旧唐書
巻一百四十六、列伝第九十六 薛播 鮑防 李自良 李説 厳綬 蕭昕 杜亜 王緯 李若初 于頎 盧徴 楊憑 鄭元 杜兼 裴玢 薛伾
薛播
薛播は、河中宝鼎の人であり、中書舎人薛文思の曾孫である。父の薛元暉は什邡県令となり、薛播の功により工部郎中を追贈された。薛播は天宝年間に進士に挙げられ、校書郎を補し、累進して万年県丞・武功県令・殿中侍御史・刑部員外郎・万年県令を授かった。薛播は温厚で機敏であり、人と交わることを善くし、李棲筠・常袞・崔祐甫はいずれも彼を引き立てた。崔祐甫が政を補佐するに及んで、中書舎人に任用された。汝州刺史として出向し、公事により泉州刺史に貶められた。まもなく晋州刺史に任じられ、河南尹となり、尚書左丞に遷り、礼部侍郎に転じた。病に遇い、貞元三年に卒し、礼部尚書を追贈された。
初め、薛播の伯父薛元曖は隰城丞の任で没し、その妻の済南林氏は、丹陽太守林洋の妹であり、母儀としての令徳を備え、広く『五経』に渉猟し、文を綴ることを善くし、その為した篇章は、当時の人々多くこれを諷詠した。薛元曖が卒した後、その子の薛彦輔・薛彦国・薛彦偉・薛彦雲及び薛播の兄薛據・薛摠は皆早く孤児となり幼かったが、悉く林氏に訓導され、成長に至り、皆文学の名声を致した。開元・天宝の二十年間のうちに、薛彦輔・薛据等七人は皆進士に挙げられ、科名を連ねて及第し、士大夫はこれを栄誉とした。
鮑防
鮑防は、襄州の人である。幼くして孤貧であったが、志篤く学を好み、文を綴ることを善くした。天宝末に進士に挙げられ、浙東観察使薛兼訓の従事となり、累進して殿中侍御史に至った。朝廷に入り職方員外郎となり、太原少尹に改め、正式に節度使に拝された。朝廷に入り御史大夫となり、福建・江西観察使を歴任し、左散騎常侍に徴されて拝された。奉天に扈従し、礼部侍郎に任じられ、まもなく工部尚書に遷り致仕した。
鮑防は洪州・福州・京兆を歴任し、皆政声があったが、ただ軍を総べることはその宜しきに非ず、誤って兵権を執った。太原は革車胡騎が雄壮に雑居し、回鶻が深く侵入して寇掠したので、鮑防は出て拒戦したが、虜に敗北させられた。礼部侍郎であった時、かつて知雑侍御史竇参に通衢で遇い、先導の騎兵が時に応じて避けず、僕人が竇参に鞭打たれた。竇参が政を執るに及んで、急ぎ致仕を命じた。鮑防は親友に謂って言う、「我は蕭昕の子と年齢を同じくし、蕭昕と同日に車を懸けて致仕するのは、老朽衰邁によるのではなく、余憤によって廃されるのである」と。鮑防は文学の旧人であり、朝廷内外の職を歴任したが、罪過によるのではなく、俗吏によって排斥され、竟に憤りを以て終わった。衆人は鮑防を甚だ憫み竇参を咎めたので、竇参の敗亡は踵を返す間もなく、不幸ではなかったのである。
李自良
李自良は、兗州泗水の人である。初め、安禄山の乱に際し、李自良は兗鄆節度使能元皓に従い、戦功により累進して右衛率を授かった。後に袁傪に従い袁晁・陳莊の賊を討ち、功を積んで試殿中監に至り、浙江東道節度使薛兼訓に隷属した。薛兼訓が太原に移鎮すると、李自良は従って行き、河東軍節度押衙を授かった。薛兼訓が卒すると、鮑防が代わり、また鮑防に事えて牙将となった。時に回鶻が侵入し、鮑防は大将焦伯瑜・杜栄国に兵を率いてこれを撃たせた。李自良は鮑防に謂って言う、「回鶻は遠来して戦を求めるので、争鋒すべからず。ただ帰路に二つの塁を築き、兵を以てこれを守り、堅く壁を守って動かず、虜は戦を得ず、師老いて自ら退く。その返るを俟ち、即ちこれを乗ずれば、甚だしく捷たずとも、虜は必ず狼狽するであろう。二塁がその帰路を扼するは、策の上なるものなり」と。鮑防は従わず、焦伯瑜等を促して逆戦させ、百井で虜に遇った。