舊唐書

巻145

巻145

舊唐書

原文舊唐書

卷一百四十五

原文卷一百四十五

列傳第九十五 劉玄佐 董晉 陸長源 劉全諒 李忠臣 李希烈 吳少誠

原文列傳第九十五 劉玄佐 董晉 陸長源 劉全諒 李忠臣 李希烈 吳少誠

劉玄佐

原文劉玄佐

劉玄佐は、本名を洽といい、滑州匡城の人である。若い頃は豪放磊落で、生業を治めず、県の捕盗吏となったが、法を犯して県令に鞭打たれ、危うく死にかけ、そこで亡命して軍に従った。大暦年間、永平軍の衙将となった。李霊曜が汴州を占拠すると、洽は兵を率いてその無備に乗じ、まっすぐに宋州に入り、ついに詔によって州を永平軍に隷属させ、節度使李勉が奏上して宋州刺史に任じた。建中二年、御史中丞・亳潁節度等使を兼ねて加えられた。

原文劉玄佐,本名洽,滑州匡城人也。少倜儻,不理生業;為縣捕盜吏,違法,為令所笞,僅死,乃亡命從軍。大歷中,為永平軍衙將。李靈曜據汴州,洽將兵乘其無備,徑入宋州,遂詔以州隸永平軍,節度使李勉奏署宋州刺史。建中二年,加兼御史中丞、亳潁節度等使。

李正己が死ぬと、子の納は喪を匿って謀叛を企て、一方で李洧は徐州を以て帰順したので、納は兵を遣わしてこれを包囲した。詔により洽は諸軍とともに洧を救援し、賊と交戦してこれを大破し、首級一万余を斬った。これによって輸送路が開通し、御史大夫を加えられた。また濮州を収め、その将楊令暉を降伏させ、兵を分けてこれを挟み、濮陽を巡行してその将高彦昭を降伏させ、濮陽津を通じさせた。尚書に遷り、累ねて四百戸を封ぜられ、曹濮観察使を兼ね、まもなく淄青兗鄆招討使を加えられ、さらに汴滑都統副使を加えられた。李希烈が汴州を攻めると、徳宗は奉天におり、連戦して賊はやや退いた。興元初年、進めて検校左僕射を加えられ、平章事を加えられた。希烈が寧陵を包囲すると、洽の大将劉昌言が堅守して陥落させなかった。希烈が陳州を攻めると、洽は昌言を遣わして諸軍とともにこれを救援し、賊党を大破してその将翟崇暉を捕らえた。希烈が汴州を放棄すると、洽は軍を率いて汴を収め、詔により汴宋節度を加えられた。間もなく、本管及び陳州諸軍行営都統を授けられ、名を玄佐と賜った。この年、来朝し、また涇原四鎮北庭等道兵馬副元帥、検校司空しくうを拝し、八百戸を益封された。

原文李正己死,子納匿喪謀叛,而李洧以徐州歸順,納遣兵圍之。詔洽與諸軍援洧,與賊接戰,大破之,斬首萬余級。由是轉輸路通,加御史大夫。又收濮州,降其將楊令暉,分兵挾之,徇濮陽,降其將高彥昭,以通濮陽津。遷尚書,累封四百戶,兼曹濮觀察使,尋加淄青兗鄆招討使,又加汴滑都統副使。李希烈攻汴州,德宗在奉天,連戰,賊稍卻。興元初,進加檢校左僕射,加平章事。希烈圍寧陵,洽大將劉昌言堅守不下。希烈攻陳州,洽遣昌言與諸軍救之,大敗賊黨,獲其將翟崇暉。希烈棄汴州,洽率軍收汴,詔加汴宋節度。無幾,授本管及陳州諸軍行營都統,賜名玄佐。是歲來朝,又拜涇原四鎮北庭等道兵馬副元帥,檢校司空,益封八百戶。

玄佐は性質豪奢で、財を軽んじ義を重んじ、軍士に厚く賞を与えたので、百姓はますます困窮した。これによって汴の兵卒は、李忠臣に始まり、玄佐に至るまで、日に日に驕り恣に増し、多く将帥を逐い殺し、利を得て掠奪した。また小吏の張士南及び養子の楽士朝を寵愛信任し、財物は巨万に及んだ。士朝は玄佐の寵妾と私通した。玄佐が鎮にいる時、李納は使者を遣わすごとに必ず厚く贈り物をし、美女を飾り名楽を備え、その遊楽に従わせたので、多くその陰事を得て、常に先んじて備えたので、納はその心計を恐れた。貞元三年三月、任において薨じ、五十八歳であった。朝を三日間廃し、太傅を贈られた。将佐は初め喪を匿い、病と称して代わりの者を待ち、帝もまたこれを隠し、数日してようやく発喪した。子に士寧・士幹がいる。

原文玄佐性豪侈,輕財重義,厚賞軍士,故百姓益困。是以汴之卒,始於李忠臣,訖於玄佐,而日益驕恣,多逐殺將帥,以利剽劫。又寵任小吏張士南及養子樂士朝,財物鉅萬。士朝通玄佐嬖妾。玄佐在鎮,李納每使來,必重贈遺,飾美女名樂,從其遊娛,故多得其陰事,常先為備,故納憚其心計。貞元三年三月,薨於位,年五十八,廢朝三日,贈太傅。將佐初匿喪,稱疾俟代,帝亦為隱,數日乃發喪。子士寧、士幹。

初め、将佐が喪を匿い、発喪した後、帝は遣わして誰を立てたいかと問うた。「呉湊はどうか。」監軍の孟介・行軍の盧瑗は皆「よろしい」と言った。湊が汜水に到着した時、柩が遷されようとして、儀仗を備えるよう請うたが、瑗は許さず、また什器を留めて新使を待つよう命じたので、将士は大いに怒った。玄佐の子婿及び親兵は三月晦の夜に三軍を激怒させた。翌朝、衙兵は皆甲冑を着け、士寧を擁して重榻に登らせ、墨縗を着せ、留後と呼んだ。軍士は城将の曹金岸・浚儀令の李邁を捕らえ、「お前たちは皆呉湊を請うた者だ!」と言って、これらを切り刻んだ。ただ盧瑗だけが免れた。士寧は財物を分けて将士に賜り、自分を帥とするよう請い、孟介がこれを上聞した。帝は宰臣を召して計を問うと、竇参は言った。「今、汴人は李納を頼みとして命を要求している。もし許さなければ、納と合流することを恐れる。」そこでこれに従い、士寧に起復して金吾衛将軍同正・汴州刺史・宣武軍節度等使を授けた。士寧の位が定まらない時、使者を遣わして王武俊・劉済・田緒に通じたが、士寧が国から詔を受けていないので、皆これを留めた。

原文初,將佐匿喪,既發,帝遣問所欲立:「吳湊可乎?」監軍孟介、行軍盧瑗皆曰「便」。及湊次汜水,柩將遷,請備儀;瑗不許,又令留什物俟新使,將士大怒。玄佐子婿及親兵乃以三月晦夜激怒三軍。明晨,衙兵皆甲胄,擁士寧登重榻,衣以墨缞,呼為留後。軍士執城將曹金岸、浚儀令李邁,曰:「爾等皆請吳湊者!」遂臠之,唯盧瑗獲免。士寧乃以財物分賜將士,請之為帥,孟介以聞。帝召宰臣問計,竇參曰:「今汴人挾李納以邀命,若不許,懼合於納。」遂從之,授士寧起復金吾衛將軍同正、汴州刺史、宣武軍節度等使。士寧位未定時,遣使通王武俊、劉濟、田緒,以士寧未受詔於國,皆留之。

士寧が初めて節制を授けられた時、諸将は多く喜んで服さなかった。性質は残忍暴虐で淫乱であり、ある時は弓を引き剣を抜き、杯案の間で手ずから人を殺し、父の妓妾を悉く淫し、また人の婦女を強奪し、婦人を裸で観ることを好んだ。毎回狩猟に出ると、数日してようやく帰還し、軍府はこれを苦しんだ。その大将の李万栄はその父玄佐と同じ里門に住み、若い頃から仲が良く、寛厚で衆心を得ていた。士寧はこれを疑い、その兵権を奪い、汴州の事務を摂らせた。万栄はこれを深く怨み、隙をうかがってこれを逐おうとした。十年正月、士寧が衆二万を率いて城南で狩猟し、兵が既に出た後、万栄は朝早く士寧の官舎に入り、その留め置いた腹心の兵千余人を召し、偽って言った。「詔があり、大夫を征して入朝させ、私に留務を掌らせる。お前たち一人一人に銭三千貫を賜る。他に憂いはない。」兵士は皆拝礼した。万栄は内で親兵と約束した後、外で各営の兵を召し、この言葉で命じると、軍士は皆命令を聴いた。万栄は兵を分けて城門を閉じ、使者を馳せて士寧に告げさせた。「詔が大夫を征する。速やかに路に就くべし。もし遷延して行かなければ、首を伝えて献上すべきである。」士寧は衆が自分のために働かないことを知り、計る所なく、五百騎を率いて京師に逃げ帰った。中牟に至るまでに、大半が逃亡し、東都に至っては、残った僮隷婢妾数十人だけであった。京師に到着すると、詔により邸に帰って喪に服し、出入りを禁絶された。万栄は士寧の親しい将の辛液・白英賢を斬って軍に示し、凡そ軍士に銭二十万貫を賞し、詔により士寧の家財を没収して分賞させた。ついに万栄に宣武軍兵馬留後を授けた。

原文士寧初授節制,諸將多不悅服。性忍暴淫亂,或彎弓挺刃,手殺人於杯案間,悉烝父之妓妾,又強取人之婦女,好倮觀婦人。每出畋獵,數日方還,軍府苦之。其大將李萬榮與其父玄佐同里闬,少相善,寬厚得眾心;士寧疑之,去其兵權,令攝汴州事。萬榮深怨之,將伺其隙逐之。十年正月,士寧以眾二萬畋於城南,兵既出,萬榮晨入士寧廨舍,召其所留心腹兵千余人,矯謂之曰:「有詔征大夫入朝,俾吾掌留務,汝輩人賜錢三千貫,無他憂也。」兵士皆拜。萬榮既約親兵於內,又召各營兵於外,以是言令之,軍士皆聽命。萬榮乃分兵閉城門,馳使白士寧曰:「詔征大夫,宜速即路;若遷延不行,當傳首以獻。」士寧知眾不為用,計無所出,乃將五百騎走歸京師。比至中牟,亡走大半;至東都,所余僮隸婢妾數十人而已。既至京師,詔令歸第服喪,禁絕出入。萬榮乃斬士寧所親之將辛液、白英賢以令於軍,凡賞軍士錢二十萬貫,詔令籍沒士寧家財以分賞焉。遂授萬榮宣武軍兵馬留後。

