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旧唐書

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馬璘

馬璘は扶風の人である。祖父の正會は右威衛将軍。父の晟は右司禦率府兵曹参軍。璘は幼くして孤となり、落魄して生業に従わなかった。二十余歳の時、『馬援伝』を読み、「大丈夫たるものは辺野に死すべく、馬革をもって屍を裹んで帰る」というところに至り、慨然として嘆いて言うには、「どうして我が祖の勲業を地に墜とさせようか」と。開元の末、剣を杖して軍に従い、安西において自ら効力を尽くした。前後の奇功により、累遷して左金吾衛将軍同正に至った。

至徳の初め、王室多難の折、璘は甲士三千を統率し、二庭より鳳翔に赴いた。粛宗はこれを奇とし、東討を委ねた。寇を陝郊に殄滅し、賊を河陽に撃破するなど、いずれも殊効を立てた。嘗て李光弼に従って賊の洛陽を攻めた時、史朝義自ら精卒を率い、北邙において王師を拒んだ。営塁は山の如く、旌甲は日を耀かし、諸将は愕眙して敢えて動かなかった。璘は独り率いる所の部衆を率いて戈を横たえて出で、賊陣に入ること数四、賊はこれにより披靡して潰走した。副元帥李光弼はこれを壮として言うには、「我が兵を用いること三十年、未だに少をもって衆を撃ち、馬将軍の如く雄捷なる者を見ず」と。試太常卿に遷った。

明年、蕃賊が辺境を寇す。詔して璘をして河西に赴援せしむ。広徳の初め、仆固懐恩が順わず、吐蕃を誘いて入寇せしめ、代宗は狄を避けて陝州にあった。璘は即日、河右より転闘して戎虜の間を経て、鳳翔に至った。時に蕃軍は雲の如く合し、鳳翔節度使孫誌直は城を閉ざして自ら守らんとしていた。璘は乃ち満を持して外向き、懸門に突入し、甲を解かず、城を背にして出戦し、吐蕃は奔潰した。璘は勁騎をもって追撃し、俘斬すること数千に及び、血は野に流れ、これにより雄名は益々振るった。代宗が還宮すると、召見して慰労し、兼御史中丞を授けた。

永泰の初め、四鎮行営節度に拝し、兼南道和蕃使とし、禁旅を委ね、残寇を清ましめんとした。俄かに四鎮・北庭行営節度及び邠寧節度使・兼御史大夫に遷り、旋って検校工部尚書を加えられた。犬戎が浸驕し、歳毎に郊境を犯すに及び、涇州が最も戎虜に隣接するため、乃ち詔して璘をして涇州に移鎮せしめ、兼権知鳳翔隴右節度副使・涇原節度・涇州刺史とし、四鎮・北庭行営節度使は元の如しとした。また鄭・滑二州をこれに隷属させた。璘は詞気慷慨として、虜を破ることを己が任と為した。涇州に至るや、営堡を分建し、戦守の具を繕完し、頻りに吐蕃を破り、その生口俘馘を献じ、前後して吐蕃を破ること約三万余人に及んだ。涇州においては令は寛にして厳しく、人皆喜んでこれを用いられた。鎮守すること凡そ八年、拓境の功は無かったが、城堡は全うされ、虜は敢えて犯さず、検校右僕射を加えられた。上は甚だこれを重んじ、検校左僕射知省事に遷し、詔して宰臣百僚をして尚書省において送り上らしめ、扶風郡王に進封した。

璘は士族に生まれながらも、少より学術無く、忠にして能く勇み、武幹は絶倫、艱難の中に在って、頗る忠節を立て、中興の猛将である。年五十六、大暦十二年に卒す。徳宗これを悼み、朝を廃し、司徒を贈った。

