旧唐書 巻一百四十七 列伝第九十七 杜黄裳 高郢 杜佑

旧唐書

巻一百四十七 列伝第九十七 杜黄裳 高郢 杜佑

杜黄裳

杜黄裳は、字を遵素といい、京兆杜陵の人である。進士第及び宏辞科に及第し、杜鴻漸は深く器重した。郭子儀の朔方従事となり、子儀が入朝する際、黄裳に朔方の留守業務を主管させた。邠将の李懐光が監軍と共に陰謀を巡らせて子儀に代わろうとし、偽の詔書を作り、大将の温儒雅らを誅殺しようとした。黄裳は直ちにその偽りを弁明し、懐光に告げたので、懐光は流汗して罪に伏した。諸将の中で制御し難い者がいたので、黄裳は子儀の命令と偽って彼らを全て出してしまい、数ヶ月の間に乱は起こらなかった。後に朝廷に入って台省の官となったが、裴延齢に憎まれて、十年間昇進しなかった。貞元の末、太常卿となった。王叔文が権力を窃むと、黄裳は終始その門を造らなかった。かつて女婿の韋執誼に語り、百官を率いて皇太子に監国を請うよう命じたが、執誼は急に「丈人はようやく一官を得たばかり、また禁中の事を口にすることができようか」と言った。黄裳は勃然として「黄裳は三朝の恩を受けた。どうして一官をもって買われようか」と言い、即座に衣を払って出て行った。まもなく平章事に拝された。

邠州節度使韓全義はかつて討伐の任に当たったが、功績がなく、黄裳は上奏してこれを罷免させた。劉辟が乱を起こすと、議者は剣南の険固を理由に事を起こすべきでないと言ったが、黄裳だけが堅く討伐を請い、憲宗はこれに従った。また宦官を監軍としないよう奏請し、ただ高崇文を節度使に委任した。黄裳は伐蜀を計画してから成功に至るまで、崇文に指示を与え、全て懸け合わなかった。崇文はもともと劉澭を恐れていたので、黄裳は人を遣わして崇文に「もし奮って命を尽くさなければ、劉澭をもって代えよう」と言わせた。これによって崇文の死力を得た。劉辟を平定した後、宰相が入賀すると、帝は黄裳を見て「これは卿の功績である」と言った。後に憲宗と方鎮の任免について語り合った時、黄裳は奏上して言った。「徳宗は艱難の後、事多く姑息であった。貞元の中ごろ、毎に帥守が物故すると、必ず先に中使を遣わしてその軍の動静を偵察させ、その副貳大将の中で人望のある者は、必ず近臣に厚く賄賂して任用を求め、帝は必ずその称賛に従って命じた。このように因循して、方鎮で特命の帥守は稀であった。陛下は貞元の故事を熟考し、少しずつ法度をもって諸侯を整肅なされば、天下が治まらないことを何の憂いがあろうか」。憲宗はその言葉を然りとした。これによって蜀・夏を誅伐した後、藩臣の傲慢を許さず、両河を克復し、威令が再び振るうようになったのは、黄裳がその衷を啓いたからである。黄裳は経画の才があり、権変に通じていたが、身を検し物を律するに、廉潔の誉れが少なく、このため鼎職に居ることは久しくなかった。二年正月、検校司空、同平章事、兼河中尹・河中晋絳等州節度使となった。八月、邠国公に封ぜられた。三年九月、河中の地で卒去した。七十一歳。司徒を追贈され、諡は宣といった。

黄裳の性格は雅淡で寛恕であり、心は長に従うが、口は物に逆らわなかった。初めて卿士となった時、娘を韋執誼に嫁がせたが、深く執誼に称されなかった。執誼が譴逐された時、黄裳は終始彼を保全し、嶺表で死ぬと、その喪を帰して葬事を執り行うよう請うた。この時病気にかかり、医者が誤って薬を進めたが、病状が重くなっても怒らなかった。しかし宰相として、任免に流品を分かたず、あるいは賄賂によって官が遷ることもあり、当時の論はこれを惜しんだ。

黄裳の没後、賄賂の事が発覚した。八年四月、御史台が奏上した。「前永楽令の呉憑が僧鑒虚の依頼を受け、故司空杜黄裳のために、故邠寧節度使高崇文のところで賄賂四万五千貫を受け取り、全て黄裳の子の載に渡した。取り調べて自白させた」。勅が下った。「呉憑はかつて使府に佐け、官途を辱うした。自ら法を畏れ身を惜しむべきであり、どうして人のために通貨することができようか。事は非道に関わり、理は懲罰に合う。昭州に配流するのが適当である。その杜載に渡した金品については、宰輔の任は寵寄が実に深く、この貨財を致すに当たり、拒絶できなかった。既に取り調べを命じ、全て徴収するのが合うが、終始の恩を全うすることを貴び、寛大の典を弘めるため、その取った金品は全て矜み免ずる。杜載らは共に釈放せよ」。

