旧唐書 巻一百四十 列伝第九十 韋臯 張建封 盧群

旧唐書

巻一百四十 列伝第九十 韋臯 張建封 盧群

韋臯

韋臯、字は城武、京しるの人である。大暦の初め、建陵の挽郎として出仕し、華州参軍に補任され、累進して使府の監察御史となった。宰相張鎰が鳳翔隴右節度使として出鎮した際、韋臯を営田判官に奏請し、殿中侍御史を得て、かり知隴州行営留後事を兼ねた。

韋臯はそこで庭に壇を築き、犠牲の血を以て将士らと盟して曰く、「上天は哀しまず、国家は多難、逆臣が隙に乗じ、盗みに宮闈を占拠す。而して李楚琳も亦た兇徒を扇動し、城邑を傾け陥れ、酷虐の加える所、爰に本使に及び、既に上に事えず、安んぞ下を恤れんや。韋臯是を用いて心を激し気を憤らせ、安寧に至る暇なく、群公と誓いて、誠を竭くして王室に奉ぜん。凡そ我が同盟たる者は、一心協力し、順を仗りて兇を除き、先祖の霊、必ず当に幽かに賛せん。言誠なれば則ち志合い、義感ずれば則ち心斉し、骨を粉にし躯をただ(ただ)らすとも、決して顧みる所無し。此の志を渝(か)える者有らば、明神之を(せ)め、子孫に迨(およ)ぶまで、亦た類を遺すこと無からん。皇天后土、当に此の言を兆せ」と。又た使を吐蕃に遣わして援を求めた。十一月、検校礼部尚書を加えられた。興元元年、徳宗が京に還り、左金吾衛将軍に徴され、間もなく大将軍に遷った。

五年、韋臯は大将王有道に命じて精卒を簡習させて蕃界に入らせ、東蛮と共に故巂州台登の北谷において吐蕃の青海・臘城の二節度を大破し、二千級を斬首し、籠官四十五人を生擒した。その崖谷に投じて死する者は数え勝えなかった。蕃将の乞臧遮遮は、吐蕃の驍将であり、久しく辺患となっていた。遮遮を擒えた後は、城柵降らざるは無く、数年の中に、遂に巂州を回復し、功により吏部尚書を加えられた。九年、朝廷が塩州城を築くに当たり、吐蕃の掩襲を慮り、詔して韋臯に出兵して牽制させた。乃ち大将董勔・張芬を命じて西山及び南道より出撃させ、峨和城・通鶴軍を破った。吐蕃の南道元帥論莽熱が衆を率いて来援したが、又た之を破り、数千人を殺傷し、定廉城を焚いた。凡そ堡柵五十余所を平らげ、功により位を進めて検校右僕射となった。韋臯は又た西山羌女・訶陵・白狗・逋租・弱水・南王等の八国の酋長を招撫し、闕廷に入貢させた。十一年九月、近界諸蛮・西山八国を統押し、兼ねて雲南安撫等使を加えられた。十二年二月、就いて同中書門下平章事を加えられた。十三年、巂州城を収復した。十六年、韋臯は将を命じて出軍させ、累ねて吐蕃を黎・巂の二州において破った。吐蕃は怒り、遂に大いに搜閲し、壘を築き舟を造り、入寇を謀らんとしたが、韋臯悉く之を挫いた。ここにおいて吐蕃の酋帥兼監統曩貢・臘城等九節度嬰・籠官馬定德と其の大将八十七人が部落を挙げて来降した。定德は計略有り、兵法及び山川地形に習熟し、吐蕃が用兵する毎に、定德は常に駅を乗り継いで計事し、蕃中の諸将は其の成算を(う)けた。此に至り、自ら辺を扞(ふせ)ぎて律を失い、罪を得るを懼れて帰心したのである。

