舊唐書

巻155

巻155

舊唐書

原文舊唐書

卷一百五十五

原文卷一百五十五

列傳第一百〇四 穆寧 崔邠 竇群 李遜 薛戎

原文列傳第一百〇四 穆寧 崔邠 竇群 李遜 薛戎

穆寧

原文穆寧

穆寧は、懐州河内の人である。父の元休は、文学をもって著名であった。『洪範外伝』十篇を撰し、開元中にこれを献上した。玄宗は帛を賜い、偃師県丞・安陽令に任じた。

原文穆寧,懷州河內人也。父元休,以文學著。撰《洪範外傳》十篇,開元中獻之。玄宗賜帛,授偃師縣丞、安陽令。

寧は清廉で慎み深く剛直であり、交遊を重んじ、気節をもって自ら任じた。若くして明経に及第し、塩山尉に任ぜられた。この時、安禄山が初めて叛き、偽って劉道玄を景城守に任命した。寧は義を唱えて兵を起こし、道玄の首を斬った。檄文を郡邑に伝えると、多く応ずる者があった。賊将の史思明が郡を侵して来ると、寧は東光令を兼ねて兵を率いてこれを防いだ。思明は使者を遣わして説得誘惑したが、寧は直ちにこれを斬った。郡は賊の怨みが深くなることを恐れ、後に大軍が到着すると、寧の兵権と兼務の県を奪った。初め、寧は采訪使を補佐して巡按した際、常に平原を通り、太守の顔真卿と密かに禄山が必ず叛くと推測していた。この時至って、真卿もまた義を唱え、郡兵を挙げて禄山に抵抗した。ちょうど間使が書を持って真卿に送り、「夫子は衛君の為にせんか」と、他に言葉はなかった。真卿は書を得て大いに喜び、よって奏上して大理評事・河北采訪支使に任じた。寧は長子を母の弟に託して言った、「お前の行く所に従え、もし後継ぎが絶えなければ、私は気がかりはない」と。よって平原に赴き、真卿に言った、「先人には後継ぎがおります。古にいう死は鴻毛よりも軽いというのは、寧のことです。どうか公を補佐して危難を平定したい」。真卿は深くこれを認めた。その後、寧の計略が行われないこともあり、真卿は追い詰められ、郡を棄て、夜に河を渡って南に下り、鳳翔で粛宗に謁見した。帝が賊を拒いだ様子を問うと、真卿は言った、「臣は穆寧の言葉を用いなかったので、功業を成し得ませんでした」。帝はこれを奇異に思い、駅伝を発して寧を召し、要職をもって遇そうとした。ちょうど真卿が剛直で上意に背いたため、事は遂に止んだ。

原文寧清慎剛正,重交遊,以氣節自任。少以明經調授鹽山尉。是時,安祿山始叛,偽署劉道玄為景城守,寧唱義起兵,斬道玄首。傳檄郡邑,多有應者。賊將史思明來寇郡,寧以攝東光令將兵禦之。思明遣使說誘,寧立斬之。郡懼賊怨深,後大兵至,奪寧兵及攝縣。初,寧佐采訪使巡按,常過平原,與太守顏真卿密揣祿山必叛。至是,真卿亦唱義,舉郡兵以拒祿山。會間使持書遺真卿曰:「夫子為衛君乎?」更無他詞。真卿得書大喜,因奏署大理評事、河北采訪支使。寧以長子屬母弟曰:「惟爾所適,茍不乏嗣,吾無累矣。」因往平原,謂真卿曰:「先人有嗣矣!古所謂死有輕於鴻毛者,寧是也。願佐公以定危難。」真卿深然之。其後,寧計或不行,真卿迫蹙,棄郡,夜渡河而南,見肅宗於鳳翔。帝問拒賊之狀,真卿曰:「臣不用穆寧之言,功業不成。」帝奇之,發驛召寧,將以右職待之。會真卿以抗直失旨,事遂止。

上元二年、累官して殿中侍御史に至り、塩鉄転運使を補佐した。副元帥の李光弼は糧秣輸送が続かないことを理由に、あるいは寧を憎む者が、光弼に讒言したので、光弼は声高に寧を殺そうと言った。寧は直ちに徐州に至って光弼に会い、大義を説き、屈しなかった。光弼は深くこれを重んじ、寧は職務を行うことができた。宝応初め、侍御史に転じ、河南転運租庸塩鉄等副使となった。翌年、戸部員外郎に遷った。間もなく、御史中丞を兼ね、河南・江南転運使となった。広徳初め、庫部郎中を加えられた。この時、河運が通じず、漕運は漢水・沔水を経て商山から京師に達した。夏口を鎮守する者を選ぶに当たり、詔して寧を鄂州刺史・鄂嶽沔都団練使、及び淮西鄂嶽租庸塩鉄沿江転運使とし、金紫を賜った。時に淮西節度使の李忠臣は貪暴で法を奉ぜず、防戍を設けて商人に税を課し、また兵士を放って掠奪させ、通行人はほとんど絶えた。淮を挟んで治めると、寧の威名を憚り、寇盗はたちまち止んだ。沔州別駕の薛彦偉は事に坐して上意に逆らい、寧がこれを杖罰して死に至らしめた。寧は坐して虔州司馬に貶され、重ねて昭州平集尉に貶された。

原文上元二年,累官至殿中侍御史,佐鹽鐵轉運使。副元帥李光弼以餉運不繼,或惡寧者,誣譖於光弼,光弼揚言欲殺寧。寧直抵徐州見光弼,喻以大義,不為撓折。光弼深重之,寧得行其職。寶應初,轉侍御史,為河南轉運租庸鹽鐵等副使。明年,遷戶部員外郎。無幾,加兼御史中丞,為河南、江南轉運使。廣德初,加庫部郎中。是時河運不通,漕挽由漢、沔自商山達京師。選鎮夏口者,詔以寧為鄂州刺史、鄂嶽沔都團練使,及淮西鄂嶽租庸鹽鐵沿江轉運使,賜金紫。時淮西節度使李忠臣貪暴不奉法,設防戍以稅商賈,又縱兵士剽劫,行人殆絕。與寧夾淮為理,憚寧威名,寇盜輒止。沔州別駕薛彥偉坐事忤旨,寧仗之致死。寧坐貶虔州司馬,重貶昭州平集尉。

大暦四年、監察御史に起用され、淄青において転運留後事を領した。一年を隔てて、検校司封郎中・兼侍御史に改められ、江西において転運留後事を領した。翌年、検校秘書少監に拝され、和州刺史を兼ね、善政があった。しばらくして、官を罷免された。寧に代わった者が天宝の版籍をもって現戸数を校合し、逃亡が多いと誣告したので、坐して泉州司戸に貶された。寧の子の贊は、宮門の前に三年間留まって冤罪を訴えた。詔して御史を遣わして審理させると、人戸が倍増しており、詔書で寧を召し、右諭徳に任じた。寧は強毅であり、権貴に事えることができなかった。政権を執る者は、自分に附かないと考え、かつその制し難きを憚ったので、故に閑職に処した。寧は黙々として志を得ず、かつ言った、「時が我を容れぬならば、我は時に殉ぜず、則ち我の進む所にあらず、退くに在るか」と。病を理由に辞して家に居り、告暇を請うこと数十旬に及ぶことが数度あった。親友が強いて勧め、また一朝請した。上(皇帝)が奉天に在った時、寧は行在所に詣で、秘書少監に拝された。興元初め、右庶子に改めた。徳宗が京師に還ると、寧は言った、「我が志を行うことができる」と。よって病と称して、罷められて東都に帰った。貞元六年、そのまま秘書監に拝されて致仕した。

