舊唐書

巻156

巻156

舊唐書

原文舊唐書

卷一百五十六

原文卷一百五十六

列傳第一百〇六 -{于}-頔 韓弘 王智興

原文列傳第一百〇六 -{于}-頔 韓弘 王智興

于頔

原文于頔

于頔、字は允元、河南の人である。周の太師燕文公于謹の後裔である。初めに蔭補により千牛となり、転じて華陰尉に任ぜられ、黜陟使劉灣に召されて判官となった。また櫟陽主簿を以て監察御史を兼ね、入蕃使判官を務めた。再び司門員外郎に遷り、侍御史を兼ね、紫衣を賜った。入西蕃計会使を務め、使命を果たして旨に適い、当時の論は彼に境外での専対の才能があると認めた。長安ちょうあん県令・駕部郎中を歴任した。

原文于頔,字允元,河南人也,周太師燕文公謹之後也。始以廕補千牛,調授華陰尉,黜陟使劉灣辟為判官。又以櫟陽主簿攝監察御史,充入蕃使判官。再遷司門員外郎,兼侍御史,賜紫。充入西蕃計會使,將命稱旨,時論以為有出疆專對之能。歷長安縣令、駕部郎中。

湖州刺史として出向した。県内巡行の際に長城方山に至り、その下に西湖という水があり、南朝時代に開鑿され、三千頃の田を灌漑していたが、長く埋もれて廃れていた。頔は堤塘を設けてこれを復旧させ、毎年粳稻や蒲魚の利益を得、人々はこれによって助けられた。州内の陸地は狭く、葬送する者が往々にして棺槨を掩わないので、頔は朽ちた骨を葬ること凡そ十余所に及んだ。蘇州刺史に転じ、溝渠を浚い、街路を整え、今日に至るまでその恩恵に頼っている。呉の風俗は鬼神を祀ることを事とし、頔はその淫祀が生業を廃するのを憎み、神祠をことごとく撤去し、ただ呉太伯・伍員など三、四の廟のみを残した。政務に実績はあったが、横暴は甚だしく、湖州時代の旧尉を恨み、封杖を用いて計略により強引に決断させた。観察使王緯がこの事を奏上したが、徳宗は省みなかった。後に頔が累遷した時、王緯に書を送って「一度悪しき奏上を受けたために、三度官を改めた」と言った。大理卿から陝虢観察使に遷った。自ら志を得たと思い、ますます威虐を恣にした。官吏に対し日々科罰を加え、彼らは恐れ慄いて重ねた足跡のようであった。掾の姚峴はその虐待に耐えかね、弟と共に河に舟を浮かべ、遂に自ら投身して死んだ。

原文出為湖州刺史。因行縣至長城方山,其下有水曰西湖,南朝疏鑿,溉田三千頃,久堙廢。頔命設堤塘以復之,歲獲粳稻蒲魚之利,人賴以濟。州境陸地褊狹,其送終者往往不掩其棺槥,頔葬朽骨凡十餘所。改蘇州刺史,浚溝瀆,整街衢,至今賴之。吳俗事鬼,頔疾其淫祀廢生業,神宇皆撤去,唯吳太伯、伍員等三數廟存焉。雖為政有績,然橫暴已甚,追憾湖州舊尉,封杖以計強決之。觀察使王緯奏其事,德宗不省。及後頔累遷,乃與緯書曰:「一蒙惡奏,三度改官。」由大理卿遷陜虢觀察使。自以為得志,益恣威虐。官吏日加科罰,其惴恐重足一跡。掾姚峴不勝其虐,與其弟泛舟於河,遂自投而死。

貞元十四年、襄州刺史となり、山南東道節度観察使を兼ねた。地は蔡州に隣接する。呉少誠の叛に際し、頔は兵を率いて唐州に赴き、呉房・朗山県を収め、また濯神溝で賊を破った。ここにおいて軍籍を広げ、戦士を募り、兵器甲冑は鋭利で、僴然として漢南の地を専有した。少しでも意に沿わぬ者は、皆軍法によって処断した。そこで襄州を大都督ととく府に昇格させることを請い、その府格を鄆・魏と同等にした。当時徳宗は方鎮を姑息していたので、頔の事状を聞いてもどうすることもできず、ただそのまま従うのみであった。頔の奏請は従わないものはなかった。ここにおいて公然と収斂を重ね、恣意に虐殺し、専ら上を凌ぎ下を威圧することを務めとした。鄧州刺史元洪を、頔は贓罪を誣えて奏聞し、朝廷の旨は已むなく端州への流罪とし、中使を遣わして監視させた。隋州棗陽県に至った時、頔は部将に命じて士卒数百人を率いさせ、元洪を襄州に劫略し、これを拘留した。中使は京師に奔り帰った。徳宗は怒り、中使を数十回笞った。頔はまた元洪の責めが重すぎると上表し、再び中使景忠信を遣わして旨を宣べ慰諭させた。遂に元洪を吉州長史に任じ、その後元洪は謫所に赴くことができた。また判官薛正倫を怒り、奏上して峽州長史に貶した。勅が下った時、頔の怒りは既に解けており、再び奏上して判官とすることを請い、徳宗は皆これに従った。正倫が卒し、未だ殯せざるに、頔は兵を以てその宅を囲み、庶子に命じてその嫡女を強娶させた。頔は累遷して左僕射・平章事・燕国公に至った。間もなく詔旨に奉ぜず、擅に兵を総べて南陽を拠り、朝廷は幾ばくかそのために食事も遅れるほど心配した。

原文貞元十四年,為襄州刺史,充山南東道節度觀察。地與蔡州鄰。吳少誠之叛,頔率兵赴唐州,收吳房、朗山縣,又破賊於濯神溝。於是廣軍籍,募戰士,器甲犀利,僴然專有漢南之地。小失意者,皆以軍法從事。因請升襄州為大都督府,府比鄆、魏。時德宗方姑息方鎮,聞頔事狀,亦無可奈何,但允順而已。頔奏請無不從。於是公然聚斂,恣意虐殺,專以淩上威下為務。鄧州刺史元洪,頔誣以贓罪奏聞,朝旨不得已為流端州,命中使監焉。至隋州棗陽縣,頔命部將領士卒數百人,劫洪至襄州,拘留之。中使奔歸京師。德宗怒,笞之數十。頔又表洪其責太重,復降中使景忠信宣旨慰諭。遂除洪吉州長史,然後洪獲赴謫所。又怒判官薛正倫,奏貶峽州長史。及敕下,頔怒已解,復奏請為判官,德宗皆從之。正倫卒,未殯,頔以兵圍其宅,令孽男逼娶其嫡女。頔累遷至左僕射、平章事、燕國公。俄而不奉詔旨,擅總兵據南陽,朝廷幾為之旰食。

