舊唐書

巻148

巻148

舊唐書

原文舊唐書

卷一百四十八

原文卷一百四十八

列傳第九十八 裴垍 李吉甫 李籓 權德輿

原文列傳第九十八 裴垍 李吉甫 李籓 權德輿

裴垍

原文裴垍

裴垍は字を弘中といい、河東聞喜の人である。垂拱年間の宰相裴居道の七代目の孫である。垍は弱冠にして進士に挙げられた。貞元年間、制挙の賢良極諫科に応じ、対策第一となり、美原県尉を授けられた。任期が満ちると、藩府がこぞって召し抱えようとしたが、いずれも就かなかった。監察御史に任ぜられ、殿中侍御史、尚書省礼部考功二員外郎に転じた。時に吏部侍郎鄭珣瑜が垍に詞判の考査を依頼したが、垍は公正を守り請託を受けず、考査はすべて才能と実績に努めた。

原文裴垍字弘中,河東聞喜人。垂拱中宰相居道七代孫。垍弱冠舉進士。貞元中,制舉賢良極諫,對策第一,授美原縣尉。秩滿,籓府交辟,皆不就。拜監察御史,轉殿中侍御史、尚書禮部考功二員外郎。時吏部侍郎鄭珣瑜請垍考詞判,垍守正不受請托,考核皆務才實。

元和の初め、翰林院に召し入れられて学士となり、考功郎中・知制誥に転じ、まもなく中書舎人に昇進した。李吉甫が翰林承旨から平章事に任ぜられた時、詔が下される前夜、感激のあまり涙を流した。垍に言うことには、「吉甫は尚書郎から遠方に流離し、十余年を経て帰還し、すぐに禁中の官署に入った。今や満一年に過ぎず、後進の人物とはほとんど接し識らない。宰相の職務は賢俊を選抜登用すべきであるが、今は茫然としてその可否を知らない。卿は鑑識に優れている。今の才傑を私に言ってくれ。」垍は筆を取ってその名氏を書き出し、三十余人を得た。数ヶ月のうちに、選抜任用はほぼ尽くされ、当時は一致して吉甫が人を得たと称賛した。三年、賢良を挙げるよう詔があり、時に皇甫湜が対策を提出し、その言は激切であった。牛僧孺・李宗閔もまた時政を苦しめて誹謗した。考官の楊於陵・韋貫之は三人の策を上第に昇格させた。垍は中間で覆審したが、異同を付けなかった。そして貴幸の者たちが泣きついて訴え、上に罪を請うと、憲宗はやむなく、於陵・貫之を官から出し、垍の翰林学士を罷免し、戸部侍郎に任じた。しかし憲宗は垍が正直であることを知り、信任はますます厚くなった。

原文元和初,召入翰林為學士,轉考功郎中、知制誥,尋遷中書舍人。李吉甫自翰林承旨拜平章事,詔將下之夕,感出涕。謂垍曰:「吉甫自尚書郎流落遠地,十余年方歸,便入禁署,今才滿歲,後進人物,罕所接識。宰相之職,宜選擢賢俊,今則懵然莫知能否。卿多精鑒,今之才傑,為我言之。」垍取筆疏其名氏,得三十餘人。數月之內,選用略盡,當時翕然稱吉甫有得人之稱。三年,詔舉賢良,時有皇甫湜對策,其言激切;牛僧孺、李宗閔亦苦詆時政。考官楊於陵、韋貫之升三子之策皆上第,垍居中覆視,無所同異。及為貴幸泣訴,請罪於上,憲宗不得已,出於陵、貫之官,罷垍翰林學士,除戶部侍郎。然憲宗知垍好直,信任彌厚。

その年の秋、李吉甫が淮南に出鎮すると、遂に垍を代わりとして中書侍郎・同平章事に任じた。翌年、集賢院大学士・監修国史を加えられた。垍が上奏した。「集賢御書院は、『六典』に準拠し、登朝官五品以上を学士とし、六品以下を直学士とすることを請う。登朝官でない者は、品秩を問わず、すべて校理とする。その他の名目は一切停止する。史館は、登朝官で入館する者をすべて修撰とし、登朝官でない者をすべて直史館とすることを請う。なお、永く常式とする。」いずれも従われた。

原文其年秋,李吉甫出鎮淮南,遂以垍代為中書侍郎、同平章事。明年,加集賢院大學士、監修國史。垍奏:「集賢御書院,請準《六典》,登朝官五品已上為學士,六品已下為直學士;自非登朝官,不問品秩,並為校理;其餘名目一切勒停。史館請登朝官入館者,並為修撰;非登朝官,並為直史館。仍永為常式。」皆從之。

元和五年、中風の病にかかった。憲宗は大いに嘆き惜しみ、中使を頻繁に派遣して見舞わせ、薬膳の進退に至るまで、すべて上疏して陳述させるように命じた。病がますます重くなると、兵部尚書に罷免され、なお銀青光禄大夫の階を進められた。翌年、太子賓客に改められた。死去すると、朝を廃し、賻礼を加え、太子少傅を追贈された。

原文元和五年,中風病。憲宗甚嗟惜,中使旁午致問,至於藥膳進退,皆令疏陳。疾益痼,罷為兵部尚書,仍進階銀青。明年,改太子賓客。卒,廢朝,賻禮有加,贈太子少傅。

初め、垍が翰林承旨にあった時、憲宗が呉・蜀しょくを平定したばかりで、政治に励み精励し、機密の事務はすべて垍に関わらせた。垍は小心敬慎であり、大いに天子の意にかなった。宰相となった後は、善悪を区別して表彰することを懇請し、抜け道を杜絶し、法度を整え、官吏の治績を考課することなど、すべて天子の留意と聴納を蒙った。吐突承璀は春宮(東宮)時代から憲宗に仕え、恩顧は並ぶ者なしであった。承璀は隙を見て何か言おうとしたが、憲宗は垍を憚り、二度と言うなと戒め、禁中では常に官名で垍を呼び、名を呼ばなかった。楊於陵が嶺南節度使であった時、監軍の許遂振と不和となり、遂振は於陵を誣告して上奏した。憲宗は追って閑職を与えようとした。垍は言った。「遂振の故をもって一藩臣を罪するは、不可なり。」吏部侍郎を授けるよう請うた。厳綬が太原にいた時、その政事はすべて監軍李輔光が出し、綬はただ拱手しているだけであった。垍はその事を詳しく上奏し、李鄘を代わりに任じるよう請うた。

原文初,垍在翰林承旨,屬憲宗初平吳、蜀,勵精思理,機密之務,一以關垍。垍小心敬慎,甚稱中旨。及作相之後,懇請旌別淑慝,杜絕蹊徑,齊整法度,考課吏理,皆蒙垂意聽納。吐突承璀自春宮侍憲宗,恩顧莫二。承璀承間欲有所關說,憲宗憚垍,誡勿復言,在禁中常以官呼垍而不名。楊於陵為嶺南節度使,與監軍許遂振不和,遂振誣奏於陵,憲宗令追與慢官。垍曰:「以遂振故罪一籓臣,不可。」請授吏部侍郎。嚴綬在太原,其政事一出監軍李輔光,綬但拱手而已,垍具奏其事,請以李鄘代之。

王士真が死ぬと、その子の承宗は河北の故事に従い、父に代わって帥となることを請うた。憲宗は太平を急ぎ、かつ頻繁に寇賊を掃討していたので、その地は取れると考えた。吐突承璀は恩を恃み、垍の権力を撓めようと謀り、遂に君意を窺い、自ら征討することを請うた。盧従史は逆節を内に包み、内では承宗と結託し、外では興師を請うて、厚利を図った。垍は一つ一つその不可を陳べ、かつ言った。「王武俊は朝廷に大功があり、先に李師道に授けたのに後で承宗を奪うのは、賞罰が一貫せず、天下を沮止し勧奨するものがない。」半年間引き延ばし、憲宗は決断せず、承璀の策が遂に行われることになった。軍が賊の境に臨むと、従史は果たして離反し、承璀が数度督戦すると、従史はますます驕慢で反覆し、官軍はこれを苦しめた。時に王師は長く野戦に曝されて功がなく、上意もまた倦んだ。

原文王士真死,其子承宗以河北故事請代父為帥。憲宗意速於太平,且頻蕩寇孽,謂其地可取。吐突承璀恃恩,謀撓垍權,遂伺君意,請自征討。盧從史陰苞逆節,內與承宗相結約,而外請興師,以圖厚利。垍一一陳其不可,且言:「武俊有大功於朝,前授李師道而後奪承宗,是賞罰不一,無以沮勸天下。」逗留半歲,憲宗不決,承璀之策竟行。及師臨賊境,從史果攜貳,承璀數督戰,從史益驕倨反覆,官軍病之。時王師久暴露無功,上意亦怠。

