舊唐書

巻144

巻144

舊唐書

原文舊唐書

卷一百四十四

原文卷一百四十四

列傳第九十四 尚可孤 李觀 戴休顏 陽惠元 李元諒 韓遊瑰 賈隱林 杜希全 尉遲勝 邢君牙 楊朝晟 張敬則

原文列傳第九十四 尚可孤 李觀 戴休顏 陽惠元 李元諒 韓遊瑰 賈隱林 杜希全 尉遲勝 邢君牙 楊朝晟 張敬則

尚可孤

原文尚可孤

尚可孤は、東部鮮卑の宇文部の別種であり、代々松州・漠州の間に居住していた。天宝末年に帰国し、范陽節度使安禄山に隷属し、後に史思明に仕えた。上元年中に帰順し、累次して左・右威衛二大將軍同正を授けられ、神策大将を充任し、前後の功績により試太常卿に改められ、なお実封一百五十戸を賜った。魚朝恩が禁軍を統率した時、その勇を愛し、甚だ委遇して、養子と為し、魚氏を姓とし、名を智德と奏上し、禁兵三千を率いて扶風県に鎮し、後に武功に移った。可孤は扶風・武功に凡そ十余年在り、士伍は整い肅し、軍邑はこれを安んじた。朝恩が死ぬと、可孤に李氏を姓とし、名を嘉勛と賜う。時に李希烈が反叛し、建中四年七月、兼御史中丞・荊襄応援淮西使を除かれ、なお本姓名の尚可孤に復し、統べる所の衆を率いて山南に赴き、累次戦功を挙げた。

原文尚可孤,東部鮮卑宇文之別種也,代居松、漠之間。天寶末歸國,隸范陽節度安祿山,後事史思明。上元中歸順,累授左、右威衛二大將軍同正,充神策大將,以前後功改試太常卿,仍賜實封一百五十戶。魚朝恩之統禁軍,愛其勇,甚委遇之,俾為養子,奏姓魚氏,名智德,以禁兵三千鎮於扶風縣,後移武功。可孤在扶風、武功凡十余年,士伍整肅,軍邑安之。朝恩死,賜可孤姓李氏,名嘉勛。會李希烈反叛,建中四年七月,除兼御史中丞、荊襄應援淮西使,仍復本姓名尚可孤,以所統之眾赴山南,累有戰功。

涇原の兵が叛すると、詔して可孤の軍を藍田に征し、賊衆が方に盛んなり、遂に七盤に営し、城柵を修めてこれに居した。賊将の仇敬らが来寇し、可孤は頻りにこれを撃破し、因って藍田県を収めた。興元元年三月、検校工部尚書・兼御史大夫・神策京畿渭南商州節度使に遷る。四月、仇敬がまた来寇し、可孤は兵を率いて急撃し、仇敬を擒えて斬り、遂に進軍して副元帥李晟と決策して攻討した。五月、晟は可孤及び駱元光の軍を率いて京城を収め、可孤の師は先鋒と為った。京師が平定すると、功により検校右僕射に昇り、馮翊郡ひょうよくぐん王に封ぜられ、邑を増して通前八百戸とし、実封二百戸とした。

原文及涇原兵叛,詔征可孤軍至藍田,賊眾方盛,遂營於七盤,修城柵而居之。賊將仇敬等來寇,可孤頻擊破之,因收藍田縣。興元元年三月,遷檢校工部尚書、兼御史大夫、神策京畿渭南商州節度使。四月,仇敬又來寇,可孤率兵急擊,擒仇敬斬之,遂進軍與副元帥李晟決策攻討。五月,晟率可孤及駱元光之軍收京城,可孤之師為先鋒。京師平,以功升檢校右僕射,封馮翊郡王,增邑通前八百戶,實封二百戶。

可孤は性謹願沈毅にして、既に勲績ありながら、衆会の中、未だ功を言わず。賊が平定した後、白花亭に営し、衆を禦するに公平にして、号令厳整、時に人これを称えた。李晟は甚だこれを親重した。李懐光が河中に叛すると、詔して可孤に師を帥いて諸軍と進討せしめ、沙苑に次ぐ。疾に遇い、軍中に卒す。司徒しとを贈られ、賻として布帛米粟を加等し、喪葬に須いる所は、並びに官に給せしむ。

原文可孤性謹願沈毅,既有勛勣,眾會之中,未嘗言功。賊平之後,營於白花亭,禦眾公平,號令嚴整,時人稱焉。李晟甚親重之。及李懷光以河中叛,詔可孤帥師與諸軍進討,次於沙苑,遇疾,卒於軍。贈司徒,賻布帛米粟加等,喪葬所須,並令官給。

李観

原文李觀

李観は洛陽らくようの人、その先は趙郡より徙り、秋官員外郎敬仁の姪孫なり。少より武芸を習い、沈厚寡言にして、将帥の識度あり。乾元中、策を以て朔方節度使郭子儀に干る。子儀これを善しとし、坊州刺史呉伷を佐けしめ、防遏使を充任せしむ。尋いで憂いにより免じ、盩厔の別業に居す。広徳初、吐蕃が入寇し、鑾駕が陝に幸すや、盩厔において謁見し、郷里の子弟千余人を率いて黒水の西を守り、戎人敢えて近づかず。時に嶺南節度使楊慎微が鎮に将いかんとし、観の権謀を以て、偏将に充て、軍政を総べしむるを奏す。徐浩・李勉が相継いで広州を領するに及び、特に信任を加え、麾下の兵甲悉くこれを委ぬ。馮崇道・朱泚を平らぐる時功あり、累次大将に遷る。李勉が滑州に移鎮し、累次奏して試殿中監を授け、開府儀同三司を加う。追って闕に赴き、右龍武将軍を授かる。

原文李觀,洛陽人,其先自趙郡徙焉,秋官員外郎敬仁侄孫也。少習武藝,沈厚寡言,有將帥識度。乾元中,以策幹朔方節度使郭子儀;子儀善之,令佐坊州刺史吳伷,充防遏使。尋以憂免,居盩厔別業。廣德初,吐蕃入寇,鑾駕之陜,覲於盩厔,率鄉里子弟千余人守黑水之西,戎人不敢近。會嶺南節度楊慎微將之鎮,以觀權謀,奏充偏將,俾總軍政。及徐浩、李勉繼領廣州,尤加信任,麾下兵甲悉委之。平馮崇道、硃泚時有功,累遷大將。李勉移鎮滑州,累奏授試殿中監,加開府儀同三司。追赴闕,授右龍武將軍。

建中末、涇師が叛し、観は時に上直し、衛兵千余人を領して奉天に扈従す。詔して諸軍戍卒の都巡警訓練を為し、三数日の間に、二千余衆を加えて召し、これを通衢に列し、鼙鼓を整え肅し、城内これにより気を増す。徳宗これに倚頼し、封二百戸を賜う。二子の宏・寓に、八品の京官を授く。駕が奉天を出づるに及び、令狐建・李升・韋清らと咸に羈靮を執り、艱険に周旋し、皆功労著し。駕が京師に還るや、詔して後軍禁衛を総べしむ。

原文建中末,涇師叛,觀時上直,領衛兵千余人扈從奉天。詔都巡警訓練諸軍戍卒,三數日間,加召二千余眾,列之通衢,整肅鼙鼓,城內因之增氣。德宗倚賴之,賜封二百戶;二子宏、寓,授八品京官。及駕出奉天,與令狐建、李升、韋清等鹹執羈靮,周旋艱險,皆著功勞。駕還京師,詔總後軍禁衛。

興元元年閏十月、四鎮北庭行軍涇原節度使・検校兵部尚書に拝す。鎮に在ること四年、拓境の績は無きも、卒を励まし糧を儲え、訓整寧輯す。平涼の師が会するに及び、渾瑊既に戎備無く、観は狡謀を伺い知り、潜かに精兵五千を択びて険道に要伏す。瑊が遁帰するに及び、観の遊軍及び李元諒の師の表裏に頼りて免る。帝は優賞し、賜賚甚だ厚く、特詔を以て褒美す。その年、京師に朝し、少府監・検校工部尚書を除かれ、疾を以て終わる。貞元四年、太子少傅を贈らる。

原文興元元年閏十月,拜四鎮北庭行軍涇原節度使、檢校兵部尚書。在鎮四年,雖無拓境之績,勵卒儲糧,訓整寧輯。及平涼之師會,渾瑊既無戎備,觀伺知狡謀,潛擇精兵五千要伏險道。及瑊遁歸,賴觀遊軍及李元諒之師表裏以免。帝優賞,賜賚甚厚,特詔褒美。其年,朝京師,除少府監、檢校工部尚書,以疾終。貞元四年,贈太子少傅。

