旧唐書 徳宗子

旧唐書

徳宗子

徳宗皇帝に十一子あり。昭徳皇后王氏は順宗皇帝を生む。舒王誼は昭靖太子の子なり。文敬太子は順宗の子なり。諸妃は通王以下八王を生む。本録には母氏を載せず。

舒王誼、本名は謨、代宗の第三子昭靖太子邈の子なり。最も幼きを以て、徳宗これを憐れみ、命じて子と為す。大暦十四年六月、舒王に封ぜられ、開府儀同三司を拝し、通王・虔王と同日に封ぜらる。仍て所司に詔し、その開府の俸料は逐月内に進めしむ。尋いで軍興を以て支給を罷む。建中元年、四鎮北庭行軍・涇原節度大使を領す。涇州刺史孟皞を以て節度留後と為す。誼は愛弟の子、諸王の長なるを以て、軍国の大事、その更に践らんことを欲し、必ず委ねてこれを試みしむ。

明年、尚父郭子儀病篤し、上紫宸に御し、誼をして制書を持ちてこれを省せしむ。誼は遠遊冠を冠り、絳紗袍を着し、象輅に乗り、駟馬を駕し、飛龍騎士三百人これに随う。国府の官は皆、褲褶騎して前に導き、鹵簿備え引きて楽せず、遏密の故なり。門に及び、郭氏の子弟外に迎え拝す。王は答拝せず。子儀臥して興たず、手を以て頭を叩き恩を謝す。王は冠珮を解き、常服を以て詔を伝えこれを労問す。

三年、蔡帥李希烈叛く。詔して哥舒曜をしてこれを討たしむ。八月、希烈自ら衆三万を帥い、哥舒曜を襄城に囲む。また詔して河南都統李勉をしてこれを援けしむ。勉は襄城を捨て、大将唐漢臣等をして勁兵を選び、径ちに許州を襲わしめて以て囲みを解かしむ。漢臣未だ許に至らざるに、上中使を遣わしてこれを追い、違詔を責め、亟に師を旋せしむ。賊の乗ずる所となり、漢臣の衆大いに敗る。勉は東都危急を恐れ、乃ち兵数千を分かち洛に赴かしむ。また賊に隔てらる。賊衆急に汴・滑を攻む。勉は宋州に走る。朝廷大いに聳く。乃ち誼を揚州大都督と為し、節を荊襄・江西・沔鄂等道節度に持ち、諸軍行営兵馬元帥を兼ね、名を誼と改む。また哥舒翰の声近きを以て、士卒窃に議す。普王に改封し、諸軍を統摂せしめ、希烈を進攻せしむ。仍て兵部侍郎蕭復を戸部尚書・兼御史大夫・元帥府統軍長史と為す。旧例に行軍長史あり。復の父の名衡なるを以て、特これを更む。また新たに除する所の潭州観察使孔巣父を右庶子・兼御史大夫と為し、行軍司馬を充てる。山南東道節度行軍司馬・検校兵部郎中・兼御史中丞樊沢を諫議大夫・兼御史中丞・行軍右司馬と為す。刑部員外郎劉従一を吏部郎中・兼中丞と為す。侍御史韋儹を工部郎中・兼中丞と為し、並びに元帥府判官を充てる。兵部員外郎高参を本司郎中と為し、元帥府掌書記を充てる。右金吾大将軍渾瑊を検校工部尚書・兼御史大夫と為し、中軍虞候と為す。江西節度使嗣曹王臯を前軍兵馬使と為す。鄂嶽団練使李兼をその副と為す。山南東道節度使賈耽を中軍兵馬使と為す。荊南節度使張伯儀を後軍兵馬使に充てる。左神武軍使王价を検校太子賓客と為す。左衛将軍高承謙を検校太子詹事と為す。前司農少卿郭曙を検校左庶子と為す。前秘書省著作郎常願を秘書少監と為し、並びに元帥府押衙を充てる。制下るも未だ行わず、涇原の兵乱して止む。

徳宗初めに兵士の怨言を出すを聞き、賞設を得ざるを、乃ち誼と翰林学士姜公輔に詔を伝え安撫せしめ、厚賞を以て許す。内門に行き及ぶに、兵已に闕前に陣す。誼狼狽して還る。遂に徳宗を奉じて奉天に出幸す。賊の城を攻むるに、誼は昼夜詔を伝え、諸軍を慰労し、僅かに帯を解かざること月余なり。車駕に従い宮に還り、復た舒王・開府儀同三司に封ぜられ、揚州大都督は旧の如し。永貞元年十月薨ず。朝を廃すること三日。