載は太子僕となり、長慶年中、太僕少卿・兼御史中丞に遷り、入吐蕃使を充てた。

載の弟の勝は進士第に及第し、大中朝に給事中の位に至った。勝の子の廷堅もまた進士に擢第した。

高郢

高郢は、字を公楚といい、その先祖は渤海蓚の人である。九歳で『春秋』に通じ、文を綴ることができた。天宝の末、賊が京邑を占拠すると、父の伯祥は先に好畤尉となっていたが、賊の禁令に触れ、極刑に処せられようとした。郢は当時十五歳で、髪を解き衣を脱ぎ、父に代わることを請うた。賊党はその義を感じ、共に釈放した。後に進士に擢第し、制挙に応じ、茂才異行科に登第し、華陰尉を授けられた。かつて魯が天子の礼楽を用いるのは合わないと考え、『公羊伝』を引き、『魯議』を著して当時に称され、これによって咸陽尉を授けられた。

郭子儀が朔方を節制すると、辟召されて掌書記となった。子儀はかつて従事の張曇を怒り、奏上して誅殺しようとした。郢は極言して争い救い、子儀の意に逆らい、奏上されて猗氏丞に貶された。李懐光が邠寧を節制すると、奏上されて従事となり、累転して副元帥判官・検校礼部郎中となった。懐光が背反し、河中に帰ろうとした時、郢は言った。「西へ大駕を迎えるのは、忠ではないか」。懐光は憤って聞き入れなかった。帰鎮してから、また衆を悉くして西進しようとした。当時、渾瑊の軍は孤軍で、群帥は未だ集まっていなかった。郢は李鄘と共に死を誓って駐留した。時に懐光の長子の琟が郢を訪ねたので、郢は逆順を諭して言った。「人臣として効順すべきである。かつて天宝以来、兵を阻んだ者は、今また誰がいるか。況や国家には天命があり、独り人力によるのではない。今もし衆を恃んで西に向かえば、自ら天を絶つことになる。十室の邑にも必ず忠信あり、どうして三軍に奔潰する者がいないと知れようか」。李琟は震懼し、涙を流して気力を失った。明年の春、郢は都知兵馬使の呂鳴嶽・都虞候の張延英と共謀し、間道を経て上表した。密詔を受けたが、事が洩れ、二将は直ちに死んだ。懐光は大いに将卒を集め、白刃を庭に満たし、郢を引いて詰問した。郢は挺然として抗辞し、慙えるところ隠すところなく、憤気が感発し、見る者は涙を流した。懐光は慙じて止めた。徳宗が京に還ると、諫議大夫の孔巣父・中人啖守盈を河中に派遣して懐光を宣慰し、太保を授けた。しかし懐光は怒り、その親兵を激して詬罵させ、守盈及び巣父を殺した。巣父が刃を受けた時、地に倒れたので、郢は近寄ってこれを撫でた。懐光が誅殺されると、馬燧が郢を辟召して掌書記とした。

まもなく、征召されて主客員外郎となり、刑部郎中に遷り、中書舎人に改めた。凡そ九年を経て、礼部侍郎に拝された。当時、進士挙に応じる者は多く朋遊に務め、声名を馳逐していた。毎年冬、州府が薦送した後は、ただ宴集を追奉するだけで、その業を修めることは稀であった。郢の性格は剛正で、特にこの風を憎み、職を領すると、請托を拒絶し、同列で通熟の者でも、敢えて言う者はなかった。志は経芸に在り、専ら程試を考課した。凡そ貢部を掌ること三年、幽独を進め、浮華を抑え、朋濫の風は忽ち一変した。太常卿に拝された。貞元十九年冬、銀青光禄大夫に進位し、中書侍郎・同中書門下平章事を守った。順宗が即位すると、刑部尚書に転じ、韋執誼らに憚られた。まもなく政事を罷め、本官のまま吏部尚書事を判じた。明年、華州に出鎮した。