璘は久しく辺軍を将い、西蕃の寇擾に属し、国家はこれを屏翰として倚った。前後賜与は算するに遑なく、家財を積聚し、紀極を知らなかった。京師に第舎を治むるに、特に宏侈を極めた。天宝中、貴戚勲家は既に奢靡に務めていたが、垣屋は猶お制度を存していた。然るに衛公李靖の家廟は、既に嬖臣楊氏の馬廄と為っていた。安・史の大乱の後、法度は隳弛し、内臣戎帥は競って奢豪に務め、亭館第舎は力窮まるに至って止み、時に「木妖」と謂った。璘の第は、中堂を経始するに、費やせる銭二十万貫、他の室は降等するも幾ばくも無かった。璘が軍中に卒するに及び、子弟は喪を護って京師に帰り、士庶その中堂を観るに、或いは故吏を仮称し、争って赴吊する者数十百人に及んだ。徳宗は東宮に在り、宿よりその事を聞き、及び践祚するに、格令を条挙し、第舎は制を逾えてはならず、仍って詔して璘の中堂及び内官劉忠翼の第を毀たしめ、璘の家園は官司に進属せしめた。この後、公卿賜宴は多く璘の山池に於いて行われた。子弟は行い無く、家財は尋で尽きた。

郝廷玉

郝廷玉は、驍勇にして格闘を善くし、太尉李光弼に事え、帳中の愛将と為った。乾元中、史思明が再び洛陽を陥とす。光弼は東都の師を抜き河陽を保った。時に三城の壁塁は完からず、芻糧は旬日を支えず、賊将安太清等は兵数万を率い、四面より急攻した。光弼は賊勢の西に河・潼を犯すを懼れ、極力孟津を保って以てその後を掎き、昼夜城に嬰り、血戦解けず、将士は夷傷した。光弼は諸将を召して訊ねて言うには、「賊党は何れの面が難抗か」と。或いは対えて言うには、「西北隅が最も勍敵なり」と。乃ち亟に廷玉を召してこれに謂うには、「兇渠の西北を攻むる者は難奈なり、爾我が為に決勝して還れ」と。辞して言うには、「廷玉の領する所は歩卒なり、騎軍五百を得んことを願う」と。光弼は精騎三百を以てこれを授けた。光弼の法令は厳峻、是の日戦い不利にして還る者は、甲を解かずして斬る。廷玉は奮命して先登し、流矢雨の如く集まり、馬傷して軍をなさずして退く。光弼が堞に登りてこれを見るに、駭然として言うには、「廷玉奔還す、吾が事敗れたり」と。促して左右に令し、廷玉の首を取って来らしむ。廷玉は使者を見て言うには、「馬に毒矢中る、敗るるに非ず」と。光弼は馬を易えさせて復た戦わしめ、径ちに騎して賊陣に沖し、馳突すること数四。俄にして賊党は河壖に大敗し、廷玉は賊将徐璜を擒えて還った。これにより賊は中潬の囲みを解き、信宿して退き去った。前後戦功により累授して開府儀同三司、試太常卿、安辺郡王に封ぜられた。光弼に従って徐州を鎮む。光弼薨じ、代宗これを用いて神策将軍と為す。

永泰の初め、仆固懐恩が吐蕃・回紇を誘いて京畿に入犯せしむ。諸将を分命して要害に屯せしめ、廷玉は馬璘と五千人を率い渭橋西窯底に屯した。観軍容使魚朝恩は廷玉の陣を善くするを以て、その教閲を観んと欲した。廷玉は乃ち営内に部伍を列し、鼓角を鳴らして出で、分かれて陣と為し、箕張り翼舒き、乍離乍合し、坐作進退、その衆は一の如し。朝恩嘆じて言うには、「吾兵間に在ること十余年、始めて郝将軍の訓練を見る。戎を治むること此の如く、豈に前敵有らんや」と。廷玉は淒然として謝して言うには、「これは末校の長ずる所に非ず、臨淮王の遺法なり。太尉は軍を禦するに善く、賞罰は功過に当たる。毎に旗を校するの日、軍士少しも令に如かざれば、必ずこれを斬って以て徇し、これにより人皆自ら効し、而して赴蹈馳突、心破れ胆裂るる者有り。太尉薨変已来、復た旗を校するの事無く、これは軍容の賞を見るに足らず」と。

王縉が河南副元帥と為り、詔して廷玉を以てその都知兵馬使と為し、累授して秦州刺史に至る。大暦八年に卒す。旧勲を追録し、工部尚書を贈る。

王棲曜

王棲曜は、濮州濮陽の人である。初め郷学に遊ぶ。天宝の末、安禄山叛く。尚衡が義兵を起こしてこれを討ち、棲曜を牙将と為す。兗・鄆諸県を下し、軍威稍く振るう。進んで衙前総管と為る。初め、逆将邢超然が曹州に拠る。棲曜これを攻む。超然は城に乗じて号令す。棲曜曰く、「彼は取るべし」と。一箭これを殞し、城中気を慴し、遂に曹州を抜く。衡が節制に居るに及び、右威衛将軍・先鋒遊奕使を授かる。衡に従って朝に入り、試金吾衛将軍を授かる。