憲宗が即位すると、四方を威厳をもって粛清したので、頔は少し戒め恐れた。第四子季友を以て公主との婚姻を求めた。憲宗は長女永昌公主を降嫁させた。その第二子于方は、屡々父を諷して帰朝入覲させ、司空しくう・平章事に冊拝された。

原文及憲宗即位,威肅四方,頔稍戒懼。以第四子季友求尚主。憲宗以長女永昌公主降焉。其第二子方,屢諷其父歸朝入覲,冊拜司空、平章事。

元和年間、内官梁守謙が枢密を掌り、頗る権利を招いた。梁正言という者があり、利を射ることに勇み、自ら守謙と宗盟の情厚きを言い、頔の子于敏は彼と交遊した。正言は頔の財賄を取り、守謙に賂して、出鎮を得させようと言った。久しく効果がなく、敏は正言にその財貨を責めた。そこで正言の僮を誘い、支解して厠中に棄てた。八年春、敏の奴王再栄が銀台門に詣でてこの事を告げ、即日に頔の孔目官沈璧・家僮十余りを捕え、内侍獄で審問した。間もなく台獄に引き渡し、詔して御史中丞薛存誠・刑部侍郎王播・大理卿武少儀を三司使として按問させたところ、死んだ奴をその邸で捜索し、これを獲た。頔はその子の賛善大夫于正・駙馬都尉季友を率い、素服に単騎で、闕下に赴かんとし、建福門で待罪した。門司は納れず、街の南に退き、墻に背を負って立ち、人を遣わして表を進めた。閣門使は引導がないとして受けず、日が没してようやく帰った。翌日、再び建福門で待罪した。宰相は諭して邸に還らせ、恩王傅に貶した。于敏は長期流罪で雷州に送られ、身を錮して発遣された。殿中少監・駙馬都尉季友は、両任の官階を追奪され、その家に反省を命じられた。左賛善大夫于正・秘書丞于方は共に現任を停められた。孔目官沈璧は四十回の決杖を受け、封州に配流された。奴犀牛は劉幹と共に手を下して人を殺したので、京兆府に付して決殺すべきである。于敏は行くこと商山に至り賜死された。梁正言・僧鑒虚は共に京兆府に付して決殺された。頔はその年十月、太子賓客に改めて授けられた。

原文元和中,內官梁守謙掌樞密,頗招權利。有梁正言者,勇於射利,自言與守謙宗盟情厚,頔子敏與之遊處。正言取頔財賄,言賂守謙,以求出鎮。久之無效,敏責其貨於正言。乃誘正言之僮,支解棄於混中。八年春,敏奴王再榮詣銀臺門告其事,即日捕頔孔目官沈璧、家僮十余人,於內侍獄鞫問。尋出付臺獄,詔御史中丞薛存誠、刑部侍郎王播、大理卿武少儀為三司使按問,乃搜死奴於其第,獲之。頔率其男贊善大夫正、駙馬都尉季友,素服單騎,將赴闕下,待罪於建福門。門司不納,退於街南,負墻而立,遣人進表。閣門使以無引不受,日沒方歸。明日,復待罪於建福門。宰相喻令還第,貶為恩王傅。敏長流雷州,錮身發遣。殿中少監、駙馬都尉季友,追奪兩任官階,令其家循省。左贊善大夫正、秘書丞方並停見任。孔目官沈璧決四十,配流封州。奴犀牛與劉幹同手殺人,宜付京兆府決殺。敏行至商山賜死。梁正言、僧鑒虛並付京兆府決殺。頔其年十月,改授太子賓客。

十年、王師が淮・蔡を討つに当たり、諸侯は財を貢いで軍を助けた。頔は銀七千両・金五百両・玉帯二を進上したが、詔して受け入れず、返還させた。十三年、頔は致仕を求める表を上った。宰臣は太子少保を授けようと擬したが、御筆で太子賓客に改めた。その年八月に卒し、太保を贈られ、謚して「厲」と言った。その子季友が苑中で狩りに従った際、穆宗に訴え、謚を「思」と賜った。右丞張正甫が勅を封還し、本来の謚に戻すことを請うた。

原文十年,王師討淮、蔡,諸侯貢財助軍。頔進銀七千兩、金五百兩、玉帶二,詔不納,復還之。十三年,頔表求致仕。宰臣擬授太子少保,御筆改為太子賓客。其年八月卒,贈太保,謚曰「厲」。其子季友從獵苑中,訴於穆宗,賜謚曰「思」。右丞張正甫封敕,請還本謚。

右補闕高鉞が上疏してこれを論じた。

原文右補闕高鉞上疏論之曰:

謚というものは、悪を懲らしめ善を勧め、濁りを激し清きを揚げ、忠臣義士に勧めを知らしめ、乱臣賊子に懼れを知らしめるためのものである。たとえ当時に窃かに位にあっても、死して悪謚を加えられるのは、暴戾を懲らしめ、沮止と勧奨を後世に垂れるためである。孔子が『春秋』を修めた時、乱臣賊子懼れたのは、まさにこのためである。このように範を垂れても救えないのに、ましてその典法を廃することはどうであろうか。

原文夫謚者,所以懲惡勸善,激濁揚清,使忠臣義士知勸,亂臣賊子知懼。雖竊位於當時,死加惡謚者,所以懲暴戾,垂沮勸。孔子修《春秋》,亂臣賊子懼,蓋為此也。垂範如此而不能救,況又隳其典法乎?

