舊唐書

巻140

巻140

舊唐書

原文舊唐書

卷一百四十

原文卷一百四十

列傳第九十 韋臯 張建封 盧群

原文列傳第九十 韋臯 張建封 盧群

韋臯

原文韋臯

韋臯、字は城武、京兆の人である。大暦の初め、建陵の挽郎として出仕し、華州参軍に補任され、累進して使府の監察御史となった。宰相張鎰が鳳翔隴右節度使として出鎮した際、韋臯を営田判官に奏請し、殿中侍御史を得て、権知隴州行営留後事を兼ねた。

原文韋臯,字城武,京兆人。大歷初,以建陵挽郎調補華州參軍,累授使府監察御史。宰相張鎰出為鳳翊隴右節度使,奏臯為營田判官,得殿中侍御史,權知隴州行營留後事。

韋臯はそこで庭に壇を築き、犠牲の血を以て将士らと盟して曰く、「上天は哀しまず、国家は多難、逆臣が隙に乗じ、盗みに宮闈を占拠す。而して李楚琳も亦た兇徒を扇動し、城邑を傾け陥れ、酷虐の加える所、爰に本使に及び、既に上に事えず、安んぞ下を恤れんや。韋臯是を用いて心を激し気を憤らせ、安寧に至る暇なく、群公と誓いて、誠を竭くして王室に奉ぜん。凡そ我が同盟たる者は、一心協力し、順を仗りて兇を除き、先祖の霊、必ず当に幽かに賛せん。言誠なれば則ち志合い、義感ずれば則ち心斉し、骨を粉にし躯を糜ただらすとも、決して顧みる所無し。此の志を渝かえる者有らば、明神之を殛せめ、子孫に迨およぶまで、亦た類を遺すこと無からん。皇天后土、当に此の言を兆しるせ」と。又た使を吐蕃に遣わして援を求めた。十一月、検校礼部尚書を加えられた。興元元年、徳宗が京に還り、左金吾衛将軍に徴され、間もなく大将軍に遷った。

原文臯乃築壇於廷,血牲與將士等盟曰:「上天不吊,國家多難,逆臣乘間,盜據宮闈。而李楚琳亦扇兇徒,傾陷城邑,酷虐所加,爰及本使,既不事上,安能恤下。臯是用激心憤氣,不遑底寧,誓與群公,竭誠王室。凡我同盟,一心協力,仗順除兇,先祖之靈,必當幽贊。言誠則誌合,義感則心齊;粉骨糜軀,決無所顧。有渝此誌,明神殛之,迨於子孫,亦罔遺類。皇天後土,當兆斯言。」又遣使入吐蕃求援。十一月,加檢校禮部尚書。興元元年,德宗還京,征為左金吾衛將軍,尋遷大將軍。

五年、韋臯は大将王有道に命じて精卒を簡習させて蕃界に入らせ、東蛮と共に故巂州台登の北谷において吐蕃の青海・臘城の二節度を大破し、二千級を斬首し、籠官四十五人を生擒した。その崖谷に投じて死する者は数え勝えなかった。蕃将の乞臧遮遮は、吐蕃の驍ぎょう将であり、久しく辺患となっていた。遮遮を擒えた後は、城柵降らざるは無く、数年の中に、遂に巂州を回復し、功により吏部尚書を加えられた。九年、朝廷が塩州城を築くに当たり、吐蕃の掩襲を慮り、詔して韋臯に出兵して牽制させた。乃ち大将董勔・張芬を命じて西山及び南道より出撃させ、峨和城・通鶴軍を破った。吐蕃の南道元帥論莽熱が衆を率いて来援したが、又た之を破り、数千人を殺傷し、定廉城を焚いた。凡そ堡柵五十余所を平らげ、功により位を進めて検校右僕射となった。韋臯は又た西山羌女・訶陵・白狗・逋租・弱水・南王等の八国の酋長を招撫し、闕廷に入貢させた。十一年九月、近界諸蛮・西山八国を統押し、兼ねて雲南安撫等使を加えられた。十二年二月、就いて同中書門下平章事を加えられた。十三年、巂州城を収復した。十六年、韋臯は将を命じて出軍させ、累ねて吐蕃を黎・巂の二州において破った。吐蕃は怒り、遂に大いに搜閲し、壘を築き舟を造り、入寇を謀らんとしたが、韋臯悉く之を挫いた。ここにおいて吐蕃の酋帥兼監統曩貢・臘城等九節度嬰・籠官馬定德と其の大将八十七人が部落を挙げて来降した。定德は計略有り、兵法及び山川地形に習熟し、吐蕃が用兵する毎に、定德は常に駅を乗り継いで計事し、蕃中の諸将は其の成算を稟うけた。此に至り、自ら辺を扞ふせぎて律を失い、罪を得るを懼れて帰心したのである。

原文五年,臯遣大將王有道簡習精卒以入蕃界,與東蠻於故巂州臺登北谷大破吐蕃青海、臘城二節度,斬首二千級,生擒籠官四十五人,其投崖谷而死者不可勝計。蕃將乞臧遮遮者,蕃之驍將也,久為邊患。自擒遮遮,城柵無不降,數年之內,終復巂州,以功加吏部尚書。九年,朝廷築鹽州城,慮為吐蕃掩襲,詔臯出兵牽維之。乃命大將董勔、張芬出西山及南道,破峨和城、通鶴軍。吐蕃南道元帥論莽熱率眾來援,又破之,殺傷數千人,焚定廉城。凡平堡柵五十余所,以功進位檢校右僕射。臯又招撫西山羌女、訶陵、白狗、逋租、弱水、南王等八國酋長,入貢闕廷。十一年九月,加統押近界諸蠻、西山八國兼雲南安撫等使。十二年二月,就加同中書門下平章事。十三年,收復巂州城。十六年,臯命將出軍,累破吐蕃於黎、巂二州。吐蕃怒,遂大搜閱,築壘造舟,欲謀入寇,臯悉挫之。於是吐蕃酋帥兼監統曩貢、臘城等九節度嬰、籠官馬定德與其大將八十七人舉部落來降。定德有計略,習知兵法及山川地形,吐蕃每用兵,定德常乘驛計事,蕃中諸將稟其成算。至是,自以扞邊失律,懼得罪而歸心焉。