焦伯瑜等は大敗して還り、これにより次第に知名となった。馬燧が鮑防に代わって帥となると、李自良を代州刺史・兼御史大夫に署して奏し、なお軍候とした。李自良は勤勉で謀あり、馬燧は深く委任信頼した。建中年間、田悦が叛くと、馬燧は李抱真とともに東討し、李自良は常に河東の大将として、鋒を摧き陣を陷れ、田悦を破った。及び河中において李懐光を討つに及び、李自良は専ら河東軍の都将となり、前後の戦績が多かった。馬燧が功名を立てるは、李自良の協力輔佐の力によるものである。
貞元三年、馬燧に従って朝廷に入り、馬燧の兵権を罷めると、徳宗は李自良を以て馬燧に代えようとした。李自良は馬燧に事えること久しいことを懇ろに辞し、軍帥に代わることを欲せず、世間の議論はこれを称え、右龍武大将軍を授かった。徳宗は河東が胡戎に密邇し、帥を選ぶことが難しいと考え、翌日、李自良が謝すると、上はこれに謂って言う、「卿は馬燧に対して軍中の事分を存するは、誠に礼を得たり。然れども北門の寄託は、卿に易えるものなし」と。即日に検校工部尚書・兼御史大夫・太原尹・北都留守・河東節度支度営田観察使を拝した。鎮において九年、簡倹をもって職を守り、軍民ともに悦んだ。戎伍の出身ながらも、動くごとに必ず法に循い、少しも暴戾を以て人に加えなかった。十一年五月、軍中に卒し、年六十三、上は甚だこれを嗟惜し、一日朝を廃し、左僕射を追贈し、布帛米粟を賻して差等があった。
李説
李説は、淮安王李神通の裔である。父の李遇は、天宝年間に御史中丞となった。李説は門蔭により歴任し、累ねて使幕を佐けた。馬燧が河陽三城・太原節度使となると、皆これを従事として辟召した。累転して御史郎官・御史中丞・太原少尹となり、汾州刺史として出向した。節度使李自良がまたこれを太原少尹・検校庶子・兼中丞に奏した。
貞元十一年五月、李自良が病み、凡そ六日にして卒した。喪を匿し、病甚だしと偽って言い、数日後に発喪した。これに先立ち、都虞候張瑶は久しく軍中にあり、平素より兵士の心を得ており、かつて仮を請うて葬を遷そうとしたが、李自良は許さなかった。ここに至り、李説は監軍王定遠と謀り、乃ち張瑶に仮を与え、大将毛朝陽を以て張瑶に代え、然る後に使者を遣わして李自良の病を告げた。中使第五国珍が雲州・朔州より使いを終えて還り、太原を過ぎ、李自良の病を聞き、中使は信宿遅留した。李自良が卒すると、第五国珍は急ぎ馳せて京に至り、李説の使者に先んじた。乃ち制を下して通王を以て河東節度大使と領せしめ、李説を行軍司馬とし、節度留後・北都副留守を充てた。なお第五国珍に李説の官告及び軍府の将吏部内の刺史等の敕書三十余通を齎し、太原に往き宣賜せしめ、軍中は始めて定まった。
定遠は立説の功を恃み、頗る縦横に恣にし、軍政は皆自ら専決し、仍て印を賜うことを請う。監軍に印有るは、定遠より始まるなり。定遠既に印を得て、益々暴にし、将吏を輒ち自ら補授し、説は次第に歓ばず、遂に嫌隙を成す。是の歳七月、定遠は虞候田宏を署して列将と為し、以て彭令茵に代わらしむ。令茵は伏せず、揚言して曰く、「超えて列将を補するは、功に非ざれば不可なり、宏に何の功か有らん、敢えて予が任に代わらんや!」と。定遠聞きて怒を含み、令茵を召して之を斬り、馬糞の中に埋む。家人屍を請うも、与えず、三軍皆怨む。説具に以て事を聞かしむ。徳宗は定遠に奉天扈従の功有るを以て、死を恕して任を停む。制未だ至らざるに、定遠は説の奏聞を怒り、府に趨りて説を謀殺せんとし、堂に升り未だ坐せざるに、刀を抽いて説を刺す。説走りて免るることを得たり。定遠馳せて府門に至り、将吏を召集し、箱の中に敕牒官告二十余軸を陳べて、諸将に示して曰く、「敕有り、李景略をして留後を知らしめ、説を遣わして京に赴かしむ、公等皆恩命有り」と。