卷一百四十六
薛播
初め、薛播の伯父薛元曖は隰城丞の任で没し、その妻の済南林氏は、丹陽太守林洋の妹であり、母儀としての令徳を備え、広く『五経』に渉猟し、文を綴ることを善くし、その為した篇章は、当時の人々多くこれを諷詠した。薛元曖が卒した後、その子の薛彦輔・薛彦国・薛彦偉・薛彦雲及び薛播の兄薛據・薛摠は皆早く孤児となり幼かったが、悉く林氏に訓導され、成長に至り、皆文学の名声を致した。開元・天宝の二十年間のうちに、薛彦輔・薛据等七人は皆進士に挙げられ、科名を連ねて及第し、士大夫はこれを栄誉とした。
鮑防
鮑防は、襄州の人である。幼くして孤貧であったが、志篤く学を好み、文を綴ることを善くした。天宝末に進士に挙げられ、浙東観察使薛兼訓の従事となり、累進して殿中侍御史に至った。朝廷に入り職方員外郎となり、太原少尹に改め、正式に節度使に拝された。朝廷に入り御史大夫となり、福建・江西観察使を歴任し、左散騎常侍に徴されて拝された。奉天に扈従し、礼部侍郎に任じられ、まもなく工部尚書に遷り致仕した。
鮑防は洪州・福州・京兆を歴任し、皆政声があったが、ただ軍を総べることはその宜しきに非ず、誤って兵権を執った。太原は革車胡騎が雄壮に雑居し、回鶻が深く侵入して寇掠したので、鮑防は出て拒戦したが、虜に敗北させられた。礼部侍郎であった時、かつて知雑侍御史竇参に通衢で遇い、先導の騎兵が時に応じて避けず、僕人が竇参に鞭打たれた。竇参が政を執るに及んで、急ぎ致仕を命じた。鮑防は親友に謂って言う、「我は蕭昕の子と年齢を同じくし、蕭昕と同日に車を懸けて致仕するのは、老朽衰邁によるのではなく、余憤によって廃されるのである」と。鮑防は文学の旧人であり、朝廷内外の職を歴任したが、罪過によるのではなく、俗吏によって排斥され、竟に憤りを以て終わった。衆人は鮑防を甚だ憫み竇参を咎めたので、竇参の敗亡は踵を返す間もなく、不幸ではなかったのである。
李自良
李自良は、兗州泗水の人である。初め、安禄山の乱に際し、李自良は兗鄆節度使能元皓に従い、戦功により累進して右衛率を授かった。後に袁傪に従い袁晁・陳莊の賊を討ち、功を積んで試殿中監に至り、浙江東道節度使薛兼訓に隷属した。薛兼訓が太原に移鎮すると、李自良は従って行き、河東軍節度押衙を授かった。薛兼訓が卒すると、鮑防が代わり、また鮑防に事えて牙将となった。時に回鶻が侵入し、鮑防は大将焦伯瑜・杜栄国に兵を率いてこれを撃たせた。李自良は鮑防に謂って言う、「回鶻は遠来して戦を求めるので、争鋒すべからず。ただ帰路に二つの塁を築き、兵を以てこれを守り、堅く壁を守って動かず、虜は戦を得ず、師老いて自ら退く。その返るを俟ち、即ちこれを乗ずれば、甚だしく捷たずとも、虜は必ず狼狽するであろう。二塁がその帰路を扼するは、策の上なるものなり」と。鮑防は従わず、焦伯瑜等を促して逆戦させ、百井で虜に遇った。焦伯瑜等は大敗して還り、これにより次第に知名となった。馬燧が鮑防に代わって帥となると、李自良を代州刺史・兼御史大夫に署して奏し、なお軍候とした。李自良は勤勉で謀あり、馬燧は深く委任信頼した。建中年間、田悦が叛くと、馬燧は李抱真とともに東討し、李自良は常に河東の大将として、鋒を摧き陣を陷れ、田悦を破った。及び河中において李懐光を討つに及び、李自良は専ら河東軍の都将となり、前後の戦績が多かった。馬燧が功名を立てるは、李自良の協力輔佐の力によるものである。
李説
