旧唐書 李宝臣

旧唐書

李宝臣

李宝臣は、范陽城の傍の奚族である。もと范陽の将軍張鉅高の仮子であったので、姓は張、名は忠志といった。幼い頃より騎射に巧みで、節度使安禄山に選ばれて射生官となった。天宝年間、禄山に従って入朝し、玄宗はこれを留めて射生子弟とし、禁中に出入りさせた。禄山が叛くと、忠志は遁れて范陽に帰った。禄山は喜び、仮子として登録し、姓を安とし、常に帳中に給事させた。禄山の兵が闕を指そうとした時、忠志に驍騎八千人を率いさせて太原に入り、太原尹楊光翽を劫かせた。忠志は光翽を挟んで太原を出ると、万の兵がこれを追ったが敢えて近づかなかった。禄山は精鋭の甲兵を率いさせ、井陘の路を扼ち、土門に軍を置かせた。安慶緒は偽って恒州刺史に任じた。九節度の師が相州で慶緒を包囲すると、忠志は恐れて、章を献じて帰国し、粛宗はこれにより恒州刺史を授けた。史思明が再び河を渡ると、偽って忠志を工部尚書・恒州刺史・恒趙節度使に任じ、衆三万を統率して常山を守らせた。思明が敗れると、朝義の命を受けず、土門の路を開いて王師を迎え入れた。河朔が平定されると、忠志は李懐仙・薛すう・田承嗣と各々その地を挙げて帰国し、皆に鉄券を賜わり、不死を誓った。これにより忠志に開府儀同三司・検校礼部尚書・恒州刺史を授け、実封二百戸とし、なおも節度使とした。そこで恒州を成徳軍とし、姓名を李宝臣と賜った。

時に宝臣は恒・定・易・趙・深・冀の六州の地を有し、後にまた滄州を得て、歩卒五万・馬五千匹を擁し、当時河朔の諸帥の中で勇猛第一であった。宝臣は七州を以て自らを給し、軍用は豊かに蓄積し、亡命の徒を招集し、兵仗を繕い閲し、薛嵩・田承嗣・李正己・梁崇義らと婚姻を結び、互いに表裏となり、その意は土地を子孫に伝え付けて、朝旨を稟らず、官吏を自ら補任し、王賦を輸納しないことにあった。初め、天宝年間、天下の州郡は皆銅を鋳て玄宗の真容とし、仏の制に擬した。安・史の乱に及んで、賊の管轄する所では悉くこれを熔かし毀ったが、恒州のみは独り残存し、これにより実封百戸を賜った。

初め、宝臣・正己は共に承嗣に軽んじられていた。宝臣の弟宝正は承嗣の女を娶り、魏州で承嗣の子維と撃鞠していた時、宝正の馬が駆けて驚き、維に触れて殺した。承嗣は怒り、宝正を縛って告げた。宝臣は教えが謹ましくなかったと謝罪し、杖を封じて承嗣に示し責めさせたが、承嗣は遂に鞭打ってこれを殺した。これにより互いに悪しざまになった。

大暦十年、宝臣・正己は更に承嗣の罪を言上し、これを討つことを請うた。代宗はその互いに図るに因ろうとし、乃ちその請いに従った。時に幽州節度留後朱滔は朝廷に恭順していたので、詔して滔に宝臣及び太原の師と共にその北を攻めさせ、正己に滑亳・河陽・江淮の師と共にその南を攻めさせた。宝臣・正己は棗強で軍を会し、牛を椎き酒をこして将士を犒労し、なお優れた賞を頒った。宝臣の軍の賞は厚く、正己の軍の賞は薄かった。会が罷まると、正己の軍中にぶつぶつ言う言葉があり、正己はこれを聞き、変有ることを懼れ、即時に引き退いた。これにより宝臣・朱滔が共に承嗣の滄州を攻め、連年下らなかった。時に承嗣は腹心の将盧子期をして邢州を攻めさせ、城が陥ちんとした時、宝臣は精卒を発して赴き救い、これを撃破し、子期を擒えて来て献じた。河南の諸将はまた陳留で田悦を大破し、正己は承嗣の徳州を収め、重兵を以てその境に臨み、期を指して進討しようとした。承嗣は大いに慴り、遂に宝臣に和解を求めたが、宝臣は許さなかった。

初め、正己が兵を発そうとした時、人を魏に遣わすと、承嗣はこれを囚えた。この時に及んで、乃ち厚礼を以て帰し、使者を発して共にさせ、境内の戸口・兵糧の数を悉く列挙し、悉く以て正己に奉った。且つ告げて曰く、「承嗣は老い、今年八十有六、形体は支離たるもの、日月無きが如し。己が子は令ならず、悦もまた孱弱にして、その後業を保つに足らず。今の所有は、公の為に守るのみ、何ぞ公の師旅を辱しめんや」と。使者を廷に立たせ、南に向かわせ、拝して書を授けた。又、正己の形を図り、香を焚いてこれを事うること神の如くし、人に謂って曰く、「真の聖人なり」と。正己はこれを聞き、且つその歓心を得たので、乃ち諸軍を止め、敢えて進む者無からしめた。

承嗣は正己を止めて、南軍の憂い無くした。又、范陽が宝臣の故郷で、生長した所であることを知り、心に常にこれを得んと欲した。乃ち石に讖文を刻み、密かに宝臣の境内に埋め、望気者に云わしめて曰く、「此の中に玉気有り」と。宝臣は地を掘ってこれを得ると、文有りて曰く、「二帝同功勢万全、田を将いて伴と作り幽・燕に入る」と。二帝とは、宝臣・正己を指す。承嗣はまた客をしてこれを諷させて曰く、「公は朱滔と共に挙兵し、我が滄州を取るも、設いこれを得るも、当に国に帰すべく、公の所有に非ず。誠に能く承嗣の罪を赦し給わば、請う、滄州を以て奉献し、師を労せずして致すべく、願わくは范陽を取って以て自ら効せん。公は騎を将いて前駆と為し、承嗣は歩卒を率いて従わん、これ万全の勢なり」と。宝臣は喜び、事が符命に合うと思い、遂に承嗣と通謀し、州を割いてこれに与えた。宝臣は乃ち密かに范陽を図り、承嗣もまた兵を境上に陳べた。宝臣は朱滔の使者に謂って曰く、「吾聞く、朱公の貌は神の如しと、安んぞ得てこれを識らん。願わくは絵事に因りて観ん、可ならんや」と。滔は乃ちその形を図って示した。宝臣はこれを射堂に懸け、諸将に命じて熟視させて曰く、「朱公は信に神人なり」と。他日、滔が出軍すると、宝臣は密かに精卒を選んでこれを劫かせ、その将に戒めて曰く、「彼の貌、射堂に懸くる所の如き者を取れ」と。是の時、二軍は互いに変有ることを慮らず、滔は瓦橋でこれと戦った。滔は偶々他の服を着ており、識られずして免れた。承嗣は滔と交鋒したと聞き、その釁既に成ったので、乃ち軍を返し、使いをして宝臣に告げさせて曰く、「河内に警急有り、暇あらずして公に従わず。石上の讖文は、吾が戯れに為したるのみ」と。宝臣は慚り怒って退いた。

左僕射に遷り、隴西郡王に封ぜられ、検校司空・同中書門下平章事となった。徳宗即位の時、司空を拝し、兼ねて太子太傅となった。宝臣は名位既に高く、一方を擅にして、専ら異志を貯えた。妖人が偽って讖語を作り、宝臣終に天位有ると言った。宝臣は乃ち符瑞及び霊芝朱草を為し、朱書の符を作った。又、深室に斎戒して壇を築き、上に金匜・玉斝を置き、「甘露神酒自ずから出ず」と云った。又、偽って玉を刻んで印とし、金を以て文字を填め、境内に告げて云く、「天降の霊瑞は、予の求めし所に非ず、祈らずして至る」と。将吏に敢えて言う者無し。妖輩はその詐り発せんことを慮り、乃ち曰く、「相公須らく甘露湯を飲まば、即ち天神降るべし」と。宝臣はこれを然りとした。妖人は湯の中に堇を置き、これを飲ませると、三日にして卒した。

宝臣の暮年、益々猜忌多く、惟嶽が暗懦で諸将が服さないことを以て、即ち大将辛忠義・盧俶・定州刺史張南容・趙州刺史張彭老・許崇俊等二十余人を殺し、家口は没官し、是より諸将は心を離した。建中二年春に卒し、時に年六十四、朝を廃すること三日、冊して太保を贈った。子に惟嶽・惟誠・惟簡がいた。

