卷一百四十一
田承嗣の甥 悦、子 緒、緒の子 季安、田弘正の子 布・牟、布の子 在宥、張孝忠の子 茂昭、茂昭の子 克勤、弟 茂宗・茂和、陳楚を附す
田承嗣
田承嗣は平州の人で、代々盧龍軍に仕えて裨校となった。祖父の璟、父の守義は、豪侠として遼・碣の地に名を知られた。承嗣は、開元の末年に軍使安禄山の先鋒兵馬使となり、奚・契丹をしばしば捕斬した功により、左清道府率に補され、武衛将軍に遷った。禄山が逆を構えると、承嗣は張忠志らとともに先鋒となり、河洛を陥れた。禄山が敗れると、史朝義が再び洛陽を陥とし、承嗣は先導となり、偽って魏州刺史に任じられた。代宗は朔方節度使僕固懐恩を遣わし、回紇軍を率いて河朔を討平させた。帝は二凶が相次いで乱を起こし、郡邑が傷つき破壊されたことを思い、暴を禁じ兵を収めることに務め、たびたび赦し宥めを行い、安・史に誤らされた者は一切問わなかった。時に懐恩はひそかに不軌を図り、賊が平らげられれば寵愛が衰えることを慮り、賊将を留めて援けとしようとし、承嗣及び李懐仙・張忠志・薛嵩ら四人に河北諸郡を分かって統帥させるよう奏上し、そこで承嗣を検校戸部尚書・鄭州刺史とした。まもなく魏州刺史・貝博滄瀛等州防禦使に遷った。間もなくして、魏博節度使を授けられた。
承嗣は教義に習わず、猜疑心が深く勇を好み、外では朝旨を受けながらも、ひそかに自らの地盤を固めようと図り、税率を重くし、兵甲を修繕し、戸口の多寡を計って、老弱には耕作に従事させ、丁壮には征役に従わせた。故に数年の中に、その衆は十万となった。なおその中から魁偉で強力な者一万人を選んで自衛に当たらせ、これを衙兵と称した。郡邑の官吏は、みな自ら任命し、戸籍は天府に登録せず、税賦は朝廷に入らず、藩臣とは言え、実に臣下の節義はなかった。代宗は黎元が久しく寇虐に苦しんできたことを思い、ひとまず寛大に扱うことに務め、累次にわたり検校尚書僕射・太尉・同中書門下平章事を加え、鴈門郡王に封じ、実封千戸を賜った。また魏州を大都督府に昇格させると、承嗣を長史とし、さらにその子の華に永楽公主を娶らせ、その心を結び固め、悔い改めさせることを望んだ。しかし彼は朔野に生まれ、志性は凶逆であり、王人(朝廷の使者)が慰安するたびに、言葉が不遜であった。
大暦八年、相衛節度使薛嵩が卒去すると、その弟の崿が節度使の地位を求めようとした。李承昭を用いて嵩に代えようとすると、衙将の裴志清が謀乱を起こして崿を追い出し、崿は衆を率いて承嗣に帰属した。十年、薛崿が帰朝すると、承嗣は親党を遣わして相州の将吏を扇動し謀乱を起こさせ、兵を率いて襲撃し、救応すると偽称した。代宗は中使孫知古を魏州に遣わし宣慰させ、それぞれ封疆を守るよう命じた。承嗣は詔に奉じず、大将の盧子期を遣わして洺州を攻めさせ、楊光朝を遣わして衛州を攻めさせ、刺史の薛雄を殺害し、さらに知古を脅して磁・相二州を巡視させ、その大将に耳を切り面を傷つけさせ、承嗣を帥とするよう請願させたが、知古は詰問することができなかった。四月、詔を下して言う。
田承嗣は行伍の間より出で、辺戍に名を記し、早くより戎秩に参じたが、効用は聞こえず、かつて凶渠を輔け、駆馳すること素より有り。再び河朔を平らげるに及び、轅門に帰命す。朝廷は遺黎を俯して念い、久しく兵革に罹るを慮る。禄山より禍を召し、瀛・博は流離し、思明、釁を継ぎ、趙・魏は堙厄す。以て農桑の井邑に至るまで、安住を得ず、骨肉の室家、相い保つ能わず。その凋瘵を念い、撫寧を用いんと思い、その先に款誠を布くを以て、之を理に寄す。是を以て旄鉞の任を委授し、方面の栄を仮し、爾の恩を知るを期し、自ら効うるを庶幾う。崇資茂賞、首めて朝倫に冠し、異姓の苴茅を列ね、上公の礼命に登す。