然る後に謚を定める。伏して願わくは、臣のこの奏を考功に下されたし」と。これに従った。尋いて職方員外郎を権知した。十五年六月、考功員外郎を授かり、並びに史職を兼ねた。

原文翺性剛急,論議無所避。執政雖重其學,而惡其激訐,故久次不遷。翺以史官記事不實,奏狀曰:「臣謬得秉筆史館,以記註為職。夫勸善懲惡,正言直筆,紀聖朝功德,述忠賢事業,載奸臣醜行,以傳無窮者,史官之任也。凡人事跡,非大善大惡,則眾人無由得知,舊例皆訪於人,又取行狀謚議,以為依據。今之作行狀者,多是其門生故吏,莫不虛加仁義禮智,妄言忠肅惠和。此不唯其處心不實,茍欲虛美於受恩之地耳。蓋為文者,又非遊、夏、遷、雄之列,務於華而忘其實,溺於文而棄其理。故為文則失《六經》之古風,紀事則非史遷之實錄。臣今請作行狀者,但指事實,直載事功。假如作《魏徵傳》,但記其諫諍之辭,足以為正直;段秀實但記其倒用司農印以追逆兵,以象笏擊朱泚,足以為忠烈。若考功視行狀,不依此者不得受。依此,則考功下太常,牒史館,然後定謚。伏乞以臣此奏下考功。」從之。尋權知職方員外郎。十五年六月,授考功員外郎,並兼史職。

翺は李景儉と親善であった。初め、景儉が諫議大夫に拝されると、翺を挙げて自らの代わりとした。ここに至り、景儉が貶黜されると、七月、翺を出して朗州刺史とした。間もなく景儉が再び諫議大夫となり、翺もまた入朝して礼部郎中となった。翺は自ら辞芸を負い、制誥を知るに合うと為したが、久しく志の如くならず、鬱々として楽しまなかった。そこで中書に入って宰相に謁し、面と向かって李逢吉の過失を数えた。逢吉はこれを咎めなかった。翺は心に自ら安からず、乃ち告を請うた。百日満ちると、有司は例に準じて官を停め、逢吉が奏して廬州刺史を授けた。太和の初め、入朝して諫議大夫となり、尋いて本官をもって制誥を知る。三年二月、中書舎人に拝された。

原文翺與李景儉友善。初,景儉拜諫議大夫,舉翺自代。至是,景儉貶黜,七月,出翺為朗州刺史。俄而景儉復為諫議大夫,翺亦入為禮部郎中。翺自負辭藝,以為合知制誥,以久未如誌,郁郁不樂。因入中書謁宰相,面數李逢吉之過失。逢吉不之校。翺心不自安,乃請告。滿百日,有司準例停官,逢吉奏授廬州刺史。太和初,入朝為諫議大夫,尋以本官知制誥。三年二月,拜中書舍人。

初め、諫議大夫柏耆が滄州の軍前に赴き宣諭しようとした時、翺はかつてこの行を賛成した。柏耆は間もなく擅に滄州に入ったことで罪を得、翺は謬挙に坐し、左授されて少府少監となった。間もなく出されて鄭州刺史となった。五年、出されて桂州刺史・御史中丞となり、桂管都防禦使を充てた。七年、改めて潭州刺史・湖南観察使を授かった。八年、徴されて刑部侍郎となった。九年、戸部侍郎に転じた。七月、検校戸部尚書・襄州刺史となり、山南東道節度使を充てた。会昌年中、鎮において卒し、謚して文と曰う。

原文初,諫議大夫柏耆將使滄州軍前宣諭,翺嘗贊成此行。柏耆尋以擅入滄州得罪,翺坐謬舉,左授少府少監。俄出為鄭州刺史。五年,出為桂州刺史、御史中丞,充桂管都防禦使。七年,改授潭州刺史、湖南觀察使。八年,徵為刑部侍郎。九年,轉戶部侍郎。七月,檢校戶部尚書、襄州刺史,充山南東道節度使。會昌中,卒於鎮,謚曰文。