上元元年、王玙が浙東節度使となり、彼を馬軍兵馬使に奏薦した。広徳年間、草賊の袁晁が台州で乱を起こし、郡県と連結し、二十万の衆を集め、浙江の地をことごとく有した。御史中丞の袁傪が東征し、棲曜と李長を偏将として奏薦し、連日十余戦を交え、袁晁を生け捕りにし、十六の郡邑を回復し、常州別駕・浙西都知兵馬使を授けられた。

時に江左は兵乱と飢饉に見舞われ、詔により内常侍の馬日新が汴滑軍五千を率いてこれを鎮撫した。日新は貪婪で暴虐であり、賊の蕭庭蘭が人々の怨みに乗じ、彼を追放してその衆を奪った。時に棲曜は近郊を遊奕しており、賊に脅迫され、蘇州を包囲した。棲曜は賊の懈怠に乗じ、身を挺して城に登り、城中の兵を率いて再び出撃して賊を破り、その衆は大いに潰走した。試金吾大將軍に遷った。

李霊曜が汴州で叛き、浙西観察使の李涵は棲曜に兵四千を将いて河南の掎角たらしめた。功により銀青光禄大夫を加えられ、累進して御史中丞に至った。李希烈が汴州を陥落させると、勝に乗じて東侵し、連続して陳留・雍丘を陥とし、寧陵に軍を頓え、宋州を襲撃しようとした。浙西節度使の韓滉は棲曜に強弩数千を将い、夜に寧陵に入ることを命じた。希烈はこれを知らず、朝、弩の矢が希烈の座する帷幄に及んだ。希烈は驚いて言った、「これは江・淮の弩士が入ったのだ!」 遂に東進することを敢えてしなかった。

貞元初め、左龍武大將軍に拝され、まもなく鄜坊・丹延節度観察使・検校礼部尚書・兼御史大夫を授けられた。貞元十九年、在任中に卒した。子に茂元。

茂元は幼少より勇略があり、父に従って征伐し、名を知られた。元和年間、右神策将軍となった。太和年間、検校工部尚書・広州刺史・嶺南節度使となった。安南において蛮族を招き慰撫し、政能を頗る立てた。南中には異国の貨物が多く、茂元は家財を巨万に積み上げた。李訓の敗北に際し、宦官がその財を貪り、事を掎摭し、茂元は王涯・鄭注によって用いられたと上言した。茂元は恐れ、家財を尽くして両軍に賄賂を贈り、これにより忠武軍節度・陳許観察使を授けられた。会昌年間、河陽節度使となった。この時、河北の諸軍が劉稹を討ち、茂元もまた本軍を率いて天井に駐屯したが、賊が平定されないうちに卒した。

劉昌

劉昌、字は公明、汴州開封の人である。行伍の間より出で、若くして騎射を学んだ。安禄山が反乱を起こすと、昌は初めて河南節度使の張介然に従い、易州遂城府左果毅を授けられた。史朝義が将を遣わして宋州を包囲した時、昌は包囲の中にあり、連月解けず、城中の食糧は尽き、賊はまさに陥落させようとしていた。刺史の李岑は策に窮し、昌は彼のために謀って言った、「今、河陽には李光弼が制勝しており、かつ江・淮には兵が足りている。この倉庫には数千斤の麹があり、屑にして食とすることができる。援兵は二十日以内に到着するはずである。東南隅の敵は、衆が危険と見なしているが、昌がこれを守りたい。」 昌は遂に鎧を着け盾を持って城に登り、逆順を陳べて賊を告諭したので、賊衆は畏服した。十五日後、副元帥の李光弼の救軍が到着し、賊は夜のうちに潰走した。光弼はその謀を聞き、軍中に召し置き、試左金吾衛郎将を超授した。光弼が卒すると、宰臣の王縉は宋州に帰らせ、牙門将とした。転じて太僕卿、兼許州別駕となった。

