卷一百四十九
于休烈
于休烈は、河南の人である。高祖父の志寧は、貞観年間に左僕射を任ぜられ、十八学士の一人となった。父の默成は、沛県令となり、早くに卒去した。休烈は至誠の性質で貞実篤厚、機微を鑑みることに敏く悟るところがあった。幼い頃から学問を好み、文章を作ることに長け、会稽の賀朝・万斉融・延陵の包融と文詞の友となり、一時に名を並べた。進士に挙げられ、また制策に応じて科第に登り、秘書省正字を授けられた。累進して右補闕・起居郎・集賢殿学士となり、転じて比部員外郎・郎中となった。楊国忠が政を輔けるに及んで、己に附かない者を排斥し、中部郡太守として出された。
安禄山が乱を構えた時に遭遇し、粛宗が践祚すると、休烈は中部より行在に赴き、抜擢されて給事中に拝された。太常少卿に遷り、礼儀の事を知り、兼ねて国史を修めた。粛宗が鳳翔より京師に還り、励精して聴受し、嘗て休烈に謂って曰く、「君の挙動は必ず記録すべきもの、良史である。朕に過失あれば、卿はこれを記録するか」と。対えて曰く、「禹・湯は己を罪し、その興りは勃焉たり。徳ある君は、過ちを規することを忘れず、臣は大慶に勝えず」と。時に中原は覆滅し、典章は殆ど尽き、史籍を検尋するもの無し。休烈は奏して曰く、「『国史』一百六巻、『開元実録』四十七巻、起居注並びに余りの書三千六百八十二巻は、並びに興慶宮の史館に在り。京城が賊に陥ちた後、皆焼失せり。且つ『国史』・『実録』は、聖朝の大典にして、修撰すること久し、今並びに本無し。伏して望むらくは、御史台に下して史館の所由を推勘せしめ、府県に令して招訪せしむべし。人別に『国史』・『実録』を収得する者あれば、官司に送らしめ、重ねて購賞を加うべし。若し史官の収得する所なれば、仍ってその罪を赦すべし。一部を得れば、官資を超授し、一巻を得れば絹十匹を賞すべし」と。数ヶ月の内に、唯だ一両巻を得るのみ。前に史官を修めた工部侍郎韋述は賊に陥ち、東京に入り、ここに至ってその家蔵の『国史』一百一十三巻を官に送る。
粛宗は太常の鐘磬について、隋より以来、伝わる五音に或いは調わざる有り、乾元初年に休烈に謂って曰く、「古の聖人は楽を作り、以て天地の和に応じ、以て陰陽の序に合わしむれば、則ち人は夭札せず、物は疵癘せず。且つ金石絲竹は、楽の器なり。比来親しく郊廟を享け、毎に懸楽を聴くに、宮商備わらず、或いは鐘磬度を失う。尽く鐘磬を将ち来るべし、朕当に内に於いて自ら定めん」と。太常は楽工を集めて考試し、数日にして差錯を審らかに知り、然る後に別に鑄造磨刻を令す。事畢わるに及んで、上は殿に臨み親しく試みに考撃し、皆五音に合い、群臣慶賀を称す。
代宗即位し、名品を甄別し、宰臣元載これを称し、乃ち右散騎常侍を拝し、前に依り兼ねて国史を修め、尋いで礼儀使を加う。工部侍郎に遷る。又改めて検校工部尚書と為し、兼ねて太常卿の事を判じ、正しく工部尚書を拝し、累ねて東海郡公に封ぜられ、金紫光禄大夫を加えらる。朝に在ること凡そ三十余年、歴ねて清要を掌り、家に儋石の蓄え無し。恭儉温仁、未だ嘗て喜慍を顔色に形せず。而して賢を親しみ士を下し、後進を推轂し、位崇く年高しと雖も、曾て倦怠の色無し。篤く墳籍を好み、手巻を釈かず、以て終わるに至る。大暦七年卒す、年八十一。集十巻有り、代に行わる。
休烈の子 肅
嗣子益、次子肅、相継いで翰林学士と為る。
是の歳の春、休烈の妻韋氏卒す。上は休烈父子の儒行著聞なるを以て、特詔して韋氏に国夫人を贈り、葬日の鹵簿鼓吹を給う。休烈の卒するを聞くに及び、久しく追悼し、尚書左僕射を褒贈し、賻に絹百匹・布五十端を賜い、謁者内常侍呉承倩を遣わして私第に就き宣慰せしむ。儒者の栄、少しく其の比有り。
肅は官給事中に至る。肅の子敖。
肅の子 敖
敖は字を蹈中と為し、家世の文史盛名を以てす。少にして時彦に称せられ、志行修謹なり。進士第に登り、褐を釈けて秘書省校書郎と為る。湖南観察使楊憑は辟して従事と為し、府罷まるや、鳳翔節度使李鄘・鄂嶽観察使呂元膺相継いで辟召す。協律郎・大理評事より監察御史を試み、元和六年、真に監察御史を拝し、殿中に転じ、倉部・司勛の二員外・万年令を歴ね、右司郎中を拝し、出でて商州刺史と為る。長慶四年、入りて吏部郎中と為る。其の年、給事中に遷る。
昭湣初めに即位し、李逢吉用事し、翰林学士李紳と素より叶わず、遂に紳を以て不測の罪に誣え、嶺外に逐う。紳と同職の駕部郎中知制誥龐厳・司封員外郎知制誥蒋防は、紳の党に坐し、信・汀等州刺史に左遷せらる。黜詔下るや、敖は詔書を封じて還す。時に人は厳と相善し、その非罪を訴うるを以てし、皆曰く、「於給事は宰執の怒りを犯し、龐・蒋の屈を伸ぶ、亦た仁ならずや」と。駁奏出づるに及びて、乃ち龐厳の貶黜軽きを論ずるに在り、中外大いに噱わざる無く、而して逢吉是れよりこれを奨む。尋いで工部侍郎に転じ、刑部に遷り、出でて宣歙観察使・兼御史中丞と為る。