宇文籍

原文宇文籍

宇文籍、字は夏龜。父は滔、官は卑し。少くして学を好み、特に『春秋』に通ず。竇群が処士より右拾遺に徴せられ、表を上して籍を以て自ら代わらしむ。これによりて名を知られる。進士第に登る。宰相武元衡が西蜀しょくに出鎮するに当たり、奏して従事と為す。咸陽尉を以て史館に直り、韓愈と共に『順宗実録』を修し、監察御史に遷る。王承宗叛くに及び、詔して其の弟駙馬都尉承系を捕えしむ。其の賓客の中に誤って識る者有り。又蘇表が淮西を破るの策を以て宰相武元衡に干るも、元衡用いず。籍が旧く従事たりしを以て、表を召して之を訊わしむ。籍因りて表と狎む。元衡怒り、坐して江陵府戸曹参そうしん軍に貶せらる。任に至り、節度使孫簡重んずるを知り、幕府の職事を兼ねしめんと欲す。籍辞して曰く、「籍は君命を以て譴黜せられ、亦た君命を以て升るべし。栄を仮りて賞を偸むは、願う所に非ず」と。後に考満し、連ねて籓府に辟せられ、入りて侍御史と為り、転じて著作郎、駕部員外郎・史館修撰に遷る。韋処厚・韋表微・路随・沈伝師と共に『憲宗実録』を修す。俄かに本官を以て制誥を知り、庫部郎中に転ず。太和中、諫議大夫に遷り、専ら史筆を掌り、知制誥を罷む。

原文宇文籍,字夏龜。父滔,官卑。少好學,尤通《春秋》。竇群自處士徵為右拾遺,表籍自代,由是知名。登進士第。宰相武元衡出鎮西蜀,奏為從事。以咸陽尉直史館,與韓愈同修《順宗實錄》,遷監察御史。王承宗叛,詔捕其弟駙馬都尉承系,其賓客中有為誤識者。又蘇表以破淮西策幹宰相武元衡,元衡不用。以籍舊從事,令召表訊之,籍因與表狎。元衡怒,坐貶江陵府戶曹參軍。至任,節度使孫簡知重之,欲令兼幕府職事。籍辭曰:「籍以君命譴黜,亦當以君命升。假榮偷獎,非所願也。」後考滿,連辟籓府,入為侍御史,轉著作郎,遷駕部員外郎、史館修撰。與韋處厚、韋表微、路隨、沈傳師同修《憲宗實錄》。俄以本官知制誥,轉庫部郎中。太和中,遷諫議大夫,專掌史筆,罷知制誥。

籍は性簡淡にして寡合、経史に耽玩し、著述に精しく、而して風望峻整、時輩に推重せらる。太和二年正月卒す。時に年五十九、工部侍郎を贈らる。子監、大中初め進士第に登る。

原文籍性簡淡寡合,耽玩經史,精於著述,而風望峻整,為時輩推重。太和二年正月卒,時年五十九,贈工部侍郎。子監,大中初登進士第。

劉禹錫

原文劉禹錫

劉禹錫、字は夢得、彭城の人。祖は雲。父は漵、州県令佐に歴任し、世儒学を以て称せらる。禹錫は貞元九年進士第に擢でられ、又宏辞科に登る。禹錫は古文に精しく、五言詩を善くし、今体文章復た多く才麗なり。淮南節度使杜佑の幕に従事し、記室を典とし、特に礼異を加えらる。佑に従い朝に入り、監察御史と為る。吏部郎中韋執誼と相善し。

原文劉禹錫,字夢得,彭城人。祖云。父漵,仕歷州縣令佐,世以儒學稱。禹錫貞元九年擢進士第,又登宏辭科。禹錫精於古文,善五言詩,今體文章復多才麗。從事淮南節度使杜佑幕,典記室,尤加禮異。從佑入朝,為監察御史。與吏部郎中韋執誼相善。

貞元末、王叔文が東宮に用事し、後輩進を務め、多く之に附麗す。禹錫は特に叔文に知奨せられ、宰相の器を以て之を待つ。順宗即位し、久しく疾に任せず政事に堪えず、禁中の文誥は皆叔文より出づ。禹錫及び柳宗元を引き禁中に入れ、之と図議し、言うこと従わざる無し。屯田員外郎・度支塩鉄案を判じ、兼ねて崇陵使判官に転ず。頗る威権を恃み、端士を中傷す。宗元は素より武元衡を悦ばず、時に武元衡は御史中丞と為り、乃ち左授して右庶子と為す。侍御史竇群、禹錫が邪を挟み政を乱すを奏し、朝に在るに宜しからずとす。群は即日に官を罷む。韓臯は貴門を憑藉し、叔文の党に附せず、出でて湖南観察使と為る。既に喜怒を任せて人を淩ぎ、京師の人士敢えて名を指さず、道路に目を以てす。時に「二王・劉・柳」と号す。