李霊曜が汴州を拠りて叛くと、刺史の李僧惠は霊曜の牽制を受けようとしていた。昌は密かに曾神表を遣わし、潜かに僧惠を説得させた。僧惠は昌を召して計を問うと、昌は涙を流してその逆順を陳べた。僧惠はこれに感じ、神表に表を持たせて朝廷に詣でさせ、霊曜討伐を請い、遂に霊曜の左翼を断った。汴州が平定されると、李忠臣は僧惠の功を嫉み、昌を殺そうとしたので、昌は潜かに遁走した。劉玄佐が刺史となると、その職を復した。また転じて太常卿、兼華州別駕となった。玄佐はまもなく宋亳潁宣武軍節度使となり、昌は下軍より左廂兵馬使となった。

李納が反乱を起こすと、師を率いて考城を収め、行営諸軍馬歩都虞候を充て、検校太子詹事・兼御史中丞を加えられた。翌年、玄佐が濮州を包囲すると、昌は濮州刺史を摂った。李希烈が汴州を陥落させると、玄佐は将の高翼に精兵五千を率いさせて襄邑を保援させたが、城は陥落し、翼は水に赴いて死んだ。宋より江・淮に至るまで、人心は震恐した。時に昌は三千人を率いて寧陵を守り、希烈は五万の衆を率いて城下に陣した。昌は深い塹壕を掘って地道を防ぎ、凡そ四十五日間、甲冑を解かず、自ら士卒を励まし、希烈を大破した。希烈は包囲を解いて陳州を攻め、刺史の李公廉は計窮した。昌は劉玄佐に従って浙西兵を合わせ三万人を率いてこれを救援した。陳州西五十里で賊と遭遇し、昌は朝にその陣を圧し、未だ陣列を成さないうちにこれを大破し、その将の翟曜を生け捕りにした。希烈は蔡州に退いて保ち、これ以降侵軼しなくなった。詔により検校左散騎常侍を加えられた。玄佐に従って汴州を収め、検校工部尚書を加えられ、実封を増やして通前二百戸とした。母の喪に服したが、起復して金吾衛大將軍を加えられ、その母を梁国夫人と追贈された。

貞元三年、玄佐が京師に朝参すると、上は宣武士衆八千を昌に委ねて北に五原に出させた。軍中に前進を躊躇し事を沮む者があったので、昌は続けて三百人を斬り、遂に出発した。まもなく本官をもって京西北行営節度使を授けられた。一年余りして、涇州刺史を授けられ、四鎮・北庭行営、兼涇原節度支度営田等使を充てた。昌は自ら士衆を率い、三年間力耕し、軍糧は豊かに余り、その名は朝廷に聞こえた。また連雲堡を築き、詔を受けて平涼城を築き、弾箏峡口を扼した。昌は人夫に命じて事を備えさせ、十余日で完成した。また平涼西に別に胡谷堡を築き、彰信と名付けた。平涼は四方の交わる要衝に当たり、北地の要地に位置し、兵を分けて援戍し、その要衝を扼したので、遂に辺境を保寧し、検校右僕射を加えられた。

昌が初めて平涼の劫盟の地に至った時、亡くなった将士の骸骨を収集し、坎を掘って埋葬した。するとその霊が昌に夢に感じ、愧謝の意を示した。昌が上聞すると、徳宗は深く自らを克責する詔を下し、秘書少監の孔述えい及び中使を遣わし、御饌及び内造の衣服数百襲を持たせ、昌にその骸骨を収めさせ、大将三十人、将士百人に分け、各々棺槥と衣服を具えさせ、浅水原に葬らせた。二つの塚を建て、大将のものを「旌義冢」、将士のものを「懷忠冢」と称した。詔により翰林学士が銘誌と祭文を撰した。昌は盛大に兵を陳べ、幕次に牢饌を具えてこれを祭った。昌及び大将は皆素服でこれに臨み、その衣服と紙銭を焚き、別に二つの石堆を立てた。題して塚の名とした。諸道の師徒は、感泣しない者はなかった。

昌は西辺に在ること僅か十五年、根本を強くし費用を節約し、軍の蓄えは豊かに余った。病に罹ると、その日を期して京に赴き医を求めようとしたが、出発せずに卒した。享年六十四。一日朝を廃し、司空を追贈された。子に士涇。

