旧唐書 高崇文

旧唐書

高崇文

高崇文は、その先祖は渤海の人である。崇文は幽州に生まれ、質朴で厚く寡言であり、若くして平盧軍に従った。貞元年中、韓全義に従って長武城を鎮守し、軍を治めて名声があった。五年の夏、吐蕃三万が寧州を寇し、崇文は甲士三千を率いてこれを救い、仏堂原で戦い、大いにこれを破り、死者は過半に及んだ。韓全義が入朝すると、崇文は行営節度留務を掌り、兼御史中丞に遷った。十四年、長武城使となり、粟を積み兵を練り、軍声は大いに振るった。

永貞元年の冬、劉辟が兵を阻み、朝廷で討伐を議し、宰臣杜黄裳は崇文を独任すれば成功できると以為った。元和元年の春、検校工部尚書・兼御史大夫を拝し、左神策行営節度使を充て、左右神策・奉天麟遊諸鎮の兵を兼ね統べて辟を討つこととなった。時に宿将で征伐を専らにする者は甚だ多く、人人自ら当選すべしと謂ったが、詔が出ると大いに驚いた。崇文は長武城に在り、卒五千を練り、常に寇の至るが如くしていた。ここに至り、中使が長武に至り、卯時に命を宣し、辰時に出師五千、器用に欠けるもの無し。軍は興元に至り、軍中に逆旅の匕箸を折る者あり、これを斬って徇にした。西より閬中より入り、遂に剣門の師を却け、梓潼の囲みを解き、賊将邢泚は遁れて帰った。梓州に軍を屯し、因って崇文を東川節度使に拝した。先に、劉辟が東川を攻め陥とし、節度使李康を擒にした。崇文が梓州を克つに及んで、乃ち康を帰して己が罪を雪がんことを求めたが、崇文は康が軍に敗れ守りを失ったとして、遂にこれを斬った。

成都の北一百五十里に鹿頭山あり、両川の要を扼し、辟は城を築いて守り、又八柵を連ね、掎角の勢いを張って王師に拒んだ。この日、賊二万を鹿頭城下に破るも、大雨注ぐが如く、登ることを克さず、乃ち止んだ。明日、又万勝堆にて破る。堆は鹿頭の東に在り、驍将高霞寓に親しく鼓を撃たせ、士は攀縁して上り、矢石雨の如し。又命じて敢死の士をして連続して登らせ、その堆を奪い、その柵を焼き、柵中の賊は殲された。遂に堆を拠り下に鹿頭城を瞰し、城中の人物を数うるを得たり。凡そ八大戦皆大捷し、賊は心を揺がした。

八月、阿跌光顔が崇文と約し、行営に到るに一日遅れた。誅を懼れ、乃ち深く入って自ら贖わんとし、故に鹿頭西大河の口に軍し、以て賊の糧道を断ち、賊は大いに駭いた。この日、賊の綿江柵将李文悦が三千人を以て帰順し、尋いで鹿頭将仇良輔が城を挙げて降る者二万。辟の子の方叔・婿の蘇強は、先に良輔の軍を監していたが、この日械を系して京師に送られ、降卒戈を投げ面を縛する者は十数里に満ち、遂に長駆して直ちに成都を指した。徳陽等の県城は皆重兵を以て鎮し、旗を見て率いて服せざるは莫く、師は留まって行かざる無し。辟は大いに懼れ、親兵及び逆党盧文若を以て重宝を賫し西走して吐蕃に奔らんとした。吐蕃は素よりその賂を受け、且つ将にこれを啓かんとす。崇文は高霞寓・酈定進を遣わし倍道してこれを追わしめ、羊灌田に至り及んだ。辟は自ら岷江に投じ、湧湍の中に擒にされた。西蜀平らぎ、乃ち辟を檻車に載せて京師に送り法に伏せしめた。文若は水に赴いて死す。王師成都に入り、介士は大逵に屯し、軍令厳粛、珍宝山積すれども、市井移らず、秋毫の犯す無し。

先に、賊将邢泚が兵二万を以て鹿頭の援と為し、既に降りて又貳り、これを斬って徇にした。衣冠逆に陷ちたる者は、皆匍匐して衙門に請命し、崇文は条奏してこれを全活せしめた。制を以て崇文に検校司空を授け、兼成都尹、剣南西川節度・管内度支営田観察処置・統押近界諸蛮、西山八国雲南安撫等使を充てた。南平郡王に改封し、実封三百戸を食し、詔して石を刻み功を鹿頭山下に紀せしめた。