元和元年の冬、再び太常卿に任ぜられ、まもなく御史大夫に除せられた。数か月後、兵部尚書に転じた。一か月余りして、再び表を奉って骸骨を乞うたが、許されなかった。また上言して曰く、「臣は聞く、生を労して老を佚するは天理自然であり、蠕動翾飛のものも日が入れば皆息むと。貢禹の経に守り古に拠るがごとき、趙喜の身を正して懈まず、韓暨の志節高潔、山濤の道徳模表でなければ、たとえ常期を過ぎたとしても、どうして貪冒と言えようか。その仁に当たりて譲らず、病に急きて身を忘れる者は、ただ君命によるのみならず、なお自ら挙げるべきである。臣郢は不才にして、久しく高位を辱め、衷心よりの懇願を披瀝する由もない」と。そこで尚書右僕射を授けて致仕させた。六年七月に卒去、七十二歳。太子太保を贈られ、諡して貞といった。

郢は性質恭慎廉潔にして、人と交遊すること稀で、官を守り法を奉じて勤恪であり、誥を掌ること累年、家に制草を留めなかった。ある人がこれに謂いて曰く、「先輩は皆制集を留めるのに、公はこれを焚くのは何故か」と。曰く、「王言は私家に存すべからず」と。当時の人はその慎密を重んじた。鄭珣瑜と並んで命を受けて相に拜せられた。間もなく、徳宗が崩御した。時に同じく相位に在ったが、杜佑は宿旧として上に居り、韋執誼は朋党より柄を専らにした。順宗は風恙が甚だしく、枢機が宣べられず、王叔文は翰林学士兼戸部侍郎として、度支副使を充てた。この時政事は、王叔文が謀議し、王伾が通導し、李忠言が宣下し、韋執誼が奉行した。珣瑜は命を受けてより、憂いを顔色に形し、ここに至って勢い奪うべからざるを以て、病と称して起たなかった。郢は因循して、ついに発することなく、罷するに至った。世論はこれを優劣と定めた。子の定が嗣いだ。

定は幼くして聡警人に絶倫、年七歳の時、『尚書・湯誓』を読み、郢に問うて曰く、「奈何に臣を以て君を伐つや」と。郢曰く、「天に応じ人に順う、非道と為さざるなり」と。また問うて曰く、「命を用うれば祖に賞し、命を用いざれば社に戮す、是れ人に順うか」と。父は対することができなかった。仕えて京兆参軍に至った。小字は董二、人はその幼慧を以て、多く字を以てこれを称した。特に『王氏易』に精しく、嘗て『易図』を作り、出入を合して以て八卦を画き、上が円く下が方なり、合すれば重なり、転ずれば演じ、七転して六十四卦六甲八節備わる。『易外伝』二十二巻を著した。

杜佑

杜佑、字は君卿、京兆万年の人。曾祖父は行敏、荊・益二州都督府長史・南陽郡公。祖父は愨、右司員外郎・詳正学士。父は希望、鴻臚卿・恒州刺史・西河太守を歴任し、右僕射を贈られた。佑は蔭により仕官に就き、済南郡参軍・剡県丞を補せられた。時に潤州刺史韋元甫は嘗て希望より恩を受けており、佑が謁見すると、元甫は未だこれを知らず、故人の子としてこれを遇した。ある日、元甫が政務を見るに、疑わしい獄があって決することができなかった。佑が時に傍らに在ったので、元甫は試みに佑に訊ねた。佑は口で応対し響くが如く、皆その要を得た。元甫はこれを奇とし、乃ち奏して司法参軍とした。元甫が浙西観察・淮南節度となると、皆辟いて従事とし、深く委任信頼した。累官して検校主客員外郎に至り、入朝して工部郎中となり、江西青苗使を充て、撫州刺史に転じた。御史中丞に改め、容管経略使を充てた。楊炎が相に入ると、征されて朝に入り、工部・金部の二郎中を歴任し、並びに水陸転運使を充て、度支郎中に改め、兼ねて和糴等使となった。時に軍興の最中、饋運の事務は悉く佑に委ねられた。戸部侍郎・判度支に遷った。盧杞に憎まれて、出されて蘇州刺史となった。佑の母が健在であったので、杞は蘇州の憂闕を以てこれを授けた。佑は行かず、間もなく饒州刺史に換えられた。未だ幾ばくもなく、兼御史大夫となり、嶺南節度使を充てた。時に徳宗は興元に在った。朝廷の故事では、執政は往々にして遺脱があった。旧来の嶺南節度は、常に五管経略使を兼ねたが、佑のみは兼ねなかった。故に五管が嶺南に属さないのは、佑より始まった。