子弟童稚、皆な台閣の華を聯ね、妻妾僕媵、並びに国邑の号を受く。人臣の寵、挙げて其の門に集まり、将相の権、兼ねて其の職を領す。夫れ宰相たる者は、忠を尽くす所以なり。而るに乃ち国家の封壌を拠り、国家の兵戈を仗し、国家の黎人を安んじ、国家の征賦を調う。資実を掩い有し、寵霊を憑み窃み、内に兇邪を包み、外に帰順を示す。且つ相・衛の略、管する所素より殊なり。而るに軍人を逼脅し、之をして翻潰せしむ。其の驚擾に因り、便ち軍師を進む。事跡暴に彰れ、姦邪見るべし。然らずんば、豈に志清の乱、曾て崇朝に未だならず、子期・光朝、明日に会せんや。足りて先ず成約有り、期を指して来たるを知る。是れ典刑を蔑棄し、擅に戈甲を興すを為す。既に相州騒擾と云い、隣境災を救うとす。旋って又た更に磁州を取り、重ねて威虐を行えり。此れ実に自ら矛盾し、終始を究めず。三州既に空しく、遠邇驚いて陷る。更に兵馬を移し、又た洺州に赴く。実に暴悪不仁を為し、窮極残忍なり。薛雄は乃ち衛州刺史、固より本藩に非ず。其の附せざるを忿り、横に凌虐を加え、一門尽く屠り、復た噍類に非ず。酷烈無状、人神の冤ずる所なり。又た四州の地、皆な屯営を列ね、長史属官、情に任せて補署す。精甲利刃、良馬勁兵、全実の資装、農蔵の積実、尽く魏府に収め、孑遺有ること罔し。其の為す所蓋し赦す無きに在り。討問を行い、正に其の刑書とせんと欲す。猶お含容を示し、其の善に遷るを冀い、典憲を抑え、務めて慰安に在らしむ。乃ち知古を遣わし遠く詔書を奉じ、深旨を以て諭し、乃ち承昭を命じ茲の麾下に副え、彼の旧封を撫せしむ。而るに承昭又た親将の劉渾を遣わし先ず詔命を伝えしむ。承嗣は磁・相に逡巡し、仍って知古を劫いて偕に行かしめ、先ず姪の悦に権めて軍吏を扇せしめ、至って刀を引いて自ら割らしめ、抑えて口を騰して相い稽らしめ、衆に当たり諠譁し、承嗣に帰るを請わしむ。其の姦状を論ずれば、以て憑と為すに足る。此れ而して容るべくんば、何をか罪と為さん。承嗣は宜しく永州刺史に貶すべく、仍って一幼男女の従行を許し、便路にて任に赴かしむべし。河東節度使薛兼訓・成徳軍節度使李宝臣・幽州節度留後朱滔・昭義節度李承昭・淄青節度李正己・淮西節度李忠臣・永平軍節度使李勉・汴宋節度田神玉等に委ね、掎角して進軍せしむ。もし承嗣時に職に就かずんば、所在に於いて討を加え、軍法に按じて処分せよ。
詔が下ると、承嗣は恐れ、また麾下の大将も多く離反し、慌てふためいて方策を失い、牙将の郝光朝を遣わし表を奉じて罪を請い、束身して帰朝することを乞うた。代宗は師旅を労することを重んじ、特恩を以て詔を允し、姪の悦らも悉く旧官に復し、なお入覲せずともよいと詔した。
甥 悦
魏の将邢曹俊は、田承嗣の旧将で、老いて智多く、頗る兵法を知り、田悦は扈萼に昵していたため、曹俊を貝州刺史とした。田悦が官軍を臨洺に拒いで、大いに王師に破られた時、田悦は乃ち曹俊を召して計を問うた。曹俊は言った、「兵法に十倍すれば則ち攻めよとある。尚書は逆を以て順を犯し、勢い且つ侔わず。口に兵一万を置いて西師を遏むべし。然らば河北二十四州悉く尚書の有と為らん。今臨洺・武安に攻城の計を設け、糧竭き卒尽き、危凶立至る。未だ其の可なるを見ざるなり」。孟希祐らはその己に異なるを以て、咸く譖毀し、田悦は復た貝州を守らせた。
