舊唐書

巻159

巻159

舊唐書

原文舊唐書

卷一百五十九

原文卷一百五十九

列傳第一百〇九 衛次公 鄭絪 韋處厚 崔群 路隨

原文列傳第一百〇九 衛次公 鄭絪 韋處厚 崔群 路隨

衛次公

原文衛次公

衛次公、字は従周、河東の人である。器量と風韻は温和で優雅、弱冠にして進士に挙げられた。礼部侍郎の潘炎は彼を国器と目し、上第に抜擢した。選に参じて礼部侍郎の盧翰がその才を嘉し、崇文館校書郎に補し、渭南尉に改めた。次公は琴をよく弾き、京兆尹の李齊運はその子に交歓させ、次公に琴を授けさせようとした。次公はこれを拒み、これにより終生弦を操ることはなかった。

原文衛次公,字從周,河東人。器韻和雅,弱冠舉進士。禮部侍郎潘炎目為國器,擢居上第。參選調禮部侍郎盧翰嘉其才,補崇文館校書郎,改渭南尉。次公善鼓琴,京兆尹李齊運使其子交歡,意欲次公授之琴。次公拒之,由是終身未嘗操弦。

厳震が興元を鎮守した時、彼を辟召して従事とし、監察を授け、殿中侍御史に転じた。貞元八年、左補闕として召され、まもなく翰林学士を兼ねた。二十一年正月、徳宗が崩御した。時に東宮は病が甚だしく、倉卒に学士の鄭絪らを金鑾殿に召した。宦官の中に「内中で相談しているが、立てる者が未だ定まらない」と言う者がいた。一同は答えなかった。次公が急いで言うには、「皇太子は病があろうとも、嫡長子の地位にあり、内外の心はこれに懸かっている。已むを得ぬならば、広陵王を立てるべきである。もし異なる図りがあれば、禍難は未だ已まないであろう」。鄭絪らがこれに唱和し、衆議はようやく定まった。

原文嚴震之鎮興元,辟為從事,授監察,轉殿中侍御史。貞元八年,征為左補闕,尋兼翰林學士。二十一年正月,德宗升遐,時東宮疾恙方甚,倉卒召學士鄭絪等至金鑾殿。中人或云:「內中商量,所立未定。」眾人未對。次公遽言曰:「皇太子雖有疾,地居冢嫡,內外系心。必不得已,當立廣陵王。若有異圖,禍難未已。」絪等隨而唱之,眾議方定。

順宗が諒闇にある時、外には王叔文の輩が権を操り党を樹て、経制を失っていた。次公は鄭絪と共に内廷にあり、多くを匡正した。

原文及順宗在諒闇,外有王叔文輩操權樹黨,無復經制。次公與鄭絪同處內廷,多所匡正。

司勲員外郎に転じた。久しくして、本官のまま知制誥となり、紫金魚袋を賜り、引き続き学士として、権知中書舎人を務めた。まもなく礼部貢挙を管掌し、浮華を斥け、貞実を進め、時の勢力に揺るがされることはなかった。真に中書舎人に任じられ、引き続き史館修撰を充てられ、兵部侍郎・知制誥に遷り、再び翰林学士を兼ねた。鄭絪と親しくしていたが、鄭絪が罷相すると、次公は左遷されて太子賓客となり、尚書右丞に改め、戸部事を兼ねて判じ、陝・虢等州都防禦観察処置等使に任じられた。銭三百万の租税免除を請い、民は蘇息を得、その政は朝廷に聞こえた。兵部侍郎として召還された。選人の李勣・徐有功の孫が、落第の名簿の中にあった。次公は彼らを召して言うには、「そなたの祖先は、王府に勲功がある。どうして常格に限られようか」。ともに優れた官位を与えて送り出した。尚書左丞に改められ、恩顧は頗る厚かった。上はまさに彼を宰相に任じようとし、すでに翰林学士の王涯に詔を草させた。時に淮夷に駐留する兵は年久しく、次公は累次上疏して罷めるよう請うた。ちょうど捷書が届き、宰相任命の詔がまさに出されようとした時、憲宗はこれを取りやめさせた。ついに淮南節度使・検校工部尚書・揚州大都督ととく府長史・御史大夫として出された。

原文轉司勛員外郎。久之,以本官知制誥,賜紫金魚袋,仍為學士,權知中書舍人。尋知禮部貢舉,斥浮華,進貞實,不為時力所搖。真拜中書舍人,仍充史館修撰,遷兵部侍郎、知制誥,復兼翰林學士。與鄭絪善,會鄭絪罷相,次公左授太子賓客,改尚書右丞,兼判戶部事,拜陜、虢等州都防禦觀察處置等使。請蠲錢三百萬,人得蘇息,政聞於朝。征為兵部侍郎。選人李勣、徐有功之孫,名在黜中,次公召而謂之曰:「子之祖先,勛在王府,豈限常格。」並優秩而遣之。改尚書左丞,恩顧頗厚。上方命為相,已命翰林學士王涯草詔。時淮夷宿兵歲久,次公累疏請罷。會有捷書至,相詔方出,憲宗令追之。遂出為淮南節度使、檢校工部尚書,兼揚州大都督府長史、御史大夫。

元和十三年十月、交代を受けて帰朝する途中、病没した。太子少保を贈られ、享年六十六、諡は敬といった。次公は少時より仕官し、大官を歴任し、節操と志向は終始一貫しており、衆に推重された。

原文元和十三年十月,受代歸朝,道次病卒。贈太子少保,年六十六,謚曰敬。次公自少入仕,歷大寮,節操趨尚,始終如一,為眾推重。

子の洙は進士に及第し、憲宗の女・臨真公主を尚った。累官して給事中・駙馬都尉・工部侍郎に至った。

原文子洙,登進士第,尚憲宗女臨真公主。累官至給事中、駙馬都尉、工部侍郎。

鄭絪

原文鄭絪

鄭絪、字は文明。父は羨、池州刺史。絪は若い時より奇なる志を持ち、学を好み、文章をよくした。大暦年中、儒学の高名ある者、張参・蔣乂・楊綰・常袞の如きは、皆彼を知り重んじた。絪は進士に及第し、宏詞科に登り、秘書省校書郎・鄠県尉を授かった。張延賞が西川を鎮守した時、辟召して書記とし、入朝して補闕・起居郎に任じ、史職を兼ねた。間もなく翰林に抜擢され、司勲員外郎・知制誥に転じた。徳宗の朝、内職に十三年在り、小心兢謙であり、上は彼を頗る厚く遇した。

原文鄭絪,字文明。父羨,池州刺史。絪少有奇誌,好學,善屬文。大歷中,有儒學高名如張參、蔣乂、楊綰、常袞,皆相知重。絪擢進士第,登宏詞科,授秘書省校書郎、鄠縣尉。張延賞鎮西川,辟為書記,入除補闕、起居郎,兼史職。無幾,擢為翰林,轉司勛員外郎、知制誥。德宗朝,在內職十三年,小心兢謙,上遇之頗厚。

貞元末、徳宗が崩御し、順宗が即位した初め、遺詔が直ちに宣布されなかった。絪は同列の衛次公と密かに正論を述べ、宦官も敢えて違えなかった。王伾・王叔文の朋党が権を擅にした際にも、絪はまたよく道を守り中立を保った。憲宗が国を監した時、中書舎人に遷り、前の通り学士であった。まもなく中書侍郎・平章事に任じられ、集賢殿大学士を加えられ、門下侍郎・弘文館大学士に転じた。

原文貞元末,德宗晏駕,順宗初即位,遺詔不時宣下。絪與同列衛次公密申正論,中人不敢違。及王伾、王叔文朋黨擅權之際,絪又能守道中立。憲宗監國,遷中書舍人,依前學士。俄拜中書侍郎、平章事,加集賢殿大學士,轉門下侍郎、弘文館大學士。