宝臣の卒した時、惟嶽は行軍司馬であり、三軍が推して留後とし、なおち使いを遣わして上表し父の任を襲うことを求めたが、朝旨は允さなかった。魏博節度使田悦が上章して保薦し、旄節を賜わることを請うたが、許されなかった。惟嶽は乃ち田悦・李正己と同謀して命に拒み、判官邵真が泣いて諫めて以て不可と為した。惟嶽は暗懦で、初めは聴従したが、終に左右に惑わされて止めた。而して共に図議する所は、皆奸吏の胡震・家人の王他奴等であり、唯だ拒逆を勧めることを事とした。

惟嶽の舅の谷従政は、智略を有していた。李宝臣に忌まれ、病と称して出仕せず、この時至って惟嶽の謀を察し、その宗族を覆すことを憂慮し、遂に出て惟嶽を諫めて言うには、「今、天下に事無く、遠方より朝貢し、主上は神武にして、必ず太平を致すであろう。もし(朝廷の命が)允されざるに至れば、必ず兵を加えるに至る。たとえ大夫(惟嶽)の恩が三軍に及ぶとも、万一捷せざれば、誰が大夫のために命を用いようか。また、先朝の相公(宝臣)は幽州の帥(朱滔)と協わず、今、国家が討伐を致せば、必ず朱滔を帥に命じるであろう。彼は嘗て歯を切って恨み、今遂に仇を復するを得る、懼れざるべけんや。また、頃者、相公は軍中の将校を誅滅し、その子弟の存する者は、口には言わずとも、心に憤り無からんや。兵は猶ほ火の如し、戢えざれば自ら焚く。往者、田承嗣は安禄山・史思明を佐けて天下に謀乱し、千征百戦した。及び近年、洺州・相州等を侵擾し、官軍に敗れ、及び永州に貶せられし時、天を仰いで泣きほぼれた。先相公の佐佑保援に頼り、方に赦宥を得たのである。もし雷霆(朝廷の怒り)が収まらざれば、承嗣に生きる理あらんや。今、田悦の兇狂は、承嗣の名望に比べて如何。苟も富貴を坐して邀えんと欲し、家を破り族を覆すを慮わざるなり。而るに況んや今の将校は、義心に乏しく、利に因り便に乗じ、必ず相傾き陥れん。大夫の為に久長の計を画すには、惟誠に留後を知らしめ、大夫自ら速やかに入朝するに若くは莫し。国家は先相公の功を念い、大夫の順命を見れば、何を求めて得ざらん。今、群逆と危きを自らする計を為すは、家を保つ道に非ざるなり。」

惟嶽も亦、平素より従政を忌み、皆聴かず、遂に魏(田悦)・斉(李納)と謀叛す。

既にして惟嶽の大将張孝忠、郡を以て国に帰す。朝廷は孝忠を成徳軍節度使と為し、仍て詔して朱滔に孝忠と合勢して之を討たしむ。惟嶽は精甲を以て束鹿に屯し以て之に抗す。田悦は大将孟佑を遣わし兵五千を率いて惟嶽を助けしむ。建中三年正月、朱滔・孝忠、恒州軍を束鹿に大破し、惟嶽は営を焼きて遁走す。惟嶽の大将趙州刺史康日知、郡を以て国に帰す。惟嶽は乃ち衙将衛常寧に士卒五千を率いしめ、兵馬使王武俊に騎軍八百を率いしめて共に日知を討たしむ。武俊、既に恒州を出でて、常寧に謂ひて曰く、「武俊は本使(惟嶽)に尽心す。大夫(惟嶽)は讒を信じ、頗る猜忌す。所謂、朝に夕を謀らず、豈に生路を図らんや。且つ趙州に用兵す。捷つとも捷たざるとも、武俊は復た恒州に入らじ。妻子は任せて屠滅に従はしめ、且つ残生を以て定州に往きて張尚書(孝忠)に事へん。誰か能く頸を持して戮に就かん。」常寧曰く、「中丞(武俊)は大夫に事へ可からずと為し、且つ詔書に云ふ、大夫の首を斬る者は、其の官爵を以て之に授く。大夫の命を拒ぎし已来、張尚書は易州を以て国に帰し節度使を得たり。今、日知の已に官爵を得たるを聞く。大夫の事勢を観るに、終に朱滔に滅ぼさるべし。此の際に禍を転じて福と為すには、戈を倒して使府に入り、大夫を誅して富貴を取るに若くは莫し。況んや大夫は暗昧にして、左右誑惑す。其の実図り易し。事苟も捷たずとも、張尚書に帰るも未だ晩からず。」武俊之を然りとす。三年閏正月、武俊と常寧、趙州より戈を回し、明け方に至りて恒州に達す。武俊の子士真、内に応ず。武俊の兵、府署に突入し、虞任越を遣わし劫掠して惟嶽を擒え、戟門外に縊死せしむ。又、惟嶽の妻の父鄭華及び長慶・王他奴等二十余人を誅し、首を京師に伝う。

惟誠は、惟嶽の異母兄、父の廕を以て殿中丞となり、累遷して検校戸部員外郎に至る。儒書理道を好み、宝臣之を愛し、軍事を委ぬ。性謙厚にして、惟嶽が嫡嗣なるを以て、譲りて受けず。同母妹は李正己の子納に嫁す。宝臣は其の宗姓を以て、惟誠に本姓に帰るを請ひ、又令して鄆州に仕へしめ、李納の営田副使と為す。兗・淄・済・淮の四州刺史を歴任し、竟に東平に客死す。

惟簡は、宝臣の第三子。初め、王武俊、惟嶽を誅し、又、惟簡を械して京師に送る。徳宗、客省に拘へ、防伺甚だ峻し。朱泚の乱に、惟簡は関を斬って出で、奉天に赴く。徳宗之を嘉し、用いて禁軍の将と為す。渾瑊に従ひ師を率いて賊を討ち、頻りに戦ひ屡く捷ち、御史中丞を加ふ。山南に幸するに従ひ、「元従功臣」の号を得、武安郡王に封ぜらる。後に左神威大将軍を授けられ、天威統軍に転ず。元和の初、検校戸部尚書・左金吾衛大将軍、街使を充てる。俄かに鳳翔隴右節度使を拝す。元和十三年正月卒す。尚書右僕射を贈らる。

子元本は、貴族に生まれ、軽薄にして行ひ無し。初め、張茂昭の子克礼、襄陽公主に尚ふ。長慶中、主は恣に法を縱し、常に市裏を遊行す。士族の子薛枢・薛渾なる者有り、俱に主の幸を得る。特に渾を愛し、毎に渾の家に詣り、渾の母に謁して姑に事ふるの礼を行ふ。吏の誰何する者有れば、即ち厚賂を以て之を啖らふ。渾と元本は皆少年なり、遂に相誘掖す。元本も亦、主の幸を得、主の第に出入す。張克礼其の忿に勝へず、表を上て陳聞す。乃ち主を召して禁中に幽す。元本は功臣の後なるを以て、死を減じ得、杖六十、象州に流す。枢・渾は元本の故を以て、亦軽く杖八十、長く崖州に流す。

王武俊

王武俊は、契丹の怒皆部落なり。祖は可訥幹、父は路俱。開元中、饒楽府都督李詩其の部落五千帳を率ひ、路俱と南河に襲ひ冠帯し、詔有りて褒美し、薊に従ひ居る。武俊初め号して没諾幹と曰ふ。年十五、騎射に能くす。上元中、史思明の恒州刺史李宝臣の裨将と為る。宝応元年、王師井陘に入る。将に河朔を平らんとす。武俊宝臣に謂ひて曰く、「寡を以て衆に敵し、曲を以て直に遇へば、戦へば離れ、守れば潰る。鋭師遠く闘ふ、庸ぞ禦ふべけんや。」宝臣遂に警備を徹し、恒・定・深・趙・易を以て、本軍の先鋒兵馬使を充てしむ。