崇文は文字に通ぜず、大府の案牘諮稟の繁きを厭い、且つ優富の地に在りて、陳力する所無く、塞上に居りて辺戍を扞がんことを乞い、懇疏累上した。二年の冬、制を以て同中書門下平章事・邠州刺史・邠寧慶三州節度観察等使を加え、仍って京西都統を充てた。その功を恃みて侈心大いに作し、帑蔵の富、百工の巧を挙げて自ら随え、蜀都一罄す。朝儀に習わざるを以て、入覲を憚り、優詔を以て便道の鎮に之かしむ。三年居り、大いに戎備を修む。元和四年卒す、年六十四、朝を三日廃し、司徒を贈り、謚して威武と曰い、憲宗廟庭に配享された。

子 承簡

子承簡は、少くして忠武軍の部将となり、後に神策軍に入る。父が劉辟を征するに因り、嘉王傅を拝す。裴度が淮・蔡を征するに当たり、承簡を本官のまま兼御史中丞とし、その軍の都押衙と為すことを奏した。淮西平らぎ、詔して郾城・上蔡・遂平の三県を以て溵州と為し、郾城に治め、承簡を用いて刺史と為す。尋いで邢州刺史に転じ、時に観察使が時賦を責めて急なるに値い、承簡は数百戸に代わってその租を出した。

宋州刺史に遷り、汴州がその帥を逐うに属し、部将李絺を行帥事と為す。絺はその将を遣わして宋の官私の財物を責めしむるに、承簡はこれを執えて囚う。ここより汴の使い来る者は、輒ちこれを系し、一日に並び出でて軍門の外に斬り、威郡中に震う。絺の兵大いに至るに及び、宋州は凡そ三城、既に南の一城を陥とし、承簡は北の両城を保ちて拒ぎ、凡そ十余戦。会に徐州の救兵至り、絺は汴将李質に執せられ、伝送して京師に至り、兵宋を囲む者は即ち遁去す。承簡に検校左散騎常侍・充海沂密等州節度観察処置等使を授く。

俄かに検校工部尚書・義成軍節度・鄭滑潁等州観察処置等使に遷る。就いて検校尚書右僕射を加う。入りて右金吾衛大将軍を拝し、右街使を充てる。復た出でて邠寧慶等州節度観察処置等使と為る。先に、羌虜多く秋月を以て西辺を犯す、承簡は軍を寧州に請うて以てこれに備う。疾に因り、上言して入覲を乞い、即ち表に随って闕に詣る。太和元年八月、永寿県の伝舎に至りて卒す、司空を贈られる。

崇文の孫駢は、歴位崇顕、終に淮南節度使に至り、自ら伝有り。

伊慎

伊慎は、兗州の人である。騎射に善く、始め果毅と為る。母に喪し、将に合祔を営まんとし、その父の墓を識らず。昼夜号哭し、未だ浹日せずして、夢寐に指導する者有り。遂に壟を発し、果たして旧記の験を得たり。

大暦八年、江西節度使路嗣恭が嶺南の哥舒晃の乱を討つに当たり、慎を先鋒とし、直ちに賊の堡塁に迫り、激戦してこれを破り、三千級を斬首し、これにより始興の地を回復した。間もなく、諸将と共に泔渓において晃を追撃して斬り、その首を函に入れて闕下に献上した。嗣恭は慎の功績を上表し、連州長史に任じ、当州団練副使を管掌させ、三度転じて江州別駕となった。