後に従史がその衙門将の王翊元を入朝させて奏上させた。垍は引き留めて語り、微かにその心を動かし、かつ臣としての節を諭すと、翊元は誠を吐いて従史の悪が熟して図れる様子を言った。垍は再び往かせ、やがて戻ると、遂にその大将の烏重胤らの要領を得た。垍は因って従容として啓上して言った。「従史は暴虐で、君を無視する心がある。今、承璀を嬰児の如く見なし、神策軍の壁壘の間を往来し、ますます自ら警戒せず、これは天が滅ぼす時である。もしこの機に乗じて捕えなければ、後で軍を興しても、年月をかけて破ることはできないでしょう。」憲宗は初め愕然としたが、その計を熟慮し、ようやく許した。垍は因ってその謀を秘密にするよう請うた。憲宗は言った。「これは李絳・梁守謙のみが知る。」時に絳は翰林で承旨を務め、守謙は密命を掌っていた。後に承璀は遂に従史を擒え、上党を平定し、その年の秋に凱旋した。垍は「承璀がまず兵を用いることを唱え、今帰還して功がない。陛下たとえ旧労を念うとも、顕戮を加えることはできず、また貶黜して天下に謝すことを請う。」と言った。遂に承璀の兵権を罷免した。

原文後從史遣其衙門將王翊元入奏,垍延與語,微動其心,且喻以為臣之節,翊元因吐誠言從史惡稔可圖之狀。垍遣再往,比復還,遂得其大將烏重胤等要領。垍因從容啟言:「從史暴戾,有無君之心。今聞其視承璀如嬰孩,往來神策壁壘間,益自恃不嚴,是天亡之時也。若不因其機而致之,後雖興師,未可以歲月破也。」憲宗初愕然,熟思其計,方許之。垍因請密其謀,憲宗曰:「此唯李絳、梁守謙知之。」時絳承旨翰林,守謙掌密命。後承璀竟擒從史,平上黨,其年秋班師。垍以「承璀首唱用兵,今還無功,陛下縱念舊勞,不能加顯戮,亦請貶黜以謝天下」。遂罷承璀兵柄。

先に、天下の百姓が州府に賦を輸送するものは、一に上供、二に送使、三に留州といった。建中の初めに両税を定めた時、物価は高く銭価は軽かった。その後、物価は軽く銭価は重くなり、斉人の出費は、すでに初めの徴税の倍になっていた。そしてその留州・送使の分について、各地の長吏はまた省估(官定価格)を下げて実估(市場価格)に合わせ、自ら財を殖やし、民に重税を課した。垍が宰相となると、上奏して請うた。「天下の留州・送使の物は、一切省估に依ることを命ずる。その所在地の観察使は、なおその臨む郡の租賦を自給とし、もし不足すれば、その後支郡から徴収する。」諸州の送使の額は、すべて上供に変わり、故に江淮の地はやや負担が軽減された。

原文先是,天下百姓輸賦於州府:一曰上供,二曰送使,三曰留州。建中初定兩稅,時貸重錢輕;是後貨輕錢重,齊人所出,固已倍其初征。而其留州送使,所在長吏又降省估使就實估,以自封殖而重賦於人。及垍為相,奏請:「天下留州、送使物,一切令依省估。其所在觀察使,仍以其所蒞之郡租賦自給;若不足,然後征於支郡。」其諸州送使額,悉變為上供,故江淮稍息肩。

垍は年少ながら、急に相位に居たが、器量は厳格で整っており、法度があり、たとえ大官の先輩であっても、その訪問に際し私事を干渉することを敢えてしなかった。諫官が時政の得失を言うことは、旧来の事柄として、権力を握る者は多くその職務を挙げることを喜ばなかった。垍が中書にいた時、独孤郁・李正辞・厳休復が拾遺から補闕に転補され、参謝の際に、垍は廷上で彼らに語った。「独孤と李の二補闕は、孜孜として献言し、今の遷転は、労に報いるに愧じるものと言えよう。厳補闕の官業は、あるいはこれと異なる。先日の進擬には、疑い緩やかならざるものなし。」休復は恐れ慚じて退いた。垍は翰林にいた時、李絳・崔群を挙げてともに密命を掌らせた。宰相の位にあった時は、韋貫之・裴度を用いて知制誥とし、李夷簡を抜擢して御史中丞とした。その後、彼らは相次いで宰相となり、いずれも著名な事跡を残した。その他の者も材量に応じて職を授け、すべて人望に叶い、選任の精鋭は前後にも及ぶ者がなかった。議者は垍が宰相となったのは、才が時に会し、知ることは為さざるなく、当時朝廷に僥倖の者はなく、あらゆる制度が次第に整ったが、再び病に遭い、ついに退き逝去したので、公論はこれを惜しんだ。

原文垍雖年少,驟居相位,而器局峻整,有法度,雖大僚前輩,其造請不敢幹以私。諫官言時政得失,舊事,操權者多不悅其舉職。垍在中書,有獨孤郁、李正辭、嚴休復自拾遺轉補闕,及參謝之際,垍廷語之曰:「獨孤與李二補闕,孜孜獻納,今之遷轉,可謂酬勞愧矣。嚴補闕官業,或異於斯,昨者進擬,不無疑緩。」休復悚恧而退。垍在翰林,舉李絳、崔群同掌密命;及在相位,用韋貫之、裴度知制誥,擢李夷簡為御史中丞,其後繼踵入相,鹹著名跡。其余量材賦職,皆葉人望,選任之精,前後莫及。議者謂垍作相,才與時會,知無不為,於時朝無幸人,百度浸理;而再周遘疾,以至休謝,公論惜之。

李吉甫

原文李吉甫

李吉甫は、字を弘憲といい、趙郡の人である。父の棲筠は、代宗の朝に御史大夫となり、当時に名を重くし、国史に伝がある。吉甫は若くして学問を好み、文章を綴ることができた。二十七歳の時、太常博士となり、該博で見聞が広く、特に国朝の故実に精通し、沿革を折衷して、当時多くこれを称えられた。屯田員外郎に遷り、博士はもとのまま、駕部員外に改めた。宰臣の李泌・竇参はその才能を推重し、待遇は頗る厚かった。陸贄が宰相となると、明州員外長史として出された。久しくして赦令に遇い、忠州刺史として起用された。当時、贄はすでに忠州に謫されていたので、議する者は吉甫が必ず贄に恨みを晴らし、重ねてその罪を構えるであろうと言った。しかし吉甫が任地に着くと、贄と甚だ歓び合い、かつての嫌隙を意に介することはなかった。六年間官を移さず、病により罷免された。まもなく柳州の刺史を授かり、饒州に遷った。先に、州城は頻りに四人の刺史を喪ったため、廃して住まず、物の怪変異があり、郡人はこれを信じて験とした。吉甫が到着すると、城門の管鑰を開き、荊榛を切り払ってそこに住み、後人ようやく安んじた。

原文李吉甫,字弘憲,趙郡人。父棲筠,代宗朝為御史大夫,名重於時,國史有傳。吉甫少好學,能屬文。年二十七,為太常博士,該洽多聞,尤精國朝故實,沿革折衷,時多稱之。遷屯田員外郎,博士如故,改駕部員外。宰臣李泌、竇參推重其才,接遇頗厚。及陸贄為相,出為明州員外長史;久之遇赦,起為忠州刺史。時贄已謫在忠州,議者謂吉甫必逞憾於贄,重構其罪;及吉甫到部,與贄甚歡,未嘗以宿嫌介意。六年不徙官,以疾罷免。尋授柳州刺史,遷饒州。先是,州城以頻喪四牧,廢而不居,物怪變異,郡人信驗;吉甫至,發城門管鑰,剪荊榛而居之,後人乃安。

憲宗が位を嗣ぐと、考功郎中・知制誥として召し出された。朝廷に到着すると、すぐに翰林に召し入れて学士とし、中書舎人に転じ、紫を賜った。憲宗が初めて即位した時、中書の小吏滑渙が知枢密中使劉光琦と昵懇に善くし、頗る朝権を窃んでいたので、吉甫はこれを除くよう請うた。劉闢が反すると、帝は誅討を命じた。計略が未だ決しないうちに、吉甫は密かにその謀を賛し、兼ねて江淮の軍を広く徴発し、三峡の路から入り、蜀寇の力を分かつよう請うた。事は皆允可され従われ、これにより甚だ親信された。二年の春、杜黄裳が出鎮すると、吉甫を抜擢して中書侍郎・平章事とした。吉甫は性質聡敏で、物事に詳しく練達し、員外郎から出官し、江淮に留滞すること十五余年、閭里の疾苦を備えて詳しかった。この時宰相となると、方鎮の貪婪恣意を患い、乃ち上言して属郡の刺史に自ら政を行うことを得させた。群材を叙進し、甚だ美称があった。

原文憲宗嗣位,征拜考功郎中、知制誥。既至闕下,旋召入翰林為學士,轉中書舍人,賜紫。憲宗初即位,中書小吏滑渙與知樞密中使劉光琦暱善,頗竊朝權,吉甫請去之。劉闢反,帝命誅討之;計未決,吉甫密贊其謀,兼請廣征江淮之師,由三峽路入,以分蜀寇之力。事皆允從,由是甚見親信。二年春,杜黃裳出鎮,擢吉甫為中書侍郎、平章事。吉甫性聰敏,詳練物務,自員外郎出官,留滯江淮十五餘年,備詳閭裏疾苦。及是為相,患方鎮貪恣,乃上言使屬郡刺史得自為政。敘進群材,甚有美稱。