臣が風聞するところでは、この事は徐泗節度使李愬が奏請したものである。李愬は勲臣節将であり、陛下がその勲労を寵し、爵祿・車服・第宅を賜るのはよいが、もし朝廷の典法を乱すならば、どうして沮止と勧奨とすることができようか。仲尼は言われた、「ただ名と器のみは、人に仮すべからず」と。名器は君主が司るものであり、もし人に仮すならば、政を与えることになり、政が亡びれば国家もそれに従う。于頔はかつて襄・漢を鎮め、罪なき者を殺戮し、兇暴を恣にした。軍を襄・鄧に移し、朝廷を迫脅し、擅に逐臣を留め、天使を遮った。先朝が嗣位した初めに、反側する者を貴び安んじて、四方を靖めるためであった。幸いに鈇鉞の誅を免れ、腰領を全うして斃れたのであるから、誠に「繆厲」と謚して、兇邪を沮止すべきであり、どうして曲げて美名を加え、奸宄に恵むことができようか。このようにすれば、于頔は生きては奸臣であり、死して美謚を得ることになり、窃かに恐れるのは、天下の識者が聖朝に人無く、このような倒置があると言うことである。伏して速やかに前詔を追い、却って太常の謚する厲に依らせ、朝典を虧けず、国章を濫らせないように請う。

原文臣風聞此事是徐泗節度使李愬奏請。李愬勛臣節將,陛下寵其勛勞,賜其爵祿、車服、第宅則可,若亂朝廷典法,將何以沮勸?仲尼曰:「唯名與器,不可以假人。」名器,君之所司,若以假人,與之政也,政亡則國家從之。頔頃鎮襄、漢,殺戮不辜,恣行兇暴。移軍襄、鄧,迫脅朝廷,擅留逐臣,僥遮天使。當先朝嗣位之始,貴安反側,以靖四方。幸免鈇鉞之誅,得全腰領而斃,誠宜謚之「繆厲」,以沮兇邪,豈可曲加美名,以惠奸宄。如此,則是於頔生為奸臣,死獲美謚,竊恐天下有識之士,謂聖朝無人,有此倒置。伏請速追前詔,卻依太常謚為厲,使朝典無虧,國章不濫。

太常博士王彦威もまた上疏して言った。

原文太常博士王彥威又疏曰:

古の聖王が諡法を立てたのは、善悪を顕彰し、勧戒を垂れるためである。一字の褒賞は、紱冕を超える賞に等しく、一言の貶斥は、朝市を辱める辱めに過ぎる。これは国家の典礼であり、陛下の勧懲の大柄である。頔は近頃節旄を擁し、暴虐をほしいままにし、人神共に憤り、法令が容れない。全師を擅に興し、正楽を僭称し、中使を侵辱し、制囚を擅に止め、不辜を殺戮し、誅求に度なく、臣故に諡を厲と定む。今陛下忍びず、改めて「思」を賜うは、誠に聖慈より出づるも、実に聖政を害す。伏して陛下が宸扆に臨み、大中を懋建し、善を聞けば驚くが若く、諫に従いて倦まず。況や天を統べ極を立つるの始め、所謂法を執り名を慎むの時に当たり、一たび恩光を垂れ、大いに僥幸を啓く。且つ頔の不法なる如き、然るに陛下忍びずして懲を加えず、臣恐らくは今後不逞の徒頔の如き者衆しと。死して頔の例を援けば、陛下何を以てか之を処せん。是れ恩前を曲げて弊後を生ず。若し李吉甫に賜諡の例有りと為せば、則ち甫が相と為るや、上を犯し人を殺すの罪有りや。頔を以て之に況えば、恐らくは倫類に非ず。若し頔常に財を入れて国を助け、過を改めて来覲し、両たび絶域に使し、以て贖論すべしと為せば、夫れ物を傷つけ人を害し、下を剥ぎて上に奉じ、賄を納れて幸を求むるは、尤も其の漸を長ずべからず。

原文古之聖王立謚法者,所以彰善惡、垂勸誡。使一字之褒,賞逾紱冕;一言之貶,辱過朝市。此有國之典禮,陛下勸懲之大柄也。頔頃擁節旄,肆行暴虐,人神共憤,法令不容。擅興全師,僭為正樂,侵辱中使,擅止制囚,殺戮不辜,誅求無度,臣故定謚為厲。今陛下不忍,改賜為「思」,誠出聖慈,實害聖政。伏以陛下自臨宸扆,懋建大中,聞善若驚,從諫不倦。況當統天立極之始,所謂執法慎名之時,一垂恩光,大啟僥幸。且如頔之不法,然而陛下不忍加懲,臣恐今後不逞之徒如頔者眾矣!死援頔例,陛下何以處之?是恩曲於前而弊生於後。若以李吉甫有賜謚之例,則甫之為相也,有犯上殺人之罪乎?以頔況之,恐非倫類。如以頔常入財助國,改過來覲,兩使絕域,可以贖論,夫傷物害人,剝下奉上,納賄求幸,尤不可長其漸焉。

両河に宿兵してより、垂七十年、王師征に憓き、瘡磐未だ息まず。及び張茂昭易定を以て入覲し、程権滄景を以て朝に帰すに及び、故に恩礼殊に尤もしく、以て来者を勧む。而して於頔は文吏の職を以て、腹心の地に居り、而して倔強命に犯し、已むを得ずして朝に入る、豈に茂昭の比ならんや。縦い入財使遠の勤有りと雖も、何を以てか其の悪跡を掩わん。伏して望む、陛下恩は義に由りて断じ、沢は礼を以て成り、褒貶の道存し、僥幸の路絶え、則ち天下幸甚なりと。

原文自兩河宿兵,垂七十年,王師憓征,瘡磐未息。及張茂昭以易定入覲,程權以滄景歸朝,故恩禮殊尤,以勸來者。而於頔以文吏之職,居腹心之地,而倔強犯命,不獲已而入朝,豈茂昭之比乎!縱有入財使遠之勤,何以掩其惡跡!伏望陛下恩由義斷,澤以禮成,褒貶道存,僥幸路絕,則天下幸甚。

疏奏して報いず、竟に諡を思とす。

原文疏奏不報,竟謚為思。

長慶中、戚裏勛家の諸貴に引用せられて於方に至り、復た和王傅に至り、家は財に富めり。方は遊侠を交結し、速進に務む。元稹相と為り、其の策を以て河朔の群盗を平げんと欲し、方は策画を以て稹に幹る。而して李逢吉の党裴度を傾けんと欲し、乃ち人をして告げしむ、稹客を結びて度を刺さんと欲すと。事法司に下り、按鞫するに状無く、而して方竟に坐して誅せらる。