田悦は淄青兵三万余人とともに洹水に陣し、馬燧ら三帥と神策将李晟らが来攻した。田悦の衆は復た敗れ、死傷二万に計った。田悦は残卒を収合して魏州に奔り、南郭外に至ると、大将李長春が関を拒んで内に入れず、官軍を俟った。三帥は進んだが、魏州南平邑の浮図に頓兵し、咸く遅留して進まず、李長春は乃ち門を開いてこれを内に入れた。田悦は佩刀を持って軍門に立ち、軍士百姓に謂って言った、「悦は伯父の余業を藉り、久しく卿らと同事す。今既に敗喪相継ぎ、全きを図ることを敢えず。然れども悦の天誅を堅く拒ぐ所以は、ただ淄青・恒冀の二大人在日の時、悦のために先朝に保薦し、方に承襲を得しむるに在り。今二帥云亡し、子弟襲封を求む。悦は既に報効すること能わず、以て師を興すに至る。今軍旅敗亡し、士民塗炭す。此れ皆悦が罪なり。母親の故を以て、自ら剄する能わず。公らは当に悦の首を斬りて功勲を取るべし。俱に死する無かれ」。乃ち自ら馬より地に投じた。衆皆これを憐れんだ。或る者は前に進み田悦を撫持して言った、「久しく公の恩を蒙り、此れを聞くに忍びず。今士民の衆、猶一戦すべし。生死を以て之に従わん」。田悦は涕を収めて言った、「諸公、悦の喪敗を以てせず、猶同心を願う。悦縦え身死すとも、寧んぞ厚意を地下に忘れんや」。田悦は乃ち自ら一つの髻を割き、以て要誓と為した。ここに於いて将士自ら其の髻を断ち、兄弟と結び、誓って生死を同じくした。其の将符璘・李再春・李瑤、田悦の従兄田昂は、相次いで郡邑を以て国に帰した。符璘らの家で魏州に在る者は、少長無く悉く田悦に害せられた。田悦は城内の兵仗罄乏し、士衆減衰するを観て、甚だ惶駭し、乃ち復た邢曹俊を召して之と謀った。既に至ると、徒旅を完整し、営壁を繕修し、人心復た堅くなった。旬余日を経て、馬燧らは城下に進んだ。向使燧ら勝に乗じて長駆し、其の未だ備えざるを襲わば、則ち魏城屠られること久しからん。識者は之を痛惜す。
時に王武俊が李惟岳を殺し、朱滔が深州を攻めてこれを下した。朝廷は武俊を恒州刺史とし、又李宝臣の故将康日知を深趙二州観察使とした。ここにおいて武俊は賞功が康日知の下にあることを怨み、朱滔は深州を得られざるを怨み、二将は朝廷に憾み有り。田悦は其の間隙を乗ずべきを知り、判官王侑・許士則を北軍に使わし、朱滔を説いて言った、「昨者司徒詔を奉じて征伐し、径ちに賊境に趨き、旬朔の内に束鹿を抜き深州を下し、李惟岳勢蹙え、故に王大夫兇渠を殄ぶることを獲たり。皆司徒の勝勢に因るなり。又聞く、司徒幽州を離るる日、詔有りて李惟岳の郡県を得て、本鎮に隷せしむと。今深州を割きて康日知に与うるは、是れ国家天下に信無きなり。且つ今上英武独断、秦皇・漢武の才あり、豪傑を誅夷し、河朔を掃除せんと欲し、子孫に嗣襲せしめず。又朝臣功を立て事を立つる者、劉晏の輩の如きは、皆屠滅せらる。昨梁崇義を破り、三百余口を殺し、之を漢江に投ず。此れ司徒の明知する所なり。馬燧・李抱真ら魏博を破る後、朝廷必ず儒徳大臣を以て之を鎮めん。然らば燕・趙の危きは翹足して待つべし。若し魏博全からば、則ち燕・趙患無からん。田尚書必ず死を以て恩義に報ぜん。合従連衡し、災を救い患を卹うは、春秋の義なり。春秋の時、諸侯危き有る者、桓公救う能わざれば則ち之を耻ず。今司徒声宇宙に振い、雄略世に命じ、隣の急を救うは、徒に義を立つのみに非ず、且つ利有り。尚書貝州を以て司徒に奉じ、某をして孔目を送らしむ。惟れ司徒熟計せよ」。朱滔は既に国に貳心あり、欣然として之に従い、乃ち判官王郢に許士則とともに恒州に往き王武俊を説かせ、仍た武俊に深州を還すことを許した。武俊は大いに喜び、即ち判官王巨源をして朱滔に報ぜしめ、仍た深州の事を知らしめた。武俊は又張孝忠を説き同しく田悦を援けんとせしめたが、孝忠は従わず、後患を恐れ、乃ち小校鄭〓を遣わして北境に壘を築き、以て孝忠を拒がしめ、仍た其の子王士真を恒・冀・深三州留後とし、兵を以て趙州を囲ませた。
子 田緒
孫 田季安