憲宗の初め、励精して治を求め、絪は杜黄裳と共に国柄を執った。黄裳は多くを決裁し、まず恵琳を誅し劉辟を斬るなどの措置を建議した。絪は謙虚で沈黙多く、事を為すことが少なかった。これにより位を貶められて太子賓客となった。嶺南節度観察等使・広州刺史・検校礼部尚書として出された。廉潔な政治で称された。工部尚書となり、太常卿に転じ、また同州刺史・長春宮使となり、東都留守に改められた。入朝して兵部尚書を歴任し、まもなく河中節度使となった。太和二年、入朝して御史大夫・検校左僕射・兼太子少保となった。

原文憲宗初,勵精求理,絪與杜黃裳同當國柄。黃裳多所關決,首建議誅惠琳、斬劉辟及他制置。絪謙默多無所事,由是貶秩為太子賓客。出為嶺南節度觀察等使、廣州刺史、檢校禮部尚書。以廉政稱。為工部尚書,轉太常卿,又為同州刺史、長春宮使,改東都留守。入歷兵部尚書,旋為河中節度使。太和二年,入為御史大夫、檢校左僕射、兼太子少保。

絪は文学によって進み、恬淡であり、華やかな顕職を歴任し、内外に出入すること四十年を超えた。居た所に赫々たる名声はなかったが、道を守り篤実であり、典籍を耽悦し、当時の博聞好古の士と、名理を講論する交遊をし、当時の人々は皆その耆徳を仰いだ。文宗が即位すると、年老いて力が衰えたことを理由に累次上表して退任を請い、ついに太子太傅として致仕した。三年十月に卒去、享年七十八、司空しくうを贈られ、諡は宣といった。子に祗徳がいる。

原文絪以文學進,恬淡,踐歷華顯,出入中外者逾四十年。所居雖無赫奕之稱,而守道敦篤,耽悅墳典,與當時博聞好古之士,為講論名理之遊,時人皆仰其耆德焉。及文宗即位,以年力衰耄,累表陳乞,遂以太子太傅致仕。三年十月卒,年七十八,贈司空,謚曰宣。子祗德。

祗徳の子の顥は進士に及第し、初め弘文館校書に任じられた。右拾遺・内供奉に遷り、詔により銀青光禄大夫を授かり、起居郎に遷った。宣宗の女・万寿公主を尚り、駙馬都尉に任じられた。尚書郎・給事中・礼部侍郎を歴任した。貢挙を掌ること二年、滞っていた人材を振り抜き、今に至るまで称えられている。刑部・吏部侍郎に遷った。大中十三年、検校礼部尚書・河南尹となった。

原文祗德子顥,登進士第,始綬弘文館校書。遷右拾遺、內供奉,詔授銀青光祿大夫,遷起居郎。尚宣宗女萬壽公主,拜駙馬都尉。歷尚書郎、給事中、禮部侍郎。典貢士二年,振拔滯才,至今稱之。遷刑部、吏部侍郎。大中十三年,檢校禮部尚書、河南尹。

顥は外戚の家にあり、器量があった。大中時、恩沢に比するものはなかった。宣宗が崩御すると、恩遇を追慕し、かつて詩の序に次のように記した。「去年の寿昌節に、麟徳殿に赴き上寿し、帰りに長興里の邸で休んだ。昏然と昼寝し、夢に十数人と別館で涼をとった。館宇は蕭灑で、互いに聯句をした。私は数聯を詠み、同遊の者は大いに称賛した。目覚めてから、諸聯を全ては覚えておらず、ただ十字『石門霧露白、玉殿莓苔青』を覚えていたので、柱に書き記した。内心、言葉が不吉だと怪しみ、人に言うことはしなかった。数日も経たぬうちに、宣宗が不豫よとなり、朝会は廃され、宮車が上仙して、初めてその事を悟った。顧遇を追惟し、石門の句を継いで十韻とした。『間歳流虹節、帰軒出禁扃。奔波陶畏景、蕭灑夢殊庭。境象非曾到、崇厳昔未経。日車烏斂翼、風動鶴飄翎。異苑人争集、涼台筆不停。石門霧露白、玉殿莓苔青。若匪災先兆、何当思入冥。禦鑢虚仗馬、華蓋負雲亭。白日成千古、金滕閟九齢。小臣哀絶筆、湖上泣青萍。』」まもなく、顥も卒去した。

原文顥居戚裏,有器度。大中時,恩澤無對。及宣宗棄代,追感恩遇,嘗為詩序曰:「去年壽昌節,赴麟德殿上壽,回憩於長興裏第。昏然晝寢,夢與十數人納涼於別館。館宇蕭灑,相與聯句。予為數聯,同遊甚稱賞。既寤,不全記諸聯,唯省十字雲『石門霧露白,玉殿莓苔青』,乃書之於楹。私怪語不祥,不敢言於人。不數日,宣宗不豫,廢朝會,及宮車上仙,方悟其事。追惟顧遇,續石門之句為十韻云:『間歲流虹節,歸軒出禁扃。奔波陶畏景,蕭灑夢殊庭。境象非曾到,崇嚴昔未經。日車烏斂翼,風動鶴飄翎。異苑人爭集,涼臺筆不停。石門霧露白,玉殿莓苔青。若匪災先兆,何當思入冥。禦鑢虛仗馬,華蓋負雲亭。白日成千古,金滕閟九齡。小臣哀絕筆,湖上泣青萍。』」未幾,顥亦卒。

韋処厚

原文韋處厚

韋処厚、字は徳載、京兆の人である。父の韋萬は監察御史となり、荊南節度参謀を務めた。処厚は本名を淳といったが、憲宗の諱を避けて処厚と改名した。幼少より至誠の天性を持ち、継母に仕えて孝行をもって知られた。父母の喪に服した際には墓の傍らに廬を結んだ。喪が明けた後、長安ちょうあんに遊学し、五経に通じ、史籍を博覧し、文思は豊かで優れていた。

原文韋處厚,字德載,京兆人。父萬,監察御史,為荊南節度參謀。處厚本名淳,避憲宗諱,改名處厚。幼有至性,事繼母以孝聞。居父母憂,廬於墓次。既免喪,遊長安。通《五經》,博覽史籍,而文思贍逸。

元和の初め、進士第に及第し、賢良方正科に応じて異等に抜擢され、秘書省校書郎を授かった。裴垍が宰相として国史を監修した際、本官のまま直館を充てるよう奏上し、咸陽県尉に改められ、右拾遺に遷り、ともに史職を兼ねた。『徳宗実録』五十巻を撰修して献上し、当時信史と称された。左補闕、礼部考功二員外に転じた。早くから宰相韋貫之に重んじられていたが、時に貫之が兵議が旨に合わず官を出された際、処厚はその友人であったことを坐して、開州刺史として出された。内召されて戸部郎中に任じられ、まもなく本官のまま知制誥を帯びた。穆宗はその学問に師法があるとして翰林に召し入れ、侍講学士とし、諫議大夫に換え、さらに中書舎人に改められ、侍講はもとのままとした。

原文元和初,登進士第,應賢良方正,擢居異等,授秘書省校書郎。裴垍以宰相監修國史,奏以本官充直館,改咸陽縣尉,遷右拾遺,並兼史職。修《德宗實錄》五十卷上之,時稱信史。轉左補闕、禮部考功二員外。早為宰相韋貫之所重,時貫之以議兵不合旨出官,處厚坐友善,出為開州刺史。入拜戶部郎中,俄以本官知制誥。穆宗以其學有師法,召入翰林,為侍講學士,換諫議大夫,改中書舍人,侍講如故。