原文貞元末,王叔文於東宮用事,後輩務進,多附麗之。禹錫尤為叔文知獎,以宰相器待之。順宗即位,久疾不任政事,禁中文誥,皆出於叔文。引禹錫及柳宗元入禁中,與之圖議,言無不從。轉屯田員外郎、判度支鹽鐵案,兼崇陵使判官。頗怙威權,中傷端士。宗元素不悅武元衡,時武元衡為御史中丞,乃左授右庶子。侍御史竇群奏禹錫挾邪亂政,不宜在朝。群即日罷官。韓臯憑藉貴門,不附叔文黨,出為湖南觀察使。既任喜怒淩人,京師人士不敢指名,道路以目,時號「二王、劉、柳。」

叔文敗れ、坐して連州刺史に貶せらる。道に在りて、朗州司馬に貶せらる。地は西南夷に居り、士風僻陋、目を挙ぐれば殊俗、言うべき者無し。禹錫は朗州に十年在り、唯だ文章吟詠を以て、情性を陶冶す。蛮俗は巫を好み、毎に淫祠鼓舞すれば、必ず俚辞を歌う。禹錫或いは其の間に従事し、乃ち騒人の作に依り、新辞を為して巫祝に教う。故に武陵の溪洞の間の夷歌は、率ね多く禹錫の辞なり。

原文叔文敗,坐貶連州刺史。在道,貶朗州司馬。地居西南夷,士風僻陋,舉目殊俗,無可與言者。禹錫在朗州十年,唯以文章吟詠,陶冶情性。蠻俗好巫,每淫祠鼓舞,必歌俚辭。禹錫或從事於其間,乃依騷人之作,為新辭以教巫祝。故武陵溪洞間夷歌,率多禹錫之辭也。

初め、禹錫・宗元等八人衆怒を犯し、憲宗も亦た怒り、故に再び貶す。制に「恩に逢いても原さず」の令有り。然れども執政其の才を惜しみ、痕累を洗滌し、漸く序を用いんと欲す。会に程異復た転運を掌り、詔有りて韓臯及び禹錫等を以て遠郡の刺史と為す。武元衡が中書に在るに属し、諫官十余人論列し、言う復用すべからずと。而して止む。

原文初,禹錫、宗元等八人犯眾怒,憲宗亦怒,故再貶。制有「逢恩不原」之令。然執政惜其才,欲洗滌痕累,漸序用之。會程異復掌轉運,有詔以韓臯及禹錫等為遠郡刺史。屬武元衡在中書,諫官十餘人論列,言不可復用而止。

禹錫は積年湘・澧の間に在り、郁悒怡ばず。因りて『張九齢文集』を読み、乃ち其の意を叙して曰く、「世は曲江が相と為り、放臣は善地に於いて宜しからずと建言し、多く五溪の不毛の郷に徙すと称す。今其の文章を読むに、内職より牧に始まり、安んぞ瘴癘の嘆有らん。退相して荊州を守るより、拘囚の思有り。禽鳥に諷を托し、草樹に辞を寄せ、郁然として騒人と風を同じくす。嗟夫、身は遐陬より出で、一たび失意して能く堪えず。況んや華人の士族にして、必ず醜地に致し、然る後に快意ならんや。議者は曲江を以て良臣と為し、胡雛に反相有るを識り、凡器と同列するを羞じ、密かに啓して廷諍す。古の哲人も及ばずと雖も、而して燕翼似る無く、終に餒魂と為る。豈に忮心恕を失い、陰謫最大にして、二美と雖も贖う莫きか。然らずんば、何ぞ袁公の一言楚獄を明らかにして鐘祉四葉なる。是を以て相較うれば、神誣うべけんや」と。

