旧唐書
陸贄
陸贄、字は敬輿、蘇州嘉興の人である。父の侃は溧陽令であり、贄の貴顕により、礼部尚書を追贈された。贄は幼くして孤となり、独立して群れず、ひときわ儒学に勤しんだ。十八歳で進士第に登り、博学宏詞科に及第し、華州鄭県尉に任ぜられた。任期を終え、東へ帰って母を省みる途中、寿州を経由した。刺史の張鎰は当時の名士であり、贄は往って謁見した。鎰は初めはあまり知るところではなかったが、三日留め、再び会って語り合うと、大いに称賛し、忘年の契りを結ばんことを請うた。辞去する際、贄に銭百万を贈り、「願わくは太夫人の一日の御膳に備えられよ」と言った。贄は受け取らず、ただ新茶一連だけを受けて、「あえて君の厚意を承らざらんや」と言った。また書判抜萃にて、渭南県主簿に選任され、監察御史に遷った。徳宗が東宮におられた時、平素より贄の名を知っており、そこで翰林学士に召し、祠部員外郎に転じた。贄の性質は忠実で誠意に満ち、近密の地位に居るにつけ、人主の重んじて知ることを感じ、報いんとする思いがあり、故に政事に欠けるところがあれば、大小必ず陳べた。これにより顧み遇されることますます厚くなった。
建中四年、朱泚が謀叛を企て、従駕して奉天に幸した。時に天下は叛乱し、機務が山積し、征発や指揮が千端万緒に及び、一日の内に詔書は数百に及んだ。贄は筆を揮って起草し、思うことは泉の如く湧き出で、初めは思慮を経ないかのようであったが、成った後は、ことごとく事情を尽くし、機会に中ることがなかった。胥吏は簡札を書く暇もなく、同舎の者皆その才能に服した。考功郎中に転じ、前の如く職を充てた。嘗て徳宗に啓して言った、「今、盗賊は天下に遍く、輿駕は播遷せり。陛下は痛く自ら過ちを引き、以て人心を感動すべし。昔、成湯は罪己を以て勃興し、楚昭は善言を以て国を復した。陛下誠に改過を吝しまず、以て言を天下に謝し、書詔を忌憚なくせしめられば、臣たとえ愚陋なりとも、以て聖情を仰ぎ副うべく、おそらくは反側の徒をして、心を革めて化に向かわしめん」。徳宗はこれを然りとした。故に奉天において下した書詔は、武夫や悍卒といえども、涙を揮って感激せぬ者はなく、多くは贄の為すところであった。
その年の冬、新たな年を以て改元せんと議した。而して卜祝の流れは、皆国家が数え百六に鐘する(厄年に当たる)とし、凡そ事は宜しく変革有るべく、以て時の数に応ずべしと言った。上は贄に言った、「往年、群臣が尊号『聖神文武』の四字を上ることを請うた。今、寇難に縁り、諸事並びに改更すべく、衆は朕の旧号の中に更に一両字を加えんと欲する。その事は如何」。贄が奏して言うには、「尊号の興りは、本来古制に非ず。安泰の日に行わるれば、既に謙沖を累わす。喪乱の時に襲えば、特に事体を傷つく。今、鑾輿は播越し、未だ宮闈に復せず、宗社は震驚し、尚お禋祀を愆らす。中区は多く梗み、大憝は猶お存す。これは即ち人情の向背の秋、天意の去就の際なり。陛下は深く自ら懲励し、群心を収攬し、痛く自ら貶損し、以て霊譴に謝すべく、末議に近づき従い、重ねて美名を益すべからず」。帝は言った、「卿の奏陳する所は、理体甚だ切なるも、然れども時運には須らく小しく改跡有るべく、また執滞すべからず。卿更に思量せよ」。贄は言った、「古の人君の称号は、或いは皇と称し帝と称し、或いは王と称し、ただ一字のみなり。暴秦に至りて、乃ち皇帝の二字を兼ね、後代これに因る。昏僻の君に及んで、乃ち聖劉・天元の号有り。是れ以て人主の軽重は、自ら称するに在らず、その号を崇むるも徽猷に補わず、その名を損ずるも徳美を傷つけざるを知る。