原文大歷四年,起授監察御史,領轉運留後事於淄青。間一年,改檢校司封郎中、兼侍御史,領轉運留後事於江西。明年,拜檢校秘書少監,兼和州刺史,理有善政。居無何,官罷。代寧者以天寶版籍校見戶,誣以逋亡多,坐貶泉州司戶。寧子贊,守闕三年告冤。詔遣御史按覆,而人戶增倍,詔書召寧,除右諭德。寧強毅,不能事權貴。執政者以為不附己,且憚其難制,故處之散位。寧默默不得誌,且曰:「時不我容,我不時殉,則非吾之進也,在於退乎!」辭病居家,請告幾十旬者數矣。親友強之,復一朝請。上居奉天,寧詣行在,拜秘書少監。興元初,改右庶子。德宗還京師,寧曰:「可以行吾誌矣。」因移病,罷歸東都。貞元六年,就拜秘書監致仕。

寧は学問を好み、諸子をよく教え、家道は厳格と称された。寡婦の姉に事えるに弟としての道をもって聞こえた。運命の道理に通達し、薬を服したことがなかった。常に諸子を戒めて言った、「吾聞く、君子の親に事えるは、志を養うことを大とし、直道のみであると。慎んで諂うことなかれ、これが吾が志である」と。貞元十年十月に卒去、時に七十九歳。四子あり、贊、質、員、賞。

原文寧好學,善教諸子,家道以嚴稱。事寡姊以悌聞。通達體命,未嘗服藥。每誡諸子曰:「吾聞君子之事親,養誌為大,直道而已。慎無為諂,吾之誌也。」貞元十年十月卒,時年七十九。四子:贊、質、員、賞。

寧の子 贊

原文寧子 贊

贊は、字を相明といい、初め官に就いて済源主簿となった。時に父の寧は和州刺史であり、剛直で廉使に屈せず、遂に誣告されて奏上され、泉州司戸参軍に貶された。贊は朝廷に駆けつけ、号泣して上訴した。詔して御史に審問させ、寧はようやく冤罪が晴れた。詔に曰く、「令子は父の冤を申し、憲臣は君の命を奉ず。楚の剣は牛斗に沖せず、秦の台は自ら塵埃を洗う」と。これにより名を知られた。累遷して京兆兵曹参そうしん軍・殿中侍御史となり、侍御史に転じ、東都に分司した。

原文贊,字相明,釋褐為濟源主簿。時父寧為和州刺史,以剛直不屈於廉使,遂被誣奏,貶泉州司戶參軍。贊奔赴闕庭,號泣上訴。詔御史覆問,寧方得雪。詔曰:「令子申父之冤,憲臣奉君之命,楚劍不沖於牛斗,秦臺自洗於塵埃。」由是知名。累遷京兆兵曹參軍、殿中侍御史,轉侍御史,分司東都。

時に陜州観察使の盧嶽の妾の裴氏は、子があったため、嶽の妻が財産を分け与えなかったので、官に訴えた。贊がその事を審理した。御史中丞の盧佋がこれを補佐し、深く裴の罪を追及するよう命じた。贊は公平を保って許さなかった。宰相の竇参は佋と親しく、参・佋ともに権力を握り、贊が小事に拘って指使を受け入れないことに怒り、遂に贊を獄に下した。侍御史の杜倫はその意を迎え、贊が裴から金を受けたと誣告し、その使者を鞭打って罪状を成立させ、甚だ急であった。贊の弟の賞は、朝廷に馳せ参じ、登聞鼓を叩いた。詔して三司使に審理させたが証拠がなく、郴州刺史として出された。参が失脚すると、召されて刑部郎中に任じられた。次に対する際、徳宗はその才能を嘉し、御史中丞に抜擢した。時に裴延齢が度支を判じ、奸巧をもって恩寵を受けた。配下の官吏に贓罪があったので、贊が審理して自白させた。延齢は法を曲げて釈放するよう請うたが、贊は三度固執して許さず、供述状を上奏した。延齢は贊が公平でないと誣告し、饒州別駕に貶した。母の喪に服し、再転して虔・常二州刺史となった。

原文時陜州觀察使盧嶽妾裴氏,以有子,嶽妻分財不及,訴於官,贊鞫其事。御史中丞盧佋佐之,令深繩裴罪。贊持平不許。宰臣竇參與佋善,參、佋俱持權,怒贊以小事不受指使,遂下贊獄。侍御史杜倫希其意,誣贊受裴之金,鞭其使以成其獄,甚急。贊弟賞,馳詣闕,撾登聞鼓。詔三司使覆理無驗,出為郴州刺史。參敗,征拜刑部郎中。因次對,德宗嘉其才,擢為御史中丞。時裴延齡判度支,以奸巧承恩。屬吏有贓犯,贊鞫理承伏。延齡請曲法出之,贊三執不許,以款狀聞。延齡誣贊不平,貶饒州別駕。丁母憂,再轉虔、常二州刺史。

憲宗が即位すると、宣州刺史・御史中丞に拝され、宣歙観察使を充て、歴任した所には皆政声があった。永貞元年十一月に卒去、時に五十八歳、工部尚書を追贈された。

原文憲宗即位,拜宣州刺史、御史中丞,充宣歙觀察使,所蒞皆有政聲。永貞元年十一月卒,時年五十八,贈工部尚書。

贊は弟の質、員、賞とともに、家柄・行い・人材をもって搢紳の仰ぐ所となった。贊は官位が高くなったが、父母はなお健在で、家法は清廉厳格であった。贊兄弟は指使を奉じ、童僕のように笞打ち責めることもあり、贊は最も孝行で謹厳であった。

原文贊與弟質、員、賞以家行人材為搢紳所仰。贊官達,父母尚無恙,家法清嚴。贊兄弟奉指使,笞責如僮仆,贊最孝謹。

寧の子 質

原文寧子 質

質は強直であり、制策に応じて第三等に入った。その条対した内容は、今日に至るまで伝わっている。補闕から給事中に至るまで、時政の得失について、必ず先ず論諫した。元和初め、賦税徴収使の役所が多く勝手に戸人を拘禁し、笞打ち掠奪して死に至らしめる者もあった。質はそこで論奏して、塩鉄転運司が私塩を裁決する際、囚人は州府の長吏と監決すべきであるとした。これにより刑罰の運用が統一された。憲宗は王承宗の叛に際し、宦官の吐突承璀を招討使に用いた。質は同僚を率いて宮殿の階下に伏して論奏し、古より宦官を将帥とした例はないと述べた。上はその名を改めたが、心は頗る快く思わず、間もなく質を太子左庶子に改めた。五年、楊憑と親しかったことに坐し、開州刺史として出された。間もなく卒去した。

原文質強直,應制策入第三等。其所條對,至今傳之。自補闕至給事中,時政得失,未嘗不先論諫。元和初,掌賦使院多擅禁系戶人,而有笞掠至死者。質乃論奏鹽鐵轉運司應決私鹽,系囚須與州府長吏監決。自是刑名畫一。憲宗以王承宗叛,用內官吐突承璀為招討使。質率同列伏閣論奏,言自古無以中官為將帥者。上雖改其名,心頗不悅,尋改質為太子左庶子。五年,坐與楊憑善,出為開州刺史。未幾卒。

寧子(寧員)

