旧唐書 韓愈

旧唐書

韓愈

韓愈、字は退之、昌黎の人である。父は仲卿、名位はなかった。愈は三歳で孤児となり、従父の兄に養育された。愈は孤児であることを自覚し、幼い頃から苦学して儒学を修め、他人の奨励を待たなかった。大暦・貞元の間、文章は多く古学を尊び、楊雄・董仲舒の述作を模倣し、その中で独孤及・梁肅が最も淵奥と称され、儒林で推重された。愈はその徒と交遊し、鋭意に鑽仰し、一代において自ら振るいたいと願った。進士に挙げられてからは、文章を公卿の間に投じ、故相の鄭餘慶が大いにその名声を広めたため、当時に知られるようになった。まもなく進士第に及第した。

宰相の董晉が大梁に出鎮すると、巡官に辟召した。幕府が解散すると、徐州の張建封がまた賓佐として招いた。愈の発言は真率で、畏れ避けるところなく、操行は堅正であったが、世務には拙かった。四門博士に調授され、監察御史に転じた。徳宗の晩年、政令は多門から出て、宰相は機務を専断しなかった。宮市の弊害について、諫官が論じても聞き入れられなかった。愈はかつて数千言の上章を奉ってこれを極論したが、聞き入れられず、怒りに触れて連州山陽県令に貶され、量移して江陵府掾曹となった。

元和の初め、国子博士に召され、都官員外郎に遷った。時に華州刺史の閻濟美が公事により華陰県令柳澗の県務を停止し、掾曹を摂行させた。数か月後、濟美が郡を罷免され、公館に出居すると、澗は百姓を唆して道を遮り、前年の軍頓役の代価を要求させた。後任の刺史趙昌が澗の罪状を調べて上奏し、澗は房州司馬に貶された。愈は使いで華州を通過した際、この事を知り、刺史が互いに党与していると考え、上疏して澗を弁護したが、留中されて下されなかった。詔により監察御史李宗奭が検証したところ、澗の贓罪の事実が明らかになり、澗は再び封渓尉に貶された。愈の妄論のため、愈は再び国子博士となった。愈は自ら才高いと思い、累ねて排斥貶黜されたため、『進学解』を作って自らを譬えて言うには、

国子先生が朝に太学に入り、諸生を召して館の下に立たせ、教えて言うには、「学業は勤勉によって精しくなり、遊戯によって荒廃する。行いは思慮によって成就し、付和雷同によって毀損する。今や聖賢が相逢い、治具は華やかに張り巡らされている。兇邪を抜き去り、俊良を登用崇める。小善を占める者は皆記録され、一芸に名を成す者は用いられないことはない。かき集め選び分け、垢を刮り磨き光らせる。幸いにして選ばれる者はあっても、多くいて顕揚されない者があると言えようか。諸生は学業が精しくならないことを憂えよ、有司が明らかでないことを憂えるな。行いが成就しないことを憂えよ、有司が公平でないことを憂えるな。」言葉が終わらないうちに、列の中で笑う者がいて言うには、「先生は私を欺きます。弟子が先生に師事して、すでに数年になります。先生は口を絶やさず六経の文を吟じ、手を休めず百家の編を披覧なさる。事を記すものは必ずその要旨を提げ、言を纂むものは必ずその玄妙を鉤り出す。多くを貪り得ることに務め、細大を問わず捨てない。膏油を焚いて日を継ぎ、常に矻々として年を窮める。先生の学業は、勤勉と言えましょう。異端を排斥し、仏・老を斥ける。隙間の漏れを繕い、幽微なものを顕彰する。茫茫たる墜ちた緒を尋ね、独り広く探し求めて遠く紹ぐ。百川を防ぎ止めて東に流し、既に倒れた狂瀾を引き戻す。先生の儒学に対する功績は、労多くあると言えましょう。濃郁に沈浸し、英華を含み咀み、文章を作れば、その書は家に満ちる。上は姚・姒に規し、渾渾として涯なし。『周誥』『殷盤』は、佶屈聱牙。『春秋』は謹厳、『左氏』は浮誇。『易』は奇にして法あり、『詩』は正にして葩あり。下は『荘』『騒』に及び、太史の記録する所、子雲・相如は、同工異曲。先生の文章は、内に閎大で外に奔放と言えましょう。少にして学を知り、敢為するに勇みあり。長じて方に通じ、左右に具に宜しきを得る。先生の為人は、完成されていると言えましょう。しかしながら公には人に信じられず、私には友に助けられず。前につまずき後につまずき、動けば咎を得る。暫く御史となり、遂に南夷に流される。三たび博士となり、冗員で治績を現さない。運命は仇と謀り、敗を取るは幾時ぞ。冬暖かくして児は寒さに号泣し、年豊かで妻は飢えに啼く。頭は禿げ歯は欠け、死ぬまで何の益があろう。このことを慮らず、かえって人に教えるとは。」先生は言う、「吁、子よ前に来たれ。大木は杗となり、細木は桷となり、欂櫨侏儒、椳闑扂楔、各々その宜しきを得て、室を成すに施すは、匠氏の工である。玉札丹砂、赤箭青芝、朱溲馬勃、敗鼓の皮、俱に収め並び蓄え、用いるに待って遺すところなきは、醫師の良である。明らかに登用し公平に選び、巧拙を雑えて進め、紆余を以て妍とし、卓犖を以て傑とし、短を校え長を量り、唯だ器に適うに任せるは、宰相の方である。昔、孟軻は弁を好み、孔の道は以て明らかになり、轍は天下を環り、卒に行いに老いた。荀卿は正を守り、大論を弘め、讒を楚に逃れ、蘭陵に廢死した。この二儒者は、辞を吐けば経となり、足を挙げれば法となり、類を絶ち倫を離れ、優に聖域に入ったが、その世に遇うたことはどうであったか。今の先生は学は勤勉だが、その統に由らず。言は多いが、その中を要せず。文は奇だが、用に済わず。行いは修まるが、衆に顕れず。それでもなお月に俸銭を費やし、歳に廩粟を靡かせ、子は耕すことを知らず、婦は織ることを知らず、馬に乗り徒を従え、安坐して食らう。常塗に踵して促促とし、陳編を窺って盗竊する。しかし聖主は誅せず、宰臣は斥けず、これ幸いではないか。動けば謗を得、名もまたこれに随う。閑に投じ散に置くは、乃ち分の宜しきところである。若し財賄の有無を商い、班資の崇庳を計り、己が量の称する所を忘れ、前人の瑕疵を指すは、是れ所謂、匠氏に詰えて杙を以て楹とせざるを、而して醫師を訾えて昌陽を以て年を引き、其の豨苓を進めんと欲する者である。」