季安は字を夔という。母は微賤なり。嘉誠公主はこれを蓄えて己が子と為し、故に諸兄より寵異された。年数歳にして左衛冑曹参軍を授かり、著作佐郎・兼侍御史に改め、魏博節度副大使を充す。累加して試光禄少卿・兼御史大夫に至る。田緒が卒した時、季安の年僅か十五、軍人が推して留後と為し、朝廷は因りて起復左金吾衛将軍を授け、兼魏州大都督府長史・魏博節度営田観察処置等使を兼ねしめた。服闋して、銀青光禄大夫・検校尚書右僕射を拝し、進んで位は検校司空に至り、鴈門郡王を襲封した。未だ幾ばくもなく、金紫光禄大夫を加えられ、本官を以て同中書門下平章事と為る。
季安は幼くして父業を守り、嘉誠公主の厳しきを懼れ、他に才能無きと雖も、亦粗く礼法を修めた。及んで公主薨じ、遂に頗る自ら恣にし、撃鞠・従禽の色の娛に耽った。その軍中の政務は、大抵情意に任せて徇い、賓僚将校の言は皆従わず。公主の喪を免じ、検校司徒を加えられる。元和年中、王承宗が擅に戎帥を襲い、憲宗は吐突承璀を招撫使と命じ、諸軍を会して進討せしむ。季安もまた大将を遣わして兵を率いて会に赴かしめ、仍って自ら糧餉を供した。師還りて、太子太保を加えられる。
季安は性忍酷にして、畏懼する所無し。進士丘絳という者有り、嘗て田緒の従事と為り、季安が帥と為るに及び、丘絳は同職の侯臧と協せず、相い持して権を争う。季安怒り、丘絳を斥けて下県尉と為し、人をして召し還らしめ、先ず路左に坎を掘り、既に坎の所に至り、生きたまま押し込めて埋めた。その兇暴此の如し。元和七年卒す。時に年三十二。太尉を贈られる。子に懐諫・懐礼・懐詢・懐讓有り。
懷諫の母は、元誼の女である。季安が卒すると、元氏は諸将を召して懷諫を立てようとし、衆は皆唯々と従った。懷諫は幼く、事を統御することができず、軍政の大小事は全て私白身の蔣士則の決断に委ねられ、しばしば愛憎によって将校を更迭した。衙軍は怒り、前臨清鎮将の田興を留後として迎え、懷諫を邸に帰し、蔣士則ら十余人を殺した。田興は季安の葬儀を終えると、懷諫を京師に送り、そこで起復して右監門衛将軍を授け、邸宅一区を賜り、秣米の給与は甚だ厚かった。田氏は承嗣が魏州を占拠してから懷諫に至るまで、四代四十九年にわたって相伝襲したが、田興が代わったのである。
田弘正
季安が卒すると、懷諫は家僮の蔣士則に軍政の改易を委ねたが、人情は喜ばず、皆が言うには、「都知兵馬使田興が我が帥となるべきである」と。衙兵数千人が興の私邸に詣でて陳請したが、興は門を閉ざして出ず、衆は呼噪して止まなかった。興が出ると、衆は取り囲んで拝礼し、府署に入るよう請うた。興は地に頓仆し、久しくして、遂に免れられぬと悟り、軍中に令して言った、「三軍が興の不肖を以てせず、軍務を主たるべしとし、諸軍と前に約束したい。命に従うか」と。皆が言うには、「命に従うのみ」と。興は言った、「我は天子の法を守り、六州の版籍を以て官吏を請い、副大使を犯さず、よろしいか」と。皆が言うには、「諾」と。この日、府に入り事を視、蔣士則ら十数人を殺したのみであった。夕方に府から邸に帰ると、その兄の融が興を責めて言った、「汝はついに自ら晦ますことができず、禍を取る道である」と。翌日、事を詳らかに上聞すると、憲宗はこれを嘉し、興に銀青光禄大夫・検校工部尚書・魏州大都督府長史・兼御史大夫・上柱国・沂国公を加え、魏・博等州節度観察処置支度営田等使を充て、なお名を弘正と賜った。なお中書舎人裴度を使者として魏州に遣わし宣慰させ、魏博三軍に賞銭一百五十万貫を賜った。