戴休顔

原文戴休顏

戴休顔は夏州の人。軍伍に在りて胆略を以て称せらる。大暦中、郭子儀の部将と為り、戦功により累次塩州刺史に遷る。奉天の難に、倍道して所部の蕃漢三千人を以て号泣して難に赴く。徳宗これを嘉し、実封二百戸を賜う。渾瑊・杜希全・韓遊瑰らと捍禦して功あり。車駕再び梁・洋に幸すや、奉天を留守す。李懐光が叛して咸陽に拠り、使をして休顔を誘わしむるに及び、休顔は三軍を集めてその使を斬り、城を嬰かこって自ら守る。懐光大いに駭き、遂に涇陽より夜遁す。その月、検校工部尚書・奉天行営節度使に拝す。李晟が京師を収むるや、乃ち渾瑊とともに泚の偏師を破り、首三千級を斬り、休顔は賊を追って中渭橋に至る。李晟既に宮闕を清むるや、休顔は瑊らと兵を率いて岐陽に赴き、泚の余衆を邀撃す。策勲するに及び、検校右僕射を加えられ、封は六百戸に至る。七月、駕に扈従して京に至り、特めて女楽・甲第を賜い以て功伐を褒め、尋いで左龍武将軍に拝す。貞元元年卒す。年五十九。朝を廃すること一日、贈賻差等あり。

原文戴休顏,夏州人。在軍伍以膽略稱。大歷中,為郭子儀部將,以戰功累遷至鹽州刺史。奉天之難,倍道以所部蕃漢三千人號泣赴難;德宗嘉之,賜實封二百戶。與渾瑊、杜希全、韓遊瑰等捍禦有功。車駕再幸梁、洋,留守奉天。及李懷光叛據咸陽,使誘休顏;休顏集三軍斬其使,嬰城自守。懷光大駭,遂自涇陽夜遁。其月,拜檢校工部尚書、奉天行營節度使。李晟收京師,乃與渾瑊破泚偏師,斬首三千級,休顏追賊至中渭橋。李晟既清宮闕,休顏與瑊等率兵赴岐陽邀擊泚余眾。及策勛,加檢校右僕射,封至六百戶。七月,扈駕至京,特賜女樂、甲第以褒功伐,尋拜左龍武將軍。貞元元年卒,年五十九,廢朝一日,贈賻有差。

陽恵元

原文陽惠元

陽恵元は平州の人。材力を以て軍に従い、平盧節度使劉正臣に隷属す。後に田神功・李忠臣らと相継いで海を泛して青・斉の間に至り、忠勇にして権略多く、名将と称せらる。また兵を以て神策に隷し、神策京西兵馬使を充任し、奉天に鎮す。

原文陽惠元,平州人。以材力從軍,隸平盧節度劉正臣。後與田神功、李忠臣等相繼泛海至青、齊間,忠勇多權略,稱為名將。又以兵隸神策,充神策京西兵馬使,鎮奉天。

初め、大暦中、両河平定し、事多く姑息なり。李正己は淄・青・斉・海・登・萊・沂・密・徳・棣・曹・濮・徐・兗・鄆の十五州の地を有し、兵十万を養い、李宝臣は恆・易・深・趙・滄・冀・定の七州の地を有し、兵五万あり、田承嗣は魏・博・相・衛・洺・貝・澶の七州の地を有し、兵五万あり、梁崇義は襄・鄧・均・房・復・郢の六州の地を有し、その衆二万。皆始めは叛乱によりて侯を得、各々土宇を擅にし、泛ひろく朝旨を稟うくるも、威刑爵賞、生殺自ら専らにし、盤根結固、相い表裏を為す。朝廷は常に大信を示し、拘限せず、緩むれば則ち嫌釁自ら作り、急ぐれば則ち合謀す。或いは詔旨将に一城を増し、一池を浚わんとするを聞けば、必ず皆怨怒して辞あり、則ちこれがために役を罷む。而して自ら境内に於いて兵を治め壘を繕い以て自ら固む。凡そ三朝を歴、殆ど二十年、国家敢えて拳石撮土の役を興さず。

原文初,大歷中,兩河平定,事多姑息。李正己有淄、青、齊、海、登、萊、沂、密、德、棣、曹、濮、徐、兗、鄆十五州之地,養兵十萬;李寶臣有恆、易、深、趙、滄、冀、定七州之地,有兵五萬;田承嗣有魏、博、相、衛、洺、貝、澶七州之地,有兵五萬;梁崇義有襄、鄧、均、房、復、郢六州之地,其眾二萬。皆始因叛亂得侯,各擅土宇,雖泛稟朝旨,而威刑爵賞,生殺自專,盤根結固,相為表裏。朝廷常示大信,不為拘限,緩之則嫌釁自作,急之則合謀。或聞詔旨將增一城,浚一池,必皆怨怒有辭,則為之罷役;而自於境內治兵繕壘以自固。凡歷三朝,殆二十年,國家不敢興拳石撮土之役。

代宗は寛柔にして怒ることなく、一切これに従った。凡そ河朔諸道の健歩が奏計する者は、必ず賜賚を得た。徳宗が即位すると、厳察にして神断、劉文喜を誅して以来、朝法の犯すべからざるを知り、四盗ともに自ら安んぜず。奏計する者は空しく還り、賞賜する所なく、帰る者多く怨んだ。或いは飛語を伝説し、帝が東封せんと欲すと云い、汴州は城隘狭なりと奏して、城郭を増築す。李正己これを聞き、兵万人を移して曹州に屯し、田悦もまた兵を河上に加う。河南大いに擾り、羽書警急なり。乃ち詔して京西の戎兵一万二千人を移して関東に備えしむ。帝は望春楼に御し、親しく師を誓いてこれを遣わし、曰く、「嗚呼、東鄙の警は、事已むを得ず。唯だ爾が将校群士、各々忠節を以て王家に勤めよ。南は蜀しょく門に赴き、西は涇壘を定め、甲冑解かず、瘡痍未だ平らかならず。今爾を用いて周・鄭の郊に分鎮せしむ。明命を敬って聴け。夫れ王者の師は、征有りて戦無し。諸の理道に稽え、用て邦国を正す。宜しく乃ち戈甲を励まし、城池を保固し、徳を以て人を和し、義を以て事を制すべし。将に其の侵軼を備うるも、越境攻取を用いず、戢えて後に動く、正しと謂うべし。今外夷来庭し、方に春生植し、品物資始まる。農桑是の時なり。爾が将士をして、中野に暴露せしむるは、我が心痛悼し、鬱として焚灼の如し。嗟爾有衆、其れ悉く予が懐をせよ。」士卒多く泣下す。賜宴に及び、諸将列坐す。酒至れば、神策の将士皆飲まず。帝使いをして問わしむ。恵元時に都将たり、対えて曰く、「臣初め奉天を発す。本軍の帥張巨済、臣等と約して曰く、『斯の役は、将に大勛を策し、大名を建てん。凱旋の日、当に共に歓を為すべし。苟も戎捷せずんば、酒を飲むこと無からん』と。故に臣等、約に違いて飲むことを敢えず。」既に発ち、有司道路に供餼す。他の軍は孑遺無く、唯だ恵元一軍は瓶罍発せず。上称嘆すること久しく、璽書を降して慰労す。

原文代宗性寬柔無怒,一切從之。凡河朔諸道健步奏計者,必獲賜賚。及德宗即位,嚴察神斷,自誅劉文喜之後,知朝法不可犯,四盜俱不自安。奏計者空還,無所賞賜,歸者多怨。或傳說飛語,雲帝欲東封,汴州奏以城隘狹,增築城郭。李正己聞之,移兵萬人屯於曹州,田悅亦加兵河上;河南大擾,羽書警急。乃詔移京西戎兵萬二千人以備關東。帝御望春樓親誓師以遣之,曰:「嗚呼!東鄙之警,事非獲已。唯爾將校群士,各以忠節,勤於王家;南赴蜀門,西定涇壘,甲胄不解,瘡痍未平;今載用爾分鎮於周、鄭之郊,敬聽明命。夫王者之師,有征無戰,稽諸理道,用正邦國。宜勵乃戈甲,保固城池,以德和人,以義制事。將備其侵軼,不用越境攻取,戢而後動,可謂正矣!今外夷來庭,方春生植,品物資始,農桑是時。俾爾將士,暴露中野,我心痛悼,郁如焚灼。嗟爾有眾,其悉予懷。」士卒多泣下。及賜宴,諸將列坐;酒至,神策將士皆不飲,帝使問之。惠元時為都將,對曰:「臣初發奉天,本軍帥張巨濟與臣等約曰:『斯役也,將策大勛,建大名。凱旋之日,當共為歡;茍未戎捷,無以飲酒。』故臣等不敢違約而飲。」既發,有司供餼於道路,他軍無孑遺,唯惠元一軍瓶罍不發。上稱嘆久之,降璽書慰勞。