大暦十年、田承嗣は薛嵩の死に乗じ、相・衛・磁・邢・洺の五州を併せ有した。承嗣は将盧子期を遣わして磁州を寇し、詔して宝臣に李正己・李勉・李承昭・田神玉・朱滔・李抱真と各々出兵してこれを討たしむ。諸軍は子期と清水において戦い、これを大破す。宝臣の将節生、子期を生け捕りにして献ず。代宗その功を嘉し、中貴人馬承倩を使わして詔を齎し宣労せしむ。承倩帰らんとし、伝舎に止まる。宝臣親しく百縑を遺す。承倩は詬詈し、道中に擲つ。宝臣左右を顧みて愧色あり。還りて府中に休み、諸将散じて帰る。宝臣潜かに屏間に伺うに、独り武俊佩刀して門下に立つ。召し入れて、刀を解きて語りて曰く、「向の頑豎を見るか」と。武俊曰く、「今閣下功有りて尚お爾り、寇平らびて後、天子幅紙の詔を以て召し京下に置かば、一匹夫のみ。可ならんや」と。宝臣曰く、「之を為すに若何」と。武俊曰く、「承嗣を玩養して以て己が資と為すに如かず」と。宝臣曰く、「今承嗣と釁有り。腹心を推すべけんや」と。武俊曰く、「勢同じく患均しく、寇仇を転じて父子と為すは、亥〓唾の間なり。虚言を伝うれば、益無し。今中貴人劉清譚駅に在り。首を斬りて承嗣に送り、直ちに妻子を質とせん」と。宝臣曰く、「かくの如くならんことを恐る」と。武俊曰く、「朱滔国に為りて滄州に兵を屯す。請う、擒えて承嗣に送りて以て信を取らん」と。これを許す。直ちに士二千を選び、皆駿馬に乗じ、夜を通して三百里を馳せ、晨に滔の営に至り、その不備を掩う。滔の軍出でて戦い、大いに敗れ、滔に類する者を擒う。滔故に脱するを得たり。此より宝臣は田承嗣・李正己と更に相援け、皆武俊の萌す所なり。

宝臣死す。その子惟嶽、父の位を襲わんと謀る。宝臣の旧将易州刺史張孝忠、州を以て命に順う。遂に孝忠を以て宝臣に代う。惟嶽に喪を護りて京に帰らしめんとす。惟嶽命を受けず。建中三年正月、詔して朱滔・張孝忠に軍を合してこれを討たしむ。惟嶽と武俊復た万余の衆を統べて束鹿において戦う。武俊三千騎を率いて先進し、滔に敗れられる。惟嶽遁走す。趙州刺史康日知、遂に州を以て命に順う。惟嶽武俊に兵を統べてこれを撃たしむ。日知人を遣わして武俊に謂いて曰く、「惟嶽孱弱にして謀無し。何ぞ同じく反するに足らん。我が城堅く衆一なり。歳月を以て下すべからず。且つ惟嶽は田悦を恃みて援と為す。前歳悦の丁男甲卒、邢州城下に塗地す。猶お陷す能わず。況んや此の城をや」と。復た偽の手詔を給して武俊を招く。これを信ず。遂に兵を倒して恒州に入り、数百騎を率いて衙門に入る。使をして惟嶽に謂わしめて曰く、「大夫兵を挙げて魏・斉と悪を同じくす。今田尚書已に喪敗し、李尚書は趙州に間せられ、軍士は束鹿の役より自ら傷痛心を軫む。朱僕射強兵を宿し境内に在り、張尚書は已に定州を授かる。三軍俱に懼れて首を殞し家を喪わんとす。詔有りて大夫を征すと聞く。宜しく亟に命に赴くべし。不らば、禍は漏刻に在り」と。惟嶽怖れ、遽に睢盱す。武俊の子士真、惟嶽を斬り、首を持ちて出づ。武俊、己に同じからざる者十数人を殺し、遂に定む。首を伝えて上聞す。武俊に検校秘書少監・兼御史大夫・恒州刺史・恒冀都団練観察使を授け、実封五百戸。康日知を深趙団練観察使と為す。

時に惟嶽の偽定州刺史楊政義、州を以て命に順う。深州刺史楊栄国、朱滔に降る。兵を分かちてこれを鎮む。朝廷既に定州を張孝忠に属し、深州を康日知に属す。武俊、趙・定二州を失えるを怒り、且つ名位その志を満たさず。朱滔、深州を失えるを怒り、因りて武俊を誘い謀反し、朝廷を斥言し、遂に勁兵を連率して田悦を救う。時に馬燧・李抱真・李芃・李晟方に田悦を討ち、洹水において悦を敗る。後歳を連ねて暴兵す。然れども悦の勢已に蹙る。此に至り武俊・朱滔復たこれを振い起こす。悦の勢益々張る。

十一月、武俊大将張鐘葵を使わして趙州を寇さしむ。康日知これを撃ち破り、首を斬りて上献す。是の日、武俊僭って国を建て、趙王と称し、又恒州を真定府と為し、偽に官秩を命ず。朱滔・田悦・李納一同に号を僭し、分かちて所部を据え、各々使を遣わして蔡州李希烈を勧誘し同しく位号を僭せしむ。四年三月、希烈既に周曾の謀に為りてその腹心潰え、或いは希烈已に死せりと伝う。馬燧等四節度の軍中これを聞き、歓声外に震う。

六月、李抱真弁客賈林を使わして詐りて武俊に降る。林武俊の壁に至りて曰く、「是来たりて詔を伝うるなり。降るに非ず」と。武俊色動き、その説を征す。林曰く、「天子大夫の宿誠を知り、及び壇に登り国を建つるの日、膺を撫でて左右を顧みて曰く、『我本忠義なり。天子省みず』と。是より後諸軍曾て同表して大夫を論列す。天子表を覧みて動容し、使者に語りて曰く、『朕前事誤れり。追うも及ばず。朋友の間失意すら尚お謝すべし。朕四海の主、毫芒安ぞ復た念わんや』と」と。武俊曰く、「仆虜の将、尚お百姓を存撫するを知る。天子固より専ら人を殺して以て天下を安んずるを務めず。今山東大兵する者五、戦に比すれば、骨尽く野に暴く。勝つと雖も誰と守らん。今憚らずして国に帰り、以て諸侯と盟約し、虜の性直にして、己に曲らんことを欲せず。朝廷能く恩を降して之を滌蕩せば、仆首めて国に帰るを倡え、従わざる者は、以て辞を奉ずれば、則ち上は天子に負かず、下は朋友に負かず。此の謀既に行わるれば、河朔五旬を経ずして定まるべし」と。

十月、涇原の兵闕を犯す。上奉天に幸す。京師の問至る。諸将軍を退く。李抱真将に潞沢に還らんとす。田悦武俊を説きて朱滔とともにこれを襲撃せんとす。賈林復た武俊を説きて曰く、「今軍を退くや前は輜重、後は鋭師、人心固より一なり。図るべからず。且つ勝ちて地を得れば、則ち利は魏博に帰し、師を喪えば、即ち成德大いに傷つく。大夫の本部易・定・滄・趙の四州、何ぞ故地を先ず復せざる」と。武俊遂に馬首を北し、田悦の約に背く。賈林復た武俊を説きて曰く、「大夫冀邦の豪族、中華を謀り据うるに合わず。且つ滔の心幽険なり。王室強ければ即ち大夫の援を藉り、卑ければ即ち併呑する有らんことを思う。且つ河朔に冀国無し。唯だ趙・魏・燕のみ。今朱滔冀と称す。則ち大夫の冀州を窺う。その兆已に形わる。若し滔力をもって山東を制せば、大夫須らく臣礼を整うべし。従わざれば、即ち攻め奪わる。此時滔に臣せんか」と。武俊袂を投げ色を作して曰く、「二百年の宗社、我尚お臣す能わず。誰か能く田舎漢に臣せん」と。ここより計定まり、遂に南に抱真と好を修め、西に馬燧と盟を連ぬ。興元元年徳宗己を罪すに会し、反側を大赦す。二月、武俊三軍を集め、偽国号を削ぐ。詔して国子祭酒兼御史大夫董晋・中使王進傑を行在より恒州に至らしめて命を宣し、武俊に検校兵部尚書・成徳軍節度使を授く。三月、司空・同中書門下平章事を加え、兼ねて幽州・盧龍両道節度使・瑯邪郡王と為す。