梁崇義を討った年、慎は江西の牙将として李希烈に従い、鋒を摧き敵陣に陷ち、功績もまた多くを占めた。江漢が平定されると、希烈は慎の才能を愛し、しばしば良馬を贈り、これを繋ぎ止めようとしたが、慎は計略を用いて遁走し、本道に帰順した。翌年、希烈は果たして反逆した。嗣曹王臯が初めて鐘陵に至り、将吏を大いに集め、慎を得てこれを壮とした。兵将を大いに集め、舟師を繕理した。希烈は慎が曹王に任用されることを恐れ、慎に七属の甲を贈り、慎の書状を偽造して間諜行為を行わせた。上は中使を軍中に遣わしてこれを詰問させたので、曹王は抗疏して冤罪を雪ごうと論じた。上章が未だ返答されないうちに、賊兵が江を溯って来寇したので、曹王は慎を召してこれを励まし戦わせ、三千余の衆を大破し、朝廷は初めてその二心なきことを信じた。累ねて蔡山の柵を破り、蘄州を奪取し、その将李良を降した。また黄梅県を攻め、賊将韓霜露を殺し、千余級を斬首した。優詔を以て褒賞し、試みに太子詹事を授け、南充郡王に封じ、また御史中丞・蘄州刺史を兼ね、節度都知兵馬使を充てた。

建中末、車駕が梁・洋に在った時、塩鉄使包佶が金幣を江を溯って進献せんとし、蘄口に駐屯した。時に賊は既に汴州を屠り、驍将杜少誠に歩騎万余を率いさせて黄梅に来寇し、江道を絶たんとした。慎の兵七千は永安戍においてこれと遭遇した。慎は三つの柵を樹てて列べ、数里を隔て、旗を偃げ鼓を臥せた。中柵において鼓を鳴らすと、三柵悉く兵を出して撃ち、賊軍は大いに乱れ、少誠は身を脱して免れ、斬首は数え切れず、江路は遂に通じた。また茍莽柵を破り、進軍して安州を包囲した。賊は涢水を阻み、攻めても下せなかった。希烈はその甥劉戒虚に騎兵八千を率いさせて来援させたので、慎は兵を分けて迎撃し、応山において戦い、戒虚を擒らえ、縛って城下に示すと、遂に門を開いて罪を請うた。功により安州刺史・兼御史大夫を拝し、仍って実封一百戸を賜った。希烈はまた将を遣わして隋州を救援させたので、慎は厲郷においてこれを撃ち、康叔夜を走らせ、五千級を斬首した。希烈が死ぬと、李恵登が賊のために隋州を守ったので、慎は飛書を以て招諭し、恵登は遂に城を以て降った。密かに恵登が任用に堪えることを奏上し、詔して隋州刺史を授けた。

貞元十五年、慎を安黄等州節度・管内支度営田観察等使とした。十六年、呉少誠が命に逆らうと、詔して本道の歩騎五千を以て、兼ねて荊南・湖南・江西三道の兵を統べ、その一面を当たらせた。申州城南において前後賊数千を破り、例により検校刑部尚書を加えた。二十一年、安黄に奉義軍の額を置き、奉義軍節度使・検校右僕射とした。憲宗即位の際、入朝して真に右僕射を拝した。元和二年、転じて検校左僕射、兼右金吾衛大将軍となった。賄賂を以て第五従直に鎮河中を求めたが、従直に奏上され、右衛将軍に貶された。数月後、再び検校尚書右僕射、兼右衛上将軍となった。元和六年に卒し、年六十八、太子太保を贈られた。

朱忠亮

朱忠亮、本名は士明、沛州浚儀の人。初め薛すうに仕えて将となった。大暦中、詔して普潤県を鎮めさせ、屯田を掌らせた。朱泚の乱の際、麾下四十騎を率いて奉天に奔った。徳宗はこれを嘉し、東陽郡王に封じ、「奉天定難功臣」とした。大駕が南幸した時、虜騎に捕らえられ、長安に繋がれた。賊が平定されると、李晟がこれを釈放し、渾瑊に薦め、定平鎮都虞候に任じた。鎮使李朝采が卒すると、遂にこれを代わった。憲宗即位の際、御史大夫を加えた。臨涇城を築く功労があり、特に検校工部尚書・涇原四鎮節度使を加え、仍って名を賜った。涇土の旧俗は多く子を売るものであったが、忠亮は俸銭を以て贖い親に還した者は約二百人に及んだ。元和八年に卒し、右僕射を贈られた。