士涇は、徳宗朝に公主を娶り、官は少列に至ること十余年、家は財に富んだ。中貴と結託し、権幸と交通した。憲宗朝、太府卿に遷った。制書が下ると、給事中の韋弘景らが制書を封還し、士涇は九卿に居るに適さないとし、言辞は激切であった。憲宗は弘景に言った、「士涇の父は国に功があり、また戚属である。制書は下すべきである。」 弘景は詔を奉じた。士涇は胡琴を善くし、多く権幸の門を遊び、これを以て助けとし、当時の論はこれを卑しんだ。

李景略

李景略は、幽州良郷の人である。大父は楷固。父は承悦で、檀州刺史・密雲軍使を務めた。景略は門蔭により幽州功曹に補せられた。大歴の末、河中に寓居し、門を閉じて読書に励んだ。李懐光が朔方節度使となると、幕府に招かれた。五原に偏将の張光という者がおり、私怨を抱いて妻を殺したが、前後して断じることができなかった。光は財貨に富み、獄吏も劾することができなかった。景略がその実情を訊問すると、光はついに法に伏した。やがて正午に、女の厲鬼が髪を乱し血にまみれ、膝行して前に進み謝して去った。左右に光の妻を知る者がおり、言うには「光の妻である」と。これにより大理司直を授けられ、監察御史に遷った。懐光が咸陽に軍を屯した時、反状が初めて萌し始めた。景略は時に懐光を説き、宮闕を復し、大駕を迎えるよう請うたが、懐光は従わなかった。景略は軍門を出て慟哭して言った、「誰か知らん、この軍が一日にして不義に陥ることを」。軍士たちは互いに顧みて甚だ彼を義とし、景略はこれにより退いて私邸に帰った。

まもなく霊武節度使杜希全に辟召されて幕府に入り、殿中侍御史に転じ、豊州刺史・西受降城使を兼ねた。豊州は北に回紇を扼し、回紇の使者が中国に来る時、豊州はその通路である。以前の刺史は多く懦弱で、虜の使者が至れば対等の礼で抗礼して坐した。時に回紇は梅録将軍を中官薛盈珍に随わせて入朝させた。景略は気勢をもってこれを制しようとした。郊外で迎え、伝言してまず中使に会いたいと言わせた。梅録は初め理解しなかった。景略は盈珍に会うと、梅録に告げさせて言った、「可汗が初めて没したことを知り、弔礼を申し述べたい」と。そこで高き塚の位置に登ってこれを待った。梅録は俯僂して前に進み哭した。景略はこれにより彼を撫でて言った、「可汗が世を棄てられた、爾の号慕を助けん」。虜の驕慢な容態と威気は、索然として尽きてしまい、ついに父の行輩をもって景略を呼んだ。これより回紇の使者が景略の所に至ると、皆庭で拝礼するようになり、これによって威名があった。杜希全はこれを忌み、上表して誣奏し、袁州司馬に貶した。希全が死ぬと、征召されて左羽林将軍となり、延英殿で対し、奏対は衎潔で、大臣の風采があった。

時に河東の李説が病を得た。詔により景略を太原少尹・節度行軍司馬とした。当時、方鎮の節度使で征入して交代する者は少なく、皆死亡してから命じるものであり、行軍司馬は全て上意によって簡抜される。命を受けた日、人心はすでに帰属していた。景略は疑わしき帥の地に居り、情勢はすでに処し難かった。回紇の使者梅録将軍が入朝し、李説が宴会を設けると、梅録が上下の座を争い、李説はこれを抑えられなかった。景略がこれを叱ると、梅録は以前豊州を通過した者で、景略の語音を識り、疾く走り前進して拝して言った、「豊州の李端公ではござらぬか。麾下を拝せず久しいが、何と瘠せておられることか」。また拝し、ついに彼を次席に坐らせた。将吏賓客は景略を顧み、皆厳しく畏れた。李説は心に不平を抱き、中尉竇文場に厚く賄賂して、景略を去らせようとし、内応させようとした。