田悦の反するに及び、詔して恵元に禁兵三千を領せしめ、諸将とともに討伐す。御河に戦い、三橋を奪う。皆恵元の功なり。尋いで検校工部尚書を加え、貝州刺史を摂し、兵を以て李懐光に属せしむ。建中四年冬、河朔より懐光とともに国難に赴き、奉天の囲みを解く。明年二月、懐光国に背き叛逆す。恵元義に汚れを受けることなく、身を脱して奉天に奔竄す。乗輿の南幸に会す。懐光恵元の逸するを怒り、其の将冉宗に百余騎を以て好畤県に追い及ばしむ。恵元計窮まり、父子三人並びに人家の井中に投ず。冉宗並びに出してこれを害す。興元元年、右僕射を贈り、仍て絹百匹を賻す。恵元の男尚食奉御晟に殿中監を贈り、左衛兵曹参そうしん軍皓に邠州刺史を贈る。死難を褒むるなり。

原文及田悅反,詔惠元領禁兵三千與諸將討伐,戰御河,奪三橋,皆惠元之功也。尋加檢校工部尚書,攝貝州刺史,令以兵屬李懷光。建中四年冬,自河朔與懷光同赴國難,解奉天之圍。明年二月,懷光背國叛逆,惠元義不受汙,脫身奔竄奉天。會乘輿南幸,懷光怒惠元之逸,令其將冉宗以百余騎追及於好畤縣。惠元計窮,父子三人並投人家井中,冉宗並出而害之。興元元年,贈右僕射,仍賻絹百匹。惠元男尚食奉禦晟,贈殿中監,左衛兵曹參軍皓贈邠州刺史,褒死難也。

李元諒

原文李元諒

李元諒は、本は駱元光、姓は安氏、其の先は安息の人なり。少くして宦官駱奉先に養われ、駱氏を冒姓す。元諒長大にして美須、勇敢にして計多し。少くして軍に従い、宿衛に備え、労を積みて太子詹事を試みる。鎮国軍節度使李懐讓、署して鎮国軍副使を奏し、州事を領せしむ。元諒嘗て潼関に在りて軍を領し、十数年を積む。軍士皆畏服す。

原文李元諒,本駱元光,姓安氏,其先安息人也。少為宦官駱奉先所養,冒姓駱氏。元諒長大美須,勇敢多計。少從軍,備宿衛,積勞試太子詹事。鎮國軍節度使李懷讓署奏鎮國軍副使,俾領州事。元諒嘗在潼關領軍,積十數年,軍士皆畏服。

徳宗奉天に居す。賊泚偽将何望之を遣わし軽騎を以て華州を襲わしむ。刺史董晋州を棄てて走る。望之遂に城を据え、兵を聚めて以て東道を絶たんとす。元諒潼関より将いて所部を率い、仍て義兵に其の未だ設備せざるに因り、径ち望之を攻めしむ。遂に華州を抜き、望之走りて帰る。元諒乃ち城隍器械を修め召募す。数日ならずして、兵万余を得、軍益々振う。功を以て御史中丞を加う。賊泚数たび兵を遣わし来寇す。輒ちこれを撃ち却す。是の時、尚可孤藍田を守り、元諒と掎角す。賊東して渭南を逾ゆること能わず。元諒功多く居る。幾くも無く、華州刺史・兼御史大夫・潼関防禦・鎮国軍節度使に遷り、尋いで検校工部尚書を加う。

原文德宗居奉天,賊泚遣偽將何望之輕騎襲華州,刺史董晉棄州走;望之遂據城,將聚兵以絕東道。元諒自潼關將所部,仍令義兵因其未設備,徑攻望之。遂拔華州,望之走歸。元諒乃修城隍器械召募,不數日,得兵萬余人,軍益振。以功加御史中丞。賊泚數遣兵來寇,輒擊卻之。是時,尚可孤守藍田,與元諒掎角;賊東不能逾渭南,元諒功居多。無幾,遷華州刺史、兼御史大夫、潼關防禦、鎮國軍節度使,尋加檢校工部尚書。

興元元年五月、詔して元諒に副元帥李晟とともに進みて京邑を収めしむ。兵は浐西に次ぐ。賊衆を悉くして来攻す。元諒士卒に先んじて奮撃し、大いにこれを敗る。進軍して苑東に至り、晟と力戦し、苑垣を壊して入る。賊連戦皆敗れ、遂に京師を復す。元諒功を晟に譲り、出でて章敬仏寺に屯す。帝宮に還り、検校尚書右僕射を加え、実封七百戸、甲第・女楽を賜い、仍て一子に六品正員官を与う。

原文興元元年五月,詔元諒與副元帥李晟進收京邑。兵次於浐西,賊悉眾來攻,元諒先士卒奮擊,大敗之。進軍至苑東,與晟力戰,壞苑垣而入,賊聯戰皆敗,遂復京師。元諒讓功於晟,出屯於章敬佛寺。帝還宮,加檢校尚書右僕射,實封七百戶,賜甲第、女樂,仍與一子六品正員官。

李懐光河中に反し、河津を絶つ。詔して元諒に副元帥馬燧・渾瑊とともにこれを討たしむ。時に賊将徐庭光鋭兵を以て長春宮を守る。元諒使いを遣わしてこれを招く。庭光素より元諒を軽易し、且つ慢罵す。又優胡を以て城上に戯れ、元諒の先祖を辱しむ。元諒深く以て恥とす。馬燧河東の兵至るに及び、庭光馬燧に降る。詔して庭光を以て試殿中監・兼御史大夫とす。河中平らぐ。燧庭光を待つこと益々厚し。元諒因りて軍門に庭光に遇い、左右に命じて劫し斬らしむ。乃ち燧に詣り匍匐して罪を請う。燧盛んに怒り、将に元諒を殺さんとす。久しくして其の功高きを以て、乃ち止む。徳宗元諒の専殺を以て、章疏有らんことを慮り、先ず宰相に諭して諫官に論ぜしめず。

原文李懷光反於河中,絕河津。詔元諒與副元帥馬燧、渾瑊同討之。時賊將徐庭光以銳兵守長春宮,元諒遣使招之。庭光素輕易元諒,且慢罵之;又以優胡為戲於城上,辱元諒先祖。元諒深以為恥。及馬燧以河東兵至,庭光降於馬燧,詔以庭光為試殿中監、兼御史大夫。河中平,燧待庭光益厚。元諒因遇庭光於軍門,命左右劫而斬之,乃詣燧匍匐請罪。燧盛怒,將殺元諒;久之,以其功高,乃止。德宗以元諒專殺,慮有章疏,先令宰相諭諫官勿論。

貞元三年、詔して元諒に本軍を将いて渾瑊に従い吐蕃と平涼に会盟せしむ。元諒瑊に謂いて曰く、「本詔を奉ずるに、潘原堡に営して以て侍中に応援せよと令す。窃かに思うに、潘原平涼を去ること六七十里、蕃情多く詐り有り。倘や急変有らば、何に由てか応赴せん。侍中に次いで営せんことを請う。」瑊詔に違うを以て、固くこれを止む。元諒竟に瑊とともに進む。瑊の営盟所を距ること二十里、元諒の営これに次ぐ。壕柵深固なり。瑊会に赴くに及び、乃ち部伍を戒厳し、陣を営中に結ぶ。是の日、虜果たして甲を伏せ、瑊の無備に乗じて窃かに発つ。時に士大夫皆朝服して就執せられ、軍士死者十の七八。瑊単馬にて奔還す。群虜追躡す。瑊の営将李朝彩衆を整うること能わず、多く已に奔散す。瑊至るも、空営のみ。元諒の軍の厳固なるに頼る。瑊既に営に入り、虜皆散去す。是の日元諒の軍無かりせば、瑊幾くも免れざらん。元諒乃ち軍を整え、先ず輜重を遣わし、次いで瑊とともに号令を申し、其の部伍を厳にして還る。時に元諒に将帥の風有りと謂う。徳宗これを嘉し、良馬十匹、金銀器・錦彩等甚だ厚く賜う。母憂に丁し、右金吾衛上将軍を加え、本官を起復す。帝其の勲労を念い、又姓を李氏に賜い、名を元諒と改む。