劉昌裔

劉昌裔、太原陽曲の人。若くして三蜀に遊んだ。楊琳の乱の際、昌裔はその帰順を説いた。琳が洺州刺史を授けられると、昌裔を従事とし、琳が死ぬと去った。

曲環が幽隴の兵を率いて濮州を収めた時、判官に辟召した。詔して監察御史を授け、累ねて加えて検校兵部尚書に至り、紫を賜り、中丞を兼ね、営田副使を充てた。貞元十五年、環が許州を鎮め、卒すると、詔して上官涚に節度留後を管掌させた。呉少誠が許州を攻めると、涚は職務を執り、城を棄てて走らんとした。昌裔は追い止めて言うには、「留後は既に詔を受けた以上、死を以て城を守るべきである。況んや城中の士馬は賊を破るに足りる。ただ堅壁して戦わず、五七日を過ぎれば、賊の勢いは必ず衰え、我が全をもってこれを制することができる。」涚はこれを然りとした。賊は日夜急攻し、堞が壊れて修復できなかったので、昌裔は戦棚木柵を造って待つことを命じた。壮士を募って賊営を破り、突将千人を得て、城を鑿ち分かち出て、大いにこれを破り、因って戦棚木柵を城上に立てたので、城はこの故に陥落しなかった。兵馬使安国寧は涚と仲が悪く、謀反して城を以て賊に降らんとしたが、事が洩れ、昌裔は密計を以てこれを斬った。即ちその麾下千余人を召して食を賜い、縑二匹を賞し、諸要路に伏兵を置き、縑を持つ者を悉く斬らせ、一人も脱する者はなかった。十六年、陳許を全うした功により、涚を節度使とし、昌裔を陳州刺史とした。

韓全義が溵水で敗れた時、諸道の兵と共に皆走って陳州を保ち、宿舎を求めた。昌裔は城に登って言うには、「天子は公に蔡州を討たせたのである。今陳州に来るとは、義をもって受け入れることはできず、城外に宿泊されたい。」そして千騎を従えて全義の営に入り、牛酒を携えて軍を労った。全義は思いもよらず、驚喜して嘆服した。十八年、改めて陳許行軍司馬を充てた。翌年、涚が卒すると、詔して昌裔を許州刺史とし、陳許節度使を充て、さらに検校右僕射を加えた。

元和八年五月、許州に大水があり、廬舎を壊し、居人を漂溺させた。六月、昌裔を召し出して検校左僕射を加え、左龍武統軍を兼ねさせた。初め、昌裔は老病で軍府に政がなく、その水害により軍府が敗れたので、上は促して韓臯に代えさせた。昌裔は召しに赴き、長楽駅に至り、この命令を聞くと、風眩を上言し、私第に帰ることを請い、これを許された。その年に卒し、潞州大都督を贈られた。

范希朝

范希朝、字は致君、河中虞郷の人。建中年、邠寧虞候となり、戎政を修め挙げ、節度使韓遊瑰に仕えた。徳宗が奉天に幸した時、希朝は戦守に功があり、累ねて中丞を兼ね、寧州刺史となった。遊瑰が入朝し、奉天より邠州に帰ると、希朝が平素整斉厳粛で名声があるため、その己を逼ることを畏れ、その過失を求め、殺さんとした。希朝は懼れ、鳳翔に奔った。徳宗はこれを聞き、急ぎ召して京師に至らせ、左神策軍中に置いた。遊瑰が歿すると、邠州の諸将が列名して上請し希朝を節度使とせんとしたが、徳宗はこれを許した。希朝は張献甫に譲り、言うには、「臣は初め逼られて来たのであり、終にその任を代わることは、覬覦を防ぎ反側を安んずる所以ではない。」詔してこれを嘉し、献甫に邠寧を統べさせた。数日後、希朝を振武節度使とし、就いて検校礼部尚書を加えた。

振武には党項・室韋があり、川や丘に交錯して居住し、侵犯して盗みを働き、日が暮れると悪事をなすので、これを「刮城門」と称した。住民は恐れおののき、平穏な日はほとんどなかった。希朝は要害をくまなく知り、堡柵を設置し、斥候を厳重に配置したので、人々はついに安寧を得た。異蕃がたとえ鼠窃狗盗のごとき小盗を働いても、必ず殺して赦さず、戎虜はこれを大いに畏れ、言うには、「張光晟がいて、我らを長く苦しめてきたが、今聞くところでは、彼が姓名を改めて来たという」と。そのように畏れられたのである。蕃落の習俗として、長帥が到着すれば、必ず珍しい駱駝や名馬を献上する。清廉な者でもなお、俗に従ってその歓心を買うべきだと言うのに、希朝は一切受け取らなかった。十四年間を積み重ね、皆が塞を守って横暴を働かなかった。単于城中にはもとより樹木が少なかったが、希朝は他処で柳の苗を買い求め、軍人に命じて植えさせた。たちまちにして林となり、住民はこれを頼りとした。貞元の末、累次上表して朝覲を修めんことを請うた。当時、節度使が他の理由なく自ら職務を述べる者は、希朝ただ一人であり、徳宗は大いに喜んだ。到着すると、検校右僕射を拝し、兼ねて右金吾大将軍となった。