初め、万栄は兵三千を京西に遣わして秋の備えとさせたが、親兵三百があり、以前劉士寧に驕らされた者で、日に日に横暴になった。万栄はこれを憎み、悉く行籍に置いたので、これによって万栄を深く怨んだ。大将の韓惟清・張彦琳がこれらを率いて行くことを請うたが、許されなかった。万栄はその子の乃にこれを率いさせたが、出発しなかった。惟清・彦琳は志を得ず、親兵が怨みを抱いているのを利用して、乱を起こし、共に万栄を攻めた。万栄は兵を分けてこれを撃つと、叛卒は兵械が少なく、戦いに勝てず、そこで転運の財貨及び住民を劫略して潰走し、千余人を殺傷した。叛兵は四方に散り、多くは宋州に投じ、刺史の劉逸準が手厚く慰撫した。韓惟清は鄭州に逃げ、張彦琳は東都に逃げ、身を縛って罪に帰し、死を免じて宥され、ともに流竄された。万栄は逃亡叛将の士卒の妻子数千人を悉く捕らえ、皆誅殺した。万栄が叛卒を誅した後、人心は騒然として不安で、軍卒数人が市中で叫んだ。「今夜、大兵が四面から至り、城は破られるであろう。」衆は驚愕した。万栄は悉く捕らえ、ある者は士寧の教唆によるものと言い、万栄はこれを斬って上聞した。ついに士寧を廃して郴州に処した。十一年五月、万栄に宣武軍節度使を授けた。その年八月、万栄が病に倒れ、ついにその子の乃を司馬に任じた。乃は大将の李湛・伊婁涚・張伾を外鎮に出させ、まもなく皆殺すよう命じた。涚・伾は既に死んだが、ただ李湛だけが尉氏に至り、尉氏鎮将の郝忠節が湛を殺すことを肯んじなかった。この夜、軍士が李乃を逐い出し、ついに捕らえて京師に送った。万栄はその日に病没した。乃は京師に至り、京兆府に付されて杖殺された。

原文初,萬榮遣兵三千備秋於京西,有親兵三百,前為劉士寧所驕者,日益橫。萬榮惡之,悉置行籍中,由是深怨萬榮。大將韓惟清、張彥琳請將往,不許;萬榮令其子乃將之,未發。惟清、彥琳不得誌,因親兵銜怨,乃作亂,共攻萬榮。萬榮分兵擊之,叛卒兵械少,戰不勝,乃劫轉運財貨及居人而潰,殺傷千余人。叛兵四出,多投宋州,刺史劉逸準厚撫之。韓惟清走鄭州,張彥琳走東都,以束身歸罪,宥以不死,並流竄焉。萬榮悉捕逃叛將卒妻孥數千人,皆誅之。萬榮誅叛卒之後,人心恟々不安,軍卒數人呼於市曰:「今夜大兵四面至,城當破。」眾驚駭。萬榮悉捕得,或云士寧所教,萬榮斬之以聞;遂以士寧廢處郴州。十一年五月,授萬榮宣武軍節度使。其年八月,萬榮病,遂署其子乃為司馬。乃勒大將李湛、伊婁涚、張伾往外鎮,尋皆令殺之。涚、伾皆已死,惟李湛至尉氏,尉氏鎮將郝忠節不肯殺湛。是夜軍士逐出李乃,遂執送京師。萬榮以其日病卒。乃至京師,付京兆府杖殺。

劉士幹

原文劉士幹

劉士幹は、玄佐の養子で、以前は太府少卿であった。楽士朝という者がおり、これも玄佐の養子で、劉姓を冒し、士幹と不和があった。玄佐が卒すると、ある者は士朝が毒殺したと言った。士幹はこれを知り、京師に至ると、奴に刀を持たせて喪位に遣わし、士朝に「弔客が来た」と言わせて、誘い出してこれを殺した。士幹は死を賜った。

原文劉士幹,玄佐養子,前為太府少卿。有樂士朝者,亦為玄佐養子,因冒劉姓,與士幹有隙。及玄佐卒,或云為士朝所鴆。士幹知之,及至京師,遣奴持刀於喪位,語士朝曰:「有吊客至。」因誘殺之。賜士幹死。

董晉

原文董晉

董晉は、字を混成といい、河中盧郷の人である。明経に及第した。至徳の初め、粛宗が霊武より彭原に幸したとき、董晉は上書して謁見し、校書郎・翰林待制に任ぜられ、さらに衛尉丞に転じ、出て汾州司馬となった。まもなく、刺史崔圓が淮南節度使に改められると、董晉を本官のまま殿中侍御史を摂行させ、判官に充てるよう奏上した。ほどなく御史臺に帰り、本官を授かり、侍御史・主客員外郎・祠部郎中に遷った。大暦年間、兵部侍郎李涵が崇徽公主を回紇に送る使者となったとき、董晉を判官とするよう奏上した。使いから帰ると、司勲郎中を拝した。秘書太府太常少卿監・左金吾将軍を歴任した。十日ほどして、徳宗が位を嗣ぐと、太常卿に改め、右散騎常侍さんきじょうじに遷り、御史中丞を兼ねて臺事を知った。清廉勤勉で謹慎であったため、急速に右職に遷った。ほどなく華州刺史・兼御史中丞・潼関防禦使となった。久しくして、兼御史大夫を加えられた。朱泚が京師で僭逆をなすと、その兇党の仇敬・何望之をして華州を侵逼させたので、董晉は遁走して行在に赴き、国子祭酒を授かり、ほどなく恒州に往って宣慰するよう命ぜられた。車駕に従って京師に還り、左金吾衛大将軍に遷り、尚書左丞に改めた。時に右丞元琇が度支使を領していたが、韓滉に排擠されて貶黜された。董晉はこれを憎み、宰相に会って無罪であることを極言し、挙朝これを称えた。ふたたび太常卿を拝した。

原文董晉,字混成,河中盧鄉人。明經及第。至德初,肅宗自靈武幸彭原,晉上書謁見,授校書郎、翰林待制,再轉衛尉丞,出為汾州司馬。未幾,刺史崔圓改淮南節度,奏晉以本官攝殿中侍御史,充判官,尋歸臺,授本官,遷侍御史、主客員外郎、祠部郎中。大歷中,兵部侍郎李涵送崇徽公主使回紇,奏晉為判官。使還,拜司勛郎中。歷秘書太府太常少卿監、左金吾將軍。旬日,德宗嗣位,改太常卿,遷右散騎常侍,兼御史中丞知臺事。以清勤謹慎,故驟遷右職。尋為華州刺史、兼御史中丞、潼關防禦使。久之,加兼御史大夫。硃泚僭逆於京師,使兇黨仇敬、何望之侵逼華州,晉奔遁赴行在,授國子祭酒,尋令往恆州宣慰。從車駕還京師,遷左金吾衛大將軍,改尚書左丞。時右丞元琇領度支使,為韓滉所擠貶黜,晉嫉之,見宰相極言非罪,舉朝稱之。復拜太常卿。

五年、門下侍郎・同平章事に遷った。時に政事は竇参に決しており、董晉はただ詔書を奉じ、然諾を領するのみであった。金吾衛将軍沈房に弟の喪があり、公除の後、惨服を着て閣に入った。上は宰相に問うた。対えて言うには、「式に準ずれば、朝官に周年以下の喪のある者は、諸騑縵を用い、浅色の衣を着るべからず」。帝が言うには、「南班にどうしてこれがあるのか」。対えて言うには、「因循して然るなり」。また董晉に冠冕の制を問うと、対えて言うには、「古人で冠冕を服する者は、動けば佩玉の響きあり、これ歩を節する所以なり。『礼』に云う『堂上にては武を接し、堂下にては武を布く』と、至恭なり。歩武に常あり、君前の礼は、進趨のみなり。今あるいは奔走して以て顛仆に至るは、恭慎ならざるなり。式において、朝官は皆綾袍袱、五品以上は金玉帯、その文彩画飭を取り、以て上に奉ずるなり。これをもって禹は衣食を悪みて黻冕に美を致し、君親は一致す。昔、尚書郎は香を含み、老萊子は彩服を着たるは、皆この義なり。絁縵を服するは、制に非ざるなり」。上は深くこれを然りとし、遂に詔して言うには、「常参官の閣に入るは、趨走すべからず。周期以下の喪ある者は、惨服での朝会を禁ず」。また本品の綾袍金玉帯を服するよう命じた。董晉の礼学に明るきこと、かくの如し。

原文五年,遷門下侍郎、同平章事。時政事決在竇參,晉但奉詔書,領然諾而已。金吾衛將軍沈房有弟喪,公除,衣慘服入閣。上問宰相,對曰:「準式,朝官有周年已下喪者,諸騑縵,不合衣淺色。」帝曰:「南班安得有之?」對曰:「因循而然。」又問晉冠冕之制,對曰:「古人服冠冕者,動有佩玉之響,所以節步也。《禮》雲『堂上接武,堂下布武』,至恭也;步武有常,君前之禮,進趨而已。今或奔走以致顛仆,非恭慎也。在式,朝官皆是綾袍袱,五品已上金玉帶,取其文彩畫飭,以奉上也。是以禹惡衣食而致美乎黻冕,君親一致。昔尚書郎含香,老萊彩服,皆此義也。服絁縵,非制也。」上深然之,遂詔曰:「常參官入閣,不得趨走;周期已下喪者,禁慘服朝會。」又令服本品綾袍金玉帶。晉明於禮學如此。

竇参の驕慢満足は甚だしくなり、帝は次第にこれを憎むようになった。八年、竇参は董晉に諷してその甥の給事中竇申を吏部侍郎とするよう奏上させた。帝は正色して言うには、「これは竇参が卿に遣わして奏せしめたのではあるまいか」。董晉は隠すことができなかった。そこで竇参の過失を問うと、董晉はこれを具に奏上した。十日ほどして、竇参は官を貶せられ、董晉は憂懼し、累ねて表を上って位を辞した。九年夏、礼部尚書・兵部尚書・東都留守・東都畿汝州都防禦使に改めた。

原文竇參驕滿既甚,帝漸惡之。八年,參諷晉奏其侄給事中竇申為吏部侍郎,帝正色曰:「豈不是竇參遣卿奏也?」晉不敢隱。因問參過失,晉具奏之。旬日,參貶官,晉憂懼,累上表辭位。九年夏,改禮部尚書、兵部尚書、東都留守、東都畿汝州都防禦使。

時に汴州節度使李万栄が病甚だしく、その子の李迺が乱を為したため、董晉を検校左僕射・同平章事・兼汴州刺史・宣武軍節度営田・汴宋観察使とした。董晉は命を受けると、ただ幕官傔従ら十数人を将いるのみで、兵馬を召集することは全くなかった。鄭州に至ると、宣武軍の迎候の将吏は一人も至らなかった。董晉の左右および鄭州の官吏は皆懼れ、共に董晉を勧めて言うには、「鄧惟恭は万栄の病甚だしきに乗じ、遂に軍州の事を総領しております。今相公がここに到られたのに、まだ人を遣わして迎候せず、その情状はどうして推し量れましょう。恐らくはしばらく遅回し、事勢を候うべきでしょう」。董晉は言うには、「詔を奉じて汴州節度使となれば、即ち勅に準じて官に赴くべきであり、どうして妄りに逗留することができようか」。人々は皆その不測を憂えたが、董晉ひとり恬然としていた。汴州に至らぬこと十数里、鄧惟恭がようやく来て迎候した。董晉は彼をして馬から下りさせず。入城すると、乃ち軍政を鄧惟恭に委ねた。衆は董晉の事体機変に明るきに服したが、その深浅は測りがたかった。