十七年、吐蕃の昆明城管些蛮千余戸が又た降った。賛普は其の衆が外に潰えたるを以て、遂に北に寇して霊・朔を侵し、麟州を陥れた。徳宗は使を成都府に遣わし、韋臯に出兵して深く蕃界に入らせた。韋臯は乃ち鎮静軍使陳洎等に命じて兵一万を統率して三奇路より出撃させ、威戎軍使崔堯臣に兵千人を率いて龍溪石門路南より出撃させ、維保二州兵馬使仇冕・保霸は二州刺史董振等に兵二千を率いて吐蕃の維州城中に向かわせ、北路兵馬使邢玼等に四千を率いて吐蕃の棲鶏・老翁城に向かわせ、都将高倜・王英俊に兵二千を率いて故松州に向かわせ、隴東兵馬使元膺に兵八千人を率いて南道雅・邛・黎・巂路より出撃させた。又た鎮南軍使韋良金に兵一千三百を率いて続いて進ませ、雅州経略使路惟明等に兵三千を率いて吐蕃の租・松等城に向かわせ、黎州経略使王有道に兵二千人を率いて大渡河を渡り、深く蕃界に入らせ、巂州経略使陳孝陽・兵馬使何大海・韋義等及び磨些蛮・東蛮二部落の主苴那時等に兵四千を率いて昆明城・諾済城を進攻させた。八月より出軍して斉に入り、十月に至って蕃兵十六万を破り、城七つ・軍鎮五つ・戸三千を抜き、生擒六千、斬首万余級を挙げ、遂に維州を進攻した。救軍再び至り、転戦千里、蕃軍連敗した。ここにおいて霊・朔を寇するの衆は引きて南下し、賛普は論莽熱を遣わし、内大相兼東境五道節度兵馬都群牧大使として、雑虜十万を率いて来たりて維州の囲みを解かんとした。蜀しょく師万人は険に拠り伏兵を設けて之を待ち、先ず千人を出して挑戦した。莽熱は我が師の少なきを見て、衆を悉くして之を追った。伏兵を発して掩撃し、鼓噪雷の如く駭おどろかせば、蕃兵自ら潰え、論莽熱を生擒し、虜衆十万、殲夷する者半ばとなった。是の歳十月、使を遣わして論莽熱を朝に献じた。徳宗は数え(責め)て之を釈し、崇仁里に邸を賜った。韋臯は功により検校司徒しとを加えられ、兼ねて中書令、南康郡王に封ぜられた。

原文十七年,吐蕃昆明城管些蠻千余戶又降。贊普以其眾外潰,遂北寇靈、朔,陷麟州。德宗遣使至成都府,令臯出兵深入蕃界。臯乃令鎮靜軍使陳洎等統兵萬人出三奇路,威戎軍使崔堯臣兵千人出龍溪石門路南,維保二州兵馬使仇冕、保霸二州刺史董振等兵二千趨吐蕃維州城中,北路兵馬使邢玼等四千趨吐蕃棲雞、老翁城,都將高倜、王英俊兵二千趨故松州,隴東兵馬使元膺兵八千人出南道雅、邛、黎、巂路。又令鎮南軍使韋良金兵一千三百續進,雅州經略使路惟明等兵三千趨吐蕃租、松等城,黎州經略使王有道兵二千人過大渡河,深入蕃界,巂州經略使陳孝陽、兵馬使何大海、韋義等及磨些蠻、東蠻二部落主苴那時等兵四千進攻昆明城、諾濟城。自八月出軍齊入,至十月破蕃兵十六萬,拔城七、軍鎮五、戶三千,擒生六千,斬首萬余級,遂進攻維州。救軍再至,轉戰千里,蕃軍連敗。於是寇靈、朔之眾引而南下,贊普遣論莽熱以內大相兼東境五道節度兵馬都群牧大使,率雜虜十萬而來解維州之圍。蜀師萬人據險設伏以待之,先出千人挑戰。莽熱見我師之少,悉眾追之。發伏掩擊,鼓噪雷駭,蕃兵自潰,生擒論莽熱,虜眾十萬,殲夷者半。是歲十月,遣使獻論莽熱於朝;德宗數而釋之,賜第於崇仁裏。臯以功加檢校司徒,兼中書令,封南康郡王。

順宗即位し、検校太尉を加えられた。順宗は久しく疾に罹り、臨朝して政を聴くことができず、宦者李忠言・侍棋待詔王叔文・侍書待詔王伾等の三人が頗る国政を幹あやつり、高下を心に任せた。韋臯は乃ち支度副使劉辟を遣わして京師に使わした。劉辟は私かに王叔文を謁して曰く、「太尉、誠を足下に致すことを使わす。若し某をして剣南三川を都領せしむる能わば、必ず以て相酬うる有らん。留意せざれば、亦た以て奉報する有らん」と。叔文は大怒し、劉辟を斬って徇みせしめにせんとしたが、韋執誼が固く之を止めたので、劉辟は乃ち私かに去った。韋臯は王叔文が人情に附かず、又た韋執誼と隙有るを知り、自ら大臣として社稷の大計を議すべきを以て、乃ち上表して皇太子の監国を請うて曰く、「臣聞く、上は宗廟を承け、下は黎元を鎮め、永く無疆を固くするは、儲両に先んずる莫しと。伏して聞く、聖明山陵未だ祔せずして、哀毀制を踰え、万幾に心労し、伏して計るに旬月の間、甚だしく痊復せざるを。皇太子の睿質既に長じ、淑問日彰え、四海の心、実に倚頼する所なり。伏して望む、権かりに皇太子に庶政を監撫せしめ、以て聖躬の痊平を俟ち、一日万幾、壅滞せしむること免れんことを」と。又た皇太子に箋を上りて曰く、