箱中を指して之を示す。諸将方に拝抃せんとす、大将馬良輔呼びて衆を麾して曰く、「箱中は皆監軍の旧き官告なり、恩命に非ず、受くべからず、但だ急変を備うるのみ」と。定遠事の敗るるを知り、走りて乾陽楼に登り、其の部下の将卒を召すも、多く之に応ぜず。夜に比し、定遠城下の槎枿に墜ち、傷つきて死せず。尋て詔有りて削奪し、長く崖州に流す。大将高迪等其の謀に同ず、説皆之を斬る。尋て正しく河東節度使を拝し、検校礼部尚書と為る。
説鎮に在ること六年、初め吏職に心を勤めしも、後疾に遇い、言語行歩蹇澀にして、軍府の政を録する能わず、悉く監軍之を主る。又孔目吏宋季等に欺誑せられ、軍政の事多く隳紊し、此の如く累年す。十六年十月卒す、年六十一、朝を廃すること一日、左僕射を贈る。
是の月、制を以て河東節度行軍司馬鄭儋を検校工部尚書と為し、兼ねて太原尹・御史大夫・河東節度度支営田観察等使・北都留守と為す、任に在ること期年に満たずして卒す。
厳綬
厳綬は蜀の人なり。曾祖方約は利州司功。祖挹之は符離尉。父丹は殿中侍御史。綬は大曆中進士第に登り、累ねて使府に佐く。貞元中、侍御史より宣歙団練副使を充て、深く其の使劉贊の委遇を受け、政事多く諮訪す。十二年、贊卒す、綬宣歙留務を掌り、府蔵を傾けて進献す、是より恩有り、召されて尚書刑部員外郎と為る。天下の賓佐進献するは、綬より始まるなり。
未だ幾ばくもせず、河東節度使李説疾を嬰り、事多く曠弛す。行軍司馬鄭儋代わって軍政を綜ぶ。既にして説卒す、因りて儋に河東節度使を授く。是の時四方の諸侯を姑息し、未だ嘗て特命に帥守をせず、物故すれば即ち行軍司馬を以て帥と為し、軍情の厭伏を冀う。儋既に帥と為り、徳宗朝士の中より儋に代わりて行軍司馬と為るべき者を選ぶ。綬の前日の進献に因り、上頗る之を記す、故に検校司封郎中を命じ、河東行軍司馬を充てしむ。歳を周へず、儋卒す、綬を銀青光禄大夫・検校工部尚書に遷し、兼ねて太原尹・御中大夫・北都留守と為し、河東節度支度営田観察処置等使を充てしむ。元和元年、楊恵琳夏州に叛き、劉辟成都に叛く、綬表を上りて師を出し討伐することを請う。綬悉く精甲を選び、牙将李光顔兄弟に付す、光顔累ねて戦功を立つ。蜀・夏平ぐ、綬に検校尚書左僕射を加う。尋て司空を拝し、階を金紫に進め、扶風郡公に封ず。綬鎮に在ること九年、寛恵を以て政と為し、士馬蕃息し、境内治まりを称す。
四年、入りて尚書右僕射を拝す。綬は名家の子と雖も、吏として方略有り、然れども勢利に鋭く、名節を存せず、人士此を以て之を薄しむ。嘗て百僚廊下の食に預かる、上中使馬江朝をして桜桃を賜わしむ。綬両班の首に居り、方鎮に在りし時江朝を識り、語を叙する次に、膝を屈して拝するを覚えず、御史大夫高郢も亦従いて拝す。是の日、御史に劾せられ、綬朝に待罪す、命じて之を釈す。翌日、江朝を責め、官一等を降す。尋て出でて荊南を鎮め、鄭国公に進封す。漵州蛮首張伯靖と云う者有り、長吏を殺し、辰・錦等州を拠り、九洞を連ねて以て自ら固めしむ、詔して綬に兵を出して之を討たしむ。綬部将李忠烈を遣わし書を齎して曉諭し、尽く之を招降す。
九年、呉元済叛く、朝議兵を加えんとし、綬に弘恕の称有るを以て、戎柄を委ねるべしとし、乃ち山南東道節度使を授け、尋て淮西招撫使を加う。綬自ら師を帥いて賊境に圧すも、威略無く以て寇を制す。軍に到る日、遽かに公蔵を発して以て士卒を賞し、累年の蓄積、一旦にして尽くす。又厚く中貴人に賂して以て声援を招く。師徒万余、壁を閉ざすのみにして、年を経て尺寸の功無し。裴度上に見え、屡りに綬は将帥の才に非ず、戎事を以て責むべからずと言う。乃ち太子少保を拝して代わりて帰らしむ。尋て検校司空と為る。久しくして位を太傅に進め、封を食むこと三千戸に至る。長慶二年五月卒す、年七十七、詔して太保を贈る。