執政はその文を覧みて憐れみ、史才があるとして、比部郎中・史館修撰に改めた。一年余りして、考功郎中・知制誥に転じ、中書舎人に拝された。

まもなく愈を快く思わない者が、その旧事を摘発し、愈が以前左降されて江陵掾曹となった時、荊南節度使裴均が厚くもてなし、均の子の鍔は凡庸で卑しいが、近ごろ鍔が父を見舞いに帰った際、愈が序を作って鍔を餞別し、なおその字を呼んだと述べた。この議論が朝廷で喧しくなり、これにより太子右庶子に改められた。

鳳翔法門寺に護国真身塔があり、塔内に釈迦文仏の指骨一節がある。その書には法を伝えるとあり、三十年に一度開扉し、開けばその年は豊作で人々は安泰であるという。十四年正月、上は中使杜英奇に命じ、宮人三十人を率い、香花を持たせて臨臯駅に赴き仏骨を迎えさせた。光順門から大内に入り、禁中に三日留めた後、諸寺に送った。王公士庶は奔走して施しを捨て、後れることを恐れた。百姓の中には、生業を廃し家産を破り、頂を焼き臂を灼いて供養を求める者もいた。愈は元来仏教を好まず、上疏して諫めて言うには、

伏して考えるに、仏とは夷狄の一法に過ぎない。後漢の時に始めて中国に流入し、上古には未だ嘗て有らざるなり。昔、黄帝は在位百年、年百一十歳、少昊は在位八十年、年百歳、顓頊は在位七十九年、年九十八歳、帝嚳は在位七十年、年百五歳、帝堯は在位九十八年、年百一十八歳、帝舜及び禹は年皆百歳なり。この時、天下太平にして、百姓安楽寿考なりしも、然れども中国には未だ仏有らず。その後、殷の湯も亦年百歳、湯の孫太戊は在位七十五年、武丁は在位五十年、書史その寿を言わざれども、その年数を推すに、蓋し亦俱に百歳を減ぜざるべし。周の文王は年九十七歳、武王は年九十三歳、穆王は在位百年なり。この時、仏法も亦未だ中国に至らず、事仏に因りて此れを致すに非ざるなり。漢の明帝の時に始めて仏法有り、明帝の在位は、纔かに十八年に過ぎず。その後、乱亡相継ぎ、運祚長からず。宋・斉・梁・陳・元魏以下、事仏漸く謹み、年代尤も促し。唯だ梁の武帝は在位四十八年、前後三度身を捨てて仏に施し、宗廟の祭には、牲牢を用いず、昼日一食にして、菜果に止まる。その後竟に侯景に逼られ、台城に餓死し、国も亦尋いで滅ぶ。事仏して福を求め、乃ち更に禍を得たり。此れより観るに、仏は信ずるに足らず、亦知るべし。高祖始めて隋の禅を受けし時は、則ち之を除かんと議す。当時群臣識見遠からず、能く先王の道・古今の宜を深く究めず、聖明を推闡して以て此の弊を救うに至らず、其事遂に止む。臣嘗て之を恨む。伏して惟うに、皇帝陛下は、神聖英武にして、数千百年以来未だ倫比有らず。即位の初めより、即ち人を度して僧尼・道士と為すを許さず、又別に寺観を立つるを許さず。臣当時に、高祖の志は、必ず陛下の手に行わるべしと以為えり。今縱え即ち行わるる能わずとも、豈に恣に之を転じて盛んならしむべけんや。今聞く、陛下群僧をして鳳翔に於て仏骨を迎えしめ、楼に御して以て観、大内に舁き入れ、諸寺に令して遞に迎え供養せしむと。臣雖だ至愚なりとも、必ず知る、陛下仏に惑わされず、此の崇奉を作して以て福祥を祈るに非ざるを。直に年豊かに人楽しむに因り、人の心に徇い、京都の士庶の為に詭異の観・戯玩の具を設くるのみ。安んぞ聖明此の若きにして肯て此等の事を信ぜんや。然れども百姓愚冥にして、惑わし易く曉し難し、苟くも陛下此の如きを見ば、将に真心仏を信ずと謂わん。皆云う、天子大聖にして、猶一心に敬信す、百姓微賤にして、仏に於て豈に身命を惜しむに合わんやと。是を以て頂を灼き指を燔き、百十群を為し、衣を解き銭を散じ、朝より暮に至る。転相仿效し、唯だ後時を恐れ、老幼奔波し、其の生業を棄つ。若し即ち禁遏を加えざれば、更に諸寺を歴るに、必ず臂を断ち身を臠きて以て供養する者有らん。風を傷み俗を敗り、四方に笑いを伝え、細事に非ざるなり。仏は本夷狄の人にして、中国と言語通ぜず、衣服制を殊にす。口に先王の法言を道わず、身に先王の法行を服せず、君臣の義・父子の情を知らず。仮令其身尚在り、其の国命を奉じ、来りて京師に朝せば、陛下容れて之に接するも、宣政に一見するに過ぎず、礼賓一設し、衣一襲を賜い、衛して之を境に出し、衆をして惑わさしめざるのみ。況んや其身死して已久しく、枯朽の骨、兇穢の余、豈に宮禁に入るべけんや。孔子曰く、「鬼神を敬して之を遠ざく。」古の諸侯、国に行吊するに、尚巫祝をして先ず桃茢を以てし、不祥を祓除せしめ、然る後に進みて吊す。今故無く朽穢の物を取り、親臨して之を観るに、巫祝先んぜず、桃茢用いず、群臣其の非を言わず、御史其の失を挙げず、臣実に之を恥ず。乞うらくは此の骨を水火に付し、根本を永く絶ち、天下の疑を断ち、後代の惑を絶たん。天下の人をして、大聖人の為す所の作為は、尋常を出ること万万なるを知らしめん、豈に盛んならずや、豈に快からずや。仏もし霊有りて、能く禍祟を作さば、凡そ殃咎有らば、宜しく臣の身に加うべし。上天鑒臨す、臣怨悔せず。