弘正は節鉞を受けると、上表して言った、「臣は聞く、君臣父子はこれ大倫と謂い、紀綱を立てて上下を正すと。もし子が子とならず、臣が臣とならば、天地も容れることができず、幽明共に殛すべきである。臣の家は辺塞に本づき、累代唐人であり、乃祖乃父以来、文子文孫の化に浴してきた。臣は幸いに宗族により、早く偏裨に列し、戎馬の郷を駆馳し、朝廷の礼を見ず。ただ忠と孝は、天が臣の心に与え、常に奮いて生を顧みず、身を以て国に殉ぜんと思い、上達する由なく、私自ら感傷する。豈に命が昌時に偶し、事が難故に縁るとは思わんや。白刃の下、謬りに推崇を見る。天慈が遽かに臨み、罪累を書するを免れ、朝章が薦く及び、なお旂旄を委ねる。全藩に封壌を錫し、八座に班栄を列す。君父の恩は已に極まり、絲毫の効は未だ伸びず、ただ靦冒して羞を知り、低徊して自ら愧ずる。是れ功栄の著す所は、必ず危乱の時を俟ち、徼幸の来るは、却って清平の日に在るを知る。涯を循り分を揣み、寵を以て憂いと為す。伏して天宝已還より、幽陵乱を肇き、山東の奥壌、悉く戎墟と化す。外は車馬を撫し、内は梟獍を懐き、官封は代襲し、刑賞は自ら専らにす。国家は垢を含み瑕を匿し、垂くこと六十載。臣は毎に此の事を思うに、食に当たりて餐を忘る。若し稍々天年を仮し、宸算を奉ずるを得ば、弱きを兼ね昧きを攻め、亢を批ち虚を擣ち、鷹犬の資を竭くし、禽を獲るの用を展し、和気を導揚し、偽風を洗滌し、然る後に退きて田園に帰り、賢路を避けん。臣は此の志を懐く、陛下之を察せよ」と。優詔を以て褒美した。
弘正は前代の忠孝立功の事を聞くことを好み、府舎に書楼を建て、書万余巻を集め、事を視る隙に、賓佐と古今の言行の可否を講論した。今、河朔に沂公史例十巻があるが、弘正の客が弘正のために著したものである。魏州は承嗣以来、館宇服玩に常制を踰えるものがあれば、悉く撤毀を命じ、正庁は大いに侈り過ぎて居らず、採訪使庁に於いて事を視た。賓僚参佐は朝廷に請うた。頗る儒書を好み、特に史氏に通じ、左伝・国史、その大略を知った。
弘正が帰国して以来、幽・恒・鄆・蔡は唇亡びて歯寒しの惧れがあり、屡々客を遣わして間説し、多方に誘阻したが、弘正は終始その操を移さなかった。裴度は理体に明るく、詞説雄弁であり、弘正はその言を聴き、終夕倦まず、遂に深く結納し、これにより上に奉ずる意は愈々謹んだ。元和十年、朝廷は兵を用いて呉元済を討つと、弘正は子の布に兵三千を率いさせ進討させ、屡戦して功があった。李師道は弘正が忠を効するのを見、またその背後を襲うことを恐れ、元済を顕に助けることができず、故にその掎角の援を絶ち、王師は討伐を致すを得た。俄かに王承宗が叛くと、詔して弘正に全師を以て境を圧させた。承宗は懼れ、使いを遣わして弘正に救いを求め、弘正はその事を表上したので、承宗は遂に二子を納れ、徳・棣二州を献じて自らを解いた。
十五年十月、鎮州の王承宗が卒すると、穆宗は弘正を検校司徒・兼中書令・鎮州大都督府長史とし、成徳軍節度使・鎮冀深趙観察等使を充てた。弘正は新たに鎮人と戦い、父兄の怨みがあるため、魏兵二千を衛従とした。十一月二十六日、鎮州に至った。時に鎮州三軍に賜った賞銭百万貫が、時を過ぎても届かず、軍衆が喧騰してこれを言い立てた。弘正は自ら慰撫し説得して、人情やや安んじ、なお表を奉って魏兵を留めて紀綱の僕とし、衆心を保持することを請い、その糧賜は有司より給することを求めた。時に度支使崔倰が大體を知らず、固くその請いを阻み、凡そ四度上表したが返答がなかった。明年七月、魏州に帰った兵卒が、その月二十八日夜に軍乱を起こし、弘正並びに家屬・参佐・将吏等三百余口が共に害に遇った。穆宗はこれを聞いて震悼し、冊贈して太尉とし、賵賻を加等した。弘正は孝友慈恵にして、骨肉の恩情甚だ厚かった。兄弟子姪で両都にいる者は数十人、競って華美な飾りをし、一日の費用は約二十万、魏・鎮州の財貨は、皆道を連ねて運ばれた。河北の将卒は心にこれを平らげず、故にその俗を尽く変えることができず、ついにこれによって乱を招いた。弘正の子は布・群・牟である。
子 布
穆宗はこれを聞いて驚き嘆き、三日間朝を廃し、詔して言うには、