三年の秋、裴均が僕射・判度支となり、権幸と交結し、宰相を求めようとした。先に、制策で直言極諫科を試みたが、その中に時政を譏刺し、権幸に忤犯する者があった。このため、均の党与が揚言して、皆執政の教示であるとし、以て吉甫を動揺させようとしたが、諫官の李約・獨孤郁・李正辭・蕭俛が密かに疏を上って陳奏したので、帝の意はようやく解けた。吉甫は早くから羊士諤を知り奨励し、監察御史に抜擢した。また司封員外郎の呂温は詞芸があり、吉甫もまた眷顧して接した。竇群もまた羊・呂と善くした。群が初めて御史中丞に拝されると、士諤を侍御史とし、温を郎中・知雑事とするよう奏請した。吉甫は、先に関白せず、しかも請うた所に資を超える者があることを怒り、これを数日間留めて行わず、これにより隙が生じた。群は遂に日者の陳克明が吉甫の家に出入りするのを伺い捕らえ、密かに上聞した。憲宗が詰問すると、奸状はなかった。吉甫は裴垍が久しく翰林に在り、憲宗に親信され、必ず大用されるであろうと考え、遂に密かに垍を推薦して己に代えさせ、因って自ら出鎮を図った。その年の九月、検校兵部尚書を拝し、兼ねて中書侍郎・平章事、淮南節度使を充て、上は通化門楼に臨んで餞別した。揚州において、朝廷の得失、軍国の利害がある毎に、皆密かに疏を上って論列した。また高郵県に堤を築いて塘とし、数千頃の田を灌漑し、人はその恵を受けた。

原文三年秋,裴均為僕射、判度支,交結權幸,欲求宰相。先是,制策試直言極諫科,其中有譏刺時政,忤犯權幸者,因此均黨揚言皆執政教指,冀以搖動吉甫,賴諫官李約、獨孤郁、李正辭、蕭俛密疏陳奏,帝意乃解。吉甫早歲知獎羊士諤,擢為監察御史;又司封員外郎呂溫有詞藝,吉甫亦眷接之。竇群亦與羊、呂善。群初拜御史中丞,奏請士諤為侍御史,溫為郎中、知雜事。吉甫怒其不先關白,而所請又有超資者,持之數日不行,因而有隙。群遂伺得日者陳克明出入吉甫家,密捕以聞;憲宗詰之,無奸狀。吉甫以裴垍久在翰林,憲宗親信,必當大用,遂密薦垍代己,因自圖出鎮。其年九月,拜檢校兵部尚書,兼中書侍郎、平章事,充淮南節度使,上御通化門樓餞之。在揚州,每有朝廷得失,軍國利害,皆密疏論列。又於高郵縣築堤為塘,溉田數千頃,人受其惠。

五年の冬、裴垍が病により免ぜられた。明年の正月、吉甫に金紫光禄大夫・中書侍郎・平章事・集賢殿大学士・監修国史・上柱国・趙国公を授けた。再び宰相に入ると、職員および諸色出身の胥吏等を減省すること、並びに中外の官の俸料を量り定めることを請い、当時これを妥当とした。京城の諸僧に、荘磑によって免税する者があったので、吉甫は奏上して言った、「銭米の徴収は、元より定額があり、緇徒の余力を寛げて、貧下の訴える所なき民に配するのは、必ず許すべからず」。憲宗は乃ち止めた。また普潤軍を涇原に帰すことを請うた。

原文五年冬,裴垍病免。明年正月,授吉甫金紫光祿大夫、中書侍郎、平章事、集賢殿大學士、監修國史、上柱國、趙國公。及再入相,請減省職員並諸色出身胥吏等,及量定中外官俸料,時以為當。京城諸僧有以莊磑免稅者,吉甫奏曰:「錢米所征,素有定額,寬緇徒有餘之力,配貧下無告之民,必不可許。」憲宗乃止。又請歸普潤軍於涇原。

七年、京兆尹の元義方が奏上した、「永昌公主は礼令に準じて祠堂を建てますが、その制度を請います」。初め、貞元の中、義陽・義章の二公主は皆墓所に祠堂を造り、一百二十間、費やした銭は数万に及んだ。永昌の制度について、上は義方に旧制の半減を命じた。吉甫は奏上して言った、「伏して考えるに、永昌公主は稚年に夭折し、挙代ともに悲しむ所、況んや聖情においては、固より鐘念される所であります。然るに陛下はなお制度を半減させ、折衷の規を示し、倹を昭かにして人を訓え、実に今古を越えております。臣は祠堂の設置は、礼典に文がなく、徳宗皇帝の恩は一時に出で、事は習俗に因ったもので、当時、人々の間に窃かに議する無きにしも非ずでした。昔、漢の章帝の時、光武の原陵・明帝の顕節陵の為に、各々邑屋を建てようとしたが、東平王蒼が上疏してその不可を言いました。――東平王は即ち光武の愛子、明帝の愛弟です。賢王の心、どうして父兄に費やすことを惜しむことがありましょうか。誠に非礼の事は、人君の慎むべき所であるからです。今、義陽公主に依って祠堂を建てるのは、臣は量りに墓戸を置いて守奉に充てるに如かずと恐れます」。翌日、上は吉甫に言った、「卿が昨日奏上した祠堂を罷める事は、深く朕が心に適う。朕は初めその冗費を疑ったが、故実を知らなかったので、量り減じたのである。卿の陳べる所を覧て、始めて拠り所がないことを知った。然れども朕は二十戸の百姓を破ることを欲せず、官戸を選んでこれに委ねよう」。吉甫は拝賀した。上は言った、「卿、これどうして難しい事であろうか。朕の身に関わり、時に便ならざる事があれば、聞けば即ち改める、これどうして多くを足りようか。卿はただ勤めて匡正せよ、朕が行えぬと思わぬように」。

原文七年,京兆尹元義方奏:「永昌公主準禮令起祠堂,請其制度。」初,貞元中,義陽、義章二公主咸於墓所造祠堂一百二十間,費錢數萬;及永昌之制,上令義方減舊制之半。吉甫奏曰:「伏以永昌公主,稚年夭枉,舉代同悲,況於聖情,固所鐘念。然陛下猶減制造之半,示折衷之規,昭儉訓人,實越今古。臣以祠堂之設,禮典無文,德宗皇帝恩出一時,事因習俗,當時人間不無竊議。昔漢章帝時,欲為光武原陵、明帝顯節陵,各起邑屋,東平王蒼上疏言其不可。——東平王即光武之愛子,明帝之愛弟。賢王之心,豈惜費於父兄哉!誠以非禮之事,人君所當慎也。今者,依義陽公主起祠堂,臣恐不如量置墓戶,以充守奉。」翌日,上謂吉甫曰:「卿昨所奏罷祠堂事,深愜朕心。朕初疑其冗費,緣未知故實,是以量減。覽卿所陳,方知無據。然朕不欲破二十戶百姓,當揀官戶委之。」吉甫拜賀。上曰:「卿,此豈是難事!有關朕身,不便於時者,茍聞之則改,此豈足多耶!卿但勤匡正,無謂朕不能行也。」

七年七月、上は延英殿に臨み、顧みて吉甫に言った、「朕は近頃、畋遊を悉く廃し、ただ書を読むことを喜ぶ。昨日『代宗実録』の中に、その時、綱紀未だ振わず、朝廷多事であったことを見て、また戒めとする所があった。後に卿の先人の事跡を見て、深く嘉嘆すべきものであった」。吉甫は階を降りて跪いて奏上した、「臣の先父は代宗に伏して事え、心を尽くし節を尽くしましたが、流運に迫られ、聖時に待つことができませんでした。臣の血誠は、常にこれを追恨いたします。陛下が文史に耽悦し、聴覧日々に新たで、臣の先父が前朝に忠であったことを見られ、実録に著わされ、今日特に褒揚を賜わります。先父は九泉に在りと雖も、白日を見るが如くでございます」。因って俯伏して流涕し、上は慰諭した。

原文七年七月,上御延英,顧謂吉甫曰:「朕近日畋遊悉廢,唯喜讀書。昨於《代宗實錄》中,見其時綱紀未振,朝廷多事,亦有所鑒誡。向後見卿先人事跡,深可嘉嘆。」吉甫降階跪奏曰:「臣先父伏事代宗,盡心盡節,迫於流運,不待聖時,臣之血誠,常所追恨。陛下耽悅文史,聽覽日新,見臣先父忠於前朝,著在實錄,今日特賜褒揚,先父雖在九泉,如睹白日。」因俯伏流涕,上慰諭之。