李説は、淮安王李神通の裔である。父の李遇は、天宝年間に御史中丞となった。李説は門蔭により歴任し、累ねて使幕を佐けた。馬燧が河陽三城・太原節度使となると、皆これを従事として辟召した。累転して御史郎官・御史中丞・太原少尹となり、汾州刺史として出向した。節度使李自良がまたこれを太原少尹・検校庶子・兼中丞に奏した。
定遠は立説の功を恃み、頗る縦横に恣にし、軍政は皆自ら専決し、仍て印を賜うことを請う。監軍に印有るは、定遠より始まるなり。定遠既に印を得て、益々暴にし、将吏を輒ち自ら補授し、説は次第に歓ばず、遂に嫌隙を成す。是の歳七月、定遠は虞候田宏を署して列将と為し、以て彭令茵に代わらしむ。令茵は伏せず、揚言して曰く、「超えて列将を補するは、功に非ざれば不可なり、宏に何の功か有らん、敢えて予が任に代わらんや!」と。定遠聞きて怒を含み、令茵を召して之を斬り、馬糞の中に埋む。家人屍を請うも、与えず、三軍皆怨む。説具に以て事を聞かしむ。徳宗は定遠に奉天扈従の功有るを以て、死を恕して任を停む。制未だ至らざるに、定遠は説の奏聞を怒り、府に趨りて説を謀殺せんとし、堂に升り未だ坐せざるに、刀を抽いて説を刺す。説走りて免るることを得たり。定遠馳せて府門に至り、将吏を召集し、箱の中に敕牒官告二十余軸を陳べて、諸将に示して曰く、「敕有り、李景略をして留後を知らしめ、説を遣わして京に赴かしむ、公等皆恩命有り」と。箱中を指して之を示す。諸将方に拝抃せんとす、大将馬良輔呼びて衆を麾して曰く、「箱中は皆監軍の旧き官告なり、恩命に非ず、受くべからず、但だ急変を備うるのみ」と。定遠事の敗るるを知り、走りて乾陽楼に登り、其の部下の将卒を召すも、多く之に応ぜず。夜に比し、定遠城下の槎枿に墜ち、傷つきて死せず。尋て詔有りて削奪し、長く崖州に流す。大将高迪等其の謀に同ず、説皆之を斬る。尋て正しく河東節度使を拝し、検校礼部尚書と為る。
説鎮に在ること六年、初め吏職に心を勤めしも、後疾に遇い、言語行歩蹇澀にして、軍府の政を録する能わず、悉く監軍之を主る。又孔目吏宋季等に欺誑せられ、軍政の事多く隳紊し、此の如く累年す。十六年十月卒す、年六十一、朝を廃すること一日、左僕射を贈る。
是の月、制を以て河東節度行軍司馬鄭儋を検校工部尚書と為し、兼ねて太原尹・御史大夫・河東節度度支営田観察等使・北都留守と為す、任に在ること期年に満たずして卒す。
厳綬
四年、入りて尚書右僕射を拝す。綬は名家の子と雖も、吏として方略有り、然れども勢利に鋭く、名節を存せず、人士此を以て之を薄しむ。嘗て百僚廊下の食に預かる、上中使馬江朝をして桜桃を賜わしむ。綬両班の首に居り、方鎮に在りし時江朝を識り、語を叙する次に、膝を屈して拝するを覚えず、御史大夫高郢も亦従いて拝す。是の日、御史に劾せられ、綬朝に待罪す、命じて之を釈す。翌日、江朝を責め、官一等を降す。尋て出でて荊南を鎮め、鄭国公に進封す。漵州蛮首張伯靖と云う者有り、長吏を殺し、辰・錦等州を拠り、九洞を連ねて以て自ら固めしむ、詔して綬に兵を出して之を討たしむ。綬部将李忠烈を遣わし書を齎して曉諭し、尽く之を招降す。
綬材器は常品を逾えず、兄嫂に事えること過ぎて謹み、時に称せらる。常に寛柔を以て自ら持ち、位は上公に躋り、年は大耋に至る。前後三鎮を統臨し、皆雄藩と号す。親しく士を親しみ将相と為るを睹る者凡そ九人、其の貴寿此の如し。
蕭昕
杜亜