原文貞元三年,詔元諒將本軍從渾瑊與吐蕃會盟於平涼。元諒謂瑊曰:「本奉詔,令營於潘原堡,以應援侍中。竊思潘原去平涼六七十里,蕃情多詐,倘有急變,何由應赴?請次侍中為營。」瑊以違詔,固止之。元諒竟與瑊同進。瑊營距盟所二十里,元諒營次之,壕柵深固。及瑊赴會,乃戒嚴部伍,結陣營中。是日,虜果伏甲,乘瑊無備竊發。時士大夫皆朝服就執,軍士死者十七八。瑊單馬奔還,群虜追躡,瑊營將李朝彩不能整眾,多已奔散;瑊至,空營而已。賴元諒之軍嚴固;瑊既入營,虜皆散去。是日無元諒軍,瑊幾不免。元諒乃整軍,先遣輜重,次與瑊俱申號令,嚴其部伍而還,時謂元諒有將帥之風。德宗嘉之,賜良馬十匹,金銀器、錦彩等甚厚。丁母憂,加右金吾衛上將軍,起復本官。帝念其勛勞,又賜姓李氏,改名元諒。

四年春、隴右節度支度営田観察・臨洮軍使を加え、良原に移鎮す。良原古城多く摧圮す。隴東の要地、虜入寇し、常に此に馬を牧し兵を休む。元諒烽堠を遠くし、城を培い堞を補い、身軍士を率い、同じく労逸す。林を芟ぎ草を薙ぎ、荊榛を斬り、乾くを俟ち、尽くこれを焚く。方数千里、皆美田と為る。軍士を勧めて樹芸せしめ、歳に粟菽数十万斛を収む。生殖の業、陶冶必ず備わる。仍て城を距てて台を築き、上に車弩を彀し、城守の備え益々固し。幾くも無く、又新城を進めて築き、便地を据う。虜毎に寇掠すれども、輒ちこれを撃ち却す。涇・隴是れ由りて乂安し、虜深くこれを憚る。疾を以て、貞元九年十一月、良原に卒す。年六十二。帝甚だ悼惜し、朝を三日廃し、司空しくうを贈り、布帛米粟を賻すること差有り。

原文四年春,加隴右節度支度營田觀察、臨洮軍使,移鎮良原。良原古城多摧圮,隴東要地,虜入寇,常牧馬休兵於此。元諒遠烽堠,培城補堞,身率軍士,與同勞逸。芟林薙草,斬荊榛,俟乾,盡焚之,方數十里,皆為美田。勸軍士樹藝,歲收粟菽數十萬斛,生殖之業,陶冶必備。仍距城築臺,上彀車弩,為城守備益固。無幾,又進築新城,以據便地。虜每寇掠,輒擊卻之,涇、隴由是乂安,虜深憚之。以疾,貞元九年十一月,卒於良原,年六十二。帝甚悼惜,廢朝三日,贈司空,賻布帛米粟有差。

韓遊瑰

原文韓遊瑰

韓遊瑰は、河西の霊武の人である。本軍に仕え、累ねて偏裨を歴任し、功を積んで邠寧節度使に至った。徳宗が奉天に出幸したとき、衛兵は未だ集まらず、遊瑰は慶州刺史の論惟明と合兵三千人を率いて難に赴き、乾陵の北を過ぎて醴泉に赴き、泚を拒いだ。ちょうど京城より来た者があり、賊が信宿のうちに至るだろうと言うので、上は急ぎ遊瑰らの軍伍を追い返すことを命じた。壁に入ったばかりで、泚の党が果たして至った。そこで出て城下で戦い、少し不利となり、城に退き入った。賊は急いで門を奪おうとし、遊瑰は賊と門を隔てて血戦し、暮れ方になってようやく解けた。これより賊は日々城を攻め、遊瑰・惟明は城に乗って拒み守り、自ら矢石に当たり、寝息をとる暇もなく、難に赴いた功績は、遊瑰が第一であった。

原文韓遊瑰,河西靈武人。仕本軍,累歷偏裨,積功至邠寧節度使。德宗出幸奉天,衛兵未集,遊瑰與慶州刺史論惟明合兵三千人赴難,自乾陵北過赴醴泉以拒泚。會有人自京城來,言賊信宿當至,上遽令追遊瑰等軍伍。才入壁,泚黨果至。乃出鬥城下,小不利,乃退入城。賊急奪門,遊瑰與賊隔門血戰,會暝方解。自是賊日攻城,遊瑰、惟明乘城拒守,躬當矢石,不暇寢息,赴難之功,遊瑰首焉。

李懐光が反逆し、駕に従って山南に赴いた。徳宗は禁軍に職局がないとして、六軍に特に統軍一員を置き、位は従二品とし、遊瑰・惟明・賈隠林らに分かって従駕の禁兵を司らせた。李晟が軍を東渭橋に移し、駱元光・尚可孤と分かって京東の要路を扼した。渾瑊は遊瑰・戴休顔と分かって京西の要路を司り、掎角となって進攻した。興元元年、検校刑部尚書・兼御史大夫となり、例として「奉天定難功臣」を授けられた。李晟が京城を収めると、遊瑰ら三将も賊を咸陽で破った。徳宗が興元より京に還ると、渾瑊と遊瑰・休顔の三将が従い、李晟・尚可孤・駱元光の三将が奉迎し、功を論じて封を行い、瑊らと相次ぎ、邠寧に還鎮した。

原文李懷光反,從駕山南。德宗以禁軍無職局,六軍特置統軍一員,秩從二品,以遊瑰、惟明、賈隱林等分典從駕禁兵。李晟移軍東渭橋,與駱元光、尚可孤分扼京東要路;渾瑊與遊瑰、戴休顏分典京西要路,掎角進攻。興元元年,檢校刑部尚書、兼御史大夫,例授「奉天定難功臣」。李晟收京城,遊瑰三將亦破賊於咸陽。德宗自興元還京,渾瑊與遊瑰、休顏三將從;李晟、尚可孤、駱元光三將奉迎,論功行封,與瑊等相次,還鎮邠寧。

三年、子の欽緒が妖賊李広弘と共に不軌を謀ったため、時に遊瑰は長武城を鎮守しており、事が発せんとするとき、欽緒は邠州に奔った。邠州の将吏は械をかけて京師に送った。遊瑰は子が大逆であるとして、代わって帰ることを請い、固く闕に詣でようとしたが、詔は許さなかった。遊瑰は欽緒の二子を鎖で繋いで京師に送り、従坐を請うたが、上もまたこれを赦した。十二月、遊瑰は入朝し、素服で罪を待ち、朝堂に入った。急ぎこれを釈することを命じ、労遇は以前の如くし、再び鎮に還ることを命じた。初め、遊瑰が入覲したとき、邠州の将吏はその子が謀叛し、また軍を統御するに政なく、必ず代わられるだろうと思い、餞送の礼は甚だ薄かった。遊瑰が上に謁見し、盛んに辺事を論じ、蕃寇に備えて豊義城を築くことを請うと、上は特達として、委用は初めの如くした。鎮に還ると、軍中は恐れて自ら安んぜず、大将の範希朝は兵を将いることに長け、名が軍中に聞こえていた。遊瑰はその己を逼ることを畏れ、事に因ってこれを誅しようとした。希朝は恐れて、出奔して鳳翔に至った。上はもとよりその名を知り、召して宿衛に入らせた。遊瑰が五百人を遣わして豊義城を築かせると、二板にして潰れた。また寧州の戍卒数百人が、掠奪をほしいままにして叛いた。その方略なく、士心を失うことは、皆この類いである。寧州の卒が叛いてより、吐蕃が寇すと、遊瑰は自ら衆を率いて寧州を戍った。

原文三年,以子欽緒與妖賊李廣弘同謀不軌,時遊瑰鎮長武城,事將發,欽緒奔於邠州;邠州將吏械送京師。遊瑰以子大逆,請代歸,固欲詣闕,詔不許。遊瑰鎖系欽緒二子送京師,請從坐,上亦宥之。十二月,遊瑰入朝,素服待罪,入朝堂;遽命釋之,勞遇如故,復令還鎮。初,遊瑰入覲,邠州將吏以其子謀叛,又禦軍無政,謂必受代,餞送之禮甚薄。及遊瑰見上,盛論邊事,請築豐義城以備蕃寇,上以特達,委用如初。及還鎮,軍中懼不自安。大將範希朝善將兵,名聞軍中;遊瑰畏其逼己,將因事誅之。希朝懼,出奔鳳翔。上素知名,召入宿衛。及遊瑰遣五百人築豐義城,兩板而潰。又寧州戍卒數百人,縱掠而叛。其無方略,失士心,皆此類也。自寧州卒叛,吐蕃入寇,遊瑰自率眾戍寧州。