原文寧子 員

員は文辞に優れ、節義を重んじた。杜亞が東都留守となった時、従事・検校員外郎に辟召された。早世し、文集十巻があった。

原文員工文辭,尚節義。杜亞為東都留守,辟為從事、檢校員外郎。早卒,有文集十卷。

質(穆質)兄弟は皆よい評判があり、温和で純粋であり、世間は「乳製品の味わい」に例えて評した。贊(穆贊)は俗でありながら品格があり、酪らくである。質は美質で多くの人に受け入れられ、酥そである。員は醍醐だいごである。賞(穆賞)は乳腐にゅうふである。近代の士大夫で家法を論ずる者は、穆氏を高しとする。

原文質兄弟俱有令譽而和粹,世以「滋味」目之:贊俗而有格,為酪;質美而多入,為酥;員為醍醐;賞為乳腐。近代士大夫言家法者,以穆氏為高。

崔邠

原文崔邠

崔邠は、字を処仁といい、清河郡武城県の人である。祖父は結、父は倕で、官位は低かった。邠は若くして進士に挙げられ、また賢良方正科に及第した。貞元年間に渭南尉を授かり、拾遺・補闕に遷った。常に裴延齢を上疏して論じ、当時に知られた。兵部員外郎として制誥を知り、中書舎人に至るまで、凡そ七年を経た。また吏部選事を権知した。翌年、礼部侍郎となり、吏部侍郎に転じ、金紫を賜った。

原文崔邠,字處仁,清河武城人。祖結,父倕,官卑。邠少舉進士,又登賢良方正科。貞元中授渭南尉。遷拾遺、補闕。常疏論裴延齡,為時所知。以兵部員外郎知制誥至中書舍人,凡七年。又權知吏部選事。明年,為禮部侍郎,轉吏部侍郎,賜以金紫。

邠は温厚で沈着緻密、特に清廉・倹約を重んじた。上(皇帝)もまた彼を器重した。裴垍が彼を宰相に引き上げようとしたが、病のため応対が難しく、事は遂に止んだ。兄弟で同時に朝請を奉ずる者が四人おり、孝行と和やかさでよく知られていた。後に太常卿に改め、吏部尚書銓事を知った。故事によれば、太常卿が初めて着任する時、官署で『四部楽』を盛大に演奏し、観覧者は自由に見物した。邠は私邸から帽子を脱ぎ、自ら母の輿を導き、出会った公卿は馬を引き返して避け、路上の人々は栄誉と感じた。母の喪に服し、一年余りで卒去した。元和十年三月のことで、時に六十二歳であった。吏部尚書を追贈され、諡は文簡といった。

原文邠溫裕沈密,尤敦清儉。上亦器重之。裴垍將引為相,病難於承答,事竟寢。兄弟同時奉朝請者四人,頗以孝敬怡睦聞。後改太常卿,知吏部尚書銓事。故事,太常卿初上,大閱《四部樂》於署,觀者縱焉。邠自私第去帽,親導母輿,公卿逢者回騎避之,衢路以為榮。居母憂,歲余卒,元和十年三月也,時年六十二。贈吏部尚書,謚曰文簡。

邠の弟 鄯

原文邠弟 鄯

弟の鄯、郾、鄲など六人がいた。子の璀、璜、璀の子の彦融は皆進士第に及第し、台閣の官位を歴任した。

原文弟鄯、郾、鄲等六人。子璀、璜,璀子彥融,皆登進士第,歷位臺閣。

鄯は若くして文学があり、進士に挙げられた。元和年間、監察御史を歴任した。太和元年十月、太子詹事から左金吾衛大将軍に拝された。鄯の兄弟六人は、仕官して皆三品に至った。邠、郾、鄲の三人は、貢挙(科挙)を知り、官吏選考を掌った。冠族としての名声は、当時の名徳とされた。

原文鄯少有文學,舉進士。元和中,歷監察御史。太和元年十月,自太子詹事拜左金吾衛大將軍。鄯昆弟六人,仕官皆至三品。邠、郾、鄲三人,知貢舉,掌銓衡。冠族聞望,為時名德。

鄯は太和九年冬、左金吾大将軍であったが、病気もなく突然亡くなった。十日と経たないうちに李訓・鄭注の乱が起こり、その乱は金吾衛から始まった。君子は鄯の死が、崔氏の善行の積み重ねの兆しであったと知ったのである。礼部尚書を追贈された。子に瑄がいる。

原文鄯太和九年冬,為左金吾大將軍,無病暴亡。不旬日有訓、註之亂,其亂始自金吾。君子乃知鄯之亡,崔氏積善之征也。贈禮部尚書。子瑄。

邠の弟 郾

原文邠弟 郾

郾は、字を広略といい、進士に挙げられ、平判入等して集賢殿校書郎を授かった。三度の任命を経て朝官に昇り、監察御史、刑部員外郎となった。資質は秀でて立派で、神情は重厚高雅、人々は彼を見て敬愛し、ついに離れがたく、知らない者は事柄に高潔簡素で、静かで沈黙しているだけだと思った。母の喪に服し、喪が明けて吏部員外郎となった。奸吏は欺くことができず、孤寒で後ろ盾のない者も決して滞留させず、選考叙任の良さは当時に称えられた。再び左司郎中に遷った。

原文郾,字廣略,舉進士,平判入等,授集賢殿校書郎。三命升朝,為監察御史、刑部員外郎。資質秀偉,神情重雅,人望而愛之,終不可舍,不知者以為事高簡,拘靜默耳。居內憂,釋服為吏部員外。奸吏不敢欺,孤寒無援者未嘗留滯,銓敘之美,為時所稱。再遷左司郎中。

元和十三年、鄭余慶が礼儀詳定使となった時、当時の礼学に通じた者を選んで共に事に当たらせ、郾を詳定判官・吏部郎中とした。十五年、諫議大夫に遷った。

原文元和十三年,鄭余慶為禮儀詳定使,選時有禮學者共事,以郾為詳定判官、吏部郎中。十五年,遷諫議大夫。

穆宗が即位すると、狩猟と酒にふけり、朝に座することが常に遅かった。郾は同列の鄭覃らと延英殿で厳しく諫めた。穆宗は大いにこれを嘉し、狩猟遊興は少し減った。長慶年間、給事中に転じた。

原文穆宗即位,荒於禽酒,坐朝常晚。郾與同列鄭覃等延英切諫。穆宗甚嘉之,畋遊稍簡。長慶中,轉給事中。

昭湣帝(敬宗)が即位すると、侍講学士に選ばれ、中書舎人に転じた。思政殿に入って謝恩し、奏上して言った。「陛下が臣を侍講に用いられてから、半年余りになりますが、一度も臣に経義をお尋ねになりませんでした。今転任の栄を蒙り、実に屍位素餐を恥じ、厚恩に愧じます。」帝は言った。「朕は政務が少し暇になれば、すぐに教えを請おう。」高鉞が言った。「陛下のお心は善を好まれていても、儒生を招き入れられなければ、天下の人はどうして道を重んじることを知りましょうか。」帝は深く自らの過ちを認め、錦彩を賜った。郾は退いて、同列の高重と共に『六経』の嘉言要道を抄録し、事類によって区分し、凡そ十巻とし、『諸経纂要』と名付けた。君主が容易に閲覧できるようにと願ってのことである。上はこれを嘉し、錦彩二百匹、銀器等を賜った。

原文昭湣即位,選侍講學士,轉中書舍人。入思政殿謝恩,奏曰:「陛下用臣為侍講,半歲有余,未嘗問臣經義。今蒙轉改,實慚屍素,有愧厚恩。」帝曰:「朕機務稍閑,即當請益。」高鉞曰:「陛下意雖樂善,既未延接儒生,天下之人,寧知重道?」帝深引咎,賜之錦彩。郾退,與同列高重抄撮《六經》嘉言要道,區分事類,凡十卷,名曰《諸經纂要》,冀人主易於省覽。上嘉之,賜錦彩二百匹、銀器等。