然れどもこれを損ずるには謙光稽古の善有り、これを崇むるには矜能納諂の譏を得たり。得失は侔わず、居然として弁ずべし。況んや今、時に迍否に遭い、事は傾危に属す。尤も宜しく懼思し、以て自ら貶抑すべし。必ずや術数を俯稽し、須らく変革有らば、美称を増して人心を失うよりは、旧号を黜して天戒を祗るに若かず。天時と人事は、理必ず相符す。人は既に謙を好めば、天も亦順を助く。陛下誠に宸鑒を断じ、徳音を煥発し、咎を引き名を降し、深く刻責を示し、ただ謙と順とを以てすれば、一挙にして二美これに従わん」。徳宗はこれに従い、ただ興元の年号を改めたのみであった。
初め、徳宗が倉皇に出幸した時、府蔵の物は委棄され、凝冽の際、士衆多く寒に凍え、服禦の外、尺縑丈帛無かりき。賊の朱泚が包囲を解き、諸藩の貢奉が継ぎ至るに及んで、乃ち奉天の行在に於いて貢物を廊下に貯え、仍って「瓊林」「大盈」の二庫の名を題した。贄が諫めて言うには、
「瓊林」「大盈」は、古より悉くその制無く、耆旧の説に伝うる所は、皆開元に創まると云う。貴臣が権を貪り、巧みを飾りて媚を求め、乃ち言うには、「郡邑の貢賦の用いる所は、何ぞ各々区分せざる。賦税は当に有司に委ね、以て経用に給すべく、貢獻は宜しく天子に帰し、以て私求を奉ずべし」と。玄宗はこれを悦んだ。この二庫を新たにし、心を蕩し欲を侈にすること、萌柢ここに在り。邦を失うに迨るまで、終に寇を餌とす。《記》に曰く、「貨悖いて入れば、必ず悖いて出ず」と。豈にその効ならんや。陛下が嗣位の初め、務めて理道に遵い、儉約を行い敦くし、貪饕を斥け遠ざけられた。内庫の旧蔵は未だ太府に帰せざるも、諸方の曲献は禁闈に入らず、清風肅然たり、海内大いに変ず。近く寇逆が常を乱し、鑾輿外に幸するに及び、既に憂危の運に属す。宜しく儆励の誠を増すべし。臣、昨日本使として軍営に奉じ、行殿を経て出でしに、忽ち右廓の下に、榜を列ねて二庫の名を掲ぐるを見、戄然として驚くが若く、所以を知らず。何となれば、天衢尚お梗み、師旅方に殷し。痛心呻吟の声は、噢咻未だ息まず。忠勤戦守の効は、賞賚未だ行わず。諸道の貢珍を、遽かに別庫に私す。万目の視る所、孰れか能く情を忍ばん。窃かに軍情を揣るに、或いは觖望を生じ、或いは忿形して謗讟し、或いは醜肆して謳謠し、頗る乱を思うの情を含み、亦た忠を悔いるの意有り。是れ以て氓俗の昏鄙、高卑を識み昧くするは、以て尊極を臨むべからず、而して誠義を以て感ずべきを知る。頃者、六師初めて降り、百物儲え無く、外には兇徒を扞ぎ、内には危堞を防ぎ、昼夜息まず、殆ど五旬に将たらんとす。凍餓交侵し、死傷相枕し、命を畢めて力を同うし、竟に大艱を夷うす。良く以て陛下はその身を厚くせず、その欲を私せず、甘きを絶ちて以て卒伍と同じ、食を輟めて以て功労に啖わしむ。猛き制無くして人携わらず、感ずる所を懐うればなり。厚き賞無くして士怨まず、無き所を悉くすればなり。今、攻囲已に解け、衣食已に豊かなるに、謗讟方に興り、軍情稍や沮ぐ。豈に勇夫の常性、貨を嗜み功を矜り、その患難既にこれと憂いを同じくし、而して好楽はこれと利を同じくせざるを以ての故に非ずや。苟くも恬默に異ならば、能く怨咨無からんや。この理の常、故に怪しむに足らず。《記》に曰く、「財散ずれば則ち民聚まる」と。豈にその効ならんや。陛下は天資英聖にして、善を見れば必ず遷る。是れ将に蓄怨を化して恩を銜むと為し、過差を反して至当と為し、遺寇を促かに殄ち、永く鴻名を垂れんとす。大聖の機に応ずるは、固に終日を俟たず。
