旧唐書
巻一百五十八 列伝第百八 武元衡 鄭餘慶 韋貫之
武元衡
武元衡、字は伯蒼、河南緱氏の人である。曾祖父は載徳、則天武后の従父弟にして、官は湖州刺史に至る。祖父は平一、文を属するに善く、終に考功員外郎・修文館学士となり、事は『逸人伝』に見える。父は就、殿中侍御史、元衡の貴に因り、吏部侍郎を追贈される。元衡は進士に登第し、累次使府に辟せられ、監察御史に至る。後に華原県令となる。時に畿輔に鎮軍督将として恩を恃み功を矜る者あり、多く吏民を撓乱す。元衡これを苦しみ、乃ち病を称して官を去る。情を放ち事外にあり、宴詠に沈浮すること久し。徳宗その才を知り、召して比部員外郎を授く。一年にして、左司郎中に遷る。時に詳整を以て称重せらる。
貞元二十年、御史中丞に遷る。嘗て延英対罷に因り、徳宗目を送り、左右に指示して曰く「元衡は真に宰相の器なり」と。
順宗即位す、病を以て政事に親しまず。王叔文等その党をして権利を以て元衡を誘わしむるも、元衡これを拒む。時に徳宗の山陵に奉じ、元衡は儀仗使となる。監察御史劉禹錫は叔文の党なり、儀仗判官に充たんことを求む。元衡与えず、その党ますます悦ばず。数日にして、元衡を罷めて右庶子とす。憲宗即位し、始めて皇太子に冊せらるるに、元衡は賛引し、因りて之を識る。及び登極し、復た御史中丞を拝す。持平にして私無く、綱条悉く挙がり、人甚だ称重す。尋いで戸部侍郎に遷る。元和二年正月、門下侍郎・平章事を拝し、金紫を賜い、兼ねて戸部事を判ず。上、太子たりし時、その進退守正なるを知り、及び是に用いて宰相と為し、甚だ礼信す。
初め、浙西節度李錡、入覲を請う、乃ち右僕射を拝し、朝に入らしむ。既にして又た疾を称し、歳暮に至るを請う。上宰臣に問う、鄭絪は錡の奏の如くにすべしと請う。元衡曰く「不可なり。且つ錡自ら入朝を請い、詔既に之を許す、即ち又た疾を称す、是れ可否錡に在り。今陛下新たに大宝に臨み、天下耳目に属す、若し奸臣をして其の私を遂げしめば、則ち威令茲より去らん」と。上然りと以為い、遽かに之を追う。錡果たして計窮して反す。
是に先立ち、高崇文蜀を平らげ、因りて節度使を授く。崇文は軍を理むるに法ありと雖も、州県の政を知らず。上その代者を難じ、乃ち元衡を以て崇文に代え、検校吏部尚書を拝し、門下侍郎・平章事を兼ね、剣南西川節度使を充てる。将に行かんとす、上安福門に御して以て之を臨慰す。高崇文既に成都を発ち、その軍資・金帛・帟幕・伎楽・工巧を尽く載せて以て行く。元衡至れば、則ち庶事節約し、務めて以て人に便ならしむ。三年に比し、公私稍く済う。蛮夷を撫し、約束明らかに具わり、輒く事を生ぜず。重慎端謹、接物に淡なりと雖も、開府は一時の選を極む。八年、徴還さる。駱谷に至り、重ねて門下侍郎・平章事を拝す。
時に李吉甫・李絳情相葉わず、各々事理の曲直を以て上前にす。元衡中に居り、違附する所無く、上長者と称す。及び吉甫卒す、上方に淮・蔡を討たんとし、悉く機務を之に委ぬ。時に王承宗使いを遣わして事を奏し、呉元済を赦さんことを請う。宰相に事を請うに、辞礼悖慢、元衡之を叱す。承宗因りて飛章して元衡を詆り、咎怨頗る結ぶ。元衡の宅は静安里に在り、十年六月三日、将に朝せんとし、里の東門を出づるに、暗中に燭を滅せしむる者を叱する有り、導騎之を訶る、賊之を射て、肩に中つ。又た樹陰に匿れて突出する者有り、棓を以て元衡の左股を撃つ。その徒馭既に賊の格せらるる所と為り奔逸す、賊乃ち元衡の馬を持ち、東南行すること十余歩にして之を害し、その顱骨を批りて去るを懐く。及び衆呼び偕に至り、火を持ちて之を照らすに、元衡既に血中に踣せるを見る、即ち元衡宅の東北隅の墻の外なり。時に夜漏未だ尽きず、陌上に朝騎及び行人多し、鋪卒連呼すること十余里、皆云く賊宰相を殺すと、声朝堂に達し、百官恟恟、未だ死者誰なるかを知らず。須臾にして、元衡の馬走り至り、人に遇いて始めて之を弁ず。既に明け、仗紫宸門に至り、有司元衡の遇害を以て聞ゆ。上震驚し、却朝して延英に坐し、宰相を召見す。惋慟すること久しく、之が為に再び食せず。冊して司徒を贈り、賻に布帛五百匹・粟四百碩を贈り、朝を輟むこと五日、謚して忠湣と曰う。
元衡は五言詩に工なり、好事者之を伝え、往往管弦に被る。
初め、八年、元衡蜀より再び政を輔くるに、時に太白上相を犯し、執法を歴る。占者言う「今の三相皆利あらず、始め軽く末重し」と。月余にして、李絳足疾を以て免ぜらる。明年十月、李吉甫暴疾を以て卒す。是に至り、元衡盗の害する所と為る、年五十八。始め元衡は吉甫と斉年、又た同日に宰相と為る。及び出鎮し、分かれて揚・益を領す。及び吉甫再び入る、元衡も亦還る。吉甫先だつこと一年、元衡の生月を以て卒し、元衡後れること一年、吉甫の生月を以て卒す。吉凶の数、符会するが若し。是に先立ち、長安に謡有り曰く「打麦麦打三三三」、既にして其の袖を旋りて曰く「舞了也」。解する者謂う「打麦」は打麦の時なり、「麦打」は蓋し暗中の突撃を謂うなり、「三三三」は六月三日を謂うなり、「舞了也」は元衡の卒するを謂うなりと。是より京師大いに恐れ、城門に衛兵を加え、その出入りを察し、物色して之を伺う。その偉状異制・燕趙の音なる者、多く執訊す。元衡の従父弟に儒衡有り。