時に朱泚は偽って王滔を皇太弟に冊立し、滔は幽州・檀州の精兵を率い、回紇の二千騎を誘い、既に貝州を数十日包囲し、白馬津を断ち切り、南に洛都を奪い、泚と合流せんとしていた。時に李懐光は反し、河中を占拠し、李希烈は既に大梁を陥落させ、南に江・漢を脅かし、李納は尚斉で反し、田緒は未だ用いられず、李晟は孤軍渭上に陣していた。天子の羽檄の制する所は、天下の十二三に過ぎず、海内は動揺し、人心は帰する所を失っていた。賈林はまた王武俊に抱真と合軍して共に魏博を救うよう説き、武俊に利害を述べて言うには、「朱滔のこの行いは、先ず魏博を平定せんとし、更に田悦が害されたのに遭い、人心不安である。十日も救わなければ、魏・貝は必ず陥落し、滔は数万を増すであろう。張孝忠は魏・貝が既に陥落したのを見れば、必ず朱滔に臣従する。三道が連衡し、更に回紇を統率して、長駆ここに至れば、家族は免れることができようか。常山が守られなければ、則ち昭義は山西に退き守り、河朔の地は尽く滔に入る。今魏・貝が未だ陥落せず、孝忠が未だ帰附せぬ内に、公が昭義と合軍してこれを破れば、遺物を拾うが如きである。この計が成れば、則ち声威は関中に振るい、京邑は坐して復すことができ、鑾輿の反正は公より始まり、則ち勲業に二つはない。」武俊は喜んでこれを許した。両軍は議定し、日を卜して同征した。五月、武俊・抱真は鉅鹿の東で会軍した。両軍が既に交わると、滔は震恐した。抱真は方陣を為し、武俊は奇兵を用い、朱滔は塁を傾けて出戦した。武俊は甲を着けずにこれを馳せた。滔は風を見て奔潰し、自ら相蹂躪し、死者は十の四五に及んだ。その輜重・器甲・馬牛を収めるに勝計なく、滔は夜に奔りて幽州に還った。武俊は班師し、表して幽州盧龍節度使を譲り、これを許された。乃ち恒州を大都督府に昇格し、武俊を長史とし、検校司徒を加え、実封七百戸とし、余は元の如し。

車駕が京に還ると、寵遇は愈厚かった。子は貴主を尚び、子弟で孩稚の者は皆官名を賜った。尋ち母憂に遭い、起復して左金吾上將軍同正を加えられ、喪が免れると、開府儀同三司を加えられた。十二年、上は旧勲を思い、検校太尉を加え、兼中書令とした。

十七年六月卒す。時に年六十七。朝を五日廃し、群臣は延英門に詣でて奉慰し、渾瑊の故事の如し。詔して左庶子上公に節を持たせて冊贈太師とし、賻として絹三千匹・布千端・米粟三千碩を賜う。太常は謚して威烈と曰う。徳宗曰く、「武俊は忠を竭くして国に奉じた。宜しく謚を忠烈と賜うべし。」子に士真・士清・士平・士則あり。士真が嗣ぐ。

子 士真

士真は、武俊の長子である。少より驍悍にして、軍中に冠たり、沈謀断あり。李宝臣に事えて帳中親将となり、仍ち女を以て妻とす。宝臣の末年、身後諸子の暗弱を慮り、諸将に奪われるを恐れ、屡誅戮を行い、諸将は離心した。武俊の官位は卑しきも、勇略は世に邁り、宝臣は其の才を惜しみ、誅するに忍びず。而して士真は密かに宝臣の左右に結び、其の父を保護し、以て是に免るるを得た。

惟嶽の世、特に委任を加えられ、武俊も亦心を尽くして匡佐した。既に兵敗れて束鹿に至り、張孝忠・康日知は地を以て国に帰し、官賞を受けるや、惟嶽は稍防疑を貯え、武俊は謀りて自ら貶損し、出入り三両人に過ぎず。左右惟嶽に謂いて曰く、「先相公武俊を委任し、以て大夫に遺し、兼ねて治命あり。今肝胆を披きて大夫の為にする者は、武俊のみ。又士真は即ち大夫の妹婿、異志無きを保つ。今勢危急、若し坦懐を以て之を待たずんば、若し更に康日知の如くならば、即ち大事去らん。」惟嶽曰く、「我武俊を待つこと自ら厚し。独り先公の遺旨に非ず。」由りて疑い無く、即ち兵を将いて趙州を攻めしむ。士真は更に府衙に宿し、同職と謀事す。武俊が倒戈するに及んで、士真等数人惟嶽を擒えて衙を出し、縊りて之を死せしむ。武俊節鉞を領し、士真を副大使とす。

建中年、武俊魏県に於いて趙王を僭称し、士真を司空・真定府留守とし、元帥を充てる。武俊が朱滔を破り順命するに及び、武俊に幽州盧龍軍節度使を兼ねさせ、仍ち士真を副使・検校工部尚書とす。徳宗京に還り、位を進めて検校兵部尚書とし、徳州刺史・徳棣観察使を充て、清河郡王に封ず。十七年、武俊卒す。起復して左金吾衛大將軍同正・恒州大都督府長史を授け、成徳軍節度・恒冀深趙徳棣等州観察等使を充てる。尋ち検校尚書左僕射。順宗即位し、位を進めて検校司空とす。

士真は父を佐けて功を立て、艱苦を備歴し、位を得た後は、恬然として善を守り、自ら属吏を補い、賦を上供せざるも、然れども歳に貨財を貢ぎ、進奉と名付くるものも、亦数十万に及び、幽・魏二鎮に比べ、最も承順せり。元和元年、就いて同中書門下平章事を加う。四年三月卒す。子に承宗・承元・承通・承迪・承榮あり。

子 士清

士清は、父の勲に以て累ね官を加えられて殿中少監同正に至る。元和初、冀州刺史・御史大夫となり、北海郡王に封ぜられ、早卒す。

子 士平

士平は、父の勲に以て原王府咨議を補う。貞元二年、選ばれて義陽公主を尚ぎ、秘書少監同正・駙馬都尉を加えらる。元和中、累遷して安州刺史に至る。時に公主恣に放縦して法に背き、士平之と争い憤る。憲宗怒り、公主を禁中に幽し、士平を私第に幽し、出入りを令さず。後ち之を釈し、出して安州刺史とす。中貴と交結するに坐し、賀州司戸に貶せらる。時に軽薄の文士蔡南・独孤申叔、義陽主の為に歌詞を作り、曰く『団雪』・『散雪』等の曲、其の遊処離異の状を言い、往往酒席に歌う。憲宗聞きて之を悪み、進士科を廃せんと欲し、所司に令して網を捉え搦めしめ、南・申叔を得て之を貶し、由りて稍止む。盗が宰相武元衡を殺すに及び、旬日賊を捕え獲ず。士平は兄士則と庭して盗は承宗に主るを奏し、既に張晏等を獲て之を誅するや、乃ち士平を左金吾衛大將軍とす。承宗の官爵を奪うに及び、仍ち士平に父の実封を襲わしむ。

子 士則

士則は、士平の異母兄なり。承宗既に節度使に立てらるるや、諸父を容れず、乃ち京師に奔り、用いられて神策大將軍と為る。承宗叛逆し、盗宰相を殺すに及び、士則は貫を京兆府に移すことを請う。諸鎮兵承宗を討つに、裴度言う、士則は武俊の子、其の軍中必ず之を懐く者有らん、乃ち士則を用いて邢州刺史とし、兼ねて本州団練使とし、昭義節度使郗士美に従いて賊を討たしめ、冀くは承宗の党を携離せんとし、且つ節制を以て許す。士則は此れに恃み、頗る士美の節制を受けず、行止兵を以て自衛し、士美に謁すと雖も、衛兵故の如し。吏之を呵して止むるも、士則平らかならず、辞気に見ゆ。士美之を悪み、密かに状を以て聞く。乃ち張遵を以て代え還す。

士真 子 承宗

承宗は、士真の長子である。河朔三鎮は自ら副大使を置き、嫡長子をこれに充てた。承宗は累次奏上して鎮州大都督府右司馬・知州事・御史大夫に至り、都知兵馬使・副大使を充てた。

元和四年三月、士真が卒去した。三軍は承宗を推して留後とし、朝廷はその変事を窺い、数ヶ月問わなかった。承宗は恐れ、累次上表して陳謝した。八月に至り、上は京兆少尹裴武を遣わして宣諭させた。承宗は詔を奉じて甚だ恭しく、かつ曰く「三軍に迫られ、朝旨を待たず、今は徳・棣の二州を割いて献上し、以て丹懇を表したい」と。これにより起復して雲麾将軍・左金吾衛大将軍同正・検校工部尚書・鎮州大都督府長史・御史大夫・成徳軍節度・鎮冀深趙等州観察等使とした。また徳州刺史薛昌朝を検校右散騎常侍・徳州刺史・御史大夫とし、保信軍節度・徳棣観察等使を充てた。