通王諶は、徳宗の第三子なり。大暦十四年に封ぜられ、制を授けて開府儀同三司と為す。貞元九年十月、宣武軍節度大使・汴宋等州観察支度営田等使を領す。宣武都知兵馬使李万栄を以て留後と為し、王は閣を出でず。十一年、河東帥李自良卒す。諶を以て河東節度大使と為し、行軍司馬李説をして府事を知らしめ留後を充てしむ。亦閣を出でず。

虔王諒は、徳宗の第四子なり。大暦十四年に封ぜられ、開府儀同三司を授かる。貞元二年、蔡州節度大使・申光蔡観察等使を領す。大将呉少誠を以て留後と為す。十年、朔方霊塩節度大使・霊州大都督を領す。朔方行軍司馬李欒を霊府左司馬と為し、府事を知らしめ、朔方留後と為す。十一年九月、横海大将程懐信その帥懐直を逐う。十月、諒を以て横海節度大使・滄景観察等使を領せしめ、都知兵馬使程懐信を留後と為し、王は閣を出でず。十六年、徐帥張建封卒す。徐軍乱る。また諒を以て徐州節度大使・徐泗濠観察処置等使を領せしめ、建封の子愔を留後と為す。

粛王詳は、徳宗の第五子なり。大暦十四年六月に封ぜらる。建中三年十月薨ず。時に年四歳。朝を廃すること三日。揚州大都督を贈る。性聡恵、上特にこれを憐れむ。追念已むこと無く、墳墓を起すことを令せず、西域の法の如くに詔し、層磚を議りて塔を造らしむ。礼儀使判官・司門郎中李巖上言して曰く、「墳墓の義、経典に常あり、古より今に至るまで、異制を聞かず。層磚を起して塔と為すは、天竺に始まり、名づけて『浮図』と曰う。これを中華に行うは、窃かに礼に非ざるを恐る。況んや粛王は天属、名位尊崇、喪葬の儀、簡冊に存す。挙げて法に従わざれば、訓を垂るること軽からず。伏して請う、令に準じて墳を造り、庶くは典礼に遵わんことを。」詔してこれに従う。

文敬太子謜は、順宗の子なり。徳宗これを愛し、命じて子と為す。貞元四年、邕王に封ぜられ、開府儀同三司を授かる。七年、定州張孝忠卒す。謜を以て義武軍節度大使・易定観察等使を領せしめ、定州刺史張茂昭を留後と為す。十年六月、潞帥李抱真卒す。また謜を以て昭義節度大使・沢潞邢洺名磁観察等使を領せしめ、潞将王虔休を潞府司馬・知留後と為す。十五年十月薨ず。時に年十八。朝を廃すること三日。文敬太子を贈り、所司礼を備え冊命す。その年十二月、昭応に葬る。陵有りて号無し。発引の日、百官通化門外に送り、列位して哭送す。この日風雪寒きこと甚だしく、近歳未だ有らざる所なり。詔して陵署令丞を置く。

資王謙は、徳宗の第七子なり。大暦十四年に封ぜらる。

代王諲は、徳宗の第八子なり。本は縉雲郡王に封ぜられ、早く薨ず。建中二年、代王を追封す。

昭王誡は、徳宗の第九子なり。貞元二十一年に封ぜらる。

欽王李諤は、徳宗の第十子である。順宗が即位すると、詔して曰く、「王者の制、子弟は畢く封ずるは、以て藩輔を固くし社稷を重んずる所以にして、古今の通義なり。第十弟諤等は、寛簡忠厚にして、生まれながらに孝敬を知り、行いは皆礼に由り、志は仁に違わず。善を楽しむは本より性情に在り、賢を好むは師傅に宗る。六藝を纘修し、人倫風化の源に達し;群言を博習し、恵み和睦友の道を知る。朝夕に温恭にして、允かに其の猷茂なり、克く嘉聞有り、宜しく土宇を封ずべし。諤は欽王に封ずべし。第十一弟は珍王に封ずべし」と。