一年余りして、風聞に回紇が陰山を南下しようとしていると言い、豊州は適任者を得るべきである。上は素より景略が辺境にいた時の事績を知っていた。上はまさに軫慮していたところ、文場が傍らにいて、景略は辺任に堪えると進言した。そこで景略を豊州刺史・兼御史大夫・天徳軍西受降城都防禦使とした。辺塞は苦寒で、土地は鹵瘠、風俗は貧しく住み難い。景略は用を節し己を約し、士卒と甘苦を共にし、将卒はこれに安んじた。鹹応・永清の二渠を鑿ち、数百頃の田を溉ぎ、公私に利があった。倉廩の儲備は充ち、器械は備わり、政令は厳しく、智略は明らかであった。二年後、軍声は雄大で北辺に冠たり、回紇はこれを畏れ、天下は皆その治績が景略の能力を尽くしていないことを惜しんだ。貞元二十年、鎮で卒した。年五十五。工部尚書を贈られた。

張萬福

張萬福は、魏州元城の人である。曾祖から父に至るまで、皆明経に通じたが、県令・州佐に止まった。萬福は父祖が儒を業としながら皆達しなかったので、書生となることを喜ばず、騎射を学んだ。十七、八歳の時、遼東に従軍して功があり、将となって帰還した。累ねて舒・廬・寿の三州刺史、舒廬寿三州都団練使を摂行した。州が租賦を京師に送る時、潁州の境界で盗賊に奪われた。萬福は軽兵を率いて潁州界に馳せ入り、これを討った。賊は萬福の来ることを予期せず、忙迫して戦うことができず、萬福は悉くこれを集めて誅し、その失った物を全て得、併せて前後して掠められた人の妻子・財物・牛馬など万に計るものを得て、悉くその家に返した。自ら帰ることができない者には、萬福が船車を与えて送り届けた。

まもなく真に寿州刺史・淮南節度副使に拝された。節度使崔円に忌まれ、刺史を失い、鴻臚卿に改められた。節度副使として千人を将いて寿州を鎮めたが、萬福はこれを恨みとしなかった。

許杲が平盧行軍司馬として卒三千人を将いて濠州に駐屯し去らず、淮南を窺う意図があった。崔円は萬福に濠州刺史を摂行させた。許杲はこれを聞くと、即ち卒を提げて去り、当塗の陳荘に止まった。賊が舒州を陥れると、崔円はまた萬福を舒州刺史とし、淮南岸の盗賊を督させ、連続してその徒党を破った。

大暦三年、京師に召し赴かせられた。代宗は言った、「卿の名を聞くこと久しい。一たび卿の面を識りたい。且つ卿に許杲のことを累ねようと思う」。萬福は拝謝し、前に進んで奏上して言った、「陛下は一許杲のために臣を召されましたが、もし河北の諸将が叛したら、誰に属させようとお思いですか」。代宗は笑って言った、「まず吾のために許杲の事を片付けよ。まさに大いに卿を用いよう」。和州刺史・行営防禦使とし、淮南岸の盗賊を督させた。州に至ると、許杲は懼れ、軍を上元に移した。許杲が楚州に至って大いに掠奪したので、節度使韋元甫は萬福に命じてこれを追討させた。淮陰に至らないうちに、許杲はその将康自勧に逐われた。自勧は兵を擁して掠奪を継ぎ、淮に沿って東へ向かった。萬福は倍道で追ってこれを殺し、免れた者は十の二、三で、その虜掠した金帛婦人などを全て得て、皆その家に送り届けた。元甫が将士を厚く賞そうとすると、萬福は言った、「官健は常に衣糧を虚費し、為すところ無し。今は一小頼みに過ぎず、過賞には足りません。三分の一を用いることを請います」。代宗は詔を発してこれを労い、衣一襲・宮錦十双を賜った。

久しくして、詔により本鎮の兵千五百人を以て西京を防秋させた。萬福は揚州に赴き、領する兵を交割しようとした。時に元甫が死に、諸将は皆萬福を帥としたいと願い、監軍使米重耀も萬福に節度事を知らせるよう請うた。萬福は言った、「某は幸運な人間ではない。このように扱わないでくれ」。遂に去って之き、利州刺史を帯びて咸陽を鎮め、これにより宿衛に留まった。