八年十月、上は延英殿に臨み、時政記が何事を記すかを問うた。当時、吉甫は監修国史であり、先に対えて言った、「これは宰相が天子の事を記して史官に授ける実録でございます。古くは、右史が言を記し、今の起居舎人がこれです。左史が事を記し、今の起居郎がこれです。永徽の中、宰相の姚璹が国史を監修し、造膝の言は或いは聞くべからざることを慮り、因って奏対に随って仗下に記し、以て史官に授けることを請うたのが、今の時政記でございます」。上は言った、「間々修められないのは、何故か」。答えて言った、「面奉した徳音で、未だ施行に及ばず、総べて機密と謂うので、故に書して史官に送ることができません。その間に臣下より出た謀議は、また自ら書して史官に付すことができません。及び既に行われたものは、制令昭然として、天下皆聞き知るを得ます。即ち史官の記す所は、書して授けるを待たないのです。且つ臣が時政記を見るに、姚璹が長寿の時にこれを修め、璹が罷めると事は寝ました。賈耽・齊抗が貞元の時にこれを修め、耽・抗が罷めると事は廃れました。然らば時政教化に関わる者は、虚美せず、悪を隠さず、これを良史と謂います」。

原文八年十月,上御延英殿,問時政記記何事。時吉甫監修國史,先對曰:「是宰相記天子事以授史官之實錄也。古者,右史記言,今起居舍人是;左史記事,今起居郎是。永徽中,宰相姚璹監修國史,慮造膝之言,或不可聞,因請隨奏對而記於仗下,以授於史官,今時政記是也。」上曰:「間或不修,何也?」曰:「面奉德音,未及施行,總謂機密,故不可書以送史官;其間有謀議出於臣下者,又不可自書以付史官;及已行者,制令昭然,天下皆得聞知,即史官之記,不待書以授也。且臣觀時政記者,姚璹修之於長壽,及璹罷而事寢;賈耽、齊抗修之於貞元,及耽、抗罷而事廢。然則關時政化者,不虛美,不隱惡,謂之良史也。」

この月、回紇部落は南に磧を過ぎ、西城柳谷路を取って吐蕃を討つ。西城防禦使周懷義の表が至り、朝廷は大いに恐れ、回紇が吐蕃を討つと声言するも、その意は入寇にあると思いなす。吉甫奏して曰く、「回紇の入寇は、かつて和事を漸く絶つべきであり、直ちに辺境を犯すべきではない。ただ設備を須いるのみで、慮るに足らず。」ここに因りて夏州より天徳に至るまで、廃館十一所を復置し、以て緩急を通ぜんことを請う。また夏州騎士五百人を発し、経略故城に営し、以て駅使に応援し、兼ねて党項を護らんことを請う。九年、経略故城に宥州を置かんことを請う。六胡州は霊塩界に在り、開元中に六州を廃す。曰く、「国家旧に宥州を置き、寛宥を以て名と為し、諸降戸を領す。天宝末、宥州は経略軍に寄理す。蓋し地その中に居るを以てし、以て蕃部を総統すべく、北は以て天徳に応接し、南は夏州を援けん。今経略は遥かに霊武に隷し、また軍鎮を置かず、旧制に非ず。」憲宗その奏に従い、宥州を復置す。詔して曰く、「天宝中、宥州は経略軍に寄理す。宝応已来、因循して遂に廃す。ここに由りて昆夷屡に擾り、党項依る所無く、蕃部の人、撫懐及ばず。朕方に遠略を弘め、旧規を復せんと思う。宜しく経略軍に宥州を置くべし。仍って上州と為し、郭下に延恩県を置き、上県と為し、夏綏銀観察使に属せしむ。」

原文是月,回紇部落南過磧,取西城柳谷路討吐蕃。西城防禦使周懷義表至,朝廷大恐,以為回紇聲言討吐蕃,意是入寇。吉甫奏曰:「回紇入寇,且當漸絕和事,不應便來犯邊,但須設備,不足為慮。」因請自夏州至天德,復置廢館一十一所,以通緩急。又請發夏州騎士五百人,營於經略故城,應援驛使,兼護党項。九年,請於經略故城置宥州。六胡州以在靈鹽界,開元中廢六州。曰:「國家舊置宥州,以寬宥為名,領諸降戶。天寶末,宥州寄理於經略軍,蓋以地居其中,可以總統蕃部,北以應接天德,南援夏州。今經略遙隸靈武,又不置軍鎮,非舊制也。」憲宗從其奏,復置宥州,詔曰:「天寶中宥州寄理於經略軍,寶應已來,因循遂廢。由是昆夷屢擾,党項靡依,蕃部之人,撫懷莫及。朕方弘遠略,思復舊規,宜於經略軍置宥州,仍為上州,於郭下置延恩縣,為上縣,屬夏綏銀觀察使。」

淮西節度使呉少陽卒す。その子元済、父の位を襲わんことを請う。吉甫は淮西は内陸の地にして、河朔に同じからず、かつ四境に党援無く、国家常に数十万の兵を宿し以て守禦と為す。時に因りてこれを取るべしと以為う。頗る上旨に叶い、始めて淮西を経度する謀りと為す。

原文淮西節度使吳少陽卒,其子元濟請襲父位。吉甫以為淮西內地,不同河朔,且四境無黨援,國家常宿數十萬兵以為守禦,宜因時而取之。頗葉上旨,始為經度淮西之謀。

元和九年冬、暴病に卒す。年五十七。憲宗久しく傷悼し、中使を遣わして臨弔せしむ。常贈の外、内より絹五百匹を出だし以てその家を恤う。再び司空しくうを贈る。吉甫初め相と為り、頗る時情に洽う。淮南再徴に及び、中外その風采を延望す。政を秉るの後、視聽時に蔽わる所あり、人心これを疑憚す。時に公望を負う者は吉甫に忌まれるを慮り、多く避畏す。憲宗潜かにその事を知り、未だ歳を周らず、遂に李絳を擢用す。大いに絳と協わず。而して絳の性剛評にして、上前に訐り、互いに争論あり、人多く絳を直とす。然れども性畏慎にして、その悦ばざる者と雖も、また傷つくる所無し。服物食味は必ず珍美を極むるも、財産を殖やさず、京師一宅の外、他の第墅無し。公論ここを以てこれを重んず。有司謚して敬憲と曰う。会議に及び、度支郎中張仲方これを駁し、以て太だ優なりと為す。憲宗怒り、仲方を貶し、吉甫に謚して忠懿と賜う。

原文元和九年冬,暴病卒,年五十七。憲宗傷悼久之,遣中使臨吊;常贈之外,內出絹五百匹以恤其家,再贈司空。吉甫初為相,頗洽時情,及淮南再徵,中外延望風采。秉政之後,視聽時有所蔽,人心疑憚之。時負公望者慮為吉甫所忌,多避畏。憲宗潛知其事,未周歲,遂擢用李絳,大與絳不協;而絳性剛評,訐於上前,互有爭論,人多直絳。然性畏慎,雖其不悅者,亦無所傷。服物食味,必極珍美,而不殖財產,京師一宅之外,無他第墅,公論以此重之。有司謚曰敬憲;及會議,度支郎中張仲方駁之,以為太優。憲宗怒,貶仲方,賜吉甫謚曰忠懿。

吉甫嘗て『易象』異義を討論し、一行集註の下に附す。及び東漢・魏・晋・周・隋の故事を綴録し、その成敗損益の大端を訖え、目して『六代略』と為す。凡そ三十巻。天下の諸鎮を分ち、その山川険易故事を紀し、各その図を篇首に写し、五十四巻と為し、号して『元和郡国図』と為す。また史官等と当時の戸賦兵籍を録し、号して『国計簿』と為す。凡そ十巻。『六典』諸職を纂し『百司挙要』一巻と為す。皆奏上し、代に行わる。子に徳修・徳裕あり。

原文吉甫嘗討論《易象》異義,附於一行集註之下;及綴錄東漢、魏、晉、周、隋故事,訖其成敗損益大端,目為《六代略》,凡三十卷。分天下諸鎮,紀其山川險易故事,各寫其圖於篇首,為五十四卷,號為《元和郡國圖》。又與史官等錄當時戶賦兵籍,號為《國計簿》,凡十卷。纂《六典》諸職為《百司舉要》一卷。皆奏上之,行於代。子德修、德裕。

李籓

原文李籓

李籓、字は叔翰、趙郡の人。曾祖至遠、天後の時、李昭徳薦めて天官侍郎と為す。昭徳に詣り謝恩せず、時に昭徳怒り、奏して壁州刺史に黜く。祖畬、開元の時に考功郎中と為り、母に事え孝謹なり。母卒し、喪に勝えずして死す。至遠・畬皆以て誌行名を以て一時に重し。父承、湖南観察使と為り、また名有り。

原文李籓,字叔翰,趙郡人。曾祖至遠,天後時李昭德薦為天官侍郎,不詣昭德謝恩,時昭德怒,奏黜為壁州刺史。祖畬,開元時為考功郎中,事母孝謹,母卒,不勝喪死。至遠、畬皆以誌行名重一時。父承,為湖南觀察使,亦有名。