その年、礼部侍郎に転じ、東都において挙人の試験を実施した。凡そ二歳にわたり貢士を掌り、公平な心で試験を閲し、芸能を賞抜し、擢でた者は名士に非ざるはなく、大中・咸通の代に至って、輔相名卿となった者は十数人に及んだ。陜州観察使として出向した。旧弊として上供が不足すると、吏の俸を奪ってこれを補うことがあり、歳八十万に及んだが、郾は廉使常用の直をもってこれを代えた。二年在任し、政績が朝廷に聞こえた。鄂嶽安黄等州観察使に遷った。さらに五年を経て、浙西道都団練観察使に移り、着任すると寛政を用いて疲れた民を安んじた。鄂渚に居するに及んでは、峻法厳刑を以てし、一度も死罪を赦すことはなかった。江湖の間に萑蒲が叢生していたため、蒙衝小艦を造り、上下千里にわたり、期月にして群盗をことごとく捕獲した。凡そ三度廉車を按じ、概ね清簡少事を由とし、財用に余裕があり、遂に寧泰であった。開成元年に卒し、享年六十九、吏部尚書を贈られ、諡して徳といった。

原文其年轉禮部侍郎,東都試舉人。凡兩歲掌貢士,平心閱試,賞拔藝能,所擢者無非名士,至大中、咸通之代,為輔相名卿者十數人。出為陜州觀察使。舊弊有上供不足,奪吏俸以益之,歲八十萬,郾以廉使常用之直代之。居二年,政績聞於朝。遷鄂嶽安黃等州觀察使。又五年,移浙西道都團練觀察使,至,用寬政安疲人。及居鄂渚,則峻法嚴刑,未常貰一死罪。江湖之間,萑蒲是叢,因造蒙沖小艦,上下千里,期月而盡獲群盜。凡三按廉車,率由清簡少事,財用有余,遂寧泰。開成元年卒,年六十九,贈吏部尚書,謚曰德。

郾は兄の邠、弟の鄲らと共に皆令誉があった。しかし郾は財を疏かにし恢廓であり、昆仲の及ぶところではなかった。子に瑤、瑰、瑾、珮、璆がいた。

原文郾與兄邠、弟鄲等皆有令譽。而郾疏財恢廓,昆仲所不及。子瑤、瑰、瑾、珮、璆。

郾の子 瑤

原文郾子 瑤

瑤は、太和三年に進士第に登り、藩方に出て佐となり、朝列に入って昇り、累ねて中書舎人に至った。大中六年、貢挙を知り、間もなく礼部侍郎を拝した。浙西観察使として出向し、また鄂州刺史・鄂嶽観察使に遷り、任上で終わった。瑰、珮、璆は官が郎署・給諫に至った。

原文瑤,太和三年登進士第,出佐籓方,入升朝列,累至中書舍人。大中六年,知貢舉,旋拜禮部侍郎。出為浙西觀察使,又遷鄂州刺史、鄂嶽觀察使,終於位。瑰、珮、璆官至郎署給諫。

郾の子 謹

原文郾子 謹

謹は、大中十年に進士第に登り、累ねて使府に居し、尚書郎・知制誥を歴任した。咸通十三年、貢挙を知り、選抜は頗る人を得た。間もなく礼部侍郎を拝し、湖南観察使として出向した。

原文謹,大中十年登進士第,累居使府,歷尚書郎、知制誥。咸通十三年,知貢舉,選拔頗為得人。尋拜禮部侍郎,出為湖南觀察使。

邠の弟 鄲

原文邠弟 鄲

鄲は、進士第に登り、累ねて監察御史に遷り、三たび遷って考功郎中となった。太和三年、本官をもって翰林学士を充て、中書舎人に転じた。六年、学士を罷めた。八年、工部侍郎・集賢殿学士となり、礼部を権知し、真に兵部侍郎を拝し、本官をもって吏部東銓事を判じた。

原文鄲,登進士第,累遷監察御史,三遷考功郎中。太和三年,以本官充翰林學士,轉中書舍人。六年,罷學士。八年,為工部侍郎、集賢殿學士,權知禮部,真拜兵部侍郎,本官判吏部東銓事。

文宗は政道に勤め、毎に選曹の訛弊を苦にし、延英において宰臣に謂いて曰く、「吏部は殊に才を選ばず、どうすれば実を摭って濫れ無くせん、厘革することはできぬか」と。李石対えて曰く、「令録は以て商量すべく、他の官は且く旧に循うべし」と。上曰く、「旧に循うは官を配するが如きのみ、賢不肖をどうして甄別せん」と。帝は三銓を召して之に謂いて曰く、「卿等比して令録を選ぶに、如何に註擬するか」と。鄲対えて曰く、「資叙相当にして、其の治の術を問い、可否を視て之を擬す」と。帝曰く、「資に依り合うを得て、而して才劣なる者は何に授くか」と。対えて曰く、「辺遠の慢官に与う」と。帝曰く、「もし不肖の才を以て辺民を治めば、則ち疾苦知るべし。凡そ朝廷理を求むるに、遠近皆須らく人を得べし。苟も其の才に非ざれば、人は其の弊を受く」と。間もなく吏部侍郎を拝した。

原文文宗勤於政道,每苦選曹訛弊,延英謂宰臣曰:「吏部殊不選才,安得摭實無濫,可厘革否?」李石對曰:「令錄可以商量,他官且宜循舊。」上曰:「循舊如配官耳,賢不肖安能甄別?」帝召三銓謂之曰:「卿等比選令錄,如何註擬?」鄲對曰:「資敘相當,問其為治之術,視可否而擬之。」帝曰:「依資合得,而才劣者何授?」對曰:「與邊遠慢官。」帝曰:「如以不肖之才治邊民,則疾苦可知也。凡朝廷求理,遠近皆須得人。茍非其才,人受其弊矣。」尋拜吏部侍郎。

開成二年、宣州刺史として出向し、御史中丞・宣歙観察使を兼ねた。四年、太常卿として入朝した。七月、本官をもって同中書門下平章事となり、間もなく中書侍郎・銀青光禄大夫を加えられた。会昌初め、李徳裕が用いられ、鄲の弟兄と素より善しとしていた。鄲は相位に累年あり、方鎮・太子師保を歴て卒した。

原文開成二年,出為宣州刺史,兼御史中丞、宣歙觀察使。四年,入為太常卿。七月,以本官同中書門下平章事,尋加中書侍郎、銀青光祿大夫。會昌初,李德裕用事,與鄲弟兄素善。鄲在相位累年,歷方鎮、太子師保卒。

竇群

原文竇群

竇群、字は丹列、扶風平陵の人。祖父の亶は、同昌郡司馬。父の叔向は、詩を工みするをもって称され、代宗朝、官は左拾遺に至った。群の兄の常、牟、弟の鞏は、皆進士第に登ったが、唯だ群のみは処士となり、毗陵に隠居し、節操をもって聞こえた。母の卒するに及び、一指を嚙んで棺中に置き、因って墓次に廬して喪を終えた。後に啖助の門人盧庇に《春秋》を学び、書三十四巻を著し、号して《史記しき名臣疏》といった。貞元中、蘇州刺史韋夏卿が丘園茂異として推薦し、兼ねて其の書を献じたが、報いられなかった。夏卿が吏部侍郎として入朝し、京兆尹に改まった時、中謝の日、対するに因って復た群を推薦した。左拾遺に征拝され、侍御史に遷り、入蕃使秘書監張薦の判官を充てた。群は入対に因り、奏して曰く、「陛下即位二十年、始めて草沢より臣を擢でて拾遺と為す、是れ其の進を難しとするなり。今陛下二十年難進の臣を以て、和蕃の判官と為す、何ぞ一たび易きや」と。徳宗は其の言を異とし、之を留め、復た侍御史とした。