時に張平叔は便佞・詼諧をもって他門より捷進し、京兆少尹から鴻臚卿・判度支となり、数ヶ月も経たぬうちに宣旨により戸部侍郎を授けられた。平叔は利を征することを以て穆宗の意に中り、大任を望んだ。塩の専売の旧法は弊害が年を経ているとして、官自ら塩を売れば国を富ませ兵を強くし、農を勧め貨を積むことができるとし、利害十八条を上疏した。詔してその奏を下し、公卿に議させた。処厚は抗論して不可とし、平叔の条奏は周到でなく、経慮が尽くされておらず、利と為すものがかえって害となり、簡と為すものが甚だ煩わしくなるとし、その条目の中で特に不可なものを取り上げ、十の難点を挙げて詰問した。時に平叔は傾巧で恩寵があり、自ら言うこと全て允されると思っていた。処厚が条件を挙げて駁奏すると、穆宗は善しとし、平叔に示させた。平叔は言葉に窮して答えることができず、その事は遂に止んだ。

原文時張平叔以便佞詼諧,他門捷進,自京兆少尹為鴻臚卿、判度支,不數月,宣授戶部侍郎。平叔以征利中穆宗意,欲希大任。以榷鹽舊法,為弊年深,欲官自糶鹽,可富國強兵,勸農積貨,疏利害十八條。詔下其奏,令公卿議。處厚抗論不可,以平叔條奏不周,經慮未盡,以為利者返害,為簡者至煩,乃取其條目尤不可者,發十難以詰之。時平叔傾巧有恩,自謂言無不允。及處厚條件駁奏,穆宗稱善,令示平叔。平叔詞屈無以答,其事遂寢。

処厚は幼主が荒怠で政務に親しまないことを思い、既に納誨の地に居る以上、性霊を啓導するべきものがあると考え、経義雅言を銓択し、類を以て相従え、二十巻とし、『六経法言』と称して献上した。繒帛銀器を賜り、さらに金紫を賜った。『憲宗実録』が未完成であったため、詔して処厚と路随を兼ねて史館修撰に充てた。実録が未成の間は、二人が日を分けて内に入ることを許し、常参を免じた。処厚はまもなくまた権兵部侍郎を帯びた。

原文處厚以幼主荒怠,不親政務,既居納誨之地,宜有以啟導性靈,乃銓擇經義雅言,以類相從,為二十卷,謂之《六經法言》,獻之。錫以繒帛銀器,仍賜金紫。以《憲宗實錄》未成,詔處厚與路隨兼充史館修撰。實錄未成,許二人分日入內,仍放常參。處厚俄又權兵部侍郎。

敬宗が位を嗣ぐと、李逢吉が権力を握り、平素より李紳を憎んでいたため、その罪を構成し、禍い測るべからざるものとなった。処厚と紳はともに孤進で、同年の進士であり、心ひそかにこれを傷み、上疏して言った。

原文敬宗嗣位,李逢吉用事,素惡李紳,乃構成其罪,禍將不測。處厚與紳皆以孤進,同年進士,心頗傷之,乃上疏曰:

臣は窃かに朋党の議論を聞くに、李紳の貶黜は尚軽いとしている。臣は恩を受けること至深く、職は顧問に備え、事は聖徳に関わるため、言わざるを得ない。紳は先朝に奨用され、翰林に抜擢され、過ちとして記すべきものなく、罪として戮すべきものなし。今、群党が志を得て、讒嫉が大いに興る。人情に詢うれば、皆甚だ嘆き驚いている。『詩』に云う、「萋兮菲兮、是れ貝錦を成す。彼の譖る人、亦已に太だ甚だし」と。また云う、「讒言罔極、四国を交乱す」と。古より帝王、君子を遠ざけ小人に近づいて太平を致した者はない。古人云う、「三年父の道を改めざるは、孝と謂うべし」と。李紳は前朝に任使された者であり、仮に罪愆あろうとも、猶宜しく釁を洗い瑕を滌ぎ、旧を念い過を忘れ、改めざるの美を成すべきである。今、逢吉の門下の故吏は朝行に遍満し、侵毀し誣を加え、何の詞かあらざるがあろうか。このように貶されても、なお軽すぎるという。蓋し曾参に投杼の疑いあり、先師に拾塵の戒めあり。伏して望むらくは、陛下が聖慮より断じ、奸邪に惑わされざらんことを。然らば天下幸甚なり。建中の初め、山東は化に向かったが、只だ宰相の朋党に縁り、上は朝廷に負うた。楊炎は元載の復讐を為し、盧杞は劉晏の怨みを報い、兵連禍結し、天下平らかならず。伏して乞う、聖明に臣が愚懇を察せられんことを。

原文臣竊聞朋黨議論,以李紳貶黜尚輕。臣受恩至深,職備顧問,事關聖德,不合不言。紳先朝獎用,擢在翰林,無過可書,無罪可戮。今群黨得誌,讒嫉大興。詢於人情,皆甚嘆駭。《詩》云:「萋兮菲兮,成是貝錦。彼譖人者,亦已太甚。」又曰:「讒言罔極,交亂四國。」自古帝王,未有遠君子近小人而致太平者。古人云:「三年無改於父之道,可謂孝矣。」李紳是前朝任使,縱有罪愆,猶宜洗釁滌瑕,念舊忘過,以成無改之美。今逢吉門下故吏,遍滿朝行,侵毀加誣,何詞不有?所貶如此,猶為太輕。蓋曾參有投杼之疑,先師有拾塵之戒。伏望陛下斷自聖慮,不惑奸邪,則天下幸甚!建中之初,山東向化,只緣宰相朋黨,上負朝廷。楊炎為元載復讎,盧杞為劉晏報怨,兵連禍結,天下不平。伏乞聖明,察臣愚懇。

帝はその事を悟り、紳は死罪を減じられ、端州司馬に貶された。

原文帝悟其事,紳得減死,貶端州司馬。

処厚は正しく兵部侍郎に拝され、思政殿で謝恩した。時に昭湣帝は狂恣で、屡々出でて畋遊した。毎月坐朝すること三四日に過ぎなかった。処厚は謝恩に因り、従容として奏上して言った、「臣に大罪あり、伏して面して首を乞う」と。帝が「何ぞや」と問うと、処厚は対えて言った、「臣は前に諫官たりし時、先朝に死諫せず、先聖が畋及び色を好み、以て寿を終えざるに至らしめたことを縦せしめ、臣は誅さるべきに当たります。然るに死諫しなかった所以は、また陛下がこの時春宮に在り、年既に十五であったためです。今や陛下の皇子は始めて一歳です。臣どうして更に死亡の誅を避けられましょうか」と。上は深くその意を感得し、錦彩一百匹、銀器四事を賜った。

原文處厚正拜兵部侍郎,謝恩於思政殿。時昭湣狂恣,屢出畋遊。每月坐朝不三四日。處厚因謝,從容奏曰:「臣有大罪,伏乞面首。」帝曰:「何也?」處厚對曰:「臣前為諫官,不能先朝死諫,縱先聖好畋及色,以至不壽,臣合當誅。然所以不死諫者,亦為陛下此時在春宮,年已十五。今則陛下皇子始一歲矣,臣安得更避死亡之誅?」上深感悟其意,賜錦彩一百匹、銀器四事。