令狐敖は温和で寛大な長者であり、物事と対立することがなく、官職にあっても特に業績を立てることはなかった。朝廷の要職を歴任し、三度列曹侍郎となったが、謹んで順応し、自らを保つだけであった。太和四年八月に卒去し、享年六十六、礼部尚書を追贈された。
四人の子、令狐球、令狐珪、令狐瑰、令狐琮は、皆進士に及第した。
令狐敖の子 令狐琮
令狐琮は、放縦で大志を抱き、門地の恩恵で官吏となったものの、長らく重用されなかった。大中年間、駙馬都尉鄭顥は令狐琮が旧家の出身であることから、その器量と度量を特に高く評価した。ちょうど詔勅により、士族の中から人材を選び公主を娶らせることとなり、多くの名門子弟はこれを避けた。鄭顥は令狐琮に言った。「あなたは人材が非常に優れているが、細かい行いを慎まず、世間の評判に抑えられて長く昇進していない。この命令に応じることができるか。」令狐琮はこれを承諾した。ちょうど李籓が貢挙を管轄することとなり、鄭顥は彼に託して令狐琮を及第させた。その年、諫官の列に加えられ、広徳公主を娶り、駙馬都尉に任じられた。その後、朝廷の要職を歴任し、地方の藩鎮でも官職を重ねた。乾符年間に同平章事となった。
黄巣の賊が京師を犯すと、僖宗は行幸に出たが、令狐琮は病のため従うことができなかった。賊が帝号を僭称すると、令狐琮を宰相に起用しようとした。令狐琮は病気を理由に辞退した。賊が脅迫をやめないので、令狐琮は言った。「私は病が重く、死は旦夕に迫っている。それに唐室の姻戚である以上、義として命令を受けることはできない。死ぬなら本望である。」ついに賊に害されたが、公主は赦された。公主は令狐琮が禍を受けるのを見て、賊に言った。「妾は李氏の娘である。義として一人で生きることはできない。于公(令狐琮)と共に命を終えたい。」賊は許さず、公主は室内に入って自縊して亡くなった。広徳公主は閨門の礼に優れ、咸通・乾符年間にはその評判が人々の口に上った。一族の内外における冠婚葬祭には、公主自ら必ず進んで礼を行い、諸婦は列をなしてこれに拝謁し、尊卑が互いに労をねぎらい、皆儀礼の法があり、当時に称えられた。令狐珪、令狐球も皆、清要で顕著な地位に至った。
令狐峘
令狐峘は、令狐徳棻の玄孫である。進士に及第した。安禄山の乱の時、南山の豹林谷に隠居し、谷中に〓亙別墅があった。司徒楊綰が未だ官に就いていない時、乱を避けて南山に至り、令狐峘の家に滞在した。令狐峘は博学で、群書に通じ、弁舌に優れ、楊綰は大いに称賛した。楊綰が礼部侍郎となり、国史を編修するに及んで、令狐峘を史館に引き入れた。華原尉から右拾遺に任じられ、累進して起居舎人となり、いずれも史職を兼ね、『玄宗実録』百巻、『代宗実録』四十巻を編修した。著述は勤勉であったが、大乱の後であったため起居注が失われ、令狐峘が開元・天宝の事績を編纂するに当たり、諸家の文集を得てその詔策を編んだものの、名臣の伝記は十に三四もなく、後人は漏落が多いとして良史とは称しなかった。大暦八年、刑部員外郎に改められた。
徳宗が即位し、元陵(代宗の陵)の造営を手厚くしようとした時、令狐峘は上疏して諫めて言った。
臣は『伝』に「近臣は規諫を尽くす」とあり、『礼記』に「君に仕えるには犯して諫め、隠すことなし」とあると聞いております。臣は幸いに昌明な世運に巡り会い、誤って近臣の列に加えられました。敢えて狂愚を尽くし、少しでも裨益があればと願い、伏して陛下のご詳察を請います。
臣が『漢書』劉向伝を読み、王者の山陵についての戒めを論じたところ、良史が称賛し、万古に芬芳たるものを見ました。何故でしょうか。聖賢の心は、勤倹を務めとし、必ず道に求め、無益なことを行わないからです。故に舜は蒼梧に葬られても、その市肆を変えず、禹は会稽に葬られても、その行列を改めませんでした。周の武王は畢陌に葬られ、丘塚はなく、漢の文帝は霸陵に葬られ、山谷の地勢に因りました。禹が忠でなかったわけではなく、啓が順でなかったわけではなく、周公が悌でなかったわけではなく、景帝が孝でなかったわけではなく、彼らが君親に奉ずることは、皆微薄に従ったのです。昔、宋の文公が初めて厚葬を行い、蜃炭を用い、車馬を増やした時、その臣の華元・楽挙は、『春秋』に不臣として書かれました。秦の始皇帝は驪山に葬られ、魚の脂を灯燭とし、水銀を江海とし、珍宝の蔵は数え切れず、千年を経て非難されています。宋の桓魋が石の棺を作った時、夫子は「速やかに朽ちるに如かず」と言われました。子游が喪具について問うた時、夫子は「家の有無に称せよ」と言われました。張釈之が孝文帝に対し「もしその中に欲するもの無からしめば、石の棺無くとも、何ぞ憂えん」と答えました。漢文帝の霸陵は皆瓦器を用い、金銀で飾りとしませんでした。これによって観れば、徳ある者は葬りがより薄く、徳無き者は葬りがより厚いことは、明らかに見ることができます。