十七年、吐蕃の昆明城管些蛮千余戸が又た降った。賛普は其の衆が外に潰えたるを以て、遂に北に寇して霊・朔を侵し、麟州を陥れた。徳宗は使を成都府に遣わし、韋臯に出兵して深く蕃界に入らせた。韋臯は乃ち鎮静軍使陳洎等に命じて兵一万を統率して三奇路より出撃させ、威戎軍使崔堯臣に兵千人を率いて龍溪石門路南より出撃させ、維保二州兵馬使仇冕・保霸二州刺史董振等に兵二千を率いて吐蕃の維州城中に向かわせ、北路兵馬使邢玼等に四千を率いて吐蕃の棲鶏・老翁城に向かわせ、都将高倜・王英俊に兵二千を率いて故松州に向かわせ、隴東兵馬使元膺に兵八千人を率いて南道雅・邛・黎・巂路より出撃させた。又た鎮南軍使韋良金に兵一千三百を率いて続いて進ませ、雅州経略使路惟明等に兵三千を率いて吐蕃の租・松等城に向かわせ、黎州経略使王有道に兵二千人を率いて大渡河を渡り、深く蕃界に入らせ、巂州経略使陳孝陽・兵馬使何大海・韋義等及び磨些蛮・東蛮二部落の主苴那時等に兵四千を率いて昆明城・諾済城を進攻させた。八月より出軍して斉に入り、十月に至って蕃兵十六万を破り、城七つ・軍鎮五つ・戸三千を抜き、生擒六千、斬首万余級を挙げ、遂に維州を進攻した。救軍再び至り、転戦千里、蕃軍連敗した。ここにおいて霊・朔を寇するの衆は引きて南下し、賛普は論莽熱を遣わし、内大相兼東境五道節度兵馬都群牧大使として、雑虜十万を率いて来たりて維州の囲みを解かんとした。蜀師万人は険に拠り伏兵を設けて之を待ち、先ず千人を出して挑戦した。莽熱は我が師の少なきを見て、衆を悉くして之を追った。伏兵を発して掩撃し、鼓噪雷の如くおどろ(おどろ)かせば、蕃兵自ら潰え、論莽熱を生擒し、虜衆十万、殲夷する者半ばとなった。是の歳十月、使を遣わして論莽熱を朝に献じた。徳宗は数え(責め)て之を釈し、崇仁里に邸を賜った。韋臯は功により検校司徒を加えられ、兼ねて中書令、南康郡王に封ぜられた。

順宗即位し、検校太尉を加えられた。順宗は久しく疾に罹り、臨朝して政を聴くことができず、宦者李忠言・侍棋待詔王叔文・侍書待詔王伾等の三人が頗る国政をあやつ(あやつ)り、高下を心に任せた。韋臯は乃ち支度副使劉辟を遣わして京師に使わした。劉辟は私かに王叔文を謁して曰く、「太尉、誠を足下に致すことを使わす。若し某をして剣南三川を都領せしむる能わば、必ず以て相酬うる有らん。留意せざれば、亦た以て奉報する有らん」と。叔文は大怒し、劉辟を斬って徇(みせし)めにせんとしたが、韋執誼が固く之を止めたので、劉辟は乃ち私かに去った。韋臯は王叔文が人情に附かず、又た韋執誼と隙有るを知り、自ら大臣として社稷の大計を議すべきを以て、乃ち上表して皇太子の監国を請うて曰く、「臣聞く、上は宗廟を承け、下は黎元を鎮め、永く無疆を固くするは、儲両に先んずる莫しと。伏して聞く、聖明山陵未だ祔せずして、哀毀制を踰え、万幾に心労し、伏して計るに旬月の間、甚だしく痊復せざるを。皇太子のえい質既に長じ、淑問日彰え、四海の心、実に倚頼する所なり。伏して望む、権に皇太子に庶政を監撫せしめ、以て聖躬の痊平を俟ち、一日万幾、壅滞せしむること免れんことを」と。又た皇太子に箋を上りて曰く、

