卷一百四十三
李懷仙
朱希彩は自ら留後を称した。恒州節度使張忠志は李懷仙が代々の旧知であり、無辜にして一族が滅んだことを以て、将を遣わして衆を率いてこれを討たせたが、朱希彩に敗れた。朝廷は已むを得ず、これを赦した。河南副元帥・黄門侍郎・同平章事王縉を幽州節度使とし、朱希彩に御史中丞を授け、幽州節度副使を充て、軍州事を権知させ、詔して王縉を鎮に赴かせた。朱希彩は王縉の来るを聞き、卒伍を搜選し、大いに戎備を陳べてこれを迎えた。王縉は泰然として旌節を建てると、朱希彩は迎えて謁し甚だ恭しかった。王縉は終に制し得ざるを知り、軍を労って旬日にして還った。まもなく朱希彩に御史大夫を加え、幽州節度留後を充てた。十二月、朱希彩に幽州大都督府長史・幽州盧龍軍節度使を加えた。五年、高密郡王に封ぜられた。位を得てより、暴横自恣にし、朝廷に礼を失した。七年、孔目官李瑗が人の怒りに乗じ、隙を窺ってこれを斬り、軍人はその兵馬使朱泚を立てて留後とした。朱泚は自ら伝がある。
朱滔
朱滔は賊朱泚の弟である。平州刺史朱希彩が幽州節度使となった時、朱滔が同姓であることを以て、甚だこれを愛し、常に腹心の親兵を将とさせた。朱泚が節度使となると、遂に朱滔に勁兵三千を将として京師に赴かせ、率先して諸軍とともに塞を備えんことを請わせた。安禄山の反後より、山東范陽は、外には順を示すも、実は皆倔強として朝廷に服さなかった。朱泚が初めて臣節を尽くしたので、代宗は甚だ喜び、朱滔に命じて兵を率いて長安通化門より東に入り、開遠門より西に出で、出師の労をねぎらって還らせた。未だ兵が王城に還った者はなかったが、今これを許したのは、優異を示すためである。朱滔を三殿に対せしめ、代宗は軒に臨んで労問した。やがて曰く、「卿の才は朱泚と孰れが多いか」と。朱滔曰く、「各々長短があります。士衆を統御し、方略を明辨することは、臣は朱泚に及びません。臣は年二十八にして龍顔に謁し、朱泚は臣より五歳年長ですが、未だ鳳闕に朝せず、これは臣に及びません」と。代宗は愈よ喜んだ。
劉怦
劉怦は幽州昌平の人である。父の貢は嘗て広辺大斗軍使となった。劉怦は即ち朱滔の姑の子であり、軍功を積んで雄武軍使となり、広く屯田し、用を節し、以て辦理を称された。稍く遷って涿州刺史となった。数年居て、朱滔が兵を将いて田承嗣を討つに、奏して劉怦に留府事を領せしめ、寛緩を以て衆心を得た。時に李宝臣が田承嗣の間説に乗じ、これと通謀した。田承嗣はまた滄州を李宝臣に与え、乃ち兵を以て朱滔を瓦橋関に劫い、朱滔は身を脱して走り、乗勝して幽州を襲取せんと欲した。劉怦は方略を設けて鎮撫し、李宝臣は敢えて進まず、功を以て御史中丞を加えられた。
李宝臣死し、子の惟嶽が朝命を拒ぐと、徳宗は朱滔に命じて張孝忠と力を同じくしてこれを討たしめた。惟嶽が平らぎて後、朱滔は朝廷が約に違いて深州を与えざるを怨み、怒りを含んで已まなかった。時に王武俊もまた深・趙の地を割かれたことを怨み、相謀り叛き、田悦を救わんと欲した。劉怦は時に幽州留後事を知り、人を遣わして書を齎し朱滔に謂いて曰く、「司徒は位は太尉に崇く、尊は宰相に居り、恩寵は藩臣の右に冠し、栄遇極まりました。今昌平の故裏は、朝廷これを尉卿・司徒の裏と改めました。