原文順宗即位,加檢校太尉。順宗久疾,不能臨朝聽政,宦者李忠言、侍棋待詔王叔文、侍書待詔王伾等三人頗幹國政,高下在心。臯乃遣支度副使劉辟使於京師,辟私謁王叔文曰:「太尉使致誠於足下,若能致某都領劍南三川,必有以相酬;如不留意,亦有以奉報。」叔文大怒,將斬辟以徇;韋執誼固止之,辟乃私去。臯知王叔文人情不附,又知與韋執誼有隙,自以大臣可議社稷大計,乃上表請皇太子監國,曰:「臣聞上承宗廟,下鎮黎元,永固無疆,莫先儲兩。伏聞聖明以山陵未祔,哀毀逾制,心勞萬幾,伏計旬月之間,未甚痊復。皇太子睿質已長,淑問日彰,四海之心,實所倚賴。伏望權令皇太子監撫庶政,以俟聖躬痊平,一日萬幾,免令壅滯。」又上皇太子箋曰:

殿下は重離の徳を体し、儲貳の重きに当たり、以て九廟を克昌し、万方を式固すべく、天下の安危は殿下に係る。

原文殿下體重離之德,當儲貳之重,所以克昌九廟,式固萬方,天下安危,系於殿下。臯位居將相,誌切匡扶,先朝獎知,早承恩顧。人臣之分,知無不為,願上答眷私,罄輸肝鬲。伏以聖上嗣膺鴻業,睿哲英明,攀感先朝,誌存孝理。諒闇之際,方委大臣,但付托偶失於善人,而參決多虧於公政。今群小得誌,隳紊紀綱,官以勢遷,政由情改,朋黨交構,熒惑宸聰。樹置腹心,遍於貴位;潛結左右,難在蕭墻。國賦散於權門,王稅不入天府,褻慢無忌,高下在心。貨賄流聞,遷轉失敘,先聖屏黜贓犯之類,鹹擢居省寺之間。至令忠臣隕涕,正人結舌,遐邇痛心,人知不可。伏恐奸雄乘便,因此謀動干戈,危殿下之家邦,傾太宗之王業。伏惟太宗櫛沐風雨,經營廟朝,將垂二百年,欲及千萬祀;而一朝使叔文奸佞之徒,侮弄朝政,恣其胸臆,坐致傾危。臣每思之,痛心疾首!伏望殿下斥逐群小,委任賢良,悽悽血誠,輸寫於此!

臯は将相の位に居り、志は匡扶に切にして、先朝の奨知を蒙り、早く恩顧を承く。人臣の分として、知りて為さざる無く、願わくは眷私に答え、肝鬲を罄しく輸せん。

原文太子優令答之。而裴均、嚴綬箋表繼至,由是政歸太子,盡逐伾文之黨。是歲,暴疾卒,時年六十一,贈太師,廢朝五日。

伏して惟うに、聖上は鴻業を嗣ぎ膺け、睿哲英明にして、先朝を攀感し、志は孝理に存す。

原文臯在蜀二十一年,重賦斂以事月進,卒致蜀土虛竭,時論非之。其從事累官稍崇者,則奏為屬郡刺史,或又署在府幕,多不令還朝,蓋不欲泄所為於闕下故也。故劉辟因臯故態,圖不軌以求三川,歷階之作,蓋有由然。

諒闇の際、方に大臣に委ねんとすれども、但だ付托偶々善人に失し、而して参決多く公政に虧く。

原文臯兄 聿

今、群小志を得て、紀綱を隳紊し、官は勢に依りて遷り、政は情に由りて改まり、朋党交わり構い、宸聡を熒惑す。

原文臯兄聿,時為國子司業,劉辟與盧文若據西川叛,臯侄行式,先娶文若妹,而聿不奏。既收行式,以其妻沒官,詔御史臺按聿,聿下獄。有司以行式妻在遠,不與兄同情,不當連坐,詔歸行式妻而釋聿。

腹心を樹置し、貴位に遍くし、左右に潜かに結び、難は蕭墻に在り。

原文附 劉辟

国賦は権門に散じ、王税は天府に入らず、褻慢にして忌憚無く、高下心に在り。

原文劉辟者,貞元中進士擢第,宏詞登科,韋臯辟為從事,累遷至御史中丞、支度副使。永貞元年八月,韋臯卒,辟自為西川節度留後,率成都將校上表請降節鉞。朝廷不許,除給事中,便令赴闕。辟不奉詔。時憲宗初即位,以無事息人為務,遂授辟檢校工部尚書,充劍南西川節度使。辟益兇悖,出不臣之言,而求都統三川,與同幕盧文若相善,欲以文若為東川節度使,遂舉兵圍梓州。憲宗難於用兵,宰相杜黃裳奏:「劉辟一狂蹶書生耳,王師鼓行而俘之,兵不血刃。臣知神策軍使高崇文,驍果可任,舉必成功。」帝數日方從之。於是令高崇文、李元奕將神策京西行營兵相續進發,令與嚴礪、李康掎角相應以討之,仍許其自新。