従父弟 儒衡
儒衡、字は庭碩。才度俊偉、気直く貌荘、言妄りに発せず、人と交友するに、終始渝えず。相国鄭余慶は華潔を事とせず、後進その門に趨く者多くは垢衣敗服、以てその知らるるを望む。而して儒衡謁見するに、嘗て輒くその好む所を易えず、但だ之と正言直論し、余慶因りて亦之を重んず。憲宗元衡の王事に横死するを以て、嘗て之を嗟惜し、故に儒衡を待つこと甚だ厚し。累遷して戸部郎中。十二年、権に諫議大夫事を知り、尋いで知制誥を兼ぬ。皇甫镈は宰相として度支を領し、下を剝ぎて上に媚び、その罪を言う者敢えて無し。儒衡上疏して論列す、镈密かにその事を訴う、帝曰く「儒衡の上疏を以てすな、卿将に怨みを報いんとするか」と。镈復た敢えて言わず。
儒衡は気位が高く風雅であり、事を論ずるに風采があり、群邪はこれを憎んだ。特に宰相令狐楚に忌まれた。元和の末年、大用に垂んとしていたが、楚はその明俊を畏れ、計をもってこれを沮み、その寵を離れんとした。狄兼謨という者あり、梁公仁傑の後裔にして、時に襄陽の従事たり。楚は自ら制詞を草し、狄兼謨を召して拾遺と為し、曰く、「朕、政を聴く余暇に、躬ら国書を覧み、奸臣の権を擅にする由を知り、母后の位を窃む事を見る。我が国家の神器大宝、将に遂に他人に伝わらんとす。洪かに昊穹を惟み、降りて鑒りて祉を儲け、仁傑を誕生し、中宗を保佑し、絶えたる維を更張せしめ、明辟乃ち復す。宜しく胄胤に福し、国と窮まり無かるべし」。兼謨の制出づるに及んで、儒衡は御前に泣訴し、その祖平一が天后の朝に栄を辞して終老し、当時に累と為さざりしを言う。憲宗は再三これを撫慰す。ここに自ら楚の為人を薄しとしたり。然れども儒衡は道を守りて回らず、悪を嫉むこと甚だしく、終に大任に至らず。尋いで正しく中書舎人を拝す。時に元稹は内官に依倚し、制誥を知るを得たり。儒衡は深くこれを鄙しむ。閣下にて瓜を食うに会し、蠅が其上に集まる。儒衡は扇をもってこれを揮い曰く、「適い何れの処より来りて、而して遽にここに集まるか」。同僚は色を失うも、儒衡は意気自若たり。礼部侍郎に遷る。長慶四年に卒す。年五十六。
鄭餘慶
鄭餘慶、字は居業、滎陽の人。祖は長裕、官は国子司業に至り、終に潁川太守。長裕の弟少微は、中書舎人・刑部侍郎と為る。兄弟は当時に名有り。父は慈、元徳秀と友善しく、官は太子舎人に至る。
餘慶は少くして学に勤め、文を属するに善し。大暦中に進士に挙げらる。建中の末、山南節度使厳震に辟かれて従事と為り、累官して殿中侍御史、父憂に丁りて罷む。貞元の初めに朝に入り、左司・兵部員外郎、庫部郎中を歴る。八年、選ばれて翰林学士と為る。
十三年六月、工部侍郎に遷り、吏部選事を知る。時に玄法寺の僧法湊が寺衆に訴えられ、万年県尉盧伯達が還俗を断ず。後にまた復た僧と為る。伯達上表してこれを論ず。詔して中丞宇文邈・刑部侍郎張彧・大理卿鄭雲逵等の三司に、功徳使判官諸葛述と同しく按鞫せしむ。時に議有りて述は胥吏なり、憲臣等と同しく省に入り事を按ずるに合わずとす。餘慶上疏して論列す。当時に翕然として重しと称せらる。
十四年、中書侍郎・平章事を拝す。餘慶は『六経』の深旨を通究し、奏対の際、多く古義を以てこれを傅う。度支使於と素より善し。奏事する毎に餘慶は皆議して可とす。未だ幾ばくもせず、罪を以て貶せらる。時にまた歳旱で人飢う。徳宗は宰臣と議し、将に禁衛六軍を賑給せんとす。事未だ行わざるに、中書吏の泄らす所と為り、餘慶は郴州司馬に貶せらる。凡そ六載。順宗登極し、徴して尚書左丞を拝す。
憲宗嗣位の月、また本官を守り平章事に擢でらる。未だ幾ばくもせず、夏州の将楊恵琳の命を阻むに属す。宰臣等論奏し、多く兵事を議す。餘慶また古義を以て上言し、夏州の軍士は皆県官に仰給し、また「介馬万蹄」の語有り。時議は餘慶は古を好み博雅なれども時に適わずとす。主書滑渙有り、久しく中書の簿籍を司り、内官枢密を典る劉光琦と情を通ず。宰相議事し、光琦と異同ある者は、渙に意を達せしむ。未だ嘗て其の欲する所に遂がざること無し。宰相杜佑・鄭絪は皆これを姑息す。議者は佑が私に滑八と呼ぶと云う。四方の書幣資貨、其の門に充集し、弟の泳は官刺史に至る。餘慶の再び中書に入るに及び、同僚と集議す。渙は是非を指陳す。餘慶は其の僭を怒り、これを叱す。尋いで餘慶は相を罷められ、太子賓客と為る。其の年八月、渙の贓汙発し、死を賜う。上漸く餘慶の渙を叱する事を聞き、甚だこれを重んじ、乃ち国子祭酒に改め、尋いで河南尹を拝す。三年、検校兵部尚書、兼ねて東都留守。六年四月、正しく兵部尚書を拝す。