順宗の時、王叔文の党が権力を握り、韓泰に兵権を授けようとした。希朝が老病で制しやすいのを利して、左神策・京西諸城鎮行営節度使に任じ、奉天に鎮め、韓泰をその副使として、これに代わらせようとしたが、叔文が敗れて罷免された。憲宗が即位すると、再び検校僕射として右金吾となり、出て検校司空を拝し、朔方霊塩節度使を充てた。

突厥の別部に沙陀というものがあり、北方ではその勇猛さを推していたが、希朝がこれを誘致したので、甘州から挙族して来帰し、その衆はほぼ一万人に及んだ。その後これを用いて賊を討ち、至る所で功績があった。河東節度使に遷った。師を率いて鎮州を討つも功がなかった。すでに老耄かつ病に冒され、政務を処理できず、左龍武統軍に除され、太子太保をもって致仕した。元和九年に卒し、太子太師を贈られた。

希朝は近代において名将と号され、人々は多く趙充国に比した。張茂昭が王承宗を撃った時、ほとんど覆滅するところであったが、希朝は寇を侮って進まず、世論はこれを罪とした。

王鍔

王鍔は、字を昆吾といい、自ら太原の人と称した。もとは湖南団練の営将であった。初め、楊炎が道州司馬に貶せられた時、鍔は路上で楊炎を待ち受け、楊炎が彼と語って異才と認めた。後に嗣曹王李臯が団練使となると、鍔を抜擢任用し、大いに便利とした。邵州武岡の叛将王国良を招くよう命じて功績があり、表して邵州刺史とした。李臯が江西節度使に改まった時、李希烈が南侵したので、李臯は鍔に勁兵三千を率いて尋陽を鎮めさせた。後に李臯自ら全軍を率いて九江に臨み、蘄州を襲撃して得た後、全軍を渡河させると、表して鍔を江州刺史・兼中丞とし、都虞候を充て、これに従わせた。鍔は小心に事に習熟し、軍府の情状を探り得ることに長け、言葉や動作に至るまで、大小ことごとく李臯に報告した。李臯もまた心を推してこれを委ね、家宴や妻女の集まりにも、鍔がいることがあった。鍔は李臯の知遇に感じ、事を避けるところがなかった。

後に李臯が安州を攻めた時、伊慎に盛んに兵を囲ませた。賊は恐れ、李臯の使者を城中に遣わして降伏を約させようと請うたので、李臯は鍔を縄で吊り下ろして入城させた。約束が成ると、従わない者を殺して出てきた。翌日城門が開き、李臯はその衆を率いて入城した。伊慎は賊が恐れおののいたのは、自分が包囲したためであるとして、鍔を軽んじたので、鍔は病と称してこれを避けた。李臯が荊南節度使となると、表して鍔を江陵少尹・兼中丞とし、賓倅の列に加えようとした。馬彜・裴泰が鍔を軽蔑して去らせようとしたので、再び都虞候とした。