原文竇群,字丹列,扶風平陵人。祖亶,同昌郡司馬。父叔向,以工詩稱,代宗朝,官至左拾遺。群兄常、牟,弟鞏,皆登進士第,唯群獨為處士,隱居毗陵,以節操聞。及母卒,嚙一指置棺中,因廬墓次終喪。後學《春秋》於啖助之門人盧庇者,著書三十四卷,號《史記名臣疏》。貞元中,蘇州刺史韋夏卿以丘園茂異薦,兼獻其書,不報。及夏卿入為吏部侍郎,改京兆尹,中謝日,因對復薦群。征拜左拾遺,遷侍御史,充入蕃使秘書監張薦判官。群因入對,奏曰:「陛下即位二十年,始自草澤擢臣為拾遺,是難其進也。今陛下以二十年難進之臣,用為和蕃判官,一何易也?」德宗異其言,留之,復為侍御史。

王叔文の党の柳宗元、劉禹錫は皆群を慢じたが、群は彼らに附さなかった。其の党は群の官を貶そうと議したが、韋執誼が之を止めた。群は嘗て王叔文を謁したが、叔文は榻を撤して進むことを命じた。群は之に揖して曰く、「夫れ事に知るべからざる者有り」と。叔文曰く、「如何」と。群曰く、「去年李実は恩を伐り貴に恃み、一時を傾動せしめ、此時公は路傍に逡巡し、乃ち江南の一吏に過ぎざりき。今公已に実の形勢に処る、又安んぞ路傍に公有るを慮わざらんや」と。叔文は其の言を異としたが、竟に之を用いなかった。

原文王叔文之黨柳宗元、劉禹錫皆慢群,群不附之。其黨議欲貶群官,韋執誼止之。群嘗謁王叔文,叔文命撤榻而進。群揖之曰:「夫事有不可知者。」叔文曰:「如何?」群曰:「去年李實伐恩恃貴,傾動一時,此時公逡巡路旁,乃江南一吏耳。今公已處實形勢,又安得不慮路旁有公者乎?」叔文雖異其言,竟不之用。

憲宗即位し、膳部員外に転じ、侍御史知雑を兼ね、唐州刺史として出向した。節度使于頔は素より其の名を聞き、謁見するや、群の危言激切なるに、頔は甚だ悦んだ。奏して留め山南東道節度副使・検校兵部郎中・兼御史中丞を充て、紫金魚袋を賜う。宰相武元衡、李吉甫は皆之を愛重し、召し入れて吏部郎中とした。元衡が政を輔けるに及び、群を挙げて己に代わり中丞と為さんとした。群は刑部郎中呂温、羊士諤を御史とすることを奏した。吉甫は羊、呂が険躁なりとして、之を持し数日下さず、群らは吉甫を怒怨した。

原文憲宗即位,轉膳部員外,兼侍御史知雜,出為唐州刺史。節度使于頔素聞其名,既謁見,群危言激切,頔甚悅。奏留充山南東道節度副使、檢校兵部郎中,兼御史中丞,賜紫金魚袋。宰相武元衡、李吉甫皆愛重之,召入為吏部郎中。元衡輔政,舉群代己為中丞。群奏刑部郎中呂溫、羊士諤為御史。吉甫以羊、呂險躁,持之數日不下,群等怒怨吉甫。

三年八月、吉甫が宰相を罷め、淮南に出鎮すると、群らは恩を失うに因り之を傾けんとした。吉甫は嘗て術士陳登を召し安邑里の第に宿らせた。翌日、群は吏に命じて登を捕え考劾し、偽りに吉甫の陰事を構え、密かに上聞した。帝は登を召し面訊したところ、直ちに其の偽りを弁じた。憲宗怒り、群らを誅せんとしたが、吉甫が之を救い、湖南観察使として出向させた。数日後、黔州刺史・黔州観察使に改めた。黔中において、大水に属して其の城郭が壊れたため、復た其の城を築き、溪洞諸蛮を征督した。程作頗る急であったため、ここに辰、錦の生蛮が険に乗じて乱を起こし、群は之を討したが定められなかった。六年九月、開州刺史に貶された。郡に二年在り、容州刺史・容管経略観察使に改まった。九年、詔して還朝を命ぜられたが、衡州に至り病卒し、時に年五十であった。

原文三年八月,吉甫罷相,出鎮淮南,群等欲因失恩傾之。吉甫嘗召術士陳登宿於安邑里第。翌日,群令吏捕登考劾,偽構吉甫陰事,密以上聞。帝召登面訊之,立辯其偽。憲宗怒,將誅群等,吉甫救之,出為湖南觀察使。數日,改黔州刺史、黔州觀察使。在黔中,屬大水壞其城郭,復築其城,征督溪洞諸蠻。程作頗急,於是,辰、錦生蠻乘險作亂,群討之不能定。六年九月,貶開州刺史。在郡二年,改容州刺史、容管經略觀察使。九年,詔還朝,至衡州病卒,時年五十。

李群の性質は残忍で、恩讎にこだわり、事に臨んで生死を顧みない。この時召し出され、大いに用いられようとしていたので、人々は皆恐れおののいたが、その死を聞いてようやく安心した。二子あり、謙余、審余。

原文群性狠戾,頗復恩讎,臨事不顧生死。是時徵入,云欲大用,人皆懼駭,聞其卒方安。二子:謙余、審余。

李群の兄 李常

原文群兄 常

兄の李常は、字は中行、大暦十四年に進士第に及第し、広陵の柳楊に住んだ。家を構え樹木を植え、みだりに官途を求めず、講学と著書を事とし、およそ二十年間外に出なかった。貞元十四年、鎮州節度使王武俊がその賢を聞き、人を遣わして招聘し、掌書記に辟召したが、就任しなかった。その年、杜佑が淮南を鎮守し、校書郎に奏授し、節度参謀とした。元和六年、湖南判官より入朝して侍御史となり、水部員外郎に転じた。出て朗州刺史となり、固陵・潯陽・臨川の三郡の太守を歴任した。入朝して国子祭酒となり、致仕を求めた。宝暦元年に卒し、時に七十歳。子の弘余は、会昌年間に黄州刺史となった。

原文兄常,字中行,大曆十四年登進士第,居廣陵之柳楊。結廬種樹,不求茍進,以講學著書為事,凡二十年不出。貞元十四年,鎮州節度使王武俊聞其賢,遣人致聘,辟為掌書記,不就。其年,杜佑鎮淮南,奏授校書郎,為節度參謀。元和六年,自湖南判官入為侍御史,轉水部員外郎。出為朗州刺史,歷固陵、潯陽、臨川三郡守。入為國子祭酒,求致仕。寶曆元年卒,時年七十。子弘余,會昌中為黃州刺史。

李群の兄 李牟

原文群兄 牟

李牟は、字は貽周、貞元二年に進士第に及第し、秘書省校書郎・東都留守巡官を試みられた。河陽・昭義の従事を歴任し、検校水部郎中、緋を賜い、再び留守判官となった。入朝して都官郎中となり、出て沢州刺史となり、入朝して国子祭酒となった。長慶二年に卒し、時に七十四歳。子の周余は、大中年間に秘書監となった。

