旧唐書 尚可孤

旧唐書

尚可孤

尚可孤は、東部鮮卑の宇文部の別種であり、代々松州・漠州の間に居住していた。天宝末年に帰国し、范陽節度使安禄山に隷属し、後に史思明に仕えた。上元年中に帰順し、累次して左・右威衛二大將軍同正を授けられ、神策大を充任し、前後の功績により試太常卿に改められ、なお実封一百五十戸を賜った。魚朝恩が禁軍を統率した時、その勇を愛し、甚だ委遇して、養子と為し、魚氏を姓とし、名を智德と奏上し、禁兵三千を率いて扶風県に鎮し、後に武功に移った。可孤は扶風・武功に凡そ十余年在り、士伍は整い肅し、軍邑はこれを安んじた。朝恩が死ぬと、可孤に李氏を姓とし、名を嘉勛と賜う。時に李希烈が反叛し、建中四年七月、兼御史中丞・荊襄応援淮西使を除かれ、なお本姓名の尚可孤に復し、統べる所の衆を率いて山南に赴き、累次戦功を挙げた。

涇原の兵が叛すると、詔して可孤の軍を藍田に征し、賊衆が方に盛んなり、遂に七盤に営し、城柵を修めてこれに居した。賊将の仇敬らが来寇し、可孤は頻りにこれを撃破し、因って藍田県を収めた。興元元年三月、検校工部尚書・兼御史大夫・神策京畿渭南商州節度使に遷る。四月、仇敬がまた来寇し、可孤は兵を率いて急撃し、仇敬を擒えて斬り、遂に進軍して副元帥李晟と決策して攻討した。五月、晟は可孤及び駱元光の軍を率いて京城を収め、可孤の師は先鋒と為った。京師が平定すると、功により検校右僕射に昇り、馮翊郡王に封ぜられ、邑を増して通前八百戸とし、実封二百戸とした。

可孤は性謹願沈毅にして、既に勲績ありながら、衆会の中、未だ功を言わず。賊が平定した後、白花亭に営し、衆を禦するに公平にして、号令厳整、時に人これを称えた。李晟は甚だこれを親重した。李懐光が河中に叛すると、詔して可孤に師を帥いて諸軍と進討せしめ、沙苑に次ぐ。疾に遇い、軍中に卒す。司徒を贈られ、賻として布帛米粟を加等し、喪葬に須いる所は、並びに官に給せしむ。

李観

李観は洛陽の人、その先は趙郡より徙り、秋官員外郎敬仁の姪孫なり。少より武芸を習い、沈厚寡言にして、将帥の識度あり。乾元中、策を以て朔方節度使郭子儀に干る。子儀これを善しとし、坊州刺史呉伷を佐けしめ、防遏使を充任せしむ。尋いで憂いにより免じ、盩厔うちつの別業に居す。広徳初、吐蕃が入寇し、鑾駕が陝に幸すや、盩厔において謁見し、郷里の子弟千余人を率いて黒水の西を守り、戎人敢えて近づかず。時に嶺南節度使楊慎微が鎮に将かんとし、観の権謀を以て、偏将に充て、軍政を総べしむるを奏す。徐浩・李勉が相継いで広州を領するに及び、特に信任を加え、麾下の兵甲悉くこれを委ぬ。馮崇道・朱泚を平らぐる時功あり、累次大将に遷る。李勉が滑州に移鎮し、累次奏して試殿中監を授け、開府儀同三司を加う。追って闕に赴き、右龍武将軍を授かる。

建中末、涇師が叛し、観は時に上直し、衛兵千余人を領して奉天に扈従す。詔して諸軍戍卒の都巡警訓練を為し、三数日の間に、二千余衆を加えて召し、これを通衢に列し、鼙鼓を整え肅し、城内これにより気を増す。徳宗これに倚頼し、封二百戸を賜う。二子の宏・寓に、八品の京官を授く。駕が奉天を出づるに及び、令狐建・李升・韋清らと咸に羈靮を執り、艱険に周旋し、皆功労著し。駕が京師に還るや、詔して後軍禁衛を総べしむ。

興元元年閏十月、四鎮北庭行軍涇原節度使・検校兵部尚書に拝す。鎮に在ること四年、拓境の績は無きも、卒を励まし糧を儲え、訓整寧輯す。平涼の師が会するに及び、渾瑊既に戎備無く、観は狡謀を伺い知り、潜かに精兵五千を択びて険道に要伏す。瑊が遁帰するに及び、観の遊軍及び李元諒の師の表裏に頼りて免る。帝は優賞し、賜賚甚だ厚く、特詔を以て褒美す。その年、京師に朝し、少府監・検校工部尚書を除かれ、疾を以て終わる。貞元四年、太子少傅を贈らる。