故魏博節度使・起復寧遠将軍・検校工部尚書・兼魏州大都督府長史・御史大夫・賜紫金魚袋田布、朕は寡昧を以て万邦に臨御すれども、威刑は干紀の徒を禁ずる能わず、道化は多僻の俗を馴ずる能わず、致すところ上公禍に罹り、田氏冤を銜む。爰に旅を整えて徂征せしむるも、毎に食を終えて浩嘆し、茲より弔伐して、驟に寒暄を歴る。良将鋭師と雖も、率皆力を恊う。然れども時を俟ち釁を観て、未だ即ち齊驅せず。嗟ぶ我が誠臣、其の哀憤を結び、遷延の咎を引きて以て自ら刻責し、決烈の志を奮い起こして以て君親に謝す。白刃を肝心に置き、鴻毛を以て其の生死を論ず、忠臣孝子、一挙にして両全す。晋は卞氏の門を称し、漢は尸郷の節を表す、布に比方すれば、今古隣と為る。況んや其の命に臨む須臾、之を処するに撓まず、章表に形を載せ、益々衷悃深し。問使発緘し、悼心疾首す。先臣に従うこと厚載に於いて、爾は則ち愧ずること無し。遺像を麟閣に睹る、予は何をか堪えん。端拱して名を崇め、職は彝典に垂る。斯に拠りて以て報い、聊かに永懷を攄く。尚書右僕射を贈るべし。
布の子の在宥は、大中年間に安南都護となり、頗る辺功を立てた。
子 群
群は、大和八年に少府少監となり、入吐蕃使を充てられ、棣州刺史・安南都護を歴任した。
子に牟あり。
牟は、会昌初年に豊州刺史・天徳軍使となり、武寧軍節度使を歴任し、大中朝に兗海節度使となり、天平軍に移鎮した。諸子は皆、辺境で功を立て、累次藩鎮を歴任し、忠義をもって談論する者に称せられた。
張孝忠
張孝忠は、もと奚の種類である。曾祖は靖、祖は遜、代々乙失活部落の酋帥であった。父の謐は、開元中に衆を率いて帰国し、鴻臚卿同正を授けられ、孝忠の貴顕により、戸部尚書を追贈された。孝忠は勇をもって燕・趙に聞こえた。時に張阿労・王没諾干と号し、二人は斉名した。阿労は孝忠の本字、没諾干は王武俊の本字である。孝忠は形体魁偉、長さ六尺余、性は寛裕、親に事えて恭孝であった。天宝末、善射をもって内供奉を授けられた。安禄山が奏して偏将とし、九姓突厥を破り、先登陷陣し、功により果毅折衝を授けられた。禄山・史思明が相次いで河洛を陥落させると、孝忠は皆その前鋒となった。史朝義が敗れると、李宝臣の帳下に入った。上元中、奏して左領軍郎将を授けられ、累次左金吾衛将軍同正・試殿中監を加えられ、なお名を孝忠と賜り、飛狐・高陽二軍使を歴任した。李宝臣は孝忠の謹重驍勇なるを以て、甚だ委信し、妻の妹昧谷氏を娶らせ、なお易州諸鎮の兵馬を悉く統制せしめた。前後城鎮に居すること十余年、威恵甚だ著しかった。
田承嗣が冀州を寇したとき、宝臣は孝忠に精騎数千を以てこれを防がせた。承嗣はその整粛なるを見て、嘆じて曰く「張阿労在り、冀州は未だ図り易からず」と。乃ち営を焚きて宵遁した。宝臣が朱滔と瓦橋で戦うに及び、常に滔の来攻を慮り、故に孝忠を易州刺史とし、精騎七千を選んで配し、幽州を捍がしめた。奏して太子賓客・兼御史中丞を授け、范陽郡王に封ぜられた。既にして宝臣は大将を疑忌し、李献誠ら四五人を殺し、孝忠を召喚せしめたが、孝忠は懼れて行かなかった。宝臣は孝忠の弟孝節をして召させた。孝忠は孝節に命じて復命せしめて曰く「諸将無状、連頸して戮せられんとす。孝忠は死を懼れて敢えて往かず、亦敢えて叛かず。猶お公の朝に覲せざるが如く、禍を慮るのみ。他に志無し」と。孝節泣いて曰く「兄行かずんば、吾帰りて死せん」と。孝忠曰く「偕に往かば則ち命を并せん。吾留まれば患無し」と。乃ち帰り、果たして患無かりき。