原文牟,字貽周,貞元二年登進士第,試秘書省校書郎、東都留守巡官。歷河陽、昭義從事,檢校水部郎中,賜緋,再為留守判官。入為都官郎中,出為澤州刺史,入為國子祭酒。長慶二年卒,時年七十四。子周余,大中年秘書監。

李牟の弟 李庠

原文牟弟 庠

李牟の弟の李庠は、字は胄卿、初め国子主簿に任じられた。吏部侍郎韓臯が出て武昌を鎮守し、推官に辟召した。韓臯が浙西に移鎮すると、李庠を節度副使・殿中侍御史と奏し、沢州刺史に遷った。また宣歙副使となり、奉天令・登州刺史・東都留守判官を除され、信・婺の二州刺史を歴任した。卒年六十三。子に繇・載あり。

原文牟弟庠,字胄卿,釋褐國子主簿。吏部侍郎韓臯出鎮武昌,辟為推官。臯移鎮浙西,奏庠為節度副使、殿中侍御史,遷澤州刺史。又為宣歙副使,除奉天令、登州刺史、東都留守判官,歷信、婺二州刺史。卒年六十三。子繇、載。

李群の弟 李鞏

原文群弟 鞏

李鞏は、字は友封、元和二年に進士第に及第した。袁滋が滑州を鎮守し、従事に辟召した。袁滋が荊・襄の二鎮に改められても、皆これに従い、掌記の任を管した。平盧の薛平もまた副使に辟召した。入朝し、侍御史に拝され、司勲員外・刑部郎中を歴任した。元稹が浙東を観察し、副使・検校秘書少監兼御史中丞に奉じ、金紫を賜った。元稹が武昌に移鎮すると、李鞏はまたこれに従った。李鞏は五言詩をよくし、兄弟の間で、李牟の詩とともに当時に賞重された。性質は温雅で、多く議論を持することができず、士友が言議する際、口は動くが言葉を発さず、白居易らはこれを「囁嚅翁」と称した。ついに鄂渚で終わり、時に六十歳。子六人、景余・師裕が最も知名である。

原文鞏,字友封,元和二年登進士第。袁滋鎮滑州,辟為從事。滋改荊、襄二鎮,皆從之,掌管記之任。平盧薛平又辟為副使。入朝,拜侍御史,歷司勛員外、刑部郎中。元稹觀察浙東,奉為副使、檢校秘書少監,兼御史中丞,賜金紫。稹移鎮武昌,鞏又從之。鞏能五言詩,昆仲之間,與牟詩俱為時所賞重。性溫雅,多不能持論,士友言議之際,吻動而不發,白居易等目為「囁嚅翁」。終於鄂渚,時年六十。子六人,景余、師裕最知名。

李遜

原文李遜

李遜は、字は友道、後魏の申公李発の後裔であり、趙郡においてこれを申公房と謂う。曾祖は進徳、太子中允。祖は珍玉、昌明令。父は震、雅州別駕。代々荊州の石首に寓居した。

原文李遜,字友道,後魏申公發之後,於趙郡謂之申公房。曾祖進德,太子中允。祖珍玉,昌明令。父震,雅州別駕。世寓於荊州之石首。

李遜は進士第に及第し、襄陽掌書記に辟召された。また湖南に従事し、その留務を主り、頗る声績があり、累ねて池・濠の二州刺史を拝した。先に、濠州の都將楊騰が士卒を削刻し、州兵三千人が楊騰を謀殺しようとした。楊騰はこれを覚り、揚州に走り、家屬は皆死んだ。濠兵は自ら収まらず、因って行って掠奪した。李遜が郡に至った時、余乱は未だ絶えていなかった。徐々にその間を駆け巡り、逆順利害の勢いを陳べると、衆は皆甲を解いて罪を請い、因って寧息した。観察使が限外の征役を命じたが、皆従わなかった。入朝して虞部郎中を拝した。

原文遜登進士第,辟襄陽掌書記。復從事於湖南,主其留務,頗有聲績,累拜池、濠二州刺史。先是,濠州之都將楊騰,削刻士卒,州兵三千人謀殺騰。騰覺之,走揚州,家屬皆死。濠兵不自戢,因行攘剽。及遜至郡,余亂未殄。徐驅其間,為陳逆順利害之勢,眾皆釋甲請罪,因以寧息。觀察使旨限外征役,皆不從。入拜虞部郎中。

元和初め、出て衢州刺史となった。政績が殊に優れていたので、越州刺史に遷り、御史大夫・浙東都団練観察使を兼ねた。先に、貞元初め、皇甫政が浙東を鎮守し、かつて福建で兵乱があり、観察使呉詵を逐ったことがあった。皇甫政は鎮守する所が実に閩境に圧することを以て、暫く兵三千を増やすことを請い、賊が平定されてから罷めようとした。賊が平定されてから三十年近くになるが、増やした兵は依然としてそのままだった。李遜が視事して数日で、これを停めることを挙奏した。李遜は政治を行うに、貧富を均一にし、弱きを扶け強きを抑えることを己が任務としたので、至る所で治まると称された。

原文元和初,出為衢州刺史。以政績殊尤,遷越州刺史,兼御史大夫、浙東都團練觀察使。先是,貞元初,皇甫政鎮浙東,嘗福建兵亂,逐觀察使吳詵。政以所鎮實壓閩境,請權益兵三千,俟賊平而罷。賊平向三十年,而所益兵仍舊。遜視事數日,舉奏停之。遜為政以均一貧富、扶弱抑強為己任,故所至稱理。

九年、入朝して給事中となった。李遜は旧制では只日(単数の日)に事を視て群臣に対するところ、奏論して曰く、「君に事える義は、犯すことあれど隠すことなし。誠を陳べて啓沃するには、必ずしも辰(日時)を選ばない。今群臣が敷奏するのに、只日を待つのは、一年を通じて臣下が天顔を拝し、可否を献ずることがどれほどできるだろうか」。憲宗はこれを嘉し、乃ち時に選ばず奏対することを許した。俄かに戸部侍郎に遷った。

原文九年,入為給事中。遜以舊制只日視事對群臣,遜奏論曰:「事君之義,有犯無隱。陳誠啟沃,不必擇辰。今群臣敷奏,乃候只日,是畢歲臣下睹天顏、獻可否能幾何?」憲宗嘉之,乃許不擇時奏對。俄遷戶部侍郎。

元和十年、襄州刺史を拝し、山南東道節度・観察等使を充任した。襄陽は以前八郡を領し、唐・鄧・隋がその中にあった。この時丁度呉元済を討伐しており、朝議は唐・蔡が隣接することを以て、遂に鄧を唐州に隷属させ、三郡を別に節制とし、高霞寓にこれを領させ、専ら攻討を待たせた。李遜は五州の賦餉を以てこれに当たった。

原文元和十年,拜襄州刺史,充山南東道節度、觀察等使。襄陽前領八郡,唐、鄧、隋在焉。是時方討吳元濟,朝議以唐、蔡鄰接,遂以鄧隸唐州,三郡別為節制,命高霞寓領之,專俟攻討。遜以五州賦餉之。

時に孫代厳綬が襄陽を鎮守す。綬は八州の兵を以て賊を討つこと唐州に在り。既にして綬は功無きを以て兵柄を罷め、高霞寓に命じて綬に代わり兵を将うること唐州に於いてせしむ。其の襄陽軍は霞寓に隷す。軍士の家口襄州に在る者、遜厚く之を撫す。士卒多く霞寓を捨てて亡帰す。既にして霞寓は賊に敗るる所と為り、乃ち過ちを遜に移し、供饋時ならざるを言う。霞寓は本より禁軍に出で、内官皆之を佐く。既に官を貶せられ、中人皆遜が霞寓の軍を撓ます、是を以て敗を致すと言う。上中使をして襄州に至り曲直を聴察せしむ。奏して遜直ならざるを言う。乃ち左授して太子賓客分司と為し、又降して恩王傅と為す。