原文會汴州節度李萬榮疾甚,其子乃為亂,以晉為檢校左僕射、同平章事,兼汴州刺史、宣武軍節度營田、汴宋觀察使。晉既受命,唯將幕官傔從等十數人,都不召集兵馬。既至鄭州,宣武軍迎候將吏無至者。晉左右及鄭州官吏皆懼,共勸晉云:「鄧惟恭承萬榮疾病之甚,遂總領軍州事。今相公到此,尚不使人迎候,其情狀豈可料;即恐須且遲回,以候事勢。」晉曰:「奉詔為汴州節度使,即合準敕赴官,何可妄為逗留!」人皆憂其不測,晉獨恬然。未至汴州十數里,鄧惟恭方來迎候,晉俾其不下馬;既入,乃委惟恭以軍政,眾服晉明於事體機變,而未測其深淺。

初め、李万栄が劉士寧を逐って、代わって節度使となり、兵を鄧惟恭に委ねたのは、彼が同郷里であったためである。病甚だしくなると、李迺が乱を為そうとしたので、鄧惟恭は監軍と共謀して李迺を縛り、朝廷に送り返した。鄧惟恭は自ら当然代わってその位に居るべきと思い、故に候吏を遣わさず、以て董晉の心を疑懼させ、その進むことを敢えさせまいと冀った。董晉の速やかに至ることを意にせざりしなり。董晉が近づいてから、ようやく急いで出迎えたのである。しかし心に常に怏怏たり、遂に驕盈にして法を慢にし、潜かに不軌を図り、嶺南に配流された。

原文初,萬榮逐劉士寧,代為節度使,委兵於惟恭,以其同鄉里。及疾甚,李乃將為亂,惟恭乃與監軍同謀縛乃,送歸朝廷。惟恭自以當便代居其位,故不遣候吏,以疑懼晉心,冀其不敢進。不意晉之速至。晉已近,方遽出迎之。然心常怏怏,竟以驕盈慢法,潛圖不軌,配流嶺南。

朝廷は董晉の柔懦を恐れ、ほどなく汝州刺史陸長源を董晉の行軍司馬とした。董晉は謙恭簡儉で、何事も因循して多く可とすべきところあり、故に乱兵はほぼ安んじた。陸長源は更張雲為を好み、数えて旧事を改易するよう請い、務めて削刻に従わんとした。董晉は初め皆これを然りとしたが、案牘が成った後、董晉は命じて且く罷めさせた。また銭穀支計を判官孟叔度に委ねた。孟叔度は軽佻で、軍人を慢易することを好み、皆これを悪んだ。董晉は十五年二月に卒した。年七十六。朝を廃すること三日、太傅を贈られ、布帛を賜うこと差等あり。卒して十日と経たぬうちに、汴州大乱し、陸長源・孟叔度らを殺した。

原文朝廷恐晉柔懦,尋以汝州刺史陸長源為晉行軍司馬。晉謙恭簡儉,每事因循多可,故亂兵粗安。長源好更張雲為,數請改易舊事,務從削刻。晉初皆然之,及案牘已成,晉乃命且罷。又委錢穀支計於判官孟叔度。叔度輕佻,好慢易軍人,皆惡之。晉十五年二月卒,年七十六,廢朝三日,贈太傅,賜布帛有差。卒後未十日,汴州大亂,殺長源、叔度等。

陸長源

原文陸長源

陸長源は、字を泳之といい、開元・天宝中の尚書左丞・太子詹事陸余慶の孫、西河太守陸璪の子である。陸長源は書史に淑よし。乾元中、河北の諸賊に陥り、因って昭義軍節度使薛嵩の卒後に佐けた。久しくして、建・信二州刺史を歴任した。浙西節度使韓滉が江・淮転運を兼領したとき、陸長源を検校郎中・兼中丞とし、転運副使に充てるよう奏上した。罷めて都官郎中とし、万年県令に改め、出て汝州刺史となった。

原文陸長源,字泳之,開元、天寶中尚書左丞、太子詹事余慶之孫,西河太守璪之子。長源淑書史。乾元中,陷河北諸賊,因佐昭義軍節度薛嵩卒後。久之,歷建、信二州刺史。浙西節度韓滉兼領江、淮轉運,奏長源檢校郎中、兼中丞,充轉運副使。罷為都官郎中,改萬年縣令,出為汝州刺史。

貞元十二年、検校礼部尚書・宣武軍行軍司馬を授かり、汴州の政事は皆決断した。性軽佻にして、言論容易、才を恃みて物を傲り、所在の人これを畏れて悪んだ。汴州に至ると、峻法を以て驕兵を縛らんと欲した。一方、董晉の判官楊凝・孟叔度もまた恣に淫湎に縱し、衆情共に怒った。董晉の性は寛緩で、事務は因循し、以て士心を収めんとした。陸長源は毎事法を守り、董晉が或いは苟且にすれば、陸長源は輒ちこれを執って正した。

原文貞元十二年,授檢校禮部尚書、宣武軍行軍司馬,汴州政事,皆決斷之。性輕佻,言論容易,恃才傲物,所在人畏而惡之。及至汴州,欲以峻法繩驕兵;而董晉判官楊凝、孟叔度亦縱恣淫湎,眾情共怒。晉性寬緩,事務因循,以收士心。長源每事守法,晉或茍且,長源輒執而正之。

董晉が卒すると、陸長源に留後事を知らしめた。陸長源は揚言して言うには、「将士多弛慢にして、憲章を守らず、法を以てこれを縛るべし」。これにより人人恐懼した。これに加えて孟叔度が苛刻で、多く声色に縱し、数えて楽営に至り諸婦人と嬉戯し、自ら孟郎と称したので、衆皆これを薄しとした。旧例、使長が薨ずると、布帛を三軍に散布して制服させる。この時、人が服を請うたが、陸長源は初め固より允さず、軍人が求めやまず、陸長源らは議してその布の直を給することとした。孟叔度は塩の価を高くして布の直を賤しくし、每人が得る塩は三二斤に過ぎず、軍情大いに変じた。ある者が陸長源を勧めて、故事に大変あるときは、皆三軍を賞し、三軍乃ち安んずると。陸長源は言うには、「我をして河北の賊と同じからしめ、銭を以て健児を買い旌節を取らしむることは不可なり」。兵士の怨怒ますます甚だしく、乃ち陸長源および孟叔度らを執り臠にして食らい、斯須のうちに骨肉糜散した。陸長源の死した日、詔が下って節度使と為さんとしたが、その死を聞き、中外これを惜しみ、尚書右僕射を贈った。

原文及晉卒,令長源知留後事。長源揚言曰:「將士多弛慢,不守憲章,當以法繩之。」由是人人恐懼。加以叔度苛刻,多縱聲色,數至樂營與諸婦人嬉戲,自稱孟郎,眾皆薄之。舊例,使長薨,放散布帛於三軍制服。至是,人請服,長源初固不允,軍人求之不已,長源等議給其布直。叔度高其鹽價而賤為布直,每人不過得鹽三二斤,軍情大變。或勸長源,故事有大變,皆賞三軍,三軍乃安。長源曰:「不可使我同河北賊,以錢買健兒取旌節。」兵士怨怒滋甚,乃執長源及叔度等臠而食之,斯須骨肉糜散。長源死之日,詔下以為節度使,及聞其死,中外惜之,贈尚書右僕射。

劉全諒

原文劉全諒

劉全諒は、懷州武涉の人である。父の客奴は、征行に従って幽州の昌平に家を構えた。若くして武芸に優れ、平盧軍に従った。開元中、室韋の首領段普恪が驍ぎょう勇を恃み、しばしば辺境を苦しめた。節度使薛楚玉は客奴に胆気あるを見て、普恪に抗せしめた。客奴は単騎でこれを襲い、首を斬って献じ、白身より左驍衛將軍を授かり、遊奕使を充てられ、これより数々の戦功を立てた。性忠謹にして、軍人に信ぜられた。天寶末、安祿山が反し、詔して安西節度封常清を范陽節度とし、平盧節度副使呂知誨を平盧節度とし、太原尹王承業を河東節度とした。祿山が既に東都で僭位すると、腹心の韓朝陽らを遣わして知誨を招誘した。知誨は遂に逆命を受け、安東副都護・保定軍使馬靈詧を誘い殺し、祿山は遂に知誨を署して平盧節度使とした。客奴は平盧諸将と共に議し、知誨を捕らえて殺した。なお安東将の王玄誌と遙かに相応援し、馳せて奏聞した。十五載四月、客奴に柳城郡太守・摂御史大夫・平盧節度支度営田陸運・押両蕃・渤海黒水四府経略及び平盧軍使を授け、なお名を正臣と賜う。また王玄誌を安東副大都護・摂御史中丞・保定軍及び営田使とした。正臣はなお兵を率いて平盧より范陽を襲おうとしたが、未だ至らぬうちに、逆賊の将史思明らに大敗された。正臣は奔り帰り、王玄誌に毒殺されて卒した。逆賊は徐帰道を平盧節度に署し、王玄誌は平盧将の侯希逸らとまた帰道を襲い殺した。大暦九年、正臣を追贈して工部尚書とした。

原文劉全諒,懷州武涉人也。父客奴,由征行家於幽州之昌平。少有武藝,從平盧軍。開元中,有室韋首領段普恪,恃驍勇,數苦邊。節度使薛楚玉以客奴有膽氣,令抗普恪。客奴單騎襲之,斬首以獻,自白身授左驍衛將軍,充遊奕使,自是數有戰功。性忠謹,為軍人所信。天寶末,安祿山反,詔以安西節度封常清為范陽節度,以平盧節度副使呂知誨為平盧節度,以太原尹王承業為河東節度。祿山既僭位於東都,遣腹心韓朝陽等招誘知誨;知誨遂受逆命,誘殺安東副都護、保定軍使馬靈詧,祿山遂署知誨為平盧節度使。客奴與平盧諸將同議,取知誨殺之;仍遣與安東將王玄誌遙相應援,馳以奏聞。十五載四月,授客奴柳城郡太守、攝御史大夫、平盧節度支度營田陸運、押兩蕃、渤海黑水四府經略及平盧軍使,仍賜名正臣。又以王玄誌為安東副大都護、攝御史中丞、保定軍及營田使。正臣仍領兵平盧來襲范陽,未至,為逆賊將史思明等大敗之。正臣奔歸,為王玄誌所鴆而卒。逆賊署徐歸道平盧節度,王玄誌與平盧將侯希逸等又襲殺歸道。大歷九年,追贈正臣工部尚書。