上はこれを嘉納し、その題署を去らしめた。
興元元年、李懷光は異志已に萌し、諸軍を激怒せんと欲し、上表して諸軍の衣糧薄く、神策軍の衣糧厚きを論じ、厚薄均しからず、以て駆戦し難しとし、意は進軍を撓沮せんことに在り。李晟が密奏して、その変有らんことを恐れる。上これを憂い、贄を遣わして懷光の軍に宣諭せしめた。使い還り、贄が事を奏して言うには、
賊の朱泚は誅罰を免れて宮苑に立て籠もり、勢いは窮まり援軍は絶え、日を引き延ばして苟且に生きている。李懐光は順義の軍を総べ、勝ちに乗ずる気勢に乗じて、鼓を鳴らして進み賊を薙ぎ払えば、枯れ木を摧くが如く容易い。しかるに賊が敗走しても追撃せず、軍は疲れても用いず、諸将が毎度進取を図れば、懐光は常にその謀を阻む。この事情に照らせば、全く理解しがたい。陛下は全うして護ろうと意図し、委曲に従い聴き入れられたが、その所為を見るに、また感ずる所を知らない。もし別に方策を立てず、次第に制御し支えなければ、ただ姑息に安泰を求めるのみで、終いには変故が測り難いことを恐れる。これは誠に事機が危迫している時節であるから、尋常の如く容易に処してはならない。今、李晟が移軍を奏請したのは、丁度臣が命を奉じて宣慰するに当たり、懐光が偶々この事を論じたので、臣は広く適宜を問うたところ、懐光は言うには「李晟が既に別行動を望むなら、私も全く頼みにしない」と。臣はなお翻覆あることを慮り、その軍の強盛を褒めた。懐光は大いに自ら誇り、転じて李晟を軽んずる意を有した。臣はまた従容として問うて云うには「先日行在所を発たれた時には、この相談があるとは知らなかった。今日ここから戻れば、或いは聖旨が顧み問われるかもしれない。事の可否、決定は如何に」と。懐光は既に軽率な言葉を吐いたので、中途で変えられず、遂に「恩命が許して去るなら、事もまた妨げない」と言った。約束を再三重ね、詳しく審らかにせざるはなく、たとえ後悔しようとも、固より言い訳が難しい。伏して望むには、直ちに李晟の表を中書省に出し付けて、詔勅を下してその奏に従い、別に懐光に手詔を賜い、移軍の事由を示されたい。その手詔の大意は「先日李晟の奏を得て、軍を城東に移し賊の勢いを分かたんと請うた。朕は利害を知らず、本来卿に委ねて商量せんとしたが、丁度陸贄が彼の地から宣慰して戻り、卿が軍情を論じ叙べるのを見て、言葉がこれに及び、なお許して去るも事も妨げないと言ったので、遂に本軍に勅してその請いを允した。卿は謀略を授け、路を分かち夾攻し、必ずや協力斉しくして、寇賊を平定せよ」と。このように言葉は婉曲にして直く、理は当を得て明らかであれば、たとえ異心を抱くとも、何によって怨みを起こさんや。臣が初め使を奉じて旨を諭したのは、本来糧料の不均によるものであったが、偶々移軍に属し、事が相諧い合った。また幸いに懐光が詭弁で答え、且つ阻絶の言葉がなかったので、機宜が合致した。もし幽かに助けがあれば、一旦その便を失えば、後でどうして追えようか。幸いに裁察を垂れられたい。
徳宗は初め李懐光が心を翻して賊を破ることを望んだので、李晟が屡々移軍を奏しても許さなかった。陸贄が懐光の反状を縷々陳べてから、李晟の奏を許可し、遂に軍を東渭橋に移した。しかし鄜坊節度使李建徽と神策行営の陽恵元はなお咸陽に在り、陸贄は懐光が建徽らの軍を併せんことを慮り、また奏して曰く。