戴休顔

戴休顔は夏州の人。軍伍に在りて胆略を以て称せらる。大暦中、郭子儀の部将と為り、戦功により累次塩州刺史に遷る。奉天の難に、倍道して所部の蕃漢三千人を以て号泣して難に赴く。徳宗これを嘉し、実封二百戸を賜う。渾瑊・杜希全・韓遊瑰らと捍禦して功あり。車駕再び梁・洋に幸すや、奉天を留守す。李懐光が叛して咸陽に拠り、使をして休顔を誘わしむるに及び、休顔は三軍を集めてその使を斬り、城をかこって自ら守る。懐光大いに駭き、遂に涇陽より夜遁す。その月、検校工部尚書・奉天行営節度使に拝す。李晟が京師を収むるや、乃ち渾瑊とともに泚の偏師を破り、首三千級を斬り、休顔は賊を追って中渭橋に至る。李晟既に宮闕を清むるや、休顔は瑊らと兵を率いて岐陽に赴き、泚の余衆を邀撃す。策勲するに及び、検校右僕射を加えられ、封は六百戸に至る。七月、駕に扈従して京に至り、特めて女楽・甲第を賜い以て功伐を褒め、尋いで左龍武将軍に拝す。貞元元年卒す。年五十九。朝を廃すること一日、贈賻差等あり。

陽恵元

陽恵元は平州の人。材力を以て軍に従い、平盧節度使劉正臣に隷属す。後に田神功・李忠臣らと相継いで海をひろして青・斉の間に至り、忠勇にして権略多く、名将と称せらる。また兵を以て神策に隷し、神策京西兵馬使を充任し、奉天に鎮す。

初め、大暦中、両河平定し、事多く姑息なり。李正己は淄・青・斉・海・登・萊・沂・密・徳・棣・曹・濮・徐・兗・鄆の十五州の地を有し、兵十万を養い、李宝臣は恆・易・深・趙・滄・冀・定の七州の地を有し、兵五万あり、田承嗣は魏・博・相・衛・洺・貝・澶の七州の地を有し、兵五万あり、梁崇義は襄・鄧・均・房・復・郢の六州の地を有し、その衆二万。皆始めは叛乱によりて侯を得、各々土宇を擅にし、泛(ひろ)く朝旨を稟(う)くるも、威刑爵賞、生殺自ら専らにし、盤根結固、相い表裏を為す。朝廷は常に大信を示し、拘限せず、緩むれば則ち嫌釁自ら作り、急ぐれば則ち合謀す。或いは詔旨将に一城を増し、一池を浚わんとするを聞けば、必ず皆怨怒して辞あり、則ちこれがために役を罷む。而して自ら境内に於いて兵を治め壘を繕い以て自ら固む。凡そ三朝を歴、殆ど二十年、国家敢えて拳石撮土の役を興さず。

代宗は寛柔にして怒ることなく、一切これに従った。凡そ河朔諸道の健歩が奏計する者は、必ず賜賚を得た。徳宗が即位すると、厳察にして神断、劉文喜を誅して以来、朝法の犯すべからざるを知り、四盗ともに自ら安んぜず。奏計する者は空しく還り、賞賜する所なく、帰る者多く怨んだ。或いは飛語を伝説し、帝が東封せんと欲すと云い、汴州は城隘狭なりと奏して、城郭を増築す。李正己これを聞き、兵万人を移して曹州に屯し、田悦もまた兵を河上に加う。河南大いに擾り、羽書警急なり。乃ち詔して京西の戎兵一万二千人を移して関東に備えしむ。帝は望春楼に御し、親しく師を誓いてこれを遣わし、曰く、「嗚呼、東鄙の警は、事已むを得ず。唯だ爾が将校群士、各々忠節を以て王家に勤めよ。南は蜀門に赴き、西は涇壘を定め、甲冑解かず、瘡痍未だ平らかならず。今爾を用いて周・鄭の郊に分鎮せしむ。明命を敬って聴け。夫れ王者の師は、征有りて戦無し。諸の理道に稽え、用て邦国を正す。宜しく乃ち戈甲を励まし、城池を保固し、徳を以て人を和し、義を以て事を制すべし。将に其の侵軼を備うるも、越境攻取を用いず、戢えて後に動く、正しと謂うべし。今外夷来庭し、方に春生植し、品物資始まる。農桑是の時なり。爾が将士をして、中野に暴露せしむるは、我が心痛悼し、鬱として焚灼の如し。嗟爾有衆、其れ悉く予が懐をせよ。」士卒多く泣下す。賜宴に及び、諸将列坐す。酒至れば、神策の将士皆飲まず。帝使いをして問わしむ。恵元時に都将たり、対えて曰く、「臣初め奉天を発す。本軍の帥張巨済、臣等と約して曰く、『斯の役は、将に大勛を策し、大名を建てん。凱旋の日、当に共に歓を為すべし。苟も戎捷せずんば、酒を飲むこと無からん』と。故に臣等、約に違いて飲むことを敢えず。」既に発ち、有司道路に供餼す。他の軍は孑遺無く、唯だ恵元一軍は瓶罍発せず。上称嘆すること久しく、璽書を降して慰労す。