全諒は本名を逸準といい、父の勲功により別駕・長史を授かった。建中初、劉玄佐が宋亳節度使となると、召して牙将に署し、勇果にして騎射に優れることを以て聞こえた。玄佐は宗の姪として厚く遇し、累ねて都知兵馬使に署し、太僕卿・兼御史中丞を試みた。玄佐が卒すると、子の士寧が代わって節度使となり、宋州刺史の翟良佐が己に附かぬを疑い、陽に出巡と称して宋州に至り、急に逸準を以て良佐に代えて刺史とした。及び董晉が卒し、兵乱が起こり陸長源が殺されると、監軍の俱文珍と大将が密かに逸準を汴州に赴かせ、留後を掌らしめた。朝廷はこれにより檢校工部尚書・汴州刺史を授け、兼ねて宣武軍節度観察等使とし、なお名を全諒と賜うた。貞元十五年二月卒す。年四十九。朝を一日廃し、右僕射を贈られた。

原文全諒本名逸準,以父勛授別駕、長史。建中初,劉玄佐為宋亳節度使,召署為牙將,以勇果騎射聞。玄佐以宗侄厚遇之,累署都知兵馬使,試太仆卿、兼御史中丞。玄佐卒,子士寧代為節度使,疑宋州刺史翟良佐不附己,陽言出巡,至宋州,遽以逸準代良佐為刺史。及董晉卒,兵亂,殺陸長源,監軍俱文珍與大將密召逸準赴汴州,令知留後。朝廷因授以檢校工部尚書、汴州刺史,兼宣武軍節度觀察等使,仍賜名全諒。貞元十五年二月卒,年四十九,廢朝一日,贈右僕射。

李忠臣

原文李忠臣

李忠臣は、本姓は董、名は秦、平盧の人で、代々幽州薊県に家を構えた。自ら云うには、曾祖父の文昱は棣州刺史、祖父の玄奨は安東都護府録事参軍、父の神嶠は河内府折沖であったという。忠臣は若くして軍に従い、卒伍の中にあって、材力は群を抜いていた。幽州節度の薛楚玉・張守珪・安祿山らに事え、頻りに征討を委ねられ、労を積んで折衝郎将・将軍同正・平盧軍先鋒使に至った。

原文李忠臣,本姓董,名秦,平盧人也,世家於幽州薊縣。自雲曾祖文昱,棣州刺史;祖玄獎,安東都護府錄事參軍;父神嶠,河內府折沖。忠臣少從軍,在卒伍之中,材力冠異。事幽州節度薛楚玉、張守珪、安祿山等,頻委征討,積勞至折沖郎將、將軍同正、平盧軍先鋒使。

及び祿山が反すると、その同輩と密議し、偽節度の呂知誨を殺し、劉正臣を立てて節度とし、忠臣を兵馬使とした。長楊を攻め、獨山に戦い、榆関・北平を襲い、賊将の申子貢・榮先欽を殺し、周釗を擒えて京師に送り、忠臣の功は多かった。また正臣に従って漁陽を破り、逆将の李帰仁・李鹹・白秀芝らが来て拒戦したが、数十合を約し、皆これを摧破した。間もなく潼関が失陥し、郭子儀・李光弼が師を退くと、忠臣は軍を率いて北に帰った。奚王の阿篤孤は初め衆を以て正臣と合したが、後に詐って万余騎を以て共に范陽を収めんことを請い、後城南に至り、夜中に反攻した。忠臣はこれと戦い、遂に温泉山に至り、これを破った。大首領の阿布離を擒え、斬って纛を祭り鼓に釁した。正臣が卒すると、また衆と議して安東都護の王玄誌を節度使とした。

原文及祿山反,與其倫輩密議,殺偽節度呂知誨,立劉正臣為節度,以忠臣為兵馬使。攻長楊,戰獨山,襲榆關、北平,殺賊將申子貢、榮先欽,擒周釗送京師,忠臣功多。又從正臣破漁陽,逆將李歸仁、李鹹、白秀芝等來拒戰,約數十合,並摧破之;無何,潼關失守,郭子儀、李光弼退師,忠臣乃引軍北歸。奚王阿篤孤初以眾與正臣合,後詐言請以萬余騎同收范陽,至後城南,中夜反攻,忠臣與戰,遂至溫泉山,破之;擒大首領阿布離,斬以祭纛釁鼓。正臣卒,又與眾議以安東都護王玄誌為節度使。

至徳二載正月、玄誌は忠臣に歩卒三千を以て雍奴より葦筏を為して海を渡らしめた。賊将の石帝庭・烏承洽が来て拒んだ。忠臣は董竭忠とこれを退け、転戦累日、遂に魯城・河間・景城等を収め、資糧を大いに獲て、以て本軍に赴いた。また大将の田神功と兵を率いて平原・楽安郡を討ち、これを下し、偽刺史の臧瑜らを擒えた。防河招討使の李銑は制を承けて忠臣を徳州刺史とした。時に史思明の帰順に属し、河南節度の張鎬は忠臣に兵を以て鄆州に赴かせ、諸軍使と共に河南の州県を収めしめた。また裨将の陽恵元と賊将の王福德を舒舍口に大破し、粛宗は累ねて詔を下して慰諭し、なお濮州に鎮せしめ、間もなく韋城に移した。

原文至德二載正月,玄誌令忠臣以步卒三千自雍奴為葦筏過海。賊將石帝庭、烏承洽來拒;忠臣與董竭忠退之,轉戰累日,遂收魯城、河間、景城等,大獲資糧,以赴本軍。復與大將田神功率兵討平原、樂安郡,下之;擒偽刺史臧瑜等。防河招討使李銑承制以忠臣為德州刺史。屬史思明歸順,河南節度張鎬令忠臣以兵赴鄆州,與諸軍使收河南州縣。又與裨將陽惠元大破賊將王福德於舒舍口,肅宗累下詔慰諭,仍令鎮濮州,尋移韋城。

乾元元年九月、光禄卿同正に改めた。その年、郭子儀ら九節度と共に安慶緒を相州に囲んだ。明年二月、諸軍潰えて帰り、忠臣もまた退いた。滎陽けいように至ると、賊将の敬釭が来て官船を襲ったが、忠臣はこれを大破し、米二百余艘を獲て、以て汴州の軍士を資した。間もなく濮州刺史・縁河守捉使に拝し、杏園渡に移鎮した。及び史思明が汴州を陥すと、節度使の許叔冀は忠臣と力を併せて屈し賊に降った。思明は忠臣の背を撫でて曰く、「吾は比来左手のみ有りしが、今公を得て、兼ねて右手を有す」と。共に河陽を寇した。数日後、忠臣は夜に五百人を以てその営を斫り、突囲して帰った。李光弼がこれを聞かせると、詔して開府儀同三司・殿中監同正を加え、実封二百戸を賜うた。京師に召し、姓を李氏に賜い、名を忠臣とし、隴西郡公に封じ、良馬・荘宅・銀器・彩物等を賜うた。

原文乾元元年九月,改光祿卿同正。其年,與郭子儀等九節度圍安慶緒於相州。明年二月,諸軍潰歸,忠臣亦退。至滎陽,賊將敬釭來襲官船,忠臣大破之,獲米二百余艘,以資汴州軍士。尋拜濮州刺史、緣河守捉使,移鎮杏園渡。及史思明陷汴州,節度使許叔冀與忠臣並力屈降賊。思明撫忠臣背曰:「吾比只有左手,今得公,兼有右手矣!」與俱寇河陽。數日,忠臣夜以五百人斫其營,突圍歸。李光弼以聞,詔加開府儀同三司、殿中監同正,賜實封二百戶。召至京師,賜姓李氏,名忠臣,封隴西郡公,賜良馬、莊宅、銀器、彩物等。

時に陝西・神策両節度の郭英乂・衛伯玉が陝州に鎮し、忠臣を両軍節度兵馬使とした。魚朝恩もまた陝に在り、忠臣をして賊将の李帰仁・李感義らと永寧・莎柵に戦わしめた。前後数十陣、皆これを摧破した。時に淮西節度の王仲升が賊に擒えられると、宝応元年七月、忠臣を太常卿同正・兼御史中丞・淮西十一州節度に拝した。間もなく安州刺史を加え、なお蔡州に鎮した。その年、忠臣に元帥諸軍と会して東都を収復せしめた。二年六月、就いて御史大夫を加えた。時に回紇可汗が既にその国に帰り、判官の安恪・石帝庭を河陽に留めて財物を守禦せしめたが、これにより亡命を招聚して寇と為し、道路壅隔した。詔して忠臣にこれを討平せしめた。

原文時陜西、神策兩節度郭英乂、衛伯玉鎮陜州,以忠臣為兩軍節度兵馬使。魚朝恩亦在陜,俾忠臣與賊將李歸仁、李感義等戰於永寧、莎柵;前後數十陣,皆摧破之。會淮西節度王仲升為賊所擒,寶應元年七月,拜忠臣太常卿同正、兼御史中丞、淮西十一州節度。尋加安州刺史,仍鎮蔡州。其年,令忠臣會元帥諸軍收復東都。二年六月,就加御史大夫。時回紇可汗既歸其國,留判官安恪、石帝庭於河陽守禦財物,因此招聚亡命為寇,道路壅隔,詔忠臣討平之。

永泰元年、吐蕃が西陲を犯し、京師戒厳となった。代宗は中使を遣わして兵を追いしめたが、諸道多くは時に赴難せず。使が淮西に至ると、忠臣は鞠を会している最中であったが、即ち師を整え駕を飾ることを命じた。監軍大将が固く請うて曰く、「軍行には須らく吉日を択ぶべし」と。忠臣は衆の中に奮臂して曰く、「焉んぞ父母が寇難に遇うて、好日を待ち択びて、方に患を救わんや」と。即日進発した。これより方隅に警有れば、忠臣は必ず期に先んじて至った。これにより代宗はその忠節を嘉し、本道観察使を加え、寵賜頗る厚かった。及び同華節度の周智光が挙兵して反すると、詔して忠臣と神策将の李太清らにこれを討平せしめた。大暦三年、檢校工部尚書を加え、実封は前に通じて三百戸とした。五年、蔡州刺史を加えた。七年、檢校右僕射・知省事とした。李霊曜の叛に当たり、田承嗣は甥の悅を遣わしてこれを援けたが、忠臣は諸軍と共に悅らを大破し、汴州を平げた。十一年十二月、檢校司空平章事・汴州刺史を加えた。

原文永泰元年,吐蕃犯西陲,京師戒嚴。代宗命中使追兵,諸道多不時赴難。使至淮西,忠臣方會鞠,即令整師飾駕。監軍大將固請曰:「軍行須擇吉日。」忠臣奮臂於眾曰:「焉有父母遇寇難,待揀好日,方救患乎!」即日進發。自此方隅有警,忠臣必先期而至。由是代宗嘉其忠節,加本道觀察使,寵賜頗厚。及同華節度周智光舉兵反,詔忠臣與神策將李太清等討平之。大歷三年,加檢校工部尚書,實封通前三百戶。五年,加蔡州刺史。七年,檢校右僕射、知省事。李靈曜之叛,田承嗣使侄悅援之,忠臣與諸軍大破悅等,汴州平。十一年十二月,加檢校司空平章事、汴州刺史。