籓少くより恬淡修検、雅容儀、学を好む。父卒し、家財に富めり。親族の弔う者、挈き去るを禁ぜず、愈々散施に務め、数年ならずして貧す。年四十余未だ仕えず、揚州に読書し、自給に困しむ。妻子これを怨尤すれども、晏如たり。杜亜東都を居守し、故人の子を以て署して従事と為す。洛中に盗発し、牙将令狐運を誣うる者有り。亜これを信じ、拷掠して竟に罪す。籓その冤を知り、争うも従わず、遂に辞して出づ。後真盗宋瞿曇を獲、籓益々知名と為る。

原文籓少恬淡修檢,雅容儀,好學。父卒,家富於財,親族吊者,有挈去不禁,愈務散施,不數年而貧。年四十余未仕,讀書揚州,困於自給,妻子怨尤之,晏如也。杜亞居守東都,以故人子署為從事。洛中盜發,有誣牙將令狐運者,亞信之,拷掠竟罪。籓知其冤,爭之不從,遂辭出。後獲真盜宋瞿曇,籓益知名。

張建封徐州に在り、辟して従事と為す。幕中に居り、謙謙として未だ嘗て細微を論ぜず。杜兼濠州刺史と為り、使職を帯ぶ。建封病革す。兼疾駆して府に到り、陰かに冀望有り。籓同列と建封を省し、出でて泣きて兼に語りて曰く、「僕射公奄忽として此の如し。公宜しく州に在りて防遏すべし。今州を棄て此に来る、何をか欲するや。宜しく疾く去るべし。此に若かずんば、当に奏聞せん。」兼錯愕虞わず、遂に径ちに帰る。建封死す。兼悔い所誌就らず、籓を甚だしく怨む。既に揚州に帰り、兼因りて籓を誣奏し、建封死する時軍中を揺動すと。徳宗大怒し、密詔して杜佑にこれを殺さしむ。佑素より籓を重んじ、詔を懐き旬日発するに忍びず、因りて籓を引きて釈氏を論じ、曰く、「因報の事、信ずる有りや否や。」籓曰く、「信然たり。」曰く、「審に此の如くんば、君宜しく事に遇いて恐るる無かるべし。」因りて詔を出す。籓これを覧み、動色無く、曰く、「某と兼信は報と為るなり。」佑曰く、「慎んで口に出す勿れ。吾已に密論し、百口を以て君を保つ。」徳宗佑の解を得て、怒り解けず、亟に籓を追いて闕に赴かしむ。及び召見し、その儀形を望み、曰く、「此れ豈に悪事を作す人ならんや。」乃ち釈然とし、秘書郎を除す。

原文張建封在徐州,辟為從事,居幕中,謙謙未嘗論細微。杜兼為濠州刺史,帶使職,建封病革,兼疾驅到府,陰有冀望。籓與同列省建封,出而泣語兼曰:「僕射公奄忽如此,公宜在州防遏,今棄州此來,欲何也?宜疾去!不若此,當奏聞。」兼錯愕不虞,遂徑歸。建封死,兼悔所誌不就,怨籓甚。既歸揚州,兼因誣奏籓建封死時搖動軍中。德宗大怒,密詔杜佑殺之。佑素重籓,懷詔旬日不忍發,因引籓論釋氏,曰:「因報之事,信有之否?」籓曰:「信然。」曰:「審如此,君宜遇事無恐。」因出詔。籓覽之,無動色,曰:「某與兼信為報也。」佑曰:「慎勿出口,吾已密論,持百口保君矣。」德宗得佑解,怒不釋,亟追籓赴闕。及召見,望其儀形,曰:「此豈作惡事人耶!」乃釋然,除秘書郎。

王紹権を持ち、籓を邀え一相見すれば即ち用いんとす。終に就かず。王仲舒・韋成季・呂洞輩郎官と為り、朋党輝赫、日会聚して歌酒し、籓の名を慕い、強いて同会を致す。籓已むを得ず一至す。仲舒輩訛語俳戯を好み為す。後籓を召すも、堅く去らず、曰く、「吾仲舒輩と終日すれども、与に言う所何なるや曉らざるなり。」後果たして敗る。主客員外郎に遷り、尋いで右司に換う。時に順宗広陵王淳を冊して皇太子と為す。兵部尚書王純名を改めて紹と為さんことを請う。時議これを非とし、皆云く、「皇太子も亦人臣なり。東宮の臣これを改むるは宜なり。その属に非ずしてこれを改むるは諂なり。純輩の如き豈に礼を以て上に事えんとするや。」籓人に謂いて曰く、「歴代の故事、皆自ら大體を識らざるの臣よりしてこれを失い、因りて復た正す可からず。怪しむに足らず。」及び太子即位す。憲宗是なり。宰相郡県の名を改めて以て上名を避く。唯だ監察御史韋淳改めず。既にして詔有りて陸淳を以て給事中と為し、名を質と改む。淳已むを得ず名を貫之と改む。議者これを嘉す。

原文王紹持權,邀籓一相見即用,終不就。王仲舒、韋成季、呂洞輩為郎官,朋黨輝赫,日會聚歌酒,慕籓名,強致同會,籓不得已一至。仲舒輩好為訛語俳戲,後召籓,堅不去,曰:「吾與仲舒輩終日,不曉所與言何也。」後果敗。遷主客員外郎,尋換右司。時順宗冊廣陵王淳為皇太子,兵部尚書王純請改名紹,時議非之,皆云:「皇太子亦人臣也,東宮之臣改之宜也,非其屬而改之,諂也。如純輩豈為以禮事上耶!」籓謂人曰:「歷代故事,皆自不識大體之臣而失之,因不可復正,無足怪也。」及太子即位,憲宗是也。宰相改郡縣名以避上名,唯監察御史韋淳不改。既而有詔以陸淳為給事中,改名質;淳不得已改名貫之,議者嘉之。

籓尋いで吏部員外郎に改む。元和初、吏部郎中に遷り、曹事を掌る。使に蔽われ、官闕を濫用し、著作郎に黜かる。転じて国子司業、給事中に遷る。制敕不可有るも、遂に黄敕の後にこれを批す。吏曰く、「宜しく別に白紙を連ぬべし。」籓曰く、「別に白紙を以てするは、是れ文状なり。豈に批敕と曰わんや。」裴垍帝に言い、以て宰相の器有りと為す。鄭絪罷免に属し、遂に籓を拝して門下侍郎・同平章事と為す。籓の性忠藎、事言わざる無く、上これを重んじ、以て隠す無しと為す。

原文籓尋改吏部員外郎。元和初,遷吏部郎中,掌曹事,為使所蔽,濫用官闕,黜為著作郎。轉國子司業,遷給事中。制敕有不可,遂於黃敕後批之。吏曰:「宜別連白紙。」籓曰:「別以白紙,是文狀,豈曰批敕耶!」裴垍言於帝,以為有宰相器,屬鄭絪罷免,遂拜籓門下侍郎、同平章事。籓性忠藎,事無不言,上重之,以為無隱。

四年の冬、帝は宰臣に向かって言われた、「前代の帝王が天下を治めるに、あるいは家給人足し、あるいは国貧しく下困す。その故は何ぞや」と。李籓が答えて言うには、「古人云う、『儉以て用を足す』と。蓋し用を足すは儉約に係る。誠に人君が珠玉を貴ばず、ただ耕桑に務むれば、則ち人に淫巧なく、俗自ら本を敦くし、百姓既に足れば、君孰れと与にか足らざらん!自然に帑蔵充ち羨み、稼穡豊かに登る。もし人君が民力を竭し、異物を貴べば、上行下效し、風俗日に奢り、本を去りて末に務め、衣食益々乏しければ、則ち百姓足らず!君孰れと与にか足らん!自然に国貧しく家困し、盗賊隙に乗じて作る。今陛下永く前古を鑒み、富庶に躋らんと思し、躬より勤儉を尚ばれ、自ら理平に当たるべし。伏して願わくは、之を知るを以て艱しと為さず、之を保つを以て急務と為し、宮室輿馬、衣服器玩、必ず損之又損するを務め、人に変風を示し給わば、則ち天下幸甚なり」と。帝曰く、「儉約の事は、是れ我が誠心なり。貧富の由は、卿の説く如し。ただ上下相勖めて、以て此の道を保つべし。似たるに逾濫あらば、極言して箴規せよ。此れ固より深く卿等に期する所なり」と。李籓らは拝賀して退く。

原文四年冬,顧謂宰臣曰:「前代帝王理天下,或家給人足,或國貧下困,其故何也?」籓對曰:「古人云:『儉以足用。』蓋足用系於儉約。誠使人君不貴珠玉,唯務耕桑,則人無淫巧,俗自敦本,百姓既足,君孰與不足!自然帑藏充羨,稼穡豐登。若人君竭民力,貴異物,上行下效,風俗日奢,去本務末,衣食益乏,則百姓不足!君孰與足!自然國貧家困,盜賊乘隙而作矣!今陛下永鑒前古,思躋富庶,躬尚勤儉,自當理平。伏願以知之為非艱,保之為急務,宮室輿馬,衣服器玩,必務損之又損,示人變風,則天下幸甚。」帝曰:「儉約之事,是我誠心;貧富之由,如卿所說。唯當上下相勖,以保此道,似有逾濫,極言箴規,此固深期於卿等也。」籓等拜賀而退。