貨賄流聞し、遷転叙を失い、先聖の屏黜せし贓犯の類、咸く省寺の間に擢き居らしむ。

原文朕聞皇祖玄元之誡曰:「兵者,兇器也,不得已而用之。」恭惟聖謨,常所祗服。故惟文誥有所不至,誠信有所未孚,始務安人,必能忍恥,朕之此誌,亦可明征。近者德宗皇帝舉柔服之規,授宰衡之傑,弘我廟勝,遂康巴、庸,故得南詔入貢,西戎寢患。成績始究,元臣喪亡,劉辟乘此變故,坐邀符節。朕以成狂命者雖乖於理體,從權便者所冀於輯寧,竟乖卿士之謀,遂允幸求之誌。朕之於辟,恩亦弘矣。曾不知恩,負牛羊之力,飽則逾兇;畜梟獍之心,馴之益悖。誑惑士伍,圍逼梓州;誘陷戎臣,塞絕劍路。師徒所至,燒劫無遺,幹紀之辜,擢發難數。朕為人司牧,字彼黎元,如辟之罪,非朕敢舍,可削奪在身官爵。

至って忠臣をして涕を隕さしめ、正人をして舌を結ばしめ、遐邇痛心し、人知りて不可とす。

原文六月,崇文破鹿頭關,進收漢州。九月,崇文收成都府。劉辟以數十騎遁走,投水不死;騎將酈定進入水,擒辟於成都府西洋灌田。盧文若先自刃其妻子,然後縋石投江,失其屍。辟檻送京師,在路飲食自若,以為不當死。及至京西臨臯驛,左右神策兵士迎之,以帛系首及手足,曳而入,乃驚曰:「何至於是?」或紿之曰:「國法當爾,無憂也。」是日,詔曰:「劉辟生於士族,敢蓄梟心,驅劫蜀人,拒扞王命。肆其狂逆,詿誤一州,俾我黎元,肝腦塗地。賊將崔綱等同惡相扇,至死不回,咸宜伏辜,以正刑典。劉辟男超郎等九人,並處斬。」辟入京城,上御興安樓受俘馘,令中使於樓下詰辟反狀。辟曰:「臣不敢反,五院子弟為惡,臣不能制。」又遣詰之曰:「朕遣中使送旌節官告,何故不受?」辟乃伏罪。令獻太廟、郊社,徇於市,即日戮於子城西南隅。

伏して恐るらくは、奸雄便に乗じ、此に因りて干戈を謀り動かし、殿下の家邦を危うくし、太宗の王業を傾けんことを。

原文初,辟嘗病,見諸問疾者來,皆以手據地,倒行入辟口,辟因礫裂食之;惟盧文若至,則如平常。故尤與文若厚,竟以同惡俱赤族,不其怪歟!

伏して惟うに、太宗は風雨を櫛沐し、廟朝を経営し、将に二百年を垂れんとし、千万祀に及ばんと欲す。

原文張建封

而るに一朝にして叔文・奸佞の徒をして、朝政を侮弄せしめ、其の胸臆を恣にせしめ、坐して傾危を致さしむ。臣之を思う毎に、痛心疾首す。

原文張建封,字本立,兗州人。祖仁範,洪州南昌縣令,貞元初贈鄭州刺史。父玠,少豪俠,輕財重士。安祿山反,令偽將李庭偉率蕃兵脅下城邑,至魯郡;太守韓擇木具禮郊迎,置於郵館。玠率鄉豪張貴、孫邑、段絳等集兵將殺之。擇木怯懦,大懼;唯員外司兵張孚然其計,遂殺庭偉並其黨數十人,擇木方遣使奏聞。擇木、張孚俱受官賞,玠因遊蕩江南,不言其功。以建封貴,贈秘書監。

伏して望むらくは、殿下群小を斥逐し、賢良を委任せられんことを。悽悽たる血誠、此に輸写す。

原文建封少頗屬文,好談論,慷慨負氣,以功名為己任。寶應中,李光弼鎮河南,時蘇、常等州草賊,寇掠郡邑,代宗遣中使馬日新與光弼將兵馬同征討之。建封乃見日新,自請說喻賊徒。日新從之,遂入虎窟、蒸裏等賊營,以利害禍福喻之。一夕,賊黨數千人並詣日新請降,遂悉放歸田裏。

大暦の初め、道州刺史裴虬が観察使韋之晉に建封を推薦し、参謀に辟召され、左清道兵曹に奏授されたが、吏役を好まず去った。滑亳節度使令狐彰がその名を聞き、辟召した。彰は未だ朝覲したことがなく、建封は心に悦ばず、遂に転運使劉晏に投刺し、自ら志を述べ、彰に仕えることを願わなかった。晏が大理評事を試み、軍務を勾当するよう奏した。歳余して、また罷めて帰った。

原文大曆初,道州刺史裴虬薦建封於觀察使韋之晉,辟為參謀,奏授左清道兵曹,不樂吏役而去。滑亳節度使令狐彰聞其名,辟之;彰既未曾朝覲,建封心不悅之,遂投刺於轉運使劉晏,自述其誌,不願仕於彰也。晏奏試大理評事,勾當軍務。歲餘,復罷歸。

建封は平素より馬燧と親善であり、大暦十年、燧が河陽三城鎮遏使となると、判官に辟召し、監察御史を奏授し、緋魚袋を賜った。李霊曜が梁・宋の間に反し、田悦と掎角し、ともに叛逆した。燧は李忠臣とともに討ち平らげ、軍務は多く建封に諮った。燧が河東節度使となると、また建封を判官に奏し、特に侍御史を拝した。建中の初め、燧が朝廷に推薦し、楊炎が度支郎中に用いようとしたが、盧杞がこれを憎み、岳州刺史として出された。

原文建封素與馬燧友善,大歷十年,燧為河陽三城鎮遏使,辟為判官,奏授監察御史,賜緋魚袋。李靈曜反於梁、宋間,與田悅掎角,同為叛逆,燧與李忠臣同討平之,軍務多咨於建封。及燧為河東節度使,復奏建封為判官,特拜侍御史。建中初,燧薦之於朝,楊炎將用為度支郎中,盧杞惡之,出為岳州刺史。