綬材器は常品を逾えず、兄嫂に事えること過ぎて謹み、時に称せらる。常に寛柔を以て自ら持ち、位は上公に躋り、年は大耋に至る。前後三鎮を統臨し、皆雄藩と号す。親しく士を親しみ将相と為るを睹る者凡そ九人、其の貴寿此の如し。
蕭昕
蕭昕は河南の人なり。少くして崇文進士を補す。開元十九年、首めて博学宏辞に挙げられ、陽武県主簿を授かる。天宝初、復た宏辞に挙げられ、寿安尉を授かり、再び左拾遺に遷る。昕嘗て布衣張鎬と善くし、館して之を礼し、表を上りて之を薦めて曰く、「鎬の如き者は、之を用うれば則ち王者の師と為り、用いざれば則ち幽谷の一叟なる爾」と。玄宗鎬を擢て拾遺と為し、数年を数えずして将相に出入す。及び安禄山反す、昕は賛善大夫来瑱を挙げて将帥に堪えたりとす。思明の乱、瑱功多くを占む。累ねて憲部員外郎に遷り、副元帥哥舒翰の書記を掌る。潼関敗れ、間道より蜀に入り、司門郎中に遷る。尋て安陸長史を兼ね、河南等道都統判官と為る。中書舎人に遷り、揚府司馬を兼ね、軍を佐くること仍って旧く、入りて本官を拝し、累ねて秘書監に遷る。代宗陜に幸す、昕武関を出でて行在に詣り、国子祭酒に転ず。大曆初、節を持ちて回鶻を弔う。時に回鶻は功を恃み、廷にて昕を詰めて曰く、「禄山・思明の乱、我に非ざれば以て平定せず、唐国奈何ぞ馬を市して信を失い、時に価を帰さざるや」と。衆皆失色す。昕答えて曰く、「国家自ら寇難を平げ、功を賞するに絲毫の遺れ無し、況んや隣国をや。且つ僕固懐恩は我が叛臣なり、乃ち爾は助けて乱を為し、西戎に聯りて郊畿を犯す。及び吐蕃敗走し、回紇悔懼し、顙を啓きて和を乞う。大唐旧功を存念せざれば、則ち当に匹馬も塞を出づるを得ざるべし。是れ回紇自ら絶つなり、我が信を失うに非ず」と。回紇慚じて退き、礼を加えて帰し、常侍と為る。十二年、朱泚の乱、徒歩にて城を出づ。泚急に之を求め、山谷の間に亡竄す。奉天に至り、太子少傅に遷る。貞元初、礼部尚書を兼ね、尋て復た貢挙を知る。五年、致仕す。七年、家に卒す、年九十、朝を廃し、諡して懿と曰う。
杜亜
杜亞は、字を次公といい、自ら京兆の人であると称した。若い頃から学問に広く通じ、事物の道理や歴代の成敗の事柄を論じることを得意とした。至徳初年(756年)、霊武において上書を献じて政事を論じ、校書郎に任じられた。その年、杜鴻漸が河西節度使となると、彼を辟召して従事とし、累進して評事・御史となった。後に朝廷に入り、工部・戸部・兵部・吏部の四員外郎を歴任した。永泰末年(765年)、剣南で叛乱が起こると、杜鴻漸は宰相として山南・剣南副元帥を兼ね、杜亞と楊炎をともに判官とした。使命を終えて帰還すると、吏部郎中・諫議大夫に任じられた。楊炎は礼部郎中・知制誥・中書舎人となった。杜亞は自ら才能が宰相の任にふさわしいと考え、諫議大夫となったものの、内心は喜ばなかった。李棲筠が恩寵を受け、衆望が宰相となるに違いないと、杜亞は深く彼と結んだ。元載が罪を得ると、杜亞は劉晏・李涵ら七人とともに彼を審問した。元載が死んだ翌日、杜亞は給事中・河北宣慰使に転じた。宰相の常袞もまた杜亞を快く思わず、一年余りして、洪州刺史・兼御史中丞・江西都団練観察使として出された。