忠臣は性貪婪にして残忍、色を好み、将吏の妻女多く誘脅されてこれを通ずるを被る。また軍に紀綱なく、至る所に暴を縦し、人その命に堪えず。しかして妹婿の張恵光を以て衙将と為し、勢いに恃みて兇虐、軍中これを苦しむ。数たび忠臣に言う者有り、これを信ぜず。俄かに恵光を以て節度副使と為し、恵光の子をして衙将たらしむ。陵横その父に甚だし。忠臣の信任する大将李希烈、素より騎射に善く、群情の服する所、衆心の怒りに因り、十四年三月を以て、少将丁皓・賈子華・監軍判官蔣知璋等と兵を挙げて恵光父子を斬り、以て忠臣を脅逐す。単騎京師に赴く。朝廷方に武臣を寵し、これを責めず、前の如く検校司空・平章事に依り、京師に留め奉朝請せしむ。

原文忠臣性貪殘好色,將吏妻女多被誘脅以通之。又軍無紀綱,所至縱暴,人不堪命。而以妹婿張惠光為衙將,恃勢兇虐,軍中苦之;數有言於忠臣,不之信也。俄以惠光為節度副使,令惠光子為衙將,陵橫甚於其父。忠臣所信任大將李希烈,素善騎射,群情所伏,因眾心之怒,以十四年三月,與少將丁皓、賈子華、監軍判官蔣知璋等舉兵斬惠光父子,以脅逐忠臣。單騎赴京師,朝廷方寵武臣,不之責也,依前檢校司空、平章事,留京師奉朝請。

建中初、嘗て奏対に因り、徳宗これに謂いて曰く、「卿の耳甚だ大なり、真に貴人なり」と。忠臣対えて曰く、「臣聞く驢の耳甚だ大なり、龍の耳甚だ小なりと。臣が耳大なれども、乃ち驢の耳なり」と。上これを説ぶ。時に常侍張渉恩を承けて事を用い、財賄を受くるに坐して事露れ、帝将に法を以てこれを縛せんとす。渉は即ち帝春宮に在りし時の侍講なり。忠臣奏して曰く、「陛下貴きこと天子と為り、而して先生財乏しきを以て法に抵る。愚臣これを観るに、先生の過ちに非ず」と。帝意解け、ただ田里に帰せしむ。前湖南観察辛京杲嘗て忿怒に以て部曲を杖殺し、有司劾奏して京杲人を殺して死に当たるとす。これに従う。忠臣奏して曰く、「京杲死に合うこと久し。儒生」上これを問う。対えて曰く、「渠が柏叔某某の処に於て戦死し、兄弟某某の処に於て戦死す。渠嘗て行に従い、独り死せず。是を以て渠の死に合うこと久しきを知る」と。上また憫然として、罪を加うるを令せず、ただ王傅を授くるを改むるのみ。

原文建中初,嘗因奏對,德宗謂之曰:「卿耳甚大,真貴人也。」忠臣對曰:「臣聞驢耳甚大,龍耳甚小;臣耳雖大,乃驢耳也。」上說之。時常侍張涉承恩用事,坐受財賄事露,帝將以法繩之——涉,即帝在春宮時侍講也。忠臣奏曰:「陛下貴為天子,而先生以乏財抵法,以愚臣觀之,非先生之過也。」帝意解,但令歸田裏。前湖南觀察辛京杲嘗以忿怒杖殺部曲,有司劾奏京杲殺人當死,從之。忠臣奏曰:「京杲合死久矣!儒生;上問之,對曰:「渠柏叔某於某處戰死,兄弟某於某處戰死,渠嘗從行,獨不死,是以知渠合死久矣。」上亦憫然,不令加罪,改授王傅而已。

忠臣木強にして率直、書を識らず、儒生を喜ばず。及び兵権を罷め、官位崇重、常に鬱鬱として志を得ず。及び朱泚反す、以て偽司空・兼侍中と為す。泚兵を率いて奉天に逼り、忠臣を命じて京城留守と為す。泚敗れ、忠臣樊川の別業に走る。李晟の下将士忠臣を擒えて至り、これを有司に繋ぐ。興元元年、並びにその子を誅斬す。時に年六十九。その家を籍没す。

原文忠臣木強率直,不識書,不喜儒生;及罷兵權,官位崇重,常郁郁不得誌。及硃泚反,以為偽司空、兼侍中。泚率兵逼奉天,命忠臣京城留守。泚敗,忠臣走樊川別業,李晟下將士擒忠臣至,系之有司。興元元年,並其子並誅斬之,時年六十九,籍沒其家。

李希烈

原文李希烈

李希烈、遼西の人。父は大定。希烈少くして平盧軍に従い、後に李忠臣に随いて海を過ぎ河南に至る。宝応初、忠臣淮西節度と為り、希烈を署して偏裨と為し、累ねて将軍・試光禄卿・殿中監を授く。忠臣汴州を兼領し、希烈左廂都虞候と為り、開府儀同三司を加う。大暦末、忠臣軍政修まらず、事多く妹婿張恵光に委ね、押衙と為し、権を弄び恣にし、人怨む。少将丁皓等と恵光父子を斬り、忠臣朝廷に奔赴す。詔して忻王を以て淮西節度副大使と為し、希烈に蔡州刺史・兼御史中丞・淮西節度留後を授け、滑亳節度李勉をして汴州を兼領せしむ。

原文李希烈,遼西人。父大定。希烈少從平盧軍,後隨李忠臣過海至河南。寶應初,忠臣為淮西節度,署希烈為偏裨,累授將軍、試光祿卿、殿中監。忠臣兼領汴州,希烈為左廂都虞候,加開府儀同三司。大歷末,忠臣軍政不修,事多委妹婿張惠光,為押衙,弄權縱恣,人怨。與少將丁皓等斬惠光父子,忠臣奔赴朝廷。詔以忻王為淮西節度副大使,授希烈蔡州刺史、兼御史中丞、淮西節度留後,令滑亳節度李勉兼領汴州。

徳宗即位後月余、御史大夫を加え、淮西節度支度営田観察使を充て、また淮西節度を淮寧軍に改めてこれを寵す。建中元年、また検校礼部尚書を加う。会に山南東道節度梁崇義朝命を拒捍し、使臣を迫脅す。二年六月、詔して諸軍節度に兵を率いてこれを討たしむ。希烈に南平郡王を加え、漢北都知諸兵馬招撫処置使を兼ぬ。希烈崇義の衆を破り、遂にこれを討平す。希烈の功を録し、検校右僕射・同平章事を加え、実封五百戸を賜う。淄青節度李正己また軌を謀らず。三年秋、希烈に検校司空を加え、淄青兗鄆登萊斉等州節度支度営田・新羅・渤海両蕃使を兼ね、正己を討襲せしむ。希烈遂にその部三万を率いて許州に移居し、声言して使を遣わし青州に往き李納を招諭すと。その実潜かに交通し、また牒を汴州に移し供擬を備うるを令し、将に納と同く乱を為さんとす。李勉その道路陳留より合うべきを以て、乃ち道具饌を除き以てこれを待つ。希烈従わず、乃ち大いに慢罵す。ここより志意縦肆、言多く悖慢、日ごと使を遣わし河北諸賊帥等と交通す。この歳長至の日、朱滔・田悦・王武俊・李納各僭って王と称す。滔の使希烈に至り、希烈また僭って建興王・天下都元帥と称す。

原文德宗即位後月余,加御史大夫,充淮西節度支度營田觀察使,又改淮西節度淮寧軍以寵之。建中元年,又加檢校禮部尚書。會山南東道節度梁崇義拒捍朝命,迫脅使臣,二年六月,詔諸軍節度率兵討之;加希烈南平郡王,兼漢北都知諸兵馬招撫處置使。希烈破崇義眾,遂討平之。錄希烈功,加檢校右僕射、同平章事,賜實封五百戶。淄青節度李正己又謀不軌,三年秋,加希烈檢校司空,兼淄青兗鄆登萊齊等州節度支度營田、新羅、渤海兩蕃使,令討襲正己。希烈遂率所部三萬人移居許州,聲言遣使往青州招諭李納,其實潛與交通,又移牒汴州令備供擬,將與納同為亂。李勉以其道路合自陳留,乃除道具饌以待之,希烈不從,乃大慢罵。自是誌意縱肆,言多悖慢,日遣使交通河北諸賊帥等。是歲長至日,硃滔、田悅、王武俊、李納各僭稱王,滔使至希烈,希烈亦僭稱建興王、天下都元帥。

四年、希烈その将を遣わし襲いて汝州を陥れ、李元平を執り去る。東都大いに擾乱す。朝廷猶お含容を為し、太子太師顔真卿を遣わし往き宣慰せしむ。真卿発して後数日、龍武将軍哥舒曜を以て東都兼汝州行営兵馬節度と為す。希烈既に真卿を見、ただ兇言を肆にし、左右に慢罵せしめ、朝廷を指斥す。また逆党董待名・韓霜露・劉敬宗・陳質・翟暉等四人を遣わし外に伺い、州県を侵抄す。官軍皆その為に敗れ、荊南節度張伯儀全軍覆没す。また周曾・王玢・姚憺・呂従賁・康琳等を令して来たり曜を襲わしむ。曾・玢・憺等謀りて軍を回し蔡州に拠り希烈を襲討せんとす。事泄れ、並びに害に遇う。神策軍使白志貞また策謀を献じ、嘗て節度・都団練使なる者各々家僮部曲一人及び馬を出だし、劉徳信をしてこれを総べしめ希烈を討たしむ。尋いで詔して李勉を淮西招討使と為し、哥舒曜を副と為す。四月に至り、曜衆を率いて襄城に屯し、頻りに賊と戦い、皆勝たず。八月、希烈衆二万を率いて襄城を囲む。李勉また将唐漢臣を令し兵を率い劉徳信と同く曜の影援と為す。皆風望みて敗衄す。希烈兇逆既に甚だしく、帝乃ち舒王を命じて荊襄・江西・沔鄂等道節度諸軍行営兵馬都元帥と為し、大いに幕府を開く。文武僚属の盛んなる、前後出師、その比有らず。また涇原諸道に出兵を令し、皆襄城に赴かしむ。軍未だ発せず、会に涇州兵乱し、車駕奉天に幸す。その日、希烈大いに曜軍を襄城に於て破り、曜遁れて東都に帰す。賊因り乗勝して汴州を攻め陥れ、李勉奔りて宋州に帰す。