田悦の反するに及び、詔して恵元に禁兵三千を領せしめ、諸将とともに討伐す。御河に戦い、三橋を奪う。皆恵元の功なり。尋いで検校工部尚書を加え、貝州刺史を摂し、兵を以て李懐光に属せしむ。建中四年冬、河朔より懐光とともに国難に赴き、奉天の囲みを解く。明年二月、懐光国に背き叛逆す。恵元義に汚れを受けることなく、身を脱して奉天に奔竄す。乗輿の南幸に会す。懐光恵元の逸するを怒り、其の将冉宗に百余騎を以て好畤県に追い及ばしむ。恵元計窮まり、父子三人並びに人家の井中に投ず。冉宗並びに出してこれを害す。興元元年、右僕射を贈り、仍て絹百匹を賻す。恵元の男尚食奉御晟に殿中監を贈り、左衛兵曹参軍皓に邠州刺史を贈る。死難を褒むるなり。

李元諒

李元諒は、本は駱元光、姓は安氏、其の先は安息の人なり。少くして宦官駱奉先に養われ、駱氏を冒姓す。元諒長大にして美須、勇敢にして計多し。少くして軍に従い、宿衛に備え、労を積みて太子詹事を試みる。鎮国軍節度使李懐讓、署して鎮国軍副使を奏し、州事を領せしむ。元諒嘗て潼関に在りて軍を領し、十数年を積む。軍士皆畏服す。

徳宗奉天に居す。賊泚偽将何望之を遣わし軽騎を以て華州を襲わしむ。刺史董晋州を棄てて走る。望之遂に城を据え、兵を聚めて以て東道を絶たんとす。元諒潼関より将いて所部を率い、仍て義兵に其の未だ設備せざるに因り、径ち望之を攻めしむ。遂に華州を抜き、望之走りて帰る。元諒乃ち城隍器械を修め召募す。数日ならずして、兵万余を得、軍益々振う。功を以て御史中丞を加う。賊泚数たび兵を遣わし来寇す。輒ちこれを撃ち却す。是の時、尚可孤藍田を守り、元諒と掎角す。賊東して渭南を逾ゆること能わず。元諒功多く居る。幾くも無く、華州刺史・兼御史大夫・潼関防禦・鎮国軍節度使に遷り、尋いで検校工部尚書を加う。

興元元年五月、詔して元諒に副元帥李晟とともに進みて京邑を収めしむ。兵は浐西に次ぐ。賊衆を悉くして来攻す。元諒士卒に先んじて奮撃し、大いにこれを敗る。進軍して苑東に至り、晟と力戦し、苑垣を壊して入る。賊連戦皆敗れ、遂に京師を復す。元諒功を晟に譲り、出でて章敬仏寺に屯す。帝宮に還り、検校尚書右僕射を加え、実封七百戸、甲第・女楽を賜い、仍て一子に六品正員官を与う。

李懐光河中に反し、河津を絶つ。詔して元諒に副元帥馬燧・渾瑊とともにこれを討たしむ。時に賊将徐庭光鋭兵を以て長春宮を守る。元諒使いを遣わしてこれを招く。庭光素より元諒を軽易し、且つ慢罵す。又優胡を以て城上に戯れ、元諒の先祖を辱しむ。元諒深く以て恥とす。馬燧河東の兵至るに及び、庭光馬燧に降る。詔して庭光を以て試殿中監・兼御史大夫とす。河中平らぐ。燧庭光を待つこと益々厚し。元諒因りて軍門に庭光に遇い、左右に命じて劫し斬らしむ。乃ち燧に詣り匍匐して罪を請う。燧盛んに怒り、将に元諒を殺さんとす。久しくして其の功高きを以て、乃ち止む。徳宗元諒の専殺を以て、章疏有らんことを慮り、先ず宰相に諭して諫官に論ぜしめず。

貞元三年、詔して元諒に本軍を将いて渾瑊に従い吐蕃と平涼に会盟せしむ。元諒瑊に謂いて曰く、「本詔を奉ずるに、潘原堡に営して以て侍中に応援せよと令す。窃かに思うに、潘原平涼を去ること六七十里、蕃情多く詐り有り。倘や急変有らば、何に由てか応赴せん。侍中に次いで営せんことを請う。」瑊詔に違うを以て、固くこれを止む。元諒竟に瑊とともに進む。瑊の営盟所を距ること二十里、元諒の営これに次ぐ。壕柵深固なり。瑊会に赴くに及び、乃ち部伍を戒厳し、陣を営中に結ぶ。是の日、虜果たして甲を伏せ、瑊の無備に乗じて窃かに発つ。時に士大夫皆朝服して就執せられ、軍士死者十の七八。瑊単馬にて奔還す。群虜追躡す。瑊の営将李朝彩衆を整うること能わず、多く已に奔散す。瑊至るも、空営のみ。元諒の軍の厳固なるに頼る。瑊既に営に入り、虜皆散去す。是の日元諒の軍無かりせば、瑊幾くも免れざらん。元諒乃ち軍を整え、先ず輜重を遣わし、次いで瑊とともに号令を申し、其の部伍を厳にして還る。時に元諒に将帥の風有りと謂う。徳宗これを嘉し、良馬十匹、金銀器・錦彩等甚だ厚く賜う。母憂に丁し、右金吾衛上将軍を加え、本官を起復す。帝其の勲労を念い、又姓を李氏に賜い、名を元諒と改む。