徳宗が即位した初め、励精して賢才を求め、宦官を使者として杜亞を召し出した。杜亞は自ら推測して、必ずや宰相として召されるものと思い、行程を急いで進み、道中で人々と議論するたびに、言葉は宰相としての職務執行に及び、あるいは公事について諮問や依頼を受けると、杜亞はすべてそれを受け入れた。到着すると、帝は密かにこのことを知り、快く思わなかった。また奏上や応対の言辞が粗略で大雑把であったため、陝州観察使兼転運使として出された。まもなく河中・晋・絳等州防禦観察使に転じた。楊炎が宰相となると、劉晏が罪を得、杜亞は連座して睦州刺史に左遷された。
興元初年(784年)、召されて刑部侍郎に任じられた。揚州長史・兼御史大夫・淮南節度観察使として出された。当時は陳少遊の重税と奢侈・僭越の乱れを継いだ後であり、さらに新たに王紹の乱兵による掠奪に遭ったばかりであった。淮南の人々は、杜亞の到着を待ち望み、旧弊を革め、安寧を得られることを期待した。杜亞は自ら才能が三公や宰相の選に値すると考えながら、相次いで地方官に出され、志にかなわず、政事は多く参謀や佐官に委ね、賓客を招き寄せて談論するばかりであった。揚州の官河は土砂で埋まり、漕運が途絶えていた。また、移住してきた士族や工商らが多く道路を侵して邸宅を造り、旅人の往来が妨げられていた。杜亞はそこで河道を開拓し疏浚して、公私ともに喜び頼りとしたが、盛大に奢侈を行った。江南の風俗として、春の中頃に競渡の遊びがあり、船を並べて進め、急ぎ速く進む者を勝ちとした。杜亞はそこで漆を船底に塗るよう命じ、速く進むことを貴んだ。また綺羅の衣服を作り、油を塗って舟子に着させ、水に入っても濡れないようにした。杜亞はもともと書生でありながら、このように奢侈で放縱であったので、朝廷はたびたびこれを聞いた。
貞元五年(789年)、戸部侍郎の竇覦を淮南節度使として杜亞の後任とした。杜亞はなお旧来の声望があり、竇覦は彼を非常に恐れた。杜亞は検校吏部尚書に改められ、東都尚書省事を判り、東都留守・都防禦使を充任した。中風を患った後もなお、利益を立てて寵愛を固めようと、苑内の土地を開いて営田とし、軍糧を賄うよう奏請した。また度支が毎年供給するものを減らすことを請い、許された。杜亞は自ら部署せず、ただ判官の張薦・楊晪に委ねた。初め、荒地を取って営田とするよう奏請したが、苑内の土地で耕作に適したものは、すでに留司の宦官や軍人らによって開墾し尽くされていた。費用の計算が急を要したため、軍中の雑銭を取って利息を付けて畿内の百姓に貸し付け、毎年田畑の収穫期になると、多く軍人に車や牛をさせて村郷に散らばらせ、百姓が得た豆や粟を収め集めて軍に持ち帰らせた。民家はほとんど尽き、租税を納めることができず、人々は食糧に苦しみ、これによって多くが流散した。そこで杜亞は宦官に厚く賄賂を贈り、河南尹に善政がないと奏上させ、杜亞はこれより河南尹を兼ねることをもくろんだが、事は成就しなかった。帝は次第にその虚偽とでたらめを知り、礼部尚書の董晋を代わりに東都留守とし、杜亞を京師に召還した。中風が次第に深まり、また脚や膝の病を患い、朝謁に堪えられなかった。貞元十四年(798年)に自宅で卒去した。七十四歳。太子少傅を追贈された。
王緯
王緯は、字を文卿といい、太原の人である。祖父の王景は、司門員外郎・萊州刺史であった。父の王之咸は長安尉であり、兄弟の王之賁・王之渙とともに文章をよくした。王之咸は王緯が貴顕になったため、累贈されて刺史となった。王緯は明経に挙げられ、また書判で高等に入り、長安尉を歴任し、使府の佐官として出向し、御史郎官を授かり、朝廷に入って金部員外郎・剣南租庸使・検校司封郎中・彭州刺史・検校庶子・兼御史中丞・西川節度営田副使となった。初め、大曆年間(766-779年)に路嗣恭が江西観察使となり、判官の李泌を陥れて誅殺しようとした。王緯もまた路嗣恭の判官であったが、説得して救い解き、免れることができた。