原文禹錫積歲在湘、澧間,郁悒不怡,因讀《張九齡文集》,乃敘其意曰:「世稱曲江為相,建言放臣不宜於善地,多徙五溪不毛之鄉。今讀其文章,自內職牧始,安有瘴癘之嘆,自退相守荊州,有拘囚之思。托諷禽鳥,寄辭草樹,郁然與騷人同風。嗟夫,身出於遐陬,一失意而不能堪,矧華人士族,而必致醜地,然後快意哉!議者以曲江為良臣,識胡雛有反相,羞與凡器同列,密啟廷諍,雖古哲人不及。而燕翼無似,終為餒魂。豈忮心失恕,陰謫最大,雖二美莫贖耶?不然,何袁公一言明楚獄而鐘祉四葉。以是相較,神可誣乎?」

禹錫は晚年少傅白居易と友善し、詩筆文章、時に其の右に在る者無し。常に禹錫と唱和往来し、因りて其の詩を集めて之に序して曰く、「彭城劉夢得は、詩豪なる者なり。其の鋒森然として、敢えて当たる者少なし。予は力を量らず、往往之を犯す。夫れ合応する者は声同く、交争する者は力敵す。一往一復、罷めんと欲して能わず。是に由りて毎に一篇を制するに、先ず草を視るに於いてし、視竟れば則ち興作し、興作すれば則ち文成る。一二年來、日に筆硯を尋ね、同和贈答、覚えず滋多し。太和三年春以前、紙墨に存する者は、凡そ一百三十八首。其の余乗興仗酔、率然口號する者は、此の数に在らず。因りて小侄亀児に命じ編勒して両軸と成す。仍て二本を写し、一は亀児に付し、一は夢得の小男侖郎に授け、各々收藏せしめ、両家の文集に附す。予は頃に元微之と唱和頗る多く、或いは人の口に在り。嘗て微之に戯れて云う、『僕と足下は二十年来文友詩敵と為る。幸いなり、亦た不幸なり。情性を吟詠し、名聲を播揚するは、其の適遺形し、其の楽老を忘る。幸いなり。然れども江南の士女才子を語るに、多く元・白と云う。子の故を以て、僕をして独り歩を呉・越の間に得しめず。此れ亦た不幸なり。今垂老して復た夢得に遇う。重ねて不幸に非ずや』と。夢得夢得、文の神妙は、詩に先んずる莫し。若し妙と神とを論ずれば、則ち吾豈に敢えてせんや。夢得が『雪裏高山頭白早く、海中仙果子生ずること遅し』、『沈舟側畔千帆過ぎ、病樹前頭万木春』の句の類の如きは、真に神妙と謂うべし。在在処処、応に霊物有って護持すべし。豈に両家の子弟の秘蔵するのみに止まらんや」と。其の名流に許与せらるること此の如し。夢得嘗て『西塞懐古』・『金陵五題』等の詩を為す。江南の文士之を佳作と称し、名位達せずと雖も、公卿大僚多く之と交わる。

原文禹錫晚年與少傅白居易友善,詩筆文章,時無在其右者。常與禹錫唱和往來,因集其詩而序之曰:「彭城劉夢得,詩豪者也。其鋒森然,少敢當者。予不量力,往往犯之。夫合應者聲同,交爭者力敵。一往一復,欲罷不能。由是每制一篇,先於視草,視竟則興作,興作則文成。一二年來,日尋筆硯,同和贈答,不覺滋多。太和三年春以前,紙墨所存者,凡一百三十八首。其餘乘興仗醉,率然口號者,不在此數。因命小侄龜兒編勒成兩軸。仍寫二本,一付龜兒,一授夢得小男侖郎,各令收藏,附兩家文集。予頃與元微之唱和頗多,或在人口。嘗戲微之云:『僕與足下二十年來為文友詩敵,幸也!亦不幸也。吟詠情性,播揚名聲,其適遺形,其樂忘老,幸也!然江南士女語才子者,多云元、白,以子之故,使僕不得獨步於吳、越間,此亦不幸也!今垂老復遇夢得,非重不幸耶?』夢得夢得,文之神妙,莫先於詩。若妙與神,則吾豈敢?如夢得『雪裏高山頭白早,海中仙果子生遲』,『沈舟側畔千帆過,病樹前頭萬木春』之句之類,真謂神妙矣!在在處處,應有靈物護持,豈止兩家子弟秘藏而已!」其為名流許與如此。夢得嘗為《西塞懷古》、《金陵五題》等詩,江南文士稱為佳作,雖名位不達,公卿大僚多與之交。