四年春、隴右節度支度営田観察・臨洮軍使を加え、良原に移鎮す。良原古城多く摧圮す。隴東の要地、虜入寇し、常に此に馬を牧し兵を休む。元諒烽堠を遠くし、城を培い堞を補い、身軍士を率い、同じく労逸す。林を芟ぎ草を薙ぎ、荊榛を斬り、乾くを俟ち、尽くこれを焚く。方数千里、皆美田と為る。軍士を勧めて樹芸せしめ、歳に粟菽数十万斛を収む。生殖の業、陶冶必ず備わる。仍て城を距てて台を築き、上に車弩を彀し、城守の備え益々固し。幾くも無く、又新城を進めて築き、便地を据う。虜毎に寇掠すれども、輒ちこれを撃ち却す。涇・隴是れ由りて乂安し、虜深くこれを憚る。疾を以て、貞元九年十一月、良原に卒す。年六十二。帝甚だ悼惜し、朝を三日廃し、司空を贈り、布帛米粟を賻すること差有り。

韓遊瑰

韓遊瑰は、河西の霊武の人である。本軍に仕え、累ねて偏裨を歴任し、功を積んで邠寧節度使に至った。徳宗が奉天に出幸したとき、衛兵は未だ集まらず、遊瑰は慶州刺史の論惟明と合兵三千人を率いて難に赴き、乾陵の北を過ぎて醴泉に赴き、泚を拒いだ。ちょうど京城より来た者があり、賊が信宿のうちに至るだろうと言うので、上は急ぎ遊瑰らの軍伍を追い返すことを命じた。壁に入ったばかりで、泚の党が果たして至った。そこで出て城下で戦い、少し不利となり、城に退き入った。賊は急いで門を奪おうとし、遊瑰は賊と門を隔てて血戦し、暮れ方になってようやく解けた。これより賊は日々城を攻め、遊瑰・惟明は城に乗って拒み守り、自ら矢石に当たり、寝息をとる暇もなく、難に赴いた功績は、遊瑰が第一であった。

李懐光が反逆し、駕に従って山南に赴いた。徳宗は禁軍に職局がないとして、六軍に特に統軍一員を置き、位は従二品とし、遊瑰・惟明・賈隠林らに分かって従駕の禁兵を司らせた。李晟が軍を東渭橋に移し、駱元光・尚可孤と分かって京東の要路を扼した。渾瑊は遊瑰・戴休顔と分かって京西の要路を司り、掎角となって進攻した。興元元年、検校刑部尚書・兼御史大夫となり、例として「奉天定難功臣」を授けられた。李晟が京城を収めると、遊瑰ら三将も賊を咸陽で破った。徳宗が興元より京に還ると、渾瑊と遊瑰・休顔の三将が従い、李晟・尚可孤・駱元光の三将が奉迎し、功を論じて封を行い、瑊らと相次ぎ、邠寧に還鎮した。

三年、子の欽緒が妖賊李広弘と共に不軌を謀ったため、時に遊瑰は長武城を鎮守しており、事が発せんとするとき、欽緒は邠州に奔った。邠州の将吏は械をかけて京師に送った。遊瑰は子が大逆であるとして、代わって帰ることを請い、固く闕に詣でようとしたが、詔は許さなかった。遊瑰は欽緒の二子を鎖で繋いで京師に送り、従坐を請うたが、上もまたこれを赦した。十二月、遊瑰は入朝し、素服で罪を待ち、朝堂に入った。急ぎこれを釈することを命じ、労遇は以前の如くし、再び鎮に還ることを命じた。初め、遊瑰が入覲したとき、邠州の将吏はその子が謀叛し、また軍を統御するに政なく、必ず代わられるだろうと思い、餞送の礼は甚だ薄かった。遊瑰が上に謁見し、盛んに辺事を論じ、蕃寇に備えて豊義城を築くことを請うと、上は特達として、委用は初めの如くした。鎮に還ると、軍中は恐れて自ら安んぜず、大将の範希朝は兵を将いることに長け、名が軍中に聞こえていた。遊瑰はその己を逼ることを畏れ、事に因ってこれを誅しようとした。希朝は恐れて、出奔して鳳翔に至った。上はもとよりその名を知り、召して宿衛に入らせた。遊瑰が五百人を遣わして豊義城を築かせると、二板にして潰れた。また寧州の戍卒数百人が、掠奪をほしいままにして叛いた。その方略なく、士心を失うことは、皆この類いである。寧州の卒が叛いてより、吐蕃が寇すと、遊瑰は自ら衆を率いて寧州を戍った。