貞元三年(787年)、李泌が宰相となると、王緯を抜擢して給事中に任じた。数日も経たないうちに、また潤州刺史・兼御史中丞・浙江西道都団練観察使に抜擢した。十年(794年)、御史大夫を加えられ、諸道塩鉄転運使を兼ねた。三年後、検校工部尚書を加えられた。王緯は性来勤倹で、歴任した官職において清廉であったが、苛細に過ぎる欠点があり、多くは厳しく冷酷な官吏を用いて、管轄区域を監督巡察したため、人々は生きるに堪えなかった。貞元十四年(798年)に卒去した。七十一歳。一日朝儀を廃し、太子少保を追贈された。
李若初
李若初は、趙郡の人である。貞観年間の并州長史・工部侍郎李弘節の曾孫である。祖父の李道謙は太府卿であった。李若初は幼くして孤貧であり、初め転運使劉晏の下で微末な閑職に就いた。劉晏の判官包佶はその勤勉で有能なところを重んじ、娘を妻として与えた。陳州太康令を歴任した。刺史の李芃が初めて官に就いた時、李若初は献策し、余剰の銭物を収斂して権貴と交結するよう請うたので、李芃は彼を厚く遇した。数年後、李芃が河陽三城使に転じると、李若初を従事として奏請し、軍中の事柄を多く彼に委ねた。累進して検校郎中・兼中丞・懐州刺史を授かった。虢州刺史に転じたが、公事に坐して観察使に弾劾され、免官されて帰った。久しくして、衢州刺史として出され、福州刺史・兼御史中丞・福建都団練使に転じた。まもなく越州刺史・浙江東道都団練観察使に転じた。十四年(798年)秋、王緯に代わって潤州刺史・兼御史大夫・浙江都団練観察・諸道塩鉄転運使となった。吏道に長け、性格は厳しく強情で、力を尽くして部下を束ね統制したため、官吏や民衆は非常に畏服した。ちょうど塩法を整理し、かなり順序立てていた。貞元十五年(799年)、病気に遭って卒去した。一日朝儀を廃し、礼部尚書を追贈された。
于頎
于頎は、字を休明といい、河南の人である。父の于庭謂は済王府倉曹であり、累贈されて尚書左僕射となった。于頎は若くして吏事で知られ、累進して京兆府士曹となり、府尹の史翽に賞賛され重んじられた。史翽が襄州・漢水の地に出鎮すると、于頎を御史として奏請し、判官を充任させた。史翽が乱兵に殺されると、于頎は進み出て遺骸を収葬し、当時の人々は彼を義士とした。度支使の第五琦が彼を河東租庸使に任用し、累進して鳳翔少尹・度支郎中・兼御史中丞・転運租庸糧料塩鉄等使となった。于頎は汴州がたびたび兵乱に遭い、銭帛が散失したため、転運汴州院を河陰に移すよう奏上した。元載が諸道営田使となると、また郎官に任用し、東都・汝州において屯田を開設させた。戸部侍郎・秘書少監・京兆尹・太府卿を歴任し、杜済に代わって京兆尹となった。
大官となってからは、機略を好んで任用し、ひたすら権勢のある者に取り入り、朝廷の列に勢利のない者を見れば蔑視した。元載に媚び事えて親密となり、政務は苛細で大要を欠き、生母の喪に服して罷免された。元載が罪を得た後、鄭州刺史として出され、河南尹に遷り、政績なくして代わられて召還された。時に汾州刺史劉暹を召していた。暹は剛腸で悪を憎み、数州を歴任し、いずれも廉使に畏れられた。宰相盧杞は暹が御史大夫となることを恐れ、己の見解を損なうことを憂い、急ぎ頎を御史大夫に推薦し、その柔佞で制しやすいことを以てした。奉天に従駕し、左散騎常侍に改め、左千牛上將軍を歴任し、大理卿・太子少保・工部尚書に転じた。朝参中に地に仆れ、金吾仗衛に掖き起こされ、太子少師に改めて致仕した。貞元十五年卒、時に七十四歳。
盧徵