陛下は天下を臨御されて以来、聖政は日々新たです。忠を進め邪を去り、膳を減らし用を節し、雲物の瑞祥を珍重せず、鷹犬の娯楽に近づきません。役所が物を給するには、全て元の価格に依り、民に利があります。遠方からの貢物は、祭祀の事に供するのみで、自らには薄くします。故に沢州が慶雲を奏上しても、詔して「時和を以て嘉祥と為す」とし、邕州が金坑を奏上しても、詔して「不貪を以て宝と為す」とされました。恭しく惟うに、聖慮は全て至理に外れません。然るに、ただ六月一日の制節文に「山陵の制度に応ずるは、務めて優厚に従い、当に帑蔵を竭くして、以て費用に供すべし」とあるのは、これは誠に仁孝の徳が、聖衷に切なるものでしょう。伏して尊親の義は、礼に合うことを貴ぶと存じます。陛下が明詔を下し、徳音を発せられる度に、皆唐・虞に比肩し、周・漢を超邁されています。どうして凡常の目を悦ばせ、賢哲の心に背き、失徳の君とその奢侈を競うようなことをなさるでしょうか。臣はまた伏して遺詔を読みました。「その喪儀制度は、務めて儉約に従い、金銀錦彩を以て飾りとすべからず」とあります。陛下は恭しく先志に順い、動くに違うこと無きお方です。もし制度が優厚であれば、それは顧命の意でしょうか。
伏して陛下には、遠く虞・夏・周・漢の制を覧られ、深く夫子・張釈之の誡を思い、虔しく先旨を奉じ、俯して礼経に遵い、万代の法と為されますよう、天下幸甚です。今、赦書は既に頒行されましたが、諸条は未だ出ておりません。この時に遺制を奉じ、聖理を敷くのは、固より未だ遅くはありません。伏して速やかに有司に詔し、悉く古礼に従わしめられますことを望みます。臣は聞きます、愚夫の言も、明主はこれを択ぶと。況んや臣は史官の職を辱うし、親しく睿徳に逢い、華元・楽挙の不臣たるに同ずるを恥じ、舜・禹の理を以て、聖猷を紀さんと願う者です。夙夜懇迫し、敢えて言わざるを得ず、聖明を抵犯し、実に罪譴を憂えます。言い行い身を黜されても、死すとも猶生きるが如し。
優詔をもって答えられた。「朕が先頃山陵を議した時、心はまさに迷謬し、先旨に遵うことを忘れ、遂に優厚の文を有した。卿は聞見該通し、識度弘遠にして、深く不可なるを知り、至言に形す。古今を援引し、経礼に拠拠し、ただ朕の病に中るのみならず、また朕の躬を成す。朕が不子の名を獲るを免れしむるは、皆卿の力なり。敢えて義を聞いて徙らずんばあらんや、桑榆に収め、以て始終に奉じ、失墜無きを期す。古の遺直、何を以てか之に加えん。」
初め、大暦年間、劉晏が吏部尚書、楊炎が侍郎の時、劉晏は令狐峘に吏部南曹の事務を判らせた。令狐峘は劉晏の推挙を受けた恩があり、毎度官職の欠員を分ける際、必ず良いものを劉晏に送り、良くないものを楊炎に送ったので、楊炎は心の中でこれを不平に思った。建中初年に〓亙が礼部侍郎となり、楊炎が宰相となると、楊炎は旧事を顧みなかった。杜封という士子がおり、故相杜鴻漸の子で、弘文生に補われることを求めた。楊炎はかつて杜氏の門下であったため、杜封のことを令狐峘に託した。令狐峘は使者に言った。「相公が誠に杜封を憐れみ、一名を成し遂げさせたいとお思いなら、杜封の名の下の一字にご署名を乞い、峘は以てこれを記したい。」楊炎は令狐峘が売り出すとは思わず、即座に署名して杜封を託した。令狐峘は楊炎の署名したものを奏上して論じ、宰相が私情をもって臣を迫る、臣がもしこれに従えば陛下に背き、従わなければ楊炎が臣を害すであろう、と述べた。徳宗は上疏を取り出して楊炎に問うと、楊炎は事の次第を詳しく述べた。徳宗は大いに怒り、「これは奸人だ、どうしようもない!」と言い、杖刑を加えて流罪にしようとしたが、楊炎が苦しくも救解し、衡州別駕に貶された。後に衡州刺史に遷された。
齊映江西を廉察し、部を行き過ぎて吉州に至る。故事に、刺史始めて觀察使に見ゆるは、皆戎服して庭に趨り礼を致す。映は嘗て宰相たりしと雖も、然れども驟に達する後進なり。峘は自ら前輩を恃み、以て映に過ぐる所有り、戎服を以て謁せんと欲せず。入りて其の妻韋氏に告げ、抹首して庭に趨るを恥ず。峘に謂ひて曰く、「卿自ら視ること何如なる人ぞ、白頭して小生の前に走る。卿此の礼を以て映に見えざれば、雖も黜死すとも、我亦恨み無からん」と。
峘曰く「諾」と、即ち客礼を以て之を謁す。映は言はざるも、深く以て憾と為す。映州に至り、峘が前政の過失を糾すを奏し、之を鞫するも状無く、部を按じ人に臨むに宜しからずとし、衢州別駕に貶す。衢州刺史田敦は、峘が挙を知る時の進士門生なり。初め峘貢部に当たり、放榜の日貶逐せられ、敦と相面せず。敦峘の来るを聞き、喜びて曰く、「始めて座主を見る」と。迎謁の礼甚だ厚し。敦月に俸の半を分かち以て峘に奉ず。峘衢州に在ること殆ど十年。順宗即位し、秘書少監を以て征し、既に至りて卒す。
帰崇敬
帰崇敬、字は正礼、蘇州呉郡の人なり。曾祖奥、崇敬の故を以て、追贈して秘書監と為す。祖楽、贈房州刺史。父待聘、亦た秘書監を贈る。
崇敬少くして学に勤め、経業を以て第を擢げる。喪に遭ひ哀毀し、孝を以て聞こえ、四門助教に調授せらる。天宝末、対策高第し、左拾遺を授けられ、秘書郎に改む。起居郎・賛善大夫に遷り、兼ねて史館修撰と為し、又た集賢殿校理を加ふ。家貧しきを以て外職を求め、歴て同州・潤州長史と為り、会に玄宗・粛宗二帝の山陵に遭ひ、礼儀を参掌し、主客員外郎に遷る。又た史館修撰を兼ね、膳部郎中に改む。