餘慶再び相と為り、罷免は皆大過に非ず。特に清儉を以て時に称せらる。中外に践更するに洎ぎて、郁として耆徳と為り、朝廷の得失、言成って準的と為る。時に京兆尹元義方・戸部侍郎判度支盧坦は、皆勲官を以て前任三品に至り、令に拠りて合せて門戟を立て、各其の第に戟を立てんことを請う。時に義方は上柱国を加うるを以て、坦は前任宣州観察使を以て戟を請う。近代戟を立てる者は、率ね銀青の階有り。而るに義方は只勲官に拠るのみ。有司詳覆せずしてこれを給す。議者はこれを非とし、台司将に劾せんとすれども果たさず。會て餘慶東都より来たり、論を発して大いに不可と為す。ここに由り、台司牒を移して礼部を詰む。左司郎中陸則・礼部員外崔備は皆俸を罰せられ、元・盧の門戟を奪わる。
餘慶詔を受けて『恵昭太子哀冊』を撰す。其の辞甚だ工なり。医工崔環有り、淮南の小将より黄州司馬と為る。勅南省に至る。餘慶これを執り封じて還し、諸道の散将は故無くして正員五品官を授くるは、是僥倖の路を開くに在り、且つ闕無くして供すべしと為す。言或いは理を過ぐ。ここに由りて稍々時に権に忤い、太子少傅に改め、兼ねて太常卿事を判ず。初め徳宗山南より宮に還り、関輔に懐光・吐蕃の虞有り、都下驚憂し、遂に詔して太常に楽を集めて大鼓を去らしむ。ここに至り、餘慶始めて大鼓を用いることを復すを奏す。
九年、検校右僕射を拝し、兼ねて興元尹、山南西道節度観察使を充て、三歳にして代を受く。
十二年、太子少師を除く。尋いで年懸車に及び、致仕を請う。詔して許さず。時に累ねて恩赦有りて階を叙し、及び天子親しく郊廟を謁し、行事官等は皆恩を以て三品五品を授かるを得、復た考を計わず。其の使府の賓吏は、また軍功を以て命服を借賜せられて後入拜する者十に八九。ここに由り、朝に在りて衣緑なる者甚だ少なく、郎官諫官に紫を被り金を垂るる者有り。また丞・郎中・謝・洎・郎官出使するに、多く章服を賜い、以て恩を加うるを示す。ここに於いて寵章尤も濫れ、当時に服章を貴ばず。遂に詔して餘慶に格令を詳しくせしめ、制条を立て、奏して聞かしむ。
十三年、尚書左僕射を拝す。兵興以来、左右の端揆の位に処る者は多く其人に非ず。及び餘慶名臣を以てこれに居るに及び、人情美洽す。憲宗は餘慶の典章に諳練するを以て、朝廷の礼楽制度に故事に乖く有れば、専ら餘慶に委ねて参酌施行せしめ、遂に詳定使と為して用う。餘慶また刑部侍郎韓愈・礼部侍郎李程を副使と為すを奏し、左司郎中崔郾・吏部郎中陳珮・刑部員外郎楊嗣復・礼部員外郎庾敬休を、並びに詳定判官に充てしむ。朝廷の儀制・吉凶五礼、咸く損益有り。鳳翔尹・鳳翔隴節度使に改む。
十四年、太子少師・検校司空を兼ね、滎陽郡公に封ぜられ、兼ねて国子祭酒事を判ず。太学荒毀すること日久しく、生徒振わざるを以て、文官の俸給を率いて両京の国子監を修するを奏す。
穆宗が即位すると、師傅の旧恩により、位を進めて検校司徒とし、優遇の礼は極めて厚かった。元和十五年十一月に卒去し、詔して曰く、「故金紫光禄大夫・検校司徒・兼太子少師・上柱国・滎陽郡開国公・食邑二千戸鄭餘慶は、始めに衣冠礼楽をもって山東に行われ、余力をもって文章に志し、遂に学を成す。清近の職を出入すること、五十年に満つ。再び台衡を執り、屡々戎律を分つ。凡そ要職とすべきものは、践更せざるは無し。貴くして能く貧しく、卑しくして自ら牧す。謇諤は台閣に聞こえ、柔睦は閨門に化す。命を受くるに考父の恭有り、士を待つこと公孫の広さに比す。焚書逸礼は、尽く口伝すべく、古史旧章は、心匠に因るが如し。朕方に諮稟せんとし、庶幾くは昏逾せざらんとす。神将に予を祝せんとす、痛悼何ぞ及ばんや!乞言既に阻まる、賵礼宜しく優なるべし、太保を贈るべし」と。時に年七十五、諡して貞と曰う。
餘慶は名を砥ぎ行いを礪し、儒者の道を失わず、清儉率素にして、終始渝らざりき。四朝に将相の任に居り、出入すること五十年に垂んとす。禄賜の所得は、親党に分け与え、その家は頗る寒素に類す。至徳以来、方鎮の除授には、必ず中使を遣わして旌節を領し、第に就きて宣賜し、皆厚く金帛をもって遣わす。媚びを求むる者は、その数広からざるを恐るるのみ。故に王人の一来するや、銭数百万を獲る者有り。餘慶が方任を受くる毎に、天子は必ずその使に誡めて曰く、「餘慶は家貧し、妄りに求取する有るべからず」と。専ら儒教を振起せんと欲し、後生の謁見する者は、率いて経学を以てこれを諷す。而してその急を周し、家を理め身を理むること、極めて儉薄なり。官政を修むるに及べば、則ち開広を喜ぶ。岐下を鎮すること一歳、戎事観るべし。又儒宮を創立して以来、学者は己を行うこと学ぶべしと雖も、往々にして沽激に近し。故に当時の議者は、その徳を全うしてこれを許さず。上は家素より清貧にして、喪事を弁ぜずと為すを以て、宜しく所司をして特たに一月の俸料を給し、以て賻贈に充て、哀栄を示すべしと。文集・表疏・碑誌・詩賦合わせて五十巻有り、世に行わる。