疏奏す、憲宗怒り甚だし。一日を間へ、疏を出して宰臣に示し、将に極法を加えんとす。裴度・崔群奏して曰く、「韓愈上り尊聴に忤う、誠に罪を得る宜し、然れども内に忠懐を懐き、黜責を避けざるに非ざれば、豈に此れに至らんや。伏して乞う、稍く寛容を賜いて、以て諫者を来らしめん。」上曰く、「愈言う、我仏を奉ずること過ぎたりと、我猶之を容る。東漢仏を奉ずるの後、帝王咸に夭促を致すに至りては、何の言の乖刺なるや。愈人臣として、敢えて爾く狂妄なる、固に赦すべからず。」ここにおいて人情驚惋し、乃ち国戚諸貴に至るも、亦愈を罪する太重きを以てし、事に因りて之を言う。乃ち潮州刺史に貶す。

愈潮陽に至り、表を上りて曰く、

臣今年正月十四日、恩を蒙り潮州刺史を授かり、即日馳駅して路に就く。嶺海を経渉し、水陸万里。臣の領する州は、広府の極東に在り。広府を去ること二千里と云うと雖も、然れども来往動もて皆月を逾ゆ。海口を過ぎ、悪水に下り、濤瀧壮猛にして、期程を計い難く、颶風鱷魚、患禍測るべからず。州南近界、漲海天に連なり、毒霧瘴気、日夕発作す。臣少より病多く、年纔かに五十、発白き歯落つ、理に久長ならず。加うるに罪犯至重、処する所又極めて遠悪、憂惶慚悸し、死亡日に無し。単立一身、朝に親党無く、蛮夷の地に居り、魍魅と群を同じうす。苟くも陛下哀れみて之を念わざれば、誰か肯て臣の為に言わん。臣性を受くる愚陋、人事多く通ぜざる所有れども、唯酷く学問文章を好み、未だ嘗て一日暫くも廃せず、実に時輩の推許する所と為る。臣当時の文に於ても、亦人を過ぐる者未だ有らず。陛下の功徳を論述するに至りては、『詩』・『書』と相表裏す。歌詩を作し、之を郊廟に薦め、太山の封を紀し、白玉の牒を鏤り、天に対する宏休を鋪張し、前に無き偉跡を揚厲し、『詩』・『書』の策に編して愧ずること無く、天地の間に措いて虧くこと無し。古人をして復生せしむると雖も、臣未だ肯て多く譲らじ。伏して惟うに、大唐命を受けて天下を有ち、四海の内、臣妾ならざる莫し、南北東西、地各万里。天宝の後より、政治少しく懈り、文致優れず、武克綱を為さず。孽臣奸隸、外は順いて内は悖り、父死して子代わり、祖を以てし孫を以てす。古の諸侯の如く、自ら其の地を擅にし、朝せず貢せず、六七十年。四聖伝序して、陛下に至り、躬親聴断し、干戈の麾く所、従順ならざる無し。宜しく楽章を定めて、以て神明に告げ、東に泰山を巡り、功を皇天に奏し、永永万年に、我が成烈に服せしむべし。此の際に当たり、所謂千載一時、逢い難き嘉会。而るに臣罪を負い釁を嬰き、自ら海島に拘わり、戚戚嗟嗟し、日と死と迫り、曾て薄伎を従官の内・隷御の間に奏するを得ず、思を窮め精を畢くして、以て前過を贖わん。痛みを懐きて天に窮し、死して目を閉ざさじ。宸極を瞻望し、魂神飛び去る。伏して惟うに、陛下は天地父母、哀れみて之を憐れまんことを。

憲宗は宰臣に謂ひて曰く、「昨韓愈の潮州に到れる表を得たり、因りて其の諫むる佛骨の事を思ふに、大いに是れ我を愛するなり、我豈に知らざらんや!然れども愈は人臣たる者、人主の佛に事ふること乃ち年を促すと當に言ふべからず。我是を以て其の容易なるを惡む。」上愈を用ひんと欲す、故に先づ語及び、宰臣の奏對を觀る。而して皇甫鎛愈の狷直なるを惡み、其の復用せらるるを恐れ、率先して對へて曰く、「愈終に大に狂疏なり、且つ量移して一郡とすべし。」乃ち袁州刺史を授く。