宝暦元年四月、群臣が尊号を上り、御殿で冊を受け赦を肆った。李逢吉は李紳の故を以て、撰した赦文にただ「左降官で既に量移した者は量移を与える」と云い、未だ量移していない者については言わなかった。蓋し紳が恩例を受けないようにするためである。処厚は上疏して言った、「伏して見るに赦文の節目中、左降官に恩沢に該らざる者あり。宥すの体、弘くせざる所あり。臣が物議を聞くに皆、逢吉が李紳の量移を恐れるが故にこの節があると言う。もしこのようであれば、則ち近年の流貶官は、李紳一人に因って皆量移を得られないこととなる。事体至って大なり、豈に敢えて言わざらんや。李紳は先朝に奨任され、曾て内廷に在り、貶官されてよりこのかた、未だ恩宥を蒙らず。古人云う、『人君は人の功を記し、人の過を忘るべし』と。管仲は拘囚せられしも、斉桓公は挙げて国相と為し;冶長は縲紲せられしも、仲尼は選んで密親と為す。罪有り猶宜しく滌蕩すべし、辜無き豈に終に累すべけんや。況んや鴻名大号、冊礼重儀は、天地百霊の鑑臨する所、億兆八紘の瞻戴する所なり。恩沢広からざるは、実に宜しからず。臣は逢吉と素より讎嫌無く、李紳と本より親党に非ず、論ずる所は全き大體、陳ずる所は至公に在り、伏して乞う、聖慈に臣が肝膽を察せられんことを。倘し蒙みて允許せられば、仍って望むらくは宰臣に宣付し、応に近年の左降官を赦条に編入し、旧例に準じて近処に量移を得しめられんことを」と。帝はその奏を覧て事を悟り、赦文を追って改め、紳は初めて恩例に沾った。処厚は翰林承旨学士となり、毎度立って詔草を視ると、聖旨に愜うた。常に急命を奉じて宣州に鷹鷙を徴し、及び楊・益・両浙に奇文綾錦を索めたが、皆抗疏して命に従わず、かつ前時の赦書を引いて証とし、帝は皆その奏を可とした。

原文寶歷元年四月,群臣上尊號,禦殿受冊肆赦。李逢吉以李紳之故,所撰赦文但雲左降官已經量移者與量移,不言未量移者,蓋欲紳不受恩例。處厚上疏曰:「伏見赦文節目中,左降官有不該恩澤者。在宥之體,有所未弘。臣聞物議皆言逢吉恐李紳量移,故有此節。若如此,則應是近年流貶官,因李紳一人皆不得量移。事體至大,豈敢不言?李紳先朝獎任,曾在內廷,自經貶官,未蒙恩宥。古人云:『人君當記人之功,忘人之過。』管仲拘囚,齊桓舉為國相;冶長縲紲,仲尼選為密親。有罪猶宜滌蕩,無辜豈可終累?況鴻名大號,冊禮重儀,天地百靈之所鑒臨,億兆八纮之所瞻戴。恩澤不廣,實非所宜。臣與逢吉素無讎嫌,與李紳本非親黨,所論者全大體,所陳者在至公,伏乞聖慈察臣肝膽。倘蒙允許,仍望宣付宰臣,應近年左降官,並編入赦條,令準舊例,得量移近處。」帝覽奏其事,乃追改赦文,紳方沾恩例。處厚為翰林承旨學士,每立視草,愜會聖旨。常奉急命於宣州征鷹鷙及楊、益、兩浙索奇文綾錦,皆抗疏不奉命,且引前時赦書為證,帝皆可其奏。

宝暦の末年、急変が中より起こった。文宗は内難を底綏し、詔命将に降らんとしたが、未だ定まるところがなかった。処厚は難を聞き奔赴し、昌言して曰く、「『春秋』の法、大義親を滅し、内悪必ず書し、以て逆順を明らかにす。名を正し罪を討つ、義に何の嫌いかあらん。安んぞ依違し、避諱する所あらんや」と。遂に籓教を奉じて行った。この夕、詔命の制置及び践祚の礼儀は、所司に責む暇なく、皆処厚の議より出た。礼が行われた後、皆旧章に叶った。佐命の功を以て、旋って中書侍郎・同中書門下平章事・監修国史に拝され、銀青光禄大夫を加えられ、霊昌郡公に爵を進められた。処厚が相位に在りては、務めて時に済わんことを務め、身の計を為さなかった。中外の補授、皆その宜しきを得た。

原文寶歷季年,急變中起。文宗底綏內難,詔命將降,未有所定。處厚聞難奔赴,昌言曰:「《春秋》之法,大義滅親,內惡必書,以明逆順。正名討罪,於義何嫌?安可依違,有所避諱!」遂奉籓教行焉。是夕,詔命制置及踐祚禮儀,不暇責所司,皆出於處厚之議。及禮行之後,皆葉舊章。以佐命功,旋拜中書侍郎、同中書門下平章事、監修國史,加銀青光祿大夫,進爵靈昌郡公。處厚在相位,務在濟時,不為身計。中外補授,鹹得其宜。

初めに、貞元中、宰相の齊抗が冗員を減らすことを奏上し、諸州の別駕を罷め、京師の百司において、別駕に入るべき者は、多く朝列に処した。元和以来、両河に兵を用い、偏裨で功を立てた者は、往々にして周行に擢でられた。率ね儲采の王官を以て雑にこれを補い、皆盛服して朝に趨き、硃紫が填擁した。久しく次いで進むべき者、及び代を受けて閑居する者は、常に数十人、中書及び宰相の私第に趨き、肩を摩して謁を候い、辞語よりも繁かった。及んで處厚が政を執ると、復た六雄・十望・十緊・三十四州の別駕を置くことを奏して以てこれを処した。而して清流は雑わらず、朝政は清粛であった。

原文初,貞元中,宰相齊抗奏減冗員,罷諸州別駕,其在京百司,當入別駕者,多處之朝列。元和以來,兩河用兵,偏裨立功者,往往擢在周行。率以儲采王官雜補之,皆盛服趨朝,硃紫填擁。久次當進,及受代閑居者,常數十人,趨中書及宰相私第,摩肩候謁,繁於辭語。及處厚秉政,復奏置六雄、十望、十緊、三十四州別駕以處之。而清流不雜,朝政清肅。

文宗は聴政に勤めたが、決断に浮ついており、宰相が奏事して請いを得ても、往々にして中変した。處厚は常に独り論奏して言うには、「陛下は臣等を不肖とせず、用いて宰相と為し、大政に参議させられる。凡そ奏請有るも、初め聴納を蒙り、尋で聖懐を易える。若し宸衷より出ずれば、即ち臣等に不信を示す;若し横議より出ずれば、臣等何の名を以て鼎司と為さんや。且つ裴度は元勲宿徳、四朝を歴て輔け、孜々として誠を竭くし、人望の属する所、陛下固より親重すべきなり。竇易直は良厚、忠しく先朝に事え、陛下固より委信すべきなり。微臣は才薄く、首に陛下の擢用を蒙る、他門より出ずるに非ず、言既に従わざれば、臣宜しく先ず退くべし。」即ち下に趨き再拝して陳乞す。上は矍然として曰く、「何ぞ此に至るや!卿の志業、朕素より自知す、登庸して輔と作し、百職斯に挙がる。縦え朕に失有るとも、安んぞ遽に辞して、以て吾が薄徳を彰さんや。」處厚これを謝して去り、延英門を出で、復た召し還すことを令す。謂いて曰く、「凡そ卿の欲言する所、並びに宜しく啓論すべし。」處厚因り対して善を彰し悪を癉し、これを法制に帰し、凡そ数百言。又た裴度は勲高く望重く、人の為に心を尽くし切直なり、宜しく久任すべく、以て国威を壮にすべし。帝皆聴納す。是より宰臣の敷奏、人敢えて横議せず。

原文文宗勤於聽政,然浮於決斷,宰相奏事得請,往往中變。處厚常獨論奏曰:「陛下不以臣等不肖,用為宰相,參議大政。凡有奏請,初蒙聽納,尋易聖懷。若出自宸衷,即示臣等不信;若出於橫議,臣等何名鼎司?且裴度元勛宿德,歷輔四朝,孜孜竭誠,人望所屬,陛下固宜親重。竇易直良厚,忠事先朝,陛下固當委信。微臣才薄,首蒙陛下擢用,非出他門,言既不從,臣宜先退。」即趨下再拜陳乞。上矍然曰:「何至此耶!卿之誌業,朕素自知,登庸作輔,百職斯舉。縱朕有所失,安可遽辭,以彰吾薄德?」處厚謝之而去,出延英門,復令召還。謂曰:「凡卿所欲言,並宜啟論。」處厚因對彰善癉惡,歸之法制,凡數百言。又裴度勛高望重,為人盡心切直,宜久任,可壯國威。帝皆聽納。自是宰臣敷奏,人不敢橫議。