李正己が反し、江・淮の路を断たんとして、兵を遣わして埇橋・渦口を守らせた。江・淮の進奏船千余隻が、渦口に泊して敢えて過ぎようとしなかった。徳宗は萬福を濠州刺史とし、召見して言った、「先帝が卿の名を『正』と改められたのは、卿を褒めるためである。朕は江・淮の草木も卿の威名を知っていると思う。もし先帝の改められた通りにするなら、賊がこれが卿であると知らない恐れがある」。再び名を萬福と賜った。渦口に馳せ至り、馬を立てて岸上に立ち、進奉船を発した。淄青の兵馬は岸に倚って睥睨するも敢えて動かず、諸道の船は続いて進んだ。泗州刺史に改めた。魏州が飢饉となり、父子が互いに売り、餓死者が道に接した。萬福は言った、「魏州は吾が郷里である。どうして救わないでいられようか」。その兄の子に命じて米百車を将いて往き、これを饟わせた。また汴口に人を遣わし、魏人が自ら売られた者には、車牛を与えて贖い、これを送り返した。

杜亜に忌まれて、右金吾将軍に召し出された。召見の際、徳宗は驚いて言った、「杜亜は卿が老耄していると言っていたが、卿はかくも健やかであるとは!」と。詔して凌煙閣にその姿を描かせ、たびたび酒食衣服を賜い、また度支に命じて口数と家畜に応じてその費用を支給させた。陽城らが延英門外で対面を請い、事を論じて閣前に伏して去らなかった時、徳宗は大いに怒り、その成り行きは測りがたかった。万福は声高に言った、「国に直臣あれば、天下は太平である!万福は年すでに八十、この盛事を見る。」閣前で遍く城らに揖し、天下はますますその名を重んじた。

貞元二十一年、左散騎常侍をもって致仕した。その年の五月に卒去、九十歳であった。万福は従軍を始めてから卒するまで、禄食七十余年、一日も病むことなく、九郡を治めて皆恵愛を施した。泗州に在った時、徳宗の奉天行幸に遇い、李希烈が反し、陳少遊は管内の刺史に命じて妻子を揚州に送り人質とさせた。万福のみは送らず、使者に謂って言った、「某のために相公に申し上げよ、万福の妻は老いてかつ醜く、相公の意を煩わすに足らず。」と。ついにこれを遣わさず、これによって人に称せられた。

高固

高固、高祖は侃、永徽年間に北庭安撫使となり、生擒車鼻可汗の功があり、官は安東都護に至り、事は前録に具わっている。固は微賤に生まれ、叔父に売られ、転々として渾瑊の家奴となり、黄芩と号した。性質は敏慧で、膂力あり、騎射を善くし、『左氏春秋』を読むことを好んだ。瑊は大いにこれを愛し、己が子の如く養い、乳母の女を妻とし、遂に固を名とし、『左氏伝』の高固の名を取ったのである。

若くして瑊に従い朔方で軍務に就き、徳宗が奉天に幸した時、固はなお瑊の麾下にあった。この時、賊兵はすでに東壅門に突入していたが、固は甲士を引きいて長刀を乱れ揮い、数賊を連続して斬り、車を引きずって門を塞ぎ、一をもって百に当たり、賊は遂に退去した。衆は皆これを壮とした。功により渤海郡王に封ぜられた。李懐光が既に反し、徳宗は再び梁漢に幸した。懐光は邠寧で発跡し、この時、留後張昕に将兵万余を取らせて河中を支援させようとした。固は時に軍中におり、便を伺って張昕の帳中に突入し、首を斬って示衆した。検校右散騎常侍・前軍兵馬使に任ぜられた。貞元十七年、節度使楊朝晟が卒すると、軍中は固を帥と請い、徳宗は固の功を思い、よって検校工部尚書を授けた。順宗が即位すると、就いて検校礼部尚書を加えられた。憲宗の朝に、検校右僕射に進んだ。数年して交代を受け、入って統軍となり、転じて検校左僕射、兼右羽林統軍となった。元和四年七月に卒し、陜州大都督を贈られた。