初め、愈潮陽に至り、既に事を視るに及び、吏民の疾苦を詢ねしに、皆曰く、「郡西の湫水に鱷魚有り、卵して化し、長さ數丈、民の畜産を食ひて將に盡きんとす、是を以て民貧し。」數日居りて、愈往きて之を視、判官秦濟に令して一豚一羊を砲り、之を湫水に投げ、之を祝して曰く、

前代の德薄きの君、楚・越の地を棄つれば、則ち鱷魚此に涵泳するも可なり。今天子神聖にして、四海の外、撫して之を有つ。況んや揚州の境は、刺史縣令の治むる所、貢賦を出して以て天地宗廟の祀を共にす、鱷魚豈に刺史と雜りて此の土に處すべけんや?刺史天子の命を受け、令して此の土を守る、而るに鱷魚睅然として溪潭に安んぜず、民の畜たる熊鹿麞豕を食ひ、以て其の身を肥し、以て其の卵を繁くし、刺史と爭ひて長たらんとす。刺史雖だ駑弱なりと雖も、安んぞ鱷魚が爲に首を低めて下らんや!今潮州大海其の南に在り、鯨鵬の大なる、蝦蟹の細なる、容れざる無し、鱷魚朝に發して夕に至らん。今鱷魚と約す、三日乃至七日、若し頑にして徙らずば、須らく物害と爲るべし、則ち刺史材伎の壯夫を選び、勁弓毒矢を操り、鱷魚と事を從事せん!

之を祝する夕、暴風雷湫中に起る有り。數日、湫水盡く涸れ、舊湫の西六十里に徙る。是より潮人鱷患無し。

袁州の俗、男女人の隷たる者、約を逾ゆれば則ち出錢の家に沒入す。愈至り、法を設けて其の沒せられたる男女を贖ひ、其の父母に歸す。仍りて其の俗法を削り、人に隷するを許さず。

十五年、徵されて國子祭酒と爲り、轉じて兵部侍郎と爲る。會に鎮州田弘正を殺し、王廷湊を立て、愈を令して鎮州に往き宣諭せしむ。愈既に至り、軍民を集め、逆順を以て諭す。辭情切至、廷湊畏れて之を重んず。吏部侍郎に改む。轉じて京兆尹と爲り、御史大夫を兼ぬ。臺參せざるを以て、御史中丞李紳の劾する所と爲る。愈伏せず、敕に準じて仍りて臺參せずと言ふ。紳・愈性皆褊僻、刺を移して往來し、紛然として止まず、乃ち紳を出して浙西觀察使と爲し、愈も亦尹を罷めて兵部侍郎と爲る。及び紳面辭して鎮に赴かんとし、涕泣して陳敘す。穆宗之を憐れみ、乃ち制を追ひて紳を兵部侍郎と爲し、愈復た吏部侍郎と爲る。長慶四年十二月卒す、時に年五十七、禮部尚書を贈り、謚して文と曰ふ。

愈性弘通、人と交はり、榮悴易へず。少時洛陽の人孟郊・東郡の人張籍と友善し。二人名位未だ振はざるも、愈寒暑を避けず、公卿の間に稱薦し、而して籍終に科第を成し、祿仕に榮ゆ。後貴に通ずるも、每公を退くるの隙あれば、則ち相與に談宴し、文を論じ詩を賦し、平昔の如し。而して諸の權門豪士を觀るに、僕隷の如く、瞪然として顧みず。而して頗る能く後進を誘厲し、之を館する者十六七、晨炊給はざるも、怡然として意に介せず。大抵名教を興起し、仁義を弘獎するを事とす。凡そ内外及び友朋の孤女を嫁すこと僅かに十人。

常に以爲らく、魏・晉已還より、文を爲る者多く偶對に拘はり、而して經誥の指歸、遷・雄の氣格、復た振起せずと。故に愈の爲す所の文は、務めて近體に反し;意を抒き言を立て、自ら一家の新語を成す。後學の士、取りて師法と爲す。當時の作者甚だ衆し、以て之に過ぐる無し、故に世「韓文」と稱す。然れども時に才を恃みて意に肆する有り、亦孔・孟の旨に盩く有り。若し南人の妄りに柳宗元を羅池神と爲し、而して愈碑を撰して以て之を實くす;李賀の父名は晉、進士に應ずべからず、而して愈賀が爲に『諱辨』を作り、進士を舉げしむ;又『毛穎傳』を爲り、譏戲して人情に近からず:此れ文章の甚だ紕繆なる者。時に愈史筆有りと謂ひ、及び『順宗實錄』を撰すに及び、繁簡當らず、敘事取舍に拙く、頗る當代の非と爲る所と爲る。穆宗・文宗嘗て史臣に詔して添改せしむ、時に愈の婿李漢・蔣系顯位に在り、諸公之を難しとす。而して韋處厚竟に別に『順宗實錄』三卷を撰す。文集四十卷有り、李漢之が爲に序す。

子昶、亦進士第に登る。

(附)張籍

張籍は、貞元中進士第に登る。性詭激、能く古體詩を爲し、警策の句有りて時に傳はる。調補して太常寺太祝と爲り、轉じて國子助教・秘書郎と爲る。詩を以て當代に名有り、公卿裴度・令狐楚、才名白居易・元稹の如き、皆之と遊び、而して韓愈尤も之を重んず。累授して國子博士・水部員外郎と爲り、轉じて水部郎中と爲り、卒す。世之を張水部と謂ふ。