これ亦た大夫の不朽の名であります。ただ忠順を以て自ら持ちさえすれば、則ち事成らざるはありません。窃かに近日を思うに、大を務め戦を楽しみ、成敗を顧みず、家滅び身屠られる者は、安禄山・史思明であります。暴乱は亡び易く、今また何か有りましょうか。劉怦は密親に忝くし、世に恩遇を荷い、黙して告げざるは、是れ重知を負うことです。惟れ司徒図られよ、後悔を貽すこと無かれ」と。朱滔は其の言を用いざりしも、亦た其の言を尽くすを嘉し、終に疑貳無かりき。凡そ出征伐するには、必ず劉怦を以て留後事を総せしめた。及び大冀王と僭称し、偽って劉怦を右僕射・范陽留守に署した。及び朱泚が京邑を拠るに及び、朱滔を南河に召し、貝州に至り、挫敗して還り、兵甲尽く喪う。劉怦は朱滔の将に至らんとするを聞き、悉く范陽の兵甲を蒐め、夾道に排列すること二十余里、以て朱滔を迎えて府第に帰し、人皆劉怦の忠義を嘉した。
子 朱済
朱済は朱怦の長子なり。初め、母難産す。既に産みて、侍者初めて朱済を見るに、一大蛇にして、黒気勃勃たり、驚き走らざる者なし。長ずるに及び、頗る常の童に異なり。居る室焚く、人皆驚きて救うも、朱済は従容として出づ、衆これを異とす。累ねて本管の州県牧宰を歴任す。朱怦が節度使となるに及び、朱済を以て御史中丞を兼ね、行軍司馬を充てしむ。朱怦卒し、軍人は河朔の旧事に習い、朱済に父に代わりて帥たることを請う。朝廷は姑く便安を務め、因ってこれに従う。累ねて加わりて検校兵部尚書に至る。
貞元五年、左僕射に遷り、幽州節度使を充つ。時に烏桓・鮮卑数たび辺を寇す。朱済軍を率いてこれを撃ち走らす。千余里に深入し、虜獲勝げて紀すべからず、東北晏然たり。貞元中、朝廷藩鎮を優容すること方に甚だしく、両河は自ら継襲する者、尤も驕蹇にして法を奉ぜず。惟だ朱済最も恭順を務め、朝献相継ぎ、徳宗も亦恩礼を以てこれに接す。尋いで同中書門下平章事を加う。順宗即位し、再び検校司徒に遷す。元和初、兼侍中を加う。詔して王承宗を討つに及び、諸軍未だ進まず、朱済独り率先して前軍をしてこれを撃ち破らしめ、生擒三百余人、斬首千余級し、逆将を闕に献じ、優詔を以てこれを褒む。又詩四韻を為りて上献し、以て忠憤の志を表す。明年春、大軍を将いて瀛州に次し、累ねて楽寿・博陸・安平等県を攻め、前後大いに俘獲を献ず。功を賞すること頗る厚く、仍いて子孫六品の官なる者凡そ四人とす。未だ幾ばくもあらず、疾有り、会に承宗を赦し、功を録して兼中書令を拝す。朱済鎮に在ること二十余年、忠款を輸すと雖も、竟に覲せず。又その弟の朱澭を謀殺せんとし、朱澭は国に帰りて信臣と為る。朱済疾有るに及び、次子の朱総と朱済の親吏唐弘実と通謀し、毒を以て朱済を殺す。数日にして、乃ち喪を発す。時に年五十四、詔して太師を贈り、朝を廃すること三日、賻礼加わり有り、謚して曰く莊武。
朱済の弟 朱源
弟の朱源、貞元十六年八月、検校工部尚書・兼左武衛将軍と為る。初め、涿州刺史と為り、兄の教令を受けず。朱済これを奏し、漠州参軍に貶す。復た詔を受けず。朱済師を帥いて涿州に至り、朱源兵を出してこれを拒ぐ。未だ合せずして自ら潰ゆ。朱済朱源を擒えて幽州に至り、上言して入覲せしむることを請う。故に官を授けてこれを征す。