原文四年,希烈遣其將襲陷汝州,執李元平而去,東都大擾亂。朝廷猶為含容,遣太子太師顏真卿往宣慰。真卿發後數日,以龍武將軍哥舒曜為東都兼汝州行營兵馬節度。希烈既見真卿,但肆兇言,令左右慢罵,指斥朝廷。又遣逆黨董待名、韓霜露、劉敬宗、陳質、翟暉等四人伺外,侵抄州縣,官軍皆為其所敗,荊南節度張伯儀全軍覆沒。又令周曾、王玢、姚憺、呂從賁、康琳等來襲曜,曾、玢、憺等謀回軍據蔡州襲討希烈,事泄,並遇害。神策軍使白誌貞又獻策謀,令嘗為節度、都團練使者各出家僮部曲一人及馬,令劉德信總之討希烈。尋詔李勉為淮西招討使,哥舒曜為副。至四月,曜率眾屯襄城,頻與賊戰,皆不勝。八月,希烈率眾二萬圍襄城,李勉又令將唐漢臣率兵與劉德信同為曜之影援,皆望風敗衄。希烈兇逆既甚,帝乃命舒王為荊襄、江西、沔鄂等道節度諸軍行營兵馬都元帥,大開幕府,文武僚屬之盛,前後出師,未有其比。又令涇原諸道出兵,皆赴襄城。軍未發,會涇州兵亂,車駕幸奉天。其日,希烈大破曜軍於襄城,曜遁歸東都,賊因乘勝攻陷汴州,李勉奔歸宋州。

希烈性惨毒酷、毎に対戦陣に人を殺し、流血前に盈つれども、言笑飲饌自若たり。ここを以て人畏れてその教令に服従し、その死力を尽くす。その汴州を攻むるに、百姓を駆り、木土を運び壘道を築かしむ。またその未だ就かざるを怒り、乃ち駆りてこれを填し、これを湿梢と謂う。汴州に入るに及び、ここに於て僭号して武成と曰い、孫広・鄭賁・李綬・李元平を以て宰相と為す。汴州を以て大梁府と為し、李清虚を尹と為し、百官を署す。兵を遣わし東討し、寧陵に至り、竟に劉洽に拒まれて前を不得。また将翟暉を遣わし精卒を率い陳州を襲わしむ。劉洽・李納に大破せられ、生擒して暉を献ず。諸軍乗勝して汴州を進攻す。希烈遁れて蔡州に帰す。その偽署の将相鄭賁・劉敬宗等を擒う。李臯・樊沢・曲環・張建封また四面よりこれを討襲し、累ねてその郡県を抜く。希烈敗衄す。貞元二年三月、牛肉を食うに因り疾に遇う。その将陳仙奇医人陳仙甫を令し薬を置き以てこれを毒し死す。妻男骨肉兄弟合わせて一十七人、並びにこれを誅す。

原文希烈性慘毒酷,每對戰陣殺人,流血盈前,而言笑飲饌自若,以此人畏而服從其教令,盡其死力。其攻汴州,驅百姓,令運木土築壘道,又怒其未就,乃驅以填之,謂之濕梢。既入汴州,於是僭號曰武成,以孫廣、鄭賁、李綬、李元平為宰相;以汴州為大梁府,李清虛為尹,署百官。遣兵東討,至寧陵,竟為劉洽所拒,不得前。又遣將翟暉率精卒襲陳州,為劉洽、李納大破之,生擒暉以獻。諸軍乘勝進攻汴州,希烈遁歸蔡州,擒其偽署將相鄭賁、劉敬宗等。李臯、樊澤、曲環、張建封又四面討襲之,累拔其郡縣,希烈敗衄。貞元二年三月,因食牛肉遇疾,其將陳仙奇令醫人陳仙甫置藥以毒之而死。妻男骨肉兄弟共一十七人,並誅之。

初め、希烈唐州に於て象一頭を得、以て瑞応と為す。また上蔡・襄城その珍宝を獲るも、乃是れ爛車釭及び滑石の偽印なり。

原文初,希烈於唐州得象一頭,以為瑞應,又上蔡、襄城獲其珍寶,乃是爛車釭及滑石偽印也。

陳仙奇

原文陳仙奇

陳仙奇は、行伍の間に起り、性質は忠実で果断であった。李希烈の死後、朝廷より淮西節度使を授けられ、誠節を頗る尽くした。未だ幾ばくもせず、別将の呉少誠に殺され、太子太保を追贈され、布帛・米粟を賜って喪事は官が給した。

原文陳仙奇者,起於行間,性忠果。自希烈死,朝廷授淮西節度,頗竭誠節。未幾,為別將吳少誠所殺,贈太子太保,賻布帛、米粟有差,喪事官給。

呉少誠

原文吳少誠

呉少誠は、幽州潞県の人である。父は魏博節度都虞候であった。少誠は父の勲功により一子の官を授けられ、王府戸曹に初めて官に就いた。後に荊南に至り、節度使の庾準は彼を奇異とし、留めて衙門将とした。準が入朝するに従い襄漢に至り、梁崇義が憲度に従わず、異志有るを知り、少誠は密かに計略を練り成擒の策有り、自ら闕下に陳せんとした。時に李希烈が初めて節制を授けられ、鋭意功を立てんとし、少誠の計慮を見て、乃ち少誠の見解を録して奏上し、詔を以て慰撫し、次を俟たず通義郡王に封ぜられた。未だ幾ばくもせず、崇義が命に背き、希烈は制を受けて征討を専らとし、少誠を前鋒とした。崇義が平定されると、実封五千戸を賜った。後に希烈が叛くと、少誠は頗る彼に用いられた。希烈が死ぬと、少誠らは初め陳仙奇を推して軍務を統べさせ、朝廷は既に仙奇を命じたが、間もなく少誠に殺され、衆は少誠を推して留務を執らせた。朝廷は遂に申光蔡等州節度観察兵馬留後を授け、間もなく正式に節度使とした。

原文吳少誠,幽州潞縣人。父為魏博節度都虞候。少誠以父勛授一子官,釋褐王府戶曹。後至荊南,節度使庾準奇之,留為衙門將。準入覲,從至襄漢,見梁崇義不遵憲度,知有異志,少誠密計有成擒之略,將自陳於闕下。屬李希烈初授節制,銳意立功,見少誠計慮,乃以少誠所見錄奏,有詔慰飭,不次封通義郡王。未幾,崇義違命,希烈受制專征,以少誠為前鋒。崇義平,賜實封五千戶。後希烈叛,少誠頗為其用。希烈死,少誠等初推陳仙奇統戎事,朝廷已命仙奇,尋為少誠所殺,眾推少誠知留務。朝廷遂授以申光蔡等州節度觀察兵馬留後,尋正授節度。

少誠は治を行うに善く、勤倹で私なく、日々完聚に事とし、朝廷に奉じなかった。貞元三年、判官の鄭常及び大将の楊冀が少誠を逐って朝廷に命を聴かせんと謀り、試校書郎の劉渉が数十の手詔を偽造し、密かに大将らに送り、少誠の外出に因って城門を閉じて之を拒まんとした。時に少誠が中使を餞別せんと出でようとしたので、常・冀らは遂に挙事を謀った。発せんとするに臨み、人に告げられ、常・冀は先に害に遇った。その将の李嘉節らは各々偽詔を持って罪を請うたが、少誠は悉くこれを宥した。その大将の宋炅・曹斉は京師に奔帰した。

原文少誠善為治,勤儉無私,日事完聚,不奉朝廷。貞元三年,判官鄭常及大將楊冀謀逐少誠以聽命於朝,試校書郎劉涉假為手詔數十,潛致於大將,欲因少誠之出,閉城門以拒之。屬少誠將出餞中使,常、冀等遂謀舉事;臨發,為人所告,常、冀先遇害。其將李嘉節等各持假詔請罪,少誠悉宥之。其大將宋炅、曹齊奔歸京師。

十五年、陳許節度使の曲環が卒すと、少誠は擅に兵を出して臨潁県を攻掠し、節度留後の上官涚が兵を遣わして救援に赴かせたが、臨潁鎮使の韋清が少誠と通じ、救兵三千余人を悉く擒縛して去った。九月、遂に許州を囲んだ。間もなく詔を下して少誠の官爵を削奪し、十六道の兵馬を分遣して進討させた。十二月、官軍は小溵河にて敗衄した。明年正月、夏州節度使の韓全義を淮蔡招討処置使とし、北路行営諸軍将士は並びに全義の指揮を取らせ、陳許節度留後の上官涚を副使に充てた。五月、全義は少誠の将の呉秀・呉少陽らと

原文十五年,陳許節度曲環卒,少誠擅出兵攻掠臨潁縣,節度留後上官涚遣兵赴救,臨潁鎮使韋清與少誠通,救兵三千余人,悉擒縛而去。九月,遂圍許州。尋下詔削奪少誠官爵,分遣十六道兵馬進討。十二月,官軍敗衄於小溵河。明年正月,夏州節度使韓全義為淮蔡招討處置使,北路行營諸軍將士,並取全義指揮,陳許節度留後上官涚充副使。五月,全義與少誠將吳秀、吳少陽等戰於

溵水の南にて戦い、官軍はまた敗れた。七月、全義は五楼行営に軍を頓すも、賊に乗ぜられて大潰し、全義は都監軍使の賈秀英・賈国良らと夜遁し、遂に溵水に城を守った。汴宋・徐泗・淄青の兵馬は直ちに陳州に向かい、四面に営を列ねた。少誠の兵は溵水に五、六里に逼って営を下し、韓全義の諸軍はまた退いて陳州を保った。その汴州・河陽等の兵は各々私に本道に帰り、陳許の将の孟元陽と神策兵は各々率いる所の部を留めて溵水に軍した。全義は昭義・滑州・河陽・河陽中都の将凡そ四人を斬ったが、然れども竟に未だ嘗て陣を整えて交鋒せず、而して王師は累ねて挫け潰れた。少誠は間もなく兵を引いて蔡州に退帰した。遂に詔を下して雪冤し、その官爵を復し、累ねて検校僕射を加えた。順宗即位の時、同中書門下平章事を加えた。元和初め、検校司空に遷り、前の如く平章事とした。元和四年十一月卒し、年六十、三日間朝を廃し、司徒しとを贈られた。

原文溵水南,官軍復敗。七月,全義頓軍於五樓行營,為賊所乘,大潰,全義與都監軍使賈秀英、賈國良等夜遁,遂城守溵水。汴宋、徐泗、淄青兵馬直趣陳州,列營四面。少誠兵逼溵水五、六里下營,韓全義諸軍又退保陳州。其汴州、河陽等兵各私歸本道,陳許將孟元陽與神策兵各率所部留軍溵水。全義斬昭義、滑州、河陽、河中都將凡四人,然竟未嘗整陣交鋒,而王師累挫潰。少誠尋引兵退歸蔡州。遂下詔洗雪,復其官爵,累加檢校僕射。順宗即位,加同中書門平章事。元和初,遷檢校司空,依前平章事。元和四年十一月卒,年六十,廢朝三日,贈司徒。