四年七月、将軍の張献甫を除して遊瑰に代えようとしたが、献甫の至るを待たず、また衆に知らせず、軽騎で夜に出て帰朝した。将卒はもとより驕っており、献甫が厳急と聞き、その帥無きに乗じ、兵をほしいままにして大いに掠奪し、かつ監軍の楊明義の第を囲み、範希朝を帥として奏することを請うた。都虞候の楊朝晟は初め郊外に逃難していたが、翌日希朝を請うたと聞き、再び城に入り、軍衆に言うには、「請うところは甚だ適っている。我は来て賀するなり」と。叛卒は次第に安んじた。朝晟は諸将と密謀し、朝に甲兵を率いて出て、叛卒を召して告げた。「前に請うた者は得られず、張尚書が来て、昨日すでに邠州に入った。汝ら謀叛した者は、皆死すべきである。我は尽く殺さず、誰が賊の首か、各々言え。罪をこれに帰し、余は悉く問わない」と。衆の中より二百余人を唱え、立ちどころに斬ったので、軍城はようやく定まった。上は軍情が希朝を欲することを聞き、寧州刺史を授け、献甫の邠寧の副とした。遊瑰は京に至り、右龍武統軍を授かった。十四年に卒した。

李広弘

李広弘は、あるいは宗室親王の胤であるという。落髪して僧となり、自ら五嶽・四瀆の神を見たと言い、己が人主となるべきであるとした。貞元三年、邠州より京師に至り、市人に董昌という者がおり、広弘を導き、資敬寺の尼智因の室に宿らせた。智因はもと宮人である。董昌は酒食をもって殿前射生将の韓欽緒・李政諫・南珍霞、神策将の魏修・李傪、前越州参軍の劉昉・陸緩・陸絳・陸充・徐綱らと結び、共に逆を謀った。広弘は嶽瀆の神が言うには、十月十日に事を挙げれば必ず勝つと言った。欽緒以下、皆署置して宰相とし、智因尼を后とした。事を挙げる日に、夜に欽緒に命じて凌煙門で鼓を撃たせ、飛龍廐舎の草積を焚かせ、また珍霞に命じて街鼓を盗み撃たせ、城中の人を集めさせ、また政諫・修・傪らに命じて射生・神策の兵を率いて内応させ、事が成れば五日間掠奪を許し、朝官を悉く殺そうと謀った。事は未だ発せず、魏修・李傪が変を上告し、内官の王希遷らに命じてその党与を捕らえて斬らせた。徳宗はこれにより諸色の人に寺観に輒く入ることを得ざることを禁じた。

賈隠林

賈隠林は、滑州の牙将である。建中初め、本軍の兵馬使となり、兵を率いて宿衛することを命じられた。硃泚の乱に際し、諸軍未だ集まらず、隠林は衆を率いて扈従した。性質は朴訥であり、奉天において、賊が急に城を攻めると、隠林は侯仲荘と逐って急ぎ救応し、艱難危険を備え尽くした。やがて懐光の軍が至り、逆賊が囲みを解くと、従臣は慶賀を称えた。隠林が抃舞を終え、奏して言うには、「賊の泚は奔り逃げ、臣下は大いに慶ぶ。これは皆、宗社の無疆の慶である。然るに陛下の性霊は太だ急にして、容忍することができず、もし旧性改まらざれば、賊は奔亡すれども、臣は憂い未だ艾たざるを恐れる」と。上はこれを忤とせず、甚だこれを称えた。累官して検校右散騎常侍に至り、武威郡王に封ぜられた。山南に幸せんとして卒し、左僕射を贈られ、その家に実封三百戸を賜い、賻として絹百匹・米百碩を賜り、喪葬は官が給した。

杜希全

杜希全は、京兆醴泉の人である。少より軍に従い、嘗て郭尚父の子儀の裨将となり、功を積んで朔方軍節度使に至った。軍令は厳粛で、士卒は皆悦服した。初め、徳宗が奉天に居たとき、希全は真っ先に将として所部を率い、塩州刺史の戴休顔・夏州刺史の時常春と合兵して難に赴いた。軍はすでに漠谷に次いだが、賊の泚に邀撃され、高きに乗じて礧を縦にし、また大弩をもってこれを射たので、傷つく者多かった。徳宗は兵を出してこれを援けさせたが、進むことができず、希全は退いて邠州に次いだ。難に赴いた功により、検校戸部尚書・行在都知兵馬使を加えられた。梁州に幸するに従った。帝が京師に還ると、太子少師・検校右僕射に遷り、兼ねて霊州大都督・御史大夫・受降定遠城天徳軍、霊塩豊夏等州節度支度営田観察押蕃落等使・余姚郡王となった。

