舊唐書

巻141

巻141

舊唐書

原文舊唐書

卷一百四十一

原文卷一百四十一

列傳第九十一 田承嗣 田弘正 張孝忠

原文列傳第九十一 田承嗣 田弘正 張孝忠

旧唐書 巻一百四十一・列伝第九十一

原文舊唐書 卷一百四十一‧列傳第九十一

田承嗣の甥 悦、子 緒、緒の子 季安、田弘正の子 布・牟、布の子 在宥、張孝忠の子 茂昭、茂昭の子 克勤、弟 茂宗・茂和、陳楚を附す

原文田承嗣姪悅 子緒 緒子季安 田弘正子布 牟 布子在宥 張孝忠子茂昭 茂昭子克勤 弟茂宗 茂和 陳楚附

田承嗣

原文田承嗣

田承嗣は平州の人で、代々盧龍軍に仕えて裨校となった。祖父の璟、父の守義は、豪侠として遼・碣の地に名を知られた。承嗣は、開元の末年に軍使安禄山の先鋒兵馬使となり、奚・契丹をしばしば捕斬した功により、左清道府率に補され、武衛将軍に遷った。禄山が逆を構えると、承嗣は張忠志らとともに先鋒となり、河洛を陥れた。禄山が敗れると、史朝義が再び洛陽らくようを陥とし、承嗣は先導となり、偽って魏州刺史に任じられた。代宗は朔方節度使僕固懐恩を遣わし、回紇軍を率いて河朔を討平させた。帝は二凶が相次いで乱を起こし、郡邑が傷つき破壊されたことを思い、暴を禁じ兵を収めることに務め、たびたび赦し宥めを行い、安・史に誤らされた者は一切問わなかった。時に懐恩はひそかに不軌を図り、賊が平らげられれば寵愛が衰えることを慮り、賊将を留めて援けとしようとし、承嗣及び李懐仙・張忠志・薛嵩ら四人に河北諸郡を分かって統帥させるよう奏上し、そこで承嗣を検校戸部尚書・鄭州刺史とした。まもなく魏州刺史・貝博滄瀛等州防禦使に遷った。間もなくして、魏博節度使を授けられた。

原文田承嗣,平州人,世事盧龍軍為裨校。祖璟、父守義,以豪俠聞於遼、碣。承嗣,開元末為軍使安祿山前鋒兵馬使,累俘斬奚、契丹功,補左清道府率,遷武衛將軍。祿山構逆,承嗣與張忠志等為前鋒,陷河洛。祿山敗,史朝義再陷洛陽,承嗣為前導,偽授魏州刺史。代宗遣朔方節度使僕固懷恩引迴紇軍討平河朔。帝以二兇繼亂,郡邑傷殘,務在禁暴戢兵,屢行赦宥,凡為安、史詿誤者,一切不問。時懷恩陰圖不軌,慮賊平寵衰,欲留賊將為援,乃奏承嗣及李懷仙、張忠志、薛嵩等四人分帥河北諸郡,乃以承嗣檢校戶部尚書、鄭州刺史。俄遷魏州刺史、貝博滄瀛等州防禦使。居無何,授魏博節度使。

承嗣は教義に習わず、猜疑心が深く勇を好み、外では朝旨を受けながらも、ひそかに自らの地盤を固めようと図り、税率を重くし、兵甲を修繕し、戸口の多寡を計って、老弱には耕作に従事させ、丁壮には征役に従わせた。故に数年の中に、その衆は十万となった。なおその中から魁偉で強力な者一万人を選んで自衛に当たらせ、これを衙兵と称した。郡邑の官吏は、みな自ら任命し、戸籍は天府に登録せず、税賦は朝廷に入らず、藩臣とは言え、実に臣下の節義はなかった。代宗は黎元が久しく寇虐に苦しんできたことを思い、ひとまず寛大に扱うことに務め、累次にわたり検校尚書僕射・太尉・同中書門下平章事を加え、鴈門郡王に封じ、実封千戸を賜った。また魏州を大都督ととく府に昇格させると、承嗣を長史とし、さらにその子の華に永楽公主を娶らせ、その心を結び固め、悔い改めさせることを望んだ。しかし彼は朔野に生まれ、志性は凶逆であり、王人(朝廷の使者)が慰安するたびに、言葉が不遜であった。

原文承嗣不習教義,沉猜好勇,雖外受朝旨,而陰圖自固,重加稅率,修繕兵甲,計戶口之衆寡,而老弱事耕稼,丁壯從征役,故數年之間,其衆十萬。仍選其魁偉強力者萬人以自衛,謂之衙兵。郡邑官吏,皆自署置,戶版不籍於天府,稅賦不入於朝廷,雖曰藩臣,實無臣節。代宗以黎元久罹寇虐,姑務優容,累加檢校尚書僕射、太尉、同中書門下平章事,封鴈門郡王,賜實封千戶。及升魏州為大都督府,以承嗣為長史,仍以其子華尚永樂公主,冀以結固其心,庶其悛革;而生於朔野,志性兇逆,每王人慰安,言詞不遜。

大暦八年、相衛節度使薛嵩が卒去すると、その弟の崿が節度使の地位を求めようとした。李承昭を用いて嵩に代えようとすると、衙将の裴志清が謀乱を起こして崿を追い出し、崿は衆を率いて承嗣に帰属した。十年、薛崿が帰朝すると、承嗣は親党を遣わして相州の将吏を扇動し謀乱を起こさせ、兵を率いて襲撃し、救応すると偽称した。代宗は中使孫知古を魏州に遣わし宣慰させ、それぞれ封疆を守るよう命じた。承嗣は詔に奉じず、大将の盧子期を遣わして洺州を攻めさせ、楊光朝を遣わして衛州を攻めさせ、刺史の薛雄を殺害し、さらに知古を脅して磁・相二州を巡視させ、その大将に耳を切り面を傷つけさせ、承嗣を帥とするよう請願させたが、知古は詰問することができなかった。四月、詔を下して言う。

原文大曆八年,相衛節度使薛嵩卒,其弟崿欲邀旄節;及用李承昭代嵩,衙將裴志清謀亂逐崿,崿率衆歸於承嗣。十年,薛崿歸朝,承嗣使親黨扇惑相州將吏謀亂,遂將兵襲擊,謬稱救應。代宗遣中使孫知古使魏州宣慰,令各守封疆。承嗣不奉詔,遣大將盧子期攻洺州,楊光朝攻衛州,殺刺史薛雄,仍逼知古令巡磁、相二州,諷其大將割耳剺面,請承嗣為帥,知古不能詰。四月,詔曰:

田承嗣は行伍の間より出で、辺戍に名を記し、早くより戎秩に参じたが、効用は聞こえず、かつて凶渠を輔け、駆馳すること素より有り。再び河朔を平らげるに及び、轅門に帰命す。朝廷は遺黎を俯して念い、久しく兵革に罹るを慮る。禄山より禍を召し、瀛・博は流離し、思明、釁を継ぎ、趙・魏は堙厄す。以て農桑の井邑に至るまで、安住を得ず、骨肉の室家、相い保つ能わず。その凋瘵を念い、撫寧を用いんと思い、その先に款誠を布くを以て、之を理に寄す。是を以て旄鉞の任を委授し、方面の栄を仮し、爾の恩を知るを期し、自ら効うるを庶幾う。崇資茂賞、首めて朝倫に冠し、異姓の苴茅を列ね、上公の礼命に登す。子弟童稚、皆な台閣の華を聯ね、妻妾僕媵、並びに国邑の号を受く。人臣の寵、挙げて其の門に集まり、将相の権、兼ねて其の職を領す。夫れ宰相たる者は、忠を尽くす所以なり。而るに乃ち国家の封壌を拠り、国家の兵戈を仗し、国家の黎人を安んじ、国家の征賦を調う。資実を掩い有し、寵霊を憑み窃み、内に兇邪を包み、外に帰順を示す。且つ相・衛の略、管する所素より殊なり。而るに軍人を逼脅し、之をして翻潰せしむ。其の驚擾に因り、便ち軍師を進む。事跡暴に彰れ、姦邪見るべし。然らずんば、豈に志清の乱、曾て崇朝に未だならず、子期・光朝、明日に会せんや。足りて先ず成約有り、期を指して来たるを知る。是れ典刑を蔑棄し、擅に戈甲を興すを為す。既に相州騒擾と云い、隣境災を救うとす。旋って又た更に磁州を取り、重ねて威虐を行えり。此れ実に自ら矛盾し、終始を究めず。三州既に空しく、遠邇驚いて陷る。更に兵馬を移し、又た洺州に赴く。実に暴悪不仁を為し、窮極残忍なり。薛雄は乃ち衛州刺史、固より本藩に非ず。其の附せざるを忿り、横に凌虐を加え、一門尽く屠り、復た噍類に非ず。酷烈無状、人神の冤ずる所なり。又た四州の地、皆な屯営を列ね、長史属官、情に任せて補署す。精甲利刃、良馬勁兵、全実の資装、農蔵の積実、尽く魏府に収め、孑遺有ること罔し。其の為す所蓋し赦す無きに在り。討問を行い、正に其の刑書とせんと欲す。猶お含容を示し、其の善に遷るを冀い、典憲を抑え、務めて慰安に在らしむ。乃ち知古を遣わし遠く詔書を奉じ、深旨を以て諭し、乃ち承昭を命じ茲の麾下に副え、彼の旧封を撫せしむ。而るに承昭又た親将の劉渾を遣わし先ず詔命を伝えしむ。承嗣は磁・相に逡巡し、仍って知古を劫いて偕に行かしめ、先ず姪の悦に権めて軍吏を扇せしめ、至って刀を引いて自ら割らしめ、抑えて口を騰して相い稽らしめ、衆に当たり諠譁し、承嗣に帰るを請わしむ。其の姦状を論ずれば、以て憑と為すに足る。此れ而して容るべくんば、何をか罪と為さん。承嗣は宜しく永州刺史に貶すべく、仍って一幼男女の従行を許し、便路にて任に赴かしむべし。河東節度使薛兼訓・成徳軍節度使李宝臣・幽州節度留後朱滔・昭義節度李承昭・淄青節度李正己・淮西節度李忠臣・永平軍節度使李勉・汴宋節度田神玉等に委ね、掎角して進軍せしむ。もし承嗣時に職に就かずんば、所在に於いて討を加え、軍法に按じて処分せよ。

原文田承嗣出自行間,策名邊戍,早參戎秩,効用無聞,嘗輔兇渠,驅馳有素。洎再平河朔,歸命轅門。朝廷俯念遺黎,久罹兵革。自祿山召禍,瀛、博流離;思明繼釁,趙、魏堙厄;以至農桑井邑,靡獲安居,骨肉室家,不能相保。念其凋瘵,思用撫寧,以其先布款誠,寄之為理。所以委授旄鉞之任,假以方面之榮,期爾知恩,庶能自効。崇資茂賞,首冠朝倫,列異姓之苴茅,登上公之禮命。子弟童稚,皆聯臺閣之華;妻妾僕媵,並受國邑之號。人臣之寵,舉集其門;將相之權,兼領其職。夫宰相者,所以盡忠,而乃據國家之封壤,仗國家之兵戈,安國家之黎人,調國家之征賦。掩有資實,憑竊寵靈,內包兇邪,外示歸順。且相、衛之略,所管素殊,而逼脅軍人,使之翻潰。因其驚擾,便進軍師,事跡暴彰,姦邪可見。不然,豈志清之亂,曾未崇朝,子期、光朝,會于明日。足知先有成約,指期而來,是為蔑棄典刑,擅興戈甲。旣云相州騷擾,隣境救災,旋又更取磁州,重行威虐。此實自矛盾,不究始終。三州旣空,遠邇驚陷,更移兵馬,又赴洺州,實為暴惡不仁,窮極殘忍。薛雄乃衛州刺史,固非本藩,忿其不附,橫加凌虐,一門盡屠,非復噍類,酷烈無狀,人神所冤。又四州之地,皆列屯營,長史屬官,任情補署。精甲利刃,良馬勁兵,全實之資裝,農藏之積實,盡收魏府,罔有孑遺。其為蓋在無赦,欲行討問,正厥刑書。猶示含容,冀其遷善,抑於典憲,務在慰安。乃遣知古遠奉詔書,諭以深旨,乃命承昭副茲麾下,撫彼舊封。而承昭又遣親將劉渾先傳詔命。承嗣逡巡磁、相,仍劫知古偕行,先令姪悅權扇軍吏,至使引刀自割,抑令騰口相稽,當衆諠譁,請歸承嗣。論其姦狀,足以為憑,此而可容,何者為罪?承嗣宜貶永州刺史,仍許一幼男女從行,便路赴任。委河東節度使薛兼訓、成德軍節度使李寶臣、幽州節度留後朱滔、昭義節度李承昭、淄青節度李正己、淮西節度李忠臣、永平軍節度使李勉、汴宋節度田神玉等,掎角進軍。如承嗣不時就職,所在加討,按軍法處分。

詔が下ると、承嗣は恐れ、また麾下の大将も多く離反し、慌てふためいて方策を失い、牙将の郝光朝を遣わし表を奉じて罪を請い、束身して帰朝することを乞うた。代宗は師旅を労することを重んじ、特恩を以て詔を允し、姪の悦らも悉く旧官に復し、なお入覲せずともよいと詔した。