(附)孟郊

孟郊は、少くすう山に隱れ、處士と稱す。李翺洛中に分司し、之と遊ぶ。留守鄭餘慶に薦め、辟かれて賓佐と爲る。性孤僻にして寡合、韓愈一見して以て忘形の契と爲し、常に其の字を稱して東野と曰ひ、之と文酒の間に唱和す。鄭餘慶興元を鎮むるに及び、又奏して從事と爲し、辟書下りて而して卒す。餘慶錢數萬を給して葬送し、其の妻子を贍給すること累年。

(附)唐衢

唐衢は、進士に應ずるも、久しくして第せず。能く歌詩を爲し、意多く感發有り。人の文章に傷嘆する所有る者を見れば、讀み訖りて必ず哭し、涕泗已む能はず。每に人と言論し、既に相別れ、聲を發して一號し、音辭哀切、之を聞く者莫く淒然として泣下せず。嘗て客遊して太原に在り、戎帥の軍宴に屬し、衢會に預るを得たり。酒酣に事を言ひ、音を抗して哭す、一席樂しまず、之が爲に會を罷む、故に世唐衢の善哭と稱す。左拾遺白居易之に詩を遺して曰く、「賈誼は時事を哭し、阮籍は路歧を哭す。唐生今亦哭す、異代其の悲を同じくす。唐生とは何の人ぞ?五十寒く且つ饑ゆ。口に食無きを悲しまず、身に衣無きを悲しまず。悲しむ所は忠と義、悲しみ甚しければ則ち之を哭す。太尉賊を撃つ日、尚書盜を叱す時。大夫兇寇に死し、諫議蠻夷に謫せらる。每に此の如き事を見れば、聲發して涕輒ち隨ふ。我も亦君の徒、鬱鬱として何を爲す所ぞ?聲を發して哭する能はず、轉た樂府の辭を作す。」其の名流の稱重する此の若き。竟に一命をも登らずして卒す。

李翺

李翺、字は習之、涼の武昭王の後裔である。父は楚金、貝州司法参軍であった。翺は幼くして儒学に勤しみ、博雅で古を好み、文章を為すに気質を尚んだ。貞元十四年に進士第に登り、校書郎を授かった。三度遷って京兆府司録参軍に至った。元和の初め、国子博士・史館修撰に転じた。

十四年、太常丞王涇が上疏して太廟における朔望の上食を廃止するよう請うたので、詔して百官に議させた。議する者は『開元礼』によれば、太廟では毎年、礿・祠・蒸・嘗・臘の五つの祭祀があるとしていた。天宝の末、玄宗が尚食に命じて毎月の朔望に常饌を備えさせ、宮闈令に命じて太廟に上食させたが、後には常例となった。これにより朔望には朝政を視ず、大祠に比していた。翺が奏議して言うには、

『国語』に曰く、王者は日祭を行うとある。『礼記』に曰く、王は七廟を立て、皆月祭を行うとある。『周礼』には時祭として、礿・祠・蒸・嘗がある。漢代は皆これらを雑用した。秦の焚書により、『詩』・『書』・『礼経』は灰燼に帰し、編は残り簡は欠け、漢がこれを求めたのである。先儒は穿鑿し、各々己の見を伸ばし、皆古の聖賢の名に託して、その言葉を信じさせたので、記すところ各々同じではない。古は廟に寢があり墓祭はなかった。秦・漢になって初めて園陵に寢廟を建て、上食を行った。国家はこれに因って改めなかった。『貞観礼』・『開元礼』には共に宗廟の日祭・月祭の礼はない。それは日祭・月祭が既に陵寢で行われているからである。故に太廟においては、毎年五饗六告のみである。そうでなければ、房玄齢・魏徴らは皆一代の名臣で、経史を極めた者であるが、『国語』・『礼記』に日祭・月祭の言葉があるのを見ないはずがあろうか。これをもって明らかである。伏して考えるに、太廟の饗は、籩豆牲牢、三代の通礼であり、これは誠を貴ぶ意義である。園陵の奠は、常饌に改めて用いる。秦・漢の権制であり、食味の道である。今、朔望に太廟に上食するのは、常の褻味を用いて品数を貴ぶことではあるまいか。かつ『礼』の所謂「至敬は味を饗せずして気臭を貴ぶ」の意義ではない。『伝』に称する、屈到は芰を嗜み、病に罹り、その宗老を召して告げて言うには、「我を祭るには必ず芰を用いよ」と。祭るに及んで、芰を薦めると、その子は命に背いて芰を去り羊を用い、籩豆脯醢を饋った。君子はこれを是とした。祖考に事える意義は、礼を以て重しとすべきで、その生存時の嗜好を以て献じるべきではないと言うのである。食味ではないことを明らかにしている。然らば常饌を太廟に薦めるのは、芰の比と為すことにはならないか。かつ三代の聖王の行ったところではない。況や祭器に俎豆を陳べず、祭官に三公を命ぜず、執事する者は宮闈令と宗正卿のみである。これを上食と謂うのは、どうして祭と為すことができようか。かつ太廟における時享は、有司が事を摂り、祝文に曰く、「孝曾孫皇帝臣某、謹んで太尉臣某を遣わし、敢えて昭かに高祖神堯皇帝・祖妣太穆皇后竇氏に告ぐ。時に孟春に惟り、永く罔極を懐う。謹んで一元大武・柔毛剛鬣・明粢薌萁・嘉蔬嘉薦醴齊を以て、敬しく時享を修め、以て追慕を申す」と。これは祝辞である。享の七日前の質明に、太尉が尚書省において百官に誓って言うには、「某月某日、太廟において時享を行う。各々その職を揚げよ。その事に供せざれば、国に常刑あり」と。凡そ陪享の官は、散斎四日、致斎三日し、然る後に祭を為すことができる。宗廟の礼は、敢えて擅に議するものではない。知る者あれども、誰か敢えて言わん。故に六十余年行われて廃されなかった。今、聖朝は弓矢既に橐に納まり、礼楽を大と為す故に、百僚に下して詳議を得る。臣等は『貞観礼』・『開元礼』には共に太廟上食の文がなく、礼を以て情を断つに、これを罷むるは可なりと為す。陵寢の上食に至っては、『国語』・『礼記』の日祭・月祭の詞を採り、秦・漢の制に因り、修めてこれを存し、以て孝道を広むるは可なり。かくの如くすれば、経義に拠ることができ、故事を遺さず。大礼既に明らかになり、永く異論を息め、二帝三王に継ぎて万代の法と為すことができる。礼を瀆し古を越え、因循を貴び改作を憚るよりは、猶天地の相い遠きが如し。