盧徵は范陽の人で、鄭州の中牟に家を置いた。少時より書記を渉猟した。永泰年中、江淮転運使劉晏に辟かれて従事となり、腹心の任を委ねられ、累ねて殿中侍御史を授けられた。劉晏が罪を得ると、珍州司戸に貶された。元琇もまた劉晏の門人で、興元年中、戸部侍郎・判度支となり、盧徵を京兆司録・度支員外に推薦した。元琇が罪を得ると、連座して信州長史に貶された。信州刺史に遷り、入朝して右司郎中となり、急遽給事中に遷った。戸部侍郎竇參は深く遇し、まさに自らの代わりとしようとした。貞元八年春、同州刺史が欠員となり、竇参は尚書左丞趙憬を補うことを請うたが、特詔で盧徵を用い、竇参の腹心を離間せんとした。数年して華州刺史に転じた。盧徵は再び任用されることを望み、中貴に深く結び付き、厚く贈り物をした。故事では、同州・華州は近地で民が貧しく、毎年の正月・端午・降誕の献上は甚だ薄かったが、盧徵はその財賦を尽くし、進献するごとに常例を加え、民は堪えられなかった。疾病で臥せりながら治めること数年、貞元十六年卒、時に六十四歳。
楊憑
楊憑は字を虚受といい、弘農の人である。進士に挙げられ、累ねて使府の佐官となった。監察御史に徴されたが、束縛を好まず、遂に免職を求めた。累ねて起居舎人・左司員外郎・礼部兵部郎中・太常少卿・湖南江西観察使に遷り、入朝して左散騎常侍・刑部侍郎・京兆尹となった。楊憑は文辞に巧みで、少時より気節を負い、同母弟の楊凝・楊凌と相友愛し、皆時に名があった。交遊を重んじ、然諾を尚び、穆質・許孟容・李鄘・王仲舒と友となり、故に時人は楊・穆・許・李の友と称し、仲舒は後進として慕って入った。性は簡傲を尚び、下に接することができず、これにより人多くこれを怨んだ。二鎮を歴任するに及んで、特に奢侈を事とした。
元和四年、京兆尹に拝され、御史中丞李夷簡に弾劾され、以前江西観察使としての贓罪及び他の不法の事を奏上された。勅して御史台に付して覆按せしめ、刑部尚書李鄘・大理卿趙昌が同しく台中で鞫問した。又、楊憑の以前の江西判官・監察御史楊瑗を捕えて台に繋ぎ、更に大理少卿胡珦・左司員外郎胡証・侍御史韋顗に同しく推鞫させた。詔して曰く、「楊憑は先朝において藩鎮に委ねられ、累ねて選用を経て、大官の位に列せり。近頃憲司が奏劾し、前事を暴揚するに、銭累万を計り、曾て聞かず、蒙蔽の罪、何をもって責を逃れん。又、居室を営建し、制度過差、侈靡の風、我が儉徳を傷つく。其れ自ら京邑を尹し、人頗るこれを懐くにより、刑書を議せんとし、是に憫惻を加う。宜しく遐譴に従い、以て百僚を誡むべし。賀州臨賀県尉同正を守らしめ、仍って馳駅して発遣せよ」。先に、楊憑が江西に在った時、李夷簡は御史から出て、官はその巡属に在った。楊憑は頗る疏縱で、顧みて接しなかった。李夷簡は常に歯ぎしりした。楊憑が朝に帰り、永寧里に第を修め、工事並びに興り、又、永楽里の別宅に妓妾を広く蓄え、時人大いに以て言うところとなった。李夷簡は衆議に乗じ、前事を挙劾し、且つ修営の僭を言い、将に之を殺さんとした。獄に下り、数日対置するも、其の事を得ず。李夷簡は之を執して益々急にし、上聞き、且つ貶し、旧従事を追って以て験せしめた。貞元以来方鎮に居る者は、徳宗に姑息せられた故に、窮極の僭奢に至り、畏懼する所無かった。憲宗即位に及び、法制を以て下に臨み、李夷簡が先ず楊憑の罪を挙げた故に、時議は以て宜しと為すも、然れども之を縛するに過ぎ、物論又其の深切を譏った。
鄭元
鄭元は進士第に挙げられ、累ねて御史中丞に遷った。貞元年中、河中節度使杜確の行軍司馬となった。杜確が卒すると、遂に継いで節度使となり、入朝して尚書左丞を拝した。元和二年、戸部侍郎・兼御史大夫・判度支に転じた。三年春、刑部尚書に遷り、京兆尹を兼ねた。九月、再び判度支と為り、前の如く刑部尚書・兼御史大夫であった。鄭元は性厳毅で威断有り、劇任を更践し、時に其の能を称された。元和四年、疾を以て職を辞し、本官を守り、一月余りして卒した。