俄にして滄州の李同捷叛き、朝廷兵を加う。魏博の史憲誠、中に向背を懐き、裴度は宿旧を以て自ら任じ、憲誠を不疑に待つ。嘗て親吏を遣わし事を請わしめて中書に至る。處厚これに謂いて曰く、「晉公は百口を以て上前に於いて爾が使主を保つ、處厚は然らず、但だ仰ぎ俟つ所為を、自ら朝典有らんのみ。」憲誠これを聞き大いに懼れ、此より輸竭し、竟に滄州に功有り。又た嘗て理財制用を以て国の本と為し、『太和国計』二十巻を撰して以て献ず。李載義累ねて滄・鎮両軍を破り、兵士毎に俘執有れば、多く遣わして刳剔す。處厚書を以てこれを諭す、載義深く其の旨を然りとす。此より滄・鎮の獲る所の生口、遠地に配隷し、前後数百千人を全活す。

原文俄而滄州李同捷叛,朝廷加兵。魏博史憲誠,中懷向背,裴度以宿舊自任,待憲誠於不疑。嘗遣親吏請事至中書。處厚謂曰:「晉公以百口於上前保爾使主,處厚則不然,但仰俟所為,自有朝典耳。」憲誠聞之大懼,自此輸竭,竟有功於滄州。又嘗以理財制用為國之本,撰《太和國計》二十卷以獻。李載義累破滄、鎮兩軍,兵士每有俘執,多遣刳剔。處厚以書喻之,載義深然其旨。自此滄、鎮所獲生口,配隸遠地,前後全活數百千人。

處厚は家に居て循易、任に克たざるが如し。廷諍敷啓に至り、及び轄を馭し胥吏を待つに、勁確として嶷然たり奪うべからず。質状は魁偉に非ず、甚だ懦なる者の如し;而して庶僚事を請うに、畏惕相顧み、語を移晷きすと雖も、敢えて私謁せず。才を用いるに急にして、文学を酷く嗜む。嘗て病む、前古に浮議を以て坐して廃せられる者有るを、故に群材を推択し、往々にして瑕を棄てて用を録し、亦時に譏られし所と為る。雅に釈氏の因果を信じ、晚年尤甚し。書を聚むること万巻を逾え、多く手自ら刊校す。詔を奉じて『元和実録』を修す、未だ筆を絶たず、其の統例取舍、皆處厚の創起する所なり。太和二年十二月、延英に因り奏対し、造膝の際、忽ち「臣病作す」と奏し、遽に退く。文宗中官に命じて扶け出ださしめ、第に帰る一夕にして卒す、年五十六、司空を贈らる。

原文處厚居家循易,如不克任。至於廷諍敷啟,及馭轄待胥吏,勁確嶷然不可奪。質狀非魁偉,如甚懦者;而庶僚請事,畏惕相顧,雖與語移晷,不敢私謁。急於用才,酷嗜文學。嘗病前古有以浮議坐廢者,故推擇群材,往往棄瑕錄用,亦為時所譏。雅信釋氏因果,晚年尤甚。聚書逾萬卷,多手自刊校。奉詔修《元和實錄》,未絕筆,其統例取舍,皆處厚創起焉。太和二年十二月,因延英奏對,造膝之際,忽奏「臣病作」,遽退。文宗命中官扶出,歸第一夕而卒,年五十六,贈司空。

處厚が国柄に当たること二周歳、啓沃の謀、頗る時に誉め協い、咸に共にこれを惜しむ。

原文處厚當國柄二周歲,啟沃之謀,頗協時譽,鹹共惜之。

崔群

原文崔群

崔群、字は敦詩、清河武城の人、山東の著姓。十九で進士第に登り、又た制策に登科し、秘書省校書郎を授かり、累遷して右補闕となる。元和初、召されて翰林学士と為り、中書舎人を歴任す。群は内職に在りて、常に讜言正論を以て時に聞こゆ。憲宗嘉賞し、宣旨を降して云く、「自今以後学士進状するに、並びに崔群の連署を取り、然る後に進來せしめよ。」群は禁密の司として、動もすれば故事と為るを以て、爾来学士或いは直を悪み正を醜くすれば、則ち其の下の学士言を上る由無からん。群は堅く詔を奉ぜず、三疏論奏して方に允さる。

原文崔群,字敦詩,清河武城人,山東著姓。十九登進士第,又制策登科,授秘書省校書郎,累遷右補闕。元和初,召為翰林學士,歷中書舍人。群在內職,常以讜言正論聞於時。憲宗嘉賞,降宣旨云:「自今後學士進狀,並取崔群連署,然後進來。」群以禁密之司,動為故事,自爾學士或惡直醜正,則其下學士無由上言。群堅不奉詔,三疏論奏方允。

元和七年、恵昭太子薨じ、穆宗は時に遂王、憲宗は澧王の長に居るを以て、又多に内助有り、儲貳を建てんとし、群に命じて澧王の為に譲表を作らしむ。群上言して曰く、「大凡己に合いて当たる有れば、則ち陳譲の儀有り;己に合いて当たらずんば、因何ぞ遽に譲表有らんや?今遂王は嫡長、宜しく青宮に正位すべし。」竟に其の奏に従う。時に魏博節度使田季安が絹五千匹を進め、開業寺の修を助くに充つ。群は以て事実名無く、体尤も不可なりと為し、其の進むる所を止めんことを請う。群の前後論ずる所多く旨に愜い、聴納せざる無し。礼部侍郎に遷り、才行を選抜し、咸に公当と為る。戸部侍郎に転ず。

原文元和七年,惠昭太子薨,穆宗時為遂王,憲宗以澧王居長,又多內助,將建儲貳,命群與澧王作讓表。群上言曰:「大凡己合當之,則有陳讓之儀;己不合當,因何遽有讓表?今遂王嫡長,所宜正位青宮。」竟從其奏。時魏博節度使田季安進絹五千匹,充助修開業寺。群以為事實無名,體尤不可,請止其所進。群前後所論多愜旨,無不聽納。遷禮部侍郎,選拔才行,咸為公當。轉戶部侍郎。

二年七月、中書侍郎・同中書門下平章事を拝す。十四年、李師道を誅す、上顧みて宰臣に謂いて曰く、「李師古は自ら祖父を襲ぐと雖も、然れども朝廷之に待つこと終始す。其の妻は師道に於いて即ち嫂叔なり、逆族と雲うと雖も、若し罪の軽重を量れば、亦宜しく等を降すべし。又た李宗奭は厳憲に抵ると雖も、其の情を大逆に比すれば、亦た相同じからず。其の妻は士族なり、今其の子女俱に掖廷に在り、法に於いて皆稍深きに似たり。卿等留意せざるか?」群対えて曰く、「聖情仁惻、罪は元兇に止む。其の妻近属、倘くは寛宥を獲ば、実に弘煦の道に合す。」ここに於いて師古の妻裴氏・女宜娘、詔を出だして鄧州に安置す。宗奭の妻韋氏及び男女、先に掖廷に没ししを、並びに釈放す;其の奴婢・資貨皆復たこれを賜う。又た塩鉄福建院官権長孺贓に坐し、詔を下して京兆府に付して決殺せしむ。長孺の母劉氏宰相に哀を求む、群因り入対してこれを言う。憲宗其の母の耄年を湣れみ、乃ち曰く、「朕将に法を屈して長孺を赦さんこと何如?」群曰く、「陛下仁惻即ちこれを赦せば、当に速やかに中使を令して宣諭せしむべし。如し正敕を待たば、即ち及ぶ無からん。」長孺竟に死を免れて長流を得。群の啓奏平恕なる、多く此の類なり。