珍王李諴は、徳宗の第十一子であり、欽王と同じ制により封ぜられた。

徳宗は仁孝にして、動くに法度に循い、子弟姑妹の親といえども、仮借する所無し。建中初年、詔して親王の子弟で開府の朝秩を帯びる者は、出でて本班に就かしむ。又、公主・郡県主の出降に、舅姑と抗礼するを以て、詔して曰く、「冠婚の義は、人倫の大経なり。昔、唐堯は嬪を降し、帝乙は妹を帰す。漢氏に迨うては、同姓これを主とす。爰に近古より、礼教陵夷し、公郡の法度、僭差殊制す。姻族は歯序の義を闕き、舅姑は拜下の礼有り、家より国を刑するも、多く古人に愧ず。今、県主に行有らんとし、将に嘉令を俟たんとす。親をして棗栗を執らしめ、以て舅姑に見えしめよ。宗婦の儀を敬って遵い、家人の礼に降りて就かしめよ。事は変革に資り、以て浮華を抑えんとす。其れ礼儀使に令し、礼官博士と、古今の旧儀及び『開元礼』を約し、公主・郡県主の出降・覿見の文儀を詳定して以て聞かしめよ」と。

初め、開元中、崇仁里に礼会院を置く。兵興已来より、廃して修めざる故に、公・郡・県主は時に降嫁せず、殆ど三十年、華髪にして猶丱なる者有り、内館に居るといえども、覲見を獲ざること十六年に及べり。凡そ皇族の子弟は、皆散棄して位無く、或いは他県に流落し、湮沈して歯録せられず、匹庶に異ならず。徳宗の即位に及び、枝属を叙用し、時に婚嫁せしむ。公族の老幼、悲感せざる莫し。初めて即位し、将に太廟を謁せんとし、始めて公・郡・県主と大次の中に相見ゆ。尊者は其の敬を展べ、幼者は其の愛を申す。歔欷哭泣の声、朝に聞こえ、公卿陪列の者之が為に淒然たり。将に大礼有らんとする毎に、必ず諸父昆弟と其の斎次を同じくす。岳陽・信寧・宜芳・永順・朗陵・陽安・襄城・徳清・南華・元城・新郷等十一県主の同月に出降するに及び、司に勅して大小の物、必ず其の用を周らしむ。櫛・纚・笄・総に至るまで、皆心に経り、各々銭三百萬を給し、中官をして之を主とせしめ、以て田業を買わしむ。侈用するを得ず。其の衣服の飾りは、内司をして計造せしめ、此の数に在らず。是の時、司は人を用いるに一籠花を度り、銭七十萬を計う。帝曰く、「籠花の首飾は、婦礼闕くべからず。然れども用費太だ広し、即ち謂れ無し。宜しく之を損じ又之を損ずべし」と。三万に及びて止む。帝、主等に謂いて曰く、「吾は愛する所有るに非ず。但だ益無きの費を欲せざるのみ」と。各々余銭六十萬を以て之に賜い、以て他の用に備えしむ。

旧例、皇姫の下嫁には、舅姑返拜して婦は答えず。是の制の下るに及び、礼官定制して曰く、「既に礼会院に於いて婚を成す。明晨、舅は堂の東階に坐し西向し、姑は南向す。婦は笄を執り、棗栗を盛りて、西階より升り、再拝し、跪きて舅の席前に奠む。退き降りて〓を受け、腶修を盛る。升り、北面して再拝し、跪きて姑の席前に奠む。降り、東面して婿の伯叔兄弟姉妹を拝す。已にして光順門に恩を謝し、婿の親族も亦之に随う。然る後に十六宅に会宴す」と。是の日、県主は皆其の制の如し。初め、司徒を贈らるる沈易良の妻崔氏は、即ち太后の季父母なり。帝之を見る毎に、方屣にして靴にし、王・韋二美人を召し出でて拝せしむ。崔氏に勅して坐受して答えざらしむ。故に戚属の間、其の敬を憚らざる無く、肅せずして礼法に遵う。

順宗の子

順宗二十三子:莊憲皇后王氏は憲宗皇帝を生む;王昭儀は郯王経を生む;趙昭儀は宋王結を生む;王昭儀は郇王綜を生む;王昭訓は衡王絢を生む;余り十八王は、本録に母氏を載せず。