帝また問うて曰く、「禳災祈福の説、其事信ずるや否や」と。李籓対えて曰く、「臣竊に観るに、古より聖達は、皆祷祠せず。故に楚の昭王疾あり、卜者河を以て祟りと謂う。昭王、河は楚に在らず、罪を得る所に非ずとし、孔子以て天道を知ると為す。仲尼病み、子路祷らんことを請う。仲尼、神道の順を助くるは、行う所に係り、己既に徳を全うし、屋漏に愧じること無しと為す。故に子路に答えて云う、『丘の祷ること久し』と。『書』に云う、『惠に迪えば吉く、逆に従えば兇し』と。言う、道に順えば則ち吉く、逆に従えば則ち兇しと。『詩』に云う、『自ら多福を求む』と。則ち禍福の来るは、皆な行事に応ず。もし苟も非道を為さば、則ち何の福か求めん。是を以て漢の文帝、祭祀有る毎に、有司をして敬して祈らしめず。其の見ること超然たり、盛徳と謂うべし。もし神明に知無くば、則ち安んぞ能く福を降さん。必ず其れ知有らば、則ち私己して媚を求むるの事、君子尚お悦ぶべからず、況んや明神においてをや。此れより言えば、則ち信を履み順を思うは、天の之を祐く。苟も此れに異ならば、実に福を致し難し。故に堯・舜の徳は、唯だ己を修めて以て百姓を安んずるに在り。管仲云う、『人に義なるは神に和す』と。蓋し人を以て神の主と為す故に、ただ人を安んずるを務むるのみ。虢公神を求めて、以て危亡を致し、王莽妄りに祈って、以て漢兵を速にす。古今の明誡、書伝に紀す所なり。伏して望むらくは、陛下毎に漢文・孔子の意を以て準と為し給わば、則ち百福具に臻らん」と。帝深く之を嘉す。

原文帝又問曰:「禳災祈福之說,其事信否?」籓對曰:「臣竊觀自古聖達,皆不禱祠。故楚昭王有疾,卜者謂河為祟,昭王以河不在楚,非所獲罪,孔子以為知天道。仲尼病,子路請禱,仲尼以為神道助順,系於所行,己既全德,無愧屋漏。故答子路云:『丘之禱久矣。』《書》云:『惠迪吉,從逆兇。』言順道則吉,從逆則兇。《詩》云:『自求多福。』則禍福之來,鹹應行事,若茍為非道,則何福可求?是以漢文帝每有祭祀,使有司敬而不祈,其見超然,可謂盛德。若使神明無知,則安能降福;必其有知,則私己求媚之事,君子尚不可悅也,況於明神乎!由此言之,則履信思順,自天祐之,茍異於此,實難致福。故堯、舜之德,唯在修己以安百姓。管仲云:『義於人者和於神。』蓋以人為神主,故但務安人而已。虢公求神,以致危亡,王莽妄祈,以速漢兵,古今明誡,書傳所紀。伏望陛下每以漢文、孔子之意為準,則百福具臻。」帝深嘉之。

時に河東節度使王鍔、銭数千万を用いて権幸に賂遺し、宰相を兼ねんことを求む。李籓と権徳輿、中書に在り。密旨有りて曰く、「王鍔、宰相を兼ぬべし。宜しく即ち擬来すべし」と。李籓遂に筆を以て「兼相」の字を塗り、却って奏上して云く、「不可なり」と。徳輿色を失いて曰く、「仮令不可なりとすとも、宜しく別に奏を作すべし。豈に筆を以て詔を塗るべきや」と。曰く、「勢迫れり!今日を出でば、便ち止む可からず。日又暮れんとす。何ぞ暇あらん別に奏を作さんに」と。事果たして寝す。李吉甫、揚州より再び相に入る。数日にして、李籓を罷めて詹事と為す。後数月、上李籓を思い、召して対せしめ、復た論列する所有り。元和六年、出でて華州刺史・兼御史大夫と為る。行かずして卒す。年五十八。贈戸部尚書。李籓、相と為る材能は裴垍に及ばず、孤峻頗る韋貫之に後る。然れども人物清規、亦た其の流なり。

原文時河東節度使王鍔用錢數千萬賂遺權幸,求兼宰相。籓與權德輿在中書,有密旨曰:「王鍔可兼宰相,宜即擬來。」籓遂以筆塗「兼相」字,卻奏上云:「不可。」德輿失色曰:「縱不可,宜別作奏,豈可以筆塗詔耶!」曰:「勢迫矣!出今日,便不可止。日又暮,何暇別作奏!」事果寢。李吉甫自揚州再入相,數日,罷籓為詹事。後數月,上思籓,召對,復有所論列。元和六年,出為華州刺史、兼御史大夫。未行卒,年五十八,贈戶部尚書。籓為相材能不及裴垍,孤峻頗後韋貫之,然人物清規,亦其流也。

権徳輿

原文權德輿

権徳輿、字は載之、天水略陽の人。父は臯、字は士繇、後秦の尚書権翼の後なり。少くして進士を以て貝州臨清尉を補う。安禄山、幽州長史として河北按察使を充て、其の才名を仮り、表して薊県尉と為し、従事に署す。権臯陰に禄山に異志有るを察し、其の猜虐を畏れ、潔退す可からずとし、潜かに去らんと欲す。又た禍の老母に及ぶを慮る。天宝十四年、禄山権臯をして戎俘を献ぜしめ、京師より回り、福昌を過ぐ。福昌尉仲謨、権臯の従父妹婿なり。密かに計を以て之と約す。河陽に至る比、詐りて疾亟を以て謨を召す。謨至る。権臯已に喑たるを示し、謨を瞪て瞑す。謨乃ち勉めて哀しみて哭し、手ずから含襲す。既に権臯を逸して其の棺を葬り、人知る者無し。従吏詔書を以て還る。権臯の母初め知らず、権臯の死を聞き、慟哭して行路を傷む。禄山其の詐死を疑わず、其の母の帰るを許す。権臯時に微服して跡を匿し、母を淇門に候う。既に其の母に侍するを得て、乃ち母を奉じて昼夜南去す。江を渡るに及び、禄山已に反す。是より名天下に聞ゆ。淮南采訪使高適、表して権臯を試大理評事と為し、判官を充てしむ。永王璘の乱に属し、多く士大夫を劫掠して以て自ら従わしむ。権臯迫らるるを見るを懼れ、又た名を変え服を易えて以て免る。玄宗蜀に在り、聞きて之を嘉し、監察御史を除す。会に丁母喪に遭い、因りて洪州に家す。時に南北隔絶し、或は歳を逾えても詔命を聞かず。中使有りて奉宣して洪州に至り、時を経て復せず、過ちて求取有り、州県之を苦しむ。時に王遘有りて南昌令と為り、将に之を執按せんとす。因りて権臯に見えて其の事を白す。権臯言わず。久しくして、涕を垂れて曰く、「方今何に由りて一の敕使を致す可からん。而して遽かに此の言有りや」と。因りて涕を掩いて起つ。王遘遽かに拝謝す。浙西節度使顔真卿、表して権臯を行軍司馬と為す。詔して起居舎人に征す。又以て疾を辞す。嘗て曰く、「本より吾が志を全うす。豈に此の名を受くべきや」と。李季卿、江淮黜陟使と為り、権臯の節行を奏し、著作郎に改む。復た起たず。両京胡騎に蹂躙せられ、士君子多く家を以て江東に渡る。知名の士、李華・柳識兄弟の如き者、皆な権臯の徳を仰ぎて之と善くす。大暦三年、家に卒す。年四十六。元和中に謚して貞孝と曰う。

原文權德輿,字載之,天水略陽人。父臯,字士繇,後秦尚書翼之後。少以進士補貝州臨清尉。安祿山以幽州長史充河北按察使,假其才名,表為薊縣尉,署從事。臯陰察祿山有異志,畏其猜虐,不可以潔退,欲潛去,又慮禍及老母。天寶十四年,祿山使臯獻戎俘,自京師回,過福昌。福昌尉仲謨,臯從父妹婿也,密以計約之。比至河陽,詐以疾亟召謨,謨至,臯示已喑,瞪謨而瞑。謨乃勉哀而哭,手自含襲,既逸臯而葬其棺,人無知者。從吏以詔書還,臯母初不知,聞臯之死,慟哭傷行路。祿山不疑其詐死,許其母歸。臯時微服匿跡,候母於淇門;既得侍其母,乃奉母晝夜南去,及渡江,祿山已反矣。由是名聞天下。淮南采訪使高適表臯試大理評事,充判官。屬永王璘亂,多劫士大夫以自從,臯懼見迫,又變名易服以免。玄宗在蜀,聞而嘉之,除監察御史。會丁母喪,因家洪州。時南北隔絕,或逾歲不聞詔命。有中使奉宣至洪州,經時未復,過有求取,州縣苦之。時有王遘為南昌令,將執按之,因見臯白其事;臯不言,久之,垂涕曰:「方今何由可致一敕使,而遽有此言。」因掩涕而起,遘遽拜謝之。浙西節度使顏真卿表臯為行軍司馬,詔征為起居舍人,又以疾辭。嘗曰:「本自全吾誌,豈受此之名耶!」李季卿為江淮黜陟使,奏臯節行,改著作郎,復不起。兩京蹂於胡騎,士君子多以家渡江東,知名之士如李華、柳識兄弟者,皆仰臯之德而友善之。大歷三年,卒於家,年四十六。元和中謚曰貞孝。