時に淮西節度使李希烈は梁崇義を破滅させた勢いに乗じ、次第に恣に跋扈し、寿州刺史崔昭は数度書疏を往来させた。淮南節度使陳少遊がこれを奏上し、上は急ぎ宰相を召して寿州刺史を選ばせた。盧杞はもとより建封を憎んでおり、この日慌てて、遂に建封を推薦して崔昭に代わって寿陽を牧させた。李希烈が兵を挙げ、汝州を寇陥し、李元平を擒え、胡徳信・唐漢臣らを撃走し、また襄城で哥舒曜を摧破し、連ねて鄭・汴等州を陥し、李勉は城を棄てて遁走した。涇師が内逆し、駕は奉天に幸し、賊の鋒は益々盛んとなった。淮南の陳少遊はひそかに希烈に通じ、まもなく偽号を称し、元号を改め、将楊豊に偽赦書二道を齎らせ、少遊及び建封に送らせた。寿州に至り、建封は楊豊を縛って軍中に徇らせた。ちょうど中使が行在より及び江南に使いして回った者が同着し、建封は衆を集めて中使に対し通衢で豊を斬り、偽赦書を封じて行在に送り、遠近震駭した。陳少遊はこれを聞き、怒り且つ懼れた。建封はすなわち少遊と希烈の往来の事状を具に奏上した。希烈はまたその党杜少誠を偽って淮南節度使に署し、まず寿州を平らげ、江都に趣かせた。建封はその将賀蘭元均・邵怡らに霍丘秋柵を守らせた。少誠はついに侵軼できず、すなわち南に蘄・黄等州を掠め、また伊慎に挫衄された。まもなく建封に御史中丞・本州団練使を兼ねさせた。車駕が京に還ると、陳少遊は憂憤して卒した。

原文時淮西節度使李希烈乘破滅梁崇義之勢,漸縱恣跋扈,壽州刺史崔昭數書疏往來。淮南節度使陳少遊奏之,上遽召宰相令選壽州刺史。盧杞本惡建封,是日蒼黃,遂薦建封以代崔昭牧壽陽。李希烈稱兵,寇陷汝州,擒李元平,擊走胡德信、唐漢臣等,又摧破哥舒曜於襄城,連陷鄭、汴等州,李勉棄城而遁。涇師內逆,駕幸奉天,賊鋒益盛。淮南陳少遊潛通希烈,尋稱偽號,改元,遣將楊豐賫偽赦書二道,令送少遊及建封。至壽州,建封縛楊豐徇於軍中。適會中使自行在及使江南回者同至,建封集眾對中使斬豐於通衢,封偽赦書送行在,遠近震駭。陳少遊聞之,既怒且懼。建封乃具奏少遊與希烈往來事狀。希烈又偽署其黨杜少誠為淮南節度使,令先平壽州,趣江都。建封令其將賀蘭元均、邵怡等守霍丘秋柵。少誠竟不能侵軼,乃南掠蘄、黃等州,又為伊慎所挫衄。尋加建封兼御史中丞、本州團練使。車駕還京,陳少遊憂憤而卒。

興元元年十二月、すなわち御史大夫を兼ね、濠寿廬三州都団練観察使を充てさせた。ここにおいて大いに城池を修緝し、心を悉くして綏撫し、遠近悦附し、ここより威望益々重し。李希烈は兇党の精悍なる者を選び勁卒を率いて建封を攻めさせたが、曠日持久し、克獲する所なくして去った。希烈が平らぎ、階封を進め、一子に正員官を賜った。

原文興元元年十二月,乃加兼御史大夫,充濠壽廬三州都團練觀察使。於是大修緝城池,悉心綏撫,遠近悅附,自是威望益重。李希烈選兇黨精悍者率勁卒以攻建封,曠日持久,無所克獲而去。及希烈平,進階封,賜一子正員官。

初め、建中年中、李涓が徐州を以て帰附した。涓はまもなく卒し、その後高承宗父子・独孤華が相継いで刺史となった。賊に侵削され、貧困して自ら存することができず、また咽喉の要地、江淮の運路を拠り、朝廷は重臣を選んで鎮めさせようと久しく思った。貞元四年、建封を徐州刺史とし、御史大夫・徐泗濠節度・支度営田観察使を兼ねさせた。既に軍伍を創置し、建封は事に触れて躬親し、性寛厚にして人の過誤を容納し、而して綱紀に按拠し、妄りに法を曲げて人を貸さず。毎に事を言うに、忠義感激し、人皆畏悦した。七年、位を進めて検校礼部尚書とした。十二年、検校右僕射を加えた。十三年冬、入朝して京師を覲し、徳宗は礼遇を加等し、特に双日に延英を開いて召対し、また朝参して大夫班に入ることを令し、以て殊寵を示した。建封は『朝天行』一章を賦して上献し、名馬珍玩を賜ること頗る厚かった。

原文初,建中年,李涓以徐州歸附。涓尋卒,其後高承宗父子、獨孤華相繼為刺史。為賊侵削,貧困不能自存;又咽喉要地,據江淮運路,朝廷思擇重臣以鎮者久之。貞元四年,以建封為徐州刺史,兼御史大夫、徐泗濠節度、支度營田觀察使。既創置軍伍,建封觸事躬親;性寬厚,容納人過誤,而按據綱紀,不妄曲法貸人。每言事,忠義感激,人皆畏悅。七年,進位檢校禮部尚書。十二年,加檢校右僕射。十三年冬,入覲京師,德宗禮遇加等,特以雙日開延英召對,又令朝參入大夫班,以示殊寵。建封賦《朝天行》一章上獻,賜名馬珍玩頗厚。