餘慶の兄 承慶
兄承慶は、官顕れず。弟膺甫は、官主客員外郎中・楚・懐・鄭三州刺史に至る。次弟具瞻・羽客・時然は、皆官県令賓佐に至る。餘慶の子 澣。
餘慶の子 澣
澣は本名涵と為す。文宗が藩邸の時、名同じきを以て、名を改めて澣と為す。貞元十年進士に挙げらる。父の謫官を以て、累年任ぜられず。秘書省校書郎より洛陽尉に遷り、集賢院修撰を充す。長安尉・集賢校理に改む。太常寺主簿に転じ、職仍って故の如し。太常博士に遷り、右補闕に改む。疏を献じて切直、人其の危きを為す。餘慶の朝に入るに及び、憲宗餘慶に謂いて曰く、「卿の令子は、朕の直臣なり、更に相賀すべし」と。遂に起居舍人に遷し、考功員外郎に改む。刺史に人吏を駆迫して政績を上言し、石を刊して政を紀せんことを請う者有り。瀚其の情を探得し、条として廉使を責む。巧跡遂に露れ、人其の敏識を服す。時に餘慶僕射と為り、省郎を改めんことを請う。乃ち国子博士・史館修撰に換う。母憂に丁り、喪を除き、考功郎中拝す。復た内艱に丁り、制を終え、汜上に退居す。長慶中、征せられて司封郎中・史館修撰と為り、累遷して中書舍人と為る。
文宗即位し、擢て翰林侍講学士と為す。上命じて『経史要録』二十巻を撰せしむ。書成る。上其の精博を喜び、因りて上る所の書の語類を摘む。上自ら発問し、瀚応対滞ること無し。金紫を以て錫う。太和二年、礼部侍郎に遷る。貢挙を典ること二年、造秀を選抜し、時に人を得たりと号す。兵部侍郎に転じ、吏部に改め、出でて河南尹と為り、皆能名著わり。入りて左丞と為り、旋って刑部尚書を拝し、兼ねて左丞事を判す。出でて山南西道節度観察使・検校戸部尚書・興元尹・兼御史大夫と為る。餘慶の興元を鎮むるや、儒宮を創立し、学館を開設す。澣の来るに至り、復た前美を継ぐ。開成四年閏正月、戸部尚書を以て徴す。詔下の日、興元に卒す。年六十四。右僕射を贈られ、諡して宣と曰う。文集・制誥合わせて三十巻有り、世に行わる。澣四子:允謨・茂諶・処誨・従讜。
澣の子 允謨
允謨は、蔭を以て累官台省に歴り、蜀・彭・濠・晋四州刺史を歴、位終に太子右庶子。
澣の子 茂諶
茂諶は、国諱を避けて茂休と改む。開成二年進士第に登る。四遷して太常博士・兵部員外郎・吏部郎中・絳州刺史、位終に秘書監。
澣の子 処誨
処誨は、字は延美。昆仲の間において文章抜きん出て秀で、早くより士友に推さる。太和八年進士第に登る。秘府に釈褐し、転じて監察・拾遺・尚書郎・給事中。累遷して工部・刑部侍郎、出でて越州刺史・浙東観察使・検校刑部尚書・汴州刺史・宣武軍節度観察等使と為り、汴に卒す。処誨の族父 朗。初め朗定州節度使と為る時、処誨工部侍郎と為り、早朝に因りて待漏院に仮寐す。忽ち夢みるに己れ浙東観察使と為り、汴州を過ぎ、而して朗汴帥と為り、留連して飲餞し、仰ぎて屋棟を視るに、黄土を以て飾り、賓従皆識る所の者なり。明年、朗果たして定州より宣武を鎮む。韋重を辟して書記を掌らしむ。重将に行かんとす。処誨夢みし所を以て告ぐ。明年、処誨刑部侍郎に転ず。其の年秋、浙東観察使を授かる。行きて潼関に及ぶ。朗従事を遣わして迎労し、仍て手書を致し、先ず夢みし所を疏せしむ。汴に至るに比し、清暑亭に宴す。賓佐悉く夢中に符す。朗仰ぎて屋棟を視て曰く、「此れ亦た黄土なり」と。四座感嘆して時を移す。後五年、朗卒す。処誨継いで汴州節度使と為り、乃ち詩一章を賦し、廳事に刻み、以て朗を思うの悲を尽くす。処誨方雅古を好み、且つ著述に勤しみ、撰集極めて多し。校書郎たりし時、『明皇雑録』三篇を撰次し、世に行わる。
澣の子 従讜
従讜は、字は正求。会昌二年進士第に登る。秘書省校書郎に釈褐し、拾遺・補闕・尚書郎・知制誥を歴る。故相令狐綯・魏扶は、皆父が貢挙の門生、之が為に延誉す。尋いで中書舍人に遷る。咸通三年、貢挙を知り、礼部侍郎を拝し、刑部に転じ、吏部侍郎に改む。選を典ること平允、時に人を屈すること無し。将に輔を作らんと垂るるに、権臣の請托行われざるを以て、検校刑部尚書・太原尹・北都留守・河東節度観察等使に改む。年を逾え、還るを乞うも、允さず。検校兵部尚書・汴州刺史・宣武軍節度観察等使に改む。期年政を報い、美声流聞す。当途者其の大用を懼れ、広州刺史・嶺南節度使に改む。