原文時孫代嚴綬鎮襄陽。綬以八州兵討賊在唐州。既而綬以無功罷兵柄,命高霞寓代綬將兵於唐州,其襄陽軍隸於霞寓。軍士家口在襄州者,遜厚撫之,士卒多舍霞寓亡歸。既而霞寓為賊所敗,乃移過於遜,言供饋不時。霞寓本出禁軍,內官皆佐之。既貶官,中人皆言遜撓霞寓軍,所以致敗。上令中使至襄州聽察曲直,奏言遜不直,乃左授太子賓客分司,又降為恩王傅。

十三年、李師道順を効す。遜を左散騎常侍さんきじょうじと為し、馳せて東平に赴き之を諭すことを命ず。師道詔を得て意動き、即ち順を効せんことを請う。旋って其の下に惑わされる所と為りて止む。遜還る。未だ幾ばくもあらず、京兆尹を除し、国子祭酒に改む。

原文十三年,李師道效順,命遜為左散騎常侍,馳赴東平諭之。師道得詔意動,即請效順,旋為其下所惑而止。遜還,未幾,除京兆尹,改國子祭酒。

十四年、許州刺史を拝し、忠武節度・陳許溵蔡等州観察処置等使を充てる。是の時、新たに兵戦に罹り、遽かに完緝し難し。遜の至るに及び、大軍を集めて之と約束し、厳に具えて賞罰必ず信なることを示し、号令数百言、士皆感悦す。

原文十四年,拜許州刺史,充忠武節度、陳許溵蔡等州觀察處置等使。是時,新罹兵戰,難遽完緝。及遜至,集大軍與之約束,嚴具示賞罰必信,號令數百言,士皆感悅。

長慶元年、幽・鎮継いで乱る。遜身を以て先ず賊を討たんことを請う。許さず。但だ兵一万を以て行営に会することを命ず。遜詔を奉じ、即日兵を発す。故に諸軍に先んじて至る。是を由りて位を進めて検校吏部尚書と為す。尋いで鳳翔節度使に改む。京師に行き至り、疾を以て陳乞し、刑部尚書に改む。長慶三年正月卒す。年六十三。朝を廃すること一日。右僕射を贈る。

原文長慶元年,幽、鎮繼亂。遜請身先討賊,不許。但命以兵一萬,會於行營。遜奉詔,即日發兵,故先諸軍而至,由是進位檢校吏部尚書。尋改鳳翔節度使,行至京師,以疾陳乞,改刑部尚書。長慶三年正月卒,年六十三,廢朝一日,贈右僕射。

遜幼くして孤、江陵に寓居す。其の弟建と、皆貧苦に安んじ、衣を易え食を並べ、講習倦まず。遜の兄造、二弟の賢なるを知り、日為に営丐し、其の志業を成す。建は遜に先んずること一年卒す。兄弟同しく休顕を致す。士君子之を多し。謚して恭肅と曰う。造は早く卒す。

原文遜幼孤,寓居江陵。與其弟建,皆安貧苦,易衣並食,講習不倦。遜兄造,知二弟賢,日為營丐,成其誌業。建先遜一年卒。兄弟同致休顯,士君子多之。謚曰恭肅。造早卒。

遜の弟 建

原文遜弟 建

建、字は杓直、家素より清貧、旧業無し。兄造・遜と荊南に於いて躬耕して養いを致し、学を嗜み文を力む。進士に挙げられ、選授されて秘書省校書郎と為る。徳宗其の名を聞き、用いて右拾遺・翰林学士と為す。元和六年、事に坐して職を罷め、降って詹事府司直と為る。高郢御史大夫と為り、奏して殿中侍御史と為し、兵部郎中・知制誥に遷る。自ら草詔思遅きを以て、文翰を司るを願わず、京兆尹に改む。宰相韋貫之と友善なり。貫之相を罷むるに及び、建も亦出て澧州刺史と為る。征拝されて太常少卿と為り、尋いで本官を以て礼部貢挙を知る。建取舍其の人に非ざるも、又請托に惑わされ、故に其の年選士精ならず、坐して俸料を罰せらる。明年、礼部侍郎を除し、竟に人情洽わざるを以て、刑部に改む。

原文建,字杓直,家素清貧,無舊業。與兄造、遜於荊南躬耕致養,嗜學力文。舉進士,選授秘書省校書郎。德宗聞其名,用為右拾遺、翰林學士。元和六年,坐事罷職,降詹事府司直。高郢為御史大夫,奏為殿中侍御史,遷兵部郎中、知制誥。自以草詔思遲,不願司文翰,改京兆尹。與宰相韋貫之友善。貫之罷相,建亦出為澧州刺史。征拜太常少卿,尋以本官知禮部貢舉。建取舍非其人,又惑於請托,故其年選士不精,坐罰俸料。明年,除禮部侍郎,竟以人情不洽,改為刑部。

建名位顕るるも、廉倹を以て自ら処し、家垣屋を理めず。士友之を推す。長慶二年二月卒す。工部尚書を贈る。三子:訥・恪・樸。訥最も名を知られ、官華州刺史・検校尚書右僕射に至る。

原文建名位雖顯,以廉儉自處,家不理垣屋,士友推之。長慶二年二月卒,贈工部尚書。三子:訥、恪、樸。訥最知名,官至華州刺史、檢校尚書右僕射。

薛戎

原文薛戎

薛戎、字は元夫、河中宝鼎の人。少しく学術有り、聞達を求めず、毗陵の陽羨山に居る。年四十余、其の操を易えず。江西観察使李衡辟して従事と為し、使者三返して方に応ず。故相斉映衡に代わり、又留めて職を署し、府罷みて山に帰る。福建観察使柳冕表して従事と為し、累月、転じて殿中侍御史と為る。会に泉州刺史闕く。冕戎を署して権りに州事を領せしむ。

原文薛戎,字元夫,河中寶鼎人。少有學術,不求聞達,居於毗陵之陽羨山。年余四十,不易其操。江西觀察使李衡辟為從事,使者三返方應。故相齊映代衡,又留署職,府罷歸山。福建觀察使柳冕表為從事,累月,轉殿中侍御史。會泉州闕刺史,冕署戎權領州事。

是の時、姚南仲鄭滑を節制し、従事馬総其の道直きを以て監軍使に誣奏せられ、泉州別駕に貶せらる。冕権勢に附会し、総の罪を構成せんと欲し、戎をして按問して曲げて之を成さしむ。戎は総無辜なるを以て、冕の意に従わず、別に其の状を白す。戎泉州より還る。冕盛気衙に拠りて賓客を見る。戎遂に東廂を歴て従容として入る。冕勢未だ屈すべからざるを度り、徐に起きて以て見え、一揖して退く。又其の罪を構えて状を以て聞かしめ、戎を仏寺に置き、武夫を以て環らし、其の侵辱を恣にす。是の如く累月、誘いて令して総の罪を成さしむ。操心一にして、竟に動揺せず。杜佑淮南を鎮め、戎の冤なるを知り、乃ち其の表を上し、書を発して冕を諭す。戎の難方に解け、遂に職を辞し江湖の間に寓居す。