時に宦者は宮中の市買を主とし、これを宮市と謂い、人物を抑買し、稍々本估に如かず。末年には文書を行わず、白望数十百人を両市及び要鬧の坊曲に置き、人の売る物を閲し、但だ宮市と称すれば、すなわち手を斂めて付与し、真偽復た弁ず可からず、敢えて来由及び価の高下を問う者なし。率ね直百銭の物を以て人の直数千の物を買い、仍て進奉門戸及び脚価銀を索む。人、物を市に詣るも、空手にて帰る者あるに至り、名は宮市と為すも、其の実はこれを奪うなり。嘗て農夫驢を以て柴を馱せし有り、宦者これを市い、絹数尺を与え、又就いて門戸を索み、仍て驢を邀えて柴を内に送らしむ。農夫啼泣し、得たる絹を以てこれに与うるも、肯えて受けず、曰く「須らく爾の驢を得べし」と。農夫曰く「我に父母妻子有り、此を待ちて後に食す。今汝に柴を与うるも、直を取らずして帰らんとす。汝尚肯えず、我に死あるのみ」と。遂に宦者を毆う。街使これを擒えて聞かす。すなわち宦者を黜け、農夫に絹十匹を賜う。然れども宮市は此の為に改めず、諫宮御史表疏を論列するも、皆聴かず。呉湊は戚裏を以て京兆尹と為り、深く其の弊を言う。建封入朝し、具にこれを奏す。徳宗頗る深く嘉納す。而して戸部侍郎・判度支蘇弁は宦者の旨に希い、因り入りて事を奏す。上これを問う。弁対えて曰く「京師遊手墮業する者数千万家、土着の生業無く、宮市に仰ぎて取給す」と。上これを信じ、凡そ宮市を言う者は皆用いず。詔書は百姓諸色の逋賦を矜免す。上建封に問う。対えて曰く「凡そ逋賦残欠は、皆累積年月のもの、征収す可き無く、陛下の憂恤に蒙るも、百姓も亦裨益する所無し」と。時に河東節度使李説・華州刺史盧微は皆中風疾に罹り、口言う能わず、足行う能わず、但だ左右の胥吏を信任して決遣す。建封は皆悉く聞奏し、上深く嘉納す。又金吾大将軍李翰は城中の細事を伺察するを好み、諸を加えて聞奏し、恩寵を冀求す。人畏れてこれを悪む。建封も亦これを奏す。すなわち詔を下して曰く「比来朝官或いは諸処に過従す。金吾皆上聞有り。其の間素より是れ親故、或いは曾て同僚友、伏臘歳序、時に還往有り、亦是れ常礼、人情の通ずる所なり。自今以後、金吾須らく聞くこと無かれ」と。

原文時宦者主宮中市買,謂之宮市,抑買人物,稍不如本估。末年不復行文書,置白望數十百人於兩市及要鬧坊曲,閱人所賣物;但稱宮市,則斂手付與,真偽不復可辨,無敢問所從來及論價之高下者。率用直百錢物買人直數千物,仍索進奉門戶及腳價銀。人將物詣市,至有空手而歸者,名為宮市,其實奪之。嘗有農夫以驢馱柴,宦者市之,與絹數尺,又就索門戶,仍邀驢送柴至內。農夫啼泣,以所得絹與之,不肯受,曰:「須得爾驢。」農夫曰:「我有父母妻子,待此而後食;今與汝柴,而不取直而歸,汝尚不肯,我有死而已。」遂毆宦者。街使擒之以聞,乃黜宦者,賜農夫絹十匹。然宮市不為之改,諫宮御史表疏論列,皆不聽。吳湊以戚裏為京兆尹,深言其弊。建封入覲,具奏之,德宗頗深嘉納;而戶部侍郎、判度支蘇弁希宦者之旨,因入奏事,上問之,弁對曰:「京師遊手墮業者數千萬家,無土著生業,仰宮市取給。」上信之,凡言宮市者皆不聽用。詔書矜免百姓諸色逋賦,上問建封,對曰:「凡逋賦殘欠,皆是累積年月,無可征收,雖蒙陛下憂恤,百姓亦無所裨益。」時河東節度使李說、華州刺史盧微,皆中風疾,口不能言,足不能行,但信任左右胥吏決遣之。建封皆悉聞奏,上深嘉納。又金吾大將軍李翰好伺察城中細事,加諸聞奏,冀求恩寵,人畏而惡之。建封亦奏之,乃下詔曰:「比來朝官或諸處過從,金吾皆有上聞。其間如素是親故,或曾同僚友,伏臘歲序,時有還往,亦是常禮,人情所通。自今以後,金吾不須聞。」

十四年春上巳、宰臣百僚に曲江亭に宴を賜い、特に関建封に宰相同座にて食せしむ。貞元已後、藩帥の入朝及び還鎮するも、馬燧・渾瑊・劉玄佐・李抱真・曲環の崇秩鴻勛の如き、未だ御製詩を獲て以て送る者無し。建封将に還鎮せんとす。特に関詩を賜いて曰く「牧守寄する所重く、才賢生るは時に為す。風を宣ぶるは淮甸より、鉞を授くるは藩維に膺く。入覲して遐恋を展べ、臨軒して来思を慰む。忠誠は方寸に在り、感激して清詞を陳う。国に報いるは爾の尚ぶ所、人を恤むは予の資と為す。歓宴懐いを尽くさず、車馬還る期に当たる。谷雨将に候に応ぜんとし、行春猶未だ遅からず。千里の遥かなるを以てする勿れ、而して已を知る無しと云うこと無かれ」と。又た高品中使に常に執る所の鞭を齎らせて以てこれを賜い、曰く「卿の忠貞節義、歳寒も移らず。此の鞭朕久しく執用す。故に以て卿に賜い、卿の忠節を表すなり」と。建封は又た詩一篇を献じ、以て自ら警励す。