昌朝は、故昭義節度使薛嵩の子であり、王氏と婚姻し、成徳軍に出仕したので、刺史となったのである。

承宗は二州を献じた後、朝廷は別に将帥を命じず、かつその親将に授けようとした。保信の旌節が未だ德州に至らぬうちに、承宗は数百騎を遣わして德州に馳せ往き、昌朝を虜にして真定に帰し囚えた。朝廷はまた棣州刺史田渙を加えて本州団練守捉使とし、漸くこれを離れさせようとした。中使景忠信を遣わして旨を諭し、昌朝を還して鎮めさせようとしたが、承宗は詔を奉じなかった。憲宗は怒り、詔を下して曰く「王承宗は頃に苫廬に在りて、潜かに戎鎮を窺い、内外は事君の礼を以て、逆らえば必ず誅し、分土の儀を以て、専らにすれば則ち辟有り。朕はその先祖嘗て茂勛有るを念い、私恩を以て貸し、公議に抑う。使臣旁午して告諭せしむるに、孽童俯伏して陳誠し、願わくは両州を献じ、二事無きを期す。朕はその後効を収め、用いて曲全せんとし、旧疆に節制を授け、勛賢に列位を歯す。況んや徳・棣は本より成徳の管する所に非ず、昌朝は又承宗の懿親なり。近隣を撫せしむるは、斯れ誠に厚渥なり。外は両鎮と雖も、中は実に一家なり。而るに承宗は象恭にして奸を懐き、肖貌にして禍を稔らす。裴武を位を得たる後に欺き、昌朝を受命の中に縲す。豺狼の心は、飽かすに愈よ発し、梟獍の性は、養うに益よ兇なり。加うるに表疏の中、悖慢斯れ甚だし。乱略を式遏し、刑無きを期し、天誅を恭行し、制有るを幹す。承宗の在身官爵を削るべし」と。詔して左神策護軍中尉吐突承璀を左右神策・河中・河陽・浙西・宣歙等道赴鎮州行営兵馬招討処置等使とし、諸道の軍を会して進討せしむ。神策兵馬使趙万敵なる者は、王武俊の騎将にして、驍悍燕趙に聞こえ、具に進討必ず捷つとを言う。承璀は因って兵柄を得、万敵と偕に行く。承璀は行営に至り、威令振わず、禁軍屡く挫衄す。都將酈定進は前に劉辟を擒えるに功有り、驍将と号せられ、又賊に陥る。唯だ范陽節度使劉濟・易定節度使張茂昭のみ忠赤を効し、賊に戦いて屡く捷つ。而して昭義節度使盧従史は反復制し難く、陰に賊に附す。憲宗は密かに承璀に詔してこれを擒え、京師に送らしむ。

五年七月、承宗は巡官崔遂を遣わして表三封を上し、自ら陳首を乞い、且つ過ちを盧従史に帰せんとした。その略は曰く、

臣は頃に苫廬に在り、時序を綿歴し、恭しく朝旨を守り、闕違せんことを敢えず。復た詔書を奉じ、州郡を献ぜしめられ、三軍の勢に迫られ、孤臣の心に従わず。今、天兵四臨し、王命久絶し、白刃の下、国刑を避け難く、殷憂の中、転じて釁隙を積む。中に盧従史を由て首として乱階と為し、天下の兵を興し、海内の乱を生ず。既に国に忠ならず、又家に孝ならず。其の父の喪を聞くに当たり、已に臣の節を変じ、天使を迫脅し、朝経を瀆紊す。而して乃ち臣の喪に居るを幸いとし、臣の利を求めて敗れ、上は敢えて聖主を欺き、下は其の死親を顧みず。矯情徒らに封章に見え、邪妄素より胸臆に萌す。今、禍を構うる者は已に擒獲せられ、冤を抱く者は実に弁明を冀う。況んや臣の一軍は、素より忠義を守り、横に従史に君臣を離間せられ、轅門に哀号し、恩外に痛く隔てらる。伏して冀くは陛下、天地の徳を以て、容納を心と為し、生を好むの仁を弘め、自新の路を許したまわんことを。陽和に順いて沢を布き、雷雨に因って恩を覃う。祖父の前労を追念し、臣子の来効を俯観し、特ちに湯網を開き、堯年を楽しましめたまわんことを。

時に朝廷は承璀が宿師して功無く、国威日沮するを以て、頗る憂えた。会に承宗の使至り、宰臣商量して、赦宥を行わんことを請い、乃ち全く六郡を以て之に付す。承宗は薛昌朝を送って朝に入り、右武衛将軍を授けられた。

承宗は国家の兵を加えて勝たず、従史の奸計の行わるるを誣い、上章表謙恭と雖も、心に忌憚無し。十年、王師呉元済を討つに、承宗は李師道と継いで章表を献じ、元済を宥さんことを請う。其の牙将尹少卿、事を奏し、因って元済の為に遊説す。少卿、中書に至り、宰相に見えて論列し、語意遜らず。武元衡怒り、叱して出だす。承宗益ます順わず。是より李師道と奸計百端を以て、兵を用うるを沮む。四月、盗を遣わして河陰倉を焼く。六月、盗を遣わして靖安裏に伏せ、宰相武元衡を殺す。京師震恐し、大索旬日、天子之が為に旰食す。是の時、承宗・師道の盗、所在竊発し、襄州の仏寺を焚き、建陵の門戟を斬り、献陵の寝宮を焼き、甲を伏せて洛陽を屠らんと欲す。憲宗赫怒し、田弘正を命じて師を出だして其の境に臨ましめ、並びに鄰道六節度の衆を以て之を討たしむ。時に方に淮西に兵を用い、国用虚竭し、河北諸軍多く観望して進まず。独り昭義節度使郗士美精兵を率いて賊壘を圧し、釁に乗じて之を取らんと欲し、軍威甚だ盛ん。承宗懼れ、敢えて犯さず。俄に詔して権に河北の兵を用うるを罷め、力を淮西に併せしむ。

十二年十月、呉元済を誅す。承宗始めて懼れ、田弘正に求救す。十三年三月、弘正人を遣わして承宗の男知感・知信及び其の牙将石汛等を送り闕に詣りて命を請わしめ、客舎に於いて安置せしむ。又徳・棣二州の図印を献じ、兼ねて管内の租税に入り、官吏を除補せんことを請う。上は弘正の表疏相継ぐを以て、重ねて其の意に違い難く、乃ち詔を下して曰く、

帝たる者は天を承け人に下り、万国に臨む。乾坤覆載の施を観、常に其の曲全を務め、徳刑撫禦の方を用い、毎に其の弘貸を先んず。叛すれば則ち必ず伐ち、服して而して之を捨つ。典謨に訪うも、亦た斯の道を尚ぶ。朕は前訓に祗符し、丕図を纘嗣し、方隅を底寧し、氛祲を蕩滌す。上は以て祖宗の宿憤を攄え、下は以て黎庶の阜康を致し、厚きを思う者は生かし、去るを務むる者は殺す。荒を包み慝を蔵し、法を屈し恩を伸すに至りては、苟も衷誠の矜るべくんば、則ち過ちを宥して大なること無し。

王承宗は先頃喪中にあり、隣国に売られしが如きありしも、後に隣藩を城とし、朝野に疑われたり。国恩は厚きといえども、時の法は容れず。禍は実に自ら招きしもの、寵は我が絶ちしにあらず。百官卿士、朝廷に直言し、四方の諸侯、飛奏篋に満ち、競いて討伐を請い、先を争いて出軍せり。なお広く招き懐くを示し、務めて容納を存せり。衆を動かすに至りしは、事どうして願わんや。境を開きてその殺傷を憐れみ、舎を退きてその士伍を伏せしむ。陥ちしを取らんとし溺るるを救わんとすれば、惨嗟せざるを得んや。その先祖武俊、王室に功労あり、甲令に書き、景鐘に銘す。再び王師を駕し、再び人の欲に従うといえども、十代の宥しは、常に朕が懐に切なり。