杜兼
杜兼は京兆の人、貞観中の宰相杜正倫の五代孫である。進士に挙げられ、累ねて諸府の従事に辟され、濠州刺史を拝した。杜兼は性浮険で、豪侈にして気を矜った。貞元年中、徳宗が兵革を厭い、戎鎮を姑息したに属し、軍郡刺史に至っても更代を難しくした。杜兼は上情を探り、遂に卒を練り武を修め、勁勇三千人を占召して上聞し、乃ち兇威を恣にした。録事参軍韋賞・団練判官陸楚は皆、職を守り事を論じて杜兼に忤い、杜兼は密かに二人が通謀し、軍中を扇動すと誣奏した。忽ち制使有りて至り、杜兼は官吏を率いて駅中に迎え、先ず韋賞・陸楚を呼び出し、制を宣して杖殺した。韋賞は進士に擢第し、陸楚は兗公陸象先の孫で、皆名家、士林の誉れ有り、一朝無罪にて戮せられ、郡中股慄し、天下冤み嘆いた。又、李藩を誣奏し、将に之を殺さんとし、語は藩の事中に在り。故に杜兼の至る所、人側目した。元和初、入朝して刑部・吏部郎中となり、給事中を拝し、金商防禦使を除かれ、旋いて河南少尹・知府事を授かり、尋いで正しく河南尹を拝した。皆、杜佑が相位に在って借護した所である。元和四年、官に卒した。
裴玢
裴玢は京兆の人である。五代の祖は疏勒国王綽で、武德年中来朝し、鷹揚大将軍を授けられ、天郡公に封ぜられ、闕下に留まった為、遂に京兆人となった。裴玢は初め金吾将軍論惟明に事えて傔力となった。
徳宗が奉天に幸すに及び、戦功を以て忠義郡王に封ぜられた。論惟明が鄜坊を鎮め、累ねて裴玢を都虞候に署した。後、節度使王棲曜が卒し、中軍将何朝宗が乱を謀り、中夜火を放つと、裴玢は身を匿して火を救わず、遅明して朝宗を擒えた。徳宗は三司使を発して按問せしめ、竟に朝宗及び行軍司馬崔輅を斬り、同州刺史劉公済を節度使とし、裴玢を坊州長史・兼侍御史とし、行軍司馬を充てた。明年、公済が卒し、裴玢を鄜州刺史・兼御史大夫に拝し、節度観察等使を充てた。三年、山南西道節度観察等使に改めて授けられた。
裴玢は二鎮を歴任し、頗る公清苦節を以て政を為し、権幸と交わらず、貢献を務めず、蔬食敝衣、居処は風雨を避けるのみであったが、廩庫は饒実し、三軍百姓安業し、近代の将帥に比ぶる者無かった。綿疾に及び位を辞し、長安に帰ることを請うた。元和七年卒、年六十五、尚書左僕射を贈られ、諡して節と曰う。
薛伾
薛伾は、勝州刺史薛渙の子である。尚父汾陽王(郭子儀)が麾下に召し置き、諸将の間で著名となった。左僕射李揆が西蕃に使するに当たり、薛伾は将として従役した。時に賊朱泚の難があり、昆夷(吐蕃)が義に赴いたので、薛伾は馳せて騎を進め郷導し、武功に至り、左威衛将軍に擢げ授けられた。絶域に使すること前後数四回、累遷して左金吾衛大将軍・検校工部尚書・将作監を兼ね、出でて鄜坊観察使となった。元和八年、官にて卒し、潞州大都督を贈られた。
史臣曰く
史臣曰く、薛播は温敏にして文あり、鮑防は戎を董(おさ)むるに術無く、李暠・厳震の太原の政は、美なりと謂うべし。蕭昕は則哲の知を抱き、杜亞は非次の望を懐く。王緯は清潔にして苛碎を傷(そこな)い、李若初は善く理(おさ)むるも性剛厳なり。于頎は好んで機権を任じ、勢利に趨附す。盧徴は厚く貨賄を斂め、中人に結托す。楊憑は奢を好み、鄭元は断あり。杜兼は端士を殺戮し、乱に怙(たの)みて君を邀(もと)む。裴玢は奸謀を発し、民を安んじ衆を和す。而して裴玢は衣を敝(やぶ)れ食を糲(あら)くし、権幸と交わらず、帑庾咸(みな)実にして、郡邑以て寧し。若し夫れ君子は人に求めて備えず、短を捨て長に従い、善を彰し悪を癉すは、則ち裴玢の善は、これを抑えて更に揚がり、杜兼の悪は、蓋わんと欲して却って彰るるのみ。