原文長慶中,以戚裏勛家諸貴引用於方,復至和王傅,家富於財。方交結遊俠,務於速進。元稹作相,欲以其策平河朔群盜,方以策畫幹稹。而李逢吉之黨欲傾裴度,乃令人告稹欲結客刺度。事下法司,按鞫無狀,而方竟坐誅。

韓弘

原文韓弘

韓弘は、潁川の人なり。其の祖・父聞こえず、世滑の匡城に居る。少く孤、母族に依る。劉玄佐即ち其の舅なり。玄佐に事えて州掾と為り、累奏して大理評事を試む。玄佐卒し、子士寧逐わる。弘汴州を出で、宋州南城将と為る。劉全諒時に都知兵馬使と為る。貞元十五年、全諒卒す、汴軍玄佐の恵を懐い、又弘の長厚なるを以て、共に留後と為らんことを請い、監軍使を環して表して其の事を請わしめ、朝廷亦玄佐の故を以て之を許す。自ら大理評事を試みて工部尚書・汴州刺史を檢校し、御史大夫・宣武軍節度副大使知節度事・宋亳汴潁觀察等使を兼ぬ。

原文韓弘,潁川人。其祖、父無聞,世居滑之匡城。少孤,依母族。劉玄佐即其舅也。事玄佐為州掾,累奏試大理評事。玄佐卒,子士寧被逐。弘出汴州,為宋州南城將。劉全諒時為都知兵馬使。貞元十五年,全諒卒,汴軍懷玄佐之惠,又以弘長厚,共請為留後,環監軍使請表其事,朝廷亦以玄佐故許之。自試大理評事檢校工部尚書、汴州刺史,兼御史大夫、宣武軍節度副大使知節度事、宋亳汴潁觀察等使。

時吳少誠人を汴に遣わし、密かに劉全諒と謀り、曲環卒するに因りて陳許を襲わんとす。会うに全諒卒し、其の人伝舎に在り、弘節鉞を獲るを喜び、即ち其の人を斬りて以て聞す。立たずして軍三千を出し、禁軍を助けて共に少誠を討つ。汴州劉士寧の後に自り、軍益々驕恣し、及び陸長源害に遇い、頗る主帥を軽んず。其の乱を為す魁党数十百人。弘事を視ること数月、皆其の人を知る。部将劉鍔と云う者有り、兇卒の魁なり。弘大いに威望を振わんと欲す。一日、短兵を衙門に引き、鍔と其の党三百を召し、其の罪を数え、尽く之を斬りて以て徇しむ、血道中に流る。弘賓僚に対し言笑自若たり。是より弘の朝に入るに訖るまで、二十余年、軍衆十万、敢えて乱を怙う者無し。累ねて檢校左右僕射・司空を授く。憲宗即位し、同平章事を加う。時王鍔檢校司空・平章事たり。宰臣武元衡に致書し、王鍔の下に在るを恥づ。憲宗方に形勢を以て淮西に臨まんと欲し、乃ち司徒しと・平章事を授け、班鍔の上に在らしむ。及び厳綬を招討と為して用うるに、賊に敗られ、弘方に汴州に鎮し、両河賊の衝要に当たり、朝廷其の異志を慮り、兵柄を之に授けんと欲し、而して李光顔・烏重胤をして実に旗鼓に当たらしむ。乃ち弘に淮西諸軍行営都統を授け、兵部郎中・知制誥李程をして官告を宣賜せしむ。弘実に理所を離れず、唯其の子公武に師三千を率いしめて李光顔軍に隷せしむ。弘統帥に居る雖も、常に諸軍の立功を欲せず、陰に逗撓の計を為す。毎に献捷を聞けば、輒ち数日怡ばず、其の国を危うくして功を邀うるは是の如し。吳元濟誅せられ、統帥の功を以て、檢校司徒・侍中を兼ね、許国公に封ぜられ、行営都統を罷む。

原文時吳少誠遣人至汴,密與劉全諒謀,因曲環卒襲陳許。會全諒卒,其人在傳舍,弘喜獲節鉞,即斬其人以聞。立出軍三千,助禁軍共討少誠。汴州自劉士寧之後,軍益驕恣,及陸長源遇害,頗輕主帥。其為亂魁黨數十百人。弘視事數月,皆知其人。有部將劉鍔者,兇卒之魁也。弘欲大振威望。一日,引短兵於衙門,召鍔與其黨三百,數其罪,盡斬之以徇,血流道中。弘對賓僚言笑自若。自是訖弘入朝,二十余年,軍眾十萬,無敢怙亂者。累授檢校左右僕射、司空。憲宗即位,加同平章事。時王鍔檢校司空、平章事。致書於宰臣武元衡,恥在王鍔之下。憲宗方欲用形勢以臨淮西,乃授以司徒、平章事,班在鍔上。及用嚴綬為招討,為賊所敗,弘方鎮汴州,當兩河賊之沖要,朝廷慮其異志,欲以兵柄授之,而令李光顏、烏重胤實當旗鼓。乃授弘淮西諸軍行營都統,令兵部郎中、知制誥李程宣賜官告。弘實不離理所,唯令其子公武率師三千隸李光顏軍。弘雖居統帥,常不欲諸軍立功,陰為逗撓之計。每聞獻捷,輒數日不怡,其危國邀功如是。吳元濟誅,以統帥功,加檢校司徒、兼侍中,封許國公,罷行營都統。

十四年、李師道を誅し、河南二州を収復す、弘大いに懼る。其の年七月、尽く汴の牙校千余人を携えて入覲す。便殿に対し、拝舞の際、其の足疾を以て、中使に命じて之を掖かしむ。宴賜加等し、徽号大礼に預かる。絹三十五万匹・騑三万匹・銀器二百七十件を進む。三たび章を上りて堅く戎務を辞し、願わくは京師に留まり朝請を奉ぜんとす。詔して曰く、