杜亞は、字を次公といい、自ら京兆の人であると称した。若い頃から学問に広く通じ、事物の道理や歴代の成敗の事柄を論じることを得意とした。至徳初年(756年)、霊武において上書を献じて政事を論じ、校書郎に任じられた。その年、杜鴻漸が河西節度使となると、彼を辟召して従事とし、累進して評事・御史となった。後に朝廷に入り、工部・戸部・兵部・吏部の四員外郎を歴任した。永泰末年(765年)、剣南で叛乱が起こると、杜鴻漸は宰相として山南・剣南副元帥を兼ね、杜亞と楊炎をともに判官とした。使命を終えて帰還すると、吏部郎中・諫議大夫に任じられた。楊炎は礼部郎中・知制誥・中書舎人となった。杜亞は自ら才能が宰相の任にふさわしいと考え、諫議大夫となったものの、内心は喜ばなかった。李棲筠が恩寵を受け、衆望が宰相となるに違いないと、杜亞は深く彼と結んだ。元載が罪を得ると、杜亞は劉晏・李涵ら七人とともに彼を審問した。元載が死んだ翌日、杜亞は給事中・河北宣慰使に転じた。宰相の常袞もまた杜亞を快く思わず、一年余りして、洪州刺史・兼御史中丞・江西都団練観察使として出された。
徳宗が即位した初め、励精して賢才を求め、宦官を使者として杜亞を召し出した。杜亞は自ら推測して、必ずや宰相として召されるものと思い、行程を急いで進み、道中で人々と議論するたびに、言葉は宰相としての職務執行に及び、あるいは公事について諮問や依頼を受けると、杜亞はすべてそれを受け入れた。到着すると、帝は密かにこのことを知り、快く思わなかった。また奏上や応対の言辞が粗略で大雑把であったため、陝州観察使兼転運使として出された。まもなく河中・晋・絳等州防禦観察使に転じた。楊炎が宰相となると、劉晏が罪を得、杜亞は連座して睦州刺史に左遷された。
興元初年(784年)、召されて刑部侍郎に任じられた。揚州長史・兼御史大夫・淮南節度観察使として出された。当時は陳少遊の重税と奢侈・僭越の乱れを継いだ後であり、さらに新たに王紹の乱兵による掠奪に遭ったばかりであった。淮南の人々は、杜亞の到着を待ち望み、旧弊を革め、安寧を得られることを期待した。杜亞は自ら才能が三公や宰相の選に値すると考えながら、相次いで地方官に出され、志にかなわず、政事は多く参謀や佐官に委ね、賓客を招き寄せて談論するばかりであった。揚州の官河は土砂で埋まり、漕運が途絶えていた。また、移住してきた士族や工商らが多く道路を侵して邸宅を造り、旅人の往来が妨げられていた。杜亞はそこで河道を開拓し疏浚して、公私ともに喜び頼りとしたが、盛大に奢侈を行った。江南の風俗として、春の中頃に競渡(ボートレース)の遊びがあり、船を並べて進め、急ぎ速く進む者を勝ちとした。杜亞はそこで漆を船底に塗るよう命じ、速く進むことを貴んだ。また綺羅の衣服を作り、油を塗って舟子に着させ、水に入っても濡れないようにした。杜亞はもともと書生でありながら、このように奢侈で放縱であったので、朝廷はたびたびこれを聞いた。
貞元五年(789年)、戸部侍郎の竇覦を淮南節度使として杜亞の後任とした。杜亞はなお旧来の声望があり、竇覦は彼を非常に恐れた。杜亞は検校吏部尚書に改められ、東都尚書省事を判り、東都留守・都防禦使を充任した。中風を患った後もなお、利益を立てて寵愛を固めようと、苑内の土地を開いて営田とし、軍糧を賄うよう奏請した。また度支が毎年供給するものを減らすことを請い、許された。杜亞は自ら部署せず、ただ判官の張薦・楊晪に委ねた。初め、荒地を取って営田とするよう奏請したが、苑内の土地で耕作に適したものは、すでに留司の宦官や軍人らによって開墾し尽くされていた。