五管の地は南詔の蛮族に侵擾され、天下は兵を徴発したが、時に龐勛の乱があり、辺境の事に手が回らなかった。鄭従讜が鎮守すると、北兵は寡弱で、夷獠が紛然としていた。そこで土豪を選び、右職を授け、侮を禦ぎ城を扞うに、皆その効を奏した。郡邑は屡々陥落したが、交州・広州は晏然であった。やがて懿宗が崩御し、従讜は久しく番禺に在って、風土を楽しまず、帰郷して朝廷を恋う思いを賦詠に形し、累次上章して分司の散秩を求めた。僖宗が召還し、刑部尚書に用いた。まもなく本官のまま同平章事となった。
乾符年中、盗賊が河南に起こり、天下は騒動した。陰山府の沙陀都督李国昌の部族がまさに強盛で、北辺を虎視していた。時に霊州防禦使段文楚が軍儲を継続できず、郡兵が食に乏しかったので、密かに沙陀部を引き入れて城を攻め、文楚を殺し、遂に振武軍の雲州・朔州などを占拠した。またその子の李克章・李克用に命じて諸部を大いに集め、南に忻州・代州を侵した。前の帥の竇瀚・李侃・李蔚が相次いで重臣として并州を鎮めたが、皆これを遏止できなかった。やがて康伝圭が三軍に殺され、軍士はますます驕り、功を矜り賞を責めて、噪ぎ集まることを勧めた。これに河南・河北七道の兵帥が、雲のごとく都下に合し、人の生を聊うに足らず、沙陀が連続して城邑を陥落させたので、朝廷は帥を選ぶに難渋した。僖宗は宰臣をもってこれを臨制せんと欲し、詔して曰く、「開府儀同三司・門下侍郎・兵部尚書を兼ね、太清宮使・弘文館大学士・延資庫使・上柱国・滎陽郡開国公・食邑二千戸鄭従讜:自ら鈞衡に処し、屡々麟鳳を来たし、才高く応変に応じ、動く必ず機を研く。朕は北門を興王の故地とし、爾が嘗て恵化を施し、尚お去思有るを以てす。方に武を用うるの時に当たり、暫く元を調うるの職を輟め、兇醜を殲うるを佇ち、我が憂勤に副わしむ。検校司空・司平章事・太原尹・北都留守・河東節度使、兼ね行営招討等使とすべし。」制が下り、自ら参佐を選ぶことを許された。乃ち長安令王調を副使とし、兵部員外郎・史館修撰劉崇亀を節度判官とし、前司勲員外郎・史館修撰趙崇を観察判官とし、前進士劉崇魯を推官に充て、前左拾遺李渥を掌書記に充て、前長安尉崔沢を支使に充てることを奏した。幕を開くの盛は、一時に冠たった。時に中朝で瞻望する者は、太原を「小朝廷」と目し、名士の多きを言った。時に新たに軍乱を承けた後で、殺掠攻剽、日に之無きは無かった。
従讜は容貌は温和だが気性は勁く、沈機にして善く断じ、奸は情を遁れること無し。凡そ兇謀が盗み発するも、その彀中に落ちざるは無く、以て群豪は惕息した。旧府城の都虞候張彦球は、前の帥が兵三千を率いて沙陀を百井に逐うことを命じたが、中路にして還り、兵を縦して鑰を破り、故帥の康伝圭を殺した。従讜が至ると、その魁を搜索して誅した。彦球の意が善く、方略有るを知り、召して開き諭し、坦然として疑わず、悉く兵権を委ねた。
広明初年、李鈞・李涿が相継いで本道の師を率いて雁門を出たが、沙陀に敗れた。十二月、黄巢が長安を犯し、僖宗が出幸した。詔を伝えて従讜に謂いて曰く、「卿は封域を安んずる志有り、権をもって戎麾を総べ、夷夏ともに瞻り、社稷全く頼む。今月五日、草賊黄巢奔沖す。十六日、梁・漢に駐蹕す。上は九廟に慚じ、下は万方に愧づ。籓閫乍に聞き、痛憤応に切なるべし。専ら供奉官劉全及を差し往きて慰諭せしむ。卿宜しく本道の兵士を差点し、多少を酌量し、北面副招討使諸葛爽に付し、俾ち令に入援せしむべし。」従讜は詔を承けて雪涕し、戎伍を団結し、牙将論安・後院軍使朱玫に歩騎五千を率いさせ、諸葛爽に従って関に入り難に赴かせた。時に中和元年五月である。
論安の軍は離石に次ぐ。是の月、沙陀の李克用の軍が奄至し、汾東に営して、詔を奉じて難に赴き関に入ると称した。従讜は廩餼を具えて犒労したが、信宿しても発たなかった。克用は城に傅って呼んで曰く、「本軍将に南下せんとし、相公と面して言わんと欲す。」従讜は城に登ってこれに謂いて曰く、「僕射父子は、咸通以来、旧より忠義を激し、血戦して国に為り、天下の人は賜を受く。老夫は累朝に事え、位は将相に忝くす。今日群盗擾攘し、輿駕奔播し、神州を蕩覆す。戈を荷いて賊を討ち、以て聖奨に酬いる能わず、老夫の罪なり。然れども多難は勲を図るに是れ僕射が功を立て事を立つるの時なり。恨むらくは命を受けて籓を守り、敢えて命を辱しめず、以て戎棨を仰ぎ陪うる無きを。若し僕射終に君親を念と為し、賊を破りて後、車駕宮に還り、却って闕庭に待罪するを得ば、是れ願う所なり。唯だ僕射自ら愛せよ。」克用は拝謝して去った。然れども雑虜は戢えず、近甸に肆掠した。従讜は大将王蟾・薛威を遣わして出師しこれを追撃させた。翌日、契苾部の救兵至り、沙陀大敗して還った。