四年七月、将軍の張献甫を除して遊瑰に代えようとしたが、献甫の至るを待たず、また衆に知らせず、軽騎で夜に出て帰朝した。将卒はもとより驕っており、献甫が厳急と聞き、その帥無きに乗じ、兵をほしいままにして大いに掠奪し、かつ監軍の楊明義の第を囲み、範希朝を帥として奏することを請うた。都虞候の楊朝晟は初め郊外に逃難していたが、翌日希朝を請うたと聞き、再び城に入り、軍衆に言うには、「請うところは甚だ適っている。我は来て賀するなり」と。叛卒は次第に安んじた。朝晟は諸将と密謀し、朝に甲兵を率いて出て、叛卒を召して告げた。「前に請うた者は得られず、張尚書が来て、昨日すでに邠州に入った。汝ら謀叛した者は、皆死すべきである。我は尽く殺さず、誰が賊の首か、各々言え。罪をこれに帰し、余は悉く問わない」と。衆の中より二百余人を唱え、立ちどころに斬ったので、軍城はようやく定まった。上は軍情が希朝を欲することを聞き、寧州刺史を授け、献甫の邠寧の副とした。遊瑰は京に至り、右龍武統軍を授かった。十四年に卒した。

原文四年七月,除將軍張獻甫代遊瑰,不俟獻甫至,又不告眾知,乃輕騎夜出歸朝。將卒素驕,聞獻甫嚴急,因其無帥,縱兵大掠,且圍監軍楊明義第,請奏範希朝為帥。都虞侯楊朝晟初逃難郊外,翌日聞請希朝,乃復入城,與軍眾曰:「所請甚愜,我來賀也。」叛卒稍安。朝晟乃與諸將密謀,晨率甲兵而出,召叛卒告曰:「前請者不獲,張尚書來,昨日已入邠州。汝等謀叛,皆當死。吾不盡殺,誰為賊首,各言之,以罪歸之,余悉不問。」於眾中唱二百余人,立斬之,軍城方定。上聞軍情欲希朝,乃授寧州刺史,為獻甫邠寧之副。遊瑰至京,授右龍武統軍。十四年卒。

李広弘

原文李廣弘

李広弘は、あるいは宗室親王の胤であるという。落髪して僧となり、自ら五嶽・四瀆の神を見たと言い、己が人主となるべきであるとした。貞元三年、邠州より京師に至り、市人に董昌という者がおり、広弘を導き、資敬寺の尼智因の室に宿らせた。智因はもと宮人である。董昌は酒食をもって殿前射生将の韓欽緒・李政諫・南珍霞、神策将の魏修・李傪、前越州参軍の劉昉・陸緩・陸絳・陸充・徐綱らと結び、共に逆を謀った。広弘は嶽瀆の神が言うには、十月十日に事を挙げれば必ず勝つと言った。欽緒以下、皆署置して宰相とし、智因尼を后とした。事を挙げる日に、夜に欽緒に命じて凌煙門で鼓を撃たせ、飛龍廐舎の草積を焚かせ、また珍霞に命じて街鼓を盗み撃たせ、城中の人を集めさせ、また政諫・修・傪らに命じて射生・神策の兵を率いて内応させ、事が成れば五日間掠奪を許し、朝官を悉く殺そうと謀った。事は未だ発せず、魏修・李傪が変を上告し、内官の王希遷らに命じてその党与を捕らえて斬らせた。徳宗はこれにより諸色の人に寺観に輒く入ることを得ざることを禁じた。

原文李廣弘者,或云宗室親王之胤。落發為僧,自雲見五嶽、四瀆神,己當為人主。貞元三年,自邠州至京師,有市人董昌者,通導廣弘,舍於資敬寺尼智因之室。智因本宮人。董昌以酒食結殿前射生將韓欽緒、李政諫、南珍霞,神策將魏修、李傪,前越州參軍劉昉、陸緩、陸絳、陸充、徐綱等,同謀為逆。廣弘言嶽瀆神言,可以十月十日舉事,必捷。自欽緒已下,皆有署置為宰相,以智因尼為後。謀於舉事日,夜令欽緒擊鼓於淩霄門,焚飛龍廄舍草積;又令珍霞盜擊街鼓,集城中人;又令政諫、修、傪等領射生、神策兵內應;事克,縱剽五日,朝官悉殺之。事未發,魏修、李傪上變,令內官王希遷等捕其黨與斬之,德宗因禁止諸色人不得輒入寺觀。

賈隠林

原文賈隱林

賈隠林は、滑州の牙将である。建中初め、本軍の兵馬使となり、兵を率いて宿衛することを命じられた。硃泚の乱に際し、諸軍未だ集まらず、隠林は衆を率いて扈従した。性質は朴訥であり、奉天において、賊が急に城を攻めると、隠林は侯仲荘と逐って急ぎ救応し、艱難危険を備え尽くした。やがて懐光の軍が至り、逆賊が囲みを解くと、従臣は慶賀を称えた。隠林が抃舞を終え、奏して言うには、「賊の泚は奔り逃げ、臣下は大いに慶ぶ。これは皆、宗社の無疆の慶である。然るに陛下の性霊は太だ急にして、容忍することができず、もし旧性改まらざれば、賊は奔亡すれども、臣は憂い未だ艾たざるを恐れる」と。上はこれを忤とせず、甚だこれを称えた。累官して検校右散騎常侍さんきじょうじに至り、武威郡王に封ぜられた。山南に幸せんとして卒し、左僕射を贈られ、その家に実封三百戸を賜い、賻として絹百匹・米百碩を賜り、喪葬は官が給した。

原文賈隱林者,滑州牙將也。建中初,為本軍兵馬使,令率兵宿衛。硃泚之亂,諸軍未集,隱林率眾扈從。性質樸,在奉天,賊急攻城,隱林與侯仲莊逐急救應,難險備至。既而懷光軍至,逆賊解圍,從臣稱慶。隱林抃舞畢,奏曰:「賊泚奔遁,臣下大慶,此皆宗社無疆之休。然陛下性靈太急,不能容忍,若舊性未改,賊雖奔亡,臣恐憂未艾也。」上不以為忤,甚稱之。累官至檢校右散騎常侍,封武威郡王。將幸山南而卒,贈左僕射,賜其家實封三百戶,賻絹百匹、米百碩,喪葬官給。

杜希全

原文杜希全

杜希全は、京兆醴泉の人である。少より軍に従い、嘗て郭尚父の子儀の裨将となり、功を積んで朔方軍節度使に至った。軍令は厳粛で、士卒は皆悦服した。初め、徳宗が奉天に居たとき、希全は真っ先に将として所部を率い、塩州刺史の戴休顔・夏州刺史の時常春と合兵して難に赴いた。軍はすでに漠谷に次いだが、賊の泚に邀撃され、高きに乗じて礧を縦にし、また大弩をもってこれを射たので、傷つく者多かった。徳宗は兵を出してこれを援けさせたが、進むことができず、希全は退いて邠州に次いだ。難に赴いた功により、検校戸部尚書・行在都知兵馬使を加えられた。梁州に幸するに従った。帝が京師に還ると、太子少師・検校右僕射に遷り、兼ねて霊州大都督ととく・御史大夫・受降定遠城天徳軍、霊塩豊夏等州節度支度営田観察押蕃落等使・余姚郡王となった。

原文杜希全,京兆醴泉人也。少從軍,嘗為郭尚父子儀裨將,積功至朔方軍節度使;軍令嚴肅,士卒皆悅服。初,德宗居奉天,希全首將所部與鹽州刺史戴休顏、夏州刺史時常春合兵赴難。軍已次漠谷,為賊泚邀擊,乘高縱礧,又以大弩射之,傷者眾。德宗令出兵援之,不得進;希全退次邠州。以赴難功,加檢校戶部尚書、行在都知兵馬使。從幸梁州。帝還京師,遷太子少師、檢校右僕射,兼靈州大都督、御史大夫、受降定遠城天德軍,靈鹽豐夏等州節度支度營田觀察押蕃落等使、余姚郡王。

希全が霊州に赴かんとするとき、『体要』八章を献上し、多く規諫した。徳宗は深くこれを納れ、『君臣箴』を著してこれを賜った。その辞は次のようである。

原文希全將赴靈州,當獻《體要》八章,多所規諫。德宗深納之,乃著《君臣箴》以賜之,其辭曰:

およそ徳は人を恵み、君は天を奉じ、諫言に従えば聖となり、共に治めるには賢を要す。帝王は極を立て、大命は易からず、万機を総べて務めを成し、六合の異なる状態を斉しくする。一心のみでは独り照らすことができず、一目のみでは周囲を見渡せない。哲人を広く求め、位に序して用いる。ああ、君主が臣を任用するには必ず一徳を求め、臣が君に仕えるには皆正直を思う。いかなる啓発と潤いが適切であるか、古今を通じて未だ得られず。かつ直言は耳に逆らい、讒言と諂いは側に伺う。故に下情は通ぜず、上聴は既に惑わされ、忠賢をして兇悪に敗れしむ。あたかも軽舟のごとく、船子が櫂を操り、また和羹のごとく、宰夫が調理する。誰が国を治めるのに師を得ずして成し得ようか、覆車の轍を、我は戒めん。高きは下より昇り、和は甘受より生ず。ただ君に良からざるも、また臣の咎なり。辛毗の故事を聞けば、魏帝の裾を牽き、また禽息あり、忠を尽くして首を砕く。献替を思うに勉め、可否を平らかにせよ。傷なきと謂うなかれ、微より自ら顕わる。害なきと謂うなかれ、小を積みて大となる。事には隠れて必ず現れるものあり、令は既に出でてどうして悔いようか。宮中に鐘鼓あれば、声は外に聞こえ、浩然として水に渉るが如く、朕には未だ終わりなし。扆を負いて虚心となり、忠を尽くして誨を受けんことを期す。昔の稷・契は実に舜・禹を匡し、近くは魏徴、我が文祖を佑け、君臣協徳して区宇を混一す。ここに朕寡昧にして、丕緒を継ぐを得たり。臣よ隣よ、汝は翼となり輔となれ。