費用の計算が急を要したため、軍中の雑銭を取って利息を付けて畿内の百姓に貸し付け、毎年田畑の収穫期になると、多く軍人に車や牛をさせて村郷に散らばらせ、百姓が得た豆や粟を収め集めて軍に持ち帰らせた。民家はほとんど尽き、租税を納めることができず、人々は食糧に苦しみ、これによって多くが流散した。そこで杜亞は宦官に厚く賄賂を贈り、河南尹に善政がないと奏上させ、杜亞はこれより河南尹を兼ねることをもくろんだが、事は成就しなかった。帝は次第にその虚偽とでたらめを知り、礼部尚書の董晋を代わりに東都留守とし、杜亞を京師に召還した。中風が次第に深まり、また脚や膝の病を患い、朝謁に堪えられなかった。貞元十四年(798年)に自宅で卒去した。七十四歳。太子少傅を追贈された。
王緯
李若初
李若初は、趙郡の人である。貞観年間の并州長史・工部侍郎李弘節の曾孫である。祖父の李道謙は太府卿であった。李若初は幼くして孤貧であり、初め転運使劉晏の下で微末な閑職に就いた。劉晏の判官包佶はその勤勉で有能なところを重んじ、娘を妻として与えた。陳州太康令を歴任した。刺史の李芃が初めて官に就いた時、李若初は献策し、余剰の銭物を収斂して権貴と交結するよう請うたので、李芃は彼を厚く遇した。数年後、李芃が河陽三城使に転じると、李若初を従事として奏請し、軍中の事柄を多く彼に委ねた。累進して検校郎中・兼中丞・懐州刺史を授かった。虢州刺史に転じたが、公事に坐して観察使に弾劾され、免官されて帰った。久しくして、衢州刺史として出され、福州刺史・兼御史中丞・福建都団練使に転じた。まもなく越州刺史・浙江東道都団練観察使に転じた。十四年(798年)秋、王緯に代わって潤州刺史・兼御史大夫・浙江都団練観察・諸道塩鉄転運使となった。吏道に長け、性格は厳しく強情で、力を尽くして部下を束ね統制したため、官吏や民衆は非常に畏服した。ちょうど塩法を整理し、かなり順序立てていた。貞元十五年(799年)、病気に遭って卒去した。一日朝儀を廃し、礼部尚書を追贈された。
于頎
大官となってからは、機略を好んで任用し、ひたすら権勢のある者に取り入り、朝廷の列に勢利のない者を見れば蔑視した。元載に媚び事えて親密となり、政務は苛細で大要を欠き、生母の喪に服して罷免された。元載が罪を得た後、鄭州刺史として出され、河南尹に遷り、政績なくして代わられて召還された。時に汾州刺史劉暹を召していた。暹は剛腸で悪を憎み、数州を歴任し、いずれも廉使に畏れられた。宰相盧杞は暹が御史大夫となることを恐れ、己の見解を損なうことを憂い、急ぎ頎を御史大夫に推薦し、その柔佞で制しやすいことを以てした。奉天に従駕し、左散騎常侍に改め、左千牛上將軍を歴任し、大理卿・太子少保・工部尚書に転じた。朝参中に地に仆れ、金吾仗衛に掖き起こされ、太子少師に改めて致仕した。貞元十五年卒、時に七十四歳。
盧徵
楊憑
楊憑は字を虚受といい、弘農の人である。進士に挙げられ、累ねて使府の佐官となった。監察御史に徴されたが、束縛を好まず、遂に免職を求めた。累ねて起居舎人・左司員外郎・礼部兵部郎中・太常少卿・湖南江西観察使に遷り、入朝して左散騎常侍・刑部侍郎・京兆尹となった。楊憑は文辞に巧みで、少時より気節を負い、同母弟の楊凝・楊凌と相友愛し、皆時に名があった。交遊を重んじ、然諾を尚び、穆質・許孟容・李鄘・王仲舒と友となり、故に時人は楊・穆・許・李の友と称し、仲舒は後進として慕って入った。性は簡傲を尚び、下に接することができず、これにより人多くこれを怨んだ。二鎮を歴任するに及んで、特に奢侈を事とした。