礼を知る者はこれを是としたが、事は遂に行われなかった。

翺の性質は剛急で、議論に避けるところがなかった。執政はその学を重んじたが、その激しい訐りを悪んだので、久しく次第に遷らずにいた。翺は史官の事を記すのが実を記さないとして、奏状を上して言うには、「臣は誤って史館に筆を執り、記註を職とするを得た。善を勧め悪を懲らしめ、正言直筆し、聖朝の功德を紀し、忠賢の事業を述べ、奸臣の醜行を載せて、以て無窮に伝えることは、史官の任である。凡そ人の事跡は、大善大悪でなければ、則ち衆人これを知る由なし。旧例は皆人に訪い、また行状謚議を取って以て依拠とする。今、行状を作る者は、多くはその門生故吏で、虚しく仁義礼智を加えずといふことなく、妄りに忠肅惠和を言う。これは唯その心に処すること実ならざるのみならず、苟くも恩を受けた地に虚美を欲するからである。文を為す者は、また子游・子夏・司馬遷・揚雄の列ではなく、華に務めてその実を忘れ、文に溺れてその理を棄てる。故に文を為すには『六経』の古風を失い、事を紀するには史遷の実録に非ず。臣は今、行状を作る者に請うには、只事実を指し、直ちに事功を載せることである。仮に『魏徴伝』を作るには、只その諫諍の辞を記して、以て正直と為すに足りる。段秀実は只その司農の印を倒用して逆兵を追い、象笏を以て朱泚を撃ったことを記して、以て忠烈と為すに足りる。若し考功が行状を視て、これに依らざるものは受けざるを得ず。これに依れば、則ち考功は太常に下し、史館に牒し、然る後に謚を定める。伏して願わくは、臣のこの奏を考功に下されたし」と。これに従った。尋いて職方員外郎を権知した。十五年六月、考功員外郎を授かり、並びに史職を兼ねた。

翺は李景儉と親善であった。初め、景儉が諫議大夫に拝されると、翺を挙げて自らの代わりとした。ここに至り、景儉が貶黜されると、七月、翺を出して朗州刺史とした。間もなく景儉が再び諫議大夫となり、翺もまた入朝して礼部郎中となった。翺は自ら辞芸を負い、制誥を知るに合うと為したが、久しく志の如くならず、鬱々として楽しまなかった。そこで中書に入って宰相に謁し、面と向かって李逢吉の過失を数えた。逢吉はこれを咎めなかった。翺は心に自ら安からず、乃ち告を請うた。百日満ちると、有司は例に準じて官を停め、逢吉が奏して廬州刺史を授けた。太和の初め、入朝して諫議大夫となり、尋いて本官をもって制誥を知る。三年二月、中書舎人に拝された。

初め、諫議大夫柏耆が滄州の軍前に赴き宣諭しようとした時、翺はかつてこの行を賛成した。柏耆は間もなく擅に滄州に入ったことで罪を得、翺は謬挙に坐し、左授されて少府少監となった。間もなく出されて鄭州刺史となった。五年、出されて桂州刺史・御史中丞となり、桂管都防禦使を充てた。七年、改めて潭州刺史・湖南観察使を授かった。八年、徴されて刑部侍郎となった。九年、戸部侍郎に転じた。七月、検校戸部尚書・襄州刺史となり、山南東道節度使を充てた。会昌年中、鎮において卒し、謚して文と曰う。

宇文籍

宇文籍、字は夏龜。父は滔、官は卑し。少くして学を好み、特に『春秋』に通ず。竇群が処士より右拾遺に徴せられ、表を上して籍を以て自ら代わらしむ。これによりて名を知られる。進士第に登る。宰相武元衡が西蜀に出鎮するに当たり、奏して従事と為す。咸陽尉を以て史館に直り、韓愈と共に『順宗実録』を修し、監察御史に遷る。王承宗叛くに及び、詔して其の弟駙馬都尉承系を捕えしむ。其の賓客の中に誤って識る者有り。又蘇表が淮西を破るの策を以て宰相武元衡に干るも、元衡用いず。籍が旧く従事たりしを以て、表を召して之を訊わしむ。籍因りて表と狎む。元衡怒り、坐して江陵府戸曹参軍に貶せらる。任に至り、節度使孫簡重んずるを知り、幕府の職事を兼ねしめんと欲す。籍辞して曰く、「籍は君命を以て譴黜せられ、亦た君命を以て升るべし。栄を仮りて賞を偸むは、願う所に非ず」と。後に考満し、連ねて籓府に辟せられ、入りて侍御史と為り、転じて著作郎、駕部員外郎・史館修撰に遷る。韋処厚・韋表微・路随・沈伝師と共に『憲宗実録』を修す。俄かに本官を以て制誥を知り、庫部郎中に転ず。太和中、諫議大夫に遷り、専ら史筆を掌り、知制誥を罷む。