殿下は重離の徳を体し、儲貳の重きに当たり、以て九廟を克昌し、万方を式固すべく、天下の安危は殿下に係る。

臯は将相の位に居り、志は匡扶に切にして、先朝の奨知を蒙り、早く恩顧を承く。人臣の分として、知りて為さざる無く、願わくは眷私に答え、肝鬲を罄しく輸せん。

伏して惟うに、聖上は鴻業を嗣ぎ膺け、睿哲英明にして、先朝を攀感し、志は孝理に存す。

諒闇の際、方に大臣に委ねんとすれども、但だ付托偶々善人に失し、而して参決多く公政に虧く。

今、群小志を得て、紀綱を隳紊し、官は勢に依りて遷り、政は情に由りて改まり、朋党交わり構い、宸聡を熒惑す。

腹心を樹置し、貴位に遍くし、左右に潜かに結び、難は蕭墻に在り。

国賦は権門に散じ、王税は天府に入らず、褻慢にして忌憚無く、高下心に在り。

貨賄流聞し、遷転叙を失い、先聖の屏黜せし贓犯の類、咸く省寺の間に擢き居らしむ。

至って忠臣をして涕を隕さしめ、正人をして舌を結ばしめ、遐邇痛心し、人知りて不可とす。

伏して恐るらくは、奸雄便に乗じ、此に因りて干戈を謀り動かし、殿下の家邦を危うくし、太宗の王業を傾けんことを。

伏して惟うに、太宗は風雨を櫛沐し、廟朝を経営し、将に二百年を垂れんとし、千万祀に及ばんと欲す。

而るに一朝にして叔文・奸佞の徒をして、朝政を侮弄せしめ、其の胸臆を恣にせしめ、坐して傾危を致さしむ。臣之を思う毎に、痛心疾首す。

伏して望むらくは、殿下群小を斥逐し、賢良を委任せられんことを。悽悽たる血誠、此に輸写す。

大暦の初め、道州刺史裴虬が観察使韋之晉に建封を推薦し、参謀に辟召され、左清道兵曹に奏授されたが、吏役を好まず去った。滑亳節度使令狐彰がその名を聞き、辟召した。彰は未だ朝覲したことがなく、建封は心に悦ばず、遂に転運使劉晏に投刺し、自ら志を述べ、彰に仕えることを願わなかった。晏が大理評事を試み、軍務を勾当するよう奏した。歳余して、また罷めて帰った。

建封は平素より馬燧と親善であり、大暦十年、燧が河陽三城鎮遏使となると、判官に辟召し、監察御史を奏授し、緋魚袋を賜った。李霊曜が梁・宋の間に反し、田悦と掎角し、ともに叛逆した。燧は李忠臣とともに討ち平らげ、軍務は多く建封に諮った。燧が河東節度使となると、また建封を判官に奏し、特に侍御史を拝した。建中の初め、燧が朝廷に推薦し、楊炎が度支郎中に用いようとしたが、盧杞がこれを憎み、岳州刺史として出された。

時に淮西節度使李希烈は梁崇義を破滅させた勢いに乗じ、次第に恣に跋扈し、寿州刺史崔昭は数度書疏を往来させた。淮南節度使陳少遊がこれを奏上し、上は急ぎ宰相を召して寿州刺史を選ばせた。盧杞はもとより建封を憎んでおり、この日慌てて、遂に建封を推薦して崔昭に代わって寿陽を牧させた。李希烈が兵を挙げ、汝州を寇陥し、李元平を擒え、胡徳信・唐漢臣らを撃走し、また襄城で哥舒曜を摧破し、連ねて鄭・汴等州を陥し、李勉は城を棄てて遁走した。涇師が内逆し、駕は奉天に幸し、賊の鋒は益々盛んとなった。淮南の陳少遊はひそかに希烈に通じ、まもなく偽号を称し、元号を改め、将楊豊に偽赦書二道を齎らせ、少遊及び建封に送らせた。寿州に至り、建封は楊豊を縛って軍中にみせしらせた。ちょうど中使が行在より及び江南に使いして回った者が同着し、建封は衆を集めて中使に対し通衢で豊を斬り、偽赦書を封じて行在に送り、遠近震駭した。陳少遊はこれを聞き、怒り且つ懼れた。建封はすなわち少遊と希烈の往来の事状を具に奏上した。希烈はまたその党杜少誠を偽って淮南節度使に署し、まず寿州を平らげ、江都に趣かせた。建封はその将賀蘭元均・邵怡らに霍丘秋柵を守らせた。少誠はついに侵軼できず、すなわち南に蘄・黄等州を掠め、また伊慎に挫衄された。まもなく建封に御史中丞・本州団練使を兼ねさせた。車駕が京に還ると、陳少遊は憂憤して卒した。