崇敬、百官の朔望朝服の褲褶は古に非ずとし、上疏して云く、「三代の典礼、両漢の史籍に按ずるに、並びに褲褶の制無く、亦た其の起る所の由詳らかならず。隋代已来、始めて服する者有り。事古に師ひず、伏して停罷を請ふ」と。之に従ふ。
又た諫めて曰く、「東都の太廟、木主を置くに合はず。謹んで典礼に按ずるに、虞主は桑を用ひ、練主は栗を用ふ。桑主を作れば則ち栗主を埋め、栗主を作れば則ち桑主を埋む。是れ神に二主無く、天に二日無く、土に二王無き所以なり。東都太廟は、則天皇后の建つる所、以て武氏の木主を置く。中宗其の主を去りて其の廟を存す、蓋し将に行幸遷都の置に備はんとす。且つ殷人は屡遷し、前八後五、則ち前後遷都一十三度、毎都に別に神主を立て可からず。議者或は云く、『東都の神主は曾て虔奉して礼す、豈に一朝に之を廃すべきや』と。且つ虞祭は則ち桑主を立てて虔祀し、練祭は則ち栗主を立てて桑主を埋む。豈に桑主曾て虔祀せずして乃ち之を埋めんや。又た闕くる所の主、何ぞ更に作らん須ひん。之を作ること時ならず、恐らくは礼に非ざらん」と。
又た議して云く、「毎年春秋二時に文宣王を釈奠し、祝板禦署訖り、北面して揖す。臣以為らく礼太重しと。謹んで『大戴礼』に按ずるに、師尚父周の武王に丹書を授く、武王東面して立つ。今祝板を署するに、伏して武王東面の礼に準へんことを請ふ。軽重庶く其の中を得ん」と。
時に術士巨彭祖上疏して云く、「大唐土徳、千年符を合す。請ふ毎四季天地を郊祀せん」と。詔して礼官儒者をして之を議せしむ。崇敬議して曰く、「旧礼に按ずるに、立春の日、春を東郊に迎へ、青帝を祭る。立夏の日、夏を南郊に迎へ、赤帝を祭る。先だち立秋十八日、黄霊を中地に迎へ、黄帝を祀る。秋・冬各其の方に於いてす。黄帝は五行に於いて土王たり、四季に於いて火に生まる。故に火用事の末に之を祭り、三季は則ち否なり。漢・魏・周・隋、共に此の礼を行ふ。国家土徳時に乗じ、亦た毎歳六月土王の日、黄帝を南郊に祀り、后土を以て配す。所謂礼に合ふ。今彭祖四季を以て祠祀せんことを請ふ、多く緯候の説に憑り、且つ陰陽の説に据る。事不経に渉り、恐らく行用し難からん」と。又た五人帝を祭るに臣と称せざるを議して云く、「太昊五帝は人帝なり、国家に於いて即ち前後の礼たり、君臣の義無し。若し人帝に於いて臣と称せば、則ち天帝に復た何をか称せん。議者或は云く、『五人帝『月令』に列し、五時に分配す』と。則ち五神・五音・五祀・五虫・五臭・五穀皆備はり、以て其の時の色数を備ふ。別に尊崇有りと謂ふに非ざるなり」と。又た太祖景皇帝を請ひて天に配せしむ。事已に『礼儀志』に具はれり。是より国典の大礼、崇敬常に参議す。
大暦初、新羅王卒するを以て、崇敬に倉部郎中・兼御史中丞を授け、紫金魚袋を賜ひ、吊祭・冊立新羅使を充てしむ。海中流に至り、波濤迅急、舟船壞漏し、衆咸く驚駭す。舟人小艇を請ひて崇敬を載せ禍を避けんとす。崇敬曰く、「舟中凡そ数十百人、我何ぞ独り済からん」と。逡巡して波濤稍く息み、竟に害を免る。故事に、新羅に使する者、海東に至り多く求むる所有り、或は資帛を携へて往き、貨物を貿易し、規として以て利と為す。崇敬一皆之を絶つ。東夷其の徳を称へ重んず。使い還り、国子司業を授けられ、兼ねて集賢学士と為す。諸儒官と同しく『通志』を修め、崇敬『礼儀志』を知り、衆称へて允当なりとす。
時に皇太子仲秋の月を以て、国学に於いて歯冑の礼を行はんと欲す。崇敬国学及び官名称せざるを以て、国学の制を改め、兼ねて其の名を更めんことを請ひて曰く、
又以て、
祭酒の名は、学官の宜しく用いる所に非ず。『周礼』を按ずるに、「師氏は以て義を掌り王に詔し、国子を教う」と。祭酒を太師氏と改むるを請う、位は正三品。また司業なる者は、その義は『礼記』に在り、「楽正は業を司る」と云う。正は長なり、楽官の長たり、この業を司り主ることを言う。『爾雅』に云う、「大板を業と謂う」と。『詩・周頌』を按ずるに、「業を設け虡を設け、崇牙に羽を樹つ」と。すなわち業は鐘磬を懸くる栒虡なり。今、太学は既に楽を教えず、義に於いては取る所無し。司業を一は左師と、一は右師と改むるを請う、位は正四品。
また以て、
『五経』六籍は、古の先哲の王、理を致すの式なり。国家創業の時、賢を取るの法を制し、明経を立て、微言を衆学に発し、回を釈して美を増し、賢を選び能に与う。艱難以来、人を取ること頗る易く、試験はその文義を求めず、及第は先ず帖経に取り、遂に専門の業を廃し、益を請うも従う所無く、師資の礼虧け、伝受の義絶ゆ。今、『礼記』・『左伝』を大経と為し、『周礼』・『儀礼』・『毛詩』を中経と為し、『尚書』・『周易』を小経と為し、各博士一員を置くを請う。その『公羊』・『穀梁』は文疏少なく、共に一中経に準じ、通じて博士一員を置くを請う。選ぶ所の博士は、兼ねて『孝経』・『論語』に通じ、章疏に依憑し、講解分明にして、註引旁通し、十を問いて九を得、兼ねて德行純潔、文詞雅正、儀形規範、師表と為す可き者なり。四品以上に令して各知る所を挙げしむ。在外の者は駅を給し、年七十已上の者は蒲輪を給す。その国子・太学・四門・三館は、各五経博士を立て、品秩上下、生徒の数、各差有り。その旧博士・助教・直講・経直及び律館・算館の助教は、皆罷省するを請う。