貞元三年、征されて尚書左丞となり、また出されて陝州観察使となり、検校礼部尚書・揚州大都督府長史に遷り、淮南節度使を充てた。母の憂に服したが、特詔により起復し、累転して刑部尚書・検校右僕射となった。十六年、徐州節度使張建封が卒去し、その子の愔が三軍に立てられた。詔して佑を以て淮南節制検校左僕射・同平章事とし、兼ねて徐泗節度使とし、討伐を委ねた。佑は乃ち大いに舟艦を具え、将の孟準を遣わして先ずこれに当たらせた。準は淮を渡って敗れ、佑はこれを杖ち、境を固めて敢えて進まなかった。及び詔して徐州を愔に授け、佑に濠・泗等州観察使を兼ねさせた。揚州において営壘三十余所を開設し、士馬を修繕した。然るに賓僚の間において依阿して制なく、判官の南宮僔・李亞・鄭元均が権を争い、頗る軍政を紊した。徳宗これを知り、並びに嶺外に竄せさせた。

十九年に入朝し、検校司空・同平章事に拜せられ、太清宮使を充てた。徳宗が崩ずると、佑が冢宰を摂り、間もなく進位して検校司徒となり、度支塩鉄等使を充て、前の如く平章事となった。旋ってまた弘文館大学士を加えられた。時に王叔文が副使となり、佑は総統するも、権は叔文に帰した。叔文が敗れると、また李巽を副使と奏し、頗る立つ所があった。順宗が崩ずると、佑は再び冢宰を摂り、間もなく金谷の務を譲り、李巽を引いて自らに代えさせた。先に、度支は制用惜費を以て、漸く百司の職を権め、吏員を広く署し、繁雑で治め難かった。佑は始めて奏して、営繕を将作に帰し、木炭を司農に帰し、染練を少府に帰し、綱条頗る整い、公議多くこれを称し、朝廷その議を允した。

元和元年、冊拜して司徒・同平章事とし、岐国公に封ぜられた。時に河西の党項が潜かに吐蕃を導いて入寇し、辺将が功を邀え、亟にこれを撃つことを請うた。佑は上疏してこれを論じて曰く、

臣伏して見るに、党項は西戎と潜かに通じ、屡々降人が事跡を指陳するも、公卿の廷議は、誠に兵戎を謹み侵軼を備え、益々甲卒を発してその寇暴を邀うべしと為す。これは未だ事機に達せず、匹夫の常論である。

そもそも蛮夷が夏を猾るは、唐虞の時より已然である。周宣王の中興の時、獫狁が害を為したが、ただ南仲を命じて朔方に往きて城せしめ、これを太原に追い、境に及んで止めたのは、誠に中国を弊して遠夷を怒らせんと欲しなかったからである。秦は六国を平らげ、その兵力を恃み、北には長城を築きて匈奴を拒ぎ、西には諸羌を逐って塞外に出だした。労力を費やし人を擾し、怨みを結び乱の階と為し、中国未だ静まらず、白徒競い起り、海内雲擾し、実に謫戍を生んだ。漢武帝は文・景の富に因り、将を命じて師を興し、遂に戸口半減に至り、竟に哀痛の詔を下して輪臺の田を罷めた。前史はこれを書き、尚その先に迷い後復するを嘉している。およそ聖王が天下を理めるには、ただ蒸人を綏静するを務め、西は流沙に至り、東は海に漸き、南と北にも、亦た声教を存する。遠物を珍と為さず、遐方の貢を求めず、豈に内を疲して外に事え、終に少を得て多くを失わんや。故に前代の忠を納る臣は、並びに君を匡うる議あり。淮南王は閩越に師を息めんことを請い、賈捐之は珠崖の地を棄てんことを願い、安危利害は高く前史に懸かっている。

昔、馮奉世は漢帝の詔を矯めて莎車を撃ち、その王の首を京師に伝え、威は西域を震わした。宣帝は大いに悦び、爵土の賞を加えることを議した。蕭望之のみは、制を矯めて命に違うは、功効有りと雖も、法と為すべからずと為し、後の奉使者が争って兵を発し、国家に事を生ずるを恐る、と述べて理明白にし、その言遂に行わる。国家、天後已来より、突厥の默啜は兵強く気勇み、屡々辺城を寇し、害を為すこと頗る甚だし。開元の初め、辺将の郝霊佺は親しくこれを捕斬し、首を闕下に伝え、自ら功と為し、代に二つと与ふる莫しとし、栄寵を望みて坐せり。宋けいが相と為り、武臣の功を邀ふるを慮り、国家に事を生ずるを為さんとし、郎将を以て授くるに止む。是れより開元の盛に至る迄、人復た辺を開くを議する無く、中国遂に寧く、外夷も亦静かなり。此れ皆成敗徴す可く、鑒戒遠からざるなり。