初め、権臯卒す。韓洄・王定、朋友の喪に服す。李華其の墓表を作り、以て天下の善悪を分つは、一人のみと為す。前に秘書監を贈る。是に至りて子徳輿の相と為るに因り、家廟を立つ。元和十二年に至り、復た太子太保を贈る。

原文初,臯卒,韓洄、王定為服朋友之喪,李華為其墓表,以為分天下善惡,一人而已。前贈秘書監,至是因子德輿為相,立家廟。至元和十二年,復贈太子太保。

徳輿生れて四歳、詩を属する能くす。七歳にして父喪に居り、孝を以て聞ゆ。十五にして文数百篇を為し、編みて『童蒙集』十巻と為す。名声日大なり。韓洄河南を黜陟し、辟いて従事と為し、試秘書省校書郎と為す。貞元初め、復た江西観察使李兼の判官と為り、再び監察御史に遷る。府罷む。杜佑・裴胄皆な奏請す。二表同日京に至る。徳宗雅に其の名を聞き、徴して太常博士と為し、左補闕に転ず。八年、関東大水す。上疏して詔を降して隠を恤れんことを請う。遂に奚陟等四人を使わしむ。

原文德輿生四歲,能屬詩;七歲居父喪,以孝聞;十五為文數百篇,編為《童蒙集》十卷,名聲日大。韓洄黜陟河南,辟為從事,試秘書省校書郎。貞元初,復為江西觀察使李兼判官,再遷監察御史。府罷,杜佑、裴胄皆奏請,二表同日至京。德宗雅聞其名,徵為太常博士,轉左補闕。八年,關東大水,上疏請降詔恤隱,遂命奚陟等四人使。

裴延齢巧幸を以て度支を判ず。九年、司農少卿より戸部侍郎を除し、仍り度支を判ず。徳輿上疏して曰く、

原文裴延齡以巧幸判度支,九年,自司農少卿除戶部侍郎,仍判度支。德輿上疏曰:

臣が伏して思うに、人に爵位を授けるのは朝廷において、衆人と共に行うものであり、まして経費を司る役所は、国家の安危がかかっている。延齢は先ごろ権判を命ぜられてから、今に至るまで一年余り、不評の声は日ごとに初めよりも甚だしい。群情衆口は、朝廷や市井で喧しいが、すべて聖聴を煩わすことはできず、今謹んで聞くところを略挙する。多くは、常賦の正額の支払いで使い切れなかったものを、すぐに余剰の利益とし、自分の功績としているという。また、官銭を重ねて費やし常平倉が先に収買した雑物を買い入れ、それに再び評価額を与え、別に貯蔵する利銭に充てているという。また、辺境の諸軍は皆、欠乏に陥っており、今年の春以来、まったく糧食が支給されていないという。伏して思うに、辺境のことは、憂慮すべきことが小さくなく、誠に聖なる謀略が事前に定められ、事を終えるには役所の努力が切実である。陛下がもし延齢が孤高で貞節に独立し、時に抑圧され、正しい者を憎む者が徒党を組み、この流言をでっち上げたとお考えなら、どうして新たに収めた余剰の利益を取り調べ、その経緯を明らかにし、分析して条奏させないのか。また、朝臣の賢者で信頼できる者を選び、中使一人とともに辺軍を巡視させ、その物資の貯蓄に虚実があるかどうかを察させるべきである。もし延齢が任を受けて以来、心を込めて勤勉に努め、何事も倹約し、別に余剰を収め、正額の数値ごとに区分けし、辺軍の貯蓄が実際にまだ支えられるものであり、自ら怨みを買い、国のために費用を惜しんでいるのであれば、さらに優れた褒賞を示し、群衆の疑念を晴らし、その功労を明記して天下に示すべきである。もし言う者が間違っておらず、上を欺くことが実際に多いなら、どうして国家の重要な任務を、その地位にふさわしくない者に委ねることができようか。臣の職は諫官にあり、群議を採るべきであり、正任されてから今や十日になるが、道で聞く話は、これを言わないものはない。どうして京師の士庶の衆、愚かさと賢さの多さが、合わさって徒党を組み、共に仇敵視することがあろうか。陛下もまた少し聖鑑を回らし、群衆の心を察していただきたい。況や臣が君に仕えることは、子が父に仕えるがごとくである。今、聖明で忌憚のない時代にあって、もしなお身を惜しんで真情を隠すなら、それは不忠不孝、これより大きな罪はない。敢えて肝胆を絞り、伏して刑罰の書を待つ。

原文臣伏以爵人於朝,與眾共之,況經費之司,安危所系。延齡頃自權判,逮今間歲,不稱之聲,日甚於初。群情眾口,喧於朝市,不敢悉煩聖聽,今謹略舉所聞。多雲以常賦正額支用未盡者,便為剩利,以為己功。又重破官錢買常平先所收市雜物,遂以再給估價,用充別貯利錢。又雲邊上諸軍皆至懸闕,自今春已來,並不支糧。伏以疆場之事,所虞非細,誠聖謨前定,終事切有司。陛下必以延齡孤貞獨立,為時所抑,醜正有黨,結此流言,何不以新收剩利,征其本末,為分析條奏?又擇朝賢信臣,與中使一人巡覆邊軍,察其資儲有無虛實。倘延齡受任已來,精心勤力,每事省約,別收羨余,於正數各有區分,邊軍儲蓄,實猶可支,身自斂怨,為國惜費;自宜更示優獎,以洗群疑,明書厥勞,昭示天下。如或言者非謬,罔上實多,豈以邦國重務,委之非據!臣職在諫曹,合采群議,正拜已來,今已旬日,道路云云,無不言此。豈京師士庶之眾,愚智之多,合而為黨,共有仇嫉。陛下亦宜稍回聖鑒,俯察群心。況臣之事君,如子事父;今當聖明不諱之代,若猶愛身隱情,是不忠不孝,莫大之罪。敢瀝肝血,伏待刑書。

十年、起居舎人に遷る。その年のうちに、知制誥を兼ねる。駕部員外郎、司勲郎中に転じ、職はもとのまま。中書舎人に遷る。この時、徳宗は自ら諸政務を覧み、官職の除授を重く難しくし、朝廷で命ずるものは、多くは御札から補任した。初め、徳輿が知制誥であった時、給事中には徐岱がおり、舎人には高郢がいた。数年を経て、岱が卒し、郢が礼部貢挙を掌ると、徳輿ただ一人が禁垣に直し、数十日たって初めて帰ったことがあった。かつて上疏して両省の官を除くよう請うたが、徳宗は「卿の労苦を知らないわけではないが、禁掖は清要であり、卿のような者を得なければならぬので、長くその人を得ることが難しかったのだ」と言った。徳輿は西掖に八年間在り、そのうち単独で執務したのは数年であった。貞元十七年冬、本官のまま礼部貢挙を掌る。翌年、正式に侍郎に任ぜられ、合わせて三年間貢士を掌り、今に至るまで人材を得たと称えられる。戸部侍郎に転ず。元和初年、兵部、吏部侍郎を歴任し、郎吏が誤って官闕を用いたことに連座して太子賓客に改められ、再び兵部侍郎となり、太常卿に遷る。

原文十年,遷起居舍人。歲中,兼知制誥。轉駕部員外郎、司勛郎中,職如舊。遷中書舍人。是時,德宗親覽庶政,重難除授,凡命於朝,多補自禦劄。始,德輿知制誥,給事有徐岱,舍人有高郢;居數歲,岱卒,郢知禮部貢舉,獨德輿直禁垣,數旬始歸。嘗上疏請除兩省宮,德宗曰:「非不知卿之勞苦,禁掖清切,須得如卿者,所以久難其人。」德輿居西掖八年,其間獨掌者數歲。貞元十七年冬,以本官知禮部貢舉。來年,真拜侍郎,凡三歲掌貢士,至今號為得人。轉戶部侍郎。元和初,歷兵部、吏部侍郎,坐郎吏誤用官闕,改太子賓客,復為兵部侍郎,遷太常卿。

五年冬、宰相裴垍が病に臥すと、徳輿は礼部尚書、平章事に任ぜられ、李籓とともに相となる。河中節度使王鍔が朝見に来ると、貴幸で鍔を称える者が多く、上は平章事を加えようとしたが、李籓は堅く執り不可とした。徳輿は続けて奏上して言う、「平章事は、順序に従って進んで得るものではなく、国朝において方鎮が宰相を帯びるのは、大忠大勲があるからである。大暦以来、また跋扈して制しがたい者がおり、やむを得ずこれに与えた。今、王鍔には大忠勲がなく、また姑息の時でもないのに、この名を仮りようとするのは、実に恐らく不可です」。上はこれに従った。