その教授の法は、学生監に至り、同業の師に謁す。その執る贄は、脯脩一束・清酒一壺・衫布一段、その色は師の服する所に随う。師は中門より出で、延いて入れて坐せしめ、脩を割り酒を斟ぎ、三爵にして止む。乃ち篋を発して経を出し、衣を摳えて前に請う。師は経に依りて理を弁じ、略く一隅を挙げ、然る後に室に就く。毎朝・晡の二時に益を請い、師も亦二時に講堂に居り、道義を説釈し、大體を発明し、兼ねて文行忠信の道を教え、孝悌睦友の義を示す。旬に省み月に試み、時に考へ歳に貢ぐ。生徒の及第多少を以て、博士の考課上下と為す。その教に率わざる者有らば、則ち槚楚を以てこれを撲つ。国子にして教に率わざる者は、則ち礼部に申し、移して太学と為す。太学にして変ぜざる者は、これを四門に移す。四門にして変ぜざる者は、本州の学に帰す。州学にして変ぜざる者は、本役に復し、終身歯せず。教に率いて九年なりと雖も学成らざる者も、亦州学に帰す。
その礼部試験の法は、帖経無きを請い、但だ習う所の経中に大義二十を問い、十八を得て通と為し、兼ねて『論語』・『孝経』各十を問いて八を得、兼ねて問う所の文註義疏を読み、必ず通熟する者を以て一通と為す。又、本経に於いて時務策三道を問い、二通じて及第と為す。その中に孝行郷閭に聞こゆる者有らば、挙解に習業の下に具に言う。省試の日、その実る所を観、義少なきこと两道も、亦兼ねて収むるを請う。その天下の郷貢も亦之の如し。習業試験は、並びに明経を以て名と為す。第を得る者は、官を授くるの資は進士と同し。若し此くの如くせば、則ち教義日く深くして礼譲興り、礼譲興れば則ち強きは弱きを犯さず、衆は寡を暴かず。これは太学より来る者なり。
詔を下して尚書に百僚を集めて議を定め聞かしむ。議者は以て省とは禁なり、外司の宜しく名づく所に非ずと為す。『周礼』に代わりてその職を掌る者を氏と曰い、国学は代官に非ず、宜しく太師氏と曰うべからず。その余は大抵習俗既に久しく、改作を重ね難しと以て、その事行われず。
会に国学の胥吏、餐錢の差舛を以て、御史臺按問し、坐して饒州司馬に貶せらる。建中初、又国子司業を拝す。尋いで翰林学士に選ばれ、左散騎常侍に遷り、銀青光禄大夫を加う。尋いで普王元帥参謀を兼ね、累ねて光禄大夫を加う。両河の叛渙の徒、初めて朝命を稟くに、崇敬を以て本官を以て御史大夫を兼ね節を持ち宣慰せしめ、奉使して旨に称う。還るに及び、表を上して墓を拝して帰るを請い、これを許し、繒帛を賜い、儒者これを栄しむ。尋いで特進・検校戸部尚書を加え、工部尚書に遷り、並びに前に依り翰林学士、皇太子侍読を充つ。累表辞し、年老を以て骸骨を乞う、兵部尚書を改めて致仕す。貞元十五年卒す、時に年八十、朝を廃すること一日、左僕射を贈る。子登嗣ぐ。
崇敬の子 登
登、字は沖之。雅実弘厚、母紀に事えて孝を以て称さる。大暦七年、孝廉高第に挙げられ、四門助教を補す。貞元初、復た賢良科に登り、美原尉より右拾遺を拝す。時に裴延齢、奸佞にして恩有り、相と為らんと欲す。諫議大夫陽城、疏を上して切直、徳宗赫怒す。右補闕熊執易等も亦危言を以て旨に忤う。初め執易、疏を草して成り、登に示す。登愕然として曰く、「願わくは一名を寄す。雷電の下、安んぞ忍びんや足下独り当たるを」と。ここより同列切諫す。登毎にその奏に聯署し、回避する所無く、時に人これを称重す。右補闕・起居舍人に転じ、三任十五年。同列嘗てその下に出づる者、多く馳騖して顕官に至る。而るに登と右拾遺蔣武は、退然自ら守り、淹速を以て意に介せず。後に兵部員外郎に遷り、皇子侍読を充て、尋いで史館修撰を加う。
順宗初、東朝の旧恩を以て、超えて給事中を拝し、旋って金紫を賜い、仍って衫笏を錫う。工部侍郎に遷る。孟簡・劉伯芻・蕭俛と詔を受けて同しく『大乗本生心地観経』を翻譯す。又、東宮及び諸王の侍読と為り、『龍楼箴』を献じて以て諷す。久しくして左散騎常侍に改む。中謝に因り、憲宗時に切なる所を問う。登は諫を納るるを以て対え、時の論これを美す。兵部侍郎に転じ、兼ねて国子祭酒事を判じ、工部尚書に遷る。元和十五年卒す、年六十七、太子少保を贈る。
登は文学有り、草隸に工なり。寛博にして物を容る。嘗て僮をして馬を飼わしむ。馬蹄踶ち、僮怒り、馬足を撃ち折る。登知りて責めず。晚年頗る服食を好む。金石の薬を饋る者有り、且つ云う先ずこれを嘗めりと。登これを服して疑わず。薬発して毒幾くんば死せんとす。方に訊うに未だこれを嘗めざるを云う。他人これが為に怒るも、登これを見て慍色無し。常に陸象先の為人を慕い、議者も亦以てこれに近しと為す。子融嗣ぐ。
登の子 融