原文詔下,承嗣懼,而麾下大將,復多攜貳,倉黃失圖,乃遣牙將郝光朝奉表請罪,乞束身歸朝。代宗重勞師旅,特恩詔允,并姪悅等悉復舊官,仍詔不須入覲。

十一年、汴将の李霊曜が城を拠りて叛くと、詔して近鎮に兵を加えさせた。霊曜が魏に援けを求めたので、承嗣は田悦に命じて衆五千を率いて赴かせたが、馬燧・李忠臣に逆撃されて敗れ、悦は辛うじて免れ、兵士の死者は十の七、八に及び、再び詔してこれを誅するよう命じた。十二年、承嗣は再び上章して罪を請い、またこれを赦し、その官爵を復した。承嗣は貝・博・魏・衛・相・磁・洺等の七州を有し、再び七州節度使となり、ここにおいて承嗣の弟の廷琳及び従子の悦、承嗣の子の綰・緒らは皆な本官に復し、なお給事中の杜亞に宣諭させ、鉄券を賜った。十三年九月、卒去した。時に年七十五。子十一人有り。維・朝・華・繹・綸・綰・緒・絵・純・紳・縉等。維は魏州刺史、朝は神武将軍、華は太常少卿・駙馬都尉で、永楽公主を尚し、再び新都公主を尚した。余りの子は皆な幼かった。而して悦は軍中で勇が冠たり、承嗣はその才を愛し、将に卒せんとするに及び、悦に軍事を知らせ、諸子にこれを輔けさせた。

原文十一年,汴將李靈曜據城叛,詔近鎮加兵。靈曜求援於魏,承嗣令田悅率衆五千赴之,為馬燧、李忠臣逆擊敗之,悅僅而獲免,兵士死者十七八,復詔誅之。十二年,承嗣復上章請罪,又赦之,復其官爵。承嗣有貝、博、魏、衛、相、磁、洺等七州,復為七州節度使,於是承嗣弟廷琳及從子悅、承嗣子綰、緒等皆復本官,仍令給事中杜亞宣諭,賜鐵券。十三年九月,卒,時年七十五。有子十一人:維、朝、華、繹、綸、綰、緒、繪、純、紳、縉等。維為魏州刺史;朝,神武將軍;華,太常少卿、駙馬都尉,尚永樂公主,再尚新都公主;餘子皆幼。而悅勇冠軍中,承嗣愛其才,及將卒,命悅知軍事,而諸子佐之。

甥 悦

原文姪 悅

田悦は初め魏博中軍兵馬使・検校右散騎常侍さんきじょうじ・魏府左司馬を務めた。大暦十三年、田承嗣が卒すると、朝廷は田悦を節度留後に任じた。彼は驍ぎょう勇で膂力があり、性格は残忍で乱を好んだが、外には行義を飾り、財を傾けて施し散じ、人多くこれに附き、故に兵権を得た。まもなく検校工部尚書・御史大夫を拝し、魏博七州節度使を充てた。大暦の末、田悦はなお恭順であった。建中初め、黜陟使洪経綸が河北に至り、ちょうど田悦の軍七万を聞いた。経綸は平素より時機に暗く、先に符をもってその兵四万を停め、農畝に帰らせよと命じた。田悦は偽ってこれに順命し、即ち符に依ってこれを罷めたが、やがて罷められた将士を大いに集め、彼らを激怒させて言った、「汝らは久しく軍戎にあり、各々父母妻子がある。既に黜陟使に罷められた以上、どうして衣食を自ら賄えようか」。衆は遂に大いに哭した。田悦は乃ちことごとくその家の財帛衣服を出してこれを与え、各々にその部伍に還るよう命じた。これより魏博は田悦に感じて朝廷を怨むようになった。

原文悅初為魏博中軍兵馬使、檢校右散騎常侍、魏府左司馬。大曆十三年,承嗣卒,朝廷用悅為節度留後。驍勇有膂力,性殘忍好亂,而能外飾行義,傾財散施,人多附之,故得兵柄。尋拜檢校工部尚書、御史大夫,充魏博七州節度使。大曆末,悅尚恭順。建中初,黜陟使洪經綸至河北,方聞悅軍七萬。經綸素昧時機,先以符停其兵四萬,令歸農畝。悅偽亦順命,即依符罷之,旣而大集所罷將士,激怒之曰:「爾等久在軍戎,各有父母妻子,旣為黜陟使所罷,如何得衣食自資?」衆遂大哭。悅乃盡出其家財帛衣服以給之,各令還其部伍,自此魏博感悅而怨朝廷。

しばらくして、あるいは謬って車駕が東封しようとしていると称し、また李勉が汴州城を増広した。李正己はこれを聞いて猜懼し、兵一万を以て曹州に屯し、使者を遣わして田悦を説き、ともに命に拒むことを謀った。田悦は乃ち李正己・梁崇義らと謀り、各々兵を阻み、判官王侑・扈萼・許士則を腹心とし、邢曹俊・孟希祐・李長春・符璘・康愔を爪牙とした。建中二年、鎮州の李宝臣が卒し、子の李惟岳が節鉞の襲封を求めた。まもなく淄青の李正己が卒し、子の李納もまた節鉞を求めたが、朝廷は皆これを允さず、遂に李惟岳・李納とともに叛逆を謀った。時に朝廷は張孝忠らを遣わして恒州を討たせた。田悦は将孟希祐に兵五千を率いさせてこれを援けさせた。また将康愔に兵八千を率いさせて邢州を囲ませ、楊朝光に五千人を邯鄲西北の盧家砦に営させ、昭義の糧餉の路を絶たせた。田悦は自ら兵甲数万を将いて継いで進んだ。邢州刺史李洪・臨洺の将張伾は賊に攻められ、禦備将に竭きんとした。詔して河東節度使馬燧・河陽の李芃に昭義軍とともに田悦を討たせた。七月三日、師は壺関より東下し、賊の盧家砦を収め、双岡において賊を大破し、邢州の囲みは解け、田悦の衆は遁走し、洹水を保った。馬燧ら三帥は田悦軍より三十里を距てて壘を為した。李納は兵八千人を遣わして田悦を助けた。

原文居無何,或謬稱車駕將東封,而李勉增廣汴州城。李正己聞而猜懼,以兵萬人屯曹州,遣使說悅,同為拒命。悅乃與正己、梁崇義等謀各阻兵,以判官王侑、扈萼、許士則為腹心,邢曹俊、孟希祐、李長春、符璘、康愔為爪牙。建中二年,鎮州李寶臣卒,子惟岳求襲節鉞,俄而淄青李正己卒,子納亦求節鉞,朝廷皆不允,遂與惟岳、李納同謀叛逆。時朝廷遣張孝忠等討恒州,悅將孟希祐率兵五千援之。又遣將康愔率兵八千圍邢州,楊朝光五千人營於邯鄲西北盧家砦,絕昭義糧餉之路,悅自將兵甲數萬繼進。邢州刺史李洪、臨洺將張伾為賊所攻,禦備將竭,詔河東節度使馬燧、河陽李芃與昭義軍討悅。七月三日,師自壺關東下,收賊盧家砦,大破賊於雙岡,邢州解圍,悅衆遁走,保洹水。馬燧等三帥距悅軍三十里為壘,李納遣兵八千人助悅。

魏の将邢曹俊は、田承嗣の旧将で、老いて智多く、頗る兵法を知り、田悦は扈萼に昵していたため、曹俊を貝州刺史とした。田悦が官軍を臨洺に拒いで、大いに王師に破られた時、田悦は乃ち曹俊を召して計を問うた。曹俊は言った、「兵法に十倍すれば則ち攻めよとある。尚書は逆を以て順を犯し、勢い且つ侔わず。口に兵一万を置いて西師を遏むべし。然らば河北二十四州悉く尚書の有と為らん。今臨洺・武安に攻城の計を設け、糧竭き卒尽き、危凶立至る。未だ其の可なるを見ざるなり」。孟希祐らはその己に異なるを以て、咸く譖毀し、田悦は復た貝州を守らせた。

原文魏將邢曹俊者,承嗣之舊將,老而多智,頗知兵法,悅昵於扈萼,以曹俊為貝州刺史。及悅拒官軍於臨洺,大為王師所破,悅乃召曹俊而問計焉,曹俊曰:「兵法十倍則攻,尚書以逆犯順,勢且不侔。宜於口置兵萬人以遏西師,則河北二十四州悉為尚書有矣。今於臨洺、武安設攻城之計,糧竭卒盡,危凶立至,未見其可也。」祐等以其異己,咸譖毀,悅復令守貝州。

田悦は淄青兵三万余人とともに洹水に陣し、馬燧ら三帥と神策将李晟らが来攻した。田悦の衆は復た敗れ、死傷二万に計った。田悦は残卒を収合して魏州に奔り、南郭外に至ると、大将李長春が関を拒んで内に入れず、官軍を俟った。三帥は進んだが、魏州南平邑の浮図に頓兵し、咸く遅留して進まず、李長春は乃ち門を開いてこれを内に入れた。田悦は佩刀を持って軍門に立ち、軍士百姓に謂って言った、「悦は伯父の余業を藉り、久しく卿らと同事す。今既に敗喪相継ぎ、全きを図ることを敢えず。然れども悦の天誅を堅く拒ぐ所以は、ただ淄青・恒冀の二大人在日の時、悦のために先朝に保薦し、方に承襲を得しむるに在り。今二帥云亡し、子弟襲封を求む。悦は既に報効すること能わず、以て師を興すに至る。今軍旅敗亡し、士民塗炭す。此れ皆悦が罪なり。母親の故を以て、自ら剄する能わず。公らは当に悦の首を斬りて功勲を取るべし。俱に死する無かれ」。乃ち自ら馬より地に投じた。衆皆これを憐れんだ。或る者は前に進み田悦を撫持して言った、「久しく公の恩を蒙り、此れを聞くに忍びず。今士民の衆、猶一戦すべし。生死を以て之に従わん」。田悦は涕を収めて言った、「諸公、悦の喪敗を以てせず、猶同心を願う。悦縦え身死すとも、寧んぞ厚意を地下に忘れんや」。田悦は乃ち自ら一つの髻を割き、以て要誓と為した。ここに於いて将士自ら其の髻を断ち、兄弟と結び、誓って生死を同じくした。其の将符璘・李再春・李瑤、田悦の従兄田昂は、相次いで郡邑を以て国に帰した。符璘らの家で魏州に在る者は、少長無く悉く田悦に害せられた。田悦は城内の兵仗罄乏し、士衆減衰するを観て、甚だ惶駭し、乃ち復た邢曹俊を召して之と謀った。既に至ると、徒旅を完整し、営壁を繕修し、人心復た堅くなった。旬余日を経て、馬燧らは城下に進んだ。向使燧ら勝に乗じて長駆し、其の未だ備えざるを襲わば、則ち魏城屠られること久しからん。識者は之を痛惜す。

原文悅與淄青兵三萬餘人陣於洹水,馬燧等三帥與神策將李晟等來攻,悅之衆復敗,死傷二萬計。悅收合殘卒奔魏州,至南郭外,大將李長春拒關不內,以俟官軍。三帥雖進,頓兵於魏州南平邑浮圖,咸遲留不進,長春乃開門內之。悅持佩刀立於軍門,謂軍士百姓曰:「悅藉伯父餘業,久與卿等同事,今旣敗喪相繼,不敢圖全。然悅所以堅拒天誅者,特以淄青、恒冀二大人在日,為悅保薦於先朝,方獲承襲。今二帥云亡,子弟求襲,悅旣不能報効,以至興師。今軍旅敗亡,士民塗炭,此皆悅之罪也。以母親之故,不能自剄,公等當斬悅首以取功勳,無為俱死也!」乃自馬投地,衆皆憐之。或前撫持悅曰「久蒙公恩,不忍聞此!今士民之衆,猶可一戰,生死以之。」悅收涕言曰:「諸公不以悅喪敗,猶願同心,悅縱身死,寧忘厚意於地下乎!」悅乃自割一髻,以為要誓,於是將士自斷其髻,結為兄弟,誓同生死。其將符璘、李再春、李瑤、悅從兄昂,相次以郡邑歸國。璘等家在魏州者,無少長悉為悅所害。悅觀城內兵仗罄乏,士衆衰減,甚為惶駭,乃復召邢曹俊與之謀。旣至,完整徒旅,繕修營壁,人心復堅。經旬餘日,馬燧等進至城下。向使燧等乗勝長驅,襲其未備,則魏城屠之久矣,識者痛惜之。

時に王武俊が李惟岳を殺し、朱滔が深州を攻めてこれを下した。朝廷は武俊を恒州刺史とし、又李宝臣の故将康日知を深趙二州観察使とした。ここにおいて武俊は賞功が康日知の下にあることを怨み、朱滔は深州を得られざるを怨み、二将は朝廷に憾み有り。田悦は其の間隙を乗ずべきを知り、判官王侑・許士則を北軍に使わし、朱滔を説いて言った、「昨者司徒しと詔を奉じて征伐し、径ちに賊境に趨き、旬朔の内に束鹿を抜き深州を下し、李惟岳勢蹙え、故に王大夫兇渠を殄ぶることを獲たり。皆司徒の勝勢に因るなり。又聞く、司徒幽州を離るる日、詔有りて李惟岳の郡県を得て、本鎮に隷せしむと。今深州を割きて康日知に与うるは、是れ国家天下に信無きなり。且つ今上英武独断、秦皇・漢武の才あり、豪傑を誅夷し、河朔を掃除せんと欲し、子孫に嗣襲せしめず。又朝臣功を立て事を立つる者、劉晏の輩の如きは、皆屠滅せらる。昨梁崇義を破り、三百余口を殺し、之を漢江に投ず。此れ司徒の明知する所なり。馬燧・李抱真ら魏博を破る後、朝廷必ず儒徳大臣を以て之を鎮めん。然らば燕・趙の危きは翹ぎょう足して待つべし。若し魏博全からば、則ち燕・趙患無からん。田尚書必ず死を以て恩義に報ぜん。合従連衡し、災を救い患を卹うは、春秋の義なり。春秋の時、諸侯危き有る者、桓公救う能わざれば則ち之を耻ず。今司徒声宇宙に振い、雄略世に命じ、隣の急を救うは、徒に義を立つのみに非ず、且つ利有り。尚書貝州を以て司徒に奉じ、某をして孔目を送らしむ。惟れ司徒熟計せよ」。朱滔は既に国に貳心あり、欣然として之に従い、乃ち判官王郢に許士則とともに恒州に往き王武俊を説かせ、仍た武俊に深州を還すことを許した。武俊は大いに喜び、即ち判官王巨源をして朱滔に報ぜしめ、仍た深州の事を知らしめた。武俊は又張孝忠を説き同しく田悦を援けんとせしめたが、孝忠は従わず、後患を恐れ、乃ち小校鄭〓を遣わして北境に壘を築き、以て孝忠を拒がしめ、仍た其の子王士真を恒・冀・深三州留後とし、兵を以て趙州を囲ませた。