開成初め、復た太子賓客分司と為り、俄かに同州刺史を授かる。秩満し、検校礼部尚書・太子賓客分司と為る。会昌二年七月卒す。時に年七十一、戸部尚書を贈らる。

原文開成初,復為太子賓客分司,俄授同州刺史。秩滿,檢校禮部尚書、太子賓客分司。會昌二年七月卒,時年七十一,贈戶部尚書。

子承雍、進士第に登り、亦た才藻有り。

原文子承雍,登進士第,亦有才藻。

柳宗元

原文柳宗元

柳宗元、字は子厚、河東の人。後魏の侍中済陰公の系孫。曾伯祖奭は、高祖朝の宰相。父鎮は、太常博士、終わりに侍御史。宗元は少くして聡警衆に絶ち、特に『西漢詩騒』に精し。筆を下し構思するに、古を侔とす。精裁密緻、燦として珠貝の若し。当時の流輩咸く之を推す。進士第に登り、宏辞に応挙し、校書郎・藍田尉を授かる。貞元十九年、監察御史と為る。

原文柳宗元,字子厚,河東人。後魏侍中濟陰公之系孫。曾伯祖奭,高祖朝宰相。父鎮,太常博士,終侍御史。宗元少聰警絕眾,尤精《西漢詩騷》。下筆構思,與古為侔。精裁密緻,燦若珠貝。當時流輩咸推之。登進士第,應舉宏辭,授校書郎、藍田尉。貞元十九年,為監察御史。

順宗が即位すると、王叔文・韋執誼が権力を握り、特に柳宗元を異例の待遇で遇した。監察御史の呂溫と密かに宮中に引き入れ、彼らと謀議を図った。尚書省礼部員外郎に転じた。叔文は大いに重用しようとしたが、在位が間もなく終わり、叔文が失脚すると、同輩七人とともに貶謫された。宗元は邵州刺史となった。赴任の途上、再び永州司馬に貶された。既に追放の身となり、蛮地の瘴癘の地を踏み、険阻で塞がれた苦境にあり、騒人(屈原)の鬱屈した悲しみを抱いた。情を書き、事を叙するに、必ず文をもってした。騒体の文を十数篇作り、これを見る者はそのために哀切の情を覚えた。

原文順宗即位,王叔文、韋執誼用事,尤奇待宗元。與監察呂溫密引禁中,與之圖事。轉尚書禮部員外郎。叔文欲大用之,會居位不久,叔文敗,與同輩七人俱貶。宗元為邵州刺史。在道,再貶永州司馬。既罹竄逐,涉履蠻瘴,崎嶇堙厄,蘊騷人之鬱悼。寫情敘事,動必以文。為騷文十數篇,覽之者為之淒惻。

柳州の土地の風俗は、男女を質に金を借り、期限が過ぎると債権主の所有に没収されるものであったが、宗元はその郷法を改めた。既に没収された者については、なお私財を出してこれを贖い、その父母に帰した。江嶺の間で進士を志す者は、数千里の遠さをも厭わず皆宗元に師事して法を学んだ。凡そその門を経た者は、必ず名士となった。著述の盛んなことは、名声が当時に響き渡り、時に柳州と号された。文集四十巻がある。

原文柳州土俗,以男女質錢,過期則沒入錢主,宗元革其鄉法。其已沒者,仍出私錢贖之,歸其父母。江嶺間為進士者,不遠數千里皆隨宗元師法;凡經其門,必為名士。著述之盛,名動於時,時號柳州云。有文集四十卷。

韋辭

原文韋辭

韋辭は、字を踐之という。祖父の召卿は、洛陽丞であった。父の翃は、官は侍御史に至った。辭は若くして二経で及第し、判事で高等に入り、秘書省校書郎となった。貞元の末、東都留守の韋夏卿が召し出して従事とした。後に累次使府を補佐し、皆参画して職に称するところがあった。元和九年(814年)、藍田県令から入朝して侍御史に任ぜられたが、事に連座して出され朗州刺史となり、再び江州司馬に貶された。