且つ党項は小蕃にして、中国に雑処し、本より我が徳を懐き、撫綏を示すべし。間者辺将廉ならず、亟に侵刻有り、或いは其の善馬を利し、或いは其の子女を取り、便賄の方物をし、役徒を徴発す。労苦既に多し、叛亡遂に起こり、或いは北狄と使を通じ、或いは西戎と辺を寇す、為す有りて然らしむ、固に当に懲革すべし。『伝』に曰く、「遠人服せざれば、則ち文徳を修めて以て之を来たす」と。『管子』に曰く、「国家勇猛なる者をして辺境を為さしむること無かれ」と。此れ誠に聖哲の微を識り著を知るの遠略なり。今戎醜方に強く、辺備未だ実ならず、誠に宜しく良将を慎み択び、之に誡めて完葺せしめ、誠信を保たしめ、其の求取を絶ち、以て懐柔を示すべし。来れば則ち懲禦し、去れば則ち謹備し、自然に懐柔し、其の奸謀を革む、何ぞ必ずしも遽に興師を図り、坐して労費を致さんや。

陛下は上聖の君人にして、群類を覆育し、動くには必ず古に師ひ、謀ふに臧からざる無し。伏して望む、永図を堅く保ち、兵を衽席に置かんことを、天下幸甚なり。臣は識昧にして経綸に暗く、学慚じて博究せず、窃かに鼎鉉の寵任を荷ひ、朝廷の老臣と為り、恩深く倫ぶる莫く、誌懇にして報いんと思ふ、臧否備へて閲し、芻蕘を上陳し、旒扆を瀆す有り、伏して深く惶悚す。

上深く嘉納す。

歳余りして、致仕を請ふ。詔して許さず、但だ三五日に一たび中書に入り、政事を平章せしむ。毎に入りて事を奏するに、憲宗優礼之し、名を呼ばず、常に司徒と称す。佑が城南の樊川に佳林亭有り、卉木幽邃にして、佑は毎に公卿と宴集を其の間に行ひ、広く妓楽を陳ぶ。諸子皆朝列に居り、当時貴盛にして、之と比ぶる莫し。元和七年、疾に被り、六月、復た骸骨を乞ふ。表四たび上り、情理切至にして、憲宗已むを得ずして之を許す。詔して曰く、

力を宣べて時を済すは、臣の懿躅たり。栄を辞して老を告ぐるは、己を行ふの高風たり。況んや公臺に任重く、翼贊に義深く、沖譲の誌を秉り、金石の誠を堅くするにおいてをや。敦諭既に勤しく、執る所弥に固し、則ち当に其の衷懇を遂げ、崇名を以て進むべし。歯を尚び賢を優するは、斯れ王化の本なり。

金紫光禄大夫・守司徒・同中書門下平章事・兼ねて弘文館大学士・太清宮使・上柱国・岐国公・食邑三千戸の杜佑は、巌廊の上才、邦国の茂器たり。経通の識を蘊み、温厚の姿を履み、寛裕は性情に本づき、謀猷は事業に彰る。博聞強学にして、歴代沿革の宜を知り、政を為して人を恵むに、群黎利病の要を審らかにす。是れより再び邦用を司り、累ねて籓方を歴し、出では戎麾を総べ、入りては鼎実を和し、聿て重寄に膺り、歴事して先朝に仕へ、朕が躬を左右し、夙夜懈ること無し。詔冊を以て命じ、之を上公に登し、肅恭として廷に在り、華発して弁を承く。茲れ国の元老、人の具瞻と謂ふ可き者なり。

朕は丕業を纘承し、景化を弘めんと思ひ、労を選び旧を求め、時邕を致さんことを期す。方に引翼の儀を伸べんとし、遽かに懸車の請を抗す。而して又た固く年疾を辞し、休閑に就かんことを乞ひ、已にして復た来たり、星琯屡く変はり、抑ふる可からざる有り、良く用て耿然たり。永く古先の哲王、君臣の際を惟ふに、臣に耆艾有りて其の退を求め、君に優賜有りて其の情に徇ふ。乃ち鄧禹の敷教の功を輟め、仍て王祥の輔導の秩を増し、浩然の気を養はしめ、敬止の郷に安んぜしめ、庶くは神を怡し和を葆ち、永く福履を綏んぜしむ。仍て階級を加へ、以て寵章を厚くす。光禄大夫・守太保を以て致仕すべく、宜しく朔望に朝せしむ。