希全が霊州に赴かんとするとき、『体要』八章を献上し、多く規諫した。徳宗は深くこれを納れ、『君臣箴』を著してこれを賜った。その辞は次のようである。

およそ徳は人を恵み、君は天を奉じ、諫言に従えば聖となり、共に治めるには賢を要す。帝王は極を立て、大命は易からず、万機を総べて務めを成し、六合の異なる状態を斉しくする。一心のみでは独り照らすことができず、一目のみでは周囲を見渡せない。哲人を広く求め、位に序して用いる。ああ、君主が臣を任用するには必ず一徳を求め、臣が君に仕えるには皆正直を思う。いかなる啓発と潤いが適切であるか、古今を通じて未だ得られず。かつ直言は耳に逆らい、讒言と諂いは側に伺う。故に下情は通ぜず、上聴は既に惑わされ、忠賢をして兇悪に敗れしむ。あたかも軽舟のごとく、船子が櫂を操り、また和羹のごとく、宰夫が調理する。誰が国を治めるのに師を得ずして成し得ようか、覆車の轍を、我は戒めん。高きは下より昇り、和は甘受より生ず。ただ君に良からざるも、また臣の咎なり。辛毗の故事を聞けば、魏帝の裾を牽き、また禽息あり、忠を尽くして首を砕く。献替を思うに勉め、可否を平らかにせよ。傷なきと謂うなかれ、微より自ら顕わる。害なきと謂うなかれ、小を積みて大となる。事には隠れて必ず現れるものあり、令は既に出でてどうして悔いようか。宮中に鐘鼓あれば、声は外に聞こえ、浩然として水に渉るが如く、朕には未だ終わりなし。扆を負いて虚心となり、忠を尽くして誨を受けんことを期す。昔の稷・契は実に舜・禹を匡し、近くは魏徴、我が文祖を佑け、君臣協徳して区宇を混一す。ここに朕寡昧にして、丕緒を継ぐを得たり。臣よ隣よ、汝は翼となり輔となれ。

高秋始めて肅し、我が武惟れ揚がる。この禁衛を輟み、大邦に殿す。闕を恋うこと方に甚だしく、嘉言すなわち昌んず。これ規諫、金玉のその相。辞高く理要を得、徳に入り方を知る。かの千慮を総べ、八章に備わる。宣父言有り、我を啓く者は商なり。殷には盤銘有り、周には欹器有り、或いは辞を以て戒め、或いは事を以て警む。図を披き義を演じ、爾が志より発す。金鏡とともに高く懸け、座右とともに同じく置かん。人皆初め有りて、その終わりを慎むこと鮮なし。汝その夙夜、朕が躬を保つことを期せよ。爾が身は外に在りて、爾が誠通ぜずと曰うなかれ。一言の応、千里同じ。かの遐邇を導き、余が四聡に達せしめよ。華夷徳を仰ぎ、時に乃ちの功なり。既に往き既に来たり、賢を懐いて忡忡。予に唱え汝に和し、深衷を示さん。

まもなく本管及び夏綏節度都統を兼ね、太子少師を加えられる。希全は塩州の地が要害に当たるとし、貞元三年に西蕃が盟約を破って以来、州城は虜に陥ち、これより塞外に保障なく、霊武は勢い隔たり、西は鄜坊に通じ、甚だ辺境の患いとなることを以て、朝議はこれを是とした。九年、詔して曰く。

険を設けて国を守るは、『易』の象に文を垂れ、備え有れば患い無しは、先王の令典なり。況や旧制を修復し、疆裏を安固にし、甲を偃げ人を息ましむるは、必ずここに在り。

塩州の地は沖要に当たり、遠く朔陲に介し、東は銀夏に達し、西は霊武を援け、延慶に密邇し、王畿を保扞す。先には城池守を失い、制備拠る所無く、千里の庭障、烽燧接せず、三隅の要害、役戍その勤め。もし師徒を興集し、壁壘を繕修し、攻守の具を設け、耕戦の方に務めざれば、則ち封内虞多く、諸華屡く警め、中より外に及び、皆寧居すること靡からん。永図を深く惟うに、豈に終食を忘れんや。顧みるに薄徳を以てし、至化未だ孚かず、既に前古の治を復し、四夷の守を致す能わず。事に臨みて重ねて擾わすと、先に備えて即ち安んずるに若かず。是を用いて久遠の謀を弘め、五原の壘を修め、辺城守る有らしめ、中夏克く寧からしめん。暫くの労有ること無くして、安んぞ永く逸せん。

宜しく左右神策及び朔方河中絳邠寧慶兵馬副元帥渾瑊、朔方霊塩豊夏綏銀節度都統杜希全、邠寧節度使張献甫、神策行営節度使邢君牙、銀夏節度使韓潭、鄜坊節度使王棲曜、振武節度使範希朝に命じ、各おの管轄部において将士を簡練し、三万千五百人をして同じく塩州に赴かしめよ。神策将軍張昌宜に塩州事を権知せしめ、板築雑役に応ずる者は六千人を取って充てよ。その塩州防秋将士は、三年を率いて満ちて更代せしめ、仍て杜彦先に名簿を具して奏聞せしめ、悉く改転を与えよ。

朕が情は己れの欲するに非ず、志は人を靖んずるに在り。爾ら将相の臣、忠良の士に咨る。誠を輸して命に奉じ、力を陳べて憂いを忘れ、功勛を勉めて茂くし、疆場を永く安んぜよ。必ず兵事を集むるは、実に衆心に惟る。各おの相率いて励まし、以て朕が志に副えよ。

凡そ六千人を役し、二旬にして畢る。時に板築せんとし、仍て詔して涇原・剣南・山南諸軍に吐蕃を深く討たしめて以てこれを牽制せしむ。これにより板築の時、虜塞を犯すに及ばず。城畢り、中外賀す。これにより霊武・銀夏・河西稍く安んじ、虜深く入るを敢えず。