朱済の異母弟 朱澭
朱澭は朱済の異母弟なり。書を読み、武芸に工み、財を軽んじ士を愛し、人の死力を得たり。朱滔に事え、常に逆順の理を陳ぶ。後に朱怦が盧龍軍節度使と為り、病みて将に卒せんとす。朱澭父の側に在り、即ち父命を以て兄の朱済を漠州より召し至らしめ、竟に節度使を授けしむ。朱済常に朱澭が己を奉ずるを感ず。
朱澭は瀛州刺史と為り、亦朱澭に己が任に代わることを許す。その後朱済乃ちその子を以て副大使と為す。朱澭既に朱済に怒り、遂いにその部を以て西に隴塞を捍がんことを請う。その部兵一千五百人・男女万余口を抜きて直ちに京師に趨る。道に在りて一人も令を犯す者無し。徳宗寵遇し、特らに秦州刺史を授け、普潤県を以て理所と為す。
朱済の子 朱総
王承宗再び命に拒ぐに及び、朱総兵を遣わして賊の武強県を取り、遂いに軍を駐めて両端を持し、以て朝廷の供饋賞賜の利を図る。是の時、呉元済尚存し、王承宗方に跋扈し、易定孤危なり。憲宗暫く姑息を務め、朱総に同中書門下平章事を加う。元済就擒し、李師道梟首し、王承宗憂死し、田弘正鎮州に入るに及び、朱総既に党援無く、懼れを懐き、毎に自安の計を謀る。初め、朱総弑逆の後、毎に見るに父兄祟るを為し、甚だ惨懼す。乃ち官署の後に数百の僧を置き、衣食を厚く給し、昼夜に恩を乞い罪を謝せしむ。毎に公退すれば、則ち道場に憩う。若し他室に入れば、則ち恟惕して敢えて寐ず。晚年恐悸尤も甚だしく、故に落髪して僧と為らんことを請い、冀くは以て禍を脱せんとす。乃ち判官の張臯を以て留後と為す。朱総落髪を以て、表を上して朝に帰す。穆宗天平軍節度使を授く。既に落髪を聞き、乃ち紫を賜い、号して大覚師と曰う。朱総行きて易州の界に至り、暴卒す。朝を輟むこと五日、太尉を贈り、日を択びて礼を備え冊命し、賻に絹布一千五百段・米粟五百石を賜う。
先に、元和の初め、王承宗が兵を恃んで朝廷に背いた時、劉総の父劉済は征伐の策を詳しく述べ、自ら先鋒を願い出た。軍を出してからは、次々と城邑を陥落させたが、やがて病にかかり、成功を収めることができなかった。劉総が父の後を継ぐと、先人の志を述べようと願い、かつ河朔の旧習をことごとく改めようとした。長慶の初め、たびたび上疏して入朝を求め、兼ねて治める地の分割を請うた。その意は、幽州・涿州・営州を一道とし、張弘靖にこれを治めさせ、瀛州・漠州を一道とし、盧士玫に治めさせ、平州・薊州・媯州・檀州を一道とし、薛平に治めさせようというものであった。また、軍中の宿将をことごとく名簿に載せて朝廷に推薦し、朝廷の昇進・褒賞を望んで、幽薊の人々に皆、爵禄を羨望する心を起こさせようとした。上疏が上ると、穆宗は早く范陽を得ようとし、宰相の崔植・杜元穎もまた長久の大計を図らず、ただ張弘靖に授けた権限を重くするばかりで、その使府の機構を簡素化することができず、ただ瀛州・漠州の両州に観察使を置くことを許し、他の郡県はすべて張弘靖に統轄させた。当時、劉総が推薦した将校たちは、また皆、京師の旅舎におり、長く顧みられなかった。例えば朱克融の輩は、わずかに衣服を借り食を乞うありさまで、日々中書省に赴いて官を求めたが、その困窮に耐えられなかった。張弘靖が任命されると、また全員を本軍に帰還させるよう命じた。朱克融の輩は帰還できたものの、皆深く失望を抱き、その後ついに叛乱を起こした。