原文十四年,誅李師道,收復河南二州,弘大懼。其年七月,盡攜汴之牙校千餘人入覲。對於便殿,拜舞之際,以其足疾,命中使掖之。宴賜加等,預冊徽號大禮。進絹三十五萬匹、騑三萬匹、銀器二百七十件。三上章堅辭戎務,願留京師奉朝請。詔曰:

大忠を納れ、嘉績を樹つるは、臣の以て極節を明らかにする所以なり。殊寵を錫い、高秩を進むるは、国の以て元臣を待つ所以なり。況んや邦教誕敷し、王言総会し、百辟之に憲し、四方之を式瞻するに於てをや。永く懐いに念い、久しく其の位を虚しくす。載せて成命を揚げ、僉に休なるかなと曰う。

原文納大忠,樹嘉績,為臣所以明極節;錫殊寵,進高秩,有國所以待元臣。況乎邦教誕敷,王言總會,百辟攸憲,四方式瞻。永念於懷,久虛其位,載揚成命,僉曰休哉。

宣武軍節度副大使知節度事・汴宋亳潁等州觀察処置等使・開府儀同三司・守司徒・侍中を兼ね・使持節汴州諸軍事・汴州刺史・上柱国・許国公・食邑三千戸韓弘は、神に降り材を挺で、厚きを積みて器を成す。中に深閎の量を蘊し、外に嚴重の姿を標す。匡国済時の心有り、誠を推して耀さず。夷兇禁暴の略有り、義を仗して益々彰る。浚郊に鎮してより、二十余載、師徒訓を稟けて咸く肅し、吏士法を奉じて愈よ明らかなり。俗和平に臻し、人用庶富に用い、威声の重き、隠然として山の崇きが若し。

原文宣武軍節度副大使知節度事、汴宋亳潁等州觀察處置等使、開府儀同三司、守司徒、兼侍中、使持節汴州諸軍事、汴州刺史、上柱國、許國公、食邑三千戶韓弘,降神挺材,積厚成器;中蘊深閎之量,外標嚴重之姿。有匡國濟時之心,推誠不耀;有夷兇禁暴之略,仗義益彰。自鎮浚郊,二十余載,師徒稟訓而鹹肅,吏士奉法而愈明。俗臻和平,人用庶富,威聲之重,隱若山崇。

属に者、淮濆征を濯ぎ、命して群帥を統し、克く残孽を殄し、惟乃に指蹤の功有り。及び斉境妖を興し、師を分かち進討し、遂に元悪を梟し、惟乃に略地の効有り。既に旋旆を聞き、俄かに珪を執らんことを請い、深く魏闕の誠を陳し、遠く韓侯の志を継ぐ。天に朝するに慶有り、日に就く方に伸ぶ。又表章を抗し、固く戎旅を辞し、三たび敦諭を加うるも、守る所弥堅し。蕃に於て宣に於て、諒や注意に切なり。我を弼え我を輔くる、其の衷懇に違い難し。式に良願を遂げ、載せて上司を兼ぬ。道を論ずるの栄、之に因りて以て八政を斉しくす。中枢の長、之を升めて以て万務を賛せしむ。玄袞赤舄、寵光に備わり、其の人無くば、孰か斯の任に膺らん。守司徒・中書令を兼ぬべし。

原文屬者,淮濆濯征,命統群帥,克殄殘孽,惟乃有指蹤之功。及齊境興妖,分師進討,遂梟元惡,惟乃有略地之效。既聞旋旆,俄請執珪,深陳魏闕之誠,遠繼韓侯之誌。朝天有慶,就日方伸。又抗表章,固辭戎旅,三加敦諭,所守彌堅。於蕃於宣,諒切於註意;我弼我輔,難違其衷懇。式遂良願,載兼上司。論道之榮,因之以齊八政;中樞之長,升之以贊萬務。玄袞赤舄,備於寵光;不有其人,孰膺斯任?可守司徒、兼中書令。

乃ち吏部尚書張弘靖に平章事を兼ねしめ、弘に代わって宣武を鎮せしむ。

原文乃以吏部尚書張弘靖兼平章事,代弘鎮宣武。

憲宗が崩御し、弘が冢宰を摂行した。十五年六月、本官のまま河中尹・河中晉絳節度觀察等使を兼ねた。時に弘の弟の充は鄭滑節度使、子の公武は鄜坊節度使であった。父子兄弟、皆節鉞を執り、人臣の寵遇は一時に冠絶した。二年、老いて戎鎮を罷めることを請い、三度上表して許された。前の如く司徒・中書令を守った。その年の十二月に病没し、時に五十八歳。太尉を追贈され、賻として絹二千匹・布七百端・米粟千碩を賜った。

原文憲宗崩,以弘攝冢宰。十五年六月,以本官兼河中尹、河中晉絳節度觀察等使。時弘弟充為鄭滑節度使,子公武為鄜坊節度使。父子兄弟,皆秉節鉞,人臣之寵,冠絕一時。二年,請老乞罷戎鎮,三表從之。依前守司徒、中書令。其年十二月病卒,時年五十八。贈太尉,賻絹二千匹、布七百端、米粟千碩。

初め、弘は大梁を鎮守すること二十余年に及び、四州の征賦は皆己が有とし、未だ上供したことがなかった。私銭百万貫・粟三百万斛・馬七千匹を有し、兵械もこれに相応した。専ら財を聚め粟を積み、峻法を務めて威を樹てた。而して荘重寡言、沈謀勇断であり、隣封の呉少誠・李師道の輩は皆これを憚った。詔使が宣諭するも、弘は多く倨傲に待遇した。斉・蔡の賊が平定され、勢い屈して入朝すると、両朝の寵待は等を加え、弘は竟に名位を以て始終し、人臣の幸いであった。時に公武は既に卒し、弘の孫の紹宗が嗣いだ。

原文初,弘鎮大梁二十餘載,四州征賦皆為己有,未嘗上供。有私錢百萬貫、粟三百萬斛、馬七千匹,兵械稱是。專務聚財積粟,峻法樹威。而莊重寡言,沈謀勇斷,鄰封如吳少誠、李師道輩皆憚之。詔使宣諭,弘多倨待。及齊、蔡賊平,勢屈入覲,兩朝寵待加等,弘竟以名位始終,人臣之幸也。時公武已卒,弘孫紹宗嗣。