原文夫惟德惠人,惟辟奉天,從諫則聖,共理惟賢。皇立有極,駿命不易,總萬機以成務,齊六合之殊致。一心不能獨鑒,一目不能周視,敷求哲人,式序在位。於戲!君之任臣,必求一德;臣之事君,鹹思正直。何啟沃之所宜,自古今而未得?且以讜言者逆耳,讒諛者伺側,故下情未通,而上聽已惑;俾夫忠賢,敗於兇慝。譬彼輕舟,烝徒楫之;亦有和羹,宰夫膳之。孰雲理國,不自得師,覆車之軌,予其懲而。高以下升,和由甘受,惟君無良,亦臣之咎。聞諸辛毗,牽裾魏後,則有禽息,竭忠碎首,勉思獻替,以平可否。勿謂無傷,自微而彰;勿謂何害,積小成大。事有隱而必見,令既出而焉悔!鼓鐘在宮,聲聞於外,浩然涉水,朕未有艾。將負扆以虛心,期盡忠而納誨。在昔稷、契,實匡舜、禹;近茲魏徵,佑我文祖,君臣協德,混一區宇。肆予寡昧,獲纘丕緒,臣哉鄰哉,爾翼爾輔。

高秋始めて肅し、我が武惟れ揚がる。この禁衛を輟み、大邦に殿す。闕を恋うこと方に甚だしく、嘉言すなわち昌んず。これ規諫、金玉のその相。辞高く理要を得、徳に入り方を知る。かの千慮を総べ、八章に備わる。宣父言有り、我を啓く者は商なり。殷には盤銘有り、周には欹器有り、或いは辞を以て戒め、或いは事を以て警む。図を披き義を演じ、爾が志より発す。金鏡とともに高く懸け、座右とともに同じく置かん。人皆初め有りて、その終わりを慎むこと鮮なし。汝その夙夜、朕が躬を保つことを期せよ。爾が身は外に在りて、爾が誠通ぜずと曰うなかれ。一言の応、千里同じ。かの遐邇を導き、余が四聡に達せしめよ。華夷徳を仰ぎ、時に乃ちの功なり。既に往き既に来たり、賢を懐いて忡忡。予に唱え汝に和し、深衷を示さん。

原文高秋始肅,我武惟揚,輟此禁衛,殿於大邦。戀闕方甚,嘉言乃昌,是規是諫,金玉其相。辭高理要,入德知方,總彼千慮,備於八章,宣父有言,啟予者商。殷有盤銘,周有欹器,或誡以辭,或警以事。披圖演義,發於爾誌,與金鏡而高懸,將座右而同置。人皆有初,鮮慎厥終,汝其夙夜,期保朕躬。無曰爾身在外,而爾誠不通,一言之應,千里攸同。導彼遐徐,達余四聰,華夷仰德,時乃之功。既往既來,懷賢忡忡,唱予和汝,式示深衷。

まもなく本管及び夏綏節度都統を兼ね、太子少師を加えられる。希全は塩州の地が要害に当たるとし、貞元三年に西蕃が盟約を破って以来、州城は虜に陥ち、これより塞外に保障なく、霊武は勢い隔たり、西は鄜坊に通じ、甚だ辺境の患いとなることを以て、朝議はこれを是とした。九年、詔して曰く。

原文尋兼本管及夏綏節度都統,加太子少師。希全以鹽州地當要害,自貞元三年西蕃劫盟之後,州城陷虜;自是塞外無保障,靈武勢隔,西通鄜坊,甚為邊患,朝議是之。九年,詔曰:

険を設けて国を守るは、『易』の象に文を垂れ、備え有れば患い無しは、先王の令典なり。況や旧制を修復し、疆裏を安固にし、甲を偃げ人を息ましむるは、必ずここに在り。

原文設險守國,《易象》垂文,有備無患,先王令典。況修復舊制,安固疆裏,偃甲息人,必在於此。

塩州の地は沖要に当たり、遠く朔陲に介し、東は銀夏に達し、西は霊武を援け、延慶に密邇し、王畿を保扞す。先には城池守を失い、制備拠る所無く、千里の庭障、烽燧接せず、三隅の要害、役戍その勤め。もし師徒を興集し、壁壘を繕修し、攻守の具を設け、耕戦の方に務めざれば、則ち封内虞多く、諸華屡く警め、中より外に及び、皆寧居すること靡からん。永図を深く惟うに、豈に終食を忘れんや。顧みるに薄徳を以てし、至化未だ孚かず、既に前古の治を復し、四夷の守を致す能わず。事に臨みて重ねて擾わすと、先に備えて即ち安んずるに若かず。是を用いて久遠の謀を弘め、五原の壘を修め、辺城守る有らしめ、中夏克く寧からしめん。暫くの労有ること無くして、安んぞ永く逸せん。

原文鹽州地當沖要,遠介朔陲,東達銀夏,西援靈武,密邇延慶,保扞王畿。乃者城池失守,制備無據,千里庭障,烽燧不接,三隅要害,役戍其勤。若非興集師徒,繕修壁壘,設攻守之具,務耕戰之方,則封內多虞,諸華屢警,由中及外,皆靡寧居。深惟永圖,豈忘終食!顧以薄德,至化未孚,既不能復前古之治,致四夷之守,與其臨事而重擾,豈若先備而即安!是用弘久遠之謀,修五原之壘,使邊城有守,中夏克寧,不有暫勞,安能永逸?

宜しく左右神策及び朔方河中絳邠寧慶兵馬副元帥渾瑊、朔方霊塩豊夏綏銀節度都統杜希全、邠寧節度使張献甫、神策行営節度使邢君牙、銀夏節度使韓潭、鄜坊節度使王棲曜、振武節度使範希朝に命じ、各おの管轄部において将士を簡練し、三万千五百人をして同じく塩州に赴かしめよ。神策将軍張昌宜に塩州事を権知せしめ、板築雑役に応ずる者は六千人を取って充てよ。その塩州防秋将士は、三年を率いて満ちて更代せしめ、仍て杜彦先に名簿を具して奏聞せしめ、悉く改転を与えよ。

原文宜令左右神策及朔方河中絳邠寧慶兵馬副元帥渾瑊、朔方靈鹽豐夏綏銀節度都統杜希全、邠寧節度使張獻甫、神策行營節度使邢君牙、銀夏節度使韓潭、鄜坊節度使王棲曜、振武節度使範希朝,各於所部簡練將士,令三萬五千人同赴鹽州。神策將軍張昌宜權知鹽州事,應板築雜役,取六千人充。其鹽州防秋將士,率三年滿更代,仍委杜彥先具名奏聞,悉與改轉。

朕が情は己れの欲するに非ず、志は人を靖んずるに在り。爾ら将相の臣、忠良の士に咨る。誠を輸して命に奉じ、力を陳べて憂いを忘れ、功勛を勉めて茂くし、疆場を永く安んぜよ。必ず兵事を集むるは、実に衆心に惟る。各おの相率いて励まし、以て朕が志に副えよ。

原文朕情非己欲,誌在靖人。咨爾將相之臣,忠良之士,輸誠奉命,陳力忘憂,勉茂功勛,永安疆場。必集兵事,實惟眾心,各相率勵,以副朕誌。

凡そ六千人を役し、二旬にして畢る。時に板築せんとし、仍て詔して涇原・剣南・山南諸軍に吐蕃を深く討たしめて以てこれを牽制せしむ。これにより板築の時、虜塞を犯すに及ばず。城畢り、中外賀す。これにより霊武・銀夏・河西稍く安んじ、虜深く入るを敢えず。