初め、論安が師を率いて関に入り、陰地に至り、数百の卒を以て擅に帰還したので、従讜は諸部の校を集めてこれを鞠場で斬り、併せて兵衆を朱玫に付して難に赴かせた。時に鄭畋もまた宰相として鳳翔を鎮め、従讜と宗人で、同年に進士に登った。畋もまた岐下に挙兵し、以て賊の黄巢を遏んだ。広明の首唱として義に仗ち、賊の首尾を断ち、逆徒は名づけて「二鄭」とした。国威復振するは、二儒帥の功なり。
二年十一月、代北監軍使陳景思が詔を奉じて沙陀部を赦し、賊を討って自ら贖うことを許した。ここに由って沙陀五部数万人南下したが、敢えて境を蹈まず。乃ち嵐州・石州に沿って河に沿って南し、唯だ李克用のみ数百騎を以て城に臨み別を叙した。従讜はこれに名馬・器幣を遺って訣した。三年、克用は賊を破り功を立て、河東節度使に授かり従讜に代わった。還って榆次に至り、使を遣わして礼を致し、従讜に謂いて曰く、「予が家尊は雁門に在り、且つ還り覲省せん。相公は徐に行装を治め、遽に首途する勿れ。」従讜は詔を承け、即日に牒して監軍使周従寓に兵馬留後事を知ることを請う。書記劉崇魯に観察留後事を知らしめ、戒めて曰く、「李公に面し、籍を按じて還るを俟てよ。」
五月十五日、従讜は太原を離れた。時に京城は復したが、車駕は未だ還らず、道途に寇多し。行きて絳州に次ぐと、唐彦謙が刺史で、数ヶ月留駐した。冬、詔使が追って行在に赴くを命じ、再び政を輔け、司空・司徒を歴て、正しく侍中に拝された。光啓末、固く機務を辞し、疾を以て第に還った。卒す。有司は謚して文忠と曰う。
従讜は人を知り善く任じ、性驕矜せず、故に至る所に声績有り。太原に在る時、大将張彦球は強傑にして制し難く、前後の帥守は疑間を以て釁を貽し、故に軍旅寧からず。従讜が撫封すること四年、その才用委すべきを知り、懐を開き遇を任じ、その死力を得た。故に虜に抗し城を全うするは、多く彦球の効なり。累奏して行軍司馬と為す。再び政を秉るに及び、用いて金吾将軍と為し、累郡の刺史と為す。絳州に在る時、彦謙の判官陸扆は学を嗜み才思有り、郡斎に寓し、日これと談宴し、先後の間無し。乃ちこれを朝に称し、位は清顕に至る。汴に在る時、兄の処誨が嘗て鎮帥と為り、是の郡に歿したを以て、一政受代に至るまで、公署に於て楽を挙げず、その友悌礼を知り、操履かくの如し。国の名臣、文忠に焉る有り。
韋貫之
韋貫之は、本名は純であったが、憲宗の廟諱に触れるため、字をもって称されるようになった。八代前の祖の夐は、周に仕え、逍遙公と号した。父の肇は、吏部侍郎に至り、当時に重い名声があった。貫之はその第二子である。若くして進士に挙げられ、貞元の初め、賢良科に登第し、校書郎を授けられた。任期が満ちて、従調の判が等に入り、再び転じて長安県丞となった。
徳宗の末年、京兆尹李実の権勢は宰相を凌ぎ、その可否を言えば、必ず数日にして詔が行われた。貫之の名を李実に推薦する者があったが、李実は答えて言うには、「この人は私と同じ里に住み、しばしばその賢さを聞いているが、ただ私はその面識を得て上に進めるだけだ」と。笏を挙げて言う者に示して言うには、「実はすでにその名氏を記した」と。言う者は喜び、急いでその言葉を貫之に告げ、かつ言うには、「あなたは今日李実を訪ねれば明日には祝賀を受けるであろう」と。貫之は唯々と応じたが、数年経ってもついに訪ねず、しかしその後ついに昇進しなかった。
永貞年間、初めて監察御史に任ぜられた。上書して末弟の纁を挙げて自らの代わりとし、当時の議論は私心としなかった。右補闕に転じ、纁が代わって監察となった。元和元年、杜従郁が左補闕となったが、貫之は崔群とともに奏上して論じ、まもなく左拾遺に降格された。また論じて、拾遺・補闕は品こそ異なるが、いずれも諫官である。父が宰相で、子が諫官では、もし政事に得失があれば、子に父を論じさせることはできない、と。改めて秘書丞となった。
後に中書舎人張弘靖とともに制策を考査し、その名を第した者は十八人で、その後多くは文才で称された。礼部員外郎に転じた。新羅人の金忠義は機巧をもって進み、少府監に至り、その子を蔭官で両館生とした。貫之はその籍を保持して与えず、言うには、「工商の子は、仕官すべきではない」と。忠義は技芸をもって権幸に通じ、請う者は一つではなく、貫之はますます堅くこれを保持した。やがて上疏して忠義が朝籍を汚すべきでないことを陳べ、言葉と道理は懇切で、ついにこれを罷免して去らせた。吏部員外郎に改めた。三年、再び賢良の士を策試し、また貫之に命じて戸部侍郎楊於陵・左司郎中鄭敬・都官郎中李益とともに考策官とした。貫之は上第に居る者三人を奏上し、その言は実に時弊を指摘し、忌憚を顧みず、同じく考策官たる者も皆その言葉の直なることを難じたが、貫之はただ一人その奏に署名した。ついに果州刺史として出され、途中で巴州刺史に左遷された。まもなく都官郎中・知制誥として召し返された。一年余りして、中書舎人に拝され、礼部侍郎に改めた。およそ二年、選んだ士はおおむね浮華を抑え、まず行実を重んじ、これにより趨競する者はやや止んだ。尚書右丞に転じ、中謝の日、面を賜って金紫を授けられた。