李懐光が管轄する師徒は、独りで兇寇を制するに足りるが、逗留して進まず、他に由る所がある。患うべきはその強すぎることで、傍らの助力を必要としない。近頃また李晟・李建徽・陽恵元の三節度の衆をその営に附麗させたが、成功に益なく、ただ事を生ずるを憂うるのみ。何となれば、四軍が懸けて壘を構え、群帥は心を異にし、勢力を論ずれば懸絶して高卑あり、職名に拠れば相統属しない。懐光は李晟らの兵が微少で位が低いことを軽んじ、その制御が心に従わぬことを憤る。李晟らは懐光が寇を養い奸を蓄えることを疑い、その事多く己を陵ぐを怨む。平居すれば互いに飛び交う誹謗を防ぎ、戦おうとすれば順番に功を分かつを恐れ、齟齬して和せず、嫌隙遂に構わる。これらを同処させれば、必ずや両全せず。強者は悪が積み重なって後で亡び、弱者は勢い危うくして先に覆る。覆亡の禍は、足を翹げて待つばかりである。旧寇未だ平らかでないのに、新患まさに起こらんとし、憂い嘆く切なる所、実に疚しむに堪える。太上は慝を未萌に消し、其次は失を始兆に救う。況んや事情既に露れ、禍難垂成せんとするに、委ねて謀らずして、何をもって乱を制せん。李晟は機を見て変を慮り、先に軍を移して東に就かんことを請うた。李建徽・陽恵元は勢い転じて孤弱となり、その吞噬されるは、理の必然である。他日たとえ良図あらとも、また自ら抜け出せぬを恐れ、その危急を拯うは、唯だこの時に在り。今、李晟の願い行かんとするに因り、便ち両軍を合わせて同往せしめ、李晟の兵は元より少ないと託言し、賊の朱泚に邀撃されるを慮り、この両軍を藉りて、互いに掎角の勢いを成す。なお先に旨を諭し、密かに装いを促すことをさせ、詔書が営に至れば、即日に進路につかせる。懐光は意に欲せざるも、また計る所なく、施す術なし。これを先んずれば人の心を奪うと言い、疾雷耳に及ばずと言う。軍を制し将を馭するは、情を見るを貴び、離合疾徐は、各々適宜がある。離すべきを合すれば乱を召し、合すべきを離せば功寡なく、疾くすべきを徐にすれば機を失い、徐くすべきを疾くすれば策を漏らす。その要を得、その時に契えば、然る後に挙げて敗謀なく、措いて危勢なし。今、兵を屯して肯て用いられず、将を聚めて叶う心なく、自ら鯨鯢となり、変は朝夕にある。留めても以て相制するに足らず、徒らに禍の階を長ずるのみ。析けば各々擅能を競い、或いは勲績を成す。事には必ず応ずるものあり、断じて疑うべきなし。
徳宗は言った、「卿の料る所は極めて善い。しかし李晟が移軍したので、懐光の心は既に悵惘している。もし更に李建徽・陽恵元を東に就かせれば、却って口実を与えることになる。暫く十日ほど待とう」。李晟が東渭橋に至って十日と経たぬうちに、李懐光は果たして両節度の兵を奪い、李建徽は単騎で遁れて免れ、陽恵元は中途で捕らえられ、害された。報が行在所に至ると、人情大いに恐れた。翌日、幸いを山南に移した。陸贄は兵機に練達し、多くこの類いであった。
二月、梁州に従駕し、諫議大夫に転じ、前の如く学士を充てた。先に、鳳翔衙将の李楚琳が涇原の師の乱に乗じ、節度使の張鎰を殺し、朱泚に帰順した。奉天の囲みが解けた後、楚琳は使いを遣わして貢奉したが、時は艱難で、已むを得ず、鳳翔節度使に任じた。しかし徳宗はその弑逆を憤り、心に容れることができず、漢中に至るや、渾瑊に代わって節度使とせんとした。陸贄は諫めて言った、「楚琳の罪は、固より誅するを許さぬが、ただ乗輿未だ復せず、大悪なお存するに、勤王の師は悉く畿内に在り、急ぎ宣べ速やかに告ぐるは、一刻を争う。商嶺は道迂遠にして且つ遥かであり、駱谷はまた賊に扼せられ、僅かに王命を通ずるは、褒斜に在るのみ。この路がもしまた阻難ならば、南北は便ち隔絶となる。諸鎮の危疑の勢いを以て、二逆の誘脅の中に居り、群情恟々として、各々向背を懐く。賊が勝てば往き、我が勝てば来る。その間の事機は、差跌を容れず。もし楚琳が憾みを発し、公然と猖狂を肆にせば、南は要衝を塞ぎ、東は巨猾に延び、我が咽喉は梗み心膂は分かれる。その勢い豈に病まざらんや」。上は釈然として悟りを開き、乃ち楚琳の使いを善く遇し、優詔を以てその心を安慰した。