近く三朝の慶を称し、八表に沢を流し、この鴻霈を広め、その自新を開かしむ。而して承宗果たして翻然として図を改め、忠懇を披露し、遠く二子を遣わし、表章を進陳し、図印を緘して上聞に達し、徳・棣の名部を献じ、囷を発して粟を奉じ、竈を並べて塩を貢し、地は職方に帥せんことを願い、物は司会に帰せんことを請う。且つ天子の臨むところ、王土ならざるは莫し。この旧服を析きて、将に爾の誠を表さんとす。諒や順を効すの心より出で、悉く忠を納るるの志を見る。抑えて撫せずんば、何を以て懐を示さん。朕この方を念うこと、亦た赤子の如し。一物その所を失えば、寝興寧からず。楽土の人を駆りて、竟に陳原の戮に就かしむるを忍びんや。暴を克く翦ぎしより、常に戈を止めんことを思う。予がこの心、天地臨鑒す。況や常山の師旅、旧より功労あり。往を改めて来を修めんとし、恩に酬いて善に遷らんことを誓う。精誠の俱に切なるを鑒み、渙汗をして再び敷かしむ。乃ち愆を曠滌し、朕の志に断ず。この殊渥を復し、永図を懐くべし。承宗は前の如く銀青光禄大夫・検校吏部尚書・鎮州大都督府長史・御史大夫に依り、成徳軍節度・鎮冀深趙観察等使を充てしむべし。

仍って右丞崔従をして鎮州に往き宣慰せしむ。承宗は素服して命を俟つ。乃ち華州刺史鄭権を以て徳州刺史と為し、横海軍節度・徳棣滄景観察等使を充てしむ。明年、金紫光禄大夫・検校尚書左僕射を加う。是の歳、李師道平らぎ、承宗は法を奉じて逾ます謹み、当管四州を請い、毎州に録事参軍一員・判司三員を置き、毎県に令一員・主簿一員を置き、吏の補授は皆朝旨を聴かしむ。十五年十一月卒す。侍中を贈る。子知感・知信は朝に在り。

士真の子、承元。

承元は、士真の第二子なり。兄承宗既に節鉞を領し、承元を観察支使・朝議郎・左金吾衛胄曹参軍兼監察御史と奏す。年始めて十六。承宗を勧めて二千騎を以て王師を佐け李師道を平らげしめんとす。承宗その言を用いる能わず。

元和十五年冬、承宗卒す。秘して喪を発せず。大将、旁郡に於いて帥を取らんと謀る。時に参謀崔燧密かに兵をる者と謀り、乃ち祖母涼国夫人の命を以て、親兵及び諸将に告げ、承元を拝せしむ。承元拝泣して受けず。諸将請うて已まず。承元曰く、「天子中貴人をして監軍と為さしむ。事あらば盍ぞ先ず与に議せざる。」監軍至るに及び、因りて諸将の意を以てこれを賛す。承元諸将に謂いて曰く、「諸公先徳を未だ忘れず、承元の歯幼きを以てせず、事を領せしめんと欲す。承元は国に忠を効し、以て先志を奉ぜんと欲す。諸公能くこれに従わんか。」諸将諾す。遂に衙門都將の理むる所に於いて事を視、左右に約して留後と呼ぶべからず。事の巨細なる無く、参佐にこれを決せしむ。密かに疏して帥を請う。天子これを嘉し、銀青光禄大夫・検校工部尚書を授け、滑州刺史・義成軍節度・鄭滑観察等使を兼ぬ。隣鎮両河の近事を以てこれを諷すも、承元聴かず。諸将も亦た悔ゆ。起居舎人柏耆詔を賫し滑州の命を宣諭するに及び、兵士或いは拝し或いは泣く。承元柏耆と館驛に於いて諸将を召し諭す。諸将号哭喧嘩す。承元これを詰めて曰く、「諸公先世の故を以て、承元の此れを失わしめんと欲せず、意甚だ隆厚なり。然れども詔を奉じて遅留すれば、その罪大なり。前者李師道未だ敗れざる時、その罪を赦すを議す。時に師道行かんと欲すも、諸将これを止む。他日師道を殺すも、亦た諸将なり。今公輩幸いに師道の事と為すこと莫れ。敢えて拝して請う。」遂に諸将に拝し、泣涕自ら勝えず。承元乃ち家財を尽く出し、その人を籍してこれを散じ、その勤むる者を酌んでこれを擢ぐ。牙将李寂等十数人固く承元を留めんとす。寂等を斬り、軍中始めて定まる。承元鎮州を出づ。時に年十八。従う将吏、器用貨幣を具えて行く者有り。承元悉くこれを留めしむるを命ず。承元の昆弟及び従父昆弟、郡守を授かる者四人、朝に登る者四人、従事将校功労有る者も、皆擢用す。祖母涼国夫人朝に入る。穆宗内宮に命じて筵待せしめ、錫賚甚だ厚し。

俄にして王廷湊田弘正を殺し、鎮州を拠りて叛く。鎮を移して鄜坊丹延節度使と為し、便道を請いて覲見す。穆宗これを器とし、数え召して顧問す。未だ幾もなく、鳳翔節度使に改む。鳳翔西北界は涇原に接し、山谷の険無し。吐蕃是れより径ち往きて寇す。承元要衝に於いて壘を築き、兵千人を分けてこれを守る。名づけて臨汧城と曰う。詔して岐国公を襲わしめ、累ねて検校左僕射を加う。鳳翔城東、商旅の集まる所、居人多く烽火を以て相警ます。承元城を益してこれを環らすを奏す。鎮に居ること十年、検校司空・御史大夫を加え、移して平盧軍節度・淄青登萊観察等使を授く。時に均輸塩法未だ嘗て両河に行われず。承元首めて塩法を請い、これを有司に帰す。是れより兗・鄆諸鎮、皆均輸の法を稟く。承元寛恵にして制有り、理むる所治まると称せらる。太和七年十二月、平盧に卒す。時に年三十三。冊して司徒を贈る。

王廷湊。

王廷湊は、本は回鶻阿布思の種族、世々安東都護府に隷す。曾祖は五哥之と曰い、李宝臣父子に事う。王武俊養いて仮子と為す。驍果にして闘いを善くし、武俊これを愛す。軍功を累ねて左武衛将軍同正を授けられ、越州都督を贈られる。祖は末怛活、左散騎常侍を贈られる。父は升朝、礼部尚書を贈られる。皆廷湊の貴きを以て贈典を加う。祖父世々王氏の騎将と為り、累ねて右職に遷る。

廷湊沈勇にして寡言、雄猜にして断有り。王承元の衙内兵馬使と為る。初め、承元上って朝旨を稟く。田弘正成徳軍を帥とす。国家賞銭一百万貫を賜う。度支輦運時に至らず、軍情悦ばず。廷湊毎にその細故を抉り、衆心を激怒せしむ。会に弘正魏兵二千を以て衙隊と為す。左右備え有りて間うる能わず。長慶元年六月、魏軍還りて鎮す。七月二十八日夜、廷湊乃ち衙兵を結び府署に於いて噪く。遅明、弘正及び将吏家族三百余人を尽く誅す。廷湊自ら留後・知兵馬使と称し、将吏監軍宋惟澄を逼りて章を上り廷湊に節鉞を授けんことを請わしむ。穆宗怒り、詔を下して隣道の兵を征し、仍って河東節度裴度を以て幽・鎮両道招撫使を充て、仍って弘正の子涇原節度使布を以て李醖に代わり魏博節度使と為し、魏軍を率いて進討せしむ。又承宗の故将深州刺史牛元翼を以て成徳軍節度使と為し、詔を下して廷湊を誅するを購う。是の月、鎮州大将王位等廷湊を謀殺せんとす。事泄れ、坐して死する者二千余人。