原文十四年春上巳,賜宰臣百僚宴於曲江亭,特令建封與宰相同座而食。貞元已後,籓帥入朝及還鎮,如馬燧、渾瑊、劉玄佐、李抱真、曲環之崇秩鴻勛,未有獲禦制詩以送者,建封將還鎮,特賜詩曰:「牧守寄所重,才賢生為時。宣風自淮甸,授鉞膺籓維。入覲展遐戀,臨軒慰來思。忠誠在方寸,感激陳清詞。報國爾所尚,恤人予是資。歡宴不盡懷,車馬當還期。谷雨將應候,行春猶未遲。勿以千里遙,而雲無已知。」又令高品中使賫常所執鞭以賜之,曰:「以卿忠貞節義,歲寒不移,此鞭朕久執用,故以賜卿,表卿忠節也。」建封又獻詩一篇,以自警勵。

建封は彭城に在ること十年、軍州理に称す。復た又た賢を礼し士を下し、賢不肖無く、其の門に遊ぶ者は、皆礼遇し、天下の名士風に向かい頸を延べ、其の往くこと帰るが如し。貞元の時、文人許孟容・韓愈諸公の如き、皆之が従事と為る。

原文建封在彭城十年,軍州稱理。復又禮賢下士,無賢不肖,遊其門者,皆禮遇之,天下名士向風延頸,其往如歸。貞元時,文人如許孟容、韓愈諸公,皆為之從事。

十六年、病に罹り、連続して上表して速やかに代わりを除くことを請うたが、ちょうど韋夏卿を徐泗行軍司馬に任用しようとしていた。未だ到らぬうちに建封は卒去し、時に年六十六、冊書を下して司徒を追贈した。子に愔あり。

原文十六年,遇疾,連上表請速除代,方用韋夏卿為徐泗行軍司馬。未至而建封卒,時年六十六,冊贈司徒。子愔。

建封の子、愔。

原文建封子 愔

愔は蔭により虢州参軍を授けられた。初め、建封が卒去すると、判官鄭通誠が留後事を権知した。通誠は軍士の乱を謀ることを懼れ、ちょうど浙西の兵が鎮を遷すのに遇い、通誠はこれを州城に引き入れて援けとせんとした。事泄れ、三軍怒り、五六千人甲仗庫を斫って戈甲を取り、帯を執り環って衙城を繞り、愔を留後とせんことを請うた。乃ち通誠、楊徳宗、大将段伯熊、吉遂、曲澄、張秀等を殺した。軍衆は朝廷に請い、愔に旄節を授けんことを乞うた。初めはこれを許さず、乃ち濠、泗二州を割いて淮南に隷属させ、杜佑に同平章事を加えて徐州を討たしめた。既にして泗州刺史張伾が兵を以て埇橋を攻め、徐軍と接戦し、伾大敗して還った。朝廷已むを得ず、乃ち愔に起復右驍衛将軍同正、兼徐州刺史、御史中丞を授け、本州団練使を充て、徐州留後を知らしめた。仍って泗州刺史張伾を泗州留後とし、濠州刺史杜兼を濠州留後とした。正しく武寧軍節度、検校工部尚書を授けた。元和元年、疾に罹り、上表して代わりを請い、兵部尚書に徴され、東都留守王紹を武寧軍節度として愔に代え、復た濠、泗二州を徐に隷属させた。徐軍は二州を得たことを喜び、敢えて乱を為さず、而して愔は遂に京師に赴いたが、界を出でずして卒去した。愔は徐州に在ること七年、百姓は治まりを称え、詔して右僕射を追贈した。

原文愔以廕授虢州參軍。初,建封卒,判官鄭通誠權知留後事。通誠懼軍士謀亂,適遇浙西兵遷鎮,通誠欲引入州城為援。事泄,三軍怒,五六千人斫甲仗庫取戈甲,執帶環繞衙城,請愔為留後。乃殺通誠、楊德宗、大將段伯熊、吉遂、曲澄、張秀等。軍眾請於朝廷,乞授愔旄節。初不之許,乃割濠、泗二州隸淮南,加杜佑同平章事以討徐州。既而泗州刺史張伾以兵攻埇橋,與徐軍接戰,伾大敗而還。朝廷不獲已,乃授愔起復右驍衛將軍同正,兼徐州刺史、御史中丞,充本州團練使,知徐州留後。仍以泗州刺史張伾為泗州留後,濠州刺史杜兼為濠州留後。正授武寧軍節度、檢校工部尚書。元和元年,被疾,上表請代,征為兵部尚書,以東都留守王紹為武寧軍節度代愔,復隸濠、泗二州於徐。徐軍喜復得二州,不敢為亂,而愔遂赴京師,未出界卒。愔在徐州七年,百姓稱理,詔贈右僕射。

盧群。

原文盧群

盧群、字は載初、范陽の人。少くして書を読むことを好み、初め太安山に学んだ。淮南節度使陳少遊その名を聞き、辟いて従事とした。建中末、朝廷に薦められ、時に李希烈反叛し、詔して諸将にこれを討たしむ。群を監察御史、江西行営糧料使とす。興元元年、江西節度、嗣曹王臯奏して判官とす。曹王江陵、襄陽に移鎮す、群皆これに従い、幕府の事、委ねて諮決せしめ、以て正直と聞こえた。

原文盧群,字載初,范陽人。少好讀書,初學於太安山。淮南節度使陳少遊聞其名,辟為從事。建中末,薦於朝廷,會李希烈反叛,詔諸將討之。以群為監察御史、江西行營糧料使。興元元年,江西節度、嗣曹王臯奏為判官。曹王移鎮江陵、襄陽,群皆從之,幕府之事,委以咨決,以正直聞。