籍は性簡淡にして寡合、経史に耽玩し、著述に精しく、而して風望峻整、時輩に推重せらる。太和二年正月卒す。時に年五十九、工部侍郎を贈らる。子監、大中初め進士第に登る。

劉禹錫

劉禹錫、字は夢得、彭城の人。祖は雲。父は漵、州県令佐に歴任し、世儒学を以て称せらる。禹錫は貞元九年進士第に擢でられ、又宏辞科に登る。禹錫は古文に精しく、五言詩を善くし、今体文章復た多く才麗なり。淮南節度使杜佑の幕に従事し、記室を典とし、特に礼異を加えらる。佑に従い朝に入り、監察御史と為る。吏部郎中韋執誼と相善し。

貞元末、王叔文が東宮に用事し、後輩進を務め、多く之に附麗す。禹錫は特に叔文に知奨せられ、宰相の器を以て之を待つ。順宗即位し、久しく疾に任せず政事に堪えず、禁中の文誥は皆叔文より出づ。禹錫及び柳宗元を引き禁中に入れ、之と図議し、言うこと従わざる無し。屯田員外郎・度支塩鉄案を判じ、兼ねて崇陵使判官に転ず。頗る威権を恃み、端士を中傷す。宗元は素より武元衡を悦ばず、時に武元衡は御史中丞と為り、乃ち左授して右庶子と為す。侍御史竇群、禹錫が邪を挟み政を乱すを奏し、朝に在るに宜しからずとす。群は即日に官を罷む。韓臯は貴門を憑藉し、叔文の党に附せず、出でて湖南観察使と為る。既に喜怒を任せて人を淩ぎ、京師の人士敢えて名を指さず、道路に目を以てす。時に「二王・劉・柳」と号す。

叔文敗れ、坐して連州刺史に貶せらる。道に在りて、朗州司馬に貶せらる。地は西南夷に居り、士風僻陋、目を挙ぐれば殊俗、言うべき者無し。禹錫は朗州に十年在り、唯だ文章吟詠を以て、情性を陶冶す。蛮俗は巫を好み、毎に淫祠鼓舞すれば、必ず俚辞を歌う。禹錫或いは其の間に従事し、乃ち騒人の作に依り、新辞を為して巫祝に教う。故に武陵の溪洞の間の夷歌は、率ね多く禹錫の辞なり。

初め、禹錫・宗元等八人衆怒を犯し、憲宗も亦た怒り、故に再び貶す。制に「恩に逢いても原さず」の令有り。然れども執政其の才を惜しみ、痕累を洗滌し、漸く序を用いんと欲す。会に程異復た転運を掌り、詔有りて韓臯及び禹錫等を以て遠郡の刺史と為す。武元衡が中書に在るに属し、諫官十余人論列し、言う復用すべからずと。而して止む。

禹錫は積年湘・澧の間に在り、郁悒怡ばず。因りて『張九齢文集』を読み、乃ち其の意を叙して曰く、「世は曲江が相と為り、放臣は善地に於いて宜しからずと建言し、多く五溪の不毛の郷に徙すと称す。今其の文章を読むに、内職より牧に始まり、安んぞ瘴癘の嘆有らん。退相して荊州を守るより、拘囚の思有り。禽鳥に諷を托し、草樹に辞を寄せ、郁然として騒人と風を同じくす。嗟夫、身は遐陬より出で、一たび失意して能く堪えず。況んや華人の士族にして、必ず醜地に致し、然る後に快意ならんや。議者は曲江を以て良臣と為し、胡雛に反相有るを識り、凡器と同列するを羞じ、密かに啓して廷諍す。古の哲人も及ばずと雖も、而して燕翼似る無く、終に餒魂と為る。豈に忮心恕を失い、陰謫最大にして、二美と雖も贖う莫きか。然らずんば、何ぞ袁公の一言楚獄を明らかにして鐘祉四葉なる。是を以て相較うれば、神誣うべけんや」と。

禹錫は晚年少傅白居易と友善し、詩筆文章、時に其の右に在る者無し。常に禹錫と唱和往来し、因りて其の詩を集めて之に序して曰く、「彭城劉夢得は、詩豪なる者なり。其の鋒森然として、敢えて当たる者少なし。予は力を量らず、往往之を犯す。夫れ合応する者は声同く、交争する者は力敵す。一往一復、罷めんと欲して能わず。是に由りて毎に一篇を制するに、先ず草を視るに於いてし、視竟れば則ち興作し、興作すれば則ち文成る。一二年來、日に筆硯を尋ね、同和贈答、覚えず滋多し。太和三年春以前、紙墨に存する者は、凡そ一百三十八首。其の余乗興仗酔、率然口號する者は、此の数に在らず。因りて小侄亀児に命じ編勒して両軸と成す。仍て二本を写し、一は亀児に付し、一は夢得の小男侖郎に授け、各々收藏せしめ、両家の文集に附す。予は頃に元微之と唱和頗る多く、或いは人の口に在り。嘗て微之に戯れて云う、『僕と足下は二十年来文友詩敵と為る。幸いなり、亦た不幸なり。情性を吟詠し、名聲を播揚するは、其の適遺形し、其の楽老を忘る。幸いなり。然れども江南の士女才子を語るに、多く元・白と云う。子の故を以て、僕をして独り歩を呉・越の間に得しめず。此れ亦た不幸なり。今垂老して復た夢得に遇う。重ねて不幸に非ずや』と。夢得夢得、文の神妙は、詩に先んずる莫し。若し妙と神とを論ずれば、則ち吾豈に敢えてせんや。夢得が『雪裏高山頭白早く、海中仙果子生ずること遅し』、『沈舟側畔千帆過ぎ、病樹前頭万木春』の句の類の如きは、真に神妙と謂うべし。在在処処、応に霊物有って護持すべし。豈に両家の子弟の秘蔵するのみに止まらんや」と。其の名流に許与せらるること此の如し。夢得嘗て『西塞懐古』・『金陵五題』等の詩を為す。江南の文士之を佳作と称し、名位達せずと雖も、公卿大僚多く之と交わる。