原文是時,姚南仲節制鄭滑,從事馬總以其道直為監軍使誣奏,貶泉州別駕。冕附會權勢,欲構成總罪,使戎按問曲成之。戎以總無辜,不從冕意,別白其狀。戎還自泉州,冕盛氣據衙而見賓客。戎遂歷東廂從容而入。冕度勢未可屈,徐起以見,一揖而退。又構其罪以狀聞,置戎於佛寺,環以武夫,恣其侵辱,如是累月,誘令成總之罪。操心如一,竟不動搖。杜佑鎮淮南,知戎之冤,乃上其表,發書諭冕,戎難方解,遂辭職寓居於江湖間。

後閻済美福建観察使と為り、備みて其の事を聞き、奏して副使を充てる。又済美に随い鎮を移して浙東に至り、侍御史に改め、入りて刑部員外郎を拝す。出でて河南令と為り、累ねて衢・湖・常三州刺史に改め、浙東観察使に遷る。蒞まる所皆政績を以て聞こゆ。数歳居り、疾を以て官を辞す。長慶元年十月卒す。左散騎常侍を贈る。

原文後閻濟美為福建觀察使,備聞其事,奏充副使。又隨濟美移鎮浙東,改侍御史,入拜刑部員外郎。出為河南令,累改衢、湖、常三州刺史,遷浙東觀察使。所蒞皆以政績聞。居數歲,以疾辭官。長慶元年十月卒,贈左散騎常侍。

戎身を検し約に処し、虚名を務めず。俸入の余り、宗族に散ず。身歿の後、人譏るる無し。兄弟五人、季弟放最も名を知られる。

原文戎檢身處約,不務虛名。俸入之余,散於宗族。身歿之後,人無譏焉。兄弟五人,季弟放最知名。

放進士第に登り、性端厚にして寡言、是非に於いて甚だ意を繫げず。累ねて籓府を佐け、事に蒞まり幹敏なり。官試大理評事に至り、擢拝されて右拾遺と為り、転じて補闕と為り、水部・兵部二員外を歴て、兵部郎中に遷る。

原文放登進士第,性端厚寡言,於是非不甚系意。累佐籓府,蒞事幹敏。官至試大理評事,擢拜右拾遺,轉補闕,歷水部、兵部二員外,遷兵部郎中。

憲宗儲皇の書を好むに遇い、端士を求めて経義を輔導せしめ、選充して皇太子侍読と為す。穆宗位を嗣ぐに及び、未だ政を聴かざる間、放多く左右に在り、密かに機命に参ず。穆宗常に放に謂いて曰く、「小子初めて大宝を承く。克く荷わざるを懼る。先生相と為るべし。以て逮わざるを匡えよ」と。放頭を叩きて曰く、「臣実に庸浅、冕旒に侍することを獲たり。固より猥りに大位を塵すに足らず。輔弼の任、自ら賢能有り」と。其の言矯飾無く、皆此の類なり。穆宗深く其の誠を嘉し、因りて思政殿に対し召し、金紫の服を以て賜う。転じて工部侍郎・集賢学士と為る。任峻切に非ざるも、恩顧転た隆し。転じて刑部侍郎と為り、職故の如し。

原文遇憲宗以儲皇好書,求端士輔導經義,選充皇太子侍讀。及穆宗嗣位,未聽政間,放多在左右,密參機命。穆宗常謂放曰:「小子初承大寶,懼不克荷,先生宜為相,以匡不逮。」放叩頭曰:「臣實庸淺,獲侍冕旒,固不足猥塵大位。輔弼之任,自有賢能。」其言無矯飾,皆此類也。穆宗深嘉其誠,因召對思政殿,賜以金紫之服。轉工部侍郎、集賢學士。雖任非峻切,而恩顧轉隆。轉刑部侍郎,職如故。

穆宗は常に侍臣に謂ひて曰く、「朕、経史を習学せんと欲す。何をか先にせん」と。放対へて曰く、「経は先聖の至言にして、仲尼の之を発明せし所、皆天人てんじんの極致、誠に万代不刊の典なり。史記は前代の成敗得失の跡、亦た其の興亡を鑒みるに足る。然れども得失相参じ、是非準的無く、固より経典と為すに比すべからず」と。帝曰く、「『六経』の尚ぶ所一ならず、志学の士、白首にして尽く通ずる能はず。如何にして其の要を得ん」と。対へて曰く、「『論語』は『六経』の菁華、『孝経』は人倫の本なり。理を窮め要を執る、真に聖人の至言と謂ふべし。是を以て漢朝『論語』を首めて学官に列し、光武は虎賁の士に皆『孝経』を習はしめ、玄宗は親ら『孝経』の註解を為し、皆な当時の大理をして、四海乂寧ならしむ。蓋し人の孝慈を知るは、気感和楽の致す所なり」と。上曰く、「聖人は孝を以て至徳要道と為す。其れ信然るか」と。兵部侍郎・礼部尚書に転じ、院事を判ず。

原文穆宗常謂侍臣曰:「朕欲習學經史,何先?」放對曰:「經者,先聖之至言,仲尼之所發明,皆天人之極致,誠萬代不刊之典也。史記前代成敗得失之跡,亦足鑒其興亡。然得失相參,是非無準的,固不可為經典比也。」帝曰:「《六經》所尚不一,誌學之士,白首不能盡通,如何得其要?」對曰:「《論語》者《六經》之菁華,《孝經》者人倫之本。窮理執要,真可謂聖人至言。是以漢朝《論語》首列學官,光武令虎賁之士皆習《孝經》,玄宗親為《孝經》註解,皆使當時大理,四海乂寧。蓋人知孝慈,氣感和樂之所致也。」上曰:「聖人以孝為至德要道,其信然乎!」轉兵部侍郎、禮部尚書,判院事。

放は閨門の内、特に孝睦を推し、孤孀百口、家貧にして毎に贍たすに給はず、常に俸薄を苦しむ。放、因りて召対に際し、懇ろに外任を求む。其の時偶は節制に闕無く、乃ち廉問を以て授く。江西を鎮するに及び、惟だ清潔を用ひて理おさむ。一方の人、今に至るまで之を思ふ。宝暦元年、江西観察使に卒す。朝を廃すること一日。

原文放閨門之內,尤推孝睦,孤孀百口,家貧每不給贍,常苦俸薄。放因召對,懇求外任。其時偶以節制無闕,乃授以廉問。及鎮江西,惟用清潔為理,一方之人,至今思之。寶歷元年,卒於江西觀察使,廢朝一日。

史臣曰く

原文史臣曰

史臣曰く、穆秘監の剛正奪はれざるは、寒松の巖に倚るが如く、千丈の勁節なり。而して竇容州の敢決は、鷙鳥の雀を逐ふが如く、英気人を動かす。巖穴の流、能く此に及ぶは罕なり。然れども矯激過当にして、君子は為さず。塤の如く篪の如く、通せず介せず、士行の美は、崔氏諸子之れ有り。建・遜の貞方、戎・放の道義、元和已来、令族と称せらる。宜なるかな。

原文史臣曰:穆秘監之剛正不奪,如寒松倚巖,千丈勁節。而竇容州之敢決,如鷙鳥逐雀,英氣動人,巖穴之流,罕能及此。然矯激過當,君子不為。如塤如篪,不通不介,士行之美,崔氏諸子有焉。建、遜之貞方,戎、放之道義,元和已來,稱為令族,宜哉!

賛して曰く、穆の贊・質、竇の常・群、跡は時傑に参じ、気は人文に爽やかなり。二李英英たり、四崔済済たり。薛氏三門、難兄難弟なり。

原文贊曰:穆之贊、質,竇之常、群,跡參時傑,氣爽人文。二李英英,四崔濟濟。薛氏三門,難兄難弟。