原文二年七月,拜中書侍郎、同中書門下平章事。十四年,誅李師道,上顧謂宰臣曰:「李師古雖自襲祖父,然朝廷待之始終。其妻於師道即嫂叔也,雖雲逆族,若量罪輕重,亦宜降等。又李宗奭雖抵嚴憲,其情比之大逆,亦有不同。其妻士族也,今其子女俱在掖廷,於法皆似稍深。卿等留意否?」群對曰:「聖情仁惻,罪止元兇。其妻近屬,倘獲寬宥,實合弘煦之道。」於是師古妻裴氏、女宜娘,詔出於鄧州安置。宗奭妻韋氏及男女,先沒掖廷,並釋放;其奴婢、資貨皆復賜之。又鹽鐵福建院官權長孺坐贓,詔付京兆府決殺。長孺母劉氏求哀於宰相,群因入對言之。憲宗湣其母耄年,乃曰:「朕將屈法赦長孺何如?」群曰:「陛下仁惻即赦之,當速令中使宣諭。如待正敕,即無及也。」長孺竟得免死長流。群之啟奏平恕,多此類也。

時に憲宗は寇を蕩むに急にして、頗る聚斂の臣を奨む。故に籓府是に由りて旨を希い、往々にして捃拾し、目して進奉と為す。処州刺史苗稷が羨余銭七千貫を進む、群議して以て詔に違うと為し、之を受くれば則ち天下に失信すと、請うて却って本州に賜い、貧下の租税に代えしむ。時の論之を美す。

原文時憲宗急於蕩寇,頗獎聚斂之臣。故籓府由是希旨,往往捃拾,目為進奉。處州刺史苗稷進羨余錢七千貫,群議以為違詔,受之則失信於天下,請卻賜本州,代貧下租稅。時論美之。

度支使皇甫镈権幸に陰結し、以て宰相を求め、群累ねて其の奸邪を疏す。嘗て対面に因りて論じ、語天宝・開元中の事に及び、群曰く、「安危は令を出すに在り、存亡は任する所に系る。玄宗は姚崇・宋璟・張九齢・韓休・李元纮・杜暹を用うれば則ち理;林甫・楊国忠を用うれば則ち乱。人皆天宝十五年禄山の范陽より起兵するを以て、是れ理乱分かるる時と為す、臣は開元二十年賢相張九齢を罷め、奸臣李林甫を専任するを以て、理乱此より已に分かれたりと為す。人を用いる得失、系る所小さからず。」詞意激切、左右之が為に感動す。镈深く之を恨む。而して憲宗終に镈を用いて宰相と為す。無何、群臣議して尊号を上る、皇甫镈「孝徳」の両字を加えんと欲す、群曰く、「睿聖有れば、則ち孝徳は其中に在り。」竟に镈の構うる所と為る。憲宗楽しからず、出でて湖南観察都団練使と為す。

原文度支使皇甫镈陰結權幸,以求宰相,群累疏其奸邪。嘗因對面論,語及天寶、開元中事,群曰:「安危在出令,存亡系所任。玄宗用姚崇、宋璟、張九齡、韓休、李元纮、杜暹則理;用林甫、楊國忠則亂。人皆以天寶十五年祿山自范陽起兵,是理亂分時,臣以為開元二十年罷賢相張九齡,專任奸臣李林甫,理亂自此已分矣。用人得失,所系非小。」詞意激切,左右為之感動。镈深恨之。而憲宗終用镈為宰相。無何,群臣議上尊號,皇甫镈欲加「孝德」兩字,群曰:「有睿聖,則孝德在其中矣。」竟為镈所構。憲宗不樂,出為湖南觀察都團練使。

穆宗が即位すると、召されて吏部侍郎に任ぜられ、別殿で引見され、群に謂う、「我が儲位に昇るや、卿が羽翼たりしことを知る」と。群曰く、「先帝の御意、元より陛下に在り。頃者、陛下に淮西節度使を授けし時、臣は命を奉じて制を草し、且つ曰く、『能く南陽の牘を弁じ、允に東海の貴に符す』と。若し先帝の深旨を知らざれば、臣豈に敢て軽く言わんや」と。数日にして、御史中丞を拝す。十日を経て、検校兵部尚書を授けられ、兼ねて徐州刺史・武寧軍節度使・徐泗濠観察等使を拝す。

原文穆宗即位,征拜吏部侍郎,召見別殿,謂群曰:「我升儲位,知卿為羽翼。」群曰:「先帝之意,元在陛下。頃者授陛下淮西節度使,臣奉命草制,且曰:『能辨南陽之牘,允符東海之貴。』若不知先帝深旨,臣豈敢輕言?」數日,拜御史中丞。浹旬,授檢校兵部尚書,兼徐州刺史、武寧軍節度、徐泗濠觀察等使。

初め、幽州・鎮州が命に逆らい、詔して沂州刺史王智興を武寧軍節度副使に授け、徐州の兵を率いて討伐せしむ。群は智興が早くより士心を得たるを以て、表して請う、因って智興に旄鉞を授くべしと。竟に寝して報いず。智興、河北より戈を回らし、城内は皆父兄なり、関を開きて延いて入れ、群は智興に逐われたり。朝廷は其の失守を坐し、秘書監を授け、東都に分司す。未だ幾ばくもあらず、華州刺史・兼御史大夫に改む。また宣州刺史・歙池等州都団練観察等使に改め、召されて兵部尚書を拝す。久しくして、検校吏部尚書・江陵尹・荊南節度観察使に改む。歳を逾えて、検校右僕射に改め、兼ねて太常卿を拝す。太和五年、検校左僕射を拝し、兼ねて吏部尚書を拝す。六年八月卒す、年六十一、冊して司空を贈る。

原文初,幽、鎮逆命,詔授沂州刺史王智興為武寧軍節度副使,領徐州兵討伐。群以智興早得士心,表請因授智興旄鉞,竟寢不報。智興自河北回戈,城內皆是父兄,開關延入,群為智興所逐。朝廷坐其失守,授秘書監,分司東都。未幾,改華州刺史、兼御史大夫。復改宣州刺史、歙池等州都團練觀察等使,徵拜兵部尚書。久之,改檢校吏部尚書、江陵尹、荊南節度觀察使。逾歲,改檢校右僕射,兼太常卿。太和五年,拜檢校左僕射,兼吏部尚書。六年八月卒,年六十一,冊贈司空。

群は沖識精裁有り、時に賢相たり。清議は儉素の節を以てし、其の終わりは厥の初めに及ばずとす。群は年未だ冠せずして進士に挙げられ、陸贄が挙を知り、梁肅に訪う、其の登第すべき才行ある者を議す。肅曰く、「崔群は少年と雖も、他日必ず公輔に至らん」と。果たして其の言の如し。

原文群有沖識精裁,為時賢相。清議以儉素之節,其終不及厥初。群年未冠舉進士,陸贄知舉,訪於梁肅,議其登第有才行者,肅曰:「崔群雖少年,他日必至公輔。」果如其言。

群の弟於は、進士に登り、官は郎署に至り、令名有り。

原文群弟於,登進士,官至郎署,有令名。

子の充も亦た文学を以て進み、三署を歴て、終に東都留守に至る。

原文子充,亦以文學進,歷三署,終東都留守。

路随

原文路隨

路随、字は南式、其の先は陽平の人なり。高祖こうその節は、高宗の朝に越王府東閣祭酒と為る。曾祖の惟恕は、官は睦州刺史に至る。祖の俊之は、仕えて終に太子通事舎人と為る。