原文韋辭,字踐之。祖召卿,洛陽丞。父翃,官至侍御史。辭少以兩經擢第,判入等,為秘書省校書郎。貞元末,東都留守韋夏卿辟為從事。後累佐使府,皆以參畫稱職。元和九年|814年,自藍田令入拜侍御史,以事累出為朗州刺史,再貶江州司馬。

長慶の初め、韋處厚・路隨が衆望により顕要な地位にあり、平素より辭に文才と道理に適った行いがあることを知り、しきりに称揚推薦した。戸部員外郎に抜擢され、刑部郎中に転じ、京西北和糴使を充てた。まもなく戸部郎中・兼御史中丞となり、塩鉄副使を充て、吏部郎中に転じた。文宗が即位すると、韋處厚が政権を執り、かつ浮華を淘汰し、芸術実学の士を登用することを事としたため、辭を李翺とともに中書舎人に任じた。

原文長慶初,韋處厚、路隨以公望居顯要,素知辭有文學理行,亟稱薦之。擢為戶部員外,轉刑部郎中,充京西北和糴使。尋為戶部郎中、兼御史中丞,充鹽鐵副使,轉吏部郎中。文宗即位,韋處厚執政,且以澄汰浮華、登用藝實為事,乃以辭與李翺同拜中書舍人。

辭は元来清麗な藻飾がなく、文筆は中才を超えなかったが、事を処理するのに端正で実直であり、官を歴任しても党派を作らなかった。李翺と特に親しく交わり、ともに文才の高名を誇った。闊達で自らの考えを用い、行いを検束することを事としなかった。處厚が時勢に応じて激しく用いたため、公論にかなりそぐわなかった。辭もまた潤色(文章の手入れ)に倦み、苦しんで地方官を求めた。そこで出されて潭州刺史・御史中丞・湖南観察使となった。鎮すること二年、官吏・民衆に治績を称えられた。大和四年(830年)に卒去した。時に五十八歳。右散騎常侍さんきじょうじを追贈された。

原文辭素無清藻,文筆不過中才,然處事端實,遊官無黨。與李翺特相善,俱擅文學高名。疏達自用,不事檢操。處厚以激時用,頗不厭公論;辭亦倦於潤色,苦求外任。乃出為潭州刺史、御史中丞、湖南觀察使。在鎮二年,吏民稱治。大和四年|830年卒,時年五十八,贈右散騎常侍。

史臣が曰く、貞元・太和の間、文才をもって搢紳の列を聳動させた者は、宗元・禹錫のみである。その巧妙で麗しく淵博であり、文辞を連ね事柄を比べることは、誠に一代の宏才である。もし彼らに帝業を詠歌させ、王の言葉を美しく飾らせれば、古の賢人と対等に揖することができ、時流の輩を気勢で呑むに足りたであろう。しかし道を踏むのに謹まず、小人に昵び近づき、自ら流離を招き、以前からの素業を損なった。故に君子は群れても党せず、戒懼して慎独するのは、正にこのためである。韓・李の二文公は、陵遅の末にあり、仁義に遑遑とし、世の規範を保持しようと志し、人文をもって教化を成そうとしたが、その道は成就しなかった。楊子・墨子を抑え、仏・老を排するに至っては、道において未だ弘大ではないが、これもまた端直な士の用心である。

原文史臣曰:貞元、太和之間,以文學聳動搢紳之伍者,宗元、禹錫而已。其巧麗淵博,屬辭比事,誠一代之宏才。如俾之詠歌帝載,黼藻王言,足以平揖古賢,氣吞時輩。而蹈道不謹,昵比小人,自致流離,前隳素業。故君子群而不黨,戒懼慎獨,正為此也。韓、李二文公,於陵遲之末,遑遑仁義;有志於持世範,欲以人文化成,而道未果也。至若抑楊、墨,排釋、老,雖於道未弘,亦端士之用心也。

賛に曰く、天地を経綸するもの、この文に出でざるはない。韓愈・李翺が筆を揮い、言葉は典籍の墳墓(古典)に切実である。犠牲の鶏が尾を断つ(身を全うせんとする)、害馬が群を敗る。僻んだ道は自らを喰らう、劉禹錫・柳宗元ら諸君は。

原文贊曰:天地經綸,無出斯文。愈、翺揮翰,語切典墳。犧雞斷尾,害馬敗群。僻塗自噬,劉、柳諸君。