徳宗が梁に至り、谷口より北の従臣に「奉天定難功臣」の号を賜い、谷口より南の随扈者に「元従功臣」の号を賜い、朝官を選ばず、一律に倶に賜わんとした。陸贄は奏して言った、「賊を破り難を払うは、武臣の効である。宮闈の近侍や班列の員僚に至っては、ただ馳せ走り従駕したのみで、忽ちに介冑を着け命を奮うの士と倶に功臣と号するは、伏して武臣の憤惋を恐れる」。乃ち止めた。
李晟が京城を収めた後、中使を遣わして翰林院に宣付し、先に散失した宮人の名前を具に録させ、渾瑊に賜わる詔を草せしめ、奉天に遣わして尋訪させ、得るを限りとし、なお量りて資糧を与え行在所に送付せしめた。陸贄は時に詔に奉ぜず、状を進めてこれを論じて言った。
近ごろは政治の道理が背き誤り、禍乱が重なって起こり、陛下は過ちを思い災いを恐れ、民を豊かにし自らを罪する詔をしばしば下し、新たにすることを誓われた。
天下の人々は涙を流して互いに賀し、憤りを戒め怨みを解き、仁を温め明君を戴き、力を尽くし心を一つにして、共に多難を平定した。
絶岸にて土崩を止め、横流にて版蕩を収め、寇を殄滅し清都を清め、旧物を失わなかった。
実に陛下の至誠が天地に動き、深い悔悟が神人に感ずるところとなり、故に百霊が降りて康寧をもたらし、兆民が徳に帰したのである。
もしこのようでなかったなら、古来いったい嘗て宮闕を棄て、宗廟を失い、赴難の師に逆らい、蒙塵の日に再遷し、半年を過ぎずして大業を復興した者があろうか。
今や賊の首魁がようやく平定され、法駕が将に返らんとし、近くは郊甸より、遠くは寰瀛に周り、百の役に疲弊した民、重ねて戦い傷つき残った兵卒は、皆死を忍び病を扶け、耳を傾け肩を聳やかせ、徳声を聞かんと想い、聖沢を仰ぎ望んでいる。
陛下は固より上天が禍を悔いる眷顧に感じ、列祖が余裕を垂れる美しきを荷い、将士が鋒刃に遭う災殃を思い、黎元が塗炭に陥る酷さを憐れむべきである。
臣は実に頑愚で、何一つ堪えるところがなく、辱くも任用され、宰相の職に待罪している。位を窃む恐れを抱きながらも、かつ人を知る明が乏しく、自ら凡庸で空虚なことを考えれば、終に上に報いることは難しい。ただ広く人材を求める道を知り、賢者がそれぞれに集まって登用されるようにし、至公の門を開き、職務を司る者たちが皆自ら進言できるようにすることを知るのみである。既にご許可を蒙ったならば、直ちに宣べ行うべきである。南宮で人を挙げるのは、人材が十数人に至り、ある者は台省の旧吏ではなく、あるいは使府の佐僚であり、累次にわたって推薦され、多くは職務を歴任している。その資望を論じれば、既に班行に愧じるところなく、その行いと能力を考査すれば、また闕敗を聞いたこともない。急に口を騰らせて、聖聴を煩わせるのは、道の行い難いこともまた知られるであろう。陛下は理道を勤めて求め、物情に従うことに務め、挙薦が適切でないと謂い、また宰臣に選び取ることを委ねられた。これは輔弼を重用し、輿論の言葉を広く採ることであり、聖徳の盛んな者と謂える。