開成初め、復た太子賓客分司と為り、俄かに同州刺史を授かる。秩満し、検校礼部尚書・太子賓客分司と為る。会昌二年七月卒す。時に年七十一、戸部尚書を贈らる。

子承雍、進士第に登り、亦た才藻有り。

柳宗元

柳宗元、字は子厚、河東の人。後魏の侍中済陰公の系孫。曾伯祖奭は、高祖朝の宰相。父鎮は、太常博士、終わりに侍御史。宗元は少くして聡警衆に絶ち、特に『西漢詩騒』に精し。筆を下し構思するに、古を侔とす。精裁密緻、燦として珠貝の若し。当時の流輩咸く之を推す。進士第に登り、宏辞に応挙し、校書郎・藍田尉を授かる。貞元十九年、監察御史と為る。

順宗が即位すると、王叔文・韋執誼が権力を握り、特に柳宗元を異例の待遇で遇した。監察御史の呂溫と密かに宮中に引き入れ、彼らと謀議を図った。尚書省礼部員外郎に転じた。叔文は大いに重用しようとしたが、在位が間もなく終わり、叔文が失脚すると、同輩七人とともに貶謫された。宗元は邵州刺史となった。赴任の途上、再び永州司馬に貶された。既に追放の身となり、蛮地の瘴癘の地を踏み、険阻で塞がれた苦境にあり、騒人(屈原)の鬱屈した悲しみを抱いた。情を書き、事を叙するに、必ず文をもってした。騒体の文を十数篇作り、これを見る者はそのために哀切の情を覚えた。

柳州の土地の風俗は、男女を質に金を借り、期限が過ぎると債権主の所有に没収されるものであったが、宗元はその郷法を改めた。既に没収された者については、なお私財を出してこれを贖い、その父母に帰した。江嶺の間で進士を志す者は、数千里の遠さをも厭わず皆宗元に師事して法を学んだ。凡そその門を経た者は、必ず名士となった。著述の盛んなことは、名声が当時に響き渡り、時に柳州と号された。文集四十巻がある。

韋辭

韋辭は、字を踐之という。祖父の召卿は、洛陽丞であった。父の翃は、官は侍御史に至った。辭は若くして二経で及第し、判事で高等に入り、秘書省校書郎となった。貞元の末、東都留守の韋夏卿が召し出して従事とした。後に累次使府を補佐し、皆参画して職に称するところがあった。元和九年(814年)、藍田県令から入朝して侍御史に任ぜられたが、事に連座して出され朗州刺史となり、再び江州司馬に貶された。

長慶の初め、韋處厚・路隨が衆望により顕要な地位にあり、平素より辭に文才と道理に適った行いがあることを知り、しきりに称揚推薦した。戸部員外郎に抜擢され、刑部郎中に転じ、京西北和糴使を充てた。まもなく戸部郎中・兼御史中丞となり、塩鉄副使を充て、吏部郎中に転じた。文宗が即位すると、韋處厚が政権を執り、かつ浮華を淘汰し、芸術実学の士を登用することを事としたため、辭を李翺とともに中書舎人に任じた。

辭は元来清麗な藻飾がなく、文筆は中才を超えなかったが、事を処理するのに端正で実直であり、官を歴任しても党派を作らなかった。李翺と特に親しく交わり、ともに文才の高名を誇った。闊達で自らの考えを用い、行いを検束することを事としなかった。處厚が時勢に応じて激しく用いたため、公論にかなりそぐわなかった。辭もまた潤色(文章の手入れ)に倦み、苦しんで地方官を求めた。そこで出されて潭州刺史・御史中丞・湖南観察使となった。鎮すること二年、官吏・民衆に治績を称えられた。大和四年(830年)に卒去した。時に五十八歳。右散騎常侍を追贈された。

史臣が曰く、貞元・太和の間、文才をもって搢紳の列を聳動させた者は、宗元・禹錫のみである。その巧妙で麗しく淵博であり、文辞を連ね事柄を比べることは、誠に一代の宏才である。もし彼らに帝業を詠歌させ、王の言葉を美しく飾らせれば、古の賢人と対等に揖することができ、時流の輩を気勢で呑むに足りたであろう。しかし道を踏むのに謹まず、小人に昵び近づき、自ら流離を招き、以前からの素業を損なった。故に君子は群れても党せず、戒懼して慎独するのは、正にこのためである。韓・李の二文公は、陵遅の末にあり、仁義に遑遑とし、世の規範を保持しようと志し、人文をもって教化を成そうとしたが、その道は成就しなかった。楊子・墨子を抑え、仏・老を排するに至っては、道において未だ弘大ではないが、これもまた端直な士の用心である。

賛に曰く、天地を経綸するもの、この文に出でざるはない。韓愈・李翺が筆を揮い、言葉は典籍の墳墓(古典)に切実である。犠牲の鶏が尾を断つ(身を全うせんとする)、害馬が群を敗る。僻んだ道は自らを喰らう、劉禹錫・柳宗元ら諸君は。