翌年、本官をもって同中書門下平章事とした。淮西の役に、鎮州の賊が輦下を窃かに発し、宰相武元衡を殺し、御史中丞裴度を傷つけた。度が宰相となるに及んで、二寇をともに征討しようとしたが、議者は物力の及ばぬことを論じた。貫之は鎮を釈して威を養い、蔡を攻めて力を専一にすることを請うた。上は太平を急いでおり、その奏を許さなかった。貫之は進言して言うには、「陛下は建中の事を知らないのでしょうか。天下の兵は、蔡の急に始まり魏が応じ、斉趙ともに悪を同じくした。徳宗は天下の兵を率い、李抱真・馬燧に命じて急攻させたが、物力が尽き、ここに朱泚がこれに乗じて乱を起こし、朱滔がこれに従って闕に向かい、ついに梁・漢を府とし、奉天に行在することとなり、これらは皆陛下の聞き見しところです。他でもない、順序を待つ忍耐心がなく、速やかに撲滅しようとしたためです。陛下はただ年月を寛げ、蔡を抜くのを待って鎮を図ることができないのでしょうか」と。上は深くこれを然りとしたが、すでに鎮を伐つ詔を下していた。後に蔡を滅ぼすと鎮は自ら服し、その策の通りとなった。
初め、王師が蔡を征するに、汴帥韓弘を都統とし、また汝帥烏重胤・許帥李光顔に命じて合兵して進ませた。貫之は、諸将が四面より賊を討ち、それぞれ進取を競うのに、今もし統督を置き、また二帥に連営させれば、重きを保持して威を養い、年月を以てしては下せない、と考えた。貫之の議は用いられず、四年にして初めて蔡を克った。まもなく中書侍郎に遷った。同列の者が張仲素・段文昌の名を進めて学士としたが、貫之はこれを阻み、行いが正しからぬ者は内庭にあるべきでない、とした。
貫之が宰相となって、身を厳しくし下を律し、清流の品を先としたため、門に雑賓がなかった。張宿という者があり、口弁に優れ、憲宗の寵愛を得て、左補闕に抜擢された。淄青に使わそうとしたとき、宰臣裴度が章服を請おうとした。貫之は言うには、「この人は寵愛を得ているのに、どうしてその恩寵を借りる必要があろうか」と。その事はついに止んだ。宿は深くこれを恨み、ついにその構えられるところとなり、朋党を誣いて、吏部侍郎に罷められた。十日も経たず、湖南観察使として出された。弟の虢州刺史纁もまた遠郡に貶された。当時、両河に兵を留め、国用が足らず、塩鉄副使程異に命じて諸道に使わし財賦を督課させた。異の至る方鎮は、皆諷して進献を拾い集めさせた。貫之は両税の外に、横賦を加えて民を苦しめるに忍びず、献上するものが異の意に満たなかったため、ついに管内六州の留銭を率いて献上を継いだ。これにより太子詹事に罷められ、東都に分司した。
上(穆宗)が即位すると、河南尹に抜擢され、工部尚書に召し返された。赴任せず、長慶元年に東都で卒した。六十二歳。詔して尚書右僕射を贈られた。
貫之は布衣から貴位に至るまで、居室を改めなかった。重位を歴ること二十年、苞苴や宝玉は門に到らなかった。性質は沈厚で寡言、人と交わるに、一年中もてなしの言葉がなく、偽りの言葉をもって人を悦ばせたことはなかった。身没した後、家に余財がなかった。文集三十巻がある。
伯兄 綬
伯兄の綬は、徳宗の朝に翰林学士となった。貞元の政は、多く内署において参決された。綬の議論は、常に中道に合ったが、畏慎して傷つき、晩年に心疾を得たため、その用を極めなかった。
季弟 纁
纁には精識と奥学があり、士林に重んじられた。閨門の内では、名教を楽しみ合った。故に韋氏兄弟の令称は、一時に推された。纁は累官して太常少卿に至った。
貫之の子 澳
貫之の子は澳・潾である。
韋澳は字を子斐といい、太和六年に進士第に擢でられ、また弘詞科に及第した。性質は貞退寡欲であり、及第後十年仕官しなかった。伯兄の韋溫は、御史中丞高元裕と親しくしていた。韋溫は韋澳を御史に用いるよう請うて、韋澳に言った、「高二十九(高元裕)が憲綱を執っており、汝と面会したいと思っている。汝は必ず御史を得るであろう」。韋澳は答えなかった。韋溫が言うには、「高君は端士である。汝は軽んじてはならぬ」。韋澳は言った、「さよう。しかし恐らく身を呈する御史はあるまい」。ついに元裕の門を詣でなかった。