原文會王武俊殺李惟岳,朱滔攻深州下之,朝廷以武俊為恒州刺史,又以寶臣故將康日知為深趙二州觀察使。是以武俊怨賞功在日知下,朱滔怨不得深州,二將有憾於朝廷。悅知其可間,遣判官王侑、許士則使於北軍,說朱滔曰:「昨者司徒奉詔征伐,徑趨賊境,旬朔之內,拔束鹿,下深州,惟岳勢蹙,故王大夫獲殄兇渠,皆因司徒勝勢。又聞司徒離幽州日,有詔得惟岳郡縣,使隷本鎮,今割深州與日知,是國家無信於天下也。且今上英武獨斷,有秦皇、漢武之才,誅夷豪傑,欲掃除河朔,不令子孫嗣襲。又朝臣立功立事如劉晏輩,皆被屠滅;昨破梁崇義,殺三百餘口,投之漢江,此司徒之所明知也。如馬燧、抱真等破魏博後,朝廷必以儒德大臣以鎮之,則燕、趙之危可翹足而待也。若魏博全,則燕、趙無患,田尚書必以死報恩義。合從連衡,救災卹患,春秋之義也。春秋時諸侯有危者,桓公不能救則耻之。今司徒聲振宇宙,雄略命世,救隣之急,非徒立義,且有利也。尚書以貝州奉司徒,命某送孔目,惟司徒熟計之。」滔旣有貳於國,欣然從之,乃命判官王郢與許士則同往恒州說王武俊,仍許還武俊深州。武俊大喜,即令判官王巨源報滔,仍知深州事。武俊又說張孝忠同援悅,孝忠不從,恐為後患,乃遣小校鄭〓築壘於北境,以拒孝忠;仍令其子士真為恒、冀、深三州留後,以兵圍趙州。

三年五月、田悦は救援軍が到着せんとするのを以て、その衆を率いて御河の上に出て戦い、大いに敗れて還った。四月、朱滔・王武俊は寧晋県に軍を蒐め、合わせて歩騎四万を集めた。五月十四日、軍を起こして南下し、宗城に駐屯した。朱滔の判官鄭雲逵及び弟の方逵は朱滔に背き、馬燧に帰順した。六月二十八日、朱滔・王武俊の軍は魏州に至り、神策軍の将李懐光の軍もまた到着した。李懐光の鋭気は抑え難く、堅く賊と戦わんと欲し、遂に直ちに朱滔の陣に迫り、千余人を殺した。王武俊は騎将の趙琳・趙万敵等と二千騎を以て横より李懐光の陣を撃ち、朱滔の軍は踵を継いで進み、禁軍は大いに敗れ、人は互いに踏み躙り合い、屍を河に投じて三十里に及び、河水はこの為に流れざるに至った。馬燧等は軍を収めて塁を保った。この夜、王武俊は河水を決して王莽の故河に引き入れ、官軍を隔たんと欲し、水は既に三尺の深さとなり、糧餉の路は絶えた。王師は計略の出づる所なく、乃ち人を遣わして朱滔に告げて曰く、「鄙夫は軽率にも自ら量らず、諸人と合戦した。王大夫は戦に善く、天下に敵無し。司徒五郎(朱滔)は王君とこれを図り、老夫を帰鎮せしめよ。必ず聞奏して、河北の事を五郎に委ねん」と。時に王武俊は戦勝し、朱滔は心にこれを忌み、即ち曰く、「大夫二兄(王武俊)は官軍を破り、馬司徒はかくの如く卑屈である。人を険地に迫るは宜しからず」と。王武俊は曰く、「馬燧等は兵十万を連ね、皆これ国の名臣である。一戦にして敗北し、国の恥を遺す。この等が何の面目を以て天子に見えんとするか知らぬ。然れども我は放ち還すを惜しまぬ。ただ五十里を行かざれば、必ず反って相拒まん」と。馬燧等は魏県に至り、軍を河西に置き、王武俊等三将は河東に壁し、両軍相対峙し、七月より十月に至るまで、勝負未だ決せず。

原文三年五月,悅以救軍將至,率其衆出戰於御河之上,大敗而還。四月,朱滔、武俊蒐軍於寧晉縣,共步騎四萬。五月十四日,起軍南下,次宗城,滔判官鄭雲逵及弟方逵背滔歸馬燧。六月二十八日,滔、武俊之師至魏州,會神策將李懷光軍亦至。懷光銳氣不可遏,堅欲與賊戰,遂徑薄朱滔陣,殺千餘人。王武俊與騎將趙琳、趙萬敵等二千騎橫擊懷光陣,滔軍繼踵而進,禁軍大敗,人相蹈藉,投屍於河三十里,河水為之不流。馬燧等收軍保壘。是夜,王武俊決河水入王莽故河,欲隔官軍,水已深三尺,糧餉路絕。王師計無從出,乃遣人告朱滔曰:「鄙夫輒不自量,與諸人合戰。王大夫善戰,天下無敵,司徒五郎與王君圖之,放老夫歸鎮,必得聞奏,以河北之事委五郎。」時武俊戰勝,滔心忌之,即曰:「大夫二兄敗官軍,馬司徒卑屈若此,不宜迫人於險也。」武俊曰:「燧等連兵十萬,皆是國之名臣,一戰而北,貽國之耻,不知此等何面見天子耶!然吾不惜放還,但不行五十里,必反相拒。」燧等至魏縣,軍於河西,武俊等三將壁於河東,兩軍相持,自七月至十月,勝負未決。

田悦は朱滔の救助に感じ、これを推して盟主とせんと欲した。朱滔の判官李子牟・王武俊の判官鄭儒等が議して曰く、「古に戦国の連衡、誓約を以て秦に抗する有り。請う、周末七雄の故事に依り、並びに国号を建てて諸侯と為し、国家の正朔を用いよ。今年号は改むべからず」と。ここにおいて朱滔は冀王と称し、田悦は魏王と称し、王武俊は趙王と称し、又李納を請うて斉王と称せしめた。十一月一日、壇を魏県中に築き、天に告げてこれを受けた。朱滔は盟主と為り、孤と称し、王武俊・田悦・李納は寡人と称した。朱滔は幽州を范陽府とし、恒州を真定府とし、魏州を大名府とし、鄆州を東平府とし、皆長子を以て元帥と為した。偽冊の日、その軍の上に雲物稍々異なり、馬燧等は望み見て笑って曰く、「この雲は無知なり、乃ち賊の瑞と為る」と。又その営地の前、三年土長じて三尺余り高し。魏州の戸曹韋稔は土長の頌を作りて曰く、「益土の兆なり」と。

原文悅感朱滔救助,欲推為盟主。滔判官李子牟、武俊判官鄭儒等議曰:「古有戰國連衡誓約以抗秦,請依周末七雄故事,並建國號為諸侯,用國家正朔,今年號不可改也。」於是朱滔稱冀王,悅稱魏王,武俊稱趙王,又請李納稱齊王。十一月一日,築壇於魏縣中,告天受之。滔為盟主,稱孤;武俊、悅、納稱寡人。滔以幽州為范陽府,恒州為真定府,魏州為大名府,鄆州為東平府,皆以長子為元帥。偽冊之日,其軍上有雲物稍異,馬燧等望而笑曰:「此雲無知,乃為賊瑞。」又其營地前三年土長高三尺餘,魏州戶曹韋稔為土長頌曰:「益土之兆也。」

四年十月、涇原の兵が宮闕を犯し、諸帥各々本鎮に還った。田悦・朱滔・王武俊は互いに疑惑し、各々王号を去り、使者を遣わして国に帰し、田悦もまた書を李抱真に致し、使者を遣わして聞奏した。興元元年正月、田悦に検校尚書右僕射を加え、済陽王に封じ、使職並びに元の如くならしめ、仍って給事中・兼御史大夫孔巣父を魏州に遣わして宣慰せしめた。時に田悦は兵を擁して四年、身は驍猛なりと雖も、性剛愎にして謀無く、以て故に頻りに破敗を致し、士衆の死者十に七八に及んだ。魏人は兵革に苦しみ、肩を息わんことを願い、孔巣父の至るを聞き、舞い忭ばざる者無し。田悦方に孔巣父を宴するに、その従弟田緒に殺された。

原文四年十月,涇師犯闕,諸帥各還本鎮。悅、滔、武俊互相疑惑,各去王號,遣使歸國,悅亦致書於抱真,遣使聞奏。興元元年正月,加悅檢校尚書右僕射,封濟陽王,使並如故,仍令給事中、兼御史大夫孔巢父往魏州宣慰。時悅阻兵四年,身雖驍猛,而性愎無謀,以故頻致破敗,士衆死者十七八。魏人苦於兵革,願息肩焉,聞巢父至,莫不舞忭。悅方宴巢父,為其從弟緒所殺。

子 田緒

原文子 緒

田緒は、田承嗣の第六子である。大暦末、京兆府参軍を授けられた。田承嗣が卒した時、田緒は年齢幼少であった。田承嗣は諸子が軍政を任せられぬことを慮り、従子の田悦は弓馬に便で、性狡黠なるを以て、故にこれを任用待遇し、代わって帥守たらしめた。田緒の年長ずるに及び、田悦は田承嗣の委遇の厚きを以て、田緒等を待つに隔て無く、衙軍を主どらしめた。田緒は兇険にして過ち多く、田悦は忍びず、嘗て笞打ってこれを拘禁した。田緒は頗る怨望し、常に隙を伺った。興元元年、朝廷が田悦を赦し、仍って孔巣父を遣わして宣慰せしめるに会う。田悦は既に命に順い、門階の警備を撤した。田悦が孔巣父を宴して夜帰るに、田緒は左右数十人を率いて先ず田悦の腹心蔡済・扈萼・許士則等を殺し、剣を挺てて入った。その両弟がこれを止め、田緒は止む者を斬り、遂に直ちに堂に昇った。田悦は方に大いに酔い、田緒は手ずから田悦及び田悦の妻高氏を刃にかけ、又別院に入って田悦の母馬氏を殺した。河北の諸盗が骨肉を残害する中、田緒より酷きは無し。田緒は衆の附かざるを懼れ、北門より奔り出た。邢曹俊・孟希祐等が徒数百を領いてこれを追い及び、遥かに呼びて曰く「節度使は郎君を以てこれに当たらしむべし。他人は固より不可なり」と。乃ち田緒を以て衙に帰し、留後に推した。明日、扈萼に罪を帰し、その首を以て示衆し、然る後に孔巣父に稟し、使者を遣わして以て聞かせた。時に田緒の兄田綸は長として居たが、乱兵に殺され、遂に田緒を以て留後とした。朝廷は田緒に銀青光禄大夫・魏州大都督府長史・兼御史大夫・魏博節度使を授けた。時に朱滔は兵を率い、兼ねて回紇の衆を引きいて南侵し、田緒は兵を遣わして王武俊・李抱真を助け、朱滔を経城において大破し、功を以て検校工部尚書を授けられた。貞元元年、嘉誠公主を以て田緒に降嫁し、駙馬都尉を加えた。尋いで検校左僕射に遷り、常山郡王に封じられ、食邑三千戸を賜う。鴈門郡王に改封され、食実封五百戸を賜う。尋いで同平章事を加えられた。

原文緒,承嗣第六子。大曆末,授京兆府參軍。承嗣卒時,緒年幼稚。承嗣慮諸子不任軍政,以從子悅便弓馬,性狡黠,故任遇之,俾代為帥守。及緒年長,悅以承嗣委遇之厚,待緒等無間,令主衙軍。緒兇險多過,悅不忍,嘗笞而拘之,緒頗怨望,常俟釁隟。會興元元年,朝廷宥悅,仍令孔巢父往宣慰。悅旣順命,門階徹警。悅宴巢父夜歸,緒率左右數十人先殺悅腹心蔡濟、扈萼、許士則等,挺劒而入。其兩弟止之,緒斬止者,遂徑升堂。悅方沉醉,緒手刃悅并悅妻高氏,又入別院殺悅母馬氏。自河北諸盜殘害骨肉,無酷於緒者。緒懼衆不附,奔出北門,邢曹俊、孟希祐等領徒數百追及之,遙呼之曰「節度使須郎君為之,他人固不可也。」乃以緒歸衙,推為留後。明日,歸罪於扈萼,以其首徇,然後稟於孔巢父,遣使以聞。時緒兄綸居長,為亂兵所殺,遂以緒為留後。朝廷授緒銀青光祿大夫、魏州大都督府長史、兼御史大夫、魏博節度使。時朱滔率兵兼引迴紇之衆南侵,緒遣兵助王武俊、李抱真,大破朱滔于經城,以功授檢校工部尚書。貞元元年,以嘉誠公主出降緒,加駙馬都尉。尋遷檢校左僕射,封常山郡王,食邑三千戶。改封鴈門郡王,食實封五百戶。尋加同平章事。

初め、田悦は性倹嗇にして、衣服飲食皆節度有り。而して田緒等兄弟は、心常に足らざる有り。田緒は既に志を得て、頗る豪侈に縦し、酒色度無し。貞元十二年四月、暴卒す。時に年三十三。司空しくうを贈られ、賻賚を加等す。子三人:季和・季直・季安。季和は澶州刺史と為り、季直は衙将と為り、季安は最も幼く、嫡嗣と為る。

原文初,田悅性儉嗇,衣服飲食,皆有節度,而緒等兄弟,心常不足。緒旣得志,頗縱豪侈,酒色無度。貞元十二年四月,暴卒,時年三十三,贈司空,賻賚加等。子三人:季和、季直、季安。季和為澶州刺史;季直為衙將;季安最幼,為嫡嗣。