時に朱克融は張弘靖を囚え、王廷湊は田弘正を殺し、合従して逆謀を構え、王命に抗した。両鎮は力を併せ、討除を慮り難く応接すべく、詔して朝臣に議せしめて其の可否を問う。東川節度使王涯は状を献じて曰く、「幽・鎮両州は、天紀に悖乱し、亭育の厚徳を迷い、狼虎の非心を肆う。鼎臣を囚縶し、戎帥を戕賊し、毒は州郡に流れ、釁は賓僚に及ぶ。凡そ情有る者、孰か痛憤せざらんや。伏して惟うに、国家は文徳誕敷し、武功継立し、遠くは伏せざる無く、邇くは安からざる無し。況んや茲の二方、敢えて天理に逆らわんや。臣窃かに料るに、詔書朝に下れば、諸鎮夕に駆け、貔貅の罪を問うの師を以て、猖狂の節を失える寇に当たれば、山を傾けて卵を圧し、海を決して熒を灌ぐが如く、勢の相懸くる、是れを過ぎざるべし。但だ常山・薊郡は、虞・虢の相依うが如く、一時に師を興せば、恐らくは財力を費やさん。罪に軽重有り、事に後先有り、譬えば堅きを攻むるに、宜しく易き者に従うべし。聞く所に拠れば、范陽の乱を肇くは、一時に出づ、事は宿謀に非ず、跡も亦た験うべし。鎮州の禍を構うるは、殊に偶然に匪ず、諸の属城を扇ぎ、兵を以て境を拒つ。此くの如くならば、則ち幽薊の衆は、寛刑を示すべく、鎮冀の戎は、先討を資すべし。況んや廷湊は闒茸にして、父祖の資を席にせず、成徳は分離し、又多く迫脅の勢有り。今魏博の仇を復さんとするの衆を以てし、昭義の敵を尽くさんと願うの師を参じ、之を晋陽に参じ、之を滄徳を以て輔け、掎角して進まば、実に瓴を建つるが若し。其の城を尽く屠り、然る後に北首して燕路に臨まば、朝廷に於いて信を失うと為さず、軍勢に於いて実に機宜を得ん。臣の愚誠、切に是れに在り。臣又聞く、兵を用うること闘うが若くば、先ず其の喉を扼すと。今瀛鄚・易定は、両賊の咽喉なり。誠に宜しく之に威柄を仮し、重兵を以て戍らしめ、其の死生相知らず、間諜入る所無からしめ、而して大軍を以て先ず冀・趙に進み、次に井陘に臨まば、此れ一挙万全の勢なり。」と。

是に於いて易定節度使に命じて境を開き克融に抗せしめ、諸軍三面より進討す。初め、滄徳の烏重胤を以て独り一面を当たらしむ。重胤は宿将にして、進むべからざるを知り、頗る遅留す。乃ち杜叔良を以て重胤に代う。叔良は中官の援有り、朝辞の日、大言して云く、「賊は破るに足らず。」と。時に廷湊は幽薊の兵を合して深州を囲み、梯沖雲の如く合し、牛元翼は城に嬰りて拒守す。十一月、杜叔良は賊に敗れ、衆皆陷没し、僅かに身を以て免る。乃ち德州の王日簡を以て之に代う。裴度は衆を率いて承天軍に屯し、諸将挫敗し、深州危急なり。乃ち鳳翔節度使李光顔を以て忠武節度使と為し、深冀節度を兼ね、深州を救わしめ、仍て中官楊永和を以て光顔の軍を監せしむ。

国家は憲宗より群盗を誅除して以来、帑蔵虚竭す。穆宗即位し、賞賜過当。及び幽・鎮共に起り、征発百端、財力殫竭す。時に諸鎮の兵十五万余、纔に其の境を出で、便ち度支に仰ぎ給し、南北の供軍院を置く。既に賊境に深入し、輦運艱阻し、芻薪継がず、諸軍多く分番して樵采す。俄にして度支転運の車六百乗、尽く廷湊に邀えられて虜われ、兵食益々困す。賊は深州を数重に囲み、光顔の善将と雖も、亦た以て其の方略を施す無し。其の供軍院の布帛衣賜は、往々にして院に至ること得ず、途に在りて諸軍の強奪に遭い、而して懸軍深く闘う者は、率ね支給無し。復た又毎軍に内官一人を遣わして監軍せしめ、悉く驍健なる者を選びて自衛せしめ、羸懦なる者を以て即ち戦わしむ。是を以て屡々奔北多し。而して廷湊・克融の衆は、万余を過ぎずと雖も、官軍十五万に抗するは、良に統制一ならず、寇を玩び利を邀うが故なり。宰相崔祐甫は兵家に暁らず、常態に膠柱し、以て河朔を復た失うに至る。既に之を如何ともする無く、遂に兵を休め廷湊を赦すを議す。

二年正月、魏府牙将史憲誠其の軍を誘いて謀叛せしめ、田布は之を止むること能わず、其の衆自ら潰るることを南宮に於いて得たり。二月、詔して廷湊を赦し、仍て検校右散騎常侍・鎮州大都督府長史・成徳軍節度・鎮冀深趙等州観察等使を授く。牛元冀を以て山南東道節度使と為す。兵部侍郎韓愈を遣わして鎮州に至り宣慰せしめ、又中使を遣わして命を銜き深州に入り、元翼の鎮に赴くを監せしむ。廷湊は命を受くると雖も、而して深州の囲み解けず。招撫使裴度は幽・鎮に書を致し、大義を以て之を責む。朱克融は囲みを解きて去り、廷湊も亦た退舍す。朝廷は其の命を稟らんことを欲し、並びに克融に検校工部尚書を加う。三月、元翼は十余騎を率いて囲みを突破し深州を出で闕に赴く。深州将校臧平は城を以て降る。廷湊は其の固守を責め、将吏一百八十余人を殺す。五月、中使楊再昌を遣わして鎮州に至り、牛元翼の家族及び田弘正の骸骨を取らしむ。廷湊曰く、「弘正の骸骨は、所在を知らず。元翼の家族は、秋に至りて発遣せんことを請う。」と。俄にして元翼卒す。廷湊は乃ち尽く其の家を屠る。其の酷毒此の如し。赦宥を得てより、遂に朱克融・史憲誠と連衡相応し、朝廷を拒まんと謀る。

太和初め、滄州の李全略死す。其の子同捷は河朔の事に效わんと欲し、父の任に代わらんことを求む。文宗は之に兗海節度使を授く。同捷は詔を奉ぜず、郡を拠りて逆を構え、珍玩器幣妓女子弟を以て廷湊及び幽州の李載義に投款す。時に載義は初めて克融に代わり、誠を輸し順に效い、同捷の遣わす所を尽く闕に送る。詔して幽・魏・徐・兗の師を征し進討せしむ。廷湊は兵を出して魏の北境を撓ぎ、以て同捷を援く。二年、詔を下して廷湊の進奉を絶つ。既にして魏博将丌誌治は行営の兵を以て叛き、戈を倒して魏州を攻む。諸軍は誌治を撃ち、廷湊は兵を出して之に応ず。史憲誠危急なり。詔して義武軍節度使李聽に撃破せしむ。誌治は廷湊に奔る。三年六月、李同捷を誅す。尋で又何進滔は史憲誠を殺し、魏州を拠る。朝廷は兵を厭い、之を誅する果たさず、遂に進滔に魏博節度を授く。八月、廷湊は使を遣わして闕に詣り罪を請う。朝廷は因って之を赦す。前に依り検校司徒・成徳軍節度使。

鎮冀は李宝臣已来、惟嶽・承宗継いで叛くと雖も、猶親鄰は法を畏れ、自新の路を期せり。而して兇毒好乱、君無く仁無きは、廷湊の甚だしきに如かず。又就いて太子太傅・太原郡開国公を加え、食邑二千戸。八年十一月卒す。冊して太尉を贈り、累贈して太師に至る。

子の元逵は、鎮州右司馬となり、兼ねて都知兵馬使を務めた。廷湊が卒すると、三軍は彼を推して軍事を主とし、朝廷に命を請うた。そこで起復して檢校工部尚書・鎮州大都督府長史・成德軍節度使に任じられ、累遷して檢校左僕射となった。元逵は平素より忠順を抱き、父の風を頓に改めた。藩垣を領するに及んで、頗る誠款を輸し、歳時の貢奉は途に轍を結び、文宗これを嘉した。開成二年、詔して寿安公主を以て降嫁せしめ、駙馬都尉を加えた。元逵は段氏の姑を遣わして闕に詣で聘礼を納めさせた。段氏は食二千盤を進め、並びに御衣・戦馬・公主の妝奩及び私白身女口等を献じ、その従うこと雲の如く、朝野これを栄とした。会昌年中、昭義節度使劉従諫が卒し、その子の稹が軍政を擅に領した。武宗怒り、これを誅せんとし、隣藩に命じて地を分かち進討せしめ、元逵を北面招討使とした。詔の至った日に、師を出して趙州に次ぎ、魏博の何弘敬と共に山東の三州を収めた。元逵は邢州を攻め、俄かに賊将の裴問・高元武が元逵に降り、王釗・安玉が何弘敬に降り、並びに三郡を抜いた。累遷して檢校司徒・同中書門下平章事となった。劉稹を破った功により、太傅・太原郡開國公を加えられ、食邑二千戸、食実封二百戸を賜った。太中十一年二月卒し、冊して太師を贈られ、諡して忠といった。子に紹鼎・紹懿あり。