興元元年十二月、すなわち御史大夫を兼ね、濠寿廬三州都団練観察使を充てさせた。ここにおいて大いに城池を修緝し、心を悉くして綏撫し、遠近悦附し、ここより威望益々重し。李希烈は兇党の精悍なる者を選び勁卒を率いて建封を攻めさせたが、曠日持久し、克獲する所なくして去った。希烈が平らぎ、階封を進め、一子に正員官を賜った。

初め、建中年中、李涓が徐州を以て帰附した。涓はまもなく卒し、その後高承宗父子・独孤華が相継いで刺史となった。賊に侵削され、貧困して自ら存することができず、また咽喉の要地、江淮の運路を拠り、朝廷は重臣を選んで鎮めさせようと久しく思った。貞元四年、建封を徐州刺史とし、御史大夫・徐泗濠節度・支度営田観察使を兼ねさせた。既に軍伍を創置し、建封は事に触れて躬親し、性寛厚にして人の過誤を容納し、而して綱紀に按拠し、妄りに法を曲げて人を貸さず。毎に事を言うに、忠義感激し、人皆畏悦した。七年、位を進めて検校礼部尚書とした。十二年、検校右僕射を加えた。十三年冬、入朝して京師を覲し、徳宗は礼遇を加等し、特に双日に延英を開いて召対し、また朝参して大夫班に入ることを令し、以て殊寵を示した。建封は『朝天行』一章を賦して上献し、名馬珍玩を賜ること頗る厚かった。

時に宦者は宮中の市買を主とし、これを宮市と謂い、人物を抑買し、稍々本估に如かず。末年には文書を行わず、白望数十百人を両市及び要鬧の坊曲に置き、人の売る物を閲し、但だ宮市と称すれば、すなわち手を斂めて付与し、真偽復た弁ず可からず、敢えて来由及び価の高下を問う者なし。率ね直百銭の物を以て人の直数千の物を買い、仍て進奉門戸及び脚価銀を索む。人、物を市に詣るも、空手にて帰る者あるに至り、名は宮市と為すも、其の実はこれを奪うなり。嘗て農夫驢を以て柴を馱せし有り、宦者これを市い、絹数尺を与え、又就いて門戸を索み、仍て驢を邀えて柴を内に送らしむ。農夫啼泣し、得たる絹を以てこれに与うるも、肯えて受けず、曰く「須らく爾の驢を得べし」と。農夫曰く「我に父母妻子有り、此を待ちて後に食す。今汝に柴を与うるも、直を取らずして帰らんとす。汝尚肯えず、我に死あるのみ」と。遂に宦者を毆う。街使これを擒えて聞かす。すなわち宦者を黜け、農夫に絹十匹を賜う。然れども宮市は此の為に改めず、諫宮御史表疏を論列するも、皆聴かず。呉湊は戚裏を以て京兆尹と為り、深く其の弊を言う。建封入朝し、具にこれを奏す。徳宗頗る深く嘉納す。而して戸部侍郎・判度支蘇弁は宦者の旨に希い、因り入りて事を奏す。上これを問う。弁対えて曰く「京師遊手墮業する者数千万家、土着の生業無く、宮市に仰ぎて取給す」と。上これを信じ、凡そ宮市を言う者は皆用いず。詔書は百姓諸色の逋賦を矜免す。上建封に問う。対えて曰く「凡そ逋賦残欠は、皆累積年月のもの、征収す可き無く、陛下の憂恤に蒙るも、百姓も亦裨益する所無し」と。時に河東節度使李説・華州刺史盧微は皆中風疾に罹り、口言う能わず、足行う能わず、但だ左右の胥吏を信任して決遣す。建封は皆悉く聞奏し、上深く嘉納す。又金吾大将軍李翰は城中の細事を伺察するを好み、諸を加えて聞奏し、恩寵を冀求す。人畏れてこれを悪む。建封も亦これを奏す。すなわち詔を下して曰く「比来朝官或いは諸処に過従す。金吾皆上聞有り。其の間素より是れ親故、或いは曾て同僚友、伏臘歳序、時に還往有り、亦是れ常礼、人情の通ずる所なり。自今以後、金吾須らく聞くこと無かれ」と。