元和四年、京兆尹に拝され、御史中丞李夷簡に弾劾され、以前江西観察使としての贓罪及び他の不法の事を奏上された。勅して御史台に付して覆按せしめ、刑部尚書李鄘・大理卿趙昌が同しく台中で鞫問した。又、楊憑の以前の江西判官・監察御史楊瑗を捕えて台に繋ぎ、更に大理少卿胡珦・左司員外郎胡証・侍御史韋顗に同しく推鞫させた。詔して曰く、「楊憑は先朝において藩鎮に委ねられ、累ねて選用を経て、大官の位に列せり。近頃憲司が奏劾し、前事を暴揚するに、銭累万を計り、曾て聞かず、蒙蔽の罪、何をもって責を逃れん。又、居室を営建し、制度過差、侈靡の風、我が儉徳を傷つく。其れ自ら京邑を尹し、人頗るこれを懐くにより、刑書を議せんとし、是に憫惻を加う。宜しく遐譴に従い、以て百僚を誡むべし。賀州臨賀県尉同正を守らしめ、仍って馳駅して発遣せよ」。先に、楊憑が江西に在った時、李夷簡は御史から出て、官はその巡属に在った。楊憑は頗る疏縱で、顧みて接しなかった。李夷簡は常に歯ぎしりした。楊憑が朝に帰り、永寧里に第を修め、工事並びに興り、又、永楽里の別宅に妓妾を広く蓄え、時人大いに以て言うところとなった。李夷簡は衆議に乗じ、前事を挙劾し、且つ修営の僭を言い、将に之を殺さんとした。獄に下り、数日対置するも、其の事を得ず。李夷簡は之を執して益々急にし、上聞き、且つ貶し、旧従事を追って以て験せしめた。貞元以来方鎮に居る者は、徳宗に姑息せられた故に、窮極の僭奢に至り、畏懼する所無かった。憲宗即位に及び、法制を以て下に臨み、李夷簡が先ず楊憑の罪を挙げた故に、時議は以て宜しと為すも、然れども之を縛するに過ぎ、物論又其の深切を譏った。
鄭元
杜兼
裴玢
裴玢は京兆の人である。五代の祖は疏勒国王綽で、武德年中来朝し、鷹揚大将軍を授けられ、天郡公に封ぜられ、闕下に留まった為、遂に京兆人となった。裴玢は初め金吾将軍論惟明に事えて傔力となった。
裴玢は二鎮を歴任し、頗る公清苦節を以て政を為し、権幸と交わらず、貢献を務めず、蔬食敝衣、居処は風雨を避けるのみであったが、廩庫は饒実し、三軍百姓安業し、近代の将帥に比ぶる者無かった。綿疾に及び位を辞し、長安に帰ることを請うた。元和七年卒、年六十五、尚書左僕射を贈られ、諡して節と曰う。
薛伾
薛伾は、勝州刺史薛渙の子である。尚父汾陽王(郭子儀)が麾下に召し置き、諸将の間で著名となった。左僕射李揆が西蕃に使するに当たり、薛伾は将として従役した。時に賊朱泚の難があり、昆夷(吐蕃)が義に赴いたので、薛伾は馳せて騎を進め郷導し、武功に至り、左威衛将軍に擢げ授けられた。絶域に使すること前後数四回、累遷して左金吾衛大将軍・検校工部尚書・将作監を兼ね、出でて鄜坊観察使となった。元和八年、官にて卒し、潞州大都督を贈られた。
史臣曰く
史臣曰く、薛播は温敏にして文あり、鮑防は戎を董むるに術無く、李暠・厳震の太原の政は、美なりと謂うべし。蕭昕は則哲の知を抱き、杜亞は非次の望を懐く。王緯は清潔にして苛碎を傷い、李若初は善く理むるも性剛厳なり。于頎は好んで機権を任じ、勢利に趨附す。盧徴は厚く貨賄を斂め、中人に結托す。楊憑は奢を好み、鄭元は断あり。杜兼は端士を殺戮し、乱に怙みて君を邀む。裴玢は奸謀を発し、民を安んじ衆を和す。而して裴玢は衣を敝れ食を糲くし、権幸と交わらず、帑庾咸実にして、郡邑以て寧し。若し夫れ君子は人に求めて備えず、短を捨て長に従い、善を彰し悪を癉すは、則ち裴玢の善は、これを抑えて更に揚がり、杜兼の悪は、蓋わんと欲して却って彰るるのみ。