融の子仁晦・仁翰・仁憲・仁召・仁澤は、皆進士第に登る。咸通中並びに達官に至る。
奚陟
奚陟は、字は殷卿、亳州の人なり。祖は翰繹、天寶中弋陽郡太守。陟は少くして讀書を好み、進士第に登り、又制舉文詞清麗科に登り、弘文館校書を授かり、尋で大理評事を拝す。吐蕃使に入りて佐けんとすれども行かず、左拾遺を授かる。父母の憂に丁し、哀毀禮を過ぎ、親朋之を湣む。車駕興元に幸す。召して起居郎・翰林學士を拝せんとす。疾病を以て辭し、久しく職に赴かず、太子司議郎に改む。金部・吏部員外郎・左司郎中を歷ね、省闥を彌綸す。又累ねて使を奉ずるに、皆旨に稱す。
貞元八年、擢で中書舍人を拝す。是歲、江南・淮西大雨災と爲り、陟をして勞問巡慰せしむ。所在の人安んじて之を悅ぶ。中書省の故事、姑く胥徒を息め、以て常に宰相の左右に在るなり。陟は皆公道を以て之を處す。先づ是右省の雜給、率ね等第を分ち、皆職田の頃畝に據る。即ち主書の受くる所は右史と等し。陟乃ち料錢を以て率と爲すを約し、是より主書の得る所は拾遺より減ず。時に中書令李晟の請ふる所の紙筆雜給は、皆受けず。但だ雜事舍人に告げ、令して且く之を貯へしめ、他日便ち悉く以て舍人に遺す。前例、雜事舍人自ら私を攜へ入る。陟は得る所を以て省內の官に均分す。又庶務に躬親し、下りて園蔬に至るまで、皆悉く自ら點閱す。人以て難しと爲すも、陟之を處するに倦むこと無し。刑部侍郎に遷る。
裴延齡は京兆尹李充の能政有るを惡み、專意之を陷害し、誣りて奏す、充陸贄と結び、數へて金帛を厚く賂遺すと。充既に官を貶せられ、又奏す、充比者妄りに京兆府の錢穀を用ひ破ること至るまで多し、令して比部に勾覆せしめんことを請ふ。比部郎中崔元翰を以て充を陷れ、贄を怨惡するなり。詔して之を許す。元翰曲りて延齡に附し、府史を劾治す。府史到る者、過犯無きと雖も、皆笞決して以て威を立つ。時論喧然たり。陟乃ち躬自ら府案を閱視し、具に其の實を得て、奏して言ふ、「度支の奏に據るに、京兆府貞元九年の兩稅及び已前の諸色羨餘錢、共に六十八萬餘貫、李充並びに妄りに用ひ破る。今勾勘する所、一千二百貫已來は諸縣の館驛に供する加破及び諸色人戶の腹內に在りて合收すべきもの、其の斛鬥共に三十二萬石、唯だ三百餘石は諸色輸納の所由の欠折するもの、其の餘は並びに敕に準じ及び度支の符牒に依り、給用已に盡きたり。」と。陟の寬平守法、多く此の類の如し。元翰既に其の志を遂げず、此に因りて憤恚して卒す。
陟尋で本官を以て吏部選事を知り、銓綜平允にして能名有り、吏部侍郎に遷る。蒞る所の官、時に以て稱職と爲す。貞元十五年卒す。年五十五。禮部尚書を贈る。
張薦
張薦は、字は孝舉、深州陸澤の人なり。祖は翾、字は文成、聰警絕綸にして、覽まざる書無し。兒童の時、紫色の大鳥、五彩文を成し、家庭に降る夢を見る。其の祖之に謂ひて曰く、「五色赤文は鳳なり。紫文は趯翾なり、鳳の佐と爲る。吾兒當に文章を以て明廷に瑞すべし。」と。因りて以て名字と爲す。初め進士第に登り、對策尤も工なり。考功員外郎謇味道之を賞めて曰く、「此の生の如きは、天下雙ぶ無し。」と。調授して岐王府參軍と爲す。又下筆成章及び才高位下・詞標文苑等の科に應ず。翾凡そ八舉に應ずるに、皆甲科に登る。再び長安尉を授かり、鴻臚丞に遷る。凡そ四たび選に參ずるに、判策銓府の最と爲る。員外郎員半千人に謂ひて曰く、「張子の文は青錢の如し、萬簡萬中し、退く時を聞かず。」と。時流之を重んじ、目して「青錢學士」と爲す。然れども性褊躁にして、士行を持せず、尤も端士の惡む所と爲り、姚崇甚だ之を薄す。開元初め、風俗を澄正す。翾、御史李全交の糾する所と爲り、言ふ、翾の語多く譏刺すと。時に坐して嶺南に貶せらる。刑部尚書李日知奏論し、乃ち敕を追ひて近處に移す。開元中、入りて司門員外郎と爲り卒す。翾は下筆敏速にして、著述尤も多く、言頗る詼諧なり。是の時天下に知名、賢と不肖と無く、皆其の文を記誦す。天後朝、中使馬仙童默啜に陷る。默啜仙童に謂ひて曰く、「張文成在るか?」と。曰く、「近く御史より官を貶せらる。」と。默啜曰く、「國に此人有りて用ひざれば、漢能爲す無きなり。」と。新羅・日本東夷の諸蕃、尤も其の文を重んじ、每たび使を遣りて朝に入るに、必ず重く金貝を出して以て其の文を購ふ。其の才名の遠く播くること此の如し。
時に裴延齢は寵を恃み、士大夫を讒言して誹謗した。蔣薦は上書してこれを論じようとしたが、しばしば口にしながら果たせなかった。延齢はこれを聞いて怒り、上奏して言った、「諫官は朝政の得失を論じ、史官は人君の善悪を記します。ならば史官の職を領る者は諫議を兼ねるべきではありません」。徳宗はその通りだと思った。蔣薦は諫議大夫になって一か月余りで、秘書少監に改められた。延齢の排斥はやまず、たまたま回紇の毗伽懐信可汗への冊立使節および弔祭使の差遣があり、蔣薦を御史中丞を兼ねさせて回紇に入らせた。二十年、吐蕃の贊普が死んだので、蔣薦を工部侍郎・兼御史大夫とし、吐蕃への入朝弔祭使を充てた。蕃界を二千余里進み、赤嶺の東で病にかかり、紇壁駅で没した。吐蕃はその柩を伝送して帰した。順宗が即位し、凶報が届くと、詔して礼部尚書を追贈した。