しかし委任して責成する道、言を聴いて実を考査する方法、邪を防ぎ誠を存することにおいて、なお欠けるところがあることを恐れる。陛下は既に臣の言を納れて用いられたが、すぐに横議を聞いて止められた。臣の謀については責成せず、横議については実を考査しない。これは謀を失った者がその罪を言い逃れ、議が曲がった者がその誣をほしいままにすることを得るのである。このように行い、類に触れて長ずれば、固に必ず定まった計はなく、また必ず実ある言もない。計が定まらなければ理道は成り難く、言が実でなければ小人が志を得る。国家の病は、常に必ずこれによって起こる。昔、斉の桓公が管仲に覇を害することを問うたところ、対えて曰く、「賢を得て任ずることができなければ、覇を害する。用いて終わりを全うできなければ、覇を害する。賢人と謀事をして、小人とこれを議すれば、覇を害する」と。小人たる者は、必ずしも悉く険诐を抱き、故に邦家を覆すのではない。その意性が回邪で、趣向が狭く促く、沮議を以て衆に抜きん出るとし、自ら異なることを以て群れないとし、近利に趨って遠図を昧にし、小信を効して大道を傷つけるからである。況やまた言行が保ち難く、その非心を恣にする者であろうか。伏して考えるに、宰輔の常制は数人を過ぎず、人の知るところは固に限りがあり、諸士に遍く諳んじ、群才を備えて閲することはない。もし悉く群官に命ずれば、理屈上は展転して詢訪せねばならず、これは公挙を私薦に変え、明易攵を暗投に易えることになる。もし議者の言の如く、挙げる者に多く情故があれば、君上に挙げるのは且つ未だ私を絶たず、宰臣に薦めるのは安んじて詐り無からんや。人を失う弊は、必ずまた甚だしくなるであろう。承前の命官が、私謗に渉らぬことが稀なのは、鈞を秉ずる者が一でないこと、あるいは自ら情を行ったからであるが、また私に親しい者を訪ね、転じて売られることになったからでもある。その弊は遠くなく、聖鑒は明らかに知っている。今また浮言に従い、専ら宰臣に吏を除くことを任せようとしているが、宰臣は遍く諳識せず、前を踵いで人に訪ねねばならない。もし親朋を訪ねれば、覆車を悔いて故轍を易えず、もし朝列に訪ねれば、私薦を求めることになり、公挙に及ばない。二者の利害は、陛下が更に詳しく選ばれることを願う。恐らくは長官を委任し、僚属を慎んで選ぶに如くはない。選ぶことが少なければ、求めることも精であり、賢を得れば鑑識の名があり、実を失えば暗謬の責を負う。人の常性は、身を愛さぬ者はなく、況や台省の長官は皆当朝の華選であり、誰が私に従って妄りに挙げ、名を傷つけ責を取ることを肯んじようか。所謂台省長官とは、即ち僕射・尚書・左右丞・侍郎及び御史大夫・中丞である。陛下が輔相を選ばれるのも、多くはまたその中から出ている。今の宰臣は、即ち往日の台省長官であり、今の台省長官は、将来の宰臣である。ただ職名が暫く異なるだけで、固に行業が頓に殊なるのではない。長官の時に一二の属吏を挙げることができず、宰臣の位に居れば千百の具僚を選ぶことができるなどということがあろうか。物議は悠悠として、その惑いは甚だしい。人材を求めるには広さを貴び、考課には精を貴ぶ。広さを求めるのは各々知る所を挙げることにあり、長吏の薦択がこれである。精を貴ぶのは名に按じて実を責むることにあり、宰臣の序進がこれである。往時、則天太后が践祚して臨朝し、人心を収めようとし、特に抜擢に務め、委任の意を弘め、汲引の門を開き、進用を疑わず、求訪に倦まず、ただ人が士を薦めることを得るだけでなく、また自らその才を挙げることも許した。