公武は宣武馬歩都虞候より兵を将いて蔡を誅し、賊が平定されると、検校右散騎常侍さんきじょうじ・鄜州刺史・鄜坊等州節度使となった。生母の喪に服し、起復して金吾将軍となり、仍って旧職にあった。十四年、父の弘が入朝すると、公武は節度を罷め、入朝して右金吾将軍となることを請うた。既にして弘は河中に出鎮し、季父の充は宣武に移鎮した。公武は嘆いて曰く、「二父が重鎮に連居し、吾が孺子を以て金吾の職を執らんとす。家門の盛んなる、克く勝えざるを懼る」と。堅く宿衛を辞し、右驍ぎょう衛将軍に改まった。性頗る恭遜にして、富貴を以て自ら処すること無かった。弘が河中を罷め、崇裏の第に居り、公武は宣陽裏の北門に居た。父を省問するため、疾無く暴卒し、戸部尚書を追贈された。

原文公武自宣武馬步都虞候將兵誅蔡,賊平,檢校右散騎常侍、鄜州刺史、鄜坊等州節度使。丁所生憂,起復金吾將軍,仍舊職。十四年,父弘入朝,公武乞罷節度,入為右金吾將軍。既而弘出鎮河中,季父充移鎮宣武,公武嘆曰:「二父聯居重鎮,吾以孺子當執金吾職,家門之盛,懼不克勝。」堅辭宿衛,改右驍衛將軍。性頗恭遜,不以富貴自處。弘罷河中,居崇裏第;公武居宣陽裏之北門,因省父,無疾暴卒,贈戶部尚書。

充は舅の劉玄佐に依り、河陽・昭義の牙将を歴任した。兄の弘が宣武を節制すると、召し帰して親兵を主らせ、御史大夫を奏授した。弘は頗る法を酷くし、人々自ら保つこと能わず。充独り謙恭礼を執り、未だ懈怠したことが無く、是より遍く士心を得た。然れども親として権重に逼るを以て、常に自ら安からず。元和六年、近郊に狩猟するに因り、単騎にて洛陽らくように帰った。時に朝廷方に弘を姑息し、亦充に異志無きを憐れみ、右金吾衛将軍に擢拝した。十二月、大将軍に転じ、少府監を歴任した。十五年、甥の公武に代わり鄜坊節度使・検校工部尚書となった。

原文充依舅劉玄佐,歷河陽、昭義牙將。及兄弘節制宣武,召歸主親兵,奏授御史大夫。弘頗酷法,人人不自保。充獨謙恭執禮,未嘗懈怠,由是遍得士心。然以親逼權重,常不自安。元和六年,因獵近郊,單騎歸於洛陽。時朝廷方姑息弘,亦憐充之無異志,擢拜右金吾衛將軍。十二月,轉大將軍,歷少府監。十五年,代侄公武為鄜坊節度使、檢校工部尚書。

長慶二年、幽・鎮・魏が復た乱した。朝廷は王承元に冀卒数千が滑州に在るを以て、封疆相接し、復た相勧誘するを恐れ、充と承元に所守を更換せしめ、検校左僕射とした。是歳、汴州節度使李願が三軍に逐われ、都將李絺が既に留後として立った。朝廷は充久しく汴州に在り、人心の悦附するを以て、充を宣武節度使と為し、兼ねて義成の師を統べて往きて絺を討たしめた。会に絺が脳に疽を発し、紀綱の李質に兵を属した。質は計を以て首乱を誅し、絺を京師に送った。充は遂に戦わずして大梁に入った。時に陳許の李光顔も亦詔を奉じて絺を討ち、尉氏に軍し、意必ず先ず汴を収めんと欲し、因って大いに俘掠を肆う。汴州監軍使姚文壽も亦許下の師を招かんと欲す。充は中牟に在りて其の謀を聞き、衆を率いて径ち城下に至る。汴人は素より充の来るを懐き、皆踊躍して相賀し、復た疑貳すること無し。詔して検校司空を加う。詔して潁州を割きて滑州に隷せしむ。充既に安堵し、密かに部伍の間を籍し、嘗て悪を構えたる者千余人を得たり。一日令を下し、併せて父母妻子を立ち出でしめ、敢えて境内に逡巡する者は斬るとす! 是より軍政大いに理まり、汴人愛戴せざる者無し。

原文長慶二年,幽、鎮、魏復亂。朝廷以王承元有冀卒數千在滑州,恐封疆相接,復相勸誘。命充與承元更換所守,檢校左僕射。是歲,汴州節度使李願被三軍所逐,立都將李絺既為留後。朝廷以充久在汴州,從心悅附,命充為宣武節度使,兼統義成之師往討絺。會絺疽發腦,屬兵於紀綱李質。質以計誅首亂,送絺歸京師。充遂不戰而入大梁。時陳許李光顏亦奉詔討絺,軍於尉氏,意欲必先收汴,因大肆俘掠。汴州監軍使姚文壽亦欲招許下之師。充在中牟聞其謀,率眾徑至城下。汴人素懷充來,皆踴躍相賀,無復疑貳。詔加檢校司空。詔割潁州隸滑州。充既安堵,密籍部伍間,得嘗構惡者千余人。一日下令,並父母妻子立出之,敢逡巡境內者斬!自是軍政大理,汴人無不愛戴。

四年八月、例に依り司徒を加う。詔未だ至らざるに、暴疾に卒す。時に五十五歳。司徒を追贈し、謚して肅と曰う。充は内外皆将家なれども、素より豪侈を事とせず、常に簡約を以て自ら持す。機に臨み決策し、動として遺悔無く、善く将たる者多く之を称す。

原文四年八月,例加司徒。詔未至,暴疾卒,時年五十五。贈司徒,謚曰肅。充雖內外皆將家,素不事豪侈,常以簡約自持。臨機決策,動無遺悔,善將者多之。

李質は汴の牙将である。李絺が既に留後と為り、質を心腹として倚りたる。朝廷が絺を郡守と為すに及び、誌して節鉞を邀うるも、質諭すれども従わず。会に絺が首に疽を発し、乃ち監軍の姚文寿と謀り、絺を斬りて首を伝え京師に送る。詔有りて韓充を以て汴を鎮ましむ。充未だ至らざるに、質軍州事を権知す。衙牙の兵二千人を使い、皆日に酒食を給し、物力之が為に損屈す。充将に至らんとす。質曰く、「若し韓公初めて至らば、頓に二千人の日膳を去らば、人情必ず大いに去らん。若し之を除かざれば、後当に継ぐこと無からん。此の弊を留めて吾が帥に遺すべからず」と。遂に処分して日膳を停め、而して後に充を迎う。召されて金吾将軍と為り、長慶三年四月卒す。