孫 田季安

原文孫 季安

季安は字を夔という。母は微賤なり。嘉誠公主はこれを蓄えて己が子と為し、故に諸兄より寵異された。年数歳にして左衛冑曹参そうしん軍を授かり、著作佐郎・兼侍御史に改め、魏博節度副大使を充す。累加して試光禄少卿・兼御史大夫に至る。田緒が卒した時、季安の年僅か十五、軍人が推して留後と為し、朝廷は因りて起復左金吾衛将軍を授け、兼魏州大都督府長史・魏博節度営田観察処置等使を兼ねしめた。服闋して、銀青光禄大夫・検校尚書右僕射を拝し、進んで位は検校司空に至り、鴈門郡王を襲封した。未だ幾ばくもなく、金紫光禄大夫を加えられ、本官を以て同中書門下平章事と為る。

原文季安字夔。母微賤,嘉誠公主蓄為己子,故寵異諸兄。年數歲,授左衛冑曹參軍,改著作佐郎、兼侍御史,充魏博節度副大使;累加至試光祿少卿、兼御史大夫。緒卒時,季安年纔十五,軍人推為留後,朝廷因授起復左金吾衛將軍,兼魏州大都督府長史、魏博節度營田觀察處置等使。服闋,拜銀青光祿大夫、檢校尚書右僕射,進位檢校司空,襲封鴈門郡王。未幾,加金紫光祿大夫,以本官同中書門下平章事。

季安は幼くして父業を守り、嘉誠公主の厳しきを懼れ、他に才能無きと雖も、亦粗く礼法を修めた。及んで公主薨じ、遂に頗る自ら恣にし、撃鞠・従禽の色の娛に耽った。その軍中の政務は、大抵情意に任せて徇い、賓僚将校の言は皆従わず。公主の喪を免じ、検校司徒を加えられる。元和年中、王承宗が擅に戎帥を襲い、憲宗は吐突承璀を招撫使と命じ、諸軍を会して進討せしむ。季安もまた大将を遣わして兵を率いて会に赴かしめ、仍って自ら糧餉を供した。師還りて、太子太保を加えられる。

原文季安幼守父業,懼嘉誠之嚴,雖無他才能,亦粗修禮法;及公主薨,遂頗自恣,擊鞠、從禽色之娛。其軍中政務,大抵任徇情意,賔僚將校,言皆不從。免公主喪,加檢校司徒。元和中,王承宗擅襲戎帥,憲宗命吐突承璀為招撫使,會諸軍進討。季安亦遣大將率兵赴會,仍自供糧餉。師還,加太子太保。

季安は性忍酷にして、畏懼する所無し。進士丘絳という者有り、嘗て田緒の従事と為り、季安が帥と為るに及び、丘絳は同職の侯臧と協せず、相い持して権を争う。季安怒り、丘絳を斥けて下県尉と為し、人をして召し還らしめ、先ず路左に坎を掘り、既に坎の所に至り、生きたまま押し込めて埋めた。その兇暴此の如し。元和七年卒す。時に年三十二。太尉を贈られる。子に懐諫・懐礼・懐詢・懐讓有り。

原文季安性忍酷,無所畏懼。有進士丘絳者,嘗為田緒從事,及季安為帥,絳與同職侯臧不恊,相持爭權。季安怒,斥絳為下縣尉,使人召還,先掘坎於路左,旣至坎所,活排而瘞之,其兇暴如此。元和七年卒,時年三十二,贈太尉。子懷諫、懷禮、懷詢、懷讓。

懷諫の母は、元誼の女である。季安が卒すると、元氏は諸将を召して懷諫を立てようとし、衆は皆唯々と従った。懷諫は幼く、事を統御することができず、軍政の大小事は全て私白身の蔣士則の決断に委ねられ、しばしば愛憎によって将校を更迭した。衙軍は怒り、前臨清鎮将の田興を留後として迎え、懷諫を邸に帰し、蔣士則ら十余人を殺した。田興は季安の葬儀を終えると、懷諫を京師に送り、そこで起復して右監門衛将軍を授け、邸宅一区を賜り、秣米の給与は甚だ厚かった。田氏は承嗣が魏州を占拠してから懷諫に至るまで、四代四十九年にわたって相伝襲したが、田興が代わったのである。

原文懷諫母,元誼女。及季安卒,元氏召諸將欲立懷諫,衆皆唯唯。懷諫幼,未能御事,軍政無巨細皆取決於私白身蔣士則,數以愛憎移易將校。衙軍怒,取前臨清鎮將田興為留後,遣懷諫歸第,殺蔣士則等十餘人。田興葬季安畢,送懷諫於京師,乃起復授右監門衛將軍,賜第一區,芻米甚厚。田氏自承嗣據魏州至懷諫,四世相傳襲四十九年,而田興代焉。

田弘正

原文田弘正

田弘正は、本名を興という。祖父の延惲は、魏博節度使承嗣の季父であり、官位は安東都護府司馬に終わった。延惲は廷玠を生んだ。廷玠は幼い頃から儒雅を重んじ、軍職を好まず、初め平舒丞に起家し、楽寿・清池・束城・河間の四県令に遷り、赴任する所々で良吏と称された。大曆年中、累官して太府卿・滄州別駕に至り、滄州刺史・兼御史中丞に遷り、横海軍使を充てた。承嗣は淄青の李正己・恒州の李宝臣と不協であり、承嗣は既に廷玠に滄州を守らせていたが、宝臣と朱滔が連兵して攻撃し、その領土を併せようとした。廷玠は城を守って固く防ぎ、連年敵の攻撃を受け、兵は尽き食糧は枯渇し、人は子を交換して食らう有様であったが、ついに叛く者はなく、遂に城守を全うした。朝廷はこれを嘉し、洺州刺史に遷し、また相州に改めた。薛崿の乱に属し、承嗣は薛嵩の管轄部を蚕食したが、廷玠は正を守り民を治め、宗族の関係を理由に回避して節を改めなかった。建中初め、族の甥の悦が承嗣に代わって軍政を領すると、凶逆を図る志があり、廷玠が従わないことを慮り、節度副使に召した。悦の奸謀が頗る露わになると、廷玠は悦に言った、「汝は伯父の遺業を藉りて、朝廷の法度を守り、富貴を坐して享くるべきである。何ぞ苦しんで恒・鄆と共に叛臣たらんとするか。兵乱以来、国家に謀叛する者は歴数できるが、宗族を保ち全うする者は稀である。汝がもし狂志を悔い改めぬなら、先ず我を殺せ。我に田氏の赤族を見せしめるな」と。そこで病と称して出仕しなかった。悦はその邸を訪れて謝ったが、廷玠は門を閉ざして受け入れず、将吏が受け入れるよう請うた。建中三年、鬱憤して卒した。

原文田弘正,本名興。祖延惲,魏博節度使承嗣之季父也,位終安東都護府司馬。延惲生廷玠,幼敦儒雅,不樂軍職,起家為平舒丞,遷樂壽、清池、束城、河間四縣令,所至以良吏稱。大曆中,累官至太府卿、滄州別駕,遷滄州刺史、兼御史中丞,充橫海軍使。承嗣與淄青李正己、恒州李寶臣不恊,承嗣旣令廷玠守滄州,而寶臣、朱滔聯兵攻擊,欲兼其土宇。廷玠嬰城固守,連年受敵,兵盡食竭,人易子而食,卒無叛者,卒能保全城守。朝廷嘉之,遷洺州刺史,又改相州。屬薛崿之亂,承嗣蠶食薛嵩所部;廷玠守正字民,不以宗門回避而改節。建中初,族姪悅代承嗣領軍政,志圖兇逆,慮廷玠不從,召為節度副使。悅姦謀頗露,廷玠謂悅曰:「爾藉伯父遺業,可稟守朝廷法度,坐享富貴,何苦與恒、鄆同為叛臣?自兵亂已來,謀叛國家者,可以歷數,鮮有保完宗族者。爾若狂志不悛,可先殺我,無令我見田氏之赤族也。」乃謝病不出。悅過其第而謝之,廷玠杜門不納,將吏請納。建中三年,鬱憤而卒。

弘正は、廷玠の第二子である。若い頃から儒書を学び、兵法に頗る通じ、騎射に優れ、勇気があり礼儀正しく、伯父の承嗣に愛重された。季安の世に当たり、衙内兵馬使となった。季安は奢侈に務めるのみで軍務を顧みず、しばしば殺罰を行ったが、弘正は常に従容として諫め、軍中は甚だ彼を頼りにした。季安は人心が帰附するのを見て、臨清鎮将に出し、その過失を捜して害そうとした。弘正は風痺を仮託して告暇を請い、灸灼で全身を満たし、季安は彼が無能であると思った。季安が病篤くなると、その子懷諫は幼く愚かであったので、弘正を召して旧職に任じた。

原文弘正,廷玠之第二子。少習儒書,頗通兵法,善騎射,勇而有禮,伯父承嗣愛重之。當季安之世,為衙內兵馬使。季安惟務侈靡,不卹軍務,屢行殺罰,弘正每從容規諷,軍中甚賴之。季安以人情歸附,乃出為臨清鎮將,欲捃摭其過害之。弘正假以風痺請告,灸灼滿身,季安謂其無能為。及季安病篤,其子懷諫幼騃,乃召弘正署其舊職。

季安が卒すると、懷諫は家僮の蔣士則に軍政の改易を委ねたが、人情は喜ばず、皆が言うには、「都知兵馬使田興が我が帥となるべきである」と。衙兵数千人が興の私邸に詣でて陳請したが、興は門を閉ざして出ず、衆は呼噪して止まなかった。興が出ると、衆は取り囲んで拝礼し、府署に入るよう請うた。興は地に頓仆し、久しくして、遂に免れられぬと悟り、軍中に令して言った、「三軍が興の不肖を以てせず、軍務を主たるべしとし、諸軍と前に約束したい。命に従うか」と。皆が言うには、「命に従うのみ」と。興は言った、「我は天子の法を守り、六州の版籍を以て官吏を請い、副大使を犯さず、よろしいか」と。皆が言うには、「諾」と。この日、府に入り事を視、蔣士則ら十数人を殺したのみであった。夕方に府から邸に帰ると、その兄の融が興を責めて言った、「汝はついに自ら晦ますことができず、禍を取る道である」と。翌日、事を詳らかに上聞すると、憲宗はこれを嘉し、興に銀青光禄大夫・検校工部尚書・魏州大都督府長史・兼御史大夫・上柱国・沂国公を加え、魏・博等州節度観察処置支度営田等使を充て、なお名を弘正と賜った。なお中書舎人裴度を使者として魏州に遣わし宣慰させ、魏博三軍に賞銭一百五十万貫を賜った。

原文季安卒,懷諫委家僮蔣士則改易軍政,人情不悅,咸曰:「都知兵馬使田興可為吾帥也。」衙兵數千詣興私第陳請,興拒關不出,衆呼噪不已。興出,衆環而拜,請入府署。興頓仆於地,久之,度終不免,乃令於軍中曰:「三軍不以興不肖,令主軍務,欲與諸軍前約,當聽命否?」咸曰:「惟命是從。」興曰:「吾欲守天子法,以六州版籍請吏,勿犯副大使,可乎?」皆曰:「諾。」是日,入府視事,殺蔣士則十數人而已。晚自府歸第,其兄融責興曰:「爾卒不能自晦,取禍之道也。」翌日,具事上聞,憲宗嘉之,加興銀青光祿大夫、檢校工部尚書、魏州大都督府長史、兼御史大夫、上柱國、沂國公,充魏、博等州節度觀察處置支度營田等使,仍賜名弘正。仍令中書舍人裴度使魏州宣慰,賜魏博三軍賞錢一百五十萬貫。

弘正は節鉞を受けると、上表して言った、「臣は聞く、君臣父子はこれ大倫と謂い、紀綱を立てて上下を正すと。もし子が子とならず、臣が臣とならば、天地も容れることができず、幽明共に殛すべきである。臣の家は辺塞に本づき、累代唐人であり、乃祖乃父以来、文子文孫の化に浴してきた。臣は幸いに宗族により、早く偏裨に列し、戎馬の郷を駆馳し、朝廷の礼を見ず。ただ忠と孝は、天が臣の心に与え、常に奮いて生を顧みず、身を以て国に殉ぜんと思い、上達する由なく、私自ら感傷する。豈に命が昌時に偶し、事が難故に縁るとは思わんや。白刃の下、謬りに推崇を見る。天慈が遽かに臨み、罪累を書するを免れ、朝章が薦く及び、なお旂旄を委ねる。全藩に封壌を錫し、八座に班栄を列す。君父の恩は已に極まり、絲毫の効は未だ伸びず、ただ靦冒して羞を知り、低徊して自ら愧ずる。是れ功栄の著す所は、必ず危乱の時を俟ち、徼幸の来るは、却って清平の日に在るを知る。涯を循り分を揣み、寵を以て憂いと為す。伏して天宝已還より、幽陵乱を肇き、山東の奥壌、悉く戎墟と化す。外は車馬を撫し、内は梟獍を懐き、官封は代襲し、刑賞は自ら専らにす。国家は垢を含み瑕を匿し、垂くこと六十載。臣は毎に此の事を思うに、食に当たりて餐を忘る。若し稍々天年を仮し、宸算を奉ずるを得ば、弱きを兼ね昧きを攻め、亢を批ち虚を擣ち、鷹犬の資を竭くし、禽を獲るの用を展し、和気を導揚し、偽風を洗滌し、然る後に退きて田園に帰り、賢路を避けん。臣は此の志を懐く、陛下之を察せよ」と。優詔を以て褒美した。