郝玼

郝玼は、涇原の戍将である。貞元年間、臨涇鎮将となり、勇敢にして敵無く、その名声は虜庭に振るった。玼は臨涇の地が険要に位置し、虜の要衝に当たるとして、その帥に白状して言った、「臨涇は草木豊茂で、畜牧に適し、西蕃が入寇する毎にその地に屯する。どうか城塁を完備し軍を増やし、以て虜の入寇を挫きたい。」と。前の帥は従わなかった。段佐が涇原を節制するに及んで、深くその策に同意した。元和三年、佐は臨涇城を築くことを請い、朝廷はこれに従った。なお行涼州とし、詔して玼を刺史としてこれを戍らせた。これより西蕃の入寇は、臨涇を越えることがなくなった。

玼は行伍より出で、前に堅敵無し。辺境に三十年、戦う毎に蕃の俘虜を得れば、必ず刳剔してその屍を帰し、蕃人は神の如く畏れた。贊普は国人に下令して言った、「郝玼を生け捕りにした者には、等身の金を賞す。」と。蕃中の児が啼く時、玼の名を呼んでこれを怖がらせた。十三年、検校左散騎常侍・渭州刺史・御史大夫に任ぜられ、涇原行営節度・平涼鎮遏都知兵馬使を充て、保定郡王に封ぜられた。吐蕃はその威を畏れ、計略をめぐらしてこれを図ろうとしたが、朝廷は驍将を失うことを慮り、慶州刺史に移し任じ、ついに牖下で終わった。

附 段佐

段佐もまた勇敢をもって知られた。若くして汾陽王郭子儀に事えて牙将となり、辺朔に征し従い、績効多くを占めた。貞元末、涇原節度使となり、卒を練り辺を保ち、また西蕃に畏憚された。累ねて検校工部尚書・右神策大將軍に至った。元和五年に卒した。

史敬奉

史敬奉は霊武の人、若くして本軍に事えて牙将となった。元和十四年、敬奉は塩州城下で吐蕃を大破し、実封五十戸を賜った。先に、西戎が頻りに歳を重ねて辺境を犯したので、敬奉は節度使杜叔良に兵三千を請い、一月分の糧食を備え、深く蕃界に入ろうとした。叔良は二千五百人をこれに授けた。敬奉が行って十余日後、人はその向かう所を知らず、皆吐蕃がことごとく殺したのだと思った。ところが別の道から深く入り、突如として蕃衆の背後に現れた。戎人は驚き潰走し、敬奉は衆を率いてこれを大破し、殺戮は数えきれず、その余衆を蘆河に駆り立て、羊馬駱駝牛を万数獲た。

敬奉の体形は甚だ短小で、衣を着ると耐えられないかのようであった。しかし野外で馳逐するに至っては、奔馬を擒にすることができ、自ら鞍勒を執り、鞍に随って躍り上がり、それから羈帯し、矛矢を手にすれば、前に強敵無し。甥・侄及び僮僕使い僅か二百人を、常に自ら随えた。敵に入るに臨んでは、その隊を四五に分け、水草に随って逐い、数日毎に互いに知ることがない。そして相遇う時には、すでに皆虜を獲ていたのである。

鳳翔の将野詩良輔、涇原の将郝玼と各々名をもって辺境で雄を競った。吐蕃はかつて漢の使者に謂って言った、「唐国は既に吐蕃と和好しているのに、何故妄語するのか!」と。問うて言った、「何を謂うのか?」と。答えて言った、「妄語でないなら、何故野詩良輔を遣わして隴州刺史とさせたのか?」と。その畏憚することかくの如しであった。

史臣曰

史臣が曰く、盗賊が中原に起こり、河・隴が虜に陥ち、犬戎が梗を作り、しばしば郊畿を犯す。謀臣は策を運らして精を竭くし、武士は戈を荷いて暇あらず。璘・昌の如き材力は、腕を扼み命を奮い、虜を胸中に吞まんと欲し、郝・史の驍雄は、将を斬り旗を搴ぎ、威を塞外に申さんとす。而るに竟に北に白道を踰えず、西に蕭關を出でず、十九郡の生民をして竟に左袵に淪ぶるに至らしめ、僅かに自保するのみ、功何をか取らんや。運の然らしむる所なれども、亦た将略に至らざる所有り。棲曜・萬福の節概、景略の負氣、壮なるかな。

贊に曰く、馬・劉・史・郝、氣は邊朔に雄なり。力は獯虜を扞へども、終に衛・霍に慚づ。萬福は義勇、景略は氣豪。人の忌む所と為り、慷慨徒勞す。