原文凡役六千人,二旬而畢。時將板築,仍詔涇原、劍南、山南諸軍深討吐蕃以牽制之,由是板築之時,虜不及犯塞。城畢,中外稱賀。由是靈武、銀夏、河西稍安,虜不敢深入。

希全は久しく河西に鎮し、晩節は辺境に倚りて恣横多く、帝嘗てこれを寛容した。豊州刺史李景略の威名はその右に出で、希全深くこれを忌み、代わらんことを疑畏し、乃ち誣奏して景略を陥れた。徳宗已むを得ずこれを貶した。平素より風眩の病有り、暴戾益甚だし。判官監察御史李起は頗るこれに忤い、希全また誣奏してこれを殺した。将吏皆重足脅息す。貞元十年正月卒す。朝を廃すること三日、司空を贈られる。

原文希全久鎮河西,晚節倚邊多恣橫,帝嘗寬之。豐州剌史李景略威名出其右,希全深忌之,疑畏代己,乃誣奏景略;德宗不得已為貶之。素病風眩,暴戾益甚。判官監察御史李起頗忤之,希全又誣奏殺之。將吏皆重足脅息。貞元十年正月卒,廢朝三日,贈司空。

尉遅勝

原文尉遲勝

尉遅勝は、本より于闐王珪の長子、少にして位を嗣ぐ。天宝中に来朝し、名馬・美玉を献じ、玄宗これを嘉し、宗室の女を妻とし、右威衛将軍・毗沙府都督を授け、国に還る。安西節度使高仙芝とともに薩毗播仙を撃破し、功により銀青光禄大夫・鴻臚卿を加えられ、光禄卿に改め、皆同正。

原文尉遲勝,本於闐王珪之長子,少嗣位。天寶中來朝,獻名馬、美玉,玄宗嘉之,妻以宗室女,授右威衛將軍、毗沙府都督,還國。與西安節度使高仙芝同擊破薩毗播仙,以功加銀青光祿大夫、鴻臚卿,改光祿卿,皆同正。

至徳初め、安禄山の反を聞き、勝は乃ち弟曜に国事を行わしめ、自ら兵五千を率いて難に赴く。国人勝を留め、少女を質として後に発つ。粛宗これを厚く待ち、特進を授け、殿中監を兼ねる。広徳中、驃騎大将軍・毗沙府都督・于闐王に拝し、国に還るを命ず。勝固より宿衛に留まることを請い、開府儀同三司を加えられ、武都王に封ぜられ、実封百戸。勝は本国の王を曜に授けることを請い、詔してこれに従う。勝は乃ち京師修行裏に林亭を盛んに飾り、以て賓客を待ち、好事者多くこれを訪う。

原文至德初,聞安祿山反,勝乃命弟曜行國事,自率兵五千赴難。國人留勝,以少女為質而後行。肅宗待之甚厚,授特進,兼殿中監。廣德中,拜驃騎大將軍、毗沙府都督、於闐王,令還國。勝固請留宿衛,加開府儀同三司,封武都王,實封百戶。勝請以本國王授曜,詔從之。勝乃於京師修行裏盛飾林亭,以待賓客,好事者多訪之。

建中末、奉天に従幸し、兼御史中丞となる。駕が興元に在りし時、勝は右領軍将軍となり、俄かに右威衛大将軍に遷り、睦王傅を歴任す。

原文建中末,從幸奉天,為兼御史中丞。駕在興元,勝為右領軍將軍,俄遷右威衛大將軍,歷睦王傅。

貞元初め、曜使いを遣わし上疏して称す、「国を有つ以来、代々嫡子が嗣ぐ。兄勝既に国を譲りしを以て、勝の子鋭に伝うることを請う」と。上乃ち鋭を検校光禄卿・兼毗沙府長史として還す。固く辞し、且つ言うに曰く、「曜久しく国事を行い、人皆悅服す。鋭は京華に生まれ、国俗に習わず、遣わし往くべからず」と。これにより韶王諮議を授く。兄弟国を譲る、人多くこれを称す。府除かれ、勝を以て原王傅とす。卒す。時に年六十四。貞元十年、涼州都督を贈られる。子鋭嗣ぐ。

原文貞元初,曜遣使上疏,稱:「有國以來,代嫡承嗣,兄勝既讓國,請傳勝子銳。」上乃以銳為檢校光祿卿、兼毗沙府長史還。固辭,且言曰:「曜久行國事,人皆悅服。銳生於京華,不習國俗,不可遣往。」因授韶王諮議。兄弟讓國,人多稱之。府除,以勝為原王傅。卒。時年六十四。貞元十年,贈涼州都督。子銳嗣。

邢君牙

原文邢君牙

邢君牙は瀛州楽寿の人である。若くして幽薊・平盧に従軍し、戦功により果毅折衝郎将を歴任し、平盧兵馬使を充てられた。安禄山が反乱を起こすと、平盧節度使侯希逸に従って海を渡り、青州・徐州の地に至った。田神功が劉展を討伐した際には、また神功に従って戦い功績を挙げ、将軍・試光禄卿を歴任した。神功が兗鄆節度使となると、君牙に防秋兵を率いさせて好畤に入鎮させた。吐蕃の侵犯に際し、代宗が陝州に避難すると、君牙は禁軍に属して扈従した。後にまた戦功により鴻臚卿を加えられ、累ねて河間郡公に封ぜられた。

原文邢君牙,瀛州樂壽人也。少從軍於幽薊、平盧,以戰功歷果毅折沖郎將,充平盧兵馬使。安祿山反,隨平盧節度使侯希逸過海,至青、徐間。田神功之討劉展,君牙又從神功戰伐有功,歷將軍、試光祿卿。神功既為兗鄆節度使,令君牙領防秋兵入鎮好畤。屬吐蕃陵犯,代宗幸陜,君牙隸屬禁軍扈從。後又以戰功加鴻臚卿,累封河間郡公。

建中初年、河北の諸節度使が叛くと、李晟は禁軍を率いて馬燧らを助け征討した。晟は君牙を都虞候とし、武安・襄国・洹水・魏県・清豊において賊を討ち功績を多く挙げ、君牙は生け捕りや首級を多く獲た。徳宗が奉天に避難すると、晟は君牙に命じて配下の兵を統率させ、倍道兼行して国難に赴かせた。咸陽に駐軍し、渭橋に営を移すと、軍中の事柄は晟がただ君牙とのみ相談し、他の者は聞くことができなかった。宮闕を回復すると、御史大夫・検校常侍を加えられた。やがて晟が鳳翔・涇原元帥となると、しばしば軍を出して辺境を巡り、常に君牙に留後を掌らせ、軍府は安んじて悦んだ。貞元三年、晟が太尉・中書令として朝廷に帰ると、君牙が代わって鳳翔尹・鳳翔隴州都防禦観察使となり、まもなく右神策行営節度・鳳翔隴州観察使に遷り、検校工部尚書を加えられた。吐蕃が連年辺境を侵犯すると、君牙は耕しつつ戦い、守備としたため、西戎はついに大患となることができなかった。まもなく検校右僕射を加えられた。貞元十四年に卒去、時に七十一歳、一日朝を廃し、司空を贈られ、布帛米粟を賻された。

原文建中初,河北諸節帥叛,李晟率禁軍助馬燧等征之。晟以君牙為都虞候,累於武安、襄國、洹水、魏縣、清豐討賊有功,君牙擒生斬級居多。屬德宗幸奉天,晟率君牙統所部兵,倍道兼程,來赴國難。及駐軍咸陽,移營渭橋,軍中之事,晟惟與君牙商之,他人莫可得而聞也。收復宮闕,驟加御史大夫、檢校常侍。既而晟為鳳翔、涇原元帥,數出軍巡邊,常令君牙掌知留後,軍府安悅。貞元三年,晟以太尉、中書令歸朝,君牙代為鳳翔尹、鳳翔隴州都防禦觀察使,尋遷右神策行營節度、鳳翔隴州觀察使,加檢校工部尚書。吐蕃連歲犯邊,君牙且耕且戰,以為守備,西戎竟不能為大患。尋加檢校右僕射。貞元十四年卒,時年七十一,廢朝一日,贈司空,賻布帛米粟有差。

楊朝晟

原文楊朝晟

楊朝晟は字を叔明といい、夏州朔方の人である。初め、朔方において部軍の前鋒となり、常に功績があり、甘泉果毅を授けられた。建中初年、李懐光に従って涇州の劉文喜を討ち、斬獲や生け捕りが多く、驃騎大将軍を授けられ、やがて右先鋒兵馬使に遷った。後に李納が徐州を寇すと、唐朝臣に従って征討し、常に軍の鋒を冠し、功により開府儀同三司・検校太子賓客を授けられた。

原文楊朝晟,字叔明,夏州朔方人。初,在朔方為部軍前鋒,常有功,授甘泉果毅。建中初,從李懷光討劉文喜於涇州,斬獲擒生居多,授驃騎大將軍,稍遷右先鋒兵馬使。後李納寇徐州,從唐朝臣征討,常冠軍鋒,以功授開府儀同三司、檢校太子賓客。