周墀が鄭滑を鎮守した時、辟いて従事とした。周墀が輔政すると、韋澳を考功員外郎・史館修撰とした。周墀が初めて相となった時、ひそかに韋澳に言った、「才小さく任重し、どうして相救わん」。韋澳は言った、「公の重く知られることを荷い、願わくは公に権なからんことを」。周墀は愕然として、その旨を理解しなかった。韋澳は言った、「爵賞刑罰は、公が共に行いたいと思うものではなく、喜怒憎愛をもってこれを行わないことを願う。ただ百司群官に各々その職を挙げしめれば、公は廟堂の上で衽を斂め、天下おのずから治まる。何ぞ権を要せん」。周墀は深くこれを然りとした。一年を経ずして、本官のまま制誥を知る。まもなく召されて翰林學士を充たし、累遷して戸部侍郎・兵部侍郎・學士承旨となった。同僚の蕭寘とともに深く宣宗に遇され、毎に二人が同直すると、召見されないことはなく、時事を詢訪された。邦國の刑政大事がある毎に、中使が宣して草詞を伝えると、韋澳は心に論諫せんと欲すれば、即ち言った、「この一事は、御劄を降すを須い、敢えて施行す」。遅留して旦に至り、必ずその可否を論じた。上旨多くこれに従った。出でて京兆尹となり、権豪を避けず、京兆尹の韋師璟も憚った。
時に戸部を判ずる宰相蕭鄴が度支を判ずるに改められ、韋澳は延英で対した。上は言った、「戸部に判使が欠けている」。韋澳は府の事をもって対えた。上は「戸部に判使が欠けている」と三度言い、また言った、「卿の意はいかがか」。韋澳は対えて言った、「臣近年心力減耗し、繁劇に耐えず、累ねて一小鎮を陳乞したが、聖慈未だ矜允を垂れ給わず」。上は默然としてその奏を楽しまなかった。韋澳の甥柳玭はその対を知り、韋澳に言った、「舅の獎遇は、特く聖知を承け、延英で奏対するも、恐らく中を得ず」。韋澳は言った、「吾は時相に信ぜられず、忽ち宸旨より使務を委ねられれば、必ずや吾が他岐よりこれを得たと思われ、どうして自ら明らかにせん。我が意は誤らず。爾は時事漸く堪えざるを知るべし、これ吾徒が爵位を貪った所致である。爾宜しくこれを誌すべし」。
大中十二年、檢校工部尚書に任じられ、兼ねて孟州刺史、河陽三城懷孟澤節度等使を充たし、内殿で辞した。上は言った、「卿自ら便を求む。我は卿を去らぬ」。河陽に累年在った。中使王居方が魏州に使いし、詔旨を伝えて韋澳に謂うには、「久しく別れて恙無きか。卿が道を奉ずるを知る。何の薬術を得たか、具に居方の口に奏すべし」。韋澳は中使に因りて上章し陳謝し、また言った、「方士は殊に聽くべからず、金石は毒あり、切に服食すべからず」。帝はその忠を嘉し、将に召さんとしたが、帝は代を厭した(崩御した)。
懿宗が即位すると、檢校戸部尚書に遷り、兼ねて青州刺史・平盧節度觀察處置等使となった。入朝して戸部侍郎となり、転じて吏部侍郎となったが、銓綜平允にして請托を受けなかった。執政に悪まれ、出でて邠州刺史・邠寧節度使となった。宰相杜審権は素より韋澳を悦ばず、時に吏部が韋澳の時の簿籍を発したが、吏が縁って奸を行い、坐して鎮を罷められ、秘書監として東都に分司した。嘗て戯れに吟じて云うには、「若し韋鑒を殷鑒に同じくせば、錯って容身を保身と認む」。この句は京師に聞こえ、権幸特にこれを怒った。上表して致仕を求めたが、宰相はその怨望を疑い、河南尹に拝した。制が出て、累ねて上章して疾を辞し、松槚(墓所)が秦川にあることを以て、樊川の別業に帰ることを求め、これを許された。逾年して、復た戸部侍郎を授けられた。疾を以て拝せずして卒した。戸部尚書を贈られ、謚して貞といった。
韋貫之の子 韋潾
韋潾もまた進士第に登ったが、位なくして卒した。韋潾の子は韋庾・韋庠・韋序・韋雍・韋郊。
韋潾の子 韋庾
韋庾は進士第に登り、累ねて使府を佐け、入朝して御史となり、累遷して兵部郎中・諫議大夫となった。僖宗に従って蜀に幸し、中書舍人に改められ、累拝して刑部侍郎となり、戸部事を判じた。車駕が京に還るに及び、頓遞使を充たし、鳳翔に至り病卒した。
韋潾の子 韋序・韋雍・韋郊
韋序・韋雍・韋郊は皆進士第に登った。韋序・韋雍は官尚書郎に至った。韋郊は文学特に高く、累ねて清顯を歴任した。礼部員外郎より制誥を知り、正しく中書舍人を拝した。昭宗の末、召されて翰林學士を充たし、累官して戸部侍郎・學士承旨となり、卒した。
史臣曰く
史臣曰く、二武(韋処厚・韋表微)は朗拔精裁にして、時の羽儀たり。悪を嫉むこと甚だしく、罹うところ不幸、
刃を倳ち血を喋(したたら)す、誠に哀しむべし。令狐(楚)の中傷、悪を為すこと滋く甚だし。君子の行い、その若くあらんや。鄭貞公(鄭覃)は博雅古を好み、一代の儒宗たり。文忠(鄭朗)は君に致し、乃祖を忝かしめず。衣冠の盛、近代に儔うこと罕なり。韋氏三宗、世に才俊多し。韋純・韋纁は忠懿にして、時の元龜たり。輔を作り兵を論ずるに、言皆國に體す。韋澳の貞亮、祖風を替えず。三代貞と謚され、行いを考うるに愧ずること無し。
贊して曰く、後族崢嵘たり、韋平一は榮を辭す。高風慶を襲い、鐘するは二衡(韋処厚・韋表微)に在り。猗なるかな貞公(鄭覃)、継ぐに文忠(鄭朗)を以てす。韋純・韋纁は文雅にして、綽に父風有り。