呉少陽

原文吳少陽

呉少陽は、本は滄州清池の人である。初め、呉少誠の父の翔が魏博軍中に在り、少陽と相愛した。少誠が淮西留守を執るに及び、乃ち厚く金帛を以て少陽を取って至らせ、則ち堂弟と名付け、軍職に署し、累ねて官爵を奏し、少誠の家に出入りし、情意甚だ昵かった。少陽は少誠の猜忍を推し、害せられるを懼れ、乃ち外に出て防捍の任に当たらんことを請うた。少誠は乃ち表して申州刺史・兼御史大夫とし、凡そ五年であった。少陽は頗る寛易で、而して少誠の衆は悦んでこれに附いた。少誠が病篤くなると、家僮の単於熊児なる者が、偽って少誠の意を以て少陽を取って至らせた。時に少誠は已に人事を知らず、乃ち偽って少陽を署して副使を摂り、軍州事を知らせた。少誠の子の元慶は、年二十余り、先に軍職に在り、兼御史中丞であったが、少陽は密かにこれを害した。少誠が死ぬと、少陽は自ら留後となった。時に王承宗が士真の継承を求め、詔を受けず。憲宗は怒り、承宗を討たんとしたが、両河に兵を連ねるを欲せず、乃ち詔して遂王宥に遥かに彰義軍節度大使を領せしめ、少陽を留後とした。遂に彰義軍節度使・検校工部尚書を授けた。少陽は蔡州を拠すること凡そ五年、朝覲しなかった。汝南には広野大沢多く、馬畜を養うを得、時に寿州茶山の利を奪掠し、内には数え亡命を匿い、以てその軍を富実せしめた。又屡々牧馬を以て献じ、詔は因ってこれを善しとした。元和九年九月卒し、右僕射を贈られた。

原文吳少陽,本滄州清池人。初,吳少誠父翔在魏博軍中,與少陽相愛。及少誠知淮西留守,乃厚以金帛取少陽至,則名以堂弟,署為軍職,累奏官爵,出入少誠家,情旨甚暱。少陽度少誠猜忍,懼為所害,乃請出外以任防捍之任,少誠乃表為申州刺史、兼御史大夫,凡五年。少陽頗寬易,而少誠之眾悅附焉。及少誠病亟,家僮單於熊兒者,偽以少誠意取少陽至,時少誠已不知人,乃偽署少陽攝副使、知軍州事。少誠子元慶,年二十余,先為軍職,兼御史中丞,少陽密害之。及少誠死,少陽自為留後。時王承宗求繼士真,不受詔;憲宗怒,以討承宗,不欲兵連兩河,乃詔遂王宥遙領彰義軍節度大使,以少陽為留後。遂授彰義軍節度使、檢校工部尚書。少陽據蔡州凡五年,不朝覲。汝南多廣野大澤,得豢馬畜,時奪掠壽州茶山之利,內則數匿亡命,以富實其軍。又屢以牧馬來獻,詔因善之。元和九年九月卒,贈右僕射。

呉元済は、少陽の長子である。初め試協律郎・兼監察御史・摂蔡州刺史とした。父の死に及び、喪を発せず、病と称して聞こえ、因って偽って少陽の表を作り、元済に兵務を主たることを請わせた。帝は医工を遣わしてこれを候したが、即ち少陽の疾癒えたと称し、会わずして還った。先に、少陽の判官の蘇兆・楊元卿及びその将の侯惟清が嘗て共に少陽のために朝覲の計を画した。元済が自ら軍を領するに及び、兇狠で義無く、唯軍中の兇悍の徒を昵びた。元より蘇兆を便とせず、縊殺してその屍を家に帰し、侯惟清を械して囚えた。時に朝廷は誤って惟清が已に死したと聞き、兵部尚書を贈り、蘇兆に右僕射を贈った。楊元卿は先に京師にて奏事し、宰相の李吉甫に淮西事の経略を尽く言うを得た。初め、少陽が病と称して聞こえた時、元卿は凡そ淮西の使いで道路に在る者は、所在に留め止めんことを請うた。少陽が卒して凡そ四十日、朝を輟めず、但し外に将を易え兵を加えて待った。その邸吏が何の謂れもなく妄りに董重質が已に元済を殺し、併せてその家を屠ったと伝える。李吉甫は急ぎ対して拝賀を請い、乃ち朝を輟めた。数日して、元済が尚在するを知った。時に賊の陰計は已に成り、群衆は四出し、狂悍にして遏え難く、舞陽を屠り、葉県を焚き、魯山・襄城を攻掠した。汝州・許州及び陽翟の人は多く山谷荊棘の間に逃れ伏し、その殺傷驅剽される者千里に及び、関東は大いに恐れた。

原文吳元濟,少陽長子也。初為試協律郎、兼監察御史、攝蔡州刺史。及父死,不發喪,以病聞,因假為少陽表,請元濟主兵務。帝遣醫工候之,即稱少陽疾愈,不見而還。先是,少陽判官蘇兆、楊元卿及其將侯惟清嘗同為少陽畫朝覲計;及元濟自領軍,兇狠無義,唯暱軍中兇悍之徒。素不便兆,縊殺之,歸其屍於家,械侯惟清而囚之。時朝廷誤聞惟清已死,贈兵部尚書,贈蘇兆以右僕射。楊元卿先奏事在京師,得盡言經略淮西事於宰相李吉甫。始,少陽以病聞,元卿請凡淮西使在道路者,所在留止之。及少陽卒,凡四十日,不為輟朝,但易將加兵於外以待。其邸吏無何妄傳董重質已殺元濟,並屠其家;李吉甫遽請對拜賀,乃輟朝。數日,知元濟尚在。時賊陰計已成,群眾四出,狂悍而不可遏,屠舞陽,焚葉縣,攻掠魯山、襄城。汝州、許州及陽翟人多逃伏山谷荊棘間,為其殺傷驅剽者千里,關東大恐。

十月、陳州刺史の李光顔を忠武軍節度使とし、又山南東道節度使の厳綬を申光蔡等州招撫使に充て、仍って内常侍の崔潭峻に綬の軍を監せしめた。十年正月、綬の軍は賊の西境に臨んだ。詔して曰く。

原文十月,以陳州刺史李光顏為忠武軍節度使,又以山南東道節度使嚴綬充申光蔡等州招撫使,仍令內常侍崔潭峻監綬軍。十年正月,綬軍臨賊西境。詔曰:

呉元済は人倫を逆絶し、天常を反易す。父の喪に居らず、軍政を擅に領す。詔旨を以て諭すも、曾て謙恭無く、一方の人を熒惑し、三軍の衆を迫脅す。少陽嘗て任使を経たるを以て、之が為に軫悼し、命して吊祭を申べしめ、使臣を臨遣す。封疆を陵虐し、遂に稽阻を致し、朝廷の理を絶ち、父子の恩を忘る。旋又舞陽を掩寇し、吏卒を傷殘し、葉県を焚焼し、閭閻を騒擾し、奪攘を恣に行い、畏忌する所無し。朕賞延の義を念い、重ねて籓帥の門を傷み、尚ほ忠順の途に納れ、顕栄の地に処さんと欲す。能く怒を飭さず、猶ほ包荒を為し、再び詔書を降し、俾く招撫を申べしむ。而して毒螫滋に甚だしく、奸心靡く悛らず、寿春西南、又た鎮柵を陥し、窮兇稔悪し、暴を縱え災を延ぶ。覆載の容れざる所、人神の共に棄つる所、良に已むを得ざるに非ず、此の戎を興すに致る。呉元済の身に在る官爵、並びに宜しく削奪を令すべし。宣武・大寧・淮南・宣歙等道の兵馬をして合勢せしめ、山南東道及び魏博・荊南・江西・剣南東川の兵馬をして鄂嶽許に会せしめ、東都防禦使をして懐鄭汝節度及び義成の兵馬と掎角相応せしめ、同期して進討せしむ。

原文吳元濟逆絕人理,反易天常;不居父喪,擅領軍政。諭以詔旨,曾無謙恭,熒惑一方之人,迫脅三軍之眾。以少陽嘗經任使,為之軫悼,命申吊祭,臨遣使臣。陵虐封疆,遂致稽阻,絕朝廷之理,忘父子之恩。旋又掩寇舞陽,傷殘吏卒,焚燒葉縣,騷擾閭閻,恣行奪攘,無所畏忌。朕念賞延之義,重傷籓帥之門,尚欲納於忠順之途,處在顯榮之地。未能飭怒,猶為包荒,再降詔書,俾申招撫。而毒螫滋甚,奸心靡悛,壽春西南,又陷鎮柵,窮兇稔惡,縱暴延災。覆載之所不容,人神之所共棄,良非獲已,致此興戎。吳元濟在身官爵,並宜令削奪。令宣武、大寧、淮南、宣歙等道兵馬合勢,山南東道及魏博、荊南、江西、劍南東川兵馬與鄂嶽許會,東都防禦使與懷鄭汝節度及義成兵馬掎角相應,同期進討。

二月、綬の兵賊に襲われ、磁丘に敗れ、唐州に退保す。四月、光顔賊党を破る。元済人を遣わし鎮州王承宗・淄鄆李師道に援を求む。二帥朝廷に上表し、元済の罪を赦さんことを請う。朝旨従わず。是より両河の賊帥所在竊発し、以て王師を沮撓せんことを冀う。五月、承宗・師道盗を遣わし河陰倉を焼く。詔して御史中丞裴度をして軍前に宣喻せしめ、用兵の形勢を観さしむ。度還り奏して曰く、「臣諸将を観るに、唯だ光顔勇義にして心を尽くす。必ず成功有らん。」上意甚だ悦ぶ。翌日、光顔時曲に於て賊を大破せしことを奏す。上曰く、「度光顔を知る、至りと謂うべし。」乃ち度を以て刑部侍郎を兼ねしむ。是より中外相賀し、決して賊を赦さず、天下の兵を征し申・蔡の郊を環らしむ。大小十余鎮。六月、承宗・師道盗を遣わし京城に伏せ、宰相武元衡・中丞裴度を殺す。衡先に死し、度重傷にして免る。憲宗特り怒り、即ち度を宰相と命じ、淮右の用兵の事、一に之を委ぬ。七月、李師道嵩山の僧円浄を遣わし山賊と留邸の兵を結び、東都を焚焼せんと欲す。先んずる事敗れて禍弭ぐ。厳綬退罷し、乃ち汴州節度使韓弘を以て淮右行営兵馬都統と為す。高霞寓名有るを以て、用いて唐鄧節度と為す。

原文二月,綬兵為賊所襲,敗於磁丘,退保唐州。四月,光顏破賊黨,元濟遣人求援於鎮州王承宗、淄鄆李師道;二帥上表於朝廷,請赦元濟之罪,朝旨不從。自是兩河賊帥所在竊發,冀以沮撓王師。五月,承宗、師道遣盜燒河陰倉,詔御史中丞裴度於軍前宣喻,觀用兵形勢。度還奏曰:「臣觀諸將,唯光顏勇義盡心,必有成功。」上意甚悅。翌日,光顏奏大破賊於時曲,上曰:「度知光顏,可謂至矣!」乃以度兼刑部侍郎。自是中外相賀,決不赦賊,征天下兵環申、蔡之郊,大小十余鎮。六月,承宗、師道遣盜伏於京城,殺宰相武元衡、中丞裴度;衡先死,度重傷而免。憲宗特怒,即命度為宰相,淮右用兵之事,一以委之。七月,李師道遣嵩山僧圓凈結山賊與留邸兵,欲焚燒東都,先事敗而禍弭。嚴綬退罷,乃以汴州節度使韓弘為淮右行營兵馬都統;以高霞寓有名,用為唐鄧節度。