希全は久しく河西に鎮し、晩節は辺境に倚りて恣横多く、帝嘗てこれを寛容した。豊州刺史李景略の威名はその右に出で、希全深くこれを忌み、代わらんことを疑畏し、乃ち誣奏して景略を陥れた。徳宗已むを得ずこれを貶した。平素より風眩の病有り、暴戾益甚だし。判官監察御史李起は頗るこれに忤い、希全また誣奏してこれを殺した。将吏皆重足脅息す。貞元十年正月卒す。朝を廃すること三日、司空を贈られる。

尉遅勝

尉遅勝は、本より于闐王珪の長子、少にして位を嗣ぐ。天宝中に来朝し、名馬・美玉を献じ、玄宗これを嘉し、宗室の女を妻とし、右威衛将軍・毗沙府都督を授け、国に還る。安西節度使高仙芝とともに薩毗播仙を撃破し、功により銀青光禄大夫・鴻臚卿を加えられ、光禄卿に改め、皆同正。

至徳初め、安禄山の反を聞き、勝は乃ち弟曜に国事を行わしめ、自ら兵五千を率いて難に赴く。国人勝を留め、少女を質として後に発つ。粛宗これを厚く待ち、特進を授け、殿中監を兼ねる。広徳中、驃騎大将軍・毗沙府都督・于闐王に拝し、国に還るを命ず。勝固より宿衛に留まることを請い、開府儀同三司を加えられ、武都王に封ぜられ、実封百戸。勝は本国の王を曜に授けることを請い、詔してこれに従う。勝は乃ち京師修行裏に林亭を盛んに飾り、以て賓客を待ち、好事者多くこれを訪う。

建中末、奉天に従幸し、兼御史中丞となる。駕が興元に在りし時、勝は右領軍将軍となり、俄かに右威衛大将軍に遷り、睦王傅を歴任す。

貞元初め、曜使いを遣わし上疏して称す、「国を有つ以来、代々嫡子が嗣ぐ。兄勝既に国を譲りしを以て、勝の子鋭に伝うることを請う」と。上乃ち鋭を検校光禄卿・兼毗沙府長史として還す。固く辞し、且つ言うに曰く、「曜久しく国事を行い、人皆悅服す。鋭は京華に生まれ、国俗に習わず、遣わし往くべからず」と。これにより韶王諮議を授く。兄弟国を譲る、人多くこれを称す。府除かれ、勝を以て原王傅とす。卒す。時に年六十四。貞元十年、涼州都督を贈られる。子鋭嗣ぐ。

邢君牙

邢君牙は瀛州楽寿の人である。若くして幽薊・平盧に従軍し、戦功により果毅折衝郎将を歴任し、平盧兵馬使を充てられた。安禄山が反乱を起こすと、平盧節度使侯希逸に従って海を渡り、青州・徐州の地に至った。田神功が劉展を討伐した際には、また神功に従って戦い功績を挙げ、将軍・試光禄卿を歴任した。神功が兗鄆節度使となると、君牙に防秋兵を率いさせて好畤に入鎮させた。吐蕃の侵犯に際し、代宗が陝州に避難すると、君牙は禁軍に属して扈従した。後にまた戦功により鴻臚卿を加えられ、累ねて河間郡公に封ぜられた。

建中初年、河北の諸節度使が叛くと、李晟は禁軍を率いて馬燧らを助け征討した。晟は君牙を都虞候とし、武安・襄国・洹水・魏県・清豊において賊を討ち功績を多く挙げ、君牙は生け捕りや首級を多く獲た。徳宗が奉天に避難すると、晟は君牙に命じて配下の兵を統率させ、倍道兼行して国難に赴かせた。咸陽に駐軍し、渭橋に営を移すと、軍中の事柄は晟がただ君牙とのみ相談し、他の者は聞くことができなかった。宮闕を回復すると、御史大夫・検校常侍を加えられた。やがて晟が鳳翔・涇原元帥となると、しばしば軍を出して辺境を巡り、常に君牙に留後を掌らせ、軍府は安んじて悦んだ。貞元三年、晟が太尉・中書令として朝廷に帰ると、君牙が代わって鳳翔尹・鳳翔隴州都防禦観察使となり、まもなく右神策行営節度・鳳翔隴州観察使に遷り、検校工部尚書を加えられた。吐蕃が連年辺境を侵犯すると、君牙は耕しつつ戦い、守備としたため、西戎はついに大患となることができなかった。まもなく検校右僕射を加えられた。貞元十四年に卒去、時に七十一歳、一日朝を廃し、司空を贈られ、布帛米粟を賻された。

楊朝晟

楊朝晟は字を叔明といい、夏州朔方の人である。初め、朔方において部軍の前鋒となり、常に功績があり、甘泉果毅を授けられた。建中初年、李懐光に従って涇州の劉文喜を討ち、斬獲や生け捕りが多く、驃騎大将軍を授けられ、やがて右先鋒兵馬使に遷った。後に李納が徐州を寇すと、唐朝臣に従って征討し、常に軍の鋒を冠し、功により開府儀同三司・検校太子賓客を授けられた。