薦めれば必ず行い、挙げればすぐに試した。選士の道において、容易に傷つくことではなかったか。しかし課責は既に厳しく、進退は皆速やかで、不肖の者は直ちに黜けられ、才能の者は驟く升進した。故に当代は知人の明と謂い、累朝は多士の用に頼った。これは近くは求才貴広、考課貴精の効に近い。陛下は宝歴を誕膺し、理平を致そうと思われ、賢を好む心は前哲を超えているが、人を得る盛んなことは往時に及ばない。これは賞鑑が独り聖聴に任され、搜択が公挙に難しく、なお登延の路を啓き、練核の方を施すことが稀なためである。遂に先進の者は漸く益々雕訛し、後來の者は相接続せず、一つの令を施せば謗沮が互いに起こり、一人を用いれば瘡磐が直ちに成る。これは選才が太精で、制法が一でない患いである。則天の挙用の法は、易に傷つきながら人を得、陛下の慎揀の規は、太精にして士を失う。陛下が宰相を選任されるのは、必ず庶官と異なり、長官を精択されるのは、必ず末品より優れている。宰相が規を献じ、長吏が士を薦めるに及べば、陛下は即ちただ横議を納れ、始めの謀を稽えられない。これは重く任ずる者にはその言を軽んじ、軽く待つ者にはその事を重んじ、且つまた毀る所の虚実を弁ぜず、試す所の短長を校えないのである。人の多言は、何所に至らざるがあろうか。これは人をして手足を措く所無からしめようとするもので、ただ選任の道がその端を失うのみではない。
上はその陳べる所を嘉したが、長官が士を薦める詔は、遂に追って寝された。
国朝の旧制では、吏部が選人を、毎年調集していた。乾元以後、野に宿兵するに属し、歳に或いは兇荒があったため、遂に三年に一度選を置くことになった。これによって選人は停擁し、その数は猥多となり、文書は接続せず、真偽は弁じ難く、吏はこれに縁って奸を行い、註授は乖濫し、十年も調を得られない者もあった。贄は吏部が内外の官員を三分し、闕を計って人を集め、毎年選を置くことを奏した。故に選司の弊は十去七八し、天下はこれを称えた。
贄は賈耽・盧邁・趙憬と共に政事を知り、百司が申覆する所があれば、皆更に譲って可否を言わなかった。旧例では、宰臣が当旬に当たり、筆を秉って事を決し、毎十日ごとに交替した。贄は故事に準じて、筆を秉ずる者に応じることを請うた。また河隴が蕃に陥って以来、西北辺では常に重兵を以て守備し、これを防秋と謂い、皆河南・江淮諸鎮の軍であり、更番して往来し、戍役に疲れていた。贄は中原の兵は辺事に習わず、虜を払い賊と戦うに多く敗衄し、また辺将の名目が多すぎ、諸軍の統制が一でなく、緩急に敵に応じる術がないことを苦にし、乃ち上疏してその事を論じた。
徳宗は深く嘉納し、優詔を以て褒賞した。
贄は中書に在りて、時政に不便なるもの多く、条奏す。徳宗は皆可とせざるも、心頗る之を重んず。初め、竇参既に郴州に貶せられ、節度使劉士寧参に絹数千匹を餉る。湖南観察使李巽は参と隙有り、事を具して奏聞す。徳宗悦ばず。時に右庶子姜公輔、上前に於いて聞奏し、「竇参嘗て臣に語して云う、陛下臣を怒ること未だ已まずと」と称す。徳宗怒り、再び参を貶し、遂に之を殺す。時に議う、公輔の奏する竇参の語は贄に得たりと。参の死は、贄力有りと。又素より公異・於邵を悪み、既に政を輔けて之を逐う。談者も亦厄と為す。