是の日、上は中使を遣はして佑の第に就き、絹五百匹・銭五百千を賜ふ。其の年の十一月に薨ず。寿七十八。朝を廃すること三日。冊して太傅を贈り、謚して安簡と曰ふ。

佑は性敦厚強力にして、尤も吏職に精し。外は寛和を示すと雖も、身を持するに術有り。政を為すに弘易にして、皦察を尚ばず、計を掌り民を治むるに、物便にして済ひ、戎を馭へ変に応ずるは、即ち其の長と為さず。性学を嗜み、古今に該渉し、富国安人の術を以て己が任と為す。初め開元の末、劉秩は経史百家の言を採り、『周礼』六官の職る所を取り、分門の書三十五巻を撰び、号して『政典』と曰ひ、大いに時賢の称賞せらる。房琯は以て才劉更生に過ぐと為す。佑其の書を得て、尋味して其の旨を為し、条目未だ尽きずと以為ひ、因りて之を広め、開元の礼楽を加へ、書成ること二百巻、号して『通典』と曰ふ。貞元十七年、自ら淮南より人をして闕に詣りて之を献ぜしめ、曰く、

臣聞く、太上は徳を立つ、庶幾す可からず。其次は功を立て、遂に当代に行はる。其次は言を立て、誌を後学に見すと。是れより往哲は遞相に祖述し、将に政有らんと施し、用て邦家を乂へんとす。臣は本より門資を以て、幼く官序に登り、仕ふるは遊藝に非ず、才は人に逮はず。徒らに自強を懐き、頗る墳籍を玩ぶ。履歴叨幸と雖も、或いは職劇く務殷なり、窃かに光陰を惜しみ、未だ嘗て軽く廃せず。夫れ『孝経』・『尚書』・『毛詩』・『周易』・『三伝』は、皆父子君臣の要道、十倫五教の宏綱にして、日月の下臨するが如く、天地の大徳、百王是れ式と為し、終古攸く遵ふ。然れども多くは言を記し、罕に法制を存す。愚管窺測して、高深に達せず、輒ち荒虚を肆ひ、誠に億度を為す。毎に懵学を念ひ、政経を探る莫く、略かに歴代の衆賢の著論を観るに、多くは紊失の弊を陳べ、或いは匡拯の方を闕く。臣既に庸浅なれば、寧くんぞ損益を詳らかにせん、其の始を原ふること未だ、其の終を暢ふること莫し。尚お周氏の典礼に頼り、秦皇は蕩滅して尽さず、縦ひ繁雑有るとも、且く準縄を用ふ。往昔の是非に至りては、来今の亀鏡と為す可く、方冊に布くも、亦粗く研尋す。頃より纘修して、年三紀を踰え、識寡く思拙く、心昧く辞蕪し。図籍実に多く、事目少からず、将に事功を畢へんとし、乖疏に愧づること無からんとす。固より大猷を発揮するに足らず、但だ愚を竭くし慮を尽くすのみ。書凡そ九門、計貳百巻、敢へず不具さず上献し、庶くは鄙誌の之く所を明らかにせん。聖聴を塵瀆し、兢惶措く所無し。

優詔して之を嘉し、命じて書府に蔵む。其の書は時に大いに伝はり、礼楽刑政の源、千載指諸の掌の如く、大いに士君子の称する所と為る。

佑は性勤にして倦むこと無く、位将相に極ると雖も、手巻を釈かず。質明に事を視、賓客に接対し、夜は則ち灯下に書を読み、孜孜として怠らず。賓佐と談論するに、人は其の辯を憚りて其の博に伏し、設ひ疑誤有るも、亦能く質正す。始終の言行、玷缺する所無し。唯だ淮南に在りし時、妻梁氏亡き後、嬖妾李氏を升めて正室と為し、密国夫人に封ず。親族子弟之を言ふも従はず、時論之を非とす。