劉総は土地を国に帰した後、その弟の劉約および男子ら十一人に、郡の符節を領させ、命服を加えられた者は五人、朝班に昇り宿衛を補佐する者は六人となった。
程日華
程日華は、定州安喜の人で、本名は単に華といった。父の程元皓は、安禄山に仕えて帳下の将となり、両京陥落に従い、勇力をもって称され、史思明の時には定州刺史となった。程華は若くして本軍に仕え、張孝忠の牙将となった。
初め、李宝臣が恒州節度使に任ぜられると、隣藩を併呑し、恒・冀・深・趙・易・定・滄・徳の八州を有した。李宝臣が没すると、李惟岳は朝命に背き、継承を図った。李宝臣の部将張孝忠は定州を以て国に帰順し、成徳軍節度使に任ぜられ、朱滔とともに李惟岳を討つよう命じられた。李惟岳が誅殺されると、朝廷は恒州・冀州を王武俊に、深州・趙州を康日知に、易州・定州・滄州を張孝忠に授け、三帥に分けた。当時、李惟岳の将李固烈が滄州を守っていたが、張孝忠は程華を遣わして李固烈に郡の引継ぎをさせた。李固烈は真定に帰ろうとし、滄州の府庫の蔵物をことごとく取り、車に積んで帰ろうとした。軍人は怒り、李固烈を殺し、その財物を奪い合い、共に程華のもとに赴いて言った。「李使君は貪欲で卑しいために死んだ。軍州は押牙に暫く統領してほしいと請う。」やむを得ず、これに従った。張孝忠はこれにより程華に滄州の事務を掌らせた。間もなく、朱滔が王武俊と謀って叛乱を起こし、滄州・定州間の往来は困難となり、二賊は遂に滄州を取ろうとし、多く人を遣わして遊説し、また兵を加えて攻囲したが、程華はすべて従わず、城に登って自らを固守した。久しくして、録事参軍の李宇が程華に謀って言った。「使君は累年包囲を受け、張尚書は援軍を送ることができず、功を論じ捷を献ずるには、中山に至らねばならず、いわゆる労して功無しというものです。足下のために京師に至り、一州を以て節度使となるよう願い出ましょう。」程華はすぐに彼を遣わした。李宇が宮中に入り、程華が二賊の間にあって矢石に疲れていることを詳しく述べると、徳宗は深くこれを嘉し、程華を御史中丞・滄州刺史に任じた。また横海軍を置き、程華を節度使とした。まもなく工部尚書・御史大夫を加え、日華の名を賜り、なお歳ごとに義武軍に数万の糧餉を与えた。これより別に一つの節度使となり、張孝忠はただ易州・定州の二州のみを有するに至った。
王武俊は人を遣わして程華を説き、己に帰属させようとした。程華は言った。「相公がわが邑を旧の如く恒州に隷属させようとされるなら、まず二百騎を借りて賊に抗し、道路が通じ次第、命令に従いましょう。」王武俊は喜び、すぐに二百騎を以てこれを助けた。程華はその馬を留め、人を皆帰らせた。王武俊はその約に背いたことを怒ったが、また朱滔がちょうど攻囲している最中であり、程華が朱滔の所有となることを憂慮して、攻撃を止めた。王武俊が国に帰順し、河朔に事がなくなると、程日華はすぐに留めておいた馬を王武俊に返し、別に珍しい財貨を陳べて過ちを謝した。王武俊は喜んでこれを許した。貞元四年に卒去し、兵部尚書を追贈された。子に程懷直がいる。