原文弘正旣受節鉞,上表曰:「臣聞君臣父子,是謂大倫,爰立紀綱,以正上下。其或子不為子,臣不為臣,覆載莫可得容,幽明所宜共殛。臣家本邊塞,累代唐人,從乃祖乃父以來,沐文子文孫之化。臣幸因宗族,早列偏裨,驅馳戎馬之鄉,不睹朝廷之禮。惟忠與孝,天與臣心,常思奮不顧生,以身殉國,無由上達,私自感傷。豈意命偶昌時,事緣難故,白刃之下,謬見推崇。天慈遽臨,免書罪累,朝章荐及,仍委旂旄。錫封壤於全藩,列班榮於八座,君父之恩已極,絲毫之効未伸,但以靦冒知羞,低徊自愧。是知功榮所著,必俟危亂之時;徼幸之來,却在清平之日。循涯揣分,以寵為憂。伏自天寶已還,幽陵肇亂,山東奧壤,悉化戎墟。外撫車馬,內懷梟獍,官封代襲,刑賞自專,國家含垢匿瑕,垂六十載。臣每思此事,當食忘餐。若稍假天年,得奉宸算,兼弱攻昧,批亢擣虛,竭鷹犬之資,展獲禽之用,導揚和氣,洗滌偽風,然後退歸田園,以避賢路。臣懷此志,陛下察之。」優詔襃美。

弘正は前代の忠孝立功の事を聞くことを好み、府舎に書楼を建て、書万余巻を集め、事を視る隙に、賓佐と古今の言行の可否を講論した。今、河朔に沂公史例十巻があるが、弘正の客が弘正のために著したものである。魏州は承嗣以来、館宇服玩に常制を踰えるものがあれば、悉く撤毀を命じ、正庁は大いに侈り過ぎて居らず、採訪使庁に於いて事を視た。賓僚参佐は朝廷に請うた。頗る儒書を好み、特に史氏に通じ、左伝・国史、その大略を知った。

原文弘正樂聞前代忠孝立功之事,於府舍起書樓,聚書萬餘卷,視事之隟,與賔佐講論古今言行可否。今河朔有沂公史例十卷,弘正客為弘正所著也。魏州自承嗣已來,館宇服玩有踰常制者,悉命徹毀之,以正廳大侈不居,乃視事于採訪使廳。賔僚參佐,請之於朝。頗好儒書,尤通史氏,左傳、國史,知其大略。

弘正が帰国して以来、幽・恒・鄆・蔡は唇亡びて歯寒しの惧れがあり、屡々客を遣わして間説し、多方に誘阻したが、弘正は終始その操を移さなかった。裴度は理体に明るく、詞説雄弁であり、弘正はその言を聴き、終夕倦まず、遂に深く結納し、これにより上に奉ずる意は愈々謹んだ。元和十年、朝廷は兵を用いて呉元済を討つと、弘正は子の布に兵三千を率いさせ進討させ、屡戦して功があった。李師道は弘正が忠を効するのを見、またその背後を襲うことを恐れ、元済を顕に助けることができず、故にその掎角の援を絶ち、王師は討伐を致すを得た。俄かに王承宗が叛くと、詔して弘正に全師を以て境を圧させた。承宗は懼れ、使いを遣わして弘正に救いを求め、弘正はその事を表上したので、承宗は遂に二子を納れ、徳・棣二州を献じて自らを解いた。

原文自弘正歸國,幽、恒、鄆、蔡有齒寒之懼,屢遣客間說,多方誘阻,而弘正終始不移其操。裴度明理體,詞說雄辯,弘正聽其言,終夕不倦,遂深相結納,由是奉上之意逾謹。元和十年,朝廷用兵討吳元濟,弘正遣子布率兵三千進討,屢戰有功。李師道以弘正効忠,又襲其後,不敢顯助元濟,故絕其掎角之援,王師得致討焉。俄而王承宗叛,詔弘正以全師壓境,承宗懼,遣使求救於弘正,遂表其事,承宗遂納二子,獻德、棣二州以自解。

十三年、王師が鄆に兵を加えると、詔により弘正は宣武・義成・武寧・横海など五鎮の軍と会合し、共に進んだ。十一月、弘正は自ら全軍を率いて楊劉より黄河を渡り、鄆より四十里の地に堡塁を築いた。師道は大将劉悟に重兵を率いさせて弘正に対抗させ、堡塁を構えて相望んだ。前後合戦し、魏軍は大勝し、李愬・李光顔が三面より進攻したため、賊は皆敗れ、その勢い危うからんとした。十四年三月、劉悟は河上の衆を率いて倒戈し鄆に入り、師道の首を斬り、弘正のもとに赴いて降伏を請うた。淄青十二州が平定され、功績により弘正は検校司徒・同中書門下平章事を加えられた。この年八月、弘正は入朝し、憲宗は格別の待遇をもってこれに接し、麟徳殿で対面し、参佐将校二百余人に皆賜物があり、弘正はさらに検校司徒・兼侍中に進み、実封三百戸を賜った。またその兄の検校刑部尚書・相州刺史田融を太子賓客・東都留司とした。弘正は三度上表し、朝廷に留まることを願ったが、憲宗はこれを労って言うには、「先ごろ韓弘が朝廷に至り、病と称して軍務を辞することを懇願したので、朕は従わざるを得なかった。今卿また留まることを請う、その志は誠に尊ぶべきである。しかし魏の民は卿の政治を喜び、隣境は卿の威を服している。我が長城たるべく、辞することはならぬ。速やかに帰藩せよ。」弘正は常に一朝の憂いを恐れ、世襲の風を改めようとし、兄弟子姪を悉く朝廷に出仕させた。憲宗は皆これらを班列に抜擢し、朱紫(高官の服色)が庭に満ち、当時これを栄誉とした。

原文十三年,王師加兵於鄆,詔弘正與宣武、義成、武寧、橫海等五鎮之師會軍齊進。十一月,弘正自帥全師自楊劉渡河築壘,距鄆四十里。師道遣大將劉悟率重兵以抗弘正,結壘相望。前後合戰,魏軍大捷,而李愬、李光顏三面進攻,賊皆挫敗,其勢將危。十四年三月,劉悟以河上之衆倒戈入鄆,斬師道首,詣弘正請降。淄青十二州平,論功加檢校司徒、同中書門下平章事。是年八月,弘正入覲,憲宗待之隆異,對於麟德殿,參佐將校二百餘人皆有頒錫,進加檢校司徒、兼侍中,實封三百戶。仍以其兄檢校刑部尚書、相州刺史融為太子賔客,東都留司。弘正三上章,願留闕下,憲宗勞之曰:「昨韓弘至朝,稱疾懇辭戎務,朕不得不從。今卿復請留,意誠可尚,然魏土樂卿之政,隣境服卿之威,為我長城,不可辭也。可亟歸藩。」弘正每懼有一旦之憂,嗣襲之風不革,兄弟子姪,悉仕於朝,憲宗皆擢居班列,朱紫盈庭,當時榮之。

十五年十月、鎮州の王承宗が卒すると、穆宗は弘正を検校司徒・兼中書令・鎮州大都督府長史とし、成徳軍節度使・鎮冀深趙観察等使を充てた。弘正は新たに鎮人と戦い、父兄の怨みがあるため、魏兵二千を衛従とした。十一月二十六日、鎮州に至った。時に鎮州三軍に賜った賞銭百万貫が、時を過ぎても届かず、軍衆が喧騰してこれを言い立てた。弘正は自ら慰撫し説得して、人情やや安んじ、なお表を奉って魏兵を留めて紀綱の僕とし、衆心を保持することを請い、その糧賜は有司より給することを求めた。時に度支使崔倰が大體を知らず、固くその請いを阻み、凡そ四度上表したが返答がなかった。明年七月、魏州に帰った兵卒が、その月二十八日夜に軍乱を起こし、弘正並びに家屬・参佐・将吏等三百余口が共に害に遇った。穆宗はこれを聞いて震悼し、冊贈して太尉とし、賵賻を加等した。弘正は孝友慈恵にして、骨肉の恩情甚だ厚かった。兄弟子姪で両都にいる者は数十人、競って華美な飾りをし、一日の費用は約二十万、魏・鎮州の財貨は、皆道を連ねて運ばれた。河北の将卒は心にこれを平らげず、故にその俗を尽く変えることができず、ついにこれによって乱を招いた。弘正の子は布・群・牟である。

原文十五年十月,鎮州王承宗卒,穆宗以弘正檢校司徒、兼中書令、鎮州大都督府長史,充成德軍節度、鎮冀深趙觀察等使。弘正以新與鎮人戰伐,有父兄之怨,乃以魏兵二千為衛從。十一月二十六日,至鎮州,時賜鎮州三軍賞錢一百萬貫,不時至,軍衆諠騰以為言。弘正親自撫喻,人情稍安,仍表請留魏兵為紀綱之僕,以持衆心,其糧賜請給於有司。時度支使崔倰不知大體,固阻其請,凡四上表不報。明年七月,歸卒於魏州,是月二十八日夜軍亂,弘正并家屬、參佐、將吏等三百餘口並遇害,穆宗聞之震悼,冊贈太尉,賵賻加等。弘正孝友慈惠,骨肉之恩甚厚。兄弟子姪在兩都者數十人,競為崇飾,日費約二十萬,魏、鎮州之財,皆輦屬於道。河北將卒心不平之,故不能盡變其俗,竟以此致亂。弘正子布、群、牟。

子 布

原文子 布

布は弘正の第三子である。初め、弘正が田季安の裨将として臨清に鎮した時、布は年尚幼く、季安の身の上に必ず危険があることを知り、密かにその父に、自らが鎮する衆を率いて朝廷に帰順するよう進言したので、弘正はこれを大いに奇とした。弘正が魏博を節制するに及んで、布は親兵を掌り、国家が淮西・蔡州を討つ時、布は偏師を率いて厳綬に隷し、唐州に軍し、検校秘書監・兼殿中侍御史を授けられた。前後十八戦し、凌雲柵を破り、郾城を下すのに、布は皆功があり、御史中丞に抜擢された。時に裴度が宣撫使となり、嘗て沱口で兵を閲した時、賊将董重質が驍騎を率いて急に至った。布は二百騎を率いて溝中より突出してこれを撃ち、間もなく諸軍が大いに集まり、賊は退去した。淮西が平定され、左金吾衛将軍・兼御史大夫に拝された。十三年、母の喪に服し、起復して旧官に就いた。十五年冬、弘正が成徳軍に移鎮すると、布を河陽三城懐節度使とし、父子共に節旄を擁し、同日に拝命した。時に韓弘もまた子の公武と共に節度使となったが、人は忠勤多きを以て田氏を称した。

原文布,弘正第三子。始,弘正為田季安裨將,鎮臨清,布年尚幼,知季安身世必危,密白其父帥其所鎮之衆歸朝,弘正甚奇之。及弘正節制魏博,布掌親兵,國家討淮、蔡,布率偏師隷嚴綬,軍於唐州,授檢校秘書監、兼殿中侍御史。前後十八戰,破凌雲柵,下郾城,布皆有功,擢授御史中丞。時裴度為宣撫使,嘗觀兵於沱口,賊將董重質領驍騎遽至,布以二百騎突出溝中擊之,俄而諸軍大集,賊乃退去。淮西平,拜左金吾衛將軍、兼御史大夫。十三年,丁母憂,起復舊官。十五年冬,弘正移鎮成德軍,仍以布為河陽三城懷節度使,父子俱擁節旄,同日拜命。時韓弘亦與子公武俱為節度使,然人以忠勤多田氏。

長慶元年春、涇原に移鎮した。その秋、鎮州で軍乱が起こり、弘正が害され、都知兵馬使王廷湊が留後となった。時に魏博節度使李愬は病んで軍を統べることができず、廷湊の乱を防ぐ術がなく、また魏軍は田氏の旧旅であるから、急ぎ布を召し出し、起復して魏博節度使とし、なお検校工部尚書に遷し、布に伝車に乗って鎮に赴くことを命じた。布は喪服を着て堊室に居り、旌節導従の飾りを去った。魏州に入ると、喪中に事を治め、動き全て礼に適った。その禄俸月入百万、一も取らず、また魏中の旧産を籍没し、巨細を問わず計十余万貫に及ぶ銭を、皆出して軍士に頒った。牙将史憲誠は己の麾下より出で、必ず誠を尽くして報効するであろうと考え、先鋒兵馬使に用い、精鋭を悉くこれに委ねた。時に度々急詔があり、進軍を促した。十月、布は魏軍三万七千を以てこれを討ち、南宮県の南に堡塁を結んだ。十二月、進軍し、賊の二柵を下した。時に朱克融が張弘靖を囚え、幽州を拠り、廷湊と掎角して命に抗した。河朔三鎮は、平素より連衡しており、憲誠は密かに異志を抱いていた。而して魏軍は驕侈で、格戦を怯み、また雪寒に属し、糧餉が給せず、これによってますます闘志がなく、憲誠はこれに従って間を入れた。間もなく詔があり、布の軍を分けて李光顔と合勢させ、東進して深州を救わせたが、その衆は自潰し、多くは憲誠の所有するところとなり、布が得た衆は八千であった。この月十日、魏州に還った。十一日、諸将と会して再び師を興すことを議したが、将卒はますます傲慢になり、皆言うには、「尚書が河朔の旧事を行えるならば、死生を以てこれに従う。もし再び戦わせようとするならば、皆できない。」布は憲誠の離間により、衆が終に用いられぬと悟り、嘆いて言うには、「功成らず!」即日、密かに表を奉って軍情を陳べ、且つ遺表と称し、おおよそ次のように言った。「臣が衆意を観るに、終に国恩に背くであろう。臣は既に功なく、敢えて死を忘れない。伏して願わくは陛下速やかに光顔・元翼を救わんことを。然らずんば、則ち義士忠臣、皆河朔に屠害されん。」表を奉り号哭し、その従事李石に拝して授け、乃ち入って父の霊前に啓し、刀を抽いて自ら刺し、言うには、「上は以て君父に謝し、下は以て三軍に示す。」言い終わって絶命した。時に議する者は、布の才は足りずといえども、死を以て家国に謝することを能くし、心志決烈、燕・趙の古風を得たりと評した。