紹鼎は、時に鎮州大都督府左司馬・知府事・節度副使・都知兵馬使であった。起復して檢校工部尚書・鎮府長史・成德軍節度・鎮深冀趙観察等使を授けられ、累加して光禄大夫・尚書左僕射となった。その年七月卒し、司空を贈られ、賻として布帛三百段・米粟二百碩を賜い、累贈して司徒・太尉となり、また太傅を贈られた。

子に景胤・景崇・景敔あり。景崇が嫡子であったが、時に幼かった。

紹鼎が卒すると、宣宗は昭王汭を鎮州大都督・成德軍節度副使・都知兵馬使・檢校右散騎常侍・鎮府左司馬・知府事・兼御史中丞とし、王紹懿は本官のまま成德軍節度・観察留後を充て、仍て紫金魚袋を賜った。尋いで正しく節度使・檢校工部尚書を授けられた。累加して檢校右僕射・兼御史大夫・太原県開國伯となり、食邑七百戸を賜い、また檢校司空を加えられた。卒し、司徒を贈られた。

景胤は、初め成德軍中軍兵馬使・銀青光禄大夫・檢校太子賓客・監察御史となった。紹鼎が卒すると、出でて深州刺史・兼殿中侍御史となり、本州団練守捉使を充てた。

景崇は、季父の紹懿の時に鎮州大都督府左司馬・知府事・都知兵馬使であった。紹鼎が卒すると、三軍は紹懿を立てた。数月にして、疾篤く。景崇を召してこれに謂いて曰く、「亡兄は軍政を予に托し、汝の成立を俟てしむ。今危惙この如く、殆んど将に救わざらんとす。汝は少年なれども、勉めて自ら負荷し、下っては藩隣に礼を尽くし、上っては朝旨を奉じ、吾が兄の家業を墜さしめざらしむるは、惟れ汝の才によるのみ」と。言い終わって卒した。時に監軍が席に在り、その治命を奏し、上これを嘉し、詔して起復して忠武將軍・守左金吾衛將軍同正・檢校右散騎常侍とし、成德軍節度観察留後を充て、仍て上柱国を賜い、紫金魚袋を賜った。尋いで正しく節度使・檢校工部尚書を授けられた。

咸通年中、景崇は公主の嫡孫として、特く恩渥を承けた。季年、盗賊徐方に起こり、王師進討す。景崇は大将を令して諸軍に従わしむ。徐寇平ぎ、功により檢校右僕射を授けられ、太原県男に封ぜられ、食邑三百戸を賜った。祖母の章恵長公主薨じ、景崇は喪に居ること礼を得、朝野これを称した。起復して左金吾衛上將軍同正となり、進位して檢校司空となった。明年、同中書門下平章事となり、累加して檢校太尉・趙國公となり、食邑三千戸、食実封二百戸を賜い、尋いで常山王に進封された。母の秦國夫人の憂いに遭い、起復して本官に復した。乾符末、盗賊河南に起こり、黄巢闕を犯し、駕は剣南に幸す。景崇は定州節度使王処存と藩隣に檄を馳せ、兵を以て処存に附し関に入り賊を討ち、行在に奔問し、貢輸相継いだ。関輔平定し、功により真に太尉を拝した。中和二年十二月卒す。

子の镕、時に年十歳、三軍は留後に推し、朝廷因って旄鉞を授け、檢校工部尚書とした。時に天子蒙塵し、九州鼎沸す。河東節度使李克用は山東を虎視し、方に吞み据えんと謀る。镕は重賂を以て結納し、和好を修めんとす。晋軍、邢州に於いて孟方立を討つ。镕は常に芻糧を奉ず。方立平ぎるに及んで、晋将の李存孝、镕の南部を侵す。镕は幽州に援を求む。幽帥の李匡威、衆三万を率いてこれに赴き、存孝退き去る。景福元年、镕は存孝がその師に間隙あるに乗じ、乃ち兵を出して堯山を攻む。晋帥は大将の李存質を遣わして来援せしめ、大いに鎮人を堯山に破り、死者万計。晋人は勝に乗じて趙州に至る。镕は復た燕に援を求む。二年、匡威、衆数万を率いて来援す。会すに邢州節度使李存孝、その帥に背き城を据えて自ら固む。存孝は単騎で鎮州に入り、镕と面して盟約を結ぶ。俄かに李克用自ら全師を率いて存孝を攻む。時に匡威は鎮を離れた後、その弟の匡籌その位を奪い据う。匡威は退くに帰路無し。镕はその援助の恩を感じ、乃ち迎えて府城に入れ、第を築きてこれに居らしめ、事えること父の如し。匡威も亦た心を尽くして裨益し、軍中の事、皆な訓練す。是の年五月、镕、匡威の第に過ぐ。陰に部下を遣わし甲を伏せて镕を劫わしむ。镕はこれを抱持し、镕曰く、「公は人を誡めて倉卒する勿れとせよ!吾は晋人に困せられ、公に頼りて済わしむ。猶お吾が父なり。軍政は請う、公これを帥せよ」と。即ち並び轡をして府署に帰る。鎮軍これに拒み、竟に匡威を殺す。晋人は匡威の死を知り、克用自ら師を率いて城下に至る。镕は練二十万を出して犒労し、好を修めて退く。

及び汴宋節度使朱全忠が鄆・青三鎮を領し、兵天下に強く、将の葛従周・張存敬を遣わして邢・洺二州を寇陷し、勝に乗じて北に燕・趙を掠む。俄かに全忠、親兵を率いて城下に薄る。镕は倉卒にして備え無く、賓佐に謂いて曰く、「勢危うし。計将に安くか出ださん」と。判官の周式なる者、率先して対えて曰く、「敵人は我を迫るも、兵は抗う能わず。此れは理を以て説くべし。請う、梁帥を見てこれを図らん」と。式は即時に出でて全忠を見る。全忠は逆に式に謂いて曰く、「爾は言う必ずせず。王令は並汾に朋附し、盟に違ひ信を爽くす。敝賦は業すでに此に及び、期す無舍に在り」と。式曰く、「公の言過ぎたり!且つ公は唐室の桓・文たり、礼義を以てして霸業を成すべし。乃ち兵を窮め武を黷らし、人を険難に困せんと欲す。天下其れ公を何と謂わん」と。全忠喜び、式の袂を引きてこれを慰めて曰く、「前言はこれを戯れしのみ!且つ君は王令の為に計い如何」と。式曰く、「但だ好を修めるのみ」と。即ち復た镕を見、牛酒貨幣を出だして以て軍を犒うことを請う。仍て镕の子の昭祚及び牙将の梁公儒・李弘規の子各一人を、昭祚に従って大梁に入官せしむ。全忠は女を以て昭祚に妻せしむ。

全忠が僭称するに及び、天下に主なく、鎔やむを得ず、その正朔を行ふ。鎔累遷して開府儀同三司、守太師・中書令に至り、仍(なお)「敦睦保定大功臣」・上柱國・趙王を賜ひ、食邑一萬五千戶、食實封一千戶、襲食實封二百五十戶を食む。偽梁は尚書令を加へ、及び唐室中興し、偽の尚書令の號を去る。天祐七年、母魏國太夫人何氏卒し、本官を起復す。十八年、其の大將王德明に爲(ため)に殺され、赤族に至る。其の後の事は中興に在りて云ふ。

史臣曰く、土運中微し、群盜孔はなは(はなは)だ熾なり。寶臣安・史に附麗し、流毒中原に及び、終に土疆を竊み、國の蟊賊と爲る。武俊の狠狡を加ふるに、其の腹心と爲り、或は叛き或は臣たり、利を見て義を忘れ、蛇吞み蝮吐き、垂(ほぼ)二百年。哀れ哉、王政綱をためさず、以て此に至る。若し明皇開元の政におこた(おこた)らず、姚崇久しく阿衡に握(あ)らば、(あ)に柳城の一胡有らんや、敢へて佐伯を窺ひ、況んや其の下者をや。此の君無きを觀れば、爲(ため)に太息す可し。

贊に曰く、鵂鹠怪を爲すは、必ず其の昏きを取る。人君政を失ひ、盜の門を啓く。牙旂金鉞、虎子狼孫。茫茫たる黔首、何れの處にかうかがひを叫ばん。