十四年春上巳、宰臣百僚に曲江亭に宴を賜い、特に関建封に宰相同座にて食せしむ。貞元已後、藩帥の入朝及び還鎮するも、馬燧・渾瑊・劉玄佐・李抱真・曲環の崇秩鴻勛の如き、未だ御製詩を獲て以て送る者無し。建封将に還鎮せんとす。特に関詩を賜いて曰く「牧守寄する所重く、才賢生るは時に為す。風を宣ぶるは淮甸より、鉞を授くるは藩維に膺く。入覲して遐恋を展べ、臨軒して来思を慰む。忠誠は方寸に在り、感激して清詞を陳う。国に報いるは爾の尚ぶ所、人を恤むは予の資と為す。歓宴懐いを尽くさず、車馬還る期に当たる。谷雨将に候に応ぜんとし、行春猶未だ遅からず。千里の遥かなるを以てする勿れ、而して已を知る無しと云うこと無かれ」と。又た高品中使に常に執る所の鞭を齎らせて以てこれを賜い、曰く「卿の忠貞節義、歳寒も移らず。此の鞭朕久しく執用す。故に以て卿に賜い、卿の忠節を表すなり」と。建封は又た詩一篇を献じ、以て自ら警励す。

建封は彭城に在ること十年、軍州理に称す。復た又た賢を礼し士を下し、賢不肖無く、其の門に遊ぶ者は、皆礼遇し、天下の名士風に向かい頸を延べ、其の往くこと帰るが如し。貞元の時、文人許孟容・韓愈諸公の如き、皆之が従事と為る。

十六年、病に罹り、連続して上表して速やかに代わりを除くことを請うたが、ちょうど韋夏卿を徐泗行軍司馬に任用しようとしていた。未だ到らぬうちに建封は卒去し、時に年六十六、冊書を下して司徒を追贈した。子に愔あり。

建封の子、愔。

愔は蔭により虢州参軍を授けられた。初め、建封が卒去すると、判官鄭通誠が留後事を権知した。通誠は軍士の乱を謀ることを懼れ、ちょうど浙西の兵が鎮を遷すのに遇い、通誠はこれを州城に引き入れて援けとせんとした。事泄れ、三軍怒り、五六千人甲仗庫を斫って戈甲を取り、帯を執り環って衙城を繞り、愔を留後とせんことを請うた。乃ち通誠、楊徳宗、大将段伯熊、吉遂、曲澄、張秀等を殺した。軍衆は朝廷に請い、愔に旄節を授けんことを乞うた。初めはこれを許さず、乃ち濠、泗二州を割いて淮南に隷属させ、杜佑に同平章事を加えて徐州を討たしめた。既にして泗州刺史張伾が兵を以て埇橋を攻め、徐軍と接戦し、伾大敗して還った。朝廷已むを得ず、乃ち愔に起復右驍衛将軍同正、兼徐州刺史、御史中丞を授け、本州団練使を充て、徐州留後を知らしめた。仍って泗州刺史張伾を泗州留後とし、濠州刺史杜兼を濠州留後とした。正しく武寧軍節度、検校工部尚書を授けた。元和元年、疾に罹り、上表して代わりを請い、兵部尚書に徴され、東都留守王紹を武寧軍節度として愔に代え、復た濠、泗二州を徐に隷属させた。徐軍は二州を得たことを喜び、敢えて乱を為さず、而して愔は遂に京師に赴いたが、界を出でずして卒去した。愔は徐州に在ること七年、百姓は治まりを称え、詔して右僕射を追贈した。