翌年、李臯に従って京師に至ると、李臯は徳宗に鍔を称えて言うには、「鍔は文才がやや不足していますが、その他はすべて試みることができます」と。そこで鴻臚少卿を拝した。まもなく容管経略使に除かれ、凡そ八年間、溪洞を安んじた。広州刺史・御史大夫・嶺南節度使に遷った。広州の人々は夷人と雑居し、土地の税は薄いが、川や市場で様々に求めていた。鍔は住民の生業を計算してその利益を専売し、得るところは両税とほぼ等しかった。鍔は両税銭を上供・時進および供奉に充てるほか、残りはすべて私物とした。西南の大海中の諸国から船舶が来ると、その利益をことごとく没収した。これにより鍔の家財は公の蔵を富ませた。日に十余艇を発し、犀角・象牙・真珠・貝殻を重ねて積み、商貸と称して境外に運び出した。一年中これを繰り返し、循環して絶えず、凡そ八年間、京師の権門は多く鍔の財産で富んだ。刑部尚書を拝した。当時淮南節度使杜佑がたびたび代わりを請うたので、鍔を検校兵部尚書とし、淮南副節度使を充てた。鍔が初めて杜佑に会った時、趨拝して杜佑を喜ばせ、退いて司馬の庁事に坐した。数日後、詔して杜佑に代えて鍔を任じた。

鍔は簿領に明るく習熟し、小術をもって下を掌握することを善くし、吏に不正があれば、鍔はことごとくこれを究明した。かつて訴訟を聴いていた時、前に匿名の書状が落ちていた。左右の者が取って鍔に授けると、鍔はこれを靴の中に入れた。靴の中には先に他の書状が入っていて、混ぜ合わせた。吏が退いた後、鍔は他の書状を取り出して焼いたので、人々は匿名の書状を焼いたと信じた。帰ってから告発された者を調べ、他日に他の些細な事柄でその告発された者を連座させ、固く窮めて按問検証し、衆を欺いた。下吏はこれを神明と思った。鍔は部領に長け、工程作業に法があり、軍州で用いる竹木は、その余りの碎屑も捨てるところなく、すべて再利用した。掾曹の簾が壊れたので、吏が新しい簾と取り替えたが、鍔が察知し、古いものを船坊に渡して笹の代わりにさせた。他のこともおおむねこのようであった。饗宴があるたびに、その残りを記録して後の用に備え、あるいは売って利益を得たが、収めた利益はすべて自分で取り、故に鍔の銭は天下に流通した。鎮所に四年間いて、累進して司空に至った。

元和二年に来朝し、真に左僕射を拝し、まもなく検校司徒・河中節度使に除かれた。三年間在任し、兼ねて太子太傅となり、太原に移鎮した。当時ちょうど鎮州を討伐しており、鍔は緝綏訓練し、軍府はよく治まると称された。鍔は符節を受け、方面に居ること凡そ二十余年であった。九年、同平章事を加えられた。十年に卒し、七十六歳、太尉を贈られた。鍔は死に臨んで、後事の取り決めを非常に明らかにし、まるで自分の死期を知っているかのようであった。

鍔は太原の王翃に附いて従子となり、婚姻と門閥をもって自ら誇示し、王翃の子弟は多く鍔に附いて名声と官位を得た。またかつて『春秋左氏伝』を読み、自ら儒者と称したが、人々は皆これを笑った。

子の王稷は、鴻臚少卿を歴任した。鍔が藩鎮にいる間、王稷はしばしば京師に留まり、家財をもって権要に奉じ、官位の高低を見て賄賂を進め、父に告げずに行った。広く邸宅を造営し、かつて坊を借りてこれを拡張するよう奏請し、二重の垣や洞穴を作り、その中に金銭を隠した。貴官や清品の者も、その賞宴に溺れて遊び、清議を憚らなかった。父が卒すると、奴隷に告発され、王稷が鍔の遺表を書き換え、進上した金品を隠匿したという。上はその奴隷を内仗で審問させ、また中使を発して東都でその家財を検証させた。宰臣の裴度が苦諫したので、そこで使者を罷め、奴隷を殺した。王稷は長慶二年に徳州刺史となり、多額の金宝と僕妾を携えて赴任した。節度使李全略がその財貨を欲してこれを謀り、故意に本州の軍を乱させ、王稷を殺した。その娘は李全略に捕らわれ、妓妾として扱われた。

王稷の子に王叔泰がいる。開成四年、滄州節度使劉約が上言して言うには、「王稷は李全略に殺され、家に遺族はいません。王稷の男子叔泰は、当時五歳で、郡人の宋忠献が匿って難を免れ、養育しましたが、今はすでに成長しました。臣はその義を賞し、忠献には職を補い、叔泰を送り届けて報告いたします」と。文宗は詔して言うには、「王鍔は累朝に力を宣べ、王稷は一旦に身を捐てた。孤遺を録し、微かに憫念を申すべし。王叔泰は吏部に委ねて九品の官を与え、祭祀を奉ぜしめよ」と。