十一年春、諸軍雲合す。惟だ李光顔・懐汝節度烏重胤心に顧望無く、旦夕血戦し、継ぎて戎捷を献ず。六月、高霞寓賊に撃たれ、鉄城に敗れ、新興柵に退保す。時に諸軍の勝負皆実を聞かず、多く虚に克捷を称す。霞寓の敗るるに及び、中外恟々たり。宰相諫官屡に兵を罷むるを以て請う。唯だ裴度破賊に堅し。尋いで袁滋を以て霞寓に代わり唐鄧帥と為す。滋柔懦にして軍を能くせず。十二年正月、袁滋復た貶せらる。閑廄使李醖表して軍前に自ら効せんことを請う。乃ち醖を用いて唐鄧帥と為し、以て滋に代う。醖軍境に圧し、賊の文城柵を抜き、柵将呉秀琳を擒え、又た賊将李祐を獲る。李光顔亦た賊の郾城を抜く。元濟始めて懼れ、左右及び守城の卒を尽く発し、董重質に属して以て光顔・重胤に抗せしむ。

原文十一年春,諸軍雲合,惟李光顏、懷汝節度烏重胤心無顧望,旦夕血戰,繼獻戎捷。六月,高霞寓為賊所擊,敗於鐵城,退保新興柵。時諸軍勝負皆不實聞,多虛稱克捷;及霞寓敗,中外恟々。宰相諫官屢以罷兵為請,唯裴度堅於破賊。尋以袁滋代霞寓為唐鄧帥,滋柔懦不能軍。十二年正月,袁滋復貶,閑廄使李醖表請軍前自效,乃用醖為唐鄧帥以代滋。醖軍壓境,拔賊文城柵,擒柵將吳秀琳,又獲賊將李祐。李光顏亦拔賊郾城。元濟始懼,盡發左右及守城卒,屬董重質以抗光顏、重胤。

六月、元済降を乞う。群賊に制せられ、能く自ら抜くこと無し。上元兇已に蹙れるを以て、兵未だ賊城に臨まず、輓饋日殫く、因りて延英に宰相に計を問う。裴度曰く、「賊力已に困す。但だ群帥一ならず、故に降を決する能わず。」上曰く、「卿決して能く行かんや。」曰く、「臣賊と偕に全からんことを誓わず。」七月、詔して度を以て彰義軍節度使と為し、申光蔡四面行営招撫使を兼ね、郾城を行在と為し、蔡州を節度所と為す。八月、度郾城に至り、士衆を激勵す。軍士度の至るを喜び、賞罰必ず行わるるを以て、皆願く輸罄せんとす。毎に出でて労うに、軍士流涕する者有り。

原文六月,元濟乞降,為群賊所制,不能自拔。上以元兇已蹙,兵未臨於賊城,輓饋日殫,因延英問計於宰相。裴度曰:「賊力已困,但群帥不一,故未能決降。」上曰:「卿決能行乎?」曰:「臣誓不與賊偕全。」七月,詔以度為彰義軍節度使,兼申光蔡四面行營招撫使,以郾城為行在,蔡州為節度所。八月,度至郾城,激勵士眾,軍士喜度至,以賞罰必行,皆願輸罄;每出勞,軍士有流涕者。

時に李醖文城柵に営す。既に呉秀琳・李祐を得て、其の用いる可きを知り、委信疑い無く、日夜帳中に計事す。祐曰く、「元済の勁軍多くは洄曲西境に在りて防捍す。而して蔡を守る者は皆市人疲耄の卒なり。虚に乗じて掩襲し、直ちに懸匏に抵るべし。賊将の之を聞くに比すれば、元濟擒えらるる成らん。」醖之を然りとし、裴度に咨る。度曰く、「兵奇に出さざれば勝たず。常侍の良図なり。」十一月、醖夜軍を出し、李祐に勁騎三千を率いて前鋒と為さしめ、田進誠三千を後軍と為し、醖自ら三千を率いて中軍と為す。其の月十日夜、蔡州城下に至り、墻を坎りて畢く登る。賊之を覚えず。十一日、衙城を攻め、元濟並びに其の家屬を擒えて以て聞かしむ。

原文時李醖營文城柵,既得吳秀琳、李祐,知其可用,委信無疑,日夜與計事於帳中。祐曰:「元濟勁軍,多在洄曲西境防捍,而守蔡者皆市人疲耄之卒,可以乘虛掩襲,直抵懸匏,比賊將聞之,元濟成擒矣!」醖然之,咨於裴度。度曰:「兵非出奇不勝,常侍良圖也。」十一月,醖夜出軍,令李祐率勁騎三千為前鋒,田進誠三千為後軍,醖自率三千為中軍。其月十日夜,至蔡州城下,坎墻而畢登,賊不之覺。十一日,攻衙城,擒元濟並其家屬以聞。

初め、元濟の叛くや、其の兇狠を恃む。然れども軍を治むるに紀綱無し。其の将趙昌洪・淩朝江・董重質等各々兵を権めて外寇す。李師道鄆州の塩、城寧陵・雍丘の間を往来す。韓弘知りて禁ぜず。淮右少誠兵を阻みしより已来、三十余年、王師討を加うるも、未だ嘗て其の城下に及ばず、嘗て韓全義を走らしめ、于頔に敗る。故に驕悍にして顧忌する所無し。且つ城池の重固を恃み、陂浸阻回有るを以て、故に天下の兵を以て環攻すること三年、克する所は一県のみ。高霞寓・李遜・袁滋を黜するに及び、諸軍始めて進む。又た陰山府沙阤の驍騎・邯鄲の勇卒を得、光顔・重胤の奮命、及び丞相の臨統、諸将首尾の計を破り、力めて元悪を擒う。

原文初,元濟之叛,恃其兇狠,然治軍無紀綱。其將趙昌洪、淩朝江、董重質等各權兵外寇。李師道鄆州之鹽,城往來寧陵、雍丘之間,韓弘知而不禁。淮右自少誠阻兵已來,三十余年,王師加討,未嘗及其城下,嘗走韓全義,敗於頔,故驕悍無所顧忌。且恃城池重固,有陂浸阻回,故以天下兵環攻三年,所克者一縣而已。及黜高霞寓、李遜、袁滋,諸軍始進。又得陰山府沙阤驍騎、邯鄲勇卒,光顏、重胤之奮命,及丞相臨統,破諸將首尾之計,力擒元惡。

申・蔡の始め、人は希烈・少誠の虐法に劫かれて、其の帰する所を忘る。数十年の後、長者は衰喪し、而して壮者は毒暴に安んじて搏噬ぜいに恬たり。地既に馬少なく、而して広く騾を畜い、之に乗じて戦を教え、之を騾子軍と謂う。尤も勇悍と称せらる。而して甲仗皆雷公星文を画きて、以て厭勝と為す。而して少誠能く奸謀を以て衆心を固む。

原文申、蔡之始,人劫於希烈、少誠之虐法,而忘其所歸。數十年之後,長者衰喪,而壯者安於毒暴而恬於搏噬。地既少馬,而廣畜騾,乘之教戰,謂之騾子軍。尤稱勇悍,而甲仗皆畫為雷公星文,以為厭勝;而少誠能以奸謀固眾心。

初め、韓全義溵水に敗る。蔡兵全義の帳中に公卿間の問訊の書を得たり。少誠束ねて衆に諭して曰く、「朝廷の公卿此の書を以て全義に托し、蔡州を収むる日、一将士の妻女を乞いて以て婢妄と為さんとす。」此を以て其の衆を激怒し、其の帰向の心を絶つ。是を以て蔡人に老死して天子の恩宥を聞かざる者有り。故に堅く賊に用いらる。地は中州と雖も、人心夷貊に過ぐ。乃ち天下の豪鋭を搜閲し、三年にして後に屈するに至るは、彼将才にして力備わるに非ず、蓋し勢に駆られ性に習い、教義の致す所を知らざるなり。

原文初,韓全義敗於溵水,蔡兵於全義帳中得公卿間問訊書,少誠束而諭眾曰:「朝廷公卿以此書托全義,收蔡州日,乞一將士妻女以為婢妄。」以此激怒其眾,絕其歸向之心。是以蔡人有老死不聞天子恩宥者,故堅為賊用。地雖中州,人心過於夷貊,乃至搜閱天下豪銳,三年而後屈者,彼非將才而力備,蓋勢驅性習,不知教義之所致也。

元濟京に至る。憲宗興安門に禦して俘を受く。百僚楼前に賀を称す。乃ち廟社に献じ、両京に徇し、独柳に之を斬る。時に年三十五。其の夜其の首を失う。妻沈氏、掖庭に没入す。弟二人・子三人、江陵に流して之を誅す。判官劉協庶七人皆斬らる。光・蔡等州平ぎ、始めて王土と為る復す。

原文元濟至京,憲宗禦興安門受浮,百僚樓前稱賀,乃獻廟社,徇於兩京,斬之於獨柳,時年三十五。其夜失其首。妻沈氏,沒入掖庭;弟二人、子三人,流於江陵誅之;判官劉協庶七人皆斬。光、蔡等州平,始復為王土矣。

【史臣曰】

原文【史臣曰】

史臣曰く、治乱は勢なり、勢乱れて卒に治むること能はず。長源は法を以て驕軍を縄し、禍踵を旋らさず。則ち董公の寛柔、謂ふ無きにしも非ず。古の名将、陰謀怨望を以て、其の族を全うするもの鮮し。董秦始めは忠義に奮ひ、長者の言多し、其の顕赫なる宜しきも、及んで失意して邪を挟み、俄に淮陰の戮に被る、惜しむべし。呉少誠は希烈の乱の胎たり、其の軍を奪はんと謀るも、及んで嗣ぎて滅ぶ。而して元済は希烈の狂悖を效ひ、天地無しと謂ふ、人の兇險、一に斯くに至る。是を知る、王者の治を禦するの道、其れ忽にすべけんや。

原文史臣曰:治亂,勢也,勢亂不能卒治。長源以法繩驕軍,禍不旋踵;則董公之寬柔不無謂。古之名將,以陰謀怨望,鮮全其族者。董秦始奮忠義,多長者言,宜其顯赫,及失意挾邪,俄被淮陰之戮,惜哉!吳少誠為希烈之亂胎,雖謀奪其軍,及嗣而滅。而元濟效希烈之狂悖,謂無天地,人之兇險,一至於斯!是知王者禦治之道,其可忽諸!

贊

原文【贊】

贊に曰く、聖哲の君は、名と器を慎む。不軌の臣は、寵を得れば則ち戾る。董は怨みて族し、呉は悖りて菹らる。乱を好み禍を楽む、前車を監とすべし。

原文贊曰:聖哲之君,慎名與器。不軌之臣,得寵則戾。董怨而族,吳悖而菹。好亂樂禍,可監前車。