蔣薦は拾遺から侍郎に至るまで、わずか二十年の間、常に史館修撰を兼ねた。三度絶域に使いし、いずれも憲職(御史台の職)を兼ねた。博識で多能であり、機敏な応対によって選ばれた。文集三十巻があり、また著した『五服図』、『宰輔略』、『霊怪集』、『江左寓居録』などは、ともに当時に伝わった。子の又新・希復は、ともに進士に及第した。
蔣薦の子 又新
又新は幼い頃から文章に巧みで、事理を付会することに長けていた。長慶年間、宰相李逢吉が権力を握り、翰林学士李紳は穆宗に深く寵愛されていたが、逢吉はこれを憎んだ。朝臣の中で凶険で敢えて言う者を求めて李紳の陰事を探り、これを士大夫の間に暴露させようとした。又新と拾遺の李続之・劉棲楚は、とりわけ逢吉の眷顧を受け、鷹犬として指嗾された。穆宗が崩御し、昭湣帝(敬宗)が即位すると、又新らは李紳を陥れ、端州司馬に貶した。朝臣が上表して賀し、又新らはさらに中書省に赴いて宰相を賀した。門に至ると、門番がこれを止めて言った、「少しお待ちください。張補闕(又新)が斎内で相公と話しております」。しばらくして又新が汗を拭いながら出てきて、群官に軽く揖して言った、「端溪(李紳左遷)の件については、又新は多くを譲ることはできません」。人々は皆退き恐れた。李続之ら七人とともに、当時「八関十六子」と号された。
又新の従子 蔣読
希復の子蔣読は、進士に及第し、俊才があった。累官して中書舎人・礼部侍郎に至り、貢挙を管轄し、時に人材を得たと称された。位は尚書左丞で終わった。
蔣乂
帝は嘗て凌煙閣に登り、左の壁が崩れ剥がれ、文字が残欠し、毎行僅かに三五字あるのみであるのを見て、これを書き写して宰臣に問うことを命じた。宰臣は急いで宣旨を受け、答えることができず、即ち乂を召し寄せたところ、乂は対して言うには、「これは聖暦年間の《侍臣図賛》であり、臣は皆記憶しております」と言った。即ち御前において口誦し、その欠けた部分を補い、一字も失わなかった。帝は嘆じて言うには、「虞世南が暗誦して《列女伝》を書き写したとしても、これに勝るものはないであろう」と言った。十八年、起居舎人に遷り、司勲員外郎に転じ、皆史職を兼ねた。時に集賢学士は甚だ多く、詔が下って神策軍の建置の由来を問うた。相府が探求したが、その出所を知らず、諸学士は悉く答えることができなかったので、乃ち乂に訪ねた。乂は根源を征引し、事柄は甚だ詳悉であり、宰臣の高郢・鄭珣瑜は相対して言うには、「集賢に人材あり!」と言った。翌日、詔して集賢院事を兼ねて判ずることを命じた。父子代々学士となり、儒者はこれを栄誉とした。時に順宗が廟に祔せられ、祧遷の礼を行わんとし、詔して公卿に議させた。皆言うには、「中宗は中興の主であり、遷すべきではない」と言った。乂は建議して言うには、「中宗は既に柩前において正位につき、乃ち母后の簒奪を受け、五王が翼戴して、初めて大業を回復した。これは我より失い、人によって得たものであり、ただ反正と同じくすべきであり、中興と号すべきではない」と言った。群議紛然として、竟に乂の執るところに依った。
乂の子 係
乂の子 伸
伸は、進士第に登り、使府の佐を歴任す。大中初めに朝に入り、右補闕・史館修撰、転じて中書舎人、召し入れて翰林学士となる。員外郎中より、戸部侍郎・学士承旨に至り、兵部侍郎に転ず。大中末、中書侍郎・平章事。
仙・佶は、皆刺史に至る。
偕は、史才あり、父の任により左拾遺・史館修撰を歴任し、補闕に転ず。咸通中、同職の盧耽・牛叢等と詔を受けて《文宗実録》を修す。
蔣氏は世に儒史を以て称せられ、文藻を事とせず、唯だ伸及び系の子の兆に文才あり、進士第に登るも、然れども文士に誉められず。柳氏・沈氏父子と相継いで国史実録を修し、時に良史を推され、京師に《蔣氏日暦》と云い、士族は家に蔵さざるはなかった。
柳登
柳登、字は成伯、河東の人。父の芳は、粛宗朝の史官であり、同職の韋述と詔を受けて呉兢の撰した《国史》を添修す;殺青未だ竟わずして述亡び、芳は述の凡例を緒とし、勒成して《国史》一百三十巻とす。上は高祖より、下は乾元に止まり、而して天宝以後の事を叙するは、絶えて倫類無く、取捨工ならず、史氏に称せられず。然れども芳は記註に勤め、毫を含みて倦むこと無し。安・史の乱離に属し、国史散落し、聞くところを編綴するも、率多く闕漏あり。上元中事に坐して黔中に徙り、内官の高力士も亦巫州に貶せられるに遇い、途においてこれに遇う。芳は禁中の疑わしき事を以て、力士に諮る。力士は開元・天宝中の時政事を説き、芳は口に随ってこれを誌す。又《国史》既に成り、奏禦を経て、復た改むべからざるを以て、乃ち別に《唐暦》四十巻を撰し、力士の伝えるところを以て、年暦の下に載す。芳は永寧尉・直史館より、拾遺・補闕・員外郎に転じ、皆史任に居り、位は終に右司郎中・集賢学士。
登の弟 冕