戸部侍郎・判度支裴延齢、奸宄用事し、天下之を嫉むこと仇の如し。天子の幸いを得るを以て、敢えて言う者無し。贄独り身を以て之に当たり、屡々延英に於いて其の不可を面陳し、累疏を上て其の弊を極言す。延齢日を加うるに譖毀す。十年十二月、太子賓客を除き、政事を知るを罷む。贄性畏慎にして、策免せられ私居するに及び、朝謁の外、賓客に通ぜず、過従する所無し。十一年春、旱し、辺軍芻粟給せず、事を具して論訴す。延齢、贄と張滂・李充等軍情を揺動すと言う。語は『延齢伝』に在り。徳宗怒り、将に贄等四人を誅せんとす。時に諫議大夫陽城等極言論奏するに会い、乃ち贄を忠州別駕に貶す。
贄初め翰林に入り、特く徳宗の異顧を承け、歌詩戲狎し、朝夕陪遊す。及び艱阻の中に出居し、宰臣有りと雖も、謀猷参決多く贄に出づ。故に当時「内相」と目す。幸を従いて山南に至り、道途艱険、扈従及ばず、帝と相失い、一夕至らず。上軍士に諭して曰く「贄を得る者は千金を賞す」と。翌日贄謁見す。上喜色に形る。其の寵待此の如し。既に二呉と協わず、漸く浸潤を加え、恩礼稍く薄し。及び通玄敗るるに及び、上誣枉を知り、遂に復た見用せらる。贄、人主の殊遇を受くるを以て、身を愛するを敢えず、事不可有れば、極言して隠さず。朋友之を規めて以て太峻と為す。贄曰く「吾上は天子に負かず、下は吾が学ぶ所に負かず、其他を恤みず」と。吏事に精しく、斟酌決断錙銖を失わず。嘗て「詞詔の出す所は中書舎人の職なり。軍興の際、促迫応務、権に学士をして之に代わしむ。朝野乂寧すれば、合せて職分に帰すべし。其の将相を命ずる制詔は、却って中書に付して行譴すべし」と言い、又「学士は私臣なり。玄宗初め待詔を令し、止だ文章を唱和するのみ」と言う。物議之を是とす。徳宗、贄が通微・通玄を指斥するを以て、故に其の奏を可とせず。
贄忠州に在ること十年、常に関を閉ざし静処し、人其の面を識らず。復た謗を避け、書を著さず。家瘴郷に居り、人多く癘疫有り。乃ち方書を抄撮し、『陸氏集験方』五十巻を為し、代に行わる。初め、贄政を秉る時、駕部員外郎李吉甫を貶して明州長史と為し、量移して忠州刺史と為す。贄忠州に在り、吉甫と相遇う。昆弟・門人皆贄の為に憂う。而るに吉甫忻然として厚礼し、都て前事を銜まず、宰相の礼を以て之に事え、猶其の未だ信ぜず安からざるを恐れ、日贄と相狎み、平生交契する者の若し。贄初め猶慚懼す、後乃ち深く交わる。時論吉甫を以て長者と為す。後に薛延有り、吉甫に代わりて刺史と為る。延朝辞の日、徳宗旨を宣して慰安せしむ。而して韋臯累表を上て以て贄をして己に代わらしめんことを請う。順宗即位し、陽城・鄭余慶と同詔を以て征還す。詔未だ至らざるに贄卒す。時に年五十二。兵部尚書を贈り、謚して宣と曰う。
子簡礼、進士第に登り、累ね使府に辟さる。
【史評】
史臣曰く、近代陸宣公を論じて、漢の賈誼に比す。而して高邁の行、剛正の節、経国成務の要、激切仗義の心、初め天子の重知を蒙り、末塗淪躓する、皆相類たり。而して誼は止だ中大夫、贄は台鉉に及び、遇わざるに非ず。昔公孫鞅三策を挟みて秦王に説き、淳于髡隠語を以て斉君に見ゆ。古より還り、正言易からず。昔周昭急論議を戒む、正に此の為なり。贄珥筆の列に居り、調飪の地に在りて、片心を以て衆弊を除き、独手を以て群邪を遏まんと欲す。君上其の誠を亮ぜず、群小共に其の短を攻む。放逐せられざらんと欲するも、其れ得べけんや。『詩』に「其れ維れ哲人、之に話言を告ぐ」と称し、又「爾に誨え」「我を聴け」の恨み有り。此れ皆賢人君子、言の用いられざるを嘆く也。故に堯諮り禹拝す、千載一時、手を携え耳を提う、豈容易ならんや。
【贊】
贊して曰く、良臣主を悟らしめば、我に嘉猷有り。多僻の君は、善を為すも周からず。忠言失を救い、啓沃して讎と曰う。天問を貽す勿れ、蒼昊悠悠たり。