貞元六年、入朝して侍御史を拝す。故尚父子儀の嬖人張氏の宅中に宝玉有りと誣告する者あり、張氏兄弟また尚父家の子孫と相告訴す、詔してその獄を按ずることを促す。群奏して曰く、「張氏は子儀の在時の財を分かつに当たり、子弟争奪すべからず。然れども張氏の宅と子儀の親仁の宅は、皆子儀の家事なり。子儀大勛有り、伏して望むらくは陛下特赦して問わず、私に引退せしめよ」。徳宗その言に従う、時に人その大體を識るを嘉す。累転して左司、職方、兵部三員外郎中。

原文貞元六年,入拜侍御史。有人誣告故尚父子儀嬖人張氏宅中有寶玉者,張氏兄弟又與尚父家子孫相告訴,詔促按其獄。群奏曰:「張氏以子儀在時分財,子弟不合爭奪。然張氏宅與子儀親仁宅,皆子儀家事。子儀有大勛,伏望陛下特赦而勿問,俾私自引退。」德宗從其言,時人嘉其識大體。累轉左司、職方、兵部三員外郎中。

淮西節度使呉少誠擅に司、洧等の水を開決して漕輓し田を溉ぎ、中使を遣わしてこれを止めしむるも、少誠詔を奉ぜず。群をして蔡州に使わしめてこれを詰めしむ、少誠曰く、「大渠を開くは、人に大いに利有り」。群曰く、「臣たるの道は、自ら専らにするに合わず、人に便なりと雖も、須らく君命を俟つべし。且つ人臣は須らく恭恪を以て事とすべく、若し君に事えて恭恪を尽くさざれば、即ち下吏の恭恪を責むるも、固より亦難し」。凡そ数百千言、君臣の分、忠順の義を以て諭す、少誠乃ち命に従い、即ち工役を停む。

原文淮西節度使吳少誠擅開決司、洧等水漕輓溉田,遣中使止之,少誠不奉詔。令群使蔡州詰之,少誠曰:「開大渠,大利於人。」群曰:「為臣之道,不合自專,雖便於人,須俟君命。且人臣須以恭恪為事,若事君不盡恭恪,即責下吏恭恪,固亦難矣。」凡數百千言,諭以君臣之分,忠順之義,少誠乃從命,即停工役。

群は博く渉り、口辨有り、談論を好み、少誠と古今成敗の事を言うに、聴くを聳えしめざる無し。又唱和して詩を賦し、自ら反側を以て言う、常に恩外に隔てらるるを蒙る、群筵中に酔いて歌いて曰く、「祥瑞は鳳凰、麒麟に在らず、太平は須らく辺将、忠臣を得べし。衛、霍は真誠に主を奉じ、貔虎十万一身なり。江、河は潜かに注ぎて浪を息め、蛮貊は塞に款いて塵無し。但だ百僚師長の肝膽を得んことを得ば、三軍の羅綺金銀を用いず」。少誠大いに感悦す。群は奉使して旨に称するを以て、俄に検校秘書監に遷り、兼御史中丞、義成軍節度行軍司馬を兼ぬ。

原文群博涉,有口辨,好談論,與少誠言古今成敗之事,無不聳聽。又與唱和賦詩,自言以反側,常蒙隔在恩外,群於筵中醉而歌曰:「祥瑞不在鳳凰、麒麟,太平須得邊將、忠臣。衛、霍真誠奉主,貔虎十萬一身。江、河潛註息浪,蠻貊款塞無塵。但得百僚師長肝膽,不用三軍羅綺金銀。」少誠大感悅。群以奉使稱旨,俄遷檢校秘書監,兼御史中丞、義成軍節度行軍司馬。

貞元十六年四月、節度姚南仲朝に帰す、群を拝して義成軍節度、鄭滑観察等使とす。先に鄭州に寓居し、良田数頃を典質す。節度使として鎮に至るに及び、各本地の契書を与え、管する令長に分付し、本主を召還せしむ、時の論称美す。尋いで疾に遇う、その年十月卒す、時に年五十九、朝を一日廃し、工部尚書を贈り、賻賵布帛、米粟差有り。

原文貞元十六年四月,節度姚南仲歸朝,拜群義成軍節度、鄭滑觀察等使。先寓居鄭州,典質良田數頃;及為節度使至鎮,各與本地契書,分付所管令長,令召還本主,時論稱美。尋遇疾,其年十月卒,時年五十九,廢朝一日,贈工部尚書,赗賻布帛、米粟有差。

史臣曰く。

原文史臣曰

史臣曰く、韋南康、張徐州は、慷慨下位の中に在りて、横身喪乱の際に当たり、力衰運を扶け、気壮図を激し、義風凜凜として、群醜を聳動せしめ、盗の喉を舂き、賊の角を折る、忠と謂うべし。而して韋公季年、賊辟の奸説に惑い、巴、益を兼ねんと欲す、則ち志未だ量るべからず。徐州請覲、頗る規諫の言有り、道を以て君を匡うる所謂、功名を以て終始する能くする者なり。盧載初少誠を諭し、地券を還す、君子なるかな。三子の賢、多く得べからず。

原文史臣曰:韋南康、張徐州,慷慨下位之中,橫身喪亂之際,力扶衰運,氣激壯圖,義風凜凜,聳動群醜,舂盜之喉,折賊之角,可謂忠矣!而韋公季年,惑賊辟之奸說,欲兼巴、益,則誌未可量。徐州請覲,頗有規諫之言,所謂以道匡君,能以功名始終者。盧載初喻少誠,還地券,君子哉!三子之賢,不可多得。

賛して曰く、南康英壮、力交喪を匡う。張侯義烈、志乱象を平らげんとす。危きに見て能く振い、利に蹈みて謗無し。韋の徳周からず、張の心亮かすべし。

原文贊曰:南康英壯,力匡交喪。張侯義烈,誌平亂象。見危能振,蹈利無謗。韋德不周,張心可亮。