三子有り。師損嗣ぐ。位は終に司農少卿。

子は式方。

式方は、字を考元という。門蔭により揚府参軍に任ぜられ、常州晋陵尉に転じた。浙西観察使王緯が召し出して従事とし、入朝して太子通事舎人となり、太常寺主簿に改めた。鐘律に明練で、考定するところがあり、深く高郢に賞された。時に父(杜佑)が揚州を鎮守し、家財は巨万、甲第は安仁里にあり、杜城に別荘があり、亭館林池は城南の最たるものであった。兄弟は皆朝廷にあり、時の賢者と遊び従い、楽しみながら節度があった。やがて杜佑が中書に入ると、出て昭応令となった。父の喪に服し、服喪が終わると、司農少卿に遷り、金紫を賜り、正議大夫・太僕卿を加えられた。時に末子の悰が公主を選尚したため、式方は右戚として病を理由に政務を見なかった。久しくして、穆宗が即位すると、兼御史中丞に転じ、桂管観察都防禦使を充任した。長慶二年三月、任上で卒し、礼部尚書を贈られた。

式方は性質孝友で、兄弟ことに睦まじかった。末弟の従郁は、若い時多く病気であったが、式方は常に自ら煎じ調合し、薬膳や飲み物は、式方の手を経ないものは口に入れなかった。従郁が夭逝すると、終年号泣し、ほとんど情に堪えず、士友はこれを称えた。

子に惲・憓・悰・恂がいる。惲が嗣ぎ、富平尉となった。憓は興平尉となった。

式方の子、悰。

悰は、門蔭により三遷して太子司議郎となった。元和九年、公主を選尚し、麟徳殿で召見された。まもなく岐陽公主を尚し、銀青光禄大夫・殿中少監・駙馬都尉を加えられた。岐陽公主は、憲宗の長女で、郭妃の生んだところである。

近頃公主の選尚は、多くは貴戚、あるいは武臣節将の家からであった。時に翰林学士の独孤郁は、権徳輿の女婿であり、時徳輿が宰相となっていたので、郁は嫌疑を避けて内職を辞した。上(憲宗)は学士を重んじ、已むを得ずこれを許し、かつ徳輿に佳婿ありと嘆じ、遂に宰臣に命じて卿士の家から文雅の士で清列に居ることのできる者を選尚させた。初め文学の後進の中から選択したが、皆病気を理由に応じず、ただ悰のみが願った。累遷して司農卿に至った。太和六年、京兆尹に転じた。七年、検校刑部尚書となり、出て鳳翔尹・鳳翔隴右節度使となった。母の喪に服し、八年、起復して忠武軍節度使・陳許蔡観察等使を授けられ、就いて兵部尚書を加えられた。開成初め、入朝して工部尚書・判度支となった。折しも岐陽公主が薨じ、久しくして(朝廷への)謝礼を行わなかった。文宗が怪しみ、左右に問うた。戸部侍郎李玨が対えて言うには、「近ごろ駙馬は公主のために斬衰三年の服を着けます。士族の家が国戚となることを願わないのは、半ばこのためです。杜悰が謝礼を行わないのは、この服紀に拘っているからです。」上は愕然として言った、「私は初めて知らなかった。」そこで詔して言った、「喪服の軽重は、必ず典礼による。聞くところによれば、かつて駙馬が公主のために三年の服を着けたが、情による義としては、殊に故実ではなく、経に違う制度を、今になって知った。宜しく杖周(一年)を行わせ、永く通制とすべし。」三年、戸部尚書に改め、兼ねて戸部度支事を判じた。会昌年中、中書侍郎・同中書門下平章事に拝され、まもなく左僕射を加えられた。

大中初め、出て西川を鎮め、先に吐蕃に没した維州を降した。州は即ち古の西戎の地であり、その地は南は江陽に界し、岷山は嶺を連ねて西に走り、その極まりを知らず。北に隴山を望めば、積雪玉の如し。東に成都を望めば、井底に在るが如し。地は石紐山に接し、夏の禹が石紐山に生まれたというのがこれである。その州は岷山の孤峰にあり、三面江に臨む。天宝の後、河・隴相継いで陥ち、ただこの州のみが存した。吐蕃はその険要を利し、二十年の間、計略をもってこれを得、遂にその城を占拠し、因って「無憂城」と号した。吐蕃はこれによって邛・蜀の兵を憂えなかった。先に、李徳裕が西川を鎮めた時、維州の吐蕃首領悉怛謀が城を挙げて降って来たので、徳裕はこれを奏上した。執政者は徳裕と協せず、急いでその城を還すよう命じた。この時に至って再びこれを収めたが、また兵刃によるのでなく、乃ち人情の帰するところであった。まもなく再び入相し、司空を加えられ、引き続き司徒を加えられ、重藩を歴鎮した。この時に至って太傅・邠国公を加えられた。悰に他に才なく、常に寒素を引き受け接し、甘食して位を窃むのみであった。