原文五年冬,宰相裴垍寢疾,德輿拜禮部尚書、平章事,與李籓同作相。河中節度王鍔來朝,貴幸多譽鍔者,上將加平章事,李籓堅執以為不可。德輿繼奏曰:「夫平章事,非序進而得,國朝方鎮帶宰相者,蓋有大忠大勛。大歷已來,又有跋扈難制者,不得已而與之。今王鍔無大忠勛,又非姑息之時,欲假此名,實恐不可!」上從之。

運糧使董溪、于臯謨が官銭を盗用したため、詔して嶺南に流す。湖外に至った時、密かに中使に命じて皆殺しにした。他日、徳輿が上疏して言う、

原文運糧使董溪、于臯謨盜用官錢,詔流嶺南。行至湖外,密令中使皆殺之。他日,德輿上疏曰:

ひそかに思うに、董溪らは、陛下が山東の用兵を憂えられた時、糧料を領して軍に供給する重務を担い、聖心が委任されたことは、尋常の比ではなかった。敢えて恩私に背き、贓罪をほしいままにし、これを万死に処しても、責めを塞ぐに足りない。寛大な典則を弘め、流竄は軽すぎ、陛下は罪名を正すべきであり、また臣らの粗略を責めるべきである。ただ詔令は既に下り、四方に聞こえており、明らかな刑罰を記さずにこのような処分があるのを、ひそかに衆情を観ると、理解されていないところがある。伏して思うに、陛下が臨御されて以来、何事も誠実をもって行われ、実に天地の徳に合い、四時に符し、万方の人は皇沢を浴している。例えば于、董の犯した罪は、正しい典章に合致し、明らかに詔書を下し、衆人と共に見捨てれば、人はそれぞれ法を恐れ、人はそれぞれ身を慎むであろう。

原文竊以董溪等,當陛下憂山東用兵時,領糧料供軍重務,聖心委付,不比尋常;敢負恩私,恣其贓犯,使之萬死,不足塞責。弘寬大之典,流竄太輕,陛下合改正罪名,兼責臣等疏略。但詔令已下,四方聞知,不書明刑,有此處分,竊觀眾情,有所未喻。伏自陛下臨禦已來,每事以誠,實與天地合德,與四時同符,萬方之人,沐浴皇澤。至如於、董所犯,合正典章,明下詔書,與眾同棄,即人各懼法,人各謹身。

臣は誠にその罪が誅に容れられないことを知り、また既に過ぎたことであり、論弁すべきではなく、上って聖聴を煩わすべきではない。伏して思うに、陛下の聖徳聖姿は、前古を超越し、近ごろ下される一つの詔、挙げられる一事は、皆理の根本に合い、皆人心に順っている。伏して慮るに、他時さらにこの類いがあるなら、ただ役所に窮めて審問させ、罪名を審定し、あるいは極刑に至らせ、あるいは自尽させ、一を罰して百を勧めれば、誰が心から喜ばないだろうか。巍々たる聖朝、事体は小さくなく、臣は毎度延英で奏対し、退いて陛下が道理を求める言葉を思うと、盛明の世に生まれ逢い、感涙して自ら賀する。況や愚かで鈍く朴訥な者が、聖鑑に知られており、伏して惟うに、臣の迂疎を恕し、臣の丹懇を察していただきたい。

原文臣誠知其罪不容誅,又是已過之事,不合論辯,上煩聖聰。伏以陛下聖德聖姿,度越前古,頃所下一詔,舉一事,皆合理本,皆順人心。伏慮他時更有此比,但要有司窮鞫,審定罪名,或致之極法,或使自盡,罰一勸百,孰不甘心!巍巍聖朝,事體非細,臣每於延英奏對,退思陛下求理之言,生逢盛明,感涕自賀。況以愚滯樸訥,聖鑒所知,伏惟恕臣迂疏,察臣丹懇。

李吉甫が淮南から詔により召し出され、一年も経たないうちに、上はまた李絳を用いた。時に上は道理を求めることが切実で、軍国の大小を問わず、すべて中書に委ねた。吉甫と絳は議政にかなり異同があり、ある時は上の前で事を論じ、言葉や表情に現れた。その理に適うものについては、徳輿もまたこれを発明することができず、時人はこれをもって彼をあざ笑った。ついに従順で沈黙していることで罷免され、再び本官を守った。まもなく検校吏部尚書として東都留守となり、後に太常卿に任ぜられ、刑部尚書に改める。先に、許孟容、蔣乂らが詔を受けて格勅を刪定した。孟容らはまもなく他官に改められ、乂だけが三十巻を成し、表を奉って献上したが、中に留め出されなかった。徳輿は刑部に下すよう請い、侍郎劉伯芻らと考定し、再び三十巻を奏上した。十一年、再び検校吏部尚書として興元に出鎮する。十三年八月、病を得、詔して帰闕を許され、途中で卒す。年六十。左僕射を贈られ、文と諡される。

原文及李吉甫自淮南詔徵,未一年,上又繼用李絳。時上求理方切,軍國無大小,一付中書。吉甫、絳議政頗有異同,或於上前論事,形於言色;其有詣於理者,德輿亦不能為發明,時人以此譏之。竟以循默而罷,復守本官。尋以檢校吏部尚書為東都留守,後拜太常卿,改刑部尚書。先是,許孟容、蔣乂等奉詔刪定格敕。孟容等尋改他官,乂獨成三十卷,表獻之,留中不出。德輿請下刑部,與侍郎劉伯芻等考定,復為三十卷奏上。十一年,復以檢校吏部尚書出鎮興元。十三年八月,有疾,詔許歸闕,道卒,年六十。贈左僕射,謚曰文。

徳輿は貞元から元和の三十年間、朝廷の行いの模範となり、性質は直亮で寛恕、動作言語、少しも外飾がなく、蘊藉風流、時に称え向かわれた。述作において特に盛んで、『六経』百氏を遊泳漸漬し、その文は雅正で弘博、王侯将相から当時の名人の薨歿に至るまで、銘紀を請う者は十中八九、時人は宗匠と見なした。特に読書を嗜み、一寸の暇も倦むことなく、文集五十巻あり、世に行われる。子の璩は、中書舎人。

原文德輿自貞元至元和三十年間,羽儀朝行,性直亮寬恕,動作語言,一無外飾,蘊藉風流,為時稱向。於述作特盛,《六經》百氏,遊泳漸漬,其文雅正而弘博,王侯將相洎當時名人薨歿,以銘紀為請者什八九,時人以為宗匠焉。尤嗜讀書,無寸景暫倦,有文集五十卷,行於代。子璩,中書舍人。

【論】

原文【論】

史臣曰く、裴垍は精鑒黙識、賢を挙げ能に任じ、帝心を啓沃し、王道を弼諧した。崔群、裴度、韋貫之の輩のごときは、皆将相に登り、みな垍の推薦による。言を立て事を立て、知ることは為さざるなし。吉甫は典経に該洽し、故実に詳練、裴垍の抽擢に仗り、朝倫の式序を致す。吉甫は垍が髦彥を別つ能あるを知り、垍は吉甫が賢良を善く任ずるを知り、相須って成り、忌まず克たず。叔翰は身を修め行いを慎み、學に力を入れ家を承け、制勅を批するに夕郎の風有り、御書を塗するに宰執の器を見る。しかるに乃ち財を軽んじ施しを散じ、天爵を期す。偉なるかな、自ら待つところの意や。徳輿は孝悌力學、髫齔より聞こえ有り、延齢の巧佞を恣に行うを疏し、臯謨の明刑を書かざるを論じ、三十年朝行の羽儀、実に臯の余慶の鐘する所。この四子は、いわゆる経緯の臣、また何ぞ王佐に慚じることがあろう。

原文史臣曰:裴垍精鑒默識,舉賢任能,啟沃帝心,弼諧王道。如崔群、裴度、韋貫之輩,鹹登將相,皆垍之薦達。立言立事,知無不為。吉甫該洽典經,詳練故實,仗裴垍之抽擢,致朝倫之式序。吉甫知垍之能別髦彥,垍知吉甫之善任賢良,相須而成,不忌不克。叔翰修身慎行,力學承家,批制敕有夕郎之風,塗御書見宰執之器;而乃輕財散施,天爵是期,偉哉,自待之意也!德輿孝悌力學,髫齔有聞,疏延齡恣行巧佞,論臯謨不書明刑,三十年羽儀朝行,實臯之余慶所鐘。此四子者,所謂經緯之臣,又何慚於王佐矣!

贊して曰く、二李は鈞を秉り、信に名臣たり。甫は柔にして黨し、籓は俊にして純なり。裴公の鑒裁、朝に屈する人無し。權の藻思、文質彬彬たり。

原文贊曰:二李秉鈞,信為名臣。甫柔而黨,籓俊而純。裴公鑒裁,朝無屈人。權之藻思,文質彬彬。