原文長慶元年春,移鎮涇原。其秋,鎮州軍亂,害弘正,都知兵馬使王廷湊為留後。時魏博節度使李愬病不能軍,無以捍廷湊之亂,且以魏軍田氏舊旅,乃急詔布至,起復為魏博節度使,仍遷檢校工部尚書,令布乗傳之鎮。布喪服居堊室,去旌節導從之飾;及入魏州,居喪御事,動皆得禮。其祿俸月入百萬,一無所取,又籍魏中舊產,無巨細計錢十餘萬貫,皆出之以頒軍士。牙將史憲誠出己麾下,謂必能輸誠報効,用為先鋒兵馬使,精銳悉委之。時屢有急詔促令進軍。十月,布以魏軍三萬七千討之,結壘於南宮縣之南。十二月,進軍,下賊二柵。時朱克融囚張弘靖,據幽州,與廷湊掎角拒命。河朔三鎮,素相連衡,憲誠陰有異志。而魏軍驕侈,怯於格戰,又屬雪寒,糧餉不給,以此愈無鬬志,憲誠從而間之。俄有詔分布軍與李光顏合勢,東救深州,其衆自潰,多為憲誠所有,布得其衆八千。是月十日,還魏州。十一日,會諸將復議興師,而將卒益倨,咸曰:「尚書能行河朔舊事,則死生以之;若使復戰,皆不能也。」布以憲誠離間,度衆終不為用,嘆曰:「功無成矣!」即日,密表陳軍情,且稱遺表,略曰:「臣觀衆意,終負國恩,臣旣無功,不敢忘死。伏願陛下速救光顏、元翼,不然,則義士忠臣,皆為河朔屠害。」奉表號哭,拜授其從事李石,乃入啟父靈,抽刀自刺,曰:「上以謝君父,下以示三軍。」言訖而絕。時議以布才雖不足,能以死謝家國,心志決烈,得燕、趙之古風焉。

穆宗はこれを聞いて驚き嘆き、三日間朝を廃し、詔して言うには、

原文穆宗聞之駭嘆,廢朝三日,詔曰:

故魏博節度使・起復寧遠将軍・検校工部尚書・兼魏州大都督府長史・御史大夫・賜紫金魚袋田布、朕は寡昧を以て万邦に臨御すれども、威刑は干紀の徒を禁ずる能わず、道化は多僻の俗を馴ずる能わず、致すところ上公禍に罹り、田氏冤を銜む。爰に旅を整えて徂征せしむるも、毎に食を終えて浩嘆し、茲より弔伐して、驟に寒暄を歴る。良将鋭師と雖も、率皆力を恊う。然れども時を俟ち釁を観て、未だ即ち齊驅せず。嗟ぶ我が誠臣、其の哀憤を結び、遷延の咎を引きて以て自ら刻責し、決烈の志を奮い起こして以て君親に謝す。白刃を肝心に置き、鴻毛を以て其の生死を論ず、忠臣孝子、一挙にして両全す。晋は卞氏の門を称し、漢は尸郷の節を表す、布に比方すれば、今古隣と為る。況んや其の命に臨む須臾、之を処するに撓まず、章表に形を載せ、益々衷悃深し。問使発緘し、悼心疾首す。先臣に従うこと厚載に於いて、爾は則ち愧ずること無し。遺像を麟閣に睹る、予は何をか堪えん。端拱して名を崇め、職は彝典に垂る。斯に拠りて以て報い、聊かに永懷を攄く。尚書右僕射を贈るべし。

原文故魏博節度使、起復寧遠將軍、檢校工部尚書、兼魏州大都督府長史、御史大夫、賜紫金魚袋田布,朕以寡昧,臨御萬邦,威刑不能禁干紀之徒,道化不能馴多僻之俗,致使上公罹禍,田氏銜冤。爰整旅以徂征,每終食而浩嘆,自茲弔伐,驟歷寒暄。雖良將銳師,率皆恊力;而俟時觀釁,未即齊驅。嗟我誠臣,結其哀憤,引遷延之咎以自刻責,奮決烈之志以謝君親。白刃置於肝心,鴻毛論其生死,忠臣孝子,一舉兩全。晉稱卞氏之門,漢表尸鄉之節,比方於布,今古為隣。況其臨命須臾,處之不撓,載形章表,益深衷悃。問使發緘,悼心疾首。從先臣於厚載,爾則無愧;睹遺像於麟閣,予何所堪。端拱崇名,職垂彝典,據斯以報,聊攄永懷。可贈尚書右僕射。

布の子の在宥は、大中年間に安南都護となり、頗る辺功を立てた。

原文布子在宥,大中年為安南都護,頗立邊功。

子 群

原文子 群

群は、大和八年に少府少監となり、入吐蕃使を充てられ、棣州刺史・安南都護を歴任した。

原文群,大和八年為少府少監,充入吐蕃使,歷棣州刺史、安南都護。

子に牟あり。

原文子 牟

牟は、会昌初年に豊州刺史・天徳軍使となり、武寧軍節度使を歴任し、大中朝に兗海節度使となり、天平軍に移鎮した。諸子は皆、辺境で功を立て、累次藩鎮を歴任し、忠義をもって談論する者に称せられた。

原文牟,會昌初為豐州刺史、天德軍使,歷武寧軍節度使,大中朝為兗海節度使,移鎮天平軍。諸子皆以邊上立功,累更藩鎮,以忠義為談者所稱。

張孝忠

原文張孝忠

張孝忠は、もと奚の種類である。曾祖は靖、祖は遜、代々乙失活部落の酋帥であった。父の謐は、開元中に衆を率いて帰国し、鴻臚卿同正を授けられ、孝忠の貴顕により、戸部尚書を追贈された。孝忠は勇をもって燕・趙に聞こえた。時に張阿労・王没諾干と号し、二人は斉名した。阿労は孝忠の本字、没諾干は王武俊の本字である。孝忠は形体魁偉、長さ六尺余、性は寛裕、親に事えて恭孝であった。天宝末、善射をもって内供奉を授けられた。安禄山が奏して偏将とし、九姓突厥を破り、先登陷陣し、功により果毅折衝を授けられた。禄山・史思明が相次いで河洛を陥落させると、孝忠は皆その前鋒となった。史朝義が敗れると、李宝臣の帳下に入った。上元中、奏して左領軍郎将を授けられ、累次左金吾衛将軍同正・試殿中監を加えられ、なお名を孝忠と賜り、飛狐・高陽二軍使を歴任した。李宝臣は孝忠の謹重驍勇なるを以て、甚だ委信し、妻の妹昧谷氏を娶らせ、なお易州諸鎮の兵馬を悉く統制せしめた。前後城鎮に居すること十余年、威恵甚だ著しかった。

原文張孝忠,本奚之種類。曾祖靖、祖遜,代乙失活部落酋帥。父謐,開元中以衆歸國,授鴻臚卿同正,以孝忠貴,贈戶部尚書。孝忠以勇聞於燕、趙。時號張阿勞、王沒諾干,二人齊名。阿勞,孝忠本字;沒諾干,王武俊本字。孝忠形體魁偉,長六尺餘,性寬裕,事親恭孝。天寶末,以善射授內供奉。安祿山奏為偏將,破九姓突厥,先登陷陣,以功授果毅折衝。祿山、史思明繼陷河洛,孝忠皆為其前鋒。史朝義敗,入李寶臣帳下。上元中,奏授左領軍郎將,累加左金吾衛將軍同正、試殿中監,仍賜名孝忠,歷飛狐、高陽二軍使。李寶臣以孝忠謹重驍勇,甚委信之,以妻妹昧谷氏妻焉,仍悉以易州諸鎮兵馬令其統制。前後居城鎮十餘年,甚著威惠。

田承嗣が冀州を寇したとき、宝臣は孝忠に精騎数千を以てこれを防がせた。承嗣はその整粛なるを見て、嘆じて曰く「張阿労在り、冀州は未だ図り易からず」と。乃ち営を焚きて宵遁した。宝臣が朱滔と瓦橋で戦うに及び、常に滔の来攻を慮り、故に孝忠を易州刺史とし、精騎七千を選んで配し、幽州を捍がしめた。奏して太子賓客・兼御史中丞を授け、范陽郡王に封ぜられた。既にして宝臣は大将を疑忌し、李献誠ら四五人を殺し、孝忠を召喚せしめたが、孝忠は懼れて行かなかった。宝臣は孝忠の弟孝節をして召させた。孝忠は孝節に命じて復命せしめて曰く「諸将無状、連頸して戮せられんとす。孝忠は死を懼れて敢えて往かず、亦敢えて叛かず。猶お公の朝に覲せざるが如く、禍を慮るのみ。他に志無し」と。孝節泣いて曰く「兄行かずんば、吾帰りて死せん」と。孝忠曰く「偕に往かば則ち命を并へいせん。吾留まれば患無し」と。乃ち帰り、果たして患無かりき。

原文田承嗣之寇冀州也,寶臣俾孝忠以精騎數千禦之。承嗣見其整肅,歎曰:「張阿勞在焉,冀州未易圖也。」乃焚營宵遁。及寶臣與朱滔戰於瓦橋,常慮滔來攻,故以孝忠為易州刺史,選精騎七千配焉,使扞幽州。奏授太子賔客、兼御史中丞,封范陽郡王。旣而寶臣疑忌大將,殺李獻誠等四五人,使召孝忠,孝忠懼不往。寶臣使孝忠弟孝節召焉,孝忠命孝節復命曰:「諸將無狀,連頸受戮,孝忠懼死不敢往,亦不敢叛,猶公之不覲於朝,慮禍而已,無他志也。」孝節泣曰:「兄不行,吾歸死矣。」孝忠曰:「偕往則并命,吾留無患也。」乃歸,果無患。

間もなく、宝臣死す。その子惟岳は兵を阻みて命を受けず、朝廷は幽州節度使に詔してこれを討たしめた。滔は孝忠が宿将にして善戦し、精兵八千を易州に有するを以て、軍興すれば則ちその後を撓すを慮り、乃ち判官蔡雄をして孝忠を説かしめて曰く「惟岳は小子驕貴、人事に達せず、輒て朝命を拒む。滔は命を奉じて罪を伐つ。使君何ぞ逆を助け、自ら多福を求めざるや。今、昭義・河東は田悦を攻破し、淮西李僕射は襄陽を収め下し、梁崇義は井に投じて卒し、漢江に臨みて誅せらるる者五千人、即ち河南の軍は日を計りて北首す。趙・魏の滅亡見るべし。使君誠に能く逆を去り順に効せば、必ず重任を受け、先に帰国するの功有らん」と。孝忠これを然りとし、乃ち衙官を遣わして雄に随い滔に報ぜしめ、又易州録事参軍董稹を遣わして朝に入らしめた。徳宗これを嘉し、孝忠に検校工部尚書・恒州刺史・兼御史大夫を授け、成徳軍節度使を充て、便ち滔と合兵して惟岳を攻めしめ、なお実封二百戸を賜うた。その弟孝義及び孝忠の三女、既に適人して恒州に在る者は、悉く惟岳に害せられた。孝忠は甚だ滔の保薦を徳とし、その子茂和を以て滔の女に聘し、契約甚だ密なり。遂に合兵して惟岳の師を束鹿に破り、惟岳は遁れて恒州に帰った。滔は乗勝してこれを襲わんことを請うたが、孝忠はなお軍を率いて西北し、義豊に還って営した。滔は大いに駭いた。孝忠の将佐曰く「尚書は赤心を朱司徒に布き、相信至りたり。今、逆寇已に潰る。その功を終えざるは、窃かに未だ諭せざる所なり」と。孝忠曰く「本、賊を破らんことを求む。賊は已に破れたり。然れども恒州の宿将尚お多し。これを迫れば則ち困獣猶お闘い、これを緩めば必ず翻然として図を改めん。又、朱滔は言大にして識浅し。始めを慮るに可く、成りを守るに難し。吾が義豊に壁すは、坐して惟岳の殄滅を待つのみ」と。既にして朱滔は束鹿に屯し、敢えて進軍せず。月余りして、王武俊果たして惟岳の首を斬りて献じ、孝忠の料る所の如し。後に定州刺史楊政義が州を降す。孝忠は遂に易・定の地を有した。時に既に惟岳を誅し、四州を分ちて各々観察使を置く。武俊は恒州を得、康日知は深・趙二州を得、孝忠は易州を得た。成徳軍の額は恒州に在り、孝忠は既に政義を降したので、朝廷は乃ち定州に義武軍を置き、孝忠を検校兵部尚書とし、義武軍節度・易定滄等州観察等使とした。

原文無幾,寶臣死,其子惟岳阻兵不受命,朝廷詔幽州節度使討之。滔以孝忠宿將善戰,有精兵八千在易州,慮軍興則撓其後,乃使判官蔡雄說孝忠曰:「惟岳小子驕貴,不達人事,輒拒朝命。滔奉命伐罪,使君何用助逆,不自求多福耶!今昭義、河東攻破田悅,淮西李僕射收下襄陽,梁崇義投井而卒,臨漢江而誅者五千人,即河南軍計日北首,趙、魏滅亡可見也。使君誠能去逆効順,必受重任,有先歸國之功矣。」孝忠然之,乃遣衙官隨雄報滔,又遣易州錄事參軍董稹入朝。德宗嘉之,授孝忠檢校工部尚書、恒州刺史、兼御史大夫,充成德軍節度使,便令與滔合兵攻惟岳,仍賜實封二百戶。其弟孝義及孝忠三女已適人在恒州者,悉為惟岳所害。孝忠甚德滔之保薦,以其子茂和聘滔之女,契約甚密,遂合兵破惟岳之師於束鹿,惟岳遁歸恒州。滔請乗勝襲之,孝忠仍引軍西北,還營義豐,滔大駭。孝忠將佐曰:「尚書布赤心於朱司徒,相信至矣。今逆寇已潰,不終其功,竊所未喻。」孝忠曰:「本求破賊,賊已破矣。然恒州宿將尚多,迫之則困獸猶鬬,緩之必翻然改圖。又朱滔言大識淺,可以慮始,難與守成。吾壁義豐,坐待惟岳之殄滅耳。」旣而朱滔屯束鹿,不敢進軍。月餘,王武俊果斬惟岳首以獻,如孝忠所料。後定州刺史楊政義以州降,孝忠遂有易、定之地。時旣誅惟岳,分四州各置觀察使,武俊得恒州,康日知得深、趙二州,孝忠得易州。以成德軍額在恒州,孝忠旣降政義,朝廷乃於定州置義武軍,以孝忠檢校兵部尚書,為義武軍節度、易定滄等州觀察等使。