閻巨源

閻巨源は、貞元十九年に勝州刺史として振武行軍司馬を兼ねた。杜希朝が入朝した際に属し、遂に代わって節度使となった。材力によって進み、他の知能はなかった。初めは書を知らず、文を好んだが、その言うことは常に誤りが多く、当時の人は多くその談説を拾って戯れとした。しかし寛厚であったため、将兵に懐かれた。後に邠寧節度使・検校左僕射となった。元和九年に卒した。

孟元陽

孟元陽は、陳許軍中から起こり、軍を整え粛然とし、職務に勤勉で、部署に巧みであった。曲環が節度使であった時、元陽は既に大将となっており、環は西華の屯田を監督させた。元陽は盛夏に芒の履を履き、田の中に立ち、役夫が退くのを待ってから舎に就いた。故にその田は年毎に実らないことがなく、軍中は食に足りた。環が卒すると、呉少誠が許州を寇し、元陽は城を守った。外に救兵なく、攻囲は甚だ急であったが、終にその城に付くことができず、賊は兵を罷めた。韓全義の五楼での敗北に際し、諸軍は多く私に帰ったが、元陽及び神策都の将蘇元策・宣州都の将王幹は各々部を率いて軍を溵水に留め、賊二千余人を破った。兵が罷むと、御史大夫を加えられた。元和初め、河陽節度・検校尚書を拝した。五年、右僕射・昭義節度を拝し、入って右羽林統軍となり、趙国公に封ぜられた。俄かに左金吾大将軍を拝し、再び統軍を除かれた。元和九年に卒し、揚州大都督を贈られた。

趙昌

趙昌は、字を洪祚といい、天水の人である。祖父は不器、父は居貞、皆当時に名があった。李承昭が昭義節度使であった時、昌を幕府に辟召した。貞元七年、虔州刺史となった。安南都護が夷獠に逐われた際に属し、安南都護を拝し、夷人は率いて化した。十年、屋が壊れて脛を傷つけたため、懇ろに上疏して還ることを乞い、検校兵部郎中裴泰を以て代え、入朝して国子祭酒を拝した。泰が首領に逐われた時、徳宗は昌に詔して状を問わしめた。昌は時に七十二歳であったが、精健で少年の如く、徳宗はこれを奇とし、再び都護を命じ、南人は相賀した。

憲宗が即位すると、検校工部尚書を加えられ、尋いで戸部尚書に転じ、嶺南節度使を充てた。元和三年、鎮を荊南に遷し、徴されて太子賓客となった。見えるを得ると、工部尚書兼大理卿を拝した。歳余りして、卿を譲り本官を守った。六年、華州刺史を除かれ、麟徳殿で辞した。時に八十余歳であったが、趨拝は軽捷で、召対は詳明であり、上は退いて嘆異し、宰臣に宣して密かにその頤養の道を訪ねて奏せしめた。郡に三年在り、入朝して太子少保となった。九年に卒し、八十五歳、揚州大都督を贈られ、諡して成といった。

史臣曰く

史臣曰く、高崇文は律を以て師を貞にし、軍政に勤め、戎麾蜀を指し、遽かに奇功を立てた。近朝の良将と謂うべし。伊慎・朱忠亮・劉昌裔・范希朝・閻巨源・孟元陽・趙昌等は、各々功を立て事を立て、亦一時の名臣なり。王鍔は明らかにして奸を照らし、忠にして主に奉ずる能く、此れ乃ち名を後に垂るるなり。竹頭木屑に至るまで、曾て棄遺することなく、事を作すに程有り、倹にして用に足るは、則ち又た士君子の為す所なり。賤く収め貴く出し、務めて珠金を積み、唯だ利を求むるのみ、多財累を為すは、則ち夫れ清白を子孫に遺す者と遠し。凡そ百の在位の者、之を鑑とせざるを得んや。

賛して曰く、崇文の功は、西蜀に顕る。伊慎の忠は、南服に見ゆ。朱・劉・范・閻は、各々其の目有り。元陽・趙昌は、遺躅無からず。惟だ彼の太原は、戦勛録す可し。累は多財に在り、子孫禄せず。