盧群。

盧群、字は載初、范陽の人。少くして書を読むことを好み、初め太安山に学んだ。淮南節度使陳少遊その名を聞き、辟いて従事とした。建中末、朝廷に薦められ、時に李希烈反叛し、詔して諸将にこれを討たしむ。群を監察御史、江西行営糧料使とす。興元元年、江西節度、嗣曹王臯奏して判官とす。曹王江陵、襄陽に移鎮す、群皆これに従い、幕府の事、委ねて諮決せしめ、以て正直と聞こえた。

貞元六年、入朝して侍御史を拝す。故尚父子儀の嬖人張氏の宅中に宝玉有りと誣告する者あり、張氏兄弟また尚父家の子孫と相告訴す、詔してその獄を按ずることを促す。群奏して曰く、「張氏は子儀の在時の財を分かつに当たり、子弟争奪すべからず。然れども張氏の宅と子儀の親仁の宅は、皆子儀の家事なり。子儀大勛有り、伏して望むらくは陛下特赦して問わず、私に引退せしめよ」。徳宗その言に従う、時に人その大體を識るを嘉す。累転して左司、職方、兵部三員外郎中。

淮西節度使呉少誠擅に司、洧等の水を開決して漕輓し田を溉ぎ、中使を遣わしてこれを止めしむるも、少誠詔を奉ぜず。群をして蔡州に使わしめてこれを詰めしむ、少誠曰く、「大渠を開くは、人に大いに利有り」。群曰く、「臣たるの道は、自ら専らにするに合わず、人に便なりと雖も、須らく君命を俟つべし。且つ人臣は須らく恭恪を以て事とすべく、若し君に事えて恭恪を尽くさざれば、即ち下吏の恭恪を責むるも、固より亦難し」。凡そ数百千言、君臣の分、忠順の義を以て諭す、少誠乃ち命に従い、即ち工役を停む。

群は博く渉り、口辨有り、談論を好み、少誠と古今成敗の事を言うに、聴くを聳えしめざる無し。又唱和して詩を賦し、自ら反側を以て言う、常に恩外に隔てらるるを蒙る、群筵中に酔いて歌いて曰く、「祥瑞は鳳凰、麒麟に在らず、太平は須らく辺将、忠臣を得べし。衛、霍は真誠に主を奉じ、貔虎十万一身なり。江、河は潜かに注ぎて浪を息め、蛮貊は塞に款いて塵無し。但だ百僚師長の肝膽を得んことを得ば、三軍の羅綺金銀を用いず」。少誠大いに感悦す。群は奉使して旨に称するを以て、俄に検校秘書監に遷り、兼御史中丞、義成軍節度行軍司馬を兼ぬ。

貞元十六年四月、節度姚南仲朝に帰す、群を拝して義成軍節度、鄭滑観察等使とす。先に鄭州に寓居し、良田数頃を典質す。節度使として鎮に至るに及び、各本地の契書を与え、管する令長に分付し、本主を召還せしむ、時の論称美す。尋いで疾に遇う、その年十月卒す、時に年五十九、朝を一日廃し、工部尚書を贈り、賻賵布帛、米粟差有り。

史臣曰く。

史臣曰く、韋南康、張徐州は、慷慨下位の中に在りて、横身喪乱の際に当たり、力衰運を扶け、気壮図を激し、義風凜凜として、群醜を聳動せしめ、盗の喉を舂き、賊の角を折る、忠と謂うべし。而して韋公季年、賊辟の奸説に惑い、巴、益を兼ねんと欲す、則ち志未だ量るべからず。徐州請覲、頗る規諫の言有り、道を以て君を匡うる所謂、功名を以て終始する能くする者なり。盧載初少誠を諭し、地券を還す、君子なるかな。三子の賢、多く得べからず。

賛して曰く、南康英壮、力交喪を匡う。張侯義烈、志乱象を平らげんとす。危きに見て能く振い、利に蹈みて謗無し。韋の徳周からず、張の心亮かすべし。