朱滔・王武俊が謀叛し、将に田悦を魏州に救わんとするに及び、孝忠が後を踵くを慮り、滔の軍将に発せんとするに、復た蔡雄を遣わして往きてこれを説かしめた。孝忠曰く「李惟岳は国に背き逆を作す。孝忠は国に帰り、今は忠臣たり。孝忠は性直にして、業已に忠を効す。復た逆を助けじ。往時武俊と同行せしが、且つ孝忠と武俊は倶に蕃部より出で、少長相狎れ、その心僻にして能く翻覆するを深く知る。司徒に語れ、鄙言を記すべし。忽ち蹉跌有らば、始めて相憶せん」と。滔は又金帛を以て啗わんとしたが、終に拒んで従わず。易定は二兇の間に居し、四面敵を受けたが、孝忠は溝壘を修峻し、将士を感励して、竟に二兇の熒惑を受けず、議者多くこれを称した。又検校左僕射を加えられ、実封三百戸に至った。後に孝忠は朱滔に侵逼せられ、詔して神策兵馬使李晟・中官竇文場に師を率いてこれを援げしめた。孝忠は女を晟の子憑に妻せしめ、晟と戮力同心し、士衆を整訓して、竟に易定を全うし、賊は敢えて深入せず。上、奉天に幸するに及び、大将楊栄国に鋭卒六百を提げて晟に従い関に入り難に赴かしめ、京城を収めしに、栄国功有り。

原文及朱滔、王武俊謀叛,將救田悅於魏州,慮孝忠踵後,滔軍將發,復遣蔡雄往說之。孝忠曰:「李惟岳背國作逆,孝忠歸國,今為忠臣。孝忠性直,業已効忠,不復助逆矣。往與武俊同行,且孝忠與武俊俱出蕃部,少長相狎,深知其心僻,能翻覆,語司徒,當記鄙言,忽有蹉跌,始相憶也!」滔又啗以金帛,終拒而不從。易定居二兇之間,四面受敵,孝忠修峻溝壘,感勵將士,竟不受二兇之熒惑,議者多之。又加檢校左僕射,實封至三百戶。後孝忠為朱滔侵逼,詔神策兵馬使李晟、中官竇文場率師援之。孝忠以女妻晟子憑,與晟戮力同心,整訓士衆,竟全易定,賊不敢深入。及上幸奉天,令大將楊榮國提銳卒六百從晟入關赴難,收京城,榮國有功。

興元元年正月、詔して本官を以て同平章事とす。滄州は本、成徳軍に隷す。既に義武に移隷するに及び、その刺史李固烈なる者は、惟岳の妻兄なり。恒州に還らんことを請う。この歳、孝忠は牙将程華を遣わして滄州に往き府蔵を交検せしむ。固烈は輜車数十乗を以て上路す。滄州の軍士呼んで曰く「士皆菜色たり。刺史は賑卹を垂れず、乃ち稛載して帰る。官物は得べからず」と。固烈を殺してこれを剽す。程華乱を聞き、竇より遁る。将士これを追いて謂いて曰く「固烈貪暴、已にこれを誅す。押牙且く州務を知れ」と。孝忠は即ち摂刺史事を令す。朱滔・王武俊が偽国を称するに及び、華と孝忠は阻絶し、相い援むる能わず。華は城を嬰して賊を拒ぎ、一州全うするを得たり。朝廷これを嘉し、乃ち華を滄州刺史・御史中丞に拝し、横海軍使を充て、なお名を日華と改め、毎歳滄州の税銭十二万貫を以て義武軍に供せしむ。

原文興元元年正月,詔以本官同平章事。滄州本隷成德軍,旣移隷義武,其刺史李固烈者,惟岳妻兄也,請還恒州。是歲,孝忠遣牙將程華往滄州交檢府藏。固烈輜車數十乗上路,滄州軍士呼曰:「士皆菜色,刺史不垂賑卹,乃稛載而歸,官物不可得也!」殺固烈而剽之。程華聞亂,由竇而遁,將士追之,謂曰:「固烈貪暴,已誅之矣,押牙且知州務。」孝忠即令攝刺史事。及朱滔、王武俊稱偽國,華與孝忠阻絕,不能相援。華嬰城拒賊,一州獲全,朝廷嘉之,乃拜華滄州刺史、御史中丞,充橫海軍使,仍改名日華,令每歲以滄州稅錢十二萬貫供義武軍。

貞元二年、河北に蝗害と旱魃があり、米一斗が一千五百文となり、また大兵の後にて、民に蓄積なく、餓死者が互いに枕と成る。孝忠の食する所は、豆の粥のみにして、その下の者皆粗末な飯を甘んじ、人皆その勤儉に服し、孝忠は一時の賢将なり。三年、検校司空を加え、仍てその子茂宗をして義章公主に尚ばしむ。孝忠はその妻鄧国夫人昧谷氏を遣わして朝に入らしめ、親迎の礼を執らしむ。上これを嘉し、賞賚厚し。五年七月、将佐に惑わされ、兵を以て蔚州に入る。尋で詔して鎮に帰らしめ、仍て擅に兵を興したるを以て検校司空を削る。七年三月卒す。時に年六十二。朝を廃すること三日。上谷郡王を追封し、太傅を贈り、再び魏州大都督を贈り、冊して太師を贈り、謚して貞武と曰う。子に茂昭・茂宗・茂和あり。

原文貞元二年,河北蝗旱,米斗一千五百文,復大兵之後,民無蓄積,餓殍相枕。孝忠所食,豆〓而已,其下皆甘粗糲,人皆服其勤儉,孝忠為一時之賢將也。三年,加檢校司空,仍以其子茂宗尚義章公主。孝忠遣其妻鄧國夫人昧谷氏入朝,執親迎之禮,上嘉之,賞賚隆厚。五年七月,為將佐所惑,以兵入蔚州;尋詔歸鎮,仍以擅興削檢校司空。七年三月卒,時年六十二,廢朝三日,追封上谷郡王,贈太傅,再贈魏州大都督,冊贈太師,謚曰貞武。子茂昭、茂宗、茂和。

子 茂昭

原文子 茂昭

茂昭は、本名は昇雲なり。幼より志気有り、儒書を好み、父の蔭により累官して検校工部尚書に至る。貞元七年、孝忠卒す。徳宗は邕王謜を以て義武軍節度大使・易定観察使と為し、昇雲を以て定州刺史と為し、起復して左金吾衛大将軍と為し、節度観察留後を充て、仍て名を茂昭と賜う。九年正月、節度使を授けられ、累遷して検校僕射・司空となる。二十年十月、朝に入り、累ねて河北及び西北辺の事を陳奏し、詞情忠切にして、徳宗聳聴し、嘆じて曰く、「卿を見るの晩きを恨む」と。麟徳殿にて錫宴し、良馬・甲第・器用・珍幣を賜うこと甚だ厚く、仍てその第三男克礼をして晋康郡主に尚ばしむ。徳宗方に辺任に委んと欲す。明年晏駕す。茂昭は太極殿にて入臨し、毎に朝晩列に預かり、声哀しく気咽び、人皆その忠懇を奨む。順宗聴政し、中書門下平章事を加え、且つ鎮に還らしめ、女楽二人を賜う。三表して辞譲し、中使犢車を押して第に至るに及び、茂昭立ちて中使に謂ひて曰く、「女楽は禁中より出づ、臣下の目視すべき所に非ず。昔、汾陽・咸寧・西平・北平嘗て此の賜を受け、譲らざるを宜しとす。茂昭は四賢の功無く、職を述べて入覲するは、人臣の常礼なり、奈何ぞ此の寵賜に当らん!後に立功の臣有らば、陛下何を以てか賞を加へん」と。順宗これを聞き、深く礼異を加へ、その譲る所を允す。又安仁里の第を錫ふも、亦固く譲りて受けず。元和二年、又入覲を請ふ。五上章して懇切なり。憲宗これを許す。冬十月、京師に至り、数ヶ月留まり、詔して鎮に帰らしむ。茂昭は闕下にて朝請を奉ぜんことを願ふも、許さず、太子太保を加へ、復た鎮に還らしむ。

原文茂昭,本名昇云。幼有志氣,好儒書,以父蔭累官至檢校工部尚書。貞元七年,孝忠卒,德宗以邕王謜為義武軍節度大使、易定觀察使;以昇雲為定州刺史,起復左金吾衛大將軍,充節度觀察留後,仍賜名茂昭。九年正月,授節度使,累遷檢校僕射、司空。二十年十月,入朝,累陳奏河北及西北邊事,詞情忠切,德宗聳聽,嘆曰:「恨見卿之晚!」錫宴於麟德殿,賜良馬、甲第、器用、珍幣甚厚,仍以其第三男克禮尚晉康郡主。德宗方欲委之以邊任,明年晏駕,茂昭入臨於太極殿,每朝晡預列,聲哀氣咽,人皆獎其忠懇。順宗聽政,加中書門下平章事,且令還鎮,賜女樂二人,三表辭讓,及中使押犢車至第,茂昭立謂中使曰:「女樂出自禁中,非臣下所宜目睹。昔汾陽、咸寧、西平、北平嘗受此賜,不讓為宜。茂昭無四賢之功,述職入覲,人臣常禮,奈何當此寵賜!後有立功之臣,陛下何以加賞?」順宗聞之,深加禮異,允其所讓。又錫安仁里第,亦固讓不受。元和二年,又請入覲,五上章懇切,憲宗許之。冬十月,至京師,留數月,詔令歸鎮。茂昭願奉朝請於闕下,不許,加太子太保,復令還鎮。

四年、王承宗叛く。詔して河東・河中・振武三鎮の師をして、義武軍と合し、恒州北道招討と為さしむ。茂昭は廩廄を創め、道路を開き、以て西軍を待つ。正月望夜に属し、軍吏請ひて曰く、「旧例、上元の前後三夜は、行人を止めず、里門を閉ざさず。今外道の軍戎方に集まれり。軍令の如くせんことを請ふ」と。茂昭曰く、「三鎮の兵馬は官軍なり、安んぞ外道と謂はんや!灯を放つこと一に常歳の如くすべし」と。長男克讓をして諸軍と分道並進せしむ。克讓は木刀溝を渡り、賊と接戦し屢勝つ。茂昭親ら甲冑を擐ぎ、諸軍の前鋒と為り、累ねて戎捷を献じ、幾くんか承宗を覆さんとす。会に朝廷承宗を洗雪するに及び、乃ち詔して師を班し、検校太尉を加へ、兼ねて太子太傅とす。

原文四年,王承宗叛,詔河東、河中、振武三鎮之師,合義武軍,為恒州北道招討。茂昭創廩廄,開道路,以待西軍。屬正月望夜,軍吏請曰:「舊例,上元前後三夜,不止行人,不閉里門;今外道軍戎方集,請如軍令。」茂昭曰:「三鎮兵馬,官軍也,安得言外道!放燈一如常歲。」使長男克讓與諸軍分道並進。克讓渡木刀溝,與賊接戰屢勝。茂昭親擐甲冑,為諸軍前鋒,累獻戎捷,幾覆承宗。會朝廷洗雪承宗,乃詔班師,加檢校太尉,兼太子太傅。

安史の乱より、両河の藩帥多く命に阻み自ら固くし、父死して子代はる。唯だ茂昭は表して挙族して朝に還らんことを請ひ、隣藩累ねて遊客を遣わして間説すれども、茂昭志意堅決にして、表を拝して代を求むること数四。上乃ち左庶子任迪簡を命じてその行軍司馬と為し、駅を乗りてこれに赴かしむ。両郡の簿書・管鑰・符印を以て迪簡に付し、その妻季氏・男克讓・克恭等を遣わして先ず路に就かしむ。将に行かんとし、これを誡めて曰く、「吾れ爾曹をして親に侍りて易を出ださしむるは、庶くは後の子孫風俗に染まらざらんことを。然らば則ち吾れ恨み無し」と。時に五年の冬なり。行きて晋州に及び、検校太尉・兼中書令を拝し、河中晋絳慈隰等州節度観察等使を充つ。十二月十二日、京師に至る。故事、双日に坐せず。是の日特に延英殿を開きて茂昭に対し、五刻にして乃ち罷む。又表を上して祖考の骨墓を京兆に遷さんことを請ふ。朝に在ること両月、未だ之を鎮せず。六年二月、疽首に発し、卒す。時に年五十。朝を廃すること五日。冊して太師を贈り、賻として絹三千匹・布一千端・米粟三千石を賜ひ、喪事の須ふ所は官に給し、詔して京兆尹に監護せしめ、謚して献武と曰う。

原文自安、史之亂,兩河藩帥多阻命自固,父死子代;唯茂昭表請舉族還朝,隣藩累遣遊客間說,茂昭志意堅決,拜表求代者數四。上乃命左庶子任迪簡為其行軍司馬,乗驛赴之。以兩郡之簿書、管鑰、符印付迪簡,遣其妻季氏、男克讓克恭等先就路,將行,誡之曰:「吾使爾曹侍親出易者,庶後之子孫不為風俗所染,則吾無恨矣。」時五年冬也。行及晉州,拜檢校太尉、兼中書令,充河中晉絳慈隰等州節度觀察等使。十二月十二日,至京師。故事雙日不坐,是日特開延英殿對茂昭,五刻乃罷。又上表請遷祖考之骨墓于京兆。在朝兩月,未之鎮。六年二月,疽發於首,卒,時年五十。廢朝五日,冊贈太師,賻絹三千匹、布一千端、米粟三千石,喪事所須官給,詔京兆尹監護,謚曰獻武。