上(皇帝)が奉天におられた時、李懐光が山東より国難に赴き、朝晟を右廂兵馬使とし、千余人を率いて咸陽を下り、朱泚を挫かせた。御史中丞を加えられ、実封一百五十戸を与えられた。懐光が河中で反逆すると、朝晟は脅迫されて軍中にあった。上が梁州・洋州に避難し、韓遊瓌が邠寧に退くと、懐光はかつて邠寧に在ったことから、属城のように迫制し、賊党の張昕を邠州に置いて後務を総べさせた。昕は難事が起こることを恐れ、大いに軍資を索め、兵卒や車馬を徴発し、明朝に密かに出発して懐光に帰ることを約した。時に朝晟の父懐賓は遊瓌の将であり、夜後に数十騎を以て昕及び同謀者を斬った。遊瓌は即日に懐賓を使者として表を奉り奏聞させ、上は召して労い問い、兼御史中丞を授け、正式に遊瓌を邠寧節度使に任じた。間諜が河中に至り、朝晟はその事を聞き、泣いて懐光に告げて言うには、「父は国に功を立て、子は誅戮に合うべきであり、兵を主とすべからず」。懐光は遂に彼を拘束した。諸軍が河中を囲むと、韓遊瓌は長春宮に営し、懐賓は身をもって戦伐に当たった。懐光が平定されると、上はその忠を思い、副元帥渾瑊に命じて特に朝晟を赦し、遊瓌の都虞候に用いた。時に父子同軍となり、皆な開府・賓客・御史中丞となり、異姓の王として、軍中において栄えた。

原文上在奉天,李懷光自山東赴難,以朝晟為右廂兵馬使,將千余人下咸陽,以挫硃泚。加御史中丞,實封一百五十戶。及懷光反於河中,朝晟被脅在軍。上幸梁、洋,韓遊瑰退於邠寧,懷光以嘗在邠寧,迫制如屬城,以賊黨張昕在邠州總後務。昕懼難作,乃大索軍資,征卒乘,約明潛發,歸於懷光。時朝晟父懷賓為遊瑰將,夜後以數十騎斬昕及同謀者。遊瑰即日使懷賓奉表聞奏,上召勞問,授兼御史中丞,正授遊瑰邠寧節度使。間諜至河中,朝晟聞其事,泣告懷光曰:「父立功於國,子合誅戮,不可主兵。」懷光遂系之。及諸軍進圍河中,韓遊瑰營於長春宮,懷賓身當戰伐。及懷光平,上念其忠,俾副元帥渾瑊特原朝晟,用為遊瑰都虞候。時父子同軍,皆為開府、賓客、御史中丞,異姓王,榮於軍中。

後に詔して遊瓌を宿衛に徴し、張献甫をもって代えさせた。献甫が途上にある時、軍中に裴満という者がおり、乱を扇ぎ朝晟を脅迫した。朝晟は表面上これを許し、密かに計略をめぐらして三百余人を斬った。献甫が入ると、御史大夫に改めた。九年、塩州を築城し、兵を徴して外境を護らせ、朝晟は士馬を分統して木波堡に鎮した。献甫が卒去すると、詔して朝晟をもって代えさせた。その年、母の喪に服し、起復して左金吾大将軍同正・邠州刺史・兼御史大夫となった。十三年春、朝晟は奏上して言うには、「方渠・合道・木波は皆な賊の通路であります。その地に城を築いて備えたい」。詔して問うには、「兵を幾ばくか要するか」。朝晟は奏上して言うには、「臣が部下の兵をもって自ら事を成すことができ、外の援助を煩わす必要はありません」。また問うには、「前に塩州を築いた時は、凡そ師七万を興した。今はどうしてかくも容易なのか」。朝晟は言うには、「塩州の役は、諸軍をことごとく集め、番戎もこれを尽く知りました。今、臣の境は虜に迫っており、もし大いに兵を興せば、即ち番戎が来寇します。来寇すれば戦わねばならず、戦えば城を築く暇がありません。今、密かに軍士を発し、十日とせずして塞下に至り、一句を経ずして功を畢えれば、番人が知り始めた時には、すでにどうすることもできません」。上はこれに従った。事が済み、軍が馬嶺に還ると、吐蕃がようやく来寇し、数日で退いた。

原文後詔征遊瑰宿衛,以張獻甫代之。獻甫在道,軍中有裴滿者,扇亂劫朝晟,朝晟陽許之,密計斬三百余人。獻甫入,改御史大夫。九年,城鹽州,征兵以護外境,朝晟分統士馬鎮木波堡。獻甫卒,詔以朝晟代之。其年,丁母憂,起復左金吾大將軍同正、邠州刺史、兼御史大夫。十三年春,朝晟奏:「方渠、合道、木波,皆賊路也,請城其地以備之。」詔問:「須兵幾何?」朝晟奏曰:「臣部下兵自可集事,不煩外助。」復問:「前築鹽州,凡興師七萬,今何其易也?」朝晟曰:「鹽州之役,咸集諸軍,番戎盡知之。今臣境迫虜,若大興兵,即番戎來寇;來寇則戰,戰則無暇城矣!今請密發軍士,不十日至塞下,未旬而功畢,番人始知,已無奈何。」上從之。已事,軍還至馬嶺,吐蕃始來,數日而退。

初め、軍が方渠に次ぐと、水がなく、師旅は囂然とした。たちまち青蛇が高い所より下り、その跡を視ると、水がそれに従って流れた。朝晟は命じて防を築いてこれを囲み、遂に渟泉となった。軍人は仰いで飲みて足り、その事を図して上聞すると、詔して祠を置かせた。喪が明けると、検校工部尚書を加えられた。この夏、防秋のため軍を寧州に移し、疾に罹り、十余日で卒去した。

原文初,軍次方渠,無水,師旅囂然。遽有青蛇乘高而下,視其跡,水隨而流,朝晟命築防環之,遂為渟泉。軍人仰飲以足,圖其事上聞,詔置祠焉。免喪,加檢校工部尚書。是夏,以防秋移軍寧州,遘疾,旬余而卒。

張敬則

原文張敬則

張敬則は、何の許の人か知れず、本名は昌といい、後に敬則の名を賜った。初め劉玄佐を助け、累ねて軍功があり、官は鳳翔節度使に至った。常に河湟を回復する志があり、大将野詩良輔を遣わして鋭卒を発して隴西に至らせると、番戎は大いに駭いた。元和二年六月に卒去した。

原文張敬則者,不知何許人,本名昌,後賜名敬則。初助劉玄佐,累有軍功,官至鳳翔節度使。常有復河湟之誌,遣大將野詩良輔發銳卒至隴西,番戎大駭。元和二年六月卒。

史臣が曰く、有唐中否し、逆寇勃興し、天王は蒙塵を以て窘しめられ、諸侯は忠を以て難に赴く。可孤は沙漠に生まれ、挺然として命を効うるの風を懐き、功は貔貅に冠し、屹爾として矜らざるの色有り。李観は文儒の胄にして、兵戎を習うを楽み、聖主を戴きて定難の勛を著し、渾瑊を会盟の変に救う。休顔は使を斬り城を嬰い、懐光股栗す。恵元は窮蹙自ら致し、天子軫悼す。元諒は兵を章敬に退け、力戦して功を譲り、雅に器度有り。及び小忿を忍びず、庭光を専殺し、軍門に罪を請う、壮なるかな烈士。その下の諸将、郁として労能有り。勝は異域に生まれ、位を推し国を譲り、堅く宿衛を留め、華風を顧慕す。中土に居る者は、豈に廉譲を思わざらんや。斯れ乃ち高祖こうその基、太宗の業、厥の孫に謀を貽し、徒に虚語に非ざるなり。

原文史臣曰:有唐中否,逆寇勃興,天王窘以蒙塵,諸侯忠而赴難。可孤生居沙漠,挺然懷效命之風;功冠貔貅,屹爾有不矜之色。李觀文儒之胄,樂習兵戎,戴聖主著定難之勛,救渾瑊於會盟之變。休顏斬使嬰城,懷光股栗;惠元窮蹙自致,天子軫悼。元諒退兵章敬,力戰讓功,雅有器度。及不忍小忿,專殺庭光,請罪軍門,壯哉烈士!其下諸將,郁有勞能。勝生異域,推位讓國,堅留宿衛,顧慕華風;居中土者,豈不思廉讓耶!斯乃高祖之基,太宗之業,貽厥孫謀,不徒虛語。

賛して曰く、建中国を失い、嘯聚して氛慝す。景命載延し、群雄力を畢す。歌鐘甲第、珪組繁錫す。凡そ百の人臣、忠は令徳と為す。

原文贊曰:建中失國,嘯聚氛慝。景命載延,群雄畢力。歌鐘甲第,珪組繁錫。凡百人臣,忠為令德。