原文路隨,字南式,其先陽平人。高祖節,高宗朝為越王府東閣祭酒。曾祖惟恕,官至睦州刺史。祖俊之,仕終太子通事舍人。

父の泌、字は安期、少くより学を好み、『五経』に通じ、特に『詩』・『易』・『左氏春秋』を嗜み、能く其の章句を諷し、皆深旨を究む。史伝に博く渉り、五言詩に工なり。性は端亮にして寡言、孝悌を以て宗族に聞こゆ。建中末、長安尉を以て調に従い、李益・韋綬等と書判を挙げて同く高第に居り、泌は城門郎を授かる。属に徳宗が奉天に違難せしに、泌は時に京師に在り、妻子を棄てて潜に行在所に詣る。また梁州に従幸し、潰軍を排して出で、再び流矢に中り、裳を裂きて血に濡る。策を以て渾瑊に説き、瑊は深く之を重んじ、辟いて従事と為す。瑊が懐光を討つに、累ねて奏して副元帥判官・検校戸部郎中・兼御史中丞と為す。河中平らぎ、瑊に随いて吐蕃と平涼に会盟し、因って盟を劫して蕃に陥る。絶域に累年を経、心を釈氏の教に棲ましめ、賛普に重んぜられ、賓礼を以て待たれ、戎鹿に卒す。

原文父泌,字安期,少好學,通《五經》,尤嗜《詩》、《易》、《左氏春秋》,能諷其章句,皆究深旨。博涉史傳,工五言詩。性端亮寡言,以孝悌聞於宗族。建中末,以長安尉從調,舉李益、韋綬等書判同居高第,泌授城門郎。屬德宗違難奉天,泌時在京師,棄妻子潛詣行在所。又從幸梁州,排潰軍而出,再為流矢所中,裂裳濡血。以策說渾瑊,瑊深重之,辟為從事。瑊討懷光,累奏為副元帥判官、檢校戶部郎中、兼御史中丞。河中平,隨瑊與吐蕃會盟於平涼,因劫盟陷蕃。在絕域累年,棲心於釋氏之教,為贊普所重,待以賓禮,卒於戎鹿。

貞元十九年、吐蕃辺将に遺書して和を求む。随は哀泣して上疏し、願わくは其の請を允せんとす。表三たび上る、徳宗は中使に命じて旨を諭さしむ。朝廷は其の宿詐を懲り、更要を俟ちて後信に於いてせんとし、竟に数歳報いず。元和の中、蕃使復た塞に款き、随は復た五たび封章を献じ、和好を修めんことを請う。また宰執に上書して哀訴す。裴垍・李籓皆協力して敷奏し、憲宗之を可とす。祠部郎中徐復を命じて報聘せしめ、乃ち特に詔中に平涼に陥りし蕃の者名氏を疏し、中国に帰らしむ。吐蕃は復等の還るに因り、使を遣わして来朝す。遂に泌及び鄭叔矩の喪と銘及び遺録を以て至り、朝野傷嘆す。憲宗之を憫み、絳州刺史を贈り、絹二百匹を賜う。葬日の至るに、所在の官に委ねて喪事を給せしむ。泌は累ねて太子少保を贈らる。

原文貞元十九年,吐蕃遺邊將書求和。隨哀泣上疏,願允其請。表三上,德宗命中使諭旨。朝廷懲其宿詐,俟更要於後信,訖數歲不報。元和中,蕃使復款塞,隨復五獻封章,請修和好。又上書於宰執哀訴。裴垍、李籓皆協力敷奏,憲宗可之。命祠部郎中徐復報聘,乃特於詔中疏平涼陷蕃者名氏,令歸中國。吐蕃因復等還,遣使來朝。遂以泌及鄭叔矩之喪與銘及遺錄至,朝野傷嘆。憲宗憫之,贈絳州刺史,賜絹二百匹。至葬日,委所在官給喪事。泌累贈太子少保。

泌が蕃に陥りし歳、随は方に孩提に在り。後稍々長成し、父の蕃に在るを知り、乃ち日夜啼号し、坐すれば必ず西に向い、饌には肉を食わず。母氏其の形貌先君に肖るを言い、遂に終身鏡を照さず。後、経を通じて調に応じ潤州参軍を授かり、李锜に困らしめらる。市事を知らしむるに、随は翛然として市中に坐し、一も介意せず。韋夏卿が東都留守と為り、聞きて之を辟き、是より声名日振る。元和五年、辺吏訃を以て至る。随は喪に居り、益々孝を以て聞こゆ。服闋け、擢げて左補闕を拝す。

原文泌陷蕃之歲,隨方在孩提;後稍長成,知父在蕃,乃日夜啼號,坐必西向,饌不食肉,母氏言其形貌肖先君,遂終身不照鏡。後以通經調授潤州參軍,為李锜所困。使知市事,隨翛然坐市中,一不介意。韋夏卿為東都留守,聞而辟之,由是聲名日振。元和五年,邊吏以訃至。隨居喪,益以孝聞。服闋,擢拜左補闕。

会に李絳が上を諷して諫を納れしむ。憲宗皇帝曰く、「諫官路随・韋処厚の章疏相継ぎ、朕は常に深く其の言を用う」と。是より識者敬伏す。俄に起居郎に遷り、転じて司勲員外郎と為る。補闕より司勲員外に至るまで、皆史館修撰を充つ。穆宗即位し、司勲郎中に遷り、緋魚袋を賜う。韋処厚と同く翰林に入り侍講学士と為る。三代の皇王興衰を采り、『六経法言』二十巻を著して之を奏す。諫議大夫を拝し、前の如く侍講学士たり。将に『憲宗実録』を修めんとし、復た命じて兼ねて史職を充てしむ。敬宗登極し、中書舎人・翰林学士を拝し、仍て紫を賜う。金帛を以て除制を謝する者有れば、必ず叱して却し曰く、「吾が公事を以て私財に接せんや」と。終に納るる所無し。文宗即位し、韋処厚相に入り、随は代わって承旨と為り、転じて兵部侍郎・知制誥と為る。太和二年、処厚薨じ、随は代わって相と為り、中書侍郎を拝し、監修国史を加う。初め、韓愈『順宗実録』を撰し、禁中の事を説く頗る切直なり。内官之を悪み、往々上前に於いて其の不実を言い、累朝詔有りて改修せしむ。及び随が『憲宗実録』を進めたる後、文宗復た令して永貞の時の事を改正せしむ。随奏して曰く、

原文會李絳諷上納諫,憲宗皇帝曰:「諫官路隨、韋處厚章疏相繼,朕常深用其言。」自是識者敬伏焉。俄遷起居郎,轉司勛員外郎。自補闕至司勛員外,皆充史館修撰。穆宗即位,遷司勛郎中,賜緋魚袋。與韋處厚同入翰林為侍講學士。采三代皇王興衰,著《六經法言》二十卷奏之。拜諫議大夫,依前侍講學士。將修《憲宗實錄》,復命兼充史職。敬宗登極,拜中書舍人、翰林學士,仍賜紫。有以金帛謝除制者,必叱而卻之曰:「吾以公事接私財耶?」終無所納。文宗即位,韋處厚入相,隨代為承旨,轉兵部侍郎、知制誥。太和二年,處厚薨,隨代為相,拜中書侍郎,加監修國史。初,韓愈撰《順宗實錄》,說禁中事頗切直內官惡之,往往於上前言其不實,累朝有詔改修。及隨進《憲宗實錄》後,文宗復令改正永貞時事,隨奏曰:

臣昨面して聖旨を奉ずるに、『順宗実録』は頗る詳実に非ず、臣等に委ねて重ねて刊正を加え、畢日の上聞奏せしむと。臣は宣命を奉じてより、史本を取りて筆削を加えんと欲す。近く衛尉卿周居巢・諫議大夫王彦威・給事中李固言・史官蘇景胤等の各上章疏し、具に刊改の甚だ便宜に非ざるを陳するを見る。また班行に此の如き議論頗る衆しきを聞く。臣伏して以うるに、史冊の作は、勧誡の存する所、事書くべき有れば、理実に帰すべし。匹夫の美悪尚お誣うべからず、人君の得失虚しく載すべからず。聖旨は以前件の『実録』が貞元末の数事を記すに、稍々実を摭うに非ず、蓋し伝聞に出づ、審らかに差舛を知り、便ち刊正せしむと。頃に坐日に因り、屡々聖言に形し、前後を通計すれば、数四に至る。臣及び宗閔・僧孺も亦た永貞已来、歳月至近く、禁中の行事は、在外固より詳しく知り難し。陛下の言う所は、皆耳目に接する所なり。既に乖謬を聞き、因って古今を述べ、前史の直不疑が盗嫂の言、及び第五倫が公を撾くの説を引き、皆多く此の比類、信書するに難し。冀わくは睿鑒聴言に詳らかにし、深宮行事に慎まんことを。此の比類を持し、上に聰明を開き、特蒙降察して、稍々前謬を恕さんことを。是に由りて近く宣命を垂れ、改修せしむる有らしむ。

原文臣昨面奉聖旨,以《順宗實錄》頗非詳實,委臣等重加刊正,畢日聞奏。臣自奉宣命,取史本欲加筆削。近見衛尉卿周居巢、諫議大夫王彥威、給事中李固言、史官蘇景胤等各上章疏,具陳刊改非甚便宜。又聞班行如此議論頗眾。臣伏以史冊之作,勸誡所存,事有當書,理宜歸實。匹夫美惡尚不可誣,人君得失無容虛載。聖旨以前件《實錄》記貞元末數事,稍非摭實,蓋出傳聞,審知差舛,便令刊正。頃因坐日,屢形聖言,通計前後,至於數四。臣及宗閔、僧孺亦以永貞已來,歲月至近,禁中行事,在外固難詳知。陛下所言,皆是接於耳目。既聞乖謬,因述古今,引前史直不疑盜嫂之言,及第五倫撾公之說,皆多此比類,難盡信書。所冀睿鑒詳於聽言,深宮慎於行事。持此比類,上開聰明,特蒙降察,稍恕前謬。由是近垂宣命,令有改修。

臣等は伏して考えるに、貞観以来、累朝の実録は重ねて撰修されたことがあり、固辞することは敢えてしない。ただ粗く深い誤りを削りたいだけで、また固より諸説を全て存しておきたい。宗閔・僧孺と相談したところ、この書は韓愈によって成ったものであり、今の史官李漢・蔣系は皆愈の子婿であるから、もし彼らを参撰させれば、あるいは私嫌を招く恐れがある。臣が既に監修を職としている以上、詳しく正させるのがよいだろうと、奏請を経て、事は遂に行われた。今、庶僚が競って言い立て、そもそもの起こりを知らず、表章を交えて奏上し、他に疑いがあるかのようである。臣は極めて愚昧ではあるが、自ら請うたわけではない。既に群議に迫られ、あえて上聞に及ぶ。たとえ臣が果たして修成を獲たとしても、必ずや終には時の累いとなることを恐れる。かつ韓愈の書いたところも、自らの出でたものではなく、元和の後、既に相循うものである。たとえその密親であろうとも、どうして公理を害することがあろうか。本職に帰らせることは、実に正名というべきである。その『実録』は伏して望むに、旧記の最も誤りのある条を示し、史官に宣付して、修定を委ねられたい。そうすれば聖祖の垂れたる休美を冀い、永遠に信を伝えるに慚じることなく、下臣の非拠なるものは、官を侵す戾りを減ずることを獲るであろう。清朝の政を立てる方途を彰わし、公器私せざるの義を表す。流言は自ら止み、時論の宜しきところとなろう。

原文臣等伏以貞觀已來,累朝實錄有經重撰,不敢固辭。但欲粗刪深誤,亦固盡存諸說。宗閔、僧孺相與商量,緣此書成於韓愈,今史官李漢、蔣系皆愈之子婿,若遣參撰,或致私嫌。以臣既職監修,盍令詳正,及經奏請,事遂施行。今者庶僚競言,不知本起,表章交奏,似有他疑。臣雖至昧,容非自請。既迫群議,輒冒上聞。縱臣果獲修成,必懼終為時累。且韓愈所書,亦非己出,元和之後,已是相循。縱其密親,豈害公理?使歸本職,實謂正名。其《實錄》伏望條示舊記最錯誤者,宣付史官,委之修定。則冀聖祖垂休,永無慚於傳信。下臣非據,獲減戾於侵官。彰清朝立政之方,表公器不私之義。流言自弭,時論攸宜。

詔して曰く、「その『実録』の中に書かれたる徳宗・順宗朝の禁中の事は、根柢を尋ね訪ねれば、謬伝に起こり、信史にあらずと諒る。宜しく史官に詳しく正し刊去せしめ、その他は更に修する要なし。余は奏する所に依れ」。

原文詔曰:「其《實錄》中所書德宗、順宗朝禁中事,尋訪根柢,蓋起謬傳,諒非信史。宜令史官詳正刊去,其他不要更修。余依所奏。」

四年、門下侍郎に転じ、崇文館大学士を加えられる。七年、太子太師を兼ね、礼を備えて冊拝される。表を上して史官の修める所の憲宗・穆宗『実録』を奉る。八年、疾を辞するも、謝すること得ず。時に李徳裕が連貶されて袁州長史に至り、随が奏状に署せず、ここに初めて鄭註の忌む所となる。九年四月、検校尚書右僕射・同中書門下平章事に拝され、潤州刺史・鎮海軍節度・浙江西道観察等使を兼ねる。

原文四年,轉門下侍郎,加崇文館大學士。七年,兼太子太師,備禮冊拜。表上史官所修憲宗穆宗《實錄》。八年,辭疾,不得謝。會李德裕連貶至袁州長史,隨不署奏狀,始為鄭註所忌。九年四月,拜檢校尚書右僕射、同中書門下平章事,兼潤州刺史、鎮海軍節度、浙江西道觀察等使。

太和九年七月、路に疾に遘い、揚子江の中流に薨ず。年六十。冊贈して太保とし、謚して貞という。

原文太和九年七月,遘疾於路,薨於揚子江之中流,年六十。冊贈太保,謚曰貞。

随は学行大度あり、諫官として能く直言し、内廷にあって匡益す。宝暦初めに承旨学士となって以来、即ち大政に参じた。後十五年在相位す。宗閔・徳裕の朋党交興し、その間にあって攘臂し、李訓・鄭註は終始奸詐にして、その後を接武す。而して随は器を蔵し光を韜み、隆汙一致す。君子の中庸を得て常にこれに居る者と謂うべし。

原文隨有學行大度,為諫官能直言,在內廷匡益。自寶歷初為承旨學士,即參大政矣。後十五年在相位。宗閔、德裕朋黨交興,攘臂於其間;李訓、鄭註始終奸詐,接武於其後。而隨藏器韜光,隆汙一致,可謂得君子中庸而常居之也。

史臣曰く、衛次公・鄭絪・韋処厚・崔群・路随らは、皆文学をもって身を飾り、崇極の位に致る。これに忠讜を兼ね、簡書に名を垂る。これ実に足りて多とするに足る。絪はその位あり、その時ありて、独善の謀を懐き、衆を済うの道を晦まし、左遷は不幸にあらず。次公は捷を献ずるの書に因り、既に成れる詔を輟む。命なるかな。処厚は危言切議を以て、士友の急を振い、同列の善を称す。君子なるかな。

原文史臣曰:衛次公、鄭絪、韋處厚、崔群、路隨等,皆以文學飾身,致位崇極。兼之忠讜,垂名簡書,茲實有足多也。絪有其位,有其時,懷獨善之謀,晦眾濟之道,左遷非不幸也。次公因獻捷之書,輟已成之詔,命也夫。處厚危言切議,振士友之急,稱同列之善,君子哉!

賛して曰く、衛・鄭・韋・路、これに博陵を兼ぬ。文学政事、時に称せらる。

原文贊曰:衛、鄭、韋、路,兼之博陵。文學政事,為時所稱。