原文李質者,汴之牙將。李絺既為留後,倚質為心腹。及朝廷以絺為郡守,誌邀節鉞,質勸喻不從。會絺疽發首,乃與監軍姚文壽謀,斬絺傳首京師。有詔以韓充鎮汴。充未至,質權知軍州事。使衙牙兵二千人,皆日給酒食,物力為之損屈。充將至,質曰:「若韓公始至,頓去二千人日膳,人情必大去;若不除之,後當無繼。不可留此弊以遺吾帥。」遂處分停日膳而後迎充。召為金吾將軍,長慶三年四月卒。

王智興

原文王智興

王智興、字は匡諫、懷州溫縣の人なり。曾祖は靖、左武衛将軍。祖は瑰、右金吾衛将軍。父は縉、太子詹事。

原文王智興,字匡諫,懷州溫縣人也。曾祖靖,左武衛將軍。祖瑰,右金吾衛將軍。父縉,太子詹事。

智興は少より驍鋭にして、徐州の衙卒と為り、刺史の李洧に事えた。李納が謀叛し、洧を害せんと欲するに及び、洧は遂に徐州を以て国に帰す。納怒り、兵を以て徐を攻むること甚だ急なり。智興健行し、四五日ならずして表を賫し京師に馳せて援を求む。徳宗は朔方軍五千人を発し智興に随いて之に赴かしめ、淄青の囲み解く。是より、智興は常に徐軍を以て納に抗し、累ねて滕・豊・沛はい・狄の四鎮将を歴任す。是より二十余年徐将と為る。

原文智興少驍銳,為徐州衙卒,事刺史李洧。及李納謀叛,欲害洧。洧遂以徐州歸國。納怒,以兵攻徐甚急。智興健行,不四五日賫表京師求援。德宗發朔方軍五千人隨智興赴之,淄青圍解。自是,智興常以徐軍抗納,累歷滕、豐、沛、狄四鎮將。自是二十余年為徐將。

元和中、王師呉元済を誅す。李師道は蔡賊と謀り王師を撓沮せんとし、頻りに軍を出して徐を侵す。徐帥李願は所部の歩騎を悉く智興に委ねて之に抗せしむ。鄆将王朝晏は兵を以て沛を攻む。智興之を撃ち破る。賊又姚海に勁兵二万を率いさせて豊を囲み、城を攻むること甚だ急なり。智興復た之を撃ち破る。賊の壁に於いて美妾を獲たり。智興は軍士の之を争うを懼れ、乃ち曰く、「軍中に女子有りて、安んぞ敗れざらんや。此れ罪無きと雖も、軍法に違うなり」と。即ち之を斬りて徇す。累官して侍御史・本軍都押衙に至る。

原文元和中,王師誅吳元濟,李師道與蔡賊謀撓沮王師,頻出軍侵徐,徐帥李願以所部步騎悉委智興以抗之。鄆將王朝晏以兵攻沛,智興擊敗之。賊又令姚海率勁兵二萬圍豐,攻城甚急。智興復擊敗之。於賊壁獲美妾,智興懼軍士爭之,乃曰:「軍中有女子,安得不敗?此雖無罪,違軍法也。」即斬之以徇。累官至侍御史、本軍都押衙。

十三年、王師李師道を誅す。智興は徐軍八千を率い諸道の師に会して進撃す。陳許の軍と賊を金郷に大破し、魚臺を抜き、俘斬万計、功を以て御史中丞に遷る。賊平ぎ、沂州刺史を授かる。

原文十三年,王師誅李師道,智興率徐軍八千會諸道之師進擊。與陳許之軍大破賊於金鄉,拔魚臺,俘斬萬計,以功遷御史中丞。賊平,授沂州刺史。

長慶初、河朔復た乱し、兵を征して進討す。穆宗は素より智興の善く将たるを知り、検校左散騎常侍・兼御史大夫に遷し、武寧軍節度副使・河北行営都知兵馬使を充てしむ。

原文長慶初,河朔復亂,征兵進討。穆宗素知智興善將,遷檢校左散騎常侍、兼御史大夫,充武寧軍節度副使、河北行營都知兵馬使。

初めに、智興を召して徐軍三千を以て河を渡らせしとき、徐の勁卒は皆その部下に在りき。節度使崔群はその軍を旋して制し難きを慮り、密かに表を上りて闕に追赴せしめ、他の官を授けんことを請う。事未だ行われず、王廷湊を赦し、諸道班師するに会す。智興は期に先んじて境に入り、群は頗る憂疑し、府僚をして迎労せしめ、且つこれを誡めて曰く、「兵士は悉く甲仗を外に輸し、副使は十騎を以て城に入れ」と。智興既に首処す、賓僚これを聞きて心動き、率いて帰師して関を斬りて入り、軍中に異己の者十余人を殺す。然る後に衛に詣りて群に謝して曰く、「これ軍情なり」と。群は装を治めて闕に赴く、智興は兵士を遣わして群の家属を援送して埇橋に至らしむ。遂に塩鉄院の緡幣及び汴路の進奉物、商旅の貲貨を掠め、率いて十に七八を取る。濠州刺史侯弘度を逐う。弘度は城を棄てて走る。朝廷は兵を罷むるを以て、力を加えて討つ能わず、遂に智興に検校工部尚書・徐州刺史・御史大夫を授け、武寧軍節度・徐泗濠観察使を充てしむ。是より智興は務めて財賄を積み、以て権勢に賂り、その声譽を賈い、用度足らざれば、泗口に税を課して以てこれを裒益す。累加して検校僕射・司空に至る。