式方の末弟、従郁。

従郁は、門蔭により貞元末に再遷して太子司議郎となった。元和初め、左補闕に転じた。諫官の崔群・韋貫之・独孤郁らは、従郁が宰相の子であることを以て、諫官に合わないとし、乃ち降授して左拾遺とした。群らが再び執って言うには、「拾遺と補闕とは、資品に殊があるとはいえ、皆諫列の名である。父が宰相で、子が諫官では、もし政に得失があれば、子に父を論ぜしめることはできない。」乃ち秘書丞に改め、終に駕部員外郎となった。

従郁の子、顗。

子に牧・顗があり、共に進士第に登った。顗は後に目を病んで卒した。

従郁の子、牧。

牧は、字を牧之といい、既に進士に擢第し、また制挙で乙第に登り、弘文館校書郎に初任し、左武衛兵曹参軍を試みた。沈伝師が江西宣州を廉察した時、牧を召し出して従事・試大理評事とした。また淮南節度推官・監察御史裏行となり、掌書記に転じた。まもなく真に監察御史に拝され、分司東都し、弟の顗が目を病んだため官を棄てた。宣州団練判官・殿中侍御史・内供奉を授けられた。左補闕・史館修撰に遷り、膳部・比部員外郎に転じ、並びに史職を兼ねた。出て黄・池・睦の三郡を牧し、再び司勲員外郎・史館修撰に遷り、吏部員外郎に転じた。また弟の病気により免職帰郷した。湖州刺史を授けられ、入朝して考功郎中・知制誥に拝され、年中に中書舎人に遷った。牧は読書を好み、詩文に巧みで、嘗て自ら経緯の才略を負うところがあった。武宗朝に昆夷・鮮卑を誅するに当たり、牧は宰相に上書して兵事を論じ、「胡戎の入寇は、秋冬の間にあり、盛夏には備えがないので、五、六月中に胡を撃つのが便宜である」と言った。李徳裕はこれを称した。曹公(曹操)の定めた『孫武十三篇』に注して世に行われた。

牧の従兄の悰が時に隆盛であったが、牧は下位に居り、心に常に楽しまなかった。知命(五十歳)に及ぼうとして、病を得、自ら墓誌・祭文を作った。また嘗て夢に人に告げられて言うには、「汝の名は畢(終わる)と改めよ。」一ヶ月余りして、奴が家から来て告げて言うには、「炊ぐことが将に熟せんとして甑が裂けた。」牧は言った、「皆不祥である。」まもなくまた夢に紙に行書して言うには、「皎皎たる白駒、彼の空谷に在り。」覚めて嘆いて言った、「これは過隙(光陰の速やかなこと)である。我は角(星宿)に生まれ、徴(?)還って角に至る、第八宮となる、我の甚だ厄である。我は湖州の守より舎人に遷り、木還って角に至る、足りる。」その年、病により安仁里で終わり、年五十。集二十巻あり、『杜氏樊川集』と言い、世に行われた。子の徳祥は、官は丞郎に至った。

史臣曰く

史臣曰く、黄裳は道をもって君に仕え、誠を以て主に奉じ、懐光の詐りを弁じ、全義の征を罷む。賊辟の兇を討ち、挙げて遺算無く、執誼の柩を葬り、豈に仁ならずやと言わんや。郢は天より授けられた性、総角の年、父の命に代わりて臨刑に臨み、孝なり。懐光の乱、王人傷つけられ、賊庭に於いて巣父を撫で、義なり。浮濫の流れを抑え、芸文の士を考へ、幽滞を尽く搜し、時風を大いに変へ、正なり。止足の名を保ち、栄辱の路を辞し、世利を高く避け、昔賢の遠き跡を踏む、智なり。忠孝全うし、仁智備はる。此の二子は、皆大節に臨みて奪うべからざるなり。佑は廕を承けて仕へ、獄を讞じて知られ、古に博く今に該ひ、忠を輸して用ひられ、位は極品に居り、栄は子孫に逮ぶ。操修の報、亦た宜ならずや。其の賓僚法を紊し、嬖妾封を受くるに及びては、事重く因循し、正を語るに難きかな。牧の文章、悰の長厚、能ふと否と既に異なり、才と位と倫ならず、命なるかな。

賛に曰く、貞公壮節、難に臨みて奮発す。言行に瑕無く、是れ明哲と為す。乱を戡へ俗を阜くし、時に泰くして位隆し。国の名臣、鄭公・岐公。