郯王李経は、本名は渙、順宗の第二子である。初め建康郡王に封ぜられ、貞元二十一年に封ぜられる。太和八年に薨ず。

均王李緯は、本名は沔、順宗の第三子である。初め洋川郡王に封ぜられ、貞元二十一年に進封される。

漵王李縦は、本名は洵、順宗の第四子である。初め殿中監を授かり、臨淮郡王に封ぜられ、貞元二十一年に進封される。

莒王李紓は、本名は浼、順宗の第五子である。初め秘書監を授かり、弘農郡王に封ぜられる。貞元二十一年に進封される。太和八年に薨ず。

密王李綢は、本名は泳、順宗の第六子である。初め漢東郡王に封ぜられ、貞元二十一年に進封される。元和二年九月に薨ず。

郇王李綜は、本名は湜、順宗の第七子である。初め少府監を授かり、晉陵郡王に封ぜられ、貞元二十一年に進封される。元和三年四月に薨ず。

邵王李約は、本名は漵、順宗の第八子である。初め国子祭酒を授かり、高平郡王に封ぜられ、貞元二十一年に進封される。

宋王李結は、本名は滋、順宗の第九子である。初め雲安郡王に封ぜられ、貞元二十一年に進封される。長慶二年に薨ず。

集王緗は、貞元二十一年に封ぜられ、長慶二年に薨じた。

冀王絿は、本名を淮といい、順宗の第十子である。初め太常卿を授かり、宣城郡王に封ぜられ、貞元二十一年に進封された。太和九年に薨じた。

和王綺は、本名を湑といい、順宗の第十一子である。初め徳陽郡王に封ぜられ、貞元二十一年に進封された。太和七年に薨じた。

衡王絢は、順宗の第十二子である。貞元二十一年に封ぜられ、宝暦二年に薨じた。

欽王績は、順宗の第十三子である。貞元二十一年に封ぜられた。

会王纁は、順宗の第十四子である。貞元二十一年に封ぜられ、元和五年十一月に薨じた。

福王綰は、本名を浥といい、順宗の第十五子である。母は荘憲王皇后で、憲宗と同母である。初め光禄卿を授かり、河東郡王に封ぜられ、貞元二十一年に進封された。咸通元年、特旨をもって司空に冊拝された。翌年に薨じた。

珍王繕は、本名を況といい、順宗の第十六子である。初め衛尉卿を授かり、洛交郡王に封ぜられ、貞元二十一年に進封された。

撫王紘は、順宗の第十七子である。貞元二十一年に封ぜられた。咸通四年、特旨をもって司空に冊拝された。五年、司徒に冊せられた。乾符三年、太尉に冊せられた。その年に薨じた。

嶽王緄は、順宗の第十八子である。貞元二十一年に封ぜられ、太和二年に薨じた。

袁王紳は、順宗の第十九子である。貞元二十一年に封ぜられ、太和十四年に薨じた。

桂王綸は、順宗の第二十子である。貞元二十一年に封ぜられ、太和九年に薨じた。

翼王綽は、順宗の第二十一子である。貞元二十一年に封ぜられ、咸通二年に薨じた。

蘄王緝は、順宗の第二十二子である。咸通八年に封ぜられた。

【論】

史臣が曰く、聖人が天下に君臨し、国家の基を開くには、上玄の命を受け、帝箓の名を膺けるものである。太昊より以降、五運が相推し、殷湯に至るまで、歴数は綿永であった。ただ均平の化を設けたのみで、封建の名は未だ聞こえなかった。周・漢に至って初めて子弟をもって侯を建て屏を樹て、維城となす。王室が漸く微となるに及んで、遂に王莽・董卓の乱が起こった。唐室は艱難の後より、両河に兵革が屡興し、諸王は封ぜられながらも、竟に閣を出ず。帝王が寰宇の尊に居り、億兆の衆を撫でるには、ただ平一の理道を能くし、夙夜厳恭に、賢を任じ能を使い、官を設け職を分かちさえすれば、自然と四海は推戴を楽む。天命の祐る所、仮に封建が無くとも、また鴻基は永固にして、安んぞ嬰孺をして重鎮たらしめんや。

賛して曰く、孝文は礼を秉り、藩邸において道を弘む。族を睦まし親を展べ、戚里の儀刑たり。閣より藩に臨む、所謂周爰なり。悪鳥の如き無きも、終に籠樊を懐かしむ。