間もなく、宝臣死す。その子惟岳は兵を阻みて命を受けず、朝廷は幽州節度使に詔してこれを討たしめた。滔は孝忠が宿将にして善戦し、精兵八千を易州に有するを以て、軍興すれば則ちその後を撓すを慮り、乃ち判官蔡雄をして孝忠を説かしめて曰く「惟岳は小子驕貴、人事に達せず、輒て朝命を拒む。滔は命を奉じて罪を伐つ。使君何ぞ逆を助け、自ら多福を求めざるや。今、昭義・河東は田悦を攻破し、淮西李僕射は襄陽を収め下し、梁崇義は井に投じて卒し、漢江に臨みて誅せらるる者五千人、即ち河南の軍は日を計りて北首す。趙・魏の滅亡見るべし。使君誠に能く逆を去り順に効せば、必ず重任を受け、先に帰国するの功有らん」と。孝忠これを然りとし、乃ち衙官を遣わして雄に随い滔に報ぜしめ、又易州録事参軍董稹を遣わして朝に入らしめた。徳宗これを嘉し、孝忠に検校工部尚書・恒州刺史・兼御史大夫を授け、成徳軍節度使を充て、便ち滔と合兵して惟岳を攻めしめ、なお実封二百戸を賜うた。その弟孝義及び孝忠の三女、既に適人して恒州に在る者は、悉く惟岳に害せられた。孝忠は甚だ滔の保薦を徳とし、その子茂和を以て滔の女に聘し、契約甚だ密なり。遂に合兵して惟岳の師を束鹿に破り、惟岳は遁れて恒州に帰った。滔は乗勝してこれを襲わんことを請うたが、孝忠はなお軍を率いて西北し、義豊に還って営した。滔は大いに駭いた。孝忠の将佐曰く「尚書は赤心を朱司徒に布き、相信至りたり。今、逆寇已に潰る。その功を終えざるは、窃かに未だ諭せざる所なり」と。孝忠曰く「本、賊を破らんことを求む。賊は已に破れたり。然れども恒州の宿将尚お多し。これを迫れば則ち困獣猶お闘い、これを緩めば必ず翻然として図を改めん。又、朱滔は言大にして識浅し。始めを慮るに可く、成りを守るに難し。吾が義豊に壁すは、坐して惟岳の殄滅を待つのみ」と。既にして朱滔は束鹿に屯し、敢えて進軍せず。月余りして、王武俊果たして惟岳の首を斬りて献じ、孝忠の料る所の如し。後に定州刺史楊政義が州を降す。孝忠は遂に易・定の地を有した。時に既に惟岳を誅し、四州を分ちて各々観察使を置く。武俊は恒州を得、康日知は深・趙二州を得、孝忠は易州を得た。成徳軍の額は恒州に在り、孝忠は既に政義を降したので、朝廷は乃ち定州に義武軍を置き、孝忠を検校兵部尚書とし、義武軍節度・易定滄等州観察等使とした。
朱滔・王武俊が謀叛し、将に田悦を魏州に救わんとするに及び、孝忠が後を踵くを慮り、滔の軍将に発せんとするに、復た蔡雄を遣わして往きてこれを説かしめた。孝忠曰く「李惟岳は国に背き逆を作す。孝忠は国に帰り、今は忠臣たり。孝忠は性直にして、業已に忠を効す。復た逆を助けじ。往時武俊と同行せしが、且つ孝忠と武俊は倶に蕃部より出で、少長相狎れ、その心僻にして能く翻覆するを深く知る。司徒に語れ、鄙言を記すべし。忽ち蹉跌有らば、始めて相憶せん」と。滔は又金帛を以て啗わんとしたが、終に拒んで従わず。易定は二兇の間に居し、四面敵を受けたが、孝忠は溝壘を修峻し、将士を感励して、竟に二兇の熒惑を受けず、議者多くこれを称した。又検校左僕射を加えられ、実封三百戸に至った。後に孝忠は朱滔に侵逼せられ、詔して神策兵馬使李晟・中官竇文場に師を率いてこれを援げしめた。孝忠は女を晟の子憑に妻せしめ、晟と戮力同心し、士衆を整訓して、竟に易定を全うし、賊は敢えて深入せず。上、奉天に幸するに及び、大将楊栄国に鋭卒六百を提げて晟に従い関に入り難に赴かしめ、京城を収めしに、栄国功有り。
子 茂昭
四年、王承宗叛く。詔して河東・河中・振武三鎮の師をして、義武軍と合し、恒州北道招討と為さしむ。茂昭は廩廄を創め、道路を開き、以て西軍を待つ。正月望夜に属し、軍吏請ひて曰く、「旧例、上元の前後三夜は、行人を止めず、里門を閉ざさず。今外道の軍戎方に集まれり。軍令の如くせんことを請ふ」と。茂昭曰く、「三鎮の兵馬は官軍なり、安んぞ外道と謂はんや!灯を放つこと一に常歳の如くすべし」と。長男克讓をして諸軍と分道並進せしむ。克讓は木刀溝を渡り、賊と接戦し屢勝つ。茂昭親ら甲冑を擐ぎ、諸軍の前鋒と為り、累ねて戎捷を献じ、幾くんか承宗を覆さんとす。会に朝廷承宗を洗雪するに及び、乃ち詔して師を班し、検校太尉を加へ、兼ねて太子太傅とす。