原文初,召智興以徐軍三千渡河,徐之勁卒皆在部下。節度使崔群慮其旋軍難制,密表請追赴闕,授以他官。事未行,會赦王廷湊,諸道班師。智興先期入境,群頗憂疑,令府僚迎勞,且誡之曰:「兵士悉輸甲仗於外,副使以十騎入城。」智興既首處,賓僚聞之心動,率歸師斬關而入,殺軍中異己者十余人。然後詣衛謝群曰:「此軍情也。」群治裝赴闕,智興遣兵士援送群家屬至埇橋。遂掠鹽鐵院緡幣及汴路進奉物,商旅貲貨,率十取七八。逐濠州刺史侯弘度。弘度棄城走。朝廷以罷兵,力不能加討,遂授智興檢校工部尚書、徐州刺史、御史大夫,充武寧軍節度、徐泗濠觀察使。自是智興務積財賄,以賂權勢,賈其聲譽,用度不足,稅泗口以裒益之。累加至檢校僕射、司空。

太和初め、李同捷が滄徳に拠りて叛く、智興は章を上り、躬ら士卒を督して賊を討たんことを請う。これに従う。乃ち全軍三万を出し、自ら五月の糧餉を備え、朝廷これを嘉す。検校司徒・同平章事を加え、兼ねて滄德行営招撫使とす。初め、同捷は狂桀として命を犯し、これに王廷湊を以て済し、王師は経年功無し。智興の棣州を抜くに及んで、賊大いに懼れ、諸軍稍く進取を務む。智興の首功を以て、守太傅を加え、雁門郡王に封ず。賊平ぎて朝に入り、上宴を麟徳殿に賜い、珍玩名馬を賞賜し、位を進めて侍中とし、許州刺史・忠武軍節度・陳許蔡等州観察使に改む。

原文太和初,李同捷據滄德叛,智興上章,請躬督士卒討賊。從之。乃出全軍三萬,自備五月糧餉,朝廷嘉之。加檢校司徒、同平章事,兼滄德行營招撫使。初,同捷狂桀犯命,濟之以王廷湊,王師經年無功。及智興拔棣州,賊大懼,諸軍稍務進取。以智興首功,加守太傅,封雁門郡王。賊平入朝,上賜宴麟德殿,賞賜珍玩名馬,進位侍中,改許州刺史、忠武軍節度、陳許蔡等州觀察使。

太和七年、河中尹・河中節度・晉磁隰観察等使に改めて授く。智興は朝に入るに因る。九年五月、汴州刺史・宣武軍節度・宋亳汴潁観察等使に改む。

原文太和七年,改授河中尹、河中節度、晉磁隰觀察等使。智興因入朝。九年五月,改汴州刺史、宣武軍節度、宋亳汴潁觀察等使。

開成元年七月卒す、年七十九。太尉を贈り、三日朝を視ず。洛陽の榆林の北原に葬る、四鎮の将校葬に会する者千人。

原文開成元年七月卒,年七十九。贈太尉,不視朝三日。葬於洛陽榆林之北原,四鎮將校會葬者千人。

智興に九子あり:晏平・晏宰・晏臯・晏實・晏恭・晏逸・晏深・晏斌・晏韜、而して晏平・晏宰最も知名なり。

原文智興九子:晏平、晏宰、晏臯、晏實、晏恭、晏逸、晏深、晏斌、晏韜,而晏平、晏宰最知名。

智興の子 晏平

原文智興子 晏平

晏平は幼くより父に従い征伐し、李同捷を討つ功を以て、検校右散騎常侍・霊州大都督府長史・朔方霊塩節度を授かる。父の憂に丁り、奔りて洛陽に帰る。晏平は官に居り貪黷にし、鎮を去る日、擅に征馬四百余匹及び兵仗七千事を将いて自衛し、憲司に糾さる。死を減じ、長流して康州にす。父の喪を以て、未だ流所に赴かず、河北の三鎮に告ぐ。三帥表を上りて救解し、昭雪に従わんことを請い、撫州司馬に改めて授く。給事中韋温・薛廷老・盧弘宣、制書を封還し、永州司戸に改む。韋温又執して下さず、文宗中使をして宣諭せしめて方に行わる。

原文晏平幼從父征伐,以討李同捷功,授檢校右散騎常侍、靈州大都督府長史、朔方靈鹽節度。丁父憂,奔歸洛陽。晏平居官貪黷,去鎮日,擅將征馬四百余匹及兵仗七千事自衛,為憲司所糾。減死,長流康州。以父喪,未赴流所,告於河北三鎮。三帥上表救解,請從昭雪,改授撫州司馬。給事中韋溫、薛廷老、盧弘宣封還制書,改永州司戶。韋溫又執不下,文宗令中使宣諭方行。

智興の子 晏宰

原文智興子 晏宰

晏宰は昆仲の間最も偉器と称せられ、大中後、上党・太原の節度使を歴任す。回鶻・党項を扞ぎ、屡々辺功を立てる。

原文晏宰於昆仲間最稱偉器,大中後,歷上黨、太原節度使。扞回鶻、党項,屢立邊功。

智興の子 晏臯

原文智興子 晏臯

晏臯は仕えて左威衛将軍に至る。

原文晏臯仕至左威衛將軍。

史臣曰く

原文史臣曰

史臣曰く:燕公は儒家の子を以て、時に逢いて擾攘し、士範を持せず、義に非ず侠に非ず、健者の為さざる所、末塗淪躓するは、固より其れ宜なり。韓・王の二帥は、険に乗り利に蹈み、上を犯し君無く、豺狼人のを噬ぜいみ、鵂鹠夜を幸いす、爵禄過当す、其れ已むべけん乎。これを功臣と謂わば、恐らく多く慚色あらん。

原文史臣曰:於燕公以儒家子,逢時擾攘,不持士範,非義非俠,健者不為,末塗淪躓,固其宜矣。韓、王二帥,乘險蹈利,犯上無君,豺狼噬人,鵂鹠幸夜,爵祿過當,其可已乎?謂之功臣,恐多慚色。

賛

原文贊

賛に曰く:於子は清狂にして、軽く彜章を犯す。韓は虐く王は剽に、一方に専恣す。元和赫斯たり、剣を揮いて披攘す。肉を択ぶの倫、爪距摧蔵せらる。

原文贊曰:於子清狂,輕犯彜章。韓虐王剽,專恣一方。元和赫斯,揮劍披攘。擇肉之倫,爪距摧藏。