(皇帝)が奉天におられた時、李懐光が山東より国難に赴き、朝晟を右廂兵馬使とし、千余人を率いて咸陽を下り、朱泚を挫かせた。御史中丞を加えられ、実封一百五十戸を与えられた。懐光が河中で反逆すると、朝晟は脅迫されて軍中にあった。上が梁州・洋州に避難し、韓遊瓌が邠寧に退くと、懐光はかつて邠寧に在ったことから、属城のように迫制し、賊党の張昕を邠州に置いて後務を総べさせた。昕は難事が起こることを恐れ、大いに軍資を索め、兵卒や車馬を徴発し、明朝に密かに出発して懐光に帰ることを約した。時に朝晟の父懐賓は遊瓌の将であり、夜後に数十騎を以て昕及び同謀者を斬った。遊瓌は即日に懐賓を使者として表を奉り奏聞させ、上は召して労い問い、兼御史中丞を授け、正式に遊瓌を邠寧節度使に任じた。間諜が河中に至り、朝晟はその事を聞き、泣いて懐光に告げて言うには、「父は国に功を立て、子は誅戮に合うべきであり、兵を主とすべからず」。懐光は遂に彼を拘束した。諸軍が河中を囲むと、韓遊瓌は長春宮に営し、懐賓は身をもって戦伐に当たった。懐光が平定されると、上はその忠を思い、副元帥渾瑊に命じて特に朝晟を赦し、遊瓌の都虞候に用いた。時に父子同軍となり、皆な開府・賓客・御史中丞となり、異姓の王として、軍中において栄えた。

後に詔して遊瓌を宿衛に徴し、張献甫をもって代えさせた。献甫が途上にある時、軍中に裴満という者がおり、乱を扇ぎ朝晟を脅迫した。朝晟は表面上これを許し、密かに計略をめぐらして三百余人を斬った。献甫が入ると、御史大夫に改めた。九年、塩州を築城し、兵を徴して外境を護らせ、朝晟は士馬を分統して木波堡に鎮した。献甫が卒去すると、詔して朝晟をもって代えさせた。その年、母の喪に服し、起復して左金吾大将軍同正・邠州刺史・兼御史大夫となった。十三年春、朝晟は奏上して言うには、「方渠・合道・木波は皆な賊の通路であります。その地に城を築いて備えたい」。詔して問うには、「兵を幾ばくか要するか」。朝晟は奏上して言うには、「臣が部下の兵をもって自ら事を成すことができ、外の援助を煩わす必要はありません」。また問うには、「前に塩州を築いた時は、凡そ師七万を興した。今はどうしてかくも容易なのか」。朝晟は言うには、「塩州の役は、諸軍をことごとく集め、番戎もこれを尽く知りました。今、臣の境は虜に迫っており、もし大いに兵を興せば、即ち番戎が来寇します。来寇すれば戦わねばならず、戦えば城を築く暇がありません。今、密かに軍士を発し、十日とせずして塞下に至り、一句を経ずして功を畢えれば、番人が知り始めた時には、すでにどうすることもできません」。上はこれに従った。事が済み、軍が馬嶺に還ると、吐蕃がようやく来寇し、数日で退いた。

初め、軍が方渠に次ぐと、水がなく、師旅は囂然とした。たちまち青蛇が高い所より下り、その跡を視ると、水がそれに従って流れた。朝晟は命じて防を築いてこれを囲み、遂に渟泉となった。軍人は仰いで飲みて足り、その事を図して上聞すると、詔して祠を置かせた。喪が明けると、検校工部尚書を加えられた。この夏、防秋のため軍を寧州に移し、疾に罹り、十余日で卒去した。

張敬則

張敬則は、何の許の人か知れず、本名は昌といい、後に敬則の名を賜った。初め劉玄佐を助け、累ねて軍功があり、官は鳳翔節度使に至った。常に河湟を回復する志があり、大将野詩良輔を遣わして鋭卒を発して隴西に至らせると、番戎は大いに駭いた。元和二年六月に卒去した。

史臣が曰く、有唐中否し、逆寇勃興し、天王は蒙塵を以て窘しめられ、諸侯は忠を以て難に赴く。可孤は沙漠に生まれ、挺然として命を効うるの風を懐き、功は貔貅に冠し、屹爾として矜らざるの色有り。李観は文儒の胄にして、兵戎を習うを楽み、聖主を戴きて定難の勛を著し、渾瑊を会盟の変に救う。休顔は使を斬り城を嬰い、懐光股栗す。恵元は窮蹙自ら致し、天子軫悼す。元諒は兵を章敬に退け、力戦して功を譲り、雅に器度有り。及び小忿を忍びず、庭光を専殺し、軍門に罪を請う、壮なるかな烈士。その下の諸将、郁として労能有り。勝は異域に生まれ、位を推し国を譲り、堅く宿衛を留め、華風を顧慕す。中土に居る者は、豈に廉譲を思わざらんや。斯れ乃ち高祖の基、太宗の業、厥の孫に謀を貽し、徒に虚語に非ざるなり。

賛して曰く、建中国を失い、嘯聚して氛慝す。景命載延し、群雄力を畢す。歌鐘甲第、珪組繁錫す。凡そ百の人臣、忠は令徳と為す。