臣謹んで実録を按ずるに、文徳皇后は貞観十年九月に崩御し、十一月に葬られ、十一年正月に至り、晋王治を除き、并州都督とした。晋王とは即ち高宗が藩王であった時に封ぜられたものであり、文徳皇后の幼子である。その命官に拠れば、既に喪服を除いた義に当たる。今、皇太子に魏・晋の故事に依らせ、大行皇后の喪服とし、葬って虞祭を行い、虞祭を終えて卒哭し、卒哭して喪服を除き、心喪をもって終制とし、厭降の礼を存することを庶幾う。
六年十一月、上は親しく郊享を行った。上は祀典を重んじ慎み、毎事礼に依った。時に冕は吏部郎中であり、太常博士を摂し、司封郎中徐岱・倉部郎中陸質・工部郎中張薦とともに、皆礼官を摂し、同しく郊祀儀注を修め、以て顧問に備えた。初め、詔して皇太子が亜献終献を務めるに当たり、誓戒を受けるべきか否かを問うと、冕が対えて言うには、「『開元礼』にこれ有りと準ずる。然れども誓詞に『其の職を供へずんば、国に常刑有り』と云う。今、太子が誓いを受けるに当たり、『各其の職を揚げ、常儀を粛奉す』と改められたい。」と。上はまた郊廟に昇る時の剣履を去ること、及び象剣の尺寸の度、祝文の軽重の宜しきを問うと、冕は礼経の沿革に拠り聞奏し、上は甚だこれを嘉した。
冕の子 璟
初め、璟の祖父の芳は譜学に精しく、永泰中に宗正の譜牒を按じ、武徳以来の宗枝の昭穆相承くを、皇室譜二十巻に撰し、号して『永泰新譜』と曰う。以後、人無く修続した。
璟は召対に因り、図譜の事に言及すると、文宗が曰く、「卿の祖は嘗て皇家の図譜を作った。朕が昨これを見るに、甚だ詳悉であった。卿、永泰以後を検して試みにこれを修続せよ。」と。璟は芳の旧式に依り、徳宗以後の事を続け、十巻を成し、以て前譜に附した。仍て詔して戸部に紙筆厨料を供せしめた。五年、中書舎人を拝し職を充した。武宗朝、礼部侍郎に転じ、再び貢籍を司り、時に人を得たりと号された。子の韜もまた進士に擢第した。
沈伝師
沈伝師、字は子言、呉の人。父の既済は、群籍に博通し、史筆特に巧みであり、吏部侍郎楊炎が見てこれを称えた。建中初め、炎が宰相となり、既済の才は史任に堪えると薦め、召して左拾遺・史館修撰を拝した。既済は呉兢が撰する『国史』が、則天の事を以て本紀を立てたことを以て、奏議してこれを非とし曰く、
史氏の作は、本より懲勧に在り、以て君臣を正し、以て家邦を維く。前は千古を端とし、後は万代を法とし、其の生をして敢えて差えず、死をして妄りに懼れざらしむ。人倫を緯り世道を経て、百王の準的と為り、止だ辞を属し事を比し、以て日を月に繋ぐのみに非ず。故に善悪の道は、勧誡に在り、勧誡の柄は、褒貶に存す。是を以て『春秋』の義は、尊卑軽重升降、幾微仿佛、一字二字と雖も、必ず微旨存す。況んや鴻名大統、其れ貸すべけんや。
伏して考えるに、則天皇后は、初めは聡明叡哲をもって、内に時政を輔け、その功績は盛んであった。
弘道の際に至り、孝和が長君として位を嗣ぎ、太后は専制をもって朝に臨んだ。
俄かにまた帝を廃し、あるいは幽閉し、あるいは遷徙させた。
既にして図を握り箓を称し、運を移し名を革め、牝が司り燕が啄むの蹤跡は、備えて述べるに難い。
その後、五王が策を建て、皇運が復興し、名を議する際、降損なきを得るべきか。
必ずや義をもって親を隠し、礼をもって国を諱し、苟くも損に及ばざれば、常の如くあるべきで、安んぞ横に彜典を絶ち、超えて帝籍に居らんや。
昔、仲尼に言有り、必ずや名を正す、故に夏・殷二代、帝たる者三十世なりしも、周人は通じて之を王と名づく。
呉・楚・越の君、王たること百餘年なりしも、『春秋』は之を子と書す。
蓋し高下は彼より自らし、是非は我に稽う。
過ぐる者は之を抑え、及ばざる者は之を援け、弱減せず、僭奪せず。
中を握りて平らかに持し、振わず傾かず、其の求むるを得ざらしめ、蓋うべからざらしむ、是れ古の君子の其の名を慎む所以なり。
夫れ則天は体自ら坤順にして、位は乾極に居り、柔をもって剛に乗じ、天紀倒張し、進むは強有を以てし、退くは徳譲に非ず。
詢は清要の官を歴任し、中書舎人・翰林学士・礼部侍郎となった。咸通年間、検校戸部尚書・潞州長史・昭義節度使を拝命した。政は簡易を旨とし、性質はもとより恬和であった。奴の帰秦という者は、詢の侍者と私通し、詢はこれを誅殺せんとしたが果たさず、奴は牙将と結んで乱を起こし、夜に府第を攻め、詢は挙家して害に遇った。
史臣曰く
史臣曰く、前代に史を以て学とする者は、率ね時に偶わず、多く放逐に罹る。その故は何ぞや。誠に褒貶是非は手に在り、賢愚軽重は言に係る。君子の道微にして、俗多くは忌諱す。一言己に切なれば、これを嫉むこと仇の如し。これをもって峘・薦は仕途に坎壈し、沈・柳は顕貫に登らず。後の筆を載せ簡を執る者は、これを以て痛心と為すべし。道は必ず伸びるに在り、物は終に否まず。子孫その余祐を藉り、多く公卿に至るは、蓋し天道の存する有りてなり。
賛に曰く、言を以て褒貶し、孔の道是れ模と為す。筆を以て乱を誅し、亦た董狐有り。邦家の大典、班・馬何の辜ぞ。悪を懲らし善を勧むるは、史無くしては不可なり。