憲宗その忠藎を念ひ、諸昆仲子姪皆職秩に居らしめ、仍て詔して毎年絹二千匹を給し、春秋に分かち給ふ。克讓・克恭は官諸衛大将軍に至る。小男克勤は、長慶中左武衛大将軍なり。時に赦文有りて一子に五品官を許す。克勤は子幼きを以て、近例に準ひて外甥に回授せんことを請ふ。状中書に至り、吏部員外郎判廃置に下す。裴夷直断じて曰く、「一子の官は、恩功を念ふに在り、賞を延ぶるを貴しとす。若し己が子無くば、宗男に及ぶを許す。今張克勤自ら息男有り、妄りに外甥を以て奏請し、他族に移す。知る是何人ぞ、儻や官を売るに渉らば、実に法を乱すなり。近日の勅例を援くといえども、著しき定格の文を破り難し。国章既に必ず行はるべし、宅相恐らくは虚しく授け難からん。状を具して中書門下に上す。克勤の請ふ所は、望むらくは宜しく允さざるべし」と。遂に定例と為る。

原文憲宗念其忠藎,諸昆仲子姪皆居職秩,仍詔每年給絹二千匹,春秋分給。克讓、克恭官至諸衛大將軍。小男克勤,長慶中左武衛大將軍。時有赦文許一子五品官,克勤以子幼,請準近例迴授外甥。狀至中書,下吏部員外郎判廢置,裴夷直斷曰:「一子官,恩在念功,貴於延賞;若無己子,許及宗男。今張克勤自有息男,妄以外甥奏請,移於他族,知是何人,儻涉賣官,實為亂法。雖援近日勑例,難破著定格文,國章旣在必行,宅相恐難虛授。具狀上中書門下,克勤所請,望宜不允。」遂為定例。

子 茂宗

原文子 茂宗

茂宗は父の蔭により累官して光祿少卿同正に至った。貞元三年、公主を娶ることを許され、銀青光祿大夫・本官駙馬都尉を拝し、公主の幼さを理由に年を待った。十三年、茂宗の母が亡くなり、遺表で婚礼の完成を請うた。徳宗は茂昭の勲功を思い、即日に雲麾将軍を授け、起復して左衛将軍同正・駙馬都尉を授けた。諫官の蔣乂らが論じて言うには、「古より今に至るまで、駙馬が起復して公主を娶った例は聞かない」と。上は言った、「卿の言うことは古礼である。今の世ではしばしば借吉して婚嫁を行う家がある。卿はどうして苦しんで固執するのか」と。蔣乂はまた奏上して言うには、「臣は聞く、近ごろ礼教をよく知らぬ家があり、あるいは娘が父母の喪に服しているが、家が貧しく、かつ強力な近親もいない場合、借吉して親戚づきあいをすることがあると。しかし男子が借吉して婚娶することは、古より未だ聞かない。今突然駙馬に起復して婚礼を行わせるのは、まことに世間の耳目を驚かすことを恐れる。況や公主は幼く、さらに一年待って降嫁させても、時機を失わず、かつ礼経にも合致する」と。太常博士の韋彤・裴堪は言うには、「伏して見るに駙馬都尉張茂宗はなお母の喪中にあるが、聖恩はその亡母の遺表の請いを思い、公主の降嫁を許し、なお茂宗に即吉して婚礼に就かせようとされている。伏して思うに夫婦の義は人倫の大端であり、それゆえ『関雎』が詩篇の首に冠せられるのは、王化の先とする所以である。天属の親は孝行を本とし、それゆえ斉衰・斬衰の五服の重さがあるのは、人道の厚さの所以である。聖人はこの二端が人を訓える本であり、変えるべからざることを知り、故に婚礼を制定し、上は宗廟を承け、下は後嗣を継がしめた。墨衰して奪情するのは、事の縁は金革による。もし茂宗に衰服を脱がせて冕裳を着せ、堊室を去って親迎を行わせるならば、哀しみを止めて吉を借りるとは言え、これまた凶をもって嘉を瀆すことである。伏して願わくは、茂宗の亡母の請いを抑え、典章の不易の義を顧み、その喪制が終わるのを待って、その後婚礼を賜わらんことを」と。徳宗は納れず、ついに義章公主を茂宗に降嫁させた。これより戚里の親として、しばしば恩顧を蒙った。

原文茂宗以父蔭累官至光祿少卿同正。貞元三年,許尚公主,拜銀青光祿大夫、本官駙馬都尉,以公主幼待年。十三,屬茂宗母亡,遺表請終嘉禮。德宗念茂昭之勳,即日授雲麾將軍,起復授左衛將軍同正、駙馬都尉。諫官蔣乂等論曰:「自古以來,未聞有駙馬起復而尚公主者。」上曰:「卿所言,古禮也;如今人家往往有借吉為婚嫁者,卿何苦固執?」又奏曰:「臣聞近日人家有不甚知禮教者,或女居父母服,家旣貧乏,且無強近至親,即有借吉以就親者。至於男子借吉婚娶,從古未聞,今忽令駙馬起復成禮,實恐驚駭物聽。況公主年幼,更俟一年出降,時旣未失,且合禮經。」太常博士韋彤、裴堪曰:「伏見駙馬都尉張茂宗猶在母喪,聖恩念其亡母遺表所請,許公主出降,仍令茂宗即吉就婚者。伏以夫婦之義,人倫大端,所以關雎冠於詩首者,王化所先也。天屬之親,孝行為本,所以齊斬五服之重者,人道之厚也。聖人知此二端為訓人之本,不可變也,故制婚禮,上以承宗廟,下以繼後嗣。至若墨衰奪情,事緣金革。若使茂宗釋衰服而衣冕裳,去堊室而為親迎,雖云輟哀借吉,是亦以凶瀆嘉。伏願抑茂宗亡母之請,顧典章不易之義,待其終制,然後賜婚。」德宗不納,竟以義章公主降茂宗。自是以戚里之親,頗承恩顧。

元和年間、閑廄使となった。国家は貞観年間より麟徳に至るまで、国馬四十万匹が河・隴の間にいた。開元年間にはなお二十七万匹あり、牛羊雑畜を合わせれば百万に止まらず、八使四十八監を置き、隴右・金城・平涼・天水の四郡を占め、幅員千里に及び、長安ちょうあんより隴右に至るまで七馬坊を置き、会計都領とした。岐・隴の間の良き水草及び沃田は、皆七馬坊に属した。至徳以後、西戎が隴右を陥落させ、国馬はことごとく散逸し、監牧使と七馬坊の名額はことごとく廃され、その地利は閑廄使に帰した。宝応年間、鳳翔節度使が監牧の地を貧民に与えて生業とさせることを請い、土着の民が相承すること十数年になった。また別勅で諸寺観に賜わること凡そ千余頃あった。茂宗が閑廄を掌ると、中尉の吐突承璀と親しく、恩を恃んで旧事を挙げ、監牧地の地租をことごとく閑廄司に帰属させた。茂宗はまた麟遊県に岐陽馬坊があり、旧図によれば地方三百四十頃であると奏上し、制を下して閑廄司に検査計量させた。百姓が紛紜として論訴し、節度使李惟簡が事の詳細を上聞し、詔して監察御史孫革に往って按問させた。孫革が還って奏上して言うには、「天興県の東五里に隋の故岐陽馬坊があり、地はその側にあって、監に因んで名づけられたものであり、今の岐陽が指す百姓侵占の地とは接しておらず、皆明らかな証拠がある」と。茂宗は怒り、中助があることを恃み、孫革の奏上が事実でないと誣告した。また侍御史范伝式に覆按させると、彼は茂宗に附き、前の奏上をことごとく覆し、ついに居人の田業を奪い、ことごとく閑廄に属させ、孫革を罷免した。長慶初年、岐人が論訴して止まず、詔して御史に按検させて明白にし、ついにその地を百姓に返還し、范伝式を貶官した。

原文元和中,為閑廄使。國家自貞觀中至於麟德,國馬四十萬匹在河、隴間。開元中尚有二十七萬,雜以牛羊雜畜,不啻百萬,置八使四十八監,占隴右、金城、平涼、天水四郡,幅員千里,自長安至隴右,置七馬坊,為會計都領。岐、隴間善水草及腴田,皆屬七馬坊。至德以後,西戎陷隴右,國馬盡散,監牧使與七馬坊名額盡廢,其地利因歸於閑廄使。寶應中,鳳翔節度使請以監牧賦給貧民為業,土著相承,十數年矣。又有別勑賜諸寺觀凡千餘頃。及茂宗掌閑廄,與中尉吐突承璀善,遂恃恩舉舊事,並以監牧地租歸閑廄司。茂宗又奏麟遊縣有岐陽馬坊,按舊圖地方三百四十頃,制下閑廄司檢計。百姓紛紜論訴,節度使李惟簡具事上聞,詔監察御史孫革往按問之。革還奏曰:「天興縣東五百有隋故岐陽馬坊,地在其側,蓋因監為名,與今岐陽所指百姓侵占處不相接,皆有明驗。」茂宗怒,恃有中助,誣革所奏不實。又令侍御史范傳式覆按,乃附茂宗,盡翻前奏,遂奪居人田業,皆屬閑廄,乃罷革官。長慶初,岐人論訴不已,詔御史按驗明白,乃復以其地還百姓,貶傳式官。

茂宗はまもなく左金吾衛大将軍を授かった。長慶二年、検校工部尚書を兼ね、兗州刺史・御史大夫となり、兗海沂節度等使を充て、検校兵部尚書を加えられた。大和五年、入朝して左金吾衛大将軍となり、左衛使を充て、左龍武統軍に転じて卒した。

原文茂宗俄授左金吾衛大將軍。長慶二年,檢校工部尚書,兼兗州刺史、御史大夫,充兗海沂節度等使,加檢校兵部尚書。大和五年,入為左金吾衛大將軍,充左衛使,轉左龍武統軍卒。

子に茂和あり。

原文子 茂和

茂和は、元和年間に左武衛将軍となった。裴度が淮西行営処置となり、兵を用いて呉元済を討つに当たり、牙を建てて行営に赴き、茂和を都押衙に用いることを奏上した。茂和はかつて胆気才略をもって相府に自らを推賞したので、裴度が奏上して用いたのである。茂和は裴度が功を立てず、淮・蔡が平定されぬことを慮り、病を理由に辞退した。裴度は大いに怒り、茂和を斬って行く者を励ますよう奏請した。憲宗は言った、「朕はその家門の忠順を思い、卿のために遠く貶すこととする」。後に再び諸衛将軍に用いられ、卒した。

原文茂和,元和中為左武衛將軍。裴度為淮西行營處置,用兵討吳元濟,建牙赴行營,奏用茂和為都押衙。茂和嘗以膽氣才略自贊於相府,故度奏用之。茂和慮度無功,淮、蔡不可平,乃辭之以疾。度怒甚,奏請斬茂和以勵行者,憲宗曰:「予以其家門忠順,為卿遠貶。」後復用為諸衛將軍,卒。

附 陳楚

原文附 陳楚

陳楚は、定州の人で、茂昭の甥である。若くして武幹があり、義勇牙将となり、茂昭に仕え、出征するごとに必ず精卒を統率させた。茂昭に従って入朝し、諸衛大将軍を授かった。元和十二年、義武軍節度使渾鎬が軍を喪い、定州で兵乱が起こると、楚を易定節度使に除し、馳伝して任に赴かせた。乱はなお収まらず、楚は夜に州城に馳せ入った。楚の家は代々久しく定州におり、軍中の部校は皆楚の旧卒であったので、人情大いに悦び、軍卒は平然とした。河陽三城懐節度使に転じた。前後たびたび戦功を立て、入朝して龍武統軍となった。長慶三年に卒した。

原文陳楚者,定州人,茂昭之甥。少有武幹,為義勇牙將,事茂昭,每出征伐,必令典精卒。隨茂昭入朝,授諸衛大將軍。元和十二年,義武軍節度使渾鎬喪師,定州兵亂,乃除楚易定節度,令馳傳赴任。亂猶未彌,楚夜馳入州城。楚家世久在定州,軍中部校皆楚之舊卒,人情大悅,軍卒帖然。轉河陽三城懷節度使。前後亟立戰功,入為龍武統軍。長慶三年卒。

【論】

原文【論】

史臣曰く、朝廷の治乱は、法制の当否と形勢の得失にあるのみである。秦人が上に叛いたのは、法制を失ったからである。漢の道が勃興したのは、形勢を得たからである。臣が開元の政の挙がるのを見るに、坐して百蛮を制した。天宝の法の衰えるに及び、ついに四海を淪ぼした。玄宗が一旦その勢いを失うと、横流して救うべからず、地は群盗に分かれ、身は九夷に播遷した。河朔二十余州は、ついに盗賊の巣窟となり、諸田は兇険で、物情に近からなかった。しかし弘正・孝忠は、よく人臣の節を通じ、沂国は力を善に尽くしたが報いられず、これは天意の乱を好み治を悪むところであろうか。茂昭は忠梗にして礼あり、禍福の大端を明らかにし、近代の賢侯である。

原文史臣曰:朝廷治亂,在法制當否,形勢得失而已。秦人叛上,法制失也;漢道勃興,形勢得也。臣觀開元之政舉,坐制百蠻;天寶之法衰,遂淪四海。玄宗一失其勢,橫流莫救,地分於群盜,身播於九夷。河朔二十餘州,竟為盜穴,諸田兇險,不近物情。而弘正、孝忠,頗達人臣之節,沂國力善無報,殆天意之好亂惡治歟!茂昭忠梗有禮,明禍福大端,近代之賢侯也。

賛して曰く、田宗は令ならず、禍淫に応なし。天は仁を輔けると謂うに、胡ぞ弘正を覆さん。茂昭は止まるを知り、終に善を以て勝つ。孰れか厲階を生ぜし、上は威柄を失う。

原文贊曰:田宗不令,禍淫無應。謂天輔仁,胡覆弘正。茂昭知止,終以善勝。孰生厲階,上失威柄。