安史の乱より、両河の藩帥多く命に阻み自ら固くし、父死して子代はる。唯だ茂昭は表して挙族して朝に還らんことを請ひ、隣藩累ねて遊客を遣わして間説すれども、茂昭志意堅決にして、表を拝して代を求むること数四。上乃ち左庶子任迪簡を命じてその行軍司馬と為し、駅を乗りてこれに赴かしむ。両郡の簿書・管鑰・符印を以て迪簡に付し、その妻季氏・男克讓・克恭等を遣わして先ず路に就かしむ。将に行かんとし、これを誡めて曰く、「吾れ爾曹をして親に侍りて易を出ださしむるは、庶くは後の子孫風俗に染まらざらんことを。然らば則ち吾れ恨み無し」と。時に五年の冬なり。行きて晋州に及び、検校太尉・兼中書令を拝し、河中晋絳慈隰等州節度観察等使を充つ。十二月十二日、京師に至る。故事、双日に坐せず。是の日特に延英殿を開きて茂昭に対し、五刻にして乃ち罷む。又表を上して祖考の骨墓を京兆に遷さんことを請ふ。朝に在ること両月、未だ之を鎮せず。六年二月、疽首に発し、卒す。時に年五十。朝を廃すること五日。冊して太師を贈り、賻として絹三千匹・布一千端・米粟三千石を賜ひ、喪事の須ふ所は官に給し、詔して京兆尹に監護せしめ、謚して献武と曰う。
憲宗その忠藎を念ひ、諸昆仲子姪皆職秩に居らしめ、仍て詔して毎年絹二千匹を給し、春秋に分かち給ふ。克讓・克恭は官諸衛大将軍に至る。小男克勤は、長慶中左武衛大将軍なり。時に赦文有りて一子に五品官を許す。克勤は子幼きを以て、近例に準ひて外甥に回授せんことを請ふ。状中書に至り、吏部員外郎判廃置に下す。裴夷直断じて曰く、「一子の官は、恩功を念ふに在り、賞を延ぶるを貴しとす。若し己が子無くば、宗男に及ぶを許す。今張克勤自ら息男有り、妄りに外甥を以て奏請し、他族に移す。知る是何人ぞ、儻や官を売るに渉らば、実に法を乱すなり。近日の勅例を援くといえども、著しき定格の文を破り難し。国章既に必ず行はるべし、宅相恐らくは虚しく授け難からん。状を具して中書門下に上す。克勤の請ふ所は、望むらくは宜しく允さざるべし」と。遂に定例と為る。
子 茂宗
子に茂和あり。
茂和は、元和年間に左武衛将軍となった。裴度が淮西行営処置となり、兵を用いて呉元済を討つに当たり、牙を建てて行営に赴き、茂和を都押衙に用いることを奏上した。茂和はかつて胆気才略をもって相府に自らを推賞したので、裴度が奏上して用いたのである。茂和は裴度が功を立てず、淮・蔡が平定されぬことを慮り、病を理由に辞退した。裴度は大いに怒り、茂和を斬って行く者を励ますよう奏請した。憲宗は言った、「朕はその家門の忠順を思い、卿のために遠く貶すこととする」。後に再び諸衛将軍に用いられ、卒した。
附 陳楚
【論】
史臣曰く、朝廷の治乱は、法制の当否と形勢の得失にあるのみである。秦人が上に叛いたのは、法制を失ったからである。漢の道が勃興したのは、形勢を得たからである。臣が開元の政の挙がるのを見るに、坐して百蛮を制した。天宝の法の衰えるに及び、ついに四海を淪ぼした。玄宗が一旦その勢いを失うと、横流して救うべからず、地は群盗に分かれ、身は九夷に播遷した。河朔二十余州は、ついに盗賊の巣窟となり、諸田は兇険で、物情に近からなかった。しかし弘正・孝忠は、よく人臣の節を通じ、沂国は力を善に尽くしたが報いられず、これは天意の乱を好み治を悪むところであろうか。茂昭は忠梗にして礼あり、禍福の大端を明らかにし、近代の賢侯である。
賛して曰く、田宗は令ならず、禍淫に応なし。天は仁を輔けると謂うに、胡ぞ弘正を覆さん。茂昭は止まるを知り、終に善を以て勝つ。孰れか厲階を生ぜし、上は威柄を失う。