程懷直は河朔の事に習熟し、父が卒去すると、自ら留後事を知った。朝廷は父の忠を嘉し、起復して検校工部尚書・兼御史大夫に任じ、横海軍を節度に昇格させ、程懷直を留後とした。また弓高県に景州を置き、東光・景城の二県を管轄させ、属郡とした。累進して検校尚書右僕射に至った。五年、起復して正式に節度観察使に任ぜられた。
程懷直は狩猟にふけり、数日たってようやく帰還し、軍政を顧みず、軍士は寒さと飢えに耐えられなかった。その帳下の将で従父兄の程懷信が衆怒に乗じて門を閉ざし入れず、程懷直は来朝することとなり、貞元九年のことであった。徳宗はこれを寛容に扱い、前の如く検校右僕射・兼龍武統軍とし、安業里に甲第を賜り、妓女一人を賜った。やがて程懷信が死ぬと、程懷直の子の程執恭が留後事を知り、程懷直を滄州に帰らせた。十六年に卒去し、四十九歳であった。一日朝を廃し、揚州大都督を追贈された。
李全略
子 李同捷
子の同捷は、初め副大使となり、喪に服している間に、留後の職務を擅に取り仕切り、なお隣接する藩鎮に重い賄賂を贈って襲封を求めたが、朝廷はその行いを知りながら、一年を経ても問わなかった。昭湣帝(敬宗)が崩御し、文宗が即位すると、同捷は世が変わった後には恩赦が行われるだろうと期待し、ただちに同母弟の同誌・同巽を朝廷に入らせ、掌書記の崔長に表文を奉らせ、懇願の誠意を詳しく伝えて、朝廷の指示に従うことを請うた。詔して同捷を検校左散騎常侍・兗州刺史・兗海節度使に任じ、天平節度使烏重胤を滄州節度使としてこれを代えさせた。詔が下ると、同捷は三軍が留任を請うたと称して、命令を拒んだ。そこで烏重胤に鄆・斉の兵を率いて討伐を加えるよう命じた。また詔して徐帥王智興・滑帥李聽・平盧康誌睦・魏博史憲誠・易定張璠・幽州李載義らに四面から進攻させた。
同捷は代々奸詐を行い、かつて成徳軍で将校であったことから、燕・趙の軍は城社として結びつけられると考え、玉帛・子女をもって河北三鎮に賄賂を贈り、節度使の地位を求めた。李載義は初め朝廷の命令を受け、忠順を堅く守り、同捷の甥と贈られた玉帛・妓女四十七人を捕らえて表を奉り献上した。また朝廷に上表して李載義を左僕射に、王廷湊を司徒に加えるよう請い、その心を喜ばせようとした。廷湊はもとより狼のような野心を抱き、横海を併呑しようと企て、境に出兵して同捷に援軍を送った。
贊
史臣曰く、国家は藩屏を崇樹し、山河を保界する。その人を得れば区宇は以て寧んじ、その授けを失えば干戈勃然として起こる。もし懐仙の輩は、河朔に乱を習い、志は狡蠹に深く、忠義の談は、耳目に経ることなし。暴乱を以て事業と為し、専殺を以て雄豪と為し、或いは父子弟兄、或いは将帥卒伍、相い重ねて屠滅し、以て風俗と成す。これ乃ち王道微に浸り、教化及ばざるなり。惜しいかな蒸民、彼の虎の吻に陥る。その間の劉総は、粗く臣誠を貯えたり。然れども父兄を殺して以て栄を図り、鬢髪を落として以て禍を避く。踵を旋めずして他境に暴卒す。これ報応の験を謂うか。
贊して曰く、国法綱をなさず、賊臣鴟張す。父子と曰うと雖も、兇きこと虎狼の如し。悪稔りて族滅し、身屠られ地亡ぶ。蠢れる此の伏莽、我が彜章を汚す。